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家康を再認識するスレ【やっぱりすごいかも】

1 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 11:18:43
徳川三百年の天下泰平の基礎を築いた家康
日本史上比類なき偉業を成し遂げた割には、一般的な評価はあまり高くない
徳川家康についてもう一度考えてみよう

738 :日本@名無史さん:2007/09/08(土) 19:59:59
>>728
「安土日記」には信康が謀反を企てたので
岡崎城から追い出した、という記述だけ。
家康が信康の処置を信長に相談したのに対し、
「家康存分次第」と信長が答えたと述べているのが
「当代記」。
「当代記」はかなり信頼性の高い史料と研究者の間で
されているので、これが信長無関係説の根拠に
なっている。
なお、なぜ家康が信長に相談したのかと言えば
信康が信長の娘婿だから。舅の信長に断りなしに、
信康を処分するわけにはいかなかったろう。
酒井忠次はそのために安土を訪れた。決して
五徳の12ヶ条の書状などを持っていたわけではない。
御用学者は「信長公記」を見て、天正7年7月に
酒井が安土を訪れてるのに気付き、「これだ!」とばかりに
飛びついたのであろう。酒井はここで、信康切腹を信長に
命じられたことにされてしまった。

739 :日本@名無史さん:2007/09/08(土) 21:05:44
>>732
通説派こそ、江戸時代以来語られてる筋書きを繰り返すばかりで、
何ら新たな根拠など示してないだろ?
元々通説には数々の疑問・矛盾点があり、それに対して
新たな史料の解釈などを加えて出てきたのが「家康の意思で
殺した」説。
他にも書いたことがあるが疑問を二つばかり。
嫡男を殺せと命じられた家康が、信長は離反するとは思わなかった
のか。また、離反した場合への、東への備えなどはあったのか。
この時期、現実の信長はこの頃上洛して蹴鞠を見物したりして、
そういった緊張はまるで感じられない。
次は信康を庇わず、死に追いやった酒井忠次が何故その後も
重臣として用いられているのか。通説の通りなら冷遇されても
おかしくない。
通説にはこのように説明できない疑問が多すぎる。
もう一つ明確にしておきたいのは、信長が命令したという話は
徳川の天下になって作られた史料にしか出てこないということ。
同時代にそういったことを言っているものがあるのなら
肯定できるが。

740 :日本@名無史さん:2007/09/08(土) 21:34:34
これも他に書いたことがあるが、
信長は無関係で、家康は自らの意思で妻子を抹殺したと
(著者なりに)論証した本が、
典厩五郎著「家康、封印された過去」(PHP研究所刊)。
著者は、高校生の頃から信長犯人説が不思議でならなかった
そうで、その疑問は大人になっても解決せず、この本の執筆に
至ったそうだ。
家康犯人説に納得できない人は是非読んでみてほしい。品切れなので
図書館などで探さねばならないが。

741 :日本@名無史さん:2007/09/08(土) 23:18:12
>>739
信長と家康のキャラを考えればそれほど疑問でもない。
信長は家臣に寝首を掻かれるような鈍感力の持ち主。
敵に回すことを一々恐れていたら天下統一に先鞭をつけるようなことができるわけない。
忠次はむしろ冷遇されたという見方のほうが妥当だろう。
第一、>>738の言うように信長の許可を得る使命を帯びて安土を訪れたなら
忠次には何の落ち度もないことになるからもっと厚遇されてしかるべき。
怒りに任せて殺したり追放したりはしていないが、
人を使うには欠点は仕方ないと思ってあきらめ、長所を取り立ててやれというのが家康の信条。

>>740
典厩五郎の本をちょっと読んだことあるが、
家康を「何考えているかわからない」とか、偏見が酷かったのを覚えている。

742 :日本@名無史さん:2007/09/08(土) 23:40:57
>>741
忠次は信濃平定時に下手を打ったらしい

743 :日本@名無史さん:2007/09/09(日) 03:09:13
>>736
> 批判というより揚げ足取りだ、これじゃ

揚げ足取りじゃなくて、依拠している史料の名前を間違えるか普通?
ってだけの話でしょうに。
知らなかったのならこれを機に知ればいいし、
ミスの指摘ありがとくらい言ったっていいくらい。
人前で言えば恥をかくのはあんたなんだしね。


744 :日本@名無史さん:2007/09/09(日) 03:24:59
>>740
> 著者は、高校生の頃から信長犯人説が不思議でならなかった
> 家康犯人説に納得できない人は是非読んでみてほしい。

この辺がよくわからないんだよなぁ。
「犯人」って、まるで悪人か罪人扱いじゃないか。
「妻子を殺した!」って、まるで現代の、それも一般庶民の倫理感覚でとらえ過ぎてないか?
そもそも良い悪いを言い出すなら、真偽のほどはともかくとしても、
謀叛の疑惑をかけられるような隙を見せてしまった信康
(と築山御前)が一番悪いんじゃないの?
今風にいえば内乱罪が適用されてもおかしくないわけでしょ?


745 :日本@名無史さん:2007/09/09(日) 06:41:36
>>744
「犯人」というのは著者(典厩五郎)の表現を借りたまで。
他の言葉に置き換えても本質は変わらない。
>>741
では他の疑問を2つほど。
・それほど信長が怖いなら、すぐに殺さずに2ヶ月もの間
信康の身柄をあちこち移したのは何故か。しかも最後は
武田方の最前線である二俣城に送りこんでいる。これでは
信長の疑惑を煽っているようなものではないか。
・家康は何故、信長が一言も触れていない築山殿まで殺した
のか(一般に信長は2人を殺せと命じたとされているが
これは誤り。史料では信康にしか触れていない)。
酒井の件は谷口克広など研究者も疑問としている。
ここであんたの自己流解釈を聞かされてもねえ。
おれは谷口氏の方を信じる。

746 :日本@名無史さん:2007/09/09(日) 06:50:41
連投だが、疑問はまだまだ挙げようと思えば
挙げられる。
要するにこの事件は徳川家製史料を下敷きにしている限り、
さっぱり筋が通らず、支離滅裂になる。
それより信長が家康の思う通りにせよと言ったという
「当代記」の方がよほど信頼できる。

747 :日本@名無史さん:2007/09/09(日) 17:45:38
>>741
家康は家族に関してなら十分「何を考えているか分からない」と
言えると思うが?
上の方にもあるように次男秀康は出生を疑った上、対面するのを
嫌がるし、忠輝は追放。
秀康と対面するのを嫌だと言って逃げ回っていた家康を、信康が
秀康と対面させたという話が残ってるが、異常というほかない。
我が子と対面するのから逃げ回る家康など、御用学者が創作する
はずがないから、話は本物であろう。
偏見などとは言えまい。

748 :日本@名無史さん:2007/09/09(日) 21:21:01
良い証拠は偽者
悪い証拠は本物
魔女裁判みたいだw

749 :日本@名無史さん:2007/09/09(日) 21:21:19
>>743
論点がずれてる
些細なミスを鬼の首でもとったかのように騒ぎ立てて本論すらも信憑性がないとしてることが問題なんだが?

