奥州藤原氏について語ろう第参話
- 1 :日本@名無史さん:2008/03/17(月) 04:10:33
- 前スレ
奥州藤原氏について語ろう第弐話
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1112288852/
がdat落ちしたので
- 845 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 12:53:23
- >>761 後二条師通記試訳
応徳3年(1086)
11月2日
晴れ。未の刻頃、時雨が降った。
殿に何事かあったのか。時範は大したことはございませんと申した。そして、義綱を召すことを承った。世間は義家の起こした
合戦について尋ねられるのだ。爲房が召して尋ねさせるのである。
未の刻:13〜15時
殿:関白従一位藤原師実(45)
時範:平時範(33)
爲房:正五位下権左少弁左衛門権佐藤原爲房(38)
寛治5年(1091)
11月15日
亥の刻頃に盛長朝臣が来て言った。関白殿の御使者である。清衡(陸奥の住人である)が馬二頭を進上してきたことを仰ったので、承った。
文箱を開けてみると、二通の解文・申文などが入っていたとか。
亥の刻:21〜23時
盛長朝臣:源盛長
関白殿:従一位藤原師実(50)
- 846 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:37:22
- >>844
応徳3年10月29日の義綱の申文って受領申文のことか。
だとすると、義家が追討終了を報告するのが翌寛治元年だから
義綱は義家在任時から、既に後任の陸奥守を狙っていたという
ことになるが、実際は藤原道綱の孫となる藤原基家が就任している。
義綱の陸奥守就任は、寛治7年に基家が死去して後になる。
寛治5年6月には義家と義綱は所領の争いで、合戦寸前の騒ぎを
起こしている。
- 847 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:48:39
- 義綱一族は悲惨だよな
- 848 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 20:39:33
- >>843
襲撃が小規模稼動かは不明で、個人的には、かなりの規模の軍勢を動員したと思います。
何故かと言うと、国司を殺害し、国府を破壊したんだから、それなりの準備と軍勢の規模がないと無理だと思います。
資料がないということで、否定的な意見が多いですが、平師妙・師季の乱は
かなりの規模で、清衡の支援がないと不可能ではないかと仮定しています。
この時期の奥羽は、北部は清原鎮守府将軍家(宗家)中心の体制から、
清衡中心の体制に移行しつつあり、南部に清衡の勢力が次第に南下しつつあると思います。
客観的な資料はないのですが、この流れに沿って考えれば、平師妙・師季の後ろに清衡が居てもおかしくないと思います。
また、平国妙が出羽の住民というのは資料にあります、おそらく出羽の何処かの郡の郡司だと思います。
しかし平国妙と平師妙の関係はよくわかっていません。
- 849 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 20:40:55
- >>791 後二条師通記試訳
寛治5年(1091) 11月15日
亥の刻頃に盛長朝臣が来て言った。関白殿の御使者である。清衡(陸奥の住人である)が馬二頭を進上してきたことを仰ったので、承った。
文箱を開けてみると、二通の解文・申文などが入っていたとか。
亥の刻:21〜23時
盛長朝臣:源盛長
関白殿:従一位藤原師実(50)
寛治7年(1093) 6月18日
雨が降った。東山道相撲使秦正重が、出羽守信明と合戦となる申文を二通(注文、申文)を献上してきた。年預中将に預けて仰るには、
それらを添えて奏上すべきということであるとか。去る17日、左大弁のところより申文が二通送られてきた。相撲使が非法な目にあったこ
とを訴え申すものであった。
東山道相撲使秦正重:出羽は東山道諸国に属する。相撲使は、相撲節会の相撲人を諸国から集めるために派遣された使者。
出羽守信明:源信明
注文:明細を記した文書。この場合は合戦の死傷者、被害状況などのリストか?
年預中将:左中将源国信(27)
左大弁:大江匡房(53)
寛治7年(1093) 9月17日
晴れ。雨が降った。左大弁がいらっしゃった。後漢書伝第五十一を一日で読み終えた。陸奥守基家が亡くなった。顕仲が今すぐにでも
逗留し罷り登るとのことである(?)。止めようがないことを母のもとより申すところであった。殿下が御教書を下し、舎人2人を添えて遣わす
べきということであった。必ず日次を選ばざるべき由、左大弁に申させたところであった。来る23日に遣わすべきということであった。
左大弁:大江匡房(53)
顯仲:藤原顕仲。陸奥守藤原基家の猶子。
殿下:関白従一位藤原師実(52)
寛治7年(1093) 9月19日
晴れ。陸奥在庁官人のもと、下文らを遣わすところの例とか。
- 850 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:40:06
- >>848
大規模な軍勢を動員して国司襲撃しておいて、その反乱軍が、義綱の郎等ごときに
簡単に鎮圧されるというのは、変じゃない?
しかも史料を読むと「上洛せんと欲する間」に襲撃したとあるから、恐らく、不意打ちで
襲撃したと読み取れる。大規模な軍勢を動員していたら、その過程で露顕する可能性が
高いし、不意打ちするというのも不自然。小規模な軍勢しか動員できなかったからこそ、
不意打ちという奇襲攻撃を選択したのであって、そう考えていくと、師妙・師季親子単独
の行動と見た方が自然じゃないか。
それに清衡は、追討対象にもなってないし、全くお咎め無しなのだから、無関係と考える
のが普通じゃないか。大規模な軍勢を動員して、それに清衡が荷担していたら、間違いなく
追討対象になっているでしょ。
逆に聞きたいが、清衡が荷担して大規模な軍勢を動員したとして、その状況で、義綱の郎等
だけで簡単に鎮圧できた理由は何なのですか?
清衡が全くお咎め無しである理由は?
- 851 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:47:20
- 国妙が清衡の父経清に前九年合戦で助命されていることが、
国妙や師妙師季父子にとってどう影響しているとみるか?
単純に恩義に感じているのか、
それとももっと複雑な感情を経清に対して抱いていたのか。
- 852 :日本@名無史さん:2009/10/28(水) 17:12:57
- >>850
途中で清衡は、師妙・師季親子を見捨てたのでは?
それとこの時点では、奥羽北部では、清衡中心の体制が出来つつあり、
次第に奥羽南部に清衡の勢力が南下しはじめている状態です。
この大枠の流れに沿って、平師妙・師季父子の乱を解釈しました。
>>851
平国妙が黄海の戦いで助命された事は、単純に有難いと思ったんじゃないですか?
