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謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!28

1 :神奈川県民:2009/04/11(土) 13:33:46
三國志卷三十 魏書三十 東夷傳 倭人伝
其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼
事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國
自為王以來少有見者 以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入
居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

魏志倭人伝に記されてる「卑弥呼」なる女王の正体とは?
又、天皇家との関り合いは? 古代最大のミステリーに挑む!


2 :神奈川県民:2009/04/11(土) 13:39:12
前スレが終わり次第書き込んでください

前スレ
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!27
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1236962486/

3 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 14:04:39

 く
  ら 

 ん
  で
   も

 す
  ぎ
   だ

 馬
  
   鹿



4 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 14:14:48
4げと

5 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 15:50:22
次スレ建てるか

6 :日本@名無史さん:2009/04/15(水) 14:54:21
落ち防止あげ

7 :日本@名無史さん:2009/04/16(木) 11:51:12

イヨタンは? イヨタンは? イヨタンは?





イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・


8 :日本@名無史さん:2009/04/16(木) 11:52:07
>896 名前: 改め 投稿日: 2009/04/15(水) 17:45:05
>漢書、後漢書、では女王国までの「道里」、「方向」は書いておらず、
>今回、この魏志倭人伝に初めて記されてる。

後漢書を魏志に先行する史料だと思い込んだ馬鹿の書き込みとして
永久保存版だなw


9 :日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:34:27
>>998
>うーん惜しい感じがするな。非常によい議論だと思って読んでたが。
>世王有るも皆女王國に統属す。
>の部分は、倭人伝の中でもかなり事実解明の可能性のある部分だと思う。
>特に、伊都国が何年程度邪馬台国に統属されていたのかは重要。平原遺跡が伊都国
>王墓(1号墓)として、このスレの人は、この女性説の強い被葬者と邪馬台国の関係をどう
>考えてるか興味深いな。

当たり前のことだが、金印と卑弥呼の鏡がそこからしっつどされてないよね?
つーことで違うんじゃない?

10 :縦目仮面:2009/04/16(木) 22:39:49
>>9
いや、卑弥呼とはやはり時代は合わないと考えてる。そうではなくて、この被葬者は邪馬台国
に統属していたかどうかということだよ。


11 :日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:44:06
>>7
イヨタンは今から1700年も前に亡くなったよ。
きっと立派な女王様だったと思うね。

夜空の星を見上げてごらん。
きっとどこかにイヨタンの星があって、じっときみのことを見守ってくれているはずだよ。

このスレには卑弥呼女王だけでなく、イヨタンのことも存分に話題にしていいと思うよ。
きみもイヨタンについて何か考えていることがあったら、遠慮なく書き込んくれていいよ。

12 :縦目仮面:2009/04/16(木) 22:48:01
イヨタンね・・・w。 13歳で共立か・・・数え年かもしれんし、2倍年暦なら6歳程度www.


13 :日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:49:32
>>966
>「皆」とは官、副官達

「世」を三十として扱うのですか?
各国々の官、副官が集まっているのではありません。

>>970
>解釈は基本的にはローガン氏に同意。
>が、皆は伊都國の構成員でありながら、女王國に所属している。
>この「皆」とは「世有王」だと思います。

官が集まってるとか言わないで。



14 :日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:50:56

イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・・・・


15 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/16(木) 23:04:09
>>974 九州王朝さん
>郡と奴國間の距離は12000餘里。
>郡と不彌國の距離は12000餘里。
>邪馬壹國に女王がいるから、邪馬壹國は女王國に含まれる。
>郡と女王國の距離も12000餘里。
>以上の必要十分条件を満足する解は、
>「奴國・不彌國・邪馬壹國は、女王國を構成する国々である」となる。
>(投馬國も女王國の構成国ではあるが、その説明については省略)

「奴國」、「不彌國」、「投馬國」が女王国だって?!
倭人伝のどの部分にそんなこと書いてあるんですか?
構成されてるのは倭国でしょ(腹痛いw)

16 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/16(木) 23:11:12
>>981 ローガンさん

「世有王」

>まあ私は官副官達だと思うのですが…、使者は彼らの名前の知っているにもかかわらず、王の名は知らない。
>つまり、官副官とは広域女王國側の人間。彼らの手配のより、王の名前すら知らない国を通過、もしくは滞在したのでしょう。

「世」は三十という意味ではなく三十年という意味なんです。
ローガンさんも九州王朝さんも、河童さんと同じ間違えをしている。

お二人とも、もう1度、調べ直したらどうですか?

17 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/16(木) 23:15:42
伊都國=女王国だぁぁぁーー?

<倭人伝>
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之
常治伊都國 於國中有如刺史

伊都國は女王国の北に在るのに、どうして伊都國が女王国なんでしょうか?


18 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/16(木) 23:30:43
>>975
>邪馬壹國は北部九州30国の連合国と前に書いたが正確には26国
>奴国2万戸その他の邪馬台国構成国25国、
>他の邪馬台国構成国平均2000戸で七万戸。

倭は三十国ですが(笑)

「戸」というのは、
1 と。とびら。また、家屋の出入り口。とぐち。
2 家。一家。「―を構える」
3 律令制で、行政上、社会組織の単位とされた家。普通は2、3の小家族を含む20〜30人の大家族が多い。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E6%88%B8&enc=UTF-8&stype=0&dtype=0

上記、以外にも「人」という意味もあるんです。
倭人伝の「戸」に関しては家ではなく「人」として考えるべきなんです。

したがって、七万戸というのは、「七万人」としてみるのが正しい。

19 :ローガン:2009/04/16(木) 23:43:18
>>16

> 「世」は三十という意味ではなく三十年という意味なんです。
ああ、そうなんですか。それはしりませんでした。

> ローガンさんも九州王朝さんも、河童さんと同じ間違えをしている。

卅なんて言った覚えがないが。誰か他の人とと間違えてませんか?どうでもいいが…

20 : ◆.L.MXSPOgc :2009/04/16(木) 23:44:24
前スレ >>854 縦目仮面さん

私説をお読みいただき、ありがとうございました。
四方位・八方位は、私説の副次的なものですので、そこを間違えなきようにお願いします♪
が、倭人条が全て八方位で書かれているとすると出てくる難点を上手く説明できるのではないかと思っています。
ところで、片や情報の混乱で東と南を書き間違えたとする説、片や四方位の精度で正しい記述がされているとする説、
どちらがより信頼できる説だと思われますか?

私説の全般に言えることなのですが、今のところ私は自分の説より、全般的にも一部分でも上手く説明している説を知りません。
もし私説より上手い説明だと思えるものがあれば、私説は修正できますし、その結果矛盾がでればこの説は間違いだろうと
私は結論づけるのですが。


徇葬については、私はあまりよく知りません。日本の古墳で徇葬の跡は1つも見つかっていない、といわれているようですが、
その徇葬の跡というのがどのようなものなのかも知らないです。
もし本当は徇葬だったのに徇葬ではないと判定されているのではないか?と疑問を持っても、いまのところお手上げですw
記紀は、埴輪の起源が岡山あたりだと分かっているので、その話がどういう意図で入れられてたのか?というアプローチの
ほうが良い様に思います。


21 : ◆.L.MXSPOgc :2009/04/16(木) 23:51:07
>>18
私は全くの素人なのだけど、
本来、中国では労働力となる成人男子の人数が、家=1人、戸=3人程度、だとされていて
それが倭人に伝わったとき「成人男子の」という部分が落ち、老若男女合わせて、家=1人、戸=3人程度
という数え方になったのではないだろうか・・

という妄想をしたことがあるのだけど、やっぱりダメだろうなw

22 :縦目仮面:2009/04/17(金) 00:03:48
>伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女
王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。

これらの記述からは、歴史は古いもののクニとしては衰退し、むしろ倭国の玄関口、あるいは
租借地的な雰囲気もあるか。一大率の権力は、一面 魏の力によって支えられているという
推測もできそう。

一方、平原遺跡(一号墓)は、その多量の副葬品↓(変な音楽に注意)
http://inoues.net/ruins/itokoku.html
から、伊都国王墓と考えられているが、年代としては、
発掘者 原田大六氏ー2世紀前半ころ(100〜150)  福岡県教育庁 柳田康雄氏ー3世紀前半以降(200〜)
岡村秀典氏ー方格規矩四神鏡の年代観から一世紀後半(50〜)
その他、大型ボウ製鏡から古墳時代前期後半・・・まで諸説ある(なんだこれは)状況。

俺的にはこの被葬者の死後いくばくもなく、伊都国は邪馬台国に取り込まれたと考えてる。


23 :縦目仮面:2009/04/17(金) 00:31:40
続き
前レスは、いかに考古学が実年代を決定する力がないかの見本のようなもの。あるいは
それぞれの学者に独自の都合があるというか・・・。まともな遺物も見られない2号墓を考え
れば、なんか事態が変わったんだとは思われる。
 
>>20
張政と梯儁の報告書が別形式で書かれているということでしたよね。ありえると思いますが、
ただ、どちらも武官と考えられ、この2人が報告を書いたものでしょうか?前スレの弟橘姫
のこともあり、裏読みしながら記紀にはあたってます。

24 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 02:22:13
>張政と梯儁の報告書が別形式で書かれているということでしたよね
何より一つの行程記事を二つに分けて本来の文章の意味を失わせるというところに
無理があるな。

25 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:01:55
>>17
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之
常治伊都國」・・・自女王國より以北を・・・伊都國で常に治める

>伊都國は女王國の北に在るのに
伊都國が女王国の北に在るとは書いてない。

>>18
>倭は三十国ですが(笑)
倭は三十国ですが邪馬壹國は26カ国、倭でも狗奴国のように邪馬壹國に属さない国もある。
邪馬壹國26国
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国

26 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:08:21
伊都国は邪馬壹國(女王国)の王都であり
自女王國以北の国々(対馬国、一大国、末盧国、伊都国)は
重要な交易路なので特別に一大率を置いて都の伊都国で常に治めていたのだ。

27 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:13:41
それ間違い。一大率は朝廷の出先機関。
後の太宰府

28 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:20:11
>>27は間違い。
3世紀の日本に朝廷は存在しません。
また有ったとしても文字を持たない畿内が遠い九州を支配するシステムはつくれません。

29 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 13:35:41
△には景初の文字があるね。大陸で出ないから日本製だな。畿内でも
文字は知れてたな。

30 :九州王朝大好き:2009/04/17(金) 13:38:59
>>15 改め ◆PWTcGEfp1sさん
> 「奴國」、「不彌國」、「投馬國」が女王国だって?!
>倭人伝のどの部分にそんなこと書いてあるんですか?
>構成されてるのは倭国でしょ(腹痛いw)

何故理解できないのか理解できません。

@
『邪馬壹國 女王之所都』ですから、邪馬壹國は女王國内の国であることがわかります。

A
郡から奴國迄の積算道程距離は12000餘里です。
郡から不彌國迄の積算道程距離も12000餘里です。
一方『自郡至女王國萬二千餘里』とあります。
よって奴國と不彌國も女王國内の国であることがわかります。

B
投馬國も女王國内の国であることの論証は説明が長くなるのでここでは省略。

奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国以外に女王國に含まれる国々があるのかどうかは文面からは読み取れません。

『自女王國以北 其戸數道里可得略載』とあるので、
狗邪韓國・對馬國・一大國・末盧國・伊都國の5ヶ国は女王國以外の国々であると判断できます。
特に伊都國については『世有王 皆統屬女王國』とある様に、
伊都國は、その代々の王の間は、女王國に統屬されて(被支配)いたので、女王國に含まれる国ではありません。
(上記解釈は議論になるところですが。)

倭には『狗奴國 不屬女王』や『女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種』があるので、
倭には女王國以外の国々があることがわかりますから、
卑彌呼は倭の女王ではありません。

31 :九州王朝大好き:2009/04/17(金) 13:47:47
>>16 改め ◆PWTcGEfp1sさん
>「世」は三十という意味ではなく三十年という意味なんです。
>ローガンさんも九州王朝さんも、河童さんと同じ間違えをしている。

>>30にも書いた様に、『世有王』は、卑彌呼共立以降の伊都國の代々の王と理解しています。

32 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:56:03
『世有王』は、伊都国だけの話ではないよ。「世」は世襲。それまでに出てきた4カ国には
世襲の王がいるという意味。皆統属女王国は、4カ国が皆女王国に属しているということね。

33 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:58:34
>>29
>畿内でも文字は知れてたな。

畿内で文字が使われていたかが問題。

>>30問題外。

>>31

魏書に『世有王』とあるのだから、世とは魏代、卑彌呼等の時代の伊都國の代々の王ですよ。






34 :ローガン:2009/04/17(金) 14:09:22
>>26

>特別に一大率を置いて都の伊都国で常に治めていたのだ。

なら刺史の喩えはおかしいですね。尹ならわかりますが。

35 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 14:11:15
>>30
@Aはまあいいが、Bがダメ
『自女王國以北 其戸數道里可得略載』の意味は
自女王國(女王國の中心)以北は、その戸数道里を略載得たが
女王國の中心より北にある對馬國・一大國・末盧國・伊都國も女王國の内である。
『世有王』と『皆統屬女王國』は前に説明したように別文。
伊都國に代々王がいた(卑弥呼など)、倭の諸国は皆女王国に統属する

>卑彌呼は倭の女王ではありません。

卑彌呼は魏から親魏倭王に任ぜられたのですから、唯一の正統な倭の女王です。





36 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 14:37:01
Aもだめだよ。非常識な計算だ。

37 :九州王朝大好き:2009/04/17(金) 14:46:59
>>35

卑彌呼は倭の女王ではありません。
正確には上記ではないな。
卑彌呼は倭の一部地域の女王です。


>>33
>魏書に『世有王』とあるのだから、世とは魏代、卑彌呼等の時代の伊都國の代々の王ですよ。

正確には其の通りですね。

38 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 14:47:52
>卑彌呼は魏から親魏倭王に任ぜられたのですから、唯一の正統な倭の女王です。

は?
バレンタインにチョコをもらったので、俺の彼女です〜。ぐらいの勘違い。

39 :九州王朝大好き:2009/04/17(金) 15:07:05
>>35
>『世有王』と『皆統屬女王國』は前に説明したように別文。

伊都國
  官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 @
  有千餘戸 A
  世有王 B
  皆統屬女王國 C([伊都國は]世有王の時に女王國に統屬されていた) 
  郡使往來常所駐 D

主語は伊都國
@〜Dは述語


40 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 15:12:33
>魏書に『世有王』とあるのだから、世とは魏代、卑彌呼等の時代の伊都國の代々の王ですよ。
魏の時代は短いよ。代々などというほど代替わりしているのかな?

41 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 15:12:39
>>38
卑彌呼は魏から親魏倭王に任ぜられたのですから、唯一の正統な倭の女王です。

これは当然、魏の立場です。現実には卑彌呼は倭の一部地域の女王でも、名目上は卑彌呼は倭全体の王。


42 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 15:16:34
>>40
>魏の時代は短いよ。代々などというほど代替わりしているのかな?

「世」の代々は日本語訳のため、「世世」も代々と訳される。
「世世」は長い代々、「世」の代々は多くても2〜3代。


43 :九州王朝大好き:2009/04/17(金) 15:32:22
>>40
考え方は3つあります。
@2人でも代々
A世有王が魏代になってからの王の意味であれば、1人でもOK。
B三国志の魏書として、魏書全体の構造からみると、魏代は190年から始まったとも考えられる。
  (後漢書の立場とは異なる。)

44 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 15:34:01
>>39
後漢書は倭人伝の記事を参考に書き直したとみられているが、その後漢書には
「国国皆称王世世伝統」とある。これは、倭人伝の「世有王」が伊都国一国の
話ではなく、各国に共通した話であることをうかがわせる。それに「世有王」
が伊都国だけの話ならば、王のことなのだから記事の最初に書かれたはずだ。
官を書いてから王を書くというのはおかしい。主語を伊都国と読むのは間違い
だろう。

45 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 15:36:08
>>39
伊都國
  官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 @
  有千餘戸 A
  世有王 B
  皆統屬女王國 C([伊都國は]世有王の時に女王國に統屬されていた) 
  郡使往來常所駐 D

@伊都国の官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。
A伊都国には千余戸ある。
B伊都国には代々王がいる。
C皆は女王国(伊都国)に統属する。
D伊都国は郡使の往来では常に駐する所。

46 :九州王朝大好き:2009/04/17(金) 15:39:06
>>44
狗奴國も最初に出てくるのは、官狗古智卑狗です。
狗奴國の王は卑彌弓呼なのに。

47 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 15:49:26
>>44
「国国皆称王世世伝統」は漢代までのこと。
魏代には当てはまらない。
「B伊都国には代々王がいる。」が正しい。


48 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 15:49:52
>>46
狗奴国につき説明した記事は、王のことには触れてないよ。
伊都国の記事と同列に論じることはできない。

49 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 15:58:13
>>47
魏略逸文には、「世有王」がなく「其国王皆属女王也」とあって其の国王という
のは4カ国だと解されている。倭人伝はその魏略を参考にしていることは常識。
倭人伝が急に意味を変えるとは思えんよ。

50 :九州王朝大好き:2009/04/17(金) 16:00:25
>>48
魏志倭人伝においては、卑彌呼以外の王より、官の方に重点が置かれている。
親魏倭王以外の王は正統な王にあらず。

51 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:06:58
郡使往来常所駐は、伊都国なの? 女王国なの? どっち?

52 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:08:25
魏略逸文は逸文なので前後が不明なので其の国王というのは4カ国かは未定。
其国が倭を指していることも十分に考えられる。

53 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:11:05
>>51
郡使往来常所駐は、伊都国。

伊都国は女王国の王都。

54 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:17:28
>>51
郡使往来常所駐は単に常に宿泊するところという意味にすぎない。
これも4カ国共通の話だよ。


55 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:30:19
郡使往来から、女王国の説明になるんじゃないの?

56 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:36:05
女王国という解釈はないだろう。「世有王」以下が4カ国だという読み方は榎の
「邪馬台国」でも、そうも読めると指摘しているところ。>>54の解釈は「倭人伝
私注」で指摘しているね。「邪馬台国の暗号」安田哲也著もその見解。で、その
趣旨は、この文章は伊都国から放射式に読むべき指示ということになるんだよ。

57 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 16:50:24
でも、女王国は奴国から奴国までだよね?

58 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 17:08:33
>>54
>郡使往来常所駐は単に常に宿泊するところという意味にすぎない。
>これも4カ国共通の話だよ。

郡使をバラバラに宿泊させるはずがない。
郡使往来常所駐も当然に伊都国。

59 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 17:14:25
後世倭人楽曲解妄想倭人伝

60 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 17:15:59
>>58
>郡使をバラバラに宿泊させるはずがない。
何を考えてんの? 一行が次々に泊まってゆくというだけだよ。
伊都国以外の国では宿泊もしないって考えてんじゃないだろうね。


61 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 17:17:22
>>56
既に過去の遺物となった放射式の解釈など参考にならん。


62 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 17:22:14
原文は女王国郡使往来常所駐だけど?

63 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 17:24:01
>>60
「常所駐」ですよ。
一行が次々に泊まってゆくではありません。

64 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 17:30:17
>>34
使用したから日本で景初と大陸の年号を借りたわけよ。その年ころに
造りましたよという意思表示だよ。だから使用したことになる。

3世紀の日本に朝廷はあったよ。倍暦計算で

崇神即位3年=239年

だよ。

65 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 17:31:27
訂正
>>34>>33

66 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 17:32:49
>>62
「皆統屬 女王國郡使往來常所駐」ですか???

67 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 17:36:51
>>64
使用した場所は畿内ではないでしょう。


68 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 17:38:57
じゃどこなんだ? その根拠は?

69 : ◆.L.MXSPOgc :2009/04/17(金) 17:50:00
>>23
少し外れていますので訂正させていただきますが、張政と梯儁のルートが別のものであった、というのが
そもそもの本質です。
報告書の形式などは書いたつもりはありませんが、それぞれがどのようなことを書いたかという部分は、
そのような解釈でうまく説明できる、または逆に、それぞれ別ルートであったことを示していると思われるところです。
ちなみに魏使はそれぞれ100〜500人程度の規模だっただろうと思っていますが、張政や梯儁はこの長であり、
彼らが直接に報告書を書いた等と言ったことはありませんので誤解なきようお願いします。

>>24
また同じことばかり言うのだな。2回の魏使があったことは史に書いてあること。
この2回のルートが同じだったというのは全部妄想で何の根拠もないこと。
何より、同一ルートだと考えるのが無理があるから出した説。

また上に書いたように史の記述を分けるのは説の枝葉であり本質ではない。


70 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 18:05:02
66 そうじゃなくて、郡使・・はすぐ前の女王国の説明と考えられないかということ。

71 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 18:55:09
>>68
3世紀の畿内で文字使用の痕跡でもあるの?
この時代日本で文字使用が使用されていたとしたら、
北部九州の漢から金印を受領した委奴国や親魏倭王の印を受領した邪馬台国でしょう。

72 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 18:58:53
>>70
それは無理。

73 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 19:10:26
>>63
常に駒をとどめる所なり。バラバラに泊まるなどという意味はどこにもないよ。
往来に際して必ず宿泊するところ、すなわち経由国だと言っているんだよ。

74 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 19:13:16
>上に書いたように史の記述を分けるのは説の枝葉であり本質ではない。
だったら行程記事を分けたりしないで、ちゃんと解釈してね。


75 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 19:22:40
72 何故?

76 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 19:25:07
>>61
ご冗談を。放射式は今でも最新の説ですよ。それでまったく矛盾なく
読めることを知らないのかな?


77 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 19:43:44
邪馬壹国、第二の奴国も・・する所という説明がありますが、いずれも直後です。

78 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 20:11:53
伊都国だけが飛び離れて・・する所という説明がついているの?

79 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 20:24:42
伊都でなく女王国とすれば、三つの・・する所が女王関連でつながります。

80 : ◆.L.MXSPOgc :2009/04/17(金) 20:54:02
>>74
本当におまえは頭が悪いな。
ちゃんと解釈するために分けて考えるって言ってるんだよ。


81 :縦目仮面:2009/04/17(金) 20:54:40
うーんwww。この議論を読んでると、つくずく中国史学会の罪深さを感じるな。日本と違って
中国は古文献の宝庫であるはずなのに、日本のような微に入り、細をうがつような研究は
まず見られない。中国人が不勉強というより、評価される土壌がないんだろう。俺が中国語
で検索しても、ほんとに知りたい情報はまず出てこない。

例えば、魏使のようなパーテイの、構成メンバー、人数、行動様式など、なかなかわからない。
せめて、調査に当たる官の数などでもわかれば、倭人伝の数値の信頼度の判断がある程度
できるんだが。

82 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/17(金) 21:43:05
>中国は古文献の宝庫であるはずなのに、…
残念ながら中国は、古代からの文献は有るが、古本屋が成立するほどの量が無い。


83 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/17(金) 21:56:54
>>19 ローガンさん
>卅なんて言った覚えがないが。誰か他の人とと間違えてませんか?どうでもいいが…

では、質問ですが、あなたは「世有王」をどのように解釈してるのでしょうか?
ただ、逃げてるだけにしかみえません。

84 :九州王朝大好き:2009/04/17(金) 22:01:55
シナ人は辺境には関心無し。

85 :九州王朝大好き:2009/04/17(金) 22:06:37
シナ人には旧唐書以前の文献は外国語なので理解し難いのだ。

86 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/17(金) 22:13:18
>>71
それが△だろが。「景初」と文字があるではないか。朝廷の連中は読めてるぜ。
景初年間に造ったという人に知らしめる意思表示だよ。
「景初」は文字でないのか〜? 古代マヤには偽文字と云ったか、意志表示で
ない文字?があってマヤ文字同然そっくりだが、アクセサリーで意思表示ではなく
て、まぁ美術的意味で同形ソックリにツボなどに書きこんだという。これなど
文字であって文字でないが、また文字でなくても文字とも云えないわけでもない。

こういう事例があるにはあるが、「景初三年」とかは意思表示だろうが。w

87 :愛知携帯:2009/04/17(金) 22:21:02
郡使往来女王国説は、愛知県民が書きました。

88 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/17(金) 22:42:49
>>21
>私は全くの素人なのだけど、
>本来、中国では労働力となる成人男子の人数が、家=1人、戸=3人程度、だとされていて
>それが倭人に伝わったとき「成人男子の」という部分が落ち、老若男女合わせて、家=1人、戸=3人程度
>という数え方になったのではないだろうか・・

それだと
邪馬壹國・・・21万人 投馬國・・・15万人
奴國・・・6万人 末盧國は1万2千
對馬國&伊都國・・・6千人 一大國・・・3千人
不彌國・・・千人 その他の22国が仮に最低の千人と考えても、
倭全体で46万4千人?! 弥生時代ですが、少し多くないでしょうか?

89 :縦目仮面:2009/04/17(金) 22:44:20
日本書紀には近い例として、7世紀の隋使裴世清一行は12人という記述があるが、多い
といえば多いし、少ないといえば少ない。

90 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/17(金) 22:57:33
>>25
>伊都國が女王国の北に在るとは書いてない。

だからそこに書いてるじゃん。
面白い人ですねwww

>倭は三十国ですが邪馬壹國は26カ国、倭でも狗奴国のように邪馬壹國に属さない国もある。
>邪馬壹國26国

おめー倭人伝よく読めよw 〜たく〜世話かかるなwww

<倭人伝>
舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國



91 :ローガン:2009/04/17(金) 23:15:35
>>83

> では、質問ですが、あなたは「世有王」をどのように解釈してるのでしょうか?

世に王が有る。

> ただ、逃げてるだけにしかみえません。
貴方からどう見えるかにはあまり興味が無いので、ご自由に。

92 :ローガン:2009/04/17(金) 23:23:26
>>88

>少し多くないでしょうか?

後漢書によると幽州の平均が約5.2人なんで 多くないでしょう。

93 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/17(金) 23:23:58
>>30
>何故理解できないのか理解できません。
>@『邪馬壹國 女王之所都』ですから、邪馬壹國は女王國内の国であることがわかります。

「邪馬壹國 女王之所都」ですから、邪馬壹國というのは女王國というのが分かります。

>A郡から奴國迄の積算道程距離は12000餘里です。
>郡から不彌國迄の積算道程距離も12000餘里です。
>一方『自郡至女王國萬二千餘里』とあります。
>よって奴國と不彌國も女王國内の国であることがわかります。

郡から奴國までは、10600里、不彌國までは、10700里です。
妄想していても始まりません。

>B投馬國も女王國内の国であることの論証は説明が長くなるのでここでは省略。
>奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国以外に女王國に含まれる国々があるのかどうかは文面からは読み取れません。
>『自女王國以北 其戸數道里可得略載』とあるので、
>狗邪韓國・對馬國・一大國・末盧國・伊都國の5ヶ国は女王國以外の国々であると判断できます。
>特に伊都國については『世有王 皆統屬女王國』とある様に、
>伊都國は、その代々の王の間は、女王國に統屬されて(被支配)いたので、女王國に含まれる国ではありません。

妄想豊かでいいっスねww

>倭には『狗奴國 不屬女王』や『女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種』があるので、
>倭には女王國以外の国々があることがわかりますから、卑彌呼は倭の女王ではありません。

アハハ 貴方も河童さんクラスですね。

<倭人伝>
親魏倭王卑彌呼

卑弥呼はどこの国の王様なんですか?w

94 :縦目仮面:2009/04/17(金) 23:24:21
建中校尉梯儁とかは、いちおう「校尉」は、軍の編成単位である「校」の指揮官とすれば、配下
700〜1200名といったところだが、単に「将軍」の下の位として用いられる場合も多いよう
だ。いずれにしろ武官名である。

塞曹掾史張政は、はっきりいってよくわからないが、司徒府の「軍曹掾」なら異民族教化
の外交官的役割もあるかもしれない。いずれ曹(役所)長であり、単なる武官とはニュアンス
が違う感じがする。

・・・この分野はこの程度の知識しかないし、自信ない。間違ってたら直しておくれ。

95 :縦目仮面:2009/04/18(土) 00:04:45
続き
>塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

主語がないのでわかりずらいが、檄文を作ったのが張政だとすれば単なる武官の仕事とは
思えない。に対して、梯儁はけっこうな軍事力を動かせる立場にあったかもしれない??

96 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:12:18
>>30 >>93
王朝大好きより改めの方がましかな・・
邪馬台国は女王の都する所だから、女王国の一部だ。=ではない。
郡から奴國までは、10600里、不彌國までも同じです。
親魏倭王卑彌呼  狗奴国はどうして無視されたのかな?




97 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/18(土) 00:48:37
>>31
>30にも書いた様に、『世有王』は、卑彌呼共立以降の伊都國の代々の王と理解しています。

卑彌呼共立以降 ×

ここでは、邪馬壹國、統治以降とするほうが自然であろう。

>>32
>『世有王』は、伊都国だけの話ではないよ。「世」は世襲。それまでに出てきた4カ国には
>世襲の王がいるという意味。皆統属女王国は、4カ国が皆女王国に属しているということね。

アハハ みなさん妄想豊かで羨ましいです(笑)
「世有王」というのは、伊都国での話しですよ。

>>37
>>魏書に『世有王』とあるのだから、世とは魏代、卑彌呼等の時代の伊都國の代々の王ですよ。
>正確には其の通りですね。

世有王 皆統屬女王國

これを日本語にすると、「代々王あり、皆、女王国に属する」です。
「代々」を何年ぐらいか?と考えても分かりませんが、一世代は三十年とみて
代々は、「六十年以上か?」とみても良いのでは?!

魏時代のみならず、後漢時代も入るかもしれません。

98 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/18(土) 01:46:16
>>42
>「世」の代々は日本語訳のため、「世世」も代々と訳される。
>「世世」は長い代々、「世」の代々は多くても2〜3代。

2〜3世代てことは60年〜90年ということ。
三国時代(魏の時代)てそんなに長くありましたかな?

>>43 九州王朝さん
>考え方は3つあります。

ないよww

>>46
>狗奴國も最初に出てくるのは、官狗古智卑狗です。
>狗奴國の王は卑彌弓呼なのに。

官といいうのは、「役所の地位」なわけです。
倭国大乱前までは、倭の一部を担ってたのが分かる。

99 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/18(土) 02:34:45
>>91
>「世有王」
>世に王が有る。

前スレで「まあ私は官副官達だと思うのですが…、」
といったのは、「世」をみて三十人と解釈したわけではないということですね。
では、「官副官達だと思う」といったのは何のことだったの?

>貴方からどう見えるかにはあまり興味が無いので、ご自由に。

畿内説の人って都合悪くなるとこんなかんじだよね(笑)

>>92
>後漢書によると幽州の平均が約5.2人なんで 多くないでしょう。

わたしは、「戸が3人というのは多くありませんか?」と言ったのではなく、
倭全体で46万4千人というのは、少し多くないでしょうか? と言ったのです。
一家族あたり、3人だって?!10人だって?!バラツキがあるに決まってる。
倭人伝の戸というのは、「人」のことですから「七萬餘戸」と記されてるのなら
「七萬人」と解釈するべきなんです。 

100 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 02:47:23
そうそう、ローガンより「ゴーマン」という名前がぴったりだよね。

101 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/18(土) 02:55:09
「末盧國に着いた先は唐津か?松浦か?」

始度一海 千餘里至對馬國

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國

又渡一海 千餘里至末盧國

一大國までは「南」と方角が記されてるのに他の對馬國、末盧國へは記されていません。
よって、狗邪韓國→對馬國 一大國→末盧國へは「南」ではないだろうと想像できるだろう。
(狗邪韓國→對馬國、一大國→末盧國へは東南方向?或いは東南南方向?が予想される)

現在の対馬〜壱岐〜唐津湾・博多湾間の航海表を見ても分かるように唐津への上陸が正しい。

102 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/18(土) 03:00:06
わたしの>>101のレスをみても分かるように、陳寿さんの書き方はマトモな
書き方をしています。
だから、決して「南」を「東」の間違いだなんていってたら駄目なんですよ。

隋書の「其國境東西五月行 南北三月行」の「東」と「南」は、
知りませんけどね・・・。


103 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 04:56:34
>>99
>倭人伝の戸というのは、「人」のことですから

個人的にはじめて聞く話なんだが…根拠は何なんだろう?


仮に邪馬台国=七万人としても

大型環濠集落とその周辺集落の人口を当てても到底追いつかない数字だな。

(吉野ヶ里とその周辺集落で5000人程度と言われる)

当然複数の集落の集合体を想定しなければならないが
恐らくその場合でも九州説はかなりしんどくなるw

104 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 05:33:33
>>97
>「世有王」というのは、伊都国での話しですよ。
一番多い説であることは知ってるよ。しかし、その説は魏略や後漢書とはちがった
読み方ということになる。そして、その読み方をした場合、郡使往来・・も当然伊
都国の話と読むが、ほとんど意味をなさない語句となる。伊都国に滞在した?そんな
ことはどうでもよいこと。宿泊?当たり前の話だ。どこの国にだって宿泊するのは
当たり前だ。なんでわざわざ伊都国についてそんなことを書いたんだ?
しかし世有王を4か国のことと読めば(この読み方は学者も指摘しているところ)、
この文章は放射式に読むべきことを指示した文章となり、きわめて重要な意味を持つ。
となれば、意味がある方の読み方が正しいにきまっている。


105 :愛知携帯:2009/04/18(土) 06:09:55
世有王が伊都国なら、官の前にあるはず。四か国に賛成。郡使往来から女王国の説明と見る。

106 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 06:39:07
単なる王だろ。大王は大和にいた。

107 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 07:09:33
>>105
世有王が4か国ならば、郡使往来・・も4か国だろう。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wajin.html
女王国は万二千里から始まるが、南の奴国まで含む広大な勢力圏を意味する。
女王国の説明とみたのでは、意味がはっきりしない。

108 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:14:47
>>75
皆、郡使の往来では常にここに駐する女王国に統属し
かよ???

109 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:40:09
>>90
>>伊都國が女王国の北に在るとは書いてない。

>だからそこに書いてるじゃん。
>面白い人ですねwww

すごい誤読してますね。どこに伊都國が女王国の北に在るとありますか?

>>倭は三十国ですが邪馬壹國は26カ国、倭でも狗奴国のように邪馬壹國に属さない国もある。
>>邪馬壹國26国

>おめー倭人伝よく読めよw 〜たく〜世話かかるなwww

><倭人伝>
>舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

だから倭は今三十国です。
邪馬壹國の卑弥呼は名目上は倭の三十国全ての王ですが、
現実には狗奴國のように邪馬壹國には含まれない国もあります。
邪馬壹國の構成国は下記の26国です。
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国


110 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:47:27
狗奴國が女王の勢力外というのはその通りで誰も異論はないと思う
しかし投馬国は?

111 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:49:59
ドツボ=サイキバくん

112 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:51:31
ドツボ=九州説を貶めるための畿内説の自作自演

113 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:55:00
中国の数字は10倍ぐらいに誇張されている。

114 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:56:01
>>97

>世有王 皆統屬女王國

>これを日本語にすると、「代々王あり、皆、女王国に属する」です。
>「代々」を何年ぐらいか?と考えても分かりませんが、一世代は三十年とみて
>代々は、「六十年以上か?」とみても良いのでは?!

>魏時代のみならず、後漢時代も入るかもしれません。

後漢時代は入りません。
もともと「世」が一世、魏時代のことを指しており、
魏時代に王がいた、
魏時代にいた王は何人か分からないので「代々」と日本語に訳されているだけ。


115 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:56:25
>すごい誤読してますね。どこに伊都國が女王国の北に在るとありますか?
伊都国までは万五百里。女王国までは万二千里。
女王国以北、その道里戸数を略載できる。伊都国には道里戸数の記載がある。
伊都国が女王国以北の国になることは明白です。


116 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 09:03:57
>>110
「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸」
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
と邪馬壹國と併記されている投馬國は邪馬壹國(女王國)とは別の国です。



117 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 09:09:25
>>115
郡の中心から女王国の中心までは万二千里。
伊都国までは万五百里ではなく11,900里です。・・・方可○○里はもともと一辺が○○里の土地の意味、そこから転じて○○里四方の土地です。
伊都国自体が女王国の一部です。

118 :愛知携帯:2009/04/18(土) 09:10:22
108 いや、読み方はそのまま。省略された主語は何かということ。

119 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 09:24:05
>東南至奴國百里、官曰兇馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。

>南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。

奴国も投馬国も、記述の体裁はまったく同じ。よって
片方を女王勢力圏、片方を非女王勢力圏とする解釈は
いかがなものか。
恣意的に過ぎると思われ。



120 :愛知携帯:2009/04/18(土) 09:29:21
108 邪馬壹国と同じ。女王の都する所の邪馬壹国に至る。

121 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 09:52:42
>>119
奴国と投馬国の記述の体裁は大きく違っています。
伊都国や奴国などは里数表示。
投馬國、邪馬壹國は日数表示。
初めに旅の行程を里数で示し、
同じ旅の行程を日数で示したもの。
漢文ではよくある記述のしかた。

122 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 10:01:52
>>88
>倭全体で46万4千人?! 弥生時代ですが、少し多くないでしょうか?

別に多すぎはしないでしょう、
むしろ少なすぎる。
確かではないが記録に残る範囲内では6世紀には500万人
3世紀には300万人くらいいてもおかしくない。



123 :九州王朝大好き:2009/04/18(土) 10:46:46
>>88
>>122
>倭全体で46万4千人?! 弥生時代ですが、少し多くないでしょうか?
>別に多すぎはしないでしょう、むしろ少なすぎる。

3世紀、邪馬壹國+投馬國+奴國=14万戸
7世紀、俀國=10万戸(9万6千戸)
戸の定義が変わっているとしても、
戸数からは350年間の大幅な人口増は認められない。

3世紀の北部九州の人口は100万人、
中部九州以北では150万人、
と思う。

124 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:04:44
>>123 九州王朝大好き

例によって飛ばすなあw

よく言われる吉野ヶ里の人口が千人チョイと言うのは
算出根拠は「甕棺の数」からだったと思うが
周辺集落の人口も入れて5000人ほどと言うから

もし九州北部で100万人なら吉野ヶ里クラスが
200ぐらいあったって話だぞ?w

かつて高島忠平が漢書の地理志や遺跡を元に
九州北部の地図にクニグニを再現したが
それでも数はジャスト30w

ひょっとして環濠集落の人口からして間違っているのかな?
それとも九州北部に吉野ヶ里クラスが200ぐらいあったのかな?

まあ個人的にはそんな物「誇張された数字」で終わりだがw

魏志倭人伝を金科玉条ドグマの如く崇めるこの板の九州説論者は
是非がんばって合理的な説明をしてくれwww

125 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:14:16
>>121> 初めに旅の行程を里数で示し、同じ旅の行程を日数で示したもの。
> 漢文ではよくある記述のしかた。


ほう、たとえばどんなのがあるかな?ちよっと書いてみ。

126 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:23:19
>>120
???

127 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/18(土) 11:23:36
>>122
>3世紀には300万人くらいいてもおかしくない。

>>123
>3世紀の北部九州の人口は100万人、

8世紀の奈良で約10万人

17世紀の江戸で約20万人(最盛期の江戸でも100万人)と聞いたことがあります。

その数値は、とんでも説ですか?(腹痛いw)

128 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:28:49
>>127
古い時代は都市人口なんて少なかったんだよ。
それに『続日本紀』769年(神護景雲3年)10月の記事で大宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。」と報告しているように
北部九州には奈良をも凌ぐような大都会の大宰府もあった。

129 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:46:05
>>123
>3世紀の北部九州の人口は100万人、
>中部九州以北では150万人、
>と思う。

九州王朝大好きさんそれは幾ら何でも多すぎ。

130 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:47:14
>>125
それぐらい自分で調べろ。

131 :愛知携帯:2009/04/18(土) 11:47:19
126 ん?女王の都は直前の邪馬壹国の説明でしょ?

132 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/18(土) 11:52:55
>>104
「世有王」
>一番多い説であることは知ってるよ。しかし、その説は魏略や後漢書とはちがった
>読み方ということになる。

魏略、後漢書は魏志倭人伝ではナイよwww

「郡使往来」
>伊都国に滞在した?なんでわざわざ伊都国についてそんなことを書いたんだ?
>しかし世有王を4か国のことと読めば(この読み方は学者も指摘しているところ)、
>この文章は放射式に読むべきことを指示した文章となり、きわめて重要な意味を持つ。

>>105
>世有王が伊都国なら、官の前にあるはず。四か国に賛成。郡使往来から女王国の説明と見る。

>>皆、郡使の往来では常にここに駐する女王国に統属し
かよ???

そりゃ 訳し方がめちゃくちゃだわwww

133 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:54:10
愛知携帯さん、ちゃんと、アンカー付けれないの?

134 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 12:01:14
>>131
伊都国の説明の中に邪馬壹国の説明???

135 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/18(土) 12:17:00
>>109
>すごい誤読してますね。どこに伊都國が女王国の北に在るとありますか?

>だから倭は今三十国です。
>邪馬壹國の卑弥呼は名目上は倭の三十国全ての王ですが、
>現実には狗奴國のように邪馬壹國には含まれない国もあります。
>邪馬壹國の構成国は下記の26国です。

>>110
>狗奴國が女王の勢力外というのはその通りで誰も異論はないと思う

ん〜おたくら(>>109-110)新人さんかな?!

其官有狗古智卑狗

ちゃんと「官」てついてるでしょう?狗奴國も「倭」ダス。

136 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 12:30:55
ハー狗奴國が「倭」でないとは誰も言ってないでしょ。
狗奴國は女王の勢力外、狗奴國は邪馬壹國の外。

137 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 12:45:50
「世有王」は魏代に伊都国には王が代々いた。
伊都国の代々とは卑弥呼や壱与のことです。

138 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 12:47:56
>狗奴國は女王の勢力外、狗奴國は邪馬壹國の外。

伊都國も奴國も一大國もその他の傍國も皆「邪馬壹國の外」です。
あまり意味の無いことは書かないで下さい。

139 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:26:19
倭の国と国が連合して
共立させたのが
大和国葛城の日女命。

140 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:32:15
>>135
>ん〜おたくら(>>109-110)新人さんかな?!

改めドツボは古参の上級者なのか??

