扶余族
- 1 :出土地不明:2007/08/10(金) 13:46:05 ID:i6vCA21s
- 扶余族について知りたい。どこから来たのか。どこに行ったのか。どんな言葉を喋ったのか。
我々の本当のルーツが知りたい。
- 2 :出土地不明:2007/08/10(金) 13:49:09 ID:i6vCA21s
- 扶余(ふよ、プヨ、〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fu'yu'〕)は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、
万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は?婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)接する、
方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に住んでいた。
夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。
穀物は余り良く育たない土地に定住したが、好戦的であり、歌舞飲酒を好み、風俗は淫乱であったと記録される。
元々前漢の玄菟郡に属し、その後、三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の配下に入った。
しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。
この扶余族には、沃沮(よくそ)・?(わい)・高句麗なども含まれ、朝鮮半島北部を中心に広く分布していた。
他に百済王家も扶余系とみられ、南扶余と国号を自称していた時代がある。
また、百済王の姓も扶余または余と名乗っている。
- 3 :出土地不明:2007/08/10(金) 13:58:39 ID:i6vCA21s
- 大韓民国忠清南道の郡、扶余郡(プヨぐん、ふよぐん)は、百済最後の都があった。
面積634.9平方キロ、総人口82,546人(2005年4月現在)。過疎化で若干減少気味となっている。
1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶余邑。(Wikipedia)
百済の始祖温祚王というのは、まだ原始部族国家のひとだが、韓民族ではなく、朝鮮の歴代の王朝の始祖が
つねにそうであるように北方の満州あたりから南下してきた扶余族の出身であった。
扶余族というのは南満州や鴨緑江の山谷を駆けまわって狩猟していた連中であり、
やがては北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、南朝鮮諸国を圧迫した。
その一派が南朝鮮の韓民族地帯に入って征服王となり百済国をつくったのであろう。
従って、百済の始祖温祚王というのは、背が高く、目に蒙古襞をもち、
ほお骨の秀でた北朝鮮型の容姿をもっていたであろう。頭はまわりを剃って髪の一部をながくのばし、
それを編んでいわゆる辮髪であったにちがいなく、
その服装は北方騎馬民族の特徴であるズボンをはいていたに相違ない。(司馬遼太郎)
実在する最古の天皇14代応神の墓、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した国宝の「金銅製透彫鞍金具」は
中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一。
- 4 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:02:13 ID:i6vCA21s
- 参考URL
倭人の形成(九州大学)
ttp://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/wajin.html
国宝「金銅製透彫鞍金具」の比較図
ttp://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/12.28kawati3.htm
- 5 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:08:58 ID:W/bg5Kkm
- 扶余族は解体後女真や日本に吸収されたのですか?
そして、朝鮮半島は完全に韓化したと。
- 6 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:17:59 ID:i6vCA21s
- ちなみに奈良県明日香村は扶余郡と姉妹都市。
- 7 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:29:59 ID:i6vCA21s
- >>5 詳しくないですが、
百済王が扶余または余と名乗っており昭和期まで自分の事を「余は〜」という言い回しが残っていた事。
江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
等からも、私たち日本人が扶余族の末裔である事を実感するのですが。
- 8 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:31:49 ID:W/bg5Kkm
- >>7
扶余系日本人はごく一部じゃないのですか?
ただ、百済からの避難民が優遇され上流階級だったから文化がたくさん取り入れられただけで。
- 9 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:38:12 ID:i6vCA21s
- 今、URLが手元に無いですけど、
九州の吉野ヶ里遺跡から出土したものと、韓国の扶余博物館の展示物がほとんど同一である事などから、
百済建国や、大和朝廷(ヤマト王権)樹立前から、扶余族は日本に進出していたのではないでしょうか?
- 10 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:46:00 ID:W/bg5Kkm
- 扶余博物館の展示物のルーツが扶余(北満州)から伝わったものではない可能性もありますよ。
たとえば、原朝鮮人やワイ族の文化を扶余国家に広まっていても不思議ではないはずでは
- 11 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:47:39 ID:W/bg5Kkm
- ワイ族の文化を→ワイ族の文化が
- 12 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:59:52 ID:i6vCA21s
- 「原朝鮮人やワイ族の文化を扶余国家に広まっていても不思議ではないはず」
そう思います。進出に従って行く先々の影響を受ける事はあると思います。
ただ、古代中国人の言う「倭人」が古代日本人のみならず朝鮮半島人も指し示していたようですし、
朝鮮半島南部と九州北部の文化がほぼ同じだという事は「倭人」≒「扶余族」だったのでは無いでしょうか。
ちなみに実在最古の天皇といわれる14代応神は、現在の福岡県東区香椎に住し奈良県へ移動したようです。
朝鮮半島>対馬>壱岐>福岡沿岸(香椎)と進出していった可能性は否定出来ないと思います。
ワイ族、原朝鮮人については知識不足です。
- 13 :出土地不明:2007/08/11(土) 14:16:45 ID:mizdRcqR
- 扶余族とワイ族の違いは?
- 14 :出土地不明:2007/08/11(土) 14:33:30 ID:leAGu+9Q
- ☆プヨhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99ペクチェhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
- 15 :出土地不明:2007/08/12(日) 21:05:03 ID:PD/bnyrh
- >>7
つまり、17世紀以後に日本に扶余族が大量にやってきたと言うことですね(笑笑笑)
- 16 :出土地不明:2007/08/12(日) 23:26:08 ID:55z1ybgh
- >>7
>江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
>江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
>江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
>江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
- 17 :出土地不明:2007/08/13(月) 00:01:11 ID:uX4CC3XS
- >>7-9
広開土王碑などにより彼等の入植は4世紀〜7世紀だと思う。余は〜と使い始めたのはいつ頃から?彼等が入って来た事で何が変わったのか。私は何も変わらなかったと思うし、天皇は朕、又は吾と言っていたのではないかと思ってる
- 18 :出土地不明:2007/08/13(月) 00:04:26 ID:iilVspmm
- >>17
百済解体時に入植したのか
- 19 :出土地不明:2007/08/13(月) 00:54:16 ID:uX4CC3XS
- >>18
大幅はね。でも4世紀からは本格的に移住し始めてたんじゃ?で、なんで、さげなの?
- 20 :出土地不明:2007/08/13(月) 01:46:23 ID:iilVspmm
- >>19
専ブラだから。
で、4世紀から「本格的に」移住し始めてたというソースは?
- 21 :出土地不明:2007/08/13(月) 03:49:00 ID:uX4CC3XS
- ≫20
ソースらしいものはない。広開土王碑やら紀やらを読んでの判断。
高句麗は扶余の一族だと思う。だけど同胞の百済を倭の侵攻の時に取られてしまった。
倭が連れ帰っていてもおかしくはないし、自主的に渡ってくる可能性も。
また4世紀には阿智岐、王仁等漢人も移住してきている。この時期任那の事もあるので「本格的」な入植があっても不思議じゃない。
(戦後の国内における半島の人みたいなもん)
- 22 :出土地不明:2007/08/13(月) 05:37:59 ID:6hVmxS89
- 大秘史☆日本府http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%9C伽耶"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6任那http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3
- 23 :出土地不明:2007/08/13(月) 10:15:31 ID:yHl2qrQh
- 九州北部の吉野ヶ里遺跡、山口県日本海沿岸の土居が浜遺跡なんかは明らかに朝鮮半島渡来人(必ずしも朝鮮人とは
限らず、中国人なんかも居たと思う)の特徴があるみたい。土井が浜遺跡の埋葬された人は故郷?の方を向いているとか。
また縄文人の文化風習とは明らかに異なる特徴があると。
遺伝子的にも、縄文人はYAP-、弥生人はYAP+が多い事が明らかになって渡来人である事を裏付けていると思います。
そのYAP+はモンゴル、満州あたりに起源を持つようです。それは日本語のルーツとも重なります。
扶余族はその頃、となりに住む中国西部の鮮卑族等の攻撃で、かの地から南下し始めます。これが中国三国時代(3世紀)
ですから、4世紀頃、本格的に日本に渡ってきたのではないでしょうか?ちなみに鮮卑族の遺跡から2003年(?)発掘された
鞍が、実在が確認される最古の天皇、14代応神の墳墓の国宝と細部まで全く同じである事もこれらを裏付けていると思います。
扶余族には、沃沮(よくそ)・ワイ族・高句麗なども含まれる様です。扶余族は東扶余という国を高句麗以前に建国して
いたと言われ「天の神の子孫が国を創る」という日本神話と全く同一の神話があります。実在の東扶余は吉林省だそうですが。
百済建国は4世紀、日本の応神天皇在位も4世紀、大化の改新は7世紀。南扶余建国は6世紀。百済滅亡は7世紀。
遺伝子、言語、文化、遺物、まさに、我々現代日本人のルーツは扶余族だと思う根拠です。
- 24 :出土地不明:2007/08/13(月) 10:55:48 ID:yHl2qrQh
- 余談ですが、それらを踏まえ、日本国の創生期を推論してみました。
実在が確認される最古の天皇、14代応神は、扶余王族子孫で、朝鮮半島から4世紀に現在の福岡県東区香椎に移住した。
(牧畜騎馬民族である)扶余王族の証として現在国宝に指定されている「金銅製透彫鞍金具」を所持していた。
以後、九州制圧、熊襲と呼ばれた日本原住民を制圧、支配下に置いた。さらに大分県にあった邪馬台国を滅亡させた。
(後、鎮魂の為に宇佐神宮を建立。)更に、北上して奈良に落ち着き、大和朝廷を成立。
大化の改新後、大和朝廷の権威の象徴として、東扶余建国神話同様の、天照の大身神から始まる神話を創作した。
(古事記日本書紀)
東北から北は、坂ノ上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷と呼ばれた東北日本原住民を制圧、支配下に置いた。
後、歴代将軍(征夷大将軍)が実質政権掌握、徳川将軍の大政奉還まで続き明治時代へ。
こんな感じではないでしょうか?