それが縁で清衡との関係も出来た可能性も。
- 853 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 18:20:54
- >>684 中右記試訳
康和5年(1103) 11月1日
・・・<除目の記事>、藤原基頼を陸奥守に任ずる(神社の功績による)。・・・
神社の功績:神宮や春日大社などの神社の修・改築を行ったか。
長治元年(1104) 5月2日
・・・
今日の夕方、小除目が行われる。上卿は民部卿が勤め、宰相左大弁が臨席した。
大膳進紀行俊(放火犯を捕らえた恩賞。中宮侍)
右京進宮道兼政(齊院侍。齊院で窃盗を捕らえた恩賞)
右兵衞佐源顕親(去年の春の除目で右兵衞佐が欠官であったが、誤って左兵衞佐に任じられてしまったことにより、
今夜、右兵衞佐に異動)
同じく少尉藤原親兼(齊院侍。兼政と同じ功績による。但し、傷を負ったとか。それで急ぎ任ぜられたものか)
鎮守府将軍藤原基頼(兼任。去年の春の除目で陸奥守に就任)
大外記師遠が後日に語ったところによると、先例では、臨時の小除目の際は尻付はないが、今回は尻付があった。
頗る先例に違うところだ。「兼」の字があっても、尻付は付けてはいけないのだ。鎮守府将軍は武官の方に入れ
るということだ。
小除目:臨時の小規模の除目
上卿:議長に相当する役目を担う。通常、参加公卿中の最上級者がなる。
民部卿:大納言正二位源俊明(61)
宰相左大弁:参議左大弁正三位源基綱。宰相とは参議の別称。
齊院:ヮq内親王(堀河天皇同母妹)
中宮:篤子内親王(堀川天皇中宮)
大外記師遠:中原師遠
尻付:新任者の官位・姓名の下に小さい字で年齢、前職、任命理由などを書くこと。
- 854 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 18:28:30
- >>684 中右記試訳
長治元年(1104) 5月3日
朝の間、雨が降っていた。午の刻頃、右衞門督(宗)が内裏に参上した。下官、右中弁長忠、少納言懐季・時俊が
参入した。上卿が外記庁に到着した。下官も外記政が始まるので外記庁に向かった。
少納言時俊と外記が官符に押印した。この官符は、陸奥守基頼が今日、任国に下向するので作成されたものである。
このような官符は急いで押印するものである。
事が終わってから近衛の陣に移動した。南所は物忌みのため立ち寄らなかった。床子の座に於いて弁侍がいつもの
ように申しあげた。
上卿が近衛陣の奥の座に着した。蔵人行盛に内文を行うことを奏聞させた。
<省略>
今日の内文は陸奥守基頼が将軍を兼任する任符である。(任符は史生則元が作成し、左中弁が内印を押印した)
<省略>
午の刻:11時〜13時
右衞門督:権中納言正二位藤原宗通(32)
下官:参議正三位右大弁藤原宗忠(43)
右中弁長忠:藤原長忠(47)
少納言懐季:藤原懐季
少納言時俊:源時俊
上卿:右衞門督藤原宗通になるか?
陸奥守基頼:藤原基頼
蔵人行盛;正六位上藤原行盛(31)
内文:内印(天皇印)を押印する公文書。五位以上の位記や諸国に下す文書などが該当。
史生則元:姓不明(上野則元?)
左中弁:正四位上蔵人頭源重資(60)
- 855 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 18:36:13
- >>686 中右記試訳
天仁元年(1108) 11月10日
夜になって参内した。大嘗会の悠紀・主基を担当する国司を任命する除目があるためである。殿下の御直廬に参上した。
少々仰せくださるところがあり、蔵人頭為房が御使者となって往反した。民部卿、右衞門督、皇后宮権大夫、私、別当、
左大弁、藤宰相が参集した。そして、議定があった。陸奥国司基頼の申請してきた件などについてである。
一つ一つについて裁許あるべきか詮議した。左大弁が定文を書いた。
悠紀(ゆき):御神酒、神饌を献上する国郡。
主基(すき):悠紀とともに神饌を献上する国郡。
殿下:摂政右大臣正二位藤原忠実(31)
御直廬:内裏内の摂政・関白などの御座所。
蔵人頭為房:正四位上藤原為房(61)
民部卿:大納言正二位源俊明(65)
右衞門督:権中納言正二位藤原能実(39)
皇后宮権大夫:権中納言正二位源顕通
私:権中納言従二位藤原宗忠(47)
別当:検非違使別当参議正三位源能俊(39)
左大弁:参議左大弁正四位上源重資(64)
藤宰相:参議正四位下藤原顕実(60)?
陸奥国司基頼:藤原基頼
天仁元年(1108) 12月30日
陸奥守基頼に重任の宣旨が下った。最近は特に見られないことだ。但し、橘為仲の延任とかがあるが、それく
らいか。とりわけ、基頼は去年の秋に上京している。最近ではこの恩があるが、ならびなき恩賞と言うべきか。
陸奥守基頼:藤原基頼
- 856 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 19:01:06
- >>686 中右記試訳
天永2年(1111) 1月21日
除目の中日である。よって酉の刻頃に参内した。<中略>
僉議があった。史巡で第一の者である正基は季仲の帥の事件に関わっているが、この件については、まだ法家が
勘文を提出していない。如何であろうか?第二の者である良俊が陸奥国清衡のもとへ行った事はどうであろうか?
