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【政治】平安貴族総合スレッド・1【生活】

741 :日本@名無史さん:2008/07/04(金) 12:54:41
この頃って処女とかそういう概念どうなってんだろな
妻が、夫が通ってない間は浮気しまくりと聞いたが



742 :日本@名無史さん:2008/07/09(水) 08:03:39
天皇家なんか近親婚しまくりだし

743 :日本@名無史さん:2008/07/09(水) 12:12:11
「妹」が愛する人を意味していた時代だからな

744 :日本@名無史さん:2008/07/10(木) 00:29:46
奈良・平安時代の貴族は身分の高い人にあこがれていたため近親婚のしまくりだった。 

その頃の倫理は「父親が同じでも腹(母親)が違えば他人」だったから。 
子供は母親の実家で育てられるため、腹違いの兄弟同士で顔をあわすこともめったにない。 

そんなわけで腹違いの兄弟姉妹間では「兄弟・親族という観念」が希薄だった。 
反対に「近親で結婚してれば、よそものに財産が散れない」という利点もある。 
その結果体が弱い人が多かったらしい。医学的に、血のつながりの濃い近親婚を禁じる理由はいくらでもある。

ただし、近親婚すると不良品ができる可能性が高くなるけど、逆の場合もある。 


実際、聖徳太子のような優れた人物は近親婚の産物だから 
近親婚=悪い遺伝を持った子ばかり、ということもない。
【聖徳太子の親について】
聖徳太子の父親=用明天皇(欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛の子供。)
聖徳太子の母親=穴穂部間人皇女(欽明天皇と蘇我稲目の娘・小姉君の子供。)

どう見ても近親相姦です。本当に(略

745 :日本@名無史さん:2008/07/12(土) 16:28:56
稲目
┣━━━━━━┓
堅塩┳欽明┳小姉
 用明┳穴穂部間人
   聖徳

こうか

746 :日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:19:24
>740
平城が異母妹2人と離婚したのは自主的な離婚じゃない。
平城が薬子の変で女官と逃げて嵯峨天皇軍に敗れちゃったもんだから
妃のほうが愛想つかしちゃったんだな
妃のほうから嵯峨天皇に妃の返上を願い出て嵯峨天皇に許され、
妻のほうから三下半で離婚。
でも平城はこの後やっぱり別の異母妹と再婚している。
嵯峨妃であった異母妹が妃をはく奪されたのは事実だが
理由もなく妃の位のはく奪というのは尋常ではない
正史にはく奪の理由は描かれないが
妃が密通したなどが理由としては一般的

747 :日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:42:52
嵯峨天皇の異母妹が妃号を剥奪されたのは
当人に知的障害があった(それを嵯峨天皇がたえかねた)
・・・とか言う説をなにかの本で見たような

748 :日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:47:36
嵯峨天皇には異母妹が大勢いた
なにも知的障害がある女性を選ばなくてもよかっただろうにね
しかも嵯峨天皇と異母妹との間には子供までいたはず
しかもそのあと別の異母妹を皇后に据えれば良いものを
皇后にしたのは夫人の一人にすぎなかった橘嘉智子だし
嵯峨天皇の意図を感じ取りますね

749 :日本@名無史さん:2008/07/15(火) 21:40:30
>>745
何を今更 
その用命が別の女に生ませた息子と、
穴穂部間人は再婚して佐富女王を産んでるぞ 
夫の息子との間に娘を生んだ親子どんぶり 
実子じゃないとはいえ、当時でさえ驚愕された再婚だった 

更に厩戸の息子と娘も異母兄妹だから結婚してる 

750 :日本@名無史さん:2008/07/17(木) 00:31:00
 平安時代の延喜式では「国つ罪」として 
・おのが母犯せる罪 - 実母との相姦 
・おのが子犯す罪 - 実子との相姦 
・母と子と犯せる罪 - ある女と相姦し、その後その娘と相姦すること 
・子と母と犯せる罪 - ある女と相姦し、その後その母と相姦すること 

の近親相姦を罪としているが、兄弟姉妹の場合はなにも触れられていない。 
もともと古代日本は母系社会で子供は母親の元で育てられるため、母親が異なれば 
「家」も異なると考えていたようだ。また同父同母兄妹婚らしきものも見られる。 
参考 
「兄妹結婚」 
ttp://www.infonet.co.jp/nobk/other-folk/incest.htm

でもやっぱ、スゴイのはエジプト王家だわな。 
有名なツタンカーメン少年王の嫁は姉で母で祖母なんだから、もう、なにがなんだか。 
史実はエロゲーより奇なりですか。 
「ツタンカーメン夫妻を取り巻く第18王朝末期のエジプト王家の系図」 
ttp://homepage2.nifty.com/chasukekun/nk-608.htm

