【ドン】 大友宗麟 part1 【フランシスコ】
- 1 :右大臣 ◆a6TgNMMv/Y :2006/03/27(月) 22:10:54
- 大友 義鎮(おおとも よししげ、享禄3年1月3日(1530年1月31日) - 天正15年5月6日
(1587年6月11日)は、九州の戦国大名、キリシタン大名である。
大友氏の21代。
正式な名のりは藤原義鎮(ふじわら・の・よししげ。)当初は禅宗に帰依していたが、後に
キリスト教の洗礼を受けた。
父は大友義鑑、母は後妻(公家の娘、大内氏の娘とも)。
異母弟に大内義長。正室は奈多八幡宮の奈多鑑基の娘で田原親賢の妹の奈多夫人。
子に大友義統、大友親家、大友親盛。官位は正四位下左衛門督。幼名は塩法師丸。
法名は宗麟(そうりん)、洗礼名はドン・フランシスコ(普蘭師司怙)。
さぁ、いってみよ〜^^
- 301 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 23:50:42
-
>>292
弾圧と云うより、小藩分立で開発が、進まなかったというのが大きい。
庄内か野津原あたりで井路を引こうとした庄屋の話がある。
複数の藩と折衝しなきゃならないし、測量もこっそりやらなきゃならない。
それで、かなり余分の時間と手間がかかったそうだ。
豊前は、江戸時代に石高を大きく伸ばしている。
- 302 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 19:42:54
- なるほど、今の行政、役所と似たところがあり、というよりも
昔の伝統を今も引き継いでいるわけね。
でも旅行に行って思うことは、豊後って
自分のところの歴史をもっと大事するべき市町村
が多いのでは。
もちろん熱心なところもあちこちあるだろうけど。
- 303 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:58:10
- >>301
豊前も小藩分立と思われるのですが、
江戸時代に何が違ったのでしょう?
- 304 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 02:19:49
- >>303
豊前に小藩分立なんて歴史はないよ
- 305 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 02:38:54
- では北九州市民は中津奥平家が領主?
- 306 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 03:07:10
- >>305
小倉藩10万石
http://sito.ehoh.net/zinko.html
国名
慶長3年(1598)
正保2年(1645)
元禄10年(1697)
天保5年(1834)
明治6年(1873)
豊前
140,000
231,680
273,801
368,913
366,948
豊後
418,313
378,592
369,546
417,514
459,184
- 307 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 03:07:40
- 日向
120,088
288,589
309,954
340,128
418,142
薩摩
283,482
315,251
315,005
315,005
323,483
大隅
175,057
170,828
170,833
170,833
261,793
- 308 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 03:08:31
- 筑前
335,695
522,512
606,981
651,782
633,434
筑後
265,998
302,089
331,497
375,588
536,841
肥前
309,935
561,437
572,284
706,470
691,444
肥後
341,220
572,980
563,857
611,920
851,237
- 309 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 09:56:41
- 中津も小倉も小藩ではないし
- 310 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 20:40:32
- 小倉は小笠原流家元さんでしょ。
北九州市民、ガラがたいそうよろしいのは・・・
- 311 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:46:30
- 竹田と比べれば、小倉も中津も小藩だと思う。
- 312 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 21:05:12
- >>331
竹田って岡?
- 313 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 21:23:45
- 岡藩 7万石
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E8%97%A9
- 314 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 15:06:48
- 奈多夫人を大河でなんて言ってる奴はお馬鹿さん。
- 315 :日本@名無史さん:2009/04/21(火) 22:02:18
-
- 316 :日本@名無史さん:2009/05/10(日) 11:20:32
- >>307
薩摩って意外に人口伸びなかったんだな。
- 317 :日本@名無史さん:2009/05/10(日) 11:33:46
- 薩摩の場合は、大幅な人口増加があり、
人口過剰につき大隅へ移住政策が取られた(強制移住の事例すらある)。
- 318 :日本@名無史さん:2009/08/05(水) 12:30:10
-
- 319 :日本@名無史さん:2009/08/06(木) 19:53:31
- 道雪や紹運のような名将がいたのに勿体無いよね。
宗麟が浅井長政レベルの普通の大名だったら九州統一も夢じゃなかったかもしれない。
宗茂なんて単騎なら戦国時代TOP3に入るし。
- 320 :日本@名無史さん:2009/08/06(木) 20:10:16
- >>319
単騎ならトップ3どころかトップ1000にも入らんと思われ。
- 321 :日本@名無史さん:2009/08/06(木) 21:32:42
- >>319
北に毛利、南に島津。西に竜造寺(鍋島)。
こんな連中に囲まれつつも、
あれだけ領土を広げられたんだから、良しとしないと。
しかし、九州統一できていたら、
秀吉と戦っていたんだろうな〜
- 322 :日本@名無史さん:2009/08/06(木) 23:09:49
- >>321
毛利島津竜造寺
こいつらすべて大友より後発
なり上がりであったり内紛やってたりと、
大友より圧倒的に不利な立場から追い上げ、
あるいは逆転した連中だろ
大友がこいつらに囲まれながらも勢力拡大したんじゃない
こいつらが頭を大友に抑えられながらも勢力を拡大したんだよ
話があべこべだ
- 323 :日本@名無史さん:2009/08/07(金) 13:45:37
- 関東の者ですが最近、大分旅行で、岡城、大分府内城、臼杵城、杵築城、中津城を見て回り、大友氏に興味が出てきました。
でもこちらには大友関係の本がなく、疑問ばかりが浮かびます。
なんとか筑前立花城攻防史と言う本を見つけて買ってきましたが。
毛利支援の伊予河野氏と大友支援の土佐一条氏らと宗麟の関係を教えてください。
一条氏に伊予宇都宮氏も味方した?
