【葵】徳川15代を語れ【上様】
- 1 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:58:33
- 初代=徳川家康
二代=徳川秀忠
三代=徳川家光
四代=徳川家綱
五代=徳川綱吉
六代=徳川家宣
七代=徳川家継
八代=徳川吉宗
九代=徳川家重
十代=徳川家治
十一代=徳川家斉
十二代=徳川家慶
十三代=徳川家定
十四代=徳川家茂
十五代=徳川慶喜
- 448 :日本@名無史さん:2009/08/24(月) 14:21:08
- オットセイかも
- 449 :日本@名無史さん:2009/08/24(月) 17:33:38
- 西洋では庶子はその家の子に数えないから
父系で血が繋がっていても別家になる
- 450 :平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/09/01(火) 01:45:24
- >>443
オレ的には家宣公を推したい。
- 451 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 02:14:10
- 家康以外考えられないって
徳川将軍家ナンバー1
- 452 :日本@名無史さん:2009/09/25(金) 23:50:46
- 実は秀忠
- 453 :日本@名無史さん:2009/09/26(土) 14:30:51
- 慶喜はもっと評価されるべき
大阪城とか天狗党討伐がインパクトでか過ぎなだけで、他にも色々やってるんだ
評価してもいいと思うんだが
- 454 :日本@名無史さん:2009/09/27(日) 06:09:36
- 二枚舌のヘタレやん
- 455 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 23:41:05
- 大政奉還後も徳川が実権を握るなんて、建前や名目論の恐ろしさを知らない子供の発想だぉ
- 456 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 01:57:13
- どっかの本では薩摩藩城代家老の小松帯刀が大政奉還に賛意を示して
摂政に受理するよう働きかけてまでくれたから
大政奉還で薩摩も矛を収めたと慶喜が考えて緊張を解いたと書いてあった
- 457 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 13:24:51
- 幕藩体制は鎖国を前提に成り立っているから開国した段階でアウト→幕府沈没
- 458 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 14:08:06
- 小泉純一郎は例えるなら綱吉。
指示されない法令でも強引に制定(生類憐みの令)郵政民営化・医療福祉政策など。
お気に入りの者を重用(側用人に柳沢吉保)建部勉・小泉チルドレンなど。
己の意の侭にならない者を罷免(堀田・酒井など例え譜代で重職に在っても)田中真紀子・亀井静香・郵政民営化反対議員など。
社会的弱者は切り捨て(荻原重秀?の経済政策)規制緩和・竹中平蔵など。
安倍と福田は家治。
殆どを家臣任せ(何を進言しても「そうせい」としか言わないので「そうせい様」のあだ名)
麻生は家重・家斉・家定
遊ぶ事に関しては長けている。(家斉の豪勢な生活)
感情剥き出しで幼稚、人心を掌握する魅力が無い。(知恵遅れの家定は三十路過ぎてもガチョウを追い掛け回して遊ぶ)
- 459 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 17:40:14
- >>455
幕末は建前が現実になってしまった恐ろしい特殊な時代だと思うけどな。
- 460 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 17:50:18
- 支持されないというが小泉人気は今でも高いよ
切り捨てというが民主党のようなバラマキのほうがおかしいだろ
- 461 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 19:34:10
- >>459
幕末が特殊な時代だとは思わない
馬鹿馬鹿しいけど権力闘争は建前論や名目論が結構重要なの
- 462 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 19:45:36
- 家定が痴呆だとか知恵遅れとかいう俗説がまだまかりとおってるのか。
家定に仕えていた近臣の証言とか、ハリスが好印象を書き残していることから、
政治的には無能でも、一個人としては普通の知能と人格の持ち主だろうに。
- 463 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 19:50:27
- 司馬遼あたりが面白おかしく脚色して小説に書いたせいもあるけど、
一橋派サイドの風聞で必要以上に貶められてる気がする。
明治になってから、旧近臣の朝比奈某が旧事諮問録のインタビューで答えたように、
ごく普通の人だったのに、ことさら愚者扱いされてるのは不憫すぎる。
いわゆる名君賢君と比較したら格段に劣るにせよ、一個人としては平凡な普通人だったのに。
- 464 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 20:13:50
- 庭で鴨を追っかけたとかの話も、どっかの新聞の連載小説で始めて出た話らしいじゃん?
