軍人としての徳川家康について
- 1 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:09:00
- 倍以上いる羽柴軍相手に善戦したり姉川の戦い等で武功を立てる一方
関ヶ原で一枚岩とは言えない西軍に苦戦したり大阪の陣で殺されそうになる等
評価が分かれる家康の軍事手腕について語ろう
- 2 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:30:57
- 逃げ足の速さを見るに、一級の才能を有する
- 3 :平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/22(月) 11:33:47
- いいスレが立ち上がったな。
- 4 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 13:47:35
- 関が原の苦戦は仕方あるまい。
徳川の精鋭部隊を率いていた秀忠が、遅参したんだから。
それよりも、相手側に対する事前工作を評価すべきだ。
家康の場合、ほとんど生涯を通じて不十分な兵力で戦い抜いたといえる。
圧倒的な戦力を持って闘うことが出来たのは、晩年のこと。
軍事手腕に関しては、やはり超一流であった。
- 5 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 13:50:36
- 大阪の陣で殺されそうになったというのはフィクション。
多少の混乱があり、軍旗が倒れただけのこと。
その軍旗も大久保彦左衛門がすぐに立て直している。
- 6 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 13:59:23
- 結局負けたのは三方が原だけだものな。
(本人がいないところでは、真田にもボロ負けしてるがww)
関ヶ原はすごいよ。
秀吉が死んでわずか2年かそこいらの間に、公然と反旗を翻して
あれだけ有利に事を進めるのは並大抵じゃない。
戦上手の秀吉相手に、寡兵で刃向って撃破しまくることができた人間も家康だけ。
結論として、確かに
> 軍事手腕に関しては、やはり超一流であった。
という他にない。
- 7 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 17:56:59
- 徳川家康の主な戦績。
1558年 寺部城攻略 〇
1560年 丸根砦攻略 〇
1563年 三河一向一揆制圧 〇
1564年 吉田城攻略 〇
1569年 掛川城攻略 〇
1570年 金ヶ崎城攻め ×
1570年 姉川の合戦 〇
1572年 三方ヶ原の合戦 ×
1575年 長篠の合戦 〇
1580年 高天神城攻略 〇
1584年 小牧・長久手の合戦 ×
1590年 小田原の陣 〇
1600年 関ヶ原の合戦 〇
1614年 大坂冬の陣 〇
1615年 大坂夏の陣 〇
…主だった所の戦績を挙げると、取りあえず、12勝3敗っていうところですか…。
(もっとも、小競り合いやら小規模な戦闘等も入れると、
ホントはもっと戦っているんでしょうが…。)
- 8 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:04:31
- 普通に強いよ 徳川次郎三郎家康のその器
上杉謙信に匹敵す
- 9 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:10:42
- 小牧長久手の合戦も、家康勝利と言えなくはない。
岡崎中入りの秀吉軍を撃破し、池田勢を壊滅させている。
ただ、戦闘自体は勝っているが、秀吉の政治力にしてやられた感はある。
- 10 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:23:22
- >>8
小牧長久手は勝ちか、せいぜい引き分けでしょう?
- 11 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:05:44
- 小牧長久手は勝利なのかな?
負けじゃないけど、奇襲部隊を蹴散らせただけで、秀吉本体は無傷。
せいぜい引き分けじゃないですかねー。
- 12 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:10:37
- >>7
恵まれた環境での合戦が目立つね。
姉川の活躍は怪しいし。
家康の凄いところはどの合戦もかならず自分の成長につなげていて無駄がないことかな。
三方原だけは信玄が死ななければそのまま三河を併呑された危険があるけどね。
- 13 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:16:46
- 戦に勝利を収めても、容易に得難い程の名声を、
家康の場合は、武田信玄との戦いに敗れながら、
「海道一の弓取り」の名声を獲得したのだから、
ある意味、戦に勝利したのと殆ど同じくらいの評価を高めたと言えるのではないかと…。
その意味では、家康は大変?幸運だったな。
- 14 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:25:18
- >>12 確かに、姉川の合戦・長篠の合戦・小田原の陣等は、
織田信長や豊臣秀吉が主体だった戦いだったからなぁ…。
その点、家康が主体の戦いとなると、
三方ヶ原の合戦や小牧・長久手の合戦等、敗北者の立場に立たされる場合が多い。
- 15 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:15:50
- 三方ヶ原の合戦クラスで敗北を喫すれば、
たいていの戦国大名は、滅亡への道を歩む運命が待ち受けているが、
家康はよく持ちこたえて、見事に勢力を回復させたものだ…。
- 16 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:27:45
- 徳川家康は、石川数正の出奔後に、武田家の軍法等を積極的に採用して、徳川家の全面的な軍制改革を行っているが、
数正出奔以前の徳川家の軍法と、
数正出奔後に採用した武田家の軍法には、どんな違いがあったのでしょうか?