751 :日本@名無史さん:2008/07/18(金) 20:45:08
>>750
平安時代、花山法皇は親子丼(母と娘を共に寵愛)したけど
何にも処罰されなかたけどね
後深草天皇も二条をものにした後
「お前の母親が私の初枕の相手だったのだよ」と告白、
こちらも親子丼、当たり前だが処分なし


752 :日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:05:57
>>750
王族の偉大な血を守るためにむしろ兄弟姉妹婚は奨励されていたんだよ。
日本の古代大王家も例外ではない
皇族しか皇后にたてない時期があったが
そら庶民の血が入ったら王族の偉大さも失われるしね
昭和、平成の世になったって皇族のお妃候補には
旧皇族だの旧五摂家だのの昔だったらお姫様な女性が候補に挙がるくらいだから
王族が力を持っていた時期には尚更

753 :日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:30:41
王の仕事はSeXッッ

754 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:22:43
>>751
親子丼と近親相姦はまったく別ものでは?
花山法皇の相手って、確か自分の乳母とその娘(という事は乳きょうだい)だけど
血のつながりはない赤の他人だし。
後深草天皇と二条もしかり。

例えば三谷幸喜が、三國連太郎と佐藤浩市父子の両人と寝ても
近親相姦とは言わないだろうw(例に深い意味はない)

ちなみに花山法皇は「出家したはずなのに
愛人二人(先述の乳母とその娘)の両人に子供を産ませた」という理由で
当時の人たちに非難された。

755 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:32:20
>>754
750にある令の規定によれば親子丼は犯罪。

花山法皇が母娘と同衾したことは当時の人々にも非難されたよ。
「栄華物語」にも好色な話として女房たちの口に上ったようだし、
「小右記」などの当時の史料にも出てきている。

出家後に女を寵愛した法皇は花山法皇に始まった話じゃない。
仁和寺を創建し、「御室」と称していた宇多法皇も
出家した後、親子ほどに年の離れた寵妃藤原褒子を熱愛、
(褒子は本当は宇多の息子醍醐の妃候補だったという・・・)
次々と皇子を産ませていたけど、
宇多法皇の評判が悪かったという史料はないしね。

756 :日本@名無史さん:2008/07/21(月) 02:27:51
藤原道長にも?「不適切な関係」報道 
米紙が1000年元日紙面発行 

【ニューヨーク12日=山中季広】 
「ききんの日本で藤原道長が不倫」「神聖ローマ皇帝の残忍さ顕著に」? 米紙ウォールストリート・ジャーナルは11日、
架空の紙面である西暦1000年1月1日付けの別刷り特集=写真、AP=を発行し、千年前の世界のニュースを
こんな風に伝えた。平安中期に権勢を誇った藤原道長の記事は一面に。 
クリントン米大統領が不倫問題の釈明に使った言葉を引用し、「ききんと疫病に見舞われた日本では、支配者の道長が
複数の女性と不適切な関係にあることが発覚。農民は一揆を起こす構えだ」と伝えた。 
一面トップは「オットー3世の野望」。神聖ローマ帝国の領土拡大を狙う若い皇帝が世評とは違って性格に偏りがあると
報じた。宋王朝の記事も大きく、当時の都開封発のニュースで「実用的な知識で世界の先頭を行く。西洋も見習うべきだ」
と伝えた。米国では、他のキリスト教圏と同様、紀元3000年まで続く新たな千年紀をめぐる催しや出版が相次いでいる。
同紙の特集は逆に千年をさかのぼったのがみそ。当時の世界を現在の紙面に似せた体裁でまとめた。 
朝日新聞 1999/01/13 から

http://bhn.jpn.org/yamanaka/1999.html

757 :日本@名無史さん:2008/07/21(月) 11:19:50
平安のマイケル後白河

758 :日本@名無史さん:2008/07/23(水) 17:52:20
平安時代の貴族の資料がのった良い本ないですか。
写真がいっぱいで
博物館とかが出してるやつがいいんですけど。
風俗博物館の「六條院へ出かけよう」っていうのは持ってます


759 :日本@名無史さん:2008/07/23(水) 21:59:34
中学校の授業で使う日本史の資料集。

760 :日本@名無史さん:2008/07/23(水) 23:47:47
>>759を見て思ったけど図書館にある子供向けの本は、
写真が多くてわかりやすいな。
多分、大人向けでも図書館に行ったらあるんじゃないかな。
閲覧室に出ていなくても検索したら書庫にあると思うよ。
図書館は書庫にある本も貸してくれるし。

そういえば中学、高校の古典の資料集にも平安時代の事が、載っていたね。

761 :日本@名無史さん:2008/07/24(木) 01:24:55
田舎だから図書館が学級文庫並みです

762 :日本@名無史さん:2008/07/29(火) 04:51:23
県立図書館は?

