【政治】平安貴族総合スレッド・1【生活】
- 1 :日本@名無史さん:05/03/20 16:59:32
- 前スレ
平安貴族は何て幸せだったんだろうか
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1029672791/
関連スレ
平安時代にはまとも軍隊もなかったのに
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1103855145/
期間としては教科書通りの平安時代(794〜1192年)における貴族全般がテーマです。
(関連した議論でも光仁天皇即位(770年)〜承久の乱(1221年)の範疇での議論を心がけて下さい)
- 591 :日本@名無史さん:2008/03/24(月) 22:41:43
-
だーかーらー、それは行政処分
法学の素養絶無の人に法律論争は無理
- 592 :日本@名無史さん:2008/03/24(月) 23:09:30
- >577
なんか、どっかで暴れてた「法律も法制史も知らない『法制史の専門家』」と同じような論調だね。
- 593 :日本@名無史さん:2008/03/24(月) 23:12:56
- そもそも、伊周や隆家にしても形式上は「左遷」であって処罰じゃないね。
そういう「行政処分」でない
> 有位有職者の処罰に関し、詳細な規定と、膨大な判例の蓄積
の例を挙げて欲しいですね。
- 594 :本郷 義昭:2008/03/24(月) 23:24:18
- ↑これは行政処分とゆう言葉の意味が判っていません。
弁当出すのも行政処分。
分ることだけ書きませう。
庁例自体がまるまるそうです。
自分で読んでください。
- 595 :日本@名無史さん:2008/03/24(月) 23:54:11
- >594
あなたにまともな内容を書く能力がないことはわかっているんで、せめて
日本語くらいはまともに書く努力をしてください。
- 596 :日本@名無史さん:2008/03/26(水) 00:44:31
- スレ違い荒し↑
- 597 :日本@名無史さん:2008/03/26(水) 09:24:13
- 行政処分≠行政罰
- 598 :日本@名無史さん:2008/03/26(水) 19:30:17
- >>590
花山法皇皇女殺害は、公には盗賊の仕業とされていた。
もっとも、皇女殺害の主犯として逮捕された皇女に仕える僧侶が、道雅の仕業だと証言。
この証言は関白頼通や太閤道長にも報告されたが、両者はただ驚いただけだという。
僧の証言の信憑性がなかったためか、この後、通雅が取り調べられた事実もなければ、
これが原因で道雅が左遷されたという記述も一切ない。
- 599 :日本@名無史さん:2008/03/26(水) 23:03:40
- 法的にはそれで不都合無い。
嫌疑が一定段階に達しなければ、捜査も手控えざるを得ない。
- 600 :日本@名無史さん:2008/03/28(金) 09:57:41
- 598 さんの感覚で一々「取り調べられた」日にゃ、冤罪だらけになると思います
- 601 :日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:04:25
- 道雅が花山法皇皇女殺害が原因で左遷されたと言いきっている人は
根拠がないことを自覚するべき。
伊周や隆家の左遷の際には、一条天皇の勅として
花山法皇に矢を射かけたことを理由として挙げており、
これが左遷の原因であることが明確になっている。
- 602 :日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:06:26
- 有名な話だよな
もとは女論
その上誤解
更には人違い
- 603 :日本@名無史さん:2008/03/29(土) 17:12:20
- へえ、勅に書いてあればそれが真実と認められるわけですか
ならば、菅原道真は斉世親王を皇位に就けようとしてたんですね
源高明は謀反を企んでたんですね
本当にありがとうございました
- 604 :日本@名無史さん:2008/03/30(日) 16:25:01
- >>603
勅に書いてあれば、それが原因で左遷されたということは確実だといったんだよ。
真実かどうかではなく、それが原因で左遷されたことが事実なの。
君は通雅が花山法皇皇女殺害が原因で左遷されたと言っている。
それこそ理由がない。
誰もそれが理由で通雅を処分してないってこと。
相当頭悪い人だね。
- 605 :日本@名無史さん:2008/03/31(月) 23:27:11
- 勅に対し奉り疑を差挟む者は逆徒
- 606 :本郷 義昭:2008/04/02(水) 00:44:14
- 律令本文は短期間に実務と乖離し、夙に行事法に移行しました。
その実定法上の根拠が格式です。
これらはまだしも成文法ですが、下位の法源は不文法に移りました。
その中心が庁例です。
そもそも検非違使庁からして令外官です。
所謂律令法の実態は、律令自体から離れた斯る不文法で、律令法系ではあっても律令そのものからは遠いのです。
以上の流れをよく踏まえて考察すべきところ、何も知らず群盲象を撫する現状は遺憾千万です。
- 607 :日本@名無史さん:2008/04/04(金) 09:58:52
- みんな逃げ散ってしまった・・・
- 608 :日本@名無史さん:2008/04/05(土) 13:46:19
- いんや。おれはいる。
おれは平安時代オタクだから
どこにも行かない。
- 609 :日本@名無史さん:2008/04/07(月) 19:29:54
- 正称は失念してしまったのですが、かつて読んだ(おそらく有名な)古典に
「道で出会った姉妹が可愛かったので、着ている服の袖を千切って恋文を書いて渡した」