- 25 :出土地不明:2007/08/13(月) 16:28:12 ID:uX4CC3XS
- >>23
遺伝子の件ですが、大和があった近畿地方にどれだけ分布していますか?
紀で読む限り、移住者の居住地区は限定されたみたいですけど。
日本の歴史は統一はしていないとはいえ、応神以前にも遡れますよね。後に渡って来たグループをもってルーツにするには、彼等がどのくらい大和に入り込んだのか、知る必要があるかと。
「天の神の子孫」の伝承は世界各地にあります。ただ太陽神が女性なのは、日本だけだったかな?ほかにもあれば教えてください。扶余は男性でしたっけ?
中国の史書を読めば、大和の文化は半島文化を混ぜた物です。
呼称は倭人と扶余人は区別されていますが、百済は高句麗の扶余と同族と記載されています。
- 26 :出土地不明:2007/08/13(月) 20:56:33 ID:uX4CC3XS
- 後一つ。文化が違うことは中国の史書を見ればいいとして、言語ですが、当時の倭とは違う可能性もありますね。
紀によれば外国人と話しているのは帰化人で、通訳の役割をしていたようです。
- 27 :出土地不明:2007/08/14(火) 10:40:26 ID:bXRSBHYq
- 「大和があった近畿地方にどれだけ分布していますか? 」
調べたけど、判りませんでした。研究されている方ヘルプ。(゚∀゚,,)
明日香村あたりは間違いないところでしょうね。大化の改新で滅ぼされた蘇我氏も朝鮮系だったとはどこかで知りました。
「漢倭奴國王」金印が一世紀半ば作成(同じ工房で作成されたと思われるものが中国で出土してます、それが57年作成)
ですから、応神前にも往来はあったでしょうが邪馬台国の消滅など激変するのは応神頃だと思います。
「天の神の子孫」の伝承、いわゆるシャーマニズムですかね?どこにでもある原始信仰ですね。
ただ、扶余の「天の神の子孫が『国を創る』」部分は非常に似通っている気がします。宮崎高千穂の霊験地や、
大分の宇佐神宮を鑑みると、女神、天照の大身神は、卑弥呼にちなんだものかも知れないですね。
ただ、日本書紀に全く記載が無い所を見ると滅ぼされたのではないかと推測する次第です。
土着の原始日本人(縄文人)は、大陸と陸続きだった頃に日本に至ったのではないでしょうか?弥生人とは、
縄文人と渡来人の混血だと思います。専門家によれば明らかに劇的な変化が認められるとの事、又、朝鮮半島の
国家乱立時期とも重なる事等から「応神前後に大挙して渡来し征服し、国家を樹立した」と見てほぼ間違いないと確信します。
言語、日本語の文法と朝鮮の文法は同じで、双方とも漢字を借用して表記した事、数字の数え方にモンゴル地方との近似が
指摘されているとか、満州、モンゴルに居た「扶余」が朝鮮半島から九州近畿にかけて征服していったあたりから、
現代に続く言語も形成されたのではないでしょうか?
私が推測するのに大和朝廷樹立に至ったのは、645年大化の改新の、ほんの2-300年前の間の事ではないかと思います。
いずれにしろ私は専門家ではありません。ただ非常に興味がある部分なので、いろいろ勉強し教えを請いていきたいと思います。
宜しくお願いします。
- 28 :出土地不明:2007/08/14(火) 13:56:58 ID:idOANdRj
- >>23
縄文はYAP+、弥生はYAP-ですが?
- 29 :出土地不明:2007/08/14(火) 14:36:25 ID:H5MRty4t
- 間違いです。ご指摘有り難うございます。
- 30 :出土地不明:2007/08/14(火) 23:02:25 ID:E23FRhZn
- 俺は夫餘族という言葉自体が気に入らんな。
正確には夫餘国、主体の構成族がシ歳族だと見ている。<シ歳王の印だったかな
このシ歳族は殷の避難民か、またはその影響を受けた地元民で、部族単位だった
のが征服王朝によって夫餘国が建てられた。としているのが古書の大筋だね。
ここで伝えられる征服王朝だが、西のフン族と同じく、
匈奴(最盛期後)の一部とすると、シ歳族の民族移動が理解しやすいかもしれん。
高句麗の支配地であった半島北南東部の東沃俎、シ歳国などがその主な移住地で
帯方郡との戦いで滅んで拡散、そして辰韓が新羅になった原動力を持つ。
この匈奴の王族系を夫餘(王)族としてみても良いかもしれん、それが高句麗、百済
王朝の伝えになるのだが、これはかなり怪しい。高句麗がシ歳族支配のために夫餘
王朝伝説を利用した可能性が高い。なぜなら5千の母丘の騎馬軍勢にあっさり蹴散
らされまた戻っている。所謂、「祖先の地」であり、定住地なんだな。
支那書の高句麗県の記載と良く合う。つまり高句麗、百済は原住民系狛族と見た方
が良いだろう。これを夫餘族と信じ込みたかった理由は、それじゃ対外的にまずかっ
たという事で、相当な差別感が当時半島にあったと思われる。
まぁ、日本の朝鮮族、朝鮮の倭、マツカツ侮蔑差別と似たようなものか w
板的には、このシ歳人の今洲利(イマスリ)という人が、5世紀に鏡を作り金文字を彫り
込んでいる。高麗でも百済でもなくシ歳人として銘を打ち朝廷に献じている。
- 31 :出土地不明:2007/08/14(火) 23:24:06 ID:idOANdRj
- まあ、ワイも扶余も高句麗も同一民族だわな
- 32 :出土地不明:2007/08/15(水) 03:42:20 ID:7Kl/dSXg
- まず、何を推論の根拠とするか。ここをハッキリする必要があると思います。
@DNA
A物証(遺跡遺品)
B歴史書
C言語の類似
Dその他、文化の類似
プライオリティーの高さはこの順では無いかもしれませんが大まかには、これらで一貫性のある事象が揃えば、
ほぼ断定しても良いのではないでしょうか?
21世紀になってからも中国の遺跡から古代日本にとって非常に重要な遺物が出土しています。
例えば、中国遼寧省から出土した鮮卑族の鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一の、
応神天皇陵、誉田山古墳の国宝「金銅製透彫鞍金具」。これは中国出土以前には、古代日本の技術の高さとして
教育/流布されていたと思いますが、中国から全く同一ものものが出土した事、これをどう解釈されますか?
- 33 :出土地不明:2007/08/15(水) 11:28:30 ID:XTA2W3nS
- 大雑把に、
ワイ族>現代朝鮮民族に色濃い。
扶余族>現代日本民族に色濃い。
混血は双方にあるでしょうが、こんな感じで捉えてますが違いますか?
あと、現在でもモンゴルで日本の国技、相撲の原点が見出される事も興味深いですが、
現代モンゴル人は、扶余族の末裔もしくは混血では無いでしょうか?
ちょっと、観点が大きくなってしまいますが、モンゴル>エスキモー>カナダのエスキモー>
アメリカンネイティブインディアン>ペルー人と、我々と共通した骨格があり(歯とか)、
「あやとり」という遊びも南米最南端まで共通した「モンゴロイド」みたいですね。
モンゴロイドという観点からは日本も中国も朝鮮も同じといえば同じでしょうね。
- 34 :出土地不明:2007/08/15(水) 14:16:04 ID:22J53CfX
- >>33
アフォか!
どんなに扶余族が日本民族に色濃かろうとその割合は1割にも満たんわ!
まさかお前は弥生から古墳時代にかけての文明はすべて扶余族のものと言うのか?
まあもっとも、相撲は北方系にしか出来ない競技だから扶余族などの朝鮮を経由した大陸系がもたらしたと考えて妥当だが、
北満州で発生した扶余が相撲も同時に生み出し、西のモンゴルと東の日本にそれを教えたというのは飛躍しすぎでは?
むしろモンゴル相撲が扶余にも伝わってそれが変形しつつ日本に渡ったと考えるべきでは?
- 35 :出土地不明:2007/08/15(水) 17:29:42 ID:aMJmN6rp
- 文化は多種多様に流入し形成されたと思いますが、大和朝廷を樹立したのは扶余が先頭に立ったのでは無いでしょうか。
- 36 :出土地不明:2007/08/15(水) 19:38:09 ID:KyyqUNcn
- >>35
そう考える理由は?