763 :日本@名無史さん:2008/07/30(水) 05:51:35
ガムで連載してる「暴れん坊少納言」が面白いよ
メインキャラ以外は平安顔だから現代風の顔と性格の清少納言とか定子、紫式部他が目立つ目立つ
なんかもう地球によく似たよその星の話みたいになってるけど
展開は微妙に史実被ってる(無視してるところも多いけど)

764 :日本@名無史さん:2008/08/08(金) 08:44:44
もっとましなことを書いたらどうか

765 :日本@名無史さん:2008/08/08(金) 12:53:05
紫式部についてだけ語るスレが無いから
紫式部のスレ立てたいんだが…


766 :日本@名無史さん:2008/08/08(金) 13:46:17
つ 文学板

767 :日本@名無史さん:2008/08/08(金) 20:53:54
史学的に紫式部を語るなら日本史板でおk
源氏物語について語るなら文学板

768 :日本@名無史さん:2008/08/09(土) 02:36:09
>>765
紫式部専用スレではないけどこういうスレが立ってたよ。

☆☆☆一条天皇と取り巻く女と子供と貴族達☆☆☆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1218215666


769 :日本@名無史さん:2008/08/10(日) 18:45:22
日本は歴史の古い国だからテントも防水リュックサックも携帯コンロも登山靴も酸素ボンベも乾燥食料も存在していない遠い過去から登山が行われていた。

だいたいにおいて日本の山は,ご近所の裏山と同じく、気がついたら大昔からどっかの誰かが登っていて(←ってだれが気がつくんだ?)
最初に登ったのはだれかというのは不明なことが多い。あの日本一高い山の富士山だって、平安時代の文章に頂上のカルデラを
正確に描写した記述があるので,それ以前に人が登っているんだろうな,という程度のことしかわかっていない。
ところが,富山県にある剣岳は無茶苦茶危ない難攻不落の岩山なので,明治時代まで誰も登ったことがないと考えられていた。
だが、明治時代に初登頂のつもりで登った剣岳の山頂から人工的な物体(錆び付いた錫杖の頭部、槍の穂、古い焚き火跡)が発見されたのは有名な話である。


藤原道長、西暦1007年に山上ヶ岳の山頂に出没する。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/data/kouko/88kiniro.html
http://www.kyohaku.go.jp/jp/tokubetsu/070424/tokubetsu.html
http://www.yoshimisports.co.jp/blog/2007/06/post_26.html
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1027
http://kansaiart.hp.infoseek.co.jp/michinaga.htm

藤原道長は、奈良県天川村山上ヶ岳の金峯山(きんぷせん)に登山し、自ら書写した紺紙金字の経巻を金銅製の経筒に納め、経筒を埋納した。
これには、一条天皇に入内した彰子の皇子出産への願いもあった。この経筒は、弥勒が現れる56億7千万年後の未来に向けて埋納されたもので56億7千万年後に経筒が出現するであろうと思われていました。
しかし、江戸時代元禄年間に道長が埋納した経筒が発見されてしまったとのこと。


770 :日本@名無史さん:2008/08/30(土) 14:09:42
古人も多く山に登るあり

771 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 11:11:59
>>419
神保町とかヤフオクとか

772 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 23:29:34
>>770
よく考えろ?近代登山に必要な防水テントも防水リュックサックも携帯コンロも登山靴も酸素ボンベも乾燥食料も存在しない時代だぞ??

773 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:40:16
平安末期の白河上皇なんかやたらと熊野詣に出かけている
花山法皇なんかも行ってるな
今熊野古道なんかを見ると細く険しい道だが
権力者は馬に乗ったり輿で運んでもらったりして行ったんだろう
白河上皇はかなり高齢になっても熊野行きを続行しており
途中では社で休息をとっては毎晩歌会や酒盛を楽しみ
楽しい物見遊山だったようだ

道長が彰子の懐妊祈願のために息子の頼通をひきつれて金峯山へ上った際にも
都から多くの供を引き連れて行ったばかりではなく
現地でも国司やなんかが道長一行の世話や接待に追われている

774 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:18:16
>>772
日本には酸素が急激に薄くなって低酸素症になる危険がある3000m以上の山なんて限られているんだから、こんなのなくても充分。