というストーリーがありまして、これに関して二つ質問があります。
平安時代の貴族は一夫多妻だったため、当然に姉妹と結婚することもできたかと思いますが、
夫が妻の邸宅を訪ねる場合、妻の二人は同室で夫を迎えるのでしょうか。
それとも、ひとりひとり別室で待機して、夫が交互に両者の私室を行き来するのでしょうか。
また、平安時代には緊急に布が必要な時には服の袖を千切ることが広く行われていたそうですが、
外出のたびに袖をビリビリ破いていると、いくら服があっても足りないのではないでしょうか。
裕福な貴族とはいえ、その分服も高級なものを着るはずなので、しょっちゅう千切るわけにはいかないと思います。
もしかすると、一度袖を千切っただけでは服を捨てず、
腕の部分がボロボロになるまで着続けていたのでしょうか。
- 610 :日本@名無史さん:2008/04/07(月) 20:12:16
- 白の小袖つーか、下着でしょ。
- 611 :日本@名無史さん:2008/04/07(月) 21:18:23
- 私も違う質問をしに来たのですが、それは今度にして
判る範囲で答えておきますと。
袖をちぎるのは応急の場合で普段は
畳紙という懐紙のような物を持ち歩いていて、
それを使ったんだと思います。
これはテッシュでありメモ用紙でもあり
色々便利に使った物のようです。
夫が妻の家を訪れる・・ですが当然妻は各各別室です。
どちらの部屋に行くかは夫のそのときの気分次第。
・・・と思うのですが、賢者諸氏のご意見を乞う。ww
- 612 :日本@名無史さん:2008/04/10(木) 20:17:41
- 「なんて素敵にジャパネスク」で主人公瑠璃姫の親が「再婚」している。
瑠璃姫はその件で男なんて・・と一連を言うが、それよりも瑠璃姫が男親について
育てられているというのが、まずおかしい。普通子は女系が育てる。
それなのにあの家族は父−瑠璃姫−弟という家族構成。そのなかで
父が再婚して「新しい母」を迎えることになっている。
父は大納言という役職ゆえにそれなりの裕福さてあったろうから
子供も引き取って育てているのだろうか?
「新しい母」にしても男の家に嫁入りするというのは、女性側に財産が
よほどないか、身分が相当下と言う事しか考えられない。
しかし、逆に大納言職の貴族がそんな女性を次の妻にするだろうか?
あれは単なるフィクションとみておくべき・・なんでしょうね。
- 613 :日本@名無史さん:2008/04/10(木) 23:03:36
- 史版でまんがについて聞かれても、ねぇ。。。
- 614 :日本@名無史さん:2008/04/11(金) 01:43:18
- >>609
伊勢物語の初段と思われます。姉妹に文は送ってますが
別に姉妹の両方と結婚しようと思ったわけではないかもしれません。
源氏物語にも匂宮が宇治の姉妹に文を送り、姉妹のどちらとも指定がなかったのか
父宮が妹姫に返事をするように言いつける場面があります。
>>612
日本史板で真面目に答えますが瑠璃の母と母方の祖母は亡くなってます。
母の親戚がいなかったら父に引き取られるのはそんなにおかしいことでもないかと。
父親がすぐに再婚したのは確かにちょっとおかしいかもしれません。
母親が亡くなり喪があけてすぐに別の女性に通い婚で正式に結婚し、
何らかの事情で通うのが面倒なので半年くらいで引き取った、と脳内保管すれば
そんなにおかしくない可能性もあります。
個人的には男なんて…とかいう瑠璃姫が一番おかしいと思います。
- 615 :日本@名無史さん:2008/04/11(金) 08:10:54
- まんがにマジレスするけど、瑠璃姫の母親が生存中から今の北の方に通っていたのよ。
で、死ぬときに今北の方に瑠璃姫と融をよろしくって手紙を書いてる
- 616 :日本@名無史さん:2008/04/11(金) 13:40:50
- >>613 漫画板では、その辺の考証は歴史板で・・と、タライまわしされましたwww
>>614
>>615
脳内補完ありがとうございます。そういう経緯も考えられるというわけですか。
当方これから精進します。今回のお答え、ありがとうございました。
- 617 :日本@名無史さん:2008/04/11(金) 14:34:39
- 初歩的な質問かもしれないが、平安時代は通い婚で子は普通女親の家で育てるみたいだが
藤原男が橘女の下に通い子を儲けた場合、育てるのは女側ってのは解るが、子の姓も女親の方になるの?
それとも姓は男系継承で男親のを受け継ぎ、財産だけ女親の方のを受け継ぐのか?
どうもそこら辺が解りません。
皇室の場合は女を後宮に入れ、子を宿したら女実家で産み、女実家で育てるみたいだが。
- 618 :日本@名無史さん:2008/04/11(金) 16:47:38
- >>612
「ジャパネスク」の設定内容は614氏の言う通りだが、
事情によっては離婚後娘が父親方に引き取られることはあったようだ。
「源氏物語」の雲居雁は両親が離婚、母親は生きているが
父親の頭中将に引き取られている。(というか育てたのは父方の祖母大宮だが)。
史実でも、藤原朝光の娘で花山天皇の女御となった藤原姫子は
両親離婚後、父親に引き取られ父親の後妻と暮らしている。
大事な天皇の後宮へ入れるための持ち駒となる娘をうかうか妻方へ渡せないという
事情もあったようだが。
- 619 :日本@名無史さん:2008/04/11(金) 18:36:12
- >>618
ありがとうございました。
そういう史実もあるのだと言う事、
教えて下さったこと、感謝いたします。
- 620 :日本@名無史さん:2008/04/12(土) 16:32:41
- 質問なんですが
天皇は中宮とか女御とか更衣と夜の生活をするときって、清涼殿に呼ぶのが正式なの?