ん〜それにしては後漢書を魏志に先行する資料のような書き方をするし
以前には箸墓が過去に発掘調査されているとかわめいていたが・・・

もう初級とか上級とか超えて電波でもいいとさえ思う今日この頃www


141 :ローガン:2009/04/18(土) 14:19:54
>>99

> 前スレで「まあ私は官副官達だと思うのですが…、」
> といったのは、「世」をみて三十人と解釈したわけではないということですね。
> では、「官副官達だと思う」といったのは何のことだったの?

前スレの其の書き込みよんだんなら、統属の用例を呈示してあるのも知っているはず。
それでも、意味がわかりませんか?(笑)
いいですか?用例を呈示した意味は、所属先が一つではないという事です。
皆統属女王國、皆は女王國以外にも所属先がある。
そこまでの登場人物官副官、王、女王の中で2ケ所以上の所属先を持てる「皆」とは官副官だという事です。

142 :ローガン:2009/04/18(土) 14:26:30
>>99

> 倭人伝の戸というのは、「人」のことですから「七萬餘戸」と記されてるのなら
> 「七萬人」と解釈するべきなんです。 
「倭人伝の戸というのは人の事」 根拠ありますか?

143 :縦目仮面:2009/04/18(土) 15:02:29
ローガンさんはまず、この7万という数字が信じられるものだと思うかな?歴史人口学の
鬼頭宏氏、国立民族学博物館の小山 修三氏らの研究では、弥生終末期での日本の人口は
60〜100万人程度とされる。
http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g1110030.html
http://phi.med.gunma-u.ac.jp/humeco/anthro2000/koyama.pdf

また、
> 屋室有り。父母兄弟の臥息処を異にす。
などから、一戸の人員を最低でも4〜5人(俺的には10人近くでも驚かん)としても、30万人
以上の数字となる。邪馬台国時代は、吉備、出雲等々各地に大きなクニがあったのは間違い
なく、ここは倭人伝でもかなりムリな部分だと思うが。

あと、いわずもがなだが、魏志韓伝の
>弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四 五萬戸。
などからも、「戸」が「人」ではないだろう。

144 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:30:29
>>141
皆統属女王國、皆は女王國以外には所属先はない。
用例をよく読んだら。

145 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:37:12
>>143
提示されたグラフを見ると3世紀から奈良時代までは横ばいのようですが。
3世紀は弥生終末期なんですかね?古墳時代初期では?

146 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 15:48:33
>>138
>伊都國も奴國も一大國もその他の傍國も皆「邪馬壹國の外」です。

このような誤った認識を持っているから正しい解が得られないのです。
倭人伝では帯方郡、投馬國、邪馬壹國、狗奴國と北から南に国があるのです。
對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、他の傍國は邪馬壹國内の説明です。

147 :ローガン:2009/04/18(土) 15:51:02
>>143

> ローガンさんはまず、この7万という数字が信じられるものだと思うかな?

勿論「そう書いてあるんだから間違いない!」とは思いません。
今手元に資料ないので記憶で書きますが…
確か30年ほど前、奈良市の人口が約20万。その昔、奈良に都があった頃と同じだとw
「千年以上かかって人口が全然増えてないぞ」なんて言ってた記憶あります。
奈良時代450万なら4.44% 先立つ弥生末の総人口80万として35500人。一戸5人として現奈良市だけで7100戸。
大和、河内(和泉)山背、摂津ぐらいで考えたら、七万戸にさほど無理はないようにも思えます。 まあ単なる想像ですが。

148 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/18(土) 15:51:43
>>134
>伊都国の説明の中に邪馬壹国の説明???

いいえ。
世有王、皆統屬女王國。は伊都国の説明ではなく、対馬・一大・末盧・伊都の各国の説明。
郡使往來常所駐。以下は女王国の説明でしょう。


149 :ローガン:2009/04/18(土) 15:58:24
>>144

おや、そうでしたか。間違いがわかればすぐ撤回しますので、先ずは指摘してください。

150 :縦目仮面:2009/04/18(土) 16:03:41
>>145
・・・うーんそうですね。鬼頭氏の研究は、小山氏の住居跡に関する統計分析をもとにした
もので、2つ目のリンクで小山氏は弥生末期には「100万人を越えていたのでは」といって
います。また、鬼頭氏の本でも弥生時代約60万人とあります。わかりにくくてすいません。

151 :縦目仮面:2009/04/18(土) 17:21:08
これも詳しい分野ではないので紹介だけしときます。沢田吾一氏は戦前の数学者で計量
史学のはしりのような人。氏の和名類聚抄からの人口研究によれば、10世紀はじめで、

大和ー130,300人  89郷。  筑前ー 89,150人 102郷。 筑後ー74,300人  54郷。

これは概算値として今でもよく引きあいに出される数字ですが、 現代の研究では少なめである
とされるようです。俺的には・・・よくわからない。人口は難しいな。

他スレでかえるに変身したが逃げられたww。

152 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/18(土) 18:57:56
大林組プロジェクトチームが1985年に行なった別の試算では、古代の工法そのままで現在実施すれば、1日あたりピーク時に2000人を動員したとして、延べ6、807,000人、工期は15年8ヶ月、総工事費796億円になるという。

これは現実であろうから この労働力を捻出するには、この地の総人口は?。
古墳時代を圧縮すると 全ての古墳築造が出来ない。
労働力は、半島の捕虜を宛がう、食料生産も自分たちで行うと半年しか古墳築造に携われない。

人口は、難しすぎるが古墳という現物が有る以上 無視することも出来ない。


153 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/18(土) 19:33:36
大仙陵が680万人なら 箸墓も10数万人は必要と思う。
この「箸墓」を1年足らずで作る。 どう見ても不可能。


154 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:45:36
>>152
>古墳時代を圧縮すると 全ての古墳築造が出来ない。

想定した古代の工法が間違っているのでは?
想定した工法よりもっと進んだ効率の良い工法で古墳を造っていたんでしょう。


155 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:58:25
たとえばどんな工法?

156 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 20:05:37
>>141
>いいですか?用例を呈示した意味は、所属先が一つではないという事です。
>皆統属女王國、皆は女王國以外にも所属先がある。
>そこまでの登場人物官副官、王、女王の中で2ケ所以上の所属先を持てる「皆」とは官副官だという事です。

?? 誰か、ローガンさんが何を言ってるのか説明してくれます?
2ケ所以上の所属先を持てる?!「王」と「官」ごちゃになってない?w

157 :縦目仮面:2009/04/18(土) 20:07:53
>>153
箸墓についても大林組は調査していて、その試算では、造営の作業のために動員された
人数を、古代工法で一日8時間、月25日作業したとすると、毎日五百人働いた場合は12年、
毎日千人働くとその半分の6年かかり、のべ170万人が必要となってる。実際は自然地形を
利用して、もちっと少ないかもしれません。

もちろん1年ではできないでしょう。書紀に、「昼は人が作り、夜は神が作った」というような
記述があり、みるみるうちにできていく印象を語ったのかもしれません。いずれ、記紀が大規模
古墳造営の描写をしているのは、この箸墓が最初であり、なんらかの画期であったのは間違い
ないでしょう。

158 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 20:14:08
>>148
>世有王、皆統屬女王國。は伊都国の説明ではなく、対馬・一大・末盧・伊都の各国の説明。
>郡使往來常所駐。以下は女王国の説明でしょう。

ごめん 上の愛知県民氏のレス読んで笑うてしまったwww

159 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/18(土) 20:24:09
>>158
おや、楽しんでいただけましたか?

伊都国といえば、次の文章が難物。

自女王國以北、特置一大率、檢察、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。
王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

朝貢貿易で得た品を北の諸国に横取りされないよう、目を光らせていたようです。


160 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/18(土) 20:31:23
文章で言えば「世有王、皆統屬女王」がふさわしい。
あえて「女王國」としたのは「女王國郡使往來常所駐」から女王國の説明に入るためかと。

161 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/18(土) 20:37:19
確かに 土盛りだけでも10万人では出来ない、最低20万人か(立方根で計算)
それでも モモソ姫=箸墓を支持する方はこれを証明しなくてはならない。
ハードルを下げて10万人。この人数を書紀の記事に合わせて、余剰労働力を捻出出来るか?


162 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/18(土) 20:45:16
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
自郡至女王國萬二千餘里。男子無大小皆黥面文身。・・・
ここから女王國の詳細記事が始まります。

163 :縦目仮面:2009/04/18(土) 20:49:20
これは推測でしかないんだけど、連合国から本来の「庸」のような労役をしに人が入ってた
とは考えられないすかね?食料持参で。大型古墳が首長霊信仰の象徴であるなら、考え
られないこともないと思うんですが??

164 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 20:50:14
女王國郡使往來常所駐 だってよwww

女王の品物を受け取る所で、魏使の駐まる所 ではダメらいいよw(皆

165 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 20:58:57
>かえる
とうとうどんとこい〜あっちは規制をかけられた。しようがない、またな!

ひろゆきのやり方か? 猿はひどい言い方だ。こっちは真面目にやってるのに・・・

166 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/18(土) 20:59:25
>>164
伊都国でもある程度は駐まるでしょうが、主目的は女王國でしょう。
金印や詔書は魏使が直接渡しますし。

167 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/18(土) 21:16:56
郡使往來常所駐が伊都國なら「東南陸行五百里、到伊都國、郡使往來常所駐・・・」
と書くと思いますが。
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月・・・」と同じく。

168 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 21:21:12
愛知県民氏が何を言いたいのかわからんw

169 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/18(土) 21:26:34
>>168
いや、何を言いたいというより、そう読むほうが自然じゃないかな。
女王國、 郡使往來常所駐
邪馬壹國、  女王之所都
次有奴國、此女王境界所盡
この三つがうまく対応していると思います。

170 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 21:33:25
>>165
え?
同じ板で特定スレに規制がかかった?
んな阿呆なwwww

じゃあこっちで続けるねw

「何故逆の季節の記述が無いのか?」

 1 春   *1 秋
 2 春   *2 秋
 3 春   *3 秋
 4 春   *4 秋
 5 春   *5 秋
 6 春   *6 秋
 7 夏   *7 冬
 8 夏   *8 冬
 9 夏   *9 冬
10 夏   *10 冬
11 夏   *11 冬
12 夏   *12 冬

「*」のつく月は1年の後半、二順目の月です。

1月でも春と秋がある。
12月でも夏と冬がある。

自説を
「月の前半に集中するのはおかしい」
と確率をもって言っているのに

確率をもって反論されたら誤魔化して逃げるの???

171 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 21:38:08
>>169
女王國、 郡使往來常所駐 なんてどこにも書いてありません。

伊都国を女王国にしたがる九州王朝大好き氏に洗脳されてるだけですねw

>>165
逃げるな!!太国!

172 :170:2009/04/18(土) 21:38:59
>170
に対する太国の答え
「原書には季節の表記が無く、季節の表記は後付け、故に齟齬が無い」

それに対する質問
「では年に2回同じ月が出てくるのに季節の表記も無いのを
 どうやって倍暦を使っていた人間はそれを区別したのか?」

単に12月としか書いてなかったらそれが夏なのか冬なのか分からない(>>170参照)

イマココデスw

173 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 21:47:51
>>169
不自然の極み。
倭人伝では「世有王」で初めて王の文字が出てくる。
この王は伊都国の王であることは当然だが、
倭人伝で単に王と書かれていることから倭の王のことでもあると考えられる。
伊都国に倭の王が代々居ると書いた後に
「皆統屬女王國」と倭の国々を伊都国に居る女王が統屬していると書いてある。
伊都国に女王がいるので郡使も伊都国に常に逗留するわけだ。
「邪馬壹國 女王之所都」とは邪馬壹國が女王の都のある国。
邪馬壹國の都は伊都国なので、女王國=邪馬壹國。
「次有奴國 此女王境界所盡」これは「周旋可五千餘里」とあるように
女王國内を奴国から一周して元の奴国に戻って来た意味。



174 :九州王朝大好き:2009/04/18(土) 21:49:21
>>171
>伊都国を女王国にしたがる九州王朝大好き氏に洗脳されてるだけですねw

いいかげんな事書くな。

伊都國←倭面土國=倭國王帥升の国
女王國=奴國+不彌國+投馬國+邪馬壹國+α?

伊都國(に関する記述は以下5項目)
 @官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚
 A有千餘戸
 B世有王
 C皆統屬女王國
 D郡使往來常所駐


175 :九州王朝大好き:2009/04/18(土) 21:56:40

>>174の追加説明

主語は伊都國
述語は@〜Dの5項目



176 :縦目仮面:2009/04/18(土) 21:59:12
太国氏は、かえるになった俺の質問に、一つでも答えてくれたらいいのにね。

@なぜ、倭l国は百済から暦博士を勧請したのか?
Aなぜ、2倍年暦(弥生太陰暦でもよい)にかかわる遺物が一つも発見されない>
B邪馬台国時代の倭人に太陰の天文計算ができたのか?
Cどうして弥生時代に日付を記録するための太陰暦が必要だったか?
D二十四節季(太陽暦を24等分したもの)や、入梅等の雑節は庶民の生活に残ってる
 のに、倍暦の痕跡は何もないのか?
E倍暦があったとして、倭国のどの範囲まで、どの程度広まってたのか?

これれに一つでもまともに答えたら、まあ話すに足る人と思うんだが。

177 :縦目仮面:2009/04/18(土) 22:00:19
>→。

178 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/18(土) 22:03:05
>「原書には季節の表記が無く、季節の表記は後付け、故に齟齬が無い」 間違いだな。
崇神天皇六二年(辛未前三六)十月◆冬十月。造依網池。
この年を太国倍暦では、旧暦の5〜8月の出来事としている。

つまり 稲刈りも台風も無視して、池堀。


179 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:08:14
ううむ。

俺も大概2ちゃん暦は長いと思うが
同じ板の特定のスレで規制がかかるなんて聞いた事もないんだがw


そんなことって本当にあるのか?www


180 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/18(土) 22:09:59
>>172
向こうで規制をかけられたんだ。お前らなんかに逃げる必要もあるまいが。
ただここでまた長くなって再度かけれて1ヶ月も書きこみできないとかを
言論の自由を封じるひろゆきのやり方からやられるかも知れないぞ。この前
1ヶ月ばかりやられたからな。あれは3月中だったか?

それで今回はいったん停止辛抱だ。1回だけオマエに答えよう。それで1年に
2回あって?w それは現今の1年だろうが。当時の2倍暦の1年は現今の半年で
1年繰り上がるんだから困惑などあるわけがない。それが倍暦だよ。同じ数字
の月は倍暦でも存在はしない。同じ数字の月が来たときはもう1年数字が上がって
るんだから翌年になり1年違うから判別できる。そのための繰上げだろうが。
こんなことまで質問するのか? どうしようもないなァ。

オマエもう一度よく倍暦を考えるんだな。1年に2回同月が来たと〜?その1年は
現今の通常暦の1年の話だ。2倍暦なら今の半年が当時は1年であり当時の1ヶ月
が今の半月なら、当時12ヶ月で1年と数える半年が終わるから、別に重複数字月
が出るわけもない。だからオマエの倍暦の研究が稚拙だったからそんなおかしな
問いをして来るわけだ。もう一度考えてみろ。それは不合理はない。

それからからかうだけなら、こんな規制をやられるに進行し研究の邪魔だから、
まっとうでからかいでない真の疑問を質問してくれ。規制やられこちらが迷惑だ。

181 :縦目仮面:2009/04/18(土) 22:14:56
>まっとうでからかいでない真の疑問を質問してくれ。
176の俺のは違うわけ?

182 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:16:25
>>174-175

伊都國に関する記述は以下5項目 問題なし

しかし、伊都國←倭面土國=倭國王帥升の国
女王國=奴國+不彌國+投馬國+邪馬壹國+α なんてどこにもない。

倭國亂以前の関係(伊都國と邪馬壹國の関係)は分かりますが・・・。

183 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:17:49
>>179
あるよ

ここ参照
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413037689

184 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:19:31
>>180
はい、お馬鹿さんの自爆w

次の年度になっても季節と月の齟齬は解消されませんw
1月の春の翌年は1月の秋からスタートだねwww

まあ>>170を訂正しておくねw

 1 春   *1 秋
 2 春   *2 秋
 3 春   *3 秋
 4 春   *4 秋
 5 春   *5 秋
 6 春   *6 秋
 7 夏   *7 冬
 8 夏   *8 冬
 9 夏   *9 冬
10 夏   *10 冬
11 夏   *11 冬
12 夏   *12 冬


「*」のつく月は(倍暦における)翌年の月です。

185 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:20:49
>>183
はあ?ただの連投規制じゃないw

186 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:21:55
だから連投規制にかかったんだろw
あっちのスレ見てみろ
あいつの書き込みばっか

自分が間違ってたこと認めようね

187 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/18(土) 22:35:17
>>174 九州王朝さん
>伊都國=倭國王帥升の国

伊都國=倭國王帥升ならば、
「帥升倭伊都國王」になるのでは?

はんようさんは何故、帥升を倭國王としたのか?
まずは、そこが分かっていません。

倭國王帥升=其國本亦以男子為王 が正解とみる。

188 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:44:06
>>186

連投規制がスレごとにかかるのかよアホw

189 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/18(土) 22:53:35
ん? 洗脳されていませんよ。
九州王朝氏とは伊都国の見解はまるで違います。
しかし、女王国が奴国から始まるという点は同じみたいですね。
第二の奴国で終わるところは >>173 氏と同じ。
ただ、邪馬壹国は大きな女王国に含まれると思います。
二つの奴国も別と考えています。

190 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:54:52
IP変われば規制はクリア
つーか、1ヶ月も規制され続ける仕様でもないしw

191 :縦目仮面:2009/04/18(土) 22:55:18
>>161
太国氏にかかわってたんで、遅レスすみません。延べ人数で170万人は多いな〜という
印象ですが、箸墓近辺に1000人が6年いるのが多いとは感じないんすが。

こっからは脳内なんで、中学生とかに信じられても困るんだけど、地元の人間+各連合国
から100人ずつ+戦敗国である狗奴国(俺的には東海地方)から数百人、これでできませ
んかね??これは、マキ向に流入土器が多い説明ではないんだけど・・・。まあ、マキ向に
庶民の住居跡がほとんど出土しないのは、他スレでも話題なんですが・・・。

192 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:55:49
>>188
よく調べてからそういうことを言うんだなw
アホ

193 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:58:45
[コマンド入力]

太国はどうしますか?
 ・なんとか言い訳を考える
 ・ほとぼり冷めるまで逃げる
 ・ふてて寝る



194 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 23:04:33
>>192
ん?
スレごとの連投規制なんて知らないんだが?
少なくともこの板で連投規制かかったとき
すぐ他のスレに変えて書き込みができた経験なんて無いんだが?


現在、2ちゃんねるではほとんどのサーバに導入されている連投(連続投稿)規制『Samba24』

同一回線(IP)の連続投稿を制限する規制。
設定秒数(確認方法)以内に2回以上レスすると警告される。
5回の警告後は以後同一サーバでの投稿を最大1時間受け付けない。
IPアドレスごとで規制されるので、一部のCATV、LAN、書き込めるプロキシの場合は全員同一回線とされてしまう。

ポイント
IPアドレス(リモートホスト)を変えれば書ける。規制はサーバ単位で他のサーバでは書ける。
板によって規制秒数が違う。規制解除は1時間ごと。
例:18:23に規制メッセージが表示された場合、19:00に規制解除


195 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 23:09:52
連投規制ということは太国はROMるだけならできるわけだw

おや?何処からか歯軋りが?

196 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 23:16:10
ソフトバンクBBはどっかのアホが荒らしたせいで
一ヶ月ほど書き込み規制されてたな。
だから携帯でカキコしてたんだけど、携帯厨とか言われたわ

197 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 23:16:19
みんな伊都国を邪馬壹國の王都と認めたがらないだよな、
伊都国が邪馬壹國の王都だと気づいた瞬間に
邪馬台国問題に終止符なんだがな。

198 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 23:16:24
>>189
ほうほう、面白そうですね。

どれだけ皆に、その考えを納得させれることが出来るか見物です。

199 :九州王朝大好き:2009/04/18(土) 23:17:26
>>187 改め ◆PWTcGEfp1sさん
伊都國=倭國王帥升ではありません。
伊都國←倭面土國=倭國王帥升の国です。

以前に少しふれましたが、
倭國王帥升の国の別伝国名が倭面土國です。
倭面土國は倭米多國とも倭目達國とも書けます。
倭面土國が女王國との戦いに敗れ、
逃げ出した先に置いた国名が伊都國です。
伊都は怡土からの名前だと思われます。
倭面土國が怡土に置いた対馬海峡支配の為の検察組織が一大率(一支率)です。
怡土の一大率組織は倭國乱の時に後継倭奴國に追いやられ、
佐賀大和に移転し伊都國と称したものと考えられます。
佐賀大和は、福岡平野の勢力に妨害されることのない、
壱岐から筑紫平野へのルートの要になります。
魏志倭人伝伊都國に関する記述で、わざわざ『世有王』とあるのは、
魏は伊都國が王のいる国として未だ認めていたからと考えます。
倭には3種類の王の存在を魏が認めているのです。
旧体制の王(伊都國)、新体制の王(邪馬壹國)、反体制の王(狗奴國)。

急にお出かけのtelが入ったの取敢えずここ迄。


200 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/18(土) 23:23:50
>>197
伊都国が邪馬壹國の王都?
それなら終止符でしょうが、邪馬壹國は女王国の王都。

201 :九州王朝大好き:2009/04/19(日) 00:36:01
>>187 改め ◆PWTcGEfp1sさん
>はんようさんは何故、帥升を倭國王としたのか?

王帥升は倭奴國を滅ぼし、その捕虜160人を生口として安帝に献上した。
光武帝が印綬した倭奴國が無いことを示したのである。
しかし金印を引き継いでいない帥升を安帝は認めず請見しなかった。
帥升は倭奴國と敵対した倭の広域の国の王であるので倭国の王としたのだと思う。

倭奴國は福岡平野だけの狭域のの国。
帥升の国(倭面土國)は筑紫平野と福岡平野にまたがる広域倭の国。

「倭米多國」とすべきなのを何故「倭面土國」としたか?
「如墨委面」からではないかと思う。

202 :ローガン:2009/04/19(日) 00:41:13
>>156

> ?? 誰か、ローガンさんが何を言ってるのか説明してくれます?
> 2ケ所以上の所属先を持てる?!「王」と「官」ごちゃになってない?w

いやはや、やっぱり読めないんですね。では言い換えましょうか。「A統属Bの場合、Aに対する命令系統がBだけではない。と思います」 と言う意味のレスの根拠として、
とりあえず三國志の中で「統属」の使われている文を2例あげました。 わかりますか?

203 :ローガン:2009/04/19(日) 00:53:36
>>197

> みんな伊都国を邪馬壹國の王都と認めたがらないだよな、

貴方が言うように「みんな」がそうなら、それは「認めたがらない」ではなく、「そうは読めない」と言う事でしょう。「みんな」なんですから。

204 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 01:09:19
翰苑の魏略逸文を見ると、対馬、一支、末廬、伊都各国の説明のあと「其國王皆属王女也」とあり、
続いて狗奴國、「不属女王也」とある。
つまり、伊都国は狗奴國を除いて最後に書かれているわけで、ここが魏志と異なる。
魏略では、狗奴國を除く倭の国々はすべて女王に従っている。
魏志の「世有王皆統属女王國」は、魏略と同じく伊都国の後に書かれているが、
魏略に無かった奴国から(第二)奴国の記事が後に加わっているため、不自然な記事になっている。
後漢書でも「使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國」
・・・これを考えると、魏志の「世有王皆統属女王國」も4か国限定ではなく、狗奴國を除く全て、
と考えるほうがよいかな。


205 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 01:47:55
「世有王皆統属女王國」は、一般的には、代々王がいて、皆、女王国に統属する
ということじゃなかったかな。
となると、ではいつから統属することになったのかということになる。

これは帥升の時ではなかろうか。帥升が倭国を武力で支配した。その証が
生口160人の献上ということになる。これだけの人間を奴隷化できるのは、
戦争以外にないと思われる。

それを知らしめるために、後漢に朝貢した。また、倭奴国はこのとき帥升の
国に滅ぼされた。帥升の朝貢には、おたくが金印を与えた国を滅ぼして
ごめんなさい、という意味もあったと思う。

伊都国が支配下に入ったのもこの時ということになる。朝貢した西暦107年
よりちょっと前ということになるのだろう。

しかし、強力な王もやがて死ぬ。跡継ぎが王になる。しかし、これで混乱する
こともある。卑弥呼のときがそうだったのだろう。その座につく人物を
めぐり戦乱が起きる。卑弥呼を王にすることにより戦乱は収まる。

卑弥呼の後にも同じようなことが起きる。卑弥呼の死後、男王が立つが、
皆が納得せず、1000人余を殺しあう戦乱状態になる。
しかし、台与を王にすることにより戦乱は収束する。

206 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 01:52:56
あ、ローガンさん、申し遅れましたが、張政が来倭時の倭王が壹與だったという説は支持したいと思います。
前から「当時千余人」という表現が気になっていて、なるほどと思いました。
難升米に告喩したあと、卑彌呼に告喩するはずが逝去のため壹與に告喩したと考えられますね。
今後もよろしくお願いします。

207 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 02:03:48
>>205
西暦100年頃に倭国が統一されてたってこと?
考古学的にはそれはありえないんだが

208 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 02:12:47
>>207
考古学でそれがわかるかどうかは別として、当然のことながら、倭国の範囲は
限定的ということになる。恐らく、九州の北半分くらいだろう。

209 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 06:45:40
>>205
>「世有王皆統属女王國」は、一般的には、代々王がいて、皆、女王国に統属する
>ということじゃなかったかな。
そんなふうに読まれることは多いけどまちがいだな。統属する相手方が女王国という
ことは統属する方も国でなければ釣り合いがとれない。皆は国なんだよ。
統属するというのは集まって属するだ。属する側が複数だってこと。時代がちがう王
が一緒に集まって属することは不可能。その点からも、歴代の王と読むのはおかしい
と分かるはずだ。


210 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 07:42:35
>>209
其の通り、だから女王国=邪馬壹國で、伊都国が女王国の都なんですけど。
伊都国が女王国の都だと今までの説が全て誤りと分かるんで、
みんな認めないんだろうな

211 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 08:16:19
>>209
いい加減な事をいうのは良くない

212 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 08:34:29
>>209
三国志 魏書からの用例

建安十八年,州并屬冀州,更拜議郎?西部都督從事,統屬冀州,總故部曲.

并州刺史だった梁習という人が、并州が冀州に併合になったので、
あらためて議郎・西部都督從事を拝し、冀州に統屬してもとの部曲を総べた、という内容。
個人が冀州に統屬してる。

延熹中,衡弟為京兆虎牙都尉,秩比二千石,而統屬郡.
衡の弟という人物が京兆虎牙都尉となり、秩は比二千石で郡に統屬した、という内容。
これも個人が郡に統屬している。

だから、
>統属する方も国でなければ釣り合いがとれない。
ということはないし、
>属する側が複数だってこと。
ということもない。

213 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 09:02:50
皆さん詳しいですね。
>>209
>統属するというのは集まって属するだ。
そういう場合もあるのかもしれませんが、後漢書の「丗丗傳統」も気になりますね。
やはり伊都国歴代の王なのか?わからなくなってきた・・・

214 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 09:21:47
「統属」に歴代の意味が含まれているなら「皆」をつける意味がない。
狗奴國以外すべての歴代の王としておきます。

215 :九州王朝大好き:2009/04/19(日) 09:29:22
>>212
『至伊都國・・・・・・郡使往來常所駐』についての部分が陳寿の文としてすっきりと読めた。

用例提示ありがとう。
ローガンさんの用例提示にも感謝。


216 :九州王朝大好き:2009/04/19(日) 09:43:36
>>214
>「統属」に歴代の意味が含まれているなら「皆」をつける意味がない。
「皆」は重要です。
「皆」は「(世有王達)全員が一人も欠けることなく」との意味です。
伊都國の魏代における代々の王達は女王國に統属し続けていた。

217 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 09:53:24
>>216
伊都国だけの例なら、語順はどうでしょうね?
東南陸行五百里、到伊都國、世有王、皆統屬女王國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚、有千餘戸
になるのでは?

218 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 09:59:43
>>184
右半分は倍暦で1年数字が上がるから容易に見分けがつく。オマエはそれでも
判別できないほど幼稚な脳内らしい?www

それで解消されてるではないか。倍暦だから、その年が春と夏なら当然次の年は
倍暦の場合秋と冬しかな〜い。至極当然だな。なんらおかいしところはな〜い。
当時は1年が現今の半年しかなかったんだぜ。それを知らない紀の編者らは
天皇上奏のため、紀を作る際書く月の前に春夏秋冬を各々に入れたわけだ。
だから原書群にはこういう季語のないものが沢山あったのさ。それを彼らは
2月はこれは冬だ8月はこれは夏だと通常暦しかオマエのように知らんので、即
各月の前に季語をのせたわけ。だから倍暦が隠没してしまったのだ。それをオマエ
はああだこうだと井の中の toad で妄想を強行に主張してるだけのことだ。

小学生でも横綱に勝てる場合があ〜る。ww それは何らかの事情で横綱が休場
したり休場させたりすれば、小学生でも不戦勝だからな。ww それで勝っ
た勝ったとほざいても、これなら余でも誰でも横綱に勝て〜る。
オマエか?黄色い太陽だと子供騙しのいい訳をしてたのは〜? だろうな。ww
縦目の視力が0.01未満のようだから、オマエだからこそ90度も間違えるの
だろう?wwwwwww

今日は規制されないようにしたいところだ。

219 :九州王朝大好き:2009/04/19(日) 10:32:39
>>217
語順は魏にとっての内容重要度の順番に並べたものと思います。
以下のような構成の文だと思います。
陳寿の文らしさが現れているとおもいませんか?

東南陸行五百里
到伊都國
where there are 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚
where there are (有)千餘戸
where there are 世有王
where all of 世有王 (皆)統屬 女王國
where 郡使 往來 and 常(所)駐

220 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 10:59:49
>>219
魏にとっては郡使往來常所駐が最重要ではないでしょうか。
私は直前の女王国の説明と見ています。
また、狗奴國では
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
王より官が詳しく書かれていますが、王から先に書いております。

221 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 11:10:43
次の例は、統屬女王國郡使往來常所駐に似ていると思うのですが?
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國畏憚之。
諸國は検察の対象であると同時に、畏憚の主体でもあります。
なお、原文で「諸國」を2回繰り返して
檢察諸國、諸國畏憚之。
と書かれているサイトが多いのですが、岩波文庫巻末の影印では1回だけです。
この辺り、詳しい方ご教示頂けますか。

222 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 11:27:52
「何故逆の季節の記述が無いのか?」

 1 春   *1 秋
 2 春   *2 秋
 3 春   *3 秋
 4 春   *4 秋
 5 春   *5 秋
 6 春   *6 秋
 7 夏   *7 冬
 8 夏   *8 冬
 9 夏   *9 冬
10 夏   *10 冬
11 夏   *11 冬
12 夏   *12 冬


「*」のつく月は(倍暦における)翌年の月です。
(実際には現在の1年の後半にあたります)

223 :九州王朝大好き:2009/04/19(日) 11:48:45
>>220
魏にとって重要なのは次の順番なのではないでしょうか。
@現体制の現実の伊都國は道程上の1国にしか過ぎないので、先ず官がいること。
A現体制下における人口による国の大きさ。
Bこの国には漢代旧体制から倭國王が未だいる。
Cしかし現在、この王達は女王國の支配下にはいっている。
D旧体制の王都だから、今でも旧来の習慣として、郡使が往来したり常に駐留したりしている。

狗奴國については
@一番重要なのは女王の国でないこと。
Aしかし女王の国と同様に官がいること。
Bそして其の国は女王に服していないこと。

何が重要とするかは判断の分かれるところと思います。

224 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 11:58:19
犬国の言う倍暦の場合

原書とやらに季節の表記がなかったのであれば
単に「1月」と言った場合それが春なのか秋なのか分からない。
>>222参照)

倍暦の使用者は例えば・・・
「○王の御世は奇数年なら1月は春、偶数年なら1月は秋」
と言う風にそれを記憶しておかねばならない。

無論、王の代替わりがあれば今度は奇数年が1月は秋の年になるかもしれない。

全く奇妙奇天烈な話だ。

時計の表示で言えば0〜24時と言う24時制表記もなければ
午前・午後の区別もない。

月の表示から季節を知るに前もって各王の時代ごとの法則性を知っておかねばならない。
知らない人間には季節が分からなくなる。
馬鹿げた話。

一体何の為の記録なのか?
いや暦なのか?

これだけでもこの犬国の馬鹿の言う倍暦なる物がおよそ暦と言えない物であるのが分かる。



225 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 12:00:45
>>224
バカなの?
頭固すぎ

226 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 12:08:14
考えれば変な話を通り越して笑い話にすらならないが・・・

単に月の表示では季節の分からない倍暦の記録(>>222)に季節の表示がなく
月と季節の齟齬はありえない後代の記録に季節の表示がある。

・・・もう犬国という狂人の妄想レベルだなw


227 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 12:17:23
>>225
まあ頭の固くないと言うか普通の人間なら
月から直ちに季節の知りえない倍暦なんて物を使うのなら
尚の事「春夏秋冬」季節の一字ぐらいは入れて置くだろうなw

何が悲しゅうてわざわざそんな暦をまるで” 暗号化 ”せねばならないのか?

少しは脳味噌使って考えろ馬鹿w

228 :九州王朝大好き:2009/04/19(日) 12:23:53
>>221
『特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之』
諸国ダブり問題の結論への経緯は今は思い出せません。
諸国ダブりが正しいと思います。
「之」が「一大率」であることを明確にする為に諸国をダブらせたと思います。
前の「諸国」は検察の目的語、後の「諸国」は畏憚の主語。
若し「諸国」が1回ならば、「諸国」は主文の目的語であり、従属文の主語でもあります。
とうすると、主文(文全体)の主語が従属文の目的語となり、主語一大率はループして文としてまとまれません。
2つの文にはっきりと分離する目的で、前半の文の目的語と後半の文の主語とに書き分けたと思います。

書いていたらはっきりしたことを思い出すかと思ったのですが思い出せませんでした。onz


229 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 12:50:31
>>200
>邪馬壹國は女王国の王都。

救いようの無い誤読だな、邪馬壹國=女王国だよ。
「南至邪馬壹國 女王之所都」
南に邪馬壹国に至る 女王の都するところ
邪馬壹は女王の都のある国だ
つまり、邪馬壹國=女王国です。


230 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 12:50:34
>>222
オマエ相当鈍感だな。何故ないだと? 当たり前だ。当時の1年は現今の半年
だ。となれば春秋があれば夏と冬は倍暦では翌年だ。こんなことは古代マヤ暦
でもある。いわゆるツォルキン暦がこれだ。この暦では1年が260日だから

 365日−260=105日

だ。となれば一季節は90日余だからこのマヤ暦法では春夏秋があれば冬がなく、
冬は同暦での翌年回しだ。オマエよ〜くもう一度その弱そうなお脳で考えてみろ。
それでわからんなら、オマエそうとう脳が弱いなぁ。www 大丈夫か〜?ww

まぁそうだなぁ〜電卓がたたけてソロバンのできない小学生もいるようだから、
オマエもこのままだと同ランクになるぞ? Pu!!wwwwww

231 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 12:59:22
>>228
すみません、ちょっと分かりにくいですが、「諸國諸國」が正しいという理解でよいですか?
そうすると岩波文庫やウェブでよく見かける「諸國」1回の影印は何でしょうか。
この一大率の文章については山尾幸久氏も
「とりわけ読み下しのむつかしいところ。原文そのものに少しく無理があり、とうてい達意の文章とはいえない」
と言われていますw


232 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 13:13:37
>>230 犬国

マヤ暦だのを出して話をグチャグチャにしてトンズラ図るのはいつものパターンだなw

マヤでもきちんと1年を365日とした太陽暦を使っていた
(ググたら「ハアブ」と言われる物らしいが)

今言っているのは月と季節の関係の話でマヤの暦法は関係ない。

話をはぐらかすなこのキチガイw

233 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 13:19:36

さてさて今日我々の使っている暦は当然「月」と季節は対応していて

4月と言えばポカポカ陽気の春であり紅葉の秋なんて事はありえない。

それでも会話や文章中に「春」と言う季節を表す語を頻繁に使う。

なのに
狂人 犬国 の言っているのは月と季節が対応しない倍暦の記録で
わざわざまるで暗号化するかのごとく季節を記入するのをやっていないと言うのだから

自分が必死にすがり付いている倍暦を成り立たせる為の「ご都合主義」以外の何物でもない。





234 :九州王朝大好き:2009/04/19(日) 13:21:57
>>231
諸国がシングルであろうと、ダブルであろうと、
陳寿らしからぬ文章で、達意の文章とはいえませんね。

235 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/19(日) 13:22:13
マヤ暦 だと
まず 春から始まる1年がある、
次年は、冬から。3年目秋から。4年目夏から。

こんな暦が成立するのは、世界広しといえど太国暦だけ。


236 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 13:36:35
>>229
「皆統屬女王國」で主語の「皆」と目的語の「女王國」が同じなのはおかしいですよ。
狗奴國以外の倭の王は皆、邪馬壹國にいる女王に代々属しているということ。

237 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 13:41:34
>>234
陳寿も鎮守の神様ではないということですね(笑)
イチローだって胃潰瘍になるんだから。あ、漢字はまずいか。


238 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 13:50:36
>>226

御犬様が狂犬病を患っているかはさておき、
氏が倍暦期間と称する時期の暦上の日付、日にちですね。
これを御本人は、どうやって算出したのか、これが一番の謎ですね。
日にちの算出方法については、一切口を噤んでいるように思います。

これは9代天皇までの紀における崩御記述の一覧なんですが、

神武天皇七六年春三月甲午朔甲辰
綏靖天皇三三年夏五月癸酉
安寧天皇三八年冬十二月庚戌朔乙卯
懿徳天皇三四年秋九月甲子朔辛未
孝昭天皇八三年秋八月丁巳朔辛酉
孝安天皇一〇二年春正月戊戌朔丙午
孝霊天皇七六年春二月丙午朔癸丑
孝元天皇五七年秋九月壬申朔癸酉
開化天皇六〇年冬十月癸丑朔乙卯

原始資料では干支表記になっています。
普通は、もっと降った時代の基準日から60日づつ遡って行く訳ですが・・・
中途に通過の定点となる朔の記載があり、
この部分については実際の月齢にかかわります。
御本人は、この点をどうやってクリア(つまり無視する理屈)しているのかと。




239 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 14:13:42
>>231
諸国が一回のと二回のと、別々に彫られた版木による違う系統の刊本が存在するということやね。

240 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 14:33:12
>>230
マヤでは一周期260日のツォルキン暦と365日のハアブ暦を併用していて、
52年でツォルキン暦とハアブ暦の組み合わせが一周するとウィキペディアにでてるぞ。
ツォルキン暦の方は宗教的・儀礼的な役割だとも書いてある。
マヤ暦法では冬がない事になるなんて言えないよ。
それとも倭では倍歴と通常歴を併用していたとでも言うのか。

それよりも、卑弥呼は三世紀でマヤが四世紀かららしいね。
ツォルキン暦ははっきりとした痕跡が残っているのに、
倍歴には欠史八代の崩御の日付八個という薄弱な論拠しかない。
固有文化の保存状態が違うとしても、あまりに違いすぎないかい?
本当に倍歴をやっていたのなら、民間の風俗や伝承にもっとそれらしい痕跡があるはずだと俺は思うよ。

241 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/19(日) 14:34:02
>>238
太国倍暦では、日にちを数える事は、御法度だそうです。


242 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 14:45:40
>>232
ハハア〜オマエ当時の日本も古代マヤと同様1年が365日の暦法も使ってたん
だよ。知らないのか〜?ww つまりだ、オマエのお脳が言うマヤの1年が365日
というハアブ暦と1.4倍暦の1年260日の暦法はマヤが当時重複並用してたわけ
だ。そして当時の日本も通常暦と倍暦法の並用をやっていたわけだ。

このごろ少しばかりは脳内にクズ知識を蓄えたわけかねぇ〜?ww

ま〜だまだソロバンが使えず電卓の域だな。ところでオマエまだ黄色い太陽の
主張を信じているのか?ww もうそろそろこんな子供騙しの畿内論をぶちまけ
るんじゃねぇ〜!!wwwwwwwwwwww

それともなにか〜? 両眼が縦目で0.01以下か〜? オマエじゃ〜朝10回太陽と
面接wwしてもだ〜太陽が南から昇って見えるようだな。そのうちコテハンも
無コテを含んで10個もチラすのかだろう??ww

ウワッハッハ!!wwwwwwwwwwwwww 45度ならまだしも〜90度も
恣意的に天皇の死亡日同様変えねばならないオマエの言い分が両腹
いた〜いねぇ〜〜。ww

243 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 14:47:51
唐松山さんよ
そろそろホツマの文は月の前のほぼ全部季語なんぞつかないことをゲロしな。
また 卑弥呼=男 ではもう呆れて言葉が出ないねぇ。www

244 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 14:54:09
>>241

そうでしょうね。
なんか、資料のようなもの(日にちの統計のことね)を出して来て、
さあ、これに反論してみろと言いつつ、その資料とやらの作成ソースを
一切明かさない。
これじゃ、資料が正しいのかどうか、検証しようがないので、
反論もでてこない。

ソースを証さない点では、年輪年代法の先生も同じだけど、
こちら方は反論してみろとか言わないもんな。

せめて、崩御の日にちだけでも、何日と捉えているのか明かして欲しいですね。

245 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 15:21:18
>>242
>ハハア〜オマエ当時の日本も古代マヤと同様1年が365日の暦法も使ってたん
>だよ。知らないのか〜?