一条氏には大友兵が多数参加して毛利に破られた?
双方とも宗麟の姉妹と婚姻関係があったんですか?
一条氏再興(母が宗麟の姉妹?)を目指して宇和島に上陸した時に大友兵もかなり投入されて、長宗我部氏と四万十川で戦い大敗したんですか?
四国戦役に参加していたとしたら臼杵や佐伯や戸次ら有力どころが四国派兵軍の主力ですか?
南蛮貿易や海に沈んだ商業都市だった島、豊予海峡や豊後水道を中心とした歴史っていろいろありそうですね。
ちなみに廃嫡されそうだった宗麟が湯治に行かされそうになったのは別府温泉ですか?
- 324 :日本@名無史さん:2009/08/08(土) 17:48:14
- 西国一の最強大友!
ぜひコレクションしたい綺羅星の武将達。
- 325 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 15:16:15
- 大友スナックを買って
さっそくコレクションカードを見たら
すでに35枚持ってるNo.47島津義弘(シルバー)だったからショボーンだった。
だが俺は負けない。大友スナックをさらに二つ購入。
天運を祈り破いて中を見たら
No.32秋月種実(ゴールド)
すでに15枚ダブりのNo.78毛利元就(プラチナ)
の2枚だった。
マジキチだよ大友スナックの野郎(怒)
なぜ大友関係のまったく出ねぇんだよ。
- 326 :日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:32:09
- まさかここで大友スナックの話題が出るとはw
あまりに地域限定すぐる。
- 327 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 09:12:39
- >>323
大分府内城、杵築城、中津城 大友氏とまったく無関係。
伊予河野氏と土佐一条氏、宗麟の姉妹と婚姻関係があり。
一条氏帰還に向けて、援兵を送ったのは事実みたいだが、
そんなに大規模じゃない。
ちなみに宗麟の長女は、清田鎮忠(大友の一族)と再婚している。
- 328 :日本@名無史さん:2009/09/06(日) 08:10:40
- 木次城は関係あるだろ。
島津軍を撃退してるし。
戸次、吉弘、臼杵のうち臼杵って、道雪や紹雲の活躍のせいでマイナーだよね。
臼杵氏のエピソードってなんかない?
- 329 :日本@名無史さん:2009/09/06(日) 08:53:03
- >>328
耳川で全滅した
- 330 :日本@名無史さん:2009/09/06(日) 10:55:18
- 新大阪駅の少し大きめの書店で、全国的にはマイナーなはずの高橋紹運と立花宗茂の
小説コーナーには、わざわざ、少し遠くからもその小説が目立つように小説の真上に
のぼりの旗のように、名前を書いておいてある。(そののぼりは、あまり立ってないのだが)
高橋紹運〜戦国挽歌(学陽書房)と立花宗茂(学研M文庫)という本だが、
すごく面白い。 立花道雪とあわせた3武将は、本当にすばらしい人物
だったんだね。 大友の家臣の方が、大友宗麟よりも数十倍すごいと思うのが
実感。 西軍に属して改易された後に、元の柳川城に戻された唯一の人である
立花宗茂凄過ぎ。
- 331 :日本@名無史さん:2009/09/06(日) 11:36:02
- 西軍に属したのに改易されなかった武将や、
徳川に尻尾振らず大坂城に入った武将の方がよっぽどすごいと思うが。
- 332 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 14:29:42
- >>328
田原と佐伯が、謀反を企てたときに佐伯への討伐軍を指揮していたのが、臼杵長影。
長景は、佐伯に「お館様の怒りがとけるまで、日向に逃げたらどう?」と勧めた。
わずかな供を連れて佐伯は日向へと落ちていった。
しかし、それは罠で、途中の道には伏兵が待ち構えていて……。
結局、大きな戦闘もなく、この反乱は収束。
佐伯の与党は分割。
大友氏の権力は、更に強固になりましたとさ。
ちなみに娘が道雪の継母。
つまり、臼杵鑑続、鑑速兄弟は、道雪の義理の叔父になるな。
- 333 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:33:27
- ●大友氏の重臣として活躍
戦国期の当主臼杵長景は民部少輔を称し、海部郡臼杵庄水ケ谷城主であった。
永正十三年(1516)十二月から享禄元年(1528)十二月まで大友義鑑の加判衆をつとめる。
大友政親の代に整備された支配機構の一つに、年寄・宿老・老中などと呼ばれるものがあった。
大友氏の支配機構の最高機関で、主君の命を執行するに当たって複数で署名加判することから
「加判衆」と呼ばれるようになったものである。
大友氏の重臣の代名詞であり、臼杵氏から加判衆に登用されたのは長景が最初であった。
長景は永正十三年の朽網親満の乱に活躍して、加判衆に抜擢されたようだ。
そして、永正十七年頃には筑後方分、享禄元年頃速見郡山香郷の代官をつとめている。
大永七年(1527)十月に起こった佐伯惟治の乱には、討伐軍の大将として出陣した。
