超超超マニアックな悲劇の名家 尾張徳川氏
- 1 :日本@名無史さん:2007/07/27(金) 19:34:51
- 名古屋という全国有数の要所を領しながら江戸250余年の間に
ついに将軍を輩出せず、教科書に載るような当主も出なかった悲劇の
名門、尾張徳川氏を語りましょう。
ちなみに自分は小学生の頃、御三家といえば、「将軍家」「水戸「紀州」
だとずっと勘違いしてました
- 187 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 23:04:24
- みんなって二人だけじゃん
- 188 :ラーメンのCM:2008/06/27(金) 20:15:29
- 田舎ラーメンどえりゃあ
うみゃあよ
- 189 :日本@名無史さん:2008/06/28(土) 17:47:00
- 名鉄の神宮前の駅員は訛ってて
何言うとるか判らんかった
- 190 :日本@名無史さん:2008/06/29(日) 14:55:05
- >>183
温たかけりゃね、見た目は美味そうだけど
冷たいままだと・・・・・
- 191 :日本@名無史さん:2008/06/29(日) 15:33:30
- 名和とかは訛ってる
名古屋の都会人は標準語
尾張藩上士も江戸詰めだから訛ってない
- 192 :日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:26:45
- 松平忠吉の家臣は
尾張藩の郷士になったん?
- 193 :日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:54:23
- 忠吉の家臣団は義直に受け継がれましたよ
形だけを見れば、義直は忠吉の、頼宣は信吉の後を継いだことになりますね
- 194 :日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:57:06
- >>185
市姫と松姫も夭折しているんだが
- 195 :日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:04:43
- 御三家筆頭と言われながら,8代目争いでは紀州吉宗に敗れ,最後の将軍は水戸家出身の慶喜に取られ。
尾張徳川には,紀州,水戸,御三卿を押しのけ,世に躍り出る逆転のチャンスはなかったのだろうか。
- 196 :日本@名無史さん:2008/07/08(火) 00:09:41
- なかったです
なぜなら彼らはあくまで徳川家の社稷を守ることが第一ですから
いたずらに波風を立たせることはしませんでした
宗春でさえ、です
- 197 :ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2008/07/08(火) 20:33:17
- 義直
一歳の家綱の山王社初参りのお供を拒否、曰く「大納言が無位無官の者の供などできぬ」。
勝手に城の測量してた水野に江戸城中で
「もし余が江戸に攻め入ったらその方食い止められるか?」とまくしたて
以後常に尾張は幕府の監視をうけることに。
家光の宿舎に帝鑑図のふすま絵を描かせ、将軍だからってあんま調子のんなよ
と諭す。
宗春
義直以来のスパイに反発してパトロール隊結成
家康の形見を江戸市民に公開、国元同様どんぱち騒ぎ。
慶勝
日米通商条約に抗議し、隠居・謹慎処分。のち許される。
長州征伐で攘夷仲間の毛利に手ぬるい処分を下す。
近藤勇曰く「大政奉還は慶勝のせい」。
慶喜に「いざとなったら尾張一国献上してもいいから領土を一部朝廷へ返上
なさいませ」と進めるも江戸開城の結果尾張藩が江戸城を引き受ける。
- 198 :日本@名無史さん:2008/07/08(火) 21:51:18
- 落語「紀州」より
幕閣「将軍職ついでくれるかな」
継友「つぐとも!」
- 199 :196:2008/07/09(水) 01:47:20
- >>197
あなたのようにうわべだけなぞると、尾州は反幕的となるのでしょうが、
実際は違いますよ
まず義直
あなたが書いてくださった以外にも、尾紀水駿の序列騒ぎ、家光危篤との情報
を受けた無断参府、名古屋城篭城騒ぎなどがあります
義直は真面目人間でしたから、ちゃらんぽらんな家光とそりが合わなかったの
は事実です。序列騒ぎや無断参府などは原理原則を重んじる彼らしい行動
