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元寇総合スレ

1 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 05:18:50
以前の元寇スレの再開です

2 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 10:04:03
関連
モンゴル帝国が日本を侵略してきた事実について
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1149162700/

3 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 13:54:51
これもですね

元寇における高麗兵の残虐行為について
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1128253450/

4 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 20:09:11
963 :名無し三等兵:2009/06/22(月) 19:43:00 ID:???
一連の流れがわかり易く書かれてるサイト

http://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/59075424.html

文永の日本兵力が5375人ってのは本土防衛戦史元寇が根拠だったようだな
いろいろと想像だけで書かれてるからなあれ

5 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:03:31
第1次日本遠征
○ 元軍の軍容
総司令官 征東都元帥 忻都
副司令官 征東都副元帥 洪茶丘
〃 〃 劉復享
高麗軍司令官 都督使 金方慶
о蒙古軍=15,000人
о高麗軍=8,000人
о水手=6,700人
о軍船=900艘
(歴史群像シリーズ【チンギス・ハーン】参考)

6 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:05:32
1274年10月5日 - 元軍、対馬佐須浦へ上陸。守護代・宗助国80余騎を率いて出陣。
1274年10月6日 - 宗助国、陣を構え元軍を迎え撃つが全滅し、小太郎・兵衛次郎太宰府へ行く。
息子・右馬次郎、養子・弥次郎、一族・右衛門三郎、越前五郎、甲斐六郎、
流罪中の肥前御家人・口井勝三、源三郎兄弟、肥後の援軍・田井藤次郎、斉藤資定などが宗助国と共に戦死した。
1274年10月14日 - 元軍、壱岐西海岸に上陸。守護代・平景隆100余騎を率い樋詰城前に陣をはる。
奮戦するも翌日陥落。平景隆・一族共に自害。郎党・宗三郎太宰府へ行く。
1274年10月17日 - 元軍、肥前鷹島へ上陸。松浦党武士数百名を殺すがとどめを刺さず出発。
1274年10月19日 - 元軍、洪茶丘率いる別働隊・今津へ上陸。監視隊を追い払い布陣する。
秋月氏及び松浦党を破り麁原山を占拠。本隊の支援をする。

7 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:06:35
1274年10月20日 - 元軍、金方慶率いる高麗軍・佐原・赤坂へ上陸。
元軍本隊は箱崎・博多へ上陸。太宰少弐経資、鎌倉・京都へ急使を派遣、
九州の守護・地頭を博多湾に集結させ各地の守備につける。
○ 総大将・少弐経資、前線司令官・少弐景資。
о赤坂地区 菊池氏(武房)、詫磨氏、竹崎氏、白石氏、山田氏、秋月氏、粟屋氏、日田氏、松浦党
о箱崎地区 大友氏、島津氏
о博多地区 菊池氏(隆泰、康成)、赤星氏、西郷氏、葉室氏、難波氏、戸次氏、
千葉氏、野田氏、光友氏、山代氏、石志氏、城氏、龍造寺氏、大村氏、有馬氏、
高木氏、深堀氏、山鹿氏、紀井氏、臼杵氏、児玉氏
о守護3家=各500人
о地頭・御家人31家=各125人平均
о合計=約5,375人
(本土防衛戦史元寇参考)

8 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:07:58
1274年10月20日 - 金方慶率いる高麗軍・百道原へ侵攻、菊池武房・詫磨頼秀軍を破る。
本隊・箱崎にて島津久経軍と、息の浜にて少弐景資軍と戦いこれを退ける。
が、副司令官・劉復享が少弐景資のはなった矢により重傷をおう。
日本軍は博多・箱崎を放棄、太宰府へ引く。日暮れにより元軍夜襲を恐れ船団へと帰還、
作戦会議を開くき撤退が決定される。金方慶のみ反対し抗戦を訴えるが総司令官・忻都がこれを却下する。
朝鮮へと帰還途中、大風雨に遭い船団は潰滅した。
−高麗の船は1艘に、水夫7名と兵士が約25名の合計30名あまりが荷駄(馬・食糧・水)を積んでやってきた。
50トンから100トンの船だったのだろうか?
この第1次日本遠征軍が嵐に遭ったかどうかは分からない。いずれにしても
冬場の時期に海の上からの陽動戦で脅かして帰投する予定だったのだろう?

9 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:09:10
第2次日本遠征
○ 元軍の軍容
総司令官 征東行省右丞相 アラカン アラカンの後任 アタハイ
<東路軍>
東路軍司令官 征東都元帥 忻都
東路軍副司令 征東都元帥 洪茶丘
高麗軍司令官 征東都元帥 金方慶
о蒙漢軍=15,000人
(侍衛軍)(4,000人)
о高麗軍=10,000人
о水手=17,000人
о軍船=900艘
<江南軍>
江南軍司令官 征東行省右丞相 アラカン
江南軍副司令 征東都元帥 范文虎
蛮子軍指揮官   夏貴
о蛮子軍=100,000人
о戦艦=3,500艘
о総軍戦員総数=14万200人
(歴史群像シリーズ【チンギス・ハーン】参考)

10 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:09:53
1281年1月 - フビライ、第二次日本遠征作戦発令する。
1281年5月3日 - 東路軍、合浦を出撃。巨済島に錨を降ろす。
1281年5月21日 - 東路軍内高麗軍が対馬へ上陸。在地武士を蹴散らし占領する。
1281年5月26日 - 東路軍、壱岐へ向かう途中、暴風により2、3艘が沈む。
1281年6月6日 - 東路軍主力、博多へ侵入し各所で上陸を試みるが撃退される。
志賀島、能古島周辺へ碇泊、日本軍の夜襲をうける。日本軍は、当初の予定通りの配置につく。
о香椎地区 大友頼泰(豊後)
о箱崎地区 島津久経(薩摩)
о博多地区 少弐経資(太宰府)、北条宗政(筑後守護)、秋月種家(筑前)
о今津地区 島津(日向・大隈)
о生の松原 安達盛宗(肥後)

11 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:10:41
1281年6月8日 - 東路軍、再び上陸を試みるが大友貞親軍の迎撃により退く(志賀島攻防戦)。
1281年6月9日 - 志賀島攻防戦に安達盛宗が率いる関東軍参戦、三度退かせる。
1281年6月13日 - 東路軍、博多湾を離れ壱岐へ退く。
1281年6月29日 - 日本軍、壱岐に駐屯する東路軍を急襲する。
少弐経資・資時父子、島津久経・長久兄弟などが参戦、少弐資時が戦死する。
1281年7月2日 - 日本軍、再び壱岐を急襲して東路軍を混乱させる。
松浦党、彼杵氏、千葉氏、高木氏、龍造寺氏らが攻撃した。
東路軍、江南軍との合流地点平戸へ移動する。総大将アタハイ、緒将を集め作戦会議を開く。

12 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:11:40
1281年7月27日 - 東路・江南両軍、東へ移動する。
1281年閏7月1日 - 鷹島付近へ集結した元軍、暴風のため大きな被害を受ける。
1281年閏7月2日 - 鎌倉武士団、被害をうけた元軍の掃討作戦を開始し、松浦・御厨へ移動する。
1281年閏7月5日 - 日本軍の掃討作戦が本格化し、元軍は江南・合浦へ退却しする。
 −第2次日本遠征は艦船1千艘に、水夫約20名、兵士約30名、合計50名であり
荷駄も含めたら100トンクラスの艦船を揃えてきたようだ。

13 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 08:55:56
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/otayori7.html#kourai

尾崎と申します.楽しく読ませて頂きました


確か高麗軍は幕府軍にメタメタにやられフビライに泣きついた資料があったかと(2度とも)思うのですが 台風の為に助かったのではなく 
どうにも攻めても攻略できず 仕方なく沖に停泊していたところ嵐に襲われた・・と 日本側の資料ではなく朝鮮の資料で見ましたが いかがでしょう?

ゲンボー先生

メールをありがとうございます。 元寇に関する第1級の資料は「八幡愚童記」「高麗史」「竹崎季長絵詞」と言われています。ところが、
どこの国の記録もそうですが、自分たちにとって都合良く書かれている部分があるので100%信じるわけにはいきません。そこで、
学者はそうしたことを加味しながら事実を読みとっていこうと努力しています。

今日の最も新しい説では第一回目の文永の役では、元軍は威嚇という目的を果たしての帰路で嵐に遭っているようです。「八幡愚童記」を読む限り、
文永の役でメタメタにやられていたのは日本の武士達です。ところが朝起きてみたら敵が消えていた・・と書かれていますから、これは真実だと思われます。

高麗としては日本との戦で得るものはなにもなく、出費や人的な損害が出るばかりですので、フビライに対して悲観的な報告をおこなっていました。しかし、
正式な使節を斬首した日本に対するフビライの怒りは強く、高麗王の泣き言は一蹴されてしまいました。それで第2ラウンドがあったというわけです。

弘安の役では日本軍は善戦しています。長期戦に持ち込めば補給のつきやすい日本側に有利ですから、おそらくそのままでも勝っていたと思います。しかし、
嵐がきて結論は早く出ました。日本は3回目もあると準備していましたが、元側の状況によって日本遠征は中止されました。

しかし、ホームページにも書いたように御家人の出費はかさみ、間接的に幕府崩壊の道に拍車をかけた結果となりました。

ゲンボー先生

14 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 09:36:16
>>13
>元寇に関する第1級の資料は「八幡愚童記」「高麗史」「竹崎季長絵詞」と言われています。ところが、
どこの国の記録もそうですが、自分たちにとって都合良く書かれている部分があるので100%信じるわけにはいきません。

といいつつ、元軍の苦戦や武士の勝利が描かれている高麗史や蒙古襲来絵詞を無視して、唯一、武士が敗戦したと記されている「八幡愚童訓」
のみを勝敗の根拠に挙げるこの馬鹿はなんなんだ?

15 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 09:37:33
>この馬鹿はなんなんだ?
学校の先生みたいだねw

16 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 11:11:02
>自分たちにとって都合良く書かれている部分があるので
背水の陣を敷いてもう少し頑張ろうとか、日本に負けたとか書くと
向こうの人間にとってはどう都合がいいのだろう?

17 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 13:37:55
この先生も、自分の都合のいい記述しか信じて無いなw

18 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 13:52:12
>弘安の役では日本軍は善戦しています。長期戦に持ち込めば補給のつきやすい日本側に有利ですから、
>おそらくそのままでも勝っていたと思います。しかし、嵐がきて結論は早く出ました。

弘安の方も善戦とかおかしいだろ。元軍は台風シーズン前に行動開始した後、2ヶ月以上もの間本土に上陸できずに
海上を漂って嵐にあってるんですけど。

19 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 16:28:06
文永の役の元軍にひとことだけ言っておく

射た矢くらい拾い集めとけよ

20 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 16:48:44
弘安の役の元軍に一言だけ言っておく


敗残兵ぐらい自分の国で処理しろよ

21 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:33:24
鎌倉よ
恩賞くらい与えてやれよ


22 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:43:04
ゲンボー先生よ

いい加減にしろ

23 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:12:43
>>14

高麗 もう戦争やりたくないから、戦に負けた・日本は強い・攻めるの難しいと元に報告
武士 恩賞ほしいから戦に勝ったと幕府に報告

こういう所が自分たちに都合よく書かれてて信憑性が低いということじゃないかな?

24 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:39:07
「元史日本伝」『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、
官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』

鎌倉武士をメタメタにして圧勝したはずなのに、官軍整わずとか矢尽きとあるのはどうしてなのゲンボー先生?