- 37 :出土地不明:2007/08/17(金) 09:43:57 ID:HBrrLe5Z
- 「大和朝廷を樹立したのは扶余が先頭に立って行った。」
4世紀頃、扶余族が、と思う根拠は、
3世紀には明らかに存在したであろう邪馬台国の滅亡や諸国の衰退と同時期に顕著になる大和朝廷の存在だと思います。
それが、主に扶余族による朝鮮半島の国家乱立と時期を同じくし、遺品もそれを裏付けるものが出土している。
弥生時代開始前後から半島からの流入はもちろんあって縄文時代と区別出来る弥生時代が形成されたでしょう。
それは、同じ事がDNAからも断定出来るようです。2〜3世紀には倭国大乱等、国家の原型が乱立するほど人口も増え、
漢や魏に国家としての証明を求めています。その頃に大和朝廷はまだ存在しなかったのではないでしょうか。
宮内庁がやっかいですね。考古学的追究をさせない。当然記紀神話、天皇制、何より自らの権益を守る為でしょう。
しかし、あらゆる研究、物証、傍証が「日本民族は渡来人と土着縄文人の混血による」「大和朝廷は扶余族」という事を
示唆しているのではないでしょうか。
特に都市開発著しい2000年以降の中国で次々に発見される遺跡遺品の数々が日本古代史にも大きな意味を持つ
ものが出て来ていると思います。
私は物好きなただの素人なんで、間違いがあったらご指摘頂ければ幸いです。
- 38 :出土地不明:2007/08/17(金) 14:26:28 ID:a3UomEW4
- >>34
相撲が北方系な昔から引っかかる点だが、なぜハヤト血統が相撲
をとらなならんのか、大いに謎だw
- 39 :出土地不明:2007/08/17(金) 15:08:46 ID:HY93zhRr
- 3−4世紀に鮮卑、女真などの圧迫を受けて満州モンゴルの地から逃れ日本列島に至った扶余直系の日本天皇家が、
20世紀に、124代天皇’日本陸海軍大元帥)裕仁の時に、実質支配下に置いたという史実は因縁を感じさせますね。
- 40 :出土地不明:2007/08/17(金) 16:06:37 ID:9vlfN3V+
- >>37-39
天皇陛下は朝鮮人ではありません
- 41 :出土地不明:2007/08/18(土) 08:14:54 ID:YN+QEc40
- 天皇家は扶余族の子孫ですか?
- 42 :石川:2007/08/18(土) 11:12:54 ID:r0ZK41eJ
- 扶余-卒本扶余-高句麗-温祖百済-(百済聖王)南扶余-?
- 43 :出土地不明:2007/08/18(土) 12:44:25 ID:humJ6sMC
- 「扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたもの」
-奈良の鹿は、扶余の象徴でしょうか。
「高句麗系の史書『朝鮮史』より抜粋」
「依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。
自後、慕容?、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。」
-依羅が倭国に渡来したのが3世紀後半285年前後だそうです。
- 44 :出土地不明:2007/08/25(土) 08:26:48 ID:8Fbi4HsP
- >7 江戸時代の頭を剃るちょんまげじゃなくて古代から安土桃山時代くらいまでの支配層のちょんまげだろ?
天皇はじめ,武士階級の後ろで結わえて真上に上げる,あのやり方は今でも中国北東部のなんとかって遊牧民
同じようにやってるよ。騎馬民族特有の髪型じゃないかな。
自分の妻に鎧を着せて一緒に戦場で戦うとか,姉が死んだらその妹を嫁にするとかって風習も同様。
- 45 :出土地不明:2007/08/26(日) 10:02:19 ID:kFrbvAZU
- >>44 へーえ。
いわゆる「ちょんまげ」(月代=さかやき)は、「応仁の乱以後武士が常に冑(かぶと)を付けたとき、
頭ののぼせを防ぐために髪をそったことから、逆気(さかいき)の転じたもの」だそうです。
聖徳太子みたいのは「冠下の髻」(かんむりしたのもとどり)もしくは、「頭上一髻」(ずじょういっきつ)というらしいです。
武士の時代になっても将軍なんかはこれだそうです。確かに徳川慶喜のこんな写真があったような気がします。
それ以前の邪馬台国っぽい(?)のは、「美豆良」(みずら)だそうで。
ttp://www.cosmo.ne.jp/~barber/kamigata.html
「中国北東部のなんとかって遊牧民同じようにやってる」
写真で見て見たいですね〜。
あと言語で極めて日本語に近いってのは無いのでしょうか。一度中国少数民族(どの辺だったかは覚えてない)
の数の数え方が驚くほど日本語の発音に似ていたのをテレビで観た事があります。
- 46 :出土地不明:2007/08/26(日) 21:50:33 ID:T3KgfJzh
- 天皇家のY遺伝子を調べればおもしろいと思うが、無理か。
- 47 :出土地不明:2007/08/26(日) 22:39:53 ID:re6Jb6v2
- >>46
意外とD系だったりして
- 48 :出土地不明:2007/08/26(日) 23:03:04 ID:OSfm8Ao9
- >45 邪馬台国は現在の俺達とは何の関係もない。侵入してきた加羅人に滅ぼされてるので。
弥生時代の国っていうだけでヤマト朝廷とは関係なし。
- 49 :出土地不明:2007/08/27(月) 00:08:39 ID:WDWIwsNF
- 大和朝廷は近畿の勢力。
邪馬台国は九州の勢力。
そもそもが違う
- 50 :出土地不明:2007/08/27(月) 00:42:14 ID:ReuIE6oe
- 邪馬台国九州説は強まったのでしょうか?私はそう確信しますが。
大和朝廷は、やはり朝鮮半島>対馬>壱岐>博多>下関>奈良と北上していったと見た方が自然ではないでしょうか?
- 51 :出土地不明:2007/08/27(月) 00:56:59 ID:WDWIwsNF
- >>50
自然?どうして?
- 52 :出土地不明:2007/08/27(月) 02:05:42 ID:ReuIE6oe
- 考古学的最古の天皇を名乗ったと推定される、応神が香椎に住み、北上して奈良に落ち着いた事という故事逸話。
彼の墓に納められた(本来は扶余の地位を象徴していたと思われる)国宝に指定されている馬具。
記紀神話に暗示される九州原住民の征伐。
同時期に突如として消滅した邪馬台国。
宇佐神宮の存在。
魏志倭人伝に出て来る地名の九州各地名の類似。
同時期の朝鮮半島の情勢変動。
言語的な類似。
遺伝学的な類似と日本内での変化。
文化的な類似。
素人の私が思いつく限りを挙げてみました。
そもそも縄文〜弥生中期に「馬」が存在したのでしょうか?薄学なのでご教授お願いしたいところです。
- 53 :出土地不明:2007/08/27(月) 09:57:56 ID:brOS1TQm
- 北方諸民族http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B9,http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E8%AB%B8%E8%AA%9E,
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%B1%B1%E8%84%88
- 54 :出土地不明:2007/08/27(月) 15:27:05 ID:miAgEUfB
- 「 わが国に馬が渡来したのは古くても弥生時代末期ではないかといわれている。
4世紀末から5世紀の初頭には乗馬の風習も伝わっていたようだ。」
ttp://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/umabunka/04-shiru/01-ningen-history/01-nihon-history/01-denrai-kamakura/index.htm
やっぱり・・・
- 55 :出土地不明:2007/08/27(月) 15:51:07 ID:WDWIwsNF
- >>54
やっぱり負4が日本をつくっったのじゃなかったな
- 56 :出土地不明:2007/08/28(火) 23:02:38 ID:Gb3ZriV+
- 万世一系とは言うが現在まで簒奪なく血筋が保たれているかは不明。
往時の皇家に扶余の血は入っていたかもしれないが。
また、仮にこの国の支配層がそうであったとしても庶民の>>1の家系には関係ないこと
- 57 :出土地不明:2007/08/30(木) 10:07:48 ID:TwAkhD1c
- 韓国 国立扶余博物館
ttp://inoues.net/korea/fuyo_museum.html
- 58 :出土地不明:2007/08/31(金) 23:43:53 ID:Ntp7QAWl
- >50 ヤマト朝廷って名はもう少し後に付けられたと思うよ。
現在の佐賀県の吉野ヶ里にあった邪馬台国が侵入してきた加羅人によって滅ぼされた
侵入してきた加羅人達は瀬戸内海を通って巻向に王都を建設。
朝鮮半島南部の金官加羅国の首都金海から巻向へ遷都。
朝鮮半島南部から日本列島関東までの加羅人によるゆるやかな連合王国が成立。
首都は大阪。
これが古墳時代前期の日本。
ここから日本の歴史が始まる。
- 59 :出土地不明:2007/09/01(土) 02:56:03 ID:sk9FOUqO
- >>58
あんたらはどうしても日本の古代王朝成立の過程で朝鮮系勢力が中心的存在だったと主張したいようだが、
すでに日本には土着の豪族が五万とあった中、朝鮮系が中心的役割を演じたことはありえるとしても、
朝鮮系が権力構造の上層部におけるマジョリティで、土着豪族はマイノリティであり、かつ古代の支配階層が朝鮮系としての証拠がここまで希薄というのは考えられないと思うんだが
- 60 :出土地不明:2007/09/01(土) 22:54:07 ID:63Pjr22Q
- <丶`∀´>←こいつが書き込みしてんだろ
- 61 :出土地不明:2007/09/01(土) 23:26:39 ID:6fgrO9kX
- <丶`∀´>←不要族
- 62 :出土地不明:2007/09/02(日) 11:17:32 ID:L/HjYBu4
- 加羅は百済と戦争していたみたいですから、ちょっと違うのでは?