750 :日本@名無史さん:2007/09/09(日) 21:29:56
些細なミスなのか本気で間違えてるのかわかんねえよ。
忠家なんて間違えようがない。

751 :日本@名無史さん:2007/09/09(日) 22:02:56
>>748
そりゃそうだろ。
御用学者が神君家康を美化するためには、悪い話はなかったこと
にするか他人のせいにする。
悪い話でないことはいじる必要はない。そのまま。
秀康と対面するのを嫌がった話が創作でないと判断する理由は、
この家康が神君家康ではなく人間だから。つまり作為性がない。
ただし人間と言っても薄気味悪い人間の部類だが。

752 :日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:05:17
>>747
> 上の方にもあるように次男秀康は出生を疑った上、対面するのを
> 嫌がるし、忠輝は追放。

だから何?としか言い様が無いなぁ。
領国や家中を治めるには、息子だからって無条件に愛するわけには
いかないのは当たり前のこと。
その辺のマイホームパパじゃないんだから。

> 秀康と対面するのを嫌だと言って逃げ回っていた家康を、信康が
> 秀康と対面させたという話が残ってるが、異常というほかない。

異常というほどのもんでもなかろう。
足利尊氏も直冬をなかなか認知しなかったし、
徳川秀忠も公然とは保科正之をわが子と認めなかった。
身分や地位があり、更に権力もあって、
大勢の一族家臣を束ねるような立場の人間は、そう簡単に認知なんか出来るもんじゃない。
ましてや100%わが子であると言いきれない子供の場合、
身分地位が無くたって、なかなか認知なんて出来るもんじゃない。
そのくらい想像してやれよ。


753 :日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:07:30
>>747
ところできみは、前に徳川家内部で家康vs信康みたいな勢力争いが起きていた、というようなことを書いていた人?
それなら「信康が秀康を家康に対面させてやった」と言う逸話は、
その辺のホームドラマみたいな話を連想して異常とか決めつけるよりも、
政治とか権力のパワーバランスから読み解いてみたらどうだろう?
例えば家康がなかなか秀康と対面しなかったのは、家康が信康一派に見せた政治的配慮ではないか、と仮定してみる。
家康の後継者であると自他ともに認める信康とその一派の了解を得ることで、
初めて家康は秀康と父子の対面に至った、という話になった、という具合に。


754 :日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:19:38
>>728
> 家康の猜疑心の強さが信康を殺したわけだよ。
> 似たようなものとして武田信玄→義信、豊臣秀吉→秀次(甥であるが)、
> 大久保派粛清がある(国家安康の大阪の陣も入るかも)。

う〜ん‥‥そんなに似ているかなぁ?
武田義信には飯富兵部、豊臣秀次には木村常陸介、
それぞれ有力な重臣が連座して切腹させられているけど、
信康の場合は家老の平岩親吉に何のお咎めも無かったでしょ。
だいたい猜疑心から殺すんであれば、
信康一人を殺すのではなく、その背後にある敵対勢力も
大量かつ一斉に粛清しないとあまり意味は無いんじゃない?

だから、俺は上に書いたような「家康派vs信康派」のような内部対立があったというのはちょっと考え難いと思っている。
武田に内通した一部家臣がいた、というだけの話じゃないの?
しかし、信康本人までが内通していたかといえば、それはわからない。
わからないが、黒ではなくても灰色なのは確かだろう。
家康が父親の情として命だけは助けたいと思ったとしても、
それでは同盟国(織田)や家臣にも示しがつかない。
已むを得ず責任を取らせて自刃、ということになった、と。

755 :日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:48:49
>>745
・身柄をあちこち移したのはどう見ても家康苦悶の痕跡なのに何が疑問なのか?
信康に切腹の覚悟ができていないため移したという家康の手紙が発見されたらしいが、
覚悟ができていないのはむしろ家康のほうだっただろう。
・築山殿を殺す理由は家康にはもっとない。
家康主導説では捏造というしかないだろうが、>>684のようなエピソードも残っている。
史料でことさら築山殿に触れていないのは、信長が本当に抹殺したいのは信康だと
誰もがわかっていた証拠。
思えば築山殿は武田内通という名目のために犠牲になったあわれな女性。
その後、徳川方からも悪く言われ二重にあわれ。

大体、このあたりの史料は家康主導説ではまったくの捏造だろうに。
ご都合主義もはなはだしい。

756 :日本@名無史さん:2007/09/10(月) 23:17:28
こりゃ駄目だww

757 :日本@名無史さん:2007/09/11(火) 23:05:29
あちこちに移したのって、信康派の家臣から引き離すためじゃないのかな

758 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 08:34:49
>>756
お前みたいな一行煽りレスが最低だって気付けよ。
具体的に反論できねえでやんの。
しかもいまどきw使ってる。

759 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 12:44:23
>>752
尊氏と直冬の場合はちゃんとした理由がある。
自らが滅亡に手を貸した北条の一族である正室と
その嫡子に遠慮してのこと。
家康とは一緒に出来ない。

760 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 12:46:40
>>758
w


761 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 17:57:09
通説論者がまだいるようだが、これは現在そのままでは
成立しなくなっていることを認識すべきだ。
通説では家康と信康の間は何の問題もなかったところへ、
信長が半ばいちゃもんのような嫌疑をかけて殺させたと
なっている。
だが「家忠日記」には事件の1年前から、家康が岡崎在住の
家臣を信康から切り離そうとしていたことが分かり、両者の間が
険悪になっていることが窺える。
それに「当代記」の記事はどう説明するのか。
家康を美化するのが目的の徳川家製史料と、
研究者の間でも信頼性が高いとされる当代記。
どちらに信が置けるか言うまでもあるまい。

762 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 19:15:19
>>758
w w

763 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 20:58:14
仮に岡崎と浜松の争いと言う可能性があったとしても、この件で
死亡したのが家康の妻子だけというのが謎
岡崎の重臣が一人も死ななかったというのは変である

そうなると対立していたのは家康と信康の個人間という事になるの
であろうが、この二人がそこまで対立する要因が見えてこない
それこそ俗説が築山殿が武田と内通をし云々を挙げるのも理解は
できる

764 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 22:06:52
それよか築山殿も含んだ個人間での権力抗争だったから家臣の粛清がなかったと
考えればいいと思うが。武田との内通とかいうほうがよっぽど荒唐無稽だわ。

765 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 22:21:27
>>764
その個人間の権力抗争に重臣が全くタッチしていないのはありえない。
信康はその程度の根回しもできないような奴という事になる

逆にその程度の事もできない無能だから粛清したのかな?

