徳川家のルーツと十八or十四松平Part3
- 1 :日本@名無史さん:2008/02/25(月) 01:51:30
- 『奥三河の山のなかの坂をのぼって、松平郷という、
これ以上は山路もないという行き止まりの小天地
に行った時の夏の陽ざかりの印象は、筆者にとって
わすれがたい思い出になっている。
(ここがあの徳川家の発祥の地か)』
(司馬遼太郎「覇王の家」)
過去スレ
1 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1017225782/
2 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1090595662/
- 246 :日本@名無史さん:2008/07/26(土) 12:08:20
- 松平氏が、もともと松平郷・岩津が中心なら、
分家の1家に過ぎない桜井松平が、安城松平を凌駕する力を持っていたり、
分家の安城松平が、本家の岩津松平や、母国の松平郷松平に代わって、
宗家になってるのも変。葵紋を酒井や本多からもらった話しも、松平信光がヨソモノで、
松平郷の名跡を継いだ証では?西三河旗頭が、石川氏ってのも変な話しで、
松平氏や酒井氏を差し置いて、自分の本拠地を下位の家臣に任せてる。
北条早雲が松平長親と決戦したとき、酒井、本多、大久保が活躍した
というが、石川氏はいない。そんな新参の石川氏が旗頭?
額田郡には、国人一揆、守護細川氏、仁木氏の守護代の西郷氏がいるって
のに、岩津を本拠にして勢力拡大?岩津の隣が松平郷、その隣りの
豊田市寺部に鈴木氏がいる。周りを敵対勢力にグルリ包囲されてるのに、
なぜか勢力拡大?
京都から一番近い碧海郡の安城を本拠にしていた信光が、岩津を落とし、
松平郷の名跡をもらい、清康時代に、岡崎・山中を落とし、東三河に
攻め込んで、三河全域支配。尾張に攻め込んだが横死。桜井松平が謀反。
広忠逃亡。今川植民地。家康が桶狭間のころ、岡崎に戻る。
すぐ浜松へ本拠移動。さらに、駿府、江戸へ移動。
どう考えても、岡崎にこだわりがあるようには見えないが、松平氏は。
家康が岡崎で生誕しただけというだけで。岡崎中心史観で松平家を見るのは、
ムリありすぎ。
三河一向一揆の4か寺が、全部碧海郡(現在は岡崎市3、安城市1だが)で、
家康が一元化のため解体しようとして大ピンチになってる、しかも
重臣多数謀反。額田郡の岡崎中心なら、なんで、碧海郡の勢力にこんだけ
振り回されるの?信長・秀吉・朝倉が、家臣が一向一揆に加担して謀反で
大ピンチとかないでしょ?
影武者家康説ってのも、松平の系譜におかしな点が多すぎるからで。
- 247 :日本@名無史さん:2008/07/26(土) 12:55:45
-
当の三河武士たちは自分たちをどのように呼んでいたかといえば、
けして三河武士などと呼んでいたわけではなく、むしろそのような三河の者と見られるのを嫌い、
わざわざ清和源氏の系譜を入手し、入籍しているわけである。
岡崎市を始め周辺自治体が三河武士を強調して郷土の自慢みたいにせんでんするのは
まったく筋違い。 田舎の町おこしでしかない。
- 248 :日本@名無史さん:2008/07/26(土) 13:03:34
-
家康の多田院帰りの摂津の海人に船を出してもらった伝説もどうも怪しい。
征夷大将軍は清和源氏のパターンが定着していた時代で、
征夷大将軍となるために家康は何が何でも清和源氏としての承認を受けねばならないと考えていただろう。
多田院参詣も、家康に船を出した海人伝説も、すべて後に自身の征夷大将軍へ至る経歴を完璧にしたい
家康により創作された話ではなかろうかと思う。
歴史上、そうやって後から伝説が創作され関連付けられたケースは多い。
- 249 :日本@名無史さん:2008/07/26(土) 13:20:12
- 日本デンマークの水飲み百姓ががんばってるのかw
- 250 :日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:03:21
- 日本デンマークといわれたのは、明治以降で、当時は安城が原で、
安祥城から古井・桜井・小川・野寺に至る鹿乗川流域が中心。
本願寺の寺も、この矢作川・鹿乗川流域にある。
この河川の水運・商業を抑えたのが大きいらしい。
家康は、これを直接管理しようとして反乱が起きた。
安祥城は、この河川の南北軸と東海道の東西軸の交わったところにあり、
要衝であった。のち、東三河制圧のために、岡崎城に本城が移転するが。
酒井も水野も刈谷だし。石川、植村、阿部は安城。
トヨタの山奥から、松平が出てきましたでは、説明付かない。
- 251 :日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:28:32
- 大久保彦左衛門が、三河物語で、信光〜広忠までの家臣が、安城普代といってる。