しかし、佐伯勢の防御の前に攻めあぐみ、結果謀略をもって惟治を殺し、乱の終息をはかった。
このため、長景はのちに狂死したという。
- 334 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:34:57
- 長景には、鑑続・鑑速・鎮次・鎮順の男子があったとされる。
跡を継いだのは長男の鑑続で、天文五年(1536)から弘治二年(1556)まで、二十年間にわたって加判衆をつとめた。
また、大友家の外交事務を管掌し、享禄三年(1530)以降、幕府・他大名との交渉の責任者となっている。
そして、天文四〜七年の大内義隆との和睦、天文十六〜十八年ころの一色義晴の娘と義鎮との婚礼、
天文二十一年の大友八郎の大内家督相続などに尽くしている。
一方、志摩郡代・好士岳城督を勤め、周辺の在地領主層との間に与力被官契約を結び、筑前西部地域において大友氏の安定勢力構築に
尽力した。鑑続には男子がなかったため、弟の鑑速が家督を継いで、弘治三年から元亀三年(1572)まで加判衆をつとめた。
鑑続・鑑速兄弟はともに傑出した人物であったようで、天文十九年に起こった「二階崩れの変」を生き抜き、鑑速は義鑑が遺した条々に
大友家の重要書類や日記箱を管理する奉行に指名されている。
ゲーム厨にはわからんだろうが、臼杵氏は道雪よりもずっと政権の中枢にいて、影響力を持っていたわけだ。
- 335 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:36:54
- ●「豊後三老」の一に数えられる
鑑速は大友義鎮(宗麟)に仕えて、吉岡長増・吉弘鑑理と並んで「豊後三老」と称された。
永禄初年から元亀にかけては、豊筑肥に出陣して毛利氏とその与党秋月・原田・高橋・立花氏らと戦っている。
この一連の戦闘において、鑑速は戸次鑑連・吉弘鑑理とともに現地軍総司令官を勤めた。
また、交事務を担当し、永禄二年には義鎮の肥前・豊前・筑前守護職につき幕府に修礼している。
さらに臼杵氏は長景のころより、大友氏の対外貿易を管掌していたようだ。
天正元年八月、大友宗麟が派遣した南蛮貿易船が帰国途中、島津氏の港に繋留されるという事件が発生したが、
このとき、鑑速が返還交渉に臨み、伊集院忠棟に鎧一領を贈っている。
これも、鑑速が対外貿易の管掌者として事態の解決を図ったものであろう。
- 336 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:38:34
- ところで、鑑速の弟新介鎮続は長兄の鑑続の跡をうけて、志摩郡代・好士岳城督となり、大友義鎮に仕えて活躍している。
鎮続は好士岳城を拠点として志摩郡衆との間に主従関係を結び、「新介与力被官」と呼ばれる一定の勢力を養った。
主として、大友氏の筑前西部経営に尽くした。永禄末年から元亀年間に博多合戦・志摩郡防衛に活躍し宗麟から感状を受けている。
一方、元亀三年正月には原田了栄・親栄と争い、新介短慮との譴責をうけるといこともあった。
臼杵氏の系図は諸本伝わり、それぞれ異同が多く、鑑速のあと鎮理なる人物が加判衆にあったとうが、系図上の関係は不明である。
また、鑑続と鑑速とは兄弟といわれるが、系図によって兄弟の人数、名乗りも混乱をみせている。
天正二年頃より息子統景が父鑑速の代理として、肥後に書状を送っていることが確認される。
臼杵家の最後の惣領となった統景は、年ながら文武の道に通じ、田原親虎とともに宗麟からその才を愛されたという。
とくに能は金春八郎の指導を受け、鼓をよくしたと伝わる。
- 337 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:10:05
- 柑子岳城(好士岳城)
博多をぐるりと囲むように配された『大友の筑前五城』の西の要
南南東の方角には、原田氏の高祖山城が目視で確認できる。
山の一番高い削平地が主郭
ttp://www.42ch.net/UploaderSmall/source/1252938476.JPG
- 338 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 09:43:53
- 門司城の帰属タイムテーブルがよくわからない
- 339 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:58:51
- 元就の九州完全撤退のあと門司城って毛利と大友どちらに属したんだろうな
某大友サイトだと大友側って書いてあったが。
- 340 :日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:24:05
- 筑前や豊前、豊後の戦国期の街道がよくわからん
肥前から入って岡城を攻めてた島津軍がなぜ玖珠郡や別府近くの城を攻められるんだ…
日向から入った島津軍は佐伯が落ちないのに臼杵攻めしたら補給を考えたら危険じゃないのか…
つか各地の城が落ちず不安定なのに木次までどうやって島津は侵攻してんだ…
わからない。わからなすぎる。
木次や龍王や鶴崎へ進出したのは義弘騎下?