吉野ヶ里が邪馬台国だと確定するには至らないと思いますが北部九州のどこかでしょうね。
「朝鮮系が権力構造の上層部におけるマジョリティで、土着豪族はマイノリティであり、かつ古代の支配階層が
朝鮮系としての証拠がここまで希薄」
実際の所、滅ぼされた土着豪族のクニも多かったでしょうが、連合した豪族も居たでしょう。
多分、九州麻生氏は代表的な豪族ではなかったかと。
- 63 :出土地不明:2007/09/02(日) 11:35:00 ID:L/HjYBu4
- あと宗像氏は明らかに古代九州の土着豪族ですね。麻生氏とは敵対したり連合したりしていた様子です。
- 64 :出土地不明:2007/09/02(日) 17:15:33 ID:rRFyHU0x
- 台湾人を叩く奴は全部チョン
悪い事は全部チョンのせい
李登輝を日本の総理大臣にしよう
日本人は台湾人が大好き
日本人は台湾が好き!朝鮮嫌い!
日本に来る台湾人歓迎!朝鮮人出て行け!
台湾人はマジでかわいい
ヴィック・チョウは日本女性に大人気
日本人種は在日チョン用語
金美齢は絶世の美女
- 65 :出土地不明:2007/09/06(木) 02:01:16 ID:vCjCkl/v
- 「4世紀」というのは日本古代史で空白と言われている様ですが、大陸では大激変の時代だった様です。
匈奴と漢の軍事衝突がお互いの疲弊を招き内紛・分裂に至る。その結果、
北匈奴が西へ移動、玉突き状態でフン族がロシア側へ、ゲルマン民族が大移動を始め、ローマ帝国の地中海支配を
解体に追い込む。
東側では後漢の支配が崩れ南匈奴は紛争の真っ只中に立ち、モンゴル高原で鮮卑族が五胡十六国の騒乱を起こす。
西側のゲルマン民族の大移動同様に、それらは鮮卑族と対立していた扶余族等を圧迫し朝鮮半島を南下させ
高句麗や百済、新羅等の国を興し、瞬く間に日本の北部九州に至り、農耕民族であった日本原住民の邪馬台国を
滅亡させ大和朝廷の成立へ至ったのではないでしょうか。
要点は、大陸で覇権を握ったのは遊牧騎馬民族で、定住農耕民族は征服、被支配されていった事、
当時、まさに騎馬技術は人類史を塗り替える革命であった事です。
日本に馬が伝わったのは早くとも4世紀とされている事とも合致します。
それまで定住農耕海産物狩猟民族であった日本原住民は全く歯が立たなかったであろう事は容易に類推出来ます。
- 66 :出土地不明:2007/09/17(月) 08:58:48 ID:VpGl9lgr
- ちなみにスペインがインカ帝国を侵略滅亡させた時も「初めて馬を見た」という証言がありました。
インカ帝国は南米原住民の国でモンゴロイドです。
- 67 :出土地不明:2007/09/27(木) 01:15:53 ID:/crnuM7I
- >>66
インカはちょっとはずれすぎじゃないか。
馬に驚いてたのは最初だけだったはず。
いまじゃ天然痘の流行で誰もいなくなったのが原因というのが主流だったはず。
航海技術や造船技術が低い時代に、日本みたいな島国に
本当に戦闘集団として可能な騎馬軍団が入ってこれたとは思えない。
もし、入ってきていたら、なんらかの、伝説、伝承が残っているとはずだけど、そんなのあるのか?
ヤマト政権が騎馬民族の継承者なら、もっと馬にまつわる伝承とかあると思うんだけど。
天照やヤマトタケルが名前の着いた馬に乗って活躍したとかになるんじゃないの。
そんな話になってないのが不思議だ。
- 68 :出土地不明:2007/09/27(木) 08:34:23 ID:FMzz2DAQ
- 仰る通り、馬にまつわる話と言うのは特に読んだ事無いですね。
ただ15代応神天皇陵墓、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した国宝の「金銅製透彫鞍金具」の存在は大きいのでは?
「馬」が「渡来」したのは4世紀末とされてますが応神天皇陵墓の国宝と時期も同じだと思います。
埴輪の馬はどの時期に作成されたのでしょうか?
- 69 :出土地不明:2007/09/27(木) 18:56:02 ID:hWvqMI5R
- 国立博物館に埴輪のコピーがうってるが、馬もあったな
鞍はついていたが、鐙も轡もなかった気がする
- 70 :出土地不明:2007/09/27(木) 22:36:45 ID:xgCv14Vq
- >>67
記紀では馬と牛は同等でウケモチの神の死体から生まれている。
ついでに、粟、稗、蚕、稲、麦、大豆、小豆も一緒に生まれているな。
どう見ても農耕民族の伝承だわい。
魏志倭人伝では牛馬無しだから、微妙に文化が違うようだな。
- 71 :出土地不明:2007/10/10(水) 21:33:03 ID:3a2233Ou
- ttp://sankei.jp.msn.com/economy/business/071009/biz0710092025009-n1.htm
- 72 :出土地不明:2007/10/11(木) 02:26:42 ID:Sf4D44D3
- >>71
そんなのに反応するほど考古学板の住人は甘くはないぞ!!
- 73 :出土地不明:2007/10/30(火) 09:28:39 ID:ERlwPgYS
- 未検証ですが、日本の古代文字がハングルそっくりだったので韓国人に見せたらほぼ読めたという話を聞きましたが、
どうなんでしょう?
大きな本屋さんにはいくつか研究書が並んでいましたがこんな感じだったです。
ttp://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/5h-genngo/5h-amatu-1.htm
- 74 :出土地不明:2007/10/30(火) 10:31:59 ID:piN/VASh
- >>73
ハングル文字自体が新しい文字。
ただ、ハングル文字を作る時に参考にした古代朝鮮文字があるので、それと古代日本文字が似通っている事には
否定はしない。
- 75 :出土地不明:2007/10/31(水) 02:23:47 ID:UC6Wz2Vi
- ハングルはパスパ文字・チベット文字等の北インド文字を参考にして作られた文字。
「訓民正音」で舌や口の形がどうこう言ってるのはただのこじつけ。
古代朝鮮文字があったという説もあるが、それも蒙古統治時代より先にはさかのぼれない所から見ても、
パスパ文字が起源である事は明らか。
日本の神代文字はハングルをパクったものもあれば単音に分割できない
カナと同じ原理で創造された音節文字もあるが、信憑性のあるものは一つも無い。
古くとも江戸時代より前には遡れない。
- 76 :出土地不明:2007/11/02(金) 10:58:30 ID:ErmUjI1I
- パスパ文字も漢字も原始日本人が作った超古代日本文字が起源だというのを
否定する証拠ってあるんでしょうか?
- 77 :出土地不明:2007/11/02(金) 20:18:18 ID:6wuJ6GRq
- >>76
超古代日本文字っていうと痛いから「ヲシテ文字」って言おうね^^
- 78 :出土地不明:2007/11/02(金) 21:00:10 ID:z1WVjoCu
- ヲシテ文字も典型的な神代文字。存在自体痛い。
漢字渡来以前に文字を持たなかった事をむしろ誇るぐらいの知性はないのか。
文化人類学でも学んで無文字文明の豊かさを知れ。
- 79 :出土地不明:2007/11/03(土) 08:25:00 ID:eOewDj2I
- >>77
ヲシテ文字以前に文字がなかった事を見てきたような発言だな。
証明できるのか?
- 80 :出土地不明:2007/11/03(土) 10:37:12 ID:PRv1wIhU
- >>79
超古代におけるヲシテ文字の存在を証明するのが先だろ?
ぐぐったけど偽造丸わかりの擬古文じゃん。
なにあの無駄な画数の多さ。
常用された表音文字ならもっとシンプルだろう。
漢字以前に文字が無かったことを悔しがる心性こそが恥ずかしいものだって気付けよ。
文字文明の早さで争うことは敵の土俵に乗ったも同然なんだってば。
後世に影響を与えるような、現代人をハッとさせるような、
あるいは国際的に注目されるような、ろくな文献も無いだろう?
