扶余族
- 1 :出土地不明:2007/08/10(金) 13:46:05 ID:i6vCA21s
- 扶余族について知りたい。どこから来たのか。どこに行ったのか。どんな言葉を喋ったのか。
我々の本当のルーツが知りたい。
- 2 :出土地不明:2007/08/10(金) 13:49:09 ID:i6vCA21s
- 扶余(ふよ、プヨ、〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fu'yu'〕)は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、
万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は?婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)接する、
方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に住んでいた。
夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。
穀物は余り良く育たない土地に定住したが、好戦的であり、歌舞飲酒を好み、風俗は淫乱であったと記録される。
元々前漢の玄菟郡に属し、その後、三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の配下に入った。
しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。
この扶余族には、沃沮(よくそ)・?(わい)・高句麗なども含まれ、朝鮮半島北部を中心に広く分布していた。
他に百済王家も扶余系とみられ、南扶余と国号を自称していた時代がある。
また、百済王の姓も扶余または余と名乗っている。
- 3 :出土地不明:2007/08/10(金) 13:58:39 ID:i6vCA21s
- 大韓民国忠清南道の郡、扶余郡(プヨぐん、ふよぐん)は、百済最後の都があった。
面積634.9平方キロ、総人口82,546人(2005年4月現在)。過疎化で若干減少気味となっている。
1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶余邑。(Wikipedia)
百済の始祖温祚王というのは、まだ原始部族国家のひとだが、韓民族ではなく、朝鮮の歴代の王朝の始祖が
つねにそうであるように北方の満州あたりから南下してきた扶余族の出身であった。
扶余族というのは南満州や鴨緑江の山谷を駆けまわって狩猟していた連中であり、
やがては北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、南朝鮮諸国を圧迫した。
その一派が南朝鮮の韓民族地帯に入って征服王となり百済国をつくったのであろう。
従って、百済の始祖温祚王というのは、背が高く、目に蒙古襞をもち、
ほお骨の秀でた北朝鮮型の容姿をもっていたであろう。頭はまわりを剃って髪の一部をながくのばし、
それを編んでいわゆる辮髪であったにちがいなく、
その服装は北方騎馬民族の特徴であるズボンをはいていたに相違ない。(司馬遼太郎)
実在する最古の天皇14代応神の墓、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した国宝の「金銅製透彫鞍金具」は
中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一。
- 4 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:02:13 ID:i6vCA21s
- 参考URL
倭人の形成(九州大学)
ttp://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/wajin.html
国宝「金銅製透彫鞍金具」の比較図
ttp://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/12.28kawati3.htm
- 5 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:08:58 ID:W/bg5Kkm
- 扶余族は解体後女真や日本に吸収されたのですか?
そして、朝鮮半島は完全に韓化したと。
- 6 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:17:59 ID:i6vCA21s
- ちなみに奈良県明日香村は扶余郡と姉妹都市。
- 7 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:29:59 ID:i6vCA21s
- >>5 詳しくないですが、
百済王が扶余または余と名乗っており昭和期まで自分の事を「余は〜」という言い回しが残っていた事。
江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
等からも、私たち日本人が扶余族の末裔である事を実感するのですが。
- 8 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:31:49 ID:W/bg5Kkm
- >>7
扶余系日本人はごく一部じゃないのですか?
ただ、百済からの避難民が優遇され上流階級だったから文化がたくさん取り入れられただけで。
- 9 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:38:12 ID:i6vCA21s
- 今、URLが手元に無いですけど、
九州の吉野ヶ里遺跡から出土したものと、韓国の扶余博物館の展示物がほとんど同一である事などから、
百済建国や、大和朝廷(ヤマト王権)樹立前から、扶余族は日本に進出していたのではないでしょうか?