家久は臼杵より北には言ってない?
日田方面には秋月あたりが侵攻したのかな?それとも義弘が日田方面に派兵した軍は阿蘇から北上して日田→玖珠→別府→木次や大友館へ進軍?
国東半島の大友諸将は反乱しなかったの?宗像や城井や麻生らは暴れなかったん?中津や高田は安全圏だったん?
- 341 :日本@名無史さん:2009/11/07(土) 23:51:56
- 当時の交通路としては、こんな感じ。
キリシタン道路としてかなりにぎわっていたらしい。
府内→わさだ→野津原→竹田→小国(肥後北部)→大牟田→筑後→肥前・長崎
現在の国道10・197号は、街道として機能してなかったみたいね。
大野川以東の大在・坂ノ市・丹生・幸崎は、臼杵・野津なんかの経済圏に含まれていたから
坂ノ市→丹生→九六位山又は御所峠を超えて臼杵に至るのが、古代からの交通路。
津久見はもともと臼杵荘と佐伯荘に半分づつ属していた。
当時は陸の孤島だろうね。
大分→別府は、海沿いの別大国道じゃなく、高崎山の裏側を通るのが当時のルート。
大友館から、高崎山城の間にも城があったはず。
そしで現在の別府・城島高原から庄内→湯布院→玖珠は、当時の方がかなり
賑わっていたんじゃないかな。
後考えられるのは、こんな感じ。
延岡→北方→豊後南部の宇目(朝日嶽城)→緒方→三重→戸次
宇目→直川→弥生→野津→戸次→大野川→鶴崎
佐伯氏が立て篭もった城(栂牟礼城)も、現在の佐伯市弥生の城だから、この近辺が
当時の佐伯近辺の交通路だったんじゃないか。
- 342 :日本@名無史さん:2009/11/11(水) 16:21:14
- 日田って島津侵攻の時って、大友側は誰が守ってたの?
南郡衆(直入郡と大野郡?)が岡城の志賀が旗頭で、
玖珠衆(玖珠郡と日田郡?)の旗頭が日田の守将とか?
いまいち大友の軍管区がわからないので教えてください。
- 343 :日本@名無史さん:2009/11/11(水) 19:27:40
- 平時ならいざ知らず有事に際しては臨機応変だよ
- 344 :日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:09:43
- w
- 345 :日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:12:44
- 玖珠の拠点は、角牟礼城。
この城は、大友氏の直轄。
玖珠は、格別の有力者はないんじゃないか。
日田も同様じゃないかな。
- 346 :日本@名無史さん:2009/11/12(木) 01:48:54
- そうりん>>>>>輝元
- 347 :日本@名無史さん:2009/11/12(木) 01:57:17
- 玖珠郡=国侍持ちきり
- 348 :日本@名無史さん:2009/11/12(木) 09:46:56
- 玖珠郡衆
小田、森、帆足、魚返、古後、恵良、中島
- 349 :日本@名無史さん:2009/11/12(木) 13:01:09
- じゃあ森が大友から派遣されてきて大友直轄城の角牟礼城の守将になってたのかな。
日田は島津に落城させられ奪われたんだっけ?
- 350 :日本@名無史さん:2009/11/12(木) 13:51:10
- 日田城はすでに廃城だったからロクに守らずに島津に降ったんじゃないか?
秋月あたりの働きかけで日田衆って岡城にいた義弘に内応したんでないかねぇ。
じゃなきゃ玖珠郡攻めに兵を分けたりしないだろうし。
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