25 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:39:47
あと、蒙古襲来絵詞は恩賞目当てに描かれたものではないぞ。

26 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:05:00
お薦めの本はなんでしょうか?

27 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:06:41
ゲンボー先生に本書いてもらいな。

28 :23:2009/06/24(水) 23:10:23
いや俺ゲンボー先生とかじゃないし。

でもよく考えたら元史じゃなく高麗史に書いてるから23の話は無理があったかな。
あと、恩賞じゃなくて自分の戦功を称える為だったかな…間違ってたらすまん
でも蒙古襲来絵詞の勝利の部分の信憑性が低いのは確かじゃないかな。

29 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:11:33
>でも蒙古襲来絵詞の勝利の部分の信憑性が低いのは確かじゃないかな。

理由は?


30 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 23:22:05
>>29

自分の戦功を称える為のものだから、勝敗の結果はともかくとして
誇張があると考えるのが普通じゃないの?

31 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:02:44
蒙古襲来絵詞って俺tueeeeeeな内容じゃないんだけど。

それと元史高麗史ともにろくな戦果もあげてない点では共通だな。史書をさしおいて
宗教書がもっとも信用できる理由とは?

32 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:48:04
蒙古襲来絵詞は安達さんと少弐さんを鎮魂する為に書いたんだよ。
信憑性云々とか偉そうなこという以前に、そんくらい知っとけバカ。
イメージだけで勝手な事を尤もらしく言う奴ってホント何なの?

あと蒙古襲来絵詞は、当時の元軍を知る上で重要な資料として扱われてるんだけど?
それから八幡愚童訓書いたのは神社の関係者だっていう部分にはつっこまないのか?
ホント馬鹿だな。

33 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 02:03:42
5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北


34 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 02:06:03
元寇は鎌倉武士の圧勝
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。

35 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 05:01:34
>>23
でも、日本じゃないと具合悪いんじゃなかったの?
下手すると世界の果てまでお供させられるかもよ。

36 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 05:08:59
もともと高麗はやるきまんまんじゃん
忠烈王さんが土下座して進言したんでしょ

37 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 15:08:34
16 :名無しさん@九周年:2009/05/17(日) 14:21:05 ID:elFI5JCq0
なぜ元寇が行われたか?
『元史』によると1272年に、高麗の王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のクビライに
「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀せしめんとせば、
戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、王師を小助せん」
と具申したとある。
また「高麗史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して
日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。つまり、元寇は高麗が積極的に進言した為
引き起こされた侵略であった。

31 :名無しさん@九周年:2009/05/17(日) 14:32:33 ID:0UEFoES70
>>16
モンゴルの支配は、征服地の領主が早々と服属したら、知事と連絡係の少数の
兵員だけ置いて、本隊は引き上げてしまう。
ところが、高麗の忠烈王って国内で評判の良くない王様で、内乱を蒙古の征服
軍の駐屯で押さえ込んで貰っている状態。
蒙古兵の大半が引き上げてしまうと、王様でいられなくなる。虎(蒙古)の威を
狩る狐なわけ。
なんとかして蒙古の占領軍の本隊を高麗国内に留め置こうとして、日本侵略の
進言。

38 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 15:43:56
チョン王が日本侵略をそそのかしたという事実は確定か。

39 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 16:49:30
>>32
誰も八幡愚童訓が正しいなんて言ってないと思うが…
それに重要な資料として扱われてるのは高麗史も八幡愚童訓も同じだよね。
あなたは蒙古襲来絵詞のみが正しいと信じてるみたいだがその根拠は?
まさか鎮魂と報謝のために作ったからだなんて言わないよね?
今の学会では蒙古襲来絵詞の記述だけを信用しているとでも言うの?


40 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 17:44:40
なんだこの人w
相手の主張を完全に取り違えてるwww

高麗史を正しいとしてないのはゲンボー先生くらいだろ。

41 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:09:32
八幡愚童訓も神威を喧伝するという意図で書かれている。これだけは自分たちの都合を考えずに
書かれているということはないよ。

42 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:26:47
だから3つある史料のなかで蒙古襲来絵詞を重視するならその理由を書けといってるんだよ。
他の史料は信用ならんとか鎮魂や報謝のために作ったからというのでは理由になってないでしょ。
万人を納得させる理由もなしに蒙古襲来絵詞のみが正しいと主張するなら
あなたたちもゲンボー先生と同レベルだってことだろw

43 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:05:53
誰に向けて言っているのか知らないが、蒙古襲来絵詞のみを重視するという人はここにはいないと思う。

44 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:12:14
>>34で思いっきり重視してると思うが…

45 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:54:36
>>32
『八幡愚童訓』は、岩清水八幡宮の社僧あたりが、八幡大菩薩の神徳称揚を目的として
十三世紀末から十四世紀の初頭頃に編纂したものらしくて、神功皇后の三韓征伐や
唐天竺のエピソード等、本地垂迹説の観点から八幡大菩薩にまつわる雑多な内容を
網羅的に叙述していて、寺社縁起系の文学として非常に完成度の高い書物。
要するに八幡大菩薩の霊験に関わるエピソードのひとつに、文永・弘安の役での話が
載せられている、という感じ。室町時代から江戸時代にかけて結構流布した作品で、
江戸時代に入ってから絵入り本まで作られた。

江戸時代の漢学者、橘守部が言うには、この『八幡愚童訓』に載る文永・弘安の役の話は、
『八幡ノ蒙古記』という文永の役の主戦場のひとつだった博多の箱崎八幡宮の社官・
圖書允定秀という人物が残した両戦役の実見記を元ネタにしていたものらしい。

この圖書允定秀は文永の役で箱崎八幡宮が焼亡した折りに、八幡宮の御神体を運び出した
三人のうちのひとり。(勿論、『八幡愚童訓』の箱崎八幡宮焼亡の件で出て来る)
橘守部は、この『八幡ノ蒙古記』は群書類従本などの世間に流布している『八幡愚童訓』の諸本に
比べ、非常に簡素で整ったな構成をしており、後代に挿入された『元史』の文言や太平記からの
影響などで潤色されていないため、世に出回っている『八幡愚童訓』よりもこの『八幡ノ蒙古記』
こそが最も信用に足る資料だと論じているらしい。

ただ、焼け落ちる八幡宮から御神体を運び出したとうの人物の実見記などといういかにもな話は、
却って出来過ぎていて信用出来ない、と戦前の何とかいう学者は橘守部の意見を退けているようだ。
(『伏敵編』の山田安栄だったか『元寇の新研究』の池内宏だったか)
(ただ、八幡神は周知の通り当時から軍神として非常に尊ばれた神様で、『八幡愚童訓』の文永・
 弘安の役の件は、岩清水八幡宮の社僧が八幡宮のつながりで博多での戦闘経過の情報を入手して
 挿入したようなので、圖書允定秀のような箱崎八幡宮の関係者が、体験をルポして残したとしても
 そんなに不思議とは個人的には思われないんだが・・)

46 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 00:38:31
>>39
俺は蒙古襲来絵詞「だけが」正しいとは一言も言ってないし
八幡愚童訓が間違ってるとも一言も言ってない。
ただ、お前が描かれた経緯も知らずに勝手な事言うから指摘したまでだバカ。

47 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 00:43:57
>>46
結局蒙古襲来絵詞を重視する理由が言えずに逃げ出すわけかw
馬鹿馬鹿言ってる割には碌に知識を持ってないと見えるw

48 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 01:09:01
それぞれの資料はそれぞれが個別の史料批判を受けた後に重要な資料とされているわけで
たとえば八幡愚童訓は宗教敵脚色部に、蒙古襲来絵詞は加筆部分に対して信頼性がない点はすでに指摘されてるわけで…

各資料ごとに史料批判された内容が違う以上、同じように重要とは言っても
このスレでよくでるような対立軸、すなわち「日本の武士と元軍の戦闘能力の差」のような話の場合
より信頼されているのが蒙古襲来絵詞だというだけだろうね
例えば「当時の元軍の服装はどうか?」というときに
史料批判の済んでいる蒙古襲来絵詞の後世の加筆部分を持ち出すのはナンセンスだ。
これは誰でもわかる。
ところがこれが武士が強かったかどうか?という話になったとき
こちらも史料批判が終わっているはずの八幡愚童訓の寺社の加護を強調するための脚色部を持ち出すことのナンセンスさがわからない人がたまにいるという話だろう。

49 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 02:10:08
蒙古襲来絵詞の件だが、加筆された部分以外の元軍兵士に関しては正確じゃなかったっけ?

50 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 03:49:11
>>49
今のところは信用に足るとされているね
史料批判によって信頼性がないとされた部分があぶりだされたとしても
そのほかの部分の信頼性は損なわれない

まあ同様に武士が元軍を蹴散らしてたらしいよ
という大まかな流れは否定できないわけだね

51 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 03:51:22
>>49
だから
>史料批判の済んでいる蒙古襲来絵詞の「後世の加筆部分を」持ち出すのはナンセンスだ。
とわざわざ書いたのさ

52 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 03:52:18
>>48
当時の文永の役の時の派遣軍の中核である女直軍や高麗軍などについての
図像資料がほとんどないので正確かなのかは実は良く分かっていない。むしろ、女直軍や
高麗軍など当時の東アジアにおけるモンゴル側の軍装や風俗を知る資料として貴重。

一応、吉川弘文堂の戦争の世界史シリーズの『蒙古襲来』で、著者の新井孝重先生が
『蒙古襲来絵詞』の兵士が、最近中央アジアで発見された同じ時期のモンゴル兵の
図像と良く一致するとか論じておられたが、比較材料としては近い時期にイルハン朝や
ジャライル朝などで描かれたミニアチュールに出て来る兵士と比較した方が美術史や
文化史的に沿ったやり方なので、ちと主張の方法論がとんちんかんな感じだったのが
残念だった(汗

ただ、『蒙古襲来絵詞』の兵士の多くは13世紀末から14世紀に中央アジアやイランで
描かれたモンゴル兵にちゃんと「似た雰囲気」なのは確か。(そのものとは言い難い)
あと、海底調査で引き上げられた兜とか現地に伝世する蒙古兵の武具とも大きくは違わないよう。

『蒙古襲来絵詞』に描かれている蒙古兵と、同時代にイルハン朝や元朝で描かれたモンゴル兵
の装備との美術史的、文化史的な本格的比較研究みたいなのは、まだやられていないのが実際。

(『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』で著者の佐藤鉄太郎という先生がこの三人は江戸時代に
 加筆されたものだとか論じていたけど、問題のひとつの兜の前立ては分からないけど、靴とか
 帯びとか、同じ人物が描いたらしい軍船に乗るモンゴル兵の格好や髪型を見ても、むしろ
 元朝時代に描かれたモンゴル人(風の)の風俗と良く似ているように感じるので、あれは
 江戸時代でなくて一旦完成した後に季長本人が支持して描き加えさせたんじゃないか、という
 反論の方が的を得ているように感じるのだが・・)

53 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 04:11:26
すまん、>>49だった・・orz

54 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 07:01:54
どこに蒙古襲来絵詞だけを重視する人がいるんだ?蒙古襲来絵詞を重視する人はもちろんいるが
それだけを重視する人なんてこのスレにはいないけどな。

55 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 08:56:22
>>13
>「八幡愚童記」を読む限り、文永の役でメタメタにやられていたのは日本の武士達です。ところが朝起きてみたら敵が消えていた・・と書かれていますから、
これは真実だと思われます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/八幡愚童訓
>本書の成立に社寺の祈祷に対する朝廷からの恩賞問題が関わっていた可能性が指摘されている。

不甲斐ない武士たちに代わって外敵を神威で追い払ったことにしないと恩賞も少ないからねw

56 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 09:26:29
高麗史や蒙古襲来絵詞、八幡愚童訓以外の史料は勝敗についてなんて書かれているのだろうか。
例えば勘仲記、鎌倉年代記、帝王編年記、八幡ノ蒙古記とか。


57 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 11:29:18
>>55
武士達に恩賞出す余裕なくなった幕府が
神社とグルになって、神風伝説吹聴したって話聞いた事がある。
安達泰盛が霜月騒動で死んでなければなあ。


>>56
帝王編年記と鎌倉年代記は、確か詳しい戦況については書いてなくて
ただ現地の武士達が追っ払ったよーぐらいしか書かれてなかったかと。
あと八幡蒙古記は八幡愚童訓の蒙古襲来に関する部分の記述じゃないの?