766 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 22:59:04
信康の死後、その近臣たちのほとんどが蓄電、隠遁、不自然死、
もしくは左遷されている。
と述べている本もある。ただ具体的に人名を挙げろと言われると
細かく記した本が手元にないので出来ないが。
同著者によると、徳川幕府が各家に提出させた系図には、
途中が抜けていて、この人はどうやって生まれてきたのだろうと
いうケースが少なくないという。
著者はこれを、信康に仕えた後牢人、切腹などと書かれていた
ところを、幕府側が改ざんしたと見ているのだが・・・
従って岡崎派の誰も処分されてないということは出来ないと
思う。一見そのように見えるのは幕府による隠蔽ということになる。

767 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 23:16:24
どちらにせよ、信康母子を葬ったのは家康みずからの意思だと
いうことはもはや動かないと思う。
動機は徳川幕府が史料を抹殺したため推測するしかないが、
やみくもにやったのではなく、そうせざるを得ない理由はあった
のであろう。つまり殺したくて殺したのではないということ。
上の方にある、信康をあちこちの城に移したことは家康逡巡の
表われという見方は別に、これが信長の命令でなく家康の意思だ
としても成り立つことだ。さらに岡崎城から出した時にはまだ
殺すつもりはなかったという推測もある。むろん推測だが。

768 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 23:18:27
>>766
そういや石川数正の親父が三河一向一揆の総大将という説もあったな
正味、そこの所は信康の近臣の特定とその後の動向を調べない限り、
安易な結論は出してはいけないと思う。

769 :日本@名無史さん:2007/09/12(水) 23:45:46
>>761に補足すると、「家忠日記」によると家康は信康を岡崎城
から追い出した後、岡崎衆に誓書まで取って信康と通信することを
禁じている。
これは、岡崎衆が信康を担いでクーデターを起こそうとしていたのを
家康が察知して事前に手を打ったということの傍証にはなるだろう。
信長の命令で信康を殺そうというのなら、ここまでする必要はない。



770 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 06:05:30
通説論者には不利な材料をもう一つ。
「信長公記」には種々の伝本があり、内容が少しずつ異なっている。
その内最も古いと言われる「安土日記」には、
信康に「逆心(謀反)の雑説」があったとある。
これは徳川家中の分裂を暗示している。
だが次の段階では信康が「不慮に狂乱」したに変わり、信康個人の
問題に希釈される。
さらに次には信康事件そのものの記述が消えてしまう。
これは筆者が徳川幕府に遠慮して筆を曲げたと考えられているが、
徳川幕府にとって信康事件がタブー化されたことを示している。
信康殺害が信長の命令なら、そんなことする必要はないのではないか。
むしろ筆者に求めて、「公記」に信康殺害は信長の命令と明記させた
はずだ。

771 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 07:51:31
では、築山殿と徳川信康は、家康の命令で殺されたとして、どのような
流れでそうなったのかを書いて欲しい。
批判だけでは、全体が見えてこないね。

772 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 09:39:10
それはむしろ研究者の書いたものを読んだ方がいいだろう。
取り合えず谷口克広著「信長と消えた家臣たち」(中公新書)
を勧める。

773 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 15:24:46
>>770
別に通説支持でも新説支持でもないが‥‥

> 徳川幕府にとって信康事件がタブー化されたことを示している。

でも徳川実紀には書いてあるんでしょ?
それなら幕府にとってタブーになったというよりも、
幕府を憚る側で勝手に自主規制して触れなくなったと考えるほうが妥当じゃないのかな。


774 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 19:31:00
>>772
重臣クラスが処罰されていないのは解せない
石川数正・平岩親吉が何のお咎めなしと言うのは謀反が仮にあったとしても、
信康周辺の極僅かな近臣のみによるあまり大した事が無いものではなかろうか

但し、これを家中に対する綱紀粛正として家康が切腹を命じたと言うのは普通であろう
この点、家康は自分の子だからと言う事で、寛大な処遇をするような男ではない
だからこそ天下が取れたのであろうが

ただ、自分としてはこの個人的な諍いの原因が良く解らない

775 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 19:37:16
そうではなく、この頃はまだ家康は生きていた。
家康を美化するために信康の死は信長のせいという
筋書きが作られたのは家康が神君とされたその死後の
ことと考えられる。
つまりこの頃には、信康事件には触れないでおこうという
気運だったと考える。
「徳川実記」はその筋書きがすっかり定着した19世紀の
編纂。「三河物語」などと同じく信長に責任を転嫁する
内容なので、この際(16世紀の初め頃)関係ない。

776 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 19:39:24
>>775>>773へのレス。

777 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 19:50:30
>>775の16世紀は17世紀の間違いだった。

778 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 21:02:33
後は、本当に大した事が無くて内々に処理しようとしたのだが、酒井忠次が信長の前でばらしてしまい、
このまま処罰無しでは諸方への示しがつかなくなるので仕方なく、切腹を命じたとか

779 :日本@名無史さん:2007/09/13(木) 21:51:21
>>774
今川氏真が飯尾の反乱を一度は赦免して、後に暗殺(朝比奈の暴走ともいわれるが)
上杉輝虎が揚北衆やら北条(キタジョウ)を赦免

大名と領主の力関係で処分は多分に変わる

780 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 05:01:45
>>775
「三河物語」を書いた大久保彦左衛門は家康を神格化なんぞしてないよ(敬愛はしているけど)。
しかもあれは公刊されたものではなく、
あくまで大久保家の子孫に読ませる目的で書いたもの。
だから遠慮のない幕政批判も書かれている。
その点、徳川実記とはまるで違うよ。
あと、その大久保が「信康事件は信長のせいだ」と書いているのなら、
少なくとも彼のような立場の三河武士の間では
そのように考えられていたということの1つの傍証にならないか?
(もっとも俺はもう随分前に読んだきりで、信康事件についてどう書かれていたかなんて全く覚えてないけど)

781 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 13:31:07
信長と家康の関係だけ、ただの資料にどうとか、いったってタダの泥仕合になるだけだろ。

そもそもの動機はなんだ?岡崎衆と対立したとするならその原因はなんだ?
信長が殺したとすればその動機は?たかが女一人の築山殿が殺されたのは?