- 10 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:46:00 ID:W/bg5Kkm
- 扶余博物館の展示物のルーツが扶余(北満州)から伝わったものではない可能性もありますよ。
たとえば、原朝鮮人やワイ族の文化を扶余国家に広まっていても不思議ではないはずでは
- 11 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:47:39 ID:W/bg5Kkm
- ワイ族の文化を→ワイ族の文化が
- 12 :出土地不明:2007/08/10(金) 14:59:52 ID:i6vCA21s
- 「原朝鮮人やワイ族の文化を扶余国家に広まっていても不思議ではないはず」
そう思います。進出に従って行く先々の影響を受ける事はあると思います。
ただ、古代中国人の言う「倭人」が古代日本人のみならず朝鮮半島人も指し示していたようですし、
朝鮮半島南部と九州北部の文化がほぼ同じだという事は「倭人」≒「扶余族」だったのでは無いでしょうか。
ちなみに実在最古の天皇といわれる14代応神は、現在の福岡県東区香椎に住し奈良県へ移動したようです。
朝鮮半島>対馬>壱岐>福岡沿岸(香椎)と進出していった可能性は否定出来ないと思います。
ワイ族、原朝鮮人については知識不足です。
- 13 :出土地不明:2007/08/11(土) 14:16:45 ID:mizdRcqR
- 扶余族とワイ族の違いは?
- 14 :出土地不明:2007/08/11(土) 14:33:30 ID:leAGu+9Q
- ☆プヨhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99ペクチェhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
- 15 :出土地不明:2007/08/12(日) 21:05:03 ID:PD/bnyrh
- >>7
つまり、17世紀以後に日本に扶余族が大量にやってきたと言うことですね(笑笑笑)
- 16 :出土地不明:2007/08/12(日) 23:26:08 ID:55z1ybgh
- >>7
>江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
>江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
>江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
>江戸時代までの「ちょんまげ」は、辮髪の一種だと思われる事。
- 17 :出土地不明:2007/08/13(月) 00:01:11 ID:uX4CC3XS
- >>7-9
広開土王碑などにより彼等の入植は4世紀〜7世紀だと思う。余は〜と使い始めたのはいつ頃から?彼等が入って来た事で何が変わったのか。私は何も変わらなかったと思うし、天皇は朕、又は吾と言っていたのではないかと思ってる
- 18 :出土地不明:2007/08/13(月) 00:04:26 ID:iilVspmm
- >>17
百済解体時に入植したのか
- 19 :出土地不明:2007/08/13(月) 00:54:16 ID:uX4CC3XS
- >>18
大幅はね。でも4世紀からは本格的に移住し始めてたんじゃ?で、なんで、さげなの?
- 20 :出土地不明:2007/08/13(月) 01:46:23 ID:iilVspmm
- >>19
専ブラだから。
で、4世紀から「本格的に」移住し始めてたというソースは?
- 21 :出土地不明:2007/08/13(月) 03:49:00 ID:uX4CC3XS
- ≫20
ソースらしいものはない。広開土王碑やら紀やらを読んでの判断。
高句麗は扶余の一族だと思う。だけど同胞の百済を倭の侵攻の時に取られてしまった。
倭が連れ帰っていてもおかしくはないし、自主的に渡ってくる可能性も。
また4世紀には阿智岐、王仁等漢人も移住してきている。この時期任那の事もあるので「本格的」な入植があっても不思議じゃない。
(戦後の国内における半島の人みたいなもん)
- 22 :出土地不明:2007/08/13(月) 05:37:59 ID:6hVmxS89
- 大秘史☆日本府http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%9C伽耶"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6任那http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3
- 23 :出土地不明:2007/08/13(月) 10:15:31 ID:yHl2qrQh
- 九州北部の吉野ヶ里遺跡、山口県日本海沿岸の土居が浜遺跡なんかは明らかに朝鮮半島渡来人(必ずしも朝鮮人とは
限らず、中国人なんかも居たと思う)の特徴があるみたい。土井が浜遺跡の埋葬された人は故郷?の方を向いているとか。