58 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 13:03:35
金方慶は元寇敗退後、財産没収されてなかったっけ?
なんか初老ぐらいになって現職復帰したらしいけど

59 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 13:19:55
威力偵察なのに背水の陣を敷けばなんとかなるとかトンチンカンなことを主張した罪だろうな。

60 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 14:30:12
何の有効情報も持ち帰れていないのに偵察w

61 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 15:09:04
いや、日本の武士は「やあやあ我こそは」と自己紹介するという
重要情報を知られてしまったではないか

62 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 15:24:36
勝敗はともかく、少なくとも向こう側の史料には
武士が自己紹介するだなんて一言も載ってないけどな

63 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 15:36:59
副司令官劉複亨が上陸初日で重症を負っていたのに予定通りの撤退w

64 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 17:14:30
>>61
誤情報に踊らされる元軍ってかw

65 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 17:15:20
>>63
予定通り重傷を負ったんだよきっと

66 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 17:27:53
「元史日本伝」『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、
予定通り官軍整わず、予定通り矢尽き、予定通り四境を虜掠して帰る』

67 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 20:16:24
高麗史日本伝の文永の役の記述で
「上陸して日本軍をブッ殺しまくったよー(^o^)/」と景気よく書いてるのに
そのすぐ後で将軍たちが撤退しようとか船を焼こうとか
いきなり切羽詰まったことを言い出すのが違和感

68 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 21:10:24
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」
高麗史表
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」



69 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 22:23:02
日本側が大敗したという史料はもしかして八幡愚童訓しかないの?

70 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 22:42:44
以前、高麗史の解釈について詳しいレスがあって
それだと武士側が敗北したことになってなかった?
まああの解釈も色々と疑問点は湧いたが

71 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 22:56:37
背水の陣で頑張って高麗が勝ったのかw

でも親玉の元が官軍整わず矢尽きと記録しているのに

72 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 23:49:04
>>70
そのスレ居なかったけど、これでしょ
「日本軍大敗伏屍如麻」だけを切り取り他は全部削除。
削除の根拠に元史を揚げてるが、
その元史も「官軍不整」を無視したうえ「又矢尽」を予定通りと超解釈したんでしょ。

73 :日本@名無史さん:2009/06/27(土) 10:07:57
じかに見てみたいな。
DAT化されてないスレでも構わないからスレ名を教えてくれ。

74 :日本@名無史さん:2009/06/27(土) 20:03:26
>>67
一応文永の役では
壱岐や対馬では確かに
元軍が一方的にホルホルしているし
九州到達後も松浦党の小規模な先発隊とかは蹴散らしてるので
ごくごく緒戦のコンタクトでは確かに元軍が勝ってる局面もあったと言っていいんだけど、
その勢いは続かず後続の武士団に当たるとあっさり敗退しちゃうんだよね

要するに一発いいのもらって鼻血ぐらいはでたかもしれんが
そのあとボコボコにしちゃったと



75 :日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:12:48
>>74
高麗史日本伝には
たしかその後続の武士団と戦って敗れたっていう記述がないんだよね
だから一方的に勝っていた元軍側がいきなり
援軍が来たら勝てないから退却だとか
船を焼いて決死の覚悟で迎え撃とうとか言い出すんだよ
お前ら圧勝だったんじゃないのかよと

76 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:32:54
>>75
>一方的に勝っていた
>圧勝だった

とか書いてないじゃないか。それが「日本軍大敗伏屍如麻」だけを切り取り他は全部削除なんだよ。
「戦艦触岩崖多敗」とあるように「敗」は損害に重心を置いて解釈すべき。
で損害の状況を直後の「伏屍如麻」と説明。
すぐ前の「殊死戦」と後の「何以加此」「終日戦及暮乃解」以下とも戦闘の勝敗とするよりも損害と解釈した方がしっくりくる。
まして「圧勝」「一方的に勝った」では「日本軍大敗」だけ切り抜いたうえ拡大解釈すぎ。

>後続の武士団と戦って敗れたっていう記述がないんだよね
そりゃそうだ最初から日本軍が突撃しての防戦だったからな
「日本軍大敗」を元の大勝と解釈すると辻褄があわないだろ。

あるいは、この「日本軍大敗」は戦術的勝敗を意味するのか?
日本軍の突撃を終日防ぎきるのが勝利条件。……て何しに来たんだ?

77 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 05:53:45
むしろこの時の松浦党の先駆けみたいなものこそ
威力偵察というんじゃ


78 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 06:26:13
原文がないと分かりづらいと思うので、一応『高麗史』忠烈王世家、同金方慶傳、
『高麗史節要』の当該部分をまたうpしてみる。

『高麗史』「巻二十八 世家二十八 忠烈王一」
「(元宗十五年)冬十月乙巳、都督使金方慶將中軍、朴之亮金忻知兵馬事、任ィ爲副使、金侁爲左軍使、
 韋得儒知兵馬事、孫世貞爲副使、金文庇爲右軍使、羅裕朴保知兵馬事、潘阜爲副使、號三翼軍。
 與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、
 戰艦九百餘艘、征日本。至一岐島、撃殺千餘級、分道以進、倭却走、伏屍如麻、及暮乃解。
 會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金侁溺死。
(中略)
 己亥、東征師還合浦。遣同樞密院事張鎰勞之。軍不還者無慮萬三千五百餘人。
(中略)
 (元宗十五年 十二月)庚午、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女。
(中略)
 忠烈王元年  丙子、東征元帥忽敦洪茶丘劉復亨北還。」


「(元宗十五年)冬十月乙巳(1274年月日)、都督使の金方慶は中軍を将(ひき)い、朴之亮・
 金忻を知兵馬事、任ィを副使と為し、金侁[イ+先]を左軍使と為し、韋得儒を知兵馬事、孫世貞を副使と為し、
 金文庇を右軍使と為し、羅裕・朴保を知兵馬事、潘阜を副使と為して、三翼軍と号す。元の都元帥の忽敦は、
右副元帥の洪茶丘と左副元帥の劉復亨と与(とも)に、蒙漢軍二萬五千と、我軍八千と、梢工・引海
 ・水手六千七百と、戰艦九百餘艘とを与(とも)に、日本を征す。一岐島に至り、千餘級を撃殺し、道を
 分かちて以て進み、倭は却走し、伏屍は麻の如く、暮に及び乃(すなわ)ち解く。會々(たまたま)夜に大いに風ふき雨ふる。戰艦、巖崖に觸れて多く敗る。金侁、溺死す。」
(中略)
 己亥(同年月日)、東征の師、合浦に還る。同樞密院事の張鎰を遣わし、之を勞う。軍の
 還らざる者、無慮萬三千五百餘人。
(中略)
 (元宗十五年 十二月)庚午(年月日)、侍中の金方慶等、師を還す。忽敦、俘する所の童男女二百人を
 以って、王及び公女(忠烈王と皇女・忽都魯掲里迷失)に獻ず。
(中略)
 忠烈王元年  丙子(年月日)、東征元帥の忽敦・洪茶丘・劉復亨・北還す。」

79 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 06:36:42
>>

『高麗史』「巻一百四 列伝十七 金方慶伝」
(前略)
「是年元宗薨、忠烈即位。方慶與茶丘單騎來陳慰、還到合浦、與都元帥忽敦及
 副元帥茶丘劉復亨閲戰艦。
 方慶將中軍、朴之亮金忻知兵馬事、任 爲副使、樞密院副使金侁爲左軍使、韋得儒知兵馬事、孫世貞爲副使、上将軍金文庇
 爲右軍使、羅裕朴保知兵馬事、潘阜爲副使、號三翼軍。忻即綬也。
 以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、
 留合浦、以待女眞軍。
 女眞後期。乃發船、入對馬島、撃殺甚衆。至一岐島、倭兵陣於岸上。之亮及方慶壻趙ハル逐之。倭請降、
 後來戰。茶丘與之亮怀、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當。倭兵突至衝中軍、長劍交左右。
 方慶如植不少却、拔一嗃矢、q聲大喝、倭辟易而走。之亮忻忭李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻。
 忽敦曰、「蒙人雖習戰、以何加此」、諸軍與戰、及暮乃解、
 方慶謂忽敦茶丘曰、「兵法『千里縣軍、其鋒不可當』、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰」。
 忽敦曰、「兵法『小敵之堅、大敵之擒』、策疲乏兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍」。
 復亨中流矢、先登舟。遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁墮水死。到合浦、以俘獲器仗、獻帝及王。
 王遣樞密副使張鎰慰諭、命方慶先還、加上柱國判御史臺事。」


80 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 06:49:03
>>78-79の続き。改行が滅茶苦茶になったorz

(「金方慶伝」の書き下し文。前略)
「是の年、元宗薨じ、忠烈[王]即位す。[金]方慶と[洪]茶丘と、單騎來りて陳慰し、還りて合浦に到り、
 都元帥の忽敦及び副元帥の茶丘・劉復亨と与(とも)に戰艦を閲す。方慶、中軍を将(ひき)い、
 朴之亮・金忻を知兵馬事、任ィ(にんがい)を副使と為し、樞密院副使の金ヒを左軍使と為し、韋得儒を知兵馬事、
 孫世貞を副使と為し、上将軍の金文庇を右軍使と為し、羅裕・朴保を知兵馬事、潘阜を副使と為して、
 三翼軍と号す。[金]忻、即ち綬をうく。蒙漢軍二萬五千と、我軍八千と、梢工・引海・水手六千七百と、
 戰艦九百餘艘を以て合浦に留め、以て女真軍を待つ。女真、期に後る。乃ち船を発し、対馬島に入りて、
 撃殺すること甚だ衆し。一岐島に至るに、倭兵は岸上に陣す。(朴)之亮及び方慶の壻の趙忭(ちょうべん)、之を逐う。
 倭、降らんことを請うも、後ちに来り戦う。(洪)茶丘と之亮・忭と千余級を撃殺し、舟を三郎浦に捨て、
 道を分ちて進み、殺す所過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く
 少しも却かず、一嗃矢を抜き、q声(れいせい)大喝するに、倭辟易して走る。之亮・(金)忻・忭・
 李唐公・金天禄・辛奕等力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。
 忽敦曰く「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。諸軍、与に戦え」と。
 暮に及びて、乃ち解く。
 方慶、忽敦・茶丘に謂いて曰く、「兵法に「千里の県軍、其の鋒当たるべからず」 とあり、我が師少なし
 と雖も、已に敵境に入れり。人は自ら戦いを為して、即ち孟明の焚船、淮陰の背水なり。請う、復た戦わん」と。
 忽敦、曰く、「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、
 完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
 (劉)復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引きて還る。会々(たまたま)、夜、大いに風雨す。
 戦艦、岩に触れて多く敗れ、(金)侁は水に墮ちて死す。合浦に到り、俘獲・器仗を以て、帝及び王に献ず。
 王、枢密副使の張鎰を遣わして慰諭し、方慶に命じて先還せしめ、
 上柱国・判御史台事を加う。」