そして何より家康の築いた天下を守るための意識であり、行動なんです
篭城騒動の原因は家光で、彼のために急ピッチで本丸御殿を改築(ほぼ新築)
したにもかかわらず、突然の気まぐれで名古屋入りが中止になったため、
頑張った士民、何より自分の意地が立たず抗議の篭城を図ったもの
家光を殺すとか、天下をとるというのではなく、死を賭した抗議の行動です
そして弟頼宣に相談を持ちかけ、逆に彼から謀反をほのめかされ、思いとどまり
ました(頼宣も兄の性格を知った上でそう言ったのですが)
水野監物に関しては、監物のスタンドプレーにすぎません。考えても見て下さい
名古屋城は天下普請でして、監物ごときが測量しなくても、堀の深さや幅など、
幕府にも、そして手伝普請した諸大名にもわかっていること
もちろん修築すればデータは変わりますが、城の修改築は禁じられていますよね
本来領土を侵犯し、軍事機密(とはいえ先日の通り機密でもなんでもないが)
を持ち出そうとした監物を討ち取ったとて咎めなきところを、
江戸城中での会話で「監物の忠義天晴れ」という流れにしたんです
以上二件は、義直がことを構えようとすればできたところを我慢したりスルー
したことを示しています
- 200 :196:2008/07/09(水) 01:53:15
- 次に宗春
彼の行動は、三流小説などで言われる尾紀の対立、兄たちの復讐なんてちっぽ
けなものでなく、自分自身の政治哲学に基づいたものです
彼が将軍上使に対してどうどうと論じたその主張をきちんと読み取れば、誰に
でもわかることです
大名としてはかなり個性的な人物で、人一人の命は千金より重いという意味の
言葉を残し、治世中一度も死刑を出さず、心中で生き残った男女を、形式通り
罰した後は夫婦にさせたほど、人間愛に満ち溢れてました
とはいえ、彼は理想家であって、政治家としては吉宗の足もとにも及ばず、
経済は破綻し、幕府より厳しい処分を受けたのは周知の通りです
- 201 :196:2008/07/09(水) 01:58:49
- 慶勝に関しては、「社稷を守る」の解釈の違いでしょう
彼は公武合体派であり、尊皇家であり、現実的な政治家でもありましたから、
春嶽や一翁、海舟と同じ行動をとったまでです
幕府や長州などと小さいことにこだわれば、近藤のような見解になるんでしょ
うけれどね
徳川の家が今に残っているのは、彼らの尽力によるものです
加えて慶勝茂栄兄弟には弟容保定敬の助命もありました
慶勝は徳川の社稷を立派に守り通したのです
- 202 :196:2008/07/09(水) 02:05:30
- ちなみに尾張が江戸城を引き受ける、というのは江戸開城後、一時管理を託さ
れただけであって私したのではありません
誤解を招く書き方はできれば避けてください
- 203 :日本@名無史さん:2008/07/09(水) 02:38:07
- 落語「紀州」より
江戸城に登る継友の耳に、鍛冶屋の鉄を打つ音が
「テンカトッタ、テンカトッタ」
と聞こえた
ところが蓋を開けれみれば天下は紀州の手に
悄然として帰る継友の耳に、鍛冶屋が鉄を水に入れる音が
「キシュウ〜」
お後が宜しいようで
- 204 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 00:19:01
- 慶勝の評価については、低いものから高いものまでさまざまである。いろん
な言葉で表現されているが代表的な例をいくつかみてみると、まず低い評価
では、
・主体性に欠け、優柔不断で、新政府に利用されて、徳川家を売った人。
・将軍にしてもらえなかった尾張藩二六〇年の恨みを、土壇場で晴らした人。
・御三家なら最後まで幕府側で戦うべきなのに、寝返ったのはおかしい。
・当初ねらった公武合体がならずあてがはずれて転換した尾張候。
などがあり、尾張藩が、徳川幕府をつぶす側にくみしたことへの素朴な疑問
から評価している例が多い。
- 205 :204:2008/07/11(金) 00:22:39
- 高評価の例では、
・朝廷と幕府勢力の衝突を和らげるよう周旋し、新政府の橋渡し役を演じて、
明治への平穏な移行に貢献した。
・あえて討幕派の誘引に応じて激動過渡期のクッション役を担った。
・名古屋を戦火から救うとともに、日本での騒乱を最小限にした人。
・菊と葵の狭間で公武合体に尽力したがならず、勤王に転換して黒子役に徹
した殿様。