それとも各女君の殿舎にいくのが正式なの?
- 621 :日本@名無史さん:2008/04/12(土) 21:30:57
- 殿舎に行ってイく
- 622 :日本@名無史さん:2008/04/13(日) 17:11:24
- >>620
平安時代は通い婚で男が女のもとへ通っていたが、天皇だけは別だった。
天皇の住まいである内裏の中に妃たちを住まわせ、
天皇の寝所である清涼殿のほぼ中央に位置する夜御殿に指名した妃を呼んだ。
清涼殿の夜御殿の北側には「弘徽殿上御局」「藤壺上御局」と呼ばれる部屋があり、
ここが天皇に呼ばれ夜御殿に侍る妃たちの控えの間になっていた。
例えば後朱雀天皇の妃だった藤原教通の娘生子は「常に上御局にあった」という文章が
栄華物語にあり、つまり常に天皇の寝所に呼ばれていたことを指している。
本来は、妃たちが天皇A呼ばれてやってきた。
ただ、天皇と妃たちの殿舎は同じ内裏内にあり、廊下で結ばれており、
天皇が妃の殿舎へ遊びに行ったり、妃たちの殿舎で行われる遊びに参加したりして、
そのまま「大殿ごもる」ことは勿論あった。
- 623 :日本@名無史さん:2008/04/13(日) 20:26:10
- 荘園について、質問があります。
奈良時代の初期荘園は主に近畿地方を中心に分布していたようですが、
平安時代になると更に広範囲に広がったようです。
その分布はどのような物だったのでしょうか。
それらが判る書籍などありますか?
また国司・受領になった貴族は、次第に現地へ行かなくなって
いくようにも聞きましたが、その統治はどのようにやっていたのでしょうか。
都にいる貴族は、任せている(?)荘園現地へ出向くことはありましたか?
またそれらと「知行国」という制度とは影響していますか?
- 624 :日本@名無史さん:2008/04/19(土) 00:37:05
- 袖って簡単に千切れるんですか
- 625 :日本@名無史さん:2008/04/19(土) 13:17:15
- 小袖の袖なら千切りやすいと思うよ。
狩衣とかの袖も、そうだろうけどww
あれはきらんだろう、流石に。ww
- 626 :日本@名無史さん:2008/04/19(土) 18:28:26
- 袖って簡単に千切れます。
思いっきり強い力で引っ張れば。
(普通の着物の場合)
- 627 :日本@名無しさん:2008/04/19(土) 22:49:41
- 立体縫製ならさ、どういうベクトルで力を掛けようとも途中でとまるもんだが、着物のような平面縫製ならそうではないのさ。
また(貴族の衣のような超貴重品は特にそうだが)リサイクルを前提にしていることもあるからさ、ガッチガチに縫製する理由がない。
- 628 :日本@名無史さん:2008/04/20(日) 13:36:38
- 今の装束はそんなに簡単に切れないけど
自宅縫製、手作りですからね。
(源氏物語浮舟が自分の法要の着物を縫っている)
- 629 :日本@名無史さん:2008/04/24(木) 00:52:55
-
茜さす紫野行きしめの行き野守は見ずや君が袖振る
- 630 :日本@名無史さん:2008/04/24(木) 13:01:34
- 「むかし、おとこ、うゐかうぶりして、ならの京、かすがのさとに、しるよしゝて、かりにいにけり。
そのさとに、いとなまめいたるをむなはらからすみけり。このおとこかいまみてけり。
おもほえずふるさとにいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
おとこのきたりけるかりぎぬのすそをきりて、うたをかきてやる。
そのおとこ、しのぶずりのかりぎぬをなむきたりける(伊勢物語 原文)」
男は自分が着ていたしのぶずり狩衣の裾を切って歌を書いて(姉妹に)贈ったとある。
袖ではなく狩衣の裾ね。
切ったとは書いてあるけれども、手でちぎったとも書いてないので
所持していた懐刀かなんかで切ったのかも知れんし、なんともいえん。
- 631 :日本@名無史さん:2008/04/25(金) 19:25:09
- >>629
紫の 匂ほへる妹を 憎くあらば
人妻ゆゑに われ恋ひめやも
- 632 :日本@名無史さん:2008/04/26(土) 09:14:45
- 此処の人は教養があってイイ!
武家装束でも袖は千切れますね
- 633 :日本@名無史さん:2008/04/26(土) 22:53:05
- , ‐ ' ´  ̄ ̄ ` 丶、
/ 丶
, ' r、'´ _ _ ヽ
/ /ヽヽ__ ' ´ _____,, イ ヽ
,' ,' {_r'‐'',ニ二、ー===-‐'|l 、`、
iヽ i // '´  ̄`ヽヽ l| l i
,' ヽ l / 、>‐=、、 =ニヽ ! l l
,' /⌒ l | ´ /(__,!゛ `、! | ! 大日本帝國は最高よ!
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,' ヽ ヽ ` ─ '⌒Y, ' /
/ |`T 、 j /}´ ,'^!