81 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 07:00:05
>>78-80の続き。
そんなに長い文章でもないので、影印本での状態をそのまま書き出してみる。
『高麗史』の書き下し文は岩波文庫の『高麗史日本伝』(上・下)の武田幸男氏の
ものを転載したが、『高麗史節要』は自分には新たに書き下し文を付けるだけの
力量がないので、白文そのままうpしたが、そこら辺は寛恕願いたい。

『高麗史節要』「巻十九 」
「(元宗十五年十月)
 十一日船至一岐島倭兵陣於岸上朴之亮
 趙忭逐之倭請降而復戰茶丘與之亮忭撃
 殺千餘級捨舟三郎浦分道而進所殺過當
 倭兵突至衝中軍方慶拔一嗃矢q聲大喝

 倭辟易而走之亮忻忭李唐公金天禄申奕
 等殊死戰倭兵大敗伏屍如麻忽敦曰雖蒙
 人習戰以何加此諸軍終日戰及暮乃解方
 慶謂忽敦茶丘曰我兵雖少已入敵境人自
 為戰即孟明焚舟淮陰背水者也請復決戰
 忽敦曰小敵之堅大敵之擒策疲乏兵大敵
 非完計也而劉復亨中流矢先登舟故遂引
 兵還會夜大風雨戰艦觸巖崖多敗金ヒツ墮
 水死○」


82 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 07:03:17
末尾を訂正し損ねていたので再度うp(汗

>>78-80の続き。
そんなに長い文章でもないので、影印本での状態をそのまま書き出してみる。
『高麗史』の書き下し文は岩波文庫の『高麗史日本伝』(上・下)の武田幸男氏の
ものを転載したが、『高麗史節要』は自分には新たに書き下し文を付けるだけの
力量がないので、白文そのままうpしたが、そこら辺は寛恕願いたい。


『高麗史節要』「巻十九 」
「(元宗十五年十月)
 十一日船至一岐島倭兵陣於岸上朴之亮
 趙忭逐之倭請降而復戰茶丘與之亮忭撃
 殺千餘級捨舟三郎浦分道而進所殺過當
 倭兵突至衝中軍方慶拔一嗃矢q聲大喝

 倭辟易而走之亮忻忭李唐公金天禄申奕
 等殊死戰倭兵大敗伏屍如麻忽敦曰雖蒙
 人習戰以何加此諸軍終日戰及暮乃解方
 慶謂忽敦茶丘曰我兵雖少已入敵境人自
 為戰即孟明焚舟淮陰背水者也請復決戰
 忽敦曰小敵之堅大敵之擒策疲乏兵大敵
 非完計也而劉復亨中流矢先登舟故遂引
 兵還會夜大風雨戰艦觸巖崖多敗金忭墮
 水死○」


83 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 10:42:57
よく元寇での蒙古兵の集団戦術が日本の戦術に影響を与えたと言いますが、
本当かいな?と思う。

文永の役が1274年、弘安の役が1281年。
楠正成が赤坂城で挙兵したのが1331年。
応仁の乱が1467年。

楠正成が集団戦術の影響を受けたとしても、それまでに半世紀経っている。
足軽が活躍(?)し、戦国時代の始まりとなった応仁の乱は元寇から一世紀以上経っている。
なにより、元寇はなんだかんだと言いながら、結局ほとんど九州の御家人だけで撃退してしまったので
全国に影響を与えるほどのインパクトがあったのかどうか・・

84 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 18:01:32
>>77
御意

85 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 20:51:19
>>83
全くのデタラメ。
そもそもあまり戦術変わってない。

86 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 21:45:43
元寇の前に、
モンゴルは樺太に遠征してるんですよね。
何で教科書に載ってないんだろう。

87 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 23:59:13
>>82
詳しい史料サンクス。高麗の記述だと、前半は元軍が勝利して後半は雲行きが怪しくなってきたんで
退却云々って感じか。この記述を読む限りは、武士が負けていたことになるね。実際、この記述が
一番実際に近いんじゃないかな。元軍は、所詮で勝利したにしろ、左副司令官の劉復亨が重症を負ったり
兵も疲弊している上、勝ったのは所詮九州の武士相手が主体だったわけだし。それも、壊滅したわけではなく
水城や大宰府に続々と集結。さらに、後から関東から押し寄せてくる武士の大軍相手にとてもじゃないが、戦
える状態じゃなかったんだろうね。こう考えれば、元の撤退は不自然でもないし、元が天候を無視してまで強行退却
をした挙句暴風雨にあって大損害にあった理由にもなる。まあ、戦闘は元が6:4で優勢で、戦争は武士の勝利って感じ
かな文永は。


88 :87:2009/06/29(月) 00:05:29
それに、威力偵察ってのは、82の記述を読む限りでは、そのような様子は微塵もない上に
元が樺太を攻めた際、威力偵察は一切せず、いきなり本番で樺太を降伏させたのを見ると、
全く説得力のない説だと思う。

89 :87:2009/06/29(月) 00:06:50
この記述を読む限りは→この記述を読む限りでは

訂正

90 :日本@名無史さん:2009/06/29(月) 00:18:56
優勢なのに天候を無視して海上に逃げる?

91 :87:2009/06/29(月) 00:40:36
>>90
レスしてからいろいろ考えてみたけど、確かによく考えるとおかしい。上で挙げられてる
高麗史表の「「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
の記述はなんなんだろう?高麗は、勝利したと主張したり敗戦したと主張したり一貫性がないね。
それに、蒙古襲来絵詞や鎌倉年代記、帝王編年記や 金剛仏子叡尊感身学正記など、八幡愚童訓以外の
日本の史料だと日本が勝利したことになってる。なんで互いに負けたという史料があったり
互いに勝利したという史料が混在してるんだろう。もうわけわからん

92 :日本@名無史さん:2009/06/29(月) 12:37:50
もしかして壱岐ですら負けてるのか?

撤退した後に対馬・壱岐に駐留しなかった理由はこれか?

93 :日本@名無史さん:2009/06/29(月) 13:32:14
壱岐、対馬なんて小部隊しか駐留できないから守り辛いんじゃね
艦隊置いとくのも大変そうだし

94 :日本@名無史さん:2009/06/29(月) 22:20:28
>>92
さすがに壱岐では勝ってるだろう。
多くても400人ぐらいの武士しかいなかったんだし。





いや、約二百年後に殆ど同じ条件で対馬攻めて
這々の体で逃げ帰った国があるけどさあw

95 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:52:38
>>94
そのさらに400年後に
対馬を占領しようとした
国もある


96 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 11:28:09
>至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人

壱岐に行ったけど負けちゃってチョン軍一万三千五百人以上シボンヌって意味ですか?

97 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 17:12:53
>>96
高麗史書いた奴が勘違いしたんじゃね?どう見ても壱岐は占領されてる

98 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 17:58:35
確かにな。
朝鮮人の地理は自国と大中華だけなんだろ。

99 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 18:39:14
九州でフルボッコだった情報が間違って伝わったのかな?

100 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:14:24
また倭奴どもがピーピーわめいてんのかよww
大高麗軍にフルボッコされたくせによく言うぜww
さんざん論破されてもネトウヨの妄想は止まらないってかww

101 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:36:25
これってスレを朝鮮叩きにもっていこうとしてるんだろうな

102 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:54:34
てつはうって、実際のところどの程度の効果があったの?

103 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:08:30
鷹島の海底調査の結果によると、引き上げられた「てつはう」のうち
素材は鉄や銅等の金属製や陶器製の容器に入れられていて、なかには
割れていたり中身の腐食もほとんどなくて、火薬もちゃんと詰まった
ままの状態のものがいくつか見付かっているそうだ。

それらをCTだったかX線解析だったかで中身の状態を調べた所、火薬と
いっしょに鉄の破片っぽい金属製の影が多く見られ、これらが爆発すると
破片がそこらじゅうに飛び散り、かなりの殺傷力を持ったものだったろう
ということらしい。

鷹島の沈没船は恐らく弘安の役の時のものだろうから、これらと同じものが
実際に文永の役の時にも使われたかは良く分からないけど、『蒙古襲来絵詞』や
『八幡愚童訓』に爆発して軍馬が驚いて大変だったと出て来るけど、多分実際には
驚いた以上に爆発に巻き込まれたら人馬にもかなり死傷者を出しただろうと。

『蒙古襲来絵詞』で「てつはう」の攻撃を受けている竹崎季長とその馬が
「てつはう」の爆発で血を流している風に描かれているけど、これは矢傷よりは
「てつはう」の爆発で飛び散った破片を受けて馬が血を流している場面を描いて
いるんじゃないか、というコメントが解析された「てつはう」についての
報告書で付けられていたように記憶している。

104 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:37:35
>>96-97
前スレとたしか前々スレでも問題になっていたけど、『高麗史』の表は
文永の役の部分に限らず、『高麗史』本文と比較して、杜撰と言うかいい加減な省略の仕方とかを
結構やっていて、表単独で資料とするのは問題があるんじゃないか、ということがちょっと出ていた
と思う。

> 十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人
これも『高麗史』の表の本文では句読点が全然ないので、どこら辺で文を切るかが問題になっていた。

『高麗史』の忠烈王世家や金方慶伝などの記述に沿った感じにするならば、

「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本至壹岐。戰敗。軍不還者萬三千五百餘人。」

という感じになるんじゃないか、とその時は議論されていたと思う。派遣軍が壱岐どころかさらに
南下して博多周辺まで行ったことは確実だけど、李朝での日本の地理についての知識は15世紀頃に
描かれた地図を見てもかなり心許ないので、壱岐以南の日本の地理が当時の『高麗史』編纂に関わった
史官たちに理解出来ていたか怪しいのでは、という話題にもなっていたと思う。

もしくは『高麗史』の表の編集を担当した人物が、本文での記述を半端に読んで「壹岐」までしか
行っていないと勘違いしたのかも知れない、という見解もで出ていた。

いずれにしても『高麗史』の表は『高麗史』本文に比べると正確性に問題があるので、資料として
使うには難点が多過ぎる、ということだったと思う。

105 :日本@名無史さん:2009/07/01(水) 07:58:26
でも、てつはうが効果があったとは、戦った本人たちが書いてないほどだから、あんまり効果がなかったんじゃないかな。重装備の武士には効果薄そうなんだけど。
まあ、馬には効果があったのかもれないが。効果がそれなりにあったんなら、文禄・慶長の役の李氏朝鮮のように「日本の鉄砲は脅威だ」みたいなこと書いててもおかし
くないと思うんだけど。

106 :105:2009/07/01(水) 08:10:37
戦った本人達ってのは武士と元、高麗軍のことね。

107 :日本@名無史さん:2009/07/01(水) 13:58:36
>103
ソースないの?

108 :日本@名無史さん:2009/07/01(水) 21:22:21
>ソース
つ『鷹島海底遺物を中心とした引き上げ遺物の保存と活用』
 (事業報告書 平成18年度)文化財保存支援機構、2007年。

これの終わりくらいの記事に引き上げた「てつはう」の調査報告が写真とかカラーで載っていたと思う。
割れた「てつはう」の中身もカラーで載っていたが、中身は黄色と言うか赤と言うかオレンジっぽい
土の固まりみたいな感じで、それまで漠然と黒色火薬が詰まったイメージだったけど、そのイメージと
実物は大分違っていて驚いた。

考古学関係をやっている大学の図書館か国会図書館にでも行かないと見られないかも知れないのが難点だが・・

109 :日本@名無史さん:2009/07/02(木) 01:30:18
河野水軍の子孫です。あの時、竹崎君と仲良くなって絵巻物に載れて良かったです。

110 :日本@名無史さん:2009/07/02(木) 01:42:40
元寇と戦った竹崎季長ってどんな人だったの?

