もう12時か、
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古代出雲東北日本海新羅王朝の謎

1 :出土地不明:2005/07/15(金) 22:08:57 ID:sf2ZcjIY
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
四隅突出型墳丘墓をたずねる

2 :出土地不明:2005/07/16(土) 22:07:02 ID:WYKGRRsX
2げっとだけどね。
出雲スレと合体すれば?
四隅のおはなし出てるよー。
いっこうに盛り上がらないけどね。

3 :出土地不明:2005/07/17(日) 13:00:43 ID:Zm6Ao8B7
合体ですか・・
でも、出雲の謎は日本の根幹に関わることなので
一つ二つ余計にあってもいいような気もする。

4 :出土地不明:2005/07/17(日) 13:20:41 ID:Zm6Ao8B7
出雲族(天孫)が白を好むことから白狄と関係がありそう、国が滅んだのも
BC3Cころで天孫族の出雲渡来と一致する、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
墓の形状でも一致すれば確定なのだが。。

白狄<はくてき>【異民族】

 主に山西省西部や陝西省東部に居住していた異民族の総称。
白い衣を着ていたので白狄と呼ばれる。
http://www.npo-shoken.or.jp/denshi_juihitu/zuihitu/gyoku.htm

5 :出土地不明:2005/07/29(金) 16:31:26 ID:VRYnwYDu
■ハングル板基本用語解説■其の14

(理由2) <<白丁(ペクチョン)>> 日韓併合されるまで朝鮮に存在していた被差別階級。在日=白丁とされる韓国では
現在でも在日は差別される。実際は全ての在日が白丁な訳ではないがその多くは朝鮮社会での被差別階級だった。朝鮮の身
分階級は大別して「良人(両班、中人等)」「賤人=奴隷」とあり、「賤人」のうち個人所有=民婢、公有=官婢と称した。
国家的奴隷制、贈り物・相続・売買され、殺生しても罪に問われなかった(←部落との違い)「白丁」は、これの更に下層
に奴隷以下の被差別民として位置づけられた。李朝時代に身分として固定され、柳細工の製造販売や屠畜などに従事、衣服
も指定され、居住地も制限され、目印として平壌笠と呼ばれる笠をかぶらねばならなかった。(コピペ)
(理由3) <<済州島出身者>> 白丁よりも済州島が多い。ソウル>地方>全羅道>白丁>済州島 済州島に対する差別
は酷く、完全な野蛮人扱い。済州島出身者との結婚となると、在日の間でさえ「血が汚れる」と一族が猛反対。
1948年、南朝鮮の単独選挙に反対する南朝鮮労働党が組織した済州島四・三蜂起が発生し、朝鮮戦争後の1950年代
半ばまで、弾圧とテロ、山岳ゲリラ活動が続き、のべ8万人の島民が殺されたとされている。今日でも、済州島は反中央の
気風と結びつけて語られることが多く、半島には済州島出身者への差別意識が残っていると論じられることも多い。
済州島は、民族的に陸(半島)と著しく異なり、倭人に近い。昔は独立国だったが、いつの頃か朝鮮に侵略されて現在に至
る。ただ、完全な支配となると意外と新しく、三別抄の乱後、元寇以後になるんじゃないかな。日本では、神功皇后が済州
島を征伐し、その時百済に与えたと伝えられてる。 (コピペ)

――戦後の補償と謝罪―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
戦後の補償と謝罪に関するデータ http://tenpura_c.tripod.co.jp/


360 :日本@名無史さん :2005/07/29(金) 15:41:29
早い話満州人が倭人(縄文)をB扱いして差別・排除してきただけだね。
半島も日本も構造は同じじゃん。

6 :出土地不明:2005/08/03(水) 03:14:49 ID:+nBVSzhr
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1120914010/329-359

7 :がいやまん:2005/08/08(月) 16:33:09 ID:G5rFIDHS
出雲は玉造、つまり、装飾品製造文化があるので中国の紅山文化などとの関連
はあるかもしれない。但し時代が古いのではっきりとした証拠はない。時代が下ると
日御碕に月支族が襲来する。これは馬韓から辰韓、慶州の月城、半月城あたりに
進出し、壱岐などで月読みの命とされる神を奉じtる部族で、アマテラスからは糾弾
されているから、多分、出雲に来たものであろう。弓月というのはトルコ系の半月マーク
だから、月支族のシンボルなんだろう。月山富田場、山中鹿之助なんかと関係がある
のかもしれない。来日の目的はアマテラスが製造していた絹織物のシルクロード経由
輸出」ではなかったのかな。新羅にはインドのアユダヤ国の姫が輿入れすると言うが
馬韓あたりでも絹を作っていたというから漢の東西を結ぶ交易路が大月氏国にまで
伸びていたり、フツの教えが、漢よりも早く馬韓、九州に到来しているということもあり
えるのでは。

8 :出土地不明:2005/08/20(土) 04:38:24 ID:danTIXz1
926 名前:nikuko ◆zpNikuko.w [] 投稿日:2005/08/20(土) 04:37:24 ID:Qlg6PCOY
連絡船には、連絡せん

9 :出土地不明:2005/08/22(月) 22:02:47 ID:s6WosyA+
イザナミの墓って本当に出雲にあるの?

10 :出土地不明:2005/08/26(金) 07:44:12 ID:AlirTRAh
イザナミの話はどう捉えればいいかわからないけど
少なくとも、イズモと北部九州が異なる勢力であったことを
強く暗示してるよね。事実、遺跡からもイズモ系の特殊性が伺えるし
なぜ、イザナミがイズモに
葬られているようにしたか・・・それがわからん。

11 :がいやまん:2005/08/26(金) 10:44:21 ID:lDCCecdE
>>10
イザナギ/ミはカップルでセックスというのが特徴。
http://www.infonet.co.jp/nobk/other-folk/sainokami.htm
弥生に入り農耕、原始的畜産が始まり、生殖に焦点があてられたものだろう。
同時に、兄妹等の近親相姦タブーを神の怒りに触れるものとし、カップル像を
ムラの境界に配置し外敵を怖がらせたようだ。東北では巨大な藁のペニスを
村はずれに設置し、よそ者を怖がらす。いずれにせよ現代人の考えではなかなか
理解しにくい。

12 :出土地不明:2005/09/07(水) 11:08:10 ID:5lJ0m9o6
日本海側が表で、裏は和歌山の方です、海をわたり白木人も多く来たことでしょう

13 :がいやまん:2005/09/09(金) 10:01:13 ID:6YbJUYno
旧石器、縄文時代に日本列島は幾度となく地球規模の火山噴火、火山灰、火砕流
により世界各地に避難しなくてはならない宿命があった。
「■歴史を揺るがした火山の噴火
★喜界(きかい)カルデラ
鹿児島の南、硫黄島と竹島の間に喜界カルデラがあります。
約6,300前に大噴火をおこし、その火山灰(喜界アカホヤ)は遠く関東・東北でも
確認されています。
この噴火で縄文文化、特に南九州のそれは壊滅的打撃をうけます。
その時、逃げ出した縄文人が太平洋を渡って広がったなど、夢のある説がいろ
いろ出されています。
樹齢7,200と言われる屋久島の縄文杉、どうも年齢の修正を迫られているようです。
実は喜界カルデラが噴火した時の火砕流で屋久島は甚大な被害をこうむった
はずなのです。
最近は、樹齢は意外と若く2,500年前後だとか、3本ほどの合体木説など出ていて、
今後の調査が待たれます。 」
http://www.geocities.jp/minami_zatugaku/vol_148.htm
12,000年ほど前からウラジオストークでは隠岐島の黒曜石が出回っているが、
四隅突出墳文化圏の姫川、八上などのヒスイ産地とその加工地出雲玉造の文化も
米州大陸、ユーラシアの各地に拡散した可能性がある。中国、内モンゴルの紅山文化
なども全ては中国からではなく、全ては列島からの視点に立つ必要も重要であろう。

14 :がいやまん:2005/09/09(金) 10:05:11 ID:6YbJUYno
↑出雲が縄文時代からずっと列島の中心ということでもなく、諏訪湖、黒姫山
の辺りもマンモスハンターの中心であったのだから、石器時代の中心であった
ということがいえる。

15 :出土地不明:2005/09/09(金) 11:36:53 ID:In2tmQbw
最新の錬金術をもった、渡来人がはいって初めて鉄とか金をとれて
都会になったので、白木人は入ってたが、田舎のままの東北でありました

16 :出土地不明:2005/09/14(水) 21:00:16 ID:x9cL2YiI
中国大陸にいた倭人は朝鮮半島と九州の2手に分かれて東方に移動した。日本海
王朝は朝鮮半島を経由した倭人の連合で加耶(朝鮮半島)、出雲、越を拠点として
後に、吉備、奈良、尾張に進出した。この王朝は方墳(四隅突出墳を含む)を基礎
とした埋葬をし、加耶を中心に産鉄を行った。それが新羅の圧迫を受けて出来な
くなると出雲、吉備での製鉄の拠点を移していった。九州は、朝鮮半島だけでな
く中国から鉄を輸入していたので大量の鉄を保有していたが鉄を生産した形跡は
ない。この2つの倭人勢力がそれぞれ太平洋側、日本海側に別れ発達したが、
ついに両者を統一することとなった。九州系の初期古墳は円墳が多いが、それと
日本海系の方墳を合成して前方後円墳が出来た。


17 :出土地不明:2005/09/17(土) 03:04:05 ID:4Pc9w8LC
http://blog.livedoor.jp/spwjun/archives/50019581.html




18 :出土地不明:2005/09/20(火) 22:09:10 ID:+0gwr2Hc
対等合併なんかありえるのかな、制服か服従しかないのでは

19 :出土地不明:2005/09/21(水) 18:50:46 ID:Xb91icHf
>>18
邪馬台国なんかは、まさに対等合併なのでは?
合併というよりも連合国って感じだけど。

初期の大和政権も、多分に連合国的な性格をもっていたのではないだろうか。
地方豪族の力はかなり後まで強大なまま保たれていたわけだし。

20 :出土地不明:2005/09/21(水) 23:03:35 ID:oabROwZl

 YAP+型は“縄文系”の男性とみられる。宝来聡・総合研究大学院大学教授
(人類学)の研究では、アイヌ民族の88%にYAP+がみられる。古い形質を
残した遺伝子型のようだ。このタイプはアジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や
中国、シベリアにはみられない。世界を見渡しても日本人のほかには黒人にしか
みられない変わった遺伝子型だ。

 中堀教授は、YAP+の集団を「タイプ2」とした。タイプ2は、都市部では
北から南まで均等に分布し、金沢、福岡、大阪、札幌のいずれで調べても、人口
の三割程度を占める。しかし本州や四国の山間部では五割を占めていた。
弥生人に追われた縄文人という通説にほぼ合致する結果だ。精子濃度が薄いという
特性があるという。

http://www.horagai.com/www/salon/edit/ed2003g.htm

アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない

21 :出土地不明:2005/09/22(木) 23:11:22 ID:Gq7zARio
 由緒正しき出雲は新羅が大嫌い。
最近の洗脳された出雲はしらないが。

22 :出土地不明:2005/09/23(金) 10:35:29 ID:OiFKCd9j
なんで白木がきらいやねんやろ、高麗とか百済はすきなんかな

23 :出土地不明:2005/09/23(金) 13:41:12 ID:909w76EA
>>16
50年以上前からいわれている、しょーもない考え方だな。

24 :がいやまん:2005/09/24(土) 16:29:03 ID:6F81LHY3
方角規矩鏡↓
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page024.html
これを睨んでいると四隅突出墳、土俵、諏訪神社御柱等色んなことが眼に浮かぶ。
ヨモノヒラサカとは四面平境と書くのではなかろうか。土蜘蛛から木造住宅へと移行
してゆく時にも再生したのであろう。
日野宮(ひのみや)神社↓
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/map/area/chubu/shrine/hinomiya/hinomiya.htm
田和山↓
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/tawayama.htm
天日宮↓
http://www.kyowa.ne.jp/kyowa/txt/a02.htm
岡山県「熊山」山行報告↓
http://www.irorimura.com/bun1/geki01.htm
漏れはこれらは明らかに一つの文化であると思う。高句麗将軍塚というのは
これを巨大にしたものではないのか。しかし、これらは高句麗文化というより
高句麗文化をも含むより大きな文化であったのではなかろうか。

25 :がいやまん:2005/09/24(土) 16:41:48 ID:6F81LHY3
↑考えられる根源は↓
秦始皇帝陵↓
http://www.ii-okinawa.ne.jp/people/ume/Sin_no_Sikoutei.htm


26 :出土地不明:2005/09/25(日) 00:18:38 ID:n2N32LMs
白木人が高麗も滅ぼして、全部白木になった時代もあるのだから

27 :出土地不明:2005/09/26(月) 00:03:47 ID:8nKqZx/L
 出雲倭人の領土であった、任那を歴史上占領したばかりか、
今度は、歴史から葬り去ろうと新羅はしているからだろ?

28 :出土地不明:2005/09/26(月) 09:22:41 ID:/Fan6/Hy
白木人に日本の領土の返還を早くするように、漢の皇帝にお願いしたい。

29 :出土地不明:2005/09/26(月) 12:49:15 ID:ZJSYHEdl
そんな事言ってると、ミョウチクリンな論理で中国やアメリカに
二階にあげられハシゴはずされるぞw

奴さんらがネタに困る訳じゃないがな。

30 :出土地不明:2005/09/26(月) 20:55:27 ID:OXgqnSFh
それで新羅系の秦氏がいじめられて、消えていったのか。藤原氏だらけになって
しまった。

31 :出土地不明:2005/09/27(火) 10:05:32 ID:0PycuEEb
日本書紀によると、「久太良」(くたら)と表現されているので、
文字よりも音が大切なことはすぐに分かる。つまり、「百」と「済」の二文字は何ら意味を持たず
白木人も同じでしょうか

32 :出土地不明:2005/10/01(土) 09:02:26 ID:LHBqL7VM
おなじかもしれまへん

33 :出土地不明:2005/10/05(水) 11:16:09 ID:pNBkWlSt
白木人はすらっと背が高くて男前が多かったので、もてた、が原住民は背が低いのであまりもてなかった、
女は小柄な原住民がきりょうよしで、すごくもてたので、でこぼこコンビで
仲良く暮らした。

34 :がいやまん:2005/10/05(水) 18:12:48 ID:oAHKFatB
出雲というのは広島県三次盆地から福島県にと広がる四隅突出墳の中心地。
新羅というのも同じ日本海側であるが四隅の発掘は余り耳にしない。山口県など
には分布しないことを考えると新羅は関係ないのかもしれない。方墳について
バイカル、アルタイ、ユーラシア西部には多くの遺跡があり、スサノオ神話が
ギリシャ、インド等と関係するのを考えると「新羅帝国」ではなく、単なる匈奴
文化の一つと考えた方が適切かもしれない。

35 :がいやまん:2005/10/05(水) 18:24:30 ID:oAHKFatB
天円地方、天孫地祇など読んで字のごとくそもそも円墳は天孫のもので配下の
首長は方墳に甘んじるのが筋なんだが、こうした教養を最後まで身につけていたのが
裏日本と東国の四隅、方形周溝墓、前方後方墳の地方であり、由緒正しい家柄といった
感じ。前方後円墳の天皇サイズ以下のものとか、三角縁神獣鏡偽ブランドは現在の
赤字国債の押し付けのようなもので、邪馬台国政府の財政がうまくいかなかったので
あろう。逆に裏日本、東北なんかはぶったたいても鼻血も出なかったのだろう。
伊那のほうに行くとヤマトタケルが来たので村長が家を建て娘を提供したといった
話が残っているが、あんなところではそれが精一杯で、息吹山で自殺したヤマトタケル
というのも初期邪馬台国の邪馬台国の落日を示すものであると思う。そして九州、熊襲
更には三韓征伐。国家とはできてみればその運営は大変なものであったのだろう。