信康が切腹したのは、長篠の合戦の4年後だ。家督は長篠の直後に信忠にゆずり、あとは部下を動かすだけで天下が取れるメドがついたといた頃だ。

ちなみに、長篠の合戦までの家康と信長は扱いは、よいとはいえなかったとはいえ、一応同盟者としてぐうしている。

信長は、家康が政治的には家康は非常に臆病なのをしっていた。しかし有能で戦争が上手だ。格下の同盟者としてこれいじょうはない。それが武田への備えとして有用だった。

しかし長篠の合戦以降の家康への扱いはだんだん、ぞんざいななってくる。それはそうだろう。合戦の後家康は、武田の旧領への拡大と、武田家臣の
取り込みに熱心だった。信長が、利用価値が半減した同盟者が、自分のものになるはずのものに手をだしてくるのを快く思うかね?

信長の頭には、織田政権を、より永続的なものにするため、早々に家督を信忠にゆずり、武将として普通の信忠にも経験をつませ、信長が完全に手を
引いたあとも、信忠に違和感なく、家臣と従属大名を掌握させることがこのときの最優先事項であったはずだ。

信長は、すべての利用価値を両面から捉えられるすぐれた、政治家だ。家康は同盟者としては邪魔。家臣としては有能で得がたい人材。そう捉えていたのは間違いない。

信長は家康を家臣的な態度をとるようにしむけるが、信康の妻徳姫は同盟としての人質だよな?家臣に人質を与えるか?面子の問題を考えてもおかしいだろ。

家臣になったとしても、この段階での家康の織田政権内での力は突出している。その上さらに、武田旧領への拡大、武田の有能な旧臣を取り込み、陣営の強化をはかる。

それらを牽制し、織田政権内で、家康に思い切った行動をとらせず、人質をとりかえし、かつ、内外に信長の、力を知らしめる、一石数鳥が、秀康切腹だ。

秀忠が元服するまでの約15年間、跡継ぎのない家康は、あまりリスクの高い行動はとれない。自分が死んだら、徳川家は織田家に吸収されるのが確実だからだ。

782 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 13:38:11
言い忘れたが、家臣になった後、もし信康が、家康から家督を引き継げば、

信忠にとっては、徳姫つながりの義理兄弟。

織田政権の後継の大義名分を信康の子が持つことになるので、織田政権内で、領地最大、
人材も豊富な、信康の子が政権内で一定の力を伸ばすことが予想される。

どう考えても邪魔だろ。

783 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 14:35:01
結論を頭にもってこないからわかりにくい
しかも長文だからなおのこと
そして自分の思い込みを元に話を展開

見事な電波系ですね

784 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 14:39:45
>>780
徳川実紀も附録の部分はそれまでの書物の寄せ集めだから
御用学者の捏造・創作の入り込む余地はあまりない。

新説論者の論拠は、
1)家忠日記と安土日記に家康と信康、あるいは浜松派と岡崎派の関係が
悪化していたことをうかがわせる記事がある。
2)当代記に信康の処分は家康の好きにしろと述べたという記事がある。
ということのようだ。

直接の論拠は当代記だけ。
あとは信長が命令したという話は捏造だという前提で論を進め、
御用学者もびっくりのストーリー創作のようだ。
客観的に見て信長が命令したという説を覆すには不十分だろう。

ちなみに謙信女性説の論拠も当代記らしい。
事の真相はともかく、珍説・奇説好きな著者(編者)のようだ。

785 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 16:12:14
ここまでスレ見てきて思うことだが一つだけ。

信康事件についての検証は結構なことだが、
鈴木眞哉流の煽りの議論のやりあいだけは勘弁してくれよ。
(「通説論者は能天気」「新説論者は妄想好き」といった風なレッテル張りなど)

議論が本題から外れて行ってしまう危険があるよ。

786 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 20:51:59
>>785
同意。俺には新説も通説も同様に興味深い。
まあ別に結論を急いで出す必要も無いし、もっと色々な角度からの意見をきいてみたいもんだ。

俺がこれまでの流れを読んでいて思うのは、実際に世の中の表に出た経緯というのは、「家忠日記」なんかにある通りなんだと思う。
ただ、事件の真相なんてのは当事者以外にはなかなかわからないものだし、「安土日記」や「家忠日記」にしても、あくまで伝聞とか風聞でとどめているところが気にかかる。
あと誰かも書いてるように、織田と徳川は対等の同盟関係ではなく、実際には上下関係があったわけだ。
だとすれば今の日米関係みたいに、
織田側としては「命令」なんてはっきりした形で出す必要なんてさらさら無くて、この辺はもうにおわすだけで十分というのか、
あとは家康の方で、空気を読んで「善処」してくれる、ということも言えるんじゃないかな?
それと、もし信康の謀叛というのが本当にあったとすれば、
「家康と信長の利害は一致している」というのも重要なポイント。
となれば、最終的に誰が命令を下したのが家康であっても、
これは信長と家康、双方の思惑が一致した、すなわち二人の「共謀」である、という見方も可能になる。
或いは今の日本の一部の政治家がやっているみたいに、
「俺が命令したことにすると聞かない奴多いから、ひとつ外圧ってことで、ビシッとやってくんない?」なんて内々で依頼していたり、
という可能性もあるか?

787 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 21:27:44
>>784
>信長が命令したという説
これは説というより事件よりはるかに後の徳川系史料を
鵜呑みにして出てきたもの。
十分批判・疑う余地があるが?
まして死後「神様」になった家康が妻殺し・子殺しなどとは
口が裂けても言えまい。
通説論者もこの点だけは認めるべきではないか。
「当代記」については多くの学者が信頼性の高い史料だと
言っている。おれはあんたより学者の言を信じるがね。


788 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 21:52:28
>>787
俺は個人的には信康事件というのは、
家康の家中統制策の一環だった、というほうが説得力はあると思うのね。

「幕府の御用史観」云々以前に、死後の信康への扱いを見ても思うのだけど、
もし信康の死が信長からの要求による無茶なものだったとするならば、
江戸幕府成立後、幕府の手によって、
彼の墓はもう少し立派なものになっていてもいいものだろうに、
実際は粗末極まりない扱いなんだよね。

こういう点からみても、はたして信康の死というのは、
「信長のせいでやむにやまれず家康が切腹させた」
というのは疑問だったりする。

ただ、親としてわが子をそういう形で始末してしまったことを悔いて、
「信康が生きていれば」と家康がこぼしたことはあったかもしれないと思うけどね。

789 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 21:52:52
>>788つづき)

あと少し気になったのだけど、
「多くの学者が言っているから信用できる」
と言うのでは、
「通説ではこう言われているから信用できる」
というのと本質的に同じじゃないかな?