そこを貶されたら同じじゃん。お前中国のスパイかよw
そうでなかったら川田順造でもレヴィ=ストロースでもいいからさっさと読め。
- 81 :出土地不明:2007/11/08(木) 14:49:43 ID:mCLmOex5
- ヲシテ文字が実在したとしても、ヲシテ文字なんかより古い文字もあったでしょう。
漢字や古代文字が突然現れる訳もなく、それ以前にいくらでも文字はあった。
ただ現存してないだけでしょう。
- 82 :出土地不明:2007/11/08(木) 16:35:58 ID:LaoBn950
- 数詞対照表の最新版 (娜々志娑无氏提供) 2007/10/25
古代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語
1 Φi1to2 −− hっtっn hっtっn hΛnah hana
(一等) (河屯)
2 Φuta −− tu¨pっ¨l tuβっr tulh tu:l
(二尸) (途孛)
3 mi1 mil siet sei s∂ih se:s
(密) (悉) (洒)
4 'jo2 −− −− nei n∂ih ne:s
(廼)
5 'itu 'utsu −− ta∫us tasΛs tasっs
(于次) (打戍)
6 mu −− −− 'jul∫us 'jっsΛs 'jっsっs
(逸戍)
7 nana nanun −− 'ilkup nilgub 'ilgob
(難隠) (一急)
8 'ja −− −− 'jultap 'jっdщlp 'jっdっl
(逸答)
9 ko2ko2no2 −− −− 'ahop 'ahob 'ahob
(鴉好)
10 to2'wo t∂k −− 'jっl 'jっlh 'jっ:l
(徳) (噎)
※古代日本語の[i1]はイ列甲類、[o2]はオ列乙類。[っ]は母音[?]の代用。
高句麗語の数詞「5」については村山説を挙げたが、李基文や板橋義三は
再構語形を[uc]としている。
- 83 :出土地不明:2007/11/10(土) 13:35:25 ID:+mbxBBrR
- 日本語と高句麗語ってその他にも「似てる」と思える語が30個ぐらいあるんだよね。
でも「似てる」ってだけで印欧語みたいにきれいな音韻法則がない。
語形の再建が難しいのかもしれないが… それ以前に使える語が少な過ぎる。
日本語がフヨ系の言語と関係があるかどうかはやはり何とも言えない。
- 84 :出土地不明:2007/11/10(土) 18:13:02 ID:RKA90H3x
- 途中に漢語が介在しているせいで、類似は指摘できるわけだし、
音韻法則の証明が困難だというだけで、
法則自体が成立しないと断言できるわけでもないんだよな。
- 85 :出土地不明:2007/11/10(土) 18:30:37 ID:YfpX6WVb
- モンゴル語→満州語→扶余語→高句麗語→百済語→日本語
だいたいこういう流れなんじゃないのかな?
- 86 :出土地不明:2007/11/10(土) 23:46:51 ID:xflAuHDX
- トヨクニ文字って、いつ頃のもの?
- 87 :出土地不明:2007/11/11(日) 02:32:14 ID:fNEJM5uV
- >>85
なんで一本の線なんだよw
- 88 :出土地不明:2007/11/11(日) 05:50:06 ID:fNEJM5uV
- 29 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! 投稿日: 2007/10/31(水) 20:35:20 0
朝鮮語とアイヌ語の数詞に似たものがあるのは、
いわゆる縄文vs弥生みたいなとらえ方だけでは
割り切れないものを感じさせられるんだよな。
そこで夫余系vs新羅という対立軸が生きてくる。
高句麗・百済・任那の夫余系諸言語はアルタイ諸言語に近いが、
朝鮮語はアイヌ語その他の古アジア諸語の一角を占めていたと考えるべきだろう。
35 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! 投稿日: 2007/11/01(木) 02:32:36 0
1 2 3 4
アイヌ語 sine-p, tu-p, re-p, ine-p
朝鮮語 han-a, tu-l, sei-s, nei-s
hとs、sとrなどは比較言語学でよく対応例に出される組み合わせ。
似てるだろ?
- 89 :出土地不明:2007/11/11(日) 12:05:31 ID:rW4Ful/X
- >>87
日本語にたどり着く部分だけを書いたからだろw
- 90 :出土地不明:2007/11/11(日) 14:25:52 ID:fNEJM5uV
- だから、樹形図っていう発想はないのか?
時代順も変だしな。
- 91 :出土地不明:2007/11/11(日) 14:58:27 ID:SG4gD07D
- >88を書いたやつは分かってるようで分かってないな。
hとs、sとrがよく対応例で出されるって、どういうつもりで書いてるんだろうな。
sがhやrに変化する例はたくさんあるが、
普通はたくさんの語の音が規則的に対応してるもんだ。
でも>88の例だとアイヌ語のsが朝鮮語のhに、
朝鮮語のsがアイヌ語でrになってる。
どっちが変化の元になってるか考えて言ってるのか?
しかも母音の対応がバラバラだ。
「偶然似てる場合もあるんですね」って言ってるようなもんだ。
北東アジアのSVO言語で膠着語なやつが
昔は大雑把にアルタイ系だって言われてたんだが、
フヨ系諸語がアルタイ諸言語に近いってトートロジーじゃねえか。
そもそもアルタイ諸語って何のつもりで言ってるのか分からない。
ついでに言うと、アイヌ語は膠着的ってよりかなり抱合的な言語で、
>88の書き手が言いたいアルタイ語とやらとは別物だな。
- 92 :出土地不明:2007/11/11(日) 18:43:10 ID:fNEJM5uV
- >>91を書いたやつはわかっているようでわかっていないな
>>88は沢山の対応例が出る前に対応の可能性を指摘してるわけだろ?
同系の言語A:言語Bで、s:hとh:rが対応するなんてフツーだろ。
もっとデータを集めて音韻変化の条件を探す必要はあると思うけどね。
「どっちが変化の元」だなんて、比較言語学の基礎も知らないようだね。
こういう時は共通の祖語形を設定するんだよ。
「ヒトがサルから進化した」式の言い方をダーウィンはしてないだろ?
ウィリアム・ジョーンズだって「サンスクリットからヨーロッパの諸言語が生まれた」
とは言っていない。
実際子音ではサンスクリットが保守的だったが母音は全滅で、
ギリシア語がむしろよく母音を保存した。
記録された特定の言語が祖語そのものなんて事はまずない。
夫余系諸言語がアルタイ諸言語の一部だったっていう手がかりは、
史書に残された単語だけだから、当然センテンスも形態論もわからない罠。
だったら膠着語だっていう証拠だってないわけさ。
あと、同系の言語でも古典的類型論の帰属を異にすることはザラ。
系統論と類型論をごっちゃにするなよw
現代のインド諸言語はもはや屈折語とは呼べず膠着語だし、
英語は孤立語への道をひた走り、すでに孤立語そのものの変種を生んでいる。
Tok Pisinはれっきとした印欧語だが、まさか屈折語だとは言わないよな?
トゥングース諸語のうち、はっきりと膠着語だと言えるのなんて満洲語くらいだよ。
- 93 :出土地不明:2007/11/13(火) 17:09:59 ID:67Cl25KB
- >>92
>>>88は沢山の対応例が出る前に対応の可能性を指摘してるわけだろ?
>同系の言語A:言語Bで、s:hとh:rが対応するなんてフツーだろ。
それじゃ例を挙げる意味がないな…
これじゃどんな言語でも「対応する可能性あるよ!」って言えちゃうもんね。
>夫余系諸言語がアルタイ諸言語の一部だったっていう手がかりは、
>史書に残された単語だけだから、当然センテンスも形態論もわからない罠。
>だったら膠着語だっていう証拠だってないわけさ。
なるほど。「アルタイ諸言語」なるものがあったってのを
絶対的な前提として出発しちゃってるわけか。
>もっとデータを集めて音韻変化の条件を探す必要はあると思うけどね。
まあこれが全てだね。っていうか、これ以上の資料が集まるのか。
集まると思ってるからこれだけ力説してるんだと思うが…
朝鮮語とアイヌ語が同系統だってのはこの人にとって神聖不可侵な事実か。
そりゃしょうがない、口答えはやめておこう
要するに、>>88のコピペを見せられても
なんとなく似てるのもあるんだ、としか言いようがない
昔の「万葉集は朝鮮語で読める」みたいなもんで
- 94 :出土地不明:2007/12/04(火) 21:04:29 ID:/TUvjTU7
- そもそもアルタイ系言語ってのは、類型論的に似てるってだけで
語族扱いされた経緯があったから、「○○はアルタイ諸言語だった」って
主張する根拠自体が部外者には不明だと思った。
それと
> >>88は沢山の対応例が出る前に対応の可能性を指摘してるわけだろ?