36 :がいやまん:2005/10/05(水) 18:36:25 ID:oAHKFatB
春秋の末スサノオ等匈奴の先祖の神話体系を描いたのはこれだと思う。↓
度朔山(どさくざん)
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/dosakuzan.html
これを吉備、伯耆近辺に当てはめるとスサノオ神話の原型に触れられる。
この神話体系は春秋時代の中国がバイカル東部のものを収録したのであろう。
鳥居、三つ鳥居、コマイヌ、牛寅岬、茅の輪、鳥居くぐり実に見事に描かれている。
このトラということからアムール、ウスリー江の付近だとわかる。

37 :がいやまん:2005/10/05(水) 18:42:29 ID:oAHKFatB
匈奴は冒頓単于(松尾神社、唐松神社にその名を残す)が月支を撃破、
小月氏を併合し、百サイとして半島南部に雌伏していたのであろう。
出雲日御碕神社は月支王の来襲を伝え、田和山遺跡は崑崙山を模した
三段構えである。妻木晩田経由こうした渡来民が吉備に入るのであろう。

38 :がいやまん:2005/10/05(水) 18:45:29 ID:oAHKFatB
しかし、出雲は外国航路とは直接につながっていない。直接につながるのは
やはり関門、遠賀川下流である。そして最初に集結するのは香春であったの
だろう。

39 :がいやまん:2005/10/05(水) 21:16:04 ID:oAHKFatB
四隅突出墳の極めて重要な点は何故それが出雲で発生したのかということに尽きる。
漏れは、ずばり、それは吉備の楯築に初代倭国王権が成立したことの裏表であると
見る。本来ならばそれは豊前にあるべきものであったのであろうが、資源バランスなど
からして吉備に移動し、更に、伯耆方面からの渡来系も合流し始めての本州における
倭国代表国、倭人伝に言う男王の国、多分投馬国が成立したのであろう。楯築遺跡に
多量に蓄積される丹沙はニニギという言葉を想起さす。

40 :がいやまん:2005/10/06(木) 07:33:25 ID:zsNrYbIk
>>36
>頂には二人の神が居て、ひとりを神茶、ひとりを鬱壘といい、悪鬼を調べ取り締まる
>役目を負っている。害をもたらす鬼を葦の縄で捕らえて虎に食わせる。

谷間の狭い獣道に自然の草木でカモフラージュした輪の中に強い綱を忍ばせる。
多分これが注連縄に起源であろう。獣がその輪を通る時2人の狩人が綱を引く。
或は又、鹿の牧場に設けられた狭い捕獲用通り道のことであるのかもしれない。
古代中国ではトラの出没するのは単に吉林のみならず相当広範囲であったようで
あるが、比較的遅くまで残るのは満州東部であろう。檀君神話はあえてトラと対比
させたうえで、熊を神とするのでどちらかといえばアイヌ系であるが、このトラを
守り神とするのは匈奴を構成する民族なのであろう。その神話体系を山海経が記録
したものだと思うのだ。

41 :がいやまん:2005/10/06(木) 08:52:18 ID:zsNrYbIk
>>36
ここでは三柱鳥居
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/hozumi3.htm
http://suzukishokai.cool.ne.jp/photo%20kaiko/torii.html
http://suzukishokai.cool.ne.jp/sub%2014%20kaikonoyashiro.html
http://suzuki-t.hp.infoseek.co.jp/3hasira2.htm
のことを言ったつもりであった。対馬の古い形のものを見ると渡来したものとわかる。
真ん中が春秋時代はトラのトーテムポールということになろうか。両脇が仁王、コマイヌ。
仏閣においても山門の後に「おたきあげ」というのか、かまどのようなものがあり
お線香を投げ入れ、煙を患部に撫で付ければ癒しとなるというのがあるが同類か。
ちなみに、スクナヒコナ系、つまり、三輪神社等の三つ鳥居については崑崙山というか
三ツ輪、或は、三つ巴の意味か、三重お供え餅型の本山の出入り口的なものかとも
思う。

42 :出土地不明:2005/10/06(木) 21:12:56 ID:yxhxY3Jt
松尾神社は白木系秦氏の○まるで、そのへんはたしだらけみたい。

3本足のカラスは軍師もやってたのか

43 :がいやまん:2005/10/06(木) 22:14:21 ID:zsNrYbIk
>>41
対馬のアマテル、九州のマテラフ、京都のマタラという流れにおいて三本鳥居
を見る時↓ここにいる後戸に立つ食人王・摩多羅(またら)神 
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo07.html
がどうも山海経のトラのようだ。漏れはユーラシアの狩人が北斗七星の投げ輪
で害獣、罪人を捕らえる伝承があったのかなと思っているんだ。どうもこの祭り
牽牛とは縁がないようだ。しかし、牛への何らかの思い入れ、それは丑寅(鬼門)の
方角とかの関係かもしれないが、牛がなんかの救いになるということかも。ユーラシア
各地の情報と比較できればいいんだがね。眠くなったきた。今夜はこの辺でね。

44 :出土地不明:2005/10/07(金) 10:23:33 ID:5JZMyP4+
3本足のカラスは重要な役目をはたしたので、その役目とは古代の政権交代で
しょうか。

45 :出土地不明:2005/10/07(金) 11:23:12 ID:2l1icvwM
畠さんと鈴木さんと藤原さんの三つ巴の争いではなかろうか

46 :がいやまん:2005/10/07(金) 12:35:03 ID:ay9m6YqD
>>41
三本鳥居の原型の候補の一つはエベンキ(ツングース)シャーマン・テント↓
http://www.rosbrs.ru/konkurs/web/2003/pages/rodin/gryppa_hat.jpg
伊勢神宮の横持柱のようなのも遠くに見える。↓
http://tradkulzab.narod.ru/Evenk05.jpg
二人の狩人が鳥居(獣を取るつるべのやぐらってことか)を作って待ち伏せている
いる姿はカレリア地方出土の線画↓の一番下にある。↓
http://www.vottovaara.ru/?url=karelia/drev/galery/b3.html
漏れの仮説として、トラ神様の前に狩人二人がトリイから投げ輪で罪人、害獣
を捕獲し、トラの神様に献上するのではないかということだ。閻魔の思想と同じ。

47 :がいやまん:2005/10/07(金) 17:12:38 ID:ay9m6YqD
例えば、夏越しの祓・茅の輪くぐり
http://www.rokko.or.jp/organization/chinowa/
左で3回、右で3回なんてことはそこに仁王さまのような鬼がいて、くぐる人間の
この世での罪科の調べをし、限度以上の罪のあるものは即、索、しめ縄、を締め
てつるし上げ、後門のトラの餌食とするというルールがあればこそ真剣になれるけど
そんな話がないとなんとウザイことか。

48 :出土地不明:2005/10/07(金) 17:26:35 ID:+YJq1IxT
韓国の国旗は二つの勾玉と四隅に四つの卦。
八幡の三つ巴と出雲の四隅墓と無関係ではなかろう。


49 :がいやまん:2005/10/07(金) 18:31:06 ID:ay9m6YqD
「韓国の国旗は「太極旗」で、太極と八卦を中心に構成されている。
太極は宇宙自然の窮極的な生成原理を現わすものとして、赤色は尊貴と陽を
象徴して、青色は希望と陰を現わす。
八卦は天地日月・四時四方を意味する創造的な宇宙観を盛っている。 したがっ
て太極旗全体では平和・統一・創造・光明・無窮を象徴している。
韓国で国旗制定の論議が初めて挙論されたのは1876年(高宗13) 1月だった。

(斗山世界大百科辞書より)」

50 :がいやまん:2005/10/07(金) 18:37:41 ID:ay9m6YqD
三つ巴神紋はどちらかといえばスキタイ思想を受けた匈奴の持つ3機能思想、
三貴神、三女神などに由来するものであるが、四角は大地、つまり、天孫に
対する地祇の立場を押し付けられている、つまり、スサノオ追放の影響を受け
ていると考えられる。

51 :がいやまん:2005/10/07(金) 18:46:06 ID:ay9m6YqD
秦氏を傘下に収め、豊前にいた天孫オシホミミの子孫は吉備、播磨、いわゆる
投馬国に移動、この間出雲はその統制下に置かれていた。が、倭国乱が始まり
天孫は河内、尾張、越の系統に押し返され、妥協的な卑弥呼共立時代に入るのでは
ないだろうか。

52 :がいやまん:2005/10/07(金) 18:59:39 ID:ay9m6YqD
韓国が受けた「八卦は天地日月・四時四方」等の思想と、日本の八幡・四隅等は
共に、中国の思想であるが、これは匈奴にも入っており、日本に入ってきたのは
移動する匈奴系ツングース、ブリャート等を経由しているのではないかと思われる。
高句麗、百済等も本来匈奴系文化の担架者であろう。

53 :がいやまん:2005/10/08(土) 08:09:56 ID:ULb7FMZV
よく白木という言葉がでるんで気になるのは白蚕/白山>気多神社>八上>出雲>
新羅>シ歳貊>貊>白頭山(長白山)>北方ツングースといった線で四隅等とつなが
らないのかということだ。秀吉に切られた千利休、出雲の神主等の千というのは
韓国に特有の名前だ。この辺になると全く解からないが何かありそうだ。ブリャート
・ツングースの日本への流入が北周り、南回りとあって、夫々、地祇と天孫になった
ということだって考えられるんだけどね。しかし、肥前肥後甕棺文化は千年も続く
世界レベルの存在であり、これも天孫の候補としては外せないが。

54 :がいやまん:2005/10/08(土) 08:24:24 ID:ULb7FMZV
白頭山のように頂上付近に池を持ったものには白山、金毘羅山、四国の剣山
等があるが、水源、雨乞いから龍、蛇、瀬折津姫などの思想が出てくるのであろう。
白頭山天池はバイカル湖を髣髴とさすが、カイラス近辺、日光中善寺湖、猪苗代湖
十和田湖なんかもなんだか似ている。

55 :がいやまん:2005/10/08(土) 08:59:30 ID:ULb7FMZV
>>51
記紀で言うとおり、オシホミミが降臨しようとしていたが、空中でニニギが生まれた
というのは、地上で言えば関門近辺のことであり、1000年続いた甕棺文化、三雲・
前原遺跡の神、オシホミミはオシホミミオシホネとして英彦山近辺に祭られるに
とどまり、空中出産のニニギの子孫である神武が、イザナギのように、日向で禊
を受け、血統を正して東遷するのであろう。面白いのは大和三輪山の神が地元
の姫と結婚してはならない。天孫側の送るミホツ姫と結婚するよう天孫の指定が
あったのにもかかわらず、この姫は冷遇され結局は地元のイスケヨリ姫やモモソ
ヒメ等が寝技で勝っていることで、天孫降臨はスローガンであり、結局は力の強い
地元の豪族が神武の連れ子、タギシミミ、を殺して皇位についていることである。
仁義なき戦いであったのか。

56 :がいやまん:2005/10/08(土) 09:06:54 ID:ULb7FMZV
考古学的に三輪山祭祀の始まるのは河内王朝時代であり、ミホツ姫神社も
後代の史書編纂の結果に基づいて建造されたのかもしれないが、逆に、矛盾
を浮き彫りにする感じである。三輪山の神がオオナムチでドンファンであったと
言ったしまえばそれだけだけど。

57 :出土地不明:2005/10/08(土) 10:01:51 ID:MvoMyzvE
四隅は新羅とは直接関係がなくもっと北、西の文化だろうね。
中国東北部かあるいはもっと北西か。
彼らは文化を受け入れただけなのかそれとも人の移動と共に
埋葬文化も継承したのか。
鉄器や農耕など実用品より埋葬などの文化は人の移動と密接な関係があるとは
思うが


58 :出土地不明:2005/10/08(土) 10:10:40 ID:MvoMyzvE
やはりシラギは扶余語であろうと推測する、百済支配層か
新羅、高句麗の一部から伝わったのだろう。
日本(倭ではない)と半島の繋がりはシッラ人ではなく扶余人中心であった。
では九州を中心とした倭国は半島とどういう繋がりをもち、
どういう言葉を喋っていたのであろう、漏れはかなり違っていたと思う。
沖縄、鹿児島方言に近い言葉だったのではないだろか?
そしてそれはハヤトやクマソの言葉でもあったと思う。
そして半島の南部もこれに近い言葉だったように思う。

59 :出土地不明:2005/10/08(土) 23:10:42 ID:TLynm8zS

googleマップ見てたら、面白いことが分かるよ。

新羅の慶州も、金海も、北九州も、出雲も、みんな港町だよ。

新羅の王子が舞鶴経由で来たという話もあらーね。



古来より、日本が百済と仲がよく、新羅と仲がよくないのも、

朝鮮半島の海岸線をみると、何となく分かるような・・・


任那から百済にかけては、港だらけだよ。

一方、新羅側は山地に囲まれてる。


実は高句麗の方まで、船で交流あったかも知らんね。

60 :妄想中:2005/10/09(日) 11:47:20 ID:YU95BJbB
でも白木と久太良は半分ずつ日本に接しており、百済とおなじくらい
白木神社や系統があってもおかしくないのでは、途中で嫌われて消されたのか

61 :出土地不明:2005/10/09(日) 13:12:13 ID:+4DEK8jK
新羅、唐に占領されたというのも漏れは捨ててないけどね、
百済人の移民押しつけもあったがそれだけでなく、
新羅、唐が倭に干渉してきた、新羅と仲よかった関東の防人が
倭に朝鮮式山城築いて監視してたんじゃないかな
角餅食べながら・・
だいたい、なんで朝鮮人は九州、瀬戸内ばかり狙い山陰から侵入してこないのか
江戸時代の半島の漁民も島根の方に漂流してるのに、まるでこの地域を
聖域にでもしてるかのようだ。
山城は本来山陰にも沢山作るべきだったはずだ。

62 :がいやまん:2005/10/09(日) 13:53:43 ID:VqWvGcxK
白木、白木で思ったんだけど、
「春川説  故金達寿氏は『日本の中の朝鮮文化4』の「伊太祁曽から隅田八幡へ」
の中で、曽尸茂梨とは朝鮮の江原道春川にある、元新羅の牛頭山の事である。
と一つの説を紹介する。
 また八坂神社の真弓宮司は『新撰姓氏録』八坂造の項に「狛国人の之留川麻乃
意利佐(シルツマノオリサ)」とあり、春川には古くから狛国があったことを指摘されて
おられる。 斉明天皇二年に来日した狛人81人は春川の狛人ではないかとの仮説を
出されている。三韓覇権争いの地であり、その頃の高句麗の南下で、狛人の亡命が
想定され、それに該当するとの見方である。 」
http://www.kamnavi.net/it/sosimori.htm
この民族名狛人と国名新羅とをごっちゃにしているような気がする。

