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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 39

1 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:26:39
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九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

■前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 38
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1231600661/l50

2 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:07:43
>>1

で、結局、いくら神話の中に邪馬台国だの卑弥呼だのを見るのがナンセンスか説いても東遷説論者は
 「じゃあなんで大和朝廷が始祖神話に東征なんて事を書いているんだ!」
と言うだろうから一応の仮説を書いておくw

なんで東征神話なんてものを書いたのか?
 →東征神話の原型ができた当時のヤマト王権の(西日本での)勢力範囲、その版図に合わせて神武の東征コースを表した。

勢力範囲を示すなら始祖神話ではなく征服譚 のような物にすればええやんけ!
 →当時はまだ連合体であり露骨な征服劇にはできなかったw

日向の意味は?
 →九州における一大勢力があったのは間違いない。特に5世紀馬匹文化をいち早く取り入れていることからも分かる。
  (馬は半島での高句麗との戦いの中でいわば国策として日本に取り入れられた)

やっぱ高天原=邪馬台国、卑弥呼=アマテラスなんだね!
→スサノオのDVで馬が出てくる時点でアウト。寝言は寝て言えwwwwwwwwww

3 :2:2009/02/19(木) 22:27:21
>2に追記。

無論下敷きになった史料が無い以上想像の範疇だが…

神武東征神話の原型はもっと各地の始祖との関わりをうたった物だったのではないか?
(現行の記紀でも宇佐国造の先祖とか出てくるが…)

ひょっとしたら数代に渡る話だったのかもとも…

4 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/19(木) 22:32:57
神武東征は神話ではない。それより手前の時代が神話だよ。
だから神武東征には年月日がある。その手前にはこれが無い。
しかし神武以後でも若干神話様の個所はある。

5 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:42:28
畿内と宮崎じゃ発掘調査にかけられる金もまったく違う
本格的な調査もされないまま
ほっておかれる首長級古墳の多さじゃ宮崎は
たぶん全国一だな

俺も前スレ>>978のサイトは主観が入りすぎ筆がすべりすぎだと思うけど
ともあれ
100人の殉死者の墓が
他の候補地の周りに確認できないのなら
生目古墳群の笠置山墳丘墓はじゅうぶん候補地になりうると思うね
生目古墳群に炭素年代測定が入ったという話はまだ聞かないんで
ぜひやってほしい


6 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:44:55
前スレで「はじ」と「はぢ」の区別もつかない恥ずかしい人がいたね。

7 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:54:14
>>6
まさに恥香々背男(はじかかされ男)だったようですね。
しかも、恥をかかせられことは決して忘れなず、恥を欠かされた相手は、
徹底的にたたく。祟る神だったことを覚えておいたほうが良い。


8 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:00:43
>>2
東遷を批判するんだったら、大和の誕生(纏向でも良いが)、をどのように
考えるかも必要だろう。
自生説を主張する人も今はほとんどいないだろうし。

9 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:30:14
>>6東国では、「はじ」と「はぢ」の区別ができたと思っている間抜け。笑った。
茨城弁でも勉強しろ。

http://www.youtube.com/watch?v=PvhpT2ZM_Rs&feature=related


10 :ローガン:2009/02/20(金) 00:34:05
徇葬ってどういう意味でしょうね?徇葬=殉葬か?
仮に100人殉死だとして100基の個人墓を考えないといけないか?また、埴輪が身代りなら墓域内つまり、径百餘歩の墓の一部分を使って殉死者が葬られたか?
色々考えますが中々難しいですね。

11 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:45:42
日本書紀の垂神天皇のところから推定すると、穴を掘って、首だけ出して
埋めたんだろうね。だから、殉葬の痕跡は残らないと思うけど。

12 :ローガン:2009/02/20(金) 00:55:28
>>11

なら、徇葬の痕跡云々は、考察の対象とはしにくい。という事で…

13 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:56:08
垂神天皇のころに形象埴輪はまだない
殉死者の代わりに埴輪を並べたというのは嘘

14 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:57:20
蝦人には薄葬を強制し、
地方の大王には前方後円墳の造営を義務付けた。
大和朝廷は、都から古墳の設計士や工事管理者を送り
その見返りとして貢物を受けた。つまり、ゼネコンの元締めとして
公共工事を仕切ることで地方を管理していたのだ。

15 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:25:57
>>13
形象埴輪があったかどうかは別として、殉葬についてはそのように書かれて
いるわけだから。

16 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:45:41
殉死Wiki--

古代

考古学的に確認できる確実な殉死の例はなく普遍的に行われていたかは不明であるが、
弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品のみられない埋葬施設があり、
殉葬が行われていた可能性が考えられている。また、5世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、
渡来人習俗の影響も考えられている。

中国の歴史書『三国志』の魏志倭人伝に、
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、
邪馬台国の女王卑弥呼が死去し塚を築いた際に100余人の奴婢が殉葬されたという。
また、『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに
土で作った人馬を立てることを提案したという
(埴輪の起源説話であるが考古学的には否定されている)記載がある。

『書記』大化2年(646年)3月22日条によれば、
大化の改新の後に大化薄葬令が規定され前方後円墳の造営が停止され
古墳の小型化が進むが、このときに人馬の殉死殉葬も禁止されている。


17 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:50:00
埴輪Wiki--

変遷

古墳時代前期初頭(3世紀中葉?後葉)には、円筒形または壺形、
少し遅れて器台の上の壺を乗せた形の朝顔形埴輪などの円筒埴輪が見られた。
これら筒形埴輪は、地面に置くだけではなく、脚部を掘った穴に埋めるものへと変化した。
前方後円墳の広がりとともに全国に広がった。

前期前葉(4世紀前葉)には、
これらの埴輪とは別の系統に当たる家形埴輪のほか、
蓋(きぬがさ)形埴輪や盾形埴輪をはじめとする器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が現れた。
初現期の形象埴輪については、どのような構成でどの場所に建てられたか未だ不明な点が多い。
その後、墳頂中央で家型埴輪の周りに盾形・蓋形などの器財埴輪で取り巻き、
さらに円筒埴輪で取り巻くという豪華な配置の定式化が4世紀後半の早い段階で成立する。
そこに用いられた円筒埴輪は胴部の左右に鰭を貼り付け鰭付き円筒埴輪である。

さらに、古墳時代中期中葉(5世紀中ごろ)からは、
巫女などの人物埴輪や馬や犬などの動物埴輪が登場した。

18 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:52:43
結論--

卑弥呼の墳墓周辺で、
副葬品のみられない埋葬施設が作られ、
そこで100人余りが殉死させられた。

19 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 02:17:04
殉死は、江戸時代には普通にあったらしい。
森鴎外の「阿部一族」にそのことが詳しく書かれている。

殉死は名誉なことで、殿様が死んだとき、そばに仕えていながら、殉死が
許されないのは恥とされた。逆に、殉死が許されないのに、切腹すると
犬死とされた。
殉死が許されなかった阿部一族は没落していく。

20 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 02:56:26
まあ徇葬100余人と言うのが証明されりゃ、俺でも九州説に鞍替え
…と言うか論争にほぼピリオド、そこで邪馬台国決定だろうなw

しかし問題の笠置山古墳の土壙墓、サイトの地図を見ただけでは古墳に付随した物か分からないし

もしそれらを古墳に付属する物としたらその前後の時代、集落で死んだ人間の墓は何処だったのか?
また違うエリアにあるのか?…という素朴な疑問も出てくる。

21 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 03:06:27
前スレ…
>983
>北九州と畿内が敵対していたので
>鉄の中継基地-海路ルート確保の為にも南九州と同盟していたんだろ

どうしてもこれが分からんw

海路ルートたって半島の鉄資源運ぶには玄界灘通らねばならんだろ?
瀬戸内ルートにせよ山陰日本海ルートにせよ南九州を中継する必要が何処にあるのかと???

畿内説であろうが南九州説であろうが北九州は避けて通れないと思うんだが…

まあ九州北部といっても福岡平野も筑紫平野も全て一枚岩と考える必要も無いんだろうが…

22 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 03:34:31
>>5
厳密に言うと、その笠置山墳丘墓は生目古墳群では無いね。
場所は近いけれども。だからカネ出ないんだろうね。
宮崎大学に調査頼んだら?

23 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 12:18:08
その生目の地名の由来って「生き埋め」じゃないよね?
妄想スマソ

24 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 13:12:32
東国原知事なら宮崎県が注目を集めそうな事ならすぐにやってくれそうだから
知事に陳情してみてはどうかな?

25 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 15:46:36
たしかに素直に倭人伝を読めば、宮崎近辺が邪馬台国だわな
他の国々との位置関係も狗奴国以外問題ない
遺跡の規模からみても、他の九州説よりは断然説得力はある

が、しかしナゼかパンチがいまいちに感じるのはどうしてなんだろうな?
宮崎ゆえか?w

26 :ローガン:2009/02/20(金) 16:20:06
>>18

> 卑弥呼の墳墓周辺で、 副葬品のみられない埋葬施設が作られ、 そこで100人余りが殉死させられた。
細かい事かもしれませんが、垂仁紀にある埴輪の記事にいくらかの史実性を考えていいなら…
埴輪は墳墓の内にあるので、殉死者は墓域内。 周辺の小墓をさして殉葬とは云いにくいように思います。

27 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 16:43:11
中国の皇帝陵とかはどうだったんだろ?

28 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 16:50:39
>>27
殉葬ではないけど
兵馬俑はこういう感じで
陵墓とはちょっと離れたところにある
http://www.k2.dion.ne.jp/~osafune/heibayou/genba/basyo.htm
http://www.chinaviki.com/china-photos/photohtml/3/2008319187241.html

29 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 18:22:04
>>27
殉馬坑
http://www.china7.jp/data/file/4_4/1986900841_71280c06_68987.jpg

殉葬殉馬坑
http://news.xinhuanet.com/newscenter/2005-05/24/content_2995339.htm

旬葬坑
http://cjmp.cnhan.com/whwb/html/2008-07/19/content_383782.htm

旬葬坑
http://www.ggwhw.com.cn/Html/ggwb/lbw/2005/6-30/03700.html

図までは載ってないから、どういう位置配置の旬葬だったかというのは不明だけれど、
上に載っているものはみんなちゃんとした墓があるようだ。
妾などはすべてそのまま王の隣に埋められたようだし(場合によっては若い女性数十人)、
陵墓の場所がもれないように、工事が終わったら人足がその場で殺されたりして
陵墓の通路のそばにその旬葬坑があるケースもあるし千差万別。

日本も例えば前方後円墳というのは、倭人独自の形態で、
それは倭人のオリジナルだと中国の学者もはっきり言っているので、
葬儀の形態自体もまた中国とは違うだろうし、
倭人の殉葬のサンプルが少なすぎて、はっきりしたことはよくわからない。


30 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 02:00:40
>>9
そんなにぼくを「恥かかせ男」にしたいのかいw
現代の女芸人の映像なんかより、
まづは「じとぢ」でぐぐってみたら?
検索ワードに「東国」とか「茨城弁」とか入れても良いし。

31 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 02:23:35
>>8
>自生説を主張する人も今はほとんどいないだろうし。

と言ってもそれは
「大和に発生した勢力が外部からの影響もほぼ受けず
 純粋培養的に巨大化してヤマト王権となった」
と言うことの否定であって

「(何処かは具体的には分からないが)外から大和に人が流入し
 ヤマト王権を打ち建てた」
と言うことがコンセンサスをえているとは思えない。

文化の急激な変容をもって勢力・王権の交代劇と見なすなんて理屈が通るのなら
「騎馬民族説」はいまだに第一級の仮説として健在だったろうw

ヤマト(纏向)の勃興のプロセスについてはいまだに百家争鳴状態?で
とても定説が出るまでに至ってないが

東遷説の批判とバーターされるような物じゃないだろうにwwwwwwwww




32 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 02:29:12
>>25
>が、しかしナゼかパンチがいまいちに感じるのはどうしてなんだろうな?
>宮崎ゆえか?w
一つには、熊襲=未開人という差別意識。
一つには、天皇の正当性を説いた記紀を信用してはならないという戦後教育。


33 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 02:40:22
前スレのサイト見てから、
鉄の兵器たくさん持って自信まんまんで南九州の田舎から、
神武が奈良に出て行く姿が目に浮かんだわ。
鉄だわ。鉄。

34 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 04:18:28
>>33
まあ鉄を出すのは東遷説論者にとって半ば自爆行為だけどなw

35 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 06:48:54
倭国は日本に併合されることになるものでしょ
倭国≠日本
そして邪馬台国とは倭国の源流なのよ
一方日本の源流はそこにはないのよ


36 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 07:27:48
邪馬台国=大和国=倭国=日本国=日本帝国=EMPIRE OF JAPAN。

37 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 07:40:18
魏は倭国を知っていたが、その先にある日本の存在が不可知で
あった。
だからこそ、新唐の時代になって古の倭国の使いが倭国が
日本を併合したので日本と名乗ることにしたという話に疑問だと
わざわざ書いているのだ。
真実は、そう日本が倭国を併合した。
倭国=日本なら併合する必要がない。
倭国≠日本。



38 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 08:05:48
>>36
邪馬台国(卑弥呼、太伯伝説)=倭の五王を派遣した倭国王朝=タリシヒコ王朝

しかし、日本書紀はこれらについて完全に沈黙して、天孫降臨伝説→推古女帝の
日本王朝が大和にあったと説く。

倭国王朝が唐に敗北→壊滅に備えて大和朝廷を旗揚げさせた?

39 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 08:24:01
魏の言う倭国とは

「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、
山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世ヽ中国と通ず。
其の国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為る。
四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。」

城郭もなく、絶対的に内陸でないことを示している。

邪馬台国は九州説と畿内説に分かれるとされるが、倭国と日本国を
並立させればなんのことはない倭国は九州(北)にあり
日本国は畿内にあるで全く問題ないばかりかすっきりシナの歴史書
とも整合性がとれる。


40 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 08:47:34
>倭国と日本国を並立させれば
宋書は「倭国は高麗の東南大海の中にあり、世々貢職を修む」と書いている。
邪馬台国=倭国だと明言されているわけだ。
その宋書が伝える倭王武の上表文には、「東は毛人を征すること五十五国」と
ある。大和朝廷が存在したとは書いてないな。日本書紀にも九州勢力にやられ
たとは書かれていない。併立と考えるのは無理だろう?

41 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 09:16:30
宋書は魏書(魏志倭人伝)よりもさらに古い書ですよね
唐書ではじめて日本という国号が出てきます。
そして、「倭国」「併合」「日本」が出てきて国号を日本とすると。
このとき、倭国の国号は消えるわけですよ。




42 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 09:28:13
九州島=倭国 邪馬台国は宮崎 近畿、中国=狗奴国 都は畿内
関門海峡を挟んでの一進一退の攻防
離反する国々を恐れて伊都国に一大卒置いて監視
が結局畿内勢力に押されて衰退、人質兼政略結婚で台与畿内へ
一部徹底抗戦派が九州島の一部に残り、後の熊襲と呼ばれる

さて、朝の妄想を終えたところで二度寝でもするか

43 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:38:09
まさに妄想

「倭」という国号が消えたのは
「倭」が立派な語彙ではないと
大和朝廷が漢字文化を学び学習したからだろ
それで日の本「日本」宣言だよ

44 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 11:20:20
>>25
>が、しかしナゼかパンチがいまいちに感じるのはどうしてなんだろうな?
>宮崎ゆえか?w

やっぱり二の矢、三の矢と続ける”厚み”が無いんじゃないかな?
今までの研究の蓄積とか…
きちんとした考古学的発掘調査がされていないと言うか…

注目されない→予算も出にくい→研究進まず新たな進展も無い→注目されない…以下エンドレスwww

まあ今時「邪馬台国」で予算下りないんじゃないの?(素人なんで良く分からないが)
もし邪馬台国に結びつく物が出てこなかったらどうすんの?って話にもなるしw

纏向もそうなんだろうけど邪馬台国に関係なく遺跡の重要さはあるわけで
正攻法でそれを訴えるしかないんじゃねwww


>>32
そう言うことが全く無いとはいわないが、泣き言はせめて北部九州に打ち勝ってからにしようぜ?
今「九州説」つったらそれは事実上「ツクシ説」だろ?www


45 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 11:24:32
日本国者倭国之別種也。
以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。
或云、日本舊小国、併倭国之地。(旧唐書 東夷伝)

1日本国は倭国の別種なり。
2その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
3あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。
4あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。

1と4は決定的な事実を伝えているように見えますけど。
ここに倭と日本の連続性を見ようとするほうが無理があるのでは?
むしろなぜそうなったのか非常に不思議です。


46 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 11:32:23
「通典」や「唐会要」を参考にすれば、むしろ「旧唐書」の記述に問題がありそうなのだよ。

47 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 11:33:44
まあ王朝が変わってないのに国号を変えるなんざあ
中国人の理解の外なんだろうなwww

 (倭国)×(日本)  と言うモデルではなく

 ( 倭国 (日本) ) と言うモデルなら説明にならんかね?

どの道九州王朝説なんざあ文献解釈ゴッコでどう言おうが
肝心の九州にその王朝とやらの実態が無ければどうしようもない、つか、どうでもいいわけだがwwwwwwwwww




48 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 11:50:50
だからさ
「倭国」は単に中国いわく「倭人」の領地ってことで
中国から見れば九州一帯を中心とする地域
その中身は数十以上の小国(邑)の連合
「奴国(今の筑紫)」「伊都国」「狗奴国」「邪馬台国(今の宮崎)」などの集合体
そこのどこが倭の中心地かっていうのは
当時の「中国様」が認定したという権威を持つ「邑」で
「奴国」や「邪馬台国」などに移り変わったんでしょうよ
それは同一地域ではない

倭国の地を併せ統一したのが大和朝廷「ヤマト(マキムク)→日本」
倭国の別種っていうのは
中国には古代の畿内は(九州一帯が中心だから)中国には見えてなかったってこと

49 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 11:54:59
中国の認識では都は伊都国

50 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:06:52
>倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと

中国の書物にかいてあるけど、ただの憶測記事にすぎない。
大昔に死滅した珍説で、いまどきこれを信じるのは相当の無知。
天皇の名前(和風諡号)を調べてごらん。「倭」をにくむなどありえないとすぐにわかる。

51 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:25:07
鞆国 備前備中備後

イ国 壱岐伊都石見出雲因幡 

多婆那国 但馬丹波丹後

52 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:25:16
>>50
文句あるなら当時の中国人に言えよ。
>あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。
と書いてるのは日本の書物じゃねえんだから。

こっちは素直に読んでるだけの話なんだから、
それに文句つける>>50みたいなヤツのほうが素直じゃないだけの話で。

53 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:29:38
>>47
>九州にその王朝とやらの実態が・・・

大宰府があるじゃん。

54 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:35:44
都督府も条坊もあるね
山城もいっぱいあるね
金印も出てるね

55 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:44:03
ひねくれないで普通に考えると
古代の倭国というのは
中央集権国家ではなく
ざっくり書くと小国(邑)の集まりにすぎないので
そこを統べるには「中国様=漢」の権威(金印など)が必要だったけど
(つまり当時の倭連合国は漢の子分ってこと)
大和朝廷が倭国圏を統一し
そのあいだに中国様も漢から隋になった

倭連合国は漢の子分であったけど
隋の子分ではないでしょ
それで大和朝廷は「日出る処の天子」宣言して
おまいらと同格だぞって言ったわけよ
(「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形で倭国だと従順な国ってことになる
-それを嫌って日本ね)

56 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:47:49
〔(倭国)(見えていない世界)〕←宋書・魏書
     ↓
〔(倭国) (日本国)〕←日本は元小国、倭国と別種ナリ。
     ↓
〔(日本国)(日本国)〕←唐書以降

このようにしか見えない




57 :ローガン:2009/02/21(土) 14:55:37
>>52
> こっちは素直に読んでるだけの話なんだから、

横からですが、素直に読むのなら、気に入ったところだけでなく取り敢えず
「日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本為名或曰倭國自惡其名不雅改為日本或云日本舊小國併倭國之地其人入朝者多自矜大不以實對故中国疑焉」
まで、素直に読んでみましょう。

58 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:04:19
倭国=日本。
三国史記の新羅本記に書かれている。

西暦670年 12月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、
日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。

西暦107年朝貢の帥升は「倭国王」。卑弥呼は「倭王」。5世紀の倭の五王も
「倭王」。倭あるいは倭国の範囲は時代と共に広がっているのだろうな。

59 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:14:00
倭国というのは一応幾世紀だかの歴史があるわけですよ
それがある日突然「あ、この国号キライだから日本にする」
とか、ある日突然「わが国は日の出る所に近いから、この国名に改名する」
なんていうのは説明にならないでしょ。
自国民に対しても、他国民に対しても。





60 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:16:36
ただね、「倭」も「日本」も、訓では「やまと」なんですよ。

61 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:23:58
>>59
相手が変わってるっていう事情も考えないと

隋は漢の元子分
倭も漢の元子分
だから倭国が隋に対してへりくだる必要はないわけよ

でこっちも「漢」の威光なんかなくても
誰も反抗しないよってレベルの強国になってるわけで
「隋」同格だな
でいいわけ


62 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:25:16
日本人が当時自国のことをはたして「わこく」と呼んでいたかどうか

63 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:47:55
アイヌ人は、お前は誰だ?と聞かれてアイヌと答えたことからアイヌと呼ばれるようになった。
倭人は、自分のことを「わ」といったことから、倭人と呼ばれた。
自分のことを「わ」と呼ぶ方言は東北地方などに今も残っている。


64 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:54:20
当時の東北は「倭」でも「日本」でもねえしなあ。

東北人は「蝦夷」って表現が気に食わないの??

65 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:58:00
東北人は蝦夷という認識は皆無である
蝦夷は北海道。100人に聞けば100人そう答えます

66 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:05:28
今の東北の住民は、奈良時代や鎌倉時代以降に東国に追われた豪族、
平氏の落人、家康によって追われた鎌倉幕府の御家人、たとえば千葉氏や
三浦氏など、もともと九州や出雲から移り住んだ古代豪族がさらに追われて
東北の山里に移り住んでものも多いようです。

67 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:06:36
倭→日本とするとシナと日本の史実の矛盾が拡大するばかりのように見える。
そもそもシナの正史は倭=日本の記述は一切なく、あるのはその逆だ。
一方『古事記』、『日本書紀』には倭の五王の記述など一切ない。
なぜ倭を日本に無理やり結び付けようとするのか。
それをしているのは日本側だ。
倭は倭、日本は日本。邪馬台国なんていうのは倭の国、卑弥呼はそこの人。
そしてそれは日本のルーツとはダイレクトには関係ない。
それは日本の併合とされる地。よって卑弥呼の墓も残っていないし、巨大な遺跡もない。
ごく自然だが。


68 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:19:47
古くは、倭は、九州あるいはその一部を指していたと思われる。
帥升は、西暦100年頃の人で、すでに倭国王。倭が日本全体を指していたと
すれば、こんな時期に日本全体の王ということになり、おかしなことになる。

卑弥呼時代の倭国も、九州説をとると、当然、九州ということになる。
倭王・卑弥呼の支配する国が30カ国あまりというのも、倭国の範囲が意外に
狭いことをうかがわせる。

5世紀の倭王・武は、230カ国くらいを支配していたとされるが、これも倭王。

なにやら、連続性があり、東遷説を前提にすれば、これも納得できるのでは
ないだろうか。

69 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:36:16
奴←なんで「な」って読むの?ドかヌだろ?

70 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:52:38
>>52
私は>>50じゃないけど、文句は大有りだろうよw
『通典』で「倭一名日本。自云『国有日辺、故以為称』」と断定し、702の遣唐記事や阿倍仲麻呂のことまで載せておいて、
『唐会要(会要)』では倭国と日本国が分かれ、
倭国伝に「自言、『其国近日所出、故号日本国』蓋悪其名不雅而改之」と、「蓋し」文が付き、
それが日本国伝になると「或以倭国自悪其名不雅、改為日本。或云『日本旧小国、呑併倭国之地』」と、
「蓋し」が倭国自ら雅ならざるを悪んで改名したと断定的になり、どこまで確かかも分からない新しい伝聞記事をも追加。
おまけに、『会要』が8世紀末に纏められたせいか、『唐会要』では日本のその後の遣唐(777・839)記事が、
倭国伝の方に載るといったツッコミどころ付き。
そして『旧唐書』になると、「倭国自ら雅ならざるを悪んで改名した」が「曰く」記事にされ、
その『旧唐書』の記述を金科玉条の如く信奉するアマチュア歴史研究家が、今の日本に跋扈するといったありさま。
文句付けなくてどうするよw

71 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:09:32
>>70
「けだし」が付くということは、少なくとも、中国人にとって「倭」というのは
あまり良い文字とは思われないということだろうな。
それが、日本人にもわかってくると、改名したくなるということじゃなかろうか。

72 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:20:43
倭がプレ日本だとどうにも整合性がとれないよ
あまりにもたくさんあるだろうけど、讃・珍・済・興・武の倭の5王
の時代、既に天皇が存在している。
これをどう説明しますか。
それとも天皇の前身が王だと?


73 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:20:48
でも日本人はその後も長いこと「倭」の字は使い続けたよ。
ご承知のように、今の奈良県は奈良時代には「大倭国」だったし、
「大八洲国所知倭根子天皇」なんて、平安以降の宣命にも使われてるし。

74 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 17:24:27
倭の五王は九州小国の王だな。畿内の天皇にあらず。

75 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:25:16
>>72
天皇という言葉が使われ始めたのは、たしか天武天皇からだったと思う。
つまり、7世紀から。
それ以前は、大王(おおきみ)といわれていた。

76 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 18:00:23
シナの正史に書かれている讃・珍・済・興・武の倭の5王は国王のように見える。
大王(おおきみ)がこれに相当する(既に無理があるけど)
と仮定してもそれに該当する日本の大王(おおきみ)が当てはまらない。



77 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 19:47:40
>>76

日本語でおk?

78 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:56:13
おおやしまぐにしらしめすやまとねこのすめらぎのみこと
天皇の読みは、すめらぎのみこと、すめみまのみこと
大王は単に大和政権のトップという意味、「皇(すめ)」は昔から存在する呼称でちょっと意味が違うと思う

79 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:42:06
倭国が日本国になった最大の理由はなんですか?
それが元同じものだろうが、違うものだろうが日本国になった事実は変わらない
わけだけど元同じものならその理由は何?
>>61
それはそれでよいのですが、日本になった理由になる?



80 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 23:23:27
ヤマト王権が ” 緩やかな首長連合 ” からスタートし徐々に中央集権を推し進め
(雄略が吉備を滅ぼし継体が磐井を滅ぼし…etc etc )

で国号もそれに相応しい物にリニューアルw
大王も天皇という称号に変えた…。

無論、中国人には王朝は変わらないのに国号を変えるという主張はワケワカランかっただろうがw

要するに九州説(九州王朝説、東遷説 含む)の連中はヤマト王権の変質と言う物を考慮せず
いきなり強力な中央集権国家像を描くから変な方向に走るわけでwww


81 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 23:27:46
「日本はもと小国、倭の地を併わせたり」が気になる
日の本って東方の事だし、畿内政権が九州を征服したという事だろう
畿内政権が九州出自かもしれんが

82 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 23:30:36
日本の元ネタは東大阪の日下って話があるが
あのへんに「日本発祥の地」とか言う石碑とか記念する物ってないよな?w

ただ、ふつーに東大阪の町って感じでwww

83 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:41:03
倭=自民党 日本=民主党みたいなもんだな。

84 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 01:12:48
>82
日下(くさか)は日の本(大和盆地)の前に立ちはだかる生駒山の登り口だから
坂の下では?

85 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 02:42:05
>>79
それはもちろん
「日が没するところ−中国・隋」に対する
「日出ずるところ-日本・ヤマト」ってことでしょ

なにしろ以前に中国様に朝貢した時から100年も経ってて
むこうの事情もすっかり変わってる

86 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 07:14:03
>>85
倭の女王が266年に洛陽に遣使した記事をもって、以後約150年間
、倭に関する記録は中国の歴史書から姿を消すが、この間に
日本では大和朝廷による国土の統一がすすめられていった。

87 :本田:2009/02/22(日) 07:23:55
>>79
> 倭国が日本国になった最大の理由はなんですか?

唐と新羅に戦争で負けたからだよ。
朝廷の語源は、朝鮮王の宮廷と言う説があります。
奈良時代の正装はチョゴリだし。

朝鮮式古代山城一覧
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/yamziro.html

88 :本田:2009/02/22(日) 07:52:50
>>87
朝鮮、新羅、日本と言う言葉は、
朝日をメタファー(隠喩)としているところが共通です。



89 :本田:2009/02/22(日) 08:01:52
>>87
日本の律令制度のルーツは、シナではなく、新羅の律令制度がルーツです。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95
評(こおり/ひょう)とは、7世紀の日本に存在した地方行政組織。

また、中国正史には古代朝鮮の高句麗に
「内評・外評」(『北史』・『隋書』)同じく新羅に「琢評」(『梁書』)という地方行政組織があったことが記されており、
『日本書紀』継体天皇24年(530年)条にも任那に「背評(せこほり)」という地名が登場することから、
本居宣長や白鳥庫吉は、
「評」という字や「こおり(こほり)」という呼び方は古代朝鮮語に由来するとする説を唱えていた。

90 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 08:12:13
末盧国と伊都国は魏の支配圏で
奴国から旁国最南端の奴国までが女王国(邪馬台国支配圏)なんじゃなかろうか
いや、奴国が2つあるのに何か引っ掛ったもんだから。

旁国は、日本列島全土に散らばってるんではなくて、
恐らく奈良の外側(伊那谷まで)に固まってるんじゃないの?
いや、ああ順序良く並んでいて、旁国だけが散らばってるとも思い難いし。

91 :本田:2009/02/22(日) 08:12:59
>>89
那須国造碑
http://www.sky.sannet.ne.jp/taguch/hi/nasu.htm
     由来  
 永昌元年己丑の四月に、飛鳥浄御原の大宮から、
那須国造の追大壹でありました那須の直葦提(あたい、いで)は、”評督”との官職を授かりました。
そして庚子の歳の正月二日壬子の日の辰の節に、長逝しました。
そこで遺嗣子の意志麻呂を首とします私共は、碑銘を立て遺徳を頒し、故人を偲び祀りました。
 うやうやしく仰ぎ奉りかえりますと、長逝しました公は、広氏の尊い後胤で、
那須国の柱、朝廷の重鎮とも言うべき方でありました。
その一生は、浄御原の大宮より追大壱にあげられ、
さらに評督職を下賜されて、二度にわたっての光栄にあづかり、光輝のある命脈を高めました。

                                                        
「永昌」は中国の年号で元年は689年。当時朝鮮半島にあった新羅という国では中国の年号をつかっていた。
⇒那須地方に新羅と関係の深い人がいた。

国造(くにのみやつこ)は、国を治める豪族。⇒むかしは「那須」とうう国があった。
那須の長官葦提さんが郡の役人、評督(こおりのかみ)に任命された。
⇒国が地方の役人を決める制度だった。

葦提さんのむすこ「意斯麻呂」が父の為に那須国造碑を建てました。

92 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 08:21:55
遣隋使の書簡
「日いづる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」
 (「隋書」倭国伝)

「東天皇、敬みて西皇帝にもうす・・・」(日本書紀、608年)

倭国が日本国になった最大の理由とは、漢の滅亡がひとつ。
ただこれだけでは日本になりえないはず。
隋と対等レベルの政権が日本に出現する必要があったはず。
その間(150年)の記録はシナには存在しない。





93 : ◆.L.MXSPOgc :2009/02/22(日) 09:58:43
倭國自惡其名不雅
ってのは、日本の説明として中国書籍に載ってるけど、本当は大和の説明を混同してしまって書いたのかもね。
大倭→大和、の説明として雅でないからというのは、今の日本でも自分たちの好きな「和」の字に変えたと
言われてるのと、同じことのように感じる。


94 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 13:04:58
>>91
ポンタは朝鮮半島に帰れ!

95 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 13:06:03
なんか急に朝鮮由来説が出てきたが
このスレにも在日コリアンがいるのか
新羅なんて倭以上に中国様の忠実な子分なんだからねえ
なんの理由も見出せないわ

まあとりあえず「倭」には従うという意味があるのだから
それを嫌って別の国号を使ったというのが自然な見方
国号を変えるというのは対外的な意味が大きく
国内的にはたいして意味は無い

忘れちゃいけないのは
倭国というのは中国(漢)の属国(ざっくり言えば)であったということ
(新羅もそうね)

だから「日本」宣言というのは隋に対する独立国宣言なのよね


96 :本田:2009/02/22(日) 16:36:28
>>92-95
シナ文献や記紀を読んで妄想にふけるより、
木簡でも読んでまじめに日本史を考えろ、
日本史板は世界史板にくらべてレベルが低いぞ。


評制下荷札木簡集成 (大型本)
奈良文化財研究所 (編集), 文化財研究所奈良文化財研究所= (編集)
http://www.amazon.co.jp/%E8%A9%95%E5%88%B6%E4%B8%8B%E8%8D%B7%E6%9C%AD%E6%9C%A8%E7%B0%A1%E9%9B%86%E6%88%90-%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80/dp/4130201425
本書では、飛鳥時代に地方から都に送られた税物に付けられた札、
すなわち荷札木簡の集成を試みました。
教科書でも習う「国―郡―里」制ですが、七世紀段階には「郡」ではなく「評」と称されたことは、
これまでの研究であきらかになっています。
この報告書では、評制下の荷札木簡三三九点について、全木簡を再調査し、その成果を踏まえて、
原寸大の写真・釈文・解説を掲載しました。

97 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 17:13:59
>>96
飛鳥時代といえば、古墳時代のあと。7世紀くらいからか。
ここの中心は、3世紀であり、せいぜい古墳時代まで。
まあ、飛鳥時代は対象外だろうなあ。

98 :本田:2009/02/22(日) 17:30:30
>>97
三国志魏書 東夷伝
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
馬韓
桓霊の末、韓[シ歳]強盛、郡県制することあたわず、民多く韓国に流入す。
建安中、公孫康、屯有県を分かち南の荒れ地を以って帯方郡となす。
公孫模・張敞等を遣わし移民を収集し、兵を興し韓[シ歳]を撃つ。
旧民やや出で、この後倭・韓ついに帯方に属す。


99 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 17:30:35
記紀による歴史の捏造、風土記編纂を口実に地方に残る古文書を焚火、
都合の悪い伝承を封殺、そのうえ好字令を出して由緒ある地名を潰した。
さらに日本語以外の言語の使用を禁止して、従わぬものはサンカとして
差別。こうやって中央集権国家を築き上げたのが藤原不比等を祖とする
大和朝廷の官僚機構。良くも悪くも日本の将来を決めたキーパーソンです。

100 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 17:42:18
そう考えると、その時代の人たちってやっぱスゴかったんだなあ。

101 :本田:2009/02/22(日) 17:54:21
>>100
> そう考えると、その時代の人たちってやっぱスゴかったんだなあ。

連合国最高司令官マッカーサーみたいなもんでしょう。

102 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 18:30:10
>>98
これは単に当時の朝鮮半島と倭国が
中国様の子分になったという話だよ
俺が書いてることと何も矛盾しない
「倭国の王」が中国様の金印をありがたがったことからわかるように
中国様の権威の下に
「倭国の王」を名乗れたわけでね

ただ中国にとって倭国は辺境の地であり
コントロールの効くような国でもなかった
倭の王達も鉄兵器欲しいし帯方郡の鉄の権利をめぐって
親分子分の関係が成立した
それだけの話

>>95をちょっと訂正だけど
「日出処の天子・・・」が隋に対する大和朝廷の独立国宣言であり
その流れを汲んで「日本」独立国家宣言なのよ
「日」というのは当然のことながら
古来稲作が始まってから以来の列島の太陽神信仰と無縁ではない


103 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 20:25:58
>95
なんに由来する属国なのか?
漢?、魏?、西晋?
例えば邪馬台国は魏の冊封国となり印綬を授かっていたが、
飛鳥朝はその印綬のことを伝えていない程だから、
属国であるという認識ですらなかったと思うが。

104 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 20:45:56
>>103
後漢→魏(献帝迎え入れ)→西晋(禅譲)はとりあえず連続してるから
倭国にとってみれば
自分らに権威を認定してくれる「漢の天子さま」でいいのよ

105 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:05:59
西暦57年奴国王は後漢(ごかん)に朝貢し
「漢委奴国王」と彫られた金印を贈られた
その刻印の意味は、
1.「漢の倭の奴国王」ということ
2.漢が奴国王に委(ゆだ)ねる」ということ
何を「委ねる」のかというと倭人連合国

1は漢>倭>奴の国王ということ。
2は漢が奴国王に(漢の領地である)倭をゆだねたということ。

いずれで読んでも属国(というかおめえを子分にしてやるっていう)認定なのよね

106 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:14:06
だからこそ邪馬台国がどこにあるかなんていう記憶や記録は
大和政権による統一以後は省みられなくなって
日本から消滅したんだろうね。
ただシナの記録には残っていると。



107 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:31:03
こういう政権のよりどころを
正統な天子の権威の認定(古代の倭は中国に求めた)に求めるというありかたも
そのまま天皇をいただく幕府に受け継がれ現代に至ると
唯一足利義満は中国様から日本国王に封ぜられたけど

108 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:34:13
昭和天皇もアメリカから、引き続き日本の象徴たるよう封ぜられたけれど

109 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:50:53
しかしその後も王家、豪族たちを二分する古代日本最大の内乱である
壬申の乱が起こったんだよね。
だから、天武天皇ははっきりと天皇を中心とする新たな政治体制を目指す
と宣言した。天皇が定めた法律に豪族たちが従う体制を整え、
豪族の思惑を抑え、豪族たちがバラバラに持っていた歴史書をひとつに束ね
(古事記)天皇の権威のもと人々がまとまる国を作ろうとしたわけよ。



110 :本田:2009/02/22(日) 21:54:36
>>102
帯方郡、韓、倭いずれもシナではなくて、
シナの東方にある東夷の住んでいる地域に存在している。
シナとは直接関係無し。

111 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/22(日) 22:17:12
>>105
じゃぁ「魏」は卑弥呼の鬼道にゆだねる意味か?

112 :本田:2009/02/22(日) 22:21:50
>>96
飛鳥時代の木簡を解読すれば、
この時代、評(こおり)制度が新羅と日本に共通だったことが理解できる。
統一新羅と言う名称は、朝鮮半島だけではなくて、
朝鮮半島と日本列島を含むと考えるべきです。
だから朝廷(朝鮮王の宮廷)が日本に出現したのです。
飛鳥時代以前に畿内に存在したのは、秦王國です。


>『北史』東夷傳 倭國
>
> 明年、上遣文林郎裴世清使倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
>又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。
>又經十餘國、達於海岸。
>自竹斯國以東、皆附庸於[イ妥]。
>[イ妥王]遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角、來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、
従二百餘騎郊勞。
>既至彼都。
>其王與清、來貢方物。
>此後遂絶。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/hok-wakok.html

113 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:30:42
三足土器氏の新しいコピペかと思った>木簡氏

114 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:39:37

重要なところは正統なという点でしょう。
それなくして権威はない。
当たり前です。
だからこそ天武天皇以前の崇峻天皇は蘇我の馬子に暗殺され、
その蘇我馬子は聖徳太子と協力して国政の改革にあたることになるのですよ。


115 :本田:2009/02/23(月) 00:03:58
>>112
私は、古事記を日本を含む統一新羅の建国神話と考えてます。

序の皇帝陛下は、統一新羅の皇帝です。
舎人親王(諡号:崇道尽敬皇帝)も統一新羅の皇帝です。
舎人親王は、日本紀(日本書紀に非ず)を編集した人です。


上巻は、天竺と朝鮮の神話だと思います。
神世七代は、韓世七代の当て字と解釈すると具体的で理解し易いかもしてません。



http://www.linkclub.or.jp/~pip/ututu/kami/furukotobumi/jyo3.html
伏(ふ)して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。


舎人親王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E4%BA%BA%E8%A6%AA%E7%8E%8B
舎人親王(とねりしんのう、天武天皇4年1月5日(676年1月28日) - 天平7年11月14日(735年12月6日))は天武天皇皇子。
諡号は崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)。
淳仁天皇の父である。
奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢をふるった。
日本書紀の編集も総裁した。
舎人皇子(とねりのみこ)とも言う。

116 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 00:31:37
耽羅(済州島)は日本固有の領土です。508年、薄汚い朝鮮人に
侵略されました。韓国は済州島を速やかに日本に返還しなさい!

117 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 00:58:10
評(こおり)制度?というたった一つの言葉から、統一新羅を妄想する。
すごい。

隋書
新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來

118 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 01:16:05
あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて話になんないんだけど
朝鮮神話と日本神話は類似点が少なすぎる
同じ部分がたくさんあればトンデモ話と笑い飛ばせないが
近くにあるわりには民間伝承さえあまり共通していない
つまりトンデモ話

針小棒大に小さい点を超過剰に解釈するのは
ただの妄想って言うんだよ

白村江の戦い前後に半島から
数万人が難民として列島にやってきた

だからその頃たくさんの半島文化や渡来人が上陸したのは
あたりまえの話

119 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 01:26:28
スレ違い。

ここは邪馬台国スレです。

大化の改新や聖徳太子スレでどうぞ。


120 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 01:28:35
古事記は天武天皇が人心統一のために篇算を開始したものだから
日本語の発音を多用しているんだよ。
天地初めてあらわれし時に高天原に成りし神の名は天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)
古事記は高天原の神々が地上へと降りその子孫である天皇が国を治めていくことを
描いたものだ。

121 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 01:50:19
創作にしては一書の存在が・・・
それに創作にしては文意が通っていない

122 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 03:13:50
宇宙人と熊がHなことをしたら朝鮮人が生まれました。「正しい朝鮮古代史」

123 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 03:42:57
漢委奴国王を名乗っていた超長寿の始祖から始めた倭国の歴史を8世紀に天之御中主神を
魯王、呉王、高麗王、漢高祖の前に持ってくることで倭国と日本国を統合させようとする
動きがあったのだろう

124 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 05:52:16
大友皇子(おおとものおうじ)と天皇の座をめぐって争った
天武天皇がその壬申の乱により分裂した国内修復の一環として
編纂したのが古事記。

125 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 21:23:27
稲荷山古墳の古墳から出土した鉄剣の銘文についてですが、
「獲加多支鹵」は「バカタシロ」、「乎獲居」を「ヤバイ」と発音し
たのではないでしょうか?
従って、「大泊瀬幼武」(おおはつせわかたけ)=雄略天皇とは
全くの別人ということになる。

126 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 21:30:56
稲荷山古墳はスレ違い

127 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 21:52:40
倭の5王のうち「武」とは誰かという問題は、
邪馬台国の問題を解くための重要なキーワードの一つ。

128 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 21:53:18
なぜ邪馬台国なのか?
それ以前にも、日本列島にはずっと昔から人が住んでいたわけだ。
少なくとも1万年以上前から。


129 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 21:59:24
九州王朝には文字も無ければ暦もなかったので、
邪馬台国以前は有史以前、考古学の世界になります。>>128

130 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 22:17:41
纏向が卑弥呼の時代のすぐあとぐらいには、
都であったことが、完全に確定しているのだから、
3世紀まで遡れる古墳などの無いところは、
邪馬台国とは無縁。
残っている議論は、纏向(畿内)か、九州かだけです。

131 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 22:22:20
都の定義って何だ?

132 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 22:26:39
都というのはあいまいでした。
大和朝廷の元になった都のことです。

133 :本田:2009/02/23(月) 22:49:15
>>118
> 朝鮮神話と日本神話は類似点が少なすぎる
> 同じ部分がたくさんあればトンデモ話と笑い飛ばせないが
> 近くにあるわりには民間伝承さえあまり共通していない

日本は1945年から7年間連合国に占領されてました、
その間連合国と日本の民間伝承が共通しているなんて話は、
寡聞にして聞いたことはありません。
ただプロイセン憲法を参考にした帝国憲法が改正され、
英国憲法に似た日本国憲法がGHQにより押し付けられました。

同様に白村江で百済と倭国が唐と新羅連合軍に負けて、
その後約10年間の壬申の乱の後、
倭国は占領され新羅の評(こおり)制が日本に押し付けられた、
と考えてもべつに不自然とは思いません。

134 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 22:57:33
>>133
相手にするのもバカバカしいけれど、
だったら新羅に記録が残ってるはずですわ。

135 :本田:2009/02/23(月) 22:58:28
>>130
飛鳥時代以前に畿内に存在したのは、秦王國です。


>『北史』東夷傳 倭國
>
> 明年、上遣文林郎裴世清使倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
>又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。
>又經十餘國、達於海岸。
>自竹斯國以東、皆附庸於[イ妥]。
>[イ妥王]遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角、來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、
従二百餘騎郊勞。
>既至彼都。
>其王與清、來貢方物。
>此後遂絶。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/hok-wakok.html


136 :本田:2009/02/23(月) 23:02:56
>>134
残念ながら朝鮮半島は、日本に比べて戦乱が激しかったので、
古代の記録は日本ほど残っていない。

137 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:07:12
古代の記録信用度

中国=日本>>>>>>>>>>>>>>>朝鮮

138 :本田:2009/02/24(火) 06:42:07
>>117
> 隋書
> 新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來

倭は、金官伽耶(狗邪韓国)のことだと思う。

>>127
> 倭の5王のうち「武」とは誰かという問題は、
> 邪馬台国の問題を解くための重要なキーワードの一つ。

倭の五王は、金官伽耶(狗邪韓国)王達だと思う。


http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/gimae.htm
【金官伽耶】
金海は釜山の西側、洛東江の対岸にある。
金海平野の西北端で、新石器時代から鉄器時代の貝塚、支石墓、古墳などが散在する。
遺物の中には、中国の王莽時代の貨泉と炭化米がある。

伽?時代、金海には「金官伽耶」があった。
3世紀までの狗邪韓国が前身である。
もともと洛東江河口を押さえて、伽耶諸国の出口を押さえていたことと、日本との海上路、日本海や黄海への航路等を押さえていた。
今でこそ金海は海から少し離れているが、当時は洛東江の三角州が今ほど発達していなかったので海が迫っていた。
日本との交易の拠点となったため、この地域の貝塚などからは弥生土器なども出土する。
一方で、九州からは、伽耶と関連ある遺物が多く出る。

139 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 08:27:07
任那は日本固有の領土です。562年、薄汚い朝鮮人によって侵略されました。
韓国は速やかに慶尚南道・全羅南道を日本に返還しなさい!