また縄文人の文化風習とは明らかに異なる特徴があると。
遺伝子的にも、縄文人はYAP-、弥生人はYAP+が多い事が明らかになって渡来人である事を裏付けていると思います。
そのYAP+はモンゴル、満州あたりに起源を持つようです。それは日本語のルーツとも重なります。
扶余族はその頃、となりに住む中国西部の鮮卑族等の攻撃で、かの地から南下し始めます。これが中国三国時代(3世紀)
ですから、4世紀頃、本格的に日本に渡ってきたのではないでしょうか?ちなみに鮮卑族の遺跡から2003年(?)発掘された
鞍が、実在が確認される最古の天皇、14代応神の墳墓の国宝と細部まで全く同じである事もこれらを裏付けていると思います。
扶余族には、沃沮(よくそ)・ワイ族・高句麗なども含まれる様です。扶余族は東扶余という国を高句麗以前に建国して
いたと言われ「天の神の子孫が国を創る」という日本神話と全く同一の神話があります。実在の東扶余は吉林省だそうですが。
百済建国は4世紀、日本の応神天皇在位も4世紀、大化の改新は7世紀。南扶余建国は6世紀。百済滅亡は7世紀。
遺伝子、言語、文化、遺物、まさに、我々現代日本人のルーツは扶余族だと思う根拠です。
- 24 :出土地不明:2007/08/13(月) 10:55:48 ID:yHl2qrQh
- 余談ですが、それらを踏まえ、日本国の創生期を推論してみました。
実在が確認される最古の天皇、14代応神は、扶余王族子孫で、朝鮮半島から4世紀に現在の福岡県東区香椎に移住した。
(牧畜騎馬民族である)扶余王族の証として現在国宝に指定されている「金銅製透彫鞍金具」を所持していた。
以後、九州制圧、熊襲と呼ばれた日本原住民を制圧、支配下に置いた。さらに大分県にあった邪馬台国を滅亡させた。
(後、鎮魂の為に宇佐神宮を建立。)更に、北上して奈良に落ち着き、大和朝廷を成立。
大化の改新後、大和朝廷の権威の象徴として、東扶余建国神話同様の、天照の大身神から始まる神話を創作した。
(古事記日本書紀)
東北から北は、坂ノ上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷と呼ばれた東北日本原住民を制圧、支配下に置いた。
後、歴代将軍(征夷大将軍)が実質政権掌握、徳川将軍の大政奉還まで続き明治時代へ。
こんな感じではないでしょうか?
- 25 :出土地不明:2007/08/13(月) 16:28:12 ID:uX4CC3XS
- >>23
遺伝子の件ですが、大和があった近畿地方にどれだけ分布していますか?
紀で読む限り、移住者の居住地区は限定されたみたいですけど。
日本の歴史は統一はしていないとはいえ、応神以前にも遡れますよね。後に渡って来たグループをもってルーツにするには、彼等がどのくらい大和に入り込んだのか、知る必要があるかと。
「天の神の子孫」の伝承は世界各地にあります。ただ太陽神が女性なのは、日本だけだったかな?ほかにもあれば教えてください。扶余は男性でしたっけ?
中国の史書を読めば、大和の文化は半島文化を混ぜた物です。
呼称は倭人と扶余人は区別されていますが、百済は高句麗の扶余と同族と記載されています。
- 26 :出土地不明:2007/08/13(月) 20:56:33 ID:uX4CC3XS
- 後一つ。文化が違うことは中国の史書を見ればいいとして、言語ですが、当時の倭とは違う可能性もありますね。
紀によれば外国人と話しているのは帰化人で、通訳の役割をしていたようです。
- 27 :出土地不明:2007/08/14(火) 10:40:26 ID:bXRSBHYq
- 「大和があった近畿地方にどれだけ分布していますか? 」
調べたけど、判りませんでした。研究されている方ヘルプ。(゚∀゚,,)
明日香村あたりは間違いないところでしょうね。大化の改新で滅ぼされた蘇我氏も朝鮮系だったとはどこかで知りました。
「漢倭奴國王」金印が一世紀半ば作成(同じ工房で作成されたと思われるものが中国で出土してます、それが57年作成)
ですから、応神前にも往来はあったでしょうが邪馬台国の消滅など激変するのは応神頃だと思います。
「天の神の子孫」の伝承、いわゆるシャーマニズムですかね?どこにでもある原始信仰ですね。
ただ、扶余の「天の神の子孫が『国を創る』」部分は非常に似通っている気がします。宮崎高千穂の霊験地や、
大分の宇佐神宮を鑑みると、女神、天照の大身神は、卑弥呼にちなんだものかも知れないですね。
ただ、日本書紀に全く記載が無い所を見ると滅ぼされたのではないかと推測する次第です。
土着の原始日本人(縄文人)は、大陸と陸続きだった頃に日本に至ったのではないでしょうか?弥生人とは、
縄文人と渡来人の混血だと思います。専門家によれば明らかに劇的な変化が認められるとの事、又、朝鮮半島の
国家乱立時期とも重なる事等から「応神前後に大挙して渡来し征服し、国家を樹立した」と見てほぼ間違いないと確信します。
言語、日本語の文法と朝鮮の文法は同じで、双方とも漢字を借用して表記した事、数字の数え方にモンゴル地方との近似が
指摘されているとか、満州、モンゴルに居た「扶余」が朝鮮半島から九州近畿にかけて征服していったあたりから、
現代に続く言語も形成されたのではないでしょうか?