/ l l i iヽ i` ーァ /ノ / /
/ | | i i ! \ l_/ ノ | {ヽ / /
,' | | i iノ 丶、 __ , イ | | l } 〃 二ヽ
,' r| | '´\_ / ,' ,′ | | |└'{_/ ,─`、
,' , --─/ l | ─ 、 `X´ト、 ,′ | | | '-イ_ィ、 〉
- 634 :日本@名無史さん:2008/04/28(月) 19:05:35
- 武家の殿中装束は初めから千切り易く作ってある
- 635 :日本@名無史さん:2008/04/30(水) 00:16:39
- >>577
そう言えば華族の処罰にも勅裁が必要ですね。
松方内閣の有名な選挙干渉の時に自由党の党首の板垣退助を逮捕しようとして、上奏権限を持つ司法大臣があまりの無茶振りに同意しなかったために勅裁を仰ぐ事すら出来なかった。
- 636 :日本@名無史さん:2008/05/01(木) 19:30:17
- 話は分りましたが、逮捕は処罰ではありません。
捜査の一手段。
- 637 :日本@名無史さん:2008/05/03(土) 11:45:43
- もうじき海軍記念日
- 638 :日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:03:38
- ちょっと高すぎだろ。
唐衣(からぎぬ)と、表着(うわぎ)、裳(も)だけで550万円。
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080503p401.htm?from=iphoto
当時としては相対対価として、ここまで高くないはず。
- 639 :日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:53:59
- >>690あたりの道雅の話。
道雅は花山法王皇女殺害以前、(まともな頃)三条天皇皇女当子内親王に通っていて、それが三条天皇にバレて激怒した三条天皇に左遷されたのでは?
そのとき読まれた歌が百人一首にあって、「今はただ 思いたえなむ とばかりを 人づてならで 言うよしもがな」 だったかと。
その後当子内親王は失意のまま亡くなり、道雅は荒三位ていわれるくらい荒れたた、と言われているのは、いつ頃なのか?
手元に歴史関連のものが一切ないのだが、この話だと、道雅は確か26才だったと思う。
花山法王皇后女殺害はいつ頃?左遷は?分かるかた、よろしくです。
- 640 :日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:59:40
- ごめん、最後の方、三条天皇皇后女、になってるが、三条天皇皇女の間違い。
- 641 :日本@名無史さん:2008/05/04(日) 11:35:20
- >>639
道雅と当子内親王の密通が発覚したのは長和五年(1016年)。
当時、通雅25歳、当子内親王16歳。
これは復数の史料に書かれてあり事実と確認できる。
道雅は当子内親王の父三条天皇の逆鱗に触れ参内を止められたが、左遷はされていない。
当子内親王はその6年後、1022年に没。
一方、花山天皇皇女が殺害されたのは万寿2年(1024年)。
主犯として捕らえられた僧が通雅の仕業だと証言したというが、事実関係は分からず、
道雅は取り調べられることもなくうやむやに。
万寿4年、道雅は左近衛中将を罷免され右京権大夫とされたが、
なぜ通雅が官職を下げられたのか明確な理由を書いている史料はないが、
道雅が「荒三位」と呼ばれたのはほかにも博打を売ったり、喧嘩をしたりしたためらしい。
左遷とはいっても配流されたわけではなく、通雅は生涯都に住んでいる。
道雅が荒れまくっていたのは概ね従三位に任じられた1016年から右京権大夫に落とされた
1026年ぐらいまでの出来事であるらしい。
それ以降は、祖母の高階貴子譲りの和歌の才能を開花させ、
出世は望めないながらも風流人として生きている。
- 642 :日本@名無史さん:2008/05/04(日) 15:16:50
- >>641
どうもありがとう。そうだったんだ。参考になった。荒三位とよばれたその後、風流人として生きたなんて、面白い人生だね。いや、本人としては苦しかったのかもしれないが。
じつは2ch初カキコだったから不安だったんだけど、よかった。ありがとう。
- 643 :日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:57:35
- 自分は平安コスプレが好きでちょくちょくしに行くんだが、
夏の直衣の二藍て本だと若いほど紅が濃くて歳をとるごとに、
青くなっていくて書いてあるけど自分は29歳だけど、
青色の直衣て年齢的にはおかしいのかな?
本だと青は40歳てなっていた。
でも、前に某博物館の学芸員の人が平安時代は、まだ有職故実も
流動的ではっきり決まっていないと言っていたし
徳川美術館で見た復元模写の国宝源氏物語絵巻だと年齢に関係なく
夏は青の直衣だったし気にする必要無いのかな。
まあ、どうでもいいことなんだけど気になってしまいます。
- 644 :643:2008/05/07(水) 01:01:41
- それと冬の直衣に蝙蝠扇もおかしいかな?
ちょくちょく行く所が冬の直衣に蝙蝠扇だから気になってしまう。
それとそこの直衣は裾が長いんだが、京都のコスプレ屋の直衣は、
裾が短かったんだけどどっちが正しいんだろう?