広忠は岡崎のはずだが、清康が、岡崎城・山中城を落として臣従させたのが、岡崎譜代、山中譜代。
清康横死で織田・今川の草刈場になり広忠は、伊勢に逃亡。
岡崎に戻ってきたが、岡崎城で岩松八弥に刺殺される。
清康も安城から岡崎に移ったはいいが、守山崩れにあうなど、岡崎と相性がいいとは言えない。
で、家康も岡崎生誕だが、すぐ信長の尾張清洲〜今川の駿府。
桶狭間で岡崎に戻ったが、すぐ一揆発生で家臣謀反多発。
苦心して三河統一。遠州に攻め込んで、すぐ浜松城に本城移動。
岡崎に長男信康、大賀弥四郎、築山殿、武田に内通謀反。
現在の岡崎城の縄張りは、豊臣家臣の頃のものなのに、
岡崎市は徳川時代のものと捏造。家康岡崎三河中心史観完成。
むしろ、岡崎は松平との相性最悪。
安祥城時代50年は、家臣の謀反とかないし、一向宗ともうまくやってる。
安祥城奪取の経緯も踊りの見物で空になった城に入るとか、
家康の桶狭間の岡崎入城と似ている。奪ったというより、招かれて治まった感じ。
岩津松平家も北条早雲の攻撃で滅んだらしいし。安城家台頭。
岡崎市が、徳川に貢献するどころか足を引っ張てる事実しかない。
- 252 :日本@名無史さん:2008/08/11(月) 21:03:05
- 一般的な書籍やネット検索では得られない情報のはずだが
なかなか語るやつがいるな。
しかし、踊り(松平初代譲りの念仏踊り)の見物で空になったのは
岩津信光の計略。
- 253 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:24:51
- 安城はたしかに重要だが
岩津、岡崎は
松平の聖地だろ。
- 254 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:49:05
- 開拓農民が武装化したのが先祖だしょ。
徳川系は、NHKの松平さんも慶喜さんもみんな
体型がずんぐりむっくりの西田敏幸。
- 255 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 09:02:22
- 武士の出自ってねえ、ほとんどが強盗やくざのたぐいなのよ。
だからこそ、ちょっともでも高貴な繋がりがあるとありがたがるの。
今のヤクザのなわばり争いと同じ。
- 256 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 13:25:24
- 武士の出自がならずものは、応仁の欄以降でしょ
それまでは名家の暴れん坊のみ いちを名家血統
しかし応仁の欄後は守護が勢いを失い、公から公認されてない地侍たちが一気にあらわれ、幅をきかせるようになった
しかしまだ当時の地侍土豪は大半が在地では名門の郷農有力者がなってるのでまだチンピラとまではいかない
しかし戦国期になり、地域の流動性が激しくなり ならず者や盗賊らがおおくなってきた
このあたりからチンピラが武装しはじめ、守るものなどはなからなにもないこれらは、それを在地領主や地侍はおさえきれなくなる
名門守護代ですら織田のようにDQN化する。その結果戦国期から在地地侍土豪とは違い、失うものも守るものもない、ただ荒らすだけのチンピラヤクザ出自が江戸期の三分の一くらいの大名になっていった
実際旧名門支配者層は江戸期、旗本や後家人、庄屋になてしまったのが圧倒的
よほどこれらより江戸期大名家の出自のほうが、チンピラヤクザまがいの際下級出自が多い
- 257 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 13:47:46
- チンピラでもヤクザでも日本の支配階級だったのは間違いないし
自称両班、本当は白丁の末裔というヒトモドキとは比べようがないよね
- 258 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 14:56:38
- たしかにそうではあるが 浅野長吉などに代表される小作農チンピラは 一代限りの功績は評価するが、代々崇められる出自ではない
旗本や後家人には守護家がおおい
また庄屋も中世の国人や地侍、土豪、滅亡大名家家臣団などの出自が多い
支配者層で一番出自がハッキリしないかみすぼらしいのが近世江戸大名家なのは間違いない
これは 代々受け継がれるような功績ではない
- 259 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 15:08:12
- 白鳥でも エタ頭騨サエモンや否認頭車家ですら出自は名門家
よほど近世大名家は部落頭より出自が悪いのが多い
一代限りの功績なら認められるが 子孫代々は 蜂須賀や浅野は無理だろ
- 260 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 17:50:25