「他の史料と比べてみてもこの史料のこの記述は整合性が取れている。
だからこの史料のこの記述は信用できる」
という風にならないといけないんじゃない?

「幕府御用史観否定」の急先鋒とでもいうべき鈴木眞哉とかは、
「家康の事績は幕府によってすべて創作された。通説は否定されなければならない」
と頑張っていて、その志自体は否定をしないけど、ただ、
「○○さんは最近の研究でこう言っているから、通説は間違い。通説信者はバカだ」
「○○という資料がある。だから通説は間違い。通説信者はおめでたい」
という風にして自説に都合のいい部分だけを無批判にかいつまんで、
対立陣営を煽りながら通説を否定したがる傾向があって、
せっかくの通説批判もかなり質が悪いものになってしまっている欠点がある。

通説を批判して歴史の真実に迫ろうとするのは大事な作業だと思う。
それだけに通説を否定する史料を提示して、
それのみを根拠に自説と対立する人間を「それは間違っている」と煽るんじゃなくて、
じっくりと各史料と向き合ったうえで、それぞれが答えを出す必要があるんじゃないのかな?


あなたの通説への批判的な視線自体はすごく大事なことだと思うだけに、
生意気な長文を書かせていただきました。

790 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 22:12:07
>>789
確かにおっしゃる通り。
ただ「当代記」への評価は、謙信女性説なんてのは
八切止夫の電波説にほかならないのに、そんなものを
持ち出して史料としての評価を貶めようとしてるのは
おかしいと思い、ああいう表現になってしまった。
>>787には書かなかったが、「信長命令説」というのは
徳川系史料から出てきたもので、その徳川系史料って
そんなに信用できるのか?と問いたい。
通説論者はまるでこれを金科玉条かのように言うが、
幕府の作ったものが徳川将軍家に都合の悪いことを書く
はずがない、とは思わないのか。
死後「東照神君」とされた家康については尚更。
家康に罪や過ちなどあってはならない。ではどうするかと
言えば、早い話その罪を誰かになすり付けること。


791 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 22:25:30
>>790
おっしゃるように江戸幕府によって創作された神君家康像というのは再検証する価値はありなんだよ。

ただ、家康の評価というのは実は両極端で、
江戸時代は「神様」として評価することすら許されない存在だったのが、
明治時代に入ると逆に「天皇陛下に不当に貶めた救いのない奸臣」、
として徹底的に糾弾されていて、なかなかその実像というのが見えてこない欠点があるんだよね。

で、ここでじゃあ何が問題になってくるか、というと、
鈴木眞哉流に「江戸時代の家康像はすべて創作」だとして、
ではいったいどこからどこまでが幕府の手によって、
「神君家康」として創作されたのか、
その業績すべてが誇大に作り上げられた嘘だったのか、
それとも一部事績をことさら大げさに美化しているのか、
要は「徳川御用史観」なるものがいったいどこまでが信用出来て、
どこからが虚飾であるのか、
さらに言えば虚飾が施されたとして、
ではその御用史観というのはいつごろいかにして作りあげられていったのか、
こういう方面の検証が実はあいまいなんだよね。

鈴木眞哉風に、
「家康は江戸時代神だった。だから家康にとって不利なことはすべて抹消された」
というだけでは、「御用史観」否定というのは難しいと思うんだよ。

結局安易に通説を鵜呑みにするのでもなく、
逆に安易に「御用史観だから嘘だ」と否定するのでもなく、
先に書いたように「各資料との整合性」を地味に研究しながら、
御用史観の各記述を検証するしかないんじゃないのかな。

792 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 22:39:29
ちなみに最近自分が知る限りの、
最近の研究での家康の「事績」への疑問はいろいろあるので列記してみると…

1:家康は今川家に人質となり苦労をした
→反論
「実際は今川家の一門衆としての扱いを受け、厚遇されていた可能性があるのでは?」
(新行紀一ら)

2:三河一向一揆は家康の家臣が一向宗寺院から穀物を奪い、
また一向宗寺院への「不入の特権」を侵害されたため、これに一向宗が反発し一揆が起こった
→反論
「家康は三河の家臣団が松平家と同時に一向宗寺院とも深く関係をもつものが多かったことから、
家臣団を一向宗寺院から離脱させ、完全に自分の家臣として従えるために、
意図的に一向宗に一揆を蜂起させ、これを鎮圧、その後解体しようとしたのではないか?」
(煎本増夫ら)

3:三方が原の合戦は「信玄の西上をただ黙って見過ごすわけにはいかない」
と、家康は無理を承知で勇ましく出陣し、敗北したものである。
→反論
「家康は籠城していたかったが、一部の家臣が物見気分で武田軍と合戦を起こし、
これを収拾しようとして家康がやむなく出陣し、敗北したものである」
(鈴木眞哉)
「信玄が家康に出陣させるよう巧みに仕向け、結果家康はこれにつられて大敗北してしまった」
(その他研究者)

4:信康切腹は信長の命令で家康はやむなく行った
→反論
「家康ら浜松衆と信康率いる岡崎衆が対立したため、
家康は信長の許可を得たうえで、信康を粛清した」
(谷口克弘ら)

793 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 22:50:31
(792つづき)

5:小牧長久手の合戦は家康が緒戦に勝利することで秀吉を恐れさせた
→反論
「家康が各合戦で勝利したのは確かだが、
戦争全体としてみれば、秀吉のほうが有利だったのであり、
実際は家康は秀吉に降伏し、その後二度とさからおうとしなかった」
(鈴木眞哉)

注意:
小牧長久手については逆に、
「外交上手の秀吉が巧みに家康に勝利した」
ことを通説としてみる考え方もあり、笠谷和比古らは、
「小牧長久手後家康は容易に臣従しようとはしておらず、
結果家康は豊臣政権内でも特殊な位置に存在することとなり、
このことが豊臣政権に大きな影を残すこととなった。単純に秀吉勝利とは言えない」
とこの考え方に懐疑を示している。