- 645 :日本@名無史さん:2008/05/09(金) 04:14:52
- >>643、644
ごめん、まったく分からない。…が、29才でコスプレ、いいね。いや、ひやかしでも何でもなく、我が道を行ける、かっことした趣味があるって羨ましいよ。
- 646 :日本@名無史さん:2008/05/09(金) 16:31:36
- >>643
京都の「風俗博物館」に源氏物語のシーンを人形で再現したものがあるが、
20代前半の柏木は紅色の直衣を着ています。
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/cos-e6-1.htm
こちらは野宮にいる六条御息所に会いに行く21歳の光源氏。
やはり紅色の直衣です。
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-0407-04.htm
内大臣の邸へ雲居の雁との結婚の許しを得に行く夕霧のもの。
18歳の夕霧は、本来、紅の直衣を着るべきところ、
父親である源氏はその直衣は軽々しいといって自分の直衣に着替えさせる。
下の写真は父親の源氏(このとき39歳)の縹色(薄い青)の直衣を着た夕霧。
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co200501news1-1.htm#2
こちらは晩年(40代後半)の光源氏
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-2002-6-2-15.htm
- 647 :643:2008/05/10(土) 01:46:42
- >>646
そのホームページは前に見た。
でも、風俗博物館の研究て江戸時代前半に成立した事を、基本にしている
みたいだから実際の平安時代についてはどうかな?と思ってしまう。
前に風俗博物館にメールをした時にそう感じたな。
- 648 :日本@名無史さん:2008/05/10(土) 04:11:17
- 手間をかけてくれたことに対してお礼くらい言えよ。
>>647はここに質問するまでに、どういう資料を見てきたのかかいてくれるといいと思うよ
そうしないと、せっかく親切でコメントしてくれた人も無駄骨おらせたことになるじゃないか
手持ちの本に二藍の衣装についての記述があるけれども、引っ張り出して書き込んでもどうもな…
二度手間もやなので。
また、夏以外の季節に蝙蝠扇は…というものだけど、その人の楽しみ方があるのじゃないか?
平安コスプレをわざわざする人だぞ?知らないなんてこと、ないと思う。
それをあえてするのだから、何か当人なりのコンセプトがあるのじゃないかと思う。
後、衵扇が手に入らないのか、気に入ったのがみつかるまで雰囲気だけ楽しむのか……あとは、その蝙蝠、実は結構な代物なのじゃないかとか
…まさかヒカルの碁に出てきた平安時代の幽霊のコスプレという可能s(ry……
- 649 :日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:57:14
- >>647
643はテレビで放映され博物館でも展示されていた
よみがえる源氏物語絵巻は見たのかな?
現在見ている絵巻と実際の着色はかなり違っていたという。
しかし、研究者が衣装を考案した風俗博物館は否定するが
徳川美術館で見た復元模写の国宝源氏物語絵巻を
根拠にしているのが全くの初心者だね。
あの源氏物語絵巻がいつ作られたか知っているの?
まさか、平安時代だとでも思っているの?
- 650 :643:2008/05/10(土) 23:24:04
- >>648
確かにそうでした。
>>646わざさわざありがとうございます。
自分が見たのは、素晴らしい装束の世界という本です。
- 651 :643:2008/05/11(日) 00:50:13
- 国宝の源氏物語絵巻は院政期の制作らしいが。
それを科学的に調べて復元模写したのが復元絵巻だろ。
風俗博物館については以前、御帳台の畳の向きと浜床、獅子、狛犬について
質問をメールでしたら浜床、獅子、狛犬の御帳台は天皇、皇后専用です。
あとは類聚雑要抄を見て調べてください。とメールが来た。
同じ質問を斎宮歴史博物館と言う所にメールでしたら返事に
お返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。
> 御帳台の中の畳の向きは、実はわからないのです。
> 厳密にいいますと、現在、御帳台の参考資料となる図面は、
平安時代末期(1150年頃)の編といわれる『類聚雑要抄』のみですが、
ここでは、帳の中の畳の向きについて、二つの書き方をしています。一つは巻四で、
南に継ぎ目を持ってくるとしているものです。ただ、この場合、
もしも「南に継ぎ目」という規定があったとすれば、
南面する紫宸殿なら縦置き、東面する清涼殿なら縦置きになってしまい、
理解に苦しむ所です。
> 次に、巻二の調度指図にも御帳台が描かれていますが、
帳の中の畳までは描かれません。しかしここでは、
帳なしで畳を二枚並べる場合は、正面は長い面、
つまり横置きにする原則で描かれています。そのためか、
江戸時代に描かれた総彩色の『類聚雑要抄指図巻』ではよく見ると
御帳台の畳は横置きにしているようです。
> しかし、現在の御帳台(京都御所にあるもの、
これは大正天皇の即位に合わせて再興されたものです)では、
畳は縦置きになっているのはおっしゃるとおりです。
これが何を根拠にしているのかはよくわかりません。
> つまり本館では『類聚雑要抄』から推定して横置きとしているわけです。
- 652 :643:2008/05/11(日) 00:52:13
- >>651の続き
それから獅子と狛犬の件ですが、天皇・皇后専用としている本とはどういう本ですか?