倍暦じゃない通常の暦「を」使ってたとしか知らないよ。
倍暦否定してんだから、当たり前じゃん
併用していたっていうんなら、それを証明するのが君の義務だろう。
自分がすべき証明を放置しておいて、知らないのか〜って、おかしいだろう。常識で考えて。
罵詈雑言を書く暇があったら、証明したらどうだろう。

ついでに、もう一つ。
ツォルキン暦とハアブ暦は周期が260日と365日。
干支法にしても10と12という周期。
異なる周期の最小公倍数が新たな周期になるというところに、
異なる暦を用いる意味があるだろう。
倍暦を用いる意味って何?
倍暦と通常暦の最小公倍数とっても、通常暦になるだけ。
ツォルキン暦とハアブ暦や干と支の関係とは違ってるから、
マヤ暦を倍暦の傍証にするのは乱暴すぎるよ。

246 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 15:28:16
>>239
その諸国が二回の版木は存在するのでしょうかね?
二回でないと解釈できないから、補っているということかな。

政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等 二十人送政等還。
これは間違いなく壹與が繰り返されているわけだが・・・

247 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 15:29:40

イヨタン・・・・・・・・・・


イヨタン・・・・・・・・・・


248 :改め:2009/04/19(日) 15:30:44
>>201 九州王朝さん
>王帥升は倭奴國を滅ぼし、その捕虜160人を生口として安帝に献上した。
>光武帝が印綬した倭奴國が無いことを示したのである。
>しかし金印を引き継いでいない帥升を安帝は認めず請見しなかった。
>帥升は倭奴國と敵対した倭の広域の国の王であるので倭国の王としたのだと思う。

「帥升は倭奴國を滅ぼし」とか「帥升は倭奴國と敵対した」とか、貴方が
勝手に書き込んでるだけです。どこにもそんな記録ありませんから。

>倭奴國は福岡平野だけの狭域のの国。
>帥升の国(倭面土國)は筑紫平野と福岡平野にまたがる広域倭の国。

倭奴國というのは、倭國之極南界にあるわけです。
「筑紫平野と福岡平野」とか妄想にすぎません。

>「倭米多國」とすべきなのを何故「倭面土國」としたか?
>「如墨委面」からではないかと思う。

「倭面土國」に関しては現在調査中。
後日書き込みますよ。

249 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/19(日) 15:35:59
ショコク・・・ショコク・・・

あ、改めさんも
更立男王、國中不服、 更相誅殺、當時殺千餘人。
この男王が難升米だという説は取り下げましたので。
>>206 参照
ありがとうございました。
今週はこの辺で。
機会があったら書くかもしれません。
GRRR・・・

250 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/19(日) 16:07:40
>>243
私が何時、卑弥呼は”男”と言いましたか?

251 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/19(日) 16:40:28
>243 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 14:47:51
唐松山さんよ
そろそろホツマの文は月の前のほぼ全部季語なんぞつかないことをゲロしな。
また 卑弥呼=男 ではもう呆れて言葉が出ないねぇ。www

ホ31331  トキアスス フホヨソミトシ ツミヱハル ムツキツウエハ コカキミエ アマツヒツギを うけつぎて カヱシネアメの スメラギミ 
言葉が出ないは、此方の台詞。
全てに季節が入っていなくても、日にちを数える事は出来る、日にちを数えれば、ホツマでさえ
太陰暦で書かれていることは常識、1,2,3月が太陰暦の「春」で有ることは、万人の常識。

この常識を否定すると、梅雨時(田植え時)池堀にはげむ太国さんの姿が見える。
こんな季節は、土も水分を沢山含んでおり土手を作っても土が固まらない、
この程度の常識も通用しない「太国倍暦」とは、妄想以外の何物でもない。

倍暦とは 書紀の日々の数字を否定する。 2倍年なら
(354+353)/2=365日 又は365*2=707日 706日も正解
(353+383)/2=365日 又は365*2=766日

小学校の算数からお勉強のやり直し。


252 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 17:27:16
>>245
だいぶ悔しいようだな〜。w まぁ落ち着け。否定のための否定に終始してた
んではしようがな〜い。悔しく必死に仇をとろうなどより、どうせオマエが
誰だかは分からんのだからどうってことはないはずだ。要するのオマエの思い
違いを検討しろということだ。w

いいか〜、八代時に天皇の死亡が全員上旬の1日〜10日までだということは、
オマエが死亡日をずらして他の日にしたって言ったところで、そういう事がだ〜
8代分8回もあるわけもなかろう。それがそうなら何処の歴史の死亡日も全部
入れ替えたとの論理が成り立つ。つまり1回くらいはそんなことはありえよう
が、それが立て続けに8回も起こりうるとは考えにくい。そう考えると当時
8代の天皇はま〜ず上旬に全員死んだと観るのが安全だ。それはどういうことか?

当ったり前よ。当時の1ヶ月は現今の半月分の他に10日しかない時代も存在
したのだ。つまり3倍暦を行使してたのであり、それもこの時代の天皇の死亡は
この暦での原書のを採用したということが濃厚だ。じゃぁ他の事象も全部3倍暦
だったのかというと、そうでもないのだ。通常暦との混交があるようだ。
並用だからだ。これがある。 ↓

日野群志
「后歳積り百十歳ニシテ孝靈七十一年辛巳4月21日ノ辛巳ノ日崩御シ給テ・・・」

これはどうやら孝靈の皇后細媛だな。これだと百十歳は倍暦の関係だが、21日と
いう月下旬に死んでいる。だから通常暦の使用の可能性が充分認められる。

天皇の死は3倍暦で皇后の死が通常暦の、並用をしていた状況なのだ。それでも
暦法混交の感じも捨てきれない。ちゃんとオマエこういう文証を出してモノを
言え。なお唐松山氏は卑弥呼を男だとぬかしており、オマエもこれを明白に
近い妄想だと思うだろうから、彼の言い分は棄却したほうがオマエのお脳が正常
だということの〜安全圏内にあるとの帰着がなされる。

253 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 17:34:05
>>251
妄想はやめてくれよ。北極南極ではいまでも1月〜3月だけが冬とは限らんぞ。
当時の連中はいまの熱帯のジャングル同様の迷信を深く信じていたのだ。なにが
1月〜3月が冬だ。古代人は文明開花の現代人ではないぞ。w

現代暦も「増し」が毎年常識なのか?wwwwwwww

254 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 18:00:48
> 太国 ◆yVAs7uaYlY

もう自分で「倍暦」専用のスレ立ててそこにひき困ったらどうだ?

そもそもお前は邪馬台国九州説でそこでは倍暦を使っていたかどうかは分からないんだろう?

邪馬台国はなかった畿内大和の大和朝廷の記紀の倍暦なんて
九州説のお前が邪馬台国スレでいっていること事態がおかしい。





255 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 18:08:58
>>246
邪馬台国研究総覧によると、汲古閣本によったという原文には諸国が重なって
おり、そこに、「宋本南本無」と諸国が一つしかない旨の注がついているよ。

256 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 18:14:16
>>254
まあ、ほっといたら。妄想にとりつかれた人間に何を言っても無駄だから。

257 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/19(日) 18:17:32
>日野群志 「后歳積り百十歳ニシテ孝靈七十一年辛巳4月21日ノ辛巳ノ日崩御シ給テ・・・」
この文章が皇暦で書かれていれば、文章内に誤りが有ります。
もしこの文章が普通暦で書かれているのならば、「孝靈七十一年」は現実に存在しなければ成らない。
−660年を認める積もりか? 




258 :縦目仮面:2009/04/19(日) 18:28:59
まあ、倍暦にかかわることは人生のムダと思うのでやめておくが、俺の言ったことが誤解
されてるようなんで一言。

90度認識錯誤というのは魏使のことではない。現場の人間が東と南を間違えることはない
だろう。そうではなく、恣意的に南と書いたのは陳寿だと思う。なぜなら、当時の中国知識
人の認識として、列島は九州を北の頂点として南方に伸びているものとされていた、と考え
るからだ。

根拠は室賀信夫説。これも誤解があるが、室賀氏は「混一疆理歴代国都之」は取っていない。
あれは、「行基図」が李氏朝鮮の臣により誤まって挿入されたものだろう。室賀氏はこれ以外
の古地図群をもとに、古代中国人の倭国に対する地理観のズレをほぼ完璧に論証している。
まあ、だまされたと思って室賀論文を読んでみてほしい。

陳寿は当時の知識人のならいとして、仲間の評判を何より畏れたと考える。九州島の東に
倭国の都があるとはどうしても書けなかったのだと思う。このことは >会稽の東治の東
という記述と呼応しているように見える。

ただ、俺はこのような検証できない説に固執してるわけではない。レスを読んでくれた人は
わかると思うが、もっと別のアプローチを重視している。・・・一言が長くなった、スマソ。

259 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 18:52:25
>>252
欠史八代の八人全員の日付がずらされる必要は無い。
一人違っているだけで確率は2倍になる。二人なら確率は4倍になる。そういうこと。

>天皇の死は3倍暦で皇后の死が通常暦の、並用をしていた状況なのだ。

あまりに恣意的だな。なんで天皇が3倍暦で皇后が通常暦なんだ。
そんなことする理由は何だ?
ツォルキン暦は神聖暦などとも呼ばれ、祭祀や占いに係わっていたらしい。
ハアブ暦とは性格が違う。
翻って、夫婦の崩御に別の暦を使う理由って何だ?
日を数える周期が違うということは、宇宙の運行を捉える思想が異なるということ。
夫婦の死んだ日付を、思想の異なる暦で記録するなんて突飛な事を認めるより、
八人の死んだ日付が偶然月の前半に偏ったという256分の1の確率の方が
余程説得力があるな。

あと>>238の質問にも答えてやれよ。
干支表記の崩御の日付を、どうやって数字に直したのか。
オレも知りたいよ。

260 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 19:30:22
大和三輪山近く、皇女。

261 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/19(日) 19:37:30
>夫婦の死んだ日付を、思想の異なる暦で記録するなんて突飛な事を認めるより、

その内「古事記」と「日本書紀」は同じ太陰暦でも「日本書紀」のみ暦日に伸長が
有る事を認める日も来るだろう、
その時 同じ干支でも古事記と書紀に違いがあり、「夫、皇暦の没年であるが妻は古事記の干支」
の事実に気が付く時が来る。
 

262 :九州王朝大好き:2009/04/19(日) 19:44:49
>>248 改めさん
>「帥升は倭奴國を滅ぼし」とか「帥升は倭奴國と敵対した」とか、貴方が
>勝手に書き込んでるだけです。どこにもそんな記録ありませんから。

記録はありません。
僕の推論展開よる帰結です。
未論証部分の多い案件です。


>倭奴國というのは、倭國之極南界にあるわけです。
>「筑紫平野と福岡平野」とか妄想にすぎません。

倭は対馬海峡の両側に展開していますので。
その南岸にある福岡平野は倭國之極南界になります。


>「倭面土國」に関しては現在調査中。
>後日書き込みますよ。

賛同意見よりも貴氏の批判論を期待しています。
倭面土國については、2年ほど前にサガミハラハラ氏からヒントを頂いたものがスタートになっております。
僕はまだまだ未熟な状況です。
貴氏の批判が新たな突破口になることを。

263 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 20:59:46
>>259

> あと>>238の質問にも答えてやれよ。
> 干支表記の崩御の日付を、どうやって数字に直したのか。
> オレも知りたいよ。

自分で日付分布の統計表を呈示しておいて、
なんでその内訳を明かすことを拒むのだろうねえ。
誰も暦法の詳細を説明しろと、小難しいことを言っているわけではない。
倍暦計算では、神武天皇の崩御日は何月何日になるのかを
尋ねているだけなのにねw

明細を出せないなら例の表は「でっちあげ」と言われても文句は言えない。
倍暦論唯一の実例らしきものがでっちあげでは、論そのもが妄想と言われても
仕方がなさそうだね。

264 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 21:44:42
>>254
オマエの言ってることは一理あるが、倍暦の計上にて

 237年=景初元年=崇神即位元年

だと判明してる。それについでに同計上で

 259年=崇神崩御

から、記の崩年干支から 258年=崇神崩御 が極めて正確だということが
はっきりする。そこでだ、景初3年=崇神即位3年 のことから、九州の
卑弥呼の年代が崇神世だということになる。なお258年説はかなりの支持が
あるようだ。もはや次第に動かなくなるだろう。

おそらくは九州は倍暦をやってなかったとは思うが、いまのところ何とも?だ。
だからこのスレとある程度関わってくることになるのだ。

265 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 21:53:15
>>257 唐松山さんよ
よく記載内容を読め。暦法が並行してるんだから、その七十一年はおかしくは
ないよ。おかしいのは卑弥呼が男だと言ってるあんたのことだ。

>>258
あんたはコテハンを多用してかつ無コテをも使用して余の攪乱を企んで
いる卑怯で大した持ち駒などないな奴かと思ったが、なかなかどうして整然と
論述できうる能力も持ち主だな。今後もいい面を伸ばして頑張れよ。

ただ倍暦の存在は間違いないと思う。また258年説がそれがしの独立した倍暦の
計算の結果とほぼ一致することから、次第にこの説が不動になると思うぜ。

266 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 22:06:08
>>259
オマエもなかなかいい点を指適してるな。
完全に判明はまだだが、オマエも少しは真面目な質問をしてるので、激昂して
いたらしい精神状態が冷静に戻って来たようだな。

とにかく朝廷は古代マヤ文明がツォルキン暦、ハアブ暦、バクトゥン等の
長期暦の並行運用を実施していたように、当時は通常暦の他に2倍暦とかつ
3倍暦を行使していたようだ。かように2倍3倍をやった事由は記紀に
ある黄泉国の段のイザナミの怨念の恐怖によるもののようだ。つまり千五百産室
と千人絞殺の言い合いから、その割合で

 1000 : 1500 = 2 : 3

を採用の因としたようだ。当時は迷信も多くかつ根強い。

267 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:08:16

まるっきり『ムー』の世界だなwww



268 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:12:56
犬国、退却準備開始だなw
また暫らくアク禁になってしまいそうな雰囲気だね。
まあ、また出てきたら、今回の宿題を全て片付けてもらうことになるけどね。

269 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:18:00
古代チァイナか何ほざこーが、三輪山の近くの皇女

270 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/19(日) 22:18:15
>>265 だから私が何時 「卑弥呼が男」だと言った?

>237年=景初元年=崇神即位元年
この見方ですが 景初元年正月朔で太陰暦として保留。
問題は、237年=崇神即位元年 此方です
崇神即位元年1月1日が西暦237年の365分の1日以上の分解能なし では使い物に成らない。

この程度の数字も合わせていない、と云うより合わせられない?
崇神世は68年なので 垂仁元年は、崇神末年の一部ですか?
倍暦の「正しい暦化」を進めない限り人の支持は得られない、
倍暦の「正しい暦化」は記事と季節の異常も顕著となる。
4道将軍は、現実に何日位の遠征か? 以前は東北会津まで遠征したと主張していた時期も有った。



271 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:20:40
俺が言えることは
ドツボ、梅毒、チョロ松、デブ国

こいつらがバカコテハン四天王ってことだけだ。

272 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 22:25:22
>>259 >>266 続き
神武が畿内で戦ったとき、皇兄の五瀬命は5月に戦死した。その悲しみはこの前
TVで関羽が首を切られたとき劉備、張飛らが大きく嘆き悲しんだことを見せて
もらって、神武も同然ひどく嘆いたろうなと〜当時を推察している。

さらに皇祖アマテラスは五月蝿がわんさと発生して天地が混乱し岩屋で隠れた事
を重視し、朝廷は五月を凶月と考え定めたと観る。まぁ迷信が横行して
いたろうから、朝廷は5月を畏怖していたのだ。それ故、翌6月に大祓いを
やるようになったんであろう。暦の事典には5月は悪月とある。

このことから、神武は即位後、直ちにいままで通常の暦でやってたのを廃し、
1年のうち5月以降の月を削ったのだ。それだけ5月を忌み嫌っていたのだ。
だから神武紀で即位から崩御まで1個たりとも5月〜12月が無い。つまり当時は
1年が1月〜4月までの4ヶ月だったのである。〜ということは現今の1年は
神武の在位中3年も経過したことになるのだ。

神武崩御後、次代の神沼河耳尊は即不便な3倍暦を廃しして通常暦に戻して
いる。神武葬が5月以降の9月に執行していることからこれが分かるのだ。

273 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:30:06
つうか犬国のアホはマヤ暦を出せば自説の証明になるかのごとく勘違いしているが

犬国がやるべきは、その1年を365日としない暦に基づいて
人の年齢をも数えていた事例を挙げることだろうな。

それを挙げもせず馬鹿の一つ覚えみたいにマヤ暦など出しても意味が無い。



274 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 22:38:08
>>272 続き
五瀬命は戦死したのは 5/8 だ。五月と五瀬命の文字が一致していたから、朝廷
はひどく5月に恐怖した。まるで易の方位で五黄殺を大凶としているようにだ。
ところが死んだ日の8数は命の名の数字と合ってはいなかったが、命日だから
一応この数字に用心はしていたろう?
 
ところが神武崩御直後、手研耳命が謀反を起こした。このとき神沼河耳尊に協力
し手研耳命を倒したのが神八井命であった。五瀬命の名の数字に合わない命日の
数字8は、謀反を懲らした神八井命の名と一致していた。そこでこの数を吉と
観て、次帝の神沼河耳尊は8日に即位したのだ。すでに通常暦に戻している。

8はまた八咫鏡等記紀で目出度く多用される数字であり、尊はこの吉数をよしと
みなし、8日即位を断行した。

275 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/19(日) 22:39:51
太国さんが宿題を片づける?
ナイナイ絶対無い、
太国倍暦は太国さん自身がこの数字で日本の歴史を見ていませんから。
何処かで、太国さんがこの倍暦で歴史を見た書き込みを読みました?
せいぜい 数字を書き出すか他人の説の否定にしか使っていません。
自説も発表出来ない数字で、他人を誹謗中傷するのが太国さん。
自説を信じて貰うためには、自説で自分の歴史を書き込んでくださいよ。


276 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:40:02
いや、神武以下の崩御が倍暦計算では何月何日なのか明かすことが第一だ。
その日付は月の15日以前で無くてはならないのだが、実際に何日だったのかは倍暦素人にはわからない。
ホントに神武や闕史八代の崩御が月の10日以前に収まるものなのか、検証できないではないか。
この理屈は、太国氏にだって理解できると思うが、何としても明かすことはできないらしいw

277 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 22:42:58
訂正
× 神八井命
○ 神八井耳命

278 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 22:46:11
唐松山さんよ
ウソもほどほどにしてくれ。曲学の徒さんの板で確かどこそこの皇子が卑弥呼
だと抜かしていたではないか? 妄想なんで引っこめたんか?www

279 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:46:55
頑として、応えられないことは無視。
さすが太国魂wwwwwww

280 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:49:17
>>258
2倍年暦の痕跡

正月、盆
春秋の彼岸

6月と12月の同じ日に行われる宮中行事
* 大祓 (おおはらえ)
* 御贖物 (みあがもの)
* 忌火御飯 (いむびのおんいい)
* 御体御卜奏 (みまのみうらのそう)
* 月次祭 (つきなみのまつり)
* 神今食祭 (かむいまけのまつり)
* 大殿祭 (おおとのほがい)
* 解斎御粥 (げさいのおんかゆ)
* 豊受大神宮月次祭
* 皇大神宮月次祭
* 節折 (よおり)
* 鎮火祭 (ひしずめのまつり)
* 道饗祭 (みちのあえのまつり)

281 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:49:55
>>275
おっ、チョロ松、いいぞ。w

がんがれ!チョロ松!

282 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 22:51:09
唐松山さんよ
ないない〜増しなど空想だよ。だって今までこのことを具体的論述したことが
1回だってなかったろうが。あんたは年代が合わない時は増しの語で繕って
いる。これについて論理の展開が根子の額ほどもない。

283 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:51:30
太国は既に涙目状態だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

284 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:52:40
>>282

早く欠史八代の崩御日を書けよ

285 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:58:19
倍暦の証拠 母音交替により倍数を示す

 1 Φi1to2 
 2 Φuta

 3 mi1 
 6 mu

 4 'jo2
 8 'ja

 5 'itu
10 to2'wo

286 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:58:34
>>275唐松山さん

>何処かで、太国さんがこの倍暦で歴史を見た書き込みを読みました?

読んでませ〜ん

>せいぜい 数字を書き出すか他人の説の否定にしか使っていません。

そだそだ

>自説も発表出来ない数字で、他人を誹謗中傷するのが太国さん。

ひきょうだぞ〜!

287 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:59:05
             数詞対照表

  古代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語

1   Φi1to2    −−  hっtっn hっtっn   hΛnah    hana
                 (一等)  (河屯)
2   Φuta    −−  tu¨pっ¨l tuβっr   tulh      tu:l
                 (二尸)  (途孛)
3    mi1     mil    siet    sei     s∂ih     se:s
            (密)    (悉)   (洒)
4    'jo2     −−   −−   nei     n∂ih     ne:s
                       (廼)
5    'itu     'utsu   −−   ta∫us   tasΛs    tasっs
           (于次)        (打戍)
6    mu    −−   −−  'jul∫us  'jっsΛs    'jっsっs
                       (逸戍)
7   nana    nanun  −−  'ilkup    nilgub    'ilgob
            (難隠)        (一急)
8    'ja     −−   −−  'jultap   'jっdщlp    'jっdっl
                       (逸答)
9  ko2ko2no2  −−   −−  'ahop    'ahob     'ahob
                       (鴉好)
10   to2'wo    t∂k   −−   'jっl     'jっlh     'jっ:l
            (徳)         (噎)

※古代日本語の[i1]はイ列甲類、[o2]はオ列乙類。[っ]は母音[?]の代用。
  高句麗語の数詞「5」については村山説を挙げたが、
  李基文や板橋義三は再構語形を[uc]としている。

288 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 23:06:55
>>276
否々そうじゃぁない。神武は後帝の八代の時と違って30日まであったようだ。
八代とは倍暦でもやり方が違っていたのだ。それほど朝廷の暦法は複雑だったと
いうことだ。古代マヤも先のツォルキン暦、ハアブ暦に加え、バクトゥウン、
カトゥン等の長期暦と短期暦のイニシャル・シリーズ、セカンダリー・シリーズ
に月齢暦、奇異な819日暦法、また金星暦もあったらしい。ここまで至らぬとは
思うが、朝廷の暦法も3種の暦法の複雑並行運用を行っており、さらに神武時と
八代時とでは暦法が断然違うのである。神武の代は1年が1月〜4月まででの
3倍暦法であったがこの1年四ヶ月間、日数は各30日までまるまるあったもよう
である。

また紀の干支は紀の編者らの逆算であり、非常に精密のようだ。通常暦だけ
だったなら、当然神武即位まで正確のはずだったが、大陸は通常暦で日本が倍暦
のため大幅な年代の段差が出来上がっていたことから、正確は期することは
できずに終わった。だから神武即位がB.C.660年まで延びてしまったわけなのだ。

289 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 23:14:08
かようなわけで、唐松山氏のやっている、また要求のやり方とはエンパイヤー・
ステート・ビルディングを1匹の蟻を酷使して建造しようとする試み同然で、途中
シロアリにやられたような空白日が表のようにゴマンとあるから、彼のやり方
は崩壊に至り、骨折り損のくたびれ儲けになる馬鹿ばかしいい労働なのであ〜る。

それをそれがしにできていないと、こちらのせいにしているような批判を多大に
扇動している。まぁそれがいいなら、彼には死ぬまでやっててもらいたい。w

290 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 23:33:24
>>288

> 否々そうじゃぁない。神武は後帝の八代の時と違って30日まであったようだ。

だから。その八代の倍暦上の崩御日を明かせよw
ご立派な表を度々披露してくれているんだから計算はできているんだろうw
何故、掛けない!!!
出せよ、具体的な日にちをさ。
出せないなら、早くごめんなさいといって二度とでてくるな!!!

291 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 23:34:37
犬国哀れだなwwwwwwwwwwwwwwwwwww

292 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/19(日) 23:39:00
オマエは要求が多きすぎるぞ。ほざくな。そんなに知りたけりゃぁ、
耳を揃えて記紀の10万倍の当時の古文献を発掘して来い。

それが出来なきゃぁ〜さっさとここから消えろ。そこまで分かれば
もう完全に定説だ。さらにオマエも卑弥呼の居所と〜〜
何年何月何日に卑弥呼が死んだのかを、そういう文句を言う前に
ここに書きこめ。それが出来ないんなら、もう出てくるな。

zzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・

293 :縦目仮面:2009/04/19(日) 23:53:37
あ〜あ。こんなん書くんか。
俺的には、古代の太陰暦は日本にはなかったと思ってるんで、太国氏と唐松山さん両人の
説に反することになるんだけど、一般的な資料から、日本の暦の歴史をみても何の問題も
ないと思う。

弥生時代〜古墳時代前期・・・農耕のための素朴な太陽暦。太陽の昇る方向や渡り鳥などの
生物季節を併用し、夏至・冬至・春分・秋分の二至二分を測定していた。これだけで、種蒔、
収穫には十分であろう。少なくとも一般農民は文字を用いていない時代に、太陰で日付を
細かく決める必要性がない。前述した平原遺跡の東面する70cm大柱などは、この証左として
有効だろう。
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/hirabaru.htm











294 :縦目仮面:2009/04/19(日) 23:54:22
古墳時代後期・・・普通ならこのあたりで、文明度が高まり、1〜30日を決定する必要に迫ら
れて、太陰暦を開発するんだが、日本は大陸からの暦の導入を試みた。これが、欽明14年
(553?)の百済からの暦博士の勧請。つまり、俺的にはこれ以前の、大王の即位、崩御など
の、まあ干支による年はともかく、日付はきわめて怪しむべきものと考えている。

飛鳥時代・・・持統3年(689)3月4月の木簡出土。中国の元嘉暦。当然「前3月、後4月」など
の記載はない。この頃には、文字と記録手段(筆記用具、木簡等)の普及から、庶民の間でも
暦が用いられるようになっていたのは間違いないだろう。ただし、元嘉暦と実際の季節のズレ
が生じることから、太陽暦の24節気も併用していた。
 


295 :縦目仮面:2009/04/19(日) 23:55:47
他スレでも書いたが、日本の歴史で占星術等が発達していないのは、太陰暦を独自開発する
以前に、大陸から暦学を導入したことによるものだろう。律令の天文博士なども大陸からの
招請である。

・・・これで何か問題あるかね?なぜわざわざ倍暦、3倍暦が必要なのか、まったく理解できない。


296 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:13:24
>>292

寝たふりをして逃亡かw
どうせ悔しくて悔しくて眠れないだろうけどw
いいですか、次の表は貴方が度々コピペを繰返しているものです。
---------------------------------------------------------
【欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数の統計表】

1日 4   15日 0   29日 0
2日 2   16日 0   30日 0
3日 3   17日 0
4日 1   18日 0
5日 3   19日 0
6日 3   20日 0
7日 2   21日 0
8日 3   22日 0
9日 4   23日 0
10日 1   24日 0
11日 3   25日 0
12日 4   26日 0
13日 2   27日 0
14日 7   28日 0
----------------------------------------------------------
貴方はこの表を作るにあたって、紀の干支記載を日ちに換算したのでしょう。
で、紀の記載が月の前半に集中することをもって倍暦存在の根拠として喧伝しています。
倍暦を否定するならこの表に反論しろとも言っています。
しかし、貴方がどうやってこの日にちを算出したのかは明かしていません。
それだけでは無く、八代の具体的な各祭日が何日なのかも明かしません。
それでは、この表が何をあらわしているのかさえ、他人には理解できません。
早い話、適当な数字を羅列しただけなのかもしれないし。
そして、具体例を出せといわれれば「要求が多すぎる」ですかw
そんな子供じみた手口で、話を逸らせられると思ってるんですかwww

297 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:26:09
>>292
> オマエは要求が多きすぎるぞ。ほざくな。そんなに知りたけりゃぁ、
> 耳を揃えて記紀の10万倍の当時の古文献を発掘して来い。
>
> それが出来なきゃぁ〜さっさとここから消えろ。そこまで分かれば
> もう完全に定説だ。


これって白状したのも同じだなw

>そんなに知りたけりゃぁ、耳を揃えて記紀の10万倍の当時の古文献を発掘して来い。
>それが出来なきゃぁ〜さっさとここから消えろ。そこまで分かればもう完全に定説だ。

つまり、記紀の10万倍の古文献が無けりゃ倍暦計算なんかできないわけだw
出来てもいないのに、「私が計算したところでは」とか言ってテキトーな数字を
並べて見せていたわけだ。
太国があの表を張るときは、他の議論で詰まったときで、
これに反論してから文句を言えとか言うゴマカシ材料だったからな。
そのイカサマを突かれたら、今度は卑弥呼の死亡日を明かせだってよw

だれもそんなものには答えないよ、判るなんて思っているやつはいないのだから。
ところが、オマエの場合は自分で計算したと言ってる欠史8代の崩御日だよ。
これは、もう絶対に欠史8代の崩御日は書けませんと言ってるのと同じことだwww

298 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:31:49
きょうはデブ国、惨々だな。ww

299 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:35:44
太国はもうだめぼ

300 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:40:20
ここがアク禁でも曲学の徒氏のところではカキコできるだろう。
あそこに出没したら、皆で追いかけて行って答えを聞こうじゃないかww

301 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:40:34
倍暦は疑問だが、紀の日付が月の前半に偏っているのは間違いない。理由は謎。

302 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:51:27
>>301

確かに紀の日付が偏っているのは間違いないが、それは元嘉暦で算出した日付だ。
太国が「倍暦」の着想を得た日付も元嘉暦に依存してるのだろう。
元嘉暦を使う時点で「倍暦の存在」と「紀の日付の偏在」は何の因果関係もないことが明らかなのに、
それを無視できる太国の軽薄さに恐れ入る。
つまり、太国倍暦とは着想された時点で破綻していたわけだ。
御本人もそれには気づいているから「具体的な日にち」は絶対に明かせないわけだけどwww

303 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 01:00:40
古事記の没日は13件すべて月前半。謎だ・・

304 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 01:03:05
恐ろしいほどに完璧な追いつめかただな。
まるでプラムフルボッコ時代の惨劇を再現したかのようだ。

305 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 07:47:31
13件が月前半ばかりの確率は8192分の1

306 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 10:33:21
天皇は月前半に死ぬ掟だったのさ

307 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 11:07:26
>>297
そうか〜ww 出来ないわけだ〜。オマエがそんなでかい口を叩くなら、卑弥呼
の死亡年月日と何時何分何秒に死んだのか耳を揃えて説明するんだな。
200円のプリンを食って20億円出せ要求するとはトンデモねぇ野郎だな。

だった消えろ! どうせできないんだろう? ウワッハッハ!wwwwwwww

308 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 11:10:54
>296
オマエ、だいぶオマエのお脳が史理滅裂になってきているねぇ〜。
それよりなぜ表の右側が1個も記事がないのかねぇ〜? それをよ〜くおつむで
考えて答えるんだな。wwwww

309 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 11:19:53
>>296
どうだ夜更かしで起きられないのか〜? そうだろう? どうやら歯軋りして
くやしかったから、寝ないで頑張ったんだろう。あとで右半分が何故ないのか
合理的に説明しろよ〜? ところで何の本で幼稚な知識を蓄えてきたのかねぇ〜?
な〜んだ今日は逃亡か〜。wwwwwww

1900年代は2月は探しても30日がグレゴリオ暦でもないんだよ。これは同年代
2月に30日が存在しなかったのさ。この表でもそれが正解だな。当時月の後半が
存在しなかったんだよ。オマエ存在したと強く考えこんでるから、妄想の反論
を爆発させてるわけさ〜。 ハハッハッハ!! 毎回余に負けの連続だったから
だな〜。wwwww だから何が何でも逆らってでも文句をたらふく垂れて
いるわけさぁ〜。くやしけりゃぁ、もっと泣けwww www www www

310 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 11:40:11
フトクニ落ち着け。そんなことしてると、また連投規制くらうぞ。

311 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 11:41:29
>296 >>297
〜お待ちしてましたが、卑弥呼の死亡年月日〜何時何分何秒かを
とうとう答えてくれませんでしたねぇ〜。逃亡ですか〜。ww
史理をまくってドロンですな〜? wwwwwwww

20億円を要求したのならその対価に見合った卑弥呼のブツを食わしてくれま
せんじゃぁ〜世の中通りませんがねぇ〜。PuPu!!wwwww

312 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 11:41:55
相手が居ない時に勝利宣言とは・・・
エンコリの朝鮮人を見てるようだw

313 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 12:21:52
誰か忘れたが、紀の崇峻以前は月前半日付が92バーセントと言っていた。正常なのは神武、崇神、推古以後。

314 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 13:27:00
オレは暦法も日本史も素人なのだが教えてくれ。
岩波文庫の日本書紀によると、安寧天皇は三十八年の冬十二月の庚戌の朔乙卯に崩御。
次の懿徳天皇は元年の春二月の己酉の朔壬子に即位。
さて、干支法で庚戌の日から己酉の日までちょうど60日。
12月1日庚戌から大の月の30日と小の月の29日が過ぎれば、
翌年2月1日はまさに日本書紀の記述のとおり己酉の日に当たる。
もし倍暦が行われていたとして、一ヶ月が15日なら、
庚戌の次の己酉の日は3月15日になる。
倍暦が月の大小や閏月をどうするのか知らないから大雑把にしか言えないが、
全ての月を15日で考えている訳ではないだろう。
一ヶ月がずっと15日なら、己酉は永久に3月15日・7月15日・11月15日にしか当たらないことになる。
だから、月の大小や閏月で調節するのだろうが、
それでも三十八年の冬十二月の庚戌の朔の日から起算して
己酉の日が二月一日に当たるまでにはかなりの時間が経過する必要があるだろう。
その間天皇位が空位だったという事になるのだろうか。

315 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 14:25:58
>>301
日本書紀は、わざと不自然な記載をおいて読者に真実の話ではないということを
伝えようとしているところがある。その類かも知れないな。

316 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 14:29:25
記は年が干支、日が数字。紀は年が数字、日が干支。どっちが古いのかねえ・・

317 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 14:44:03
暦(こよみ)とは日読み(かよみ)のことである

魏志倭人伝
其俗不知正歳四時、但記春耕秋収、為年紀

春に耕し以後毎日日読みし約180日で1年
秋に収穫し以後毎日日読みし約180日で1年

318 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 15:24:21
別に
春夏秋冬ごとに歳(これは年じゃないよ-よわい)をとってたってなんの不都合があるのよ
春分秋分で歳をとってたってなんの不都合があるのよ

そんなもん単位にしかすぎない
一尺とか一寸とcmが違うのと似たようなもんで

319 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 15:26:41
極端なことを言えば
「うちの赤ちゃんは
朝日を830回浴びたから830歳よ」
なんて単位だってあっていいわけで

320 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 15:28:15
>>317
春耕秋収というのは正歳四時に対応した言葉。

>春に耕し以後毎日日読みし約180日で1年
>秋に収穫し以後毎日日読みし約180日で1年

だと主張するならば、
中国では春になると毎日日読みして90日で一年。
夏になると以降毎日日読みして90日で一年。(以下秋冬おなじ。)
という暦を使っていたということになる。
正?四時という天体観測に基づく節目を知らず、
ただ田起こしや収穫といった農作業を節目とする農事暦に従っていたという事に過ぎず、
これを倍暦の証拠とするのは(ry

321 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 16:52:00


322 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 16:53:23
最近鼻糞がよく貯まるのだけど
なんでだろ

323 :ローガン:2009/04/20(月) 16:56:04
昨日は来れませんでした。話題はすっかり「倍暦」ですね。(笑)
さておき「統屬」の件でもう少々…
212さんの用例>@建安十八年州并属冀州更拜議郎?西部都督従事統屬冀州總故部曲。
私が前スレで書いた用例>A曹公克荊州假行裨将軍仍就故任統属長沙守韓玄
>B延熹中衡弟為京兆虎牙都尉秩比二千石而統屬郡。
@梁習は議郎西部都督従事ながら冀州に統屬し、元の部曲を束ねる。
A曹操に裨将軍(代行?)に任ぜられた黄忠はその役職のまま、長沙太守韓玄に統屬した。
B大権力者中常侍唐衡の弟は京兆虎牙都尉として(郡太守と同じ秩禄の)2000石取りとなったにもかかわらず、郡に統屬した。
続く。

324 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 17:07:35
>>314
うーん、一つの考え方としてだが・・・
狂人犬国の言うところの 原書=倍暦による記録 には干支を使用しておらず
単に月日か書いていなかったとすれば・・・

12月1日 安寧崩御
2月1日 懿徳即位

これを干支に変換すれば紀の記述通りになるんジャマイカ?wwwwww


325 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 17:14:30
太陰暦は月齢で日にちを数えるわけだが、月には上弦の月と下弦の月がある。
新月から満月までが上弦で、満月から新月までが下弦。

最近、夕方外に出ていることが多いのだが、上弦の月の場合は日が暮れたときに
すでに月が出ている。ところが、下弦の月の場合は、日が暮れてしばらくしてから
月が昇ってくる。下弦の半月の場合は真夜中に昇ってくる。

つまり、普通の生活をしていると、上弦の月は良く見るが、下弦の月を
見ることはあまりない。
月を良く見る人にとっては、上弦の1日〜15日は楽しいが、下弦の16日〜30日は
さびしい。

電気のない生活をしていた頃の人には、こういう風に上弦と下弦を分ける
気持ちがあったのではないだろうか。 

326 :九州王朝大好き:2009/04/20(月) 17:20:26
>>322
>最近鼻糞がよく貯まるのだけど
>なんでだろ

ヒノキ花粉アレルギー?
関西はひどい状態だ。

327 :ローガン:2009/04/20(月) 17:31:35
>>323の続き。
以上のような統屬の用例から 「統屬」という語が用いられた際の文意は…
Aは「Xという役職でありながら」Bに所属した。 となります。
「Xという役職」となった背景は各々、文脈から読み取れます。つまり所属先のB以外にに元々の任命者が存在します。
これを倭人伝に置き換えれば、「世有王皆統屬女王國」…
皆(官副官達)はその役職をそれぞれの王から任命されているにもかかわらず、女王國に所属している。と読むのがベターかな?と考えます。



328 :ローガン:2009/04/20(月) 17:33:50
>>206 >>215 いえ、こちらこそ宜しくお願いします。

329 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 17:55:32
>>322
鼻糞って鼻水の乾いたものだとすれば、326さんの言うようにアレルギーで鼻水が増えたってことかもね。

330 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 18:18:17
卑弥呼の時代は花粉症は無かったろうな。黄砂は有ったろう。

331 :九州王朝大好き:2009/04/20(月) 19:03:46
>>327 ローガンさん
『到伊都國
 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚
 有千餘戸
 世有王(魏代になっても伊都國に在る王 言外に漢代から続いている王統)
 皆(all of 世有王)統屬 女王國
 郡使 往來 常所(伊都國)駐』

上記の様な文の構成で読むと、
「皆」は、離れて書かれている官3名よりも、
直前の「世有王」を指すのが自然です。

以上により、
皆(世有王)は、漢代から続いている王統であるにもかかわらず、女王國に所属している。と読むのがベターと考えます。


今、規制がかかった。別チャンネルで書き込み。

332 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/20(月) 19:29:36
卑弥呼の時代は焼き畑の烟で1寸先も見えない時代かも。



333 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 19:35:30
>>326>>329
なるほど
ありがとう

334 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/20(月) 19:39:37
12月6日 安寧崩御
喪は49日
2月4日 懿徳即位

これで良いのだ。


335 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/20(月) 20:09:05
12月6日 安寧崩御 から2月4日 懿徳即位 まで57日
倍暦なる物は、必要な49日間の喪まで圧縮する。
書紀は「倍暦」で書かれていない証拠でもある。

倭人伝に書かれた「喪」の期間は一般人の場合です。

欠史8代で最も「喪」の期間の長かった考昭
カエシネミコを ヨツギなる コトシソヤなり ミソヨトシ ナガツキヤカに
キミまかる ワカミヤカミに つかえんと モハヒトホまて

 34年懿徳崩御、35年懿徳の亡骸を陵に祀る その翌年が考昭元年。
まあ此は例外、考昭が幼すぎたための方策。旧事記の「考昭」を読んで下さい。
 この幼い考昭が18才、この辺も「倍暦」では、「年齢加増」が上手く行かない。



336 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 20:22:15
49日間の喪は仏教に由来すんじゃなかったのか?

337 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 20:29:51
唐松山さんよ
金印の常根津日子の文字があんたの理論じゃぁ合わないだろうがねぇ〜。
こちらはちゃんと合うぜ。つまりだ、倍暦計算が非常に正確だったことと
なるのだ。ww これは墓標じゃないよ。

いいかいあんたの言う池がどうのこうのだが、皇紀568年は倍暦だと238年の
5月〜8月だが、その皇紀の年は疫病が流行した年なんだよ。伝染病がはやるのは
夏だろうがねぇ〜。おかしくないだろう。
その年、紀に池を作ったとどこに書いてあるのか?

338 :縦目仮面:2009/04/20(月) 20:54:17
俺が、太国氏の表を見てまず疑問に思うのは、書紀の編者にどうやって、欠史八代の即位年月日、
崩御年月日等の情報が伝わったかということ。帝紀から引き写した可能性も高いが、帝紀自体欠史
八代からははるかに新しいもので、天武期に稗田阿礼の暗誦を筆記したといわれている。
とすればこの高名な語り部は、どのような形でこれらの日付を暗記していたものだろう?

あるんなら干支だったと思われるが、阿礼はその月の塑の干支をも記憶していたのだろうか。
「辛亥年 七月 塑日(1日)甲子の丙寅(3日)・・・」とか。
それとも帝紀・旧辞をさらに遡る、秘められた書物とかがあったのかww?

しかしこんなことを考えるなら、わからないから書紀(帝紀)編者がでっちあげた、と考えた
ほうが俺的には、ありそうな気がするが、ここのところ唐松山さんどうですか??

339 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/20(月) 20:57:54
綏靖崩御時の安寧の喪
ホ31235 ソカネナト スメラギまかる ヤソヨトシ ワカミヤそのヨ
モハにいり ヨソヤヨいたり イサカワに ミソギのワぬけ ミヤにいづ 

では太国さん 金印に常根津日子の文字が有ったとして
その文字は、何時どの時点で書かれた物としているのですか?
それから伝染病流行の為「百姓流離」または 伝染病流行の為京の民が京の都を捨てた 等
他の文献に有りますか?
>その年、紀に池を作ったとどこに書いてあるのか?←この辺は何が言いたいのか理解出来ない。
その年とは何時ですか? 又その年に池を作る理由でも有るんですか? 




340 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 21:01:17
がんがれ!チョロ松!

