【毛野】関東に大王あり【武蔵】
- 517 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/29(日) 18:37:34
- 自然鉄ですから 量は少ないと思います。
日光やその他いくつかの神社で神宝として、伝わっているはずなのだが、
以前ネットで調べたときは、出てきたが今調べても出てこない。
- 518 :日本@名無史さん:2008/07/10(木) 23:39:43
- テレ東のぁゃιぃ歴史ミステリー番組で、さきたま古墳の稲荷山鉄剣の斯鬼宮を
栃木県藤岡町の大前に比定する説がでていたけど、このスレの人はどう考えているのでしょうか?
番組のかなりの部分はdでも説が多いけれど、この部分だけはなかなか面白いと
素人目には思ったのですがどうでしょう?
藤岡は、明治の渡瀬川改修以前は西を渡良瀬川、東を思川の低湿地に挟まれた
岬状に飛び出した台地で、上野、下野、武蔵、下総を睨む戦略的にも好立地だと思って見ていたのですが。
- 519 :日本@名無史さん:2008/07/10(木) 23:59:26
- 斯鬼宮栃木藤岡説は古田武彦氏の説だったと思うけど、どうなんだろうね。
むしろ考古学的には『毛野』という概念に反して渡良瀬川を境に
出てくるものが違うみたいだが。
- 520 :日本@名無史さん:2008/07/16(水) 23:04:38
- 藤岡の隣に岩舟町というところがあって、平野ばかりの土地になぜ?
と思わせる謎の地名です。みかも山公園(三毳山) という地名もあり、
加茂や毛野氏を連想させます。
- 521 :日本@名無史さん:2008/07/17(木) 00:19:44
- 昔、渡良瀬湿地帯は大きな湖で、古代の河川交通の要所にあった。
岩舟町大字静。静は瀞(トロ)と同義で、水の流れが静かなところ
を指します。船着場があったと思われます。トトロも同じです。
- 522 :日本@名無史さん:2008/07/17(木) 00:23:38
- 岩船には関東平野に突きだした立派な岩船山という奇山がありまする。
周りから見ると船に見えないこともない。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=361951&l=1393919
藤岡大前には国造東、国造西という地名がありますね。
- 523 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/19(土) 11:51:29
- >>521の説に同意する。
渡良瀬遊水地は縄文前期には古東京湾の最北端になる。
(渡良瀬遊水地南部の谷中湖湖底は現在の海水面より低い。)
谷中湖の南側にあたる海は、縄文中期以降に利根川の堆積物によってせき止められ、
谷中湖以北に南北15〜20km東西30〜50kmの湖(古谷中湖)が形成された。
この湖水は渡良瀬川の堆積物により徐々に埋め立てられ、
最後に残ったのが渡良瀬遊水地と谷中湖である。
岩舟町に残る水にちなんだ地名(静・戸・島)は、この巨大湖にかかわるものとみなせる。
又、岩舟山は湖に突き出して船の様に見えたことから付けられた名前とも考えられる。
- 524 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/19(土) 15:36:45
- 斯鬼宮
河内?のシキは、日本武尊の土地。
ワカタケが其の後を嗣いだ。
- 525 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:07:26
- 20万分の1日本シームレス地質図データベース
ttp://riodb02.ibase.aist.go.jp/db084/index.html
地質図で見る限り、静のまわりが旧谷中湖と考えるのは無理があるように思える。
蓮花川の瀞としてなら納得いくけど。
- 526 :日本@名無史さん:2008/07/20(日) 00:01:59
- >>524
栃木県には河内郡という地名があって、宇都宮市も旧河内郡でした。
つまり、河内とは川の内側という一般名詞ではないかと考えられます。
また、宇都宮は池辺郷、つまり、鬼怒川に繋がる大きな池のほとりに