111 :日本@名無史さん:2009/07/02(木) 02:18:28
>>110
無足御家人の典型

112 :日本@名無史さん:2009/07/02(木) 04:11:28
元寇時の恩賞として
くまもと海東郷の地頭になったひと

113 :日本@名無史さん:2009/07/02(木) 12:24:28
鎌倉まで行って恩賞を望むとはすごい
肥後もっこすだね

114 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 00:57:38
つまり恩賞として地頭に補任されるまで無足御家人だったって事だよね
三井氏の縁戚で無足御家人でボロボロの軍装で馳せ参じた季長の暮らしぶりが想像できん

115 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 02:38:38
軍装に関しては
当時の武装はわりと二代三代使うもんだし
修理して大事に使うのが普通だお

116 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 19:05:33
兜がなくて頭に被った脛当ても先祖伝来なのかな?

117 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 19:29:36
>>114
客が来たとき大切な鉢植えで暖を取るしかないような生活じゃねw

118 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 03:09:06
>>116
急いで船に乗り込んだんで忘れたって書いてあるやんw

こっちではちゃんとかぶってるしw
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html

119 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 16:30:46
色々とドジっ娘な竹崎タン萌え

120 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 17:09:02
嘘をついて船に載せてもらった季長
すべては鎌倉へ手柄が注進されるため

121 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:27:01
さすが九州男児ですな!

122 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 13:17:22
兜を忘れてもバンバン元軍殺しまくっちゃう竹崎タン

123 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 14:57:10
>>105
たぶんほとんど使われてないんだとおもう
そういうのってカタパルトで放り投げるもんで人間が手で投げることはほぼあり得ないからね

残念ながらカタパルトを設置できるようないい条件の陣を元は確保できてなかった
せっかく上陸できてもすぐに船に逃げ込んだり
ほとんど海上をさまよってるだけとかじゃあ…

海中から見つかったってのも要するに船から下ろすこともなくおじゃんになったってことでしょ

124 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 02:46:54
一応弘安の役の時の鷹島では
砦を建築して一週間ぐらいは降伏せず頑張ったらしいが
このときは台風の後だしな
やっぱつかえないか

125 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 22:30:43
>>123
スリングみたいな携帯できる道具で飛ばした可能性は?
重すぎるかな?

126 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:45:25
一応自分の知識の範囲ではスリングって拳大以下の石を投げるもんだと思う。
したがってたぶん無理。

てつはうは写真からみると砲丸投げの鉄球よりふたまわりぐらい大きいからなぁ
推定で直径14〜15センチぐらいか?

無理やり投げるとこをシュミレートしてみると…
いまハンマー投げの世界記録って7.2kgの鉄球使って80メートルちょいだったっけ?
実際は爆発する植木鉢なんかあんなにぐるぐる回って、
かつ血管ぶち切れるほど必死な全力で投げてられないとおもうけど
そこをなんとか投げてみたとして

火薬入りの陶器製で鉄球ほど重くはないといえども
飛距離はたかが知れてるんじゃないかな?命中精度も。
当然馬に乗って突撃しながら騎射する武士の射程圏内だろう
てつはうの到達圏内に入るまで、武士が2射、到達圏内に入った武士が
モンゴルの陣にコンタクトするまで1射すると仮定すると
はたして逃げずに留まっていられるモンゴル兵士がどれぐらいいるかで変わるかな

やはり威嚇にしか使えなさそうな

127 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 15:12:36
村上水軍のほうろく火矢みたいな使い方してたんじゃね?

128 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 16:14:32
というより焙烙火矢と同じようなものでは?
あれは竹とか木の弾力を利用した投具で遠くに飛ばしたとか。

129 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 16:24:58
鎌倉時代にモンゴルが攻めてきたように弥生時代末期にユダヤ人が攻めてきて日本を建国したんですよ

130 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 17:43:03
いいから別スレ逝けよ

131 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 21:08:00
竹崎季長は本当にあんなにカッコよかったの?

132 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 21:19:09
頭に脛当てを被った季長は別格のかっこよさだよな。

133 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 22:04:46
あの朝鮮人の首を取ってる場面ね!

134 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 00:16:05
「竹崎センパイ兜忘れたんすか?俺の使ってくださいよ!」
「いやいいよ。お前こないだ結婚したばっかだろ?俺に兜化したせいで死なれちゃ奥さんになんてわびていいかわかんねーもん」
「センパイ優しすぎっす!俺しびれたっす!」

135 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 00:28:31
竹ちゃん昔からやさしかったもんね

136 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 19:47:51
いいかげん、教科書に後世の加筆部分ばかり切抜きして、いかにも日本軍が苦戦
してるように印象操作するのはやめてほしいな。逃げ惑ってる元軍や竹崎以外の武士
も載せろよ。

137 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 01:51:53
洗脳

138 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:04:56
>>136
ただ絵としてみた場合あの場面のインパクトって絵詞のなかで群を抜いてるよね
あそこに蒙古兵を加筆した絵師のセンスは評価できる

139 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 09:17:24
余白の美しさ

140 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 08:05:28
>>138
まああそこ以外は武士が元軍おっかけまわしてる絵しかないからなあ

141 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 10:10:37
鎌倉の安達城介泰盛館での場面も好きだな


142 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 10:24:35
俺は騎馬武者達が集団で矢を放っているところが好きだなあ

143 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 10:29:07
騎射してるのは白石六郎たち?

大矢野の戦船もかっこいい

144 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 10:37:43
そう、これの右端
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm

145 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 12:02:38
大鎧の武士の騎馬軍団の絵は迫力あるなあ。

146 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 12:33:07
絵を見て思うんだが、元軍は軽装の上に短弓で、武士は重装備で長弓だが
元軍にとってはものすごく相性悪い相手じゃね?

147 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 13:27:21
ボストン美術館の保元平治ノ乱の絵巻の鎧武者の方がすごくね?

148 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 17:08:41
>>147
あれは絵巻の最高峰だし
肥後の一御家人がポケットマネーで書かせた絵と比較するのは
季長がかわいそうだw

149 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:19:42
元軍つーても中身はほとんど朝鮮人だし、装備もほとんど半島で調達したんでしょ
粗末で当たり前

150 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:20:12
なんかループの展開に入ってきたな。

151 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 19:59:55
>>149
軍編成としては「ほとんど朝鮮」といえるほど朝鮮人は多くないよ
過半数は超えてない

まあどっちにしろ高麗軍は武士に真っ先にたたきのめされてるので
比率の問題以外はたいして変わらんが

152 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 20:07:11
元軍でそれなりに戦闘力があったのは、女真族と契丹族で、ぐっと劣って華北の漢族だろう。

153 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 22:21:26
女真や蒙古人なら勝利できたと?

154 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:07:38
竹崎季長絵詞は自信の功名物語だけど
元寇の後に悲劇的に討ち滅んだ恩人の安達・少弐へのレクイエムでもあるよね

155 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:59:34
季長が俺はこんなに奮戦したぞ!と自己主張のつもりで描かせた自画像が
現代ではなぜか、苦戦する武士として紹介されているところなんて悲劇以外の
何者でもない

156 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 01:32:40
敵の矢を受けて血を吹きながらつんのめる馬に跨がってる季長の姿は苦戦しながらも私は功名しましたって感じだよな
あの絵の姿の銅像を博多湾の砂浜に作ってほしいくらいだよ

157 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 03:47:55
>>153
史実よりは善戦しただろうけど
史実と同じように単純な力押し戦法で来る限り
おおよその結果は変わらないんじゃないかな?

一回目も二回目もろくなリサーチもせず単純に攻め込んできて返り討ちにあってるわけだし
弘安の役にしても元軍側には「どうやら日本は海岸線に防塁を築いているらしい」程度の情報すらなかったわけだから
、正確には情報を得ていたかどうかは不明だが、対策は全くとられてない。
意気揚々と博多湾に乗り込んでみてがく然とする元軍の顔が目に浮かぶようだよ。
結果、弓と刀、射撃戦でも白兵戦でも敗北。

158 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 13:39:14
一回目は威力偵察というなら、その偵察の成果が生きていないのはなぜですか?

159 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 17:39:52
威力偵察ではないからです

160 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 20:02:17
たしかに竹崎季長の像福岡にほしいね
できれば絵のまんま負傷した馬に乗って弓を片手にさらに突撃してる像がいいな
百道浜あたりがよいかな?


161 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 20:05:59
頭に脛当てかぶって蒙古兵を殺戮している季長サンの銅像を立てましょう。

162 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 04:34:56
残念ながら船戦での描写では
兜なしで敵将の首をかき切る図しか残ってないのよねw

163 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 07:50:59
一方幕府は
元軍の規模やいつ頃攻めてくるかまで読みがばっちり的中してるんだよね

164 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 15:15:46
実は幕府は対馬や壱岐や博多の住民に
事前に避難勧告したって聞いたけどマジ?

165 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 15:43:30
いついつに攻めてくるので四月までに軍装を整えよという命令は幕府がだしとるが

平民への避難勧告は知らんな
平民は知ったこっちゃないっていう感じだったと思うが

166 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 19:41:10
威力偵察説の謎
@威力偵察のはずの元軍がなぜか、天候を見計らいもせず強行退却を敢行し海の藻屑に消えたのはなぜ?
A威力偵察のはずの元軍がなぜか、水城や大宰府を一目も見ることなく強行退却したのはなぜ?
Bなぜ威力偵察なら、一日で退却しなくてはならないの?
Cなぜ威力偵察なら、威力偵察だと史書に書かなかったの?
D威力偵察のはずの元軍が、なんで全く弘安の役に何も活かせてないの?
E威力偵察のはずの元軍が、なんで背水の陣をしくだのトンチンカンなやりとりしてるの?
F威力偵察のはずの元軍が、なぜ官軍整わずだの矢が尽きただの言い訳しなくてはならないの?
G威力偵察のはずの元軍が、日本と同じ島攻めで樺太のアイヌには威力偵察を行わなかったのはなぜ?


167 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 21:32:47
最初から太宰府落とす気マンマンじゃね?


ttp://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/index.html

同月、中書省は元皇帝に日本侵略の計画について奏上した
(以下、『元高麗紀事』耽羅至元九年十一月十五日条より現代語訳)。

「これより先、日本・耽羅のことについて枢密院官と打ち合わせました。
 南国より日本を経由して来れる耽羅人三名を召し、地図を書かせました。彼らは申しました、

『日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』
(上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう)

168 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:32:44
ほー
こりゃ面白い

169 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 19:30:25
逆に威力偵察説を実証する文献ってある?

170 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 04:38:02
ちょうど1281年の今頃、元軍は海上で空腹にさいなまれながら逃走中か

171 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 12:19:01
とりあえず日本は愚か、悪いってことにしときゃそれで良いみたいなのは
通じなくなってきてるなあ

172 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 13:07:28
wikiだと人海戦術でそういう印象操作された編集がまかり通ってるけどね

173 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 18:06:38
ついでに言えば農具が見つかったって事以外に
棄民説主張する根拠って無いよな

174 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 18:27:28
どっちも大敗のいいわけだから…

175 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 19:21:34
威力偵察や棄民説唱える奴って、こういう根拠のないことは高らかに主張するけど
戦地で戦った日本側の武士が、ほんの一部だけであり、まだまだ兵力に余裕があった
ことは無視するよな。どんな説唱えて元軍弁護しても、日本側には余裕があったという
事実は消せない

176 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 14:54:44
でも、農具が見つかった=棄民というのも普通はつながらないよなw

177 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 08:45:32
和弓って結構優秀じゃね?