341 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/20(月) 21:16:14
私の数字は太陰暦の日本書紀を日本書紀より短く圧縮して太陰暦で読める。
その時
崇神6年=新羅193年条
崇神11年=異族多帰=巻向から各地の土器
この様に読むと
神功前紀=273年=日食など
書紀の記事が西暦の事象にマッチする。
此まで誰も日本書紀を太陰暦で読める様圧縮しなかったか? 此方の方が不思議。

神功元年=274年(ここから1年の狂いが生じていると思われる)
神功52年=325年(326年)七支刀
 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔 

この辺の数字を使わないと 関東の古墳も説明できない。
「書紀(帝紀)編者がでっちあげた」にするには、暦法の日付では時々狂う書紀の暦日の
説明が出来ない。


342 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 21:22:29
>>339
池田仁三氏の金印の文字が科学的検査で「常根津日子」の文字があったのなら、正なら、それが57年の「漢委奴国王」だということになる。
墓標は米田氏も言ってたが後世に誰かが書きこんだものと観ている。
金印は国王がもらった時点でついていたいうことになるから、墓標に
書いた者とは別人で時代も違うということになる。

57年金印から、紀の常根津日子を調べれば、拙者の倍暦計算は正確
だということが判明する。あんたの日数ピストン寿司詰め逆算では
合うわけがなかろう。この前もあんたは論をこの件で引っこめたと
思ったがね? 

343 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 21:24:39
唐松山さん
ま〜だ日食が長時間続くと平気の平座で主張してるのかね?
まぁ卑弥呼が男だとか言っているあんたの言いそうなことだな。w

344 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 21:30:45
>>342 訂正
× 池田仁三氏の金印の文字
○ 池田仁三氏の解説からの金印の文字

345 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 21:42:31
書紀で九割、古事記で十割の日付が1〜15日なのは不思議だ。なぜ16〜30日が無いのか・・

346 :縦目仮面:2009/04/20(月) 21:46:16
>>341
まあ、書紀編者がでっちあげた、というのも証拠は何もないんでいいんですが、記紀の数字
を自説の根拠に使うなら、その情報がどうやって数百年の間保持され、伝達されたかは、
自説にとってきわめて重要な論点でないすかね?

あと、池田仁三氏のHPは超電波のイカサマです。(断言)こんなの中学生とか見て信じたら
どうすんですか。

347 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/20(月) 21:52:55
太国さん 書紀のどの文字を読んで
「ま〜だ日食が長時間続くと平気の平座で主張してるのかね? 」
この様な理解に行き着くのですか?

書紀の記事が月前半に偏っていようと一月が29〜30日であることは日々の干支が主張している。
その干支を日付に直した物が「太国倍暦」の主張の元と成る、しかし
太国さんはこの日々の干支を認めない。
ダブル基準を採用。


348 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 22:03:17
>>345
古事記・日本書紀は捏造された偽物の歴史書です。作者の人達が後世の読者に
偽物である証拠として歴史上の出来事を月の前半に集中させて書きました。
つまり古事記・日本書紀の作者の人達が命がけでメッセージを残したわけです。

349 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/20(月) 22:03:25
池田仁三氏の墓標を数字で読む私としては、「超電波のイカサマ」とまでは言わないが、
墓標と古墳の関係に於いては、間違いだらけだと思っています。
この間違いは明治時代の間違いとどっこい、

古墳時代を読む必須アイテムに成る可能性も?

350 :縦目仮面:2009/04/20(月) 22:21:02
>>349
なりません。池田氏自体は防衛大学電気工学科を出ていて情報知識はあるようですが、
彼が「コンピュータ画像解析」なるもので、金石から日本のどの大学、考古学研究所でも
見つけられない文字を読み取ることができるとするなら、彼一人でNASA並みの科学力を
持っていることになります。
 
また彼が師とする井上氏は、航空機墜落や巨大地震を予知できると公言する人物です。

351 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 22:32:30
>>346
イカサマだという論拠を述べよ。根拠もなしに、単に言葉のみで否定
してると、場合によってはあとで火の粉をかぶらにゃならんぜ。

出鱈目だとするには規模がでかすぎて、故意にウソを並べるにしては
気が狂っているとか以外えらく甚だしいから決めこむのはまだ
早計だ。それに当人のサイトが真の旨の古代史発掘の解説人も
いたから、根拠がないのにイカサマだと広言すれば、後でヤケドを
負う可能性がある。よ〜く吟味、検討したのか?

確かに宇宙だとか空想科学的様写真があったようだが、だからと
いって古代史のほうまで空想虚妄だと決めこむわけにはいかないぞ。
当人の性格からかもしれんからな。

352 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/20(月) 22:34:48
池田氏自体は墓標に書かれた文字を読めても其れを数字に変換できない、
変換できないは大げさですが、池田氏の変換した数字に”真”は無い
池田氏の変換思考に誤りが有るからです。
つまり 墓標の文字は池田氏のねつ造ではありえない。

一応此所では、墓標を封印していますが数字を知りたければ、過去ログを。


353 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 22:34:52
>>347
あんたもこのごろおとぼけばかりだな。すでに幾度も出して
るだろうが。池だってあんたが言い出したことではないか。それを
知らばっくれるほど質が低下してるんだね。

354 :縦目仮面:2009/04/20(月) 22:36:46
なるほど、では全面否定は撤回しましょう。俺が信じてない、ということですww。

355 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 22:39:52
太国あれだけ打たれのに意外とタフだな
つかしつこいなw

356 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 22:43:00
縦目仮面サン
彼一人で畿内九州等を回ったと言ってるがね? あんたが後で
火の粉をかぶらんだけの当人がイカサマをやっていたという合理的
根拠があればなるほどと思いますが、世の中すごい奴がいるから
ねぇ〜。モノがすごいから、臥海がシーンとしれるんかも知れんぜ?
それが真だと臥海、教授、学者連のマチガイが日の目にさらされ
るんだよ。 だからヒッソリ黙ってるのかも知れない?
勿論あんたの言うことが本当の可能性もあるがね? 充分根拠を
説明つくさないとヤケドが怖いよ。

357 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 22:48:08
おい、デブ国ウザいぞ。

358 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 22:50:10
>>354
そうそう否定するなら当人をイカサマだとベクトルを外方の当人へ
向けての名指しはせず、自分は信じないと自己のほうへベクトルを
向けて論じれば、名誉毀損等にはなりにくい。自分の感想だという
ことになりますので、後者のほうが安全ですよ。

359 :縦目仮面:2009/04/20(月) 22:55:52
まあね、ある命題が真でない ことを完全否定するのは難しい。真であることを証明するなら、
確実な実例を一つ出せばいいわけだから。

例えば「海の中には正二十面体の石がある」を否定するには、海の石すべてを調べなくては
ならない。ww

360 :縦目仮面:2009/04/20(月) 23:01:03
完全否定→証明

361 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 23:06:30
厳格になれば悪魔の証明とか言われてることの帰着しましょうが、
古代史はおおむねの証明でいいものもあると思います。

とにかく金印の側面文字が正解、真ならば、それがしの倍暦の計算は
合ってますね。やはり 神武即位=西暦元年 に接近するようです。

362 :縦目仮面:2009/04/20(月) 23:12:56
ところで、そろそろ計算式を見せてもらえませんかね?

363 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/20(月) 23:26:12
それは鷲崎弘朋さんの邪馬台国掲示板の過去スレに50余回ばかりで
詳細の論述をしてありますので(→倍暦論説)1回目から読まれ
たい。ググれば出るでしょう。

364 :縦目仮面:2009/04/20(月) 23:30:47
じゃあ、連休中にでもじっくり検証させてもらいましょう。w しかし・・・倍暦とか2倍年暦とかで
ググれば出てくるな〜〜。(ややあきれ)

365 :縦目仮面:2009/04/20(月) 23:43:03
にしても最後は世間話になってしまった。wwまともな邪馬台国の話題に戻さないと、俺が
規制をくらいそうだ。

366 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 23:50:39
このあたりも世間話
>>322>>326>>329-330>>333

367 :日本@名無史さん:2009/04/21(火) 00:11:17
邪馬台国は百とか八九十年とか、長生きだったんだね。

368 :ローガン:2009/04/21(火) 00:52:45
>>331

仰る意味は理解出来ますよ。解釈の違いって云えばそれまでですが。
なにか根拠となる資料でも呈示いただけると、判りやすいと思いますが いかが?

369 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/21(火) 18:57:40
>>432
池田仁三氏の金印の文字が科学的検査で「常根津日子」の文字があったのなら、正なら、それが57年の「漢委奴国王」だということになる。

太国さん今日は金印に「常根津日子」の文字をあえて否定しない、
「常根津日子」の文字は、音読みでなく訓読みで「トコネツヒコ」と読める。
そうすると西暦57年には、倭国の一部で「訓読み」をしていたことになる。
証明できますか?これだけ文字が使えたら暦にも影響あり。


370 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 19:49:10
証明だとさ。w 根拠だとかならまだしも証明ねぇ〜。
な〜んだ、池田氏の説の否定に回ったわけか〜? あんたは行ったり来たりの
うまいものは食う不味いのは食わないでの彼の説の恣意的取捨選択をして
るわけだな。w 勝手な奴だ。
だいたい徐福が日本に来てから神武が畿内で即位する間、随分時間が経過して
るだろうがね〜。その間そんなことはお茶の子だろ〜。w 徐福は漢字を日本で
教えてるよ。大陸ではこういう字を使ってるんだとね〜。w

371 :日本@名無史さん:2009/04/21(火) 19:49:33
>>367
その時代にそんな長生きなんていうのは
ありえないわけだけどな
世界中の人骨の調査じゃ

そりゃ1万人に一人ぐらいはいただろうけど

372 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 19:57:15
じゃぁ金印「漢委奴国王」の『委奴』はイトとは読まないということを
言いたいわけだね?
また『委』は「倭」の意味だとした場合はヤマトとは読まないということなん
だね? どうせ倍暦の否定のための即興で、あんたが考えたシロモノなん
だろうがねぇ。w

373 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/21(火) 20:37:14
倍暦の否定に金印を使う必要は無い。
金印が57年でも、「常根津日子」の文字が使われ出したのは後世の可能性が有るので
その辺の整合性を取らないと支持出来ない。


374 :縦目仮面:2009/04/21(火) 20:38:08
徐福ねえ??俺は中国考古学専攻だから持論は山ほどあるが、これをやるとますます、
邪馬台国から離れてく。いずれスレ立てしたい。これは、俺自身は馬鹿くさいので資料として
は排してるんだが、
「海東諸国紀」(李氏朝鮮 申叔舟 1471)の記述は唐松山さんは評価してるのかな?

>孝霊天皇。孝安天皇の太子なり。元年は辛未。七十二年壬午、秦の始皇帝、徐福を遣わし、
 海に入り仙福(不老不死の薬)を求めしむ。遂に紀伊州に至りて居す。在位七十六年。寿百十五。

もちろん俺説とはまったく合わないが、原典が何かは知りたい。唐松山さんお答えをぜひ!






375 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 20:42:41
そうだとなると、金印に後代「常根津日子」の名をだれかが書きこん
だという主張なんだね?

出雲の田和山遺跡から紀元前2〜3世紀の硯が出土してるんだよ。
九州より近い出雲からこんなものが出ていて、さらに徐福が紀元前に
日本に来てるんだよ。これで訓のみは後代だと頑張るのかね?

376 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/21(火) 20:43:21
>金印は国王がもらった時点でついていたいうことになるから、
まさか「常根津日子」の文字が漢王から下賜されたときには入っていたと主張しているのですか?
それなら「音読み」ですね。

377 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 20:45:59
訂正
紀元前2世紀〜紀元1世紀らしい。

378 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 20:47:44
ところで池の反論は引っこめたねぇ? どこかまずいことがあんたの
頭に発生したからでないの?w

379 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 20:51:31
>>376
音読み? ならば『委奴』はイトでないんだね?
また『委』は「倭」とした場合、ヤマトではないということなん
だね? 回答がないがねぇ?

ホツマ文字は畿内に当時あったというわけか〜?wwwww まぁ
ご都合をつけるのがよろしいようで?ww

380 :日本@名無史さん:2009/04/21(火) 20:56:38
孝霊天皇 : 霊帝 (漢) (劉宏、在位167年 - 189年)

徐福 :  建中校尉梯儁 塞曹掾史張政



381 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 21:01:41
徐福が孝靈天皇の代に日本へ来てたというのは、その古文書作者か
関係者等のだれかが、通常暦で計算してこの天皇の代となったので、
そのように古文書に書きこんだもよう。倍暦だと、当然徐福が来朝
したのは、神武即位前の紀元前である。

382 :日本@名無史さん:2009/04/21(火) 21:04:37
>>380
「 : 」はどういう意味?
まさ同一人物とでも?

383 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/21(火) 22:04:25
>また『委』は「倭」とした場合、ヤマトではないということなんだね?
57年当時なら当然ヤマトでは無く「ワ」国です。
「倭」をヤマトと発音するのは、景行以降。
57年当時漢の人間が「常根津日子」を「トコネツヒコ」と発音することは無い。

この時代漢皇帝が東夷の上奏文を読み、其処に書かれた東夷の名前を、同じ漢字で
表記した等との妄想は止した方が良い。

384 :日本@名無史さん:2009/04/21(火) 22:11:43
>>374
>俺は中国考古学専攻だから

なるほど変体仮面のHNはそれゆえかwwwwwwww

385 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 22:15:20
垂仁の代までは 『委』→「倭」ワだというんですね?
前者を音でワと読んで、『奴』の音読みはドとかヌですから、
「委奴国王」とは貴方の主張ではワヌ国王かワド国王だと読むことに
なりましょうが、そのとおりですね?w
まるで鉄道の貨物車の側面記号カタカナ文字の読みに似てますな?

386 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 22:23:57
垂仁の代までとは、どういうことで証明されるんですか?

387 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 22:33:29
>>383
読みは日本側に合わせるんじゃありませんか? 違いますか?
常夜国は紀の垂仁の時代に記述がありますね。 また神武以前の
常夜の長鳴鳥のアマテラスの岩戸隠れにもありますが、景行からと
いうのは本当ですか? 貴方はどのように証明されるんですか?
そういえば、景行前での神武の兄弟が常世国行きしてますが。

388 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/21(火) 22:35:28
漢のワのヌ国王も否定しませんよ。

細かいところで認識に違いが出るといけないので、景行九州以前に倭(やまと)は無い
景行九州(250年)以降直ぐに倭(やまと)の文字も見つけられないと思う、
古墳時代(300年)以降は倭(やまと)で良い。

金印に「常根津日子」を使用するなら、その辺の思考を固めておいて下さい、つっこみますよ。


389 :日本@名無史さん:2009/04/21(火) 22:36:55
タイコクさん
思いつくままに書き込んでたら、また連投規制くらうぞ。
書き込む前に、一回タメろ。

390 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 22:37:39
つっこむ前にあんたのおとぼけの数々の質問の回答でもしたら。

391 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/21(火) 22:50:06
唐松山さんよ
そうなると「親魏倭王」は239年あたりでしょうから、300年から
ヤマトと読むとなりますと、邪馬台国の3文字「邪馬台」はワと
読むんですね? 卑弥呼は男でこの女王国はワ国でいいんですね?

また金印当時「常根津日子」は
ジョウコンシンジッシ か ジョウコンシンニッシと読んでたん
ですな? そんな読みの文献があるんですか?

392 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/21(火) 22:51:55
>>374 「海東諸国紀」(李氏朝鮮 申叔舟 1471)の記述はまじめに読んだ事は有りません。

百済本記の近肖古王≠書紀の肖古王 つまり書かれている内容が違う、時代が違う。
書紀に書かれた肖古王は西暦326年の七支刀を支持してくれるが
百済本記の近肖古王になると、せいぜい吉祥句でお茶を濁す。
縦目仮面さんは、この辺の思考はどうですか?
ローガンさんは、百済本記の近肖古王を支持するため?神功は作り話となるようです。
私ももしローガンさんと同じ数字を使えば、似たような結論に至ると思います。

だから七支刀の数字まで読み直して思考中。


393 :ローガン:2009/04/22(水) 01:01:37
>>392

全てが作り話かどうか?つまり神功の架空、実在についてはさておき、
紀編者が魏志と結びつけ、過去へワープさせた事に疑う余地はないでしょう。
巻十一仁徳「先皇謂皇位者一日之不可空」
69年間 空位の張本人のセリフ?w
(まあ魏志からパクった章句でしょうが)

394 :縦目仮面:2009/04/22(水) 04:23:41
七支刀すか?また徐福から話がとぶねえ。金象嵌銘文 泰□四年を東晋年号(太和)と見るなら
369年、これは問題ない気がするんで、書紀の、神功皇后52年 百済使久?らが七枝刀一口、
七子鏡一面その他の宝を献じた・・・の記事に符合するだろう。一般的な年代解釈では372年か。

326年はわからないが、百済史的にどうだろう?まだ伯済国時代という気がするが、百済建国
については諸説あるな。百済王は近肖古でなんの問題もないと思う。東晋から楽浪太守に
封ぜられ対高句麗戦略の一環として倭との関係を強めた、でいいんでは。古事記の照古王も
同一人と思う。・・・辞典どおりの解釈で申し訳ないが、このあたりの年代に疑問があるのかな?
どう考えても、問題はむしろ贈られた側の神功皇后の正体だよなあ。

>>384
古代蜀の王縦目仮面は、俺は超カッチョイーと思うが、賛同する人は少ないようだ。
http://mohariza6.exblog.jp/7330784/




395 :九州王朝大好き:2009/04/22(水) 12:25:12
>>368 :ローガン:2009/04/21(火) 00:52:45
  >>331

  >仰る意味は理解出来ますよ。解釈の違いって云えばそれまでですが。
  >なにか根拠となる資料でも呈示いただけると、判りやすいと思いますが いかが?

根拠とする為の、どのような内容の資料を要望されているのかよくわかりません。


396 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/22(水) 19:16:25
神功皇后摂政時代
273年 神功前紀 日食
274年 神功元年
300年 神功46年 新羅 倭国と国使を交換 1章加増
301年 神功47年 新羅朝貢
325年 神功52年 七支刀 暦に加増無し
326年 東晉明帝太寧4年5月16日丙午、

晉武帝咸寧(275年-280年)中、馬韓王來朝、自是無聞。三韓蓋爲百濟、新羅所呑并。
晋の時代(265年−316年)、句麗は遼東を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。
上記がこの時代の半島情勢

五十一年春三月。百濟王亦遣久■朝貢。始開道路。平定海西。以賜百濟。今復厚結好。永寵賞之。是時百濟王父子。
並 致地。啓曰。貴國鴻恩重於天地。何日何時敢有忘哉。聖王在上。明如日月。今臣在下。固如山岳。永爲西蕃。終無貳心。
五十二年(壬申二五一)九月丙子《十》◆五十二年秋九月丁卯朔丙子。久■等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。
及種種重寶。仍啓曰。臣國以西有水。源出自谷那鐵山。其■七日行之不及。當飮是水。便取是山鐵。以永奉聖朝。
乃謂孫枕流王曰。今我所通海東貴國。是天所啓。是以垂天恩。割海西而賜我。由是國基永固。汝當善脩和好。聚歛土物。奉貢不絶。
雖死何恨。自是後。毎年相續朝貢焉。

七支刀が“割海西而賜我” 領土割譲のお礼とすると 325,6年辺りが信認出来る限界。
七支刀を 369年等と見ると、神功皇后摂政時代は、ねつ造。



397 :縦目仮面:2009/04/22(水) 20:57:22
うーん。俺的には太和4年(369)がすべての事実に符合すると考えるんで、まあ排するなら
神功紀かな。七支刀表面の、
>泰和四年五月十六日丙午正陽造百練?七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥
は明らかに中国式の吉祥句。この刀は中国で(369)に製作され、
近肖古王が東晋から鎮東将軍領楽浪太守に封ぜられたとき(372)に下賜され、百済において
さらに裏面の、
>先世以来未有此刀百濟王世?奇生聖音(晋)故為倭王旨造傳示後世
の字句が入れられ、倭国に献上される。その後、近肖古は高句麗に悩まされ(375)死去。
その後、高句麗の廣開土王時代、百済は国家存亡の危機となり、倭は半島出兵を決意する。

前スレと重なるんですが、この流れは見事につじつまが合ってると思う。話題を邪馬台国に戻し
ましょう。

398 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/22(水) 21:02:54
■はノギヘンだというから、合理的事由もなく唐松山氏の説はもう
間違い。もう〜、トンデるねぇ〜。

399 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 21:05:29
太国キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!

400 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/22(水) 21:11:38
あの人は

卑弥呼は男
ノギヘンは無視
日食は数時間続く
卑弥呼の国は畿内であって九州でもある

401 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 21:19:13
>>400
>卑弥呼の国は畿内であって九州でもある

へ? (゚Д゚)ポカーン
どっちやねん???

402 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 21:27:52
>>400
邪馬台国は大和国の纏向に都を置いた日本史上最初の統一政権と言うわけだね。

403 :縦目仮面:2009/04/22(水) 21:32:41
ホツマでは(半分ほど読んでしまった・・・馬鹿か俺は!)天照大神を男神としているんで、
卑弥呼=男説もあるのかも。語彙や文法から、江戸期に神道普及のために書かれたもの
のように俺には思われるが、ただ文章はすごくきれい。

404 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 21:41:16
>>400
>卑弥呼は男

いいえ、卑弥呼は女性です。史料にちゃんと明記されてます。

<魏志倭人伝>: その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。

405 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:09:56
卑弥呼は三十国 倭王武は列島121国 多利思北孤は120軍尼 よって卑弥呼は九州

406 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/22(水) 22:11:58
七支刀の複雑さから、七支刀は鍛造でなく鋳造と思われる。
鋳造には高温が必要=石炭が必要 となると楽浪辺りで鋳造したと思われる。

太国さん貴方の思考回路に疑問を持ちます。
国語辞典に依ると
御子、皇子=天皇の子
と書かれていて「男子」とは書かれていません。 皇子=男子のみは何処からでてきますか?

太国の私に対する中傷記事、下記の様な書き込みを私はしていません。
>日食は数時間続く
>卑弥呼の国は畿内であって九州でもある

又倍暦つぶしにはいりますか。


407 :縦目仮面:2009/04/22(水) 22:20:34
394スレはやや説明不足なんで補足。書紀の神功紀52年(七支刀献上の年)の干支は
「壬申」で書紀的には252年とされるが、二回り120年ズレと考えれば372年でぴったり。

また、宮内庁否定の神功陵は佐紀楯列古墳群の五社神古墳で、円筒・壷型埴輪の形式から、
4世紀中葉から5世紀初頭で、まず問題はない。

ただ、書紀の神功紀に魏志倭人伝の記事が引用されているのは、書紀編者が、神功紀
201年〜269年を信じていた証左ともいえ、何らかの原典資料が存在したこと、さらに
干支を120年を誤解して書紀を編集したということがいえるのでないか。

他に邪馬台国関連として、皇后が珍しい魚を釣ったから「めずら国」=末盧国。
子供(応仁帝)を生んだから「うみ国」=宇美国=不彌国?・・・と、
明らかにそれ以前からある地名を否定した記述が見られ、単なる地名譚としても面白い。


408 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/22(水) 22:23:55
>>402
それは唐松山さんに聞かれたい。
唐松山さんよ。じゃぁあんたは九州説なのか畿内説なのか?
それとも他の地域か?

中傷? あんたの言い分だったはずだぞ。いつの間にか変えたの
かと考えちゃうがね? ならばどういう主張なのか各々解説してよ。
論がハッキリしてない傾向があるから、こんなことになるんで
ないの? それに皇子と言えば通常男のほうだろうが・・・? それは
男でもキルトとかいうスカートをはくからねぇ。女だけの専売特許
じゃないとしてもだ、スカートをはいてれば偽装とか精神異常とかで
ない限り、キルトは別として、女だろうがね? 別に皇女という
言い回しもあるからねぇ。違うかい?

409 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/22(水) 22:25:47
倭人伝に書かれた「倭王」はオオタラシヒコオシロワケ
伊勢のベテラン磐鹿以下を魏国に送り込み、
政治手法として 屯倉による治世を持ち込む。
戦法を学んで帰国。
鎧の輸入。

この状態は、短期的に見ると、半島より進んでいて 神功渡海から約1世紀続く。

これなら神功まで違和感なく歴史的事実として容認できる。
古墳の巨大化は、300年頃から 大和の大王不在で、各首長の自己表示として巨大化。

歴史は連続する。

410 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:25:57
倭王武の海北95国は、三韓78国に近い

411 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:26:52
>201年〜269年を信じていた証左ともいえ、何らかの原典資料が存在したこと、さらに
>干支を120年を誤解して書紀を編集したということがいえるのでないか。
4世紀後半の神功皇后を3世紀半ばの人間とまちがえて書紀を編纂したって?
編纂時から何世代前の人物かを考えたら、そんな馬鹿なまちがいをするはずはないじゃないか。



412 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/22(水) 22:37:33
私の主張は
倭女王国=九州
倭王国=大和
男王国=筑紫
伊予=筑紫

この分類で「倭人伝」を読んでいます。
>通常男のほう
通常だけでは、例外を否定できない。
次は「卑弥呼はスカートの麗人と呼んでいた。」とでも書くのかな?
常根津彦でも書き込んで下さい。


413 :縦目仮面:2009/04/22(水) 22:42:30
>>411
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E

また、神功紀39年(書紀では239)に卑弥呼朝貢の記事が出てくる。

414 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/22(水) 22:42:45
唐松山さんよ
あんたの言う卑弥呼は(皇子=女)であるとの言い分だが、確か
皇太子で、孝兼天皇も女ながら立太子をしたと思っから、女でも稀に
ありうるだろう? ところで 卑弥呼=某皇子 だと確か曲学の徒
さんの板で主張したとき、具体的に某の名を書きこんでたはずだ。
この方の名はホツマだったかと忘れたが、それに某の名は何と
いう名前だったっけ? 再度聞きたいが?

415 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/22(水) 22:43:47
現在の 神功陵と応神陵の築造には、100年の間がある。
この空白をどの様に埋めるか? 万世1系では埋めきれない。

416 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/22(水) 22:44:39
>>412
はは〜んやっと九州説だと書きこんだね。初めてだぞ、見たのは。
大丈夫?

417 :縦目仮面:2009/04/22(水) 22:57:17
100年の開きはありませんよ。まあ、俺の比定では、誉田御廟山古墳 が応仁陵というのは
けっこう怪しい。ただ、前述した「七支刀」と同時に献上された「七子鏡」は、現在ボストン
美術館にあるとされ(seven children mirror)、大仙陵古墳(仁徳陵)出土ともいわれる。
興味深いなあ。


418 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/22(水) 22:58:28
神功紀には
倭人伝(年の干支ばかりでなく日々の干支もほぼ同じ)と
百済記が 「差し込み記事」としてでてくる。
百済本記の近肖古王と書紀の肖古王では記事に時間的誤差が有る。←私の主張
新羅本記と書紀は私の編年で誤差が生じない。
つまり
百済本記と新羅本記では、数字に誤差がある。
韓国にもこの誤差を百済本記に合わせようとする輩もいる、百済本記に合わせると
倭国は常に半島より遅れていた事になるからだと思う。
「書紀+新羅」を信じるか「百済」を信じるかの2者択一。

419 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/22(水) 22:59:39
あ〜タタミコっていうのは名前じゃぁないのか?

>皇子(巫女、皇女、神子、御子、親王)思え
>この「皇子」こそ卑弥呼です

唐松山さんよ。↑ この「皇女」こそ卑弥呼です と書かないと誤解
されるんでないの?

420 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:38:04
仁徳が皇子時代、七支刀を差していたかもしれないと吉野裕子氏が言っていたかな? さやさや、とかいう古事記の歌。

421 :縦目仮面:2009/04/22(水) 23:42:01
なるほどねえ。しかしあんなものを常に差していたらジャマくさかっただろうなw。

422 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:53:40
>七支刀を差していたかもしれない

あんなもの、どうやって差すんだ?

423 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:59:04
武器としては使えないね

424 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 00:03:55
ホムタの日の御子オホサザキはかせる太刀・・・

425 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 02:46:43
七支刀の鞘を見てみたい

426 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/23(木) 12:01:07
>この「皇女」こそ卑弥呼です と書かないと誤解されるんでないの?
「皇女」と訳すより女王となると「皇子」かな?と。

中国の暦日 景初暦
356.500 238 2 2 6.8910 309.547 癸巳 238 1 1 =景初 2 1 1
238年景初 2年(戊午年)1月1日癸巳朔(漢の暦法より1月遅れ)です。
2章38年前(6940*2=13880日前)は丁卯 
神功皇后摂政元年三月丙申朔庚子。命武内宿禰。この一と月29日前の干支は丁卯 
いいか
120年の移動では無く、 年の干支と日々の干支が合うから 「倭人伝」は、神功紀に挿入された。
百済記の挿入とは違う。
七支刀は正しい位置(1年狂い)に挿入された。←私の見かた。
340年代になると高句麗が南方へ圧力を加えだす。
これ以降に七支刀を持ってくると 七支刀は何処で鋳られたか?
七支刀の復元作業では、七支刀は鋳られた可能性が大きい。




427 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 12:37:42
>>417
縦目仮面にやっかいな話を一つ
七支刀の出土した石上神宮はもともと吉備にあったと言われていること

さあ、どこの誰が最初に七支刀を手に入れたのか考えてみてくれたまえ
俺はめんどくさいのでこれ以上考えないw






428 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 12:52:37
俺が思うに、卑弥呼は男か女のどっちかじゃないか?

429 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 13:51:32
七支刀は出土品じゃないよ。

430 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/23(木) 14:34:02
唐松山氏は優柔不断で結論が出ず、昨日あたりまではいつもハッキリしたようで
ハッキリしてないない論ばかりで終始書きこんでいた。
だから以前は畿内兼九州説で、当人がそういう説だとそれがしが書きこんで
いても、当時とりわけ彼はそうでないとかの否定をしてなかったもので、兼用説
だから玉虫色のご都合式の夢物語様解釈でいたのだ。

そういうやり方でいたというのは例の秀真伝を金科玉条に彼は信頼して
いたわけで、アマテラスが男であるという秀真伝の記事を鵜呑みにしていたの
だろう。ここから 卑弥呼=アマテラス との考えを捨てきれず、卑弥呼は倭人伝
では女王なのに女に見せて男に思わせる>>419の判然としない皇子の名称で逃げが
利くように書きこんでいたようだな。w >>406の彼からの回答でも卑弥呼は女
ですとか男ですとかま〜だハッキリの回答をしていないのは、そのためのようだ。

今度は卑弥呼の国が九州との見解を>>412の書きこんだものの、失敗のときには
これは女王国とあるも卑弥呼の女王国の意味といつ言いましたかとかの抗弁で
逃げが利くよう抜け道を造っているようにしか思えない。要するに息抜きの
逃げ道をこっそり確保して論述をやってるもよう。彼の説が信用できないのは、
こういう根性で論述をやってるから、いまのところ仮にこうだとの提示であり、
後日そうででないときに逃げる用意を出来うるにようにチャ〜ンと準備をして
いる。他の論者は逃げ道なんぞ作ってるやつは、いまのところ見当たら
ない。こういうのは彼だけ。w いい加減な男だな。

431 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 14:34:33
卑弥呼も五尺刀二口をもらっているね。自分で持ってたのかな。

432 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 14:37:47
卑弥呼は二刀流の達人だったのでは?

433 :ローガン:2009/04/23(木) 16:26:16
唐松山さん。326年って…たしか二月から咸和でしょ?
其に二文字目、寧ですか?

434 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 16:40:57
>>403
正解
天照は男

呼 (万葉仮名ヲ)

王wang>wau>ヲ

卑弥呼   ヒメヲ 姫王
卑弥弓呼 ヒミコヲ 日御子王

435 :ローガン:2009/04/23(木) 17:29:33
>>407
> ただ、書紀の神功紀に魏志倭人伝の記事が引用されているのは、書紀編者が、神功紀
> 201年〜269年を信じていた証左ともいえ、何らかの原典資料が存在したこと、さらに
> 干支を120年を誤解して書紀を編集したということがいえるのでないか。

私はそうは思いません。紀編者は魏志を読んでいます。倭人伝の中で卑弥呼が死んでいるのを承知しているわけですから、
当然66年の「倭女王」は同一人物ではない事も承知しています。
にもかかわらず、それを無視して記述しているという事は、女性という事で個人特定が可能なのを利用して、客観的な年次の定点としたかったのでしょう。
仲哀〜応神間の空位はあったとしても短いものだと思います。

436 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/23(木) 17:30:34
>>433
326年時点に於いて百済が改元を知るまでに、どの位の時間を要したか?に尽きる。
帯方、楽浪は、この時点で存在せず、まさか東晋から百済に直接改元の知らせが届くのか?


437 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/23(木) 17:56:39
新羅本記より
312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
337 百済へ使者を送る
344 倭国が花嫁を求めたが辞退
345 倭王が国書を送り国交断絶
346 倭軍が金城を攻撃
356 奈忽王即位(訖解王に子なく味鄒王の父の孫(閼智の八世孫)
364 倭兵が大挙して侵入

340年代に入ると高句麗の圧力が及ぶ
そうなると 鋳鉄製と考えられる七支刀は何処で鋳られたか?360年代の高句麗では不可能
と考えられる。



438 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/23(木) 19:41:02
>仲哀〜応神間の空位はあったとしても短いものだと思います。
これで 五社神陵に始まる 佐紀古墳群、佐紀古墳群の終末頃河内の誉田御廟山

説明できない。

439 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 19:41:55
邪魔台国

440 :縦目仮面:2009/04/23(木) 19:55:04
>>435
うん、台与と見られる266年の倭女王記事が卑弥呼のことではないと理解していたのは
間違いないだろう。とすれば、これらの記事は恣意的に挿入されたと考えざるを得ず、記紀
の歴史隠匿説とかになってくる。しかし俺はその方面にはなるたけ近ずきたくないんだよ。
あと、神功皇后の年代を100年以上遅らせる意図も不明だし。

441 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 20:15:30

トヨタン・・・・・・・・・・


442 :縦目仮面:2009/04/23(木) 20:45:37
>>427
俺的には吉備にあった説はとらない。ただ、神社には移動可のものと不可のものがあって、
大神神社なら、三輪山が動かない以上動けない。また、まつろわぬ民を殺した跡とかに神社を
建てたなら、これも動かすことはできないだろう。石上神宮は神体である布都御魂剣が移動可
であるため、基本的にはどこにあってもよい地縁のない神社だと思う。

上で出てくる神功、応神などを祭神とする宇佐神宮は、高木彬光氏の「邪馬台国の秘密」で、
改修時に本殿下から石室のようなものが出てきたとの記述があり、これは小説としての創作
かもしれないが、俺的にも移動不可の神社だろうと思ってる。ぜひ掘ってみたい。



443 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/23(木) 21:07:31
石上神宮には、垂仁が大量の剣を貯蔵した。
これ以前に石上は工人と共に移住したのか。


444 :縦目仮面:2009/04/23(木) 23:13:14
実は、伊勢神宮は移動可の神社だったんだよな。そして「いそのかみ」とも呼ばれていた。


445 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 23:23:38
伊勢、志摩は伊都、斯馬と関係あるかもな。

446 :ローガン:2009/04/23(木) 23:30:41
>>438 ? なんで? 纏向の経験者達wがお引っ越しなら別に問題ないでしょう。
それより高城入姫、仲姫、弟姫… 神功紀縮めないと子を産めない。(笑)

447 :ローガン:2009/04/23(木) 23:36:06
>>444

伊勢神宮! 長野采女とか昔、調べましたよ。
例の「なんとか年号」とかの立案者?

448 :縦目仮面:2009/04/23(木) 23:39:57
>>445
その説はよくいわれてる。で、マキ向に太陽信仰の形跡はあまり見られないが、伊都国王墓
とされる、平原遺跡には上で書いたように太陽信仰の痕跡がある。もちろん伊勢神宮は日神
を祭る。

>墓の東側からは、直径約70センチメートルの大柱跡が発見され、墓から見て日の出の方角に位置
 していることから、太陽信仰に関係するものと考える説が有力視されている。(wiki)


449 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 15:22:45
魏志倭人伝は壹與の貢献で終わる。壹與が親魏倭王に封じられることは無かった。

450 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 15:51:58

イヨタン・・・・・・・・・・


451 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 16:02:01
献上した生口は卑弥呼より多いのにね

452 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 17:27:07
>>448
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓にも大きな柱が4本ほど立っていたが、
これは、祖霊の宿る柱ということになっていた。

柱というのは、なんか意味があるのかな。そういえば、神様は一人二人では
なく、一柱、二柱と数えるわけだが。

453 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 18:09:27
>>449
魏がなくなってたから

454 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 18:16:08
ん?魏志は魏代の史書だよ。

455 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/24(金) 18:32:20
>>204
>翰苑の魏略逸文を見ると、対馬、一支、末廬、伊都各国の説明のあと「其國王皆属王女也」とあり、
>続いて狗奴國、「不属女王也」とある。

愛知県民さんの考えでは、倭には、「伊都王国(四カ国)」、「女王国」、「狗奴國」と
三つの王国があるとお考えですか?

>>209
>>「世有王皆統属女王國」は、一般的には、代々王がいて、皆、女王国に統属する
>>ということじゃなかったかな。
>そんなふうに読まれることは多いけどまちがいだな。統属する相手方が女王国という
>ことは統属する方も国でなければ釣り合いがとれない。皆は国なんだよ。
>統属するというのは集まって属するだ。属する側が複数だってこと。時代がちがう王
>が一緒に集まって属することは不可能。その点からも、歴代の王と読むのはおかしい
>と分かるはずだ。

歴代の王としか読めません。

456 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/24(金) 18:42:01
>>446
私の見方は神功紀を縮めただけで、目出度しと成らない。
応神、仁徳は複数の王による各王朝であったのでは無いか?
まあ書紀も古事記もこの考えを否定する代物ですが。
古墳の築造から見て、そんな気がする程度の物。


457 :愛知県民:2009/04/24(金) 18:46:30
改めさん、最後まで読んで下さい。女王国と狗奴国です。

458 :縦目仮面:2009/04/24(金) 18:58:33
>>452
俺が持衰で、民俗学を調べてたとき、人柱というのは人間が神格化されたものとなんかに
書いてた。

縄文からの立柱祭祀は植田文雄氏の研究が詳しいが、世界的には神樹信仰。日本では
それを底流に死と再生にかかわる祭祀が推定される、と書いてた。

459 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/24(金) 19:13:07
>>220>>223
>其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
>王より官が詳しく書かれていますが、王から先に書いております。

男子爲王=男子を王となす
その国は男子を王となす ということです。
陳儒さんはなぜ「其王有狗古智卑狗」ではなく「其官有狗古智卑狗」としたのか?
卑弥呼共立以前まで、狗奴國は三十連合国家の一部だったということがわかるだろう。

>>236
>「皆統屬女王國」で主語の「皆」と目的語の「女王國」が同じなのはおかしいですよ。
>狗奴國以外の倭の王は皆、邪馬壹國にいる女王に代々属しているということ。

「皆」は伊都国のことでしょう?
それを何故、狗奴國以外の倭とするのかわかりません。

460 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/24(金) 19:37:41
>>457
>改めさん、最後まで読んで下さい。女王国と狗奴国です。

おやおや それは失礼しました。

>>262
>倭は対馬海峡の両側に展開していますので。
>その南岸にある福岡平野は倭國之極南界になります。

ほうほう 福岡平野は極南界ですか。
しかし、南至投馬國、南至邪馬壹國の「南」はどうするつもりでしょうか?

461 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 19:52:36
改めさん、狗奴国の王は卑弥弓呼、官の狗古智卑狗とは別。また、皆統属は伊都国を含めて皆かと。

462 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/24(金) 20:23:23
>>262
>倭面土國については、2年ほど前に
>サガミハラハラ氏からヒントを頂いたものがスタートになっております。

ほう どんなヒントでしょうか。

>>412
私の主張は
>倭女王国=九州
>倭王国=大和
>男王国=筑紫
>伊予=筑紫   なんかややこしいですねw

463 :サガミハラハラ:2009/04/24(金) 20:38:03
志賀島の金印であるが、この出土地が博多湾中の島であることから、
「漢の倭の奴国」が博多であることの証拠のようにとりあげられているが、
これは倭の奴国ではなく倭奴国(記録された当初はヰトとの発音である)であり、倭人伝の奴国とは別の国である。
この国は佐賀県惣座(肥前国国府)にあった国(後に吉野ヶ里に遷都)であり、漢の時代には倭は北部九州との認識であったことから、有明海
北岸の惣座は極南界とみられていたのである。当時は投馬国(宮崎鹿児島)は倭にふくまれるとみていなかった。

464 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/24(金) 20:56:39
>>462
下記の登場人物で「倭人伝」を読む
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王
都市牛利=タジマモリ ←天日矛の末裔、ホケノ山古墳?
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行 ←黒塚古墳?
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁←椿井大塚古墳?
難升米=倭女王の部下で伊都在住の大夫
狗奴國=狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木

巾3尺の石 と筑紫の大木の登場場所が絶妙。

465 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 21:05:58
邪馬台国 ⇒ ヤマト国(1字1音)

倭 ⇒ 和(奈良)

邪馬台国は大和朝廷の原型??????


466 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 21:23:30
>>459
>陳儒さんはなぜ「其王有狗古智卑狗」ではなく「其官有狗古智卑狗」としたのか?
何が問題なのかな? 「狗古智卑狗」は王ではなく官だったからだろ?


467 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 21:24:43
>>465
そこから入っていく人も多いね
まだまだスタートラインで、そのまま突き通したり考えが変わったり、いろいろあるんだ
精進なさい

468 :縦目仮面:2009/04/24(金) 21:43:09
>>464
前スレでやってた以下の説ですね.。

>名前:唐松山 ◆V0F34EbmQA [] 投稿日:2009/03/22(日) 18:11:54
>都=た
>市=し
>牛=う
>利=り
>この読み方は、当時の音として当時の書物に出てくる読みです。

最高でした。ww



469 :九州王朝大好き:2009/04/24(金) 22:06:10
>>460
>ほうほう 福岡平野は極南界ですか。
>しかし、南至投馬國、南至邪馬壹國の「南」はどうするつもりでしょうか?