- 17 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:56:30
- >>16
大番の導入(中身は別物)
先手二手制
なんかかな
後は細かな信号とか
そしてそれが明文化され、理解しやすいものであったかと思われ
急速に領土拡張した徳川家としては整備された軍法は重要でしょうし
- 18 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 21:53:30
- 自軍よりも兵力に優る敵の前に立った家康は、
実に頼りないな…(T-T)。
三方ヶ原の合戦では、武田信玄に大敗し、
小牧・長久手の合戦では、数に優る秀吉陣営を撃破する戦略(戦闘ではありません…。)を一つも持たなかった…。
味方の劣勢を跳ね返す戦略を案出出来なかった家康は、
まあ、平均点の指揮官っていうところかな?。
家康の場合は、軍人としては平凡でも、
政治家としては、相当優れていると言えそう…。
- 19 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:24:19
- >>18
天正壬午の乱は?
- 20 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:53:17
- >>18
家康の場合、そのほとんどが自軍よりも兵力に勝る敵との戦いだった。
そして、そうした苦しい戦いを勝ち抜いてきたしたたかな武将なのだよ。
まずデビュー戦からして壮絶だった。
桶狭間の合戦前夜に敵陣を突破して大高城へ兵糧を運び入れることに成功。
桶狭間の合戦翌日未明に今川方総崩れの情報を得たものの、そのときは既に敵軍の中に取残された孤軍であった。
普通ならこのような小部隊は摩滅四散してしまうものだが、よく兵をまとめて岡崎まで無事撤退した。
その後も一向一揆との戦い、今川との戦い、武田との戦い・・・・少ない兵力でよく勝ち抜いたのだよ。
頼りないなど認識不足である。
- 21 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:58:02
- >>11
小牧長久手の戦いはその兵力差を考慮すれば負けなかっただけでも評価すべき。
ましてや少なからぬ敵部隊を壊滅させているから、少なくとも負け戦ではない。
- 22 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 23:07:57
- >>18
あんた何言ってんの?w
- 23 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 09:29:18
- 家康は、城攻めが下手だったという評価があるが、
自分個人的な感想では、
秀吉ほど天才的では無いにしろ、
城攻めに関しても結構、戦果を挙げているように思うが、
やはり、家康が直接指揮していないとはいえ、
真田攻めの失敗が、城攻めが下手という風な評価をされているのかな?
- 24 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 09:57:06
- 武田信玄や上杉謙信と比べると見劣りはするけれど、
彼等みたいに好戦的じゃないから仕方ないよな。
- 25 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 10:12:17
- 徳川家康ほど、敗北を糧に成長し続けて
最終的に天下人になったパターンも珍しいな。
中国の漢王朝の創始者である、劉邦と重なって見える。
- 26 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 11:45:06
- >>7 他の有力な戦国大名の戦績は、どれくらいの勝敗だったのですか?
- 27 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 12:54:13
- >>25
敗北なんてそんなにしてないけど
- 28 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:01:35
- >>23
家康が城攻めが下手というのは、何か根拠があるのであろうか?