- 江戸時代って、名古屋人が貴種として日本各地へ拡散した
時代だったのよね。日本人が不細工と言われるのは名古屋人の
せいなのよね。
- 261 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 18:07:20
- 名古屋人っていうと、嫌味で陰湿なイメージある。
実際、いじめ自殺、アベックリンチ強姦殺人・・・後味悪い事件が多い。
権力者も残忍なの多い。
- 262 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 20:12:41
- そういえば源頼朝の母も名古屋人だったな
- 263 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 20:28:25
- 名古屋太郎も名古屋人じゃないか????
- 264 :日本@名無史さん:2008/08/16(土) 23:51:31
- 頼朝もじつは名古屋生まれ。
熱田神宮前の寺。
- 265 :日本@名無史さん:2008/08/17(日) 05:01:19
- なこと言ったら、貴族の出自も強盗人殺しのたぐい。
- 266 :日本@名無史さん:2008/08/18(月) 01:03:37
- なんで公家が盗賊のたぐいになるわけ? 意味不明
近世武士ならそうなるとわかるが
- 267 :日本@名無史さん:2008/08/18(月) 17:36:51
- >>260
名古屋人が貴種として
つぼった。
- 268 :日本@名無史さん:2008/08/18(月) 18:10:35
- 公家の先祖は古代の豪族=腕力でその辺を支配してた連中
- 269 :日本@名無史さん:2008/08/20(水) 18:59:00
- うーん”腕力でその辺を支配してた”とは限らないんじゃないかな
知恵と勇気のある人と言って欲しい。
- 270 :日本@名無史さん:2008/08/21(木) 09:25:32
- 愛と希望は?
- 271 :便臭システム北詰某:2008/08/21(木) 23:58:23
- 得阿弥なる遊行僧が松平と酒井の両家の娘をハラませたのがそもそもだと言うが本当か?
- 272 :日本@名無史さん:2008/08/23(土) 09:41:26
- 本当。信光とかも同じ
手法で勢力拡大。
- 273 :日本@名無史さん:2008/08/23(土) 15:54:17
- http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013601&VOL_NUM=00001&KOMA=33&ITYPE=0
海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。 誰が、今川義元のことと捏造宣伝したのか? 小和田哲男の静岡人?
秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三
- 274 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 07:30:44
- 長久手パビリオンは行列がながくてながくて
どえりゃ往生こいた。
- 275 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 09:53:44
- >>273
「海道一の弓取り」とは、元々今川義元に与えられていた評価の一つ。
桶狭間の横死後、徳川家康が自らのものとした。
>誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ
訳「(豊臣秀吉曰く、)誰が徳川(家康)に『海道一の弓取』というあだ名をつけたんだろう」
豊臣秀吉がこの名をつけたわけではない。
- 276 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 10:26:25
- ↑
また、捏造ヤローがきたか。今川義元は違う。
- 277 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 10:40:29
- >>276
↑捏造野郎出現。嘘を並べるのではなく、証拠を見せよ。
- 278 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 11:08:18
- >>275
家康は義元を尊敬していて
その後継者を自任してましたから
- 279 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 11:12:19
- じゃあ、なんで今川一門(義元の姪の夫)として氏真を助けなかったの?
なんで氏真から禅譲されて「今川元康」として信長と戦わなかったの?