シナ人(范曄)の後漢時の倭の範囲の認識は対馬海峡の両岸であって、
筑紫平野側の倭についての認識はない。
倭の西北界にあるのが拘邪韓國(半島南岸)であり、
その南には対馬・壱岐等の島々(海中)があり、
その先の倭の極南界にあるのが倭奴國(九州北岸福岡平野)である。

投馬國、邪馬壹國は魏時の認識であって、後漢時の認識では存在しない国々です。

>>462
>ほう どんなヒントでしょうか。

僕の質問に対して
倭面土・委面・米多の出典リスト
で回答。

470 :サガミハラハラ:2009/04/24(金) 22:52:33
そうです。倭の極南界は後漢書倭伝にでている文句で後漢の始めの時代のことです。

471 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/24(金) 23:19:22
>>463
サガミハラハラさんは、奴国と倭奴国は別の国か....。

>>469
周旋可五千餘里はどのように答えるつもりですか。

>>470
倭人伝の「極南界」はどう考えてるんでしょうか

472 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/24(金) 23:34:22
>>463
>志賀島の金印であるが、この出土地が博多湾中の島であることから、
>「漢の倭の奴国」が博多であることの証拠のようにとりあげられているが、
>これは倭の奴国ではなく倭奴国(記録された当初はヰトとの発音である)であり、倭人伝の奴国とは別の国である。
>この国は佐賀県惣座(肥前国国府)にあった国(後に吉野ヶ里に遷都)であり、漢の時代には倭は北部九州との認識であったことから、有明海
>北岸の惣座は極南界とみられていたのである。当時は投馬国(宮崎鹿児島)は倭にふくまれるとみていなかった。

では、現在の宮崎・鹿児島は当時なんと呼ばれてたんですか?
倭種すか?わたしは、九州全体を「倭」と考えます。

473 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/24(金) 23:42:10
>>496
>シナ人(范曄)の後漢時の倭の範囲の認識は対馬海峡の両岸であって、
>筑紫平野側の倭についての認識はない。
>倭の西北界にあるのが拘邪韓國(半島南岸)であり、
>その南には対馬・壱岐等の島々(海中)があり、
>その先の倭の極南界にあるのが倭奴國(九州北岸福岡平野)である。
>投馬國、邪馬壹國は魏時の認識であって、後漢時の認識では存在しない国々です。

??

「其大倭王居邪馬臺國」と「奴國」ゴチャになっていませんか?!
「投馬國、邪馬壹國は魏時の認識であって、後漢時の認識では存在しない国々」

邪馬壹國=邪馬臺國 ではないと言ってるのでしょうか。

わたしは、邪馬臺國 ⇒ 邪馬壹國 という考えです。



474 :九州王朝大好き:2009/04/25(土) 00:20:33
>>471
>周旋可五千餘里はどのように答えるつもりですか。

魏時の倭地の範囲についての認識です。
倭地とは九州島とその周辺諸島のことです。
「周旋可五千餘里」の大きさから判断すると、
魏時のシナ人の倭地の大きさの認識範囲は、
九州島の北2/3の大きさになります。

参考認識事項
狗邪韓國は「韓地」の倭人の国です。
對馬國と一大國は「海中」の倭人の国です。
末盧國から狗奴國までは「倭地」の倭人の国です。

475 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 00:33:15
>九州島の北2/3の大きさになります。
ほほう。あとの三分の一は倭地ではないと。何になるのですか?


476 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 01:10:21
熊襲じゃねーの?

477 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 06:03:14
狗奴国=熊襲という説はあるけど、狗奴国は倭の一国だ。すなわち、狗奴国ならば
倭地のはずだ。

478 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 07:00:20
狗奴国=熊野、すなわち和歌山県の事。

479 :九州王朝大好き:2009/04/25(土) 09:33:09
>>475
後漢時の倭地すなわち九州島の大きさについては、
実際の大きさの2/3位に小さく認識されていたのです。
九州島の北2/3が倭地で、南1/3が倭地以外ということではありません。

480 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 10:03:37
邪馬台国よりも狗奴国を所定した方がいいんじゃないか?
ズバリ南九州ってことで

481 :サガミハラハラ:2009/04/25(土) 10:08:20
奴国と倭奴国は別の国です。
奴国は二カ国あり、一つは佐賀県肥前山口であり、もう一つは福岡県南部の山門です。
奴はト、ドと発音するのが正しく、この場合のトは戸の意味であり、邪馬台国連合の戸口の国という意味です。
肥前山口が西の戸口の国、山門が東の戸口の国ということです。
トには他に国という意味があります。弥奴国は弥の国となります。

倭奴国は倭国を統一した国です。西暦40±1年に、出雲より国を譲り受け、倭国を統一して倭の国を称しました。
奴は国ですから倭国(ヰド)となるのですが、中国側は倭人の発音したヰドを国名とし国をつけて倭奴国としたわけです。
これは相模川を英語でサガミガワリバーと登録したのと同じようなものです。
倭奴国の都は始めは佐賀県佐賀市の惣座であったが西暦50年頃吉野ヶ里に遷都しております。
漢委奴国王印の金印は吉野ヶ里に保管されていたのであるが、西暦157年に始まる倭国大乱の最中に、誰かが吉野ヶ里から逃亡する際にもちだし、
志賀島に逃げ、当地の豪族が彼に味方してくれるかの確証がなかったため、一時的に海岸の石の下に隠匿したものである。結果は逆に血祭にあげられ
金印の行方は江戸時代まで人に知られることがなかった、というわけです。
倭奴国は後に(西暦120年代)邪馬壱国と名を変え、さらに(西暦230年代)邪馬台国と変わります。
滅亡は西暦290年ころ、大和朝廷との連衡により、その栄光の歴史をとじます。

魏志倭人伝には極南界の字句ははなかったかに思いますが。

482 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 10:11:25
>>479
ほう、では北九州にあったと認識されていた邪馬台国は実際は南九州だったとか?
それとも、熊本あたりと認識された狗奴国が実際は南九州も含む大帝国だったとか?

483 :九州王朝大好き:2009/04/25(土) 11:25:44
>>482
>ほう、では北九州にあったと認識されていた邪馬台国は実際は南九州だったとか?
>それとも、熊本あたりと認識された狗奴国が実際は南九州も含む大帝国だったとか?

あなたの疑問でてくるような論理展開が理解できません。
ですからそれら疑問に応えようがありません。

倭地の北部に女王國(女王連合国)があり、女王國に南接して倭地の南部に狗奴國があるのです。
狗奴國は女王國に匹敵する大国です。
以上が魏の認識内容です。


以下は未論証の仮説を書いたものです。
狗奴國(狗奴國を盟主とする連合国)の範囲については、中心地が熊本平野で、
佐賀県の部分を除く肥の国全体であったと推定しています。
狗奴國は九州西岸を押えていたので、呉と直接の通交があったと思われます。
魏が女王國に張政の長期駐在などで積極的に関わったのは、
女王國の対狗奴國対策、即ち魏の対呉対策だったのではないでしょうか。
魏が呉と同盟工作を図っていた公孫淵の討伐直後に女王國に接触し肩入れしたのは、
倭地での対呉政策であったことを示していると思われます。


484 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 12:05:11
狗奴國=きのくに=紀州=和歌山

485 :新説:2009/04/25(土) 12:17:43
卑弥呼=クレオパトラ、
弟=プトレマイオスで
つじつまがあう!

486 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 12:42:29
周旋とは巡り歩いて行き着くこと。一回りではない。
一回りすることを表現する場合は、周匝という言葉がある。

487 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 14:25:41
しかし、三国志の時代には中国では歴史書がたくさん残っていて
実史の時代なのに、なぜ日本には文字がなかったのか?
それが一番の謎です。


488 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 14:35:06
あったろうよ。徐福が紀元前日本は来て漢字を伝えたと思う。

489 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 15:02:43
やはりね、行き着くところは狗奴国にあるんだよね
魏志倭人伝に言うところの邪馬台国が九州であるなら
その南にあるところの狗奴国は南九州になってしまい
そうなるとわざわざ日本まで来て九州のことしか情報収集しなかったことになる
それまでに帥升や奴国などが中国にまで出向いてるし
半島においても進出済みの状態
ってのに、議事倭人伝のころに未だに九州以外の日本が
ブラックな未開地域であったはずがない

邪馬台国=大和国
狗奴国=きのくに=紀州和歌山

それ以外考えられない




490 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 15:13:58
樺太なんか江戸時代の間宮林蔵まで情報収集は不完全だろうが。

491 :サガミハラハラ:2009/04/25(土) 16:11:58
前漢のころ中国楽浪郡にもうでた倭の諸国は100余国でした。
どのような事情からか、魏のころには貢献する国は30国に減少していました。残りの70国は消えたのではなく貢献しなかったのです。
貢献する国が中国に認められる国なのであるから、倭国とは中国と通交のある国となり、それらは九州の国々ということになります。


492 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 16:33:58
>>255
>邪馬台国研究総覧によると、汲古閣本によったという原文には諸国が重なって
>おり、そこに、「宋本南本無」と諸国が一つしかない旨の注がついているよ。

ありがとうございます。

>>274
>ところが神武崩御直後、手研耳命が謀反を起こした。このとき神沼河耳尊に協力
>し手研耳命を倒したのが神八井命であった。

太国さん、これは違うのでは?
日本書紀卷第四
神渟名川耳尊突開其戸。神八井耳命則手脚戰慄不能放矢。
時神渟名川耳尊。掣取其兄所持弓矢。而射手研耳命。一發中胸。再發 中背。遂殺之。

手研耳命を倒したのは神渟名川耳尊です。(古事記も同じ内容)

493 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 16:58:30
>>492
それは分かってますが。要するに賛同したとか討とうという意思の
通じ合いがあったが、神八井耳命はしりごみしたとかためらったとか
だが、結局精神的加担での味方をしたんだろう。倒したのはその
とおりで、実際に手を下したのは神沼河耳尊だな。

494 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 17:00:42
だから江戸城を実際造ったのは当時の大工、左官だが、こういうのも
大田道灌が造ったことになるわけよ。

495 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 17:02:36
狗奴国の話が出てくると九州の方が分がある気がするな

畿内説だと和歌山県相手に苦戦するのは考えにくいし
濃尾平野の勢力だとするのは強引すぎる

496 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 17:11:14
九州以外の日本が未開だったわけではなく
記録に残ってないだけだろ
それに東の海を渡ったところに倭種の国ありって書いてある

497 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 17:31:34
>>489

> 邪馬台国=大和国
> 狗奴国=きのくに=紀州和歌山
>
> それ以外考えられない
>

津国(つのくに)では。
木国(きのくに)と津国(つのくに)が有力候補と思われますが、
狗奴(クナ)は「き」もしくは「つ」が欠落した「クニ」の訛りでは。

男王卑弥弓呼とか狗古智卑狗とか男子に彦を使用している。吉備国に多し。

狗古智卑狗は久々智彦のことか。摂津に今は尼崎市久々知が、古に有馬郡久々地あり。

具体的には
兵庫県西宮市山口町 公智神社(くちじんじゃ、又はこうちじんじゃ)で
実体は東進してきた吉備氏ではなかったか。加古川市から西宮市へ駒を進めたと思われる。
九州の菊池彦説には木口彦も考えられる。但し、木口は今はキグチと読み岡山県に多いという。
以上より情況証拠では摂津では。






498 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 17:42:32
>>493
精神的加担ねえ・・・自分で手を下すつもりだったのに、手足が震えて矢を放てなかった。
弟が兄の弓矢をもぎ取って見事に射た。神八井耳命はぶざまこの上無いわけですが。
それでも兄だから敬意を表したんですかね・・・?


499 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 17:59:06
>>497
どちらかというと、伊予の河野氏・越智氏が面白い気がする。
熊襲かもしれないが。

500 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/25(土) 18:47:16
>>497
木口小兵は死んでもラッパを離しませんでした。ってか。


501 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 19:11:23
狗奴國=大隅国救仁郷(肝属平野)?
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/1023194.html

>>500
唐松山さんはいつの時代から生きてるんですか?

502 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 20:00:15
>>498
だからこそ皇位に昇れたんでしょう。手研耳命が体躯がでかく
神八井耳命が小柄だったら戦意は喪失に向かうでしょう。後者が病弱
だったらとても屈強の奴には勝てないですよ。あいつをやっつけ
たいと協力を申し出てもイザとなりゃぁ出来ない場合がある。
神八井耳命がなんらかのことで負傷してたら勝ちは難しい。
どういう事情があったかは神武紀くらいでは判明しませんが、
神八井耳命がとっさの奇襲をやるに向いてない体の状態では、
神沼河耳尊が先陣を切るほかはないでしょう。

要するに音楽バンドで言えば、神沼河耳尊はリード・ギター、
神八井耳命はサイド・ギターですよ。奴が謀反を起こしたからこれを
討とうと話あったが、そういう勝ち目のない神八井耳命の体力、精神
状態、技量とかで不向きとなれば、尊が自分がやると言い出して
手研耳命を討ったんでしょうが。

当時は殺人であり、今なら重罪であることになります。ならば
今の法律では共同正犯でしょうが? 直接手を下さない神八井耳命も
殺人罪ですよ。だから討ったことになりますね。あのころは謀反人を
殺すことは現代と違い美徳だったのかも知れません。今じゃぁとても
通らない道理ですがね・・・。

尊と命の双方には両面的殺人の共同意思があったということですよ。
尊だけの片面的共同意思ではないでしょう。

503 :縦目仮面:2009/04/25(土) 20:02:32
>>501
戦前の修身教科書読んでるんだから70歳以上?にしても「小平」だけどね。木口小平は
確かに岡山出身。

504 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 20:19:33
>>503
その「木口小平」も当初は「白神源次郎」だったようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%8F%A3%E5%B0%8F%E5%B9%B3

505 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 20:29:16
愛知県民さん

オリンピックでの団体競技が1チーム6人で行う競技の場合、この
団体種目で日本が金メダルを取ったとなれば、TV、新聞等報道機関
は各国メダル獲得表において、日本の金メダル獲得数はプラスの1で
報道します。それをあなたは6個取ったのが本当だとか言ってるよう
なもので、それは実際にはそのとおりですが、便宜上獲得数は+1
で計上されます。それがしの書きこみもそういうことですが。。

あなたはあまり細かいことにこだわり過ぎます。先の通り共同正犯が
両面的共同意思の疎通で殺人が片方のみが実際手を下しても、両者が
殺したということになります。

506 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 20:29:40
唐松山は、ハナ・ハト・マメ・マス・ミノ。

507 :縦目仮面:2009/04/25(土) 20:31:09
>>504
ふーん、史実は奇なりですね。たしか上で俺がからかってた田道間守も、国語の教科書や
唱歌にあったと思うんで、幼少時の記憶が人格形成にストレートに反映してんですかね?

508 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 20:34:57
>>495
奈良から和歌山は
吉野山系があるから攻めにくいし道がわかりにくい。

この事は神武伝説に
やたがらすに助けられて奈良入りを果たしたのと
関係あるかも

509 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 20:45:27
>>505
>あなたはあまり細かいことにこだわり過ぎます。

うーむ、そうかも・・・反省します。

於是神八井耳命懣然自服。於神渟名川耳尊曰。吾是乃兄。而懦弱不能致果。今汝特挺神武。
神八井耳命は弟(綏靖天皇)を「神武」と言っています!? これも面白い。

510 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 20:56:50
>>509
神武天皇即位〜崩御までの間の3倍暦行使の文証

【神武紀の即位〜崩御までの月数統計表】

1月 2  5月 0  9月 0
2月 2  6月 0  10月 0
3月 1  7月 0  11月 0
4月 1  8月 0  12月 0



511 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 21:15:01
>>507
田道間守については「弱水」を渡ったとあるので、西域を旅した可能性は否定できないと思います。
おそらく4世紀初め、五胡十六国の戦乱に巻き込まれて生死の境をさ迷い、思いもよらぬ大旅行になったのか?
唐松山さんの年代とは全く違いますが。


512 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 21:23:08
蓬莱弱水の隔り(ほうらいじゃくすいのへだたり)
http://kotowaza.exblog.jp/8543613/

513 :縦目仮面:2009/04/25(土) 21:23:55
「渟名川」についての雑記。
万葉集に >渟名川の 底なる玉  求めて 得まし玉かも 拾いて 得まし玉かも
                                       惜しき君が  老ゆらく惜しも
という歌があって、ここでの渟名川は、天上の空想上の川と解釈されてる(広辞苑)。また、
玉とは若返りの力を持つ秘宝で、「君が年老いていくのが残念なので、玉の力で若返らせ
たい」ほどの歌意。

一方、奴奈川姫で有名な奴奈川は新潟県糸魚川市近辺で、古代越の国。また、糸魚川は
有名な翡翠産地で上記の玉は翡翠とも想定できる。

・・・俺的には 唐松山=サンジェルマン伯爵説。時空を超えた幻視者。
 


514 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 21:33:07
唐松山
http://www.kimurass.co.jp/karamatsuyama.htm

515 :縦目仮面:2009/04/25(土) 21:37:07
「日子八井」についての雑記
この神武帝の皇子は、古事記には名はあるものの、書紀には存在しない。で、熊本県蘇陽町
にある草部吉見神社(主祭神は神八井耳命)裏手には、この「日子八井」の陵墓比定地(公式
のものではなく、考古学的には無視されてる?)が現存する。伝承自体は阿蘇氏系より古い
感じ。
・・・このように、記紀の古い伝承は調べるほど全国に散らばってわからなくなっていく。

516 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 22:06:06
大唐松山
http://www.katch.ne.jp/~watabou/okaramatsu.htm
私は無理。

517 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 22:06:25
サンジェルマン伯爵は武内宿禰以上の長寿者で、うわさによれば
紅孔雀ではないが、まだ この世にありという。ww

518 :縦目仮面:2009/04/25(土) 22:09:36
「神八井」についての雑記。
上記太国氏が書いてた説話は、大国主、彦火火出見、神武らに見られる古代の末子相続
の伝承化ではないかとする説がある。俺的にはどうだか?
また、神渟名川耳尊が綏靖帝となって政務を司り、神八井耳命は忌人?となって天神地祇
の祭を掌ることとなったともいわれてる。また、神八井耳命の子孫は系図を見ると、下総、常陸
信濃、伊予、肥前など各地に散らばっている。
・・・・と書いてはみたが、これらをまとまった説にするのはかなり困難。もちろんなんかの
意味はあるんだろうが、調べるほど果てしなく枝分かれしていく感覚。


519 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 22:15:08
>>510
そういえば、その日付をどうやって割り出したのか、根拠を提示してくれっていう質問が上の方であったよね。

520 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 22:18:31
愛知県民
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212593807

521 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 22:19:10
斉天大聖孫悟空は人参果を救う法を求めて、キント雲に乗り蓬莱山へ
飛んだところ福禄寿の三星に不可能だと言われ、最終的に普陀巌へ
飛び観世音菩薩に助力を乞うて、淨瓶の甘露水にて人参果を蘇生
させたのだった。3倍暦の示唆かな?


522 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/25(土) 22:25:01
>>519
奴はとぼけてたんだよ。因縁をつけてたのさ。知ってるよあいつは。
だから日本書紀さ。神武紀だよ。それも即位〜崩御の記述だ。

523 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 22:40:02
>>520
「愛知」の意味は「理論好き」という意味というのは、私も聞いた事がないです。
たぶん、フィロソフィア=愛知=哲学とかの関係かと思います。(本当?)
トヨタなんて今は最悪ですよ。私は無関係なのでどうでもいいですが。

524 :縦目仮面:2009/04/25(土) 22:41:30
唐松山さん、気を悪くしたらスンマセン。剣道の大会でちょっと疲れてるもんで。
実は 464の >磐鹿六雁←椿井大塚古墳?   なんかかなり評価してるんです。

525 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/25(土) 23:03:50
愛知県には大碓命(日本武尊の兄)の墓があります。これは宮内庁指定のものです。
三河三宮の猿投(さなげ)神社の祭神であり、山頂近くに墓がありますが、
記紀の記事からすると奇妙です。
縦目さんが言うように、こうした例は他にもあると思われます。

526 :縦目仮面:2009/04/25(土) 23:25:38
うん、記紀神話は各地の風土記的な伝承の寄せ集め、また、「おー俺の先祖が出てる」っ
て感覚で、有力氏族の祖先神に配慮して記述してる部分もあるかもしれないんで、なかな
か一つのテーマに焦点化して調べていくのができない感じなんよね。俺的には、まだるっこし
くて、専門の考古資料で断定的に語りたい誘惑にかられることもしばしば。

サンジェルマン伯爵は不死の人で、西洋版トンデモなんだけど、日本にも空海が、いまだ
高野山の奥の院でひっそり生きているという伝説があるね。


527 :日本@名無史さん:2009/04/25(土) 23:49:02
>>508
それは和歌山から奈良でも同じことだろ
ということは大和王権の脅威になったとは考えにくいが

528 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 00:39:15
低い唐松山
http://www.mapion.co.jp/m/40.2411119444444_141.624053055556_10/

529 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 00:46:59
>>527
同じじゃないよ
都を構えた側とそうでない側はゲリラ戦において有利不利は出てくる
大規模な掃討を邪馬台国が仕掛けたとしても西と北が手薄になるから
他の豪族が謀反を起こした場合を考えるとリスクが大きすぎる
おまけに邪馬台国は緩やかな連合国家
断続的にしかも長い間にかけて攻撃を甘んじて受けなきゃならなかったと思える


530 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 00:47:06
>>527
普通に脅威だろ。海もあるし
やたがらす が烏だと思う?

531 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:24:40
たかがゲリラ程度に西日本を統一してる邪馬台国が苦戦するのかwwwww

532 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 01:25:55
緩やかな連合国家の都が断続的に攻撃されてたら
傘下の国々は離れていくだろ
そんな弱い国に誰がついていくんだ

533 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:35:11
>>532
倭国大乱

>>531
緩やかな連合国家

534 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:49:23
緩やかな連合国家(笑)

535 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:54:17
順序よく

536 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:57:47
なかなか順序よくと謂われても

537 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 04:56:49
弥生終末に環濠集落が全国的になくなったというのは、
普通に考えたら、全国に及ぶ権力が確立されたってことだわな。


ということで、連合(笑)

538 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 06:59:49
倭国の大乱を収拾させたのは卑弥呼だけど
別に経済的軍事的背景によって成し遂げたわけじゃなく鬼道だからね
死んだ後すぐ内乱(内紛?)起きてるし
邪馬台国が盤石の体制を築いたっていうより小康状態にあったんじゃないのかな
狗奴国も邪馬台国に対抗するほどの勢力なら、もっと魏志倭人伝で記述があってもいいと思う
連合国家体に対峙していたというより、邪馬台国とだけ対立してたんじゃないかな?

539 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 07:04:04
っていうことは狗奴国のほうがこの地域に邪馬台国より古く土着していたってのもある
逆に、このころは鬼道に頼ったり魏の威光に頼ったりで政権基盤の危うさを感じる


540 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 07:13:54
連合国家体というのがよく分からん
軍事同盟ではないのか?
邪馬台国とだけ対立するとか考えにくいな

541 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 07:37:47
>合国家体に対峙していたというより、邪馬台国とだけ対立してたんじゃないかな?
卑弥呼が擁立されるまで女王国のトップにいた男王の国じゃないか?


542 :ローガン:2009/04/26(日) 08:29:14
>>538

同意。

543 :改め☆☆☆:2009/04/26(日) 09:21:41
>>474 九州王朝さん
>狗邪韓國は「韓地」の倭人の国です。

どこにも韓地なんて書いてませんよ?

>對馬國と一大國は「海中」の倭人の国です。
>末盧國から狗奴國までは「倭地」の倭人の国です。

意味がわかりませんが・・・?!


544 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:32:17
この当時ってのは鬼道そのものが考え方の根幹なんだよ
収穫がどれだけあるか、病気をどうやって治すか、事の良し悪しが巫女の能力によって決まる
なぜ卑弥呼が共立されたかといえば、人柄だの掌握術ではなく巫女としての能力が優れていたからだ
戦争に負けたとしたら責任を取らされるのは司令官ではなく巫女
現代人とは論理の根幹が全く違うということを理解しておかなきゃいかん。

545 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/26(日) 09:37:02
>倭国の大乱を収拾させたのは卑弥呼だけど
とんでも無い間違いだ、卑弥呼の死そして男王即位この時点で千人以上の殺戮
この戦を倭乱に含めないのか?

>邪馬台国が盤石の体制を築いたっていうより小康状態にあったんじゃないのかな
邪馬台国が狗奴国を初め此まで戦をしていない地域にまで戦を広げ 大倭国統一を果たす。
この結果が古墳の各地への分散。


546 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:46:59
>>543 横からだけど。
韓国って書いてあるだろ。どこにも倭人の国なんて書いてない、そちらの方が
問題なんだよ。

547 :改め☆☆☆:2009/04/26(日) 10:12:56
>>546
>韓国って書いてあるだろ。どこにも倭人の国なんて書いてない、そちらの方が
>問題なんだよ。

狗邪韓國から倭人の国です。

548 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/26(日) 10:29:09
>狗邪韓國は「韓地」の倭人の国です。
崇神末年ソナカシチに依る朝貢、垂仁3年天日矛等の叙勲
これ以降任那(ミマキの邦)は天皇家の領国として、大和に鉄を供給。

この辺も時代を狂わせると支持出来ない。


549 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:07:33
倭人の国ならば韓国とは書かないだろう。倭人は東南大海の中、韓半島にあるとは
書いてない。倭の女王国以北の国は戸数道里を書いているはずだが、それもない。
対馬国から数えて狗奴国までで30国、数の上からも狗邪韓国が入る余地はないよ。

550 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:12:39
>>549
まだそんな奴いるのか?

551 :改め☆☆☆:2009/04/26(日) 11:12:59
>倭人の国ならば韓国とは書かないだろう。倭人は東南大海の中、韓半島にあるとは
>書いてない。倭の女王国以北の国は戸数道里を書いているはずだが、それもない。
>対馬国から数えて狗奴国までで30国、数の上からも狗邪韓国が入る余地はないよ。

おぬし、まだまだだな・・・。
三十国てかいてあるじゃん



552 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:20:30
律令政治ではなく、寄り合い政治だった
時代に各地域の王たちが共立した
卑弥呼と弟王は

モモソと祟神です

553 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:23:20
狗邪韓国は、ルート上の単なる目印
三十国に論題を限定するなら、無視で桶。

554 :九州王朝大好き:2009/04/26(日) 11:24:47
>>543 改め☆☆☆さん
>どこにも韓地なんて書いてませんよ?

「韓地」の言葉はどこにも書いてありません。
しかし「倭地」に対比させる言葉として「韓地」と書きました。

「狗邪韓國」は韓伝にも出てきます。
弁辰の条に、弁辰にある「狗邪國」が「弁辰狗邪國」として。
また狗邪韓國は、「到其北岸狗邪韓國」とある様に、倭(倭人の国)に到着したことを告げています。
ここで、「狗邪國」が「倭狗邪國」でも「狗邪倭國」でもありません。
倭人の国である「狗邪國」が、韓の地域にあるの国ので「狗邪韓國」とかいてあるのです。

なお、韓伝では韓に住むのは、馬韓人、辰韓人、弁韓人だけでなく、
濊人、倭人、州胡人等雑多な人々が住む地域であると書いてあります。
それで、「倭地」に対比する言葉として「韓地」と書いた次第です。


後の疑問は又改めて。

555 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:26:41
>>551
意味不明だが。

556 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:30:21
>「到其北岸狗邪韓國」とある様に、倭(倭人の国)に到着したことを告げています。
倭の北の対岸を「倭の北岸」というんだよ。漢文ではそのような書き方をするそうだ。


557 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:35:56
>>554
結局、どこの国といいたいんですか?

>>556
同意

558 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:46:52
>>556

ならば「到其」とは書かずに「至倭」と書くよな。

矛盾だらけ

559 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:49:10
「其の」は「倭の」と同じ意味であることは通説だが。

560 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:51:42
>>559
単に都合に合わせて、通説にしているだけだろ

561 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:02:37
それに「対岸」と言う言葉は
川や河など、必ず二方向(対する)に陸地の存在を有する場合に使われ
海のような陸地が途切れたり、形の定まらないものの表現には使用されない。

562 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:10:35
物の道理をもう少し理解して欲しい。
川や河は、陸地の存在が先で
陸地な中に後から作られるものだから、必然的に河や川に対し「対岸」が生じる。
物事は、後から都合に合わせるのではなく
道理の中から生まれるもの、道理を無視すれば
必ず世の中から抹消される。

563 :改め☆☆☆:2009/04/26(日) 12:17:38
>>554

勝手に韓国にしないで下さい。

到其「北岸」狗邪韓國 てかいてるでしょう。

狗邪韓國は倭の領土です。

564 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:23:48
>>563
それは韓国大使館に言ってくれ
韓国は日本の固有の領土だと

565 :九州王朝大好き:2009/04/26(日) 12:33:13
>>549
『今使譯所通三十國』は、
狗邪韓國から奴國までの30ヶ国。

『今使譯所通』でないのは、狗奴國。

566 :改め☆☆☆:2009/04/26(日) 12:41:38
>『今使譯所通』でないのは、狗奴國。

いえ違います。

狗奴國も「今使譯所通」、三十国の一つです。

567 :九州王朝大好き:2009/04/26(日) 12:46:11
>>556-562
『從郡至倭  循海岸水行  歴韓國 乍南乍東  到其北岸狗邪韓國』
「其」は「循海岸水行」の「海」です。
即ち、対馬海流が川の様に流れる対馬海峡の北岸の意味です。


568 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:48:17
珍説来てるねw

569 :改め☆☆☆:2009/04/26(日) 12:49:38
>『從郡至倭  循海岸水行  歴韓國 乍南乍東  到其北岸狗邪韓國』
>「其」は「循海岸水行」の「海」です。
>即ち、対馬海流が川の様に流れる対馬海峡の北岸の意味です。

九州王朝さん めちゃくちゃだねwww


570 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:56:05
>>567

それをご都合主義と言います。
全く道理から外れているでしょ

571 :九州王朝大好き:2009/04/26(日) 12:56:06
>>563
>狗邪韓國は倭の領土です。

その通りです。
狗邪韓國は、韓(地)にある倭(人)の国(領土)です。

572 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:03:09
>>567

>「川の様に流れる」


そんな余計な事を入れるから 道理に合わなくなるのです。

其=大海

それだけでいいんです。
詰まり、舟(水行為)は大海に

573 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:11:29
「狗邪韓国」

狗邪は韓(三種)の国(範囲)

574 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:20:00
流れようが流れまいが、水に浮かんだ人から見て北に岸が有れば北岸。
議論する余地なんか何もないよ。

575 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:27:12
島に居る人間から見たら、北にある海岸は北岸。人は陸にいて、北岸の向こうは海。
海に浮かぶ船上の人から見たら、北にある海岸は北岸。人は海にいて、北岸の向こうは陸。
じゃあ、倭人伝の移動の記述の場合、どっちにあたるか。
海岸沿いに南下→東行。
当然、海から見た北側の岸。

576 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:30:47
>>574

それが道理。
到った海に、浮かぶ舟から視線を北に移せば
そこには岸が

577 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:42:58
>>575
それすらも理解出来ない連中が、世の中にはごまんといて
同じ内容を永遠にループさせている。

578 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/26(日) 14:29:14
景初元年 帯方、楽浪を強固にした魏軍は半島南部まで軍を派遣する。
そして狗邪韓国(任那)に至った時倭国の情報を仕入れ、漢時代より通好のある
奴国へ武官を派遣、武官は伊都国まで進むが、これ以上の前進は倭国の情勢が許さない。
奴国王へ親書を送るが奴国王に往時の栄光は無く、女王卑弥呼が治める時代と成っていた。
魏武官は、女王及び狗邪韓国にまで影響力を持つ邪馬台国王の来朝を求める。
景初2年倭女王は、その代表として大夫難升米その副えとして都市牛利(田道間守)を派遣。


579 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/26(日) 14:34:48
狗邪韓國は韓国だと思いますよ。
「到其北岸狗邪韓國」は、對馬國の最後にある「乘船南北市糴」と対応しています。
つまり對馬國の船が、北の狗邪韓國・南の一大國と交易していたということ。
一大國の最後にも「亦南北市糴」とあり、これは北の對馬國・南の末盧國を指す。
したがって、狗邪韓國・對馬國・一大國・末盧國は南北に並んでいるという認識です。

580 :九州王朝大好き:2009/04/26(日) 14:39:29
本質から離れた蛇足を書くとそれに踊らされる人が多いですね。
本質:「其」は「循海岸水行」の「海」です。
蛇足:川の様に流れる

581 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 14:48:45
>>579
君の議論は、南北に並んでいるという推論だけで、韓なのか倭なのかには何も言及できていない。
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、
其?盧國與倭接界
韓半島に倭の領域が有るのは紛れもない事実。

582 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/26(日) 15:00:58
>>581
倭人伝では狗邪韓國、韓伝では弁辰狗邪國と両方出てきますから、韓人・倭人雑居の国と考えられます。
倭人伝では一大率のところで
王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
とあり、狗邪韓國も諸韓國の一つですから、倭国ではないでしょう。

583 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/26(日) 15:01:50
>>578 続き
田道間守は翌年土産を持って帰国、この土産で注目されていない一品がある、それは、種籾
この種籾は東北地方まで米作を可能とする物であり、かつ半島と遺伝子レベルでの違いと成る。
正始4年、垂仁の死亡を伝える使者大夫伊声耆・掖邪狗(伊勢のベテラン磐鹿)等を洛陽に送る
その時、倭王景行に大倭国統一を託される。
そして 戦の仕方から治国の方法まで教えられる。

>韓半島に倭の領域が有るのは紛れもない事実。
この事実は垂仁以降において支持される。


584 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/26(日) 15:19:04
歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
これを見ると狗邪韓國は「韓國」とは別のように思われるが、倭国と違って、この時代「韓国」という
まとまった国はない。
狗邪韓國は「諸韓國」の一つではあるが「韓國」ではない、他の諸韓國とは違うという意識があったようだ。

585 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 15:22:30
>>579

>乘船

何故編纂者はこのような当たり前の事を記載したのでしょう。
対馬は大海の中に前置きしたにもかかわらず

586 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 15:23:55
>>582
王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
というのは、王が都や帯方郡やゥ韓国に使いを送る際、また郡が倭国に使いを送る際、
湊できっちり調べるので文書や物品に間違いは起こらないと言ってるだけで、
拘邪韓國が諸韓国の一つだという事を何も示唆していない。
だから、
>狗邪韓國も諸韓國の一つですから
とは言えないよ。

587 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 15:24:58
>>582
拘邪韓國という命名法は馬韓・辰韓・弁韓と同じ。
韓というものを馬・辰・弁という言葉で修飾している。
同様に、拘邪韓國は、韓を拘邪という言葉で修飾している。

弁辰狗邪國というのは、狗邪を弁辰が修飾している。
これは弁辰の狗邪国であり、この命名法で行くなら、
韓の狗邪国は拘邪韓國ではなく韓狗邪国でなければならない。
だから弁辰の狗邪国と拘邪韓國を同じものと断ずるのは抵抗を感ずる。

韓半島の中に、拘邪韓・馬韓・辰韓・弁韓という地域が有り、
馬韓・辰韓・弁韓が韓で拘邪韓が倭の居住域であったと考えている。
以下、根拠は薄弱だが、拘邪韓國の先住の韓人が倭に追い出されて、
近くに国を立てたのが弁辰狗邪国ではないかと妄想している。

588 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 15:26:27
泳いで移動しているわけじゃなく
ちゃんと船に乗って交易してたと表現

589 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/26(日) 15:26:47
狗邪(クヤ)=伽耶(カヤ)=加羅(カラ)
カラは後に「唐」と書かれ、(お!唐松山さん)外国の意味で使われるようになる。
狗邪は倭の最も身近な外国であり、海外への出発点であった。

590 :改め☆☆☆:2009/04/26(日) 15:26:52
弁辰狗邪国てかww

がんばってwww

591 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 15:31:04
>>588

論外。

592 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 15:50:20
>>587

そんなにムズク考える事はないよ

狗邪韓国は
弁辰狗邪国の中(内)に存在する狗邪の域

わかり易く表現すれば
韓の中にある出島みたいなもの
そして、その出島を利用するのは倭人ではなく、狗邪。

593 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/26(日) 15:53:08
>>587
>韓の狗邪国は拘邪韓國ではなく韓狗邪国でなければならない。
>だから弁辰の狗邪国と拘邪韓國を同じものと断ずるのは抵抗を感ずる。

よく分かりますが、それなら「諸韓國」も「韓諸國」でなければいけないのでは?
文脈から「諸韓國」は三韓の諸国だと思われますが、狗邪韓国はあっても馬韓国とか辰韓国というのは無かったような?



594 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/04/26(日) 16:08:40
>>585
対馬の北は海ですが、南はまだ説明していませんから。
でよい?
また考えますわ。
GRRR・・・

595 :改め☆☆☆:2009/04/26(日) 16:22:39
>>593

「韓諸國」 ・・・・なんですか そりゃw


596 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 17:05:27
>>597

当時の移動手段は、改めてかかずとも
「陸地移動か水域移動」

対馬は周辺文章から察すれば、当然大海の中に位置する島と判断できる。
すると当然南北移動手段は「舟」と必然

そう誰でも判断できる文章にもかかわらず、敢えて「乘船」。
「南北市糴」と書くだけで、対馬を基点に南北へ舟にて市糴
と、理解出来るにもかかわらず「乘船」の二文字を

これは韓伝にも見られる。

597 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 17:07:16
>>596はアンカーミス


597は× 594が〇

598 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 17:19:28
壱岐対馬の住民は船に乗って北へ南へ市糴してたんだから、そう正直に書いて何が悪い!

599 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 17:29:06
>>596
もしかしたら、舟ではなく船というところに意味があったのかな。

600 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:01:35
古代の海上交通網についてもっと勉強した方がいいですね。
国と国とは海上交通を通して物資や人のやり取りが盛んだった。
縄文人はカヌーに乗って世界中を行き来していたという事実から
目をそらしてはだめだ。

601 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:33:38
魏略逸文には乗船は無いみたいね。

602 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:53:38
北九州説、畿内説の方に答えて頂きたい。
伊都国=糸島半島とする根拠を。
なぜ末廬の東南五百里が糸島半島なのか。
伊都国の一大率に壱岐から末廬を経て陸行した理由、
壱岐から伊都国に直接行かなかった理由を。
方角違いだの距離違いだのでは承服しかねる。
ガキの使いではないのだ。
納得出来る意見を聞かせて欲しい。

603 :九州王朝大好き:2009/04/26(日) 19:16:54
シナ人にとって、単に「南北市糴」とすれば陸上移動で、
對馬國内での市糴ととられかねない。
海を渡っての南北市糴であることをはっきりさせる為に「乗船」を入れたのでないかな。
それも、小舟ではなく大型船であることも含めてはっきりさせたのではないかな。

>>601
魏略逸文はどれかわからないけれど、前後関係から乗船がなくても海だとわかるのではないの?

604 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:23:53
>>599

この時代「船」の対は「徒歩」
つまり、「水」に対し「陸」
南北市糴にわざわざ「船」を付けると言う事は、南北市糴の方法に規制が加わらなければ
水陸両方の選択幅があると言う事を示しているのではないだろうか?
しかし、「船」と言う規制を加えた しかも「乗」

南北間は陸路・水路と選択可能な地だが、
水路を選択せねばならない規制下にあり、しかも「乗」せねば移動出来ない。
つまり、用意されたもの


と、読める。

605 :九州王朝大好き:2009/04/26(日) 19:29:18
>>602
僕は邪馬臺國九州説です。
しかし、伊都國は佐賀市大和説です。
邪馬臺國は多利思北孤の都である邪靡堆です。
邪馬臺國の場所は久留米市南部になります。

606 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:30:36
>>603
対馬の形も記載されてないのに?
南北幅が10mの東西に細長い島かもしれませんよ
しかも 東西には一切触れていない。


今まで誰も触れなかった「乗船」

607 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:36:37
>>602
何処に
末廬の東南五百里に伊都と書いてあるのです?
単なる読み間違いでしょ

・末廬の国には、伊都に行く為の、港から東南に延びる道が存在する
伊都に到るに500里

608 :九州王朝大好き:2009/04/26(日) 19:37:04
>>606
對馬國の形は「方可四百餘里」

609 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:38:24
>>605
では伊都國=佐賀市大和、邪馬臺國=久留米市南部に至る、
倭人伝の記述に矛盾しない行程説明をどうぞ。

610 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:46:41
>>608
対馬は自国だけでは自活出来ないと書いてあるだろう。
自活出来ないと書いてあるから
誰も「南北市糴」と単に書かれても、対馬内とは考えないし、読まない。

貧乏な人が、貧乏人同士を右往左往しても
決して裕福にならない事ぐらい理解出来るから。

611 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:50:28
>>607
「四千余戸有り」から「皆沈没して之を取る」は末廬国の様子、
その後の「東南陸行五百里」は当然末廬国を起点にしていると思いますが。

612 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:52:10
>方可四百餘里

それだけで
島の形状が解るとは…トホホ
すると
対馬と壱岐は、形状が同じと言うことか?

613 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:57:45
>>611

>末廬国を起点

そんなバナナ
末廬国と言う面を起点にするには、面を点にするくらいの壮大なスケールで
物事を捉えなければならない。
しかも五百里という、具体的な数値表示もあるのだよ
かなりアンバランスな考え方になるよ

614 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 20:08:53
>>613
ん?よく理解できないけど、
末廬から伊都に陸行したのは認めますか?
では壱岐から伊都国に直接行かなかった理由をどうそ。

615 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 20:09:17
>>604
糴は成分に「入」の字が含まれていることから解るが、買い入れた穀物のこと。
居る所絶島で、土地山険で多深林で良い田が無くて海の物を食って自活しているのなら、
島内で穀物を買い入れるのは不可能だから、陸路・水路と選択可能な地とうことは無いだろう。
乗船には二つの可能性を考えた。
一つ目は、カヌーのような舟ではなく、しっかりした船を使ったという意味。
しかし、舟と船の使い分けが明確にあったかは知らない。
二つ目は、島外の商人が運んできた穀物を買うのではなく、
自ら船に乗って能動的に島外に買い出しに行ったという事。
一つ目の可否は解らないけれど、
少なくとも乗船とうい語が有れば、島民の能動的な活動だということがわかる。

616 :九州王朝大好き:2009/04/26(日) 20:15:16
>>609
簡単な説明をします。

末盧國からの説明です。
末盧國は唐戸松浦川河口。
伊都國は東南500里方向に背振山地を山越えして佐賀市大和。その城郭は惣座遺跡。
伊都國の東南100里は奴國、その城郭は佐賀城辺り。
伊都國から東へ100里で不彌國。その城郭は吉野ヶ里遺跡。
ここで里数による道程説明は終わり。
不彌國に南接して投馬國と邪馬壹國。何故か?
從郡至倭(里数による道程説明が続く、計1200餘里)
  至投馬國水行二十日
  至邪馬壹國水行十日陸行一月
倭人の使っている距離で表現。
投馬國から郡までは船で水行二十日の道程。
投馬國は有明海に面していることがわかり、その城郭は大川市中心部。
邪馬壹國から郡までは水行十日陸行一月の道程。
邪馬壹國は内陸で、大川市の東方。その城郭は久留米市南部としか推定できない。
筑後市八女市は別の理由で不可。(説明省略)


617 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 20:34:36
>>616
下のサイトを参照して下さい。
ttp://inoues.net/science/war.html
弥生時代の舟を復元して航海実験した結果、帯方郡から博多まで47日かかったと記載さています。

618 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 20:46:38
>>614

壱岐から伊都に行った例を上げて下さい。
その例が提示されない限り、貴方の疑問提示は摩訶不思議な疑問提示になります。

619 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 20:52:55
>>615
>しっかりした

基準が曖昧ですね、当時存在した水路用乗り物を全て提示願いたい。


>自ら船に乗って

自己意思で可能なものですか?
つまり、自由交易?