人々は定め申して言う。「正基はなお、本罪が決せられていないので、すぐに賞するのは難しいか。」
この中で別当が一人、発言する。「度々の恩赦で赦免されているのだから、どんな問題があるというのか。」
史巡第二については、左宰相中将が発言する。
「五位以上の者が畿外に出るのだけでも制約があるのに、遠国に向かったのだ。よって、第三、第四の者がなるべきであろう。」
私が発言する。
「件の良俊は国家に背いて清衡に従った者であり、最も咎のあるべき者である。但し、下向したのはちょっとの間だ
けで、すぐに馳せ登ってきたという噂を耳にしている。大体、外記史が敍爵の後に、受領の執鞭として遠国に赴き、
巡年の時に参上し、その賞に浴するのは最近では普通の事だ。良俊は早々に参上したと聞いている。どうして外
すべきなのか。」
人々の多くが、私の意見に賛同した。
<省略>
除目の中日:除目は3日間続くので、2日目。
酉の刻:17〜19時
史巡:史(さかん)を長く勤めた功労により受領に任ぜられる順番。
季仲帥事:太宰権帥藤原季仲が筑前で、延暦寺末寺が起こした乱行を鎮圧する際、日吉社神人を殺害し、神輿を破壊。
激怒した日吉社が強訴し、長治2年(1105)11月1日、季仲は解官、12月28日には周防に配流、後に常陸に移配され、その地で死去。
法家勘文:明法家(律令法の専門家)に法的解釈を諮問した際の回答文書。
陸奥國清平:藤原清衡。
左宰相中将:参議正三位藤原忠教(37)
五位以上出畿外有制事也:五位以上の者が畿内五ヶ国より外に出る場合は、事前に申請をして許可を取らないと行けない。
受領執鞭:執鞭は御者のこと。受領の配下としてという意味か。
巡年之時:史巡により受領に任ぜられる権利を得る時期。
- 857 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 20:21:30
- 中右記
保安元年 六月十六日
辰時許參院?一絛、午後歸家、參院之次謁別當尋小泉庄前定使兼元丸沙汰、一日於使廳問之所、
清衡全犯之由承伏了旨所被談也、〈略〉
保安元年(1120) 6月16日
辰の刻頃、院ならびに一条殿に参上する。午後になって帰宅した。院に参上したついでに別当に謁見して
小泉庄の前の定使兼元丸の沙汰について尋ねた。先日、検非違使庁で尋問した所、清衡が???の由、
承伏したことを語られた。
辰の刻:7〜9時
院:白河院
一条殿:関白忠実邸
別当:検非違使別当・権中納言従二位藤原忠教(46)
小泉庄:陸奥国本吉郡にあったという摂関家領荘園と言う説と、越後国岩船郡にあった中御門家(宗忠の家系)領荘園
の小泉荘とする説がある。後者の小泉荘は「中御門右大臣宗忠公譲状案」と称される史料で存在が確認される。
※「清衡全犯之由承伏了旨所被談也」この部分、意味が取れなかった。「清衡全犯之由」は清衡が主犯と言う意味にも
取れそうだが、実際はそうではない。
- 858 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:01:35
- >>752 中右記試訳
保安元年(1120) 6月17日
検非違使有貞が別当の使者として来た。先日、兼元丸が申状に勘問の記録を添えて、送ってきたのである。件の子細
は有定を介して伝えた。
これは、去る七日、殿下の御厩舎人兼友が清衡の使者を伴ってやってきて、申したのである。大いに驚き、検非違使
庁を介して兼元丸を探し捕らえたのである。件の兼元は先年、小泉荘への定使と定められたとき、清衡の金、馬、檀
紙らを奪い取った者である。全くとんでもない大泥棒である。
別当:検非違使別当・権中納言従二位藤原忠教(46)
殿下:関白従一位藤原忠実(43)
保安元年(1120) 6月24日
巳の刻ごろ、院ならびに一条殿に参上した。午後に帰宅した。院で別当に対面したついでに、かの兼元が去年の冬、密か
に小泉荘に下向し、種々の物品を強奪して行ったことを伝え聞いた。そこで、人をやって確かめた。
もし、そうだとすると恩赦が行われた後の犯行か。但し、実否を調べる間、暫く赦免してはいけないことを、伝えたところ、承
知なさってくれた。件の男の所業は非常にけしからぬ事である。そこで暫く放免してはいけないということだった。
巳の刻:9〜11時
院:白河院
一条殿:関白忠実邸
保安元年(1120) 10月9日
少将が帰宅して言った。殿下が仰るには、小泉荘の相博は、よく調べて行うべきである。また、盛実が法性寺の田地について
訴えている件は、使者を使わすべきだと言うことだった。夕方に日野に入った。
相博:別の土地と交換すること。
少将:四位少将藤原宗能。宗忠の息子。
日野:日野にある法界寺。宗忠は法界寺の阿弥陀堂などを建立している。この時期、頻繁に日野に滞在している。
- 859 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:07:34
- >>753 中右記試訳
大治2年 12月15日
民部卿が杖座に参上した。明日行われる最勝寺の灌頂の僧名を決められた。行事は右少弁宗成とか。
今日の夕方、女院の御仏名だった。宰相中将を連れて参入した。三条殿寝殿で散花が行われている時だった。
座に加わり参仕していたところ、暫くして弁官が来て、新院の殿上に於いて議定があるということなので人々は
殿上に来て欲しいということだった。よって座を立ち、新院殿上に参着した(西の侍廊であった)。両三位は
仏名の座に残られるのであった。
藤大納言、私、民部卿、源中納言、別当、左兵衞督、宰相中将、皇后宮権大夫、右兵衞督が殿上に参着した後、
頭弁が文書を下され、各自、目を通したところ、日吉社が陸奥守良兼を訴える訴状であった。宮主法師二人、
一人は殺害、一人は負傷したとのことである。検非違使庁に下され実検したところ、その傷は治ってはいるが、
傷跡は歴然としているとのことである。但し、国解では、住人清衡が山門の千僧供養のため、700町の土地
を囲って保を立てたということである。これは有宗朝臣の時代に立て始めたが、その後の国司の時に田数を拡
大したのである。そして、新立荘園を収公しようとした際に、日吉社の使者が乱行に至ったのである。
右兵衛督がこれを読み上げ、発言した。
「件のことは最も沙汰あるべきか。但し、去年12月に非常の恩赦が行われている。この恩赦の対象とすべきか
について勅定を賜るべきである。」
<つづく>
- 860 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:08:44
- >>753 <つづき>
皇后宮権大夫師時が発言する。
「乱行した国司郎従ならびに官使等を召し上げて庭において対面させ、きちっと対決させて、沙汰するべきか。
本当のところがわかりにくいからである。但し恩赦の対象とすべきかについては勅定によるべきである。」
ということであった。
一同、この意見に同調した。
私が発言した。
「証人等を召し沙汰せらるべき趣き、皇后宮権大夫の定め申すところに同意する。但し、恩赦の対象に該当す
べきかどうかについては法家に問うべきである。このようなことは、過去、恩赦を受けたり、あるいは受けなかっ
たりするので、明法家に問い、その申すことに従い、判断するべきかと。」
藤大納言<一字欠けており意味が取れないため省略>
一同の意見を頭弁を介して奏上させた。文書を作ることはせず、ただ、口頭で申し上げた。
一同は仏名の座に戻った。錫杖の最中であった。
<省略>
<更につづく>
- 861 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:09:27
- >>753 <さらに続き>
民部卿:権大納言従二位藤原忠教(52)
仗座:近衛陣
右少弁宗成:藤原宗成?
宰相中将:参議左近衛中将従三位藤原宗輔(51)
三条殿:女院の御所
新院:鳥羽院
藤大納言:大納言正二位藤原經実(60)?
私:権大納言正二位藤原宗忠(66)
源中納言:中納言正三位源顕雅(54)?