日本には3000m以上の高さがある山といえば富士山があるが、これも奈良時代には誰かが登ったという記録がある。

スイスのマルセル・クルツという山岳史の研究家の「世界登山記録年代記」によると、
富士山の初登頂は633年に役ノ小角が登ったという伝説があるが、一番妥当な記録は663年ごろに匿名の僧侶が登ったらしい。
その記録は、1522年ポポカテペトル山が登られるまで、約900年間破れなかったという
小角の登山は「流刑地の伊津大島より、夜な夜な、空を飛び山頂へ」というからかなり胡散臭い話である。
だがしかし、平安朝に出た都良香の「富士山記」には頂上の噴火口の模様が書いてあるから、
もうその頃には誰かが登っていたに違いない。これでも世界的には充分早い。
http://doraku.asahi.com/earth/mountain/080117_02.html
http://www.kashmir3d.com/eos/F100Mts072.htm
http://blog.sankouki.com/archive/1068/2007-11

775 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:47:05
>>773
当時は「登山」という概念自体が全く「無い」時代に権力者が登山をしたという事実だけでもすごい。

776 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 01:32:07
なんで平安貴族の生活は異様なまでに庶民の生活が見えないの?
政治はしてたんだよね?貧困とかどうも思わなかったの?

777 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 12:58:46
>>776
これが当時の常識


778 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:54:30
>>770
>>773

かつて、欧州では山は悪魔の住みかとして人間が近寄ろうとしなかった。

こんなヨーロッパアルプスが近代登山を迎えるのは18世紀になってからである。


それににたいし、日本では7、8世紀頃から―今から1200年前に、多くの高山が誰かによって登られており、わが国に登山の黄金時代があった。
日本の名の通った山は、信仰登山によって登頂されており、あらかた徳川時代までに登られたとみていいという。
御嶽山や白山や石鎚山や男体山など、わが国の名山は大てい坊さんによって開かれたが、北アルプスの名だたる山もその例外でない。
スイスのマルセル・クルツという山岳誌の研究家の「世界登山記録年代記」によると、富士山の初登頂は633年になっていて、
世界最初の登山とされていることが紹介されている。その記録は、1522年ポポカテペトル山が登られるまで、約900年間破れなかったという・・・・。
近代登山に必要な防水テントも防水リュックサックも携帯コンロも登山靴も酸素ボンベも乾燥食料も存在しない時代によくやったと言える。


779 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:56:15
フランスとかも貴族社会だったわけ

780 :山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/03(金) 21:20:14
>>773
>権力者は馬に乗ったり輿で運んでもらったりして行ったんだろう
巡礼は徒歩を用いるべきだ、という観念があったような。
また調べてみないと分かりませんが。
ご高齢だと流石にきつかったでしょうしね。

>>776
何を参照された上でのご発言か存じませんが、儒教思想に基づく賑給や文殊
思想に基づく布施などの概念はありましたし、日記が子孫に儀礼について伝
える手段であったとすれば、出て来ないのも無理はないかと。
時代が下ると庶民関係の記事も増えて来ますが、それはそれだけ庶民層が力
を増して来た、貴族層の力が落ちて来て接触の機会が増えた、などの理由に
基づくもの。
常識と言ってしまえばそれまでですが、関心は皆無ではなかったとはいえ、
少なくとも記録にする必要性が薄いとみなされたということでしょう。
藤原実頼などは庶民層との接触が多かったようですが、彼の日記は現存して
いませんし、現存していても書いてあったかどうか分かりません。
日記に書くべきこと、とみなされたかどうか疑問ですから。
変化が大きいのは院政期で、庶民層へ関心を示す側とそれを批判する側に分
かれましたね。なんでそうなったか、はここでは言い切れませんが。

>>778
>富士山の初登頂は633年
役行者のことでしょうかね。『富士山記』も実見によるものではない筈。
院政期には登頂していたようですが(勿論僧侶が)。

781 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 00:11:11
>>780
>役行者のことでしょうかね。『富士山記』も実見によるものではない筈。 

実際に頂上まで登った人からの聞き伝えによる記述らしい。
山頂火口内に沸湯池があることを富士山記に記録している。
なお、海外では富士山の初登頂はこんな表記になっている。

>It is thought that the first ascent was in 663 by an anonymous monk.

http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Fuji
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_first_ascents
http://canpan.info/open/news/0000003126/news_detail.html

782 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 06:59:55
>>776
権力者に庶民の生活が見えないのは、古今東西いずこも同じ。
今だってそうでしょ。

嵯峨は815年に山中越えで唐崎まで行っている。勿論輿で。しかも夏4月に。
去年同じルートを歩いたが、手ぶらですら死にそうになった。
当時輿を担いでいた人たちの辛苦は半端ねえものだったに違いない。まさに辛崎。

783 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 07:42:17
>>755
750で引用されてるのは祝詞だが、律(令は刑法じゃない)ではどうなってた?