などがあり、最近では高い評価が増えている感じがする。
- 206 :204:2008/07/11(金) 00:29:31
- 日本の中央部に位置する尾張の大藩が、もし、新政府に反旗を翻して徹底抗
戦していたら、日本中は大混乱に陥って外国勢力のえじきになっていたとも
限らない。尾張は幕府と朝廷勢力の合体を意図し、王政復古政府では内部の
一員として、続く明治新政府では、「抗争の後始末」という地味な役回りが
中心であった。大改革が行われた後の新体制では、前時代の中心勢力は新し
い時代には残れないという歴史の前例に照らせばやむを得なかったのであろ
うか。
尾張の実質最後の殿様慶勝は、不本意ながら江戸時代の幕引きと新政府への
橋渡し役を演じることになった。このことは日本全体の明治維新の進展とと
もに、日本の近代化を外国勢力に蝕まれることなく推進できたことに貢献し
ていると考える。
(櫻井芳明『幕末の尾張藩』)
- 207 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 09:52:07
- 将軍家にことあるごとにいじめられるも、宗家を守った尾張家って偉大
- 208 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 10:43:03
- 名古屋城を天皇陛下の離宮にするべき。
(ノ∀`)戦前はそんな感じだったらしーじゃん。
- 209 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 13:02:43
- >>207
義直の血統は守れなかったがな
- 210 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 13:15:31
- >>209
それも幕府の強制がなければ、まだ打つ手はあったんだけどねえ
- 211 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 13:36:50
- 血統をのっとられても宗家を守り続けた尾張徳川は偉大
- 212 :ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2008/07/11(金) 15:51:34
- 松平安芸『将軍は貴殿に隠居謹慎を命じられました。まったく、こんなことは初めてのこと・・』
宗春『尾張が初めて(笑)』
- 213 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 16:09:20
- おはりはつもの
- 214 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 20:14:27
- >>208
皇室で必要がなくなったから名古屋市に下賜されたのに・・・。
- 215 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 22:53:35
- 治休、治興、治行はやっぱり毒殺されたの?
- 216 :日本@名無史さん:2008/07/11(金) 23:45:01
- >>215
吉通や家基も毒殺の疑いがあるが、いずれにせよ実証は不可能。
- 217 :日本@名無史さん:2008/07/12(土) 16:24:40
- ここは家臣がダメと聞いたことがあるが・・・
- 218 :ぴーす ◆henn6wQb.g :2008/07/12(土) 16:41:35
- 光友「城下で辻斬りがはやってる?元気があっていいね。武士は
そうでなくちゃ。」
- 219 :日本@名無史さん:2008/07/12(土) 18:30:41
- 光圀は自ら辻斬りをやった
そういう時代なんだ
どうせ取り上げるなら光圀のほうだろ
- 220 :ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/07/12(土) 19:47:21
- 戦国の気風抜けぬ17世紀初頭、御三家筆頭尾張義直は治安維持の
ためパトロール隊を結成し、喧嘩辻斬りの防止に努めた。
だがパトロール隊もまた戦国の武士、初日から次々と怪しい
者を片っ端から切りまくっていた。
しかし二代光友は戦人かくあるべしと意に介さない。
一方水戸は自分で切った。
こんなもんかな?