140 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 08:31:36
>本田

ホンダだかHongdaだかは知らんがスレ違いだ。

いい加減にしろ馬鹿者。



141 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 08:33:42
倭人伝の記述から、狗邪韓国は、日本の支配する地だったと考えられる。
あのあたりは、任那(日本府)のあったところでもあるし。
そう考えれば、いろんなことが納得できる。

宋書
興死、弟武立。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、
慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王

ちなみに、倭王・武が宋に送った上表文によると、
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、
北のかた海を渡って、平らげること九十五国」とある。
倭の五王が、狗邪韓国としたら話が合わない。

隋書の
新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來

あるいは、好太王の碑文
「倭が辛卯年に海を渡りやってきて、新羅・百済を破り臣民とする」
など、力のベクトルは、明らかに、日本から朝鮮半島に向いている。

残念だね。

142 :本田:2009/02/24(火) 22:06:28
>>141


結論 邪馬台国は西都原
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1191377712/

>85 名前:本田[] 投稿日:2008/10/06(月) 01:55:20
>>>81
>> >>72
>> 帯方郡を起点に狗邪韓国と伊都国を終点にする放射説です。
>
>また伊都國を起点に奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國を終点にする2重放射説です。
>
>狗邪韓國は、九州北岸(福岡県)。
>伊都國は、九州北岸(前原市)。
>投馬國は、九州西岸(薩摩)。
>邪馬壹國は、九州東岸(西都原)。

143 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 23:35:27
>>141 すばらしい。
この板の邪馬台国関連のスレにに来るようになって4年くらいですが
初めて納得のいく意見に出会いました。

>>142 ・・・


144 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 00:08:30
>>141>>143
紀記との整合性は?



145 :143:2009/02/25(水) 00:47:28
>>144
ビッタシでしょ?

146 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 01:00:04
紀記には、韓半島は出てきませんが

147 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 01:34:26
>>144
神功皇后の朝鮮征伐と一致する

韓国が好太王の碑文は日帝の偽造だとか
ずーーーーーっと言ってたんだけど
2006年4月に今の碑文とまったく同じ拓本が中国で見つかり
史実であることが証明された

つまりその当時の百済などは倭の属国とみなすことができる

148 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 02:17:52
狗邪韓国は魏志倭人伝に出てくる名前
その頃から倭国の領土だったと?
では、朝鮮征伐をしたという神功皇后は邪馬台国時代の人か?

149 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 02:44:21
狗邪韓国という名称で呼ばれるようになったのは神功皇后よりずっと古いでしょう
卑弥呼時代の狗邪韓国と倭の関係はあまりよくわからない


150 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 04:43:24
神功皇后=卑弥呼だろ。それとも、卑弥呼とは別に神功皇后がいたと思っているのかな?

151 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 05:08:09
広開土王碑の時代=391年のちょっと前=神功皇后の時代
だとすると卑弥呼と時代が合わないのよ

152 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 06:00:56
卑弥呼=?
トヨ(13歳)=?
讃=?
珍=?
済=?
興=?
武=?


歴史学者って今まで何やってきたの?
江戸時代から400年寝てたの?

153 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 06:42:39
>>152
資料が少ないんだから
(特に卑弥呼以前は倭人=未開人みたいなもんだし)
「わからない」一言でもいいんだけど
考古学などの進歩に基づいて
いろいろなことが明らかになりつつあるところ

154 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 07:11:26
http://inoues.net/tenno/nintoku_newphoto.jpg

1500年以上経っていて、しかも1500年以上引き継がれた
この巨大なものの背景すらわかってないとはどゆことよw


155 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 13:21:30
日本書紀の嘘に振り回されているからだ。

156 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 21:10:21
>>154
古墳時代よりずっと昔、平野の真ん中に作られた
この巨大なピラミッドの正体がわからないのはなぜでしょう?

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/18/e3/deepsatellite2006/folder/431287/img_431287_24243228_0?1189724997

157 :本田:2009/02/25(水) 21:32:14
>>155
偽書・偽史・古史古伝
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1199600987/
>12 名前:本田[] 投稿日:2008/01/08(火) 23:26:42
>作者成立年代不明の「日本書紀」は偽書。
>先行資料は、舎人親王が720年に編纂した「日本紀」。
>
>「日本紀」が無くなったのは、
>桓武天皇の焚書や北条時宗の焚書の影響だろう。

158 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 21:43:23
現在に伝わる古代史の資料というのは、ほとんど鎌倉時代の
北条氏の影響を強く受けています。
藤原氏が、出雲や葛城、尾張、蘇我といった古代豪族の存在を抹殺
したがっているのと同じように、北条氏も源氏の影を消そうとして
あれこれ歴史的事実の捏造工作を行った形跡があります。
そういう事実を知らないで、現在残されている資料だけ一生懸命に
解読しようとするからトンでも説が出てくるのです。
歴史は、時代を限定せずに、現代史まできちんと勉強すべきです。


159 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 21:53:56
関係ないかもしれないが…。

徳川家康は、家系図を変えたらしい。
というのは、、清和源氏の系統でないと将軍になれないという決まりが
あったかららしい。

そこで思うのは、継体天皇。応神天皇の5代目の子孫なんていう、一見、どこの
馬の骨かわからないと疑われるような系譜ではなく、自分に都合の良い系譜を
作ればよかったと思うのだが。

本当に応神天皇の子孫だったのか、それとも継体天皇のときには、すでに
皇室の系譜が神聖にして犯すことが出来ないほど価値があったのか。

160 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 11:57:59
応神天皇(ミマキイリヒコ)自体も崇神系とは別系統の可能性が高い

161 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 12:40:22
>>160
はあ?

162 : ◆.L.MXSPOgc :2009/02/26(木) 12:51:02
卑弥呼の墓を発見しました。この住吉宮のところです。

http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&date=09%2F02%2F26&time=12:45&ttype=dep&noexp=0&noal=0&sort=time&tline=&ll=33.266501,130.524058&spn=0.004118,0.010536&t=h&z=17





といってみるテストw 
情報少なくて分からないけど、近くにいる方、何か無いか見てきてくれないかな?w


163 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 20:25:55
>>162そういう自信のない態度では駄目だ。お手本をば。

    卑弥呼の墓は住吉宮だった!
    これですべての謎が解けた!! 
       

164 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:09:25
御諸別と矢作の民は、葦の海を渡らせてくださった神様の御業を賛美し、約束の地、河内(カナイ)に再出発しました。
しかし、矢作の民の喜びと神様への信頼は、厳しい現実と直面し、儚く失われていきました。彼らは三日間荒野を歩き
ましたが、水を得ることができず、またようやく見つけた出雲の水が飲めず、途方に暮れてしまい、御諸別に呟きました。
あの三日前の、神様に対するの信頼はどこに行ってしまったのでしょうか。一方、「御諸別は主に叫んだ。」私たちは、
ともすれば、厳しい現実と様々な不足を覚える中で、また自分の願ったように事が運ばない中で、人を責める、人に
不平不満をぶつける、そのような衝動にかられるのです。でも、そこで、如何に神様を見上げるのか、祈るのか、
待ち望むのか、私たちの信仰が問われるのではないでしょうか。



165 :九州王朝大好き:2009/02/26(木) 23:26:34
>>162
高良台と高良山の周縁部には卑彌呼の墓がある可能性が高い。
今のところ最有力は祇園山古墳(墳丘墓)であるが、
住吉宮も径約23mの墳丘墓が残っておれば有力候補となるのでは。
ただ地形的に大きすぎる。位置が尾根筋で径60〜70mはありそう。
まだ卑彌呼の墓を否定するものではないが。

166 :本田:2009/02/26(木) 23:26:52
>>159
史疑 徳川家康事蹟 (単行本)
村岡 素一郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%B2%E7%96%91-%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E4%BA%8B%E8%B9%9F-%E6%9D%91%E5%B2%A1-%E7%B4%A0%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4826503024

167 : ◆.L.MXSPOgc :2009/02/27(金) 00:18:13
>>165
そうですね、全体とすると大きすぎる感がありますね。100歩=1/3里=1/3x70m〜20m、程度と私も思っていますw
でも多くの古墳は、山の上に建てられていることや、昔の古墳の上に神社が建てられていること、といったことが
非常に多いことに最近気が付きまして、なんとなく地図を見ていたらここが目に飛び込んできたというw

しかし実際行ったとして、古墳かどうかを見極めるにはどうしたらよいのでしょうね。
スコップ持って掘り返してみるとか?w は無理っぽいとして、結構な古墳の知識がないと難しいような気がしますね。

# 判定基準あれば教えてくださいw

>>163
自信は満々なのですけどねw


関係ないですが、高良ってタカラって読みたくなりませんか?w

168 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 02:47:01
>>167
そういえば、吉野ヶ里遺跡が注目された頃、遺跡の近くの日吉神社が人々の
関心を集めた。私有地なので、調査されていないのだが、たくさんの人が
その小高い丘に足を運んでいた。
最近、ほとんど話題にならないなあ。

169 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 03:54:06
>今のところ最有力は祇園山古墳(墳丘墓)であるが

画文帯が出てるんだよなあ…。

無論それを直ちに畿内ヤマトから配布された物とする必要は無いが
少なくとも時代的に東西の勢力が逆転した頃の話となるか…

まあ卑弥呼の墓か否かの判断は極めて単純
周辺に奴婢百人の殉葬の跡があれば確定w

この板の九州説は基本的に
「魏志倭人伝ウソツカナイ」
なんだからそこは初志貫徹してもらわないとwww



170 : ◆.L.MXSPOgc :2009/02/27(金) 19:40:31
>>169
百人の殉葬はどうなのだろうね。魏使が百人殉葬されるのを見たのではないだろうから、倭人からの伝聞情報と
考えられるのだけど、実際は「百人が泣き伏せた」といったのを魏使が誤訳したのかもしれない。
殉葬といえば、記紀にも埴輪の起源の説話で殉葬が語られているものの、考古学的には殉葬の跡が見つかって
いないのだから、これもおかしな話ではある。

まぁ、記紀の場合は捏造上等なわけで、三国志に卑弥呼の殉葬のことが書かれているから、
昔は殉葬していたことにしちゃおう、みたいな感じで記事をでっちあげた可能性は高いがw

171 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 19:43:26
はぁ
近畿からも奴婢百人の殉葬あととか鉄とか絹とか
沢山出てくるといいね
土器と数百枚も出てくる鏡だけじゃどうにもなんないでしょ

172 :本田:2009/02/28(土) 07:36:21
>>141

邪馬壹(懿)国
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya333h.htm
弁・辰系の国
●狗邪国と狗邪韓国
「桓檀古記〜高句麗国本紀」狗邪国人は邪馬台国人と相争っていた。
そのため、半島と行き来する路は、邪馬台国により厳しく検問されていた。
狗邪韓国にいこうとするものは、津島、加羅山、志加島(志賀島)を経て、
初めて、末廬(佐賀県松浦)と戸資の境に到ることができる。
その東側が狗邪韓国である。

173 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 09:47:52
邪馬台国とは富士山にあった幻の富士王朝のことだった。
富士山の噴火による溶岩流や火山灰に埋まってしまった。
遺跡が発見されないのはむしろ当然。


174 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:00:30
>>172
狗邪韓国が九州にあるということなんだろうが、それはおかしい。
倭人伝には、「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國」とある。

これを見ると、一目瞭然。狗邪韓国から「始度(渡)一海」で、対馬に到着する。
狗邪韓国は、朝鮮半島で間違いない。

基本的に、倭人伝の行程の記述は、いわゆる連続説だろう。順次説とも
言うのかな。そうなると、北部九州説も難しくなる。方向から畿内説もない。
筑後川よりも南と考えるのが普通だろうな。

少なくとも、倭人伝の記述からはそうなる。だから、畿内説は倭人伝否定に
行き着くわけだが。

175 :本田:2009/03/02(月) 06:19:33
>>174

> 倭人伝には、「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
> 七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國」とある。
> これを見ると、一目瞭然。狗邪韓国から「始度(渡)一海」で、対馬に到着する。
> 狗邪韓国は、朝鮮半島で間違いない。

魏代の一里は、435.6m。
狗邪韓國を金海あたりと仮定します。
「始度一海」の起点を狗邪韓國と仮定します。
千里以上で對馬國では遠すぎると思います。
つまり「千餘里至對馬國」に矛盾するわけです。

でも「始度一海」の起点を帯方郡と仮定しますと、
「千餘里至對馬國」が納得できます。


私は狗邪韓國を北九州と考えてます。
「歴韓國」を「韓國をへて」と訳します。
「乍南乍東」を「南へ行ったり東へ行ったりして」と訳します。
「到其北岸狗邪韓國」を「その(倭の)北岸に当たる狗邪韓國につく」と訳します。


対馬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC
地理
>対馬島は、九州本土より玄界灘と対馬海峡の東水道をはさんで約132km、
>朝鮮半島へは対馬海峡の西水道(朝鮮海峡)をはさんで約49.5kmである。
>南北に82km、東西に18km、面積は約700km2。

176 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 10:36:50
>>175
>魏代の一里は、435.6m。
>狗邪韓國を金海あたりと仮定します。
>「始度一海」の起点を狗邪韓國と仮定します。
>千里以上で對馬國では遠すぎると思います。
>つまり「千餘里至對馬國」に矛盾するわけです。

  魏代の一里は、435.6mですが、
  魏志東夷伝の一里は、約70mです。
  狗邪韓國の中心地を金海あたりと仮定します。
  「始度一海」の起点を狗邪韓國の南端である巨済島と仮定します。
  半島対馬間の最短距離は約55kmで、785里となり千里と見做せる距離となります。
  又、金海と対馬としても、その距離は約75kmで、1070里となり千里と見做せる距離となります。 

177 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 00:09:19
帯方郡から末盧国までの行程は従来の読み方で何ら問題はない。
倭人伝の1里は、7、80メートル、理由ははっきりしないが、それで書かれて
いるという事実は認めざるをえない。問題は、末盧国はどこか、伊都国はどこか
というところからだな。

178 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 13:56:10
>>170
中国は普通に殉葬があった国だから,
聞き間違いとかはありえない。
墓のサイズまでちゃんと書いてるんだから、
近くに殉葬抗があったんだろう。

179 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 14:27:55
                 _,,.. -──‐- .、.._
             ,. ‐''"´          i``'‐.、
            ,.‐´              l   `‐.、.
            /             ,  '  ヽ     ヽ.
         ,i´            , '      ヽ    i
        /             , '          ヽ   i
      ,i          , '   ──────  ヽ i
      .i        , '     ──────    ヽ i
     .i      i, '    ノ二二二l     l二二ヽ  ii    オウムミンス党が〜!
     i       i                      i   
     i      i       --──      ──-  i   インチキ〜!金儲けの
      i      i        ̄ ̄       |  ̄    ヽ  
     i      i '                `ヽ      `  教団でなければ〜!
    i       i            ,'     , i,     l 
    i       i           ノ`ー'`ー-' '     ,  まずぃわけなんだろう〜!
    i       i          , -─'  ̄ `ー、    , i
    i       i        , ' , -─'  ̄ `ー i  , ' i
    i       i`丶、_   , ' , '  -───- i i  ,'  i
    i       i   `ー '  /    ̄二二 ̄  i i ,'   i
    i                `-、__ , '`i、_, '  '`   i

180 :サガミハラハラ:2009/03/04(水) 19:31:57
魏代の1里は、435.6mですが、倭人伝の1里は周里での67.5mです。
狗邪韓国は半島南部の中央部とみますが、魏使の出航地は固城です。
「始度一海」の貴店は半島南部の沖合いの鴻嶋です。
固城から鴻嶋まで千里です。鴻嶋から對馬までは千里です。合計2千里となります。


181 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/04(水) 19:32:01
>>178
むしろ中国では普通に殉葬があったから聞き間違えが起きると考えられるのではないでしょうか。
墓のサイズはぱっと見でわかりますが、殉葬抗は分かるものなのでしょうか?
史の記述からは、殉葬するところを見てたとは考えにくいですよね。

182 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 21:41:42
隼人の遠吠えが魔を払う

183 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 22:08:30
ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン ハイハイ〜♪
民謡って言うのは古代ヘブライ語の歌だろう?
日本の民謡の多くがそうだけれど、一流の歌い手が歌うと、
現代人だって魂が抜かれるくらい感動する。

184 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 02:47:10
>>175
魏代の一里は、430m程度と考えるのが妥当なのだろうが、ではどうやって
測ったのかが問題かな。

NHKの「そのとき歴史は動いた」を見ていたら、日本地図を作った伊能忠敬が
出ていた。伊能忠敬は、よく訓練された数人の歩幅で距離を測り、その平均値
を取ったらしい。
正確な距離を測るためにはこれくらいのことをしなくてはならない。

郡使の場合は、こんなことは出来ないだろう。しかも、それが海となると、
ますます測定困難と思わざるを得ない。つまり、倭人伝の距離は、感覚的な
距離ということになる。悪い言葉を使えば「あてずっぽう」ということか。

「始度一海」だが、日本にやってきたと思われる梯儁も張政も帯方郡の役人
であり、帯方郡が出発点になっているから、「始度一海」の基点が帯方郡と
いうのはおかしい。

倭人伝は、海岸など陸地に沿って進むのを「水行」、陸地がないところを
進むのを「度(渡)海」として区別していると思う。

185 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 20:47:26
伊能とは、すなわち「イナウ」、アイヌ人の子孫だということがわかる。
伊能忠敬のは養子だったらしいけれど、多分、遠縁の子と思われる。
世界を股にかけ活動した古代シュメール人の子孫。血が騒いだのだろう。

186 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 00:29:00
>>184
伊能忠敬みたいな測り方をしなかったら「あてずっぽう」は飛躍のしすぎだ。
魏使一行が伊能忠敬のような測量をしたとは思えんが、案内人や訪問先の倭人
に説明は聞くだろう。半島から対馬は天候次第では見える。大体7、80キロ
先は何とか見えるものだ。それが丁度千里だな。
島の大きさも南北は歩いて何日、東西は何日と島人に確かめるだろう。
自分たちで歩いて確かめた部分もあるだろう。海上から見たって島の大きさは
ある程度は見当がつく。けして「あてずっぽう」というべきものではない。

187 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 14:46:49

■邪馬台国時代の前方後円墳は2タイプ 古墳誕生の謎に一石
3月5日23時33分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090305-00000602-san-soci

 邪馬台国の最有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3世紀)にある国内最古級の前方後円墳の矢塚、勝山、東田大塚の3古墳について、
県立橿原考古学研究所と同市教育委員会は5日、前方部の形によって2つのタイプに分かれていたことが判明したと発表した。

3古墳は、いずれも前方部が極端に短い「纒向型」で前方後円墳の祖型との見方もあったが、古墳誕生直後から2つの系統があった可能性が浮上。
前方後円墳の発展過程を考える上で貴重な資料になりそうだ。

 同遺跡では、3古墳のほかに纒向石塚古墳(全長96メートル)など計5基の最古級の前方後円墳が相次いで築造され、邪馬台国時代のトップクラスの墓とされる。

 「纒向型」は、前方部の長さが後円部のほぼ半分しかなく、天皇陵など巨大な前方後円墳とは形が異なるのが特徴。
今回の調査によって、矢塚古墳(3世紀中ごろ)は全長96メートル、前方部は後円部のほぼ半分の34メートルで纒向型と確認。
一方で、東田大塚古墳(3世紀後半)は全長120メートルで前方部は50メートル、勝山古墳(3世紀半ば以降)は全長115メートルで前方部が48メートルと、いずれも前方部が従来の想定より長いことが判明、纒向型ではないと分かった。

 前方後円墳は、纒向型から前方部の長い墳形に発展し、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説が根強い箸墓古墳(全長280メートル)が築かれたという説が有力。

 寺沢薫・同研究所総務企画部長は「纒向型以外に前方部の長いタイプが当初から併存していた可能性も出てきた。日本列島の王権につながる纒向地域の前方後円墳の成立に、新たな謎が生まれた」と話した。

 現地はすでに埋め戻されているが、矢塚、東田大塚両古墳の出土遺物は6〜13日、桜井市埋蔵文化財センターで展示される。


188 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 16:11:17
>>187
「邪馬台国の最有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3世紀)」
「邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説が根強い箸墓古墳」

189 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 21:02:31
卑弥呼はいったい何人いたんだ?
ますます畿内説の信憑性は問われる結果になった。

190 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 21:12:51
■高江辻遺跡:弥生時代、二列埋葬墓を確認−−筑後市教委が発表 /福岡

 ◇甕棺墓以外の組み合わせ−−発掘調査

 筑後市教委は5日、発掘調査を進めている同市高江の「高江辻遺跡」で、弥生時代に九州北部で主流だった墓様式の「甕棺墓(かめかんぼ)」とは異なる「木棺墓」や「土壙(どこう)墓」が2列に並んだ「二列埋葬墓」を確認したと発表した。
甕棺墓以外の二列埋葬墓の出土例は少ないという。

 市教委によると、二列埋葬墓は、弥生時代中期〜後期(紀元前1世紀〜3世紀前半ごろ)に造られていたと考えられる。
丘陵地の尾根に沿って幅約10メートル、長さ約30メートルにほぼ平行に並ぶ16基の墓が確認された。また、二列埋葬墓とは別の「石棺墓」10基も見つかった。

 このうち二列埋葬墓を含む五つの墓には、それぞれ1体ずつの成人骨の一部が残っていた。地面に直接掘った弥生時代の「木棺墓」などで骨が腐食せずに残っている例は極めてまれという。

 今回確認されたほとんどの墓は、棺の天井部分を石や木のふたで閉じ、さらに念入りに多量の粘土を使ってすき間が塗り固められていた。外気や雨水の侵入が防げたことで骨が残っていたらしい。内部には朱が塗られていた。

 甕棺を使わない埋葬方法や粘土で棺を密封する手法は、この地で暮らした人々の独自の文化と考えられるという。出土した骨の中には歯が並んだ下あごがあり、歯のすり減り具合などを分析することで当時の人々の食生活なども分かるという。

 発掘に携わった九州大学大学院の中橋孝博教授(自然人類学)は「石棺墓などからの人骨出土は珍しく、貴重な資料。甕棺墓の人骨との遺伝子形態の比較ができる」としている。

 高江辻遺跡は、国道442号のバイパス工事に伴い、今年1月16日〜今月16日、発掘している。調査中は市民も見学できる。【松尾雅也】

毎日新聞〔筑後版〕3月6日朝刊
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090306-00000151-mailo-l40

191 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 21:41:27
卑弥呼はいったい何人いたんだ?
ますます畿内説の信憑性は問われる結果になった。

192 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:01:14
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg


193 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 07:37:59
>>177
まず、末盧国の比定。
一支国から千里。呼子では近すぎる。上陸してから東南へ行くのだから、半島の
東側と見るべきだ。ということで、唐津説が正しいと考えられる。

次に伊都国の比定。
@ 末盧国からの方角と距離。素直に読めば、佐賀付近だ。
A 末盧国で上陸したのは船ではいけない所のはず。怡土では理解できないが、
 佐賀付近ならば上陸しなければ行けない。
B 南水行とあるな。乍東とか乍西を言わず、いきなり南への水行を言うのは
 有明海を南下することしか考えられん。白鳥も「有明海航行」と言っただろ。
 となれば、伊都国は有明海沿岸とみるのが自然だ。

畿内説や北九州説の成立する余地はないな。

194 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 08:37:59
東を南と言い張るのは、やめてほしい。
同じ日本人として恥ずかしい。

195 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:03:15
東南と書かれているのにもかかわらず北東の平原を目指す
九州論者が未だに多いため 畿内論者らに「東を南と読む」という
口実をあたえてしまっているのだ。東南はあくまで東南であり北東ではない
平原を伊都国だと言い張る九州論者は畿内論者の南=東だと言っている奴らと同じ
距離や日数で強引に辻褄のできる大きな遺跡に向かおうとすることも畿内論者と同じ
伊都国は佐賀平野。そこから邪馬台国は有明海を南。且つ、陸行を伴う場所。
南の進行方向に対して船を降りた場合、陸行で向かうべき方向は限りなく東に近い
方向しか考えられん。北から来たのに船を降りて北に向かう、さらに南を目指すのに
船を降りて南に歩くなどありえない。西は半島か海しかない、降りた地点から
目指す方向は東から東南東の間、九州南部の中央もしくは九州南部東側

196 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:27:11
確かに、倭人伝の行程の記述を素直に解釈すれば、宮崎が一番妥当だと思う。
しかし、それでは、いろいろと不都合が生じる。
特に、記紀との整合性がない。

そこで、折衷案として、倭人伝の日程の記述を、もっと短い距離と考える。
一つは、投馬国を八女付近を中心とした一帯とする。玉名から陸行。
邪馬台国を山鹿・菊池付近とする。

または、玉名付近を投馬国とし、熊本市あたりから陸行。邪馬台国は阿蘇。

こうすれば、天孫・瓊瓊杵尊の日向降臨の伝承が無理なく解釈できると、
思うのだが。

全てを満足する場所を見つけることは出来ないから、一番妥当なところを
見つけざるを得ない。

197 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:59:01
>>196
天孫降臨の地は2箇所の説があるけどね。
高千穂町と霧島(の麓)


198 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 18:09:13
>>195
>南の進行方向に対して船を降りた場合、陸行で向かうべき方向は限りなく東に近い
>方向しか考えられん。
確かに、船を降りて海岸線を南下するはずはない。しかし、球磨川に沿って東南に進めば
都城盆地。その可能性は十分にあるね。

>>196
>折衷案として、倭人伝の日程の記述を、もっと短い距離と考える。
そう簡単に倭人伝から離れないことだ。


199 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 18:52:08
>>198
球磨川沿いに都城を目指すくらいなら川内川沿いから目指したほうが
距離、道程からみてもまだ自然。ただし薩摩に狗奴国がなければの話ですが

200 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 20:17:44
>>196
>宮崎が一番妥当だと思う。
>しかし、それでは、いろいろと不都合が生じる。
>特に、記紀との整合性がない。

いやあるでしょ
どこに整合性がないの?

201 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:15:06
>>199
川内川からだと水行が10日多くなる。陸行は5日くらいは短くて済むかも
しれないが、トータル、球磨川コースよりも長くなるんだよ。

202 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:19:08
>>200
日本書紀は夷守で泉媛を登場させているな。それが卑弥呼を示唆したものだと
みれば、宮崎では合わないということになる。

203 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:27:22
>>197
九州の西側から宮崎にやってくるとしたら、その二つの経路が考えられる。
くしくも、そのどちらにも高千穂があると言うのが面白い。

熊本から宮崎にやってくるとしたら、北部の高千穂町だろう。
福岡あたりから宮崎にやってくるとしたら、船で南下したあと陸路を取るのが
普通だから、南部の高千穂峰だろうな。

204 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:29:02
泉媛はどう考えても卑弥呼じゃないだろ

卑弥呼は庶民には姿を見せなかったし
一生独身のシャーマンだから
もし仮に邪馬台国宮崎説を採るなら
アマテラス(岩戸神話)としか考えようが無い

205 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:36:15
>>200
宮崎と言えば日向。記紀では、神武天皇を含め4代が日向で過ごしているが、
女王に比定すべき人物がいない。
記紀で女王として最もふさわしいのは高天原の天照大神。

そのように考えれば、天照大神=卑弥呼と考えられる。つまり、倭人伝の
卑弥呼の後に、日向に勢力(全勢力とは限らず、一部かもしれない)が移ったと
思われる。

高天原に相当するところが邪馬台国で、日向は邪馬台国とは言えないと
いうわけである。

206 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:40:13
>>198
倭人伝を離れているわけではなく、倭人伝を含め、記紀や考古学などいろんな
ことを考慮して総合するとそうなると言うわけなのだが。

ちなみに、熊本には、大規模な集落跡もあるし、弥生後期の鉄器が突出して
多い。

207 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:57:39
熊本は狗奴國だから。
古墳時代になると零落して、鉄器の製造すら覚束ない。
なので、弥生時代の出土が「突出」してしまう。


208 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:18:35
>>207
鉄器が突出して多いと言うのは、全国的に見てと言うこと。
たとえば、大津町の西弥護免遺跡だけで、発掘当時、全国の鉄器に匹敵する
量の鉄器が出土した。
阿蘇では製鉄も行われていたとされるし。
方保田東原遺跡など、鍛冶遺跡もたくさん見つかっている。

ちなみに、延喜式の国格付けで「大国」とされたのは、九州では肥後だけ。

209 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:30:08
>>206
記紀や考古学を口実に倭人伝の行程記事を曲げて読んではいかんということだよ。
行程記事からすれば、北九州から少なくとも(放射式でも)水行十日+陸行1月。
それをごまかそうとして、変な読み方をしたら、畿内説や北九州説と同じになる。

210 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:32:19
■弥生中期の鉄製品 大量出土  高知県土佐市の上ノ村遺跡
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20090306-OYT8T01002.htm

 県埋蔵文化財センターは6日、仁淀川河口に近い土佐市新居の上ノ村遺跡で、弥生時代中期末(紀元前後)の鉄製品約250点が出土したと発表した。まとまって見つかった例では県内最古。
九州北部などを除いてこの時期の鉄製品が見つかることはまれで、同センターは「このあたりが九州から鉄を輸入する交易拠点の一つだったのだろう。鉄製品の生産が広がっていく始まりを解き明かす資料」としている。

 弥生時代中期末の鉄製品は非常に貴重で、県内では南国市や香南市で数点見つかっているのみ。対岸にあたる高知市春野町の西分増井遺跡で見つかった弥生時代後期の鉄器生産地より100〜200年さかのぼる。

 鉄製品は、竪穴建物跡(直径4メートル)で約170点が密集してみつかり、水路などにもあった。大きさは1〜6センチで、加工途中らしく、はっきりした形をしていないが、刃物のようなものもあった。
砥石(といし)も同時に見つかり、同センターは「鉄製品の再加工をしていた工房にかかわる施設ではないか」としている。

 九州北部では縄文時代末〜弥生時代初頭(2800〜3000年前)に鉄製品が使われ始め、弥生時代後期(1〜3世紀)に全国に広がったと考えられている。
同センターの池沢俊幸・調査第三班長は「鉄を入手できるだけの強力な集団がいたのだろう」と話している。

 現地説明会は8日午後1時30分から。仁淀川沿いを護岸した江戸時代前期の大規模な石積みとともに説明する。
(2009年3月7日 読売新聞)

他ソース
上ノ村遺跡:弥生中期末の鉄製品大量出土 県内最古塗り替える−−土佐 /高知
http://mainichi.jp/area/kochi/news/20090307ddlk39040628000c.html

211 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:44:03
東を南だといってみる、
企業献金を個人献金だといってみる。
そういうごまかしが一番嫌い。

212 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:52:32
>>208
ちょっと書き加え。

愛媛大学村上教授の『古代国家成立過程と鉄器生産』によると、
弥生終末期、日本列島で最も鉄器生産が盛んだったのは阿蘇地方。
集落間で、分業が行われていたとされる。

熊本県には、精錬鍛冶まで行う、第一級の鍛冶遺跡がたくさんある。

1.下前原遺跡、2.諏訪原遺跡、3.方保田東原遺跡、4.小糸山遺跡 
5.尻遺跡、6.二子塚遺跡、7.西弥護免遺跡、8.狩尾遺跡
がそれである。

そのほか、菊池川流域、緑川流域、白川流域つまり熊本県全体で鍛冶遺跡が
確認されている。

また、阿蘇地方は、赤色顔料のベンガラを九州全土に供給していたとされる。

213 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:56:29
>>211
>そういうごまかしが一番嫌い
なんだか スネた女子高生みたいでワロタw

214 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:57:08
>>212
もう一つ。

鉄素材を輸入していたと考えると、わざわざ阿蘇まで鉄素材を持って行き、
鉄器生産をするとは考えにくい。そのことから、阿蘇では製鉄が行われて
いた可能性が高いと考えられる。

215 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 00:05:57
鉄の加工はもちろん、製鉄だってあちこちでやってたんだよ。日向にもその
遺跡はある。

216 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 00:13:33
輸入される鉄ていは軟鉄
でも日本の一部では鋼が作られていたんだよ

217 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 09:08:46
邪馬台国が存在した時代に日本で最も発展してた国が
畿内に存在したことは考古学的に考えてまず間違いないだろう
だからと言って邪馬台国=畿内は成立しない

南北朝時代に九州北部だけしか制圧していなかった
懐良親王が明から冊封を受け日本国王を名乗っていた例からも
北九州の勢力が中華王朝に日本国王と認められることは十分可能

218 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 09:42:40
>>217同意
畿内にあったのは邪馬台国とは別の国

219 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/08(日) 10:16:43
宮崎行くのに唐津か前原か福岡平野かに船をおいていくわけないだろ。
だいたい20日とか10日1月とか、なんで行程記事をはしょっているのか、まったく理由付けできてない。
出来ていないのに読んだ気になって「素直に読めば」なんて言ってもだめだろ。

いいかげん間違いだらけの宮崎説の話は飽きたんだけどな。

220 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 10:28:11
>>219
東から行くことを考えるからおかしくなるんだ。西から行くんだよ。
有明海へ行くために唐津で上陸するんだ。

221 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 10:54:36
>>217
そうとは言えんよ。銅鐸が埋納されてから古墳まで少し間がある。
その間の考古資料はさしたるものがない。畿内勢力の消滅→新勢力の入植と
いう線もあり得るな。

222 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 15:11:58
>>220
言っても無駄。この人達は有明海へ行くこと自体理解ができんのですよ
だって東南と北東の区別もつかないんだから。「素直に読めない子」ですから




223 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 16:48:45
>>221
同じく、卑弥呼の時代の畿内については微妙なところ。

畿内説としては、邪馬台国があったとするわけだから、大きな勢力があったと
考えるわけだろう。
九州王朝説も同じだろう。

しかし、東遷説は違う。
卑弥呼時代は纏向以前と考える。

また、年代論に戻るわけだが。

224 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 19:49:54
後継者争いで宇佐神宮初の女性宮司誕生


225 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 22:42:30
後漢書
倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百余国

これは最初九州島のことだと無理に思っていたけど、
表現が少しおかしいと感じていた。大海の中とか山島とか。
小さい島を想像する。
後漢時代は倭人(日本人という意味ではない)たちが住んでいたのは、北界の南朝鮮のカヤ地方から
南の倭奴国(イト国)の範囲という認識だと思う。イト国は倭国の極南界なのだ。
倭の奴国ではない。なぜならすぐ後に倭国の極南界という解説があるから。
つまり本来は委であって、わざと人偏を付けたのが後漢書の編者だと思う。
なので百余国もあるということは韓国の南に小さな島々が点々とあるが、それらの島々に倭人がすんでいたのだろう。
魏略には山島に依りて国をなす。海を渡ること千里、また国あり。皆倭種、とある。
また国ありの国とは対馬国のことだと思う。
越が楚に滅ぼされた時、長江下流域から船出、対馬海流に乗って、九州と韓国の
間の島々に住み着いたと考えられる。
また能登半島のほうに流され住み着いたとも。だから越国と呼ぶのかもしれない。
また秋田のほうにも。秋田や越地方は米どころ。稲作を携えて船出した漁撈民を思わせる。
また越はオと発音するらしい。越人が倭人に変化。わざと卑しい漢字を当てたのだろうと考える。


226 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 22:52:16
225続き。
狗邪韓国とはカヤ韓国のことで伽耶を指すと思う。
倭人たちが住んでいる国々という認識だったと思う。
卑弥呼の時代になってようやく倭国という表現になった。
詳しくは倭国王帥升(後漢書)に表現がある。
でもこのころは、まだ倭国はなく、倭人たちの国々という認識でそれぞれに王がいた。
だから志賀島の金印の委奴国は倭の奴国ではなくイト国と読むと思う。
現にイトシマ半島や前原にはイトという地名がある。

227 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 23:10:19
【政治】日本政府、北朝鮮がミサイル発射した場合、朝鮮総連など在日関係団体の資産を凍結する方針を固める★8
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1236409238/336-

228 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 10:05:02
>>226
>現にイトシマ半島や前原にはイトという地名がある。

全国にイトとつく地名がどれだけあると思ってるの?
北は北海道から南は沖縄まであるわけで。
和歌山県なんぞ「伊都郡」とかなりストレートな郡まである
九州もしかり、北部も南部も糸糸糸と糸だらけ。
読みが似ているから糸島=伊都国なんぞ なんの説得力もないわけよ

229 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/09(月) 11:24:48
>>220
どちらも同じ。2度目の水行は倭人の船に乗ったのかい?それとも有明海沿岸で魏使が船をこしらえたとでも?
そんなことをするくらいなら、西でも東でも自分たちの船で回る。そんなことも理解できないへぼ説が宮崎説。

日程の行程に対する反論もまったくできないのでしょ。

ちなみに金印の説明の為に、奴国を筑紫平野から福岡平野までの当時の倭国としては超大国ってことにするのが宮崎説ですよね。
理解できないけど伊都国も有明海から前原までの大国って言いはるのが宮崎説ですよね。
以前、私のつっこみになみだ目でしっぽ巻いて逃げ出したのが宮崎説。


>>222
私の説は有明海ルートもある素晴らしい説ですw
http://yamat-2007.blogspot.com/

230 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 12:02:40
>>229
郡使は、日本の船に乗ってやってきたのだろう。
景初三年に難升米等が帯方郡に行った時、生口を10人乗せている。
使者やこぎ手あるいは兵のようなものもいただろうから、かなり大きな船
だったと思われる。

日本の方が航海に慣れているし、当然、航路や潮の状態も知っている。
大陸の人間だけで日本にやってくるのは難しいだろうと思う。

そう考えれば、船の乗り換えも特に違和感はなかっただろう。

余談だが、対馬海峡を渡れる船をかなり古くから作っていたわけで、
その技術力はたいしたものだと思う。建築も相当なものだったろう。
となると、道具も優れたもの(鉄器)があったに違いない。

231 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 12:45:36
一貫性のない行路や手前勝手に戸数をたしたりと
なんとも掴みどころのないブログですね

232 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 21:03:41
>230
埴輪で出てる船を再現したのを見たが
6m程度の半構造船の小船だったよ

233 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 21:55:03
「奴」 の読みが、ヌ(ナ)だったりト(ド)だったりするのは、
中国史書を書いた資料の元の時代が南朝か北朝かで発音が違うのだろうか。

要するに後漢書は記録を残した人物は漢時代の人物だから(編纂者は宋時代である)
委奴国の奴は漢音でトと読ませたのかもしれない。
狗奴国の奴はヌ(ナ)と読むのだろうけど、
初めて現れたのが魏略で魏の時代なので呉音のナに変化しているかもしれない。
魏の曹操時代は呉音だろうか漢音だろうか?
魏志倭人伝も宋時代に書き直したものだけど、
資料は魏時代の役人が書き残したものだから、魏時代の発音になっていると思う。
魏時代の発音が呉音ならば奴はナと読む。
だから奴国の奴はナ国と読むのだろうか。

ところで、そうだとすれば、狗奴国とはクナ国、クマ国、熊本県。

234 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:24:17
そう考えれば、イト国を倭奴国にしたらイ(ワ)ヌ国になってしまうから、
伊都国としたのかな?
実は魏書の編者陳寿は晋時代だけど、現存するのは12世紀の宋の時代のもの。
都は呉音でツだけど、トゥと12世紀には読んだのかもしれない。
現代音はdu、dou。

235 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:34:16
犬国なら、栃木県に犬飼郡と言うと地名があった。

236 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:38:22
金印は漢時代だから委奴国はイトと読ませる可能性あり。
たとえ委が倭のであっても、或いはゆだねるという意であっても
奴はトと読む。
それだと通説のナ(奴)国は合わなくなる。
ナの津とか他にもナに由来する地名が博多湾地方には多いらしいが。

237 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:54:15
>>233
熊本県は、もともと肥後と言っていた。古くは火の国あるいは肥の国。
熊本は、現在の熊本市付近の狭い地域をさす地名で、古くは隈本と言っていた。
加藤清正が築城のときに、隈本から熊本(城)に改名した。

現在の熊本県全体が、古代も一つの国だったとするのは疑問。
少なくとも、菊池川流域、阿蘇、白川(熊本市付近)、緑川流域、人吉・球磨
の5つには分かれていただろうと思う。

ちなみに、緑川流域(宇土市・城南町から八代より北)の地域が、火の国発祥の
地とされる。古代、強い勢力を持っていて、磐井の乱のあと北部九州までの
広い範囲を支配した「火の君」の本拠地はここだったとされる。

238 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 23:03:44
>現在の熊本県全体が、古代も一つの国だったとするのは疑問。
そういう意味ではなく、書き方が良くなかったと思いますが、
言いたかったのは、クマは熊本県のクマに由来するのではないかという意味です。
隈が本家なんですね。
菊池川の菊池は狗古智ヒク(ヒコ)、クコチ 菊池、
繋がりを感じます。
であるので、狗奴国とは今の熊本県あたりにあった国。

239 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/09(月) 23:40:27
>>230
>郡使は、日本の船に乗ってやってきたのだろう。
そんな妄想いわなきゃならない時点で宮崎説は終了。
あほは休み休みでも言って良いものではない。

>>231
理解できないのは貴方の頭が悪いから。
私は馬鹿には冷徹なので覚悟して書き込んでください。


240 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 23:56:46
対馬国=対馬
一支国=壱岐
読み重視でいいなら下記で決定。

対馬国=対馬
一支国=壱岐
末慮国=松浦
伊都国=糸島
奴国 =那の津
不彌国=宇美
投馬国=薩摩
狗奴国=熊本
邪馬台国=大和 山都 山門
歯黒国=四国
裸国=博多。

異論はあるまい?


241 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 00:07:01
>>240
>邪馬台国=大和 山都 山門

ど、どこだ!

>裸国=博多

理由は?

242 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 00:45:46
>>229 >>239
あなたが宮崎説終了と言ったところで、誰もまともに聞かないだろう。


243 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 03:22:00
>>240
読みでいくなら
邪馬台国は耶馬溪だな

244 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 07:38:25
>>240
博多 はかた はだか 裸
「ら」じゃねーのかよwww

245 :九州王朝大好き:2009/03/10(火) 11:39:37
>>212
弥生終末期の阿蘇地方の鉄遺跡は、
女王國連合と対立していた狗奴國連合のものでしょう。
女王國連合は鉄を半島に求め、
狗奴國連合は阿蘇リモナイト(ベンガラ原料)を原料に鉄生産。

又、製鉄以外のリモナイトの利用は阿蘇地方に農業生産力の増大をもたらし、
筑紫平野の勢力を超える勢力の発展を促した。
装飾古墳墓の北進がそれを示している。

また装飾古墳はベンガラ(リモナイト)の防臭効果を求めることから発達したものである。

246 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 14:22:15
末盧国は松浦に当てる人が多いけれど、
これは偶然。
読みも大事だけど、それの根拠になるものが第一に大事。
伊都、奴国、不彌がそれぞれ博多湾近辺の現在の地名と一致することからも、
地政学的にも伊都国は博多の内陸部であろうと思う。
それなら唐津などから降りて歩くなんて通常考えられない。
博多港に下りるはず。
自論だけど、末盧はマツラとは読まない。
マツは慣用句で日本的な読み。
多分ハラと読んだはずだ。
博多湾内にハラを見つけた。
元寇で有名な早良平野に。
旧早良郡旧原町です。現在早良区原
1丁目から8丁目まである。
こここそ、末盧国だと思う。


247 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 14:27:22
>>246訂正
慣用句×
慣用音○

248 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 15:00:49
>>246
最近見ない程の支離滅裂ぶりですね?

249 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 16:32:13
邪馬台国の邪馬は、山という意味じゃないのかな。

250 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/10(火) 20:04:38
>>242
泣き腫らした目で何かきこんでるんだ?
一つでも反論してみろ、無理なんだろうけどw

251 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:13:06
>>229
宮崎説を唱える人が一人だけだとおもってる?
宮崎説の利点は、その行程を素直に見ると合致すること。
九州が一大国だとは考えていない。
100里で別の国とすれば少なく見積もっても10kmで別の国だからね。

第二の利点は、発掘が進んでいないことで可能性があること。


252 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:46:30
邪馬台国は、南九州の首長国連邦。
魏志倭人伝が書かれたちょうどその時期に衰退し、大和に遷され
大和(畿内)の大王によって司祭王として祭られたため、
九州にあった時期の記述と大和に移ってからの記述が混在して、
方向や距離が混乱してしまったのではないでしょうか?

九州にあった時期の記述と、大和に移った後の記述をしっかり
分類する作業が必要です。


253 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/10(火) 22:37:39
>>251

>宮崎説の利点は、その行程を素直に見ると合致すること。
に対しては

>>219
>だいたい20日とか10日1月とか、なんで行程記事をはしょっているのか、まったく理由付けできてない。
>出来ていないのに読んだ気になって「素直に読めば」なんて言ってもだめだろ。


>九州が一大国だとは考えていない。
ってのは何いってるんだか。日本語の文章もまともに読めないようなら、漢文なんてまともに読めてないんじゃないか?