> 同系の言語A:言語Bで、s:hとh:rが対応するなんてフツーだろ。
> もっとデータを集めて音韻変化の条件を探す必要はあると思うけどね。
つまり、証拠はまだないけどこれから見つけるから問題ないって言いたいのか。
言語学って難しいな。
- 95 :出土地不明:2008/04/16(水) 08:40:38 ID:efU6vcDT
- 日本最古の寺院とされる飛鳥寺(奈良県明日香村)のモデルが韓国の王興寺ではないかとの見方が強まってきた。
王興寺は6〜7世紀に百済の都だった扶余(プヨ)にあった寺で、朝鮮の歴史書では600年以降の創建とされていた。
ところが、国立扶余文化財研究所の調査で昨年10月、金・銀・青銅の舎利容器が出土、そこに刻まれた文字から
百済王の発願で577年2月に創建されたことが判明した。
日本書紀によると、飛鳥寺は、577年11月に百済王から技術者が日本に送られ、588年に仏舎利が届いて造営を
開始、596年に仏塔が完成したとされる。今回の出土で二つの寺を結ぶ深い関連が浮かび上がってきた。
今月初めに遺跡を確認した大橋一章・早稲田大教授(仏教美術史)は、両方の寺に同じ系統の技術者がかかわった
のは間違いないとみる。「先行する王興寺を追いかけるように飛鳥寺の計画が進められたのだろう。百済は仏像や
お経を日本に贈ったが仏教は広まらず、寺を造らなくてはとの思いだったのではないか」
現地を訪ねた研究者の間では塔の構造や出土品、瓦の文様などもよく似ていると見る声が強い。飛鳥寺の別名が
法興寺、元興寺というのも王興寺との類似性が指摘される。
仏教は6世紀半ばまでに日本に伝わったとされる。本格的に受容されるのは飛鳥寺の段階からだが、建物は鎌倉
時代に焼失、仏舎利の行方もわからない。「飛鳥寺の舎利容器も王興寺の出土品と同じようなものだったはずだ。
なぞだった飛鳥仏教の具体的な姿が見えてきた」と大橋教授。調査は00年に始まり、今後10年は続く見通し。
ソース
asahi.com http://www.asahi.com/culture/update/0415/TKY200804150318.html
2 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2008/04/16(水) 07:31:42 ID:Aka2S7Xz
- 96 :出土地不明:2008/04/18(金) 09:28:24 ID:NfYlmZUx
- >>95
瓦と塔の構造は百済に類似するものがあり、
伽藍配置(建物の配置)は、百済の敵である新羅又は高句麗に類似するものがある
建築のマスタープランともいうべき伽藍配置を軽視するなど、笑止。
大橋一章教授、あんたも素人じゃないんだから、・・・。
正しい考え方は、
日本側が飛鳥寺のプロデュースを進め、その建設の過程の中で、半島の工人をこき使った。
半島の工人には、百済の者も新羅や高句麗の者もいた。
なお、日本書紀の崇峻元年(588)には、百済が仏舎利や工人を「献じた」とあり、個人名まで明記されている。そして飛鳥寺(法興寺)を「作り始めた」とある。
つまり、百済の工人の主要メンバーは百済からの貢物。(百済は実質日本の属国)
それ以外の工人の多くは、出稼ぎ労働者
又は半島を嫌って日本を慕い、半島人であることをおぞましく思い日本人になろうと日本へやってきた人々。
- 97 :出土地不明:2008/04/19(土) 10:24:18 ID:SpwjpWU8
- 私が考えるに 言葉の意味から言うと、扶余とは日本国の余り。
つまり日本の国の別名が扶桑国であるので その余り、日本から来た者たちという意味だと
思うわけです。
古代、日本が遅れていて、中国から広まった文明が辺境であるはずの日本へ、韓
間違えとしか思えなくなってきた。 今までの常識は逆ではないかと思うわけ
です。
当時 日本の力がそこまで到達していて 多くの日本の民がそちらへ行っていたと考えたら矛盾があるのかどうか。
付与国の風俗習慣というのを書いてある所をみたが古代の日本だとしても矛盾がないように思えた。
- 98 :出土地不明:2008/04/19(土) 13:55:40 ID:qmEt6G5m
- >>97
昔、満州に開拓移民として移住した人達の中に、親祖国派と反祖国派に
わかれて争った人達がいたらしいけど、親祖国派とは正に扶余グループで
反祖国派とは白頭山に逃げた高句麗グループ、そこで倭人軍部は親祖国派
を集めて皇帝溥儀、擁する「満州国」のような傀儡政権「百済、新羅」
を樹立、まるで張作霖の日中合作の様な、倭・楽浪郡合作って所か道理で
半島北部には倭人語、数詞が残ってる訳だ満州では北に馬賊、南白頭山に
山賊が出没した。
倭王「帥升」などは、しきりに楽浪郡へ生口(奴婢)数百人を送り出してた
からな、満州建国史と古代半島史は良くにてる。
- 99 :出土地不明:2008/05/08(木) 18:10:13 ID:szsZktBe
- 知り合いの店がここ3ヶ月で3つ潰れました。うちだけが悪いのかと思っていたけどそうじゃない。。。
- 100 :出土地不明:2008/05/15(木) 15:35:28 ID:64qBSNEj
- アイヌ民族、先住民族認定へ 今国会決議 サミット前政府声明(05/15 06:41)
自民、民主、公明、共産などの各党は十四日、アイヌ民族を先住民族として認め、権利の確立を求める国会決議を今国会中に行う方針を固めた。国会決議を踏まえ、政府も七月の北海道洞爺湖サミット前に、
アイヌ民族を先住民族と認める声明を正式に発表する方向で調整に入った。
三月に発足した超党派の北海道関係国会議員による「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」(代表・今津寛自民党道連会長)が、政府や各党と水面下で調整をしてきた。
「議員の会」は十五日に各党代表による世話人会を開き、決議案の文案調整に着手する。決議案は、《1》先住民族として認める《2》名誉や尊厳、権利の確立を図る《3》政府にも先住民族の認定を働きかける−ことが軸になる。
二十二日にはアイヌ民族の代表が官邸を訪れ、福田康夫首相や町村信孝官房長官らに権利の確立を要請する。政府は国会決議後に、首相自らによる声明文か、官房長官談話の発表を検討している。
国連は昨年九月の総会で「先住民族の権利に関する宣言」を採択した。しかし、政府は「アイヌ民族の権利を認めると財政措置が必要になる」(首相周辺)などの理由から、国内での適用に難色を示していた。
ttp://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/92785.html
- 101 :出土地不明:2008/05/15(木) 15:38:23 ID:64qBSNEj
- 後住の民族は・・・
- 102 :出土地不明:2008/06/20(金) 13:17:29 ID:a9nYiOjP
- 司馬遼太郎は倭人と扶余族は分けて考えてたようですな!
http://www.kurikomanosato.jp/to-siba-syuhen2.htm
- 103 :出土地不明:2008/06/21(土) 13:08:49 ID:ckIa2srr
-
■『新羅文化』は日本文化よりも遅れていた
現代の韓国人は、「古代日本人に対して古代韓国人が先進文化を教えてあげた」だの、
「古代韓国文化が、古代日本文化に大きな影響を与えた」だの、「日本仏教は新羅仏教の影響を受けた」だのと、
デタラメな話を主張する。
古代韓国などという国は存在しなかったし、古代韓国文化も存在しないのである。カラ(韓)は韓国ではない。
新羅と日本の間で、『文化交流』は無かった。外交関係はあったが、それは友好関係ではなかった。
両者の合意の上で、使節団を派遣し合い、相互スパイ活動(相手国の内情を探る活動)をしていただけだ。
半島の新羅時代は、日本の平安時代と重なるが、新羅文化の日本文化に対する影響はゼロである。
日本文化に影響を与えられるわけがない。なぜなら、5世紀〜9世紀にかけての時代に存在した東アジアの国で、
新羅は文化的にもっとも遅れた国だったからだ。日本文化の足下にも及ばないほど、新羅文化は後進的だったのだ。
その証拠は、新羅文化が現在の韓国にカケラも残っていないことである。同時代に存在した日本の平安文化は、
現代の日本にも伝えられている。平安文化が、平安時代、鎌倉時代、室町時代、そして江戸時代、明治時代、
大正・昭和・平成時代と受け継がれてきたのは、それだけの価値がある文化だからだ。平安文化が各時代の日本人から
愛されたからである。
もし新羅文化が、日本の平安文化に匹敵するほどの成熟した文化、洗練された文化であったならば、
とうぜん高麗時代にも受け継がれたはずであり、現代にも残っているはずだ。しかし実際には残っていない。
これは、新羅文化が『狩猟文化』を基本とする原始的文化だったからであり、後世に伝えるほどの価値が無かったからだ。
新羅には仏教文化は無かった。古代の半島において仏教が盛んだったのは、西北部(旧帯方郡)と西南部(クタラ)
であって、新羅本領(現在の慶尚道)ではないのだ。
新羅の仏教文化ウンヌンという伝説は、高麗時代に「創作」された話にすぎない。統一新羅の仏教文化は百済文化であり、
帯方郡文化なのである。新羅文化ではない。
日本の平安文化に匹敵する「成熟した文化」「華麗な文化」は、新羅には無かった。平安日本のほうが先進国だった。
これが歴史の真実である。韓国人にとっては認めたくない真実であろうが、真実は真実なのだ。
★『承香院・平安文化研究会』ホームページ
http://web1.nazca.co.jp/hp/jyoukouin/
- 104 :出土地不明:2008/09/17(水) 02:00:33 ID:Ub6QTKNk
- >>28
>縄文はYAP+、弥生はYAP-ですが?