伝統的に三河武士というのは野戦を行う。
たとえ相手が圧倒的兵力であっても、篭城することなしに野戦を行うのがスタンダード。
たとえば、家康の祖父清康が急死(森山崩れ)した後、織田軍の侵攻を受けたが、わずか500の兵で城から打って出て野戦を行い、3000の織田軍を撃退している。
三方ヶ原の合戦もこの伝統にそったものである。
よって、篭城戦を好まないというなら間違いではないといえる。
しかしながら城攻めがとり立てて言うほど下手だったという事例は無いはず。
秀吉については戦術家としてはさほどの才は無い。
彼が最も得意とした戦術は、大軍勢で敵の城を取り囲み兵糧攻めにするというもの。
秀吉の才能は戦術ではなく、敵の何倍もの兵力を調達できた点にある。
- 29 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:09:47
- >>28
まぁ、戦の才能って基本的にソレだよね<敵の何倍もの兵力を調達・集中
信長もそうだね
- 30 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 07:34:31
- >>29
戦略的な観点からはそう言える。
しかしながら通常「戦の才能」と言う場合、戦術面を指すことも多い。
人気の高い源義経などは戦術家としては評価できるが戦略眼は欠落していたな。
戦略は勝利を得るための条件作りではあるが、最後の勝敗を決するのは戦術であることも忘れてはならぬであろう。
- 31 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 08:31:26
- 家康の場合、戦略的な冒険を避けて
戦術的な冒険を良くする
- 32 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 09:14:04
- しかし関ヶ原の戦いでは、普通に考えれば
勝てる筈の無い戦いを、
家康はよく勝ち切れたもんだ。
…豊臣家の象徴である金の千成瓢箪の馬印が
関ヶ原に出現するだけで東軍陣営が動揺し、崩壊するのは火を見るよりも明らかだったからな…。
- 33 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 09:51:07
- そこは事前に三成の書状を入手したりで、輝元が来ないのに
秀頼が来るはずないという認識ができてましたから
- 34 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 18:03:44
- 徳川家康という人は、
ホントに学習能力が高い人だったね。
三方ヶ原の合戦の敗北を教訓にして、
後の長篠の合戦・関ヶ原の合戦に生かし、
また、小牧の陣での(政略的)敗北を教訓にして、
後の関ヶ原の合戦に生かして
同じ失敗を二度と繰り返していない。
- 35 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 20:56:28
- 徳川家康という人は、
恩も仇もずっと忘れずにいて、必ず報いた人でもある。
真田攻めで徳川軍が苦戦したのも、実はそのせいではないか?と俺は思っている。
真田攻めの主将は大久保忠世で、軍監はその弟の大久保忠員。
ここまでは良いのだが、それに附けられたのがなんと平岩親吉と鳥居元忠。
この二人は大久保忠世を憎んでいた。
憎んだ原因は、彼ら二人が岡崎信康の傅役だったから。
信長が信康の処断を命じたときの使者が酒井忠次と大久保忠世。
このとき酒井と大久保は助命のとりなしをしなかった。
平岩と鳥居はそれを恨んでいたというわけ。
もちろん、家康自身も酒井・大久保には悪感情を持ったはず。
で、家康は大久保に多少意地悪をする意図でこの人事を行ったのではないか?というのが俺の考え。
案の定、大久保は平岩・鳥居に足を引っ張られ大苦戦。
ただ、家康は真田の実力を過小評価していた気配がある。
酒井は、譜代の家臣随一の貢献をしたにもかかわらず、最終的にはわずか2万石程度(うろ覚え)しか貰えなかった。
大久保にいたっては、息子の忠隣の代に謀反の濡れ衣を着せて改易。
- 36 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:43:41
- 烏帽子にかちんの鎧直垂で苦悶の姿のあのような肖像画は家康のしか知らない
- 37 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:00:19
- 武田に負けた時の肖像画のこと?
- 38 :平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/30(火) 11:45:56
- >>35
酒井家は庄内(鶴岡)と姫路の二家あって
両方とも十八万石ぐらいじゃなかったか?
四大老家(井伊・酒井・土井・堀田)の一つでもあるし。
- 39 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 13:18:24
- >>1
軍人というな。武人と言え。
- 40 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 19:38:43
- >>38
そのとおり。
だが家康が関東へ移封されたとき、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らが揃って10万石ほどの処遇を受けたにもかかわらず、酒井忠次はわずか3万石くらいしかもらえなかった。
庄内、姫路については家康没後に忠次の子孫らが処遇されたもの。
大久保についても家康が死んだ後に名誉回復がなされた。
酒井、大久保は古くからの宿老の家柄であり、松平家のために尽くしてきて多くの戦功を上げた実績がある。
対して、井伊などはだいぶ後になってから帰属した家臣である。
本田正信に至っては、三河一向一揆の時には家康を裏切った過去がある。
それらの連中への扱いと比べると、この両家への処遇は異様に低い。
- 41 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:39:18
- >>40
だってその三人は秀吉の命で10万石だもん
それ以外は酒井・大久保・鳥居・大須賀等一律3万石
後、本多正信は一貫して1万石だよ
- 42 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:25:35
- 本田正信、一説によれば1万石ともいわれるが2万石というのが多数意見。
石高は低くとも、与えられた権勢は尋常ではなかった。
息子は16万石も貰ったしな。
- 43 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:50:33
- 家来の石高をかなり押さえた家康は本当に経験に学んだ賢者だと思う
- 44 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 22:57:30
- >>42
二万石は関ヶ原以降かと
- 45 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:14:05
- だ〜か〜ら〜ぁ
石高は低くとも、与えられた権勢は尋常ではなかったってこと。
- 46 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 09:37:56
- >>45
知行と権勢の分離が家康流
- 47 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 08:08:04
- >>46
ほお?家康流?