63 :がいやまん:2005/10/09(日) 14:21:15 ID:VqWvGcxK
上記のカンナビさん情報
http://www.kamnavi.net/it/sosimori.htm
「高い柱の頂上説    韓国の宗教文化研究院長の崔俊植梨花大学教授の説
(平成神道研究会主催での真弓八坂神社宮司の講演の中で紹介)*4
「ソシモリというのは、地名ではない。「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺ
ん」の意味、したがって、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意味だ」。 「牛頭天王
の「牛」は「ソ(シ)」という音にあたる漢字の牛を当てはめただけ。」という。
 牛頭天王を祀る八坂神社宮司は学者として「ソシモリ」の場所の可能性を広く
求められておられる。 氏は新羅降臨後「ソシモリの所においでになった」と敢えて
「所」を入れてあることへ注目される。単なる地名なら「ソシモリにおいでに」で良い
訳で、やはり「ソシモリ」とは聖地を形容する普通名詞だったと言うことだろう。
 さて『日本書紀』の書かれた8世紀の日本列島で離されていた言葉と韓半島で
話されていた言葉がどの程度違っていたのかは不明である。一体「ソシモリ」とは
何語であるのかは特定できないと云うことだ。 」
これに関連し、
ソシモリの祖形か?
http://www.rosbrs.ru/konkurs/web/2003/pages/rodin/grob.jpg
とも思われるのが、このエベンキ族の杭柱上木箱葬である。これが出雲大社、
三内丸山遺跡の六本の柱跡ではないかと思う。どうだろう。



64 :出土地不明:2005/10/09(日) 14:54:19 ID:2VJ/TqVQ
そういえば朝鮮語と鹿児島弁と似てるな。

65 :出土地不明:2005/10/09(日) 15:00:19 ID:+4DEK8jK
鹿児島弁は普通に九州弁だし、
イントネーションは沖縄弁、長崎弁にも伝播している。

66 :出土地不明:2005/10/09(日) 15:36:01 ID:9cewvKD6
なんだ伝播って?
朝鮮思考は脳内に止めとけw

67 :出土地不明:2005/10/09(日) 23:17:58 ID:BKSF8hbc
白木の影が濃いのかなあ

68 :出土地不明:2005/10/10(月) 10:56:47 ID:5xvV7FwX
高麗も高来にしてるので、やはり嫌われていたのかも、一番好かれてたのが
百済で、高来の春川の地は韓国ですか

69 :がいやまん:2005/10/10(月) 11:15:27 ID:h/sLtplb
三韓の韓とは国の意味だが、民族的には南方ツングース、北方ツングース、倭人
そして南方朝鮮人、他方、楽浪・帯方には中国人・北方朝鮮人といった感じで、
春川あたりはシ歳貊の貊という北方ツングースで、これが白木、白木と騒がれたり、
白山(白頭山)信仰を裏日本に持ち込んだんじゃなかろうか。朝鮮人は余り移動性の
強い民族ではないと思うんだが。

70 :がいやまん:2005/10/10(月) 11:26:01 ID:h/sLtplb
沿海州、ハンギョン道のケマ、北陸の気比、気多などに残るケという言葉は
シ歳貊のワイ<カイかなとも思う。

71 :妄想中:2005/10/14(金) 11:42:40 ID:stMEi8so
四角い土俵と、四角い餅の関東は白木系やろか。

72 :出土地不明:2005/10/14(金) 13:08:18 ID:OXNYhd5r
白木というか、もっと上、高句麗の上、白頭山に四隅墓のルーツが
あるからこの地方の人が故郷を偲んで白山信仰、角餅持ち込んだん
じゃないかな。

73 :出土地不明:2005/10/14(金) 13:12:46 ID:OXNYhd5r
岡山にも角土俵があるらしい、驚き。


74 :がいやまん:2005/10/14(金) 13:22:11 ID:QxAUaMgm
四角>マージャン>中国、どうしても中国に行っちゃうんだけどな。

75 :出土地不明:2005/10/15(土) 14:49:17 ID:3amOijUW
>まあ日本人には多かれ少なかれ朝鮮半島の血が流れているわけだが。

実はほとんど流れていない。
続日本紀によると、7C、百済滅亡で日本に来た百済人が3100人くらい。
高句麗滅亡で来た高句麗人が1800人くらい。
それらとは関係なく自主的に来た百済人や新羅人が数百人。
7Cに来た半島帰化人は全部合せて5000人くらい。

それ以前の帰化人が始まった5C、続く6Cに来た半島帰化人が合せて
2〜3000人くらい。

半島帰化人の総数は7〜8000人くらい。

古墳時代の日本人口が400万人くらいの時だから、
朝鮮半島の血など、日本人の血の僅か 0.2% ほどに過ぎない事が分かる。

76 :出土地不明:2005/10/15(土) 22:33:02 ID:LLhOCwRO
「ビタミンの里よしの」

品種・品名 きねつき餅
参考価格 700円/550g10ヶ入

自然をたっぷり残した静かな山里。
清らかな水が生み出した美味しいお米からつきあげる、
昔ながらの杵と臼でのこだわりのまろやかなお餅が出来上がります。
標高350メートルの冷淳な気候で育んだもち米を原材料に湧き出づる清水で研ぎ、
昔ながらの臼と杵でつきあげたお餅。
粘りとコシの強さが定評でふるさとの香りが味わっていただけるものと確信しています。

住所 〒693-0505 島根県出雲市佐田町吉野475
URL http://www.chusankan.jp/Brand/00000174/

77 :出土地不明:2005/10/16(日) 20:29:41 ID:0yF6ccmh
そろそろ神在月だね。安来に鉄を
求めて神様がやってくるのだろうか?

78 :白木人:2005/10/20(木) 20:14:03 ID:OCJULinW
今の土俵も四角で俵がまるくなってるので

79 :がいやまん:2005/10/22(土) 13:51:03 ID:mrdzUvX+
俵を茅の輪とするとスサノオゲーム。ヨモノヒラサカを四面平境とするとボクシング
のリングにおけるスサノオゲーム。四隅は結界の通路でトリイが発生することになる。
この通過儀礼というのが加賀の潜戸を想起させ、遠く天岩戸、トンカラリン等とも
関係があるのであるのかもしれない。

80 :こぴぺ 八幡の:2005/10/26(水) 08:58:12 ID:gFPflogX
最も早い神仏習合神。本来は豊前国(大分県)宇佐地方で信仰されていた農業神とされる。
781年、仏教保護・護国の神として大菩薩の号を贈られ、
以後寺院の鎮守に勧請されることが多くなった。
また八幡神を応神天皇とその母神功皇后とする信仰や、
平安末期以降、源氏の氏神とする信仰が生まれ、
武神・軍神としての性格を強めた。




81 :がいやまん:2005/10/26(水) 14:45:59 ID:JtPvZhuW
八幡神は神功 皇后とする説は正しいと思う。他方歴史的には高句麗広開土王碑文
では倭と百済はさんざんな敗退をきしたことになっている。国内もカゴサカ、オシクマ
王が反乱している。三韓征伐とは高句麗に対する勝利ではなく応神朝には百済から
大量の移民があるような百済との友好関係樹立程度のことなのだろうか。

82 :出土地不明:2005/10/26(水) 15:03:26 ID:dZzhQXtG
原始宗教→神仏習合→神社建立なので
基本的に神仏習合が現代神道の直接の始まりだと思う。
神仏習合は宇佐八幡地区で始まったが、
神社は出雲地域を中心に建立されている。
特に日本の万の神は殆ど出雲系神社になってる。


83 :出土地不明:2005/10/26(水) 16:09:22 ID:dZzhQXtG
http://iseki.ipc.shimane-u.ac.jp/tanken/Chrctr/kofun/img/2/kofun_bunpu.jpg
古墳の分布状況

84 :がいやまん:2005/10/26(水) 19:11:04 ID:JtPvZhuW
出雲は吉野ヶ里の時代にアマテラスにより九州を追放されたスサノオ系が移住し、
畿内方面に銅鐸文化をもたらす中核的役割を果たす。その後、弥生末の倭国乱
時代に天日槍が渡来すると抗争するも共鳴し、四隅突出文化圏を拡大、北陸、東海、
山城の勢力を扇動し邪馬台国と抗争を繰り返したのではなかろうか。最後はフルネ、
タケミナカタのような形で大和朝廷に屈服するのでは。基本的に北方草原から
中原を侵略する匈奴の思想を受け継いでいるのであろう。それは剣を背景にする
思想である。また、格闘技の相撲も出雲が起源である。

85 :がいやまん:2005/10/26(水) 19:34:31 ID:JtPvZhuW
出雲(四隅)は、全くといって、鏡とは縁遠い。鏡は中国/四郡とのパイプの証である。
出雲は先祖が満州の反中国の匈奴なのであろう。朝鮮半島なんかでは差別され
鉄鉱関係労働者みたいなものであったのではないか。それに引き換え北九州の倭人は
中国から金印を受けている。

86 :出土地不明:2005/10/26(水) 20:50:27 ID:OQwFMBta
http://www.geocities.jp/monerakun/bouenkyou1.html

87 :出土地不明:2005/10/27(木) 22:15:05 ID:cEML4Wjs
稲荷信仰は、京都市伏見にある伏見稲荷神社を中心にした信仰です。
古くは、大和地方で大変な力を誇った秦氏の神様とされていました。
豊前風土記・逸文=昔、新羅の国の神、自ら渡り来りて、この河原に住みき。即ち、名づけて鹿春の神という。
また、里の北に峰有り。頂きに沼有り。柘植の木生い、又、龍の骨あり。第二の峰には銅並びに柘植等あり。
この新羅の神様は「辛国息長(からくにおきなが)大姫大目命」という名前です。

88 :出土地不明:2005/10/28(金) 23:16:41 ID:Wco2pG45
古墳の分布で出雲が小さくて少ないようですが

89 :がいやまん:2005/10/29(土) 19:11:59 ID:Ndtk6CHP
四隅突出型古墳の全国分布図を取れば出雲が中心になり、日本海沿いに福島県
まで伸びる地図になります。上記の図は前方後円墳時代に絞ったものでしょうから
出雲の姿がはっきり見えません。記紀の国譲りの部分では出雲が中心の話ですから
四隅突出型古墳とそれを取り巻くものとの対比が欲しいですね。

90 :出土地不明:2005/11/16(水) 22:45:42 ID:F9SYGGrf
出雲人は東北人と同じくズーズー弁を話している。
彼らのルーツがアイヌ系縄文人であることは明白だ。

91 :出土地不明:2005/11/25(金) 23:24:40 ID:j1QIJ1Xu
【写真】200年ぶりに再演された「風流」   2005.11.22 20:22:21
 京畿道楊平郡楊西面(キョンギド・ヤンピョングン・ヤンソミョン)ヨンダム里にある
「蓮」特化団地の洗美苑(セミウォン)で「流觴曲水宴」が、約200年ぶりに再演された。

流觴曲水宴とは、流れる水に杯を浮かべ一巡する間に詩を作り、酒を交わす伝統の宴会。
社団法人「韓国の文化を育てる会」は、漢江(ハンガン)を眺められる洗美苑に
大きさ513平方メートルの流觴曲水台を作った。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=69913&servcode=700§code=700


曲水宴は両国とも中国から伝わったとされているけど、なんだかなぁ・・・。

参考 日本の曲水宴
http://www.geocities.jp/sailorsladyluck/2005JYONANGU.kyoto.html
http://www.geocities.jp/sailorsladyluck/2005.KAMO.kyoto.html
http://kanko.toyamaken.jp/img_100/h3_img/i0094.jpg
重要文化財 曲水宴図
http://www.kyohaku.go.jp/jp/tenji/heijou/kaiga/kinsei/detail.html
http://www.home-nagahama.org/rekishi/tiiki/daituu2.htm

韓国に残っているとされる曲水宴の庭園遺跡 「鮑石亭」
http://inoues.net/korea/korea_awabi.html
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/81.23posokke.jpg
http://members10.tsukaeru.net/ariera/walk/abroad/korea2002/dscn0149.jpg
http://members10.tsukaeru.net/ariera/walk/abroad/korea2002/dscn0150.jpg
 ここ↑から、どうやったら↓みたいな様式になるんだろうか・・・
http://japanese.joins.com/upload/images/2005/11/20051122202148-1.jpg

92 :出土地不明:2005/11/26(土) 20:40:40 ID:gQAMlRj5
新羅系の難波吉士や草壁きしは淀川の水運を担当していて
白木人は船運に強かった

93 :出土地不明:2005/11/28(月) 18:39:50 ID:e0G7ATmd
 島根県安来市には四隅突出墳墓から方墳への連続的変化が
見ることができるというのは本当ですか?

94 :出土地不明:2005/12/03(土) 12:31:36 ID:RAu5lKdJ
 その話よく聞くね。
加耶から来た、倭人の産鉄族が作ったのでは?

95 :出土地不明:2006/01/22(日) 10:16:08 ID:ltLEkzfx
 出雲東部は謎だらけ。

96 :出土地不明:2006/01/22(日) 23:37:54 ID:8TjEAcmG
>>84
未だに○○族っていいかたやめれ、このぶっさいくハゲじじい!

97 :出土地不明:2006/01/23(月) 08:16:05 ID:eDCxs4bo
平氏(赤旗=先住民の色)はどこに拠点があった?
源氏(白旗=朝鮮人の色)はどこに拠点があった?
南朝はどこに拠点があった?北朝はどこに拠点があった?
水神と共に祀られる平氏、水神といえば西日本だよね。
平氏も貴族だから朝鮮の血は濃いよ、しかし先住民の
反乱だったんだ。あれは単なる権力闘争じゃないんだよ。
南朝しかりだ。よーく考えよう。
記紀、倭人伝、東夷伝、風土記をよーく読もう。
先住民はいま朝鮮人(源氏=東日本人)により根絶やしに
されようとしているのである。

98 :出土地不明:2006/01/24(火) 14:11:25 ID:xFx285Jj
133 :日本@名無史さん :2006/01/24(火) 13:35:53
新羅は出雲人の国
http://makimo.to/2ch/mentai_whis/980/980828553.html

134 :日本@名無史さん :2006/01/24(火) 14:00:44
新羅人は出雲・丹波・但馬人(銅鐸=鈴、五十猛)かもしれないが。
出雲系が純粋な倭系とは思えない。

彼らは少なからずその前に高句麗の影響を受けている。
だから出雲系(出雲人、初期近畿人、関東東北人)は
当初は高句麗との混血であり、更に新羅からの渡来人と
混血したと考えられる。
だからあそこまで高句麗、新羅文化に拘りがあるのです。

99 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:42:50 ID:RW0RsUB6
>>75
>>7Cに来た半島帰化人は全部合せて5000人くらい。

半島帰化人のほとんどは、日本から以前に渡った兵士の子孫。
科野や関東からの防人。

渡来人は里帰りがほとんどだ。

難民も混じっていたが・・・。

100 :出土地不明:2006/01/25(水) 04:01:49 ID:YYd1cPY3
>>99
根拠を示して下さい。
元々その前から出雲丹波ラインは高麗人が渡来してた地域です。

もれは、ブーメラン型(高句麗→出雲→新羅)の出戻りを想定してる。
更に新羅から東北関東に一直線だ。

101 :出土地不明:2006/01/25(水) 21:14:25 ID:RI5/XSd1
↑ただの風説屋ww

102 :出土地不明:2006/01/27(金) 17:39:14 ID:HY9t0SW9
新羅国は倭人が創った(2)
実は「瓢公」が新羅の王になったことは、三国史記からは明確ではありません。その代り
4代目の脱解王が日本出身であったことは、明確に書かれています。この王は倭の都から
東北千里にある多婆那(丹波?)国で生まれたが、生まれた時大きな卵だったので、海に
流され、新羅で拾われたそうです。そして、「瓢公」の家で育ったそうです。
これで新羅国は倭人が創ったことがよりはっきりしました。

しかも韓国の壇君伝説は卵から生まれた天孫が
熊と虎を人間にしようとしますが、熊だけが人間の女性になります。
そして壇君と熊女は結婚し子孫を儲けます。

新良貴の天日鉾(五十猛、五十鈴木、伊達、館の祖先)
が移住したのも但馬です。
高天原は近江・丹波・但馬ラインで確定です。

おめでとう、おめでとう



103 :出土地不明:2006/01/27(金) 17:40:30 ID:HY9t0SW9
新羅国は倭人が創った(2)
実は「瓢公」が新羅の王になったことは、三国史記からは明確ではありません。その代り
4代目の脱解王が日本出身であったことは、明確に書かれています。この王は倭の都から
東北千里にある多婆那(丹波?)国で生まれたが、生まれた時大きな卵だったので、海に
流され、新羅で拾われたそうです。そして、「瓢公」の家で育ったそうです。
これで新羅国は倭人が創ったことがよりはっきりしました。

しかも韓国の壇君伝説は卵から生まれた天孫が
熊と虎を人間にしようとしますが、熊だけが人間の女性になります。
そして壇君と熊女は結婚し子孫を儲けます。

新良貴の天日鉾(五十猛、五十鈴木、伊達、館の祖先)
が移住したのも但馬です。
高天原は近江・丹波・但馬ラインで確定です。

おめでとう、おめでとう



104 :出土地不明:2006/01/29(日) 13:56:05 ID:E4kMlrPD
>>1
>>103
教えてあげる!!