宮崎説なんて馬鹿なことを唱えてるのは一人ではないだろうがそう多くない、そして皆同レベルの馬鹿ってのは知っている。

254 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:01:34
宮崎はもうだめぼ

255 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:03:04
>>253
まずその口の悪さを矯正したほうがよさそうですね。
しかも固定観念が強すぎます。

256 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:18:39
>>253
自分の説が誰からも鼻も引っ掛けられないからと言って、他の説に八つ当たり
する必要はないと思うが。

257 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:32:34
邪馬台国に興味を持ってまず調べるのは、倭人伝の行程の記述だろう。
自分のことを振り返ると、不弥国で困ってしまった。
通説では、宇美町となっていたが、水行しようにも水がない。

では、放射説なるものがあるが、これでうまくいくかというと、やはり
伊都国(前原市付近)の南に水はない。

さらに、倭人伝では、伊都国は、末盧国から東南に陸行五百里余と書かれて
いるのに、通説では北東になっている。しかも、陸行?

有明海への行程を考えるようになって、すべてが納得できるようになったが、
このような不自然な行程解釈が長年にわたって通説として語られてきたことが
邪馬台国問題の難しさを物語っているように思う。

本当の邪馬台国を見つけるには、身勝手な通説を打破しなくてはならないと
思う。

258 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 00:11:57
>>257
確かに、従来の通説は、伊都国を怡土に比定したところから始まっていましたね。
しかし、これは、畿内説と北九州説の利害が一致したことによるもの(いずれの
説も伊都国を怡土あたりに比定しないと後が続かない)。
倭人伝を素直に読んで伊都国を佐賀市付近に比定すると、伊都国に出て目の前に
有明海がある以上、そこから更に奴国や不弥国に行くというのは無駄。放射説が
正しいということになります。
そうなれば、水行十日陸行1月も無理なく読めます。ということで、全て解決。


259 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 00:48:50
だいたい、放射説は、榎一雄や井上光貞など九州説の学者はもちろん、今は
山尾など畿内説の論者にも支持されていますね。倭人伝を丁寧に読んだ場合、
どうしても語順の変化を無視できず、その読み方になるからです。
しかし、伊都国を怡土に比定した場合、放射説はどうも具合が悪いこととなります。
放射説だと怡土の東に不弥国、東南に奴国と考えることになりますが、これでは、
博多湾を領有していのは不弥国で大国の奴国は港を持たなかったということになって
しまいます。これは非常識な話ですね。要するに、伊都国が玄界灘沿岸ならば放射説
はおかしい、放射説が正しいならば伊都国は玄界灘沿岸のはずはない、そうゆう関係
にあると言えます。


260 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 01:22:02
素直に読めば琉球です。

261 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 07:12:00
>>260
それは水行1日はどのぐらいとか、倭人伝が書いていないことにつき、先入観を
もって読んでいるからだ。倭人伝は投馬国や邪馬台国については、「水行」と書
くだけで、「渡海」とはしていない。九州島から出ていないと判断すべきなのだ。

262 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 07:33:25
一大率の問題もある。つまり、伊都国がどこであろうと、邪馬台国と伊都国は
かなり離れたところにあった。そうでなければ、一大率をおいて諸国を検察
させる必要はないわけだから。

>>258
伊都国は多久市とかあの付近じゃないかな。不弥国は港町で、遺跡などから
港町だった可能性が高い諸富町…今は佐賀市に入っているのかな。
その間にあるのが奴国。これは大和町から佐賀市付近。

263 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/11(水) 08:00:28
>>225
他の話題で埋もれそうだな。

まだ検証していませんが(積極的にしようと思ってはいませんが)、面白い解釈だと思います。

華人が倭国を、(今の日本ではなく)朝鮮半島の南端から九州北岸までの島々の領域という認識だったというのは、
依山島為居という表現や、奴国を極南界と書いたこと、三国志での狗邪韓國(半島の南端)を倭の領域として
書かれていることを上手く説明できそうな感じがしますね。

264 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 08:15:00
不弥国は小城あたりでしょう。当時あのあたりまで入り江が入り込んでいたようです。

265 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 08:59:23
>>263
女王国の以北に一大卒がいるのに小城・多久が伊都国で吉野ヶ里から筑後川下流域が
邪馬台国の位置関係ってどうよ?一大卒を派遣して監視させてるってことは逆にいえば
邪馬台国は直接以北の国を監視できませんってことだ。監視できる位置関係ではない
ということにならないかい?小城・多久〜吉野ヶ里の距離は水平距離で20`程度しか離れていないわけで。

266 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 09:10:31
前原は末盧国の都 「バル国」

267 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 10:17:57
>>266
バルとも読めるけど、バラ(ハラ)と読むほうが近いかもしれない。
盧は古代音ではラに近いから。
原を意味する。前原市の西の早良地区が早良王国で末盧国だと思う。
サワラのワラは原を表す。早良は昔、原町があったので、ほぼ間違いないと思う。
前原も早良王国に関係していると感じる。
近くに日向峠がある。日向川もある。壱岐出張所をはじめ壱岐の名の付く小中学校が点在する。
吉武高木遺跡は王墓と見られる。
日向の名から、天孫降臨の地を思わせる。飯盛山かもしれない。




268 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 10:19:24
>>267
訂正
前原市の西×
前原市の東○

269 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 10:39:33
3世紀前半までは奴国は伊都国の東南、であるから、港を持たなかった可能性がある。
その後、奴国が強大化し、伊都国を西に追いやり、奴国が港を持ったと。
で現在、伊都の名残りが怡土であると考える。
不彌国は通説の宇美でいいんじゃないかな。
不彌国の南に宝満川があるので、阿志岐という処で舟に乗り、南へ向かうと
筑紫平野に出て筑後川に合流という道程でしょう。

270 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 11:54:28
>>267
で、天孫降臨の地を思わせる。飯盛山かもしれない、
と書いたけど、近くに高祖山(皇祖山ともいう)があるので、
そっちかもしれない。
念のため福岡の飯盛山標高382メートルのことです。
飯盛山は全国に沢山あるので。

271 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 18:48:22
>>238
熊本県で「クマ」といえば、人吉・球磨地方。
日本書紀にも、この付近のことは、熊県(くまのあがた)と書かれている。


272 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:53:25
球磨とは久米のことだ。
ニニギの勢力によって北九州を追われた邪馬台国の国の一つ難升米の久米
が移り住んだ場所。南九州は、桜島の火山灰で覆われた不毛の土地で、人の
住めるところではなかった。だからその地も捨てて、畿内に移り住むことになる。


273 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 00:29:28
ほう。

274 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 01:44:59
>>245
阿蘇リモナイト(ベンガラ原料)を原料にした製鉄とは、
どんな製鉄法なのですか?

275 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/12(木) 09:51:34
>>265
私の説は2つのルートがあったという説なので、そのあたり多少混乱されるかもしれませんが、
伊都国は前原あたりで奴国は福岡平野です。(その後不弥国=宇美町から南下し大宰府を超えて久留米=投馬国を
経て邪馬台国=筑後川下流域、に到るというのが1つのルート)
里程の書かれているのは別のルートで、末盧国=前原から南東500里で佐賀平野に抜けるルートですが、
この南東500里の国は伊都国ではなく別の国です。(この後、南東100里、東100里で邪馬台国=筑後川下流域に到る)

一大卒は伊都国=前原にいて奴国や末盧国の国々を監視していた。これらの国々は邪馬台国=筑後川下流域からは
少し距離があるので、素直に納得されるのではないでしょうか。
ただ史を忠実に読むなら、一大卒の管理下に女王国=邪馬台国もはいるので(女王国以北〜)、もしかしたら宗教的な
主導者として卑弥呼が居て、実務的なことは一大卒が仕切っていたという事であるのかもしれませんね。

276 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/12(木) 09:59:14
>>258
>有明海がある以上、そこから更に奴国や不弥国に行くというのは無駄。放射説が正しいということになります。
つまり奴国や不弥国は行程上の国ではなくその近くにある国で、それらのことまでわざわざ詳しく書いてあるという事ですよね。
ところがその後は水行10日陸行1月と、行程上の国々や上陸地の国でさえ省かれているわけです。
このギャップは決して小さくはありません、矛盾と言ってもよい程度ではないでしょうか?

それで「素直に読んで」「無理なく読めます」などと言うのはどうでしょう?

277 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/12(木) 10:08:14
>>259
放射説はすでに廃れてた説です。至・到の違いやら記述語順の違いから行程をいじろうとしたわけですが、
結局、他にそのような書き分けがなされている何か(三国志の文章、他の文献、当時の慣習など)
がまったく見つれられなかった。

ところが放射説にすると経路がいじりやすいから、多くの人が自分の比定地に経路をあわせるために都合よく使っている。
各自の比定地に合わせるためだから、同じ放射説といっても邪馬台国の比定地はバラバラ。
自分の都合でいじってるわけだからバラバラなのは当然なわけですが、だからといって多くの人が支持してるとか
説が多いから主流だというのは間違いです。

278 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 10:28:45
>>275
張政ルートを重要視しない理由と根拠はなんですか?
張政の伊都国を勝手に別の国とか言っちゃってますけど大丈夫なの?その根拠は?
張政が長期間倭に滞在してたことくらいわかってますよね?
つまりその間 終始彼の認識と情報は間違っていた。中国に帰って
まで間違っていた。という話でオッケーですか?

279 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:46:25
大宰府の南の宝満川を南下すると、下流域に端間(はたま)というところがある。
端はツマと読み、着物のおくみのヘリ(端)を言う。
地形的に平地部が着物のおくみのような形に似ている。
ここが投馬国に違いない。それまでのルートをたどれば、すべて一致している。

奴国はは伊都国の東南だから、多分筑紫野市一帯がナの地だったんじゃないかな。
そもそも奴国が港を持っていたという確証はない。
間マ、あいだという意味で山と山のあいだに挟まれている地だから間国(マクニ)
だったのかも。それが、マがナに聞こえて奴というやや賤しい字を当てたと。
ナ国の官の名前が馬コというので、馬のマと間のマが一致する。


280 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 18:59:26
邪馬台国九州説の人はなぜ張政が卑弥呼の後継者に男王が即位したのを認めたか
その後なぜ内乱が勃発したのに阻止出来なかったか説明する義務がある。
つまり、張政は九州にいて邪馬台国のあった畿内にはいなかったわけだ。

281 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 19:57:26
張政に卑弥呼の後継者を決める権限があったの?
軍旗を持ってきたけけで軍団も連れていない張政に内乱を阻止する力があったとは思えないけど。


282 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 20:18:27
全くの論外>>280
ていうか大丈夫か?
周遊してきた大使とでも考えればわかると思うんだけど。どういう認識だよ

>まり、張政は九州にいて邪馬台国のあった畿内にはいなかったわけだ
九州にいたなら邪馬台国も九州。畿内は別のクニ
現在だって大使館全ては首都機能がある東京だからね。
これだけ交通機関が発達しててもそうなんだから古代なんて言うまでもないでしょ



283 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:07:17
>>281
もちろん「塞曹掾史」の張政は邪馬台国に内政干渉する権限を持っていた。
檄文を作って告喩しているし卑弥呼は魏の属国である親魏倭王だった。
張政に反抗すれば朝敵になり魏軍が侵攻して来る。

284 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:15:48
>>282
塞曹掾史の張政は九州で邪馬台国と狗奴国との戦争を調停中だった。
邪馬台国の首都である纏向にいないのはあたりまえの話しだ。

285 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/12(木) 21:57:03
>>278
張政ルートを重要視しない?誰がそんなことを言いましたか?
私は頭の悪い人とやりとりすると機嫌が悪くなりますので、勝手な誤解をせずに分からないなら分からないなど
と書き込んでください。

>張政の伊都国を勝手に別の国とか言っちゃってますけど大丈夫なの?その根拠は?
逆に、梯儁と張政のルートが同一だったという根拠は? 何も考えてないだけでしょ?
張政が国名に関して間違えていたのか、報告書を読んだ者が間違えたのか、そのあたりは分かりません。
ただ史の記述からは2つのルートがあると考えたほうが自然だと私は感じるのです。
伊都国・奴国の定説を取り方位がおかしくなるのと、定説を覆す根拠のない佐賀平野ルートと、
どちらが正しいか?ではなくどちらも正しい、という解釈ができるのです。

>張政が長期間倭に滞在してたことくらいわかってますよね?
教えてください。冬に関する記述は「倭地温暖冬夏食生菜」の冬だけですよね。それ以外に冬に関する記述は見られますか?
何を根拠に長期間といってますか?根拠も考えもなしに書き込んでいませんか?
私は2度の魏使は共に夏の1シーズンしか居なかったと考えています。この考えでおかしなところはありますか?


286 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:21:44
おい 頭の悪い人間にもわかるように書いてくれよ
他人にわからないような文章を書く奴って頭悪い証拠なんだよね
発達障害に多いんだよな こういうタイプは

287 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:28:25
>>285
全く答えになっていない
質問に逆切れした挙げ句に「逆に根拠は?」ですか
根拠のない人が人に根拠を求めてもどうでしょうか?


288 :ラッキー クッキー 八代亜紀www:2009/03/12(木) 22:42:32
宮崎・日向説について少し弄ってみるw

行程記事の解釈については譲らないだろうし、水掛け論になるだろうが
やはりネックは考古学的資料かな?

そもそも2・3世紀の九州で南九州を中心に北部九州にまで及ぶ
威信材体系でも、埋葬文化でも、あるいは土器様式でも良い
何か南九州に一大強国があったことを連想させるような物があっただろうか?

まあ日向邪馬台国をそのような大国にしなければ問題ないのかもしれない。
ぶっちゃけて言えば、戦いに明け暮れて、にっちもさっちも立ち行かなくなった北部九州の
首長らがどの勢力とも関係の無い、騒乱の地から遠く離れた南九州のオバちゃんをこぞって担ぎ上げた
・・・なんてシナリオならおkかな?w
無論、その場合倭人伝のあの戸数は誇張もいいところという話でw

ただそんなタナボタもいいところの話に魏から倭王の称号を得るなんて
あまりにもラッキーすぎてリアリティの無い話だがwww



289 :288:2009/03/12(木) 22:52:07
それにこの板の日向説で違和感を感じるのは
その行程記事の解釈で魏使のルートをわざわざ熊本あたりから九州を斜め横断するコースを想定している部分。

普通なら関門海峡を越えて日向灘から上陸すればそんな苦労をせずに済むはず。
勿論そうなると「陸行一月」が消化できなくなるので、そこはガンとして譲らず
その理由として波が荒くて当時は航海ルートに適さなかった・・・と言うことだが

当時は既に豊予海峡も自由に航行していたのではないかと思う。
その根拠は「銅矛」の分布。

意外にスルーされているが土佐の太平洋側にも銅矛の分布地域があり
九州からの海上ルートでの文物の行き来が想定できると思う。





290 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:56:38
>>263
そうですか?ありがとう。

よく、倭人は山東半島を経由して渡ってきたとか、朝鮮半島南部から渡来したとか、
直接江南から渡来したとか言われるけど、
私は海の直接ルートだけだと思う。
というのは、大陸は北方から侵略者が南下してきたため、大陸を北上することは、
まず危険だ。
だから海上ルートと大陸南下、又は長江上流へ逃げる3通りしかなかった。
海上ルートは会稽あたりを出向すると対馬海流に乗り、自然に南韓、北九州
越地方、秋田地方に着岸する。
であるので、南韓の小さな島々に住み着き、馬韓(後の百済)辺りにもちらほらと倭人が
住み着き、そこでは人種が入り混じってそれぞれの異質の言語を使っていたらしい。
南韓と同時に北部九州にも倭人が住み着き、倭の領域は南韓から北部九州沿岸だったということだ。
楽浪郡にいる郡史がまるで珍しい物を記すように倭人を観察している。
ということは、倭人種は半島北部大陸部にはいなかったてことだ。
そもそも米作はいつ伝わったか知らないけど、華北部は小麦を良く食べるような気がする。
やはりお米は熱帯地方原産だから、寒い地域は熱帯ジャポニカは育たないだろう。
温帯ジャポニカは大丈夫だ。だから朝鮮には熱帯ジャポニカはないらしい。
伝わっても育たなかったのかもしれない。
つまり、日本に熱帯ジャポニカを伝えたのは半島ルートではなく直接海上ルートの倭人たちか、
又はそれ以前の南からの海上ルートだと思う。


291 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 03:49:41
>>289
>関門海峡を越えて日向灘から上陸すればそんな苦労をせずに済むはず。
@ 伊都国がどこにあったのか? 佐賀平野にあったのならば、そこで一大率
 に会い、案内を請うとなれば、玄界灘に戻ることは考えられない。
A 玄界灘沿岸からは東回りにしろ西回りにしろ海の難所がある。東回りの場
 合、水行距離は有明海南下に比べ3倍くらいになる。しかも、黒潮に逆らう
 こととなりかなりの日数を要するであろう。
B 伊都国から先は一大率の配下が案内したであろう。普段、一大率らが本国
 との連絡にどのコースを使っていたかとなれば、距離が短い方であろう。
C 日向を本拠とする邪馬台国勢力はしょせん九州内の勢力にすぎない。北九
 州市付近や山口県の勢力を支配下には置いていなかった可能性を考えるべきだ。
 関門海峡の制海権をもっていなかったのでは? 倭人伝は、女王国の東渡海
 千里、亦国有りというだけで、渡海十里の本州に関する記述はない。
D 日向における邪馬台国の位置も問題。西都原付近ならともかく、都城付近
 ならば、西回りがもっとも素直なコース。


292 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 04:03:21
>>288
2、3世紀と限らず、少し広いスパンで考える必要があるな。
まず、邪馬台国時代よりも前だが、中国で王侯に与えられた玉璧が出ている。
それに中国の貨幣である貨泉。これで南九州が早くから中国と通交し、王侯と
して遇されるような豪族がいたことが分かる。

次に弥生末期。花弁状住居が多数発掘されている。部屋割りをもった大型住居
であり、倭人伝が有屋室、父母兄弟臥息異処と書くところを彷彿とさせる。
それに、櫛描紋土器が宮崎から大分にかけて盛行し、一大文化圏を形成してい
る。これらにより、邪馬台国時代には多くの民が文化的生活を営んでいたこと
が明らかだ。溶鉱炉の址や鉄鏃がみつかっており、鉄の文化が入っていたことも
まちがいない。

古墳時代に入ると、数千基の古墳が築造されている。前方後円墳だけでも数百。
大きさは近畿ほどではないが、百数十メートルのものはいくつかある。柄鏡式など
の初期古墳も多く、弥生末期から古墳時代へと権力の連続性が認められる。
威信財とされる蛇行状鉄剣が日向から多く出土しており、各地から少しずつ発見
される同種の剣との関連が注目されている。それに、準構造船や大型家屋の埴輪。
中国との交流や高い文化を示している。
北九州の甕棺の消滅、古墳時代に入っての衰退、近畿の銅鐸の消滅、弥生墳墓と
古墳の断絶のような、勢力の交替をうかがわせる朝貢は日向にはない。


293 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 04:05:31
朝貢→徴候ね。

294 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 06:29:33
串間(宮崎県南部)で発掘されたその国宝の玉璧について
ちょっとトンデモかもしれないけど面白いページがあるね

http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/4373756.html
その玉璧と箸墓のデザインが良く似てるという話
http://www.k2.dion.ne.jp/~penta/LOVELOG_IMG/8FB893V919592u.JPG
http://www.k2.dion.ne.jp/~penta/LOVELOG_IMG/20050711a3f2bf32.JPG

295 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 06:58:09
>>276
>奴国や不弥国は行程上の国ではなくその近くにある国で、それらのことまで
>わざわざ詳しく書いてあるという事ですよね。
>ところがその後は水行10日陸行1月と、行程上の国々や上陸地の国でさえ
>省かれているわけです。このギャップは決して小さくはありません、矛盾と
>言ってもよい程度ではないでしょうか?
使者一行は伊都国まできたら一大率側の案内の準備が整うまでしばらく待った
であろう。その間に、奴国、不弥国へ案内されたということであろう。2、3
日あれば両国を回って伊都国に戻れる。伊都国から投馬国へ向かって出発した
後は、旁国の都など訪ねずに、投馬国へ行ったのであろう。旁国の王が挨拶に
くることはあっても、その都を訪ねなければ書かない、そう考えて何も不自然
ではない。


296 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 10:35:37
>>292
悪いが「玉璧」も「花弁状住居」も「蛇行状鉄剣」も過去に何回か挙げているのを見たが
何れも南九州がそれなりに栄えていた証であって

今言っている”九州の北部まで勢力を伸ばした証”とは異なる方向のお話。
話がズレているwwww

しかも時代を前後に大きく取ってとなると単に
「日向はこんなに栄えていたんだぞ馬鹿にすんな!」
とネタを拾ってきただけの話で益々意味が無い。

正直読んでいてイタいレベルwww





297 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 11:46:10
都合が悪くなると名無しになるのはどうしてなんだろう

298 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 12:08:36
2世紀位までは倭人が日本では一番文化程度進んでいたと民族だと考える。
なにしろ海人であると同時に高度な稲作技術を持っていたから。
伽耶地方から北方の高度の技術を北部九州に文化を伝えたりと、
北部九州にとっては、伽耶地方はなくてはならない地方だったに違いない。
しばしば倭人が新羅沿岸を荒らしたのはきっと南韓の倭人が多かったんじゃないかな。
新羅本紀には倭人がしばしば沿岸に来ては荒らしていくと書いてある。
そんなに何度も危険を冒してまで海を渡ったのかなーと疑問だったけど。
倭人たちが日本に漂着したのは秦の戦乱のBC3世紀頃だと思う、
その後、秦の流民、戦乱の民族移動などで、玉突き式に日本に北方渡来人が入ってきた。
 


299 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 12:41:36
>「花弁状住居」
そもそも九州北部ではレアな物…
 >http://www.nishinippon.co.jp/webclub/kimonoclub/bunka/20081119/20081119_0006.shtml
 >福岡、佐賀、長崎の九州北部3県では初めて。
九州北部への勢力の伸展と言う話からはズレている・


>「蛇行状鉄剣」
自分でも書いているが古墳時代に入ってからの遺物。
それに日向を中心にしてそこから各地に配布されたと想定しうるような物でもない。

>串間の璧
いつ日本に来たのか分からないシロモノ。
その伝来ルートもひょっとしたら東シナ海方面かもしれない。
これをもって大陸から王侯として遇された勢力があった証と言うのはいくらなんでも飛ばしすぎw

じゃあ現代の日本で何処かの金持ちが中世ヨーロッパの王族の所持品をコレクションしているからと言って
そいつをヨーロッパの王族の末裔とするか?ってレベルのお話だよwww


・・・まあ以上のことは過去にも書いたと思うが
とにかく日向説の奴は考古学的資料の話になると時代も分布範囲も無視して
とにかく「日向はこんなに栄えていたんだ!」と言う物を脈絡無く並べ立てるだけ…

・・・お前チョッと落ち着いてアタマ冷やせよとwww





300 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/13(金) 12:44:56
>>287
>根拠のない人が人に根拠を求めてもどうでしょうか?
そのままお返しする言葉です。

さらに私は別ルートと考えるに充分と思われる理由を以下のように書いています。
>伊都国・奴国の定説を取り方位がおかしくなるのと、定説を覆す根拠のない佐賀平野ルートと、
>どちらが正しいか?ではなくどちらも正しい、という解釈ができるのです。

あなたはどちらかのルートのみの説ということのようですが、それで満足な説明ができている説を私は知りません。


301 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 12:52:26
そもそも九州説でその30ヶ国の範囲を提示した場合
北部九州から南九州に至る広大な範囲を示すって言うのはあまり聞かない。
( ト レベルは別にしてw)

それが邪馬台国を中心にした女王国かどうかは別にしても
弥生末期に九州南北にまたがる連合体を想定しうるような物は出ていないというのが現実だろう。

そこら辺が南九州説がイマイチメジャーになれない要因だと思うwww

302 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/13(金) 12:59:19
>>290
日本人のルーツ、になるともう少し慎重な話にならざるを得ません。
縄文時代に話していた言葉があり、そこに弥生時期に大量の大陸人がやってきただろうことは分かっていますが、
言語的にも北方のアルタイ語族との関連性と共に、台湾を発祥とするオーストロネシア語族との関連性が
最近は指摘されているようです。

言われるような、倭人(=日本語を話す人々)が半島南部から北九州にいてそれが後に拡大した、という解釈は
時期的にも領域的にも若干むづかしそうに思います。

面白いのは、琉球は(台湾に近いにもかかわらず)日本語と非常に近い(独立国ではないため日本語の1方言という
位置づけ)ことと、東日本に広く住んでいたアイヌ(アイヌ語)と日本語がまったく別の言語(同じアルタイ語族ではあるが)
と。百済・新羅を跳び越して高句麗の下層の人々言語と日本語が近かったのではないかという話。

時間がない、まとまらなくてすみません。

303 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 13:21:49
>>302
>言われるような、倭人(=日本語を話す人々)が半島南部から北九州にいてそれが後に拡大した、という解釈は
時期的にも領域的にも若干むづかしそうに思います。
倭人は日本語を話す人とは言っていません。
倭人は江南からの渡来人ですから、南方系の言語です。

稲作文化を携えた倭人はあっという間に日本全土で人口を増やしたに違いありません。
縄文人の母をもつ混血が増えたでしょう。アルタイ語族です。
少し後から半島経由の北方渡来人が入り、この人々はアルタイ語系です。
ですから、今の日本語はアルタイ語系で南方系も混じっているのです。
風土記にも記載があります。
白水郎(倭人)はまた先住民とは違う言語を使っていると。
もちろん天孫族にとっても倭人後は違う言語です。
倭人は爆発的に増えたのにもかかわらず、日本語の系統はアルタイ語なのです。
それは母系が縄文系も含めて北方系の方が多いからでしょう。
そのかわり、男系では倭人系は約半分近くいます。


304 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 13:33:15
琉球はおそらく江戸時代頃から本土人が移り住み倭人系統を増やしたと思う。
アイヌもほとんど倭人と混血化していますが、アルタイ語系です。
>百済・新羅を跳び越して高句麗の下層の人々言語と日本語が近かったのではないかという話。
それこそ大雑把すぎる解釈ですよね。
百済、新羅は流民などで、言語が雑多だったらしい。
紀元前後は。それが次第に一つにまとまっていったと。
支配者はフヨ系。高句麗語族。 だから朝鮮も高句麗系で
日本語によく似ている。
ニダとかデとかケとか助詞や接続詞が。

305 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 13:39:47
アイヌが日本語にならなかったのは日本国に併合されたのは明治からだからです。
江戸時代以前までは混血化はややゆるい範囲で進んでいたけれど、
アイヌ語は健在だったのです。
明治維新後混血化が急速に早まり現在アイヌ語はなくなりつつあります。
今はそのアイヌ語の運命の貴重な時期なのです。

306 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 13:52:55
>台湾を発祥とするオーストロネシア語族
そうですか?
台湾の高砂族なども昔をたどれば、スンダランドあたりの渡来人じゃないの?

倭人もおそらくオーストロネシア系言語だったと思う。

307 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 14:01:41
>それは母系が縄文系も含めて北方系の方が多いからでしょう。
それともう一つは支配者の言語にまとまっていくという性格があると思う。
スペインに侵略されたブラジルやアルゼンチンのどを考えれば想像できる。


308 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 14:22:06
言葉といえば、九州は大きく3つの方言に分かれる。
代表的というか、一般よく知られているものは、長崎、佐賀、福岡(福岡市以南)
そして熊本の方言だろうな。

南九州(鹿児島、宮崎の南部)は、全く違うタイプの言葉で、そのまま喋られたら
他の地域の人にはわからない。

福岡県の北部と大分地方は、瀬戸内海地方の影響を受けている。

面白いのは、人吉(球磨地方)とえびの市は、峠一つ、わずか10km程度の
距離しか離れていないが、言葉が全く違うこと。球磨地方は完全な熊本弁。
えびの市は完全な鹿児島弁で、相容れない言葉になっている。
球磨地方が熊襲に入るのかどうか、微妙なところである。

これは、古代からの文化あるいは勢力圏の違いといえるのかも。
ただ、宮崎県南部は、中世あたりから島津氏の影響を受けた可能性もあるが。

309 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 15:12:06
えびのや鹿児島は隼人が多かったんじゃないかと
熊本南部が熊襲でしょ
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_04071001.gif
この図のグリーンが熊襲、赤が隼人の勢力圏だったんじゃないの?


310 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 16:00:41
>>304
数詞は全然似てないね

451 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 20:56:43
             数詞対照表

  古代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語

1   Φi1to2    −−  hっtっn hっtっn   hΛnah    hana
                 (一等)  (河屯)
2   Φuta    −−  tu¨pっ¨l tuβっr   tulh      tu:l
                 (二尸)  (途孛)
3    mi1     mil    siet    sei     s∂ih     se:s
            (密)    (悉)   (洒)
4    'jo2     −−   −−   nei     n∂ih     ne:s
                       (廼)
5    'itu     'utsu   −−   ta∫us   tasΛs    tasっs
           (于次)        (打戍)
6    mu    −−   −−  'jul∫us  'jっsΛs    'jっsっs
                       (逸戍)
7   nana    nanun  −−  'ilkup    nilgub    'ilgob
            (難隠)        (一急)
8    'ja     −−   −−  'jultap   'jっdщlp    'jっdっl
                       (逸答)
9  ko2ko2no2  −−   −−  'ahop    'ahob     'ahob
                       (鴉好)
10   to2'wo    t∂k   −−   'jっl     'jっlh     'jっ:l
            (徳)         (噎)

※古代日本語の[i1]はイ列甲類、[o2]はオ列乙類。[っ]は母音[?]の代用。
  高句麗語の数詞「5」については村山説を挙げたが、
  李基文や板橋義三は再構語形を[uc]としている。

311 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 16:02:00
454 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 01:53:30
「三国史記」に記された高句麗の故地名の音訓併用表記

新羅意訳 高句麗語
三餐郡 密波兮 「み(つ)はけ」(中国語フォントでは餐が山+見になる)
五谷郡 于次-呑忽 「いつたに/たむ」
七重県 難隠-別 「ななへ」
十谷県 徳頓忽 「とたに/たむ」
兎山郡 烏斯含達県「うさぎだけ?」
海曲/海西県 波旦県 「わた」

三 mit (jap.み(つ))
頂上が平らな山 pua-kei (jap.はけ、はげは山梨・神奈川でまだ使われているようです)
五 (h)u-tsi (いつ)
谷 ta/on-mut (呑忽 = 頓忽) (たに、たむ?)
七 nan-in (Tungusic nadan)
重 in-pet,pet
十 to/ek (と(を))
兎 o/u-si/e-g/ke/am (をさぎ)
山 d/ta
海 pua-dan(波旦)? (Korean pada / Jap.わた)

水 買 mai (Jap.*mi-)
深 伏斯 b/puk-si/e(ふかし?)
谷 呑,旦 (たに)
鉛 乃勿 nai-mut (Korean nab) (なまり?)
口 忽次 kut-tsi (くち)

312 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 16:17:02
訂正
>それは母系が縄文系も含めて北方系の方が多いからでしょう。
正しく表現すると、母系ミトコンドリアは北方系、南方系半々だ。
北方系とは中央アジア、モンゴルなどを経由した民族。
南方系は東南アジアを経由した民族。
でも時期や勢力関係で北方系が南方系を侵略して母系だけは南方系で残るけど
言語はアルタイ語に変化したかもしれない。
なので日本は主に沖縄や九州方面がオーストロネシア語系で本州から以北はアルタイ語だったかもしれない。
そこへ倭人が入った。倭人は南方語系。しかし、直後に北方系支配者が多く入り、
力関係で倭人言語もアルタイ語に同化。大和言葉が出来上がったのだろうか。
文法的に韓国語にそっくり。ところが中国とはまるっきり違う。

遠い昔はブリアート人が樺太経由で入ってきたらしい。新モンゴロイドだ。
言語もアルタイ語系。縄文時代は日本の北方のほうが文化程度も高いし人口も多かったらしい。



313 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 17:02:11
>>310
だから高句麗の勢力が強いとき、日本に百済や新羅からフヨ系渡来人がきたんじゃないのかな。
数詞などの一致からみると。

現代朝鮮語は数詞が違うみたいだけど、7世紀に高句麗が滅亡したのも関係あるかも。
また新羅や高麗語が復活したんじゃない?
日本に入ったのは新羅系人や百済系人はかなり多いですよ。
神社や土地の名前なども調べてみて。



314 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 17:45:12
>>309
熊襲と隼人は同じじゃないかと思うのだが。
墓の分布は微妙だなあ。

何かで、地下式石板積石室墓は、古墳の竪穴式石室の元になっていると
言うのを見たことがあるが…。

個人的には、地下式石板積石室墓の分布する範囲が熊襲とは思えないのだが。
むしろ、地下式横穴墓の方かなと思ったりして。

墓を持たないとされる南部も気になる。

315 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 17:51:24
>>314
いや隼人は南方系で漁業を元々はやってた民族
熊襲は古来から狩猟をやってた民族ではないかと
同じではないよ

316 :Y染色体:2009/03/13(金) 18:11:29
↓これをわかりやすく例えると
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4812207533/sr=1-1/qid=1231350588/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books&qid=1231350588&sr=1-1

Y染色体 アダム 天忍穂耳命

A系統    天穂日命(出雲国造)    コイサン

B系統    天火明命(物部)       黒人

D2系統   天皇家            日本人
D1系統   伏見宮系(旧皇族)    チベット人
D3系統   伏見宮系(旧皇族)    チベット人

E系統    南朝             白人(稀)、アフリカ(稀)

C系統    平家             シベリア・北アメリカ・オーストラリア

F〜R系統   源氏             白人・中国人・韓国人・東南アジア・北アメリカ・南アメリカ
 
O2a系統   田安家           タイ人
O2b系統   清水家           韓国人
O3系統   将軍家           中国人・ベトナム人

317 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 18:41:39
Y染色体のD2は長江下流域の海人の倭人。
親戚筋D1,D3のチベット人は倭人に良く似ていることから、
D系統は中国華南地方に元がある。
日本の縄文系Y染色体はほとんど絶滅。母系で残るのみ。
多くの説はD2は縄文人だと言うがそれは誤り。
縄文人のY染色体で今でも残っていると考えるのは頭大丈夫のレベル。
ブラジルやアルゼンチンだって、アボリジニにしても、
混血化は早い。数百年も経てば元のY染色体は消滅。
そのかわり日本の倭人は新しい渡来人の下で農耕民として安全に生活、現代でも半分近く残る。
倭人は中国に数ある民族の一つだったが今はもう大陸にはいない。
であるから、最初入植したはずの北部九州からD2系統は少なくなり
0系統に塗り替えられている。




318 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 18:45:18
>>317
小学生からやり直せ

319 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:03:44
D2系統
88% アイヌ
39% 青森
48% 新潟
40% 東京
33% 静岡
26% 徳島
28% 九州
39% 沖縄(北琉球)
 4% 八重山(南琉球)

D1系統
16% チベット
 1% 東京
16% イー
 3% トゥチャ
 7% ミャオ
 2% ヤオ
 3% ベトナム
 3% マレー

D3系統
33% チベット
 0% 東京
 6% ホイ
 1% モンゴル

320 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:05:09
C3系統
13% アイヌ
 0% 青森
 2% 東京
 2% 静岡
 3% 徳島
 8% 九州
 0% 沖縄

91% オロチョン(ツングース)
68% エヴェンキ(ツングース)
27% 満州(ツングース)
84% ブリアート(モンゴル)
52% ハルハ・モンゴル(モンゴル)
50% ユカギル(古アジア)
33% コリヤーク(古アジア)
25% チュクチ(古アジア)

74% カザフ(テュルク)
18% ウイグル(テュルク)

12% 朝鮮
 5% 漢族(華北)
 3% チベット

 5% 漢族(華南)
 4% ミャオ
 4% ベトナム
11% マレー

42% タナナ(ナ・デネ系)
16% シャイアン(アメリンド系)

321 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:07:00
O2a系統
 1% 東京
 0% 朝鮮
 2% 漢族(華北)
 0% チベット
 0% オロチョン(ツングース)
 0% ハルハ・モンゴル(モンゴル)
30% 漢族(華南)
11% ミャオ
68% チワン(タイ・カダイ系)
36% ベトナム
28% マレー
47% タイ

O2b系統
 0% アイヌ
26% 東京
30% 沖縄(北琉球)
67% 八重山(南琉球)
 0% 漢族(華北)
 0% チベット
51% 朝鮮
 4% 満州
 0% オロチョン
 2% ブリアート
 0% ハルハ・モンゴル(モンゴル)
 0% 漢族(華南)
 0% ミャオ
 1% フィリピン
 6% タイ
14% ベトナム
20% インドネシア

322 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:08:15
O3系統
 0% アイヌ
15% 青森
14% 東京
20% 静岡
21% 徳島
26% 九州
16% 沖縄(北琉球)

66% 漢族(華北)
33% チベット
38% 朝鮮
38% 満州
 0% オロチョン
 2% ブリアート
23% ハルハ・モンゴル(モンゴル)

33% 漢族(華南)
71% ミャオ
52% ヤオ
16% チワン(タイ・カダイ系)
31% マレー
41% ベトナム

DNAでたどる日本人10万年の旅
―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4812207533/sr=1-1/qid=1231350588/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books&qid=1231350588&sr=1-1

323 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:37:03
>>312
訂正
>遠い昔はブリアート人が樺太経由で入ってきたらしい。新モンゴロイドだ。
ブリヤート人には
Y染色体Nが割合多いので、元はN系統かもしれない。新モンゴロイドは訂正。
現代のブリヤート人に新モンゴル系が多いというだけで、古代はわからないので。
アイヌ人はN系統かもしれない。
C3系統はモンゴル人に多いので新モンゴロイド系。チンギスハーンの顔が典型。

324 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:20:54
まとめると

アイヌ語はアルタイ語族である

アイヌ人は元々N系統のY染色体を持つ

325 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:32:12
>>316-324スレ違い。
邪馬台国を築いたのはアイヌ系ではない。
シュメール系の秦人。

326 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:32:32
>>324
ゴメンネ、また訂正。N系統はヨーロッパ系だった。明らかに違う。
アイヌ人はアメリカインディアンにも似ているし。
古モンゴロイド系だとは思うけど。
スレ違いすみません。

327 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:43:47
 日本本土人の常染色体やミトコンドリアでは朝鮮南部とほとんど差がなく、
アイヌ人や沖縄人との差のほうがずっと大きいことは、
母系の大多数が渡来人の系列であることを意味している。
しかし、Y染色体の約半分がアイヌ人と共通であり、
沖縄人とも似ていることから、父系の約半分は縄文人由来なのである。
つまり、父系と母系の頻度が異なっている。

日経サイエンス2007年6月号「対談 DNAで探る日本人の起源」の中で、
人類学者の篠田謙一博士の言葉を借りると、
「すると「女性人は全員女だった」と言う話になるんです。
これは絶対あり得ない」というほどである。

328 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:45:50
>>317
 実は人間でも、Y染色体からみた人種民族集団の類似度と、ミトコンドリアや
常染色体からみた類似度が異なるような例は、もう既に知られている。
ラテンアメリカの例、散在する太平洋諸島の例、インドの例である。
現在のラテンアメリカ諸国は16世紀以降スペインやポルトガルに征服された。
やってきたのは主に男性である。
兵士として来た人や新天地で一山当てようとした人々が主なのだ。
その結果、ラテンアメリカ諸国では白人系のY染色体が多いのに対し、
ミトコンドリアなどでは白人由来は少なく、先住民のものが多くなっている。
同様なことはポリネシアのヨーロッパ諸国の植民地でも起こっている。
「原住民」のミトコンドリアを調べても白人系のミトコンドリアは全くなかったのに、
Y染色体は白人系が多く見つかるのである。
グアムなどのマリアナ諸島などではもっと酷いと考えられる。
スペインの圧制に対して大反乱を起こした原住民は大虐殺にあい、
大人の男は残らなかったと記録されているので、現地人のほとんどのY染色体が
白人系なのに対し、ミトコンドリアはミクロネシア系だと考えられるのである。
(ブライアンサイクス『アダムの呪い』ソニーマガジンズ, 2004、
スティーヴ ジョーンズ『Yの真実-危うい男たちの進化論』, 化学同人, 2004などを参照)

 インドの場合は、3000年以上前にアーリア人(白人の一人種)が中央アジアから
インドに侵入し、上層階層を形成した。その結果、父系は母系に比べてアーリア人が
比較的に多いのである。

329 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 23:19:29
>日本本土人の常染色体やミトコンドリアでは朝鮮南部とほとんど差がなく、


倭人の男系が縄文人の母と混血したのでD2系統が増えた。
母系はそのまま残る。
それと同じことが朝鮮でもいえる。
0系統の男系が縄文人の母と混血したので0系統が増える。
でも母系はそのまま。

ミトコンドリアは朝鮮も日本も南方系北方系半々。
でもよくみるとM7系統が朝鮮より大分多い。
これが倭人の母に多いハブロタイプだったんだろう。
母親系は古いタイプを残せることは出来ても、
男性のようにそれほど増やすことはできないという証明だ。
M7aは縄文人とかいうけど、縄文人はB、F系統だと思う。

330 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 23:29:59
>>329
アイヌの9割近くがD2系統なんだけど

D2 縄文人

O2b 倭人

O3 秦氏

331 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 23:43:30
だからアイヌ人は混血。
純粋なアイヌ人を調べたの?アイヌ人の古い人骨を調べたの?
近世の人骨じゃだめですよ。
紀元前のものでなくては。
Y染色体は調べられるんですか?
ミトコンドリアは古い人骨でも調べられるようだけど。

332 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 01:00:30
>>296
>南九州がそれなりに栄えていた証であって
結構。結構。従来、未開の地だとか文化の発達がひどく遅れていた地だと片づけられて
いた南九州について、南九州説を否定する立場の者すら、それなりに栄えていた証拠が
あることを認めざるをえなくなったということは大きな進歩だ。南九州の調査が進めば
更に進むよ。

>>299
>九州北部への勢力の伸展と言う話からはズレている・
これだから素人は困ったもんだ。同じような遺跡が南からも北からも出たらどちらから
どちらへ伸展したかなど、分かるものではない。近畿の古墳と南九州の古墳、どちらが
先か分からんことを考えるべきだ。
南九州にあって北九州にほとんどないことが重要なんだよ。北九州に花弁型に匹敵する、
あるいはそれを凌駕する住宅形式があったのか?それが問題なんだ。北九州にそんなもの
はない。南の方が進んでいたんだよ。

333 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 01:17:07
>>299
>「蛇行状鉄剣」 日向を中心にしてそこから各地に配布されたと想定しうるような物でもない。
配布したのかどうかではない。地位の高い者が身につけたものと考えられている。
各地から出ているが、日向からの出土数は突出している。地位の高い人物が日向には
多かったということだ。それが何を意味するか、分かるかな?

串間の璧についてはずいぶんこじつけたものだな。まあ、いくら悔しがっても、ほかの
地域からはまったく出ていないからね。お気の毒様・・・・



334 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 01:19:15
>>332
しかし花弁型住居というものは結局そこだけで、消えてしまう。
つまり、とある一地方のひとつの時代的な流行に過ぎない。
九州全域に広まるということもなく、
もちろん本州(畿内)・四国へは何らの影響すら及ぼしていない。

335 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 02:28:07
>>334
影響力とか武力という話をしているんじゃなくて
単に南九州に独自の文化圏(当時としては高度な)があった
って言いたいだけなんじゃないの

宮崎県大淀河畔で見つかった貨泉や
串間の玉璧は南九州と中国に
紀元1世紀〜2世紀ごろにはすでに国交があったことを示している
この時期には南九州にもすでに中国からの渡来人があったわけだし
北九州のルートとは別の中国からの海路があったのかもしれない


336 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 02:57:06
>>334
おいおい、継続的に繁栄する中で消えたということは、それ以上の高度なものに
発展したってことなんだよ。日向から立派な家型埴輪が出ていることは知ってる
んだろうな。

337 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 07:52:06
>>335
>南九州に独自の文化圏(当時としては高度な)があった
>って言いたいだけなんじゃないの
ある程度はあたっている。遺跡や遺物で勢力の伸展はなかなか分からない。
墓や鏡など、何とでも解釈できるものなんだ。北九州にしたって近畿にしたって
そこが勢力の中心だったなどと証明できる遺跡、遺物は何もない。
しょせん、ある程度の推測にすぎんのだよ。そして、見逃すべきでないのは、
北九州の甕棺の消滅、古墳時代に入っての衰退、近畿の銅鐸の消滅、弥生墳墓と
古墳の断絶といった事実。これらこそ、権力の交替をうかがわせる徴候だ。
日向が弥生から古墳時代にわたって繁栄を続け、北九州や近畿は弥生後期あたり
で権力の交替があったらしい。となれば、日向が北九州や近畿を征服した可能性
が高いということになる。

338 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 08:16:53
南九州に高度な文化圏があった。
あったような気がする。
あったと思う。
たぶんあった。
あったらいいなあ・・おまえの希望かよ


339 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:12:23
悔しがってるな。南九州説は盤石なんだよ。
@ 倭人伝の記事に完全に一致。しかも、伊都国は肥前国府、投馬国は薩摩国府
 邪馬台国は記紀の伝承地だ。
A 南九州に弥生から古墳時代にかけて高度な文化圏が存在したことは明白。
B 記紀の伝承に合致。
C 中国史書が一貫して南九州を指示。

340 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 10:18:13
 『海神宮訪問神話の研究』宮島正人著に筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原として、福岡県古賀市青柳の地を比定。立花山があり、その北の尾東山麓に五所八幡宮が鎮座、墨江三前神も祭神になっています。
立花−橘、尾東−小戸、青柳−阿波岐と対応しており、この説は卓見・


341 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 10:54:12
家型埴輪や船型埴輪は文化の象徴であったのは明白であろう。
家型埴輪は子持であり普通の家とは違う。権威のある人の家であっただろう。
船についても渡航技術が既にあったという証明でもある。
宮崎の古墳はその出土品から見ても戦闘を好まない国だったことがわかる。
したがって邪馬台国があったとするのはなんら否定されるものではない。

記紀により伝承したものが史実であれば、大和朝廷による天皇制(建国)樹立のために
改ざんされたのであって、それが記紀の神話を否定される覚えはない。
記紀=史実であることは大和朝廷の時代背景を考えれば明白である。

よって邪馬台国=南九州またはそれに近い場所である。


342 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 11:37:22
日向国、出雲国、大和国。
この三大権力がどのように移り変わったか検証すれば
日向国=邪馬台国であったことは明白となる。
また、なぜ「大和国」は「日いずる国(日本)」へ改称したのか、
理由付けにもなる。

畿内説論者はこの議論をすべきである。
ヤジ・罵倒はこのへんでおわって同じ土俵に上がってきてください。

343 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/14(土) 12:29:07
言語学の話題を載せたのはスレちがいでした、すみません。
言いたかったのは言語学的にみたら倭(というか日本人)は、半島南部〜九州北岸の狭い地域のみの人と
考えるのには無理があるということ。

むしろ元ネタは、中華人が倭をどう捉えていたのかという視点でおもしろいと思ったので、
実際の倭人がどうだったかというのとは少し異なります。



344 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/14(土) 12:31:24
宮崎説は本当にうざいな。

太閤検地の石高の地図をみると、宮崎はありえないことがよく分かります。
http://yamatonokuni.seesaa.net/upload/detail/image/chizu_kokudaka01.gif.html

玉璧も大正時代に中国から持ってきたことを否定できないのでは?(良く知らないけど)

345 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 12:41:54
>>344
こういう卑弥呼時代から千数百年後の石高が何か?????