米カリフォルニア大学のサクストン・ポープ教授による同大人類学博物館所蔵の
世界各地の弓の実射テストによる結果でも、トルコ弓の飛距離が257mおよび250m
であったのに対し、朝鮮弓そのものではないものの同系統の東アジアの角弓である
中国弓(清朝)が91.4m、モンゴル弓(タタール族)が82.3mおよび102.4mと同じ角弓
であってもトルコ弓に著しく劣る。(なお、同実験における和弓は142.6m)
wikiより

東アジアの中では優秀な方だな。和弓はモンゴル弓に劣っていたなんて
こと主張する奴がいるのはなぜだ?

178 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 14:37:14
あれだな。子供のころ体格のいいお坊っちゃまをみんなでイジっていたが。本当は喧嘩がめちゃめちゃ強いと分かって
イジっていた方の雑魚が現実逃避するため、あらゆる方向から否定に走る様ににている。

179 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 15:29:25
参ったな。携帯新しくしたけど、やっぱり元寇が一発変換されないや。
倭冦は一発。この国はどうなってる?どうしてこうなった!!

180 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 15:38:14
俺の携帯もその仕様だ。

181 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 17:19:17
>>177
トルコ弓って凄いんだね
イギリスのロングボウの飛距離はどれくらいかなあ?
これも結構ありそうだが

182 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 17:36:44
イギリスのロングボウとクロスボウの比較では、ロングボウの曲射とクロスボウの直射を比べてロングボウの方が飛ぶ
と結論付けていると何かで読んだな。あれも結構伝説に彩られた武器なのかもしれない。

183 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 21:58:41
金正日とか金日成も一発変換だったりするんだよね

184 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 21:59:42
盧泰愚とかも一発変換www

185 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:49:43
そのわりに森総理は変換できんな
最近だからかな

186 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:51:47
盧武鉉も一発変換wwww

187 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:33:52
>>177
自虐史観を触れ回るブサヨク学者。
元寇にかんしては、欧米の研究の方が、従来から鎌倉武士の善戦を評価してる。
最近は、BSやケーブルテレビでディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネル
見れるから、欧米の研究での考え方に触れる機会も多くなり、日本ブサヨク学者
の異常性が目に付くようになってきている。

188 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 01:48:02
根拠に挙げてる元の矢は二町も飛んだってのの「二町」は誤写らしいけど、どうなんだろ
『八幡ノ蒙古記』読むと「蒙古人か矢は二時はかりいる間に守護代か方には二人手負ふ」で確かに「二時」となってる。

189 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 08:40:28
つまり飛距離や威力じゃなくて連射性に優れてたって事だろ

190 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 11:31:08
まあ短弓だし連射性で劣ってたら
それこそ取り柄なしになるからな

191 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 11:51:35
読んでるんだろう? 好き放題言われてるぞ
なんかレス付けろよ

192 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 12:36:34
重装備の武士相手に、威力の無い連射性のみの弓で勝負を挑むとは橋頭堡築けないわけだ。

193 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 12:45:38
レス付けろよ?

レス付るってなに?

194 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:15:48
また見えない敵と戦ってる奴がいるのか

195 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:48:48
>>188
日本側の不利とするのはことごとく八幡愚童訓出典だなw

196 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 20:02:42
まあ射程で日本に勝ってたら
弘安の役で防塁に阻まれることもなかったろうな

防塁は海岸から約50メートル内陸に作られているわけで

その上から武士が矢を射かける=海上の元軍艦隊まで矢が届く

こいつに阻まれて上陸できない=防塁の上の武士に船上から矢が届かないor届いても武士を排除できない





197 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 21:34:56
なぜ、海底から「てつはう」なるものがでてきたか、これでわかったね。
武士の長い射程で近寄ることもできず、2ヶ月近く船に積みっぱなしだったんだろうね。


198 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 21:38:35
そーいや矢に毒が塗ってあったそうだが、どんな種類の毒だったんだろね
単にしびれるようなヤツなんかな?
それとも致死性のヤツだったんかな?

199 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 21:52:14
地の利
日本軍>元軍
鎧の防御力
日本軍>元軍
矢の射程
日本軍>元軍

日本軍>元軍

元軍>日本軍

200 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 22:08:37
>>198
トリカブトに含まれているアコニチンじゃないのか。毒矢に塗る毒としては
かなりポピュラーなもの。

201 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 22:09:08
>>198
毒矢は八幡愚童訓にしか記載がないらしい。もし実際使ったとしたら、モンゴル兵は毒矢使わないから
高麗軍とかが使用したかもしれない。大陸で使われていた毒矢は、キンポウゲ科の植物を使っていたらしい


202 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 23:18:04
幕府って軍事政権ですよね
今までの歴史を思えばまた幕府が開かれるかもしれませんよね

203 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 23:50:28
また源氏か?うちは橘なんだがな・・・

204 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 13:30:24
季長の脛当てうんぬんのくだりはなんなの?
その画像はあるの??

205 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 14:59:18
>>204
あるよ。教科書とか載ってるでしょ。良く載せられてるのは、季長主従三騎と二従卒が
突撃してる「弓箭の道 先を以て賞とす ただ駆けよと喚く」シークエンスと
元の軍船にたかまさ一党と烏帽子姿のまま乗り移って、高麗兵と思われる首を分捕りしてシーン。
このうち後者の絵を見れば、頭に巻いていた脛当てが外れて、落ちていく一瞬が描かれている。

206 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 15:07:21
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e12.htm
この絵の右かな。

207 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 15:14:18
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_b.html
まだ日本側は一騎打ち云々とか信じてるのがいるんだなw

208 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 15:17:35
本文見つけた。
http://www.ucalgary.ca/~xyang/mokoshurai/Gkotoba12.htm

>すねあてをはずしてむすびあはせてかぶとにせしとき、

209 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 19:16:35
中学生の時、教科書か資料集だかに載ってた奮戦する季長の姿を見てかっこよすぎる!とか思ってたなぁ

210 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 22:38:50
ドラマの内容はどうあれ、大河ドラマ北条時宗のOPいいな。威容を誇る元軍によく武士は2度も勝てたと思うよ
http://www.youtube.com/watch?v=iSoE2OK1dGQ

211 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:38:07
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/476.html
まあ、日本という国は20年後に消えてなくなるわけだが。

212 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:49:25
発言当時から数えて20年だから2015年だね。中国が建造中の空母艦隊相手には
神風も無力だろう。

213 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 04:21:01
むしろ「中華人民共和国」の内部分裂のほうが進行しているようだが

214 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:07:10
で、弘安の役は武士の圧勝で文永の役はどうなのよ?武士が大宰府に引き上げたのはなぜだ?
日が暮れたからか?負けたからか?元軍が勝っていたとして、元軍はなぜ追撃しなかったんだ?

215 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 14:43:05
武士が苦戦してた、だから元軍は優勢だったって単純にならないよね
お互い苦戦しててもおかしくないし

216 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 19:40:25
>>214
迎撃に出た武士団を後退させることには成功したが、そこで戦力が消耗したため作戦を中止したってことでいいんじゃね。

217 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 23:43:34
文永の役の戦闘を整理すると、こんな感じか。

元軍:左副司令官劉複亨が負傷し、橋頭堡を築けなかった上に、天候無視の謎の強行退却を敢行。
   暴風雨に見舞われ右副司令官の金方慶の息子が溺死。元史日本伝によると、撤退理由は矢がつき
   官軍整わなかったから。高麗史では、劉複亨が負傷したから。
   
日本軍:元軍と戦闘し、大宰府に撤退。ただし、元軍は追撃せず。八幡愚童訓によると、日本軍が
    完膚なきまで敗退している。高麗史でも日本軍を破ったことになってるいるが、高麗史表
    では元軍が敗北したことになってる。



218 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 23:50:16
八幡愚童訓て、いつ誰が何の目的で編纂したものなの?

219 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 00:25:57
元寇についてお勧めの本を教えてください。内容は、中立であるのをお願いします。

220 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 00:31:04
>>217
この時代って一戦終わったら矢は回収して再利用すると思うんだけど
なんで元軍は一会戦で矢が尽きてるの?異次元にでも飛んでったの?

221 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 00:45:57
そもそも、文永の役ってただの局地戦じゃないの?在郷の武士が勝手に戦ってただけで。
高麗史なんかでも、武士が続々と集結してることに危機を抱いて撤退するように決したと
書いてるし。実際は、在郷の武士だけでもきついのに、敵の大軍が来たらもう無理ってこと
で退却したんじゃないかな。


222 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 04:18:50
>>220
何度も指摘されてることだけど
敗走している元軍に現場まで戻って矢を回収するなんてことできるとおもう?

もう敵が舞い戻ってこないという保証もない敵地で
そんな暇なこと誰もせんでしょう。
逆にそれができる位なら、船まで逃げかえる必要もないし
橋頭保ぐらい確保できたろう

そもそも元寇時、元軍や朝鮮軍が矢を回収していたという記録はあるの?

>>214
そもそも武士は大宰府に引き上げてない
水城で夕飯食ってた。
百道浜でも赤坂でも基本射撃戦の応酬のみしかしていないようなので
日が暮れたら戦争にならんのだろう。
おたがい夜に白兵戦の泥仕合をするのは避けたんだろうな。


223 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 04:32:23
>>217
日本軍の勝敗の食い違いはむしろ史実通りだと思う

たとえば松浦党は敗北しているが(その恨みを晴らすかのように弘安では大活躍だったが)
そのあと遭遇した菊池次郎武房軍によって元軍は撃退され撤退している。
いくつかに分かれて進軍する元軍のどの部隊と、いつ戦ったか?で
日本軍の勝敗が違って書かれているのは当然といえる。






224 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 04:59:36
>>196

どこまでも続く防塁をみて心が折れちゃったのかもな

225 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 06:47:48
別の地点に上陸することは考えなかったんだろうか。

226 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 07:54:46
記述の違いはどうあれ、橋頭堡を築けなかった時点で元軍の敗北であることは間違いないと思うが。
ポイントは、どのように元軍と日本軍が戦闘を解さしめたか。水城に日が暮れて日本軍が帰ったなら
それは、どう穿った見方しても日本軍が負けたことにはならない。また、重装備で射程の長い
和弓を持つ武士に、軽装で短弓の元軍が果たしてどれだけ善戦ができたのか。
また、元軍が勝利していたなら、本家本元の元の史料になぜ、撤退の言い訳しか書いていないのだろうか。
また、なぜあれほど急いで退却しなければ、ならなかったのか?
もう一つ、よく博多の放棄という言い方する人がいるが、日本軍に町を守るという発想があったのか。また、元軍が
戦闘に勝利して博多にいたのか、それとも一旦両軍解して、夜に焼き討ちを行っただけなのか。

227 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 09:26:28
>>225
平戸に上陸し、八方ふさがりに

228 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 14:46:16
元軍の甲冑
http://kccn.konan-u.ac.jp/law-school/online/cases/photo/fukuoka/fukuoka_mouko_00.JPG
日本軍の甲冑
http://www.kjclub.com/UploadFile/exc_board_28/2009/02/20/123514194421.jpg