★★ 古代朝鮮人は、日本に移住していない ★★

朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『輝かしい先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。


105 :出土地不明:2006/02/02(木) 20:07:52 ID:2MW55aj0
上げ

106 :出土地不明:2006/02/02(木) 21:00:16 ID:oKo9Sbyb
古代って、どのくらいの間を言うの?

107 :出土地不明:2006/02/02(木) 21:36:08 ID:2MW55aj0
済州島の古名=耽羅(タンラ)は、元はタムラと発音した。

タムラの語源は、日本語古語の屯(タムロ)だ。
タムロとは、大勢の人間が集まる場所の意味。
タムラ島は、古代中国と筑紫(日本・九州)・百済の中継地だった。
人が集まる島だったので、日本人(大和人と百済人)が
そう名づけたのだ。


108 :出土地不明:2006/02/03(金) 13:19:44 ID:ykCivWDr
日本人の起源は済州島だと言いたいの?

109 :出土地不明:2006/02/03(金) 17:34:35 ID:GPPbS8pi
違う!
日本人が耽羅島に移住して島民になったのだ。
これが真実だ。

百済人も日本人!
間違いない!


110 :出土地不明:2006/02/04(土) 00:34:19 ID:JucKTfdN
明日香の猿石と、済州島の石像と同じ顔をしているね。

111 :出土地不明:2006/02/04(土) 20:23:48 ID:OEB6ed+z
 日本文明の特色は、一言で言うと「縄文と弥生の融合」
ということになると思いますが、その融合というものを
最初に達成したのは、古代出雲王朝であろうかと思います。
出雲王朝は邪馬台国よりも40年前に出現し、東西日本の
分け目となるフォッサマグナを超えた連合政体を日本海側
に実現しているからです。現在でも太平洋側はここを境に、
東は縄文的西は弥生的な名残が残っています。一方日本海
側はあまり明確でなく、山陰の出雲弁と東北弁が類似して
いるといったことが見受けられます。

一方、古事記/日本書紀などのような日本最古の文書も
縄文と弥生の葛藤と融合がイザナミとイザナギの国産み
神産みの物語として描かれています。しかし最終的には
縄文が弥生に席巻され、イザナミは死に、出雲と伯耆の
境、比婆の山に埋葬されてしまったのです。縄文のシン
ボルとしてのイザナミは一体どうなったのかあまり手が
かりはありませんが最近の考古学には目覚ましいもの
があります。それで私などは、島根県と鳥取県の県境付
近の考古学的ニュースには目が離せないのです。

112 :出土地不明:2006/02/06(月) 10:31:21 ID:lbLoFVNL
日本から半島に人が渡って国を造り、
その子孫が日本に戻ってきた?
渡来人と言われた人は祖国に戻ってきた感じだったのかな・・・

113 :出土地不明:2006/02/08(水) 20:33:43 ID:YC21c65H
出雲神話のスサノウが、そもそも高天原を追われた亡命者だが。

114 :出土地不明:2006/02/11(土) 13:20:14 ID:OLYKrDIR
★ 三国史記に記された百済の建国神話 ★

【百済の建国 (三国史記より)】
高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだ。
後継者争いで身の危険を感じた弟の温祚(おんそ)は、高句麗から逃げ出し、自分の国を建てるために
南方へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。10人の臣下にちなんで、当初は国の名を
「十済」とした。しかし、百姓たちが自分にしたがったことを喜び、百姓たちにちなんで国号を「百済」
に改めた。

【呉の建国 (史記より)】
『史記』によると、呉を建国した太伯(たいはく)は、周の古公亶父(たんぽ)の長男であったが、
後継者問題で身の危険を感じ、南方の江南の地にのがれて文身(いれずみ)・断髪し、後継者となる
意志のないことを表明して句呉と称したという。こうした事情を知って、この地の人々、千余家が
彼にしたがった。太伯は彼らを臣民として呉を建国した。

12世紀に成立した三国史記の『百済建国神話』が、史記のパクリであることは
間違いない。



115 :出土地不明:2006/02/12(日) 14:27:22 ID:aIxKwwqh
★★ 古代朝鮮人は、日本に移住していない ★★
朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『輝かしい先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだフィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。


116 :出土地不明:2006/02/12(日) 14:29:27 ID:aIxKwwqh
朝鮮人が古代日本史について語るときの基本パターンは、 古代日本と呉・越との深い関係を
故意に無視し、満州地方を本拠地としたフヨ族と 日本民族を結びつけて語ろうとする事だ。
フヨの神話と日本神話には共通点がないにも関わらず、である。
日本神話は、むしろ中国の越地方(長江以南)の神話との共通点が多いのだ。

★ 日本王権神話と中国南方神話  諏訪 春雄著(角川選書)★
【紀伊国屋書店ブックウェブ】
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/bwtsea.cgi?STRCT=1&FLG=&REV-COD=OB22%2FO11

古代においては、日本列島とカラ半島南部の間を、倭人がふつうに往来していた。
そして、この倭人の先祖は、長江以南の越地方から渡ってきたのだ。
長江下流域(今の上海あたり)から、筑紫(九州)や百済(カラ南西部)までは、
距離はほぼ同じくらい。稲作文化にしろ何にしろ、まずカラ半島のほうへ
優先的に伝えなければならないという理由はない。
むしろ、政治・社会の安定度の高さについて言えば、日本列島のほうが上だ。
日本列島に住んだほうが、平和な生活ができる。 北方の蛮族=フヨ族が
いつ南下してくるか分からないカラ半島よりも、 先進文化が栄えている日本の
ほうが、越人たちにとっては、 居住地として魅力があるのだ。
実際は、越人は、日本列島とカラ半島の両方に移住していた。
そして、対馬海峡の両岸には倭人文化圏が成立していたのだ。
これが古代東アジアの真実。
「半島側のほうが文化が進んでいた」という説は、
朝鮮人の妄想の産物にすぎない(笑


117 :出土地不明:2006/02/12(日) 14:32:08 ID:6ZFYTHA6
宮内庁のページ

@秋篠宮(+紀子様)の日程→日程ぎっしり。
世界一の王家の”最重要公務”はもちろん、通常公務もばっちり多忙にこなします。
http://www.kunaicho.go.jp/dounittei/gonittei-3-2006-1.html                  (⌒▽⌒)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓(超えられない壁)

A皇太子(+マサコ)の日程→す、少くねー。特にマサコの方。                 (▼III▼)
それなのにスキーや乗馬はOKなの?いいなー。テラウラヤマシス
http://www.kunaicho.go.jp/dounittei/gonittei-2-2006-1.html

------*特別ふろく*
◎紀子様の結婚時の写真(23才)◎   (;´Д`)ハアハア
http://019.gamushara.net/bbs/tv/html/img20051028091949.html

118 :出土地不明:2006/02/14(火) 21:10:09 ID:LvASMJa7
★★ 和漢同盟と百済建国 ★★

4世紀(西暦300年)以前に成立した
日本と楽浪郡=帯方郡の同盟、いわゆる和漢同盟について、皆さんの意見を書き込んでください。
和漢同盟があってこその、百済建国ですね。
反高句麗で連帯していた、大和と楽浪=帯方郡。
和漢同盟が基礎となって百済が建国されたという事実から推測するならば、百済はやはり倭人国家か。

百済が、最初は、日本領・任那の北部地域に建国されたという事実に注目しましょう。
任那とは、日本国の第十代大君=崇神天皇が建国した、あの任那です。任那は、志良岐の西側に、
広大な領土を持っていました。
中国の自治領である楽浪=帯方郡の南方にあった倭人の二つの国、それが志良岐と任那です。
任那から分離して誕生したのが百済。最初は駒国(狛国。コマ)と呼ばれていました。
楽浪=帯方郡が古代日本人から「コマ」と呼ばれていた点に注目してください。
百済が任那領内に設置されたコマ(楽浪=帯方郡)の亡命政府であった事実が見えてきます。
西暦313年、高句麗の攻撃によって、楽浪=帯方郡が滅ぼされました。その時、コマ(帯方郡)の役人や武将、
民間人が、難民となって任那に流入したことは容易に想像できますね。


119 :出土地不明:2006/02/16(木) 21:17:37 ID:4srEe8Gc
朝鮮人の主張
「高句麗滅亡で、日本に移住した高句麗人が1800人くらいだ」

実は、高句麗人は一人も来てない。旧帯方郡出身の倭人だけが日本に来た。
いわゆる狛人(コマ人)と呼ばれた倭人たち。
高句麗人は日本民族の敵だったので、大和朝廷は、高句麗人の日本移住を
認めなかった。だから一人も来ていない。
これが正しい歴史。
  ↓↓

★★ 和漢同盟と百済建国 ★★

4世紀(西暦300年)以前に成立した
日本と楽浪郡=帯方郡の同盟、いわゆる和漢同盟について。和漢同盟があってこその
百済建国ですね。
反高句麗で連帯していた、大和と楽浪=帯方郡。
和漢同盟が基礎となって百済が建国されたという事実から推測するならば、百済はやはり倭人国家か。

百済が、最初は、日本領・任那の北部地域に建国されたという事実に注目しましょう。
任那とは、日本国の第十代大君=崇神天皇が建国した、あの任那です。任那は、志良岐の西側に、
広大な領土を持っていました。
中国の自治領である楽浪=帯方郡の南方にあった倭人の二つの国、それが志良岐と任那です。
任那から分離して誕生したのが百済。最初は駒国(狛国。コマ)と呼ばれていました。
楽浪=帯方郡が古代日本人から「コマ」と呼ばれていた点に注目してください。
百済が任那領内に設置されたコマ(楽浪=帯方郡)の亡命政府であった事実が見えてきます。
西暦313年、高句麗の攻撃によって、楽浪=帯方郡が滅ぼされました。その時、コマ(帯方郡)の役人や武将、
民間人が、難民となって任那に流入したことは容易に想像できますね。

百済=大和朝廷が計画的に建てた国。


120 :出土地不明:2006/02/18(土) 14:24:03 ID:3nXzqvv7
【『嫌日流』まとめサイト】
http://homepage3.nifty.com/hakch/

マンガで描かれている日本人の顔と朝鮮人の顔がおもしろい(W
目が細く、目尻が吊り上った、一重マブタの、着物を着ている女二人組が
日本人だという。

1)目が細い
2)目尻が吊り上っている
3)一重マブタ

これらの特徴は、朝鮮人の顔に見られるものなんだが(W
逆に、マンガに登場する韓国人の女たちは、二重マブタ(笑)で、
目が大きい日本人顔で描かれているよ。

よく、
「韓国人が、日本人について語っていることは、すべて韓国人自身に
 当てはまることだ」
と、言われるが、ニセ嫌日流は、まさに日本人と韓国人の容姿を逆転させて
描いているんだよな(笑
韓国人は、いつも、事実を真逆に語る(描く)よな。
嫌日流が日本で出版されたら面白くなるね(笑


121 :出土地不明:2006/02/21(火) 19:20:43 ID:dJyP96/w
「最近、あちこちで(日本人に)文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。
そうすると、『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』
と言ってやる。(笑)。だけど、アイツ働かないからな(笑)」
【「正論」2003年号1月号81ページ 憲法集会での辛淑玉の発言】
                               ↑
                       救いようのないバカ(嘲笑

★★ 朝鮮人は、古代日本に移住していない ★★

朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『輝かしい先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。


122 :出土地不明:2006/02/21(火) 19:58:05 ID:XGizvA/b
↑電波ビビンバに噛み付く電波チャンコロってかw


こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html

韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された




123 :出土地不明:2006/02/21(火) 19:59:00 ID:XGizvA/b


●従来の日韓同祖論


×朝鮮半島から弥生人がやって来て、日本の縄文人を征服して滅ぼした。


●日韓同祖論の真相


○弥生人は北方アジアから朝鮮半島を短期間で突き抜けて九州北部に
渡ってきた北方系の種族で、朝鮮半島には縄文人に近い土着の種族がいた。



124 :出土地不明:2006/02/21(火) 20:59:22 ID:dJyP96/w
帯方郡の西部地方に住んでいた漢人と倭人が難民となって南下し、ヤマトの支援の下で
百済を建国したのに対し、同じく帯方郡の東部に住んでいたワイ人たちは、
難民となってシラギに流入した後、数十年後にシラギを乗っ取ったと、そういう事だね。


125 :出土地不明:2006/02/23(木) 20:55:56 ID:l4vxXhC0
http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/0509jofuku.pdf
↑世の中の一般世論に逆行する説をいちいちpdf化するのやめれ。
アイヌは新参者だよ。本州北部まで到達した。北海道のネイティブの
資格はあるけどね。西からも新参者がやってきたが西にはほとんど在来者
がいなかったので彼らも西日本原住民といっていいだろう。
そして日本列島で最も古い種族は関東から東北南部にかけて居住している
グループであろう。この連中は西日本の比較的新しい部類の大和言葉を
押し付けられている。この連中がそれ以前、何語を話していたかは今後の
研究課題であろう。ww

126 :白木人 :2006/02/23(木) 21:31:25 ID:TWYNdRGg
えーと、 NHKのドラマの地図を見ると久多羅は小さくて残りが全部
白木やろか

127 :出土地不明:2006/02/25(土) 19:39:36 ID:hLmmXsaL
「最近、あちこちで(日本人に)文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。
そうすると、『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』
と言ってやる。(笑)。だけど、アイツ働かないからな(笑)」
【「正論」2003年号1月号81ページ 憲法集会での辛淑玉の発言】
                               ↑
                       救いようのないバカ(嘲笑

★★ 朝鮮人は、古代日本に移住していない ★★

朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人) が移住しており、
日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していた。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準のレベルに差があった、
などということはありえない。古代においては、日本列島もカラ半島南部も『倭人の世界』だったのであり、
同じ倭人どうしが交流していたのだ。朝鮮人は、古代日本とは何の関係もないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)ではない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、古代カラ半島北部にあった中国の自治領=帯方郡の東部地方・ワイ郷(現在のソウルの東方地域)に
住んでいた少数部族であるが、高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に難民となって南下し、
日本領=シラキに移住したのである。後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、
王権を簒奪して志良岐を乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
朝鮮民族は、けして韓人(カラビト)ではない。 もちろん、倭人=日本人でもない。
辛淑玉は、日本人と朝鮮人を同族だと思いたいようだが、残念でした、何の関係もありません(笑