794 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 22:52:41
(793つづき)

6:朝鮮出兵に家康は反対した
→反論
「実際は「それはよろしきことです」と勧めていたとされる」
(鈴木眞哉)

7:関ヶ原の合戦は家康が勝利するべくして勝利した
→反論
「三成は家康以上に大規模なスケールで関ヶ原の合戦を想定し家康に臨んだが、
合戦当日吉川ら毛利勢が動かず、小早川が裏切るなど悲運が重なって破れた。
家康が西軍諸侯にいろいろと手を打ったのは確かだが、これが成功する保証などどこにもなく、
最初から家康の勝利が保障されて進んでいった戦いではない」
(鈴木眞哉・藤本正行その他大勢)


大体こんなところかな。
個人的には「神君史観」には懐疑的だけど、
だからと言って鈴木眞哉が唱えるような、
「家康の事績はすべて嘘だらけ。実際の家康は運がいいだけ」
というような極論にも違和感あり、ってところかな。

795 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 00:27:43
通説派も反論派も話が大きくなりすぎてる気がする
実際はもっとグダグダな理由で切腹させられたと思う

796 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 00:50:27
というか、史料を一個一個検証するなんて事実上不可能w

797 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 00:51:41
>>796
史料を検証できないと言い出したら歴史学が成立せんわなw

798 :781:2007/09/15(土) 05:08:15
なんか電波あつかいされたけどさ、

なんか全般的に、資料の体裁がどうとか、どの学者がどうこういった、
徳川の創作だとか後生の事情ばっかりで議論してねーか?
資料の信憑性を資料を書いた奴の動機、学者の事情ばかり。
そんなのは、姉歯建築の構造計算プログラムを交わす方法はどうだ
こうだという議論となんら違いはない。家がどのように建っているかとは
関係がない。

肝心の切腹した人させた人が当時の政治環境の中で、なにを考え
家の将来をどのように考えて行動したのかという想像がまったく
かけているように思うんだが。当時の武家の家への思いというのは
個人の命より重いんだぞ。

切腹を命じ切腹させられたのは事実で、彼らは考え抜いてそれを
決断したことは間違いない。別に資料が切腹させるわけじゃない。


799 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 05:58:35
最近人気の岡崎クーデター説だが、

・クーデター説をたてた人間のイメージは、武田の子殺しだと思うが、ここには明確な対立点があり、家康家中にはそれに相当する理由はみあたらない。

・特に無能でもない、家康に大した動機もなくたてつく必要があるか?

・21才の信康を担いで、実力も、組織も盤石でいくさ上手の家康に、対抗するリスクは誰の目にも高く、あまり成功しそうもない。
クーデター派は相当強く結束しなければ成功は望めないが、そのリスクを犯してでも、結束・行動する動機はあったのか?
その後をみてもそういう形跡はない。

・信長との同盟が大事であれば、徳姫と離縁につながる信康の切腹は、信長の了承が絶対に必要である。
逆にいうと信長が家康との関係を大事にしているのであれば、クーデター側に一言おまえらが三河をとっても、オレは認めないの一言ですむ。
クーデターというのは、それを行った後、対外的認知というのが重要なのは常識。クーデター側が圧倒的に優勢である場合をのぞいて、対外工作が事前に必要だがそういう形跡は全くない。

・この時点では、徳川家は十数年来にきた、領土拡張の好機。割れて得する理由があるだろうか?
危険を冒すより、弱体化した武田戦で手柄を立てた方が得であろう。
後ろ盾(たとえば織田にクーデター派のリーダーが調略されたとか)がなければ、あまりにも、無謀かつ無意味。

いずれにせよ、織田の強い関与が認められる。


800 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 08:43:02
クーデター説が成立しないことは同意だが、
よけいなこと言わずに簡潔に述べてくれ

801 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 09:12:16
信康がクーデターを目論んでたなんて誰も書いてないのに
クーデター説とはどういうことなんだろうか?


802 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 10:27:29
福田は泣くまで待とうホトトギスで総理の座をゲットしそうだ

803 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 11:58:05
>>801
それぐらい文章としての体裁がなってないってことじゃないか
起承転結とまではいかなくても、話の筋は通して話しないとわかりにくいもんだ

804 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 12:03:23
戦国時代板の家康スレでも信康ネタばっかりなんだが。
秋田。

805 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 12:21:25
>>802
泥かぶりで長続きはしそうにないけどな

806 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 14:29:03
>803
起承転結?どっかの筋書き通りのドラマじゃあるまい。

政治ってのは、恐ろしくいろんなファクター
が同時並行で、行動と思惑が、相互作用した結果
最終的に決断されるもんだ。関わる立場によって見え方は全部違う。

ときには誰の、利益にもならないことさえある。安部氏のようにな。

だれかの立場だけで述べれば、わかりやすくもなるだろうが、
君のいう筋ってのはそういうことだろう。

807 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:08:11
長文でレスしてる人の文章構成についていってるとしか思えんけど

808 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:45:37
>>806
起承転結に気をつけて作文を書きましょうなんて小学校中学校で教えられるレベルだと思ってたが
それがないからどれが本論か分かりにくい
それだけならまだしも、話がアッチこっちに飛ぶからなおさら趣旨を掴み難い
だから主張しても無いらしい「クーデター云々」とレスされる
挙句根拠も無い自論を展開して、それを文章に混ぜ込むから電波呼ばわりされる
まとめると、カキコする前に書いた文章を推敲しろってことだ

809 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 18:42:24
>>804
同じ人間がしつこいだけ
たまたま読んだ鈴木の本を信じきって
自分こそ埋もれた本当の歴史を知ってるんだと思い込んでる奴な
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1169129287/
こっちに行って欲しいよ

810 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 19:46:12
鈴木眞哉が槍玉に挙げられてるが、確かに鈴木は
「家康の天下取りはツキの産物。徳川御用史観に騙されては
いけない」というようなことを以前から言っている。
だが「家康の事績は幕府の御用学者が全て捏造したもの」だ
なんてある意味極論は、近著でも言ってないよ。