これ言う人多いけど、明らかに間違い。
縄文もYAP+で、弥生人もYAP+を持つ別民族。
YAP-は単なる百済高句麗からの渡来人。
なんで征服した側のはずで、実際弥生語話してる現代日本人の大半が実際YAP+なのに
それが弥生由来で無いと考えてしまうのだろう。
弥生人がYAP-ってことは、アイヌチベット同祖論だけど、むしろ弥生チベット同祖でしょう。
最もYAP+が多い雲南のプミ族というミッシングリンク(もちろん弥生っぽい)も居るわけで。
縄文人は被征服者側なのに、すぐ置き換わるY遺伝子なのに、なぜ現代日本人がその形質が多数派なのだよ。
弥生人こそがチベット人と同根の民族でYAP+である。それしかありえない。
ここを見誤ると、古代史全部変な読み方してしまうよ。
- 105 :出土地不明:2008/09/23(火) 21:58:45 ID:fZ+kh4Jz
- ま、扶余族が日本に来たのは間違いない。
- 106 :出土地不明:2008/09/25(木) 00:27:52 ID:8v6qF9V9
- >>104
そんなデムパ、今どき、どこの知恵遅れが食うの?w
- 107 :出土地不明:2008/09/25(木) 00:54:23 ID:5mXQiy+E
- 5世紀初め、轡や鐙などの馬具が出土し始めますが、
これを扶余族なり騎馬民族と関連付ける人がいます。
が意味ありません。
これらはあくまで日本に乗馬習慣が入ったと解釈するべきです。
なぜならその頃の日本に騎馬用甲冑(桂甲)が出土しませんから。
日本が桂甲を採用し始めるのは実質6世紀です。
5世紀の河内王朝は騎馬には向かない短甲の王朝です。
ここでも例に出てる丸山古墳の国宝「金銅製透彫鞍金具」は大陸からの白菜品でしょう。
殺牛祭祀を持ち川べりに住む皮革の民・扶余族の痕跡を日本で探すとすれば、
被差別民にしか見出せないでしょう。
- 108 :出土地不明:2008/09/25(木) 00:55:48 ID:5mXQiy+E
- ×白菜品
○舶載品
- 109 :出土地不明:2008/09/25(木) 21:48:24 ID:s9N5y4RR
- 日本には馬を去勢する習慣がなかったから騎馬民族は来なかったと言う、
騎馬民族説に興味を持つ人間なら誰でも知ってる有名な批判があるが、
騎馬民族が馬を去勢するのは売り物や騎馬戦初心者用の馬の場合であって、
自分達が乗る場合は去勢はしない。
去勢馬より、去勢しない馬の方が長く走れるからね。
又、上の批判の流れで「騎馬民族が来たなら馬の埴輪にオチンチンがついてるのはおかしい」
と言う批判もあるが、
埴輪になるような特別な馬は傷つけないのが普通。
こういうようなことが江上波夫「江上波夫の日本古代史」の最後の方に乗ってるので、
興味のある奴は見てみ。
- 110 :出土地不明:2008/09/26(金) 01:22:48 ID:VFuBIWiB
- 騎馬民族の定義を「騎馬戦術を有する事」とすれば、
それぞれの民族がいつ騎馬民族になったのか?という話になる。
乗馬習慣があるだけでは騎馬民族とは言えないのだ。
で、大陸の扶余も高句麗も、それぞれ「騎馬民族になった時期」があるわけだ。
よく知らないが3世紀あたりかな?
じゃ日本の「騎馬民族になった時期」はいつなのかと言えば6世紀だな。
埴輪の習俗から分かるわけだ。
- 111 :出土地不明:2008/09/26(金) 17:15:23 ID:5yUWcbSg
- >>104
>なんで征服した側のはずで、実際弥生語話してる現代日本人の大半が実際YAP+なのに
>それが弥生由来で無いと考えてしまうのだろう。
征服したのは弥生化した縄文人
征服されたのは弥生化しなかった縄文人
弥生時代、古墳時代の豪族は縄文系 当然天皇も源平藤橘も縄文系
支配者層 縄文人 YAP+
被支配者層 渡来人 YAP-
- 112 :出土地不明:2008/10/02(木) 22:29:57 ID:9A1prlOj
- 新羅毛氈の布記と買新羅物解
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/column/page008.html
- 113 :月光仮面:2008/10/11(土) 13:36:19 ID:B1b35XWh
- 鹿(扶余)族だが、中国では歴史的に鳥、龍等いろいろなトーテムで民族分類を行う。鹿というのは
内モンゴル趙宝溝から始まり、満州、朝鮮の扶余、日本のシカカイ(志賀島)、男鹿半島、牡鹿半島、
鹿島神宮、鹿取神宮、春日大社、藤原氏等によく出てくるが中原に鹿を逐うとされる方面では龍に呑
まれたのか、出てこない。鹿石は西域にも、東北にも分布している。日本では志賀島のシカカイ神社に
鹿の角が大量に保管されており、後漢からの金印も出土しており、男鹿半島のナマハゲで有名な
五社堂神社では前漢の武帝の手のものが渡来してきたと伝わっておるし、鹿角などと言う地名も多い。
伝承では鹿島様は塩釜から常陸に向かう。また、鹿踊りなどと言う勇壮な踊りもある。前漢の武帝とい
うのはバイアグラまがいのものを使用していたといわれる。漢四郡を設置したことでも有名。これらは
何か関係があるのではなかろうか。
- 114 :月光仮面:2008/10/11(土) 14:01:26 ID:B1b35XWh
- http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2a.gif
この地図で6 7 8 9 10あたりはチベット、四川、雲南、アルタイ等と共通する起伏の多いところである。
こうしたところで生存能力の強いのがYAP+である。現在この内モンゴルにYAP+がいるという話はあまり
ないが、古代は森林地帯で鹿が多かったらしい。チベットのヤクのようなものだ。ところで朝鮮・日本に入る
稲作農民の主体は朝鮮人はどこから来たか
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1190991733/menu166-167
を見てもらいたいがYAP+ではなく興安嶺山脈方面の系統だ。
YDNA構成比較....日本人 (108人)............朝鮮人 (160人)
O-SRY+465..........................7人 (6.5%)...............22 人(13.8%)
O-47z...............................21人 (19.4%).................9 人(5.6%)
では日本人に多いD2と言うYAP+はどこから来たかと考えると先ず頭に浮かぶのはこの鹿(扶余)族
だが、このD2は大きく4つの枝分かれがある。これは甘粛方面、山東省方面、アルタイ方面、バイカル・
アムール・沿海州方面等で長期間分かれて活動したためでないかと考えられる。
- 115 :月光仮面:2008/10/11(土) 15:00:52 ID:B1b35XWh
- 参考資料 2008 ISOGG treeによるYDNA Haplogroup D下部構造、決定変異 :
......D (M174, 021355)
.........D* アンダマン島民
.........D1 (M15) チベット、東アジア全般
............D1*
............D1a (N1)
.........D2 (M55, M57, M64.1, M179, M359.1 [P41.1], P37.1, P190, 12f2.2)アイヌ、日本、琉球
............D2*
............D2a (M116.1)
...............D2a*
...............D2a1 (M125)
..................D2a1*
..................D2a1a (P42)
.....................D2a1a*
.....................D2a1a1 (P12)
..................D2a1b (022457)
..................D2a1b*
..................D2a1b1 (旧D2a1b) (P53.2)
............D2a2 (M151)
............D2a3 (P120)
.........D3 (P99)
......D3*
......D3a (旧D3) (P47) チベット、南中央アジア
- 116 :月光仮面:2008/10/11(土) 15:12:52 ID:B1b35XWh
- エジプトのヒクソス、バビロニアのカッシート、欧州、中国各地から満蒙、朝鮮のどこかで何千年もの
間に分岐したこともありえる。一番深いD2a1a* D2a1a1 (P12) あたりの分岐が遼東方面でないかとも
思うが。これならO-SRY+465.、O-47zと似通ったテンポになる。日本において分岐するようなエベント、
環境は考えられない。
- 117 :月光仮面:2008/10/11(土) 15:29:10 ID:B1b35XWh
- http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2b.gif
この分岐の一部は↑この表にはいり、一部はアフリカ、ユーラシアのどこかにおさまるので
あろうが、 http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2c.gif
この辺にかなり集中していた公算が大である。
- 118 :月光仮面:2008/10/11(土) 15:33:39 ID:B1b35XWh
- 日本にはオリンピックの入場のようではなく、夕月(半月旗文化圏)の民、白山の民、豚肉愛好の民、と
いった風にまとまって入ってきたのであろう。
- 119 :出土地不明:2008/10/12(日) 01:59:22 ID:nSLbsNIL
- がいやまんくんは何でもかんでも渡来人にしてしまう妄想癖があるな。
実際はそんなに渡来人なんてやって来れないんだよ。
- 120 :月光仮面:2008/10/12(日) 07:52:00 ID:63gAttgM
- 日本はアフリカなんかと違ってもともと海底だからなー。渡来人じゃない人はいないんだよ。ユーラシア
ですらホモサピエンスはいなかったんだもんね。大体欧州なんかは氷河の下で草木もなかった。日本
から持ち帰ったりしているんだ。下北半島まで北上した日本猿等は偉いもんだなー。
- 121 :月光仮面:2008/10/12(日) 08:41:37 ID:63gAttgM
- 遺伝学者のデータというのは妄想に近いというのはわかる。
http://www.eva.mpg.de/genetics/pdf/Japan.pdf ここにあるアイヌとか、特定県民のデータ等が
そうだ。
.........................................N D-P37.1 O-P31 O-M122 C-M8 C-M217 N... Others