229 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 02:08:48
保存状態が良くないがゆえに
かえって和甲冑が鉄鎧なんだってことを再認識させる写真だね
漆がはがれてにぶいくろがね色に光ってる

230 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 02:23:28
>>228
同じ甲冑と言えども
将官と兵卒で比べても意味が無いのでは?
当時の兵制はどうだったのだろう?
ここの人って蒙古襲来絵詞を信じ杉な気がす。

蒙古軍は海浜上陸作戦だから、母船に積んだ小舟から砂浜に乗り上げだと思われ
当然に小舟に不安定な馬は乗せないだろう。
歩兵の密集隊形になると思うが、絵詞のように少数の騎馬武者で突っ込んだら槍の餌食になるだけだろう。
その前に、砂浜の後ろは湿地帯が多いはずだ?馬など用を足さない。

野戦での遭遇戦は、局地的に多数を占める側が勝つはずだ?
つまり、低姿勢で物陰を走り回ったり、待ち伏せ攻撃をしたりして、奇襲攻撃こそ全てであり、
馬に乗っていたら隠蔽性に欠けて、遠くから矢の集中攻撃を受けるだけ。

直接的な上陸阻止作戦なら、後方から弓矢の援護射撃の下
大楯を並べて2人ぐらいに持たせ、その後方に切り込み隊を忍ばせて接近し
波打ち際に近づいたら楯の影から飛び出して斬り合いをすると思う。
槍は穂先を揃えないと効果が薄いので、近接戦になると、リーチの長い日本刀が有利でないかと?
絵詞のように、楯を並べ、ドラを叩いている隊列に、騎乗で矢を射かけても効果は薄い。
楯の隙間から射かける弓で、敵に近づく前に馬がやられるのが関の山

楯の隊列には、より密集した楯の隊列でぶつかるのが戦法だろう?
ここでは和弓の射程距離の優位性を自慢しているが、実戦ではそれ程効果は無いとおもわれ?
遠矢の打撃力は、お互いが武装しているのでそれ程無い。
射程に差があれば、楯などで詰める事ができるし、遭遇戦では戦闘行軍速度からして射程の差は一瞬でしかない。
実際の戦闘はどのように行われたのだろう?
主な打撃力は、歩行武士が率いる、百姓が軽武装した薙刀部隊の突進ではなかったかと?

その昔、軍事オタで赤軍派に憧れていたが、勇気が無くて入れず、遠くから石を投げてたヘタレ
老兵だが、軍歴wはそれなりにあるおw

231 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 05:11:29
日本語が変だぞこのおっさん

232 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 07:50:28
学者先生は『元史』『高麗史』を無視して『八幡愚童訓』一辺倒じゃないかw

233 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 10:08:59
>>232
ただ、だらだらと散漫な長文を書くのではなく
要旨をまとめて読み手に伝わりやすい文章を書くように努めましょう。
再提出。

234 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 10:10:56
すまん
×>>232
>>230

235 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 11:37:47
>>230
モンゴル軍が馬に乗ってる描写なんて
蒙古襲来絵詞にも八幡愚童訓にも高麗史にも出てくるんだが
このオッサンはどうやらそれらを読んでいないようだ


236 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 11:43:22
老兵は去るのみ

237 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 19:40:59
今福岡がすごいことになってるね
早く博多湾に竹崎季長の像を作るべきだ

238 :日本@名無史さん:2009/07/25(土) 19:53:51
>>236
ワロタw

239 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 12:16:53
「蒙古襲来絵詞」にしても、「後三年合戦絵詞」にしても、鎌倉時代以前の
絵巻関連の武士達は大鎧を7〜8割、身に纏っているけど、これは誇張?
逆に、大河ドラマだとかだと、15人に一人くらいしか大鎧着てないけど。

240 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 13:26:27
なぜ資料より創作のほうを信じるのか謎だ

241 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 14:49:18
>>240
信じてはいない。大鎧のレプリカはかなり高いから、あんな風になっていると思う。
絵詞のように大鎧の武者だらけだと、228で挙げられている元軍の軍装では
矢戦にしろ、白兵戦にしろ全く太刀打ちできなかったろうとは思う。
ただ、武士があれほど、高そうな大鎧をどれだけ装備していたのか、そこに疑問が
あるのは事実。

242 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 16:37:40
まだ鉄が豊富にある時代だしな

243 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 19:40:47
まだ大規模なたたら製鉄が無いから
鉄の生産量はそれほどでも無いはず

244 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 21:38:54
大鎧は皮製です。
武士はその辺のお百姓ではなく
まがりなりにも地主か元地主で財産はある。
そういう軍事貴族が主力だったのが鎌倉時代。

戦国時代に入ると動員力があがり、
主力は大勢の足軽に移り、軍事貴族は士官になった。

245 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 21:39:45
前に書いたように、絵詞のような戦闘はしていないっちゅうの。
騎馬に付随する徒の従卒が何人もいるが、絵詞ではそれが省かれているだけ。
オマエラ戦闘を知らなさすぎ。
戦闘というのはだな、まず隠れる事から始まるんだよ。
堂々と名乗りを上げて一騎打というのは、対峙、膠着状態の時だけだっちゅうの。
遮蔽物の無い平原の会戦ならともかく、日本で騎馬部隊だけで突出したら
物陰に隠れている歩兵の熊手で、馬から引落とされてなぶり殺しだお。
近代戦においても、市街地やジャングルでは、歩兵を付随せずに戦車だけではずえったいに突っ込まない。
楯を並べ、槍の穂先を揃えた歩兵の密集隊形に、騎馬部隊が突っ込んでも勝てないと書いたのに信じないな。

マルクスは歴史的限界から、一部の間違いはある。
しかし、上部構造(政治や文化)は、下部構造(物を生産する人や仕組)が決定するという、
経済決定主義は間違っていない。
軍の装備は如何なる時代でも、その生産力に依拠するよ。
かなりアバウトだが、今の価格で考えるとだな
大鎧から太刀に弓矢に馬、馬具その他武装経費をを一人千万円として、米を3.5万円/石とするとだな
(余談:大化の改新で米1石を生産する面積を1反としたらしいが、千三百余年の間で、化学肥料や農薬、
品種改良の結果で米の生産効率は2.8培程増えた。他の分野に比べると農業が如何に進歩しないか判るだろう)

軍装費を生産高の1%としても、1万石で35人しか完全武装できない。
沖積平野を開墾して田圃にしたのはずっと後だから、鎌倉期と江戸の大名石高と一緒にしたらあかんよ。

戦国時代だが、一万石当たりの兵力は250人〜300人だった。
鎌倉期はそれより少ないとして150〜200人くらいか?
当時の日本では、一族郎党の主立った者だけが騎乗して完全武装する生産力しか無かったの。
その他多くが軽装甲の歩兵だったわけ。

こちらから見る元軍は前線の下級兵士が殆どだから、軽装だったから当たり前
そして、元軍は上陸戦だから、重装でくる分けがない、オマエラ本当に実戦を知らなさすぎ。

246 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 21:45:06
ゴチャゴチャ長々不必要な文章を書いたみたいだけど、
どれもこれも当時の資料すらろくに参考にしないお前の推測でしかないわなwww

247 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 21:52:31
>>217
元軍:海岸部で抵抗した松浦党百名ほどを軽々粉砕し、
内陸に進んで丘を占領し、部隊をそれぞれ配置するも、
水城から出撃してきた日本軍諸部隊との、
丘を巡る中小規模の戦闘にことごとく敗北し、
博多に腹いせに放火して船のそばに帰る。
空気嫁ないチョンをだまらせて決戦を避けて撤退。

日本軍:水城に軍勢を集合させ迎撃体制をとるも、
試しに仕掛けてみたら意外に弱かったので
積極的に出撃して丘陵部の拠点を奪還しまくる。
ただし開けた海岸部への突入は慎重に避け、
大宰府に戻って体勢を整える。
翌日偵察してみたら元軍は帰っていた。

元が帰らなかったら海岸で決戦が生じていたと思われる。
元軍はチョンの言うとおり背水の陣となる。

248 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 21:58:02
>>245
鎌倉時代の武士は重装弓騎兵だから、
物陰に歩兵を隠しても
騎兵は機動して歩兵が露出した方向から射殺するなり、
接近して切り殺すなり好きに始末できる。

戦国時代のように長槍歩兵部隊があれば
騎兵の機動を阻止できるが、
鎌倉時代にはそんなものはない。

249 :日本@名無史さん:2009/07/26(日) 22:06:27
戦ってる相手が見えない

250 :日本@名無史さん:2009/07/27(月) 01:26:34
蒙古襲来絵巻は徒士描かれてるじゃん

つまりその場所に居ればちゃんと描かれている。
そもそも鎌倉時代の騎射騎兵突撃では
騎乗武士に注目したら徒士なんて描けない
どれだけ視点を引かなきゃならんのだw
突撃場面で両者を一枚の絵にしたけりゃ地図の上に点打つような構図になるぞ

当時の徒士は戦闘もこなすにこなすが、基本は騎乗の武士が主戦力で
騎射→接近しての白兵に突入した頃ようやく戦場におっつき加勢する存在

251 :日本@名無史さん:2009/07/27(月) 01:31:12
長期の休みになるたびに馬鹿が増える
あらためて日教組による学生への洗脳の恐ろしさを実感するね

252 :日本@名無史さん:2009/07/27(月) 02:01:45
>>247
いいまとめだけど
一応日本軍は大宰府ではなく水城で夜を明かしたんじゃないかな

253 :日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:00:57
オマエラって誰だろ
>>228のことかな

254 :日本@名無史さん:2009/07/27(月) 22:20:54
何故海の帝国と呼ばれていたかわかる方いらっしゃいますか?

255 :日本@名無史さん:2009/07/28(火) 10:54:02
>>244
総鉄小札の大鎧もあるよ

256 :日本@名無史さん:2009/07/28(火) 13:41:36
>>251
3月頃の酷さはこんなもんじゃなかったぞw

257 :日本@名無史さん:2009/07/28(火) 15:16:52
>>250
ああ連中はそういうのわかったうえで
覆い隠したいんだよ

258 :日本@名無史さん:2009/07/28(火) 15:46:16
蒙古襲来絵詞をみると
和弓によって発射された矢が元軍の盾を貫通してるな

259 :日本@名無史さん:2009/07/28(火) 20:32:53
>>257
最近読んだのも「戦闘の様子は『八幡愚童訓』に詳しい」となぜか侵攻した側の史料は触れずwww

260 :日本@名無史さん:2009/07/28(火) 20:43:00
ああ、なんか見当違いのレスしちゃってるな。忘れてくれw

ちなみに読んだ本。
http://www.amazon.co.jp/神風の武士像―蒙古合戦の真実-歴史文化ライブラリー-関-幸彦/dp/4642055207

261 :日本@名無史さん:2009/07/28(火) 23:02:15
上陸できずに2ヶ月も海上を彷徨っていたら、そりゃ時化にも遭うだろうし。
それを神風って言われたら、武士団がかわいそうだよ。

262 :日本@名無史さん:2009/07/29(水) 00:28:35
>>218
>>45の前半くらいにだいたい言われていることは書いておいたが、
現存する『八幡愚童訓』の写本のうち、岩清水八幡宮の菊大路家に伝わった『八幡愚童記』、
通称「菊大路本」が鎌倉時代末頃の書写と見られていて、これと京大所蔵の『八幡愚童記』と
併せて日本思想大系シリーズの『寺社縁起』収録の『八幡愚童訓』の底本となった。
(菊大路本は完本ではなかったため、菊大路本と近い関係にあり、江戸時代中頃に書写された
菊大路家に伝わっていたもう一つの写本、京大蔵本と校合された)
福岡の箱崎八幡宮に伝わる筑紫家所蔵の通称「筑紫本」と呼ばれるものが、室町時代初期から
中期頃に書写されたもののようで、これらが現存最古の部類らしい。