ありました。宇都宮二荒山神社の主祭は崇神の四世孫豊城入彦であ
ることからも、河内イリ王朝との深いつながりが伺えます。
- 527 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/20(日) 01:10:30
- >>525
「静」は、古谷中湖中の現富士山などの3島より成り立つ群島の西の入江あたる場所である。
「静」は、東は上記群島、北は岩舟山湖岸、西は三カモ山湖岸に囲まれたところ。
- 528 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/20(日) 01:13:54
- 三カモ山→三毳山
- 529 :日本@名無史さん:2008/07/21(月) 00:02:43
- 渡良瀬川の谷中湖だけではなく、古代利根川や鬼怒川にも大きな湖や池がたくさん
あって、諏訪湖ももっと大きかったらしいし、松本湖があったと伝えられています。
その古東京湾沿岸やそこに繋がる河川や湖沼を支配していた豪族がいたはずなん
だけれど、その正体が見えてきません。それは、縄文時代中期以降、海面の後退が
早く、船着場が干上がって、港の支配者は勢力を維持すうことができなかったことが
原因ではないかと思うのだけれど、消えてから千年以上たった勢力の足跡を追うの
は難しそうです。
地球温暖化による環境変化も、早すぎると、大きな変革をもたらすことになるでしょう。
- 530 :日本@名無史さん:2008/07/22(火) 16:18:38
-
関東平野では、縄文晩期寒冷期に縄文人達はほとんどいなくなってしまっているからね。
古東京湾最北部の縄文人で弥生時代まで継続できたのは鷲宮だけのようだ。
- 531 :日本@名無史さん:2008/07/23(水) 17:52:45
- 活火山富士山や浅間山が近いからな。
火山大噴火→火山灰降灰・堆積→食糧難→人口激減→新参渡来人移住・定着→人口増大→火山大噴火→以下ループ
というループにより、古代から定住していた古代人(縄文人)が殆ど残らなかったのが関東。
- 532 :日本@名無史さん:2008/07/23(水) 19:41:12
- 実際、縄文文化とは、かけ離れた騎馬文化が栄えた。
朝鮮から馬を連れて来た民族が馬と共に増殖したのは明白。
- 533 :日本@名無史さん:2008/07/23(水) 22:47:30
- 今の群馬県の住人は東山道や碓氷峠を越えて入ってきた秦人が中心ですからね。
しかし、少数ながら縄文時代からの住民も住んでいると思います。
その違いを明らかにしたいと思っているのですが、混血もすすんでいるし、難しそうです。
徐福の子孫の血をひくらしい児玉党の福田氏も秦氏の血が相当混じっているような気も
するし、うーーん、どうなんですかね?
- 534 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/23(水) 23:55:35
- 相模の縄文人は弥生人と共生して、
縄文人の縄文晩期の人口激減もなく、
縄文から弥生への移行をしているから、
富士山の噴火は影響ないようだよ。
縄文晩期低温期の人口激減は関東平野中部北部だけだから、
人口減の原因は富士浅間の噴火ではないとみなせるよ。
縄文晩期人口の激減は海水面の低下や気温の低下によるものだと考えられる。
東山道や碓氷峠を越えて入ってきたのは、
出雲系弥生文化を持つ人々と思われる。
関東平野低地の海辺川辺の神社には、出雲系祭神が多い。
- 535 :日本@名無史さん:2008/07/29(火) 21:09:11
- 徳川家康がなぜ東照大権現として祭られたか、その理由が重要です。
徳川とは、『下野国日光山開闢之事』の中で「赤城山」対「二荒山」が戦って
勝利し古代関東を支配していた豪族の末裔だということです。
では、ムカデ(古代諏訪王の象徴)を破ったのはだれか?出雲の武甕槌とい
うです。つまり、徳川幕府は出雲幕府ということがわかります。
- 536 :日本@名無史さん:2008/07/29(火) 22:32:52
- 個人的妄想
ニギハヤヒ王朝(旧出雲王家)
神武王朝(旧奴国王家)
崇神王朝(旧馬韓王家)
応神王朝(旧辰韓王家)
雄略王朝(旧毛野王家)
継体王朝(旧越王家)
天武王朝(旧ニギハヤヒ王家)