Ainu (AIN), this study .....4 75.0...... 0.0...... 0.0....... 0.0....25.0...... 0.0. 0.0
Ainu (Tajima et al. 2004) 16 87.5..... 0.0.......0.0....... 0.0... 12.5...... 0.0.. 0.0
Aomori (AOM).................26 38.5... 30.8..... 15.4.......7.7...... 0.0..... 7.7.. 0.0
Shizuoka (SHI)............... 61 32.8... 36.1..... 19.7.......4.9...... 1.6..... 1.6.. 3.3
Tokushima (TOK) ...........70 25.7....32.9..... 21.4..... 10.0..... 2.8......7.1.. 0.1
Kyushu (KYU) .................53 26.4....35.8 .....26.4....... 0.0..... 7.5..... 3.8.. 0.0
Okinawa (OKI)................. 45 55.6... 22.2..... 15.6....... 4.4 .....0.0..... 0.0.. 2.2
All a................................259 34.7... 31.7..... 20.1....... 5.4..... 3.1..... 3.9 ..1.1
特に↓このデータでアイヌをD-P37.1と決め付けたんだろうが、
.........................................N D-P37.1 O-P31 O-M122 C-M8 C-M217 N... Others
Ainu (AIN), this study .....4 75.0...... 0.0...... 0.0....... 0.0....25.0...... 0.0. 0.0
Ainu (Tajima et al. 2004) 16 87.5..... 0.0.......0.0....... 0.0... 12.5...... 0.0.. 0.0
そうではなく、アイヌはC-M217と見るべきだろう。サンプル人数Nを見ても、アイヌは総計で二万人
そこそこだ。一億分のNと、259人分のNでは比較にならない。
- 122 :月光仮面:2008/10/12(日) 08:53:56 ID:63gAttgM
- 私はこれらの遺伝子のうちシェアーの大きなものが弥生時代の恩恵を受けたものと考える。
すると上位3株D-P37.1 O-P31 O-M122が抜群であるので、これを弥生渡来人とする。更に
そのうち朝鮮データにより弥生時代朝鮮経由とされるO-P31 O-M122を稲作農民、D-P37.1を
畑作農民と考える。
- 123 :月光仮面:2008/10/12(日) 08:59:06 ID:63gAttgM
- で、D-P37.1 が朝鮮でいられなかったのは前漢・後漢時代に顕著な殷・胡系統に対する政治圧力
にあったと見る。既に秦始皇帝は「秦を滅ぼすのは胡なり」とする託宣を信じ万里の長城で対抗して
いる。漢・三国も最後には北方からの圧力で瓦解する。
- 124 :月光仮面:2008/10/12(日) 09:07:10 ID:63gAttgM
- 歴博の白石さんのデータでは銅鐸は殷の文化と見える。九州・関西の銅戈と言うのも殷の時代からの
武器だ。殷の要素であるとか、ペルシャ文化などとのつながりの深い秦氏というのもある。
- 125 :月光仮面:2008/10/12(日) 10:15:00 ID:63gAttgM
- 実際に渡来人が来たという遺跡は、例えば箱式石棺墓の臨海地方での出土の傾向などを除けば
ほとんどないが、弥生初期においては数においては極めて少なく、渡来人遺伝子のシェアーは
日本国内で稲作を中心とする農業が普及するに従って増加したものであり、日本国内による膨張
が渡来人遺伝子シェアー拡大の原因。ただ、裏日本には月支王の侵攻であるとか、渡来人の
漂着であるとかの伝承は多い。
- 126 :月光仮面:2008/10/12(日) 11:34:31 ID:63gAttgM
- >>115
「白山部は「古(いにしえ)の沃沮」と明記されるなどのことから、各靺鞨諸部は同一民族ではなく、
部ごとに民族系統の異なる連合体と考えるのが妥当」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8
「部ごとに民族系統の異なる連合体」・・・どうしてこんなに再分化するのかといえば、欧州、中近東、
中央アジア、中国において農耕民族とこれらNomad間にあった補完関係が急激に崩壊し、古代の
興隆窪文化圏を発した山岳民族(山戎のように呼ばれる)が満州に再結集するという歴史的過程を
経ているのであろう。
ただ、越前のククリ姫についてはLena Indigirka Yana河水域における積丹半島のろうそく岩のような
自然石をKekurとよび、これをメンヒルとして立てたものをGurと呼ぶが、石上神社のフルの御霊は
おそらくはGur信仰から来るのであろう。
http://images.yandex.ru/yandsearch?text=%D0%BA%D0%B5%D0%BA%D1%83%D1%80%D1%8B%20%D1%81%D0%BA%D0%B0%D0%BB&stype=image
- 127 :月光仮面:2008/10/12(日) 12:08:29 ID:63gAttgM
- http://kamnavi.jp/mn/mnikutama.gif
田とは漢字ではなく、四方を濠、溝、大海に囲まれた大地、環濠集落、墓地を意味する符号であり、
大地よりそそり立つケクルは大地の生命力の現れ、であったたが、墓域、結界を守る立石、石板、
スラブを防衛に立たすとイースター島、モアイ像、日本の天狗、鹿島様そしてこの古墳時代の
田の神像となる。これは縄文の石棒文化とバイカルのスラブ墳文化の神学的解釈が具現したこと
を表す。鬼は外、福は内で、ウズメも生まれる。信州を中心に広がる男女の道祖神、賽神という、クナド
神思想はこうした縄文と百済方面から渡来する大陸思想の習合によるものであろう。
- 128 :月光仮面:2008/10/12(日) 12:22:20 ID:63gAttgM
- 鹿石とはこうしたメンヒルの頭部にトナカイの頭を刻んだものである。年毎に成長するトナカイ・鹿
のシンボルは、そのメンヒルの領域の排他的使用を保障する境界石としての役割を果たしたようで
根底にあるのは平面的スペースを確保するクナド神の思想であり、後には英雄的戦士、首長をシンボ
ライズする方向に発展する。そして日本でも岩戸山とか、飛鳥猿石等に出現している。カッシートも
クドゥルと言う境界石でバビロニアを統治している。
- 129 :月光仮面:2008/10/12(日) 12:28:47 ID:63gAttgM
- カッシートの統治のように日本において王権の平面的拡大を担当したのが椿神社、猿田彦、土公氏で
ある。ここに周の初め中国西方に蟠踞した鬼方・土方が日本の宗教界に流れ込んでいることが現れて
いる。
- 130 :出土地不明:2008/10/12(日) 15:21:27 ID:khvW1ZGq
-
■古代カラ半島における『民族戦争』の歴史
西暦313年に、高句麗が楽浪郡に侵攻して滅ぼした。翌314年には楽浪郡南部の帯方郡を滅ぼした。
この時、楽浪郡に居住していた漢人および倭人が難民化し、半島の南部−任那(西韓)に流入した。
任那を支配していた任那日本府(大和朝廷が半島南部の沿岸地区に設置した総督府。大宰府の協力機関)は、
これらの難民を保護し、彼らの一部を日本に移住させ、残りの漢人・倭人を任那北部(現在の忠清道地方)で
軍事組織化し、高句麗軍と戦わせた。
そして346年、旧帯方郡地方(今の韓国・京幾道)を高句麗から奪還すると、その地を彼らに与え、国を建てさせた。
これが『百済』(バイヂェ)の始まりである。
つまり、百済は楽浪郡の難民たちが、大和朝廷の政治的・軍事的支援を受けて建てた国なのである。
百済建国時に、半島中部の倭人たちが任那(西韓。百済領は後世、この地に移動する)に逃げてきた事実からも
明らかなように、全羅道(古代においては任那)は半島の倭人勢力の避難場所だったのである。
任那へ避難したのは半島中部の倭人だけではない。西暦200年代初頭に、ケリン(現在の江原道南部にあった国)が
シラキ(知ら城。現在の韓国・慶尚道地方にあった倭人国)を侵略した際にも、シラキの倭人たちは西韓(任那)へ
避難したのである。
西暦200年代から800年代にかけて、半島中部および東南部の倭人勢力は、高句麗や新羅(ケリン)の侵略によって、
半島南西部へ押し込められたのである。この半島南西部こそが今の全羅道なのだ。
新羅(ケリン)を建国し、7世紀に半島を統一したワイ族は、古代から半島南西部を「倭人の地」と見なし、
敵視してきた。
これが、韓国において全羅道人が他の地方出身者から敵視され、憎悪を受けている理由なのである。
つまり、古代ワイ族の倭人に対する憎悪が、中世にも受け継がれ、さらに現代にまで受け継がれているのである。
もちろん、全羅道の住民を、「ワイ族ではない」と言っているわけではない。現在の半島人は全羅道人を含めて、
全員がワイ族の子孫である。ただ全羅道の住民は、韓国の他の地方の韓国人と比べて、倭人の血が濃いのは事実である。
全羅道人は、その事実をまったく自覚していないようであるが。
現代の韓国人はワイ族の子孫であるが故に、古代ワイ族の倭人に対する「敵意」を受け継いでいるのであり、
これが、韓国における全羅道人差別と反日主義の原因なのである。
ようするに、韓国社会の中に定着している『全羅道人差別』と『反日主義』は、実は同根なのだ。
64 KB
[ 2ちゃんねる 3億PV/日をささえる レンタルサーバー \877/2TB/100Mbps]
■ おすすめ2ちゃんねる 開発中。。。 by FOX ★
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
【裏の歴史】空白の四世紀【タブー】 [日本史]
神武東征は事実か神話か [民俗・神話学]
【くたばれ】 政権交代を実現させよう 【自民党】 [議員・選挙]
日本人は混血民族か否か [地理・人類学]
新着レスの表示
掲示板に戻る
全部
前100
次100
最新50
read.cgi ver 05.0.7.8 2008/09/25 アクチョン仮面 ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)