620 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 20:55:59
>>618
例はありません。
素朴な疑問としてなぜ末廬で積荷を下ろしてわざわざ伊都まで陸行したのか。
伊都まで船で行けば良いのではないか。
末廬から伊都まで陸行した理由が知りたいだけです。

621 :602:2009/04/26(日) 21:01:02
爆弾を仕掛けておきながらごめんなさい、ここで落ちます。
レスは後日必ず。

622 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:01:02
>>620

なら、答は一つ

行かなかったのではなく
行けなかった。

壱岐から伊都に行かなかったのではなく
行けなかった。行く事が出来なかった。

623 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:20:06
海賊、山賊が出るとか

624 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:23:42
>>615
それにねぇ

南北市糴を対馬内や壱岐内とは捉えていませんよ

ここは倭人伝内の文章だから、対馬や壱岐の生活物資確保地は
当然倭人伝中内、倭人の済む地

船と限定された乗り物にて、しかも「乗」する事で
南北にて市糴


現代的に例えるなら

東京から新幹線という限定された乗り物で
しかも名古屋と指定された場所にて市糴


全ては規制下にて

625 :縦目仮面:2009/04/26(日) 21:27:39
>>622
>>622
別スレに名無しで書いてました。魏使一行はまだ旅の最初だから、調査のためにはりきって
たんでないの.。www

626 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:36:50
>>623
書いてない事まで想像する必要はありません。
「乘船南北市糴」でも分かるように、倭人の済む地は規制のキツイ地
統率社会です。


>>625

当時はリポビタンDがなかったので
張り切ったかどうか?

627 :縦目仮面:2009/04/26(日) 22:02:19
上レスで書いたけど、後代の隋使裴世清一行は12人程度だった。3世紀当時の中国の
他国訪問団の構成とか、中国語で検索したけどどうやっても出てこないんだよな。
どんな官がいて、距離やら人口やらをどうやって調べたかの参考にしようと思ったんだが。

ただ、>竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、
亦南北に市糴す  ・・・とか、末盧國までの描写はそれ以降に比べて妙に詳しいんだよな。



628 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 22:33:25
>>602
私も何度もそのことは言っていますが、納得できる答は返ってきませんよ。
ま、分かり切ったことですが。

629 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/26(日) 23:04:26
>>586
送り状が無くては、錯誤は判らない。
木刻を文字とし通信に使う。

630 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:44:01
>>628

それは違うでしょう。
納得するしないは貴方であって、貴方を納得させる目的で
相手は説明している訳ではありません。

それに、相手の説明を判断するには
相手以上の知識や技量を必要とするもので、相手よりそれらが劣れば
相手の説明は決して貴方を納得させるに足りないと
貴方は相手を判断するでしょう。

631 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:46:04
乗船は上陸禁止ってことかね。窮屈だな

632 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:51:10
>>626
「乘船南北市糴」に規制なんて関係ないよ。
自由貿易であったか、女王による統制があったかなんて書いてない。
陸路もあるのに強制的に船に乗せられたなんて考えているのだったら、
それは見当違いだ。

633 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:51:30
確かに倭人伝読むと、行程の説明がだんだん簡単になる。最後は国名だけ並べて・・

634 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 00:07:57
>>632

何を単純な
「南北」と限定されてるだろう。それが事実や
少なくても、世の中には東西南北が存在するにもかかわらず
南北とだけ限定されてるのや
なら、東西が存在するか?

対馬や壱岐で生活するには、船と限定された移動手段でしかも「乗」とまで
場所も、「南北」

635 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 00:15:27
対馬や壱岐から移動するのに船の移動は当たり前
だからそんな事はワザワザ書いたりしない。
乘船は、対馬や壱岐からの移動時の事ではなく
市糴する場所である南北での行動風景。

すべては統制下の元に
規制された行動。

636 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 00:26:26
>>634
何をばかな事を
壱岐対馬に穀物を輸入できるような場所といったら、
北の半島か南の九州しかないだろう。
南北に限定してるのは地勢的な自然条件。
政治権力が東西に行くななんて統制してるわけじゃ全然ない。
糴するのに、半島や九州から売りに来た人から買うのか、
島民自ら船に乗って買い付けに行くのかでは風俗が全然違う。
乗船という一語で、島民が島外へ買い付けに行く事が解る。
乗船が無ければどちらかは解らない。

>書いてない事まで想像する必要はありません。

このとおりです。むしろ、書いてない事は想像してはいけません。

637 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 00:43:01
各国説明字数 対海64 一大57 末盧42 伊都43 奴23 不弥22 投馬25 邪馬壹45

638 :縦目仮面:2009/04/27(月) 00:51:59
うん、これについては俺的には魏使最初だけは はりきってた説。wwだんだん食い物が
合わないとかでやる気をなくした。ww (冗談)

もし実は魏使はすべて詳細に記述してたのに陳寿が省略したなんてことがあったら(ない
とは思うが)きわめて罪深いな。ww詳しく書いてりゃこんな論争はなかったかもしれんのに。




639 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 07:02:42
>>636には
少しムズかったかな?

地勢なんて
文頭や行程で説明済みだから、繰り返し南北地勢など記載しない。
文脈のなかに上手く文字を組入れる事で
普段何気ない一文字が、百文字千文字分になる事を知って下さい。

640 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 07:55:01
>>638
陳壽はかなり詳細に記しているんですが、読み手の技量が伴わなければ
宝の持ち腐れ的になります。
一文字一文字、穴のあくほど眺めて見てはいかがですか?

641 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 08:01:52
陳壽は倭人伝の文頭を「倭人」とし、范曄は「倭」とした。
なぜか?
この二文字だけでも
二年や三年の月日はながれます。
簡単じゃありませんよ
それが延々二千文字続くのです。


これでも簡素と言えますか?

もっと読み手は賢くなって下さい。

642 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 11:34:31
縦目仮面 さん

>>640-641さんから賢くなって下さい言われてますよ。
なめられたままでいいのですか?

643 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 12:33:43
>>642は、相変わらずヘタレやの〜

644 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 12:43:02
>>606
>対馬の形も記載されてないのに?
>>608
>對馬國の形は「方可四百餘里」

>>602
>北九州説、畿内説の方に答えて頂きたい。伊都国=糸島半島とする根拠を。
>なぜ末廬の東南五百里が糸島半島なのか。伊都国の一大率に壱岐から末廬を経て陸行した理由、
>壱岐から伊都国に直接行かなかった理由を。方角違いだの距離違いだのでは承服しかねる。

www

645 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 12:46:45
>>644

季節の変わり目?

646 :九州王朝大好き:2009/04/27(月) 13:10:48
>>640-641がぼやくのもよくわかる。
それにしても最近の2チャンネラーにはレベルの低いのがいる。
河童蟲氏が懐かしい。

647 :縦目仮面:2009/04/27(月) 13:12:45
>>642
だって俺は倭人伝だけでは結論が出ないと思ってるからね。それに俺なりにはもう結論が
だいたい出てるんだが、どうせそれ書いても支持率は40%ぐらいだろうし。ww

648 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 13:14:34
>>646
梅毒なんか糞以下だったろーが(笑)

649 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 13:26:49
それにしても最近の2チャンネラーにはレベルの低いのがいる。

レベルランキング
横綱:九州王朝大好き
大関:縦目仮面
関脇:河童蟲
小結:太国
前頭:648

650 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 14:05:53
>>648

糞以下って、凄くない?

651 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 15:36:54
>>646
641とか統制がどうのこうの言ってるヤツは河童蟲じゃん。

652 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 15:46:02
>>651
最近アホーにも余り顔を出さないみたい。

653 :九州王朝大好き:2009/04/27(月) 15:50:39
>>651
>>639-641には河童蟲氏の臭いがあったので、
敢えて>>646を書いたのだ。

僕とは意見が異なるが、河童蟲は憎めぬやつだ。


654 :九州王朝大好き:2009/04/27(月) 16:23:05
>>616に書き間違いがあった。
修正とより詳しく。

× 末盧國は唐戸松浦川河口。
○ 末盧國上陸地点は唐津松浦川河口湖鏡山山麓。魏使は鏡山を目指してやって来たのだ。

655 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 16:27:00
>>649
レベルランキングの共通点はわかるか?

前期高齢者

656 :縦目仮面:2009/04/27(月) 17:00:44
>>655
ふざけんなよ.。ww 俺は大学の剣道部員だぞ。

657 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 17:44:43
そのまんま東なんか40超えてから大学に入り直してたしなあ

658 :縦目仮面:2009/04/27(月) 17:48:56
なら、伝武板のオフ会でお会いしやしょうか。www


659 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 18:40:26
>>658
Q:切り返しの効果を三つ書きなさい。

660 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 19:28:25
>>641
>陳壽は倭人伝の文頭を「倭人」とし、范曄は「倭」とした。
>なぜか?

三国志 倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑.
後漢書 倭在韓東南大海中,依山?為居,凡百餘國.

爲國と爲居の違いで、爲國と書いたら主語は人のほうが馴染む。
倭は、倭人と領土からなる抽象概念。
国を作るのは人で、抽象概念は国を作らない。
一方、
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居.
でも解るように、居は主語が抽象概念でも行ける。
そんな、何年もかけて理屈を捏ねまわすようなことじゃないよ。
「人」の有る無しにどんな理屈を見つけたのか、試しに書いてごらん。
まあ、南北市糴で統制貿易というのと同じ類だろうけど。

661 :縦目仮面:2009/04/27(月) 19:52:47
>>659
手の内、間合い、足さばき・・・まだまだある。もう剣道関係のレスには答えないよ。出禁になる。ww
伝統武術板に来てくれ、この名では書いてないが、たぶん俺だとわかる。

662 :602:2009/04/27(月) 19:55:24
急いで帰って来て目を通したけど、
これといった意見もないようなので去ります。
お騒がせしました。

663 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:14:53
>>660
人に書いてごらんと言われ、「はい」
と応えるほど
世の中甘くないよ

ましてやその口ぶりじゃ、書く事自体に阿保らしさすら感じる。
もう少し会話の勉強でもする事を希望する。

664 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:23:44
>>661

剣道は三段しか持ってないが、尋ねてもいいかな?
いまスポーツ少年団で、子供達に基本を教えてる。

665 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:48:54
>>663
いつも、そうやって逃げるから、最初から期待してないよ。
君用の会話を勉強してしまった哀しい結果だ。

666 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 21:32:35
>>665

私は昨日が初参加ですが
誰かとお間違えではありませんか?

667 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 21:50:16
>>666
ああ、そうですか。
それでは、「人」の有無について、是非貴説を御開陳願えませんか。
ここに集う皆さまにも、きっと勉強になる事でしょう。

668 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 22:16:03
>>667
いいえ
私は単なる通りすがりの者、開陳出来るような説は持ち合わせません。

株で儲ける話しなら致しますが。

669 :縦目仮面:2009/04/27(月) 22:16:41
>>664
マジレスすると、小学生なら基本も大切ですが、何より剣道が好きになって、中学校の部活
に入ろうとする気持ちを持たせることが一番ではないでしょうか。地方では剣道人口の減少も
ひどいと聞きます。伝統武術板・武道板は超過疎で馬鹿も多いですが、高段者の先生も
実戦派もいますので、ぜひそちらでどうぞ。

670 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 22:35:45
>>669
お誘い有難うございます。
私は地方に住んでいまして、貴方の申す通り
剣道人口の減少は半端ではありません。 困ったものです。

学生時代に二段を取得してから三十年程竹刀から遠ざかり、三年程前から再度始めた者
昨年秋に、三十年振りに昇段審査に挑戦し
何とか三段を取得出来ました。

でも、以前とは違い
瞬発力に衰えを覚える毎日です。 トホホ
もう、四段は夢か?無理か?

671 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 22:39:16
>>669
横からマジレスすると、僕も学生時代剣道部だったけど、もはや剣道には競技としての魅力が無いだろうね。
小学生の動機って憧れだけど、少年が憧れる要素がないもんね。
野球・サッカー・柔道・総合格闘技のように、メジャーな世界大会とか高収入とか。
むしろ、古武道というのかな。柳生流とかのスポーツ化していない剣術のほうが、これから需要があるかもしれん。
侍に対する憧れが刺激されるし、外人も入門しそう。

672 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 00:28:57
居合やんなよ
四段くらいになったら真剣持てるんでしょ?

でも真剣は…高いよねー

673 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 01:36:21
>>593
遅レスだけど

>よく分かりますが、それなら「諸韓國」も「韓諸國」でなければいけないのでは?

韓の狗邪国なら拘邪韓國ではなっく韓狗邪国だというのは、
狗邪国という名詞を韓が修飾する場合の話です。
「諸韓國」か「韓諸國」かというのは、
國という名詞をゥと韓という二つの語が修飾する場合、その順番はどうだという話で、
拘邪韓國とは違うタイプの問題です。
ついでに言うと、韓諸国と書くと、韓とその周辺の諸国の意味にも取れるのではないかなと思います。

>狗邪韓国はあっても馬韓国とか辰韓国というのは無かったような?

これについても、一応の説明は出来ますが、こじつけに毛が生えた程度ですので、
保留という事にさせていただきます。

674 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 01:58:50
剣道ねえ…
俺みたいな素人が傍から見る分にはどうにも地味w
もうええやん「スポーツチャンバラ」でw

段位も サムライ→ダイミョウ→ショーグン とすれば外国人にも大受け
希望者には途中から「ニンジャ」にクラスチェンジ可とすれば更に馬鹿受けw
どうでせう?wwwwww

まあ明治の頃には剣術による興行もあったに聞くが…

でここから多少マジなお話
(つっても剣道やってる奴に聞いても「シラネーヨ」と言われるのがオチかもしれんが)

洋の東西を問わず片刃の「刀」より両刃の「剣」が登場して
その後、金属の加工技術の向上により刀が出てくるってのが傾向だと思うが

素人目には(片刃の)刀の方が(両刃の)剣より作りやすいのではないかとも思うし
又、刀の方が実用的でもある気がする。
(ちなみに中国武術に「刀は百日、槍は千日、剣は万日」と言うのがあったと記憶するが)

なんで剣が刀に先んずるのか?

昔からわりと疑問なんだよねえ。。

675 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 05:04:57
何度も肉刻むと切れなくなるし歯こぼれもあるからじゃないのか?

676 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 06:57:42
>>674
そもそも
刀と剣を比較したり、同じ流れで論じる事そのものに
無理があると思う。

677 :縦目仮面:2009/04/28(火) 07:17:02
>>674
日本刀につける反りは非常に微妙なものなんだよな。曲がりやすいし。鋳造の刀では使い物
にならないのでは?鍛造の日本刀は芸術作品に近い。
・・・スンマセン話を変な流れにしてしまいました。俺のせいです。あと俺を前期高齢者とかいう
やつの・・・。

678 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 10:42:28
>俺を前期高齢者とかいうやつの・
ありがたいと思えよ。俺なんか、縦目は後期高齢者かと思ってたんだから。

679 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/28(火) 12:38:48
両刃の「剣」は青銅器時代の名残
鋳造の刀は大きく重い、この重量で叩き切る
蒙古軍が船上にとどまり陸地に陣を張らなかったのは、この日本刀の切れ味で夜襲を恐れた為かも?
これ以降日本刀は世界基準となる、ただし中国製のイミテーションが席巻する。

七支刀は、鍛造復元の結果鋳造品の可能性が大きい、では何処で鋳造されたか?木炭の火力では温度が低すぎる。


680 :縦目仮面:2009/04/28(火) 14:23:46
しかし怖ろしいなあ。俺が唐松山さんなみの年寄りと思われてたなんて・・・。いや、けして
唐松山さんのことを悪く言ってるんでなくて・・・本当の祖父のように敬愛しています。

681 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/28(火) 18:48:05
こっちも未だ50台だ、
100年前のことが判らなくて1800年前のことが考えられるか?

682 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:34:05
「最近の2チャンネラーにはレベルの低いのがいる。」とのことなので

勉強して貰うため、倭人伝の日本語訳でも書き込むか。
ネタ投下にもなる!

683 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/28(火) 19:36:23
倭人在帯方東南大海之中依山㠀為國邑

倭人は帯方の東南大海ノ中に国村を為す。


舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

(倭は)昔、百余国、漢の時に朝見する者有り、今、通訳通じるところ三十国。


從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千餘里

郡ヨリ倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国をへて 南しながら東し、
其(倭の領域)の北岸にあたる狗邪韓国に到る(直に至らず)こと七千里余り。

684 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:47:17
やっぱりレベル低〜い

685 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/28(火) 19:49:43
【魏志倭人伝 日本語訳 改め ◆PWTcGEfp1s 版】

「始度一海 千餘里至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀、方可四百餘里」 

始めて海を渡ること、千里余りにて對海国に至る。
其(對海国)の大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。
この場所は、遠く離れた孤島にあり、面積は四百里余り四方程である。


「土地山險 多森林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴」

(對海国の)土地は山険しく、森や林が多く、道は獣や鹿が通るような小道であり、千余りの民家が有る。
良い田んぼは無く、海産物を食べて自活(生活)している。
(人々は)船に乗って南北の町に米や殻物を買い入れしている。

686 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/28(火) 19:53:24
【魏志倭人伝 日本語訳 改め ◆PWTcGEfp1s 版】

「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里」
「多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴」

また、南へ瀚海いう名の海を渡ること、千里余りにて一大國 に至る。
亦(また・・・)、官を卑狗といい、副を卑奴母離という。面積は三百里四方程である。
(その島は)竹や藪や林が多く、三千ばかりの(三千と決められた)家が有り、
不揃いな田地・耕す畑が有りながらも食物が不足し、亦(また・・・)、南北の町に米や殻物を買い入れしている。


「又渡一海 千餘里至末盧國 有四千餘戸 M山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之」

また、海を渡ること、千里余りにて末盧國へ至る。
四千余りの民家が有り、山沿い、海沿いの浜に住んでいる。
草木が盛んに茂っており、前を行く人を見失ってしまう。
(人々は)魚やアワビを好んで捕り、水の深浅に関係無く、皆潜って取りにゆく。

687 :縦目仮面:2009/04/28(火) 20:04:05
>>683
芸風を変えてみようかwww

意味なく改行して、683のことはドツボと呼ぶ。お前はこんなくだらんことしてレス数のムダ
だろうが、馬鹿野郎がwwwwww

お前の読むくらいならもっといくらでもいいのが出てるwww

いや、あまり似てないな。ちょっとその口語訳はストップ。上で出てた>乗船南北市糴とか
俺はあまり意味のないことだと思うが、前から気になってたのは683の>今使譯所通三十國
の部分だが、この「今」は魏代(220〜265)のいつごろだと思う?




688 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/28(火) 20:07:30
【魏志倭人伝 日本語訳 改め ◆PWTcGEfp1s 版】

「東南陸行五百里到伊都國 官曰爾支 副泄謨觚・柄渠觚 有千餘戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

東南へ陸地を行くと五百里にて伊都国に到る(直に至らず)、官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠觚という。
千余りの民家が有る。
(伊都国には)世に(代々)王がおり、皆、女王国に系統し属している。
郡の使いが往来する時、常に滞在する所である。


「東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸」

東南、奴国に至る。(奴国までは)百里。(奴国の)官を兕馬觚といい、 副を卑奴母離という。 二万余の民家が有る。


「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有三千家」

東へ行くと不彌国に至る。(不彌国までは)百里。(不彌国の) 官を多模といい、 副を卑奴母離という。千余りの家が有る。

689 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/28(火) 20:10:19
縦目仮面さん
馬鹿野郎というのはうまくないですよ。やめましょう。
改め氏は恒久的小ズルイ男ですが、真も持ち合わせてます。
ただ倍暦を否定に終始する妄想は、立ち直れないほどひどい考えの
持ち主なのだということも確かです。

690 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:12:06
>>687
>今使譯所通三十國の部分だが、この「今」は魏代(220〜265)のいつごろだと思う?

限りなく晋代に近い時点だろう。
すなわち女王台与の時世。

691 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:14:25

トヨタン・・・・・・・・・・


692 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:17:53
>>687

今=魏代全て
これは魏書の一部であり、編纂者が何も特定していない限り、一部抜粋などはいたしません。

693 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:22:42
>>692の補足追記


「一部抜粋」


「時間の一部抜粋」

694 :愛知県民:2009/04/28(火) 20:26:28
魏志は265年までで良いの? 倭人伝の年代が247年までなのが引っ掛かりますが?

695 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:39:16
>>692
>今=魏代全て

それはおかしい。
少なくとも魏立国の220年から卑弥呼が初朝貢する239年までは除外できる。
三国志が克明に描くそれ以前の曹操・劉備・孫権が相争う時代も、もちろん含まれない。

696 :縦目仮面:2009/04/28(火) 20:45:07
>>689
いやいや、これはある特徴のあるレスをマネしているだけ。

>>690
この「今」が、
@曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け、洛陽を都とし、魏の皇帝となった220年頃
A卑弥呼朝貢により親魏倭王に封ぜられ、建中校尉梯儁等が派遣された240年頃
B張政等が派遣された卑弥呼の死の前後250年頃
C司馬炎に曹奐が禅譲を強要され魏が滅びた265年
D陳寿が倭人伝を書いた280〜290年頃
E魏代のすべてのことを網羅的に書いている。
のどのあたりかは興味あるところで@とDは明らかに違うだろうが、10年隔てば考古資料
でいえることもまた変わってくる。

>>692
これも難しいところで、すべての時を網羅しているとするなら、例えば一大率やそれぞれ
の国の官名など、どれがいつ頃できたかなどは結局わからんということになるのかな?

>>694
うーん「魏志」とある以上、台与とされる倭女王の朝貢時の情報も取り入れているように
思えるが。

>>695 239年以前についても倭人から聞き書きすることはできるだろう・・・。

697 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:01:38
>>695


省いてもよいと、編纂者は述べていますか?
この倭人伝は、魏書の一部であり、魏の歴史書です。
倭人の国史書ではありません。

698 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:08:26
>>696
いつ頃出来たかなんて関係ないでしょう。

魏王朝と繋がりが出来た時に、既に存在しているものであれば
「今」と、期間を限定しているのだから
過去(別時代)を振り返り説明するまでもありません。

699 :縦目仮面:2009/04/28(火) 21:15:03
いや、俺は一大率に関しては張政の頃、それ以外の各国の官に関してはもっと古いと
考えてるんで、このことは興味深いんだよ。

700 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:19:16
皆さん何か勘違いをしていませんか?

倭人伝は
魏書の本紀を根本とする、その傍流に過ぎないのですよ!
しかし、傍流と言えども
他国の国政を題材にする以上
その国の過去からの流れを記さねば、その国の事情は掴めません。
しかし、編纂者は敢えてその流れを絶ち、魏代に絞り
魏王朝とかかわりを持った時間を限定する意味で「今」としたのです。

701 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:22:09
プラムの匂い・・・

702 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:22:16
>>699

個人的な意見を組入れたら、歴史なんてどうにでもなる。

張政関与の記述でもあるのかな?

703 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:32:20
>>694

魏王朝との繋がりが途絶えれば、途絶えた所から、倭人は魏書から消えます。

だから「今」と限定しています。

でも、倭人伝は本紀の一部です。

704 :愛知県民:2009/04/28(火) 21:32:36
晋書四夷伝倭人に、文帝作相又数至とあり、250年代にも何度か遣使があったようだが、陳寿はスルーした?

705 :縦目仮面:2009/04/28(火) 21:34:39
>>702
いや、俺は畿内説なんで、北九州を統御していたであろう一大率の起源については気になる。
ただ言うように倭人伝からは時期的なことはわからないので、鏡や初期古墳などから推測
して自説を組み立ててる。張政という言葉はは240年代後半の指標として使ったまで。

706 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:39:05
>>704
そう晋書で読めるなら
それは晋王朝の過去の歴史と捉える可きですね

魏書に書いていないなら
魏王朝とは
直接関係ない事です。

飽くまで基本は本紀です。司馬懿は魏王朝の皇帝ですか? 違いますよね


と、言う事です。

707 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:41:16
>>705
それはそれで構いませんので、個人的な事で納めておいて下さいな

708 :改め☆3つ:2009/04/28(火) 21:47:17
みんな、スルーかな?!せっかく書き書き込んだのに〜!
コピーではなく、一字一字、自分の考えで書いてますよ。

これじゃ、一生経っても魏志倭人伝なんか読めないよ。

今使譯所通の「今」だけど、それもすべて倭人伝が読めるなら分かるはず!
「今」が分からないなら、そりゃ本人の勉強不足っスね。

709 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:57:08
>>708
だから
どんなコメントが欲しいの?

710 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/28(火) 21:57:36
>陳寿はスルーした?
陳寿はこれらの記録を分離せず一つとした。

ここから 複雑怪奇な倭国となる。


711 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:00:40
>>710

ならないですよ
複雑怪奇にしたのは読み手です。
陳壽が書いたのは「魏書」です。

712 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:09:58
>>708
改めさんにお願いしたいんだが。

倭人伝のところはもういいよ、前にも何回かやっただろ
現代日本語訳もあちこちのサイトに結構あるようだし。

だから改めさん、倭人の条は省いていいからさ、東夷伝の冒頭からやってくれないかな?
烏丸、鮮卑から。
テキストはここにあるよ。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html

冒頭以下各東夷の条は、陳寿の歴史観を知るためにも大切な箇所と思うからさ、たのむよ

713 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:11:56
複雑怪奇なのはおまいら。ww

714 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:18:21
>>712無理でしょうね。それが、大人の事情というものです。

715 :縦目仮面:2009/04/28(火) 22:20:59
東夷伝だけなら、俺はこのページの世話になってる。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html

716 :改め:2009/04/28(火) 22:24:09
>>712

『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳 ??

陳寿の歴史観を知っても意味ないですよ。
倭人伝に書いてあるとおりに読むべきで、それだけで十分デス。

それに倭人のことが記されてるわけではないし...。


717 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:34:59
>>716
失望  (≧_≦;)ノ














718 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/28(火) 22:36:26
>>716
> 桓靈之末、韓wai[偏水旁歳]彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。
倭人伝に書かれた桓靈間がこの記事とほぼ同じ時期を指すのは何故か?
倭人伝の中に正解が無い場合 此方と記事は重なるのは?

悪い言い方をしたら記事の使い回しかも。


719 :縦目仮面:2009/04/28(火) 22:47:26
718の韓伝のそのあたりも倭人伝とは関連深いと思われるんで、改めさんにはぜひやって
ほしいなあ。

720 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:49:09
>>718

使い回しもなにも
倭人伝の何処に「桓靈間」などと言う記載が?

721 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:54:43
陳寿が全てかいているわけではなくて、要するに監修金田一耕助の国語辞典みたいなものですから、
陳寿の専門外の部分は監修も甘くなるというものです。
陳寿がどういった方面を専門にしていたか考えれば、別冊付録のような倭人伝間で手が回らなかった
事情が理解できると思います。

722 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:19:22
>>721

>陳寿が全てかいているわけではなくて


では、他に誰が書いているのでしょうか?
で、魏書には監修陳寿となっているのでしょうか?

723 :縦目仮面:2009/04/28(火) 23:22:01
>>721
>要するに監修金田一耕助の国語辞典・・・「八つ墓村」とかのことすか?ww


724 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:31:24
冗句のわからんやつだ・・・

725 :縦目仮面:2009/04/29(水) 01:35:43
ええっ、これ冗談だったんすか。いや、俺実は石部金吉っていわれてて冗談通じないんすよ。
なんせほら、青銅製だから。・・・じゃきっと、718の唐松山さんの >倭人伝に書かれた桓靈間
ってのもジョークだったんだなww


726 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 01:37:25
久しぶりにテンポいい、プラム節の炸裂かw

727 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/29(水) 07:48:51
【魏志倭人伝 日本語訳 改め ◆PWTcGEfp1s 版】

「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸」

南、投馬國に至る。船で行き二十日かかる。官を彌彌といい、副を彌彌那利という。五万余り程の民家が有る。


「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月」
「官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」

南、邪馬壹国に至る。(邪馬壹国は)女王ノ都とする所。船で行き十日と陸で行き一月かかる。
官には伊支馬が在し、次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳鞮という。七万余り程の民家が有る。

728 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/29(水) 07:59:25
>>712
>>717
>>719 すぐ、人に頼るのではなく、ご自分で探してみたら如何でしょうか。

>>718
??

729 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 08:18:16
>>718
「桓靈間がこの記事とほぼ同じ時期を指すのは何故か?」ではなく、范曄は倭国で
乱があったという倭人伝の記事をみて、中国における桓靈間の混乱と並行して倭国
も乱れていたと思い込んだ、ってことだろう。

730 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/29(水) 08:21:39
【魏志倭人伝 日本語訳 改め ◆PWTcGEfp1s 版】

「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」

女王国より北を以って、その戸数・道里を(女王国に向かうことによって)得て、略記(要点だけを簡単に記す)することが出来たが、
その他の諸国(これから記載される国々)は遠く離れていて、詳しく得ること(記載することも)が出来なかった。


731 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 08:33:00
不可得詳の詳は、略に対する文字だ。詳記と解するべきだろう。

732 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/29(水) 08:39:32
【魏志倭人伝 日本語訳 改め ◆PWTcGEfp1s 版】

「次有斯馬國 次有巴百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國」
「次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國」
「次有耶馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有鳥奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

次に斯馬国有り 次に巴百支国有り 次に伊邪国有り 次に都支国有り 次に彌奴国有り 次に好古都国有り 次に不呼国有り
次に姐奴国有り 次に對蘇国あり 次に蘇奴国有り 次に有呼邑国有り 次に華奴蘇奴国 次に鬼国有り 次に為吾国有り
次に鬼奴国有り 次に耶馬国有り 次に躬臣国有り 次に巴利国有り 次に支惟国有り 次に鳥奴国有り 次に奴国有り
ここが女王の領域が尽きる所である。


「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」

其(女王の領域)の南に狗奴国が有り、男子を王と為す(男子を王とする)。
其(狗奴国)の官には狗古智卑狗が在し、女王には属していない。


「自郡至女王國萬二千餘里」

郡より女王国に至るまで万二千里余り

733 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/29(水) 08:45:43
>>731
>不可得詳の詳は、略に対する文字だ。詳記と解するべきだろう。

「詳記」とかどこに書かれてるのでしょうか?
書いてあるとおりに日本語訳するべきと思いますが...。


734 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 10:20:11
>>733
其戸數道里可得略載
「其の戸数道里は略載することを得べし」と訓読するか
「其の戸数道里は得て略載すべし」と訓読するかで、
多少文法的解釈は変わるのかもしれませんが、確かな事は、
この「得」は、戸数道里にかかるのではなく、略載にかかるという事です。
つまり、戸数道里を得るのではなくて、略載することを得るです。
「不可得詳」は「詳らかにすることを得ベからず」
または「得て詳らかにするべからず」です。
「詳しく得る」ならば「詳得」で語順が違います。
「可得略載」と「不可得詳」が対になっています。
>>731さんが「詳記」であると仰ったのは、「略載」と対であるなら
「詳」は「詳載」だと御考えになったからでしょう。
「記」の字を補うのに反対なら、
「(戸数道里を)詳らかにすることはできない」ぐらいに訳すのがいいでしょう。

ついでに言うと、「自女王國以北」は「女王国より北を以って」ではなく
「女王国より以て北」です。

735 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/29(水) 11:13:34
>>734
>この「得」は、戸数道里にかかるのではなく、略載にかかるという事です。
>つまり、戸数道里を得るのではなくて、略載することを得るです。

>「不可得詳」は「詳らかにすることを得ベからず」
>または「得て詳らかにするべからず」です。

それは、「可得略」「不可詳」の場合はでしょ。
魏志倭人伝に記述は、「可得略載」、「不可得詳」ですから>>730が正解デス。

「自女王國以北」に関しましては「女王国より以北は」に訂正します。

736 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/29(水) 11:16:52
>>735
「可得略」×

「可略載」○    に訂正

737 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 11:37:19
そのうち『三国志』東夷伝倭人条に引く逸文では、「倭」について、

「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」
その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す

との記述から、春の耕作と秋の収穫を1サイクルとして今の半年を
一年として数えていたという意見がある。一方でこの記述は「春に
耕し秋に収穫するのを一年と大ざっぱに考えている」と述べている
だけで、この記述をもって史書に記された年数を勝手に二倍に解釈
するのは牽強付会との意見もある。



738 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 12:04:07
船で1年=4千里です。
梁書より

「其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。」




739 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 12:08:59
>>737むかしどなたかが提唱した倍暦の根拠ですね。
   古代は二毛作が普通だったのです。

740 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 12:25:03
>>735
>それは、「可得略」「不可詳」の場合はでしょ。

「可得略載」、「不可得詳」の話です。
「可得」「不可得」で「できる」「できない」の熟語と考えていいと思います。

魏書
然法者,所與天下共也,不可得廢.
然れども法は天下と共にする所なり。得て廃すべからず。(もしくは、廃するを得べからず)
法は天下と共有するもので、廃することはできない。

他にも
聞人之惡,當如聞父母之名;耳可得而聞,口不可得而言也.
彭城夫人夜之廁,?螫其手,呻呼無ョ.佗令?湯近熱,漬手其中,卒可得寐,
などの例があります。
これらは具体的に何かを得るわけではありません。
倭人伝のように、具体的に何かを取得するように読める場合もありますが、
基本として「可得」「不可得」の用法があるので、そちらに準じて読むほうが良いでしょう。

それとは別に、「得詳」を「詳しく得る」と訳すのは語順が違いますので、正しくありません。

741 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/29(水) 12:56:59
>「可得略載」、「不可得詳」の話です。
>「可得」「不可得」で「できる」「できない」の熟語と考えていいと思います。

そりゃ御宅の考えなワケで、これは【改め ◆PWTcGEfp1s 版】デス。

>聞人之惡,當如聞父母之名;耳可得而聞,口不可得而言也.
>彭城夫人夜之廁,?螫其手,呻呼無ョ.佗令?湯近熱,漬手其中,卒可得寐,
>これらは具体的に何かを得るわけではありません。
>倭人伝のように、具体的に何かを取得するように読める場合もありますが、
>基本として「可得」「不可得」の用法があるので、そちらに準じて読むほうが良いでしょう。

「得」という漢字がみえないのでしょうか?
あくまでも只、可能といってるのではなく「得て・・・可能なのか不可能なのか」ということなんですよ。
ここの「得」を勝手に消すと意味違ってくる。

>それとは別に、「得詳」を「詳しく得る」と訳すのは語順が違いますので、正しくありません。

私は、魏志倭人伝の記述を【日本語訳】したんです。
「得詳」なんて日本語はありません。
この場合、「得詳」を日本語にする場合は「詳しく得る」とするのが正解とします。

742 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/29(水) 13:14:17
>>740の日本@名無史さん、
魏志倭人伝に記されている、一字一字を適当に考えるのではなく、
一字、一瞬たりとも見逃したらいけません。

ましてや、「南」と記されているのに勝手に「東」としたり、
「得」と記されてるのに関わらず、これを消しゴムで消すような行為は
許されるべきではナイのです。

厳しいことを言いますが、「一字一字」意味があるのデス。

743 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 14:25:16
>>741
>「得」という漢字がみえないのでしょうか?
>あくまでも只、可能といってるのではなく「得て・・・可能なのか不可能なのか」ということなんですよ。

たとえば、「I am going to paint.」を訳そうとして、「be」は「ある」で、「go」は「行く」で「paint」は「描く」だから、
「私はあって、行って、描く」と訳すのと同じ間違いをしているのです。
「be going to」がイディオムとして「しようとしている」という意味を持つように、
「可得」「不可得」は「できる」「できない」という熟語なのです。
「可得聞」は、孟子で頻出する「聞けますか」という決まり文句です。
「可得」「不可得」として使用されている場面で勝手に「得る」の意味を追加するわけにはいきません。
「得」という漢字は、日本語ではなく古代の中国語なのです。
ただ単に「得る」という意味だけで使われていたのではありません。


>「得詳」なんて日本語はありません。

「得」が動詞として働く場合、「得A」となって、後ろに得る対象物が来ます。「Aを得る」です。
ですから「詳しく得る」と訳す場合「詳しくAを得る」であって、「詳得A」の語順になるのです。
ですから「得詳」をどう訳しても日本語の「詳しく得る」にはならないのです。

744 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 14:46:57
うーむなにやら難しそうなお話だが
逐次訳の限界ってやつかな?w

確かにチューボーの頃英語を辞書で単語一つ一つで訳して
そう言った間違い犯した記憶があるなwwww


745 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 14:47:44
全部読んでないが734が正解
議論の余地なし

746 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 16:09:11
be動詞ナツカシスwwwwwwww

747 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/29(水) 16:24:34
いや「可得」「不可得」は”能”の無い話だ。

748 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 19:45:28
これを見ると倭=九州、日本=本州だね。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:SihaiHuayiZongtu.jpg

749 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/29(水) 20:18:08
ひのもと(日本)とは、倭(北九州)に対する大和の事
卑弥呼時代 倭王(大和垂仁、景行)は倭女王(九州)の下(副)で、朝貢。
その後 倭は大和の事と成るが、国名変更時
日本元小国と記録される。


750 :日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:21:12
大琉球=沖縄
小琉球=宮古

751 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 09:19:29
台与が遷都した時期ていつぐらいなの?
266年?
知っている人がいましたら書き込みお願い。


752 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 09:24:02

トヨタン・・・・・・・・・・


753 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 11:29:20
『漢字を学ぶ』=“略”

この略と言う文字を解釈する場合、一般的には略し完了されたもので捉えられている。

例えば“学”という文字
これは“學”と言う文字を、意味を変えずに簡素化された文字
つまり簡略された文字として、広く一般的に使用され
学は學の略として扱われている。
しかし、正確には“学は學”の略ではなく

『學を意味を変えずに学と構成を簡素化させた』
これが“略”と言う文字の正しい解釈の仕方です。
ようするに
“学”と言う文字だけを記載しても “略”と言う文字には当て嵌まらず

「略された結果」に過ぎないのです。

「略」とは
結果ではなく、結果にいたるまでの行程と結果が揃い初めて“略”なのです。

754 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 11:37:21
『漢字を学ぶ』

何故このような間違った解釈が、広く一般認識されてしまったかの
原因の一つは、
やはりアンチョクに上辺だけの辞書の利用にあるでしょう。
辞書が間違っているのではなく、辞書を使用する使用者側に問題があり
鵜呑みに扱って来た、上辺だけの学習方法の弊害の一つかと

755 :改め(忙しい):2009/04/30(木) 12:29:03
>>753-754
丗有王皆統屬女王國の「丗」は、「世」の古い字として認識されてるが、

世=丗の ぐらいの違いはあるということかな?
いうか河童虫さん お久しぶり。

756 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 12:38:48
>>753


757 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 12:54:02
>>755
お久しぶりです。

>丗=世

略字云々については
ここでは例えに使ったまでで、詳しく触れるつもりはありません。


略と言う意味解釈に、相当な誤解を拝見したので
レスしたまでです。


しかしその誤解釈が、今や一般化されている以上
例え誤解釈であっても
それが現代の正解であり、真実とは別な世界に位置するものであることも事実です。
早い話し、時流ですか?

歴史考察とは
時流に乗った考えで行うか?
時流とは別な次元で行うかの

二者択一的なものだと言う事です。

758 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 13:07:29
>>753
>これは“學”と言う文字を、意味を変えずに簡素化された文字

「“學”と言う文字【を】、簡素化【した】文字」
もしくは、
「“學”と言う文字【が】、簡素化【された】文字」
とすべきですね。
日本語が独特なので、はっきり解らないのですが、要するに、
略とは簡素化するプロセスの名であり、簡素かされた結果、
ここでは学の名ではないということでしょうか。
だったら
>『學を意味を変えずに学と構成を簡素化させた』

『學【の】意味を変えずに学【へ】と構成を簡素化させ【る】』
が正しいですね。

759 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 13:11:46
私の考え方は間違いなく受け入れられない
ものであることは百も承知です。
私だって、現代の学習要項にそくし学んで来たものですから

しかし歴史は、現代の時流に合わせて考察するのではなく、
時代にそくした考えで行うものだと、考える故
こうして
時流に合わない考えを
反発当然で、レスを入れてる所謂です。


しかし、反論されて
私は議論などする気はサラサラありません。
私の意見は、時流に逸脱しているので
反論は必然事項なのです。

760 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 13:16:25
>>758
有り難うございます。

大変ためになり、今後に役立たせたいと思います。

761 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/30(木) 13:25:02
私も、昨日の日本@名無史さんも「得」の使い方を少し間違えてたかな?

「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」

「可得略載」は「可」「得」と「可能」を意味する字が並んでるので、
得は「ばかり(程)」とし、「不可得詳」は「詳を得ること出来ない」か。

『女王国より北を以って、その戸数道里は略記(要点だけを簡単に記す)する程出来たが、
その他の旁国(これから書かれる近国)は遠く離れ、詳を得ること出来ない。』

これで誰も文句はナイはず!!

762 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 13:29:26
ドツボと梅毒とチョロ松とデブ国。

主張は違えど、はたから見れば、バカ四人(笑)

763 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/30(木) 13:36:29
>>758さんは昨日の日本@名無史さんかな?