128 :出土地不明:2006/02/28(火) 18:12:49 ID:hHnjvbTG
【志良岐】
国号の読みはシラギ。正しくはシラキ。4世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)の
南東部にあった国である。神武天皇の兄・稲飯命によって建国される。
シラキとは「治らす木」の意味である。治らす(シラス)は日本語古語で治めるの意味であり、
木とは神木、すなわち天孫たる日本皇族のことである。したがって、治ら木(シラキ)とは、
「国を治める皇孫」の意味であり、稲飯命の別名なのである。
この事実から考えるならば、シラキの国号をその意味と音に合わせて漢字表記する場合、
『治良木』と書くのが適切である。しかし、わが国では昔から志良岐と表記したり、
また、新羅と表記するのが一般的ある。
神武天皇の兄=稲飯命によって建国され、その子孫が代々の王(キミ・国の主)となった
志良岐は、古代東アジア半島の南部諸国の中で、日本国(ヤマト)ともっとも友好関係に
あった国である。
その政治制度は、王(キミ)の下に国吉士(コニキシと読む)という長官が置かれ、
王の統治を補佐するという独特のシステムであった。しかし、この制度が原因で、志良岐王
(シラキのキミ)は、臣下である第十七代・国吉士(コニキシ)=金奈勿に王権を奪われること
になった。
金奈勿(キン・ナブツ)は、高句麗と手を組んで謀反を起こし、稲飯命の子孫である志良岐王族を
虐殺した。そして、志良岐の国号を『新羅』に改め、自分が新しい王となったのである。
金奈勿は金氏新羅の初代王であるが、志良岐人(シラキ人=倭人)ではなく、ワイ人(朝鮮人)で
あった。ワイ人は、カラ半島北部にあった中国の自治領=帯方郡の東部地方・ワイ郡(穢郡)に
住んでいた少数部族であるが、313年〜314年頃に、フヨ人国家=高句麗が楽浪・帯方郡を
攻撃して滅ぼした時、難民となって南下し、日本領=志良岐に流入して住み着いたのである。
金氏は謎の一族である。ワイ人の出身であることは間違いないが、どのような方法で志良岐の
役人になったのか、それを記した資料はなく、すべてが謎に包まれている。
韓国に伝わる新羅(シンラ)の建国神話によれば、稲飯命が森の中で拾ってきたという逸話が
あるが、もちろん作り話である。新羅建国初代王=金氏に関する歴史的資料は皆無なのだ。





129 :出土地不明:2006/03/04(土) 14:49:57 ID:GuT/9RlF
★ 志良岐と新羅は異なる国 ★

志良岐。国号の読みはシラギ。正しくはシラキ。4世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)の
南東部にあった国である。神武天皇の兄・稲飯命によって建国される。
シラキとは「治らす木」の意味である。治らす(シラス)は日本語古語で治めるの意味であり、
木とは神木、すなわち天孫たる日本皇族のことである。したがって、治ら木(シラキ)とは「国を治める皇孫」の
意味であり、稲飯命の別名なのである。
この事実から考えるならば、シラキの国号をその意味と音に合わせて漢字表記する場合、
『治良木』と書くのが適切である。しかし、わが国では昔から志良岐と表記したり、
また、新羅と表記するのが一般的ある。
神武天皇の兄=稲飯命によって建国され、その子孫が代々の王(キミ・国の主)となった志良岐は、
古代東アジア半島の南部諸国の中で、日本国(ヤマト)ともっとも友好関係にあった国である。
その政治制度は、王(キミ)の下に国吉士(コニキシと読む)という長官が置かれ、王の統治を補佐する
という独特のシステムであった。しかし、この制度が原因で、志良岐王(シラキのキミ)は、臣下である
第十七代・国吉士(コニキシ)=金奈勿に王権を奪われることになったのだ。
金奈勿(キン・ナブツ)は、高句麗と手を組んで謀反を起こし、稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺した。
そして、志良岐の国号を『新羅』に改め、自分が新しい王となったのである。
金奈勿は金氏新羅の初代王であるが、志良岐人(シラキ人=倭人)ではなく、ワイ人(朝鮮人)であった。
ワイ人は、カラ半島北部にあった中国の自治領=帯方郡の東部地方・ワイ郡(穢郡)に住んでいた少数部族で
あるが、313年〜314年頃に、フヨ人国家=高句麗が楽浪・帯方郡を攻撃して滅ぼした時、難民となって
南下し、日本領=志良岐に流入して住み着いたのである。
金氏は謎の一族である。ワイ人の出身であることは間違いないが、どのような方法で志良岐の役人になったのか、
それを記した資料はなく、すべてが謎に包まれている。
韓国に伝わる新羅(シンラ)の建国神話によれば、稲飯命が森の中で拾ってきたという逸話があるが、
もちろん作り話である。新羅建国初代王=金氏に関する歴史的資料は、ほとんど無いのだ。



130 :白木人 :2006/03/04(土) 21:50:29 ID:aam8ghda
志良岐のギは村を表す古語で、ともろぎとかさわらぎ、友呂伎、沢良伎

131 :出土地不明:2006/03/06(月) 18:47:34 ID:kXL30Y7w
ギではなく、キが正しい音。







132 :出土地不明:2006/03/16(木) 20:40:13 ID:u46U+Yyq
【百済の歴史】

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。


133 :出土地不明:2006/03/16(木) 20:59:27 ID:Iu0rLeZk
こいつはここにもいたか。アクセス禁止依頼出すぞ

134 :出土地不明:2006/03/16(木) 21:14:04 ID:Iu0rLeZk
このスレも糞コピペばかりだな。
スレごと削除依頼出しましょうか

135 :出土地不明:2006/03/18(土) 16:51:15 ID:6AsSJ7Tv
★ 百済は日本人が建国した ★

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。

百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。


136 :出土地不明:2006/03/18(土) 18:31:07 ID:P1Gkfzak
>>135
文献的根拠または考古学的根拠あげてみろ。
というか無いよな根拠は。どこの史書にもそんなこと書かれてないし、倭と百済の直接的関係は360年頃以降だし。お前の脳内にはあるかもしれんがw
百済の建国に帯方郡の影響はありうるが、3世紀のこと。
ただし帯方郡に対抗して馬韓北部の韓人が結集したもの。
倭との直接関係は文献上360年代以降、考古学的にも同様。
むしろ漢城百済の領域に入らない百済より南の馬韓諸国は3世紀頃から倭と通交。
西新遺跡など博多湾岸で大量の馬韓土器がより近い伽耶土器よりも出てくることが最近分かった。


137 :出土地不明:2006/03/18(土) 18:54:05 ID:6AsSJ7Tv
崇神天皇を忘れるな。

任那建国者だ。

任那の北部に狛国(狛済国)が建国された。



狛済国=伯済国

138 :出土地不明:2006/03/19(日) 11:33:34 ID:gmX/CLFt
「最近、あちこちで(日本人に)文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。
そうすると、『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』
と言ってやる。(笑)。だけど、アイツ働かないからな(笑)」
【「正論」2003年号1月号81ページ 憲法集会での辛淑玉の発言】
                               ↑
                       救いようのないバカ(嘲笑

★★ 朝鮮人は、古代日本に移住していない ★★

朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人) が移住しており、
日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していた。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準のレベルに差があった、
などということはありえない。古代においては、日本列島もカラ半島南部も『倭人の世界』だったのであり、
同じ倭人どうしが交流していたのだ。朝鮮人は、古代日本とは何の関係もないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)ではない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、古代カラ半島北部にあった中国の自治領=帯方郡の東部地方・ワイ郷(現在のソウルの東方地域)に
住んでいた少数部族であるが、高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に難民となって南下し、
日本領=シラキに移住したのである。後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、
王権を簒奪して志良岐を乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
朝鮮民族は、けして韓人(カラビト)ではない。 もちろん、倭人=日本人でもない。
辛淑玉は、日本人と朝鮮人を同族だと思いたいようだが、残念でした、何の関係もありません(笑


139 :出土地不明:2006/03/19(日) 13:04:29 ID:WOR02Drs
いや、新羅は日本海貿易で東北や関東に同盟セクトを作っていたんだよ。
百済=大和朝廷同盟に対抗してね。

そんでもって中国と一緒に白村江で百済・大和連合軍を壊滅させて、百済
人は大挙亡命したんだろう。

140 :出土地不明:2006/03/19(日) 13:10:29 ID:gmX/CLFt
★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。


141 :出土地不明:2006/03/20(月) 17:32:58 ID:cz/ry5rh
★ 朝鮮人の日本侵略史 ★

【第一次侵略=356年】
ワイ人=朝鮮人の金奈勿(キン・ナブツ)が、稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪、
志良岐を乗っ取る。稲飯命王朝が滅亡。金氏新羅の建国。

【第二次侵略=562年】 朝鮮人国家=新羅が、日本領=任那を武力攻撃。任那は滅亡した。

【第三次侵略=660年】 新羅が、唐軍と共に日本領=百済を侵略。百済は滅亡した。

【第四次侵略=811年・12月】 新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。

【第五次侵略=813年(弘仁4年)・2月】新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷する。
(省略・・・)
【第十五次侵略=1419年(応永26年】
朝鮮が、日本領=対馬を、倭寇征伐の名目で侵略する。朝鮮では己亥東征という。
太宗は「倭寇の根拠地は対馬だ」と言いがかりをつけ、対馬を侵略した。これにより6月19日、李従茂指揮の
227隻、1万7258人からなる船隊が、朝鮮の巨済島から対馬にむかい、翌20日に対馬浅茅湾の土寄崎に停泊。
当初、朝鮮軍は対馬の民家1939戸を焼き、多数の日本人住民を虐殺した。しかし、同年26日に仁位郡に進攻した頃から
対馬の伏兵に反撃され、朝鮮軍は2500余人の損害を出した。そして、宗貞盛の撤兵要求を受け入れて7月3日に
巨済島に引き揚げた。

◆ 倭寇は朝鮮人だった! ◆
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/wa1.html

◆ 日韓歴史問題 2◆
http://mirror.jijisama.org/rekisi2.htm


142 :出土地不明:2006/03/22(水) 11:20:57 ID:VABlot+X
そんな昔のことなのに細かい数字まで出るかよ

143 :出土地不明:2006/03/22(水) 17:51:08 ID:/x2xoP6g
なんで、大和朝廷が作った人工国家=百済の文化を、日本人が羨むんだ?(笑
_____________________________________
韓国人がアホな歴史教育をしているようだ。

【歴史教育、幼稚園から実施】

教育人的資源部(訳注:日本の文部科学省に相当)は、幼児の時から正しい歴史意識を
身に付けさせるために、多様でおもしろい活動を素材とした『幼児のための歴史教育活動
資料』を発刊し、全国8300余りの国・公・私立幼稚園に無料配布するほか、保育施設など
で出力して活用するようにホームページ( www.moe.go.kr )にも掲載することにしたと、16日
発表した。
この資料は、幼児期発達に相応しくておもしろい10編の時代的歴史エピソードと、33種類
の多様な活動で構成されており、歴史に対する幼児たちの関心と好奇心を引くことが期待
される。
(省略・・・)
★『韓国の文化の誇り、百済』編には、「日本が羨んだ百済文化」が紹介されている。←(苦笑)
(省略・・・)
古朝鮮(訳注:檀君の建国した国のこと)などのテーマも入っている。
教育人的資源部では、この資料が幼児教育現場で有効に活用されるようにするため、2月
に全国16道・直轄市の教育庁幼児教育担当講師要員400人余りを対象に研修を実施する予定だ。

▽ソース:Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2006.01.16 20:21)
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=4&newssetid=746&articleid=2006011620210117447



144 :出土地不明:2006/03/30(木) 17:08:33 ID:mA2XIkt9
★★韓流ブームは存在しない★★

最近、日本マスコミが妙なデマを宣伝している。
いわく「日本は今、空前の韓流ブームだ。韓国のテレビドラマや映画が大人気で、『冬のソナタ』の
主演俳優、ペ・ヨンジュンのことを日本女性がヨン様と呼んで熱狂している」
だが、こういった話は全て大嘘である。韓流ブームなどというものは存在しない。
現在、韓流ブームと呼ばれている<騒動>は、韓国政府が広告会社=電通に金を払って演出している幻
(まぼろし)であり、ヤラセにすぎない。
韓国政府・電通・マスコミの組織的な宣伝工作によって作られた『バカ騒ぎ』が、韓流ブームの
正体なのだ。
韓国ドラマ『冬のソナタ』は、日本人にぜんぜん人気がない。主演俳優のペ・ヨンジュンのことを
「ヨン様」と呼んでいるのは、電通の影響下にあるマスコミと在日韓国人(朝鮮人)だけなのである。
そして、ペ・ヨンジュンを追いかけまわしている年配女性グループは、全員が在日韓国人であり、
韓国民団に動員された女性たちなのだ。もちろん、彼女たちには韓国民団から金が支払われている。
在日韓国人の中年女性たちにとっては良いアルバイトである。
現在、日本の書店には、『冬のソナタ』やその他の韓国ドラマ・映画の関連本が置かれているが、
これらの本の出版費用は、全て韓国政府から出ているのである。しかし、やはり売れていない。
この事実は、日本人が韓国文化に「まったく関心がない」ことを証明している。
では、なぜ韓国政府は電通に金を払ってまで、ヤラセの韓流ブームを捏造しているのだろうか。
それは、近い将来、北朝鮮の体制が崩壊したときに、半島の統一費用を、日本に負担して欲しいから
である。つまり、日本にタカりたいがために「日本人は韓国と韓国人が好きなのだ」という、
デマを宣伝しているのだ。これが、『韓流ブーム』と呼ばれているものの実態なのである。

ちなみに、韓流を捏造している電通の会長=成田豊は、半島のソウル生まれの帰化韓国人である。


145 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:17:17 ID:biw+CApX
 ※ 弁辰(弁韓)12国
弁辰半路國、弁辰彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰彌烏邪馬國、
弁辰狗邪國、弁樂奴國、弁辰古淳是國、弁辰接塗國、弁辰走漕馬國、
弁辰安邪國(弁馬延國)、弁辰甘路國、弁辰涜盧國※涜=toku[偏水旁賣]、

 ※ 辰韓12国
有已柢國、不斯國、勤耆國、難彌離彌凍國、冉奚國、軍彌國、
如湛國、戸路國、州鮮國(馬延國)、斯盧國、優由國。(古辰國?)
 弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。
其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。

 ※ 馬韓50余国
爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟[シ豕]國、臣濆沽國、
伯濟國、速廬不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、臣釁國、支侵國、
月支國、咨離牟廬國、素謂乾國、古爰國、莫廬國、卑離國、占離卑國、
狗廬國、卑彌國、藍奚卑離國、
古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟廬國、内卑離國、感奚國、萬廬國、
辟卑離國、白斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷廬國、
牟廬卑離國、臣蘇塗國、莫廬國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、
楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、
凡五十餘國あり。(馬韓伴跛國?、馬韓朝鮮國?、故真蕃朝鮮胡國?)