別当:権中納言従三位藤原実行(48)
左兵衞督:権中納言従三位藤原実能(32)
皇后宮権大夫:参議従三位源師時(51)
右兵衞督:参議正四位下藤原伊通(35)
頭弁:蔵人頭右大弁正四位下源雅兼(49)
日吉社:現在の日吉大社。比叡山山麓にある神社で延暦寺の守護神。かつては神仏混淆により延暦寺と一体化していた。
陸奥守良兼:藤原良兼
山、山門:比叡山延暦寺のこと。
※「被濫行庭於相逢國司郎從并官使等召上」:この部分、意味が取れないため、推測で意訳しました。
※このあとの記述で、頭弁の話として、本院(白河院)が非常の恩赦の対象としない沙汰を下したと書かれている。
- 862 :日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:11:42
- >>753 中右記試訳
大治3年(1128) 5月29日
止雨奉幣があった。
去る13日、陸奥住人清衡が亡くなったとか。73歳。
- 863 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 02:18:29
- >>758 長秋記試訳
大治4年(1129) 8月21日
無事ご出産の後、院がお帰りになられた。関白が参上なさった。
頭弁が語るところによると、陸奥国の清衡の二人の子が合戦に及んだので、公事が多く欠怠したと言う。兄弟の名は
基衡と惟常とか。
院:鳥羽院
関白:関白従一位藤原忠実(33)
頭弁:蔵人頭右大弁正四位下源雅兼(51)
※前日に五の宮(体仁親王・覚性入道親王)が誕生している。
- 864 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 02:19:38
- >>758 長秋記試訳
大治5年(1130) 6月8日戊寅
晴れ。治部卿が来て語るところによると、
先頃、陸奥の清衡の長男(字を小館)が弟(字を御曹司)に国の館に攻め込まれ、その攻撃が激しくて堪えきれず、子息
や家来ら20人余りを引き連れて、小船に乗って越後国に逃れた。それを聞いた弟は、軍勢を動員して、陸地より追いか
け、海上を航行していた長男等が強い波風に遭って元の場所に戻ってきたところを弟が襲撃して、父子ともに首を斬られ
たとか。この話は、清衡の妻が奏上した話である。この清衡の妻は、上洛して、検非違使義成と再婚し、その後、夫の行
く先々についていって珍宝を献上したが、中でも検非違使別当は強欲で、それらを巻き上げて、自ら院の御前に出向いて、
自らの献上品として献上したので、人々の非難の的になったとか。
治部卿:権大納言正二位源能俊(60)
長男:藤原惟常
弟:藤原基衡
国の館:陸奥の国の館と言う説もあるが、小船で越後に逃れたとあるので、出羽の国の館と思われる。
清衡の妻:?
検非違使義成:源義業(源義光の子)?
検非違使別当:権中納言左衛門督正三位藤原実行(51)
院:鳥羽院
※清衡の妻について
・元永二年に書写された大品経巻第二十二の奥書に「大檀主藤原清衡」の後に小さい字で「北方平氏」と書かれている。
・天治元年八月二十日付の金色堂建立棟木墨書銘に「大檀散位藤原清衡」の後に「女檀」とあり、その下に横一列に
「安倍氏」「清原氏」「平氏」と並べて書かれている。
上記2つの史料から、清衡には少なくても3人の妻がいて、平姓の女性が「北方(きたのかた)」つまり正妻だろうと
されている。ただ、今回の記事に登場してくる清衡の妻が、誰だったのかは、様々な解釈があり、とりあえず不明としておく。
※「所被追貢物手自被持參院御前」の記述は、「所被追貢物、手自被持參院御前」として、「追われる所の貢ぎ物、
手ずから院の御前に持参せらる」と読む説、『春光』では「所彼進貢物乎、自被持參院御前」とあるので、これから
「かの進むる所の貢ぎ物か、自ら院の御前に持参せらる」と読む説がある。今回は前者の読み方を採用した。
- 865 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 02:58:51
- 清衡が亡くなった翌年、早くも子息の間で殺し合いが起こる。
長男の惟常は出羽国府の館(?)に籠もり、それを弟の基衡が攻めて討ち取る。
長男の字は小館に対して、弟の字は御曹司、つまり嫡男。
清衡の妻の一人は上洛して、この事件を院に(?)奏上し、陸奥に戻らず、検非違使義成と再婚する。
この義成を源義業とすると常陸の佐竹昌義の父となる。
この清衡の妻が北の方である平姓の女性だとすると、殺された惟常の生母だったのか、あるいは
どちらの生母でもなかったのか。基衡の生母だとすると、上洛して再婚したまま基衡の元に戻らない
のは不自然になる。しかし、北の方の息子が嫡男でないのも不自然。
惟常が出羽国司の館に籠城したのは、出羽の在庁官人だったからか、あるいは出羽国司と関係が
深かったからか。
そもそも、なぜ、この兄弟は対立して、合戦に及んだのか。
当時の奥州藤原氏の内情をほのめかせる、なんとも興味深い事件ではある。
- 866 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 03:13:10
- > ※「所被追貢物手自被持參院御前」の記述は、「所被追貢物、手自被持參院御前」として、「追われる所の貢ぎ物、
> 手ずから院の御前に持参せらる」と読む説、『春光』では「所彼進貢物乎、自被持參院御前」とあるので、これから
> 「かの進むる所の貢ぎ物か、自ら院の御前に持参せらる」と読む説がある。今回は前者の読み方を採用した。
これは、
「所被追貢物、手自被持參院御前」→「貢ぎ物を追われるところ、手ずから院の御前に持参せらる」
「所彼進貢物乎、自被持參院御前」→「かの貢ぎ物を進むるところか、自ら院の御前に持参せらる」
だな。
前者の読みだと、別当に強引に奪われそうになったが、清衡の妻自らが院の御前に参上して献上したとも読める。
- 867 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 16:14:41
- この辺のところ、興味深く拝見しています。
ところで、惟常が出羽国府にいた、とする根拠はあるのでしょうか。それは間違いではないかと思うのですが……
是非、このページをのぞいて見てください。
奥州江刺郡「豊田館」考
http://www.asahi-net.or.jp/~ac6i-kryu/
- 868 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 16:54:02
- 俺も同じサイト引き合いにして問題提起しようと思ってたところ。
先越されたw
- 869 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 16:59:15
- でも工藤先生は蝦夷アイヌ説と辺民説を止揚された方だし、尊敬に値する研究者なんだけどね。
まあ、たまに勇み足が過ぎてしまうところがあるのはご愛敬w
- 870 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 21:18:02
- アイヌ説?ばかじゃねえの?