桓武王朝(旧崇神王家)
- 537 :日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:04:10
- 自分の知っている古代王朝と倭の五王を無理やり結び付けても意味がない。
- 538 :日本@名無史さん:2008/08/01(金) 00:28:40
- 早めに考えても、畿内には文武以前に王朝などありえない。
王朝の体をなしていない。
- 539 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/08/01(金) 11:07:09
-
律令、元号と首都のない国家体制を王朝とは言えない。
王朝と呼べる国家体制は、
九州では西暦517年(磐井)から、(倭武までは大王国)
畿内では西暦700年(文武)から。(持統までは大王国)
- 540 :日本@名無史さん:2008/08/01(金) 23:37:12
- アフリカ西部で生まれたミトコンドリア・アダムとイブと呼ばれる新人類集団の
誕生からまだ5万年前しかたっておらず、現在の人類の共通の祖先から分化
したネグロイド、コーカソイド、モンゴロイドも外見上の差異はあれど、知的能
力の差は個体差を越えてはいないと言われています。
恐竜の歴史3億年に比べて、人類の歴史5万年は、遺伝的な進化には短か
過ぎることを考えれば当然のことです。
したがって、現状では、どの民族も能力差はないとみてまず間違いない。
支配者となるのは個体差によるもの。つまり、国の統治能力は、何代も続いて
優性遺伝することはありえないということです。
それが分かれば、権力や家業の世襲制が長続きせず、数百年以内に滅んだ
理由を理解できると思います。
- 541 :日本@名無史さん:2008/08/01(金) 23:45:44
- 遺伝的な進化には時間が短すぎるだろうけど、
生存競争的な遺伝子の取捨選択には充分な時間があったと思う。
- 542 :日本@名無史さん:2008/08/03(日) 07:48:36
- 出てくりゃなんでもかんでも天皇家の〜と結びつけちまうのがガン。
ノストラダムスの予言が当たった!てのと同じw。
- 543 :日本@名無史さん:2008/08/03(日) 22:57:27
- 縄文後期から、弥生時代を通じて存在したといわれる古東京湾、古鬼怒湾、
谷中湖、利根川、荒川、渡良瀬川、鬼怒川、小貝川、古代関東の水上交通
を支配していた大王が居たはずなんだが・・・
その大王は、足柄、伊豆、清水、岡崎、奈良にも拠点を置き、大和朝廷との
繋がりがあった。
- 544 :日本@名無史さん:2008/08/03(日) 23:03:19
- >大和朝廷
大和の朝廷ができたのは、早めに考えても8世紀以降。
縄文・弥生時代には大和朝廷など影も形もなかった。
- 545 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/08/03(日) 23:24:19
- >古代関東の水上交通を支配していた大王が居たはずなんだが・・・
いましたよ。
それらは、後世のムサシでありケヌであり、移住してきた出雲系の人達です。
8世紀に成立した大和朝廷とは何の関わりもありません。
筑紫舞「七人立ち」では、その関東の大王を「夷の翁」といいます。古田説引用
- 546 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/08/03(日) 23:26:05
- 筑紫舞「翁舞 七人立ち」
- 547 :日本@名無史さん:2008/08/04(月) 00:10:56
- その関東の大王は、伊治公痣麻呂やアテルイといった東北の蝦夷
以上に記録が残っていない。いつ、どのようにして大和朝廷の軍門
に下ったのか、もしくは、大和朝廷を支配していたのか?
紀伊や三河の勢力との関係は?
香取や鹿島を支配していた勢力との関係は?
つまり、徳川幕府は、関東の大王の復古ではないかと推測し、
いろいろ調べているのですが、これがなかなか難しいのです。
- 548 :日本@名無史さん:2008/08/04(月) 00:30:11
- 距離が遠いと、支配する・支配されるといった関係になるとは限らないのでは?
- 549 :日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:52:43
- >>544
崇神天皇の子、豊城入彦命は上毛野氏の遠祖といわれており、
赤城神社や宇都宮二荒山神社に祭られているけれど、豊城入彦命も
その子八綱田命も孫の彦狭島命も東国には行っていない。そして、
次代の御諸別命が景行朝に至って初めて東国に赴き治めることにな
るが、御諸別のお国入りで争いが起きたといった記述は見当たらない。
つまり、崇神朝以前に東国は、大和朝廷の支配下にあったことがうか
がえます。
もしかしたら、ワケ王朝とは、関東の大王が河内に移って起こした政権
ではないかといった推測もできます。
- 550 :日本@名無史さん:2008/08/04(月) 23:11:54
- そこらへんは鵜呑みにすべきとろろではないんでないの
記紀だけでは全くの論外で関東も考古学的な見地からも
考えるのが妥当でしょう。ただ、今の編年じゃあ無意味な
のでもう一度、現代の測定方法での調査のし直しが要求されるよね
イマジネーションを膨らませるのは結構だけどね
言われており、とか記述が無いから諍いも無かったとか幼稚すぎ
- 551 :日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:20:46
- >>550記紀を鵜呑みにしているわけではありません。
記紀以外にも、風土記や神社や地域に伝わるさまざまな伝承、
その他民俗学的な類似性、加えて、先土器、縄文、弥生時代の
遺跡の分布、古墳やその出土物など歴史的事実から総合的に判断
して、そういう結論に至ったのです。
どれもこれも決定的証拠になりえませんが、すべての事実が一つの
帰結に繋がる。歴史の解釈とはそういうものなのです。
- 552 :日本@名無史さん:2008/08/13(水) 20:27:24
- 稲荷山鉄剣の銘文に登場する乎獲居臣(をわけのおみ)とは誰か?!
これが関東の古代を説く最大のカギであることは、異論はないと思います。
ズバリ、獲加多支鹵大王とは雄略、この時代「をわけ」といえば、崇神の5
世孫、荒田別ということになる。
- 553 :日本@名無史さん:2008/08/13(水) 23:45:27
- だから違うっつーの
- 554 :日本@名無史さん:2008/08/14(木) 22:57:42
- 茨城・栃木に地図を見ると、星宮神社があまりにも多いことに驚かされる。
それは、大和朝廷がこの地を支配する前に、この地域を支配していた大王を
祭っていたからです。その名を「甕星香々背男命(みかほしかかせおのみこと)」
というらしい。
星の信仰といえば妙見、渡来系の大王ではないかと思われます。七夕まつり
の風習の残る平塚や仙台まで、広い地域を支配していた可能性があります。
- 555 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 15:40:21
- なんで関東の剣に、畿内人の名前があるはずがあろうか?
6世紀後半ですら、大和国は播磨国を支配できていなかったほど、
ヤマトの領土は狭かった。
獲加多支鹵大王がアレキサンダー大王だというのなら一理あるが(笑、
雄略である可能性は、サダム・フセインである可能性と同じ程度にすぎない。
- 556 :日本@名無史さん:2008/08/17(日) 17:51:24
- まあ、アレキサンダー大王自身が、アジアの小国まで遠征したとは思えないが、
アレキサンダー大王一人が戦ったわけではなく、小隊ごとに指揮官がいた
はずで、中には、そのまま帰らなかったものがいても不思議ではない。
その一人が、須佐能であり猿田彦であり獲加多支鹵だったという設定は、
SF漫画の設定としては面白いかも知れない。
- 557 :日本@名無史さん:2008/08/17(日) 21:15:04
- 星宮神社や鷲宮神社、旧河川沿いの神社等を調べていくと、
縄文末期から弥生時代の面白いことがわかってきそうだね。
あまりにも課題が大きすぎるので、関西在住の僕は調べられないが。
- 558 :日本@名無史さん:2008/08/17(日) 22:01:35
- >>557
良い視点ですね。それと「たかお神社」、たかおとは「高」という字に、
「お」(この字は、雨冠の下にロが3つ、その下に龍という字がつく難しい字です)。
この神社もやたらと多いのです。
そのほかに、なぜか琴平神社も多くて、これらの神社がどのような過程で広がっ
ていったのか調べていけば、古代関東の勢力がわかるはずです。
稲荷山鉄剣の謎も、もっと古い時代から延々と続く関東の歴史を追っていく中で
おのずと解き明かされると思うのですが・・・
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