私が推測するのに大和朝廷樹立に至ったのは、645年大化の改新の、ほんの2-300年前の間の事ではないかと思います。
いずれにしろ私は専門家ではありません。ただ非常に興味がある部分なので、いろいろ勉強し教えを請いていきたいと思います。
宜しくお願いします。
- 28 :出土地不明:2007/08/14(火) 13:56:58 ID:idOANdRj
- >>23
縄文はYAP+、弥生はYAP-ですが?
- 29 :出土地不明:2007/08/14(火) 14:36:25 ID:H5MRty4t
- 間違いです。ご指摘有り難うございます。
- 30 :出土地不明:2007/08/14(火) 23:02:25 ID:E23FRhZn
- 俺は夫餘族という言葉自体が気に入らんな。
正確には夫餘国、主体の構成族がシ歳族だと見ている。<シ歳王の印だったかな
このシ歳族は殷の避難民か、またはその影響を受けた地元民で、部族単位だった
のが征服王朝によって夫餘国が建てられた。としているのが古書の大筋だね。
ここで伝えられる征服王朝だが、西のフン族と同じく、
匈奴(最盛期後)の一部とすると、シ歳族の民族移動が理解しやすいかもしれん。
高句麗の支配地であった半島北南東部の東沃俎、シ歳国などがその主な移住地で
帯方郡との戦いで滅んで拡散、そして辰韓が新羅になった原動力を持つ。
この匈奴の王族系を夫餘(王)族としてみても良いかもしれん、それが高句麗、百済
王朝の伝えになるのだが、これはかなり怪しい。高句麗がシ歳族支配のために夫餘
王朝伝説を利用した可能性が高い。なぜなら5千の母丘の騎馬軍勢にあっさり蹴散
らされまた戻っている。所謂、「祖先の地」であり、定住地なんだな。
支那書の高句麗県の記載と良く合う。つまり高句麗、百済は原住民系狛族と見た方
が良いだろう。これを夫餘族と信じ込みたかった理由は、それじゃ対外的にまずかっ
たという事で、相当な差別感が当時半島にあったと思われる。
まぁ、日本の朝鮮族、朝鮮の倭、マツカツ侮蔑差別と似たようなものか w
板的には、このシ歳人の今洲利(イマスリ)という人が、5世紀に鏡を作り金文字を彫り
込んでいる。高麗でも百済でもなくシ歳人として銘を打ち朝廷に献じている。
- 31 :出土地不明:2007/08/14(火) 23:24:06 ID:idOANdRj
- まあ、ワイも扶余も高句麗も同一民族だわな
- 32 :出土地不明:2007/08/15(水) 03:42:20 ID:7Kl/dSXg
- まず、何を推論の根拠とするか。ここをハッキリする必要があると思います。
@DNA
A物証(遺跡遺品)
B歴史書
C言語の類似
Dその他、文化の類似
プライオリティーの高さはこの順では無いかもしれませんが大まかには、これらで一貫性のある事象が揃えば、
ほぼ断定しても良いのではないでしょうか?
21世紀になってからも中国の遺跡から古代日本にとって非常に重要な遺物が出土しています。
例えば、中国遼寧省から出土した鮮卑族の鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一の、
応神天皇陵、誉田山古墳の国宝「金銅製透彫鞍金具」。これは中国出土以前には、古代日本の技術の高さとして
教育/流布されていたと思いますが、中国から全く同一ものものが出土した事、これをどう解釈されますか?
- 33 :出土地不明:2007/08/15(水) 11:28:30 ID:XTA2W3nS
- 大雑把に、
ワイ族>現代朝鮮民族に色濃い。
扶余族>現代日本民族に色濃い。
混血は双方にあるでしょうが、こんな感じで捉えてますが違いますか?
あと、現在でもモンゴルで日本の国技、相撲の原点が見出される事も興味深いですが、
現代モンゴル人は、扶余族の末裔もしくは混血では無いでしょうか?