346 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 12:46:26
>>344
玉璧(中国でもこれほどののものは出土してない国宝)が、串間で発見されたのは
文政元年(1818)な
ちょっとぐらい調べて書けよ
そうじゃないとキミが書いてることすべてに信用を失うよ

347 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:01:49
畿内とか南九州とか本当にうざい。
女王国の位置は北部九州内しかない。

348 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:26:14
畿内&北九州 VS 宮崎
畿内&宮崎 VS 北九州

どっちだよ

349 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:28:59
女王国が北九州なら、以北にわざわざ一大率を置くか?
女王直轄にするだろ。

350 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:36:35
畿内説の文献結構読んだけどさ、矛盾だらけなんだよね。
別スレに書いてあるけど、考古学的にも文献の記載的にも
地理的な位置関係にも、歴史のつながりから見ても
畿内説は支持できない。

351 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:38:54
>>344
思考がなってないな。宮崎は確かに農業にはあまり適していない。その宮崎が
長い間、繁栄したのは、他の地から租が上がってきたからと考えるべきだろう。

352 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:44:04
>>351
適していないことはないですよ。稲作は河川流域を中心に発達していましたから。
しかし西都原みたいな台地では稲作は向かない。
今は畑作と畜産が中心ですけどね。あの辺は。
江戸時代の石高は権力の高低を意味していました。
その辺までくると日向は薩摩の占領下でしたからね。
絶えず板ばさみだったはずです。
それと邪馬台国の時期とごっちゃ混ぜに論ずるのは
「現代」と「過去」を一緒に考えるのと同じですよ>>344

353 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:47:18
いや宮崎平野って
ほたっといても作物が育つんよ
http://www.niaes.affrc.go.jp/jspace/map59.html
水は大淀川に恵まれ、地形にも恵まれ
気候は一年中温暖
二期作,三期作もできる
日本でもまれなくらいの豊穣な平野

山間部の話してるんじゃないんだから・・・

南九州で土地がやせてるのは鹿児島のほうのシラス台地ね

354 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:53:26
>花弁型住居

まったく日向説のアホは何が言いたいのか良く分からない。

例えば関東に「柄鏡形敷石住居跡」というものがある。

人が野原で寝起きするのではなく住居を作ってそこで生活すれば
何らかの形(地域色のある)になるのは当たり前の話。

こんな物を邪馬台国日向説の根拠に持ってくること自体ナンセンス。
もはや笑い話以下のレベル。

せめて、
その特徴ある形状のものが弥生末期北九州に多くみられるようになった
・・・程度のお話ならまだ傍証として扱えないことも無いだろうが。

何でもかんでもかき集めてぶち上げれば良いと言う物じゃない。
自分が ト レベルの理論展開していることに気づいた方がいいぞwww






355 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:57:10
GoogleEarthでもいいんだけど西都原付近見てみなよ。
西都原は数十メートル台地だから畑が広がっているけど、
すぐ東の一ツ瀬川流域。びっしりと水田がひろがっている。
大淀川流域も同じ。
こう見ると西都原や生目は単なる墓地ってことになりそうだね。
生活圏はあくまで河川流域だとすると。

356 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 14:02:23
景行天皇が居したのはもしかすると西都原だったかもしれないけど
邪馬台国の話をするのなら
西都原より古いと九州の考古学愛好者たちほとんどが語る
生目古墳群を中心とした
(ほんとはもっともっと古代古墳はたくさんあるんだけど発掘されてないし、取り壊されたのも多数
-貨泉が出てきた古墳もえらく古い中国のものが出てきたんでヤバいって壊されたそうな-戦前)
宮崎平野を中心に考えたほうがいいと思うんだけど


357 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 14:05:31
>>354
まずはその口の悪さを矯正したほうがよさそうですね。
前にも言ったと思うのですが。

358 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 14:06:01
とにかくこの板の日向説論者は
日向邪馬台国は九州北部にまで勢力を及ぼした大国・・・と言うことを主張するんだな?

まあ弥生末期にそのような大国が九州南部にあった事を証明してから
邪馬台国日向説を唱えてくれwww

それから分かっていると思うが所謂「纏向型前方後円墳」と呼ばれている物は
北限は会津にまであり何も大和以外には日向だけにあるってシロモノじゃない。

大和と日向の関係については今後の考古学によって解明が待たれる課題の一つだろうが
最初から東遷説ありきの如き論は勘弁してくださいとwwww



359 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 14:13:38
>>358
今の考古学は発展途上であることは認めたようですね。
私はそれだけで十分です。学会と自治体を見守るしかないです。

360 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 14:29:28
>>358
南九州(日向)説って言っても
ここの板だけでも違う立場が数人いると思う
俺は南九州が北九州を征服したとは考えていない

361 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 14:38:20
>>359
発展途上っつうか素人ながら考古学ってのは常に
『一発逆転』のおきやすい学問だということを念頭に置くべきだろうとは思っているよwww

でも日向については蛇行状鉄器や各種埴輪、当時の最先端軍事アイテムの馬具等々・・・
日向が最も栄えたのは5世紀あたりなんじゃないかと言う印象を持っている。

でヤマト王家の始祖神話に日向神話が組み込まれたのもその時代ではないかとも・・・


それとこの板の邪馬台国関連スレじゃあ人や稲の伝来ルートをDNAの解析その他で
よく言及されることが多いが
神話の源流・伝播ルートについても一度検証してみるといいだろう。

「高天原=邪馬台国、アマテラス=卑弥呼」なんて言うのが以下に短絡的なのか分かるかも・・・しれないwwwwwwwww


362 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 14:52:55
>>360
宮崎説論者が3・4人くらいいると思う。
無視できる人数じゃないよね。

363 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 15:03:27
>>361
いまの発掘状況からするとねw。
出てないものに対してあーだこーだ言えませんが、
期待はあまりできないでしょう。

馬具なんかは生活のためのものであり、逆に言えば当時としては文化的価値のないものであった。
埋葬する際に副葬するのは考えられるでしょう。
しかし国の権威にかかわるものが副葬されるのかといえば私は一概にそうとも言えない。
すべてにおいて大和政権に集約されていたとしても、正倉院などには700年以降のものしか
保存されていない。そう考えるとループしてしまうんですよね。
大昔のことですから盗まれてしまったのが大半だと思うけど。

空白の4世紀と、大和政権と日向国とのつながりが解明されない限り
永久に邪馬台国は比定できないと思っています。

364 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 15:32:46
>>363

ヨタレスですが

> 馬具なんかは生活のためのものであり、逆に言えば当時としては文化的価値のないものであった。
> 埋葬する際に副葬するのは考えられるでしょう。

それ非常識です。
5世紀の日本でなら、乗馬文化は当時の最高峰文化です。
一般人には縁の無い、特権階層のものでしょう。
馬具が墓に副葬されるのは、それが威信財であったからです。
被葬者の愛用品として埋められていたわけじゃないですよ。


365 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 17:05:27
日向は遅れていると思う。遅れているというのは、北西部九州に比べて
年代的に、と言うこと。
ある時期に、人あるいは勢力の日向への移動があったのではないかと思う。

その時期がいつ頃なのかが重要だと思う。要するに、卑弥呼の前か後か、
あるいは途中か。

366 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:48:00
>>362
確かに「南九州説」でググると結構論者がいるんだね。

367 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 19:01:16
卑弥呼
の卑はなぜ卑しいと魏志倭人伝で書かれたのか。教えてください・

368 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 19:01:28
つうか九州南部は2・3世紀の邪馬台国の時代が
一番寂しそうな印象だがw

だから考古学的資料として出してく物は全部時代がずれているつうか・・・

ただでさえ弥生末期には九州全体が衰退傾向になると言われているのに・・・

369 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 19:36:56
そもそもこの板の九州説論者って東遷説論者が異様に多いからな・・・

その中のかなりの部分が南九州説だとしたら結構な数になるだろうw

つうか南九州説で、かつ、東遷説をとらないって奴の方が少数派?www

370 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 19:38:58
何を隠そう、卑弥呼とは魏の王曹操の娘。
愚息、愚妻というように卑弥呼といったんだのです。
要するに儒教に基づく謙譲語です。

371 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:12:36
卑弥呼=日女命=天照大神。台与=日女命=豊受大神。

372 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:22:00

トヨタン・・・・・・・・・・


373 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:25:34
東遷説が南九州から出発し、邪馬台国がその遷都した当事者であり、奈良にきて大和王権となったとしたら、
当然首長はイワレ彦となるであろうが、彼らの史書である古事記日本書紀に邪馬台国がでてこないのはなぜであろうか。

374 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:31:10
っ不bghghgfbhんgbhghgfhghhhfhbghhhッヒュy67

375 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:41:33
>>373
中国に知られたくなかったから。
神武天皇の即位BC660年は明らかに中国を意識している。
日本建国(天下統一)がずっと昔からあったことを示唆したいがために年代を偽った。
卑弥呼=天照大御神である。邪馬台国が滅んだ280年頃ののち
300年頃東征し、即位した。

天皇と日向の関係は根拠がある。
記紀の帝紀的記載は、応神朝以降は天皇の名前だけでなく、
皇妃・皇子女においても信頼性が高いと言われており、
記紀によれば、仁徳は葛城襲津彦の女、巌之媛をめとって
履中・反正・允恭を生み、日向の諸県君牛諸の女の髪長媛を
めとって大草香皇子や幡ヒノ皇子を生んだ。
仁徳天皇から雄略天皇までが、倭の五王に相当すると言われている。
そうすると、五世紀の倭五王当時の皇室の外戚として重きをなしたのは、
葛城氏と日向の諸県君で、史実の可能性が大きい。

したがって>>369に書いてある「邪馬台国の東征」とは考えておらず、
私は邪馬台国は九州の中で滅び、全国で小国分立となった中、
中国大陸・朝鮮半島の政治・軍事情勢の激変と相前後して、
新天地(よき地)を求めて300年前後に近畿地方へ移動(神武東征)したのであろう。


376 :375:2009/03/14(土) 22:50:38
あと、これは感覚だけなんですが、
東征がなかったとして、いくら中国との交易があったとしても
大和地方のみの力で建国(天下統一)するとは想像できません。
何かしら外部(他の国)から刺激があったとするのが自然でしょう。
平和な国に革命なんて起こりませんし、歴史が物語っています。


377 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:00:20
だいたい日向や出雲みたいな僻地に力を持つ国があるわけない

古事記日本書紀原理主義にはうんざりする

378 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:04:46
諸県といえば、祟神の子である豊城入彦の孫の御諸別命が思い浮かぶ。


379 :375:2009/03/14(土) 23:05:59
>>377
それを書いたのは大和朝廷である。
自分で自分の首をしめているのが気がつかないのだろうか。


380 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:12:50
>>377
しかし出雲は弥生後期、「出雲王国」と言ってもおかしくないだけの遺跡が出てきているぞ。
岡山、京都の丹後半島、福井も。

381 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:13:31
中国地方を懐柔するために出雲神話を捏造
九州を懐柔するために日向神話を捏造

神話の舞台を選んだ理由
王権も神話もない僻地だから

382 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:15:44
過密 吉備
僻地 出雲

過密 北九州
僻地 日向

383 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:16:33
>>381
そこまで言われると、開いた口がふさがらない。
大正天皇以降、宮崎神宮に欠かさず参拝する理由をあなたはどうお考えでしょうか。

都合が悪くなると捏造・神話ばっかり。
それこそうんざりですよ。まじめに議論しましょうよ。

384 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:20:01
いやだからさ
古代は列島の中で九州がいちばん「都会」だから・・・
九州以外が僻地でしょうよ

385 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 00:14:02
>>377
記紀のすべてを鵜呑みにしているわけではない。
8世紀に大和朝廷によって書かれた記紀は「日本建国」の総決算であり、
外交を含めた日本の存在価値を示すのであったはずである。
その中には政治的な歪曲があることは確かであるが、伝説と史実を
入り交えてひとつの文書にするのは甚だ疑問である。
神武天皇=崇神天皇とすれば辻褄の合う場合があり、崇神天皇が初代天皇であることは
仮説として成り立つ。しかしながら神武東征を否定する根拠とはならないはずである。
なぜ大和朝廷は架空の天皇を出してまで歪曲させたのか。政治的理由があるのです。
記紀自体は史実であり、人物・年代を抽象的に曲げなければ大和朝廷は
この「日本建国」の証を誇示できなかったと考えていたのです。

386 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 02:01:01
>>375
九州出身の勢力が4世紀の初めに倭で建国し、短期間で全国統一を果たし、4世紀
後半には朝鮮半島にまで進出したと考えるのですか? 無理があるのでは?
それに、隋書によれば、倭王タリシヒコは魏志にいう邪馬台国の流れを引く王で、都
は魏志が伝える邪馬台国と同じところのはずですが?
ず。


387 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 06:16:45
漢字   邪馬台国  大和ならなぜ邪悪な馬の台(台地?)としたのか
     先ほどの卑弥呼の卑しいと、どうも関連あり
     もし卑弥呼が実代なら卑しいとは書かないだろうと思う。


388 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 07:51:03
邪とか馬とか卑などという文字は、韓伝をみるといくらでも出てくるよ。
単に発音の問題だろ。

389 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 08:28:39
>>383
>大正天皇以降、宮崎神宮に欠かさず参拝する理由をあなたはどうお考えでしょうか。

横だが・・・

そんなもん明治からの国家神道の下でのお話。
神武東征神話が喧伝され宮崎の神社がクローズアップされた。

宮崎神宮は
明治6年に県社、同8年に国弊中社、同18年に官弊中社となっている。

逆に言えば江戸時代以前にはさほどには脚光を浴びていなかった。
勿論「神宮」の称号なんて明治に入ってからwww

朝廷が先祖の故地としてそこまで重視していたなら伊勢と同じぐらいの扱いを受けたろうにwww


持ち出すネタがやぶ蛇だぞwwwwwwwww








390 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 08:43:53
>>381
>九州を懐柔するために日向神話を捏造
懐柔するためならば、「熊襲」などとは書かないだろう。
物語も、倭建命をお迎えして日向の地を献上したとでも書けばいいことだ。


391 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:20:11
>>386
ということは倭国と日本国(大和)は別にあって、隋は倭国と卑弥呼のときから
ずっと交易を続けていたということですか?
そちらのほうが無理があるように思えるのですが。
素人の言うことですが、随分髄から舐められてましたね。

392 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:26:50
>>389
子孫の歴代天皇家が神武天皇を無視してきたからである。

393 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:28:26
>>367
つうかだな、むしろ発想を逆にした方がいいのでは?

中国は蛮族の地名・人名には卑字・悪字を当てるのがデフォであって

むしろ「伊都国」とか「師升」等の良字を当てているのが異例であると・・・
(多分中国語を理解する人間が「自分たちの字はこうだ」と書き示した?)

邪馬台国やその女王に卑字・悪字を当てているのは中国側からすれば
玄界灘周辺諸国より文化レベルが劣っている新興国と見なされていたのだと思うwwwww

394 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:30:40
>>389
江戸時代までは皇室は日陰の存在だったからねえ。
ちょっとした行幸でさえ、幕府から制限されていた。

明治になると、天皇は、国家元首、主権者となった。
当然、皇室関係の神社が優遇される。

橿原神宮も明治時代に創建されている。
そういう事情の下で、宮崎神宮なども整備された。
むしろ、天皇の影響力の大きな明治時代に重要視されるようになったことの
方が大切なことだろうと思う。
皇室の発祥の地としての日向を、皇室は重視しているというわけだから。

少なくとも、皇室が発祥の地を日向と思っていたことは確かだろう。

395 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 10:09:39
いや宮崎市には
天孫のイザナギを祭る江田神社があって
http://miyazaki.daa.jp/eda/
そっちのほうがずーーーーーっと重要視されてきたのよ
日本最古の御神体がある

「続日本後紀」では837年(承和4年)「江田神社」として官社に列し
天禄元年に神階が最高位の正一位の神社
その後津波で社殿が失われ衰退した

396 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 10:18:03
しかしこの板の南九州説論者や東遷説論者(両者はかなりの部分重なる?)連中の話聞いていると本当アタマが痛くなる。

考古学的資料が時代を無視したものなら
今度は国家神道まで平気で持ち出してくる。

お前らチョッとはアタマ冷やせよとwww

もうね、なんて言うかね、歴史と言う学問じゃなくて
「地域ナショナリズム」とか「お国自慢」とか言うレベルのお話と言うかw
(まあ論者が九州の人間とは限らないが)





397 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 10:23:10
>>396
頭を冷やせば、畿内説など何の根拠もない空疎な説だと分かるはずなのだが・・・

398 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 10:28:32
>>393
>中国は蛮族の地名・人名には卑字・悪字を当てるのがデフォであって
なぜ、そのような文字を当てるのかを分かってないな。そのような文字は当事者
は使うはずがない。そのような文字を当てることで、音を表示しているにすぎな
いと読者に理解させようとしてるんだよ。中国には仮名がないからな。



399 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 10:42:44
江田神社の話は国家神道とは何の関係もないよ

南九州説をいっしょくたにしないでね
それぞれ考えは違う

他の古社であれば
青島神社(山幸彦を祀る-神武の祖父)
http://miyazaki.daa.jp/aoshima/jinjya.htm
鵜戸神宮((神武の父ウガヤフキアエズノミコトを祀る)
http://miyazaki.daa.jp/udo/index.htm
のほうが宮崎神宮よりずっと重要

この二つは俺の考えでは
隼人の海神信仰を引き継ぐもの

串間も含むこの一帯は
上野原遺跡(9500年前の縄文-弥生遺跡)
http://www.jomon-no-mori.jp/
などに住み着いていた南方系原日本人の子孫(隼人)が住んでいたと考えている

400 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 10:48:11
>>391
大和国なんてものはなかったんだよ。倭国の勢力が大和へ進出した。そこは本州
の平定を任されて絶大な権力をもった。しかし、本家は九州の邪馬台国というこ
とだな。だから、全ての外交は、邪馬台国が行っていた。中国史書に大和とか纏
向がまったく出てこないのはそのためだ。
古代においては、戦争とか疫病とかで、王家の跡継ぎが全滅することがある。
何かの理由で、御本家は跡継ぎがいなくなった。次男あるいは3男がトップだった
大和が本家を嗣いだ。南九州へ転居せず大和で政治を行った。
てなことを考えてみないか?神武は長男じゃなかったよな。


401 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:17:09
今更言うまでもなく日本人は古モンゴロイドと新モンゴロイドのハイブリッドだが
日本神話・記紀神話もまたハイブリッド。

ポリネシアあたりの南太平洋から東南アジアにかけての「南洋系」
中央ユーラシアあたりからの「大陸系」
それに記紀だと道教の影響も見られるか・・・

(実際にはもっと細かく分類できるだろうが)

で、所謂「天孫族」といわれる連中が所持していたであろう
天孫降臨神話(布にくるまれた赤子が天から降りてくる話)と言うのは中央ユーラシア=大陸系で
太陽神アマテラスや日向神話と言うのは南洋系。

両者は元々源流・系統が違う。

それを両者が最初から一つであったかのように言う
「アマテラス=卑弥呼、高天原=邪馬台国」
と言う東遷厨のドグマは荒唐無稽wwww

無論、邪馬台国や卑弥呼の史実が先にあって
後から神話が作られたなんてお話は狂人の戯言といって良いwww



402 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:30:45
>>391
魏志、宋書、隋書などが伝えるところでは、我が国は一貫して倭国=邪馬台国を
中心とした国々です。主体が入れ替わったという記事はありません。
長いつきあいにかかわらず、隋から舐められているのは不自然だと言われるのかも
知れませんが、それは魏が呉と対立していた時代には、我が国がどちらにつくかが
極めて重大な問題だったが、その後、中国は、より近い朝鮮半島の方が重要問題に
なり相対的に我が国の重要度が下がったということだと思いますが。

403 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:36:20
>>401
とすると記紀は神話ではないということですね。
言ってることがちぐはぐですよ。
政治的理由により歪曲していたと見るのが筋でしょう。
ちなみに邪馬台国東征論者は高天原=邪馬台国と考えていないようです。
私は邪馬台国が東征したとは考えてませんが。

404 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:45:15
>>402
北九州を中継点として畿内が倭国の中心であったということですか。
したがって邪馬台国=畿内であったと。
邪馬台国により大和朝廷が発足し、記紀を発行した。
筋道としては通ってる気がしますが、自身で書かれた記紀を読むと
まんざらそうでもないと思うんですよね〜。
中国からみたら同じ倭国であっても、その時々によって人間は変わりますから。
しかも中国・朝鮮と内戦・交戦が続いて、倭国のことなんて
正直意識していなかったというフシもありますし。


405 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:50:04
俺も邪馬台国東征論者ではない
しかし神武東征に類することはあったと考えている

隼人の話の続きだが
薩摩隼人はたびたび反乱したのに
日向隼人はそうではない

ということは日向神話の伝えるように
隼人族とヤマト族(の祖先)との血縁が
日向の地で生じたのだろうと考えるのが自然だと思う

406 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:52:00
福岡県京都郡・・この辺りが怪しいと思う。
小波瀬村から仲哀トンネルを抜けると香春町。
そこにあるのはエジプトのピラミッドを思わせる
歴代卑弥呼の墓と思われる一ノ岳。
オリオン座の三ツ星の配列とも一致する。

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/011/001/26/N000/000/000/118938599855316418376.jpg

407 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:00:32
>北九州を中継点として畿内が倭国の中心であったということですか。
>したがって邪馬台国=畿内であったと。
邪馬台国は南九州にあったと考えます。隋の使者が大和を訪ねたことはありません。
日本書紀にも隋からの使者とは書いてないですよね。

>国・朝鮮と内戦・交戦が続いて、倭国のことなんて
>正直意識していなかったというフシもありますし。
倭の五王の遣使など、何度も通交しているのですから、間違えるはずはありません。
倭国の主体が入れ替わったなどということはないのです。


408 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:05:55
>>407
ごめんなさい。おっしゃりたいこと良く分かりました。
納得です。

409 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:11:20
九州王朝説現るw

410 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:14:25
@畿内説
A北九州説
B北九州説(邪馬台国東征)
C南九州説
D南九州説(邪馬台国東征)

Dはたぶんいないんじゃないかな。
そこを勘違いしている人がいるっぽい。
私は南九州説支持で神武東征の類はあったと考えています。
よって405さんと同じかも。

411 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:19:41
>>409
いままでの九州王朝説は北部九州のことを指している論者だけだったはずです。
私はおもしろい考察だと思いますよ。

412 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:24:57
結局、神武東征、あるいはそれに類する物でもいいが

それが史実であったことをうかがわせる考古学的史料今のところは無い。

・・・となると結局のところ神話が頼みの綱だがwww

その神話もその源流・系統をきちんと考えれば
ある時代に始祖神話の中に丸ごと取り込まれた物であると考える方が自然。

日向が抱き込む必要があるぐらいに力を持った時代となると
5世紀当たりの河内朝の時代か?





413 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:28:10
>>411
本来の九州王朝説なら北九州なんだろうが・・・

この板の場合、ぶっちゃけ九州なら何処でもOKな連中が殆どだろ?wwww





414 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:36:59
>>413
筋道をたてて考えた末の比定地であって、
そのような思考があるとは思えないのですが。
あなたは九州に行ったことないでしょう。
北と南はまったく違う国ですよ。方言にも現れています。
もっと細かく言うと、隣同士である熊本・鹿児島・宮崎は
まったく違う文化圏です。

415 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:46:21
何も知らず、何も調べず、何も考えず、
うろ覚えの単語をただ闇雲に書き込んでるだけだから。

前はこの春厨、夏厨という痛々しい連中を
いじくるのが楽しみでもあったが、
こういう連中に選挙権持たすと
またぞろコイズミとかに投票するんだろうな、と思うと鬱になるな。

416 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:55:29
そもそも
「神武東征の類」
と言うのが何なのか良く分からないw

ズバリ「神武東征」と言ってしまえば叩かれるし
その根拠の提示が難しいのでオブラートにくるんでいるだけなんじゃないかとも思うwww

具体的にどういうことだろう?
南九州勢力が畿内ヤマトに「入り婿」と言う形で迎えられたとか?
それなら河内朝でそのようなことを想定している学者もいたと思うが・・・

その場合「神武東征」と言うより「応神東征」と言った方が良いのかもしれんが・・・



417 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:55:50
>>415
昨日の夜からわりと論理的な議論がされてるのに
何も読まず何も検証せずにこういうことを書くのは
どこのバカ左翼??

418 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 13:20:48
>>407
間違える可能性がゼロではないだろ
室町時代後期は勝手に商人や大名が日本国王使として勘合をねつ造したぐらいだ

また明が懐良親王を日本国王にしちゃったことを考えると
日本の事情に中国が精通しているとは考えにくい

419 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:22:53
>>388
卑弥呼の時代、日本に漢字はなかったのですか。

420 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:23:00
>>401
あなたはなんで記紀が神話(創作)だと考えるのですか?その証拠は?
まさか「史料がないから」じゃないですよね。
売り言葉に買い言葉じゃないですが、人を見下したような言い方はやめてください。
人に求める前に自分の考えくらい紹介したらどうなんですか。

421 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:30:45
>>410
一応、中九州説も参加しておこう。

弥生終末期当時、九州では最も人口が多いとされ、鉄器も圧倒的。
列島最古級の鉄器、鉄斧が見つかっていることから歴史も古い。
山一つ越えれば日向で、天孫降臨伝説も可能。

方保田東原遺跡(山鹿市)を見てみると、一割弱の調査であるが、

@ 幅8mの大溝をはじめとする多数の溝や100を超える住居跡
A 土器や鉄器を製作したと考えられる遺構
B 全国で唯一の石包丁形鉄器、数多くの青銅製品や鉄製品(数百点)が出土
C 山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども出土
D 集落内で見つかった鏡は、破片も含め8枚。これは遺跡としては全国最多。

422 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:35:06
>>416
結局学者の考えをそのまま代弁しているだけ。
しかも畿内説論者の典型例として、大和朝廷が前提となっている。
「入り婿」ってw
昔から仮説はいろいろあって、その過程で発掘調査された成果もある。
別スレで「学会は組織ではない」と指摘された方がいましたが、
自分の仮説に基づいて証拠集めをしているに過ぎない。
「畿内説」前提で考えていたら頭が固くなるのも無理はないと思いますが、
せめて寛容に受け止めるだけの度量を持ったらどうですか。
「疑わしきは罰せず」ではなく、「疑わしきは罰する」。
あなたはそれでいいのですか?

423 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:47:09
>>422

はあ?

別に「入り婿」の話をお前が採用しようがどうしようが知ったこっちゃないw

こっちは「神武東征の類」とか言う物が良く分からないから具体例を適当に言っただけで

あさっての方向の変な噛み付き方は止めろよ馬鹿www




424 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:49:55
>>421
そのあたりは私は狗奴国と比定しています。

425 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:50:26
>>421
続き。

方保田東原遺跡などは、菊池川の北にある。
菊池川の南に白川、さらに南に緑川という大きな川がある。
その南にも大きな勢力があった。

城南町には古墳数500といわれる塚原古墳群がある。
宇土市には、女王が眠るとされる向野田古墳がある。

向野田古墳。全長90mの前方後円墳。
全長4mの舟形古墳に30代と見られる女性の遺骨が完全な形で残っていた。
石棺内には,鏡3面のほか勾玉や車輪石などの美しい装身具が副葬されて
いたほか、多数の剣、刀など武器類が副葬されていた。

426 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:51:11
>>423
はい馬鹿ですww


427 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:54:18
>>425
舟形古墳は舟形石棺の間違い。

428 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:58:36
>>420
勿論、考古学的資料やその他史料が無いのも理由になりうるし
散々書いてきたが神話自体海外に類似した物があることも理由。

・・・つうかだな、そもそも東遷厨が
「いやこれは単に神話ではなく史実」
と言うのならその根拠を示すのは東遷厨の立証の責務。

大抵最後に逆切れして
「とにかく神話に書いてあるのだから何らかの意味がある」
「じゃあ史実でないことを証明してみろ」
と火病を起こすのはいい加減うんざりwww






429 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:00:20
>>423
噛み付かれて喜んでる犬みたいだ。

430 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:02:59
>>428
このスレをもう一度読み返すとたくさん根拠が載ってますよ。
あと念のため「神武東征」と「邪馬台国の東征」は別々に考えるべきです。

431 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:05:07
というか、卑弥呼の実在に具体的な証拠があるの?
中国の一史書に書いてあるだけ。
そっちは信じながら、神武天皇についてののあのチョー具体的な記述をすべて、
創作と断じるのは、ダブルスタンダードなんじゃないの?


432 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:05:40
>>430
悪いが妄想レベルを根拠と言われても困るw

実際に根拠として通用する物があるのなら
東遷説はもう少し学問としての遡上に載っているだろうなwww

433 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:11:11
一匹、頭悪くこういう髭生やして→w、
「東遷はバカ」「東遷はバカ」と他人の書くことを無視して繰り返すヤツが、
おんなじこと書いてるだけ。

434 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:11:18
>>432
そこまで言うなら学問の道を進めばいいのではないでしょうか?。
私はアマチュアですしプロには勝てません。
唯一(学問の)派閥やにとらわれない物の見方ができるのが利点でしょうよ。

仮説を妄想といわれればそれまでですがね。
もうちょっと建設的な言葉を出してほしいとは思いますよ。

435 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:13:25
『ここが変だよ東遷説w』

何故かこの板じゃあ東遷説の根拠に銅鐸から銅鏡への文化の変容が真顔で挙げられているんだがw

銅鐸国wを銅鏡を携えた東征勢力が滅ぼしたと言うお話だが
軍事にも農業生産にも実用的ニーズがあったであろう鉄より
威信材の銅鏡を先に持ち込んだと言うのがよく分からない話ではあるwww

まして東征を武力をもっての征服劇とするのなら
益々良く分からない。

九州の先進性を鉄に求めておいて
東征を鉄抜きで語ると言うのはいとおかしwwwwwwwww

436 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:13:45
邪馬台国と大和朝廷とは別と思う。僕は機内以外説。

邪馬台国と天皇家と結びつけると、畿内説だが、
邪馬台国と天皇家と結びつけないと九州説。
朝廷(当時はなかっかもしれない)にとり、邪馬台国が朝廷以前の歴史があり日本国家的な
ものであれば神話がややこしくなる、日本書紀や古事記も作られた童話と思えばいい。

無理やり天皇と結び付けようとする意図が歴史上感じられるのは私だけでしょうか。

437 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:14:13
「東遷はバカ厨」は、何言ってって、
「邪馬台国東遷=神武東征」しか頭に無いんだから、
レスするのはムダ。

438 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:18:59
>>436
卑弥呼や邪馬台国の実在に具体的な証拠があるの?
中国の一史書に書いてあるだけ。
いまだにどこにあったかもわかってない。
そっちは信じながら、神武天皇についての
橿原にいたるまでの、あの具体的な記述をすべて、
創作と断じるのは、ダブルスタンダードなんじゃないの?


439 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:19:02
『ここが変だよ東遷説w』 その弐

元々文化の変容をもってして王朝・王権・支配勢力の交代劇と言うのが成り立つのなら
「騎馬民族説」もバリバリ現役でないとおかしいと思うがw

文化と言うのならそもそも九州に山陰の四隅、吉備の楯築、東日本の前方後方墳・・・
の如き巨大首長墓を築くと言う文化は無かったわけで

畿内に入ってから巨大首長墓を築く文化に宗旨替えしたという話になる。
まあ笑い話の範疇ですなwww



440 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:22:49
>>436
記紀は日本建国の証であり、誇示するために過去の歴史を改ざんした可能性は否定できませんよね。
童話とまではいきませんが、年代・人物については信憑性はないと思われます。
史実かどうかは別として。私は「神武東征の類」はあったと思いますがね。
小説書いたことある人ならわかりますよ。いくらノンフィクションでも
自分が体験していないことを書くことはできませんから。
無理やり天皇と結び付けようとする意図というのは恐らく政治的背景によるものと思われます。
(主に外交)

441 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:23:09
だからさ、wwww←こういう髭生やしてるあなたは、
誰に向かってレスしてるのかな。
「東遷説w」って具体的にはどの人?一人で暴れてるだけに見える。

442 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:28:56
>>438

それを言うとこのスレ亡くなる。

443 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:29:51
「ここが変だよ東遷説」
言いたいことはわかるんですが、多数の九州説の方の推論を
まとめているように思えるんですが。
まぁ匿名掲示板だから誰かわからないけど、私は文化まで変わったとは思ってません。
それこそ、数百年の歳月をかけて記紀が書かれているのですから。
急には変わらないでしょう。

444 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:32:48
勘違いしている馬鹿が多そうだから言っておくが・・・

今日畿内説を唱えている学者の方が九州説を唱えている学者より
余程、「万世一系」なんて物に懐疑的で
少なくとも「大和朝廷マンセー」なんて奴が特段に多いと言うのは無いだろう。

畿内説を唱えている学者の本でも読んでみ?
後の大和朝廷と区別するために(わざわざカタカナで)ヤマト王権と書いている場合が多い。
(まあ別に公的な決まりごとと言うわけじゃないだろうが)

むしろ神武実在、欠史八大も実在なんてのはもっぱら九州説の独壇場だろう?wwwww



445 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:36:50
>>444
ヤマト王権と大和朝廷の識別はどう判断されます?
またなぜヤマト王権から大和朝廷へ変遷したのか、その理由を述べてくれませんか。
本を読むには時間がかかりそうなので。

446 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:37:00
wwwww←この人って朝鮮人?

447 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:39:28
>>446
チョン公自虐的レス乙wwwwwwwww

448 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:39:55
たとえば三種の神器

草なぎの剣(熱田神宮)
鏡(伊勢神宮)

この二つ 今の科学で、造られた年代、解明可能だがなぜ考古学者はしないのかな。
やはり童話じゃないの。
みたことないし。すり替えられたというふうに言い訳できるが。



449 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:43:28
>>448
無茶言うな。
天皇でさえ中身見たこと無いのにw

法律的にも天皇家の私物と言う扱いだったはず・・・

450 :440:2009/03/15(日) 18:44:00
ノンフィクションじゃなくフィクションの間違いでした。
失礼。

451 :449:2009/03/15(日) 18:50:37
天皇家の私物と言うのは皇居にあるレプリカの方だったかな?

熱田と伊勢のは神社の所有か?

何れにせよ学者が公開の要求してすんなり通るもんじゃないよw

452 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:52:10
>>449
なぜ無茶なの。神社庁所管だし宮内庁も税金と寄付で運営されてるんだよ。
今天皇家も給料制なんだよ。
国民として、知る権利ぐらいあっていいと思わないかい。

453 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:53:15
>>448
お前から一般公開しろって頼んでくれwwwww

454 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:55:50
>>452
神社本庁はパッと見公的機関のような印象を受けるが
あくまで一宗教法人だから(まあ紛らわしいがw)

ぶっちゃけ天皇家の私事・私物として公開されていない物は多々あるw

455 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:59:47
儀礼的に箱のままあるいは袋のまま継承式を行っている。
よって中身はないかもしれないし、本物かもしれない。
天皇家当主である天皇自身も実見を許されていないのは本当のようですよ。

456 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:02:33
天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物であることには
変わりないのであるから、天孫降臨神話を否定したら天皇家を否定することになりますよね。


457 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:03:18
>>456
何か問題でも?

458 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:06:48
途中で盗まれて
入れ替えられてる可能性もあるわなあ
首長級大古墳なんて盗掘されてるものばっかりだし

459 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:11:55
>>457
非国民氏ね!

臣民なら天孫降臨、神武東征を信じて疑うべからず。




460 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:14:13
無いものは無い。だから神話というのであって伝記じゃない。
天皇も人間宣言してるんだから詮索しないということかな。
その意味で、日本書紀よりも魏志倭人伝のほうが真実味がある。
ともかく、邪馬台国と朝廷と結びつけるのは無理がある。
同時代、機内に国があzつっとしても邪馬台国と違うと推察するが。。

461 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:14:33
>>459
そういうおちょくりは、寒いからやめてほしい。

462 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:17:06
右翼のスレにしないでください。

463 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:18:53
>>460
忘れちゃいけないのは
記紀は天皇家に伝わる歴史ということ

幾多の負けていった豪族の家の歴史は
歴史にのみこまれたわけよ
邪馬台国が負けた側だったとしたら
その国の歴史なんか後世には残らない

464 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:20:03
>>461
いや、本人は冗談で言ってるわけじゃないかも知れないぞ・・・。

465 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:23:38
魏志倭人伝は外国の書物だから改ざんの、しようがない。
日本書紀は、てん書の連続で一番古いものはいつごろのものなのだろか、

466 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:35:57
>>463
行き着く先は考古学見地による考察しかないわけですよね。
卑弥呼が魏から受け取った金印はどこにあるんでしょうねぇ。
邪馬台国がそのまま大和朝廷になったとは考えられませんし、
あったとしても既に金印がでているはずでしょうし。

467 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:39:20
歴史の連続性の始まりは史書の始まりってのは古典的な歴史観だが、
充分、払拭されてはいないな。

468 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:47:15
キリスト教圏の奴らがキリスト教の歴史を突き放して評価するのが
難しいのと一緒なんだがよ。

469 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:56:05
私 仏教徒ですが仏教の歴史あまりしりません。
でも、説いてる内容理解できるし、賛同して仏教徒ですが
>>468 ここで宗教だすのあまり意味無いと思いますが。
あくまで、邪馬台国について語ろう。

470 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:35:22
問題は天皇教はいつ始まったかだな。飛鳥時代だろ。
それと倭人伝を切り話して考えられないとな。

471 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:41:12
宗教をタブーとする考えそのものが異常だが
学説、世間通念、常識といったものも、大多数の人間が信じて運用しているという点では宗教の様なもの

472 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:49:36
>>465
キキ神話の方が倭人伝を手本にしてんだろ。文字の輸入は遅かった
から古い口承が残ってたとしても、意識せざるを得なくて。

たかが憶測の話だけどな。

473 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:50:09
>>471
やはり歴史は作られるものなのかもしれない。宗教とは違うと思うが。
広島の原爆・・・アメリカじゃ、日本人総死滅の危機を救った。戦争終結が早まり
        死者が少なくて済んだとか、なんとでも正当化できるもんね。
        歴史の大勢もそのようになっていくかも・・
        
    

474 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:53:37
NHK9時から法隆寺だから。
まあおまいらは興味ないかもしれんが。

475 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:13:03
口承時代の歴史感覚ってどんなだろうな。歴史感覚がないわけじゃ
なかろうが、文書されてる時代とは違うだろう。

476 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:31:59
>>474
年輪年代 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!


477 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:44:21
中国文献の倭の五王・武が中国から貰った東征将軍の称号を
神話じゃ国外背景を消去して神武東征の話にしてしまってさ。

478 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:45:45
>>475
基本的にはうちらを
かわいがってくれたお爺ちゃんお婆ちゃんは覚えているが
その上のひいお爺ちゃんひいお婆ちゃんについては
とたんに情報量が少なくなる
そのまた一世代上は伝聞や昔話などに頼らないとさっぱりわからない
そんな感じでしょう


479 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:58:20
太子の時代までは王権と言ったら中国の名代なのが常識だった
わけで。神話が編纂されたのは太子が書いた国史が一度、失わ
れた後だ。

480 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:01:59
>>471
資本論は科学書と言ってもいいけど、共産党宣言や階級闘争史観はトンデモ宗教だもんね。

481 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:05:01
神話というのは朝廷が自分たちの権威付けのために、適当に
創作したんでしょう、というのが戦後の良識でさ。

482 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:09:18
>>438
倭人伝は、郡使が倭国を訪問してから数十年のうちに書かれた史書です。倭国を
訪ねた使者のメンバーがまだ生存していたかも知れない時期に書かれているので
すよ。少なくとも、メンバーの子供は生きている時代。いいかげんなことを書け
るとは思えません。しかも、書いた人物は記載が正確と定評のある陳寿。
疑うべき理由はないと言えます。
それに対し、神武東征は書かれた時代は8世紀、記事の内容は紀元前7世紀、正
確なはずがありません。例え事実は3、4世紀の出来事だろうと考えるとして
も、当時、我が国で文字が使われていたとは思えません。正確な記録があるはずが
ないのに、記事が具体的すぎる。古事記と日本書紀の間に食い違いもある。
適当に作文していることは明白と言うべきでしょう。
魏志が伝える邪馬台国や卑弥呼のことと、記紀が伝える神武東征の話とは信憑性
に格段の違いがあるのです。

483 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:13:16
>>476
年輪年代を絶対視して、それを基に歴史を考えるというのはおかしいな。
法隆寺は、焼失する前に新しいものが建設されていたんだとさ。

484 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:23:44
>>481
その津田派の「良識」やら左派イデオロギーの「良識」とやらで
皇国史観すべてが黒歴史化してしまって
それがずっと続いてて
戦後の南九州(日向を中心とする)の扱われ方が
首長級古墳がちゃんとした発掘もされずほったらかしにされるなど
現在はあまりにも軽視されすぎているのよね

イデオロギーで歴史を語ると
自分のイデオロギーにかなうこと以外のことを
全部否定しまいがち
騎馬民族征服説などの
今になっては何の証拠も無いカルト説が
当時の左翼イデオロギーとマッチし学会でも大流行して
いまだにその病根が残ってたり
あんまりろくなことはない

ここにいる大半は
イデオロギーとか関係なく
「事実になるべく近づきたい」というヤツが多いんじゃないか
と思うんだけどね


485 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:26:09
歴史はファンタジーじゃないからな。

486 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:27:10
建ってる場所が違うんだろ
じゃあNHKの放送は説として何処か問題あるのか?ないだろ

487 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:36:33
歴史とはイデオロギーの産物だよ。
己のアイデンティティーを正当化するための手段に過ぎない。
これは、3世紀の中国でも、8世紀の、19世紀の、そして現代の日本でも同じことだ。
先ずは、この事実を認めない限り、学問としては成り立たない。

488 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:37:26
>>482
記紀の元になったとされる天皇記、国記は、600年頃に出来たといわれる。
倭王・武の上表文は、西暦478年で、教養に満ちた格調高い文章と言われるが、
この頃にはそのような文章を書く人物が倭王の近くにいた。

となると、日本ではかなり古くから文章を書く人がいたと考えても不思議
ではない。断定は出来ないが、卑弥呼が魏と交流した頃から、日本人は
文字に触れており、書く習慣も芽生えたのではないか。

倭人伝には、郡使の「檄文」なども出ており、それを裏付けるように思う。
だから、「景初」などの年号も残り、後の鏡に使われたりしたのでは
ないだろうか。

489 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:39:32
>>486
だから、年輪年代を絶対視しているところ。

490 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:44:14
>>488
そういうのは中国からの渡来人がやったんじゃないかな
とも考えられるわけよね
(確か中国の学者もそういう考え)
ちゃんと漢字の読み書きや語学を学ぶには留学するしかないわけで

倭からの留学者というのは
古代の中国の文献にはないでしょ
単なる交流ぐらいじゃムリ


491 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:46:21
>>489
それはいえている。
ちょっとの狂いが100年の誤差を生む。
少なくもと一人だけの鑑定じゃ信用に値しない。

492 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:46:25
>>488
続き。
記紀を読むと、天照大神が生まれた頃は、まさに神話の世界というか、
非現実的な記述が多いが、天照大神の途中から妙に現実味を帯びてくると
感じる。
天照大神の頃からの記憶はかなり残っていたのではないかというのが窺える。

493 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:47:30
あぁーあ、そう言うのは年輪年代法の反例持って来て否定しろよな


494 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:02:52
再建論争の俗説を一掃した素晴らしい放送

495 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:12:16
>>487
どういうイデオロギーの元で書かれた史書かは留意すべきだな。
『昭和天皇の戦争責任』で天皇擁護派アメリカ人にも反論してる
井上清の『日本の歴史』は、しかし歴史記述としては反天皇制を
振り回したりはしてない。そういうもんだ。

496 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:18:02
問題なのは、「南京は幻だ!」と叫んで、すかさず次に日本神話を
差し出す類の連中。歴史も糞もないだろう。

497 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:21:50
つまりここには、
バカサヨがたくさんいるってことでOK??