- 871 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 21:53:18
- アイヌ説
- 872 :日本@名無史さん:2009/11/04(水) 22:54:07
- >>870
是非ともあなたの蝦夷に対する「ばかじゃ」ないご高説を承りたいのですが。
- 873 :日本@名無史さん:2009/11/05(木) 01:56:16
- >>867
そのサイト見たけど、小船で越後に逃げた下りに対する説明が不十分では?北上川河口から小船で
越後まで向かうのは、発想としてあり得ないでしょう。津軽海峡まで北上して越後に南下するつもりだっ
たと考えているのか?だとしたら、無謀の極みとしか思えない。とても小船では行き着けない。それだっ
たら、むしろ、陸路で越後に向かうのでは?
このサイトの記述と同じく、私も「平泉の世界」で「多賀の国府と思われる」とあっさり書かれているだけ
で、その理由が何も書かれていないのには引っかかっていて、>>869さんのご推察通り、「平泉への道」
(工藤雅樹著)の中で、「小船で逃げたとあるから出羽の国府の可能性が高い」という記述を見つけて、
こっちじゃないかと思った次第です。出羽国府は日本海沿岸に近いところにあったと思われるので、
沿岸伝いに越後まで小船で下ることは可能だろうと。そして、基衡は、それを沿岸沿いに陸路で追いか
けた。これなら、現実味があります。
また、なぜ、惟常が出羽国府の国の館にいたかについては、前掲の本の中に理由が書かれているの
で詳細は省略しますが、私自身の推測としては、清衡は安倍氏、清原氏、平氏と、奥羽の有力氏族
だった家系とバランスよく婚姻関係を結んでいるので、出羽に根を張った在地豪族の娘と婚姻関係が
あった可能性もあります。そして、惟常の生母が出羽の在地豪族の出で、そのせいで、惟常は陸奥
ではなく、出羽に居住しており、惟常が出羽の在庁官人として、出羽国府に出仕しているところを基衡
が責め立てたというシナリオを想定しました。その背景には、基衡派と惟常派の対立というのがあり、
その背後には、それぞれの生母に連なる有力氏族の利害の対立があったのではということです。
とは言え、長秋記だけの記述では、あまりに不十分で、推測の割合が多くなってしまうのは仕方ない
ところで、出羽の国の館とは、100%断言はできませんが。
ただ、私としては、国の館から小船で越後に逃げようとした下りを合理的に説明できる説があれば、
そちらを採用したいと思っています。
- 874 :日本@名無史さん:2009/11/05(木) 02:47:30
- >>856
>受領執鞭:執鞭は御者のこと。受領の配下としてという意味か。
実際は受領が任期中に雇った期間契約スタッフのようなものだろうね。
良俊のような外記などに多かった。
あとは軍事貴族。
清衡の父・経清自体が元々陸奥守登任に雇われた軍事スタッフだったともいうし、あと平正盛(清盛祖父)なんかもそう。
良俊(中原氏?清原氏?小槻氏)にしろ、経清にしろ、正盛にしろ、
諸大夫身分でも受領は数が少ないのでなかなかそのポストが巡ってこない。
よって受領の順番待ちしている間に副業で、受領になった人間と私的契約を結んで現地に赴く、ということを多くの受領にありつけない諸大夫クラスの貴族がやっていたようだ。
良俊の場合は、雇い主は受領ではないが、
清衡は広大な奥六郡などの経営をしていく上で、恐らく都の有能な実務官僚スタッフを必要としており、その点で良俊と思惑が一致したのだろう。
- 875 :日本@名無史さん:2009/11/05(木) 11:24:42
- > 実際は受領が任期中に雇った期間契約スタッフのようなものだろうね。
> 良俊の場合は、雇い主は受領ではないが、
> 清衡は広大な奥六郡などの経営をしていく上で、恐らく都の有能な実務官僚スタッフを必要としており、その点で良俊と思惑が一致したのだろう。
恐らく、そうでしょうね。
荘園経営に関連する文書や申文や解文を作成するときなどは、専門知識や経験のある事務方の実務官僚がいると助かる。
ただ、気になるのは、清衡と良俊は面識があったのかってとこですね。清衡は上洛したことがないはずなので、都で、清衡が良俊を
知ったってことはない。とすると、良俊がかつて(それこそ受領の執鞭として)陸奥に来たことがあるのか、それとも、仲介する人物が
いて、良俊を清衡に斡旋したのか。清衡は一地方豪族だから、上位の仲介者が間にいないと、直接、依頼しても門前払いされそうな
気がする。それとも、かつて陸奥守に同行して下向していた下級官人とのコネを利用して、良俊に行き着き、更に、そのときの報酬が
破格だったから下向したのか。
基衡・惟常合戦の記事で、清衡の妻が珍宝を献上して回ったとあるが、だとすると相当な財産家だろうし、一地方豪族に過ぎない清衡
の死亡記事が中右記に載っているのも、何か示唆的。清衡は、都で相当な金品をばらまいていて、それで、都でも清衡の名は、結構、
知れ渡っていたのかもしれない。
「但し白地に下向し、則ち馳せ上るの由、風聞あり」というのも、ちょっと気になる。「白地」というのは「あからさまに」ということで、つまり
「一時的に」とか「ちょっとの間」という意味なんだけど、ちょっとだけお手伝いして終わりというのも不思議だ。急に都の実務官僚の手腕
が必要になってちょっとだけ来てもらったのか、あるいは依頼を受けて下向してみたものの、嫌気が差してすぐに都に戻ったか。
- 876 :日本@名無史さん:2009/11/05(木) 16:26:21
- >>873
「小舟で逃げた」ことが、出羽の国府説の根拠とされていますが、はたしてそうでしょうか?
長秋記には、長男の惟常が『子を率い廿餘人を従え、小舟に乗り越後の國に逃ぐ、
弟その由を聞き、軍兵を発し、陸地より之を追う、先に海上に浮かぶといえども、
風波の難に遇い、本地に還り着くの間、弟の兵等襲来し、父子共首を切りて去る
と云々』とあります。
金色堂を造営し黄金の平泉の建設に邁進する、日の出の勢いの奥州藤原氏の実業を
一手に担い、都への貢物等の舟運を業としていた小館惟常の一族が、窮余の末越後
の国へ逃亡することを考えた時、一艘の小舟に身を託しただけと、哀れな想像を誰
ができるでしょうか。
小舟に乗ったのは出発の様子を伝えたものと考えられます。惟常の居館の下を流れ
る新川から出て行く時、20人余と身辺の荷物があったでしょうから、小舟は1艘
だけではなかったと思われます。そして北上川で20人以上乗れる船に乗船したの
ではないでしょうか。この兄の逃亡の報告を聞いた基衡は、部下の軍兵を指揮し陸
路を北上川沿いに追跡した。しかし追いつかれる先に惟常一行は海に出ることがで
きた。『先に海上に浮かぶ』という言葉には、もはや小舟のイメージはないように
思われます。さらに『海上に浮かぶといえども、風波の難に遇い、本地に還り着く
の間』とあり、嵐にあっても遭難せず、本地に帰還した船であったことが明らかで
はないでしょうか。
- 877 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 17:36:59
- >>875
諸大夫や受領の執鞭(を勤めた者達)の中には、
受領や清衡のような在地の有力豪族に「執鞭」を斡旋することを、半ば副業にしている者も結構いたとみても良いんじゃないか?