- 280 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:02:11
- >>279
_______
, イ´ `丶,
/ }ミヽハ. ヘ
. / , / , / / ハV.7〉:∧
/ / / , / / / / /l! ∨|| ハ
| | / // / / / / ソ V| |
| | |//__/__/, / ハ‐----- リ |
レl.| |/__/_ /__ 厶イ ,_ _U.レ⌒)|
|ヘj {「{「::::}「 {「::: }}.}} r゙^/ |
∧.l人゙'=='′ ゙'=='ソ ハノ j
// 人xx ̄  ̄xx.人| | f´ ̄ ̄ ̄`Y
. // />.U; cっ _U<l | | | | ア : |
// / / / `T ¬ ´ |_l ll l| | __j ホ : |
. // / /_,.ム.イ| ./ ∨ll l| | ヽ. の. キ !
// _>'´ l|- ノ゙フy \l| | | 子 ミ l
. // r'⌒ヾ《. V゙)//,/}l \ | l な. は |
// / ∧゙《. r' ′ ` j ∧| | の |
. // / ∧゙《 ,、,ノ / //'}| | か |
// / 人_X \. _/ // || | ? |
. // / ノハ∧. \∠辷三三彡' ||
- 281 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:08:07
-
あの時期の松平氏が今川陣営にとどまるという選択肢はあったろう。
織田との同盟が必然的だったわけではない。
- 282 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:09:54
- >>275
>誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ
>訳「(豊臣秀吉曰く、)誰が徳川(家康)に『海道一の弓取』というあだ名をつけたんだろう」
>豊臣秀吉がこの名をつけたわけではない。
反語も知らんのか
誰が徳川(家康)に『海道一の弓取』というあだ名をつけたんだろう、それは私だ。
>>277
証拠を先に出すべきなのは276ではなく275
- 283 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:41:11
- >>282
その解釈は成立しない。
>>282の解釈が正しいのなら、その文章の後に列挙されている「徳川家康の良い評判」も、
全て、豊臣秀吉が勝手に言った事ということになり、
世の人々は徳川家康に良い評価を与えていなかった、ということになる。
東照宮の縁起で、そのようなことはありえない。
だから、海道一の弓取りというあだ名も、世の人々が言っていることなのだ。
- 284 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:49:37
- 豊臣秀吉がおべんちゃらを言っているのは事実だが、
それを全て豊臣秀吉が最初に言ったこと、とすると、
それらのおべんちゃらはすべて 過去に豊臣秀吉しか言っていない 、ということになり、
世の人々は、徳川家康に良い評価を与えていなかった、ということになる。
「海道一の弓取り」は、その時点で徳川家康に与えられていた世の評価なのだ。
その後の云々は豊臣秀吉のおべんちゃらとしても、
「海道一の弓取り」まで豊臣秀吉を起源にしていては、話の筋が通らなくなる。
- 285 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 14:14:44
- 弓取りネタ飽きた。
もっと、他の話題はないのかよ。
- 286 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 15:23:07
- >>282-284
「誰が徳川(家康)に『海道一の弓取』というあだ名をつけたんだろう」という直訳ではないには賛成だけど
「それは私だ」ではなく「〜『海道一の弓取』と呼ばれている」と訳すのが適当
- 287 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 17:42:12
- 海道一の弓取り=今川義元=出典不明です。
小和田哲男などの今川厨のキチガイ学者の捏造によるもの。
徳川家康は、徳川実紀、改正三河後風土記、白石の藩譜に記載されている。
- 288 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 18:28:35
- 結局、「海道一の弓取り」は世評なわけね。
豊臣秀吉が名付けたものではない、と。
- 289 :日本@名無史さん:2008/08/24(日) 21:58:36
- さよう。
- 290 :日本@名無史さん:2008/08/25(月) 13:31:59
- 豆知識。
弓取り式は織田信長が考えた。by 界屋太一
中途半端なことやって帰りの客を
適当にばらけさすのが目的。
- 291 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 07:12:52
- http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%9F%E7%AF%A4
- 292 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 09:09:33
- 海道一のくみ取り
- 293 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 10:45:41
- 海道一のカマ掘り
- 294 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:18:15
- 水海道
- 295 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 21:42:53
- http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=60003737&VOL_NUM=00001&KOMA=372&ITYPE=0
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