498 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:29:05
日本書紀も三国志も某会の歴史教科書も全てイデオロギーの産物である。
人は自分に都合のよいものをだけを「歴史」と呼びたがる(例外もあるが)もんだ。

499 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:32:04
>>497
神話と歴史を区別するのは社会常識だと思うぞ。

500 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:32:50
事実よりイデオロギーを重視する歴史観っていうのは
事実より「伝えたいこと」を重視する朝日新聞と同じ

それじゃあ戦前とおんなじだっつーの
戦前がそのまんま裏返しになってるだけ
表も裏も実はおんなじ「プロパガンダ」であって
イデオロギーという衣が変わっただけ

学問やニュース記事は
まずは事実の追求であるべき
それを原則にしない限り
おんなじまちがいをしでかすのよ

501 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:35:31
アメリカ人に日本の歴史を聞かれて2700年前に日本列島が出来ました
なんて答えたらオーマイガーだろ。

502 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:37:57
>>501
そんなヤツはこのスレにはいない
他のスレに行けよ

503 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:39:37
>>495

「天皇制」を例にとれば、それは現に存在し、性質こそ違えど連綿と過去に遡るもの。
存在するものやそのものの価値を否定したり、逆に誇大に評価したりすることは、学問の領域の行為ではない。
ただ、「学問」にかかわる人間が、別の立場(政治や宗教)から対象を否定したり肯定したりすることはあっても構わない。
井上は天皇制について、学者としての立場と知識人としての立場を使い分けることが出来たということ。

504 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:42:03
>>502
ぁゃιぃ

505 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:46:55
>>488
大和言葉をそのまま文字にしたってより、大陸系の知識人が
いたのかも。

506 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:48:42
日本人は、あまり過去に拘る人種ではないような気がする
紀記が曖昧なのもそのせいでは?
支離滅裂なことは書かれた当時から解っていたはず
作為的に作ろうとする意志が強かったなら、もっと整然と作ったはず
一書の件を併記することも無く、一貫性を押し切ったはず
多様な人間のありさまを取捨する事なく載せた態度は、森羅万象に対する日本人の感性が如くかも

507 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 00:03:17
でもさ、古事記が太子が摂政を務めた推古帝で切られてるのは、
ちょっと政治的な意図は感じるぞ。

508 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 00:04:29
>>488
たとえばアイヌはヤマト民族と接触するようになって、
1000年経っても書記言語が無かった。
漢字に関するものは、古代の倭では中国からの渡来人が書いていたのでは?

509 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 00:07:26
>>506

「一書に曰く」が多いと言っても天地開闢譚から国産み譚くらいまでのこと。
この「一書に曰く」の存在により、編纂時に参照された資料が12〜3系統に上ることが判るが、
それも高天原辺りからは、次第に集約されていく。
天地開闢譚などは異なり、高天原以降は具体的に各豪族の始祖譚と結びつく部分なので、
この「一書に曰く」の存在は、編集時に各豪族間の利益調整が図られたという推定の証左と言える。

510 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 00:10:45
飛鳥時代がクーデターや暗殺ばっかなのは誰でも知ってるし。
朝廷はまだ実力主義の時代だからな。

511 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 00:17:45
プレートテクトニクス理論によれば、大陸から切り離された日本列島
が海上に出現するようになったのは今から1500万年前。
日本人は自然にそこにいた人たちなんだろうね。
気がついたら、大陸とは切り離されていた。
そして日本語をしゃべっていたんだろうね。



512 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 00:23:35
「ああ、ここが行き止まりなんだね」
「これ以上先には大地が続いて居ないね」
「ここで暮らすことにしよう」
それからおよそ1500万年後のことでした。
卑弥呼がシナによって記録されたのは。


513 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 01:21:54
倭人伝にも関係すると思うのでちょっと我慢して聞いてください。

渡来系弥生人のようなのっぺり型の特徴を弥生人として区別しているならば、
北の樺太からのツングース型ののっぺり型も弥生人として考えているのかな。
こちらは大陸半島経由の弥生人より時代的に早いと考える。
というのは北海道のN9a型が東北辺りでN9bに分岐している、しかもこれは日本独特のmt。
これは沖縄まで及んでいることから、結構古い。また朝鮮半島にはN9bは及んでいない。
ということは北周りのルートを示すということだ。
ツングース型はモンゴル辺りが元で東進した勢力。満州北部、朝鮮北部をツングース化したと思われる。
元々はパレオアジア族で彫りの深い縄文人タイプがのっぺり型のY染色体C3に塗り替えられたようだ。
それが北海道から南下してアルタイ語を広めたのかなと思う。
なので、半島からのアルタイ語の前にもともと本土はアルタイ語を駆使していたと仮説だけど
そう思う。それですんなり新たな渡来者が来ても日本の言語はアルタイ語族になったんだろうなと。


514 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 01:26:45
513つづき
補足 N9a型は縄文人にはないmtというのが根拠。

515 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:22:05
>>488
唐・魏徴(580〜643)の『隋書』「倭国伝」
倭国(日本)は百済・新羅の東南にあり。
(中略)文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。
仏教を敬す。百済において仏教を求得し、始めて文字あり。
-------------------------------------------
焚書説もあるけど、これ読むとどうも眉唾。
焚書があったとしても、これだけあまりにも出土例に乏しいこと考慮すると、
日本古代に漢字の読み書きをしていたのは、徐福をはじめとする渡来人であり、
倭人が文化的な意味で漢字を受け入れ読み書きをするようになったのは、
応神の代ということでほぼ間違いない。


516 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:16:40
文字の歴史(*は大陸から入ったもの)
1世紀 *「貨泉(かせん)」と書かれた貨幣(京都)
  *「漢委奴国王」の金印(福岡)
2世紀 *東大寺山古墳(奈良)の「中平・・」と刻まれた鉄剣
3世紀初頭 貝蔵遺跡の墨書土器(三重嬉野町)
3世紀前半 卑弥呼の支配(魏志倭人伝)
239年 *胴鏡に書かれた文字「景初三年」
4世紀初頭 柳町遺跡(熊本)から出土の木片に「田」の墨書
369年 *石上神宮(奈良)の七支刀銘
4世紀前半 片部遺跡の墨書土器(三重嬉野町)
5世紀中期 稲荷台1号墳(千葉)出土の鉄剣銘「王賜」など12文字
471年 稲荷山古墳(埼玉)出土の鉄剣銘
622年 法隆寺釈迦三尊像台座の墨書文字


517 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:41:03
やはり無理がある畿内説
  邪馬台国=朝廷
  

518 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 18:40:43
妙なイデオロギー的バイアスがかかってないと話は簡単だね。

519 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:03:54

同感




520 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:05:53
外部との接触のない地方的王権と外交能力のある対外的な王権を
区別すべきだろう。

521 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:08:56
>>519 対外的な王権?それとも無理やり書き込んだ?

邪馬台国のスレだよ

522 :520:2009/03/16(月) 19:12:02
落ち着け!

523 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:18:04
そうそう邪馬台国は冊封体制の王権だな。それはまた別に
考える必要がある。

524 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:36:11
邪馬台国について純粋に議論できなくなったな。
やはり、天皇制とひっつけたがるから。
マスコミといっしょで学者も手を付けたくても手がつけられないのが邪馬台国じゃないか。
いまや人間天皇、天皇制の否定に綱がらないのになあ。
たとえば、金印 (漢委奴国王)
倭国が漢の属国だとしたら困るもん。江戸時代に発見されなかったら、
金印今頃 なかったと思わないかい。

525 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:43:57
最近は「纏向は王権の礎の地か!」って調子で無知なマスコミが
無責任に煽るが2ちゃんねるでしか日本史知らないのかもな。

526 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:58:51
>>525

ごめん無学で詳しく教えてください。

527 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:02:32
ネ申の手で万世一系の大和王権を発掘したいんだろ。

528 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:09:06
526です、青森には関係ないんですけど。

529 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:11:56
[万世一系神国・定礎BC700]みたいな石が畿内のどっかに
埋まってると思ってるさ。

530 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:13:50
まあ如何にこの板の九州説が如何に低脳でバイアスかかっているのか良く分かる流れだなw

 万世一系?大和朝廷?

アホぬかせwww

三朝交代どころか複数の有力氏族による王権持ち回りをも考えている学者もいるのに
寝言は寝て言えボケがw


「畿内説の学者は若かりし頃にマルクス史観の薫陶を受けたサヨ!」
・・・と言う方がまだ現実に近いわwww

結局、この板の九州説と言うのはその大半が
脳内イデオロギー闘争に邪馬台国・古代史と言うネタを使っているだけの基地外集団アホの軍団wwwwww








531 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:16:42
歴史学会が右翼ジジィばっかりでトーシロにもからかわれそうだぞ。

532 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:28:00

同感  私岐阜県民ですけど、畿内説=天皇しか根拠あまり見当たりません。

533 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:30:28
しかしこの板の九州説ってどうしてこんなにアホで無知で電波なのか?
特に邪馬台国論争史と言う物についてまったく知らないクズが多すぎるw

戦前の昔から畿内説と九州説はプロの学者と市井のアマチュアの論争とか言ってみたり
昔から畿内説=考古学、九州説=文献と言う構図だったとぬかしてみたり
現在の畿内説の学者が万世一系の信奉者で天皇制至上主義の御用学者の如く言ってみたり・・・

もうアホかと馬鹿かと・・・

恐らく特に邪馬台国や古代史を趣味にしない人間でも一般教養知識としてでももう少しマシだろうw

恥ずかしいから一応は歴史の看板出している板に書き込むなとwww



534 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:32:22
>>530
じゃ邪馬台国と大和朝廷と纏向を一直線で結び付けようとする
マスコミが単に不勉強で天皇制資本主義イデオロギーに染まって
るだけってこと?

535 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:37:23
まあ、九州説の人間の脳みその中身が右巻きか左巻きかは別にしてもだ・・・

自説の根拠、構造を成り立たせる為、神武や欠史八大は実在で無ければならず

またそれが畿内であろうと九州であろうと古代に日本を統治した強固な中央集権国家を想定し
畿内説の言う「緩やかな首長連合」なんて枠組みはガンとして受け付けない。


・・・無論九州説が全部が全部そんな連中じゃないが
(この板ではそっちが多数派の感があるがwww)
皇国史観と言うかウヨ的歴史観みたいなのは九州説に多いと言っても過言ではあるまいwwwwwwww





536 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:41:34
400年代の冊封体制は畿内王権に及んでなかったんだろうか?

537 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:41:38
>>534
もう馬鹿すぎて脱力以外の何物でもないが・・・

吉野ヶ里ブームの頃、吉野ヶ里=邪馬台国を喧伝したのもマスコミって事を考えてごらん?



538 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:44:30
冊封体制なんて言葉は義務教育の日本史のテスト以来、忘れてたよ。
貴様らも脳味噌に入れときなさいよ。

539 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:55:28
私 岐阜県民ですけど 畿内説じゃない
だからといって九州だでもないのです。とにかく機内には存在したら、朝廷との関係がいまいち解けないのです。
三国志のなかでどれほどの文献なのか。わざわざ奥地にしかなかったアフリカの珍しい小さな邑(朝廷)のようなものなのか。


540 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:59:42
>>537
時はバブル真っ盛りで共産圏は解放路線、クサいイデオロギーとは
無縁な時代だったな。

541 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:01:15
>>540

脳内イデオロギー闘争乙。

542 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:04:08
○くる会さんですか?

543 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:07:07
見た感じ九州説と右とか左とか結び付けようとしてるのが一番臭い
何処見てもそうだけど、そうやって話そらして妨害しないとやってけないんだろうか
元の書き込みは結びつけてもいないのにそんな気がする!とかいって騒ぎ立てる
どっちがだよ、って感じ

544 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:08:50
>>535
またあなたですか。仕事から帰ってきて連投おつですw

「論争の経緯」は知ることに越したことはありませんが、
それをあたかも盾にしたような固定観念はどうかと思いますがね。
あなたはね、「誰が信頼できる学説か」にとらわれて
本質であるべき「何が信頼できるのか」を見逃している気がします。

545 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:09:27
纏向がアイヌ王権の遺跡だったらどないすんねん?

546 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:12:33
違うぞ。

イデオロギー云々でイチャモンつけているのは九州説の方。

自説が受け入れられないのは学会を支配しているイデオロギーのせいだと言う
言わば 『 陰謀論 』 wwwww

もしくは・・・

元々イデオロギー闘争が大好きで偶々そのネタに邪馬台国を使っているwwww

もっともリアルでのまともな学者で
九州説唱えている人間はそんなアホな事はあまり言わないだろうがw

この板の現象はちゃねらーと邪馬台国論争の化学反応によって生じた奇観wwwwwwwwww










547 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:15:38
神武東征神話の畿内のアイヌ征伐は結構、長い話だからな。
衝突が大きかったんだろう。

548 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:16:15
邪馬台国は大和朝廷と関係ない。近い関係はあったかもしれないが。
大和朝廷は内国政策で精一杯であった。
邪馬台国は外交と隣国の統治で精一杯であった。
やがて邪馬台国は滅びるか、存続したが文献も日本に残らない有様で終わった。
そして大和朝廷は天下統一と外交に精を出すことになる。
(この変化の起点・気運はどこから来たのか)

この前提条件で、考えられるとすれば、まず記紀神話とのつながりだろう。

549 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:17:56
>>546
興奮しているところ悪いけど、最後空白で改行しまくるのやめてくれないかな。

550 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:23:14
>>544
イデオロギー云々のお話にはお前みたいなのは関係ないから
すっこんでいなさいwww

以下私見だがw

この板の九州説の傾向にもいくつかパターンがあって・・・

一つはその実イデオロギー闘争が大好きで常に脳内イデオロギー闘争をやっているアホ連中がいる。

またそれとは別に「アームチェア・ディテクティブ」を気取った連中もいる。

恐らく>544は後者のタイプだろうと推測するがwww



551 :544:2009/03/16(月) 21:26:39
>>550
実際に発掘作業やってないし、100%の情報は人づてですよ。
そう思われても仕方ありませんが。

552 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:33:45
ああ、そういや500年代前半の朝廷の詔勅もあったな。
万葉仮名は五世紀にまで遡るわけだな。

アイヌの話は言って見ただけだが、今の畿内と一緒にするなよ。

553 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:36:40
そもそもイデオロギー云々で言えば
九州説の祖とも言える本居宣長はそのバリバリの皇国史観から九州説を言ったと言うのは常識って話でw

無論、戦前は「皇国史観」なんて言葉も使われなかったのかもしれないが
似たようなニュアンスで「本国中心主義」として畿内説から九州説は批判されている。

まあ公平を期すために言っておくと戦前の九州説の学者でも
その発言内容が不敬に当たるみたいな事を言われ
公職を追われた者もいるがwww



554 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:36:58
結局 考古学者も手がつけられない。発掘もむやみにできない。
三種の神器どうよう暴いちゃいけないことかな?
やっぱり、時代が変わり、金印を百姓が見つけるしかないかな?


555 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:40:57
雄略の時代が倭王・武に重なるんだったような記憶があるが。

556 :544:2009/03/16(月) 21:44:40
それを言っちゃうと、天皇陵・可愛山陵参考地は掘り返すと
あっさり解決するのかもしれないですよね。
じれったいかもしれないけど、日本のこういう自律姿勢は
大事にしなきゃいかんと思います。
いまのところ西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚のように宮内庁にお願いして
制限つきでレーザー探査するしかなさそうですね。
この件も結局墳長がちょっと長かったとか、男狭穂塚は前方後円墳じゃなく
日本最大の立貝式前方後円墳だったとか、外郭の調査しかしていないわけで。

557 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:45:04
初代・神武からは代が下ってるが、神話と歴史の関係なんて
曖昧なものだから、同一人物が別人で二度登場したっておか
しくはない。

558 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:55:17
>>557
神武と応神のこと?

もっともこの板じゃあ応神東征が史実で神武はそのコピーって話は人気無いけどなw


559 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:02:51
だから、神話で語られる「万世一系」の大和王権なるものは
冊封を貰って九州辺り(高天原)から攻め込んだ雄略帝(武)から
始まっていて、この時代の朝廷系譜そのものは元から畿内にいた
地方豪族とごったになっていて、象徴的に武(神武=雄略)が
発端に置かれたのかも知らない。

神武が高天原から出発したというのはあくまで神話だがな。

560 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:11:42
>>558
ああ、そんな話題もありましたっけね。

561 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:27:36
じゃ日本神話の語る大和王権は、太子の建てた国家意識を塗り込めて、
暗黙に冊封体制の権力構造に戻してしまったってことですね。
分かりやすいですね。

562 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:29:04
>>559
神武=雄略説ねえ、、以前、「河童虫」とか言うコテがそんな事を言っていた記憶があるがw

素朴な疑問として

古市や百舌の河内の物より時代的にそれ以前の大和にある古墳群を築いた勢力は
その攻め込んだと言う雄略の勢力に滅ぼされたのか?って話で

それ程の勢力が九州(高天原)あったのにその痕跡も今に残っていないと言うのは
まあ眉唾と感じざるを得ないw



563 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:32:27
>>562
九州が国の中心から外れてどれくらい時間経ってんだよ。

安保利権って奴でしょうか。

564 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:32:48
神武天皇、崇神天皇、応神天皇、景行天皇、ヤマトタケル
ここへんは話が前後したり同一人物の話が語られてる部分も
あるかもしれない

でもマキムク-橿原の成立年代を考えたら
神武に相当する人物が2世紀末の倭国大乱の頃に
九州から畿内に入って
そのあたりを自分の領地にしたというのも
全然不思議じゃないわけで

それで
マキムク(真東を向く)日向(ヒムカ日に向かう-ヒムカシ-東の語源)などの
意味の類似性
古墳の相似形の問題などを考えると
やっぱマキムクと日向の血縁関係としか思えない関係の深さは謎なのよね

まあこの部分は邪馬台国と直接関係してる部分じゃないんだけど



565 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:38:55
珍米保守論壇みたい。相変わらず太子の幻化工作が好き。

566 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:43:22
聖徳太子の話はここではどうでもいいよ
スレ違い
聖徳太子うんぬんは他にスレがある
神武東征や邪馬台国とは
あまり関係の無い話

567 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:52:28
王権とは何かって話だからさ。邪馬台国が冊封国家なのは
明らかだろ。途切れ途切れだが、五世紀まで続いてる。

当時の日本がそういう存在であることを忘れて邪馬台国こそが
朝廷の絶対起源であるかのような思い込みを前提にして議論
しても混乱するだけだから、まず神話が神話に過ぎないことを
明確化したかっただけさ。

568 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:56:21
>邪馬台国が冊封国家なのは
>明らかだろ

どうしてそういう結論になるの?
その頃の倭は中国の属国でしょう

569 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:58:42
東遷説は、九州にあった邪馬台国が大和に遷都したということだから、
年代的に言えば、卑弥呼のあと、つまり3世紀の後半から4世紀の初めという
ことになる。そして、それが大和朝廷の前身となる。

記紀との融合を試みると、邪馬台国は一度日向に遷都し、そのあとさらに
大和に遷都したということになるわけだが。

570 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:03:43
神話って言葉で存在を全否定しちゃダメなのよ
つい十数年前まで生きていた金日成にだって神話がある
日蓮にだって、空海にだって神話に相当する伝説がある
でもこれらの人物が想像上の人物だって言ったら
石投げられるよ

571 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:06:09
>>568
そうそう、五世紀まで。途中、中国側も内乱で連絡が切れたり。

>>569
それを更に武が東征将軍として制圧した。

572 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:12:24
ああ
冊封される側で中国の子分として
中国に封じてもらって権威を得ていたってことね
OK

573 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:12:51
太子が改革独立派で冊封体制から卒業したのに、死後に保守派の
巻き返しを食ってしまったわけ。

大和王権に関する知識は記紀神話から得られたものであるから
には、やはり記紀神話の成立事情を考察する必要はあるな。

574 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:14:44
>>564
>全然不思議じゃないわけで

いやいやいやいや、ぜんぜん不思議ですw

そもそもなんで神武ちゃんはわざわざ瀬戸内を横断して大和までいったん?w

ちゅっとリアルなお話で申し訳ないが
九州から大和までの兵站線の維持ってどうやったん?

それとも片道切符で家財道具一切合財持ち出してクニをでた?
んなもん行き倒れになるでw

纏向を東遷勢力によってたてられたとすると
相当な人口の移動と言うことにならざるを得ない。

纏向は良く言われるように一般ぴーぽーの為の竪穴式住居跡が殆ど見られず
東遷勢力の直接の移住先には思えないわけで
あれだけの規模となると集落の一つや二つの人口程度では無理じゃねえの?www

この板の東遷厨は考古学的に認められる痕跡の無い事を
大和入りした勢力が極少数であったことで説明することが多いが

そんな少数じゃあ纏向を興すのは無理だろうって話で
そっちはあきらめなさいとwww




575 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:20:25
太子の晩年の言葉は「世間虚仮、唯仏是真」。権力ヴァカたちに
悩まされて疲れたのかも知らん。まことこの世は虚しいものよ。

フォッフォッフォ

576 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:22:42
>>574
ほかの人間が書いてることとごっちゃにするなって
そもそも俺は神武東征がそれほど大規模なものだとは思ってない
邪馬台国東遷なんてまるっきり考えてもいない

簡単に言うと
倭国大乱に乗じて
神武(たぶん兄ともにその地の跡継ぎではなかった)の兄弟が
南九州から奈良に出て行って
そこの豪族の頭を召し取ったっていう話だと考えてるから

577 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:23:26
>>575
おい聖徳太子!
てめえだって物部ぶっ殺すのに奔走してたじゃんか!
何、聖人ぶってんだコラ、あ?

578 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:40:15
>>570
だったらプラトンが記した物があるから
アトランティス大陸は実在したのかって話だなw

じゃあ金鵄やヤタガラスと言ったUMAも実在しただろうから
化石でもその生き残りでも見つけてきてくださいよっとwww

まあ神話の全部が全部フィクションと言うつもりは無いが
神武東征については先に言った霊長の助けと言うプロットや
末子相続という話は中央ユーラシア辺りに多くあるもので
全体が神話と見なす材料はある。
(一部、河内潟の地形の描写とも取れる記述があったりはするが・・・)

そういえばモンゴル相撲の力士は競技の前後両手を広げて
鷹か鷲を真似るダンスをするがアレは宗教・文化的に関係あるのかな?

そもそも”欠史八代”と言うのは記紀における記述の少なさから
その実在を疑われているんだが

神武にしたって即位後の記述は相当にあっさりしている
(日本書紀でもパラ見してみ?)

御伽噺のシンデレラ姫だって王子様と結婚してハッピーエンドだろう?
彼女の人生はそこから先が長いはずなのに語られることは無いよね?wwwww



579 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:43:08
>>578
だからさ
明らかに神話である部分は無視していいわけよ
その部分は宗教的権威を作るために付け足された部分だから
たとえばヤタガラス云々とかはどうでもいいわけ

580 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:57:58
日蓮や空海だって山ほど伝説(神話)があるが

たとえば
日蓮が法華経を唱えると米ケ浜のサザエは角なしのサザエとなった
とかは法華経を広めるための宗教的権威付けのお話だし
空海伝説(神話)なんてこんなに山のようにあるわけ
(弘法大師に関する伝説は全国に5000以上-
当然世界中の説話と共通性があるものも多い)
http://www1.plala.or.jp/eiji/kukaidensetu.htm

こういう宗派の祖に神話が付け足されたのと
神武や聖徳太子に神話が付け足されたのは
まったく同じ理由と考えられるだろ

581 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:06:46
>>579
だからさ
明らかに神話でない(史実)と言う部分がどれくらいあるのかって話だよw

個人的には先に挙げた浪速の地形の描写ぐらいしか思いつかない。

東遷説の底の浅さは結局
「神武東征神話があるので何らかの史実の下敷きがある可能性を考えるべき」
でお話が終わってしまうところw

まあこの板でそんな物を求めるのは無茶だろうけど
実際、学者の書いたものでもきちんと神話学等による分析をして
史実部分を洗い出し、それに対しいかなる史料をもって根拠となすか・・・
と正攻法で真正面から書かれた書物ってあったっけ?

あったら教えて欲しいが・・・





582 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:10:38
>>581
まずは
その「東遷説」っていう単語を使うのをやめてほしいんだけど

俺は邪馬台国東遷説に関しては完全否定だから
明らかに「東遷説」を主張する人相手に使ってよ

583 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:12:52
神武は日向出身で、各地を転々した後いったん吉備に落ち着いていたが(あるいはそこの首長に仕えていたが)、
倭国大乱に乗じて大和に入り、三輪・磯城地方の先住有力者と婚姻関係を結ぶなどして地歩を固め、
そこで一邑長としてのスタートを切ったんじゃない?
で、一族から「三輪の神と結婚」する女子(百襲姫)が出て、そのカリスマ性によって大和内で優位に立ち、さらに諸地方からも注目を集め、
彼女の死後、一族の当主だった崇神がその権威を受け継ぎ、紆余曲折ありつつも前方後円墳体制と布留土器をもって広域支配へと乗り出していくと。
で、日向なんて後進地域でありながら、いち早く古いタイプの古墳が築かれたのは、
そこが一族祖先の所縁の地で、ある程度重視されたから。いわば室町足利氏における下野足利、江戸徳川氏における三河岡崎みたいなもん。

584 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:13:36
金印の時代の倭王の名前は中国名のようだ。
ということは、自分の国の名前も呉音で言う。

越オの土ドで意味は越の国。
漢字の「土」は国の意味。

それを漢音で表すと委奴になる。
参考までに後漢の都は洛陽。
唐の都は長安。両者はほとんど近い。
だから漢音。
8世紀のころ唐に合わせて、朝廷は呉音から漢音に統一しようとしたらしいが、
うまくいかなかったようだ。

上古音がナと読むからナというのは片手落ち。
広い中国、場所によって同じ時代でも音が異なるのは常識。

又は、
数字の一は呉音でイチ。
一番の国という意味。
イトはオーストロネシア語で数字の一の意味。
日本語もヒトツ。


585 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:18:01
>>578
王族の祖先が、天からよその土地に降りて来て、やがて都を武力で征服し、
そこで王権を開いたというような神話でもあるのかな。

神話を持ち出す連中は、要するに、一つでも他の国の神話と共通すれば、
記紀は全て神話で、作り物だということにしてしまう。

神話的な要素があったとしても、史実が、神話的な脚色を受けたというのも
十分に考えられる。普通は、それを一番最初に考えるべきだろう。

586 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:20:57
>>582
そもそも「東遷説」と言うのは邪馬台国東遷説の他にも
「伊都国東遷説」や「奴国東遷説」もある。

神武東征神話を史実として九州からある勢力が大和入りしたと言うお話なら「東遷説」だよw

邪馬台国東遷説をとらず時代を更に遡ったところで考古学的資料の無さと言う欠点は変わらない。

いっそ夜臼式土器の東進まで遡りますか?wwwwwww

587 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:25:28
>>585
あのねえ・・・

そもそも東遷説が否定的に扱われているのは考古学的資料が無いってのが最大の原因だろう?
違うか?(イデオロギー云々の陰謀論は勘弁なw)

それに加えて神話が海外との類似が多く見られるとなりゃ
「ああやっぱり神話でしたか」
となるのは当たり前すぎるほど当たり前。



588 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:30:55
>>581
古墳時代の畿内の棺を発掘すると、鏡が出てくる。剣が出てくる。
棺の中が朱で真っ赤に染められている。
こういうのは、弥生時代の畿内にはないが、弥生時代の九州にはある。

弥生時代に畿内で発達した銅鐸は消滅する。
代わりに、古くから九州で重要視された鏡が発展する。

文化的には、弥生時代の畿内と古墳時代の畿内との非連続性があり、
逆に、弥生九州と古墳畿内の連続性がうかがわれるわけ。

畿内系の人は都合の悪いことには目をつぶってしまうが。

589 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:45:41
>>588
いつもの万年ループネタだな。。w

銅剣なら山陰の荒神谷遺跡から出てきたのが最大だな。
朱の使用なら吉備の楯築にも大量に使われていた。

そもそも銅鏡は中国から伝わった文化w
畿内中心に分布するのは画文から
九州を中心とした内行花紋やTLVとは異なる様式。
(誰も中身を見ていない八咫鏡を平原で製作された特大の内行花文鏡なんてお話は勘弁なw)

九州に前方後円墳の元とみなされるような大型首長墓を築く文化があったか?

なんでもかんでもウリナラ起源説よろしく九州起源と言うのはいい加減止めろw






590 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:52:04
ちょっとお伺いしますが、日本武尊の東征(景行40年)ていうのは、
西暦に直すと何世紀の話でしょう?

591 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:57:19
>>588
畿内と九州見て比較してるけど
それ以外の地域の遺跡や出土品はどうでもいいわけ?

それと九州の弥生というと、甕棺もあるし、銅矛もあるけど
これらは畿内へ連続してないよね
どうでもいいわけ?目をつぶるの?

592 :589:2009/03/17(火) 00:57:34
>>588
もうこんな事を書くのもいい加減バカバカしいが

仮に副葬品の構成が九州から伝播したものであっても
葺石は出雲の四隅から、特殊器台は吉備から・・・と
前方後円墳が各地の埋葬文化のチャンポンであると言うのはもはや常識レベルのお話だろうに・・・

都合のいい部分だけ切り取ってウリナラ起源説を喧伝する東遷厨って何処まで馬鹿なんだろう?

まあこう言っても同じ事を延々繰り返すんだろうがwwwww

593 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:03:22
>>590
「四半世紀」厨である私の説からしますと、
景行天皇は、6世紀前期の継体天皇の8世代前ですから、
1世代25年(四半世紀)としますれば、
おおよそ4世紀の前期頃の出来事かと思われますね。

594 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:06:58
>>589
九州では、弥生中期、つまり紀元前1世紀あたりの甕棺から、鏡、剣、朱が
広く見られる。相当に古くからの習慣。これは事実。

弥生時代の畿内の墓にこれが見られないのも事実。
これが古墳時代の畿内に普及するのも事実。

逆に、畿内で銅鐸が消滅するのも事実。

こうなると、九州起源が出てもちっともおかしくない。
なんせ、大和朝廷そのものが九州起源を説いているわけだから。

595 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:15:57
>>594
それらは全部ひっくるめて九州の文化が古墳文化の源流の一つ

あくまで「ワン・オブ・ゼム」であった可能性を示すに過ぎない。

そもそも文化の変容をもって支配勢力の交代劇とみなすこと自体に
騎馬民族説と同じ無理がある。

九州も半島か大陸からやってきた銅鏡文化の勢力に蹂躙されたって話なのかい?w






596 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:15:57
>>590
日本書紀の書く年代によれば、神功皇后は3世紀の人物。景行天皇は神功皇后
の夫・仲哀の祖父にあたる人物。1世紀ころの人物ということになる。

597 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:24:57
>>595
中国の記録を見ても、朝鮮半島の記録を見ても、あちらから日本に人が
渡ってきたとするものはない。
高句麗を建国したのは扶余族であり、百済の王族も扶余族らしく、そのような
記録が残っている。しかし、日本に渡った様子はない。
したがって、騎馬民族征服説はありえないな。

598 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:31:34
>前方後円墳が各地の埋葬文化のチャンポンであると言うのはもはや
>常識レベルのお話だろうに・・・
前方後円墳が畿内で始まったとしても、東遷・東征を否定する理由にはならない。
東遷・東征がなかったというためには、>>588のような指摘にきちんとこたえる
必要があるだろうな。



599 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:44:46
>>596
神功皇后はやはり広開土王碑に見られる朝鮮出兵の、
390年ごろと見なすべきでしょう。
三韓征伐は、他にそれに匹敵する史実がない。

600 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:45:42
そもそも畿内の銅鏡は古墳時代より前にも入ってきている例が無いわけでもない。

葛城の名柄遺跡(弥生中期〜後期)から多紐細文鏡が出ていて
これと同じ鋳型の物が下関市、唐津市、半島の慶州からも出ている。


一体東遷勢力が畿内に持ち込んだ鏡ってどういう様式なんだよ?www






601 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:51:01
>>599
広開土王碑に見られる朝鮮出兵は、倭の王が女性であったとは書いていない。
それしか匹敵する史実がないからといって、日本書紀が2世紀末と明記する年代を
簡単に4世紀末と読み替えるべきではない。
日本書紀は神功皇后と卑弥呼の年代をほぼ一致させている、卑弥呼の時代に朝鮮出
兵の事実があったとは考えられないから、それはねつ造かと考えてみることも必要
だろう。

602 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:59:41
>>598

>鏡、剣、朱
文化の伝播で終わる話
しかもそれが九州からのものとは限らないと着ているw

>銅鐸から銅鏡へ
一つの文化の終焉新しい文化へのシフトで終わる話。
無理矢理東遷説を持ち出さなくてもおkw

逆に九州には前方後円墳に繋がるような巨大首長墓を築く文化は無かった。
「文化の非連続性」と言うのならそれこそ問題w

そもそも畿内説は「広域首長連合」という枠組みを考えているのだから
その文化の要素の一部に九州の物があっても何ら問題ない。


別に畿内説に都合の悪い物は何一つ無いが?wwwwww



603 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 02:01:55
>>601
そもそもあなたが、どのような物差しで、
日本書紀の年代を考えているのかがわからない。
古代の倭の暦は、西暦の物差しとは違う(倍暦など)。
応神くらいの頃に、漢字、仏教などとともに中国の暦の物差しが入ってきた、
と考えるのが、現在の主流だと思う。

604 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 02:05:46
畿内説論者は、銅鐸の埋納や弥生葬制と古墳との断絶を習慣の変化と説明するようだ
が、とてもそんな説明ですむものではない。
習慣の変化ならば、必ず従来の習慣にこだわる人たちがいるはずで、新制度と旧制度
の併存ということになるはずだ。しかし、銅鐸はある時期にほぼいっせいに埋納され
て姿を消してしまう。これは非銅鐸勢力によって強制的に銅鐸習慣が断絶させられた
ことを推測させる。
「邪馬台国は東遷したか」という本を読み、否定派の金関が近畿にも古墳時代に続く
弥生時代の習俗があると主張しているのをみて、あきれてしまったな。
弥生時代の遺物に出てくる木の鳥が古墳時代にもでてくる、というんだが、弥生時代
の人たちと古墳時代の人たちはつながっているのだから、連続する習慣の一つや二つは
あるだろう。それがあるからといって、西の勢力に征服されたということを否定する理
由にはならんのに、金関にはそこがまったく分からないらしい。

605 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 02:17:01
>>603
日本書紀が書いている年代はまったく無視して、神功皇后は4世紀後半のはずだ
とかいうところから考えを出発させているが、日本書紀が書く年代を素直に読んで
日本書紀に書かれていることの真偽を考えてみることも必要だろうと言っているん
だよ。従来の考え方は、天皇の長寿の部分は信用できない、したがって世代20年
とか、倍暦とかで年代を短縮して読もう、って話だ。しかし、年代は信用できない、
天皇の系譜の方は信用できるってのは、おかしいんじゃないかな。



606 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 02:22:19
>>604
>とてもそんな説明ですむものではない

すんじゃいますwww

そもそも集落の中心で首長参加で五穀豊穣を祈る祭りに使われたであろう銅鐸と
首長が自らの権力・地位に目覚め、そのシンボルとして受け入れられたであろう銅鏡じゃあ性格が違う。
両者の併用は元々考えにくい。

それに銅鐸も後期の大型になると製作地も限られてきていると言うのが大方の見方。
その地で銅鏡へのシフトがあれば少なくとも新たな銅鐸の供給は止まる。




607 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 02:22:56
畿内説にとって一番の邪魔物はいつも倭人伝。

608 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 02:33:15
>>605
倍暦は根拠があるでしょう。

魏志倭人伝に見えるハイ松之注に「魏略に曰く、
其の俗正歳四節を知らず、但、春耕秋収を計って年季となすのみ」
『日本書紀」は安康三年以降に元嘉暦を使っている ので、
それ以前の紀年には春秋年(倍暦)が使われていたとおもわれる。

そもそも一年が365日なんていうルールが、
あたりまえであると考えること自体が、
現在の常識で考えているわけですよ。

609 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 02:38:56
>>606
同じ首長が銅鐸と銅鏡を併用するというわけではないよ。銅鐸を大事にしてきた
人々の中に、銅鐸祭祀を維持しようって人々が必ずかなりいたはずだ、習慣を変
更しようって人々がいたはずだと言っているんだ。
例えば、南九州の葬制は、前方後円墳が行われても南九州独特の葬制も続いてい
る。これは新しい文化が入ってきただけで、権力者が交替したわけではないとい
うことで理解できるんだよ。

610 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 02:48:48
>>608
「春耕秋収を計って年季となす」はそれで1年を数えるということで、倍暦などという
ことを言っているわけではない。
倍暦の根拠などどこにもないよ。神功皇后の条に倭人伝の記述を引用しているのも年数
を考えれば、合っているだろ? 倍暦があった、記紀を書いたころには、誰もそれを知
らなかった、などというのは、ありえない話だ。

611 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 02:58:39
>>609 2行目〜3行目訂正
「習慣を変更しようって人々」→「習慣を変更しないって人々」

612 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 03:12:29
>>610
このページはお勧め

孔子の二倍年暦
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou53/koga53.html


613 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 03:34:06
>>609
そもそも「銅鐸文化圏」などと一口で言っても
弥生時代後期となると「突線紐式」と言われる物になるが
その形式の物となると畿内から外れてくる。
静岡とか近江あたりが多くなる。

畿内の多くはその前の型式の扁平紐式の物までで、中期後半ごろの物とされる。

まあ手っ取り早く言えば銅鏡が畿内に流入する前、弥生中期後半ごろには

 「銅鐸文化、お前はすでに死んでいる」

状態だったと言うことでwww

銅鏡によって駆逐されたなんてのはまあデタラメだなwwwww


614 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 03:56:26
>>613
>銅鏡によって駆逐されたなんてのはまあデタラメだなwwwww
銅鏡によって駆逐されたとは誰も言っていない。非銅鐸勢力と言っている。
非銅鐸勢力が銅鏡を使ったのだろうが、非銅鐸勢力が一波のみかどうかは
問題であるし、使うまでには間があったかも知れないと思っている。


615 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 04:06:26
>>612
伝説を持ち出しても何の根拠にはならんのだよ。ヒコホホデミは高千穂宮に580歳
いたとか。何倍年暦にするつもりかな。

616 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 04:06:48
>>614
じゃあ銅鐸祭祀の中止と銅鏡文化の開始時期にはタイムラグがあると?

おいおい、じゃあ銅鐸祭祀が言わば自主的に廃されたのか
それとも外部の力によって強制的に廃されたのかわからねえだろwwww



617 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 04:39:16
>>615
史記、列史、論語を伝説って言っちゃダメでしょ
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou53/koga53.html
この「孔子の二倍年暦」はかなり説得力のある論文だよ

ヒコホホデミの高千穂宮に580歳というのは
単純に神話で片付けていい話(神話による権威付け)

618 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 04:40:20
>其の俗正歳四節を知らず、但、春耕秋収を計って年季となすのみ

これを倍暦の根拠にする奴なんていまだにいるのねw

要するに当時の倭人は「農耕暦」「自然暦」を使っていたと言うに過ぎないw

ちなみに「其の俗正歳四節を知らず」と言うのは
「天子の定めた正確な暦を知らない蛮族」と言う侮蔑的なニュアンスもあるとかwww

619 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 05:23:09
>>618
いやこれは
それに続く「人多壽百年、或八九十」のほうが重要なのよ

普通の年暦ではありえないことだから


620 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 06:45:51
>>617
史記に基づく記事ってこれか?
「黄帝・堯・舜の年齢が百歳を越えていることから、夏王朝前後の中国は二倍年暦
であったことがうかがえる。」
黄帝・堯・舜って伝説の最たるものだろう?
列史、論語の記事だって普通に読んだ方がよっぽど納得できるぜ。
説得力ゼロの論文だ(論文といえるかどうかも疑問)。



621 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 06:57:27
>>619
>普通の年暦ではありえないことだから
ありえるよ。現代だって、いくらでもいるじゃないか。



622 :明日の風:2009/03/17(火) 07:23:09
倍暦に関しては、現代では肯定されているようだが?
またぶりかえす?

623 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 08:03:07
>>622
まともな学者は倍暦なんぞ考える価値もないと思っているのさ。

624 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 08:08:50
>>616
銅鐸の消え方から強制的に廃された可能性は高い。
廃止した勢力は、最初は反抗したものから土地や人を取り上げ、それを従った
者にくれてやったのだろう。そして、そのうちくれてやるものがなくなり、安
くできるお宝を考え出したということかな。
タイムラグがあったって何も問題はない。

625 :明日の風:2009/03/17(火) 10:53:42
古いタイプの学者は、新説についていけず(頭をきりかえれない、履ないできない。旧説で世の中を渡ってきたので、
今さら切り替えられない)、よってふれないようにしているのです。
しかし、若者よ、(精神的も含めて)君たちは因習にとらわれず、新しい道をきりひらいていくのだ。
そこにこそ、新しい史学の道がきりひらかれるのだ。
明日は新しい風がふくのだ。

626 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:54:51
倍暦というか、古代の暦が今とは違っていたのは
日本だけじゃないからな。
ローマでも中国でも、古代は今とは違うしw

627 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:01:18
>>621
バカも休み休み言え
この頃の日本人の平均寿命は
約15歳だ
http://www.unlimit517.co.jp/ana85.htm
これは乳幼児の死亡率が高かったせいでもあるが

15歳以上生き延びた人間の平均寿命を見ても
弥生時代、古墳時代で約30歳
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/3863/tyouzyu.html
これは15歳以上生き延びた人骨から没年の平均をとったもの

この時代に「人多壽百年、或八九十」はありえないんだよ


628 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:08:08
古代の暦は、今とは違っていて
春分、秋分があるが、そこで1年を割っていた。
だから、現在で言うところの、半年ぐらいを1年と計算していたのはそう。
だから、古代の人は一年ごとに、日の長くなる年、日の短くなる年がやってきた。

じゃあ、日本書紀が完全な倍暦で書かれているかというと、そうではない。
おそらく、記紀が編纂されていた当時、伝承されていた年代は
古事記にあるような、スメラミコト(天皇)の干支没年と
その時のスメラミコトの年齢だけ。
だからこそ、古事記には、欠史八代には干支没年が記載されていない。
欠史八代のスメラミコトは本当のスメラミコトじゃなかったから。
(おそらく、熱田社の尾張氏の先祖のほうがスメラミコトの座にあったのだろう)

で、なぜ、日本書紀は年代を改ざんしなければいけなかったのかというと
日本書紀というのは、中国との外交において、中国の外交官にみせなければいけない
対外的な歴史書だったから。
中国の外交官が日本にやってくると、日本書紀で予習して、訪日したりしたから。
そこで、中国側の文献と日本側の文献の年代の整合性が問題になってくる。
日本の建国当初は、暦の数え方が違っていたから
当然、中国側の文献に書かれている卑弥呼と年代があわない。
そこで、日本書紀の編纂者は、倍暦だったことを考慮せずに
比較的に年代の近い神功皇后と
卑弥呼・トヨの年代を無理やりすり合わせるしかなかった。
だからこそ、未亡人の神功皇后1人と、
生涯独身の2人の女王(卑弥呼とトヨ)を
同一視するという無理な記載になってしまった。
そこで、まず年代の改ざんがあった。

629 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:11:48
「骨からみた日本人」
http://milk.asm.ne.jp/jimu/hitori/hitori_13.htm
縄文人の寿命はせいぜい35歳から40歳

これは弥生人もほぼ同じ

630 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:21:26
現在はページのリニューアル中で見ることができないが
九州大学総合研究博物館「倭人の形成」のページで
人骨の研究のデータを見ることができる
この時代は40歳以上ならかなりの長生きだったことがわかる

631 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:28:33
>>620
おっくうがらずに
論文の最初の1行目だけじゃなく
全部読め

632 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:52:48
>>627
一般庶民と豪族の平均寿命は違うだろうw
一般庶民で平均30歳。
豪族なら平均40歳。
だから、中国の使者が会った80歳、百歳もいたというのは
容易に想像がつく。
半分で割れば、40〜50歳だから
庶民で平均30歳ぐらいだから
当然、40〜50歳は多くいただろう。

633 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 14:05:29
>>632
バカかおまえは
日本のこの時代に90歳以上の長寿の人骨なんていうのは
一体も出ていないんだよ

634 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 14:14:33
>>633
人骨の調査では、90歳どころか、今のところ最高齢でも45歳。


635 :634:2009/03/17(火) 14:30:10
しかし、鎌倉時代を中心としたオホーツク(アイヌ)北方民族の人骨には、60歳以上の寿命のものもかなりある。
これは日本列島の中世鎌倉人骨、沖縄県久米島近世(江戸時代)と比較すると、オホーツクだけが特別に長寿である。

636 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 15:27:18
>>632-634

>632は二倍年暦を認めてるんじゃないの?