家康自身は、それに当てはまらんようだが?
- 48 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 10:40:32
- >>47
自分のような簒奪者が出ないように配慮したって事でしょ。
- 49 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 17:02:58
- 生涯戦場を往来して、大敗は一度ぐらい。
大阪の陣だって、結局事前の戦略的優勢がものをいって勝ってるし。
十分優秀だよ。
- 50 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 18:45:33
- 結果として、徳川家康が天下平定し、その後2世紀半にもわたる長期政権を樹立したわけだからな。
家康が最高だべ。
- 51 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 02:47:40
- 秀吉はいい軍師がいたので
戦いは強かったが、政治ビジョンはないな。まあ無学の百姓だから仕方ないが。
朝鮮出兵も信長の構想を真似したらしいしな。
- 52 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 15:09:30
-
- 53 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:54:48
- 徳川家康は、(政略・戦略・戦術での)隙間探しの名人と言われていたそうな。
- 54 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 07:42:35
- 家康が優れていた点は、隙間探しなどという姑息なものじゃあなかった。
極論すれば「人格」だろうな。
そうでなければ、あれだけ多くの戦国諸将の支持を得ることはできまい。
徳川家臣団の忠誠については言うまでもない。
- 55 :日本@名無史さん:2009/05/28(木) 21:47:13
- 家康って真田幸村に殺られそうになって糞尿たらして失心した人ですね
わかります
- 56 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 15:10:06
- >>55
それは史実には無い創作。
- 57 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:24:45
- 家康の戦の仕方って小牧戦以降変わってないか?
無論、大軍を指揮するようになったってのもあるが、なんと言うかそれまでは
とりあえず戦場にもちこんじゃえ、みたいなやり方で戦場で全てを決する、という。
戦術重視というか戦略面、特に多数派工作なんかを軽視してた感がある。
三河一向一揆なんてそんなもん完全無視で力攻めだし、三方が原だってもう少し
北条への働きかけや、駿河国人衆への工作もあって良かったんじゃ?
それだけ戦場での駆け引きに絶対の自信があったんだろう。
信玄に私淑したのも、その部分で自分より上と認めたからじゃないかな。
で小牧戦で戦場での駆け引きでいつものごとく完勝したのに、果実は全部
向こうに持っていかれるという初めての経験をする。
戦略と言うものの重要性をここで思い知らされ、以後必勝の体勢を作る
政治工作に重点を置いた、と。
個人的には前半の家康のほうが好きだけど。確かに謙信に重なるw
妖怪じじいと化した家康に凄みは感じるが、ロマンが感じられないw
- 58 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:12:04
- 関ヶ原では包囲される危険性がある中、あえて前線から数百メートルの位置まで本陣を前進させているし、
大坂夏の陣でも中央の自身前方の備えは左右に比べて薄い
指揮官としての意地は最後まである
- 59 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:07:41
- それが安祥松平からの伝統なのだよ。
三河武士の意地でもある。
- 60 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:55:01
- 単に一家総出で気が短いだけと言う気もしないでもないw
- 61 :日本@名無史さん:2009/05/30(土) 06:19:54
- >>60
そんな簡単な話ではない。
基本的に篭城戦はしない。
敵の数分の一の兵力しかなくとも、城から打って出て野戦で決着をつけるのが安祥松平の伝統。
北条早雲率いる今川の大軍を野戦で撃退、織田信秀の三千を五百で撃退などなど、数々の実績がある。
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