784 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 08:32:06
若外姻有服属。而尊卑共為婚姻。及娶同母異父姉妹。若妻前夫之女者。
謂。妻所生者。余条称前夫之女者準此。亦各以姦論。


785 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 09:46:46
>>776
【佐藤亜紀】日本古典は庶民を描けない【曰く】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1187514913/


786 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 12:26:35
>>779
フランスに限らず、7〜13世紀の欧州は中世暗黒時代の真っ只中で文明圏として極めて後進的だった。


当時の欧州は神聖ローマ帝国時代末期に沢山の異民族の侵入・略奪などにより、それまで蓄積された文化、技術、知識が欠落してしまい、
さらに、都市の崩壊、交通の遮断などによる貨幣経済が衰退し、自給自足経済へ移行してしまった。
衛生環境も遅れていて、糞尿とゴミに埋め尽くされた“におう大陸”だった。そんでもって国民も地位や階級に一切関係なく
コレラやペストなどでガンガン死んでいた。宗教権力は、王家や王族などの世俗権力を確保する事に積極的に関与し、片っ端から権力闘争をおこしていた。
当時のヨーロッパにおいて、宗教は、カトリックしかありえず、カトリックを信仰しないと、生活自体が成り立たないため、
一種の独占企業のような存在でしたから、だれも堕落を止めらない状態だった。
だから西暦999年の大晦日には「来年で世界の終末がやってくる!!」と欧州の至るところで大騒ぎになっていたし、
そんでもって11世紀頃からは「十字軍」を結成して「聖地エルサレム奪還」を口実に当時の先進国だった中東諸国へ喧嘩を売るものの、
逆に中東諸国によってボッコボコの袋叩きにされる始末・・・。


ヨーロッパが文明圏として急激に復権するのは、ルネッサンスとプロテスタントの誕生まで待たされることになる。


787 :西暦1000年(First Millenium)の世界:2008/10/09(木) 02:34:25
西暦1000年頃の全世界の人口は2億5000万人であったという。
当時の世界最大の都市は、スペインのコルドバであり、コルドバには45万人が居住していた。
世界人口の増加率は0.1%で、5歳未満の子供の死亡率は5割にも達したという。

文化は世界各地にばらばらに存在していた。西暦1000年頃の世界一の超大国は中国であった。

中国の統一王朝である宋が世界の3分の1近い人口を占めていたのである。地球上の最も豊かな場所で最も文明化されていたのは
中国であった。中国の広大な領土で戦いが繰り広げられたり、画期的な新技術が考案され、その影響が遠くの地域にまで及んだという。
中国では火薬や紙幣、活字、鋳鉄を製造する溶鉱炉などの様々な発明が相次いでいて、「開宝本草」などの書物が記されている。
また、イスラム圏はイベリア半島から北インドまで広がっていた。一方、欧州は暗黒時代の真っ只中であった。
西暦1000年頃は世界はまだあまり交流をしていなかった。欧州の多くの知識人は地球が平らでないことを知っていたが、
あえて外洋に乗り出そうとはしなかったという。例外的に古代スカンジナビア人が現在のカナダ北東部に上陸している。
一方、ポリネシア人たちはフィジー諸島やクック諸島に入植し、ニュージーランドに進出したのも西暦1000年頃のことである。
中国人は世界一周も可能な船を建造できるほどの科学力を手に入れたが、遠洋航海には乗り出さなかったという。
まだ世界的な文化は育っていなかった。貿易は次第に人々の考えに新風を吹き込んだ。例えば、スカンジナビア人は、
現在のロシアに議会制度を伝えた。しかし、これは長くは続かなかったという。
西暦1000年頃は日本は平安時代であった。日本では宮廷文学が花開き「源氏物語」や「枕草子」が記された。
一方、北アメリカでは豆の栽培が広まり、ヨーロッパなどでは奴隷貿易が行われていた。
インドが9個の数字と”ゼロ”を意味する記号を使った数学体系を創造したのも西暦1000年頃のことである。
また、アラビア語の書物がラテン語に翻訳され、アスロラーベ(天体観測機)などの機器類の普及に貢献している。
中国では地震計が登場し、イスラムの数学者で天文学者のイブン・アル・ヘイサムは大気による光屈折と天体との関係を研究していたという。

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