146 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:18:08 ID:biw+CApX
建国
扶余の東明王の後裔である扶余王
尉仇台が高句麗 に国を滅ぼされ、百の家族を伴って済海(海を渡る)し
帯方郡 の地に国を建てた。それが「百済(伯済)」の語源となった。
元の国は、高句麗内に有ったというが、かつての扶余のことだろう。
後漢 の遼東太守であり、帯方郡 を設置した公孫度 (?〜205)が
娘を仇台に嫁がせ、東夷の強国となったと書かれている。
晋時(280年−316年)、高句麗が遼東を占領し、
百済もまた遼西、晋平の二郡を治めたという。
しかし当時高句麗は遼東・玄菟を侵攻するばかりで、服属させてはいない。
百済も馬韓を平定していない。
晋より以後、馬韓の地を併合し、国を立てた。(346年)
百済建国については諸説があり、三国史記 によれば
前18年 高句麗 の王族が現在のソウル特別市 付近に建国したとする。
百済は支配層と民衆の言語が違うとも記している。
百済王族は扶余姓を名乗り、後に中国・・・

通典
百濟 、即漢末夫餘王尉仇台之後、【後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」】
初以百家濟海、因號百濟。晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。
【今柳城、北平之間】自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地。
其國東西四百里、南北九百里、南接新羅、北拒高麗千餘里、西限大海、處小海之南。
國西南海中有三島、出黄漆樹、似小榎樹而大。六月取汁、漆器物若黄金、其光奪目。
自晉代受蕃爵、自置百濟郡。義熙中、以百濟王夫餘腆【佗典反】爲使持節、都督百濟諸軍事。
齊並遣使朝貢、授官、封其人。

147 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:29:13 ID:biw+CApX
後漢東夷
韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。
馬韓在西、有五十四國。其北與樂浪、南與倭接。
辰韓在東、十有二國、其北與wai[扁水旁歳]貊接。
弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海間。
地合方四千餘里、東西以海爲限。皆古之辰國也。
馬韓最大、共立其種爲辰王、都目支國。盡王三韓之地。
其諸國王先皆是馬韓種人焉。

『晉書』四夷傳(東夷条)
--------------------------------------------------------------------------------
 唐  房 玄齡 等 撰  
--------------------------------------------------------------------------------
[夫餘國] [韓] [倭人]
韓種有三:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓在帶方南、東西以海爲限。
倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。
舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。男子無大小、悉黥面文身。


148 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:30:23 ID:biw+CApX

『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 幽州屬
--------------------------------------------------------------------------------
   後漢  班 固 撰   唐  顔師古 等 註  
玄菟郡、武帝元封四年開。高句驪、莽曰下句驪。屬幽州。
【應劭曰:「故眞番、朝鮮胡國。」】戸四萬五千六、口二十二萬一千八百四十五。
縣三:高句驪。遼山、遼水所出、西南至遼隊入大遼水。又有南蘇水。西北經塞外。
【應劭曰:「故句驪胡。」】上殷台、莽曰下殷。
【如淳曰:「台音[魚台]。師古曰:「音胎。」】
西蓋馬。馬si[冠此脚言]水西北入鹽難水。西南至西安平入海。
過郡二、行二千一百里。莽曰玄菟亭。
樂浪郡、武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州。
【應劭曰:「故朝鮮國也。」師古曰:「樂音洛。浪音狼。」】
戸六萬二千八百一十二、口四十萬六千七百四十八。有雲seu[扁章旁右郊]。
縣二十五:朝鮮【應劭曰:「武王封箕子於朝鮮。」】nan[言○]邯。
【孟康曰:「[言○]音男。」師古曰:「[言○]音乃甘反。邯音酣。」】
[シ貝]水、水西至増地入海。莽曰樂鮮亭。【師古曰:「[シ貝]音普大反。】
含資、帶水西至帶方入海。黏[虫單]、【服虔曰:「[虫單]音提。」】
遂成,増地、莽曰増土,帶方,駟望,海冥、莽曰海桓。
列口,長岑,屯有,昭明、南部都尉治。鏤方,提奚,
渾彌【師古曰:「渾音下毘反。」】,呑列、分黎山、列水所出。
西至黏蝉入海。行八百二十里。東[目施]【應劭曰:「音移。」】,
不而、東部都尉治。蠶台【師古曰:「台音胎。」】,
華麗,邪頭昧【孟康曰:「昧音妹。」】,前莫,夫租。


149 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:34:31 ID:biw+CApX
晋書 巻十四 志第四 地理上 平州
平州。案禹貢冀州之域,於周為幽州界,漢屬右北平郡。
後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。
魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。
及文懿滅後,有護東夷校尉,居襄平。
咸寧二年十月,分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。
統縣二十六,?一萬八千一百。[二六]
昌黎郡漢屬遼東屬國都尉,魏置郡。統縣二,?九百。
昌黎 賓徒
遼東國秦立為郡。漢光武以遼東等屬青州,後還幽州。統縣八,?五千四百。
襄平東夷校尉所居。 ? 居就 樂就 安市 西安平 新昌 力城
樂浪郡漢置。統縣六,?三千七百。
朝鮮周封箕子地。 屯有 渾彌 遂城秦築長城之所起。 鏤方 駟望
玄菟郡漢置。統縣三,?三千二百。
高句麗 望平 高顯
帶方郡公孫度置。統縣七,?四千九百。
帶方 列口 南新 長岑 提奚 含資 海冥
平州初置,以慕容?為刺史,遂屬永嘉之亂,?為衆所推。及其孫儁移都于薊。
其後慕容垂子寶又遷于和龍,自幽州至於廬溥鎮以南地入於魏。
慕容熙以幽州刺史鎮令支,青州刺史鎮新城,并州刺史鎮凡城,營州刺史鎮宿軍,
冀州刺史鎮肥如。高雲以幽、冀二州牧鎮肥如,并州刺史鎮白狼。
後為馮跋所?,跋僭號於和龍,是為後燕,卒滅於魏。


150 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:35:25 ID:biw+CApX
通典
新羅 國、魏時新盧國焉、其先本辰韓種也。辰韓始有六國、稍分爲十二、新羅則其一也。
【初曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。】其國在百濟東南五百餘里。
【亦在高麗東南、兼有漢時樂浪郡之地。】東濱大海。
魏將毋丘儉討高麗、破之、奔沃沮。其後復歸故國、留者遂爲新羅焉、
故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬、兼有沃沮、不耐、韓、wai[偏水旁歳]之地。
其王本百濟人、自海逃人新羅、遂王其國。其國小、不能自通使聘。
符堅時、其王樓寒遣使衛頭朝貢。堅曰:「卿言海東之事與古不同、何也?」
答曰:「亦猶中國、時代變革、名號改易、今焉得同。」
梁武帝普通二年、王姓慕名秦、始使人隨百濟獻方物。
其俗呼城曰「健牟羅」、其邑在内曰「喙評」
【喙、呼穢反】、在外曰「邑勒」、亦中國之言郡縣也。國有六喙評、五十二邑勒。
土地肥美、宜植五穀、多桑麻果菜鳥獸、物産略與華同。
至隋文帝時、遣使來貢。其王姓金名眞平、【隋東蕃風俗記云:「金姓相承三十餘葉。」】
文帝拜爲樂浪郡公、新羅王。【其王至今亦姓金。按梁史云姓慕、未詳中間易姓之由。】
其先附屬於百濟、後因百濟征高麗、人不堪戎役、相率歸之、遂強盛、
因襲加羅、任那諸國、滅之。【並三韓之地。】其西北界犬牙出高麗、百濟之間。

151 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:37:09 ID:biw+CApX
漢書地理志 燕地
樂浪海中有倭人。分爲百餘國。以歳時來獻見云。
【如淳曰、如墨委面。在帶方東南萬里。臣[王贊]曰、倭是國名、不謂用墨。
故謂之委也。師古曰、如淳云如墨委面。蓋音委字耳。此音非也。倭音一戈反。今猶有倭國。
魏略云、倭在帶方東南大海中。依山島爲國。度海千里、復有國。皆倭種。】

楽浪海中、倭人あり。分かれて百余国となす。歳時を以って来たり、献見すという。
【如淳曰、如墨委面(?)。帯方東南万里にあり。
臣[王贊]曰、倭これ国名、墨を用いるをいわず。故(もと)これ委というなり。
師古曰、如淳、如墨委面という。蓋し委字に音するのみ(?)。この音にあらず。
倭の音は一戈反(わ)。今なお倭国あり。魏略にいう、倭は帯方東南大海中にあり。
山島に依りて国をなす。海を渡ること千里、また国あり。皆倭種。】
【】内は、後世の人物(如淳、臣[王贊]、顔師古)による注。
専門家でも意味が分からないらしく、西嶋定生さんは『この注は泥沼みたいなもの』
と書かれています。如淳は魏の陳郡丞。臣[王贊]は、西晋の傳臣[王贊]とする説が有力。
顔師古(唐初期、581〜645)の注は、如淳の注にある“委”という字について、
『倭の音はワでありイではない』という意味の事が書かれているらしい。
また、ここには、魏略逸文が見える。漢書地理志の記事はこれで全文。


152 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:38:00 ID:biw+CApX
宋書夷蠻
世祖大明六年、詔曰:「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣邊業。
宜授爵號、可安東將軍、倭國王。」興死、弟武立。
自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外。
自昔祖禰躬kwan[偏手旁右環]甲冑、跋渉山川、不遑寧處。
東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、
王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。
臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道kei[之繞旁右經]百濟、裝治船舫。
而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隷、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風、雖曰進路、或通或不、
臣亡考濟、實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、
方欲大擧、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。
居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、
義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。
若以帝徳覆載、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府義同三司、其餘咸假授、以勸忠節。」
詔除武使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。  


153 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:40:16 ID:biw+CApX
朝鮮国−朝鮮胡国(故真蕃、朝鮮侯_燕人衛満)
月支国(辰王)−ワイ侯フジ
伯済国−古蒲国−古淳是国−軍彌国
駟廬国−楽奴国−伴跛国_−半路国
卑離国−冉路国−州鮮国_−涜盧国−斯盧国
牟廬国−石索国−安邪国_−狗邪国


馬韓_−バク
馬韓_−ワイ
馬韓_−馬韓__−馬韓東界−馬韓東界
馬韓_−馬韓東界−馬韓__−馬韓東界
馬韓_−馬韓__−馬韓東界−馬韓東界_−馬韓東界の東浜
馬韓_−馬韓__−馬韓東界−馬韓東界


楽浪郡朝鮮県−玄菟郡高句麗県
楽浪郡帯方県_−楽浪郡不而県(フジ県・富士県)
長岑県−シ文県−馬韓__−渾彌県
駟望県−楽都県−馬韓__−崎離営−臣智(韓[族]_侯[酋長]・臣=辰・智=日_荷知)
馬韓_−馬韓_−遂城県_−屯有県−古辰国(韓王_準・韓王_淮[ワイ])
新南県−馬韓_−海冥県_−弁

154 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:41:51 ID:biw+CApX
馬韓_−高句麗
加羅国(加羅国王_荷知=韓国王_日)
馬韓_−己文県−馬韓__−辰韓
馬韓_−弁__−大伴金村−辰韓
多利県−馬韓_−辰韓__−弁辰_−新羅城
牟婁県−帯沙県−弁___−弁辰


高句麗−高句麗
高句麗
百済国−任那_−馬韓__−任那
馬韓_−任那_−任那__−任那
任那_−馬韓_−任那__−任那_−新羅城
任那_−任那_−任那__−任那
(倭王武・六朝[南朝]宋国へ上奏文・海北95国・都督−六国諸軍事−安東将軍)


155 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:44:05 ID:biw+CApX
>新羅(辰)・百済(プヨの百家が済[渡]ったのは海から[百家済海])・任那(弁)・高句麗・渤海
>百済は支配階級(プヨ語・中国語)と
>地元の庶民(新羅語・弁語)とで、日常会話の言語が違ったと言う。

プヨ語は、馬韓語であり、百済語で、渤海語であり、高句麗語であり、バク族(大柄人)の語。
新羅語は、辰韓語であり、ワイ族(小柄人)の語。
弁語は、バク族(大柄人)の語。
  弁人(弁辰人[弁韓人・任那人])と辰人(新羅人)には、馬韓語が通じない。
  馬韓の東界に弁人が住み、東界で大海の見える東浜に辰人が住む。
馬韓______=百済(加羅国・古代韓国)=渤海人=高麗国(高句麗)
馬韓の東界___=弁人=任那(バク)
馬韓の東界の東浜=辰人=新羅(ワイ)
  馬韓=プヨ(渤海の一部族・渤海という海を渡って来た百の家族[百家済海]が『百済』)
馬韓の王:辰王(馬韓月支国・馬韓語)
庶民__:辰・弁(馬韓語が通じない)
  馬韓月支國(加羅国・古代韓国・慰礼城[北漢山城・漢城・北ソウル])が滅び
  馬韓伯濟國(百済国・熊津城[公州・大田])に遷都して滅び
  馬韓辟卑離國(南扶余国・泗比城[扶余])百済再興の暫定で遷都。百済王室が完全滅亡。
済は、日本と高麗(高句麗)に王子を人質に出し
白村江の戦いの前に日本に居た王子は、戦後に高麗(高句麗)に逃げ、
高麗(高句麗)滅亡と伴に滅んだ。


156 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:44:39 ID:biw+CApX
新羅は滅亡前にソウルを流れる『漢江の流域に大量に渤海人に移住』
され『渤海国(高麗国[高句麗国])』が移って来た感があった。
高麗の中期まで契丹族(遼国)と女真族(金国)に攻められ
藩国『斉国』『高麗藩』となった。それまでは高麗ではなく
『泰封国』とか『摩震国』と国名を呼んでいた。渤海人の移住地は
『東丹国(高麗国)』と呼んだ。

藩国になる前に女真族の大量侵攻があり『刀伊の入寇』といった。
昔の新羅地域は女真族の手に落ちていた。

その後に蒙古族に攻められ『斉国大長公主』を
王妃に迎え『東真国』となった。半島南部の有力者の
崔(江華島〜珍島)・林(忠清)・李(光州〜順天)・鄭(晋州〜南原〜全州)
の4氏の内、李氏が優勢となり李氏朝鮮を創るべく李成桂が『高麗王』を名乗り
謀略で亡くなった2王子を仏教式に葬った。李氏朝鮮の太祖の李成桂は、まだ
『儒教』でもなかったし『朝鮮国王』に明国から任命されたわけではなかった。

第二代の定宗の弟(王弟)の太宗が第3代高麗王となり
この太宗の時に明国から『朝鮮国王』に任命され、この2王子(定宗・太宗)の後に
太宗の子の第4代の世宗が『太宗実録』を書き『李氏朝鮮実録の初刊』を編集させた。

王の歴代記は逐次世代交代ごとに追加で書かれたのではなく、焼失したと言って
後に諸伝承をかき集めて『太宗実録』の記述を真似て、作ったのである。それは
昭和10年まで編纂が続いたので歴史の後知恵が記事に、かなり入っている。