これについても基本資料となる『類聚雑要抄』には使用者の規制はありません。
御帳台のおそらく最古の文献は、『延喜式』に見られる「斗帳」ですが、
この木工式などにある斗帳の資材こには、天皇用も斎王用も、
獅子・狛犬についての規定は一切出てきません。つまり、
九〜十世紀頃の斗帳には獅子・狛犬はなかった可能性があります。
> 更に獅子・狛犬については、神用帳台の鎮子(つまり重し)に破邪の意味を持たせたという見解もあるようです。これは、賀茂に神用に帳台があり、春日若宮の神宝に平安時代の銅製狛犬があることからの発想と思われます。
>
> また、「斎宮百話」第75に、
>
> 一方、同じ『枕草子』でも、第259段(岩波・新古典文学大系本290ページ)には、清少納言が、
法興院の積善寺の一切経供養に参加する定子中宮のお供で、
一条天皇の母、藤原詮子の二条宮に行き、調度品の獅子・狛犬を見るというくだりがあります。
この獅子と狛犬はおそらく斗帳の重しでしょう。
>
> と書きましたように、十世紀の末には皇太后も獅子・狛犬付きの斗帳を使っていた可能性が高く、
獅子・狛犬の使用は、天皇家関係では、割合にリーズナブルではなかったかとも考えられます。
>
> このように、割合にわかりにくいのです。
>
> あまりお答えにならなくてすいません。
> とりあえず以上です。
>
>
> 斎宮歴史博物館 学芸普及課
と着た。
斎宮歴史博物館の回答と風俗博物館の回答を比較したら、
風俗博物館が近世の有職故実を基にしていそうだと思うが。
- 653 :日本@名無史さん:2008/05/11(日) 00:58:30
- もう一言添えてもいいと思うのだけど…
本当に29?
直衣の色目に関しましても44ページの直衣の色彩という図
40という年が出てきたのはたぶん「若いときは二藍、40を超えれば縹」という記述からだと思います
「若い人ほど色を濃く、年をとるごとに薄く」とも
そのホームページは前に見たと>643は言ったが、>646さんは若年でも縹を着用したという例を挙げてくれているんだよ。
年齢でどうかというのを悩まれているようだったから、源氏物語での例を文章の引用ではなく、
目に見える形で出してくれていたのじゃないかと思う。
20代前半の光や柏木は二藍の紅の配合の多い物を着ていたけど、18歳の夕霧でも縹を着たときが、そういう演出があったと。
それぞれのキャラクターの行動なども考えての紫式部の演出かもしれないが、こういう遊びの部分もあるのだよって。
29歳と言うことでしたので数えで30。
そうなると、30歳を壮室といい30代〜50代前半のことを壮年をさすようですから、あとは自己の解釈じゃないか?
(壮年:血気盛んで、人生で一番働き盛りのころ。 「人生まれて三十年を壮という」(「礼記・曲礼上」)より。30歳くらいの年齢の、最も壮(さか)んなころ。30代から50代半ばを指し、主に40代から50代を指すことが多い。広くは、成年に達してから老年になるまで。)
ある程度、ポイント抑えて自分なりにアレンジすればいいのじゃないか?
まあ、自分でこうと決めたのなら普通聞かないし、こうやって聞くときと言うのは誰かに反対してもらいたい、止めてもらいたいときなのだろうが…
あと、扇の件。
お持ちの本の関係のウェブページで
「かつての宮中での蔵人などの活動的廷臣は冬の束帯でも檜扇でなくこれを用いた」
というような記述があります。
書物に関してしか記入がありませんでしたが、その御本をお持ちと言うことは
そのホームページにも目を通されていることと思いますので失礼に当たるのかもしれませんが。
- 654 :643:2008/05/11(日) 01:01:38
- それと繧繝縁の畳については、風俗博物館の本『六條院へ出かけよう』には、
天皇、上皇専用と書いてあったが、斎宮歴史博物館にメールで質問したら
さて、お問い合わせの繧繝縁の畳の件につき回答いたします。
> ご指摘の繧繝縁の使用制限はしばしば俗説的に言われますが、
少なくとも中世以前にはそうした制限はありません。
当たりやすい例を挙げると、『古事類苑』器物部の繧繝縁畳の項目を見れば、
上級貴族の婚礼や親王の元服などに使われた例もありますし、
絵画では佐竹本三十六歌仙の斎宮女御を見ても繧繝縁の畳に座っています。
天皇のみ云々はおそらく近世の有職故実と思われます。
と返事が来た。
この例でも風俗博物館が近世の有職故実を基にしていて、
平安時代とずれがあるのじゃないのか?と思ってしまう。
- 655 :日本@名無史さん:2008/05/11(日) 01:21:11
- 青一つでも、いろいろあると思うが…
直衣にしたって、平安時代のなかでも初期と後期では移り変わって言っている。
有名どころで枕草子と源氏物語とっても、流行(もしくは好み?)が違うのだろうなと思えるくらい、直衣色ののイメージが違う。
あと、この手の質問メールに真摯に答えてくださったているの風俗博物館の人、乙。
風俗博物館にいるからといって、その資料などを調べた当人でもないのにな…
大学の事務員さんに大学の学部の学科のなかのゼミに関しての過去の研究内容の一部を教えろと言うような物じゃないか。
風俗博物館は平安時代の日本の衣服を中心に、考証により復元しているんだよ。
絵巻物は結構、作者のイメージが強いからそういったものも含めて一つ一つ検証しているということも忘れないでほしい。
それでも不満なら
満佐須計装束抄とか、自分で読んだらどうだ?