源義家が、坂東の豪族の土地を権門に寄進するための窓口=斡旋業者のようなものだったと最近では言われているように。
因みに、興福寺修復のために藤氏長者頼通が全国の藤氏諸大夫に寄進を要請した『造興福寺記』(1047年)に記されている名簿だと、
藤原氏だけで五位の者の人数は331名にも達している。
藤氏だけでこの数だから、
他氏の五位貴族も含めると、当然その数は更に膨大なものとなるだろう。
対して受領の数は60余州分しかないし、仮に全ての国に権官をもうけたとしても、その倍の数しか任官できない。
こう見ると、いかに受領のポストが諸大夫層にとって高嶺の花だったかが分かる。
だから、諸大夫は受領待ちをしている間、「執鞭」として総称される様々な副業をしていたであろうことが容易に想像できるし、
また、
清衡のような大豪族が地方に誕生することは、これら諸大夫層にとってはそれだけ仕事にありける機会が増えるということで歓迎すべき事態だったと思えるんだけどね。
- 878 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:52:33
- >>876
レスが大分遅れましたが、もう少し、「国館=出羽国府説」で頑張ってみますね。
まとまりもなく、長くなりますがご勘弁を。
まず、訳がちょっと不適当だったところもあるので、問題の部分を再度、引用してみます。
先比(さきごろ)、陸奥の清衡の長男(字小館)、弟(字御曹司)のために、国の館に責め籠まる。
しかるにその責めの堪え難きにより、子従二十余人を率い、小船に乗り、越後国に迯がる(のがる)。
弟、その由を聞き、軍兵を発し、陸地よりこれを追い、海上に浮くと雖も、風波の難に遭い、
本地に還り着くの間、弟の兵等襲来し、父子共に首を切り去ると云々。
この間の状況を整理すると、
・小館と呼ばれた長男と御曹司と呼ばれた弟がいて、対立していた。
呼び名から弟の方が嫡男の扱いを受けていたと想定され、その生母が正妻扱いであったことも想定される。
※大治4年8月21日の記事から長男は惟常、弟は基衡とわかる)
・基衡が惟常のいた国館を責め、閉じこめた。
・惟常は、厳しい包囲に堪えかね、子息、家来、20人余りを連れ、包囲網を突破した。
・包囲網を突破した一行は小船に乗り越後に向かった。
・逃げられたことを知った基衡は軍勢を動かして陸路で追いかけた。
・基衡が追いかけてくる間に惟常一行は海上に出ることができた。
・しかし、惟常一行は海上の強風と荒波に遭って、戻らざるを得なくなった。
※遭難して元の場所に漂着したともとれる。
・その情報をつかんだ基衡は、惟常一行の居場所に急行し、捕らえて、惟常親子の首を切った。
<つづく>
- 879 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:06:59
- <つづき>
さて、国館を「ふる里の館」つまり旧居であった豊田館とする説では、
・基衡の軍勢が惟常の住んでいた豊田館を包囲したが、
・惟常は逃亡して、人首川(ひとかべがわ)、北上川を小船で下り
・知らせを受けた基衡が平泉から軍勢を率いて追いかけ、
・惟常一行は海上に出たが強風と荒波にあって戻り、
・そこを、追いついた基衡一行が襲撃して討ち取った
この説が問題点としているのは、
・国館を攻撃したとしたら謀反であり基衡はただでは済まなかったはず
・陸奥国府(多賀城)は海に近く、逃亡したらすぐに海上に出られるはずで陸路を追いかけたというのは不自然
・出羽国府説では、長秋記の記述と合わない点が多々ある。(詳細は割愛します)
<更に続く>
- 880 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:10:26
- <更につづき>
ここから本題。豊田館説の問題点を指摘しつつ、出羽国府説の妥当性を書いていきます。
・基衡は後に惟常親子の首を切り落としているように、殺す気満々なのに、なぜ、国館では、包囲したまま手出ししなかったのか。
豊田館は豪族の私邸なのだから、火をかけたり敷地内に侵入して破壊、殺害しても問題はないはずである。
・中世の山城のような高度な築城技術はなかったろうし、城柵を思わせる記述もないことから、殆ど武装していない館だったと推
測されるので、尚更、包囲したまま手出しをしなかった理由がわからない。
・包囲して投降を待つのなら、館内に突入して惟常親子を捕縛した方が手っ取り早く、その方が兵粮などの戦費もかからない。
・惟常の館である豊田館を包囲したのなら、当然、惟常側も応戦したはずであり、ここで合戦となるはずだが、その形跡が記述か
らは窺えない。
・基衡が包囲しただけで手出しできなかったのは、国司の館だったからであり、もし施設を破壊したり、館内に軍兵が侵入したり
すると、謀反と扱われかねないので自重していた。包囲するだけなら、もともと、豪族の内紛から起こったことで国司に敵対する
意志はないのだから、豪族の内紛に巻き込まれたくない、あるいはこれ以上騒動を大きくして公事の停滞を拡大したくなかっ
た国府側は傍観していた。
※恐らく、基衡は、目的は惟常一味で、国司側には何ら危害を加えないことを明確に意思表示していたと思う。また、国司側も
騒動に巻き込まれたくないため、惟常を基衡に差し出すような動きをしていたかもしれない。それが惟常に危機感を与え、逃亡
を促す結果になったことも考えられる。
・国館に出仕していたタイミングだから伴の者は少人数であり応戦の準備は全くしていないはずで、惟常側は全く反撃できず、
また、長期間の包囲にも堪えられるはずもないので、包囲開始から逃亡までは、そんなに日数は経過していないと思われる。
※在庁官人だからといって、惟常が出羽国府周辺に居住していたとは限らない。
<更につづきます>
- 881 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:15:17
- <つづき>
・逃亡者に子息も含まれているが、大治3年に死去した清衡が73歳とあるので、長男惟常は40代後半から50代であろう。
すると、その子息には20代から30代と想定される者がいてもおかしくないので、共に国の館に出仕していても不思議では
ない。
・惟常は包囲網を突破したあと、人首川(※)、北上川と下って、海上に出たとあるが、その場合、平泉の目の前を通過すること
になる。こんな無謀な逃走経路を採用するのか。
※この辺りの人首川は浅瀬もある渓流で、断崖絶壁の渓谷なので、しばらくは陸路を逃げて北上川から小船で下ったか。
・江刺から北上川河口までは直線距離で60キロはあり、一関を抜けたあと、東に蛇行、更に相模土手の辺りで南下せずに西に蛇
行して迫川に合流する流路になっていたようなので、更に距離は伸びる。蛇行していたから浅瀬に乗り上げないよう操船する必
要があり、高速で下り続けるのは難しいだろうし、基衡は騎馬で追いかけただろうから、途中で追いつけそうな距離である。更
に、件のサイトでは、基衡は平泉から軍勢を発したと想定しているようなので、追いつくのには更に有利になる。果たして追波
湾、あるいは石巻湾(※)まで出られたのか疑問。また、平泉から別働隊を出して船で追跡させることもしたのではないか。
※北上川下流域は江戸時代に河川改修が何回か行われていて、現在とは流路が違っている。河口付近では、2つに分流しており、
一方は現北上川に沿って追波湾に注ぎ、他方は旧北上川に沿って石巻湾に注いでいたらしい。