ちょっと、観点が大きくなってしまいますが、モンゴル>エスキモー>カナダのエスキモー>
アメリカンネイティブインディアン>ペルー人と、我々と共通した骨格があり(歯とか)、
「あやとり」という遊びも南米最南端まで共通した「モンゴロイド」みたいですね。
モンゴロイドという観点からは日本も中国も朝鮮も同じといえば同じでしょうね。
- 34 :出土地不明:2007/08/15(水) 14:16:04 ID:22J53CfX
- >>33
アフォか!
どんなに扶余族が日本民族に色濃かろうとその割合は1割にも満たんわ!
まさかお前は弥生から古墳時代にかけての文明はすべて扶余族のものと言うのか?
まあもっとも、相撲は北方系にしか出来ない競技だから扶余族などの朝鮮を経由した大陸系がもたらしたと考えて妥当だが、
北満州で発生した扶余が相撲も同時に生み出し、西のモンゴルと東の日本にそれを教えたというのは飛躍しすぎでは?
むしろモンゴル相撲が扶余にも伝わってそれが変形しつつ日本に渡ったと考えるべきでは?
- 35 :出土地不明:2007/08/15(水) 17:29:42 ID:aMJmN6rp
- 文化は多種多様に流入し形成されたと思いますが、大和朝廷を樹立したのは扶余が先頭に立ったのでは無いでしょうか。
- 36 :出土地不明:2007/08/15(水) 19:38:09 ID:KyyqUNcn
- >>35
そう考える理由は?
- 37 :出土地不明:2007/08/17(金) 09:43:57 ID:HBrrLe5Z
- 「大和朝廷を樹立したのは扶余が先頭に立って行った。」
4世紀頃、扶余族が、と思う根拠は、
3世紀には明らかに存在したであろう邪馬台国の滅亡や諸国の衰退と同時期に顕著になる大和朝廷の存在だと思います。
それが、主に扶余族による朝鮮半島の国家乱立と時期を同じくし、遺品もそれを裏付けるものが出土している。
弥生時代開始前後から半島からの流入はもちろんあって縄文時代と区別出来る弥生時代が形成されたでしょう。
それは、同じ事がDNAからも断定出来るようです。2〜3世紀には倭国大乱等、国家の原型が乱立するほど人口も増え、
漢や魏に国家としての証明を求めています。その頃に大和朝廷はまだ存在しなかったのではないでしょうか。
宮内庁がやっかいですね。考古学的追究をさせない。当然記紀神話、天皇制、何より自らの権益を守る為でしょう。
しかし、あらゆる研究、物証、傍証が「日本民族は渡来人と土着縄文人の混血による」「大和朝廷は扶余族」という事を
示唆しているのではないでしょうか。
特に都市開発著しい2000年以降の中国で次々に発見される遺跡遺品の数々が日本古代史にも大きな意味を持つ
ものが出て来ていると思います。
私は物好きなただの素人なんで、間違いがあったらご指摘頂ければ幸いです。
- 38 :出土地不明:2007/08/17(金) 14:26:28 ID:a3UomEW4
- >>34
相撲が北方系な昔から引っかかる点だが、なぜハヤト血統が相撲
をとらなならんのか、大いに謎だw
- 39 :出土地不明:2007/08/17(金) 15:08:46 ID:HY93zhRr
- 3−4世紀に鮮卑、女真などの圧迫を受けて満州モンゴルの地から逃れ日本列島に至った扶余直系の日本天皇家が、
20世紀に、124代天皇’日本陸海軍大元帥)裕仁の時に、実質支配下に置いたという史実は因縁を感じさせますね。
- 40 :出土地不明:2007/08/17(金) 16:06:37 ID:9vlfN3V+
- >>37-39
天皇陛下は朝鮮人ではありません
- 41 :出土地不明:2007/08/18(土) 08:14:54 ID:YN+QEc40
- 天皇家は扶余族の子孫ですか?
- 42 :石川:2007/08/18(土) 11:12:54 ID:r0ZK41eJ
- 扶余-卒本扶余-高句麗-温祖百済-(百済聖王)南扶余-?