- 656 :643:2008/05/11(日) 01:41:33
- >>653
確かにそうでした。
何度もすいません。
>>649へのレスを考えていて余裕が無かったです。
あのホームページを見て確かに三十前でも縹の直衣の
着用例挙げていてくれたので個人的には、納得したのですが
他の資料はどうなっているのか気になりました。
個人的に凝り性なのでできるだけ平安時代に忠実な物が、
いいと思ってしまい年齢と二藍の直衣について考え込んでしまいました。
なので三十前でも縹の直衣の着用例を調べて肯定したかったです。
まあ、ただのコスプレなんですが完璧を追い求めると、考え込んでしまいます。
ですが縹の直衣の着用例があったので納得しました。
色々ありがとうございます。
扇の事もホームページを見ました。
蝙蝠扇も冬でも藤原道長や白河院も使うことがあっただろうと、思うことにします。
本当にありがとうございました。
- 657 :日本@名無史さん:2008/05/11(日) 09:59:29
- 大学の事務員さん....だって
- 658 :日本@名無史さん:2008/05/11(日) 16:46:20
- >>蝙蝠扇も冬でも藤原道長や白河院も使うことがあっただろうと、思うことにします。
全然納得していないな、こいつw
完璧追い求めるなら、絶滅した蚕から始めるなり、その蚕の吐き出す糸の太さと同じ物で織った布入手とかするのだろうな。
- 659 :日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:50:15
- 一条院の脩子内親王について調べてたら、出生から受胎日を割り出すと
大幅に合わないんですね。
出産の経験がある方はわかると思いますが、ほぼ二月遅れるってあり得ないです
長徳2年3月2日に中宮が退出、でも4月25日前後を受胎日とすると???
えっえっえっ???
実は密かに参内してた?それとも不義の子?
誰か詳しい人教えてください
- 660 :日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:51:04
- 長楽寺に平安末期建礼門院が出家した際に寺に納めたとされる
安徳天皇の肌着が残っているよ
言い伝え通りほぼ約800年前の絹で間違いないらしい
こんな感じであちこちから史料を集めてくることだね
- 661 :日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:11:01
- >>659
最終生理日から出産まで約280日で出産。
こちらの表で計算してみた。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~suteki/yoteibi-keisan.htm
修子内親王の生誕は長徳2年12月16日。
仮に長徳2年2月半ばが定子の最終生理日とすると、それから約2週間後、
2月下旬〜退出した3月2日までの受胎で予定日は11月下旬。
約2週間の遅れでまあ、陣痛促進剤のない時代にはありうる。
- 662 :日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:56:08
- >>661
でもこの年って、七月が閏月じゃ・・・
- 663 :日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:42:29
- >>659
手許の史料だと定子の退出は長徳2年3月4日なのだけど・・・(2日しか違わないけど)
たしかにこの年は閏月で、「小右記」にも中宮定子が産み月になっても
出産しないという記事があったと思う。
だけど、修子内親王が一品に叙されるときに、一条天皇が出した勅があるでしょう?
自分が長女のことをどれだけ愛しているか、どれだけ大切にしているかを切々と述べた内容の。
あれを見ると一条天皇は自分の実娘と信じて疑った様子もないし、
東三条院が定子の残した皇子女を溺愛していたのを見ると
実は一条天皇の娘でなかったとも考えずらいしねえ・・・
- 664 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 07:40:33
- 不敬罪↑
- 665 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 09:24:53
- 穿って考えてみると、いろいろとなくなってしまっている資料が多い中で
溺愛ぶりがわざわざ今に残るくらいだと残っている。
残るくらいどうしてこれに力を入れたのかと不自然に感じる。
なにかがあったのかな?と…
- 666 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 09:41:47
- だけど、他の男と密通した中宮が里の力を失っても尚、
一条天皇の側に上がれるものだろうか?
三条天皇の東宮時代の妃綏子は密通をしたために
以後東宮のもとへ上がれなくなってしまった。
修子内親王と敦康親王は道長や東三条院の意向で
為さぬ仲の中宮彰子によって養育されている。
一条天皇の皇女でないのならば彰子が引き取る必要もないわけで。
すでに中宮定子は亡くなり、里方も勢力を失っているのに
一条天皇がわが子ではない修子内親王を一品に叙すのもねえ・・・
- 667 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 12:46:57
- そういえば「源氏物語」にも、藤壺が里下がりしてる時に出来た子を、物の怪の為に
出産が遅れまして、2ヶ月後に産まれました!
なんてのもある、少し時代は違うけど「とわずがたり」でも二条が産み月を誤魔化して
奏上したと告白してる
案外、よくある事だったのかな?でもどちらも女側の言い訳?っていうか企みですが
どこまで世間的に納得してたのかはわかりませんが。
私ごとでなんですが長男出産時、予定日2週間過ぎたら「促進剤」使おうと言われた
私は「促進剤って色々子供に影響でるから嫌だ」と言ったら、先生に「37週過ぎたら
肺機能も完成してるから、予定日過ぎて長く羊水にいると胎児は苦しいんだよ、
子供死んでもいいの?」と怒られた経験アリマス。
お産の本には3週間過ぎたら、母子共に致死のリスクが高いので、緊急帝王切開の人の話がありました
でも、いったい予定日何日過ぎまで、母子ともに無事に出産できるんだろう?