家定可哀相に。
- 465 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 20:19:10
- >>431
中村梅雀が17歳くらいの役だもんな
- 466 :日本@名無史さん:2009/09/30(水) 17:27:50
- >>461
それはわかるんだけどね。
江戸時代後期から国学者や公家が細々と唱えていた空虚な名目が、
幕末になると、雄藩や志士たちの手で現実になっていく様は恐ろしいものがあるよ。
しかも、大政委任論のもとをたどれば、徳川綱吉の文治主義に行き着いてしまう。
徳川家が実力で手に入れた天下。それを権威づけるために綱吉は朝廷に頼った。というか、頼らざるを得なかった。
以降、尊王論、大政委任論の理論が着々と積み上げられる。
- 467 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 00:17:04
- 元和の大殉教、天草の乱でググったが
凄まじいな・・
拷問や虐殺の詳細を知ったが。。
20万人は殺ってるし・・
今でも原城跡地には沢山の遺骨が埋まってるからな・・
- 468 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:23:36
- 政治的には何もやってない、というか側近政治と放漫財政の元凶だからなあ。
でも、一個人としてはナイスガイだったみたいよ。
- 469 :平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/10/24(土) 17:13:15
- >>458
小泉が綱吉タイプだとはオレも思ってた。犬面だし(笑)
ただ「そうせい様」は家慶です。念のため。
- 470 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 21:40:16
- そうせい様は家綱だろ。だから酒井が下馬将軍になったんだろ。
- 471 :日本@名無史さん:2009/10/25(日) 09:16:14
- 早世さまは家継ぐだろ。
- 472 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 07:37:23
- 三河の将軍家菩提寺の大樹寺にある歴代将軍の位牌の丈は死亡時の身長を写している。大体百五十センチ前後。一人だけ成人で異常寸法は綱吉の百二十センチ前後。何これ?
- 473 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 07:41:08
- またそのネタか。
そんな田舎の寺の位牌になんの根拠もないだろ。
そんなに気になるなら、寛永寺の綱吉廟の発掘調査でも気長に待てや。
- 474 :日本@名無史さん:2009/10/27(火) 07:29:26
- 松平清武の存在は気になる。秀忠、家光唯一の男系子孫が将軍家を継げなかった。まあ清武の嫡子が早死にしてるから結果は同じだったかもしれんがな。
- 475 :日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:00:15
- 清武の処遇を考えると、
家宣ってよく言われるような名君でも人格者でもなんでもないよな。
冷たい兄貴だ。
- 476 :日本@名無史さん:2009/10/29(木) 18:28:02
- 家宣は将軍になった時二人男子がいたから清武が疎ましかったんじゃないか?あと家継の不例の場合は尾張と言っていたから基本的に清武を嫌ってと思うよ。
- 477 :日本@名無史さん:2009/11/02(月) 23:03:10
- >>475
身内優遇が「名君」か?
むしろ、名君と呼ばれる君主は身内に厳しいと思うが。
それはともかく、家宣は生まれながらの将軍ではないので
御三家や幕閣に気を使うだろうし将軍就任早々、弟の優遇
なんてできないだろ。
吉宗でさえも、将軍就任してしばらくは、綱吉時代からの老中
らには気を使っていたし、天英院や月光院などにも気を使っていた。
長福丸を世子にできたのは、将軍就任から数年後。
家斉も、自分の親父を大御所にできなかった。
家宣が後5年以上生きていたら、清武をそれなりに処遇できたであろう。
家宣は遺命で清武の加増を命じていたので、気を掛けていた。
- 478 :日本@名無史さん:2009/11/05(木) 18:38:03
- では家宣は継嗣問題をどう思っていたんだろう。家継は幼年病弱だし。家宣自身が兄弟相続の流れだから清武を有力候補に考えて当然なのだが。
- 479 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 07:47:28
- 家宣と清武は同腹の兄弟。
- 480 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 07:56:09
- >>478
ヒント 年齢
家柄や人物も問題だったらしいがね。
- 481 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 08:14:52
- 同じ理由で綱條も。
継友や吉宗じゃなくて八三郎や長福丸を八代にしようとしたくらいだからね。
吉通が生きていれば家柄も血統も問題なかったのになあ。
でも吉宗で結果的によかったんだけどね。
- 482 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 09:28:44
- では遡って家康晩年の子供三人に将軍の継承権を与えて上の秀康以下の兄達に徳川の姓さえ名乗らせず粗略にしたのは何故?中には秀忠と同腹の弟もいるが。
- 483 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 11:41:39
- >>482
秀康は最終的に結城家へ 忠吉は東条松平家へ 信吉は武田家の名跡を 忠輝は長沢松平家へ
それぞれ養子にいっているからでしょうね
一度他家へでてしまうと実家の継承は難しいでしょうね 秀忠の継承はきまっていたし
末の三人は他家へは行ってないからね
- 484 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 12:36:32
- >>483
しかも、忠吉と信吉は早くに死んでしまったからね。
- 485 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 12:46:18
- >>482
それはそれぞれの時期の徳川家の実力による。