157 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:46:23 ID:biw+CApX
つまり『百済』は『馬韓』全土の統一などしてないし、
『新羅』は僻地の『東の浜辺』の『一ヶ城』に過ぎない。
『倭の武王(継体天皇?・応神天皇?・八幡大菩薩?)』には
南中国『宋国』のお墨付き『都督・安東将軍(任那総督)』の肩書きがある。
『楽浪郡』は確かに原住民の『馬韓』を制圧していない。
しかし馬韓は結集して中国人の入植地の郡県や営所を全滅させていない。
『馬韓』とは違って東の界隈『馬韓東界』に
『弁人』や『辰人』の”国”の名の付く『邑(むら・集落)』がある。
仮に楽浪半島経由の伝来でも中国人からであって原住民には、何ら日本側としては恩義はない。
原住民は、中国人の楽浪郡の住民を、終戦直後の日本人のように襲って
殺して略奪し、敵産として追いはぎ山分け火事場泥棒したに過ぎない。
『弁人』は『辰人』と弁別(別に)された人の意味で「弁」と名づけた。
それで『弁辰』という地域名となった。弁辰という名なのに、
弁人は倭人と混在雑住同居している。本来なら『弁倭』とすべき地域名である。
倭人とは弁別された民といえるから。それを
『弁辰』から『弁”韓”』と地域名を書き換え
『弁辰狗邪国』を『狗邪”韓”国』と書き換えた。
『任那』が『倭人』による支配である事を暗に改ざんする意図がある。
馬韓月支国の王が『辰王』で、新羅の祖先の
辰韓の王が『韓王』であるのも変な記述だ。
馬韓だから『馬王』とか『韓王』であるべきだ。
辰韓こそが『辰王』であるはずなのは
馬韓を辰韓の末裔の新羅が領有したのを正当化したとしか思えない改ざんである。

158 :出土地不明:2006/03/31(金) 16:47:30 ID:biw+CApX
まだある。

新羅最後の王が降伏し国が滅んだのは、王建という人物によるが
この人物の国は、もとは新羅王族の弓裔という人の領地の豪族で
弓裔を下克上して国を乗っ取った所から始まる。

弓裔は『泰村王』で漢山州の領主であったので
新羅の本家王族から、分国する際に国名を『泰封国』と名付けた。
この『泰封国』から『摩震国』の王建が下克上で国獲りするのだが
『後高句麗国(泰封国)』とか『高麗国(摩震国)』は
後世の捏造や造語だとしか思えない。しかも
渤海人が大量に新羅の国へ南下して民族大移動して移動定住しているのを
日本の歴史書には書かかせないし、知らせないようにしているのである。

もし『三国史記』や『高麗史』の名称が正しいなら
新羅の王族が『金』一族なのに
王族の弓裔だけ『弓』一族と別の家名なのだろうか。

これは歴史伝承が混乱しているからであり
事実『三国遺事』という『正伝から外れた伝承集』がある事からも
コジツケが感じられる。


159 :出土地不明:2006/03/31(金) 17:08:15 ID:biw+CApX
>>145

弁辰12国・辰韓12国・馬韓50余国の国名が書いてある。

>>146
百済の言われが書いてある。

扶余の尉仇台が「百の家族を伴って済海(海を渡る)し」帯方郡 の地に国を建てた。
それが「百済(伯済)」の語源となった。 ※「百家済海」
後漢遼東太守帯方郡設置の公孫度 (?〜205)が娘を仇台に嫁がせ東夷の強国となった
晋時(280年−316年)高句麗が遼東を占領し百済もまた遼西・晋平の二郡を治めたという。
百済も馬韓を平定していない。
晋より以後、馬韓の地を併合し国を立てた。(346年)
百済王族は扶余姓を名乗り、後に中国・・・

>>147

後漢東夷に、韓3種あり:馬韓、辰韓、弁辰。
晉書四夷傳に、韓3種あり:馬韓、辰韓、弁韓。
倭人は 帶方の東南の大海中、山がち島の國、地に山林多く、良畑なし、海物を食す。

160 :出土地不明:2006/03/31(金) 17:23:33 ID:4D6xFmtP
>>148
『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 幽州屬
玄菟郡、武帝元封四年開。幽州に属す。この郡は3県ある。
  高句驪県・上殷台県・西蓋馬県。
樂浪郡、武帝元封三年開。幽州に属す。この郡は25県ある。
  朝鮮県・nan[言○]邯県・[シ貝]水県・含資県・黏[虫單]県・
  遂成県,増地県,帶方県,駟望県,海冥県・
  列口県,長岑県,屯有県,昭明県,鏤方県,
  提奚県,渾彌県,呑列県・分黎山県・東[目施]県・
  不而県・蠶台県・華麗県,邪頭昧県,前莫県,夫租県。

>>149
晋書 巻十四 志第四 地理上 平州
平州。禹貢の時は冀州,周の時は幽州,漢の時は右北平郡。9種類の東夷が従った。
昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪の5郡國が平州。26ヶ県。
昌黎郡。2県:昌黎県・賓徒県
遼東國。8県:襄平県・[シ文]県・居就県・樂就県・安市県・西安平県・新昌県・力城県
樂浪郡。6県:朝鮮県・屯有県・渾彌県・遂城県・鏤方県・駟望県
玄菟郡。3県:高句麗県・望平県・高顯県
帶方郡。7県:帶方県・列口県・南新県・長岑県・提奚県・含資県・海冥県

161 :出土地不明:2006/03/31(金) 17:29:17 ID:4D6xFmtP
>>150
通典の新羅國
魏の時 新盧國といった。辰韓の始めは6国、分かれて12国で、その一つが新羅。
初 新盧、
宋の時 新羅、あるいは斯羅。
漢の時 樂浪郡の地で東浜に大海を望む。
魏の将軍で毋丘儉が討ったとき王が元百濟人で海より逃げた国が新羅で新羅王になる。
北朝の前秦の符堅時 王の名は樓寒で朝貢し「海東の古い国かと聞けば」
「革命し、王の国名も替えたが、同じ国だといった」
梁の武帝の普通二年に王の姓は慕で名を秦といい百濟に従って献じてきた。
俗に城を「健牟羅」といい、その邑は「喙評」という。ほか「邑勒」とも。
中國のいう郡縣の呼称だとも。國は6ヶ「喙評(郡)」、52ヶ「邑勒(県)」
隋の文帝の時 王の姓を金で名を眞平といった。
樂浪郡公新羅王という。加羅任那諸國を滅ぼす【三韓の地】。


>>151
漢書地理志 燕地
樂浪の海中に倭人あり。100あまりの國。
帶方の東南の萬里にあり。
魏略には倭は帶方の東南の大海中にあり。
【】内は、後世の人物(如淳、臣[王贊]、顔師古)による注。
顔師古(唐初期、581〜645)の注は、如淳の注にある“委”という字について、
『倭の音はワでありイではない』という意味の事が書かれているらしい。
また、ここには、魏略逸文が見える。漢書地理志の記事はこれで全文。


162 :出土地不明:2006/03/31(金) 17:31:46 ID:4D6xFmtP
>>152
宋書夷蠻
世祖の大明六年に「倭王の興よ、安東將軍、倭國王の称号を与える」と。
    倭王の興が死に、弟の武が王に立った。
使いに「都督と、倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の七國諸軍事で
    安東大將軍と、倭國王」を授け持たせた。
順帝の昇明二年に、倭の武王から上表があり
「・・・東征した毛人の国が55、
    西に服する衆と夷が66国、
    渡りし海の北に95國は私の領土・・・」
使いに持たせたのは「都督と、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六國諸軍事で
    安東大將軍と、倭王」の称号。


163 :出土地不明:2006/03/31(金) 18:23:05 ID:6pdW8wg8
>>153->>162
◆◆ 和漢共栄時代から三民戦争時代へ。カラ半島の古代史 ◆◆

3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、漢人が支配する楽浪郡を
攻撃して滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、そして、旧帯方郡の
東部地方に住んでいたが、356年に倭人国家=志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人(穢人。朝鮮民族の先祖)
が、カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。
そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力とワイ人勢力の関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、
百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本侵略を繰り返した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開して
いた地域だったのである。


164 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:31:13 ID:3mWRvCgl
白村江は「はくすきのえ」ともよむ。

645年(大化元)成立した大化の改新政府は
高句麗と・百済と連合し、唐軍を迎撃しようとしたが、
唐は高句麗の強い抵抗に手をやき、
660年に背後の百済に侵入。王都の扶余を急襲して
義慈王と太子をとらえ、百済を滅ぼした。
百済では鬼室福信・黒歯常之・僧道チンら遺臣たちの反唐運動が盛んになり、
長年にわたって百済と軍事同盟をむすんでいた日本もこれを応援した。

日本は人質として日本にいた百済王子の豊璋を百済に帰国させ
661年(斉明7)には斉明天皇・中大兄皇子(天智天皇)らが
百済復興軍の指揮をとるため九州にむかった。
しかし斉明天皇の病気のため日本軍はうごけず、また
豊璋は福信を殺すなど内紛をおこし、防御に適した州柔城を放棄するなど、
状況の見極めに甘さがあった。その間に東南から新羅軍にせめられ、あわてて
もどった州柔城も孤立した。

斉明天皇の死後を代行した中大兄皇子は
663年(天智2)3月、2万7000の水軍を
前・中・後の3軍に編成して新羅軍を南側からつかせ
8月、豊璋と合流するために白村江をさかのぼるため河口にむかった。そこには
劉仁軌・蘇定方が率いる唐の水軍170艘が新羅の要請で待機していた。
日本軍は3軍構成で大船団をくんで突入したが、400艘以上焼失して唐軍にやぶれた。
百済軍は文武王の率いる新羅軍に打ち破られ、ここに百済・日本連合軍は敗北した。
豊璋は高句麗にのがれて百済は完全に滅び た。


165 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:33:04 ID:3mWRvCgl
白村江 劉仁軌 蘇定方 唐 新羅

白村江の戦いの翌年、
664年(天智三年)二月。唐の高宗の命により、
新羅文武王と百済の扶余隆は、熊津(ゆうしん)において
白馬を伴って会盟を行ない、両国の平和を誓った。
劉仁願が、これに立ち会った。この時の劉の肩書きは、熊津都督であった。
百済は滅亡したが、唐はかつての百済王族である彼を起用し、
百済旧領の支配の安定化を図ったわけである。
これにより、唐は、高句麗に対しての攻撃を集中する事が出来るようになった。

665年10月。
高句麗で泉蓋蘇文(せんがいそぶん)が死去した。
蓋蘇文に集中していた絶大な権力の継承をめぐり、
その息子達、男生と男建・男産らが争い始めた。
その隙につけ入って唐・新羅両軍が侵攻を開始した。

668年9月。
遂に高句麗が滅んだのは、白村江の戦いから5年後のことであった。


166 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:35:20 ID:3mWRvCgl
701年(長安元年) 十月、日本国、使を通わし
 其の大臣、人を貢し、万物を貢す。(『冊府元亀』外臣部、朝貢三)
702年(長安2年) 冬十月、日本国、使を遣わして
 万物を貢す。(『旧唐書』本紀巻六、則天武后)
703年(長安3年) 其の大臣朝臣真人、来りて万物を貢す。
「朝臣真人」は、猶(なお)中国の戸部尚書のごとし。冠は進徳冠。
其の頂、花を為し、分れて四散す。身は紫鞄を服し、帛を以て腰帯と為す。
真人、好んで経史を読み、属文を解す。容止温雅。則天(則天武后)
之を麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本国に還らしむ。(『旧唐書』日本伝)

中国史書では701年以降、「倭国」ではなく「日本国」が正式の国名として
使用されるようになる。この長安元年は、則天武后の年号である。また
これと時を同じくして日本国の天皇も年号を持つようになる。ヤマト王朝の
最初の年号は文武天皇の大宝(大宝元年=701年)である。

また、日本国の公式史書は文武天皇の項から「続日本紀」に
引き継がれる。そして上記703年の記事のような中国への使節の記録は
中国側と日本側の記録(続日本紀)とがピッタリ一致し始める。
「世にも不思議な物語」(白村江の敗戦直後のヤマト王権の
はしゃぎぶり)を解明した文の最後で古田さんは次のように述べている。

中国側(唐朝)の対倭国 外交記事は
貞観22年(648)で終り、そのあと「白江の戦」の記事につづいている。これに対し
代って「日本国」との友好的な国交記事が長安3年(703)からはじまっている。
 つまり、中国側(唐朝)の目から見て、明らかに相手国は交替した。
白江の戦の「主敵」ともいうべき「倭国」は七世紀未、崩壊した。そして
「倭国の別種」と記されている「日本国」、すなわち近畿
天皇家によって吸収されてしまった というのである。


167 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:36:49 ID:3mWRvCgl
前漢−武帝−天子−劉一族
 (淮=ワイ=[シ歳]=いにしえの辰人の邑(古辰国)・
  貊=バク=今は亡き本当に野蛮な朝鮮異民族の邑(故真蕃朝鮮故国)を滅ぼし
  玄菟郡高句驪県・楽浪郡朝鮮県・楽浪郡帯方県・楽浪郡楽都県などの郡県設置)
西晋−楽浪郡太守−劉茂
 (三国志−魏書−鮮卑烏桓東夷伝−韓条
  楽浪郡遂城県〜楽浪郡海冥県[続漢書(後漢書)]・帯方郡新南県[晋書]
  楽浪郡屯有県の崎離営を攻めた、韓王(加羅王)を僭称する
  韓侯の臣智[辰国(臣国=辰韓)荷知(日=智という韓国王)]を滅ぼす)
六朝−南朝−宋国−劉裕が太祖の国
 (楽浪郡亡命漢人−王仁?の上奏文により
  倭の武王[継体天皇?応神天皇?]を倭国の王に冊封し
  都督・六国諸軍事−安東将軍(海北95国[任那]将軍)に除目)
李唐−楽浪郡遠征−劉将軍(新羅討伐遠征し、新羅城を包囲中に背後の旧百済に倭軍上陸)
 (遠征軍主力は高句麗を滅ぼす。分遣隊の蘇将軍は百済を滅ぼす。)
  劉: 大きい鎌(鎌田)
  鎌: 小さい鎌
藤原鎌足(楽浪郡フジ県−鉄原→藤原・鎌より大きい劉の足下に→鎌足
  白村江で降伏し赦され帰国)
中大兄皇子(那下の大江、楽浪郡楽都県=弁楽奴国(弁辰地域の倭人[辰]が
  混在しない弁人だけ国)=那国=羅州
  羅州の下向(那下)=下羅(くだラ[久多良])=百済・百済の大江=白村江)
下羅=くだラ・あるしラ・洛[楽]で都(奴[那・な・羅(羅州:ナじゅ)]=弁人)
  みまな[任那]おこし[上]タリあがた[多利県] 起きる=あがる[上がる]
  みまな[任那]あるし[下]タリあがた[多利県] 外へ或る=さがる[下がる]
白村江(錦江・帯水[アリ水・漢江])の
  熊津(くまなり・駒也?=公州=大田[てジョン])が百済の都邑(とユウ:奴熊)


168 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:37:28 ID:3mWRvCgl
淮=ワイ=[シ歳](古辰国)・
狛=バク=貊(故真蕃朝鮮故国)・玄菟郡高句驪県・楽浪郡朝鮮県・
楽浪郡帯方県・楽浪郡楽都県・楽浪郡遂城県・楽浪郡海冥県[続漢書(後漢書)列伝 国郡]・
帯方郡新南県[晋書(西晋 地理 平州)]
楽浪郡太守−劉茂[三国志−魏書−鮮卑烏桓東夷伝−韓条]
楽浪郡屯有県の崎離営を攻めた韓の臣智を滅ぼす
上奏文により倭国の武を倭王に冊封し都督・六国諸軍事−安東将軍に除目[宋書(六朝の宋国)]
唐の楽浪郡遠征[とある歴史書]
劉: 大きい鎌[辞典]
鎌: 小さい鎌[辞典]
藤原鎌足(白村江で降伏)[とある歴史書]
中大兄皇子(那下の大江、楽浪郡楽都県=弁楽奴国(羅州:ナじゅ)=奴国=なこく=那国
なか=那下=那国の下=下の羅=くだラ=久多良=百済・百済の大江=白村江[はくすきのえ])
下羅=くだラ・洛は楽で、都は奴=な=那=羅で、弁人の事[魏書・後漢書ほか]
楽浪郡の楽は洛の音、浪は狼の音[続漢書(後漢書)列伝 国郡]
ミマナおこしタリあがた[任那上多利県]ミマナあるしタリあがた[任那下多利県][ある歴史書]
白村江(錦江・帯水・アリ水・漢江)[ある歴史書]
熊津(くまなり・熊=狛=駒の国にある、川の港町[津])=公州=大田(てジョン)[ある歴史書]