637 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 17:11:34
>>2
神武天皇の東征の話は、アレキサンダー大王の伝説を取り入れたんだよ。

638 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 18:04:09
>>580

【中央日報】聖徳太子は聖王の生まれ変わりなので百済系王族

百済第27代王・威徳王の息子、阿佐太子が西暦593年にもたらしたという救世観音像と
百済系渡来人が作った百済観音像だ。 救世観音像は「威徳王が新羅(シルラ)との
戦闘で亡くなった父の聖王の姿を作ったもので、法隆寺を建立した聖徳太子は聖王の
生まれ変わり」という過去の記録が伝えられる。

このため韓国テレビの歴史ドキュメンタリー番組が百済の聖王の姿を3次元(3D)で
再現しながら、観音像の顔を使用したこともある。
聖徳太子も日本古代王家で百済系の王族に分類される。

奈良公園内にある東大寺も百済と関係が深い。
この巨大な仏像を作る造仏師として百済滅亡後に日本に渡ってきた百済の流民が
多数参加したというのが、東大寺の僧侶の説明だ。 大仏造成の責任者だった
僧・行基も百済系という。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=112668&servcode=A00§code=A10

639 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 18:10:05
百済が倭人の支配下にあったことを、なんで認めないんだろうな、バカン国

640 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 18:55:25
聖徳太子は梁の昭明太子のパクリだよ。

641 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 19:07:43
>>627
平均寿命なんて当てにならんのだよ。乳幼児期に死亡した者や若くして死亡した
者(戦死など)を多く見積もれば、平均寿命はいくらでも若くなるんだ。
倭人伝にいう「其の人寿考、或いは百年、或いは八、九十年」というのは、長生
きした者のこと。平均寿命の話ではない。当時は戸籍なんぞないんだから、若い
うちに死んだ者の数など分からん。平均寿命なんぞ出せるわけはないんだ。

>>633 >>634
幼児や老人の骨は残らんのだよ。骨密度が高いしっかりした骨だけが溶けずに残
ってるんだ。それを見て八、九十、百はありえんというのは、大きな間違い。

642 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 19:31:07
日本古代史=朝廷の陰謀説と感ずる。

1)記紀は天皇家に伝わる歴史ということ 。またそれ以前の文献は皆無というがそんなに日本は文化程度が低かったのか。
2)日本の文字が紀元後しかなかったのだろうか。日本人(あえて)は魏志和人伝では海を渡る船を造り、航海術も駆使している。また漢王朝を訪問して、なぜ古代?中国語が話せた民族なのになぜ。
  縄文時代とか弥生時代とかおおざっぱな歴史なの。
3)大和朝廷以前の文献や遺物はほとんど隠滅、封殺されたのではないだろうか。金印なんか隠滅しろと命じたが、持ち帰ってしまったが失くしたとか。
4)今も、調査や触れてはならない三種の神器、古墳、神社の多いこと。

考古学者で名を成すには、海外しかないのだろうか。自由に発掘や調査させてくれない日本じゃ推測の考古学。紀元後というのに、考古学者でない推理作家も参加できる歴史感おかしくないかい。
もっと、かきたいけど、作られた日本の歴史をどう暴くかの議論とか法改正から、邪馬台国の謎が、いともたやすく解けるようかもと思うのは、僕だけだろうか。
僕だけだろうか。

643 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 19:37:27
そんなことが出来ちゃうほど我が朝廷は凄かったんだなあ、なんて考える阿呆が出て来るからやめとけw

644 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 19:44:21
>>641
文句つけるんなら九州大学他の人骨研究者に言ったら?
ともかく現在の研究では
縄文・弥生の人骨からみる古代人の寿命は70歳ぐらいで最長
それ以上の寿命は考えられない
これは世界的に見てもほぼ同じ

自説と違うからと言って科学に文句をつけてもしょうがないと思うよ

岡山大学助教授
http://www.cc.okayama-u.ac.jp/~kimazu/paper/doc/200404_10.pdf
古人口学
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/235.html

645 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 19:49:00
>>642
文字についての認識が浅すぎる
文字を学ぶとか文字を発明するというのは
容易なことではないのよ

アルファベットのような文字が中国文字だったら
日本でも受け入れられた時代は
もっとずっと早かったと考えられるけどね

もし日本に文字が古代(弥生時代など)から入っていたのなら
日本中の古墳から出土していなければおかしいわけよ

646 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:02:39
古墳の作られた年代はいつから?古墳の定義とは。
朝廷以外の古墳、盗賊に荒らされたか、朝廷に荒らされたか。

647 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:07:57
墓に文字入れる文化今もないのですけど。

648 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:10:32
ごめん墓に文章埋める文化無い。墓標等は土の上だからすぐに捨てられる。

649 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:12:12
じゃあ遺跡も全部探せよ
今までにたった
これだけしかないんだよ
数百年間に
>>516

650 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:20:52
倭奴国王の昔から日本でも歴史が文字によって記述されていたはずだ、と思わなきゃいられない人なのでしょう。

651 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:30:11
>>642
日本人は紀元前から中国と交易している。
しかも、庶民レベルじゃなくて、国家レベルで中国の政府と交渉している。
当然、中国と外交するとなると漢字を知らないと出来ないわけで
日本国内で外国の文字である漢字を大々的に使用するわけではないが
中国政府との交渉の場では、普通に漢字を使用していたはず。

あと、西暦4世紀の応神天皇の時代に漢字を導入したという記述は
千字文という記述に注目。
これは、年代的には整合性が取れない。千字文は西暦6世紀。
が、おそらく、応神天皇の時代に、
新しい漢字の用法が必要だったというのが正しい解釈。
(それ以前、日本で使用経験のある漢字は、古い時代のもの)
応神天皇の時代に、積極的に朝鮮半島に軍事介入した時代で
この時代、日本にとって対中国外交が必要になったから。

実は、邪馬台国(ヤマト国)の卑弥呼(媛命)が
中国との外交を重視したのは、北東アジア情勢が大きく影響している。

652 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:31:42
普通に考えて、日本人が中国語話すのにメモもなくできたか疑問なのです。

653 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:33:57
>>638
もう、あきれてw
聖徳太子を百済系に捏造するのかw
いや、彼らの起源泥棒は留まることを知らないな。

654 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:38:57
>>652
いつ日本に紙が入ってきたと思ってるの?

655 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:39:33
記紀が突如、日本の最初の文献かつ長文で現れること自体おかしな話。
それ以前に、文書が存在したと考えるのは普通だが、意図的か否やはともかく無くなったのは確か。

656 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:45:25
>>654 愚問

木や布、石、焼き物、紙以外いくらでもあるよ。
紀元前から中国と交易してたんだから・・・

657 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:47:02
記紀以前に聖徳太子が国史の編纂を指示したわけだけどね
これは焼けた

唐・魏徴(580〜643)の『隋書』「倭国伝」
倭国(日本)は百済・新羅の東南にあり。
(中略)文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。
仏教を敬す。百済において仏教を求得し、始めて文字あり。

中国の客観的な資料も
仏教が伝来するまで倭国に文字はなかったと断言している

658 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:48:11
天皇記と国記って昔は中学校で習ったものだが

659 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:49:51
>>656
そういうものがほぼまったく出土していないのは、どうして?

660 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:50:27
>>655
「続日本紀」や「日本後紀」をまとめる際に使用したであろう原文書も存在してはいないがな。

661 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:54:11
>>659
「朝廷によって消された」って言いたいんだと思うw

662 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:56:49
>>656

アイヌと倭人が接するとき
交渉や交易や協定などもあったのだけれど
これに際しても
当然ながらいっさいアイヌは記してないのよね
http://www10.atwiki.jp/t10kyoto/pages/24.html?PHPSESSID=a75e215583523dfa92805e647f0a7c7f&flag_mobilex=1


663 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:07:28
日本の古代史が崩壊した最大の要因は
本居宣長が「卑弥呼は熊襲の女酋長」「高天原は実在の地ではない」
とか言ったのが大きな要因。
にもかかわらず、なぜか、明治以降の日本右派に
本居宣長は神格化されているw

664 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:14:45
>>657
しかしながら、
日本では、西暦57年の金印も見つかっているし
三角縁神獣鏡なんかにも、漢字は記載されていたりする。
だから、その中国側の記載も、
あくまで日本が国内で公式に漢字を使用してなかっただけで
普通に紀元前1世紀から、中国と外交しているわけだから
漢字を知っている人間もいたと思われ。

665 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:17:25
神社の注連縄、あれは縄文字(結縄文字)ではないだろうか?
南米のインカ帝国には、「キープ」と呼ばれる紐に結び目を付け
て情報を伝達する手段がある。
注連縄に〆の子の藁を七本、五本、三本と垂らすのは、その
なごりだと思われる。
古代は、現代的な文字だけが情報伝達手段ではなかった。
狼煙は古代のモールス信号、二進法通信だったのだ。

666 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:29:26
>>664
うん
だから何度も数人が書いてるように
中国からの渡来人が重用されたんでしょ

自分を振り返ってみればわかると思うけど
10年以上英語を学習してきて
問題なく英語の文を書ける?
英語より漢文のほうが
さらにはるかに難しい書記言語だよ

話すことはまだ書くことに比べれば簡単だけどね

日本では残念ながら中国の甲骨文字のような
こういう系統だった表記文字の出土はない
http://homepage2.nifty.com/keijihamada/mojinorekisi.html



667 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:35:39
本居宣長は、高天原は実在の地ではないと言った。
なぜ、彼がこんなこと言ったかというと
彼は邪馬台国九州説論者であって、
もし、高天原が外国だと困るからw

しかし、邪馬台国はヤマト国のことであり、
日本最古の辞書である延喜式でも、高天原は葛城のこととされている。
葛城は、周囲を山に囲まれた盆地であり、
ここには、近畿地方の重要な河川の上流部が集結している。

つまり、ニニギ命は、この葛城(高天原)から
九州南部の高千穂に降臨したことになっている。
このことは何を意味するのか?

まさか、畿内から九州南部に遷都して
再び畿内へ戻ってくるわけないだろう?

668 :667:2009/03/17(火) 21:39:54
つまり、畿内王朝の建国当初
現在の天皇家というのは、
畿内王朝の命令で九州南部に知事として派遣された家系であり
畿内王朝の本流家系ではなかった。
そして、その畿内王朝の家系とは、熱田社の尾張氏の先祖だった可能性が高い。



669 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:42:54
>>644
何を見当違いの文句をいっているんだ。あなたが出した例だって、八、九十歳は
結構いるじゃないか。倭人伝は長寿者の話をしているんだ。あなたが出した例は
私の見解を指示しているんだよ。


670 :544:2009/03/17(火) 21:48:48
>>32
一つには、熊襲=未開人という差別意識。
一つには、天皇の正当性を説いた記紀を信用してはならないという戦後教育。

いまの考古学会も似たような意識ですね。
本当に学会に絶望したのは、西都原81号墳が最古級だったことがわかったとき、
多くの学者は「纏向型古墳は、ホケノ山古墳など奈良県で発生したものが各地に展開したことが
裏づけられる」と勘違い発言ばかりで、そもそもマキムク型古墳ということ自体
畿内中心の考えでしかないわけで。
日本最大の「木槨」が宮崎から発見されたときも同様の論調であった。

仏滅年代も大学によって100年の誤差があるしね。具体的には兄弟と灯台。

671 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:51:24
>>668
こういう畿内中心論者がいるから話がややこしくなる。

672 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:54:59
畿内王朝の本流家系でないとしたらなぜ自ら天皇中心の日本を建国したんですか?w

673 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:56:23
ヤマトとは、山門であり、
三輪山周辺の地域のことをいった。
このヤマトに隣接しているのが、葛城であり
ここは、高天ともいった。



674 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:59:57
俺も資産1000億円くらいの大富豪なら、自分で金印
を作らせて畑に生めて歴史捏造をしたいものだよ。
教科書選定委員に金を渡して、新しい歴史教科書を
作らせれば、30年後位に新しい歴史観を持った国家
に変わえられる。インターネットのない時代なら簡単
にできたはず。

675 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:01:21
>>669
何を勘違いしているのかわからないけど

岡山大学のぶんは
702年の現存する最古の戸籍において
1119人中没年時80歳以上は数例だけ(3、4人)

古人口学の図においては
弥生人の没年時80歳以上の例はゼロ

だから「人多壽百年、或八九十」は絶対にありえないわけ

676 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:06:21
結局は神武東征は大和朝廷の自作自演といいたいわけか。畿内説論者って。

今の中国・朝鮮の歴史改ざんと変わらないですな。

677 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:09:51
>>670
そのとおり。連中は、普段、宮崎のことなど考えたことがないからね。
何かあると、「まさか」という否定的な立場からものを考える。
いかにして、駄目だという結論にもっていくかだけに頭を使うんだ。

678 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:10:28
>>672
言っている意味が分からない。

要するに、天武天皇が記紀を編纂する時に問題になったのが
自分の王朝を建国した初代スメラミコトが、
自分たちの先祖のニニギ命ではなくて
そのニニギ命の兄弟に当たる火明命だったということだ。
ちなみに、天武天皇が晩年、もめまくっていたのが、
火明命の嫡流子孫にあたる尾張大隅。

そして、この火明命は「天照国照彦」と呼ばれていて
天津と国津の両方の支配者という意味であり
出雲国譲りを実現させ、はじめての天下統一をはたした人物だった。

そして、スメラミコトの地位は、この天火明命の男系子孫に受け継がれていた。
しかし、それを奪ったのが、ニニギ命の後胤である神武皇統であり、
その切欠が、記紀では5代目の天皇とされている孝昭天皇である。
彼の妻は、真のスメラミコトだった天忍男命の娘であり
その間にできた子供にスメラミコトの座を継がそうとした。(一応、母系継承である)
で、両系統の間で戦乱が起こり、
孝元天皇の姉であるヤマトトトヒモモソ媛命が擁立されるまで続いたのである。
ちなみに、この倭国大乱の間の神武皇統の当主には
孝昭、孝安、孝霊、孝元という天皇名がつけられている。

679 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:10:41
>>667
伝承地の紹介と妄想を書き連ねるだけなら九州は数え切れない伝説・継承地がありますよ。
根拠になってませんね。
だいたい自分が派遣させた日向に何の目的があったか説明できないと納得してくれませんよ。
しかも帰ってくるときだけ詳しく書いて、行くときは「高天原から降り立った」だけって。

680 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:28:25
>>678
身内同士の争いの結果神武皇統が勝利し、その後の記紀編集で
武勇伝が神話化されたということですか。
東征ではなく内征ということですなw
道筋としては納得できるけど、腑に落ちないなぁ。神武東征に限った話であっても。
邪馬台国と絡めるともっと腑に落ちない。

681 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:32:26
>>679
高天原の伝承地というのは、日本全国にある。
が、京都朝廷が長い間、公式認定していたのは、葛城。
しかしながら、じゃ、なぜ、天皇家の先祖は、
近畿地方からわざわざ九州南部に遷都して、再び近畿地方に戻らなきゃいけないのか?
って話になる。(だから、中世以降、民間を中心にいろんな説が誕生した。)

要するに、この国を統一した始めてのスメラミコトは、
現在の天皇家の先祖とは別の人物だったわけ。
それが、天照国照彦天火明命。
そして、日本全国にある男の太陽神・アマテルは、この天照国照彦を祭っている。
(実際に、各地の伝承でも、女の太陽神アマテラスよりも、
この男の太陽神アマテルのほうが元祖だったというのが多くある)

ニニギ命に日向へ行けと命令したのは、この天照国照彦。

そして、この天照国照彦が出雲国譲りを実現させた。
出雲国譲りとは、畿内王朝が平和的に出雲を併合した事件であり
それは、出雲王の皇女・天道日女命と天火明命の間に出来た子(天香語山命)に
スメラミコトを継承させることを条件に行われた。(播磨風土記参照w)
よって、初代スメラミコトが天火明命であり
二代目が天香語山命(大和三山の名称にもなっている)、
三代目が天村雲命(三種の神器の名称にもなっている)というふうに継承されていった。
だからこそ、畿内王朝にとっては、出雲神話も重要なのだ。
なぜなら、大八島(日本列島)の支配者の正当性は
出雲国譲りの約束があったから。それは、政略結婚が関係していた。

だから、ニニギ命の後胤である神武皇統が継承してはいけなかったのだ。
しかし、ニニギ命の後胤たちは、神武東征で再び畿内へ戻ってきた後
政治的実権を握って、勢力を拡大し
ついに、祭祀上の正統なスメラミコトの地位を奪おうとした。
それで倭国大乱が起こったのである。

682 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:35:13
長男はスメラミコトとして神事を
次男は大王として俗権を担った
簒奪ではない

683 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:36:04
>>677
このスレにもいますよね。
日向や出雲を僻地あつかいする人が。

ちなみに高千穂鉄道の件、父親から聞いた話なんですが。
熊本の高森(阿蘇)と高千穂鉄道をつなぐ工事のとき、
トンネル掘削していたらどうしようもなく水が湧き出てきて
けっきょく断念したそうです。いまはその跡地はワインの貯蔵室になっていますが、
いくら当時であっても水の自然によって人工物を建てられなかったこと。
そして何年か前の台風による鉄橋崩落と鉄道事業廃業。
なんか九州横断自動車道(計画中)もただじゃすまない気がします。
あそこに行くと独特の空気が流れている気がするんですよね。なんでだろ。

684 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:43:31
畿内説の学者さんは、九州の遺跡・遺物には冷たい。
重要であればあるほど、目を背ける。

昔、新聞記者が、うてな遺跡で四重の環濠が見つかったのですが、どう思われ
ますかと、確か、石野さん?に尋ねたが、ちゃんと発掘調査されていないの
だからしょうがない。と、そっけなかった。

そういう人が、纏向だ、箸墓だと言うのだからねえ。
畿内説は、マスコミを動員する力があるから、そういうのは大きいな。

個人的には、日田の鉄鏡、球磨地方の黄金鏡、串間の穀璧などにも目を
向けて欲しい。
特に、鉄鏡(金銀錯嵌珠龍文鉄鏡)は、中国でも皇帝クラスの持ち物とされる。
これをいつ誰がもらったのかは興味がある。

685 :681続き:2009/03/17(火) 22:46:24
だからこそ、この約束を破ったから
崇神天皇は、天照(本当は天照国照彦)と大国主(出雲王)のたたりを
おそれて、天照を宮中より外へ祭ったり
大国主の怒りを静めようとしていたのである。

神武皇統としては、自分たちもニニギ命の子孫であり
葛城(高天)の王家の一族なのだから
別にスメラミコトの地位についても良いじゃんという考えがあるが

一応、出雲を併合して、日本で天下を握ったのは、火明命からであり、
天下人の地位は、火明命と天道日女命の間に生まれた
天香語山命の男系子孫からというのがあった。

神武皇統には、葛城の王になる資格はあっても
日本全体の王になる資格は微妙になかったのである。
(だから、火明命とニニギ命の父親である忍穂耳命が
出雲を降伏させられなかったことを残念に古事記で記載されたのである。)

そのことを、古事記を編纂する時に
天武天皇は尾張大隅に指摘され、激怒し
熱田社から草薙の剣を奪おうとしたり、
さまざまな嫌がらせをしたりしている。
また、天武天皇は幼少期から尾張氏に世話になったり
壬申の乱で尾張氏の軍で勝てたのに
古事記、日本書紀には、その功績はばっさりと消されている。
(だいぶんたって、続日本紀には、尾張氏の功績の記述が復活している)

686 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:52:28
古代は直系男子が継ぐとは限らなかった

687 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:00:08
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1228909654/220

688 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:03:16
>>675
>岡山大学のぶんは702年の現存する最古の戸籍において1119人中没年時80歳
>以上は数例だけ(3、4人)
ごまかすなよ。図をみれば、九十歳以上もいるじゃないか。僅か千人の中にこれだけ
いれば、邪馬台国数十万人の中には百歳だって何人かいておかしくない。
そして、数例でもいればいいんだよ。倭人伝は、長寿の者はこうだというだけで、
長寿者ばかりだなどとは言っていない。「多」とくっつけたのは後漢書の范曄だ。
倭人伝はそこまでは書いていない。

>古人口学の図においては弥生人の没年時80歳以上の例はゼロ
もとの資料をみてみろ。老齢者の上は不明としているだけで、八十以上がいないなど
とは一言も書いていない。



689 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:04:54
もし、出雲国譲りが、天忍穂耳命のときに行われていたら
古事記を編纂する時に、天武天皇はいろいろ隠す必要はなった。

が、残念なことにw 忍穂耳命の時代は、葛城の一豪族であり、
出雲王朝に臣従していたのであるw

だから、神武皇統(ニニギ命の後胤)は、葛城の王になる正統性はあっても
日本全体の王になる正当性は微妙にない。

葛城(高天)王家が、出雲を併合して、事実上
日本全体の支配者になったのは、
忍穂耳命の子である天火明命だった。
そして、出雲を併合するにあたり、出雲王朝から出された条件は
天火明命と天道日女命(大国主の娘)の間に出来た天香語山命へ
スメラミコトの地位を継承させていくことだった。
だから、長らく、畿内王朝では、高天神話と出雲神話の両方が重要だった。

ちなみに、ヤマト王朝のヤマトとは、もともとは
三輪山周辺の山門といわれた地名からきており
葛城から、この山門に本拠地を移したのが、ニニギ命の後胤であり、
欠史八代でいうところの後期の天皇からである。

690 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:33:51
>>624
おいおい、この話は
「畿内大和において銅鐸の消滅と銅鏡の登場が入れ替わるように起きた」
と言う前提からスタートしてんじゃあねえのかよ?

もう考証手順も何もあったもんじゃない、グダグダだなw

まあ、結局のところ東遷厨が妄想しているようにある日突然に両者が入れ替わったわけじゃないんだよな。

最終的に突線紐5式まで至らず、突線紐式の手前、扁平紐式で打ち止めで終わっている地域も多い。
つうか突線式1〜5式は途中から大型化に拍車がかかり
あまり大型な物だと鋳造技術から製造元も限定されてくる。
(細かい事を言えば大型化する銅鐸はそれまでの物とは技術・工人の系統が違うなんて話もあったと思うが・・・)

東遷厨は誰も具体的に言わないが
(と言うかそんなこと考えた事もないっぽいがwww)

東遷勢力によってもたらされた銅鏡って何なのか?と考えた場合
常識的に言えば画文帯神獣鏡と言うことになるだろうが銅鐸の扁平紐式とじゃあ
(学者によって両者の年代は色々違ってくるだろう事を考慮しても)
どうやっても時間的に”間”が空いてしまうだろうに。

結局のところ「銅鐸から銅鏡へ云々」と言うのは和辻哲郎のユニークなアイデアではあったが
考古学的考証に耐えうる物じゃない・・・と言うところじゃないだろうか?

さすれば今日リアルでそれをもって東遷説を言う学者もあまり見ないのも頷けるwww
(某B.Y.センセイは除くw)

691 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:39:18
だいたい、九州から近畿へ首都が移動するような
大規模な痕跡は、考古学上のこされていない。

実際に、記紀をしっかり読めば
神武東征って、首都を移転させるような大規模なものではない。
しかも、河内でナガスネヒコの軍に大負けしたして
とてもじゃないけど、九州軍が近畿軍を制圧したとは思えない。

しかも、神武軍を受け入れた連中が、神武の親戚筋だったりするしw

なんとなく、皇室が長い間、隠してきたことが見えてくるもんだw
>>678>>681>>685>>689>>690が真実に近いだろうw

692 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:47:38
>>691
考古学的にはありまくりなんだが・・・

693 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:58:17
>>692
ないよ!馬〜〜〜鹿!

694 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:58:38
>>692
考古学的にはないと見られているな、最近は。
そもそも、なんで、わざわざ首都を
九州から近畿に移転させるんだという話しだし。

それに実際に、古事記を読んだら
若御毛沼命(神武)と五瀬命(神武の長兄)の軍隊は
河内で上陸するも、ナガスネヒコの軍に大敗して
五瀬命(神武の長兄)は戦死し、
命からがら、和歌山方面から、わずかな手勢で葛城方面に進入している。

この記述からして、首都を移転させたような大規模なものには思えないし、

それに、若御毛沼命(神武)は畿内で、親戚であり
天村雲命の息子である倭宿禰命に扇動されている。


695 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:59:45
>>691
自作自演か?

696 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:03:06
首都は移してないだろうな。九州勢力が畿内を支配下に置いた、しかし畿内なんぞに
首都を移したって仕方ないから、三男坊あたりを派遣しておいたってことだろう。

697 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:04:46
天火明命ていうのはニギヤハギ(長髄彦)と同一神で、ニニギの兄。
磐井を討った物部氏の子孫で、書紀では天磐舟に乗って天降ってきたとある。
天日槍を連想。
暫く滞在して又すぐどこかへ言ってしまったと書いてあった。
この人の御子が河内国に天降ったと石神神宮にはある。
石はイソ、イトとも読める。
その後神武天皇の大和入国に際し天皇を迎え忠誠を尽くした。国譲り。
ニニギの子孫?が神武天皇、ってことでいい?

大阪今城塚古墳(今来たとも読める)発掘調査で、墳丘から石棺片が熊本阿蘇産の
ものなど二種類以上見つかっている。関西 読売新聞2001年より
推測できることは、九州から運んで来た?っていうことかな。





698 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:07:36
記紀を正確に読んだら、皇室の事実上の最初の先祖は、
神武天皇の4代前の先祖である天忍穂耳命からである。

それ以前の女神・天照大神とは、スサノオノミコトとの誓約の子であって
実の子供ではない。
おそらく、天忍穂耳命以前は本当の神話であり
葛城の豪族である忍穂耳命が祭祀を祭っていた話の神格化だろう。

だいたい、女神アマテラスを祭りだしたのは
天武天皇が古事記を編纂しだしたころからであり
その前は男の太陽神アマテルを祭っていた。
それは、天照国照彦のことであり、熱田社の尾張氏の先祖のことであった。
古事記では、皇祖ニニギ命の兄とされている。

699 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:12:15
だいたい、何が出てくれば考古学的に痕跡になるのか。それが問題。
何が出てきても、否定することは出来る。
逆もまたありうる。
考古学の範囲は限定的であり、考古学は万能ではない。

700 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:13:55
>>690
他人の意見を良く読みもしないで、グダグタ何を言ってるんだ。
銅鐸の埋納と鏡の出方にタイムラグがあったって、それが権力の交替を示して
いることには変わりがないんだよ。考古学的考証の仕方をしらないな?

701 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:15:02
日本史板でこのスレが一番熱心だね。なかなか面白いわ。

702 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:16:47
>>697 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:04:46
>天火明命ていうのはニギヤハギ(長髄彦)と同一神で、ニニギの兄。
>磐井を討った物部氏の子孫で、書紀では天磐舟に乗って天降ってきたとある。
>天日槍を連想。

物部氏は、一応、大和朝廷の見解では、
天孫(葛城の王族)ではなく、天神(葛城の譜代の家臣)とされており、
ニギハヤヒと火明命は別だとされていた。

また、百歩譲って、ニギハヤヒと火明命が同一人物だとしても
物部氏は、天道日女命(大国主)の生んだ子供の子孫ではなく
ナガスネヒコの妹の生んだ子供の子孫ということになっている。
まあ、側室の子供だ。
あと、火明命とニギハヤヒは代数が違うと思われ。

あと、天日槍は全く無関係だw
そもそも、彼は新羅王家の出身で
彼の系統の氏族は、ヤマト朝廷から渡来系である諸蕃として扱われていた。
天神でも天孫でも地祇でもないわけでw
だいたい、年代が全く合わない。タジマモリの4代くらい前だから
欠史八代後期の天皇の時代だろうw
だから、西暦でいうところの2世紀後半から3世紀前半。


703 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:20:05
時代は合わないですよ。元々少ない伝承を何世紀分も書くんですから。


704 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:24:51
卑弥呼がヤマトトトヒモモソ媛命なら、
西暦150年ぐらい〜西暦190年ぐらいの倭国大乱の天皇が
孝昭、孝安ぐらいで、
孝霊、孝元ぐらいに、ヤマトトトヒモモソ媛命が擁立されたんだろう?
だとしたら、神武天皇は紀元1世紀中葉から後半ぐらいの人物か?
だとしたら、天忍穂耳命とかは紀元前1世紀から紀元1世紀前半ぐらいと思われ。



705 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:26:25
>>700
アホだろ?

つうか引っ込みつかなくて馬鹿が粘っているだけだろ?(ゲラ

そもそも銅鐸の終焉と銅鏡の登場にタイムラグが無い場合でも
それは支配勢力の交代ではなく「単に文化の変容、新しい文化を選択した」で片付ける事も可能な話で

タイムラグがあっても言いと言うのならあらゆる文化の終焉は
全て外来勢力によって「打ち止めにされた」って理屈になっちまうwww






706 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:37:03
ちなみに、中国が朝鮮半島に楽浪郡を建設したのは紀元前108年。
紀元前1世紀は、出雲王朝が中国王朝との交易の主導権を握っていたと思われ。
出雲王朝の成立過程は分からないが、
出雲特有の四隅突出型墳丘墓の発祥地が三次盆地あたりだから
この出雲王朝は中国地方の河川の上流から下流をおさえることによって
成立したことが、なんとなく想像できる。

一方、畿内でも、河川の上流である葛城(高天)から
畿内王朝が勢力を拡大したことが推測される。

現在の田舎でも、だいたい河川の上流にある山地の下の家のほうが
村の名家だったりするのは、
水源をおさえた者が有力になったことを意味している。

707 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:44:31
>>705
銅鐸の終わり方が尋常な文化の終焉ではないと言ってるだろ。それと、私は
弥生葬制と古墳の断絶もあげている。そのほかにもあるがね。それら、いろ
いろな事柄を総合して九州勢力の東征を言ってるんだ。
タイムラグがどうこう言ってるようでは、程度が知れるな。

708 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:47:15
>>700
>銅鐸の埋納と鏡の出方にタイムラグがあったって、それが権力の交替を示して
>いることには変わりがないんだよ。

もしその権力の交替を、鏡勢力の東遷や東征によって引き起こされたとするなら、タイムラグがあるのはどう考えてもおかしい。

何十年も前に、「これから何十年後か、九州の勢力が攻め入ってくるから、銅鐸のマツリは今のうちにやめて、埋めてしまおう」・・・なんて予測してそれ実行するなんて、ありえない。

もちろん、埋納が東遷の鏡勢力による強制ということも、タイムラグがあるのなら絶対に不可能。

709 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:58:43
ニギハヤ・と火明命系の尾張氏が奈良盆地から去ったとき銅鐸も消えた


710 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:03:35
>>707
>銅鐸の終わり方が尋常な文化の終焉ではないと言ってるだろ。

何処がどう尋常じゃないのかな?
説明もなしに「異常だ」「尋常じゃない」とか言われてもまともな人間には理解できない話だなw

ここまで説明したように埋納された銅鐸がそのままになると言う現象は
なにも弥生末期に突然起きる事でもない。

銅鐸の変遷を

 菱環紐→外縁付紐→扁平紐→突線紐1〜5

・・・とした場合、古い「菱環紐・外縁付紐」の組み合わせで出土した物や
「外縁付紐・扁平紐」の組み合わせや「扁平紐」のみで出土した物
新しい「突線紐1〜5」の組み合わせで出た物と様々。

全てを外来勢力による強制的廃止にでもするのか?
もし「自主的な廃止」を認めるというのならその両者を峻別する基準は何なのか?って話だなw

(あと「最古の菱環紐も実は弥生末期に埋められた物です」なんて言い訳も予想できるが
 銅鏡で言う伝世が弥生時代の初期から末期まで数百年にわたって行われたと言う壮大なお話になるw)

711 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:09:56
ヤマトトトヒモモソ媛命が卑弥呼なら
だいたい、大まかな年代が分かってくる。

あと、ニギハヤヒは高天原から天磐船にのって河内に降臨したことになっているが
たしか、葛城から河内のほうに河川が流れていただろう?
ニギハヤヒは葛城から河内へ派遣されたわけだし、
一応、ヤマト朝廷の公式見解では火明命とは別とされたわけだから
葛城出自の譜代豪族じゃないのかな?

天神=葛城譜代豪族
天孫=葛城王家出自の豪族
地祇=葛城以外の各地の在地豪族出自。葛城から見たら外様。
諸蕃=日本国外系

712 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:15:57
>>708
いや、だから>>700の言っているのは東遷勢力がやってきた時に銅鏡をすぐに持ち込んだんじゃなくて

 「とりあえず、おめーら銅鐸の祭祀は中止にせえや」

と言ったって事じゃねえの?w






713 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:19:19
>>707
>私は弥生葬制と古墳の断絶もあげている。

だ〜か〜ら〜
文化の変容で片付く話で断絶とやらが何の根拠にもならないつってんだろうがw

どの道九州に古墳文化に直接繋がる大型首長墓造営の文化も無いのだから東遷説の根拠になりえない。

つうか九州以外の、吉備であろうが、出雲であろうが、東海であろうが、阿讃であろうが、東海であろうが
それ単独で古墳文化の祖と言うのはありえない(古墳文化=各地の埋葬文化のチャンポン)と言うのが現在の常識。





714 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:22:12
>>712
おっしゃるとおり。 >>624で説明してんのに708は何を思い込んでいるんだか。

715 :712:2009/03/18(水) 01:27:27
>>714
でもねえ、そんな理屈が成り立つのなら
「あらゆる文化の終焉は外来勢力の強制的停止」と言う理屈が成り立ってしまう

はっきり言ってトンデモだなwww

ある文化が廃止された時、そこに外来勢力の持ち込んだ文化も無ければ
そもそも 外来勢力がそこに存在したと 言う根拠は何なのか?っちゅう話だよwww



716 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:29:37
>>713
九州勢力が畿内を征服した後、非征服民を働かせる方法を考えたってことも
ありえるだろうが。まったく少しは考えろよ。
銅鐸の消滅、葬制の断絶などから畿内は非畿内勢力にやられたな、それは非
銅鐸勢力のはずだから、九州勢力にちがいない、そう考えてゆくんだよ。

717 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:35:24
>>713

そうだね
同じような感じで、マキムクスレの冒頭でも、老教授氏が提示しているね

>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり

>そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
>問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
>それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
>そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
>伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
>ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1231414308/1

だいたいこれが専門家のマキムクに対する共通理解になってきているみたいだね

718 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:36:33
>>716
何の根拠もなしに「はずだから」「ちがいない」と重ねていって妄想ぶち上げられてもねえ・・・

消えろよこの低脳ドカスがwww

銅鐸祭祀が消えた時、そこに確かに九州からの東遷勢力がいたという証は何なんだよアホ。



719 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:36:39
>>715
銅鐸の使用は祭祀の一つの形態だろう。祭祀というのは、皆がいっせいにやめる
なんてのは考えられんのだよ。必ず古い習慣を維持しようという人々がいる。
仏教が入ったところで、神道はなくならない。それが急に姿を消したということは
強制的な力が加わったということだ。銅鐸のことだけではなく、葬制の断絶も文化
の変化だけでは考えにくい。そうゆうことね。

720 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:40:42
>>718
いよいよ罵倒か。程度が知れるぞ。
その勢力を示すのが鏡だろうが。タイムラグがあったところで、また入れ替わった
ということではあるまい。鏡が出てきたのをみれば、征服者の正体は九州か、とい
うことになるんだよ。

721 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:50:55
>>719
ここまで散々説明したが銅鐸祭祀はある日突然に消えたと言うわけでもなんでもない。

理解できているか?

>>720
で、銅鐸祭祀が消えた場所・時代、そこに九州からの東遷勢力がいたという証は何だよ?w

脳内ストーリーぶち上げるだけなら

 銅鐸祭祀が自主的に廃されしばらくしてからノコノコ九州勢がやってきた。

 銅鐸祭祀は外部勢力によって廃止されたがその後支配勢力が何回も変わったが
 新しい祭祀形態への移行は行われず最後にやってきた九州勢によって銅鏡がもたらされた。

・・・etc、、いくらでもお話は作れちゃうわけだが?www



722 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 01:53:44
話が堂々巡りするから別の観点でレスするよ。

青銅器祭祀の停止を、他にさきがけて、最も早くやったのは出雲だと思う。
神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の大量の銅剣・銅矛・銅鐸の埋納・・・。

それから吉備も、ここは平型銅剣の分布域だったが、隆盛には至らないまま、早々とやめている。

それで、出雲や吉備には、青銅器祭祀に代わってどうなったかというと、
死者埋葬の儀礼やその首長墳墓を著しく発達させてきたように思える。
古墳文化のさきがけのように俺は思える。

どうかな。

723 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 02:01:24
>>722
銅鐸の出土状況で言うと・・・

 荒神谷・・・「菱環紐・外縁付紐」

 加茂岩倉・・「外縁付紐・扁平紐」

の組み合わせらしい。

東遷紐のトンデモ理論だとこれも外来勢力による「打ち止め」なのかねえ?www

その勢力は四隅か前方後方墳を築いた外来勢力?w


724 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 02:30:20
>>722
>死者埋葬の儀礼やその首長墳墓を著しく発達させてきたように思える。

それに関連して言えば
そもそも九州に四隅や楯築、前方後円墳や前方後方墳のような地域色のある大型首長墓が何故出てこなかったのか?
と言う疑問を昔から持っているwww

いくら副葬品が豪華であっても、そりゃ外から見ても分からないわけでw
首長の権力を見せ付けるには墳墓の大型化と言うのは必然だろうと・・・

その動きの中で九州は対畿内のみならず古代の日本全体の中でも取り残された、もしくは、独自路線をとった印象がある。
(文化先進地域の九州は薄葬だ!・・・なんてサイキバ君理論は勘弁なwwww)




725 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 03:53:50
また別の観点から、ひとつレスしておきたいことがあるので、書かせてもらう。コメントよろしく。

九州説の主張の一つに、「鉄」があって、よく邪馬台国の会サイトのこの図を参照せよ、
見ろ見ろ!と言ってくる。とくに安本同様の東遷説論者は。ww(下のは鉄鏃)
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu14.jpg
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/206y-1.jpg

しかし、これはもう古過ぎるデータなのだ。
2003年に大阪府立弥生博物館で特別展「青いガラスの煌き−丹後王国が見えてきた」があって
大風呂南など丹後の重要遺跡をたくさん紹介したが、このとき次の都道府県別集計が出た。
中にはびっくりした人もいた。福井が異常に?鉄が多かったのだ。

「弥生時代の鉄製品の出土数」(2003)

    福岡 1621
    福井 1100 ←注目!
    熊本  774
    鳥取  671
    大分  518
    京都  432
    佐賀  408
    兵庫  351
    岡山  291

しかし、「弥生の鉄は九州が大優位、近畿など本州は微々たるもの」との先入感はなかなか払拭されないので
弥生博物館はわざわざ2005年の「北陸の玉と鉄」展のとき、改めて新聞発表したほどだった。

■弥生末、福井の豪族隆盛 墳墓に鉄製刀剣ざくざく
http://www.47news.jp/CN/200511/CN2005111101000122.html

つまり鉄から見ても、単線的な九州→畿内の東遷・東征は、考えにくく、
畿内王権成立のプロセスには、各周辺地域も巻き込んだ複雑な動きがあったと予見していいと思う。

726 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 04:26:07
良く言われるのは、記紀に鏡は登場するが、銅鐸は登場しない。
これは、記紀の舞台になったのが銅鐸をさほど重視しない地域だったのでは
ないかということ。

銅鐸の製造・祭祀の終焉については、東遷説の立場からすると、いきなり禁止
する必要はなかった。しかし、宗教的なものの違いは徐々に統制の乱れと
なっていく。銅鐸禁止令が出る。差し出すように命令が出る。
銅鐸を溶かし、鏡を作ることで支配体制を整えようとする。

しかし、村の宝のような銅鐸を差し出すことを嫌がる人々がいる。
人知れず、村はずれに埋めて隠そうとする。
こんなような状況ではなかろうか。

あくまで、推測に過ぎないが、これは推測する以外にないだろう。
ただ、ある時期を境に、銅鐸の製造・祭祀が終わりを告げ、その後
一切作られることはなかったのだけは確かなのだし。

727 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 04:41:26
>>725
要するに、鉄の多い地域というのは、
貿易港があった地域というだけで

鉄が多いから、そこが強くて首都という見方は
間違っているということだな。

同じように、朝鮮半島でも、鉄の多い加羅諸国は
周辺国の草刈場になっただけだし、
中国でも鉄の産地だからといって、そこが
首都になったというわけではない。

728 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 04:42:46
天皇 天皇 とよくでるスレだ。
朝廷の文献と、魏志倭人伝しか解くカギがないのかな。
邑(国)がいっぱいあった時代、おのおの感と公益しいるはずなのに、何の異物も
出てこない。外国の文献で和が国の古代を探る。一時期の未開拓のアフリカの部族探索みたいだ。
朝廷が歴史を改ざんしたと考える方が、妥当じゃないか。

729 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 04:46:43
>>724
九州が文化先進地域という見方は間違っているな。
ただ単に大陸的な文化が入っていきやすいという地域だけなこと。
長い目でみたら、日本は大陸的な文化を目指したから
九州が先進地域というふうに見られたが
そもそも、農耕時代においては、国力の増強に
大陸的文化の有無は関係ないだろう?
基本的に地理的用件、動員兵力の多さで決まるものであり
こういうものは、大陸的文化の有無に関係ない。
たとえば、古代中国では、秦は後進地域と見られたが
その後進地域と見られていた秦が天下を統一したわけで。

730 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 07:22:54
>>721
>銅鐸祭祀はある日突然に消えたと言うわけでもなんでもない。
だが、地域によってバラバラというのでもない。近畿→東海だ。西からの勢力
が徐々に影響力を及ぼしたとみて問題はない。

>九州からの東遷勢力がいたという証は何だよ?w
東遷とは決めつけるな。東征を考えろ。征服した勢力が銅鐸勢力ならば銅鐸が
消えるはずはない。銅鐸を知らない勢力。間もなく鏡がでてくる。武力に優れ
た勢力。西から来た勢力。となれば九州だろうが。

出雲付近の古墳、福井の鉄。それらは、九州勢力が朝鮮半島からの人々を受け
入れた可能性を示すかな。魏に敗れた公孫氏系統の人々が我が国に流れ込んで
きているだろう。それらを本州開拓に利用したとすれば、九州の特徴のほかに
いろいろ新しいものが入ってくる。



731 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 10:25:43
書紀の干支を西暦に計算しなおして、これは何時のできごと、これは何時と当てていますよね。
時々外国史書と一致する部分があるので、それが立証する手助けにはなっていると思うけど、
書紀の年代と出来事の記述が、実際とは違っていたらどうする?
定説を覆すような、新仮説が出ると、
一斉にそれは歴史の基礎的手順を踏んでいません、資料と合いませんと言って
黙殺するか酷く批判したりする傾向がありますね。
それは本末転倒というものだと思うんですよ、いつもいつも。



732 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 10:38:00
>>731
そうした本末転倒の例を列挙していただけますか?

733 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 10:49:03
具体的には時間の要する作業なので、列挙できませんが、
大まかに言えば、
C14年代測定法を絶対視したり、
書紀絶対視したり。
いろいろですけど、科学的といえそうなC14でさえ、実はそうでもなさそうだと
いうことはわかっているのに。



734 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 10:53:23
二、三の具体例で良いです。

735 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 11:17:00
日本書紀の年代は、中国人に見せるために
編年体で書かれているために、
中国側の文献と整合性を追及したために
いろいろ改ざんが行われている可能性が高い。

古代の日本は、古代の中国と暦の数え方が違っていたために
当然、日本側と中国側の伝承には、年代的に整合性がとれなかった。
そこで、いろいろ改ざんが行われた可能性が高い。

比較的に正直なのは、古事記の干支没年と天皇の寿命。
こちらは編年体ではないので、わざわざ改ざんする必要はなかった。


736 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 11:33:45
もともと、ヤマト(山門=山戸=山門)とは、
現在の奈良県全域を指すのではなく
三輪山周辺の限定された地域を指す地域だった。

ちなみに、京都の一部は、ヤマシロ(山背=山城)であり、

このヤマシロ(山門)とヤマト(山背)の間には、山国という地名が残っている。
魏志倭人伝に登場する邪馬国のことだな。

で、この山門(三輪山周辺)の南西には、葛木という地域があり
ここには、葛木山、高天山(金剛山)があり、
この周辺は、またの名を高天原といった。

つまり、皇室の起源の地は、高天(葛木)のことであり
ニニギ命(神武天皇の曽祖父)は、
この高天(葛木地方)から、高千穂(九州南部)へ降臨したことになる。


737 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 12:06:22
年代だけでなく、内容も。
つまり、九州での出来事を近畿で行っているように書いている。
本当に紀元前後、あるいは2.3世紀から、九州と近畿は一つの
国として機能していたんだろうか?
まずありえないと思いますね。
そのためにも科学的、かつ確実な年代測定法は大事大事だし、
もっと発掘調査することが大事だと思いますね。


738 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 12:28:23
>>737
そんなことない。
少なくとも、考古学的に見て
紀元2世紀には九州から関東ぐらいまでを
たばねる巨大王権が誕生していた。

九州のことを近畿のことのように書くような
回りくどいことなどしていない。

739 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 12:33:29
あと魏志倭人伝によると、卑弥呼が擁立されるまで
歴年争いがあって、その前には一人の王がいた時代が
7,80年続いたらしい。
つまり、かなり前に統一国家だったのが
歴年争う事態になって
卑弥呼を擁立して、やっと治まったという話だろう。

だから、統一国家は紀元1世紀ぐらいには誕生していた可能性が高い。
そして、この歴年あらそったというのは、南北朝時代をしのばせる。



740 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 14:26:59
たとえば、聖徳太子の建てた四天王寺について、
もとは九州にあったことが証明されれば、書紀は捏造である。
四天王寺跡に物部氏私邸跡があるはずだ。豪邸だったはず。
でも寺を解体するなどという罰当たりなことは出来そうもないから、
まず無理。

741 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 15:00:19
691 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:39:18
だいたい、九州から近畿へ首都が移動するような
大規模な痕跡は、考古学上のこされていない。

実際に、記紀をしっかり読めば
神武東征って、首都を移転させるような大規模なものではない。
しかも、河内でナガスネヒコの軍に大負けしたして
とてもじゃないけど、九州軍が近畿軍を制圧したとは思えない。

しかも、神武軍を受け入れた連中が、神武の親戚筋だったりするしw

なんとなく、皇室が長い間、隠してきたことが見えてくるもんだw
>>678>>681>>685>>689>>690が真実に近いだろうw

742 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 17:30:14
>>721
>西からの勢力が徐々に影響力を及ぼしたとみて問題はない。

実際には近畿→東海だけではなくて>>723で挙げた山陰や山陽地域
徳島・四国も絡んでいて九州から畿内を目指して一直線なんて単純なお話でもない。

しかも先に上がっている荒神谷のように畿内より先に終了しちゃっている例もあるw

山陰や四国にも進出って、どんだけの民族大移動ですか?w

何より弥生時代中期から後期にかけ数百年、少なくとも百年以上はかけての現象。
東遷か東征か知らんが、えらく気の長い話だな、おいwwww

結局その現象は、銅鐸自身が西から東に伝播していった様に、あるいは稲作と同じように、
仮にそこに人間の行き来があったとしても、文化の伝播に括れる話。

明確に征服の意思を持った武力集団が侵攻した
(しかも何世代もかけてw)なんてお話ではないwwwww

743 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 17:31:12
>>721
>武力に優れた勢力。西から来た勢力。となれば九州だろうが。
武力に優れた?はあ?