上の人が言っている通りそれぞれ養子に出されたのだが
秀康は臣従の証として羽柴へ出され、秀吉の以降で結城に行った。
家康、秀忠と折り合いが悪く終生警戒された。
忠吉(東条松平)、忠輝(長沢松平)、信吉(武田)はそれぞれの家をつぐ事でその家臣団を吸収するのが目的。
忠輝は秀忠に改易されたが、他の二人は長生きしていれば恐らく子供の代に徳川に復したと思われる。
というのは義直、頼宣はそれぞれ兄の家臣団を引き継いでいるからだ。
武家諸法度により二人は無嗣断絶となったが、実質は義直頼宣が継いでいるんだね。
下の息子三人はいずれも家康が天下人になってから生まれたので他家に出されることはなかった。
とまあそれぞれの背景があるんですよ。
- 486 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 12:49:12
- 付け加えれば忠吉はかなり優遇されているし秀康もそれなりに優遇されているよ。
- 487 :日本@名無史さん:2009/11/06(金) 18:51:27
- 家康が御三家を定めた訳じゃないし、将軍継嗣を限定した訳でもないです。
既に指摘のように
家康の子供で晩年まで残ったので結果的に徳川を名乗れたに過ぎません。
秀忠の時代は尾紀駿+水戸
家綱では尾紀+水に御両典とありました。
駿河は尾紀と同等でしたから、この時代尾紀水をセットでとらえる事はほとんどありません。
御両典は尾紀水より官位が一段低い。この頃から御三家という表現があらわれはじめます。
越前は秀忠から警戒され、またお家騒動もありまして一時没落してます。
ところで最近の研究では駿河、甲府、館林の名乗りは徳川ではなく松平であったという説もあります。
江戸時代を通じて尾紀水が残ったため三家三卿が将軍継嗣候補という意識になりましたが、
それは吉宗以降の話ですし御三卿も、特に初期には存続が危ぶまれた事が何度かありました。
- 488 :日本@名無史さん:2009/11/07(土) 20:06:41
- 家綱没後に継承順位、継承者が明確に決まってなかったようだが。酒井大老は有栖川宮の擁立を言いだすし光圀が儒教の論理を持ち出して綱吉に落ち着くのだが、この有様だったら御三家にもチャンスがあったように思える。
- 489 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 10:14:44
- >>488
一説には酒井が有栖川宮をおしたのは家綱の側室の一人が懐妊していたため
生まれてきたその子が男子なら成長の暁には宮には京都に戻ってもらおうという事情があったという。
件の女性は流産したが。
また御当代記には綱吉でなく
徳松(綱吉長男)、甲府綱豊(後の家宣)、尾張綱誠(母は家光娘千代姫)そして松平義行(綱誠同母弟)も候補に出ている。
いずれも家綱、綱吉より一つ世代が下で
先述されている八三郎や長福丸擁立と同じ意識だね。
- 490 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 11:30:33
- 吉宗の場合、最終的には「世代が上」という理由で将軍になったという
話だね。「尾張殿より権現様に近い」ということで。
世代論も、所詮は後付の理屈ということでしょう。
- 491 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 12:10:05
- 吉通が生きていたら間違いなく彼に決まっていたでしょうからね。
吉通は尾張の嫡流であり千代姫の孫でもある。
この千代姫は将軍家の姫であることに非常にプライドを持っていて
「自分は女だから弟(家綱)に将軍をやらせている」
みたいな発言もあります。息子綱誠に側室をどんどん奨めたのも彼女で、自分の血統を少しでも多く残したかったのでしょう。
- 492 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 12:54:30
- だいたい病弱で嫡子もいない家綱が臨終の床まで後継者を決めていないのが不思議?妊娠中の側室が男子を産む保証もないのに。堀田に託した綱吉を指名する書き付けも偽作だろうし。とにかく家綱の継嗣問題はおかしい。
- 493 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 19:26:44
- 家綱までの約80年間は嫡子相続でずっときていたので、ぎりぎりまで望みをたくしたというのが一般の解釈ですね。
養君継承は何せ初めてのことですから。
家光家綱のようにセレモニーの将軍でいきたい、
傍流から来るとなれば当然家臣達もともにくる。それをなるべく避けたかったのではないか。
以上は幕閣の立場から。
家綱個人は謎が多いです。在位30年もありながら実紀の中でも逸話が殆どなく、個性が感じられない。
似たような立場の家治と比べても没個性的。
老中達を見て誰を指定しても無駄と悟ったのか、或は後継者を指定してたが握り潰されたか。
これが小説なら、後継者を決めずに死んだのは家綱の精一杯の自己表現(ニヒリズム)となるんでしょうが、
これも義持(家綱よりはるかに個性的だが)に同じようなネタが描かれてるしね。
そういえば大河の家定もそうか。
- 494 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 08:37:28
- 明暦大火(所謂振袖火事)で退避勧告を跳ね退けて江戸城内に留まったことから武家の棟梁、大将
軍の自覚、プライドを強く持っていたと思われる。
太平の世の将軍として変に個性を出すことなく君臨し続けた。ある面弟綱吉より上だな。
- 495 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 18:20:02
- 家綱については幼少より深謀遠慮の人格者としての逸話も多いが「さょうせい様」と揶揄され政治的実務を放棄していたと言う話もある。とにかく後嗣を明確にしなかったのが不思議だ。
- 496 :日本@名無史さん:2009/11/11(水) 07:05:54
- (´・ω・`)ねぇねぇ俺のひぃおばあちゃんね明治40年うまれなんだ
どういうことかわかる?
そう、それは15代将軍けいきが生きてたときに
俺のひぃおばあちゃんは生きていたってことさ!!!
- 497 :日本@名無史さん:2009/11/11(水) 07:25:42
- 慶喜が将軍になったのは失敗だった。吉宗系と全く関係なく正当性に欠け幕臣の支持もなかった。そして後世の批判を恐れて敵前逃亡した。
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