※件のサイトでは、「前年から二子合戦の情報は都に伝わっていたのだから」とあって、大治4年8月21日の記事の指す合戦と
今回の合戦を別物と見ているが、合戦後に上洛して再婚した清衡妻の奏上した内容に関する記事だから、一年くらいのブランク
があっても不思議ではないので、同じ合戦を指していると思われる。
<まだ、つづきます>
- 882 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:17:08
- <つづき>
・出羽国府を山形県酒田市城輪柵跡と推定するならば、近くに荒瀬川、日向川があり、川伝いで海に出られる。
海岸線まで5,6キロ。逃亡に気づいて、基衡軍が包囲を解いて追撃に移ったとした場合、陸路で追いかけるのは不自然で
はない。わざわざ、川船を調達して同じ川を追いかける方が不自然。
更に、距離からして、逃亡が発覚して陸路で追いかけている間に、惟常一行が海に出ていても不思議ではない距離である。
・国府の近くの川なら、物資輸送のために日頃から川船が用意されている可能性も高いので、逃走に川船を使用するのは、難しく
ないと思われる。
・基衡が出羽の国館を包囲していたとしたら、遠く出羽まで出向いているわけだから、本人もその包囲軍とともに出羽にあったの
は当然であり、平泉にいたというのは不自然。「その由を聞いた」場所は、遠征軍の陣中。
・惟常が越後に逃げた動機に越後の城氏との血縁関係を想定しているが、もし、血縁があるなら、越後に近い出羽に居住している
方が江刺より自然な気がするが。当時の風習では、子供は妻の実家が面倒見ることが多いから、妻の実家の屋敷で養育されてい
たと考えるのも不自然ではないし、だとすれば、出羽にいてもおかしくない。母方が出羽の豪族であれば、出羽の在庁官人として
出羽の国の館に出仕していることもおかしくない。清衡が、出羽支配のため、出羽国府周辺に長男を配置したというケース以外に
も、長男の生母の実家が出羽の豪族だから出羽に居住していたという可能性もあるのでは。
・包囲を突破したあと、出羽の私邸に向かわずに船で越後に向かったのは、恐らく、私邸が既に基衡の軍勢の手に落ちていたか、
陸路で私邸に向かうのは基衡軍と遭遇する可能性が高く、より安全な海路で越後の縁者を頼ったからと思われる。もしかしたら、
基衡は国館包囲軍と惟常私邸攻撃軍とに二手に分け、基衡本人は惟常私邸攻撃軍の方にいたかも知れない。
<まだ、つづきます>
- 883 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:19:47
- <つづき>
・長秋記の記述では惟常には官職名がないが、尊卑分脈には清衡は陸奥押領使とあるのに、中右記の死亡記事では単に「陸奥住人」
となっていることでもわかるように、別に在庁官人の官職名が明記されていなくても不思議でない。更に清衡妻は、基衡の字を
「御曹司」と紹介し嫡流であることを否定していないし、基衡の所業を非難している節もないことから、惟常側の人間でない可
能性が高い。むしろ珍宝を献上して基衡が嫡流を相続したことを宣伝しているから、基衡寄りの人間だった可能性もある。だと
したら、尚更、惟常の官職名は口にしないだろう。
・清衡妻が「ふる里の館」という意味で「国の館」と言ったとしたら、それを聞いた周囲の人たちが誤解して国司の館なのか問い
質したのではないか。その結果、通常の意味とは違うとわかった源師時が日記に、そのまま「国館」と書くのか。
長くなりましたが、この辺で終わりにします。
- 884 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:08:34
- 歴史をひもとく楽しさを存分に味わわせてくれるレス、有難うございます。
可能性のつばさが幾重にも広がっていますが、ポイントは「国館」の解釈にあります。このレスの最後で、
>・清衡妻が「ふる里の館」という意味で「国の館」と言ったとしたら、それを聞いた周囲の人たちが誤解
>して国司の館なのか問い質したのではないか。その結果、通常の意味とは違うとわかった源師時が日記
>に、そのまま「国館」と書くのか。
とありましたが、むしろその逆ではないでしょうか。京の都の中枢の貴族たちが国の先端の機関である国府
を、地名をつけずただ「国館」と書くようなことがあるとは思えません。
清衡妻に問い質して出羽国府と確認したのなら、はっきりとそう記したのではないでしょうか。
- 885 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 23:06:36
- どこで読んだか忘れたが、平安も中後期になると各国の国衙(役所の建物)は廃れて、国司たちはそれぞれの館(国の館=知事官邸のようなもの?)で政務を執るようになったと聞いた。
でも記憶が曖昧なので、詳しくは自分で図書館で調べるなり、ググるなりしてくろ。
- 886 :日本@名無史さん:2009/11/15(日) 01:51:35
- 「国館」という語の用例について。
貴族日記では「国館」という語は、調べた範囲では他に用例が見つからなかった。
但し、「守館」という用例なら、小右記や、国府跡(筑後国府など)の遺跡から発掘された墨書土器に見られる。
ただ、今昔物語集では、巻第二十六「陸奥国の府官大夫の介の子の語 第五」に「国の庁に常にありて」とあって
「庁」を「たち」と読ませている。この用例の類推で「国館」と書かれてあっても「国守の館」の意ととるのは可能だろう。
ちなみに「くに」を「ふるさと、故郷」という意味で使う用例で言えば、万葉集の歌(19-4144)にあり、そこで
は「燕来る時になりぬと雁がねは本郷(くに)偲ひつつ雲隠り鳴く」と「本郷」を「くに」と読ませていて、「国」
という字は使用していない。
長秋記の記事で単に「国館」とあってどこの国の館か書かれていない事情はわからないが、もし「国」を
「ふるさと」という意味で使用していたとしても、地名を明記していないという点がひっかかるのは、どちら
も同じだろうと思う。
つまり、「ふる里の館」でどこをふる里と言っているかは清衡妻にしかわからないのだから、それを問い質して
聞いた人たちは、どこどこにあった「国館」とか「どこどこの館」と書くだろうし、普通に考えると、「国館」のような
書き方でなく、「長男の館」という風に書くのでは。
だから、国名がなくても、それが直ちに豊田館を指すという根拠にはならないと思う。
話は変わるが、惟常は国館に出仕していたところを基衡に包囲されたとしたが、これは基衡軍に追われて
国司の館に逃げ込んだところを包囲されたと見た方がいいかもしれない。最初から国司の館を包囲するつ
もりだったという発想は、ちょっと無理があるかも知れない。
「被責籠国館」というのは「責められて国の館に逃げ込んだところを包囲されて閉じこめられた」という解釈。
- 887 :日本@名無史さん:2009/11/15(日) 01:56:17
- >>886の補足
ただ、20人余りと少人数だし、応戦の記述もないから、出仕のために国府周辺に来ていたところを
襲撃されたということで。
- 888 :日本@名無史さん:2009/11/15(日) 16:44:16
- とどのつまり、清衡の妻の言葉から出た「くにの館」で、地名の特定は不可能で、あとは解釈しかないので
すね。
では、基衡は惟常をなぜ攻めたのか。遠い出羽の国府に勤務する官人でおとなしそうな兄を、遠征までして
攻めた理由があるでしょうか? まして勢力を維持したい出羽で悪評をかきたてるような暴行をするとは?