- 221 :日本@名無史さん:2008/07/12(土) 21:48:55
- なぜか底意地の悪い、バランスを欠いた書き方なんだよな
うざいよ、もう書きこむなよ
- 222 :日本@名無史さん:2008/07/12(土) 22:54:34
- >>221 あなたの書き方もどうかと思うぞ
>>220 私は過分にして光友のその話を知らないのです。ソースを教えてくだ
さい(史料でなくてもいいです、小説または教養書でも可)
公平に見て三家の中で一番残虐なのは、紀伊の重倫でしょう
これは誰も異論が無いと思います。江戸も中期という時代で、民百姓はおろか
側近や側室までも手にかけた/手にかけようとした。
心が病んでいるとしかいいようがありません
二番目は光圀かな。若いときに刀の切れ味を試すために乞食を斬った、
老いては藤井紋太夫をためらいも無く斬り殺した。綱吉にはいやみで
犬の毛皮を大量に送った
自分の行うことを正義と疑わないその様は偏執と言ってもいいでしょう
>>215 宗睦の嗣子で若死にしてしまったのは、彼ら三人だけではありません
治行長子の五郎太、甥の勇丸(父 勝長)もまた夭折しています。
これを年代順に記せば
1774年 治休(21)
1777年 治興(21)
1793年 治行(34)
1794年 五郎太(14)
1796年 勇丸(3)
ちなみにその後迎えた家斉の子供も夭折
1797年 敬之助(5)
こうして並べてみると寒気がしますね
- 223 :日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:12:51
- >>222
これは確かに不気味だな。
家慶や綱誠の子も死亡率は高いが、成人した男子が三人も早世するとは…
- 224 :ぴーす ◇TfYI6zaOr. :2008/07/12(土) 23:30:55
- 江戸時代も半ば、綱吉の政策により人名が以前よりも格段に重くなった太平の
世、紀伊家7代重倫は刀を振り回して側近を振るいあがらせ、鉄砲片手に民を
脅して撃ちまくり、あげくには側室を自分の息子ともども斬り殺そうとする始
末
家臣らは毎度水杯を交わしてから登城したという
さらには江戸屋敷が隣接している松江藩の物見台にいる女中らに鉄砲を撃ちか
け、とうとう30にして隠居に追い込まれてしまったとさ
- 225 :日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:52:56
- >>222
敬之助はついスナイパーの手が滑って続けて消されちゃったんだろうか。
「おい、そいつはこっちから送り込んだ若君だ」なんて後で叱られたとか。
- 226 :ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/07/13(日) 11:54:43
- 一方ロシアは鉛筆を使ったってネタを無理やり改編した
からいびつなのは仕方ないよ。
明治維新後、藩知事慶勝は藩民を城中拝観に招き、失業士族救済
のカンパをを呼びかけるも、申し出たものはサクラ一人に終わる。
- 227 :日本@名無史さん:2008/07/13(日) 12:17:43
- >>226 また薄っぺらな知識で事実と違うことを勝手に書いているなあ
明治四年二月九日、名古屋城に御用達商人やお目見えの農民を招き、武士階
級の帰農のため、莫大な入費が必要なことを訴えて、調達金の献納を要請し
ている。この折には接待者に本丸、天守の拝観を許し、酒肴でもてなして、
記念品に「夢の世」と銘した御深井焼きの茶入れを「蜀江錦」に入れて贈っ
た。
在任中に何かと協力をおしまなかった尾張各地の名望家に対する精一杯の感
謝とともに別離の気持ちがこめられていた。領民は旧藩主の真心に感激し、
東京に旅立つ彼を見送ったのだった
- 228 :日本@名無史さん:2008/07/13(日) 12:20:45
- >>225
敬之助は幼児だから早世してもさほど不思議ではない。
問題なのは成人した男子三人が相次いで死去していること。
- 229 :227:2008/07/13(日) 12:27:13
- 地租改正で増税となる農民へも慶勝は援助をしてやっている
明治十二年に東京の自邸に招いて状況を聞き、次のような解決策を提示した
「救済金として三万五千両を下賜すること、14年度からの地租改訂の見直し
確約書を県から出すこと」の二つの条件であり、これで反対運動を収めるこ
とで妥協が成立した。
彼らがこの提案を受け入れたのは、黒船来航以降、長州征伐出兵等の軍資金
調達、鳥羽伏見の戦への義勇軍・草薙隊の派遣、甲州・奥州への出兵等で尾
張藩へ貢献してきて以来、慶勝への敬慕があったからであろう。
- 230 :ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/07/13(日) 13:21:59
- 元文自体がうすっぺらいからそう言われてもなんとも答えようが
ないですね。むしろ勉強になるので感謝してるぐらいですよ。
- 231 :227:2008/07/13(日) 13:27:35
- ちなみに士族達の帰農事業で大規模なものは、北海道原野開拓でしょう
尾張家の出資で行われたこの事業、先の名望家達の献金もあった
現在の八雲町は尾張士族達が開拓したものであり
木彫りの熊の置物は、候爵義親のアイディアによるものである
- 232 :日本@名無史さん:2008/07/13(日) 13:35:30
- >>230
えっ? 元文があるの?