811 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 20:00:25
信康ネタはもういいと言われそうだが、信康は
英邁か暴虐か、どっちだったのか?
前者は信長が嫡男信忠と比較して信康の方が優秀なため
葬った。
後者は五徳が12ヶ条の書状で信康の不行状を信長に訴え、
信康は切腹させられた。
この2つはどう考えても両立しないはず。ところが
徳川家製史料ではこれが同居している。
このことは信康について作為が加わってることの
証拠ではないか。無論信康の死についての経緯にも
作為が加わってることになる。

812 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 20:51:06
英邁と暴虐は表裏一体だろ、信長のようにねw

信長を信仰するあまり影の部分は見えていないようだ

813 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 20:53:49
>>792
家康に関する通説の見直しにはこんなのもある。
・桶狭間の戦いの後、家康は今川氏真に弔い合戦を勧めると
ともに、自らも織田氏と各地で戦っていた。だが氏真は尾張へ
攻めこむ様子を見せなかった。そこで家康は織田と和睦する
ことにした。これは律義者の家康が今川氏を裏切るようなことを
せず、氏真が暗愚だったので家康は止むなく織田と同盟すること
にしたと彼の行動を評価したものである。
ー実は家康が戦っていたのは織田氏ではなく今川氏。
家康は今川から独立した直後からもうすでに今川氏と
戦っていたのである。
(平野明夫)

814 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 20:59:06
>>812
信長が英邁?
そんな声は聞いたことがないが。
暴虐なら江戸時代以来散々言われてるが。
もう一つ言いたいが、信康切腹が信長の命令でないというと
なぜ信長信者ということになるのか。
じゃあお前は家康信者ということでもいいのか?

815 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 21:30:31
信長死後の天正壬午の乱で家康ってスゲーなーって思った。

816 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 23:28:38
>>793の5
鈴木流に言うと家康は一つの戦闘(長久手)には勝ったが
戦争全体には負けた。家康が勝ったという見方はwarと
battleのすりかえをやっているのである
ということになる。

817 :日本@名無史さん:2007/09/15(土) 23:42:04
>816
いや、あれは織田家を表看板に立てた戦争だからアレでいいんジャマイカ
義理を立てつつ縁を切る口実になる。
戦争は最小限の被害にとどめつつ豊臣の重鎮として君臨する。
政治的にもまあまあ成功だと思うが?

818 :日本@名無史さん:2007/09/16(日) 00:25:46
>>810
いや、鈴木の「家康の天下取りはツキの産物」という評価自体が極論だと思うよ。

確かに鈴木の言うように「ツキ」という要素を無視して歴史を見ることはおかしいけれど、
けれど逆にそれにばかりとらわれるのも変なわけで。

それに「ツキがあるから勝てる」と言っても実際はそう簡単ではなくて、
鈴木自身が信長の評価をする際に語るように、
「ツキを味方にする才能」そして「ツキを味方にするべく努力すること」が必要なわけよ。

例えば秀吉が死んだあと、家康が五大老筆頭の地位に甘んじて油断して
「目の上のたんこぶの秀吉は死んだ。だからこれで天下は取れる」
なんて思っていたらただのバカだけど、実際の家康はそうではなかったし、
(だからと言ってすべてが家康の思い通りに進んだ、という意味ではない)
関ヶ原の際における数々の裏切りも確かに「ツイていたから」かもしれないけれど、
けれどそのツキが味方するべく家康は数々の内応策をとってきていたわけだ。

それでもなお「いやツイているだけだ」と強弁するならそれはそれでかまわないけれど、
けれどだったら例えば鈴木が「戦国の竜虎のような存在」と高く評価する武田信玄など多くの戦国大名も、
「ツイていただけ」と切って捨てないといけないけれど、鈴木はこれをしていない。

「徳川御用史観」を否定しようとするあまり、
かなり偏りのある家康評になっている、というのは否めないと思う。
家康のことになると鈴木はかなり感情的に筆が荒れる傾向にあるよ。

819 :日本@名無史さん:2007/09/16(日) 00:38:32
スレ違いかもしれないけれど、
鈴木の家康評についての問題についてもう少し触れると、
史料の選び方、研究の仕方がかなり偏っているのも問題だね。

鈴木の家康評の著書、
(天下人の条件・天下人史観を疑う・戦国15大合戦の真相・戦国時代の大誤解など)
を読む限り、「御用史観を否定する」都合のいい部分だけを切っている印象がある。

例えば小牧長久手について言うと、
鈴木は不破文書を根拠として、
「家康は味方に援軍を出すといいながら、援軍を差し出せないほど追いつめられていた。
だから家康は秀吉に負けていた」というのだけど、
実際はこの不破文書が描かれた後に徳川方は秀吉方の蟹江城攻めを行って、
これを奪還しているわけだけど、この点には全く触れようともしていないし、
小牧長久手講和後、「家康は秀吉に二度と逆らおうとしなかった」として片付けるけど、
実際に家康が秀吉に臣従するにはこの後二年の時間を要しているわけ。
この間に秀吉は家康に妹を嫁に出すなどかなりの気配りを見せていて、
なにも「小牧長久手のbattleに勝ったから家康の虚像が膨れ上がった」わけじゃなく、
合戦後の外交戦でも、家康は一筋縄では従おうとしなかった姿勢が、
むしろ豊臣政権内における家康の地位を大きく高めることに大きく影響しているんだよね。

こういう点を全く吹っ飛ばして、
「家康は秀吉が西向きだったおかげで助かった」と結論を下すのには違和感を感じずにはいられない。
「通説を疑う」という姿勢はともかく、そのやり方はかなり雑だよ。

ちなみにbattleとwarの比喩は鈴木が考え出したものではなく、
南條範夫の小牧長久手評のパクリだよ。

820 :日本@名無史さん:2007/09/16(日) 00:40:21
291 名前:日本@名無史さん 投稿日:2007/03/15(木) 01:30:05
鈴木流の分析の仕方で三方が原の合戦を分析すると……


・信玄が家康をおびき出す為に色々と策を用いたのは事実だろうが、
 それが成功する保証はどこにもない。そのことは信玄が一番わかっていただろう。
 徳川方の一部が興味本位で城を抜け出し、
 それを引き返させようと家康まで出てきてくれたのは運がよかっただけである。

・三方が原で信玄が勝利したのは事実だが、これはbattleの話である。
 総大将の家康をはじめ徳川方の主だった重臣をうちとることも出来ず、
 徳川家に壊滅的なダメージを与えることは出来なかった。
 三方が原の戦いで信玄はbattleには勝利したが、warでは勝利したとはいえない。
 大体battleにおいても一時は山県隊が押されるなど、決して快勝したとはいい難い。