- 43 :出土地不明:2007/08/18(土) 12:44:25 ID:humJ6sMC
- 「扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたもの」
-奈良の鹿は、扶余の象徴でしょうか。
「高句麗系の史書『朝鮮史』より抜粋」
「依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。
自後、慕容?、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。」
-依羅が倭国に渡来したのが3世紀後半285年前後だそうです。
- 44 :出土地不明:2007/08/25(土) 08:26:48 ID:8Fbi4HsP
- >7 江戸時代の頭を剃るちょんまげじゃなくて古代から安土桃山時代くらいまでの支配層のちょんまげだろ?
天皇はじめ,武士階級の後ろで結わえて真上に上げる,あのやり方は今でも中国北東部のなんとかって遊牧民
同じようにやってるよ。騎馬民族特有の髪型じゃないかな。
自分の妻に鎧を着せて一緒に戦場で戦うとか,姉が死んだらその妹を嫁にするとかって風習も同様。
- 45 :出土地不明:2007/08/26(日) 10:02:19 ID:kFrbvAZU
- >>44 へーえ。
いわゆる「ちょんまげ」(月代=さかやき)は、「応仁の乱以後武士が常に冑(かぶと)を付けたとき、
頭ののぼせを防ぐために髪をそったことから、逆気(さかいき)の転じたもの」だそうです。
聖徳太子みたいのは「冠下の髻」(かんむりしたのもとどり)もしくは、「頭上一髻」(ずじょういっきつ)というらしいです。
武士の時代になっても将軍なんかはこれだそうです。確かに徳川慶喜のこんな写真があったような気がします。
それ以前の邪馬台国っぽい(?)のは、「美豆良」(みずら)だそうで。
ttp://www.cosmo.ne.jp/~barber/kamigata.html
「中国北東部のなんとかって遊牧民同じようにやってる」
写真で見て見たいですね〜。
あと言語で極めて日本語に近いってのは無いのでしょうか。一度中国少数民族(どの辺だったかは覚えてない)
の数の数え方が驚くほど日本語の発音に似ていたのをテレビで観た事があります。
- 46 :出土地不明:2007/08/26(日) 21:50:33 ID:T3KgfJzh
- 天皇家のY遺伝子を調べればおもしろいと思うが、無理か。
- 47 :出土地不明:2007/08/26(日) 22:39:53 ID:re6Jb6v2
- >>46
意外とD系だったりして
- 48 :出土地不明:2007/08/26(日) 23:03:04 ID:OSfm8Ao9
- >45 邪馬台国は現在の俺達とは何の関係もない。侵入してきた加羅人に滅ぼされてるので。
弥生時代の国っていうだけでヤマト朝廷とは関係なし。
- 49 :出土地不明:2007/08/27(月) 00:08:39 ID:WDWIwsNF
- 大和朝廷は近畿の勢力。
邪馬台国は九州の勢力。
そもそもが違う
- 50 :出土地不明:2007/08/27(月) 00:42:14 ID:ReuIE6oe
- 邪馬台国九州説は強まったのでしょうか?私はそう確信しますが。
大和朝廷は、やはり朝鮮半島>対馬>壱岐>博多>下関>奈良と北上していったと見た方が自然ではないでしょうか?
- 51 :出土地不明:2007/08/27(月) 00:56:59 ID:WDWIwsNF
- >>50
自然?どうして?
- 52 :出土地不明:2007/08/27(月) 02:05:42 ID:ReuIE6oe
- 考古学的最古の天皇を名乗ったと推定される、応神が香椎に住み、北上して奈良に落ち着いた事という故事逸話。
彼の墓に納められた(本来は扶余の地位を象徴していたと思われる)国宝に指定されている馬具。
記紀神話に暗示される九州原住民の征伐。
同時期に突如として消滅した邪馬台国。
宇佐神宮の存在。
魏志倭人伝に出て来る地名の九州各地名の類似。
同時期の朝鮮半島の情勢変動。
言語的な類似。
遺伝学的な類似と日本内での変化。
文化的な類似。
素人の私が思いつく限りを挙げてみました。
そもそも縄文〜弥生中期に「馬」が存在したのでしょうか?薄学なのでご教授お願いしたいところです。
- 53 :出土地不明:2007/08/27(月) 09:57:56 ID:brOS1TQm
- 北方諸民族http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B9,http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E8%AB%B8%E8%AA%9E,
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%B1%B1%E8%84%88
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