- 233 :222:2008/07/13(日) 23:16:49
- >>228
治休、治興の死因は麻疹だったそうです
当時は死病として恐れられていたとか
治行は、私にはわかりません。四代吉通以来、久々に徳川家で柳生新陰流道
統を継いだ(十一世)ほどですから、体は頑強だったと思うのですが。。。
『尾張徳川家系譜』には
寛政五年九月二日 御気色御急変とあり、その二日後に死んでます
私が残念に思うのは治行の子、五郎太です
彼は正妻従姫(紀伊宗将娘)との間に生まれた子ですから、そのまま成長し
家督を継いでおれば、尾紀の間、ひいては幕尾の間も融和が進んだでしょう
しかも許嫁が初めは治済の子満姫、彼女の死後は家斉の子淑姫でしたから
(後に淑姫は十代斉朝の正室になりました)
ちなみに私の書きようが中途半端だったのですが、五郎太は宗睦の養子には
なっていません。しかし彼が死ぬまでは他に養子をとらなかったのですから、
「嫡孫」扱いだったのではないかと思います
- 234 :222:2008/07/13(日) 23:27:40
- ちなみに五郎太の死因は「御持病の御疳積御痰気御差発」とあり、よくわか
りません。浮腫ができた、とも書いてあります。
で、医者のクスリを飲んだが、かいなく死んでしまった、という書き方になっ
てます
勇丸は急に様態が悪くなり死んだということです
- 235 :日本@名無史さん:2008/07/13(日) 23:38:37
- >>234
痰気は慢性的な熱のことらしい
疳積はググッたら、「楊中医鍼灸院」のHPに説明が出てた
http://www.dokutoruyo.com/index.shtml
★疳積(疳証)★
さて、先ず「疳」という字について説明しましょう。
「疳」には大きく2つの意味があります。
1つは「甘」という意味で、病因である「甘いもの・味の濃いもの・脂っこ
いもの」を表し、もう1つは「乾」で、病機である「気・血・水」の消耗と、
症状である「身体に潤いが無く痩せる」ことを意味します。
5歳以下の小児にみられ、特に3歳前後に多くみられます。
症状は「痩せ」「脱毛」「食欲の異常」「冷え」「精神衰弱」「静脈が浮き
出る」・・・・・など多種多様です。
主な病因・病機は、授乳を止めるのが早すぎたり、不適切な栄養状態、長期
にわたる下痢や嘔吐、寄生虫感染、などにより脾胃が損傷を受け、消化吸収
能力が低下し、その結果 飲食物が体内で停滞を起こし、これが長引くことに
より、熱が発生し気血水が損耗してしまい五臓を栄養できなくなり、症状が
発症します。
どうも五郎太クンは生まれつき体が丈夫ではなかったようだね
- 236 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:23:43
- 今日から市博物館で始まった「尾張名古屋は地価で待つ 城下町大発掘」
結構面白かったよ。土人形の多さに驚いたよ。おいらが一番興味深かった
のは、三の丸の(将軍家)御霊屋は、増上寺と寛永寺に祀られている様に、
2箇所に分かれていた事だよ。
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