- 889 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 10:29:55
- >>888
> では、基衡は惟常をなぜ攻めたのか。遠い出羽の国府に勤務する官人でおとなしそうな兄を、遠征までして
> 攻めた理由があるでしょうか?
> まして勢力を維持したい出羽で悪評をかきたてるような暴行をするとは?
襲撃した理由は、長秋記の記事にも、それ以外の史料にも書いてないのだから、憶測にしかならないが、現時点では
以下のように考えている。
清衡は、そもそも亘理経清の息子で、清原とは血のつながりはない。それが生母の再婚により、清原一族に入った
いわばよそ者。それが清原の遺領を継承する立場になってしまったのだから、出羽の清原系の豪族達が、どう感じた
か、一部に反発する者があってもおかしくない。出羽においては、清衡の権力基盤に脆弱なものがあったことは推測
が可能である。しかし、清衡がいた頃は、清衡の力で、この対立は抑えられていたが、清衡が没したことで、重しがな
くなった出羽側の勢力が惟常を担いで、分離の動きが一気に表面化したとも考えられる。
一方、基衡は、この動きに対して、先手を打って、惟常を殺害し、惟常一派を解体させ、自身の権力基盤を安定させた。
この騒動は、奥州藤原氏内部の紛争で、中央政府にとっては、一時的な公事の欠怠があるにしても、反逆行為では
ないので、基衡に対してペナルティを課すことはないし、基衡は公事を拒否しているわけではない。一時的に悪評が
たったとしても、その結果、奥羽の在地が安定して、官物納入などがスムーズに行えるようになれば、中央政府は、
この騒動を不問に付すはず。その辺りも見越して、基衡は行動に移していたかも知れない。
また、兄をおとなしいとしているが、そうは決めつけることはできない。今回、合戦の準備をしていないところを襲撃
されたので、一旦、安全なところに身を引いて、捲土重来を期したと考えられるので、これは、臆病だからということ
ではない。そもそも、兄弟間に合戦が起きたのだから、この兄弟間に何らかの利害の対立、しかも深刻な対立が
あったはずで、惟常は、単に基衡に先手を打たれたに過ぎない。惟常はおとなしかったのではなく、下手を打った
だけのこと。
- 890 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 14:56:11
- おとなしそうと言ったのは、兄惟常に戦意が感じられなかったからで、父清衡の遺志を帯して平穏に事態を
終息させようとして、一方的にやられていたように思えたからです。
この前年に伝えられた二子合戦の報と、清衡妻の報じた戦いが同じ事件と考えるのには同意ですが、どちら
の記事も二人の兄弟の争いだけにしか見えず、
>出羽側の勢力が惟常を担いで、分離の動きが一気に表面化した
という史料の片鱗さえ出てこないのは、まことに残念!ですね。
出羽国府を舞台にして、出羽の清原一族が藤原氏に叛旗をひるがえしたというのであれば、まさに大事件で
はありませんか‥‥。そして基衡は軍兵を率いて陸奥から出羽へ遠征したというのですから‥‥。中央政府は
不問に付すとしても、騒動の情報は伝わっていたはずでしょうに。
- 891 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 17:43:26
- > >出羽側の勢力が惟常を担いで、分離の動きが一気に表面化した
> という史料の片鱗さえ出てこないのは、まことに残念!ですね。
挑発してんの?
- 892 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 09:11:06
- 楽しいやりとり、有難うございます。おかげで、深く考えているうち、今朝ハッと思いつくことがあ
りました。この間のQ&Aを含めて、整理してホームページに出したいと思います。ご了承願います。
もしかして大発見!かも‥‥。ちょっと時間がかかるかも‥‥。史料はよく読まないといけませんから。
- 893 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 01:57:29
- >>892
HP作ったらおしえてね!
- 894 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 17:06:37
- ようやく書き込めた。
>>889
>清衡が没したことで、重しがなくなった出羽側の勢力が惟常を担いで、
>分離の動きが一気に表面化したとも考えられる。
これって清原真衡の時に清原氏は内訌したのと同じ現象。
おそらく旧秋田の城介傘下の豪族(旧来の清原氏)が陸奥鎮守府傘下の豪族を従えた真衡を打倒し様とした。
旧清原氏本家や吉彦秀武が新清原本家である真衡を認めなかったんだろう。
真衡が急死?暗殺?で清原領が分割されたのに対し
基衡は積極的かつ電撃的な軍事攻勢で出羽国府に有無を言わせずに事態を解決したことが異なる。
為義は、基衡を討つ為に陸奥国司職を望んだらしいが、幸いにもこの時期は清和源氏は、政治的に元気がない。
陸奥を事実上押領したのは、基衡の代から。
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取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。新着レスの表示
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