今度の検診の時に聞いてみますね。
- 668 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 13:39:48
- >>667
肺の中には羊水しかはいっとらんから関係ない。>その医者アフォ
きっと自分の予定計算であんたに怒ったんだよ。
ただし胎児が成長すると肺から某物質が分泌されて、
それが陣痛のきっかけになる。
それに対して母体側が鈍感になっていると・・の可能性はある。
- 669 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:15:21
- 羊水が腐ってるんですよ
- 670 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 15:18:44
- http://yoteibi.aaedit.com/page_7.html
現在の病院では予定日より1週間〜10日程度の誤差は(早くても遅くても)正常の範囲内。
ただ、2週間以上遅れると母体の胎盤機能が弱ってくる可能性があるため
胎児の心音などを確認しながら必要ならば何らかの処置を行うこともあるとのこと。
三人目出産のときに産で死んでしまった定子ですが、修子内親王のときには母子ともに無事でした。
定子が正常の範囲内での出産だったとすると、
修子内親王の誕生日から逆算、中宮定子の最終月経日初日は長徳2年4月上旬。
そこから一週間程度生理が続いたと考えると、やはり受胎日は宮中退出後の4月中旬〜下旬ですかね。
仮に月数通り定子の密通だったとしたら、
兄弟の伊周や隆家に追及の手が及ぼうとし、宮中にもいられなくなって退出、
里の二条邸で身をひそめるようにして外出もしなかった定子の密通相手って?
まさか、定子が一条天皇の子を妊娠したことにすれば一条天皇もこれにいたく感激、
我が身にふりかかる災いから逃れられるだろうと思った実兄伊周が父親とか?
実妹定子と組んだ陰謀?
- 671 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 16:00:39
- 近親相姦説キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
そうそう、高校の時(古文かな?)に先生が「この時の皇后の子供は一条の子ではないです」
って言ってた。そうか、この事だったんだ!20年前の疑問が晴れたよ
- 672 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:17:05
- 夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき
- 673 :日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:33:32
- ところで、退出した月は本当に長徳2年3月2日でいいのだろうか?
ほかのでは4月とか見つかるが…
さっとぐぐったのでもこういうのが
ttp://www.weblio.jp/content/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%AD%90
- 674 :日本@名無史さん:2008/05/13(火) 09:50:26
- >>673
中宮定子が退出した正確な日付は長徳2年3月4日。
これは一次史料である「小右記」にあるので間違いがない。
同じ年には中宮が産み月になっても産をしないと
これまた「小右記」にあり、当時の貴族たちも
定子の出産の遅れを認識していたことが分かる。
673の引用はウィキ並みに素人が編纂可能な概略であって、
退出の正確な日付を書いたものでもないよ。
- 675 :日本@名無史さん:2008/05/15(木) 00:45:50
- 退出日と、誕生日までの間の日数をここみて単純に計算してみた
308日か…
ttp://www.wagoyomi.info/
- 676 :日本@名無史さん:2008/05/15(木) 14:15:33
- >>666
実は道長の子なんじゃねーの?
- 677 :日本@名無史さん:2008/05/15(木) 15:49:35
- なる。。。源氏物語を
光源氏=道長
桐壺=藤壺の女御=定子
桐壺院=一条天皇
で脳内変換して読むと何とはなしに辻褄も合うしおもしろいね。
- 678 :日本@名無史さん:2008/05/15(木) 20:14:57
- >>676
たくましい想像だが、この時期政権担当者の道長は
政敵伊周・隆家の追い落としに忙しくてそれどころじゃなかったと思うよ。
道長に限らず、定子の受胎時期と思われる長徳2年4月頃は、
誰も伊周・隆家の味方だと思われたくなくて二条邸には近づかなかったと思う。
検非違使が伊周・隆家を逮捕するために二条邸を包囲したとき、
定子は兄伊周、弟隆家と邸内で手を取り合って逮捕を妨害しているから、
兄弟が二条邸にいたのは間違いないけどね。
- 679 :日本@名無史さん:2008/05/15(木) 23:23:01
- どんなに忙しくてもチンポ入れて種出す時間もなかったとは
とても思えないけどなw
- 680 :日本@名無史さん:2008/05/15(木) 23:49:39
- >>679
だよな
俺なんか、入れて出すまでの時間なんか、大してかからんぜorz
- 681 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 00:30:39
- 変な話、入れて出すだけならお早め5分、遅め20分あたりだろうな。
これに口吸い、乳揉み、貝吸いといった+αオプションを
付けたとしても一時間といったとこか。
- 682 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 00:36:38
- てか、いくら忙しくたって、やるこたやんよ
- 683 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 13:53:05
- 角田文衛センセが往生なさいました
- 684 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 17:54:26
- >>683
まじで?
・・・いつお亡くなりになられてもおかしくないお年ではあったが・・・
- 685 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 18:15:18
- まじやった〜
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2008051501263
ご冥福をお祈りいたします(-人-)
- 686 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 18:56:15
- 三になったらアホっぽくなります。
一条家 二条家 三ョ条家
おもろい
- 687 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 19:43:45
- 平安末期=今の自民
- 688 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 19:57:08
- >>681
5分とはまたご謙遜をw
私なら三擦り半ですけど何か?
- 689 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:34:31
- せっかく興味深い考察がされているんだからあまり話を逸らさないでくれー。
敦康親王、び子内親王は一条の子供じゃない可能性全くないの?定子がどこかに退出したりはしてない?
私としては彰子の産んだ子供たちも怪しい気がするのだが。一条の晩年(といっても若いが、一条死去の2年前と3年前だよね)に2人も。しかも年子。うまく行きすぎてる気がする。
- 690 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:46:44
- 江戸時代の大奥でもないかがりなんでも怪しくなっちゃうよ
- 691 :日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:51:50
- ↑ごめん。角田文衛さんのことではなく、下ネタのこと。
『待賢門院璋子の生涯』他多数、歴史学に多大な功績を残された偉大な角田さんに、御冥福をお祈りいたします。
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