・結果だけを見れば、
 「勝利を得るために色々と策を用いた信玄は偉大だ。対する家康は愚かな武将に過ぎない」
 と<信玄信者>は信玄を褒め称えるが、現実には信玄はツイていただけであった。
 しかも何ら大きな戦果を上げていないのだから、信玄信者はおめでたい事この上ない。


とこうなるかと思うのだが、実際の眞哉タソの三方が原の分析については…w

821 :日本@名無史さん:2007/09/16(日) 00:53:43
個人的な見解だが関ヶ原については
街道の難所をにぎる旧筒井家臣の大和衆と全国最大数と言われる徳川の忍者衆。
豊臣子飼いの武将を従え西進。そして伏見のトラップ。
吉川、小早川ときたら当然毛利ともなんらかの接触が有ったと考えられる。

関ヶ原は運やツキだけでなく勝算が有ったから行けたと俺には見えるね。

822 :日本@名無史さん:2007/09/16(日) 01:01:18
>>821
どうしてああいう形の決戦になったのか、これは今のところ不明だからねえ。
通説では「家康に三成は誘い出された」とされているけれど…。

吉川や小早川については、鈴木なんかが、
「たまたま裏切ってくれたから家康は勝てた」みたいなこと言うけど、
吉川ら毛利勢が陣取った南宮山は関ヶ原の平野が見えないかなりの奥地で、
容易に家康の本陣に攻めかかることはできなかったし、
小早川なんかは「関ヶ原でたまたま裏切った」というよりも、
その前から事実上東軍寄りとして動いていた形跡が見られるし、
何より稲葉ら家老が親家康派で、しかも東軍黒田とそして家康からも、
お目付け役の軍監が送り込まれている状態。

容易に西軍に味方できる状況ではなかった。

823 :日本@名無史さん:2007/09/16(日) 01:42:42
>通説では「家康に三成は誘い出された」とされているけれど…。

ああ、伏見城攻めだな。徳川家臣と甲賀の地侍を伏見城へ残し家康は上杉攻めへ向かうが
これは完全な囮部隊。三成が先に手を出してしまった。

大和の旧筒井家臣をとりまとめ家康を出迎えたのが柳生。
そのさい柳生は縁者である島左近(旧筒井家臣)へ相談を持ちかけたと言われるしな。
じっさい家康の手は西軍奥まで伸びていたと思うよ。

824 :日本@名無史さん:2007/09/16(日) 02:13:58
西軍奥まで延びていたも何も総大将の毛利家が、
事実上東軍に懐柔されてましたがな

825 :日本@名無史さん:2007/09/16(日) 23:02:56
そうそう、毛利一族は最悪だな。
吉川との約束がどうだろうが家康は改易するべきだった。

826 :日本@名無史さん:2007/09/16(日) 23:39:42
いや腐っても名門毛利だよ。やはり実力が違う。
九州の牽制には一番良い位置に配置換えされているしそれは幕末まで機能している。
九州勢が攻め上ってきたら最前線になるのは毛利だしな

827 :日本@名無史さん:2007/09/17(月) 12:22:30
すぐに腰が抜ける毛利が役に立つとは思えない
九州勢と一緒になって攻めてくるのがオチ

828 :日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:12:08
いずれにせよあの位置は幕府にも九州勢にも攻められる位置だわな。
たぶん強い方に付くのだろうけど・・・

829 :日本@名無史さん:2007/10/09(火) 08:24:15
300年のベールを読んだ。
なんだろうこの妙な説得力。
まさかね。それだけ南條範夫の筆力がすごいってことなんだよな。
家康の出自がそんなわけ、ない、のか?

830 :日本@名無史さん:2007/10/09(火) 17:09:47
あれは面白いけど、子供の頃売られた、という事実を混同してるのが出発点になってるね。
大須の万松寺にいたのは史実なのかな。

831 :日本@名無史さん:2007/10/09(火) 17:47:30
ウィキ見たら尾張にいた頃信長と知り合った、なんてあるけど今は信長ー家康はガキンチョの頃から
知り合いだったことになってるのか・・・?
大体6〜8歳だから知り合うも何もないと思うのだが。

832 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 03:56:30
万松寺にいた説、熱田にずっといた説、諸説あるらしいね。
万松寺に竹千代がいたのは史実なんだろうけど、
その竹千代は後の家康公ではなかった、と。
あと、仮に信長と顔を合わせた事があったとしても、
「幼少期を共に過ごし」は言い過ぎじゃないのかな?印象だけど。
そういう記録が残ってるのかな?

833 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:05:52
>832
後に家康が、自分は売られた、と言ったことこそ竹千代ー後の家康説でいいことになると思うけどね。
「幼少期を共に〜」なんてのは創作でしょう。
ただその時に見に行ったぐらいは相当可能性高いし、藤吉郎が信長の元に来るのはもう少し後だけど
ギリギリで3英傑がかなりの接近遭遇をしていたかもしれない。
そう考えるとあのあたりは関が原以上の歴史の舞台なんだよね。
よく歩くけど大高とか桶狭間の音や煙は見えたのかな、なんていつも考える。

834 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:27:28
>>833
「幼少期を共に〜」はウィキの信長に載ってたので、何かソースがあるのかなと疑問に思ったんですよ。
まあ、創作ですよね。でも想像すると楽しいですよ。接近遭遇。
いい所にお住まいで羨ましいす。史跡に乏しい列島の端に住む者としては。

835 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:36:44
>>834
なるほど。
ひどいと「手に手をとり共に天下を目指そうぞ」なんて本もあったりして。
ただ万松寺から古渡は歩いて数分、好奇心いっぱいのうつけ信長が他国の人質に興味を
いだくのはごく普通。
接近遭遇どころか声かけたりしたぐらいならかなりの確度であるだろうな。

列島の端ってどっちかな、宮古島とほっかいろまでなら行った事あるなも。

836 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:59:45
>>835
そんな本があるんですか!面白いな〜!
宮古島ほど南下しませんが、キリシタンが籠城したあたりです。
徳川幕府の最初の禁教令、「徳川禁令考」が発見された地らしいですが。
くだんの城跡は地元では怪奇スポット扱い…

837 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 10:26:52
徳川禁令考の中の「邪宗門吟味の事」に関する文書が発見された地、
の間違いでした。端折りすぎた〜!すみません!

838 :日本@名無史さん:2007/10/10(水) 10:48:19
そか、シロ〜たんの怨霊が出るところか。
スレチだがあの乱も史実は全然違うってとこなのかな。

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