>>760
河童さんは、久しぶりに会うが、
何か新しい発見とかありました?

まあ、ネタにもなるので、もしあるようなら書き込んでほしいですね。

764 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 13:42:18
>>761

『得ると得り』

得り= 得とするものの完了であり結果

一方
得る= 得となすためのプロセス


つまり、“得る”とする動詞(プロセス)が、静止する事によって完了(得り)され、名詞化される。


日本語訳された時、“得る”と訳すか“得り”と訳されるかで、かなり意味がかわります。

765 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 13:45:34
>>763

私のレスそのものが
周りの人にとっては、全て新しいモノ発見かと

766 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/30(木) 13:48:39
>>764
>『得ると得り』
>得り= 得とするものの完了であり結果
>一方得る= 得となすためのプロセス
>つまり、“得る”とする動詞(プロセス)が、静止する事によって完了(得り)され、名詞化される。
>日本語訳された時、“得る”と訳すか“得り”と訳されるかで、かなり意味がかわります。

「得り」てなんですか?
そんな日本語って有りましたか??

「得り」とスナックのエリちゃんと何か勘違いしてません?笑


767 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/30(木) 13:51:32
>>765
>私のレスそのものが
>周りの人にとっては、全て新しいモノ発見かと

ん?昨日の人?
んで、貴方のどこに新しい発見があるのでしょうか?
ああ 私のことを褒めてるのかい?

768 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 14:06:03
>>766

「得たり」とした方が、わかりやすかったでしょうか?

769 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 14:09:52
>>767

「新しい」と感じるか、感じないかは
貴方です。
私に聞かれても……

770 :九州王朝大好き:2009/04/30(木) 14:16:37
>>751
>台与が遷都した時期ていつぐらいなの?
>266年?
>知っている人がいましたら書き込みお願い。

?????!!!

卑彌呼の時代から618年倭京遷都まで400年余り、
倭の都が遷都したことはありません。

根拠は2つ
@『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀國伝
A『此地帝都 近気於今 在一百餘歳 一百年竟遷京北方 在三百年之後』聖徳太子伝暦推古二五年条

771 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/04/30(木) 14:29:27
>>770 横槍ですが、
>根拠は2つ
>@『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀國伝
>A『此地帝都 近気於今 在一百餘歳 一百年竟遷京北方 在三百年之後』聖徳太子伝暦推古二五年条

それのどこが根拠になるのでしょうか?


772 :河童 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 14:44:17
>>764の補足

「得」と言う文字も、先程の“略”と同じように


「得る」とするプロセス〜「得たり」とする完了までの
全ての日本語の意味を含んだものと言う事です。

773 :九州王朝大好き:2009/04/30(木) 15:22:37
>>771

@ 卑彌呼の都「邪馬臺」(3世紀中頃)は多利思北孤の都「邪靡堆」(7世紀初頭)は同じである。

A 推古25年617年大宰府(北方)へ遷都の前年において、
  此地は100年余り現王統の都であったが、王朝としての帝都期間(517年〜617年)100年丁度で北方に遷都することとなった。
  そしてその100余年前の300年前(617年から400余年前・3世紀初頭)から都であった。

3世紀初頭から617年まで、同じところに都があり続けたと書いてあるのである。
倭京(大宰府)へ遷都は3世紀初頭以来の初めての遷都だ書いてあるのだ。

774 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 15:28:32
>>772

>「略」とは、結果ではなく、結果にいたるまでの行程と結果が揃い初めて“略”なのです。


日本人は、「略す」プロセスと「略した」結果を区別して使用してるよ。
學を学に略す行為と略した結果の学を混同している奴なんてスタンダードな日本人じゃない。
「学は學の略である」という日本語表現もなくはないが、それは、
「学は學の略字である」「学は學の省略した字体である」という正規の表現を簡略化したもの。
「略である」でも意味が通るので、「略字である」「省略した字体である」を省略した表現として使う事が出来るに過ぎない。

略の字が重なってめんどくさい文章になってるなw

まあ、結局、
>何故このような間違った解釈が、広く一般認識されてしまったかの
>原因の一つは、
>やはりアンチョクに上辺だけの辞書の利用にあるでしょう。
で言うところの「間違った解釈」は、世間には存在しないよ。

775 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/04/30(木) 15:42:55
>>774

使い分け、或は使い分けられるのが日本語だから
しかし、今直面しているのは
日本語ではななく漢語の「略や得」


それに
世間に存在しないのは、過去の歴史もしかり。

776 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 20:46:28
>>749
>ひのもと(日本)とは、倭(北九州)に対する大和の事

>>748の地図のことを言っているのか知らん。あれは倭(九州)は倭寇出撃の基地で
統治者もいない夷国、日本国は少しましな国ということかも。日本国と言うから国書
でも見たのか。いずれにせよ日本人にとってはいい地図とは言えないのでは。

>卑弥呼時代 倭王(大和垂仁、景行)は倭女王(九州)の下(副)で、朝貢。

お説ごもっともで魏志倭人伝を正とすれば、邪馬台国の権力構造は大和系の天皇(スメラミコト)
と吉備系の大王(オホキミ)が重畳的ないし二重構造になっており、中国からは天皇が天子、
大王が宰相に見えたのでしょう。女王と官と表現している。天皇はやや世襲の傾向があった
ようですが、大王は互選だったようで、序列一位の垂仁から序列四位の仲哀まで血縁関係
はなかったと思われます。
いわゆる四道将軍の派遣の原型はこの人たちにあるらしく垂仁は丹波(京丹後市)へ、
観松は北陸(糸魚川市)、崇神は東海(行田市)、仲哀は吉備(加古川市)へ遠征したようで、
派遣されたという大彦、武淳川別、吉備津彦、丹波道主命は現地の豪族なのでしょう。
遠征に成功したのは垂仁と崇神の二人。この二人、記紀の代数順位が逆ではないかと
思われます。

>朝貢

誰が誰に朝貢したのでしょうか。

>その後 倭は大和の事と成るが、国名変更時 日本元小国と記録される。

どこにそんな記録があるのですか。


777 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 21:08:22
旧唐書にも、倭の奥に火ノ本国があるとありますね

778 :改メ:2009/04/30(木) 21:22:10
>>773 九州王朝さん
>『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書國伝

読みは、
都、この時邪靡堆、則ち魏志でいわれている邪馬臺の者なり
今簡単に調べたんだけどあってますか?
これだけで両都の場所が同じと言えるのでしょうか?
とても遷都に関スル記事ではナイと
思いますがいかがでしょう。
聖徳太子の記事はまだ調べてない・・・。

779 :改メ:2009/04/30(木) 21:23:35
>>773 九州王朝さん
>『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書國伝

読みは、
都、この時邪靡堆、則ち魏志でいわれている邪馬臺の者なり
今簡単に調べたんだけどあってますか?
これだけで両都の場所が同じと言えるのでしょうか?
とても遷都に関スル記事ではナイと
思いますがいかがでしょう。
聖徳太子の記事はまだ調べてない・・・。

780 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 21:41:46
尾張?スサノオだあ?
尾張も九州が発祥じゃなかった?大分県佐伯付近のなんたらだっけ。
詳しくはしらん(笑)あんただれだ アッハハ

781 :九州王朝大好き:2009/04/30(木) 22:11:02
>>779
読みについては、日本語に翻訳する場合には、「の者」は不要でしょう。
「者」は人物を指しているのではなく、「邪馬臺」が固有名詞であること示すものだからです。
「者」字を敢えて入れるなら、「邪馬臺者なり」です。

「邪靡堆」と「邪馬臺」は、固有名詞であると同時に、都の有る場所を示しているから、どちらも地名でもあります。
両者は地名で有るから、邪靡堆=邪馬臺なので同一場所と言えます。


「聖徳太子伝暦」は内容の信憑性については眉唾書物ですが、
聖徳太子伝説の集大成として何でもかんでも寄せ集めて載せているので、
この此地帝都云々の部分は倭京へ遷都前年の多利思北孤の勅令を拾ってきて挿入したものと思われます。
次にこの文の読み方ですが、7世紀初頭の九州王朝の漢文であることを加味して読まなければならないと思います。


782 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 22:15:54
>『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書國伝
邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂邪馬臺なる者なり。
魏志にいう邪馬台国と隋使が訪れた邪靡堆は同じだというわけですね。
当然、邪馬台国と邪靡堆は同じ場所です。したがって、邪靡堆を大和とすれば
(結構、この解釈が多い)邪馬台国大和説の強力な裏づけになりますが、邪靡
堆と大和は別だという解釈も十分に可能です。

783 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 22:33:16
>>781
>「聖徳太子」は内容の信憑性については眉唾書物ですが、

そういう認識がちゃんとあるんなら、論拠として伝暦を使うのがどうかしてる

784 :日本@名無史さん:2009/04/30(木) 22:55:32
>>779
横から失礼。
キは動詞で、「都す」ですね。
「於」が場所を示す前置詞みたいなもので、「邪靡堆にキす」となります。

785 :改メ:2009/05/01(金) 01:38:27
>>784
「邪馬臺」は名詞なので「邪馬臺者なり」も「邪馬臺の者なり」も同じこと。
それに、どちらも「都の在る場所を示している」わけじゃありせん。
国の名を示してるわけで九州王朝さんの勘違いかと思います。
それにしても「両者は同じ地名であるから同一場所」とかスゴイこじつけですね(笑)
ア然というか久々に笑ってしまた(笑)

786 :改メ:2009/05/01(金) 02:16:00
>>782
アハハ お宅も納得してるんかい(笑)最高やな
邪馬台国と邪靡堆は同じとしたまでは黙認出来きるが、
「場所が同じ」とかそれはお宅らの願望であって、
現実にはどこにも書いてないんですよ。
それに「邪靡堆を大和とすれば」て貴方バカにしてるんですか?
それともウケを狙ってるのたけ?!

787 :日本@名無史さん:2009/05/01(金) 02:48:34
>>785
じゃあさあ、邪靡堆の中にキとそうでない都市とが複数存在するって思ってるってこと?

>>786
黙認もなにも、邪靡堆は魏志の謂う所の邪馬臺なる者であるって書いてある。

788 :日本@名無史さん:2009/05/01(金) 07:14:18
>>785
>どちらも「都の在る場所を示している」わけじゃありせん。
>国の名を示してるわけで
それならば、「倭国」と書くはずだね。倭人伝は、「邪馬台国、女王の都する所」
と明記している。邪馬台国はまさに都のある場所なのですよ。

789 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/01(金) 07:46:29
「日本人と日本の人」

日本人= 世界中何処に住んでいようと、民族的に日本人であることには変わりなく、日本と言う地に所属縛りがあるわけではない。


日本の人=日本人とは反対に、日本と言う名詞に所属しているもので、民族的にとらわれるものではない。

790 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/01(金) 07:55:06
「魏志所謂」

魏書に書いてある事をそのまま写し掲載しているのではなく、

魏書に書かれている事を、当該編纂者が自分の見解を交えて書き伝える

791 :日本@名無史さん:2009/05/01(金) 08:07:53
范曄は [案今名邪摩惟音之訛也] と言っているし、
「臺」の部分には「維」、「推」を充てる本もある。

思うに「堆」も「惟」も「維」「推」も皆同じ読みを
していたんじゃないか?

たから、必ずしも「たい」と言う読みであったとは言えない。
絶対ではないがね。

792 :ローガン:2009/05/01(金) 09:17:28
>>791

> 范曄は [案今名邪摩惟音之訛也] と言っているし、

それは違います。

793 :九州王朝大好き:2009/05/01(金) 09:38:23
>>783
>>「聖徳太子」は内容の信憑性については眉唾書物ですが、
>そういう認識がちゃんとあるんなら、論拠として伝暦を使うのがどうかしてる

文を読み取れん奴だなぁ。

本論は下記だ。
>聖徳太子伝説の集大成として何でもかんでも寄せ集めて載せているので、

だから、内容の信頼性については玉石混交だから、取り扱いには注意を要する。
ってことだ。


794 :九州王朝大好き:2009/05/01(金) 10:00:08
>>785
>それに、どちらも「都の在る場所を示している」わけじゃありせん。
>国の名を示してるわけで九州王朝さんの勘違いかと思います。

勘違いではない。
>>784 >>787 >>788 >>790 の認識は正しい。

邪靡堆:俀國の地域名。
邪馬臺:昔は倭地の國名であったが、現在では俀國の地域名に相当するので、
    「邪馬臺國」の「國」を外して「邪馬臺」としている。


795 :九州王朝大好き:2009/05/01(金) 15:56:37
>>791
>思うに「堆」も「惟」も「維」「推」も皆同じ読みをしていたんじゃないか?

そのように考えるのは間違いではない。
「邪馬壹國」の「壹」の字を、「堆」・「惟」・「維」・「推」と置き換えた。
音は「イ」。
考え方として成立できる。

796 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/01(金) 16:30:53
>>776
>誰が誰に朝貢したのでしょうか。
最初の朝貢は、垂仁が倭女王の副えとして、田道間守を使わす。この両人は朝貢の翌年には
鬼籍の人となるので、それを景行(オオタラシヒコ)が継ぐ、間もなく卑弥呼の死亡、次に
男王も死亡。そして景行20年2月(252年頃) 壹與 廿年春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神。
五百野皇女を筑紫に送り込む。この直後、景行は、武内宿禰を東北、関東の偵察に出す。
武内宿禰が戻ると、日本武尊の関東遠征。これで大倭国統一がなる。

後は倭国から日本へ国名変更時。



797 :日本@名無史さん:2009/05/01(金) 17:18:31
.>>777
.>旧唐書にも、倭の奥に火ノ本国があるとありますね

でも、旧唐書の編纂者は倭と日本の区別がつかなかったと言うような一般論も。
そもそも、日本では九州(特に、北九州)が大和に併呑されたのは神代は大げさ
にしても卑弥呼以前のことでは。そのことを示唆するように四代までの天皇は
事代主命の関係者が母となっている。

798 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/01(金) 20:19:00
崇神世以前の天皇の活躍は、大和中心さして遠くまでは治めていない。
崇神世になって、大彦を初め各地へ軍を差し向ける、そして
出雲の宝を検閲、この時点で出雲は崇神の傘下。
17年の造船も大きくなった地方からの調を運ぶため。

>事代主命の関係者が母となっている。
綏靖、安寧の二人
懿徳は、幼くして崩御 その腹違いの弟考昭の妃は、手研耳のひ孫に当たる。
事代主命が、この結婚を承諾するために、大物主を三輪山に祀る。
そして暦を渡す、出雲暦です、この暦は考昭元年丙寅年より伸長されることなくつかわれる。
墓標にある皇暦とかけ離れた干支などが此にあたる。


799 :日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:29:33
出雲人事代は三輪山の大和在住。南宮崎に分家隼人持つ北宮崎県人神武の大和平定。反発正統出雲王家が大和出雲の果て雲出川渡り志摩磯部落ち 船で三河より諏訪王家建てる。

800 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 00:10:06
神武系が嫁三輪山出雲から物部に変え、三輪山出雲市民から反発。倭姫・錦宮崎からの大和天照社・物部行軍伊勢鎮座。タケルはアイヌ連合諏訪王家北関東追撃 伊勢天照剣・物部行軍。渡来神功皇后は錦伊雑宮後生田鎮座 物部行軍。卑弥呼は三輪山皇女。

801 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 00:35:58
一応出雲三輪山を軍事的治める神武。3税持って法的に治める祟神。歴代の各種嫁もらいDNA統一し治める仁徳。伊雑宮は出雲神祭り後物部が的矢鎮座の天照社合祭などし中央三輪山の縮図見れますよ。

802 :改め:2009/05/02(土) 00:44:54
>>784
>キは動詞で、「都す」ですね。
>「於」が場所を示す前置詞みたいなもので、「邪靡堆にキす」となります。

「於」は捨て字なのでそれが正解かもしれません。

>>787
>じゃあさあ、邪靡堆の中にキとそうでない都市とが複数存在するって思ってるってこと?

誰も「複数存在する」とか言ってないでしょww

>黙認もなにも、邪靡堆は魏志の謂う所の邪馬臺なる者であるって書いてある。

だからどうした?w

>>788
>それならば、「倭国」と書くはずだね。倭人伝は、「邪馬台国、女王の都する所」
>と明記している。邪馬台国はまさに都のある場所なのですよ。

それは単なる、ヘリクツ。「その地の名」と言えばいいのかい?

803 :改め:2009/05/02(土) 00:51:18
>>789
>「日本人と日本の人」

河童さん〜同じだよw

>>790
>魏書に書いてある事をそのまま写し掲載しているのではなく、
>魏書に書かれている事を、当該編纂者が自分の見解を交えて書き伝える

著者、陳寿の自己中で書いてるのではなく、正しい読み方をすれば、答えはひとつなのでは?

804 :改め:2009/05/02(土) 00:55:04
>>764
>勘違いではない。
>>784 >>787 >>788 >>790 の認識は正しい。
>邪靡堆:俀國の地域名。
>邪馬臺:昔は倭地の國名であったが、現在では俀國の地域名に相当するので、
>「邪馬臺國」の「國」を外して「邪馬臺」としている。

だから、「@『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀國伝 の
どこに「卑彌呼の時代から618年倭京遷都まで400年余り、倭の都が遷都したことない」
とか、書いてるんだよ?書いてなかったジャン。

805 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 07:43:04
>>803
おはよう

>同じだよ

君が同じと言う認識なら、それを私は変える気はない。
ま〜ぁ、好きにやりたまえ

806 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 08:01:25
母音「u」で終わる動詞
日本語は、この最終母音だけで品詞を確定させる。
しかし、漢語には
それらは存在しない。
日本語の動詞に相当する部分は、文脈で判断するしかなく
動詞となるべきプロセスが記載され、初めて日本語で動詞として訳す事ができる。

807 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 09:11:56
「都」と言う漢語を、“都す”と日本語訳するには
“都す”とするプロセスの結果が“都し”となり
漢語表記される「都市」へと変化される事を確認でき
初めて“都す”と日本語訳できる。

つまり
漢語「都市」は、漢語「都」が日本語で言う所の動詞化され静止した形。


因みに、蛇足ではあるが

集合するプロセスが、人と限定しない表現を
日本語では「つ」といい、やはり最終母音は「u」

808 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 09:36:56
このように、「都から都市」への過程を書けば
倭人伝に登場する“牛利”が、“都市牛利”と記載され登場するか
容易にわかる。

809 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 10:18:02
>>803

この場合、陳壽は関係ないだろう

810 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 10:32:16
在日バイリンガルのsageが出番の806・808 809で成り済まし投稿してるわ!今ネット時代アメリカが日本を「富士やま 芸者」と教科書書くが 古代中国書に必死は笑える!教師の飯の種?

811 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 10:39:38
806らは、そもそも日本の古代歴史知らない、 古代王家知らない連中に卑弥呼は特定できない! 在日工作員が言葉遊びの妄想破壊工作ですわ!

812 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 10:50:59
連休中は、変な魚が釣れる。

深海ギョ?

813 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 11:04:17
黄金週間だから金魚だろう?

814 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 11:29:37
セイジて、女いなそう!世の中不満だらけで暇人物だからなあーこんな思考じゃ 人間の女は無理では・大人用玩具やに缶詰や人形あるで 人形に歴史の妄想語れやー自称中学教師のセイジ。

815 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 12:24:43
>>807
> 「都」と言う漢語を、“都す”と日本語訳するには
> “都す”とするプロセスの結果が“都し”となり

それは学校文法で言うところの終止形(動詞形)と連用形(名詞形)のことか?
「プロセス」とは動詞(用言)、「結果」とは名詞(体言)と言う意味のプラム語的用法。

> 漢語表記される「都市」へと変化される事を確認でき
> 初めて“都す”と日本語訳できる。

ここはオトナの態度でスルーしても・・・

> つまり
> 漢語「都市」は、漢語「都」が日本語で言う所の動詞化され静止した形。

と、結局ワケワカメなので、一般人としてはここで笑うしかない。

前の方で現代語の「得る」と古語の、それも助動詞「たり」を付加した形の「得たり」を対比させ、
それに何の違和感を持たないところは相かわらずですなw
「得り」とか平気で書ける(普通は「えたり」と打って変換できないはずだが)人なので、
助動詞と主動詞の送り仮名の違いなんて理解できないんだろうね。

> 因みに、蛇足ではあるが
> 集合するプロセスが、人と限定しない表現を
> 日本語では「つ」といい、やはり最終母音は「u」

「対(つ)い」「連(つ)らぐ」「詰(つ)む」「繋(つ)ぐ」「集(つ)どう」の「つ」のことかな?
確かに「つ」と言う語幹には「集合」のイメージは有るが・・・
はたまた、完了の助動詞「て」の終止形「つ」のことなのか・・・
何が「やはり」なのかは、文脈から読み取れないな。

816 :九州王朝大好き:2009/05/02(土) 12:32:46
>>803 :改め
>「日本人と日本の人」
>河童さん〜同じだよw

同じじゃないよ。
もう一度河童蟲さんの>>789をじっくりと読み直したら?


817 :九州王朝大好き:2009/05/02(土) 12:33:46
>>804
>どこに「卑彌呼の時代から618年倭京遷都まで400年余り、倭の都が遷都したことない」
>とか、書いてるんだよ?書いてなかったジャン。

「@『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀國伝」は、
卑彌呼の時代と多利思北孤の時代の都が同じ場所だと書いているにすぎません。

「A『此地帝都 近気於今在一百餘歳 一百年竟遷京北方 在三百年之後』聖徳太子伝暦推古二五年条(517年)」が、
卑彌呼の時代から618年倭京遷都まで400年余り(=一百餘歳+三百年)、
倭の都が遷都したことないと書いているのです。

Aについては帝都の場所は不明ですが、@の知見と合わせることにより、
倭の都は400余年間邪靡堆(邪馬壹國)にあり続けたことがわかるのです。


蛇足
なお『一百年竟遷京北方』は、517年から100年丁度で北方の倭京(大宰府)に遷京することが決まったと書いているのです。
517年:継体元年(最初の元号)
遷京:遷都ではありません。517年からは「都」ではなく「京」だったのです。
    大倭國(俀國)では倭京に先んずること101年前に「京」が設置されていたと書いてあるのです。

大宰府に先んじる「京」は何処にあったのでしょう?
僕の推定では、久留米市南部、筑後国庁跡近辺。
筑後国庁は何度も移転していたといわれます。
そのひとつが俀國の「京」だったのです。
古田武彦氏情報によると、曲水の宴の遺構も発見されているようです。(未確認)
久留米に俀國の日本最初の「京」があったと思われるのです。

時代ははっきりしませんが、景行紀に水沼(三潴)で官人がそぞろ歩き(日帰り行楽か?)しているとの記事があるので、
都が久留米南部にあったことは間違いないでしょう。

818 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 12:37:20
>>815
解説アリガトさん。

初めて目にするものには
誰しも拒否反応する。
これは世の常

819 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 12:54:19
>>818

> 初めて目にするものには
> 誰しも拒否反応する。
> これは世の常

貴方は、そう言う人なのかもしれませんが、新規な知見に対しては常に敬意をもって当る人は多いですよ。
そこまで行かなくても、もの珍しいもには誰しも好奇心をくすぐられ「どれどれ」と覗き込もうとするものです。
ただし、そのような人でも、同じようなものを繰り返し何度と無くタラタラと見せ付けられるのは嫌なものです。
貴方のネタは、全て「見切られ」た陳腐な内容でしかありませんです。



820 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 13:40:18
>>819
みなけりゃいい。

すくなくとも
貴方だけは見なければいい。
ただそれだけ


ここは公開掲示板、私は好きな事を書くだけで酢。残念でした。

821 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 13:46:29
>>820
「都す」のプロセスって、建設工事かw
「都す」は日本語じゃないよ。訓読するために無理やり作った不自然な言葉。

>>819さんとは別の側面から

「キ」という動詞には、プロセスはないよ。「某所に都を置いている」という状態を指してる。
「居(い)る」という動詞に「居つつある」ようなプロセスが無いのと同様。
「略す」は行為でありプロセスで、「略した」は結果に掛かるけど、
「居る」は既に結果であって、「居た」は過去を表わす。
「居る」に至る行為・プロセスを表わす言葉は無いんじゃないかな。

だから、「居る」か「居ない」か、「都である」か「都でない」か、どちらかしかない。
都を置いてる王が生きてれば「都す」、死んでれば「都した」。
「都す」を「都を置く」と訳すと、
あたかも「都を置くプロセス」と「都を置いた結果」がありそうだけど、
それは、日本語の「置く」に引っ張られてのことで、
漢文の動詞「キ」にそんな区別はない。
置酒(ちしゅ)という言葉があって、宴会をするという意味だけど、
これも「宴会を開きつつある」プロセスなんて無い。
だから、漢語「置」にプロセスと結果があるのではなくて、
日本語「置く」にプロセスとしての「置く」と結果としての「置いた」があることがわかる。

そもそも、日本語には時制があるから、「略す」プロセスと「略した」結果などと考えられるけれど、
漢語には時制が無いから、そんな区別は明確ではない。

822 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 14:22:08
>>821

だから最初から
漢語を日本語に訳す事自体、ナンセンスな行為だと
言ってるわけ
でも、それじゃ不便きわまりないので和訳が存在するが
そのナンセンスな和訳を元に 考察するなんて論外。
そう述べただけ



「都す」を不自然と言うが、自然であろうが
不自然であろうが、日本語「す」を用いれば
それは立派な日本語ですよ

823 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 14:28:23
806 名前:河童虫 ◆EY2wfgakAQ [sage] 投稿日:2009/05/02(土) 08:01:25
母音「u」で終わる動詞
日本語は、この最終母音だけで品詞を確定させる。
しかし、漢語には
それらは存在しない。
日本語の動詞に相当する部分は、文脈で判断するしかなく
動詞となるべきプロセスが記載され、初めて日本語で動詞として訳す事ができる。
「都」と言う漢語を、“都す”と日本語訳するには
“都す”とするプロセスの結果が“都し”となり
漢語表記される「都市」へと変化される事を確認でき
初めて“都す”と日本語訳できる。
つまり
漢語「都市」は、漢語「都」が日本語で言う所の動詞化され静止した形。
因みに、蛇足ではあるが
集合するプロセスが、人と限定しない表現を
日本語では「つ」といい、やはり最終母音は「u」
このように、「都から都市」への過程を書けば
倭人伝に登場する“牛利”が、“都市牛利”と記載され登場するか
容易にわかる。

「わかる」ヤツはいないと思う。

824 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 14:31:00
>>821

「居る/いる」のプロセスは「いたる(至・到)」

到は至の意味の範囲を限定した文字。

825 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 14:43:06
「至」を動詞「いたる」と訳してはならい。
「至」は助詞「まで」。

「從郡至倭」は「郡より倭まで」
「始度一海千餘里至對馬國」は「始めて一海を渡り対馬國まで千余里」と訳してOK。

826 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 14:57:22
>>824
あのさ、「略す」 「略した」みたいに、一語の語形変化で行為と結果を議論してるんだろう。
別の単語を持ってきても、話にならんよ。
「居る」のプロセスが「いたる」なら、「みやこす」のプロセスは「みやこたす」かっての。
「居る」という単語の語形変化で、「居る」という状態に至るプロセスは表現できない。
「居る」という動詞は、そういう性質の動詞なわけ。
英語のbe動詞も、そういう系統。で、中国語の「キ」もそう。

「都す」が日本語だってのは、「てんぱる」が日本語だってレベルで認めるよ。
麻雀の聴牌(てんぱい)に「る」が付いて「てんぱる」だからね。
聴牌するとドキドキしてくるから「てんぱってきたー」なんだろうね。

827 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 15:07:15
>>825 だめ

本来、あの文脈で「從郡至倭」などナンセンス。
行程する距離の記載があり、最後に萬二千餘里としているのだから「計從〜」

それに、至と到の使い分けは、先程からも述べている様に
「至」の総合的な意味からプロセスだけをチョイスした文字が「到」

828 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 15:16:02
>>826

これは
子音Tに時間を付加すると子音Rになる
という性質から来ているの
「都す」の「す」は子音S

子音Sは、母音 e に時間を付加したもの
T子音との関係は、直接にはありません。

829 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 15:28:54
どんな理屈を捏ねても、居ると至るが別の単語である事にはかわりない。

830 :改め:2009/05/02(土) 15:30:07
>>817
>「@『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀國伝」は、
>卑彌呼の時代と多利思北孤の時代の都が同じ場所だと書いているにすぎません。

だからどこに「都の地」が同じとかいてるんですかと質問してるんですよ?
ただ、同じ倭というのは、知ってますが、上記の文書のみで「都の地が同じ」とするのは安易な考え。

>「A『此地帝都 近気於今在一百餘歳 一百年竟遷京北方 在三百年之後』聖徳太子伝暦推古二五年条(517年)」が、
>卑彌呼の時代から618年倭京遷都まで400年余り(=一百餘歳+三百年)、
>倭の都が遷都したことないと書いているのです。

Aはまだ詳しくしらべてない。

>倭の都は400余年間邪靡堆(邪馬壹國)にあり続けたことがわかるのです。

上記、文書のみではそんなこといえません。

>なお『一百年竟遷京北方』は、517年から100年丁度で北方の倭京(大宰府)に遷京することが決まったと書いているのです。
>517年:継体元年(最初の元号)
>遷京:遷都ではありません。517年からは「都」ではなく「京」だったのです。
>大倭國(俀國)では倭京に先んずること101年前に「京」が設置されていたと書いてあるのです。
>大宰府に先んじる「京」は何処にあったのでしょう?
>僕の推定では、久留米市南部、筑後国庁跡近辺。
>筑後国庁は何度も移転していたといわれます。
>そのひとつが俀國の「京」だったのです。
>古田武彦氏情報によると、曲水の宴の遺構も発見されているようです。(未確認)
>久留米に俀國の日本最初の「京」があったと思われるのです。

どこを探してるのでしょうか?私たちは、多利思比孤ではなく卑弥呼の都を探してるんですよ。

831 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 15:31:59
>>829

論外。
貴方は私よりも、単位が少ないだけ

832 :うましか:2009/05/02(土) 16:00:32
>>827

> だめ
>本来、あの文脈で「從郡至倭」などナンセンス。

初めて聞く真っ当なセリフだ。
デビュー後十何年にして、ようやく認知してくれたか。

そうだよ。
倭人伝の文脈は不自然かつ不合理なんだよ。
もともと複数の一次資料の表現をそのまま借用しているため、
叙述の重複や文体の変化が多い。

さらには、ご存じのとおり、現行の刊本は一度散逸したものを中世に再編纂したもの。
早い話し、叙述文の順番構成だって再編纂者の感性によるもの。

既に原本が無い以上、ここで愚痴っても仕方がないが、
「女王」の初出と卑弥呼の説明文の順番は、大いに異議有りだろう。

833 :改め:2009/05/02(土) 16:06:48
>>805>>816 >「日本人と日本の人」

字は違えど、日本語に翻訳するとき、同じとして扱えるということだよ。
確かに字は同じではない、しかし、同じとして扱っていいということだよ。
逆に「おなじではない」というほうがおかしいのである。

>>827
>「從郡至倭」?「至る到る」?久しぶりに現れたんだから、もっといいネタないんでつか?
以前と比べてどう進化したのやら。

834 :九州王朝大好き:2009/05/02(土) 16:31:03
>>830
>どこを探してるのでしょうか?私たちは、多利思比孤ではなく卑弥呼の都を探してるんですよ。

@卑彌呼の都の場所と多利思北孤の都の場所は同じである。
A多利思北孤の都の場所は久留米市南部である。
Bゆえに、卑彌呼の都の場所は久留米市南部である。

何故@を否定されるのかの論理的根拠が理解できませんが、
@を否定されれば上記議論は成立しません。

835 :河童 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 16:35:29
>>832
十分過ぎるほど完璧な文と考えていますよ

836 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 16:42:37
>>833
本来、漢語を日本語にて訳す行為そのものが矛盾したはなし。

しかし、一度日本語に訳されれば
その日本語を徹底的に



先程も触れたように、君も単位が少ないの
単位を満たさない限り
私の話しはチンプンカンな話しです。

837 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:44:09
>>831
よく知らないものを受け売りで批判するんじゃなくて、
一度、じっくり勉強して、その上で批判したらどう?
世間の常識に迎合しろと言ってるんじゃない。
一応、常識を知った上で、常識を疑えと言ってるの。
知らないのに疑ってどうする。
伝統的漢学を知らない、学校で教える現代日本語文法も古典文法も知らない。
それで、伝統的漢学は間違ってる、学校の日本語教育は間違ってるって言っても説得力が無いよ。
知らないのに間違ってるって解るわけないじゃない。
言語無視発行の単位もいいけど、
もうちょっと、世間一般で通用する知識を身に付けたらどうだろう。
と言っても、届かないだろうなあ。

>>832
中国のどっかから魏略が発掘されたら面白いのにね。
いろんな説が一気に吹っ飛びそう。

838 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 16:55:41
>>837
申し訳ありませんが
一般常識を批判する事はあっても、疑ったことなど一度もありませんよ
私の根本には必ず一般常識があります

だから日常不便なく
生活していけるのです。

839 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 17:00:27
>>838 訂正


一般常識を疑った事はあっても、批判した事など一度もありません。


に訂正します。

840 :改め:2009/05/02(土) 17:00:33
>>834
>@卑彌呼の都の場所と多利思北孤の都の場所は同じである。
>何故@を否定されるのかの論理的根拠が理解できませんが、
>@を否定されれば上記議論は成立しません。

うん 成立しません。
なぜ否定するかって、あなたが言うようなことがそこに書かれてないからです。
都の地が同じなんて単なる妄想もいいところですよ。

>>835
>十分過ぎるほど完璧な文と考えていますよ

せめて、「居る/いる」は「至/いたる」 と言って下さいよ。

「從郡至倭」にしてもそう!
「從郡至倭」か「郡至倭」で考えましたが、
今使譯所通三十國從だと文書がおかしくなることに気がつきました。
よって、「從郡至倭」が正解とする。

841 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 17:07:57
>>840

倭人伝の文脈では「從郡至倭」は成立しない。
「計從〜」とし、文を構成させ、計從〜に見合った文をつくりだす。

842 :改め:2009/05/02(土) 17:21:27
>>841
>倭人伝の文脈では「從郡至倭」は成立しない。

この人はぜんぜん進歩してないな(笑)
「郡至倭」循海岸水行歴韓國〜とした場合、「郡」が主語で至は「倭」の同士となる。
それを訳すと「郡は倭に至る」となるんですよ。
「從郡至倭」循海岸水行歴韓國〜の場合は、「郡より倭に至るまで」となる。

〜今使譯所通三十國も今使譯所通三十國從にすると文書的になにのことを言ってるのか分けがわからなって、不自然な文になる。
以上

843 :九州王朝大好き:2009/05/02(土) 19:05:50
>>840 改めさん
隋書の訳文として、下記の@もAも間違っていると云われるのですね。
違うのであれば、改めさんは判りやすい日本語ではどの様に翻訳されるのですか?

『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』
@都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり
A都が邪靡堆にあり、それは魏志に則れば邪馬臺國と謂われた所の邪馬臺である

844 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 19:24:12
>>842
無理に和訳する必要はありません。
元々漢語は和語ではないので、綺麗に和語におさまるものではありません。
読み下しもしかり

「郡至倭」
郡を基点に倭の範囲

と、訳せばいいのです。

一般的な、從郡至倭を“郡より倭に至には”と
訳してしまうと、対馬が倭ならこの倭人伝は、対馬に至った時点で終了してしまう
という矛盾が発生します。

845 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:38:12
>>844
>一般的な、從郡至倭を“郡より倭に至には”と
>訳してしまうと、対馬が倭ならこの倭人伝は、対馬に至った時点で終了してしまう

從郡至倭は“郡から倭に行くには”從は動詞で行くの意味ですね
郡は郡庁、倭は倭の都と考えるべきです。



846 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 20:11:54
>>845

>郡は郡庁

それは「從」ではなく「自」
自郡〜とした場合

「從」では
百歩譲っても郡庁とはなりません。

847 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 20:33:54
>それは「從」ではなく「自」
>自郡〜とした場合

自の場合は明らかに郡は郡庁ですね
「從」場合でも「行く」の意味に使われていますから、
郡を郡全体とは考えられません、
行動の基点となりますから自の場合と同じく郡は郡庁となります。




848 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 20:34:52
おもしろいソースを発見

邪馬臺國と狗奴國は戦争していた ??
http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/inuyama_1_yamatai_kunakoku.html

自分は、邪馬台国(ヤマト国)と狗奴国(コノ国)の戦いは
あったと思う。
この戦いは、日本書紀で言う武埴安彦命の乱だと思う。

ただ、このソースにもあるように、
西暦240年代の倭国と中国との関係は
難升米(梨津臣命)が、中国の軍事的官位に任命されたように
中国による倭国軍の出兵の要請という見方が正しいと思う。
西暦240年代、帯方郡の太守が、三韓人の反乱で殺害される事件が起こった。
そこで、中国(魏)が、わざわざ倭国の大夫に軍事的官位をさずけ
出征を要請したが
同時期に、倭国で武埴安彦命の乱が発生し、出兵できなかった。
そのうちに、帯方郡での反乱は鎮圧され、そこで、
中国側は、なぜ倭国は援軍として出兵できなかったのか、聞いてきたので
倭国側が、いいわけしたんだろう?
で、中国側は、張政を派遣して、確かめにいったところ、
卑弥呼の墓を目撃したと。

849 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 20:52:22
>>848
きみの狗奴国=武埴安彦説は毎度ちっとも面白くないが、
紹介してくれたリンクは文句無く面白かった。乙。ww

850 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 20:59:15
>>847

>行くの意味


どんな文章を用いても、そのような意味にはなりません。
從が、動作などを表す語句の場合、動詞ではなく
副詞としての役割です。

從に行くの意味は発生しません。 飽くまでも「したがう」

851 :改め:2009/05/02(土) 21:40:37
>>843
>隋書の訳文として、下記の@もAも間違っていると云われるのですね。
>違うのであれば、改めさんは判りやすい日本語ではどの様に翻訳されるのですか?

Aは知りません(まだ調べてない)

『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』
みやこ、邪靡堆。すなわち魏志でいわれ邪馬臺の者なり です。

サガミハラハラさんに来てくださいよ。
彼はふざけたところもありますが、さすが本を出版されてるだけあって、
詳しいところもあります。

>>844
>「郡至倭」
>郡を基点に倭の範囲
 
どこに「郡至倭」「郡を基点に倭の範囲」とか
そんなことかいてるんですか?
書いてないものまで付け加えるのはどうかと思います。
あなたもサガミハラハラさんに聞いてみたらどうですか?

852 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:45:04
841 848などの自作自演sageだあ!おめえ女いなそう!の書き込みスルーかよ!図星だあ!大人用玩具やの人形と妄想語れやー

853 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 21:49:52
>>850
>從に行くの意味は発生しません。 飽くまでも「したがう」

從は従って行くの意味、そこから行くの意味となる。


854 :改め:2009/05/02(土) 21:50:03
>>842
>一般的な、從郡至倭を“郡より倭に至には”と
>訳してしまうと、対馬が倭ならこの倭人伝は、対馬に至った時点で終了してしまう
>という矛盾が発生します。
>それは「從」ではなく「自」
>自郡〜とした場合 「從」では百歩譲っても郡庁とはなりません。

何を言ってるんだ〜この人は(笑)
わたしが、翻訳してみせましょう。〜ったく!

【從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千餘里】
郡より(倭人の案内で)倭に至るまで、海岸沿いに水行し、韓国をへて 南しながら東し、
其(倭の領域)の北岸にあたる狗邪韓国に到る(直に至らず)こと七千里余り。

855 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 21:51:57
>>851
>書いてない

冷水で顔を洗ってから出直して下さい。
「郡至倭」と漢語表記されています。

これで十分
郡を基点に倭の範囲とよめます。

856 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 22:05:19
>>851

「至」の効果や漢字を沢山学んで下さい。

「至」と言う漢語には
“いたり”と完了するまでのプロセスまで含まれた
総合文字です。

857 :改め:2009/05/02(土) 22:09:57
>>856
【從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千餘里】

↑翻訳してください。
河童さん〜わたしは、既に行程記事を卒業してるんですよ。


858 :日本@名無史さん:2009/05/02(土) 22:17:40
>>856
総合文字???


859 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 22:21:35
>>857
卒業しているなら、改めて訳す事もないし、人が訳すものを見てもしかたない。
それに
私は漢語を訳す趣味は持ち合わせない。
漢語を日本語表記で意味をくむだけ

860 :サガミハラハラ:2009/05/02(土) 22:25:39
この場合郡とは郡の役所のあるところ。
倭とは倭の首都のあるところの意味です。
ですから、郡庁のあるソウルから倭国の首都のある小城甘木にいたるにはとなります。
Aが正しいと思います。

861 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 22:31:48
>>860

逆立ちしてもならない。

862 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 22:42:47
>>853

バク転してもならない

863 :九州王朝大好き:2009/05/02(土) 22:52:01
>>851 改めさん
>『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』
>みやこ、邪靡堆。すなわち魏志でいわれ邪馬臺の者なり

わかりやすい日本語になっていませんね。意味不明。

B「邪靡堆」に都す。即ち魏志のいわゆる邪馬臺なる者なり。
上記の翻訳なら理解できます。

「邪馬臺者」の「者」は「人」の意味ではありません。
 

864 :改め:2009/05/02(土) 22:58:34
邪靡堆に都す。すなわち魏志のいう邪馬臺の者なり。 です。

>「邪馬臺者」の「者」は「人」の意味ではありません。

「者」は「人」の意味です。
辞書しらべたらどうでしょうか。



865 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 23:08:44
>>863

「者」を人の意味で扱うときは、
「者」の前に、動詞や形容詞がき
体言化される時です。


そう
王朝さんは言おうとしてるとかんがえます。

866 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 23:10:45
失礼、


アンカーミスしました。
>>864へのレスです。

867 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 23:20:37
>>864

しかし、邪馬臺が形容詞ならば
その限りではない
つまり、人として扱える。

868 :改め:2009/05/02(土) 23:27:06
邪靡堆に都す。すなわち魏志のいう邪馬臺の人なり。 です。

したがって、どこにも九州王朝さんが言うようなことは、
そこにはかいてないんでつw

書いてないのに〜書いてあるて言わせようとしてない?疲れる〜〜ww

869 :改め:2009/05/02(土) 23:42:06
河童さん

そんな変なこと誰に教わったんだい?

書いてないものをムリヤリに結び付けているだけで、それは単なる邪道な考え。

そんなことより、もっとましなネタは無いのだろうか。

千里は何キロか知ってる?ALL

870 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 23:46:07
>>869
千里=4000q

871 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/02(土) 23:47:45
>>869

書いてある。

872 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/05/03(日) 00:42:08
しょうがないな〜面白いネタでも書き込むか....。

魏志倭人伝に「壹與」なる十三歳の王が記されてる。
卑弥呼の死後、男王を立てたが國中不服。
殺しあって千人余りの死者がでたという。
そこで、卑彌呼宗女の壹與という13歳の女王を立てる。

この女王の名は魏志で「壹與」、それ以外の史書では、「臺與」とされ、
この違いは何か?を考えたとき「国名」を使っていただろうということが、
想像できる。さらに、男王を復立させ、中國爵命を並んで受けたという。

この、並んで中國爵命を受けた男王こそ、臺與の婿さんではなかろうかと思う。
何故かって?「其後復立男王」を「そのご復立男王」とは読まず、
「その后復立男王」としたほうが自然である。
その前の「卑弥呼→男王→臺與の間」でもそんなふうにはいってないだろう?

873 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 01:02:55

イヨタン・・・・・・・・・・


874 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 01:16:17
>>872
>さらに、男王を復立させ、中國爵命を並んで受けたという。
>この、並んで中國爵命を受けた男王こそ、臺與の婿さんではなかろうかと思う。

失礼ながら、これは誤読かと思います。
梁書倭伝の「其後復立男王、並受中國爵命」でしょうが、この「男王」はその後に続く
「晋安帝時、有倭王賛」から始まる倭の五王のことでしょう。

875 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/05/03(日) 01:25:22
>>874
ん〜愛知県民さんは誤読っすか。

コレ最近みつけたんですが・・・・。
「そのご復立男王」だとおかしくないですか?
「復立男王」のみで十分通じるわけで。

876 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 01:26:10
>>874 続き
何故かというと、臺與までは魏代の話で、賛から晋代の話だから。
魏と晋は連続しており、その間に別の王朝はありません。
倭の五王は晋から梁まで複数の王朝から爵命を受けたので「中國爵命」でしょう。

877 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 01:31:29
>>875
>「そのご復立男王」だとおかしくないですか?
>「復立男王」のみで十分通じるわけで。

「其後」が無いと、改めさんのように臺與と男王が連続していると読めてしまいますね。
それなら「魏爵命」かと思います。

878 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/05/03(日) 01:33:40
>>874>>786
梁書倭伝の其後復立「男王」と次の倭の五王とを結びつけるのかどうかは、
まだ結論にいたってませんが、「其後復立男王、並受中國爵命」を
「そのご」、のあとに「さらに」、男王を立てとなるんですよ。

二重になっておかしい文になりませんか?〜愛知県民さん

879 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 01:40:55
>>878
「復立男王」の「復」は「更立男王、國中不服、更相誅殺」の男王がいたのに、また男の王、ということでしょう。

880 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 01:49:45
魏志倭人伝を読んだら分かるが
もし、卑弥呼=モモソ媛命ならば、
神武天皇〜崇神天皇は、祭司をつかさどる倭王ではなくて
実際の政治を行う男弟の地位にあったということでしょう?

だとしたら、卑弥呼以前の倭王というのは、当然
神武天皇〜崇神天皇以外の人物ということになる。
それが、天火明命(ニニギ命の兄)の系統(尾張氏の先祖)だったんじゃないの?
天忍穂耳命から、天(アメ)という冠詞を受けついでいるのは、
天火明命の系譜だし...

881 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/05/03(日) 01:52:40
>>879
>「復立男王」の「復」は「更立男王、國中不服、更相誅殺」の男王がいたのに、また男の王、ということでしょう。

「復立卑彌呼宗女臺與為王」の「復」は、卑弥呼が王だったのに「復」女王ということですね?
それだと、『復立男王』でいいのでは?と思えませんか?

>>880
そのまえにどうして、卑弥呼=モモソ媛命と思うのですか?
まずは、そこから証明しなければいけません。

882 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 01:58:56
>>881
だから >>877 で言ったように、『復立男王』だけだと臺與のすぐ次が男王になり、「魏爵命」でよいわけですよ。
『其後復立男王』だから臺與を男王が直接継いだのではなく、ずっと後に「中國爵命」。

883 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/05/03(日) 02:08:54
愛知県民んさんの言おうとしていることは分かりますが、

「其後復立男王 並受中國爵命」ではなく、
「更立復立男王 並受中國爵命」でも良かったのでは?と思えてくるんです。
梁書を著した姚思廉さんも二十四史を書くぐらいなので一流でしょうし、
何故、わざわざ、「其後」としたのか...。

884 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/05/03(日) 02:23:26
う〜ん 愛知県民さんの言うとおり誤読かな...?!

晋書でも「其後」をつかってますよね。
「宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶」...。
北史では、梁書と同じ文が書き込まれてる...。

わたしも最近みつけたことなので、自信ありませんが、
ネタとしては面白いかと思う。
では、そろそろ眠いのでここら辺で失礼します。

885 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/05/03(日) 02:26:45
ちなみに「其後」の後は后の意味があるんデス。
(後宮=后以下の・・・とか)

おんなへんの「妃」ではなく「后」なので面白いと思ったんですけどね。


886 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 02:29:49
>>885
この場合は「後裔」の意味かもしれませんね。

887 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 05:57:18
在日sageの成り済まし工作たわ!今のネット時代にアメリカの教科書に日本は「富士やま 芸者」だよ!古代中国書に言葉遊びの在日さん排除!自作自演で情報操作工作員います!

888 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 06:09:09
三代続かないと江戸っ子扱いしない=憲法一条遵守の帰化を広く仮に日本人として、799 800 801の古代歴史の流れ!知らずして卑弥呼語るなよなあ!

889 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 06:21:30
799の古代末子が正統な皇位者の反発出雲王家は三輪山から、伊賀上野北西の高台イザワ神社から、鈴鹿山脈八風峠越えに大和出雲領域松阪、さらに川越え・・

890 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 06:32:07
800で神武から祟神まで旧出雲三輪山は、天皇の嫁の出から事代出雲派と神武の家来物部日向派の対立。三輪山出雲の皇女系と三輪山に御所移す天照社皇女対立に、倭姫東征に・・

891 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 06:49:13
801で皇統譜で古代DNA統一仁徳系譜を、武烈が問題しても彼の姉妹が男系天皇の男子産み即位し、結果敏達統一し・・東大寺の蘇我の血避け。今の皇統はタケル末の非天武系、南北朝は共に藤原妃続き維新でも男系DNAは後嵯峨から同一。

892 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 08:32:10
すっかり基地外スレになったな。

893 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 08:55:59
連休だから

894 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 09:40:01
何年たっても、コテハンが字引を引くだけのスレ

895 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 09:40:57
>>704 訂正
>晋書四夷伝倭人に、文帝作相又数至とあり、250年代にも何度か遣使があったようだが、陳寿はスルーした?

晋書四夷伝粛慎に「及文帝作相、魏景元末、來貢[木苦]矢、石[冠奴脚石]、弓甲、貂皮之屬。魏帝詔歸於相府、賜其王[イ辱][奚隹]、錦kei[冠网厂垂中偏炎旁右剣]、緜帛。」
後に「文帝」と追号された司馬昭が魏の相国となったのは蜀を滅ぼした景元四年(263年)ですから、260年代に訂正します。
>>706 で言われるように、ここはもう晋王朝の前史ということなのでしょうね。


896 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 11:40:00

消えた日本の歴史

百済王家 = 天皇家
百済王 = 天皇(大和朝廷と百済王朝統合)
百済の高官 = 蘇我家 = 大和朝廷の高官
百済人 = 日本人(弥生時代から奈良時代まで大量移民。縄文人の蝦夷、熊襲を追い払う)



897 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 11:42:11
晋書の帝紀では、「東夷××国朝貢」(××は数)の記事が頻出しますが、倭国は入っていないと思われます。
晋書四夷伝倭人で「泰始初、遣使重譯入貢」(266年)以前は「其後貢聘不絶」「及文帝作相又数至」とあるのに
以後は記事が全く無いから。
馬韓は「武帝太康元(280)年、二年,其主頻遣使入貢方物,七年、八年、十年,又頻至。太熙元(290)年,詣東夷校尉何龕上獻。
咸寧三(277、前後転倒)年復來,明年又請内附」
辰韓は「武帝太康元年,其王遣使獻方物。二年復來朝貢,七年又來。」
266年以後、壹與(臺與)に何が起こったのか・・・?

898 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 11:58:54

イヨ(トヨ)タン・・・・・・・・・・


899 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 12:19:52

 邪馬台国はなかった!


900 :九州王朝大好き:2009/05/03(日) 12:22:55
>>897
>266年以後、壹與(臺與)に何が起こったのか・・・?

267年:狗奴國の筑後平野侵攻。小栗峠越えで八女へ奇襲。
    女王國体制の崩壊。狗奴國+有力国割拠体制。

901 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 12:31:13
>>900
え? そんなに詳しく分かるんですか? 根拠は?
壹與(臺與)はどうなったの?

902 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/03(日) 12:36:35
>>895

そういう事です。


>>897

記事に東夷と一括りしてある場合、倭は東夷の一部ですから
倭を除く事はできません。

903 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 12:39:25
>>900
そんな詳しい内容分かるはずが無い、
完全な妄想。
晋に使者を送る余裕が無くなったことしか分からん。
壹與(臺與)が死んだか再び国が乱れたか、両方とかだろう。




904 :九州王朝大好き:2009/05/03(日) 12:50:02
267年壹與以降
「狗奴國+有力国割拠体制(4大国体制)」

狗奴國:筑後平野南部+熊本平野
邪馬壹國:筑後平野北部+北野地区
奴國:佐賀平野
旧倭奴國:福岡平野

投馬國:投馬國の中部南部に狗奴國の侵攻を受けほぼ崩壊。残存投馬國(城郭近辺地域)は邪馬壹國に吸収される。

905 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 13:12:52
>>902
>記事に東夷と一括りしてある場合、倭は東夷の一部ですから
>倭を除く事はできません。

勿論そうですが、四夷伝倭人条が「泰始初、遣使重譯入貢」で終わっているから
その後は倭以外と考えるのが普通かと思いますが。
「重譯」か・・・
日本書紀卷第九 氣長足姫尊 神功皇后
六十六年。是年。晋武帝泰初二年晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重貢獻。



906 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 13:13:23
>>904
まず自説を証明してからにして、
九州王朝大好きさんの説では九州内の人口が多すぎ。
想像に想像を積み重ねるのは妄想。


907 :九州王朝大好き:2009/05/03(日) 13:14:30
>>901
>>903

267年かそれ以降になるかはわかりませんが、
早ければ266年以降に事態は急変します。

ミリタリーバランスが崩れ卑彌呼と対立していた狗奴國が侵攻する条件が揃い過ぎです。
従来は大牟田・荒尾方面(筑後平野南端部)での対立でバランスしていたのが、
狗奴國は、現国道3号線沿いに進軍し、矢部川流域部(筑後平野中部)に侵攻したのです。
女王國は従来の南部以外に中枢部への侵攻の二面作戦に敗れたのです。

以上が軍事的に倭國の歩んだ唯一のシナリオです。

908 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 13:32:11
もともと存在しない幻の邪馬台国を巡って
九州で主導権争いをしている間に、
ニニギの部隊は畿内まで勢力を伸ばし、
そこに卑弥呼を祭った。
それは端墓古墳だったのだ。


909 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 14:29:43
魏志倭人では「今使譯所通三十國」
晋書倭人では「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見・・・泰始初遣使重譯入貢」
この違いは何であろうか。
晋書倭人で泰始初のみ「重譯」をつけている。
晋書帝紀「正始元年春正月、東倭重譯納貢」
ふーん、複雑そうだ・・・

910 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/03(日) 14:35:18
252年頃壹與は王位に就く、
この後も壹與による朝貢は続く、
266年晋王朝が出来ると壹與は直ぐに朝貢、
272年神功による渡海、 
渡海直前の熊襲征伐、田油津姫は間違い田平津姫が正解 
これで佐賀、熊本方面の船を徴用出来る。


911 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 15:01:25
sageの在日朝鮮工作員が朝鮮は日本府はない 野蛮な日本刺青民族にしたいの見栄見栄!在チョン成り済まし工作注意!言葉遊び工作してます!チョンが!

912 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 15:23:29
日本人で日本民族の歴史語るなら890辺り知らないとね!出雲三輪山統一男系宮崎県民神武の出雲妃天皇家に反対王家が・諏訪出雲正統王家 隼人日向宮崎純系王家・皇女いたでしょう・の内乱鎮圧に征夷皇族将軍が行く・・

913 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 15:25:05
晋書宣帝紀の「東倭重譯納貢」は東の倭種(畿内)かもしれない。
晋書四夷伝倭人の「重譯入貢」も畿内?すると日本書紀に引く起居注の「倭女王」は壹與でなく日葉酢媛命か。


914 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/03(日) 15:42:50
>>913

>東倭

西倭があるから東倭の限定された表現。
間違いなく、東倭は九州でない事は確か
九州より西は存在しないから

915 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/03(日) 15:50:52
重譯=しつこい

916 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 17:40:17
神功皇后説
『日本書紀』の「神功皇后紀」において、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用している。
このため、江戸時代までは、卑弥呼イコール神功皇后だと考えられていた。

熊襲の女酋説
本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。
九州の熊襲の女酋長が勝手に神功皇后の使いを偽って魏へ通交したと考えた。

甕依姫説
九州王朝説を唱えた古田武彦は、筑紫君の祖「甕依姫」が「卑弥呼」である可能性が高いと主張。

倭姫命説
戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は垂仁天皇の皇女倭姫命を卑弥呼とする。

倭迹迹日百襲媛命説
倭迹迹日百襲媛命は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、
『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。最有力の説となってきている。

日女命説
『海部氏勘注系図』に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命を卑弥呼とする説。別名、日女命。

天照大神説
中国の史書に残るほどの人物であれば日本でも特別の存在として記憶に残っている
はずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神しかないとする説。

比定できないとする説
「卑弥呼」に該当する人物が日本古代の記録に期待できないとする説。

私はスレ立て規制で立てれない。1000超えたらコテハンさん宜しく。

917 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 17:54:38
>>916
スレ立てましたので、ここが終わったらよろしく。
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!29
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1241340624/

918 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:00:41
>>864
改めさん
ここは、「所謂〜〜者」の語法で、者に人の意味はありませんよ。
漢時有朝見者の者が人ではなく国であるように、者は場合によって意味が違います。

919 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:06:23
どの女性が好み??

神功皇后

熊襲の女酋

甕依姫

倭姫命

倭迹迹日百襲媛命

日女命

天照大神

そうそう、愛知県民さんのお願いしたかったところ。
愛知県民んさんありがとうデス。

920 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 18:11:22
>>918
>ここは、「所謂〜〜者」の語法で、者に人の意味はありませんよ。
>漢時有朝見者の者が人ではなく国であるように、者は場合によって意味が違います。

邪靡堆の地と邪馬臺の地は同じかの問題デス。

人=国とみることも出来ますが、上のほうの文書だけでは証明できないと思う。

921 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/03(日) 19:00:32
>>919
五百野姫を忘れているよ。

922 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 19:13:07
>>921
天照大神は「伊勢国にいたい」と言っていたのに、気が変わったんですね。


923 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 19:21:52
巫女であることと時代からすれば倭迹迹日百襲媛命が有力だけど
王となったとは思えない
熊襲の女酋もしくは幻が可能性として一番高い

924 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 20:00:06
垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命は、卑彌呼や壹與では無いが、女帝に近かったと思われる。
陵墓の説話が記紀ともに載っているし、大きな古墳に比定されてもいる。
266年の「倭の女王」であったかもしれない。

925 :改め:2009/05/03(日) 20:11:56
>>922>>924
最大の謎である邪馬台国の所在地については、愛知県民さんはどこにするんですか?

他のみなさんも良かったら教えて下さい。

926 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 20:24:53
畿内だと何度書けば。

927 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 20:42:03
>>925
聞いてどうする?

928 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/03(日) 20:47:07
>>922
天照大神は、おとこ
伊勢国で重要なのは、武ぬがわ以降伊勢風早国の存在。

卑弥呼は、筑紫男王の親族。

929 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 20:48:09
邪馬台国は当初佐賀にあったが、移設を繰り返し、
3世紀の終わりには現在の松坂市に移って定着。
その後は、数年おきに社のみ移設する決まりになった。

930 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 20:51:55
人物特定できないんだから、場所も特定できるわけないだろ
少なくとも大和王権では無いことがほぼ確定してる。
あとは、倭人伝が間違っている度合いを推定して行くだけなんだよ。

931 :改め:2009/05/03(日) 20:55:04
>>930
>人物特定できないんだから、場所も特定できるわけないだろ
>少なくとも大和王権では無いことがほぼ確定してる。
>あとは、倭人伝が間違っている度合いを推定して行くだけなんだよ。

素直じゃないな〜
僕はわかりませんていえばいいのにwww


932 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:03:11
>>926
畿内では方向が違う。何度言ったらわかるんだ?
当初九州にあった邪馬台国が畿内に移った。
そうでないと辻褄の合う説明は不可能。

933 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 21:07:34
>>925
壹與の時代は京都郡、卑彌呼の時代はそれより南の山間部と考えていますが
ちょっと絞り切れません。
次スレでも考えていきたいと思います。


934 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:13:48
>>929
あなたに限らないけどさ、独自な説を述べる場合は、ちゃんと理由を書かないといけないよ。

一見突飛な説でも、きちんと理由が書いてあれば、ほう、じゃあ検討してみようかという気になる。

でも理由が書いてないと、これは妄想だろうなと思って大抵はスルーされるよ

935 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:17:27
>>934なせそんな自明なことに説明がいるのかわかりません。

936 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 21:23:32
>>928
>天照大神は、おとこ

オホヒルメムチは女でしょうけどね。
天照大神は元来、尾張一宮の祭神でもある天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊だったのではないか?

937 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/03(日) 21:33:16
浦島太郎物語
元伊勢籠神社
弥彦+ゆり姫(神武の妾いすずより姫)=彦火明命
大風呂南遺跡群
http://inoues.net/tango/ohburo_minami.html

これだけあれば、話の一つ位は作れそう。

浦島太郎は竜宮城へ行く=琉球、遺跡から銅くしろが出土している処から、この辺までゴホウラ貝
の流通が考えられる。この辺りを最初に治めたのが弥彦(高倉下)であり、ゆり姫の子天押男は、
彦火明命に繋がる。
玉手箱の煙は「増し暦」の存在を臭わす。


938 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/03(日) 21:35:16
>>937 訂正
いすずより姫で無く 久米の娘いすきより姫。


939 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 21:38:01
改めさんはいつも単純な分類法で来ますからね・・・
私は九州説ですが、西進説か東遷説かと聞かれると首をひねる。
景行・仲哀の九州遠征記事を重視すれば西進説になるが、應神は謎が多いが深いところで
邪馬台国とつながっているかもしれず、それなら東遷説とも言える。
あと、改めさんがいつも書く「そのまま消えて幻になった」というのは笑ってしまうのですが。
意味がよく分からないので。

940 :改め:2009/05/03(日) 21:38:13
>>933
>京都郡より南

河童さんが変更していなければ同じ箇所ですね。
あの人は湾岸線とかいってましたが。

>>928
>天照大神は、おとこ

唐松山さんお久しぶりです。
天照大神は、日本書紀、古事記、先代旧事本記、竹内文書等では、女神とされ、
ほつまつたえでは、男神でしたね。
その他の文書は知ってますか?

941 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/03(日) 21:40:40
饒速日尊は筑紫の「雷神」天照大神亡き後を雷神が治める。
饒速日尊亡き後 うましまじ、長脛彦は、畿内入植 その後を追って神武
大和入植。


942 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:41:49
>>935
この2ちゃんねるという巨大掲示板にあなたが独自の説を書くのは、自分の説を広く知ってもらいたいからでしょ。

でもさ、多くの人にとって邪馬台国勢力が佐賀から松坂市へ移動したなんて話は初耳なんだよ

もしみんなが自明と考えてるのなら、ちゃんと教科書や研究書にすでに書いてあるはず。でもそうじゃないでしょ。

だから自分が自明だと思ってる説でも、それを他人に理解してもらうためには、理由を書く必要があるんだよ。

943 :改め:2009/05/03(日) 21:44:52
>改めさんはいつも単純な分類法で来ますからね・・・
>私は九州説ですが、西進説か東遷説かと聞かれると首をひねる。

いえいえ、九州説でもいろいろあるのを知っていますよ。
天皇家との関わりについては、悩まされてる(天皇家以外7:天皇家3ぐらいで...)。

>景行・仲哀の九州遠征記事を重視すれば西進説になるが、應神は謎が多いが深いところで
>邪馬台国とつながっているかもしれず、それなら東遷説とも言える。
>あと、改めさんがいつも書く「そのまま消えて幻になった」というのは笑ってしまうのですが。
>意味がよく分からないので。

「そのまま消えて幻になった」
ああ、知らない人が書き込んだのをコピーしただけですよ。
人が消えるというのは確かにおかしいw


944 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:52:58
912の続き!神話に騙されるな!、人は死ぬと神になる人の天照が死に天照大神に、人の天照が信仰した自然神の太一北極星の御中主など二重構造に注意!、今だに国家神道の出雲王家消し去り、出雲は山など自然崇拝の差などが考慮いる。

945 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 21:55:23
チョン黙れ

946 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 22:08:23
945よ!おめえどの在日チョンの教祖の新興宗教だあ!知ったかぶりしやがって!それかどこかの小汚ない神職かあ!伊勢神宮神職家なめるなよ! 在日のおチョンさん

947 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 22:09:19
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/loser/1238407065/7

948 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 22:14:03
>>.942別に、あなたの合意など求めてませんよ。おせっかいですね。
まあ、親切心で言っているようだから、お礼だけ入っておきましょう。
ありがとう。

949 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/03(日) 22:15:48
>>940 お久しぶり 連休だけの登場ですか? それではさみしいな。
天照大神は古事記でも お と こ

天照大神の子供は五男三女、天照大神を女とすると男を変えて子作り、に成ってしまう。


950 :改め:2009/05/03(日) 22:18:11
河童さんはいじけて向こうの掲示板で愚痴いってるぽいね。

師匠に慰めて貰えば良い(笑)
ちゃんと納得いく説明も出来ないのによく言うよね(笑)


951 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 22:21:59
神話の構成知らないわー日本民族の古代歴史しらないわが、 卑弥呼語るなよ!!できの悪い神職レベルが!物部に出雲からみた尊称と 日向からみた差別の蔑称も知らないど素人が 古代語るなよ!

952 :九州王朝大好き:2009/05/03(日) 22:24:56
>>918
>改めさん
>ここは、「所謂〜〜者」の語法で、者に人の意味はありませんよ。
>漢時有朝見者の者が人ではなく国であるように、者は場合によって意味が違います。

うんざりしているところ、応援ありがとうございます。
「謂邪馬臺者」「有朝見者」の文型
「動詞+○○+者」の文型では「者」が何を意味するかは、文の流れで決まってきます。
この流れが読み取れない人には説得無理でしょう。
又何故「國」を使わないで「者」を使うのかは、
「有朝見國」(≠朝見が有った国)「謂邪馬臺國」(≠邪馬臺と謂う国)では意味が変わってしまうからです。
「者」の文例は論語の中にもあります。どこか忘れた。>>918さんの魏志の文例もわすれていた。

「舊百餘國 漢時有朝見者」の場合には、
朝見したのは漢時の舊百餘國の中の国と判るので、
「者」は國を意味すると理解できます。
「則魏志所謂邪馬臺者也」の場合には、
魏志の邪馬臺國を思い浮かべるので、
「者」は國を意味すると理解できます。

953 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 22:30:22
>>949
>天照大神は古事記でも お と こ
>天照大神の子供は五男三女、天照大神を女とすると男を変えて子作り、に成ってしまう。

天照大御神の子供は五男だけですね。三女は須佐之男命の子。
須佐之男命は間違いなく男ですが、「うけひ」ということで性別不明?


954 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/03(日) 22:31:58
>>850

>向こうの掲示板


ここ半年ほどは、2ちゃん(市況1は除く)はおろか
アホーにも 殆ど書き込みしてないんだけど


それに、虫さんとは
直接メールで事足りてるし、 なんか勘違いしていない?

955 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 22:39:58
>>954
>なんか勘違いしていない?

このフレーズ、癖?

956 :改め:2009/05/03(日) 22:44:19
>>952
九州王朝さんは「邪靡堆に都す。すなわち魏志のいう邪馬臺の國なり。」
と考えてるわけですね?

では、お聞きしますが、「人」の場合はどうなるのでしょうか?
人の場合は、『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺人也』 で、
国の場合は、、『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』なのでしょうか?

ちがいますよね?

あなたが言ってるのはこれのことでは?
『都於邪靡堆國領地 則魏志所謂邪馬臺國領地也』

957 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 22:47:39
この卑弥呼のスレまだやるね!おめえらオタクだわ! 遺跡発掘とペアでないと 国民は認めねえよ!

958 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 22:48:08
>>956
横レスですが、

まず、「所謂〜〜者」の「者」が人ではない証拠。

所謂大路者,天子之輿也
いわゆる大路なる者は、天子の輿である。
大路は人間ではないことははっきりしている。

夫所謂賢人者,必能安天下而治萬民,
いわゆる賢人という者は、必ずよく天下を安んじて万民を治める。
賢人の人というのはおかしいでしょ。

この「者」は、「所謂〜〜者」の形で、間に挟んだ言葉を名詞化する。
「〜〜」に相当する部分は、人・モノ・諺・抽象概念とか、なんでも入る。

さて、『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』は、
「所謂〜〜者」の構文なのか、「所謂邪馬臺の者」なのか。
それは「則」でわかる。
「A 則 B」は「A は B である」「A = B」という意味。
もし「所謂邪馬臺の者」であった場合、「則」より前の部分に、
「邪馬臺の人」と「=」で結ばれる関係が成り立ちうるものが必要。
ところが、「都於邪靡堆」のどこにも人間あるいは人間の性質等を指す語がない。
結局、邪靡堆=邪馬臺 の構文と考えるしかない。

959 :九州王朝大好き:2009/05/03(日) 22:48:21
隋書俀國傳の翻訳者照会

『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』
@都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり
A都が邪靡堆にあり、それは魏志に則れば邪馬臺國と謂われる所の邪馬臺である
B「邪靡堆」に都す。即ち魏志のいわゆる邪馬臺なる者なり。
@は堀さだお氏の訳文、Aは九州王朝大好きの訳文、Bは古田武彦氏の訳文


960 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 22:55:35
高天原という名の台地がある場所は?
高天彦の祭神は誰?
甥の祟神が頼った巫女(モモソ姫)はどこ出身?
陰陽道の鴨氏のいた場所は?
2代天皇の宮の場所は?
何故に建内、蘇我、平群が天皇並の権力を持ってたか?
事代主を祭る神社があるのは?
三輪が大和を独占したのはどこの豪族が負けたから?


全部 葛城地方の葛城氏。

961 :九州王朝大好き:2009/05/03(日) 22:57:59
>>958
僕より遥かに説明が的確です。

962 :改め:2009/05/03(日) 22:58:28
>>949 唐松山さん
>天照大神は古事記でも お と こ
>天照大神の子供は五男三女、天照大神を女とすると男を変えて子作り、に成ってしまう。

ああ、スサノオが「姉」と発言したりして、男性か女性か
わからない記事ですよね(なつかしい)。
ところで、どうしてスサノオの発言ではなく
そっち(五男三女?)の記事を信用したのでしょうか?

>>954
アレ、勘違いでしたか?失礼。

963 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 23:01:55
>>959
「則」を「のっとる」と動詞に訳すのは、あまりよくないと思います。
「則」は助辞で、「すなわち」と読みます。接続詞みたいなものです。
よく見かけるのは「〜〜なれば則ち〜〜」という「れば則(ればそく)」といわれる用法ですが、
この隋書の則はそれとはちょっと違います。大漢和には「対待の関係をあらわす」などと説明しています。
上で説明したように「A は B である」の関係を示します。
三番目の訳が、伝統的な訓読です。


964 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/03(日) 23:02:45
>>955
ごまかさない。
そして、勘違いでなければ勘違いでないことの証明。

>>952王朝さん

>「舊百餘國、漢時有朝見者」の場合には、朝見したのは漢時の舊百餘國の中の国とわかるので


違います。かなり目茶苦茶。

「舊」も時間なら「漢時」も時間
同一した時間なら、舊や漢時
等で分ける事をせず
時間を「漢時」で纏めるはずですね
しかし、舊と漢時と分けてかかれた。

つまり、「舊百餘國」と「漢時有見者」には
時間のズレがあるという事です。
時間にズレがあれば、王朝さんが言う、百餘國の中の国とは必ずしもならないと、言う事です。

965 :改め:2009/05/03(日) 23:36:39
>>958-959および>>961
ご丁寧にレス、ありがとう。
ですが、大体、隋書のどこにそんなこと書イテるのでしょうか?
隋書をみわたすと「者」は全部で六箇所ニ書かれてるぽいですが、
どれも「人(人間)」の意味あいでスね。

わたしは「納得出来るモノ」を示されれば(レス)すぐにでも納得するほうです。
しかし、貴方たちのレスを見るかぎりでは、
『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』にそんなことかいてないのに
この文書を「邪靡堆國の都=邪馬臺國の都」と信じて哀(あわ)れというか、
もう失笑する以外ないですね(笑)ガハハハッ

966 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/05/03(日) 23:36:47
天照大御神は女性である。唐松山氏は妄想ばかりであるから、
騙されてはいけない。彼の天文説は日食が数日続くそうであり、
こういう風が吹けば桶屋が儲かる式の大勇み足を平気でやる男で
ある。自説には甘く、対峙する反論相手には虱つぶしに書きこみミス
を誤説の如くシビアに吹鳴する。伊支馬がイクメであると抜かし、
卑弥呼が卑弥弓呼であることを遠回しに強調している。

967 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/03(日) 23:41:47
>>959
王朝さんは邪靡堆も邪馬臺も九州筑後とされるのでしょうが、日本書紀を含む畿内説ではどちらも畿内大和。
7世紀の唐人、8世紀の日本人がそう考えていたということです。
3〜7世紀の史実は果たして?

>>964
前漢書地理志では「楽浪海中有倭人、分為百餘國」
後漢書東夷伝では「倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國」
漢時も国の数は変わらず「百餘國」なので、陳寿も繰り返してはいないようです。
「今使譯所通三十國」今(魏時)のすべての国の数は分かりません。

968 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/03(日) 23:50:01
>>966
別に目くじらを立てる事でもないでしょう。

ここは掲示板ですし、自由な意見を書き込む所です。例え間違った意見を見つけても、一度指摘すればいいだけで 後は指摘された側の自由な判断に任せればいいだけです。

指摘する側も、一度指摘すれば十分だし
何度も同じ内容の指摘は繰り返さない事です。


憲法で定められている表現の自由を、先ずは優先させましょう。

969 :日本@名無史さん:2009/05/03(日) 23:54:04
ドツボ、梅毒、デブ国、チョロ松のバカ四天王が
全員揃って煽り合いを始めてる件

970 :九州王朝大好き:2009/05/03(日) 23:59:53
>>965
>この文書を「邪靡堆國の都=邪馬臺國の都」と信じて哀(あわ)れというか、

そんなこと一言も書いていないですよ。
邪靡堆=邪馬臺 と書いているのですよ。
「國」の字は付かないのですよ。

971 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/04(月) 00:00:35
>>968

その反論は予想していましたので 五日以降
新しいスレに理由を書いておきます。

尚、明日は出かけ、帰りが遅くなるので
投稿困難。

972 :改め:2009/05/04(月) 00:01:20
>>958 追加
>所謂大路者,天子之輿也
>いわゆる大路なる者は、天子の輿である。
>大路は人間ではないことははっきりしている。

神っスか?ww 

>夫所謂賢人者,必能安天下而治萬民,
>いわゆる賢人という者は、必ずよく天下を安んじて万民を治める。
>賢人の人というのはおかしいでしょ。

「賢人の者」てそこにかいてあるでしょ?

>この「者」は、「所謂〜〜者」の形で、間に挟んだ言葉を名詞化する。
>「〜〜」に相当する部分は、人・モノ・諺・抽象概念とか、なんでも入る。
>さて、『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』は、
>「所謂〜〜者」の構文なのか、「所謂邪馬臺の者」なのか。
>それは「則」でわかる。
>「A 則 B」は「A は B である」「A = B」という意味。
>もし「所謂邪馬臺の者」であった場合、「則」より前の部分に、
>「邪馬臺の人」と「=」で結ばれる関係が成り立ちうるものが必要。
>ところが、「都於邪靡堆」のどこにも人間あるいは人間の性質等を指す語がない。
>結局、邪靡堆=邪馬臺 の構文と考えるしかない。

何を言ってるんだ〜この人は....。
「邪靡堆」は名詞なんでしょうが?「者」の意味分かってる?
いまどき、小学生でも知ってるぞ...。

973 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/05/04(月) 00:02:48
>>969

相変わらずのレス 乙

半年経っても
君は変わらないんだね


可愛いよ

974 :改め:2009/05/04(月) 00:04:01
>>970
>そんなこと一言も書いていないですよ。
>邪靡堆=邪馬臺 と書いているのですよ。
>「國」の字は付かないのですよ。

アレ...「邪靡堆國の都=邪馬臺國の都」といってるんではないんですか?
それなら私のほうは何も文句ありませんが...。

975 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/04(月) 00:09:25
>>971
>>968 ん? アンカーミス? たぶん私の >>967 でしょうね。

976 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 00:19:04
>>973
名付け親は誰か知りませんが、
このスレでは

・梅毒の逃げ屁理屈
・ドツボのファビョり
・デブ国のご都合暦
・チョロ松のホツマ病

は超有名ですよ

977 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 00:28:42
>>972
>>所謂大路者,天子之輿也
>>いわゆる大路なる者は、天子の輿である。
>>大路は人間ではないことははっきりしている。

>神っスか?ww

www 天子の輿(こし)って書いてるだろう。大路は乗り物。
大路という者は、天子様の乗り物ですって言ってるの。

>「賢人の者」てそこにかいてあるでしょ?

賢人や賢者という言葉はあるけれど、賢人者とか賢者人という言葉はないでしょう。
それを考えれば、すぐ解ると思うんだけど。

>何を言ってるんだ〜この人は....。

「この「者」は、「所謂〜〜者」の形で、間に挟んだ言葉を名詞化する。」
に引っ掛かったのかなあ。ちょっと説明の仕方が悪かった。
確かに名詞化するというのは、確かに正しくない。
「者」というのは、それより前の句をひとまとまりにする働きがあると言ってわかるかなあ。

978 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 00:42:41
ずっと読んできて、「者」は、「というもの」と訳して不都合はないような
気がする。
となると、都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 は、

邪靡堆において都す。すなわち、魏志に言うところの邪馬臺というものなり。

かな。

979 :九州王朝大好き:2009/05/04(月) 00:52:37
>>967
>7世紀の唐人、8世紀の日本人がそう考えていたということです。

8世紀の唐人、8世紀の畿内政権の人がそう考えていたことに異議はありません。

都の位置
〜50年頃:前原?
50年頃〜106年(約60年間):須久岡本?
107年〜190年頃(約80年間):吉野ヶ里
190年頃〜3世紀初頭(約20年間):不明 (卑彌呼期の初期)
3世紀初頭〜517年(400余年間):久留米南部
518年〜697年(80年間):大宰府
698年〜700年(2年間):薩摩の某所
701年〜:大和等畿内を点々と遷都

>>978
そうですよ。
ひらがなで「もの」とするのがシンプルな適訳だと思います。

980 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 01:10:46
>>974
改めさん

「A 則 B」が、「A = B」「A は B である」
というのはわかる?

それと『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』は、

  都於邪靡堆
     邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也

という二つの文から出来てるのがわかる?
邪靡堆が二つ連続するから、ひとつ省略して一文になってる。

981 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 01:20:44
>>980

おぬし小学生か?ww
レベルにあわせろてかw

982 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 01:36:05
場所の比定はあまり意味がないんだって
卑弥呼が巫女ならば大事な戦場の前線に立つことだっておおいにありうる
少し後の時代の事実上の天皇の位にあり巫女的な力を発揮した神功皇后は半島にまで渡ってるし、九州にもいた
卑弥呼も一時的に九州にいたと考えるのは別に不思議じゃない
諸国に影武者を配置してたのかもしれない
纏向と西寥エの相似関係も見過ごせない
まぁ、魏志倭人伝に書かれてる卑弥呼の生活ぶりを見れば
とても戦争状態にあったとは考えられないが・・・

それよりも卑弥呼って誰?ってのが先
皇統にはそんな人物は見あたらない

983 :九州王朝大好き:2009/05/04(月) 01:43:43
>>981

>>980は解かり易い説明をしていると思うよ。

『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』
都は邪靡堆にあり、それは即ち魏志の邪馬臺國と謂う所の邪馬臺である

だな!


984 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 01:53:51
>>983

なんですか それは?www

985 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 08:55:05
>>979
>都の位置
>〜50年頃:前原?
>50年頃〜106年(約60年間):須久岡本?
>107年〜190年頃(約80年間):吉野ヶ里
>190年頃〜3世紀初頭(約20年間):不明 (卑彌呼期の初期)
>3世紀初頭〜517年(400余年間):久留米南部
>518年〜697年(80年間):大宰府
>698年〜700年(2年間):薩摩の某所
>701年〜:大和等畿内を点々と遷都

随分と九州に偏っているのですね。久留米市在住の方なのか久留米南部400余年間という。
少なくとも記紀の言うところとは違いますね。
やはり日本の統一は紀元後すぐより大和から始まり,魏志倭人伝言うところの
「倭國乱れ相攻伐すること歴年」或いは後漢書の言う「倭国大乱更に相攻伐暦年主なし」
は無政府状態などを言うのではなく、大和の統一の過程と見るべきかと思います。
即ち、宮殿があったところは別として国都は大和にあったと見るのが正しいのでは。

986 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/04(月) 11:17:57
>「倭國乱れ相攻伐すること歴年」或いは後漢書の言う「倭国大乱更に相攻伐暦年主なし」
西暦180年頃より半島、大陸の異変に合わせる、寒冷化の影響
崇神により、出雲の物主が殺される=九州まで影響力の有る男
更に半島の「鉄」は北九州を通らず西側を通過、熊本方面に流通
熊本「熊襲」の強大化、此方から「鉄」の供給を受ける佐賀方面が北九州に離反
北九州の弱体化を見た 香椎方面、豊国方面も半独立
筑紫王権は九州を纏められなくなり、卑弥呼を立てる。


987 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/04(月) 11:52:57
>>969
いいじゃ無いか、心を広く持て
私が此所にいる限り(私の数字が有る限り)此所に「半島」は住み着きません。

此だけでも私が此所に居る価値がある、
ドン来いと同じにしたいのか?


988 :九州王朝大好き:2009/05/04(月) 12:05:49
>>985
>久留米市在住の方なのか久留米南部400余年間という。
>少なくとも記紀の言うところとは違いますね。

私は、本籍地奈良県、現在兵庫県在住です。
久留米だけでなく九州にも住んだことはありません。

景行紀に都が久留米南部であることがわかる記述があります。
都は久留米南部ですが、400余年間に直径5km位の範囲で遷都(遷宮)しております。
その為その時代ごとの都の場所の特定が困難なのです。
第三期筑後国府跡に隣接して曲水の宴遺構があったことは、
この近辺が久留米終末期の「京」の中心地だったことを示しています。

989 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 13:28:39
>>987
カッチョエー!!

990 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/04(月) 14:06:34
>>988
豊のナガオと同じく仮宮ですね。
この頃 筑紫の大木が倒れる。
まだ戦は続く。

991 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/04(月) 15:07:26
>>989
いいか相手にバカにされない為には相手を正しく認めること、
半島の歴史は、新羅本記が正しい 是だけで良いんだ。


992 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/04(月) 19:03:01
>>991
>半島の歴史は、新羅本記が正しい 是だけで良いんだ。

やや問題あり。新羅本紀は中国文献と全く合わないという謎があります。

梁書新羅伝 普通二年(521年)、王姓募名秦、始遣使隨百濟奉獻方物。
隋書新羅伝 其王本百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。傳祚至金真平。

また百済本紀は日本書紀と異なりますが、日本書紀の百済王暦の不自然な空白は
どう説明されます?

993 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/05/04(月) 19:28:10
日本書紀卷第十一 大鷦鷯天皇 仁徳天皇
四十一年春三月。遣紀角宿禰於百濟。始分國郡 場。具録郷土所出。是時百濟王之族酒君无禮。由是紀角宿禰訶責百濟王。時百濟王懼之。
百濟王名は書かれていない。これ以後、雄略天皇紀まで百済王は出てこない。

994 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 19:35:37
994

995 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 19:36:28
唐松山さん めっちゃかっこいい!


996 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 19:43:03
初主宋史

天中主 次曰天村雲尊 其後皆以尊爲 次天八重雲尊 次天彌聞尊 
次天忍勝尊 次贍波尊 次萬魂尊 次利利魂尊 次國狭槌尊 次角魂尊 
次汲津丹尊 次面垂見尊 次國常立尊 次天鑑尊 次天萬尊 次沫名杵尊
次伊弉諾尊 次素戔烏尊 次天照大神尊 次正吾勝速日天押穂耳尊 次天彦尊
次炎尊 次彦瀲尊 凡二十三世 並都於筑紫日向宮


997 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 19:58:47
連休なのに・・・

998 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:04:36
998ゲット ふみまくって!

三国志本篇で「水行」は、皆、川・河を行くこと。

>>541
>「循海岸水行」=海の岸にしたがって水行し、と訓む。
>しかるに、不弥国からは、「水行」しかない。「循海岸」が無い。
>単に「水行」と云えば、川を行くこと。

海の岸に沿っていく必要なないよね。


999 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:10:12
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 999なら、邪馬台国も卑弥呼九州説でほぼ確定!!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


1000 :日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:11:45
九州

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