古今東西兵法の大原則「勝は大兵にあり」
まさか九州の鉄がその不利を覆すスーパーウェポンとか妄想しちゃっているのかな?w

一回でも戦闘が行われれば武器や兵員は著しく損傷するだろうし
兵糧も切実な問題。

九州から兵站線延ばしたのかな?痕跡ありませんが?w

それとも九州から片道切符で、ありったけの食料武器を積み込んで
畿内に特攻かけた?wwww

そのリアリティの無さは机上の空論どころか狂人の妄想レベルwwwwww

744 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 17:38:05
そもそも・・・

「神武ちゃ〜ん、いきなり畿内目指す前に
 とりあえずは関門海峡越えて中国地方に足場を築こうよw」って話で

九州からいきなり畿内と言うのが荒唐無稽。
もし、その神武勢力が南九州の勢力なら北部九州を目指した方が得る物も美味しいものがあるだろうに…

北部九州には歯が立たない連中がそんな大遠征劇をやってのけたと言うのは何の冗談だよとwwww

つうか、畿内に進出する前に九州を統一しろよwwwwww

745 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 17:49:50
日本神話って不自然なんだよ。
神武天皇から神話をスタートさせればよいのに
実際には、神武が九州南部から近畿地方へ飛び立つ前に
出雲国譲りとか、ニニギの高千穂への降臨の話が出てくる。
この流れが、どう考えても不自然なんだ。

つまり、神武よりもずっと前に
出雲を国譲りさせているんだよ、ヤマト王朝の先祖は。
そこで日本統一を完成させている。
しかし、そこから、ニニギが九州南部へ降臨し
その曾孫の神武が九州南部から近畿地方へ遠征する。

この流れが、どうしようもなく不自然。

746 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 17:56:17
>>744
ついにいうのなら
神武軍って九州南部から近畿へ遠征する途中
戦いらしい戦いなどしていない。
こんなこと、ありえるのか?
また、近畿に着くと、神武の親戚たちが神武を出迎えているのだw

つまり、神武東征がなんなのか
おそよ想像がつくという話だ。

要するに、神武遠征前、
近畿地方に日本列島で覇権を握る連中が存在し
その近畿本国でナガスネヒコという政治家が
権勢をふるっていたので、
九州で分家していた神武が、近畿本家を助けるべく
かけつけたというのが真相だろう。

747 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:05:37
結局、東遷説(と言うか東征神話を史実とする説)のジレンマって言うのは

その真っ先に挙げられる批判「考古学的資料の無さ」をかわす為には
東遷・東征した集団が極少数だったと言う他ないと思うが

その場合、武力をもっての征服劇、文化を一変させるほどの影響力と言うのは考えにくくなる。
無論、纏向を打ち立てたなんて寝言は寝て言えのレベルw

まあそんな事も微塵も考えずに「いいトコ取り」で妄想ぶちまけちゃっているのが
この板のアホの集団、東遷厨w

仮にフィクションであっても、もっと整合性のある、まともなストーリーは考えられないものかとw

748 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:14:02
神武東征神話の重要なヒントに
神武軍が大阪湾から上陸して河内でナガスネヒコと戦った時に
「我々は天津神の末裔なのに、天津を向かいにして戦うのは何事だ」
みたいなことを神武たちが言っているんだよw
つまり、神武というのは天津(高天原)の出身であり
そこは河内よりも東にあったことが分かる。
河内の東とは...葛城地方があるとこw
そして、そこは延喜式などでも、高天原の地とされている。

749 :748訂正:2009/03/18(水) 18:16:20
>つまり、神武というのは天津(高天原)の出身であり

つまり、神武の先祖というのは天津(高天原)の出身であり

750 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:21:58
まあ東遷説は言葉だけが一人歩きしている感がある。東遷の規模・理由・経緯をきちんと
説明している説は読んだことがない。

規模だけでも、当時の大人(貴族?)だけなのか、貴族と兵士だけなのか、一般農民や生口
(奴隷?)も含めて国すべてが移っていったのか、それすらもあいまいだ。(これは神武では
なく、邪馬台国の当選の場合)また、理由もよくわからない、日本征服の野望ww
?

751 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 19:17:04
>>729
多分、九州って言うのは地理条件的に恵まれすぎたんだと思う。

極端に言えば
「お口をあんぐり開けてりゃ大陸・半島の文物が入ってくる」って感じでw

ところが九州以東だとそうもいかず自ら能動的に行動しなければそれをゲットすることができない。
で、その動きが首長同士のネットワークみたいな物に繋がると・・・

集落の中でいくら下の者から
「アンタが大将!」「いよっ、倭国一!」とおだてられても
井の中の蛙、お山の大将で集落の中でふんぞり返るだけだったろうw

それが他地域の首長との交渉・接触を通して自らの地位・権力を強く認識し
やがて巨大な首長墓の造営に繋がったのではないか?
(巨大な首長墓はその権力の大きさを、自分の領地内の人間のみならず
 他のクニの人間に見せ付ける役目もあったと・・・)

752 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 19:21:11
イギリス 島国だがこのくらい歴史は現実として残っている。
グレートブリテン島には紀元前9世紀ころから紀元前5世紀ころにかけてケルト系民族が侵入してきた。
これによってグレートブリテン島における鉄器時代が始まり、ブリテン島各地にケルト系の部族国家が成立した。

縄文人、弥生人 なにこれ。 自国の歴史がこんなに曖昧な国は日本だけじゃないか。
『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、天皇家や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なものであり、
やはり、過去の歴史は葬り去られたと考えるのが常識じゃないかな。世界史で奈良時代に完成した記紀に頼る子だお歴史や、自国の歴史を海外の文献にたよる国珍しいと思う。


753 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 19:28:00
日本で習う「歴史」は国家によって捏造された物と考えて良い。

国にとって都合の悪い事は総て伏せてある。
特に或る一族。 および○×幕府


754 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 19:35:13
>>752
英国は西暦10世紀以前の歴史が意外と曖昧だよ。
日本に比べても曖昧。

縄文人、弥生人なんて、後世の考古学者が考え出した概念だよ。
だいたい、土器の種類で民族を割るなんて、全く非科学的だから。

考古学上の時代区分を考えなしたほうが良いと思う。

755 :縦目仮面:2009/03/18(水) 20:02:47
英国の歴史が曖昧なのは確か。特にアーサー王伝説の5・6世紀頃は不明な部分が多い。

もちろん弥生人、縄文人は人種の区別ではなく、あえていえば弥生文化を体現しているのが
弥生人ということだろうが、弥生時代を象徴する土器にしても稲作の開始にしてもまだまだ
解明されていない部分が多い。あとは弥生時代の象徴としては戦争があげられるか。佐原
真氏がよくこれについて論じていた。大陸からの渡来人=弥生人というのも大きな誤解。

日本の歴史が曖昧というが長い間文字を持たなかった国としてはよく残っているほうでは
ないかな。米進駐軍は別として、列島を他民族に侵略されたことがないといえるのは大きい
と思う。

日本書紀については多少天武系に都合よく書かれている部分はあるかもしらんが、大きな
ねつ造があるというのは俺的には疑問。単純にわからないから、時代が合いそうな伝承を
適当に入れてみたという部分が多いのでは?上で書いてるように、ねつ造するならもう少し
つじつまが合うように書きそうなものだ。









756 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 20:43:32
紀元前から大陸と行き来しても、文字に興味を持たなかったのは不自然だよ。

757 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:06:57
というか、為政者にとって、庶民が文字で意思伝達されのが嫌だったんだろう?
言霊文化とかいって、言葉には魂があるんだろう?
で、古代の日本の為政者には、ミコト(命=尊=御言)という
身分名がついていたわけだし、
言葉(命令)を発生させることが出来るのは、為政者たちの特権なんだけど
文字なんかを庶民たちに広まると、そういった社会が崩壊する可能性があるわけだし
その文字を使って、庶民たちが為政者にはむかえ可能性もあるわけで。

758 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:07:25
>>590ですが、日本武尊の東征(景行40年)についてのご意見ありがとうございました。
年代特定は、なかなか難しそうですね。

次の質問なのですが、毛野氏の祖、豊城入彦は、祟神と荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛
の間にできた子ということになっていますが、荒河とは、今で言うと何川のことでしょうか?


759 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:07:52
一応、考古学、歴史学の常識では
文字のある異物があったら、そこから歴史がスタートするんだよ。
だから、日本の場合は、西暦57年の金印があるんだから
早くても、そこから歴史がスタートしているはずなわけで。
だから、日本に漢字が伝わった最初というのは
非常に確定できないことになている。

760 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:13:30
>>757
天皇の命令も元来「みこと『のり』」だしね。
文書による行政、統治なんてのは律令期になってからだろう。

761 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:22:53
西暦57年の奴国王は
漢の倭の奴の国王というにされているんだよね。

ということは、当時の中国人にとって
奴国よりも上のカテゴリに倭という概念があったことになり
現代人が推測以上に、倭国は統一していたんじゃないの?

実際に、西暦5年に、漢書王莽伝だったか
渡海して東夷の王が貢物をもってきたと記載されている。
これって、倭国の王でしょう?

762 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:27:59
あと、欠史八代のあたりの代数が問題になるが
おそらく、古代の為政者たちは早くから子供を作っていただろうし
だとしたら、たとえば、一番最初の子供が15歳の時の子供だとして
40歳くらいまで子供を作るとしたら
最初の子供と最後の子供の年の差は、25歳とすると、
その最初の子供がまた15歳で子供を作るとしたら
甥のほうが叔父よりも10歳くらい年上になってしまうw

そういうことが頻発していたら
代数と世代が合わないことなんて珍しくないと思う。

763 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:31:46
>>757

その説もねつ造くさくないかな・・・

764 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:38:51
今、文科系で優秀な学生は、史学科にはいかないし、
古代史など専攻しない。
学者自体のレベルが下がっているような気がする。
それに付け込んでか、素人が言いたい放題。
日本の古代史研究は長い長い低迷期に突入したようです。

765 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:43:38
あと、仏教って先祖崇拝を否定するんじゃないの?たしか。
日本の仏教は葬式仏教だけど、
外国はちと違っていたはず。
仏僧は独身を貫いたり。

これって、神武皇統にとっては、都合が良かったんじゃないの?
尾張氏のほうが嫡流で、アマテルの直系で
ニニギの後胤の神武皇統は正当性が疑われたのなら
仏教にのめりこむ気持ちは分からないではない。

766 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:56:12
>>762  同意だな。
応神とその子供の仁徳が女を取り合ったというか、応神が譲ったという逸話も
残っている。



767 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:13:27
>>757
言霊信仰というのはアイヌもまるっきり同じ
アイヌも縄文人文化を引き継いでいるわけだし
同じ縄文人の文化を引き継ぐ日本の言霊信仰というのは
いつからあったのか
まあ少なくとも
万葉集の前からあったのは確実なのだが
「神代より言ひ伝来らく そらみつ大和の国は 
皇神のいつくしき国 言霊の幸はふ国」
「磯城島の 大和の国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ」

たとえば「南無妙法蓮華経 」とか「南無阿弥陀仏」の音を唱えたら
願がかなうとか極楽浄土に行けるというのは
少なくともその時代から現在まで連綿とつながる「言霊信仰」そのものなんだよね

768 :縦目仮面:2009/03/18(水) 22:27:27
言霊の概念は現代日本人にも色濃く残っていると思う。あと、漢字に音読みと訓読みがある
のは日本語の大きな特徴の一つで、訓読みは和語・・・元来の話し言葉であり、音読みは
大陸的な概念を表すのに用いてた。古代人が音読みを使うのは俺らがコンピュータとかいう
ようなものかな。

769 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:47:57
>>766
欠史八代なんて、
叔父さんと姪が結婚するのも珍しくない。
今の常識だと近親相姦という理由だけではなく
年齢から言っても無理があるけど

当時の為政者の結婚・出産がはやったことを考えると
年の差のない親子、祖父と孫、叔父と姪なんて珍しくない。
へたしたら、20代後半で孫が出来るとかw

770 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:53:42
将門記に歌垣というのがあって、
これは要するに若い男女が集まっての乱交パーティ。
通い婚の風習は、宇陀の地からの伝統で、
乱婚が普通だったのです。

771 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:00:59
>>770
血の継承を重視しない一般庶民なんてそうだろうと思う。

772 :万葉集巻九・一七五九番:2009/03/18(水) 23:17:10
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 未通女壮士の
行き集ひ かがふ 刊歌(に 人妻に 吾も交らむ わが妻に 他も言問へ
この山を 領く神の 昔より 禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言も咎むな

                            高橋 虫麻呂

                       


773 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:24:19

卑弥呼自身は文盲だったに一票www

774 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:29:37
日本史全体の流れの中から見ると、現代は極めて特殊な時代。
その特殊な時代の常識で日本史を見るのは、間違いの元。

第二次世界大戦くらいまでは、いとこ同士の結婚なんてのは当たり前だった。
遺伝上問題があるとわかったのは、それほど古くない。
また、戦前は、女が15才くらいで結婚し、子供を生むのも当たり前だった。

775 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:42:37
>>745
高天原を九州中北部に比定すると、それほど不自然でもない。
まず、出雲に何度も兵を送り、これを手中に収める。これが出雲の国譲り。
次に日向にも兵を送る。これが瓊瓊杵尊の日向降臨。

つまり、これらは勢力の拡大を意味している。
大和の饒速日命もその一環として考えられる。
饒速日命は、天磐舟で大和にやってきた。「船」でやってきたのである。
饒速日命は、天津神の系統。これも高天原からの派遣と考えられる。

海幸彦、山幸彦の物語は、隼人との争いと考えるのが通説だが、ひょっと
すると、旧来の高天原勢力との争いだったかもしれない。

そのあとで神武東征がある。

こういう考えもありうるのではなかろうか。

776 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:42:50
末っ子が、長男の息子よりも
ずっと年下みたいなケースだって珍しくなかっただろうな。
親子でも兄弟くらいしか年の差がないとか...

777 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:44:13
>>775
いやいや、高天原って
葛城のこと。
京都朝廷ではそういう見解。


778 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:45:01
691 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:39:18
だいたい、九州から近畿へ首都が移動するような
大規模な痕跡は、考古学上のこされていない。

実際に、記紀をしっかり読めば
神武東征って、首都を移転させるような大規模なものではない。
しかも、河内でナガスネヒコの軍に大負けしたして
とてもじゃないけど、九州軍が近畿軍を制圧したとは思えない。

しかも、神武軍を受け入れた連中が、神武の親戚筋だったりするしw

なんとなく、皇室が長い間、隠してきたことが見えてくるもんだw
>>678>>681>>685>>689>>690が真実に近いだろうw

779 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:47:23
>>738
>考古学的に見て紀元2世紀には九州から関東ぐらいまでをたばねる巨大王権が誕生していた。
どなたの説でしょうか? 本があったら教えて下さい。
で、あなたは狗奴国はどこに比定するのですか?


780 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:50:08
九州王朝説の臭いがw

781 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:51:13
アイヌはツングース族の粛慎の仲間だったんだね。
土穴に暮らすのはツングース族。朝鮮の北にもツングース族が
いて、アイヌのような生活をしていて長い髭を蓄えていたのかもしれない。
若干彫が深い人もいるので、その人は古モンゴロイドの血が濃いのだろう。
Y染色体C3ですね。たしかアイヌ人は13%だったですね。
D2は倭人。倭人の渡来は何波もあったでしょうね。
隼人も倭人の仲間かもしれない。
倭人は現在長江の南北にいる人々とは人種が違う。
民族の移動が数多くあった。
米を運んできたから人口爆発したんだよ。アイヌやシュジュ人(オロッコ人?同じくツングースで
写真をみると女性は5頭身少ししかない)、
これらアルタイ語族の人々と倭人が雑婚してD2が増えたんだよ。




782 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:54:26
>>731
津田以来、資料批判ということが言われるようになったけれど、実際は資料批判
をしたふりをするだけで、本当の批判はせず、記紀に従っているということだな。

783 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:55:27
>>779
つーか、それって、最近の考古学のトレンドでしょう?

狗奴国って、中古音で
この国って読むんだよね。
これは、許乃国(この国)のことでしょう?
そこの彦御子は、武埴安彦命のことでしょう?

784 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:00:23
倍暦って騒いでいた奴はどうなったんだ?

785 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:03:53
>>783
勝手に書きかえるな。武埴安彦命なんて実在の人物だと思ってるのか?


786 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:04:14
土ぐもとかクズとかサヘキとかいう人種は蝦夷のことで、
昔は全国にいたんですね。
シュジュ人は倭人伝にも記載があるけど、女王国の南4000里だから
九州に確かにツングース族の小さい人がいたんですね。


787 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:06:15
>>785
実在の人物なんだろう?
つーか、そんなこと言ったら、徳川家康も実在の人物じゃない
とか言い出すんじゃないだろうな?

788 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:07:02
>>786
倭人はツングースとはちと違うだろう?

789 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:11:03
邪馬台国の卑弥呼が
ヤマトトトヒモモソ媛命のことなら

狗奴国の卑弥弓呼って
許乃国の武埴安彦命でしょう?

魏志倭人伝と記紀の記述から考えて。

それと、狗奴国の副官は、魏略では「拘右智卑狗」といったそうだが
これは河内彦のことで
武埴安彦命の母方が河内の豪族の出身で
彼は幼少の折は、母方の河内で育っているんだよなw

790 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:11:06
狗奴国は高句麗語でクンナ国。
kuan na 南 の地という意味。
南は五行説で火。
火→肥→肥の国→熊本(のあたり)


791 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:15:50
>>788
倭人は古代長江下流域以南に住んでいた百越の民。
倭人曰く、呉の太伯の末。血縁関係はないだろう。


792 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:27:55
>>790
トンデモ説には興味がない。

魏志倭人伝の書かれた時代は、中古音の時代であり
基本的に中古音で読解しないといけない。

しかしながら、倭人伝の最初に登場する奴国のように
上古音の時代に中国側の文献で知られたような地名の国は
慣習として、中古音の時代に変わってもなお
上古音でつけられた名前が残るものである。

793 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:39:39
>>792
上古音ってだけじゃ漢音?呉音?かわからないでしょ。
呉音の上古音はナですよね。
呉音の中古音はヌ?ですか。


794 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:52:30
>>793
「奴」は「ナ」でもあり、「ヌ」でもある。
「匈奴」は、「フン」族のことで、フンのあとにヌともナとも取れる音がある。
「奴」は息を吐きながら出す音で、「フンヌ」であり、「フンナ」でもある。

よって、狗奴国はクンナ国でもクンヌ国とも取れる音であった。


795 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 01:32:13
>>793
漢文のえらい先生である森博達先生は
魏志倭人伝は中古音の音韻をふんでいると言っているよ、たしか。
奴は、上古音では、ナ
奴は、中古音では、ノ

だから、魏志倭人伝には、やたら
奴「の」がついた国が登場する。

これは、武蔵の国、相模の国
というふうに、日本語の格助詞の「の」が
中国人の使者の耳に残ったのでは?
とも言われている。

796 :縦目仮面:2009/03/19(木) 01:38:52
俺は畿内説だが、2世紀に九州ー関東を束ねる巨大王権があったことを考古学的に証明
できるというのは、いくらなんでもムチャ。マキ向型前方後円墳の伝播は3世紀中〜後半から。
北九州に近畿式の土器が流入するのは3世紀末といったところだろう。もちろん関東はもっ
と後。

この間、森浩一氏と井沢元彦氏の対談を読んだが、森氏は邪馬台国 奠都(てんと)説を
唱えていた。奠都とは遷都(せんと)とは違って、九州を邪馬台国の首都としながら、首長
(台与)だけが、戦いもなくマキ向に移ったということらしい。森氏は尊敬しているがこれも
ムチャだと思う。

俺的には狗奴国は東海地方、桑名市。近くには逆茂木で有名な朝日遺跡もあり・・・。
卑弥呼の死前後の戦争で狗奴国は屈服し、その後マキ向に東海系土器の流入が増えた。
卑弥呼の死後、男王が立ったが国はまだ治まらず、台与の時代に最後まで抵抗していた
北九州が軍門に下った。・・・まあ根拠はあまりないので批判はどうぞ。

797 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 02:04:37
>>796 縦目仮面
まあ分かりやすく言えば・・・

 遷都=切り取り→貼り付け

 奠都=コピー→貼り付け

だなw

・・・ところでそのハンドルは三星堆のあの、ド気色悪い仮面の事なのか?www

798 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 04:33:41
>>773
卑弥呼だけじゃなくて
倭国時代5世紀ぐらいまではほぼ全員が文盲

文字がちゃんと日本人によって書かれたものが遺跡から出土するようになるのは
律令時代になってからで
7世紀以降
これは当時のゴミ捨て場みたいなところから
この時代になって突然大量に出土するようになる

>>796
倭人伝を読むかぎり
伊都国、奴国、末盧国なんて
20km〜せいぜい40kmぐらいしか離れていない
つまり今の「市」ぐらいの規模
西暦57年の奴国王金印は
現在の「市」クラスの「国=邑」の首長(酋長)が
中国様に貢物をして
そのおかえしをいただいたもの
漢書地理志燕地だと
「楽浪の海中に倭人があり、分かれて百余国を為す。歳時をもって来たり、献見するという」
つまり100国以上の邑の集まり

古墳時代から巨大王権の中央集権国家づくり
古墳時代の終結が中央集権国家の完成
という従来の解釈をくつがえすようなことは
今んとこありえない


799 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 06:47:45
>「楽浪の海中に倭人があり、分かれて百余国を為す。歳時をもって来たり、献見するという」
>つまり100国以上の邑の集まり
ですね。そして、今は使訳通じる所30国。100→30。70とは通交がなくなったという
ことではなく、国々が統合されてきたということでしょう。
大きくなったのは投馬国、邪馬台国だけかも知れないが。
つまり、倭人の全体が30。


800 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 06:58:15
倭人伝には、通訳がいたと書かれている。
まあ、通訳がいないとどうしようもないわけだが。

西暦265年に倭の女王が遣使したときも通訳を立ててとなっている。
会話が出来て、読み書きが全くだめということはないだろう。
読み書き出来る人間がいたと考えるのが普通だと思うが。

801 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 07:08:47
>>800
それは中国人系渡来人
中国の古代学者もそういう考え
古代に列島から書物がまったく発掘されてない状況で
どうやって倭人が漢字を学習するのよ?

802 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 07:19:49
>>800 同感

本田勝一著書のパプアニューギニア(=魏志倭人伝)が、日本に見えてきてしまう。
やはり、法改正により我が国の手で、各種古墳等の発掘や天皇県遺物の調査だ必要じゃないか。
暴くなかれ、天罰が下るぞなんて八墓村じゃあるまいし、
吉村作治も数千年前のエジプトじゃなく、2000年も満たない日本の古代歴史ぐらい解明してもらいたいものだ。


803 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 07:35:57
>>800
>>802

アフガニスタンなんて
こんな時代になっても
いまだ識字率は30%台
言葉はしゃべれても3人に2人は文盲
読み書きというのは
学問する場所がなければできないの
日本で識字率が飛躍的に向上するのは
奈良時代にさかのぼる村邑小学
その後寺院での教育があってから

まあともかく
弥生時代の遺跡はたくさん発掘されてるし
今からでもがんがん発掘できるんだから
そこから書物に類するもの(文章と断定できるもの)が出てきてから
論を展開するべきじゃないの?

証拠がないんじゃただの妄想だよ

804 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 07:48:41
>>795
ナでもノでもヌでも余りかわらない。

全部呉音で統一しているんなら、伊都はイツと読む。

隋書には対馬が都シマに書いているから都は完全に呉音。

あまり上古音、中古音は重要じゃないですよ。。
要は漢音か呉音かということですよ。
両者は発音が全然違うんだから。

805 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 07:54:38
>>802
パプアニューギニアより
大和文化の影響を受けながら
つい最近まで自分達独自の文化を持っていたアイヌをイメージすべきでしょ
古代日本の祭祀は
アイヌのイヨマンテや高千穂夜神楽からイメージすることができる

806 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 07:56:55
大和朝廷の手で、歴史は消されたと考えるの妥当と思う。
明日香村に行ったことがあるが、大和朝廷発症の地ははかるが・・・。ほんとに歩いて回れる小さな邑で、日本をしきってたなんて考えられない。
兵士がなん万何十万いたら、中央線の満員電車。
力をつけたのは、仏教と神話をうまくかつようし、武力的にも充実した平安京(奈良時代)
急に、文字それもキキ(長文)が現れるのも理解しがたい、。
朝廷にとり、その後の魏志倭人伝はやっかいものかも。海外の文献ゆえ焼失できない。



807 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:02:12
>>803

gがんがん発掘できない事実しらないの。
過去書き込まれてるけど伊勢神宮や熱田神宮、出雲大社の三種の神器も見た人いないんだよ。

808 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:04:15
>>806
まあ
どんだけ妄想しててもあなたの勝手なんだけど

唐・魏徴(580〜643)の『隋書』「倭国伝」
倭国(日本)は百済・新羅の東南にあり。
(中略)文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。
仏教を敬す。百済において仏教を求得し、始めて文字あり。

という中国様の客観的な記事を否定するだけの出土がなければ
他人は説得できない

809 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:07:16
>>807
古墳時代の話じゃなくて弥生時代の遺跡の話だよ
時代がつながってるものはともかくとして
吉野ヶ里などからそんなもんがでてきたの?って話



810 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:09:18
>>806
>大和朝廷発症の地ははかるが・・・。

日本語でよろしく



811 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:12:49
神話に出てくる天皇等も、文字がないからあとで言葉に文字をつけた。
それなら、カタカナで歴史に残すべきじゃないかな。
文字をてにしてから神話を作ったともかんがえられるな。

812 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:13:37
>>808
確かにそう書かれているが、一方で、倭王武の上表文も伝えられている。
どう考えるかな?

813 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:18:10
>>812
倭王武の上表文は中国系渡来人の手によるものとしか考えようがない


814 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:24:03
漢音、呉音とは日本語における漢字音読の用語として使う表現
(しかも、今や漢和辞書の見出しくらいにしか使わない)なので、
中国語の発音自体を主題とするときには、使用してはいけない言葉だ。
もしかして、北部方言、南部方言とかの意味と取り違えているのかな?

余談だが、倭人伝の中で倭語を漢字表記したと考えられる単語の内、
「奴國」については、既に漢代には表記が確定していたものとし、
倭漢それぞれの一世紀当時の発音がベースだと考えなければならない。
奴國とほかの○○奴國では三世紀の倭音では別音の可能性がある。

815 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:25:27
「劉義隆, 425, 讃, 倭讃、司馬曹達を宋に遣わして朝貢する。」

倭王「讃」が中国に朝貢したときの使者は司馬曹達という中国人

816 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:25:40
>>812-813
あれは名文だな

817 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:42:51
>>814
方言ですよ。
それと、論点が重要な点をはずしていますよ。
朝貢した相手の王朝が北朝か南朝かで発音が違うんですよ。
倭音じゃなく、相手が書きとめたんだから、相手の国の音でしょ。


818 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 09:07:59
>>814
>「奴國」については、既に漢代には表記が確定していたものとし、
倭漢それぞれの一世紀当時の発音がベースだと考えなければならない。

そんなことないですよ。
その王朝によって書き方は変遷しています。

むしろ倭奴は意味としては「倭の地」という意味ととったほうが倭奴は確定しますよ。


819 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 09:44:44
呼邑国[こゆこく]は宮崎県の児湯郡です

820 :明日の風:2009/03/19(木) 10:07:31
奴はトまたはドと発音するのが正しいのです。中国史書の国名は、前漢が朝鮮を支配したときに参じた倭の諸国を記録した
国名(漢字)をそのまま使います。例え漢字の発音が変化しても一度記録された字はそのまま使うのです。
ですから、倭という字で登録された国は、登録時の発音がヰで、それがワと発音が変化しても最初の倭という漢字を使うのです。


821 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 10:15:35
>>811
カタカナなんてその頃まだ無いぜ。
それで、万葉仮名での表記があるわけだろ。伊波礼毘古とか美麻紀伊理毘古とか。

822 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 10:15:39
>>820
ですから、前漢は北方方言の漢音だったから、
当時はト、ドと読んだかもしれない。

でも倭奴以外の地名はその時代の相手の王朝によって書き方が
違う。
一度記録された字をそのまま使うというより、
どう読んでいいかわからないから、そのまま使うですよ。
新たに調査して現地人の発音を聞いて、自分の国の発音表記で書き留めれば、
当然、同じ国でも漢字は変わりますよ。

823 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 10:20:46
巳百支国[しはくきこく]は熊本県八代市鏡町芝口です

824 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:31:26
>>821 いやそのころの文献でなく、今の教育で学ぶ子供たちの日本史の表現。
   正式名は発音しかわからないなら、備考(日本書紀で漢字あてはめたとか)をもうけるかカタカナだろ。

825 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:47:10
大化の改新なんて身内のケンカだろ。南北朝も身内のケンカ。そんなのが神かよ。
武士ががうまく活用し、乗っかった。

畿内説はほとんど 邪馬台国と朝廷を結びつけたくなる人。錦の御旗建てたい、武士と変わりない。
まあ  推測の世界でかってだけど。魏志倭人伝も都合のいい部分だけ持ち込んでくる、
俺九州節でもないけど、邪馬台国と朝廷関係ない派。

826 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 17:32:55
そのとおり。朝廷のご先祖が「親魏倭王」なんて中国の子分的な身分に甘んじるわけがない。

827 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 18:02:21
考えるに文字とわからなかった物は朝廷は歴史から消し去れなかったか、見つけられなかったか。
「中国から漢字が伝えられるまで日本には文字がなかった」と、日本人の大多数はそう信じ込んでいる。
義務教育の小・中学校はいうまでもなく、高等教育の場でも繰り返し、そう教えられてきたからだ。
しかし、平成三年七月、佐賀県大和町の東山田一本杉遺跡から出土した弥生前期末の甕棺から、
「古代南インドの象形文字」が発見された。
日本人考古学者が見逃していたものを、たまたま調査に訪れた、インド人考古学者ポンナムバラム・ラグ
パティ博士が発見したものだ。意味は不明だが、甕棺の側面に、縦十五センチ、横十九センチの大きさで十字
に引かれた線の先端が熊手状の文字が描かれていた。ラグパティ博士は
「紀元前三世紀頃まで南インドの土器に描かれていたグラフィティという古代文字と同じだ」と語り、驚きの声をあげた
しかし、この程度で驚いてはいけないのだ。紀元前二五〇〇年から紀元前三〇〇年頃に使われていたと思われる
古代シュメール文字やバビロニア文字、ギリシャのピロス文字、中国の甲骨文字のルーツと思われる文字が
、西日本一帯において、続々と発見されているのだ。(日本ペトログラフ協会調べつまり、インドどころの騒ぎではなく
、超古代の日本人が世界各地と交流していた形跡が見られるのである。ただし、それらの発掘物が、世界各地から
古代文化を伝えた部族が集団で日本列島で渡来し、それぞれのルーツを伝える文字を岩に刻み込んだものなのか、逆に日本で発明された古代文字が世界各地に伝えられ、定着し完成するに至った形跡をしめすものなのか、この辺については今のところ定かではない。
いえることは、いずれの文字も、超古代文明の遺産とされる巨石文化遺跡の大岩に刻まれた状態で残っているところを見ると、紀元前二五〇〇年どころか、その起源はずっと古くまでさかのぼる可能性があるということだ。(これ憶測もいいとこだけど期待を込めて)
そして、
日本列島が、古代文字の発祥の地だった可能性があるということなのである。



828 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 18:10:08
>>827 私です。なんとでもなる日本の歴史、ねつ造につぐねつ造じゃないかと思って。
   時の、権力者で歴史がかわる。もし関ヶ原で西軍が勝ってたら、家康なんてどのように
   歴史上残っていたかと、思って。やはり勝てば官軍の歴史作りかな。
   本物、手に入れたいけどなあ・・・見つからないから推理が楽しいのもわかるが。

829 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 18:26:13
そのとおり。遠い昔の歴史なんてほんとのところは分からない。
仮に太古の文献が見つかったとしても、それだってねつ造されている可能性が高い。
仮にその文献を、日本史のねつ造を憤ってる>>828さんみたいな方が調査して、「真」であると発表したとしても、
第三者からは、「うそこけ、こんな文献はバッタもんじゃい」という意見が出てくる。
結局はその繰り返し。

830 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 18:33:47
>829 バッタもんじゃない。ハッタリもん。

831 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 19:15:34
科学と化学で年代特定できるもんないかな。
>>829
がいうとおり、諸説紛々 でも犠牲者出る場合は救う必要あり。
(ヒトラーのユダヤ人迫害など)

832 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 19:28:27

電波出まくってるのが一匹、自演しているなww

833 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 21:12:38
>>783
>狗奴国って、中古音で
>この国って読むんだよね。
東国の発音では毛の国と聞こえたはず。


834 :明日の風:2009/03/19(木) 22:03:24
狗奴国は上古音でよんでください。 
クト国となり、熊本県北部となります。
宇土(ウト)半島にその名が残っております。

835 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 22:44:19
毛の国は百済人入植者が開墾してからの、およそ飛鳥時代以降の勢力

836 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 22:57:23
>>835祟神天皇の第一子、豊城入彦は荒河戸畔の娘に生ませた子。
この荒河とはどこかというと、東京湾に流れる荒川のことです。
紀氏とは、大阪湾から三河、伊豆、古東京湾までの広い範囲を
支配していた古代海族だったのです。
だから、既に、東国は、大和朝廷成立以前から、大和の支配地域
だったのです。

837 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:17:29
東遷説、日向説、、、
何れにせよ神武東征神話がその拠り所、少なくとも相当な比重を占めているわけだが…w

はっきり言って状況から考えて東征神話の成立、その出発の地として日向神話が始祖神話に組み込まれた時期は
5世紀ぐらいが一番可能性が高いだろう。

日向が畿内ヤマト・河内朝において始祖神話に抱き込まねばならないほどに勢力を伸長させた時期
・・・と考えた場合、古墳群の充実、そこから出てくる埴輪やその他の遺物、日本最古級の馬具の出土に見られる
当時の最先端文化である馬匹文化のいち早い導入etc・・・がその状況証拠。

で、時代の背景とすれば5世紀前半に高句麗との戦いに敗れ半島での権益を無くし
威信と求心力の回復を狙い、外交では所謂「五王の遣使」、国内においては河内の古市・百舌鳥に巨大古墳を造営。

そして日向神話をも取り込んで神武東征と言う始祖神話を作り上げた。

まあ、少なくとも記紀の完成した8世紀頃までを視野に入れて神話の各部の成立時期を考えないと
「神代だからより古い時代」なんて短絡的な考えじゃあ
例えば「高間原に馬が出てくる」なんてお話は説明付きませんよとwwwwwww

838 :837:2009/03/20(金) 00:28:59
それから・・・

海外との神話の類似を持ち出すと
「単に似ている物を並べ立てているだけ」
と反発している奴がいるが
(まあ連中にとって”受け”の悪い話だろうとは思うがwww)

話はもう少し複雑で「神話の系統」として考えた場合

扶余や朝鮮半島等の北東アジアに見られる天孫降臨神話(及び天空の神の世界=高天原と言う概念)と
太陽神アマテラスやその周辺の神話、及び日向神話は南太平洋から東南アジアの南洋系で
両者は元々系統が違う。

故にその二つを無理矢理ミックスした時代を考える必要がある。

少なくとも、それらが原初・神代の昔からw一つの物であったかの前提で語ること自体噴飯物wwww

ちなみに現在の天ちゃんに繋がる集団を天孫族と称するが
その連中が元々所持していたのは前者の神話体系であろうというのは
大方のコンセンサスになっているのではないかな?




839 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:45:38
>>837 >>838
何を寝言いってるんだか。邪馬台国の位置はまず倭人伝。分かってるのかな?

840 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:02:29
>>839
あん?

悪いがそう言う話なら記紀神話を持ち出して
邪馬台国=高天原は九州の何処そこ・・・・なんて話を吹聴している連中に言え。

勘違いするなよアホwww

841 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:03:40
>836
豊城入彦=トヨウケ=ケツミコ=食料神 である

842 :縦目仮面:2009/03/20(金) 01:26:04
俺は考古学を勉強していて近畿説だが、九州説の奥野正男氏の言う「邪馬台国は最終的
には文献史学が解決すべき問題だ」との意見には賛成する。

倭人伝がなければそもそも邪馬台国の存在をわれわれは認識できないのであり、弥生時
代の意味の取れる文字資料が日本からほとんど出土しない現状では、たとえ日本全土を
発掘しても「ここに同時代で最大の都市があった」くらいしか言えない。

ただし紀記を資料として援用する場合、ねつ造とまでは言わないが不確かな記述の中から
歴史の真実を抽出する作業はきわめて困難であり、自説に都合のよい部分だけを取り出す
など恣意に陥りやすい。

843 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 03:36:44
記紀の神代の部分は、伝承とその時代の人々の考え方で出来ていると思う。
都合の良い物語を作るつもりも、その必要もなかった。現に、大和朝廷に
とって都合の良い話ばかりではない。

皇祖の天照大神にしても、初代天皇の神武天皇にしても、かっこいいところは
あまりなくて、苦しむ場面が非常に多い。

本当は日向出身なのに、高天原から大和の三輪山に降りて来て、日本全国に
覇権を広げたというのなら、大和朝廷にとって都合の良い物語を作ったと
いうことになるのだろうが、逆なわけだから。

近畿地方あるいは奈良県に住む人にしてみれば、カチンと来るような物語、
つまり、日向の神倭伊波礼毘古が大和の先住勢力を滅ぼして初代天皇に
なった、なんてのを「大和」朝廷が創作で作るわけがないと思う。

そういう意味からも、記紀は、意外に可能な限り真実を残そうという意図が
あったのではないかと思う。

844 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 04:03:31
キキと魏志倭人伝とは話して考えるべきではないだろうか。
いすれからアプローチしても、こじつけが多過ぎる。

845 :縦目仮面:2009/03/20(金) 04:29:01
書紀の編纂姿勢は、注として異説を挿入するなど当時としては画期的なものであり、真実
を残そうという意図は843のいうとおり伝わってくる。しかし少なくみても継体帝以前の記述は
口承伝承に頼った部分が多いと推定され、不確かといったのはそんな意味だ。

むしろ問題は引用する側であり、自説に不都合な部分には目をつむり、都合のよい部分だ
け抜き出そうとする学問態度では、かえって資料としての価値を失わせるばかりだと思う。

かって森浩一氏の講義を受けた際、「はじめに自説ありきで、それに沿うように遺物を解釈する
のではなく、遺物自体が語るところに耳を傾けよ」といった話があった。それが、たとえ自説に
反するものであっても耳をふさぐな、ということだと思った

846 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 05:03:55
>>845
まあ、その通りだと思う。
文献の解釈にしても、一つ一つの論点で一番妥当な判断を下す。
整合性がなくてもよい。その積み重ねで、最終的な判断をする。

だから、全ての論点が一つの結論に結びつく必要はない。
7割は満足できるが、どうしてもあとの3割は結びつかないというので良い。
むしろ、それが普通ではないかと思う。

要するに、最初に所在地ありきが一番良くないのであって、これが様々な
曲解の原因となっている。
邪馬台国の所在地は、徐々に絞っていって最終的なところで決めるという
のが良いと思う。探し出そうという態度が大事だろうなあ。

847 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 05:08:19
>>846
ところで、邪馬台国って所在地以外に論点があるの?

848 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 05:17:17
>>843

物の見方があまりに偏狭、視野狭窄。

例えばローマ建国神話でロムルスとレムスの兄弟は最初からローマにいたか?
遠方(聖地)より来たりて先住民を征服したなんて始祖神話は世界中にあるだろうに・・・

まあ一種の貴種漂流譚とでも言うか・・・

それに、そもそもヤマト王権がその血統が途切れることなく続いているかどうかも分からないw

>>837の続きで言うと、よく言われることだが、河内の百舌鳥と古市で行ったり来たり
交互に古墳の造営がなされている節から、有力氏族の間で王権を持ち回りにしていたと言う見方もある。

それ以前、三輪と河内の王族の血統が連続していたのかも怪しい。

つまり複数の始祖神話をそれでも何とか一つの王統に無理矢理まとめたのが記紀と解すれば
全体の構図が分かりやすいwww


>「大和」朝廷が創作で作るわけがないと思う。
畿内説を唱えている学者の大方は大和王朝とヤマト王権は分けているんじゃないかな?
むしろそう言う見方に固執しているのが九州説論者に多いのは皮肉だなw

九州王朝説に至っては九州版皇国史観だwww





849 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 05:32:50
wは自説の説得力を極端に落とす

850 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 06:12:53
>>843
>近畿地方あるいは奈良県に住む人にしてみれば、カチンと来るような物語、

果たして古代の大和の人間が神武東征神話を内心面白くないと思っていたのか疑問だなw

一体何を根拠に言っているのやら…

結局自身の感覚で言っているんじゃないのかとw

851 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:24:54
>>848
>>843の考え方は常識的なところだろう。少なくとも、その考え方を簡単に排斥してはな
るまい。大した理由もなく、偏狭、視野狭窄などというのは、思い込みというものだろう。


852 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:30:36
>>843

kikiは天皇の命令で編纂されてるとすれば、当然出来栄えも天皇が点検。
いろんあドラマチックな(紆余曲折の歴史のほうが物語として成立し、真実ぽいな、)神代を創作したけっか落ち着いた文書。

また、当近畿・時奈良県民なんていないし、怒るとすれば今の近畿・奈良県民。
俺 九州人じゃないけど。

853 :明日の風:2009/03/20(金) 07:37:29
>>847最大の論点は高天原と邪馬台国の関係でしょう。
同一であるという考えが主流のようですが、そうともいいきれない点があるからです。
勿論高天原は神話でありフィクションであるとはされていますが、それでは後の大和とどう結びつくのかとなります。

854 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:42:13
>>851
先に言ったように始祖が王朝の都から遠くに離れたところからやって来たなんていうのは
別に珍しくもなんとも無い。

それに山あり谷あり波乱万丈のストーリーも。

逆に

 始祖は最初から都にいました。
 無敵の存在で順風満帆で王朝を築き今に至ります、めでたしめでたし。。

・・・なんて神話があるのか聞きたいぐらいだw
そっちの方が非常識www





855 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:44:02
>>853
kikiでは、高天原と大和はどう説明されているんだっけ?

856 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:44:19
>>853
葦原中国(近畿を中心とした国)を描く上で、そこへ入ってくる以前のところ
すなわち九州とか朝鮮半島とかをひっくるめて高天原としたのではないかな。

857 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:51:46
>>854
だが、そんな理由ならば、何で富士山に降臨させなかったの?、何で日本アルプス
あたりに降臨させなかったの?という話になるな。いっぽうで熊襲の地として描く
南九州に降臨させ、そこから東征したという話には、何か史実の裏づけがありそう
だと考えるべきだろう。
そして、倭人伝の伝える邪馬台国への行程が南九州ならばまったく不自然なところ
がない、その一致を無視することはできないな。

858 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:57:16
>>857
それについては既に>>837に仮説を述べているが?w

それに勝手に

>倭人伝の伝える邪馬台国への行程が南九州

なんて飛ばすなよw

精々数ある行程記事の解釈の一つ、ワンオブゼムに過ぎない。



859 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:57:21
>>848
しかしねえ。「持ち回りの王権」が常識、当たり前だったのを、一つの王統譜にまとめちゃって、
戦後の知識人が言うところの、王権の「正統性」とやらのために記紀は、
そんな自分たちとは繋がりのない、しかも百年はおろか、下手したら数十年と続かないあっちの王統、こっちの王統を、
自分の系譜に先祖として結びつけたってのは、今や常識になっているけど、どうも違う気がするんだよねえ。
結びつけるんなら、なんでニギハヤヒが神武の先代天皇じゃないのかって疑問もあるし。
古墳時代には、平安から鎌倉へとか、江戸から明治へといった、「王朝交替」の匂いがしないんだよ。
むしろ古墳時代の前(三輪)−中(河内)−後期(継体)は、平安時代の前−中−後期の様相に近い気がする。
まあスレ違いだけど。

860 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:06:51
やっぱ神武は日向出身で、各地を転々した後いったん吉備に落ち着いていたが(あるいはそこの首長に仕えていたが)、
倭国大乱に乗じて大和に入り、三輪・磯城地方の先住有力者と婚姻関係を結ぶなどして地歩を固め、
そこで一邑長としてのスタートを切ったんだな。庄内土器や初期大和王権の葬制に見られる吉備色の導入にも神武が一役買っているのだろう。
で、子孫の中から「三輪の神と結婚」する女子(百襲姫)が出て、そのカリスマ性によって大和内で優位に立ち、さらに諸地方からも注目を集め、
彼女の死後、一族の当主だった崇神がその権威を受け継ぎ、紆余曲折ありつつも前方後円墳と布留土器をもって広域支配へと乗り出していくと。
で、日向なんて後進地域でありながら、いち早く古いタイプの古墳が築かれたのは、
そこが一族祖先の所縁の地で、ある程度重視されたから。いわば室町足利氏における下野足利、江戸徳川氏における三河岡崎みたいなもん。

861 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:08:33
>>859
>なんでニギハヤヒが神武の先代天皇じゃないのかって疑問もあるし。

これについて私見を述べさせてもらうなら、まだ物部の一族があちこちにいたからじゃね?w

完全に滅び去っていれば丸ごとパクってニギハヤヒを始祖に祭上げても支障なかったとwww



862 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:10:04
>>857それが核心です。
大和朝廷の祖は富士山の噴火で消えた幻の富士王朝だった。
その事実を隠すために、藤原不比等は日本書紀でさまざまな
隠蔽工作を行っている。

863 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:10:59
>>860
>日向なんて後進地域でありながら、いち早く古いタイプの古墳が築かれたのは、
>そこが一族祖先の所縁の地で、ある程度重視されたから。

大和意外に纏向型前方後円墳があるのは日向だけじゃないぞ?

根拠にならない。

864 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:19:16
>>863
もちろん分かっているが、
そうした古相の古墳が日向に「も」築かれているということには注目したい。


865 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:36:44
>>864
「も」だけでは、神話の中で特別な地位を得ることはできなんじゃないか?

866 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:43:51
>>858
仮説って日向にしたのは「日向神話を取り込んで」ってとこか?
日向神話って何かな? そんなもの、大和朝廷にまで有名だったのか?

>倭人伝の伝える邪馬台国への行程が南九州なんて飛ばすなよw
>精々数ある行程記事の解釈の一つ、ワンオブゼムに過ぎない。
行程記事を修正しないでたどり着けるところが他にあるか?
南九州だけだろうが。


867 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:46:33
>>865
大和から遠い地域で普通ならばあまり造られそうにない所だ。
しかも、集中度において格段のものがある。

868 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:53:45
現代の感覚で日向を語るからそう思うんだろうが、
日向は多くの人口を養える広い平野があり、
鉄も採れて、近畿よりも大陸に近いし、
何よりも、地理的に他から攻め込まれる可能性が少ない。
このように、日向は戦乱に巻き込まれずに安定して力を蓄えていける場所。
こんないい条件を兼ね備えた場所は西日本ではそう無いよ。

869 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 09:04:45
やはり、古墳、天皇家の遺物、寺社仏閣等、調査発掘の許可出してもらうしかない。
推理を裏付けてるのも推理、文献も怪しいし。
今の時代、石器時代等はともかく、紀元後ぐらいある程度確信に近い歴史ほしいね。


870 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 09:07:22
>>867
>>868
どちらが正しいのかわkらん。でも、日向が南海に面していることをみると、近畿からそう遠くは感じない。

871 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 09:26:09
>>866
>日向神話って何かな?

日向三代の神話に決まっているだろうが馬鹿w

その神話を取り込む必要があった時期として5世紀が蓋然性が高いことは書いてある。

>行程記事を修正しないでたどり着けるところが他にあるか?
>南九州だけだろうが。

修正も何も、そもそもあの行程記事が何処まで本当なのかも分からない。
それが間違いないとし、放射説が正しいと前提しての説だろうに。




872 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 09:30:51
>>868
>このように、日向は戦乱に巻き込まれずに安定して力を蓄えていける場所。

つまり卑弥呼共立の原因になった倭国大乱の蚊帳の外だったわけだ・・・

偉くタナボタなお話だなw




873 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 09:43:53
>修正も何も、そもそもあの行程記事が何処まで本当なのかも分からない。
>それが間違いないとし、放射説が正しいと前提しての説だろうに。
倭人伝の行程記事を信じれば、そして、放射説が正しいならば、南九州で
問題ないということを認めるんだな。従来、倭人伝の行程記事はそのとおり
読んだのでは我が国の地理に合致しない、と思い込まれていたんだ。
合致するところがあったと反対論者でさえ認めざるをえない所があったとい
うこと、それは大変な発見なのだよ。


874 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 09:49:29
そもそも神武東征なんてもんが九州邪馬台国より後の時代なら
今の考古学じゃあその頃には纏向も既に出現していて
ヤマト王権もその基礎は出来上がっていて
神武が手勢を連れて乗り込んだところで踏み潰されるのがオチw

>>860のような邪馬台国の時代より前となると
当然卑弥呼=アマテラスと言うのは時系列的に合わなくなってくるw



875 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 09:49:31
>>872
倭国大乱の蚊帳の外ではない。当事者だ。倭国の乱は、北九州と南九州の戦い
だった。そして、南九州が実質的に勝って終わったんだよ。
女王国以北の国々が一大率に検察されている。倭人伝も以北の大国である奴国
や伊都国についてほとんど書いていない。これらは、以北は使者等にとってさ
して関心がなかった、ということを示しているんだ。

876 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:01:46
>>875
で、その事を示す物は?

例えば土器で弥生末期九州の南北で斉一化が進んだなんてお話は聞いたことが無い。

そもそも九州の南北を束ねる一大国家連合なんてまともな考古学者の説として聞いたことが無い。
俺が無知で知らないだけか?w

ついでに言えば確か九州北岸から日向には日向灘からの海上コースは使えず
一々九州山地を横断しなければならなかったんだよな?

日向に大国があっても兵力も宝の持ち腐れだw



877 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:04:00
>>853
>高天原

高天原から山の頂上へ降臨したりするわけだから、高天原はもっと上空にあるわけで
これは天空にあるものと古代人が想像した神々の住み処なんだろう

878 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:14:15
>>876
土器、土器って言うけど、土器は万能ではない。
たとえば、倭国の大乱とか、磐井の乱とか、壬申の乱とか土器でわかるかな?
鎌倉幕府の成立とか室町幕府の成立が土器でわかるかな?
戦国時代の様子が土器でわかるかな?

無理やり、土器で解釈しようとすれば、相当に恣意的というか、もう想像力の
世界になってしまう。

879 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:16:58
>>878
ああ、別に土器じゃなくても良いぞ。
だから「例えば」つってんだろうがw

九州の南北にまたがる『 幻の日向大王国 』を示す物を教えてくれwww

880 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:22:35
>>878

九州の南北には、異なる土器の文化圏があるだろう、
と言う指摘には、何も応えていない(応えられない)文章ですね。

881 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:49:09
>>875
>倭人伝も以北の大国である奴国
>や伊都国についてほとんど書いていない。これらは、以北は使者等にとってさ
>して関心がなかった、ということを示しているんだ。

ハァ〜魏志倭人伝で詳細が説明されている唯一の国は伊都国ですけど。
それと自女王国以北には伊都国は含まれないのでは。
自女王国って伊都国や奴国のことですよ。

882 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:49:59
>>876
土器なんぞは其の地其の地でことなってもどうということはないんよ。
兵士は土器を担いで戦いに行くわけではないんだからな。
北九州と南九州は同一文化圏に属していない? 視野が狭いな。
古墳をみれば近畿と日向は似たような初期古墳が多い。北九州にも古墳は
ある。鏡は近畿と北九州のつながりを示す。
邪馬台国時代のすぐ後の古墳時代をみれば、南九州も北九州も近畿もその
ほかもつながってるんだ。邪馬台国時代に南と北の間に国家連合があった
からといって何の不思議もない。

883 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:51:41
九州内部の方言の違いが本州に比べると大きい事を考えると、
南九州と西九州と東九州はそれぞれ異民族だったと思う。

884 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:58:48
>>881
>魏志倭人伝で詳細が説明されている唯一の国は伊都国ですけど。
それはあなたの読み方がなってないだけ。詳しい説明は、対馬国、一支国、末盧国
について書かれている。伊都国は、官、副、それに戸数のみ。簡単な記載だ。
また、いわゆる風俗記事は女王国について記載したもの。極めて詳しい。

>自女王国って伊都国や奴国のことですよ。
女王国は伊都国が統属する相手国。伊都国は含まれない。奴国も女王国ではない。
そのことは、女王国が万二千余里から始まることを考えれば明らかだ。
対馬や壱岐の回りを巡るとかいうこじつけはなしだぜ。



885 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:01:51
>>882

弥生末の九州の統一状況の話だろう。
何で近畿と日向の古墳の例なんか出すの?
それは、弥生時代の例は皆無だと言ってるのと同じことだよ。
それに古墳時代でも西都原周辺を境にそれより南側には地下式横穴墓と言う
前方後円墳とは異なる墓制が存在したのは知ってるよね。

886 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:04:20
>>882

だーかーらー
土器じゃなくても良いと言ってんだろうがくどい奴だなw

日向が北九州に進出した根拠は何なんだよ?

そんな理屈が通るなら逆に
畿内ヤマトは既に九州全土に進出していました
・・・って話でもおkだなw

(なにせ具体的に根拠を示さなくても良いんだからwww)


もう言ってることが無茶苦茶www








887 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:26:25
>>886
>日向が北九州に進出した根拠は何なんだよ?

記紀でしょ。

888 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:29:27
>>886
>>876のように物にこだわるのが間違いだって言ってるんだ。
>>875は倭人伝の記事で分かること。考古学では分からんよ。


889 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:35:51
生目古墳群は、西都原古墳群より時代が全体的に古いのである。
それどころか、いくつかの古墳は、日本最古と一般的に思われている
箸墓古墳と同時代か、更に古い可能性もあるのだ。
しかも、生目古墳群には、畿内にある古墳の、ほとんどすべての
タイプがそろっている。
http://www.0503ak1025.net/kohun.html

宮崎市周辺(大淀川下流両岸)には生目古墳群をはじめ多くの古墳があったそうですが、
ほとんど宅地化してしまって消滅してしまったところがほとんどのようで。
問題は大和地方の古墳と比較してどっちが古いのか。
生目古墳群1号墳と3号墳は畿内遺跡とほとんど形状が似ている。
つまり、生目古墳群のほうが早ければ神武東征前の世代ということになり、
都が宮崎市周辺にあったということ。
生目古墳群およびその周辺の古墳の学術調査を宮崎大学に陳情すべし。
邪馬台国は宮崎市周辺。西都原は古墳の大きさから一国の中心であったことが
考えられる。
とにかく、宮崎県内の古墳は大正時代に本格的に調査が行われてから
放置しっぱなし。なぜ調査されないのか、そっちのほうが疑問だ。

890 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:36:01
>>884
自女王国と女王国の違いは、
自女王国は女王国の中心地。
「南至邪馬壹國 女王之所都」とあるように
女王国は邪馬壹国のこと。
「自女王國以北」と「女王國東渡海千餘里」では女王国の意味が違う。
自は「〜より」と訳されるが、この自は点を示す。
「自郡至女王國萬二千餘里」「自為王以來」などもそうです。
「郡の中心点から女王国の中心点までが12000里」
「王に為った時点より以来」の意味。

891 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:45:24
>>889
>とにかく、宮崎県内の古墳は大正時代に本格的に調査が行われてから
>放置しっぱなし。なぜ調査されないのか、そっちのほうが疑問だ。

自虐史観の学者の間では記紀や神武東征を検証する調査研究はタブーなんだろう。

892 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:50:02
>>890
それはあなたの間違った解釈。「自女王國以北」が女王国の中心から北と
いうわけではない。

893 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:52:17
>>888

ア ホ か ? 

倭人伝の中に見える倭国大乱の帰結が
南九州が大勝利し北九州に進出したという根拠・・・を聞いているのに

「倭人伝読めば分かる」か・・・?


チョッとは脳みそ使って筋の通る理屈言えよ・・・・('A`)

894 :888:2009/03/20(金) 11:55:29
>>893
残念ながら、自分はその質問をされた当事者ではありません。

895 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:00:08
倭人伝の中に見える倭国乱の帰結は、倭人伝の中にあるんだよ。
それに従って何が悪いの?

896 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:02:53
>>894

横レスでも同じだw

倭人伝の「倭国大乱」の解釈のついて質問しているのに
倭人伝読めば分かるって・・・

邪馬台国○○説とか言う前にまともに理屈言える知能持とうぜ?


897 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:04:51
>>889
> 生目古墳群は、西都原古墳群より時代が全体的に古いのである。
> それどころか、いくつかの古墳は、日本最古と一般的に思われている
> 箸墓古墳と同時代か、更に古い可能性もあるのだ。
> しかも、生目古墳群には、畿内にある古墳の、ほとんどすべての
> タイプがそろっている。

生目って古墳時代全般に渡って造営された古墳群だろ?
いろんなタイプが有るのは当たり前じゃないか。

> 問題は大和地方の古墳と比較してどっちが古いのか。
> 生目古墳群1号墳と3号墳は畿内遺跡とほとんど形状が似ている。
> つまり、生目古墳群のほうが早ければ神武東征前の世代ということになり、

ペテンだなw
1号墳とか3号墳は、確かに古墳前期タイプの形状だが、
通称「纏向型」と呼ばれる発生期のもでは無い。
何故、発生期のものを例にして先後関係を比較しないのだ?
あー、生目には無いからだったね。

> 生目古墳群およびその周辺の古墳の学術調査を宮崎大学に陳情すべし。
> 邪馬台国は宮崎市周辺。西都原は古墳の大きさから一国の中心であったことが
> 考えられる。

うん、日向国の中心だったことは間違いない。

> とにかく、宮崎県内の古墳は大正時代に本格的に調査が行われてから
> 放置しっぱなし。なぜ調査されないのか、そっちのほうが疑問だ。

別に疑問じゃない。
宮崎じゃ、頻繁に大規模公共工事が行われるわけでも無いし、
純然たる学術調査なんてものも貧乏県だから出来ない。

898 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:05:20
わざわざ倭人伝と書いて「」までつけるなら、「倭国乱」て書こうよ。

899 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:12:36
>>892
>「自女王國以北」が女王国の中心から北と
>いうわけではない。

「自○○」は○○の中心より北の意味以外にどんな意味があるの?


900 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:26:38
>>899
「自」は単に「より」と訳せばよい。問題は「以北」の方だな。
現在は、法令用語としては、基点として表示したものを含むとされている。
しかし、もともとは、それを含む場合もあれば含まない場合もある。
どちらの用い方がなされているかは慎重に解釈する必要がある。
倭人伝の場合は、女王国以北の国は一大率によって検察される国でもある。
女王国以北に女王国を含めたのでは、一大率が女王国もまた以北の国々も
検察していたことになり不自然。女王国以北には女王国を含まないと解釈
することとなる。
あなたのように女王国の「中心」より北などと解釈する人はいない。


901 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:27:46
「自○○以△△」

「自」は起点(又は起線)を示す言葉なので、続いて表記された対象は「点(線)」と認識されます。
なので表記「○○」は、文脈の中では面積を持たず、「中心」と言う概念も持ちません。

「自東京以北」と書いてあれば、それは「東京」と言うものが点なのであって、
具体的に千代田区とか新宿都庁舎を示すものではありません。
「東京」より詳細に対象を示す必要が無いから「東京」と書かれるのであって、
詳細に示す必要があれば「自日本橋以北」とか書かれるものなのです。



902 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:58:23
「自郡至女王國萬二千餘里」
では郡や女王国は面であり、自があるから中心点から中心点として12000里と書ける。
単に郡から女王国では何処から何処までか分からない。
「自為王以來」でも王になったのは瞬間であり時間的に点である。
「自」は起点(又は起線)を示す言葉なので点である。
もともと狭い範囲ならともかく郡や女王国や東京を点とは認識されません。
「自東京以北」と書いてあれば、それは皇居付近が点なのです。
「自」が単によりであれば「○○以△△」で意味が通り必要ありません。
「女王國東渡海千餘里」でも「自女王國東渡海千餘里」にすると意味が変わります。

903 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:24:26
>>902
「自女王国」とあれば、女王国よりと読むわけで、女王国が基点ということです。
女王国の面積が広くても、具体的にそのどこが基点か、を特定しているものでは
ありません→901。
郡よりといった場合に郡のどこを考えるべきか、女王国よりといった場合に女王国
のどこを考えるべきかは、また、別の問題なのです。
「自女王國東渡海千餘里」は、女王国の中心と考えたらおかしなことになります。
女王国の中心には海がないかも。中心から境界まで千里以上あるかも知れません。
上の場合は、女王国の海岸から千余里と考えるべきでしょう。

904 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:41:30
>>902

コマッタちゃんだねw

じゃ、もう少し別の事例で説明しよう。

 「自漢魏六朝,以迄近代」

こう書いてあれば、「自」の示す「中心」とはどこになるの?
判らないでしょう。

判らないはずです、「漢魏六朝」期自体も更に細分化して、漢魏と六朝とか、前期、中期、後期とか呼ぶことはできます。
でも、それらをひっくるめて「漢魏六朝」と呼べば、それは全期間を含めて等質な文化期と捉えられるものです。
この場合、「漢魏六朝」文化期と言う時代そのものが、長大な中国文化史の中で見た「点」として捉えられるから書けるのであって、
けっしって、漢魏六朝期のある特定の瞬間を捉えているわけじゃないのですよ。

905 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:45:04
コマッタン…………

906 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 14:05:11
>>902

> もともと狭い範囲ならともかく郡や女王国や東京を点とは認識されません。
> 「自東京以北」と書いてあれば、それは皇居付近が点なのです。

何で「皇居付近」が東京の起点になるの?
それは、キミが「東京の中心は皇居だ」と思ってるからだろうが、
文章の中には「東京」と言う情報しかないのだから、別な人は都庁が中心だと思ってるかもしれないよ。
東京以北の視点が、例えば埼玉の草加あたりにあるような文章の中で使おうとすると、
人によって距離差が1.5倍くらいになって困ったことになるかも知れないね。
でも、視点が韓国のソウルあたりにある場合は困らない、何故ならどっちだって大して違わないから。
どっちでも困らないと言う事は「等質」ということです。
とまり、それが「東京そのもを点として認識」していると言うことなんですよ。
だから、「自女王國以北」と書いてあれば、単に女王國と点でマークされた地図を思い浮かべて、
そこより北なんだなと思えば善いのですよ。

ことさらに、女王國と言う点の中にさらに「特定の点」を求めないといけないのなら、
それはキミにとってそう読まないと都合が悪いことがあるからでしょう。


907 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:41:30
>>904
「自漢魏六朝,以迄近代」の出典はなんでしょう?
漢文の古典でしょうか?


908 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:46:30
自とは元々鼻の意味で、鼻を指して自分。
自が自分を指すようになり、新たに鼻の字が出来た。
鼻は顔の真ん中にあり「自○○」は中心を指して、
「○○より」の意味です。

909 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:16:58
>>900
>あなたのように女王国の「中心」より北などと解釈する人はいない。

そのような人達は誤った解釈をしているのです。
女王国とは対馬国から傍らの国々まで全てです。
伊都国、奴国で女王国の中心地には着いているのです。

910 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 18:21:23
>>907-908

> 「自漢魏六朝,以迄近代」の出典はなんでしょう?
> 漢文の古典でしょうか?

中国文化史の原書からのコピーだが何か?
古典の用例じゃないと拙いことがあるのかい?

> 自とは元々鼻の意味で、鼻を指して自分。
> 自が自分を指すようになり、新たに鼻の字が出来た。
> 鼻は顔の真ん中にあり「自○○」は中心を指して、
> 「○○より」の意味です。

それは、「自」が「おのれ」と言う意味で使用されるようになったことの説明でしょう。
「自」が「中心」の意味で使用されていると言うことの説明では無い。

「自」のもう一つの意味、「はじまり」が物理的な「点」を示しているのか、
概念上の「点」を示しているのかと言う論点から逸脱しないように。

コマッタ君のためにもっとわかりやすい例を示そう。

「自古以來」

キミがこれを理解できないというのなら・・・後は漢字辞典のコピーでも貼るしかないかな。

911 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 18:46:23
>>909
>女王国とは対馬国から傍らの国々まで全てです。
女王国は郡から万二千余里で始まり、女王の境界の尽きる所で終わります。
対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国は、女王国には含まれません。


912 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 18:50:44
>>910

君 出過ぎ。
似非考古学か、どっかから仕入れてきた推論だろ。

913 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 18:54:34
これ以上暴くな

天皇家の崩壊させるきか




914 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 18:58:27

日本語が不自由な人?

915 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 19:09:13
古代の国境(村境)って、もっとずっといいかげんだったかも。
単純に筆者が出発した場所から、数えてたんじゃないかと。

916 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 19:18:00
>>913
崩壊どころか権威増だよ。
天皇家は「日本」「天皇」誕生以降、まがりなりにも日本の君主としての格を維持し続けてきたわけだし。
長続きもせず、あっさり後輩に歴史を抹消されちゃうようなヘタレ王朝なんかとはわけが違う。
だからぼくなんかはどんどん発掘調査してもらうことには大賛成だな。

917 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:01:26
まあ弥生末期に九州南部から北部にかけて支配した勢力の存在なんて物が
想定しうる考古学的資料なんてものがあれば

現在の畿内説と九州説の立場は軽く逆転するだろうw

まして倭国大乱がその範囲が九州のみなんて事が証明されたなら
畿内説なんかほぼ吹っ飛ぶわなww

無論そんな物があるはずも無くこの板の九州説の捨て台詞
「倭人伝を読んだら分かる」
しか出てこないんだがwww

そう言えば宮崎って弥生時代の環濠集落については
真空地帯の如き印象があるんだが…
(実際 宮崎の環濠集落 といわれても具体的に名が挙がらない人が殆どでは?)

流石に人口が極端に少ないゆえの現象とは思えず
やはり防衛機能を持った集落を必要としないぐらい
戦乱から程遠かったのかな?

うーん日向説の奴なら
「最強軍事力を有していた日向大王国は攻められる心配も無く 
 国内は平和だったから!」
・・・なんて事を平気で言いそうだwww



918 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:03:09
ttp://www.47news.jp/CN/200903/CN2009032001000569.html
卑弥呼時代の重要施設か 纒向遺跡、柵で囲み整然と配置


919 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:10:20
>>918
関西ローカルの夕方のニュース番組でもチラっと出てたよw

石野先生もコメントしてたwww

920 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:28:22
>>918
やはり機内説が正しかったということだね。

921 :縦目仮面:2009/03/20(金) 21:34:55
昭和53年の調査で見つかった建物の脇殿と考えていたが、一辺6m以上とは・・・。

922 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:38:56
ドン

923 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:42:38
纏向遺跡から大規模な建物の後を発見。

しかし、卑弥呼とは何の関係もないです。邪馬台国は九州ですから。
卑弥呼と同じ時代に、大和にも高度が文化があっただけの話です。

NHKが報道するほどのニュースか?と思います。

924 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:46:11
NHKの夜の10時からの番組かな。
出雲大社からいわゆる書が出てきて、卑弥呼のこともトヨのことも書いてあって、
それをもとに発掘しているって。あそこが宝の山らしいよ。
ともかく出雲には文字はあったという話だから。
トヨと出雲の王が結婚し、合併したらしい。


925 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:54:07
>>920
うん、やっぱ事件は飛行機の中で起こったんだとオモ

926 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:57:05
邪馬台国とは全く方向が違う他所の国の纏向にどんな建物があったなんてことは、
全く興味がないです。よその国の話のことですから。

927 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:03:40
>>910
「自古以來 其使詣中國」ですね、
この「自」は使が中国を詣でる時、つまり点です。

928 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:20:52
卑弥呼の宮殿ドンと来た来た来たー。



929 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:21:58
NHKがどーんと放送したんだから、全国の一般人はこれで邪馬台国論争はかなり決着がついた
との印象が残っただろうな。


930 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:33:25
>>923
ついでに言うと全国にも同じような時代にそこそこの
集落はありますよ、って話だよね
バカバカしすぎる
NHKには本当にいい加減にしろ

931 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:40:05
しょうがないだろ。出雲大社からたくさん文献が出てきたんだから。
後、飛鳥の方の神社の歴史とかの文献とか、いっぱい出てきたんだよ。
文句言うなら、出雲大社の文献見てから。
文字は当時もあったんだよ。


932 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:42:31
そういうdでもの話じゃないの

933 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:50:05
纏向を発掘調査するだけで新聞記事になるような状況だから、こういうのは
予測されたこと。
畿内説は、支持集めの宣伝に専念している観があるなあ。

相変わらず、記事の中の「邪馬台国の最有力地である纏向遺跡」と
「卑弥呼の墓との説がある箸墓」はお約束。
素人向けの宣伝記事というところか。

934 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:51:56
>>929
全国の一般考古学者はとっくに邪馬台国論争には決着付けてるわけだが・・・

935 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:53:24
>>933
>素人向けの宣伝記事というところか。

その素人向けの宣伝記事も書けない九州説って・・・

936 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 23:03:35
日本書紀は西暦においても、1800年はさかのぼれると

937 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 23:04:44
だから、NHKの歴史は動いたという番組でやったんだから。
出雲大社の研究をしてる大学が文献を見つけた。
そこには卑弥呼やトヨの話があって、墓や集落の場所も特定できて、
それを元に発掘してるという話だった。
出雲側の文章なので、今は確定できないという状態だと思う。
でも文字はあった。まだあちこちから文献がでてくると思う。


938 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:12:16
生きてる間に邪馬台国の決着がつくとは思わなかった。

939 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:17:57
九州説もこれでおしまいか。

940 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:24:33
まあ、ある意味これまで九州説のやって来た事が長い時間を経て
ブーメランのように飛んできたって感じなのかな?

そもそも「宮室・楼観・城柵」が吉野ヶ里の特有の物だなんてはずも無いのに
それらがまるで邪馬台国の十分条件かの如く喧伝しちゃった物だから
柵の跡が出ただけで大騒ぎとw

まあ煽ったのは学者じゃなくてマスコミなんだろうが・・・

元々九州説は大衆人気イメージ先行ってところがあったから
その部分が消え去って”真水”の部分だけにするにはいいのかもwww

941 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:50:01
>>936 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 23:03:35
>日本書紀は西暦においても、1800年はさかのぼれると

卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命なら
1800年どころじゃないだろう?
日本の皇室系図をみれば分かるが、叔父と姪の結婚とかあるから
この記述を信じれば、このことって、大まかな代数の年代が導きやすい。
神武天皇の生まれは、紀元1世紀前半
天忍穂耳命(神武天皇の4代前)が紀元前1世紀の人ということになる。

942 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:53:07
>>941
安本理論ですか?

943 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:04:38
>>935
>その素人向けの宣伝記事も書けない九州説って・・・

そういえばその昔

 「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」

なんてキャッチコピーがありました。。

944 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:08:14
>>842
安本理論ではありませんw
あれは、天皇の在位期間という政治的な期間を
無理やり一定のものと計算しているからw
しかも、安本理論だと、欠史八代の天皇を
直系ではなく、兄弟継承もあったのでは?
と無理やり系図を書き換えようとしているから。

自分の場合は、極力、記紀に書かれたままで解釈しようとしています。

945 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:23:21
>>943
それは単なるキャッチコピー
邪馬台国が出たと言って騒いだから遺跡が保存されたのだから方便

946 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:45:19
いわゆる安本氏の年代論と言われるものは、本人も言っているように、他の人
からの借り物。
でも、けっこう説得力があると思う。

記録の確かな古代の天皇の平均的な在位期間を出してみると、10年程度に
なる。これは仮の数字で、安本氏の言う理論からすると、正確な数字では
ないが。

これを第31代・用明天皇(西暦585年即位)から遡る。
すると、神武天皇は285年から。日向三代が255年〜285年。
天照大神は西暦235年即位となって、だいたい重なると言うもの。

この考え方で、ぴったり年代がわかるわけでもないし、記紀にある天皇や
その前の人物の実在性に疑問がないわけでもないが、少なくとも、
可能性としては十分にあると言えるのではなかろうか。

言わんとするところは、天照大神と卑弥呼の時代は、重なる可能性が十分に
あると言うことだろう。

安本氏のもっとも安本色の現れている部分は、地名の比定による甘木説で
ある。他の部分には、だいたい先駆者がいる。
僕は、甘木説を採らないので、安本説とは異なるが、年代論には賛成で、
天照大神と卑弥呼は重なると思う。

947 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 02:08:18
安本って事でついでに言っておくと
まあ御多分に漏れず安本も銅鐸の終焉を東遷説の根拠の一つに採用しているみたいなんだが・・・

 >http://yamatai.cside.com/tousennsetu/doutaku.htm
 >これらのことについての、安本美典教授の解釈は、
 >銅鐸祭祀を、早急に廃止し、銅鐸をいっしょに埋めなければならないような事情が生じた。
 >そのような事情とは、外部勢力による征服であろうと考える。

安本の邪馬台国東遷説は4世紀初頭頃に起こった話なんだから
偉く間が開かないか?wwww

実際畿内で多く埋葬されたのは扁平式まででその年代は弥生中期後半で紀元前後あたり?

 参考)Wiki「銅鐸」
 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8
 >埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している

・・・そうすると畿内で盛んに銅鐸が埋葬されたままになった時期と東遷が行われた時期は

その間、なんと 約 3 0 0 年 !と言うことにならざるを得ないと思うのだが?イミワカリマセンwwwwww
(銅鐸の埋納時期もずらす?)

東遷説論者、特に安本教信者はこれについて俺が何か間違っているのなら指摘して欲しいwwwwwwwwwww


948 :947:2009/03/21(土) 02:33:27
>>947訂正

安本の東遷説だと神武東征は3世紀末頃だった・・・訂正する。

それでも 200年以上 離れているw

辻褄合わせようとするなら、既に東海や近江に分布の比重が移っている突線紐式の終焉に
重ねるしかないだろうが、それでも邪馬台国の時代より前には終わっている話でwww

949 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 02:43:11
鉄が多いから、そこが強くて首都があるって考え方は
非常に幼稚な考え方だろうw
なぜなら、北九州と同じぐらい鉄が地域は
福井県だったりするw
まさか、福井県に邪馬台国時代の首都があるなんて
思わないだろうw?

950 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 03:01:04
>>947
東遷説というのは、邪馬台国は九州にあり、それが大和に移ったという説
だから、その時期は、卑弥呼時代の後ということになる。
実年代で言えば、早くても3世紀後半。

奈良県にそれらしき遺跡が現れるのは、4世紀になってからというのが以前の
定説で、年代的にもぴったり合った。

文化的にも、九州→畿内が認められ、銅鐸も同じ時期に消滅し、年代的にも
ぴったりと来ると、東遷説を認めざるを得なくなる。
おりしも、三角縁神獣鏡魏鏡説は破綻。吉野ヶ里遺跡で倭人伝の記述通りの
「宮室・論間・城柵」の三点セットが出てくる。

畿内説としては切羽詰った状況にあった。
そこで、池上・曽根遺跡の木材が年輪年代で測定されたのをきっかけとして、
庄内期が100年遡った。これが1995年頃。わずか13年ほど前のことになる。

纏向が100年遡ると、東遷説はなくなるわけだが、東遷説を支持するものと
して、納得しかねるのは当然かな。
土器で実年代を決めるのは、誰もが認めるとおり非常に困難なことなので。

951 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 03:57:50
>>948
銅鐸の埋納時期が紀元前後と2世紀頃に集中しているという話は、大した理由が
あるわけではない。銅鐸の形式を分類し、その変異にある程度の年数がかかる
はずだとみて、適当に年代を与えているにすぎない。
安本らは、銅鐸の終焉は3世紀後半とみているようだ。

952 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 05:39:06

>>950

>奈良県にそれらしき遺跡が現れるのは、4世紀になってからというのが以前の
>定説で、年代的にもぴったり合った。


「それらしき遺跡」とは、具体的にどこか。奈良県内の何と言う遺跡名か。

「以前の定説」とは、具体的に誰々の説か。


レスの文脈を忖度すれば、「それらしき遺跡」とは、九州の邪馬台国勢力が東遷して
奈良県内に打ち立てた遺跡、若しくは、そのこと(邪馬台国の東遷)が考古学的に
推察でき得る遺跡、という意味に取れるが、小生は、奈良県内にそのような遺跡が
あるなどという話を寡聞にして知らない。きちんと遺跡名を示していただきたい。


953 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 06:27:53
>>950
そもそも「宮室・楼観・城柵」の三点セットが出てきて畿内説が切羽詰った状態になったってなんだよ?
確かにマスコミによって喧伝された材料ではあったものの、吉野ヶ里特有の物でもあるまいし・・・
勝手に脳内ストーリー作るなw

あと>>952と同感。
言っていることがわけが分からん。

「以前の定説」ってもしかして小林理論のアレか?
まさかとは思うが小林理論を否定してその年代観だけはチャッカリ頂いている・・・なんて無様なことはしてないよな?w

ちなみに「須恵器の登場時期から逆算して云々・・・」のお話は定説なんていえるレベルの物じゃないよな?










954 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 06:37:33
>>951
その実年代は別にしても
銅鐸の埋納時期が2回に集中すると言うのは理に適う。

途中から大型化(所謂”見る銅鐸”)に拍車のかかる突線紐式と
それ以前の扁平紐式とではコンセプトが違う感じだし、製作地も異なるのでは?

加えて出雲みたいに畿内のそれより先に終了しちゃっていると思われる地域もある。

どの道、銅鐸祭祀が一斉に終焉を迎えたという想定自体無理だと思うwww






955 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 06:37:54
それらしき遺跡って古墳のことじゃないのかな。弥生葬制と連続するとは
思えないから、東遷の証しとも見ることができる。

956 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 06:44:12
>>954
>銅鐸祭祀が一斉に終焉を迎えたという想定自体無理だと思うwww
銅鐸の終焉に特別の意味を考えるのは、よっぽど嫌みたいだな。
しかし、これほど明確にいっせいに終焉を迎えている事実を無視はできんよ。
祭りなんてものは、禁止でもしない限り、いつまでも続くものだ。

957 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 06:46:52
>>955
それやったらまんま「小林説」やんけ!w

そもそも九州に古墳に繋がる大型首長墓造営の文化なんて無いのだから東遷説の根拠にもならない。

副葬品の銅鏡だけ取り上げられても、そもそも大陸半島の文物が西から東に伝播すると言うのは
古代において殆ど自然現象wなんだから文化の伝播で終わる話。

958 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 06:50:04
これ以上暴くな

天皇家を崩壊させるきか




959 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 06:50:20
>>956
はあ?そもそも一斉に終えていないだろw


960 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 06:54:22
年輪年代に対し疑問を呈する学者もいるのは事実。

しかし、かと言ってそれらの学者が
「古墳時代は4世紀から」なんて年代観を取っているわけでもないんだなwww







961 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 06:59:41
物的証拠が少なすぎる。科学的に年代も裏付けできるのに。

962 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 07:02:45
>>957
畿内説論者としては、文化の伝播で終わらせたいだろうが、そうはいかんのだよ。
銅鐸がいっせいに終わっていることも不自然、弥生葬制度と古墳との間に連続性
が認められないことも不自然、このようなことが重なったら、単に文化の伝播の
はずはない。文化の伝播のときは、日向の葬制のように、南九州特有の墳墓と古
墳とが併存するといった状況がみられるはずなんだ。

>>959
では、いつごろからいつごろの間におわったの? その証拠は?

963 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 07:10:05
天皇家なんて無視の歴史。
和をもって貴っとしとなす。・・・・その後内乱の歴史じゃん。
江戸時代の将軍の名前すべて言える人いても、天皇の名すべていえる人少ない。
大政奉還であせって、国民教育。錦の御旗で天皇利用してるだけ、だから無理やり邪馬台国と
朝廷結びつけた歴史の即席をまた正しいと誤解する考古学者。
キキだって、一部の者しか伝承されてない・改ざんの連続と見るのが普通じゃないか。
ところで、科学的に転写されたキキで一番古いものは何時代の物かわかる人
教えてもらいたい。

964 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 07:12:27
>>956
>銅鐸の終焉に特別の意味を考えるのは、よっぽど嫌みたいだな。
環濠集落の解体に見られる社会構造の変化 と言う意味づけができるが何か?
東遷説なんてゲテモノのお世話になる必要はまったく無いわけで。

>>962
この場合、実年代の設定は動いて構わんが出土する型式の組み合わせで
バラつきがあると言うことが一斉には終わっていないと言うに十分な根拠。

じゃあ荒神谷の菱環紐と外縁付紐の組み合わせをも3世紀後半と見るのか?w

東遷厨に聞きたいんだが銅鐸の最古の形式と最新の形式でどれぐらいの年代幅を見込んでいるんだ?w






965 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 07:16:54
>>962
いつもの日向説論者だな。

聞きたいんだが宮崎の弥生時代の環濠集落って殆ど聴いたことが無いんだが…

アレは何か特殊な事情があるのか?



966 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 07:21:06
>この場合、実年代の設定は動いて構わんが出土する型式の組み合わせで
>バラつきがあると言うことが一斉には終わっていないと言うに十分な根拠。
単に工人によるデザインの違いだったら? 形式に違いがあるからといって
年代に違いがあるとは断定できんよ。

967 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 07:35:51
>>966

じゃあ全ての銅鐸は同じ年代とでも言うつもりか?w

先に挙げた荒神谷のものは弥生中期までのものとされているが
これも末期にそろえるつもりか?

正気かお前?wwww


・・・つうかこの話

「銅鐸祭祀と銅鏡が入れ替わるように変わったのが東遷説の証に使える!」
と後先考えずに飛びついたんじゃねえのか?w

実のところホントに銅鐸が一斉に終わったかどうかなんて
調べてなかったんじゃねえのか?(ゲラ




968 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 07:47:47
>>967
>じゃあ全ての銅鐸は同じ年代とでも言うつもりか?w
そうは言わんが、形式別にバランス良く割り振って、などというのは眉唾だね。
扁平紐式が終わってから同じ地域には突線紐式は入ってこなかったのか?
時代が違うんならば、同じ地域で両方でないとおかしいな。


969 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 07:55:15
>>965
九州山地に囲まれている上、邪馬台国を中心として強大な勢力圏。
攻められる要素が少なかったからではないかな。
逆に言えば、環濠があるところは、やられたところなんだよ。北も畿内も。

970 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 08:14:48
そもそも「銅鐸の衰退=東遷説の証」と言うアイデアを和辻哲郎がぶち上げたのが大正時代だろ?

流石に現在の考古学の検証には耐えうる物じゃないんじゃないのかねえ・・・

少なくとも山陰の荒神谷や加茂岩倉の事は考慮されているはずも無く
>>967で言ったようなおかしな話になるのも当然かとwww


>>969
ああやはり予想(>>917)通りの答えだったなw

しかしだな、お前さんの言う 「日向邪馬台国 」って一体いつの時代からあるんだよ?

弥生時代の初期からか?www







971 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 08:32:20
>>967で言ったようなおかしな話になるのも当然かとwww
何を言ったつもりかな? 意味不明だが。

>「日向邪馬台国 」って一体いつの時代からあるんだよ?
邪馬台国については分からんね。女王国は男王の時代が7、80年続いたと
倭人伝にあるよ。分かってないのかな?



972 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 08:47:00
だいたい、邪馬台国畿内説の根拠って何だろうね。
纏向は邪馬台国だ、箸墓は卑弥呼の墓だって言うけど、証拠があるわけでは
ないし。
倭人伝の記述を見ても、邪馬台国が畿内とは思えないし。

973 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 08:58:56
>>972
畿内には我が国で一番大きな古墳がある。畿内を中心に古墳や鏡が広がっている。
畿内に我が国で一番大きな政治権力があったこと、それが大和朝廷につながること
は明らかだ。その政治権力こそ邪馬台国以外には考えられない。
倭人伝の記述などはすべて間違いであろう、信用できない。
まあ、畿内説の論調はこんなもの。学問的思考はないよ。畿内ファンとでも言うべきかな。


974 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:00:00
証拠は出雲大社の中の文献。当時の事が書かれている文献がでてきたbyNHK。
鉄の精製に成功した出雲の王が、港を持ってる倭の女王トヨと結婚したこと。
母(義理?)の卑弥呼の墓の位置から建物の位置まで正確に記述されており、それを元に発掘してるらしい。
ともかく当時の日本にも文字があったというのは確定。
だから都会だった九州に文字が無かったことは無いので、
それを探せた人が考古学で名前を残せられる状態。

975 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:04:23

トヨタン・・・・・・・・・・


976 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:04:42
いつ、誰によって書かれた文書? 何て書かれてたの?

977 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:15:17
一般公開はまだされてないけど、島根大学(国立)の研究チームが論文を出しているから、
そこで見られるんじゃないかな。
ただ、この通りに建造物跡が出てくるので、かなり信憑性は高いらしい。
伊勢神宮にもありそうだな、古文書。


978 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:17:35
NHKの報道じゃあてにならんよ。

979 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:24:13
でも文章の存在は前から言われていたよ。
出雲大社の話も民間レベルでもうわさになっていた。


980 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:29:31
まあ東遷厨の妄想しているシナリオだと

神武が大和入りしてそこで銅鐸祭祀を廃止にする。
その後、課勢力を各地に伸ばし各地の銅鐸祭祀を廃止する。

・・・とまあこんな所だろうが(元々の和辻哲郎のアイデアがそんなもんだったのかな?)

しかし山陰のように畿内より先に終わりを迎えている地域があると
そのシナリオも成り立たないw

まあ、そうなると

 「いや、山陰の銅鐸祭祀を終わらせたのは神武より先に東征した九州邪馬台国の・・・」

と香ばしい脳内ストーリーを聞かされる羽目になるんだろうがwwwwwww

981 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:32:25
そんなくだらない筋書きしか思い浮かばないのか? 気の毒に。

982 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:34:34
>>981

じゃあすばらしい筋書きを聞かせてもらえるのかな?口先君wwww



983 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:43:31
>>982
まだ、私のストーリーを理解できるレベルに達しているとは思えんな。
それより、>>962 >>968の答はなしかな?

984 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:51:43
>>973
二行目まではその通りだと思う
でも邪馬台国以外考えられないってのは思い込みだよね

985 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 09:54:12
神武の東遷については
北条早雲が西から東に流れてきたようなもの
かもしれないとは思う
でもわざわざ日向出身であるとするからには本当だろう
先祖代々畿内出身ですって言ってた方がいいのに捏造する意味がない

986 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:04:28
これからは、出雲文書に秀真伝、宮下文書に竹内文書・・・
大和朝廷以前に日本の古代国家がNHKの手で次々と
明かされそうな予感がしてきました。w

987 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:11:18
>>984
しかし、墓が大きいからってねえ。墓ぐらい、人手さえあれば、大きな物を
造ることは簡単だよ。最大の政治権力かどうかは何とも言えないだろう。

988 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:14:41
>>985
というか、神武天皇って
自分たちは日向出身だけど
それ以前は天津出身で、それは河内(大阪)よりも東にあるって
告白しているよw 記紀では。
つまり、高天原とは葛城のこと。
延喜式でも、そういう前提で記載されている。

989 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:22:19
南北朝時代にごく短期間北九州を制圧してただけの
懐良親王が明朝から日本国王に認定されてたりした事例から考えると
北九州のみを制圧してた邪馬台国が倭王と認定されることは何の不思議もない

そもそも畿内説ならば東海地方から北九州までを統一してる大勢力であり
そのような大勢力がなぜ魏に狗奴国との戦を訴え、詔書や軍旗をもらったりしてるのか?
最盛期の信長が明朝に応援を頼んだりするか?

990 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:32:15
>>983
銅鐸の埋納時期についてはここまで各期式と弥生時代のいつごろか程度の話はしている
まあググって出てくる通説程度の話だ。
それで理解してもらって構わない。

最古の物は弥生中期前半、あるいは前期の可能性もある?

ある程度幅を持たせて話もしてきている。

流石に各形式の銅鐸と共伴した出土物のデータは今手元に持っていないから
「 通説に従った 」と言うことで良い。

もっとも
「その共伴した出土物の年代はどうやって分かったのか」
と食い下がられたら堂々巡りで
もう駄々こねている餓鬼の屁理屈に付き合うようなもんで勘弁してくれって話だがw

当然お前が出してくる考古学資料も絶対年代の根拠を出さない限り意味が無いわけで
そんな理屈は諸刃の剣、ヤケのヤンパチ自爆テロだぞwww

扁平紐式と突線紐式の組み合わせはあるが何か?
全体の傾向のお話。

で、お前のその通説に組しないオリジナルな年代観だと銅鐸の最古と最新の年代幅はどれくらいで
いつに始まりいつに終わるのかな?






991 :990訂正:2009/03/21(土) 10:33:49
×各期式
○各形式

992 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:38:19
>>983
それと・・・

お前の妄想を理解できるレベルってのがどんなものか知らんが

一体どんなトンデモを用意しているのかな?

荒神谷のも弥生末期とか?日向王朝は計画的に長きに渡って東征していましたとかか?wwwwwwww

993 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:58:33
別にオリジナルな年代観をもっているわけではない。しかし、言われているような
年代観を簡単には信じない。近畿で銅鐸の埋納から画文帯まで200年も銅器不在
の時代があったとは思えんのでね。いろいろな可能性を考えるんだよ。

994 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:01:15
>>989
狗奴国との戦闘がどの程度のものか分かっていないし
そもそも、卑弥呼が狗奴国との戦闘に関して
中国を頼りにしているのかってのも曖昧だ。
なんとなく、倭国内で大きな戦争がありそうなので
せっかく、倭国と関係を構築した魏国が、
あわてて、なだめようとしているとも感じられる。

もし、記紀を信じて、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命と捉えるのなら
狗奴国の王は、武埴安彦命だよな。
つまり、皇室一族内での主導権争いみたいなもん。

995 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:01:55
九州にはここが邪馬台国だと言えるような場所は何処にもない。
九州説は九州の中のどっかに在るだろうという乱暴なとんでも説。

996 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:05:34
結局紀元前5000年も前から貿易してたからな。
1世紀にはかなりの中国人が入ってきてるはず。そのうち文字を使えるのもたくさんいたと思う。
ここの住民ですら、考古学で名を上げることは可能だよ。
大和朝廷以前から続いている豪族の館跡で神社になってる所。
門外不出が現在まで守られている所。
ご神体が書物な所が候補かな。
とりあえず九州あたりは中国人がたくさんいた可能性が高い。
そうなると日本人でも使える人がいる方が妥当。
日記ですら相当価値あるから、探してみるといいよ。

997 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:16:01
一般論として古代日本は中華文明圏の周縁になって冊封体制が
当たり前だったから文化的には西高東低なのが当たり前ではな
いか?

998 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:25:13
>>995
それを言ったら纏向遺跡を邪馬台国だという方もかなり乱暴ですねぇ

999 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:26:39
文明は西から開けて来る。細かな史実との関係はともかく、
神話に「東征」と言うことが出て来るのはそういう地勢学的
背景があるという点に異論は出ないのではないか?

1000 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:28:25
1000なら邪馬台国は畿内マキムク

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