169 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:38:08 ID:3mWRvCgl
漢書以前:[シ歳]族([シ歳]侯不而・馬韓月支国の辰王が弁辰を治める・秦之空地)
____:貊族(扶余・僭称の韓王淮[準]は朝鮮侯・桓逃亡地)
前漢武帝:漢時樂浪郡之地(楽浪郡不而県[南漢山?]・楽浪郡屯有県[慶州?]など)
三国志魏:魏時新盧國(辰韓斯盧國・秦韓斯盧國)
前秦符堅:秦時に王の樓寒(盧韓)が[シ歳]王不而を改易した旨を伝え朝貢して来た
六朝宋国:宋時曰新羅(加羅任那にある新羅城)
梁武帝_:梁時の普通二年に王姓慕名秦で城曰「健牟羅」(慕韓・秦韓・ちんむら城[新羅城])
隋文帝_:隋時に王姓金名眞平(金真平[ちんチンぴん]と言う名の王・金城[ちん城・健牟羅城])
____:朝貢の際に「樂浪郡公、新羅王」と名乗る「加羅任那諸國」を滅ぼし領土世襲

玄菟郡、武帝元封四年開。高句驪、莽曰下句驪。屬幽州。【應劭曰:「故眞番、朝鮮胡國。」】
戸四萬五千六、口二十二萬一千八百四十五。
縣三:高句驪。遼山、遼水所出、西南至遼隊入大遼水。又有南蘇水。
       西北經塞外。【應劭曰:「故句驪胡。」】
       遼山、遼水出。【山海經曰:「遼水出白平東。」
       郭璞曰:「出塞外衛白平山。遼山、小遼水所出。」】

樂浪郡、武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州。【應劭曰:「故朝鮮國也。」師古曰:「樂音洛。浪音狼。」】
戸六萬二千八百一十二、口四十萬六千七百四十八。有雲seu[扁章旁右郊]。
縣二十五:朝鮮【應劭曰:「武王封箕子於朝鮮。」】【周封箕子地。】

建安中、公孫康(幽州刺史[州知事]や遼東郡太守[郡長]ほどの地方有力者・前漢〜三国志〜西晋)
 帯方郡太守・派遣将軍: 公孫模・張敞等

景初中、明帝(後漢[AD57-75]〜西晋王朝?の皇帝) 海を越え二郡(帯方郡・楽浪郡)を定む
 楽浪郡太守: 鮮于嗣
 帯方郡太守: 劉斤(斤は[日斤]の一字)

 部従事: 呉林 楽浪郡は韓族の邑(韓国)を統治するが、特に辰韓八国を楽浪郡の直轄とした。
 帯方郡崎離營: 吏訳転じ異同あり 臣智激し韓忿り この帯方郡の軍営を韓族が攻撃

 楽浪郡太守: 劉茂 兵を興し韓を撃ち 遂に韓を滅ぼす(古代韓王は討たれ、古代韓国は滅んだ)
 帯方郡太守: 弓遵 韓を征伐中に戦死

李唐(遣唐使): 蘇将軍・劉将軍(高句麗[滅亡]・百済[滅亡]・新羅[討伐失敗・倭が白村江の戦])
                    北朝鮮: 釜山橋頭[南侵失敗・アメリカ軍の仁川上陸]
アーコ(アーく)阿哥: おにーさん
アーメイ(アーまい)阿毎(阿妹): おねーさん?(あま・天・尼・海人・天皇・倭王・日帝)


170 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:45:16 ID:3mWRvCgl
鴨緑江→バイ水([シ貝]水)?・馬紫水(バシ水)○
大同江→列水?・バイ水([シ貝]水)?
??→列水?・悪滅山脈のムン山([シ文]山)から流れる長口鎮の手前に河口の川
漢江→帯水?・アリ水(阿利水)○
錦江→白村江○・帯水?

『狼』林山脈(平壌/楽浪郡)
弁『楽』奴国(羅州/帯方郡)
 ↓
『楽浪』郡・楽都県(羅州)が郡庁舎(洛都)。

北朝鮮(狼林/朝鮮県・沙里院〜平壌[王倹城])
韓国(楽奴国/楽都県・大田[熊津・公州]〜全州[降る羅・百済]〜羅州[楽都]〜光州[己文])
 ↓
『楽鮮郡』楽浪郡公−新羅王と王様の金真平が唐国に名乗った。
金は『女真族』(女直族・『満州族』)
真は『真蕃』朝鮮胡国で『渤海族』(高句麗)
平は『平州』で熱河〜遼東『奚族』(玄宗皇帝に楊貴妃の時の節度使−安禄山)
 万里の長城手前の「北京周辺(燕地)」の節度使(安禄山[奚族慶州人])は、
 突厥族(蒙古族)や契丹族(遼国)に対応。

女真は、燕人衛満で胡族の朝鮮(故真蕃朝鮮胡国)
朝鮮は、箕子朝鮮(朝鮮国)で中国人の朝鮮と、中国以外の外国に騙しで説明。
朝鮮は、蒙古(元王朝)や契丹(カラキタイ・西遼)と戦った
タタールのクビキにかかってない と威張った。


171 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:47:36 ID:3mWRvCgl
突厥−−−−−−−鉄嶺−−−−−扶余族−女真族(渤海郡−マッカツ黒水部[黒龍江・松花江])
安禄山慶州−契丹−遼河−高句麗(高麗)−渤海族(マッカツ)
熱河___渤海湾_遼東_平壌(狼林)−−山(東丹国)
北京___黄海_____泰封国−−−−−山(東真国)
斉−山東_高麗海____摩震国(高麗藩・楽奴)−太白山(女真族の刀伊が船で日本侵略)
_____________斉国(斉藩・三別抄)−新羅(辰国)→ ×コレア(高麗)海○チン(辰)海
大明海(東シナ海)

蒙古が平壌以北を占領支配、東側(日本海側)を東女真の東真国と称した。
泰封国: ケソン周辺(新羅国−漢山州−泰村)
摩震国: ソウル〜鉄原〜忠州〜秋風岑・竹岑・鳥岑(漢江の流域・帯方郡)
斉国: 江華島〜公州(忠清道の大田)〜羅州(楽浪郡楽都県・弁人の楽奴国)
元寇の船の発信地の木浦(モッポ)−順天(李朝の先祖)−巨斉島(晋州の鄭氏が流刑者の見張り)
高麗時代に新羅国新羅城(慶州)の地域(東海岸)の支配を聞かない。

斉国は江華島のチェ氏(催氏)やイム氏(林氏)
多島海の南海岸はイ氏(李氏)
巨済島からプサンの湾岸が晋州のチョン氏(鄭氏→全州[チョンじゅ]は
                 晋州の官奴の支配、鄭氏の官吏の奴婢が支配)

安禄山の慶州 契丹族(遼国)が占領 後高句麗(泰封国)の弓裔(泰村王)が
新羅から独立 高麗(摩震国)の王建が高麗王国建国
江華島(かんファど)〜珍島(ちんド)まで、三別抄が蒙古と戦う(斉国)
木浦(モッポ)で元寇の船を造船−−−
−−−−−−−−−李氏朝鮮の先祖(李舜臣も朝鮮出兵軍と戦って、この周辺の人)
−−−−−−−−−−−−高麗王を流刑の巨済島[こジェど]を見張る晋州の鄭氏

つまり。高麗は済州島を支配していない。高麗王を僻地に監禁だが、
洛東江の東側は女真族の領土だったので、流刑に出来なかったのではないか?
女真族の刀伊の日本侵攻(刀伊の入寇)が説明できない。
高麗は東海岸を知らないし、支配していない。日本海は、高麗海と呼べない。
マテオリッチの地図の太平洋である「小東洋」を「オリエンタル海」って
したんだろうね。日本列島を考慮してないじゃん。


172 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:49:58 ID:3mWRvCgl
________箕子朝鮮で中国で殷のチュウ王を叱る偉い人が先祖(四書五経 殷から周へ)
__________朝鮮侯衛満で燕人が女真だし満州だし野蛮(地理 燕地−韓条)
高句麗____故真蕃朝鮮胡国_扶余・・・・・玄菟郡高句麗県(丸都城)
_↓_________↓___↓
高麗_辰韓斯盧国___↓___馬韓伯済国・・楽浪郡朝鮮県(平壌城)・馬韓古蒲国(光州)
_↓__↓______↓___↓
_↓_馬韓月支国辰王−韓王準_↓・・・・・・楽浪郡楽都県(弁−楽奴国)
_↓__↓______↓___任那(伽耶)・弁楽奴国(羅州)・・・・任那巨文県(光州)
_↓_加羅国−韓−辰_↓___↓
_↓__↓______↓___↓
_↓_新羅城は新羅王_↓___百済国・・・(下の羅州・くだる羅・久多良・くだら)
_↓_________↓___↓
高麗藩_金国女真___↓___扶余(吉林平原の原住民[平野の女真])
_↓_________↓___↓
高麗国________↓___↓
高麗王を李成桂は名乗る李氏朝鮮国
_↓_____________↓_騎馬民族は扶余で百済で朝鮮で馬韓で満州領有は正しい
_______________大韓帝国
(扶余は満州で中国で日本で、この全部の上に立つ熊だ。熊は檀君で地球市民的に言って一番偉大)


173 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:51:28 ID:3mWRvCgl
ヤクート・アイヌ・カムチャッカ・イヌイット
ギリヤーク・満州(女真[女直])・渤海(高句麗[高麗])・扶余・貊(ばく[弁辰]・錦江[白村江])
ウイグル(東トルキスタン)・カザフ(西トルキスタン)・契丹(遼東・西遼[カラきたい])
アルタイ・トルコ(突厥)・トルクメン・
ブリヤート・モンゴル・鮮卑(北魏)・烏桓(魏の曹操の胡族騎兵)・奚(唐の節度使の安禄山)
ネパール(グルカ)・チベット・雲南(南詔・大理)・タイ(華僑)・カレン・ビルマ(華僑)
安南・黎(海南)・苗(広西)・蕃(台湾)・越(福建)・淮(淮河)・倭人・琉球
呉(揚子江)・辰韓(新羅・洛東江)・[シ歳](わい[太白山脈・漢江(帯水・帯方)])
カンボジア(クメール)・南ベトナム(占城)・ルソン(呂宋)・スマトラ・ジャワ・バリ
マリアナ・パラウ・トラック・マーシャル・フィージー・タヒチ・ビスマルク・マオリ
ニューギニア・アボリジナル

蒙古・満州平原・沿海州(突厥・鮮卑・契丹・女真[じゅるちん]族)
遼東鉄嶺・平安道(渤海人・高麗人・高句麗人・京畿−忠清−全羅道人・大柄の在日朝鮮人)
新羅(呉・辰・[シ歳]ワイ・慶尚道人・小柄の在日朝鮮人)
日本列島・沖縄・台湾・福建(越・淮・倭・琉球)

蒙古は、大柄・虫の音を声や音楽に聞こえない。小便飲まない。ウンコ食べない。
女真は、大柄・虫の音を声や音楽に聞こえない。小便飲む。ウンコ食べない。高粱。
朝鮮は、大柄・虫の音を声や音楽に聞こえない。小便飲む。ウンコ食べる。稗・粟・鳩麦。
日本は、小柄・虫の音を声や音楽に聞こえる。小便飲まない。ウンコ食べない。米・うどん麦・蕎麦・大豆。
琉球は、小柄・虫の音を声や音楽に聞こえる。小便飲まない。ウンコ食べない。米。
マリアナ、大柄・虫の音を声や音楽に聞こえる。小便飲まない。ウンコ食べない。

174 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:52:15 ID:3mWRvCgl
靺鞨ってのは、
もともと邑婁っていうツングース系狩猟民で、高句麗よりずっと北の方にいた。
それが次第に南下して、大小いくつもの部族にわかれて、
高句麗の北に隣接する部族もあり、高句麗国内に住む部族もあり。

その中で、強大なものが早くに「勿吉」と名乗り、
唐に使者を出して、南北から高句麗をはさみうちしようと持ちかけていた。
この「勿吉」が訛って「靺鞨」となったもの。

高句麗末期には、高句麗の中心が本来の満州山岳地帯から
はるか南の平野部の平壌に移ってから久しく、
すっかり農耕民になってしまっており、北方の統治は緩み
靺鞨の諸部族は半独立状態にあったらしい。
高句麗の末期、高句麗の北側には、主な強大な靺鞨は七部族あった。
その中の遠方の三部族は、邑婁そのままのツングース狩猟民であった。
あとの四部族は、文化的にちがいがあったようなので、
高句麗の文化的影響のもと開化したのだろうが、
もしや、昔の夫余の遺民による部族や、あるいは
初期の生活様式のまま取り残された古いタイプの高句麗人の部族なども
あったやも知れぬ。ことに、その四部族の中の白山部は「いにしえの沃沮」
だという。沃沮はツングースでなく夫余系種族であるから
靺鞨はツングースのみならず夫余系種族もいたことがわかる。
もっともこの部分は「いにしえの沃沮の子孫」ではなく
「いにしえの沃沮の地」に住んでいるというだけのことかも知れぬが。


175 :出土地不明:2006/03/32(土) 03:53:01 ID:3mWRvCgl
ともあれ靺鞨は、ツングース族もあれば、夫余系の遺民(高句麗系?)らしきものもあり、
またこの七部族だけでなく高句麗の国内外に、大小さまざま存在したから、
文化的には混成種族であって、全盛期の高句麗の下に支配されていた各種の民族の
総称ぐらいに思ってよいのかも知れない。
この七部族のうちもっとも西南にあった粟末部(粟末靺鞨)から
乞乞仲象というリーダーがでた。
仲象というのは、この2文字で何か固有土着語の音写なのか、
「次男坊で名前が象」という漢人風の字(あざな)なのか、よくわからないが
乞乞という姓は漢民族ではないだろう。
高句麗滅亡後、乞乞仲象は唐の命令により粟末部(粟末靺鞨)を率いて
南満州に移住したが、後に反乱を起こして故郷に帰ろうとした。
この乞乞仲象の二代目が大祚栄(ダイ・ソエイ)で、
靺鞨の大小さまざまな諸部族をとりまとめて大勢力となった。
大祚栄が渤海郡王に叙されていたことから、粟末靺鞨の別名を渤海靺鞨といったが、
他の部族も大きなところは初期は半独立をたもっていた。(幕府と大名みたいなもの)
この渤海郡王、渤海靺鞨からとって「渤海国」という。

しかしもっとも遠方の「黒水部(黒水靺鞨)」だけは渤海国に最後まで抵抗し
のちの女真族となった。


176 :出土地不明:2006/03/32(土) 04:07:26 ID:3mWRvCgl
>>161

前漢____: 樂浪郡の東浜で大海を望む
後漢明帝__: 楽浪郡太守劉茂が韓族と韓の臣智を滅ぼす。
魏将毋丘儉_: ワイ侯フジ(不而)を討ち従わせる。高句麗の百済王が新羅に逃げ韓王準に。
魏〜南朝宋_: