【政治】平安貴族総合スレッド・1【生活】
- 1 :日本@名無史さん:05/03/20 16:59:32
- 前スレ
平安貴族は何て幸せだったんだろうか
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1029672791/
関連スレ
平安時代にはまとも軍隊もなかったのに
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1103855145/
期間としては教科書通りの平安時代(794〜1192年)における貴族全般がテーマです。
(関連した議論でも光仁天皇即位(770年)〜承久の乱(1221年)の範疇での議論を心がけて下さい)
- 2 :日本@名無史さん:05/03/20 18:11:32
- とりあえず1乙 ノシ旦 ぬる茶でも飲め
- 3 :日本@名無史さん:05/03/20 23:42:50
- 皇族方の御婚礼は平安時代の結婚が参考になってるらしいね。
一昨日の納采の義も平安時代から。
どうせならお二人に和歌を交わしていただきたいものだ。
- 4 :日本@名無史さん:05/03/21 01:29:48
- 平安時代の女性は出家のときは尼削ぎか丸坊主のどっちか。
尼削ぎ<丸坊主が定着したのはいつ頃なのだろうか?
個人的には尼削ぎベター。
- 5 :日本@名無史さん:2005/03/21(月) 04:40:56
- 建礼門院像は全剃りだたよ。
- 6 :日本@名無史さん:2005/03/21(月) 08:37:52
- http://society3.2ch.net/test/read.cgi/koukoku/1108236219/335
電通しね
- 7 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/21(月) 10:34:39
- >4
『栄花物語』の例を見ると分る様に、初めは尼削ぎにして、晩年になると完全
に剃髪したそうですが、これを「往生の為の男性化」と見る向きもあります。
もっとも、一般には女体のまま往生するとされる事が多かった様ですが。
無外如大像は、完全に剃髪していますね。職人歌合の律・禅宗の尼も同じ。
- 8 :日本@名無史さん:2005/03/21(月) 13:30:45
- 平安時代の貴族の生活が、当時の日本の一般論的に語られるのがすごくいやだ。
「平安時代の日本は通い婚でした」とかいってるのみると、腹立つ。
多くの庶民は貴族文化と違う生活してたはずだから、
平安時代の庶民文化を研究してる人が何で少ないんだろう
- 9 :日本@名無史さん:2005/03/21(月) 14:05:11
- 平安貴族は自分のこと「麻呂」っていいませんから!!
残念!
- 10 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/21(月) 19:26:19
- >9
「まろ」なら、言っていましたよ。当時は女性も使用しており、『枕草子』
にも出て来ています。
- 11 :日本@名無史さん:2005/03/22(火) 01:18:38
- >7
> 『栄花物語』の例を見ると分る様に、初めは尼削ぎにして、
>晩年になると完全に剃髪
東三条院や上東門院ね。読みながら「勿体無い」と思った。
尼削ぎ状態で臨終迎える人の例がもっとあればなあ・・・彰子除いた道長の娘たちみたいにさ。
そういえば平安時代に入れてもらえるか微妙なところだけど、
昨日の大河ドラマ「義経」で建春門院が尼頭巾姿で臨終迎えたシーンが気になる。
建春門院は「受戒」したという記録は当時の記録で見たことあるけれど、剃髪とか出家
という言葉は確か見当たらなかったぞ・・・。
- 12 :日本@名無史さん:2005/03/22(火) 01:29:38
- >>8
今はもうサヨの時代じゃないんだよ。
それはともかく、平安時代が通い婚なのは庶民も同じだろ。
つーか、天皇家だけが嫁取りで、他は通い婚だと思うぞ。
古代日本とそっくりと言われるブータンがまさにそれだしな。
王家だけが嫁取り。
他は藤原氏に当たる総理大臣家(前国王によって誅滅されたが)
から庶民に至るまで通い婚。家に男女と子供たちがいればそれは
兄妹または姉弟で、その女の方の子供たちと一緒に暮らしている。
- 13 :日本@名無史さん:2005/03/22(火) 16:27:12
- >>12
ウヨサヨ以前に史料が少ないからだろう。
なんでもそっち方向で片付けるのも痛すぎ。
- 14 :日本@名無史さん:2005/03/23(水) 10:37:26
- 庶民が通い婚だったという史料あるの?
説話とかにあるのかな。
- 15 :日本@名無史さん:2005/03/23(水) 13:34:36
- 天皇だって御所外には出歩けないけど、梅壺とか桐壺に通うってことでは
通い婚の変形だろ。
- 16 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/23(水) 16:26:40
- >>11
>読みながら「勿体無い」と思った。
まあ、そう思わせるのが目的ですから。
>14
11世紀末までには生活単位としての「家」が成立し、家政をきりもりする
「主婦」像が説話の中にも現れて来ますね。
それ以前なら、歌集や『大和物語』では。
- 17 :日本@名無史さん:2005/03/26(土) 13:48:23
- >>山野野衾さん
初めは尼削ぎにして、晩年になると完全に剃髪ですか・・・
尼削ぎ状態で臨終迎える人の具体例ってないんでしょうか?
- 18 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/26(土) 14:29:09
- 男性の例ですが、醍醐天皇も村上天皇(こちらは後世の記録による)も剃髪
して亡くなられていますが、後生を思えばその方が中世の人々には良かっ
た筈ですからね。貴族社会には臨終出家の習慣があり、源頼朝も死の直前
に出家しています。
死穢(直接的には30日、葬送に参加して49日)が出家者や往生人の死か
らは生じないという習慣や、出家者の葬儀は簡素でいいという観点から行
われた面もあり、その方が合理的であったと言えます。
また、尼削ぎの方がよく見えるのは現代的視点というもので、当時は女性
に対する髪切り・鼻削ぎといった刑罰が存在していましたから、尼削ぎの
女性は、一見すると犯罪人と変わらない存在でした。
どちらも通常の秩序外にあるという点では変わりがありませんでしたが、
出家するほど追い詰められた以上、生半可な状態でいるよりも早く剃髪し
てしまった方が楽だったと言えます。
当時ははした者ほど髪が短かったという事も、考慮するべきでしょう。
切らないまでも、身分の低い女性は髪を結んで着物の中に入れていました
が、これに似た状態で居続ける事は、なかなかつらいですよ。
まず、可能な限り完全な剃髪状態で死にたがったのが人情でしょう。
- 19 :& ◆soJ6AUTU8c :2005/03/28(月) 18:24:36
- 山野野衾さん、尼削ぎについて丁寧に説明していただきありがとうございます。
ところで「鼻削ぎ」なる刑罰が出てきたので驚きました。
平安時代の日本にもそんな刑罰があったんですか?
確か律令には出てこなかったと思いますので、地方で行われた私刑の一種なのでしょうか。
- 20 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 00:15:55
- 『大鏡』の中で夏山茂樹が、「私どもの女房が密通などすれば、髪を切り鼻
を削いでやるところですが、流石に高貴な方々ではそうもいきませんな。」
といった主旨の発言をしています。
当時は中・下級貴族や民間において、男の斬首や女の外見を変える罰があ
ったと考えられています。近世初期まで慣習で続いた様ですよ。
『小右記』の中で、藤原実資は「父方も母方も兵の家出身ではないのに郎
等を殺害した者(受領クラス)がいた。以ての外である。」と述べている。
『宇津保物語』や『俊頼髄能』にも、斬首刑が出て来ますよ。
- 21 :日本@名無史さん:2005/03/29(火) 07:13:38
- 貴族ってあれだろ?
毎日がセックス三昧
- 22 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 11:05:25
- >20の事で
失礼、大宅世継の台詞で、問題となっていたのは密通ではなく夫を見捨て
て妻が去ってしまう事でした。藤原道雅の零落後、その北の方が夫のもと
を去り、大和の宣旨の名で宮仕えをしていた事に関連したもの。
しかし、夫の収入が見込めない以上、仕方が無かったとも言える。
なお当時妻から(実質的な)離縁を申し出る機会といえば、まず尼となる事
でした。世継自身も、妻が尼となるというので寂しそうにしています。
『更級日記』によれば、作者は母が尼となって後邸内にいても父とは別居し
て俗事からは遠ざかっていたので、家政の切り盛りを任されていますね。
>21
何からそう判断されたのですか。
- 23 :日本@名無史さん:2005/03/29(火) 11:59:04
- >>22
とはずがたりとかからでは?
あれは平安時代じゃないけども。
あれは・・・・・エロイ。
後深草院エロイ。
あれが北朝の祖なんだよなぁ。
- 24 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 15:38:28
- あれは・・・ただれまくりですね。後深草院の、
さても、広く尋ね、深く学するにつきては、男女のする事こそ罪なき事に侍れ。
逃れざらん契りぞ、力なき事なり。されば昔もためし多侍。(中略)
この思ひに堪へずして、青き鬼ともなり、望夫石といふ石も恋ゆゑなれる姿なり。
もしは畜類、獣に契るも、みな前業の果たす所なり。人ばしすべきにあらず。
は名言でしょう。色とか何とかいう段階を通り越している。
- 25 :日本@名無史さん:2005/03/30(水) 12:23:59
- とはずがたりねえ・・・あれは酷い。もはや二条がオトコどもに
輪姦されているようにしか見えない
(特に何とか言う生臭坊主。同じ妻帯僧でも親鸞と比べて品格で見劣りするねえ)
源氏物語にすら引いてしまい「只のポルノだ」と呆れた
津田梅子先生が見たら何と言うやら・・・
そういえば光源氏が藤壺中宮と密通して出来た子供を冷泉帝として即位させるが、
現実の平安時代でならどうなっていただろうか。
国をのっとろうとした「謀反」に、肉体関係を継母に迫ったのだから
須磨どころか沖縄あたりまで(笑)島流しか?
下手したら行く途中で船沈められると思うぞ・・・(汗)
- 26 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/30(水) 22:32:12
- >特に何とか言う生臭坊主。
私は、逆にお気の毒にと思いましたが。彼女と関係をもった仲ではましな方
ですよ。しかし、二条の男関係を承知で出産までさせた後深草院は凄い。
>須磨どころか沖縄あたりまで(笑)島流しか?
当時の西の果ては喜界が島ですが、公にはならないでしょう。
同じ不義の子であった薫の恋が悲恋に終った事から、彼には子を設ける事が
許されなかったという意見もありますが、そうだとすれば冷泉帝の跡を継が
れた今上帝の運命も、自ずから定まって来る事となる
・・・とまあ、これは物語の方ですが。
- 27 :日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 12:29:11
- 藤原氏の氏長者に伝来したと言う朱器・台盤の由来について教えてください。
- 28 :日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 12:32:46
- 少しは自分で調べろや
- 29 :日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 12:47:34
- > 朱器・台盤
そんなところに並列点を置くな。
- 30 :日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 17:50:34
- 慶長よりも、延喜・天暦の方がいいな
- 31 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :慶長410/04/01(金) 18:35:35
- 末法954年というのは・・・洒落になりませんか。
或いは、「武者の世となって849年」で。
- 32 :日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 18:58:42
- 平安じゃないが、神護景雲もイイ
- 33 :日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 19:17:59
- いや、それならば悲運の元号「天平感宝」の鎮魂でも・・・
- 34 :日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 20:02:45
- ここはいっそ、法興で。
- 35 :日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 21:12:59
- 神社仏閣板、古文漢文板、宗教板、創価公明板;-pまで
わざわざ見に行ったのに末法はありませんでした(チェッ
- 36 :日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 13:08:26
- そりゃ、末法の定義に問題があるからだろう。
日本で言われた末法到来年は釈迦の死後1500年とは実際には何の関係もないわけだし…。
- 37 :日本@名無史さん:2005/04/03(日) 18:46:57
- >>29
>>27はそれさえ分かっていないから質問にきたのでは?
正式には権衡(はかり)もな。
- 38 :日本@名無史さん:2005/04/04(月) 05:39:56
- 長者印、渡庄券文もね。
もと藤原冬嗣の所持品で勧学院にあったものと伝える
- 39 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 15:50:45
- 数十年前には典型的なゴーマン大臣として小説でけなされていた藤原道長だけど、
研究が進んだ現在では意外とまともな人物だったことが分かっているらしいですね。
逆に伊周は意外にも公卿からも一条天皇からも嫌われていたらしい。
(講談社の日本歴史大系?にある大津透の論文)
- 40 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 16:34:01
- >>39
伊周は政治手法がリーダーシップを取ろうとする余り、露骨に強引だった点が問題視されていた。
一条天皇とは不仲ではなかったがその点を不安視されたようだ。
- 41 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 18:55:34
- 親バカ道隆にちやほやされて、他人の腹の底がわからんオボッチャマのようだったし。
- 42 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 22:02:37
- 道長のゴーマン像は実資の逆恨みでしょ
- 43 :日本@名無史さん:2005/04/15(金) 20:59:28
- 伊周はオボッチャマらしいが、弟の隆家は刀伊の入寇で根性据わったところ見せてくれるんだよな。
このころの貴族って、軍事の勉強はしてたのかな
- 44 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/15(金) 21:16:41
- 道長が馬術・弓術に優れていたという話、藤原道綱が弓の師をつけてもらって
いた話、藤原忠実が騎射を得意としていたという話がありますが、個人的な武
芸はかなり達者でしたね。
『古今著聞集』は当時の貴族文化を30項目に分けたものですが、武芸や弓箭も
その中に含まれています(変化などの項目もありますが)。
元々武芸も貴族社会にあったもので、それを専門的に担うのが武士だと考えら
れていたというのは、故石井進先生の弁。
ただ、「兵の家」出身でないものが兵法まで知っていたかどうかは。
大江匡房が兵法を知っていたというのも後世の記録です。もっとも、彼くらい
の学者であれば、『孫子』を読んでいても、おかしくはありませんが。
隆家は、指揮というより、迅速に対応して許可を下した功績があった様ですね。
解状の中には、自ら兵を率いて警固所に向かうといった事も書いてありますが。
抗戦命令の出る前に戦闘が終了したという理由で、公任・行成は恩賞不要論を
唱えていますが、実資が「それでは戦う者がいなくなる」と主張。
結局、意見具申者も含めて報酬が出されています。
現実無視の様にも思えますし、事実現在の目から見るとその通りですが、10
世紀以降は「王土は静謐であるべき」という観念が発達し、律令制下にあった臨
戦体制が解除された事とも関係しているのでしょう。
つまり、平時に危機を感じる意識が希薄化していたと。
- 45 :日本@名無史さん:2005/04/15(金) 21:44:39
- >>44 現在の日本人は反面教師にした方がいい鴨
- 46 :日本@名無史さん:2005/04/16(土) 02:29:07
- 貴族の個人的武芸というと、スポーツor護身術のイメージ
やっぱり軍事には疎かったんじゃないかと、どうしても思えてしまう
隆家は伊周の全盛期には、ちょっとDQNぽいとこもあったようだが
それが刀伊の入寇の時に現地赴任の帥だったのはラッキーてか?
- 47 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 18:15:08
- 江戸時代の学者・頼山陽の日本政記の「論」の現代訳(1976年刊)が手に入った。
平安関係者を思いっきりぶった切っているのでダイジェスト。
仁明天皇…初めから本気でなかったのに恒貞親王を皇太子にしたのは自己満足のため。また、嵯峨源氏は藤原良房に媚びてばかりで藩屏としては役ただず。
文徳天皇…仁明天皇ともどもやたら大赦を出して却って世を乱れさせたのに政治に励んだ気になっていた。政治に励まず安逸に生きた報いで両帝は若死にした。
藤原基経…陽成天皇を廃した事の功は前漢の霍光に匹敵するが、専横がために名を傷つけた。
宇多天皇…新羅の賊が侵入してきた際の対応が大変よく、天智・桓武両帝に匹敵する賢主である。
菅原道真…配流には宇多天皇や道真自身の咎もあった。新帝が先帝の臣をそのまま信任するとは限らないのにそれに対する配慮がなかった。醍醐天皇に上皇や道真への不満があったからこそ時平の言を用いたのである。
三善清行…宇多天皇は道真を用いる事は知っていても彼を用いる事を知らなかったのは惜しまれるところである。
朱雀天皇…君臣ともに取るに足らない人物ばかりだから、世は乱れ平将門の乱も起きた。
村上天皇…摂関家との関係を配慮しつつ兼明・高明を用いて政治の刷新に励んだ。世は醍醐村上と併称するが、むしろ宇多村上を(名君と)併称すべきである。
藤原実頼…安和の変を起こして無実の大臣を流して官職を私した罪は大きい。
花山天皇…藤原義懐のような優れた臣がいながら、女性の事に迷って皇位を捨てたのは残念な事だ。
藤原道長…一条天皇の時代には人才が多いと言うが、道長一人を抑制出来ずに何の人才か。
一条天皇…志はあったが、伊周を用いて道長を牽制するのは的外れであった。
藤原実資…剛直でありながら、小一条院の守役は引き受けず後朱雀天皇の守役になったことで自らを貶めてしまった事は(著者としては)大変失望させられた。
源義家…後三年の役のときに朝廷が褒賞を与えず、義家に勝手に私財から褒賞を与える事を放置したことが武士に政権を譲り渡す流れを生み出した。
後三条天皇…「大日本史」の論では彼の「誠正」さを論じていないのは不十分である。彼に「誠正」さがあったからこそ政敵である藤原頼通といえども荘園整理令を阻止を出来ず却ってその死去を悼んだのである。
- 48 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 19:19:55
- >>39
伊周の父道隆が亡くなる少し前、一条天皇が
「関白病の『間』伊周に内覧させる、」
と命令したのに、
「関白病の『替』に(以下同文)」
に書き換えろと伊周のオカンの実家が公文書の役人に強引に迫ったため
天皇に嫌われてしまった(確か藤原実資の日記)
また道隆が亡くなって間もない頃、父の牛車の護衛まわしてくれと天皇に訴えたら
前例がほとんどないことなので過去の記録を調査させ、天皇自身も東三条院に相談した。
結果要求は受け入れられたが、伊周は天皇ではなく女院のところへお礼をしに行ったのでさらに嫌われた
という記録もあった。
多分マザコン扱いされてムカついたのだろう。
- 49 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/17(日) 19:40:50
- >46
まあ、イメージほど軟弱でも無かったという話でしたが。
花山院は馬に乗っていて、隆家に射られていますからね。
逆に、藤原頼経は帰京して供奉を命じられたものの、「馬に乗れなかった」
と分かり、中止されています。他の貴族は馬術に長けていた。
>48
どちらも『小右記』ですね。高階信順が、大外記中原致時に拒否されています。
後半は、随身(院・女院・摂関・近衛府の大中少将につけられていたSP)に
ついて述べたもの。先例は源融の例があるとして支給されましたが、実資が
後日調べたところでは、そんな例は見つからなかったと。
- 50 :47:2005/04/18(月) 21:47:13
- >>47の続きで保元の乱について「貴族が私的に動かせる兵をもっと早くより多く持てたなら、200年も早く兼通対兼家か道長対伊周兄弟の時に乱が起こっていただろう。保元年間までこうした事が起こらなかったのはむしろ遅すぎるくらいだ」と斬られていました。
- 51 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 03:00:23
- 平安時代の社会やメンタリティが朝鮮臭いことに最近気づきました。
- 52 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 12:52:03
- >>49
藤原頼経って九条ですか?
確か、九条頼経なら私的外出にはよく馬や輿を用いた話が誰の作だか覚えていませんが中世の輿利用について書かれた論文に書いてあった記憶があります。
- 53 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/20(水) 13:05:08
- >52
そうですか。ありがとうございます。私の方は、『五代帝王物語』から。
- 54 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 00:11:34
- >>50
その時代だと、満仲一族が道長に祇候していたから、勝負にならなくない?伊周につくやついないでしょう。
貞盛流を抱えた実資も、なんだかんだいって、道長を支持するだろうし。
- 55 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 12:48:17
- >>53
ttp://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/122903.html
ここのサイトさんが載せている吾妻鏡安貞3年3/15の「将軍家花を覧んが為永福寺に御出で。水干・御騎馬なり。」の将軍家は頼経ですね。
- 56 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 16:52:07
- >>47は随分曲解がありますね。
- 57 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 18:15:06
- >>56
頼山陽といえば、勤皇の儒家として親友の大塩平八郎や幕末の志士などに賞賛された「勤皇派のカリスマ」だからな。
- 58 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/22(金) 12:42:30
- >>55
得手では無かったのでしょうかね。案外口取が付き添っていたとか。
それとも、口実を設けてボイコットしたがったのか。
- 59 :日本@名無史さん:2005/04/26(火) 07:56:16
- >>58
仮にも摂関家の一員がそんなこと出来るか!って事だったりして…。
- 60 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 11:37:42
- >>56-57
スレ違いになるが、江戸時代の有名な歴史書(大日本史にしろ頼山陽の著書にしろ、ついでに国学者系も)基本的には反仏教だから、仏教信者が多い古代要人はみんな酷い扱いだからな。
- 61 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:08:00
- 藤原緒嗣の「日本後紀」の現代語版が出てたらしいが、3万は高いぞ
- 62 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:48:15
- 出たらしいって、出たのもう2、3年前の話じゃないか?
- 63 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 13:39:21
- ここにいる人たちは皆博識だなぁ。まるでついていけないよ。
ところで聞きたいのだけれど。上にも少しでていたけれど、
平安末期から鎌倉初期にかけての庶民の生活を知りたいのだけれども
なにか良い資料ないかな。どうしても見たいのだけれど調べ方がわからなくて。
- 64 :61:2005/05/08(日) 18:09:10
- >>62
オレは先週知ったんだよ(悪いか〜(涙))。
- 65 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/08(日) 22:27:54
- >>61
ジュンク堂の店頭にまだ出ていますが、ブック・オフで『国歌大観』が一巻
一万円前後で買える事もありますから、案外・・・。
>>62
庶民の生活ですか。とりあえず、『梁塵秘抄』や『伴大納言絵巻』では。
どちらも後白河院絡みですが、編纂にはあらゆる階層について掌握してお
かねばならないという院の政治的意識と知的好奇心が作用していたのでは
ないか、という説もあります。
後は、やはり『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』ですね。歌論書もいい。
- 66 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 00:46:52
- >>65
おお!ありがとう。
つまらない質問に手を煩わせてしまったようで、すまん。
早速読んでみるよ。
- 67 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 03:50:55
- >>63
『平安遺文』『鎌倉遺文』
- 68 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 21:46:57
- >>65
山野先生、どこのジュンク堂かヒントだけでも教えてください…。
- 69 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/10(火) 22:30:07
- >>68
割とあちこちで見かけた気がしますが、ご購入になりたいのですか。
家に置くのなら、国史大系本で良い気もしますが。
とりあえず、先日広島駅前のジュンク堂で見かけましたよ。
- 70 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 02:02:58
- >>山野野衾さん
大河ドラマ『義経』で建春門院滋子が臨終のとき頭巾で頭をすっぽり覆った尼姿でしたけど、
もうあの頃には尼削ぎは行われなくなっていたんでしょうか?
- 71 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/11(水) 02:20:50
- 上で述べた通り、尼削ぎ→晩年に剃髪という手順で、学習漫画でもものによ
っては池禅尼や北条政子が尼削ぎで描かれていますが、臨終時に剃髪してい
たからといって、尼削ぎが無かったとは言えませんよ。
また、有名な法金剛院にある待賢門院の肖像画では、頭巾着用とはいえ、よ
く見ると尼削ぎの髪が見えています。
- 72 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 03:55:45
- またthe endか
- 73 :68:2005/05/11(水) 12:10:41
- 広島っすか…神保町の古書店を探します(涙)
- 74 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 18:09:16
- 紀伊國屋だと札幌店に在庫あり
ttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9977688974
- 75 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 23:21:10
- >>73
「本やタウン」で相談してみ。
- 76 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 07:45:08
- 平安貴族とは俺のこと
- 77 :68=73:2005/05/14(土) 18:41:25
- 結局、神保町の三省堂で買いました。
神田祭の神輿行列が見れましたよ。
- 78 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 08:05:53
- 定価で買ったのか。金持ち王子うらやましい。
- 79 :68=73:2005/05/15(日) 11:26:21
- サラリーマンの安月給で貯めた貯金をボーナスでの穴埋めを期待して放出しましたが何か?
- 80 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/15(日) 14:28:39
- その覚悟やよし!しかし、そのお金で逸文系の本をお買い求めになられた方
がよろしかったのでは・・・・いやいや、今更ですが。
ボーナスが出た日の為に、今の内にお伝えしておきます。
- 81 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 13:00:11
- http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087889438/51
51 :日本@名無史さん :04/10/26 22:27:08
平安貴族というか、皇族が子供の政所・侍所の雑事を始める(御堂関白記にて)ってどういう意味ですか?
通過儀礼なのかなんなのかよくわからなくて…。調べても出てこなくてここの力をかしてもらうことに。
誰かわかる人、教えてください
- 82 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 00:23:13
- 平安時代の美人顔=引き目鉤鼻という常識はもう古い、と指摘されてるけれど、
それじゃあ男女の体格やプロポーションではどんなものがもてはやされていたのか気になる。
体の線を見せる服はあったらしいけれど、プロポーションについて述べた文のある古典
にはまだお目にかかれないままなんだよねえ。
- 83 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/21(土) 00:35:45
- 「すらりとしていた」ぐらいの事は、『源氏物語』で見た憶えがあります。
- 84 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 01:01:07
- 貴族の男女の華麗な和歌の応酬を見る度に思うのだが...
多分俺は、この時代でももてねぇ orz
センスある歌を作れる気がしねぇ。
- 85 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 01:08:04
- なんかちょうどいい流れ?になってる。
直立アライグマ見て、ふと思ったんですが平安時代の人と現代人を比べて、身体的な進化ってあったりすんのかな。
ニホンザルも今以上に猿だったとか。
- 86 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/21(土) 01:20:54
- >>84
男が漢詩を詠み、女が和歌で返すといった例もありましたが。
それが駄目なら、音楽でも。乗馬・弓術でも名は知られますよ。
もっとも、橘則光は歌が理解出来ず、清少納言と別れていますが・・・。
その反面、膂力で知られた事は、当時の日記や『江談抄』に見えている。
軍事貴族が赴任する事の多かった陸奥守に任ぜられたのも、納得(?)。
>85
進化は日本史の対象外だと思いますが、千年程度では無いでしょう。
- 87 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 07:16:37
- 進化というより栄養状態の改善とかによる体格の変化とかはあったんじゃないの?
- 88 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 12:59:31
- 『源氏物語 六条院の生活』ちう本によると、
平安時代の貴族女性は立って歩くことは滅多になく膝行生活だったらすぃ。
だから長髪をくくって無くても足に絡まることもなかったし
あの長袴でもけつまづくこともなかったと。
あの重い着物を着て膝行だったら骨盤が思いの外発達していたかも知れないと想像するが
この時代の完全な人骨ってほとんど見つかってなかったような…。
後、平安時代の貴族女性は屋外に出ることがはしたないとして厳しく禁じられていたから
日光を浴びない事によるビタミン不足で”くる病”の人が多かったんじゃないかとも想像しているが。
- 89 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/21(土) 17:22:38
- 『枕草子』や『とはずがたり』では膝をすっている他、腹ばいに近い姿勢で
食事をとっていたのを、外泊中に山荘の主である男性に笑われている場
面も出て来ますね。
>”くる病”の人が多かったんじゃないかとも
おそらく、正しいでしょう。どうしても疫病や糖尿が先に思い立ちますが。
- 90 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 12:49:46
- 怨霊に取り殺された例も(笑)
- 91 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 00:46:01
- やっぱりアライグマって書いてたか・・・。
1千年程度じゃ顕著な進化はないようですね。穀物を主食にした日本人は腸が長いとか聞きますけど、平安時代は今より短かったりしたかな?
「〜年後の人はアゴが細い」なんてCGを一時期よく見ましたが、進化とはいかないまでも、顔も食生活による差はでそうですね。
レッサーパンダは直立型の千葉パンダと、前のめりながらも二足歩行する横浜パンダを掛け合わせれば、数世代後には真っ直ぐ立ってスイスイ歩けてるかな。
- 92 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 00:35:22
- 平安時代の病気といえば天然痘もありますね。
貴族の厚化粧はアバタを隠すためだとよく聞きますけど、どれだけ厚く塗らないといけないんでしょうねえ・・・
それにアバタが残ると顔の見た目ってどの程度の酷くなるんでしょうか。
- 93 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 01:04:16
- >>92
ニキビがキツかった松井秀喜が参考になるんじゃないの?
- 94 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 05:15:53
- でも、あの白粉は鉛が入ってて、お肌に悪いって言うよね
- 95 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 09:53:10
- >>94
お肌どころか体に悪いと思うよ。>鉛
平安時代じゃなくて恐縮だけど、江戸時代の大名、柳沢家の歴代の
子供の出生とその後について調べたお医者さんがいて、子供の死亡率が
異常に高い(庶民を上回る)のは、母親や乳母の胸まで塗りこんだ白粉に
よる鉛中毒ではないか、という見解だったよ。
- 96 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/06/03(金) 23:05:53
- >どれだけ厚く塗らないといけないんでしょうねえ・・・
落ちない程度に薄く、破顔すれば剥落する程度には厚く。
頬紅は、周辺に行くほど薄く塗られましたが、院政期以降はただ丸く塗るものに。
>それにアバタが残ると顔の見た目ってどの程度
あればかりは、資料画像を御覧頂く他ありませんね。
- 97 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 12:05:00
- あの白粉って今のクレンジングみたいに
寝るときは洗ったのかなあ。
塗りっぱなしだったら肌に凄い負担だよね。
- 98 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 00:51:53
- >プロポーションについて述べた文のある古典
にはまだお目にかかれないままなんだよねえ。
このころはバストサイズはどうでも良かったのかもしれないね。
尻(腰周り)なら出産に関わるだろうから重視されたかもしれないけれども。
- 99 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 19:44:31
- あのー、奈良時代から平安初期、中期に至る衣類の変遷を
知りたいのですが、何か良い手がかりになる書物はありませんか?
- 100 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 01:36:41
- 平安時代は仕切りに屏風が使われていたと聞きますが
どうやって使われていたんでしょうか?
いや仕切りとして使われている、とはどこでも
書かれているのですが、四方八方を囲っていたのか
それとも違うのかが気になりまして。
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