他に書写年代が分っている一番古い写本は、東大寺の上生院に伝わる『八幡愚童記』
(通称、東大寺本)が奥書きに「文明十二年庚子七月九日」(1480年8月12日)とあり、
他にも愛媛県八幡浜市の八幡神社に伝わる『八幡大菩薩愚童記』(通称、八幡浜本/文明本)で
奥書きに「文明拾五年癸卯」(1483年)に書写されたことが書かれている。

八幡浜本は五葉道全という人が昭和44年に翻刻、影印、解説を収めた『八幡大菩薩愚童記 
愛媛の文学資料叢書5』という本を出版していて、筑紫本も影印本の復刻が昭和56年に出されて
いるんだが、所蔵している図書館が限られているため、なかなか見ることが出来ないのが難点。
『八幡ノ蒙古記』や東大寺上生院本などの翻刻は『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』に
収録されているが、この本も完全に古文書の文献研究の本なので置いている図書館が少なく、
これまた難点。

日本思想大系シリーズの方と群書類従本は、大きめの公立図書館で結構置いているので見易い。
一応、国史大辞典や日本史事典の八幡愚童訓の項目に解説が載っているが、全体の概要については
群書解題の八幡愚童訓の項目が詳しい。



263 :日本@名無史さん:2009/07/29(水) 08:05:19
この長文は
いつだれが?まではわかってるが目的はわからない
って解釈すればいいの?

264 :日本@名無史さん:2009/07/29(水) 09:11:07
また、箱崎八幡による奇瑞や神威の顕現によって度々蒙古軍が撃退されたことが述べられている。さらに、叡尊の祈祷による霊験の成果が強調されており、
本書の成立に社寺の祈祷に対する朝廷からの恩賞問題が関わっていた可能性が指摘されている。(群書類従 第一輯 神祇部 巻十三 収録)

265 :日本@名無史さん:2009/07/29(水) 18:07:33
ここの掲示板のニュース板・軍事板では中韓を少し批判?しただけで、
まるで親に対するかのように反論してくる人間が複数、常駐中。

http://006.shanbara.jp/military/html/mmm/
http://006.shanbara.jp/military/html/9ca9d46681cb826967147ee18543b953/

中国共産党
「日本解放第二期工作要綱」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/S47/4708/470801china.html

266 :日本@名無史さん:2009/07/29(水) 18:12:12
>>262
すまんこれ使って三行で頼む

いつ:
だれが:
なんのために:

267 :日本@名無史さん:2009/07/30(木) 00:23:55

お前、仕切りたがりのアホだな。

268 :日本@名無史さん:2009/07/30(木) 14:27:11
単純にわかりにくいからじゃね

269 :日本@名無史さん:2009/07/30(木) 21:18:08
雑魚扱いの南宋人高麗人かわいそう

270 :日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:31:44
百道浜で泳いできたぜ

271 :日本@名無史さん:2009/07/31(金) 17:20:39
書いてる本人にすらよくわかってないのにまとめられるわけがないだろう

272 :日本@名無史さん:2009/07/31(金) 18:31:39
>>262
史料を沢山読んでるのは誠に結構だが、あんた文章まとめる能力無さ過ぎ。
会社でプレゼンやったりするときも苦労してるクチだろ?w

273 :日本@名無史さん:2009/08/01(土) 02:15:57
>>272横レス。俺は>>262ではないが・・・Orz。会社のプレゼンって資料集めすぎるとまとまらんし短くすると5分持たないOrzOrzOrz

274 :日本@名無史さん:2009/08/01(土) 06:58:43
>>272
まとまっていなくても資料出す厨
資料も出さず、文句だけ言う厨
お前が一番みっともない。

275 :日本@名無史さん:2009/08/01(土) 12:00:06
今、菊池などの鎮西御家人になりきって地行浜より能古島を望んでます

276 :日本@名無史さん:2009/08/01(土) 12:12:48
>>274
お前がまとめてやればいい
みんなで助け合うって素敵やん

277 :日本@名無史さん:2009/08/01(土) 16:26:58
>>266
いつ:だれが:なんのために、なら>>45>>264じゃね
>>262の2行目以降は写本の成立と原本の見つけ易さの情報提供みたい

>(菊大路本は完本ではなかったため、菊大路本と近い関係にあり、江戸時代中頃に書写された菊大路家に伝わっていたもう一つの写本、京大蔵本と校合された)

この情報提供とかは矢の射程(二町か二時か)に関わるのかな

278 :日本@名無史さん:2009/08/01(土) 17:55:12
まとめは苦手です
部屋の片づけもできないタイプです

279 :日本@名無史さん:2009/08/02(日) 13:28:02
ちょうどいまごろかなモンゴル軍が鷹島へ打ち上げられたのは

280 :日本@名無史さん:2009/08/06(木) 05:22:27
>>275
おつかれ

281 :日本@名無史さん:2009/08/08(土) 17:34:57
そろそろ残敵追討が始まってる頃だな

282 :日本@名無史さん:2009/08/08(土) 21:02:17
鎌倉武士も出頭しろよ

283 :日本@名無史さん:2009/08/08(土) 21:03:24
モンゴル人高麗人の首切って恩賞もらおうぜ!

284 :日本@名無史さん:2009/08/08(土) 22:17:57
何かの本で、『元史』では皆殺しにされたとある
高麗兵の一部が助命された上に幕府の命で
高麗に送還されて、高麗王が幕府に
感謝の念を示す書状を送った

という話を読んだのだが、どうしても出典が思い出せない。
これは史実なの?

285 :日本@名無史さん:2009/08/08(土) 22:55:47
高麗じゃなくて南宋の兵士はちゃんと捕虜として扱ったとかじゃなかった?

286 :日本@名無史さん:2009/08/08(土) 22:56:40
旧南宋人ね。

287 :日本@名無史さん:2009/08/08(土) 23:30:56
いまさっき飛行機で福岡に帰省してきたんだが福岡空港へ着陸体勢に入ってから
博多湾周辺にイカ釣り漁船かなんかの船団の光がすごい見えて蒙古かと思ったぜ

288 :日本@名無史さん:2009/08/09(日) 14:00:15
それは漁船ではなく蒙古だよ

289 :日本@名無史さん:2009/08/09(日) 17:02:23
曖昧模糊

290 :日本@名無史さん:2009/08/11(火) 13:55:39
×元寇
○日本征伐

素直に受け入れ降伏しとけば先進的な大陸文化を取り入れ
発展が300年は早まったのに・・・バカな侵略戦争もしなくても
済んだかもしれない、こんなだから日本はダメなんだ

291 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 00:56:09
http://up2.viploader.net/pic/src/viploader1127326.jpg

292 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 01:01:09
でも実際征伐されちゃったのは高麗軍という

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html

293 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 11:47:40
先進的な大陸文化を受け入れたかの国のお話

水車を何百年もかけて結局、普及出来なかった国のお話。
農業技術は中国と日本から何度も移入しているのだがいつまでたっても追いつかなかった。

1429 世宗11年12月3日 日本の水車が凄いと報告。
1430 世宗12年9月27日 水車を造ろうとする
1431 世宗13年5月17日 中国も日本も水車の利を得ているが我が国(朝鮮)にはそれがない。
1431 世宗13年11月18日 日本と中国の水車の研究の記述がちらほら。
1431 世宗13年12月25日 水車導入を試みる。
1451 文宗元年11月18日 どうやら水車の導入に失敗。
1488 成宗19年6月24年 水車導入の試みがあります(そして音沙汰無し・・・。)
1502 燕山君8年3月4日 水車導入の試みが書かれています(そして音沙汰無し・・・。)
1546 明宗元年2月1日 水車導入の試みが書かれています。琉球(沖縄)と中国で教わった福建式の水車の様です。
 ここから100年間水車の記述が有りません。消滅したようです。
1650 孝宗元年5月15日 水車導入の試み
 そして30年記述無し。
1679 肅宗5年3月3日 水車を造らせたと記述。 そして70年記述無し。
1740 英祖16年4月5日 水車など無くなりました。『孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方, 今無見存者』
1740 英祖16年11月20日 また水車を造らせたと記述。一向に普及する様子が有りません。
1764 1763-1764年 の朝鮮通信使の「日東壮遊歌」に(淀城の水汲み水車の感想)「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」と記述有り。
1795 正祖19年2月18日 水車之制について盛んに出てくる。普及している感じはしない。
1811 純祖11年3月30日 ここの記述でも水車なんか必要なのか?と書かれており全く普及していない事が読み取れる。

294 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 15:50:25
砂漠に水をまくかのようだ

295 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 17:58:44
先進文化ねえ・・・
モンゴル帝国がかつて支配した地域の現在はというと
モンゴルは屈強な力士と馬ぐらいしかいない田舎だし
イスラム圏はかつての文明はどこへやらな蛮族クオリティだし
中国はコイツらホントに諸子百家を生んだ民族かよと思いたくなるような阿Qぶりだし
韓国は日本が隣りになかったらソマリアみたいになってたんじゃない?なトンスルぶりだし
旧共産圏のヨーロッパはもうただただ悲惨だし

296 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 18:37:57
学ぶ意欲、能力がある国って素晴らしいな

297 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 08:22:46
さすが有史以来近代まで規格化した車輪が作れなかった民族

298 :日本@名無史さん:2009/08/14(金) 11:30:46
この夏、鷹島肥前大橋が開通した鷹島に行ってきました。

兵衛次郎様と対馬小太郎様のお墓に手を合わせてきました。

ところで、地元の人から
兵衛次郎(兄)と小太郎(弟)が兄弟だと聞いたのですが、本当ですか。

文献的な裏付けを御存知の方は教えてください。



299 :日本@名無史さん:2009/08/15(土) 01:53:48
鷹島って何これ珍百景でみたな

300 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 09:25:06
>>293
日本征伐時と壬申倭乱の時に日本の侵略によって国土に多大な
被害をこうむっているからね、日帝36年の暗黒時代と合わせて豊穣な
文化と多数の人々が失われたせい、もう少し申し訳なさそうにしたら?

301 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 12:11:13
なかった物を失われたとかいうのはやめようぜ。水車の件にしても
結局文化を育む土壌がないから、何度根付かせようとしても失敗するんだよ。

302 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 13:28:26
特殊急襲部隊とは名ばかりのSAT
1 ハリ虎3等兵(09/08/08(土)01:31 ID:or/gxA86c)
拳銃持っただけのシャブ中のオッサンに殺されるとかもう目もあてられない
日本の指揮官は保身しか考えてないクズだからしょうがないけどね

20 ハリ虎3等兵 (09/08/13(木)11:07 ID:oFTQuOYAw)
1に賛成。シャブオヤジに一発必中で瞬殺されてやんの。的になるためどんだけお金かけて訓練してんだ。
映画「宣戦布告」見たときは「こんな情けなくねえだろ」って思ってたら、
マジでそれを地でいく雑魚ぶりでしたね。
で、最後は犯人に「お願い」して出て来てもらってお礼まで言ってやんの。
かあっこいい!
http://www.harikonotora.net/military/read/1225/

なぜか中韓在日を擁護する連中が多い掲示板。
過去に、IDを変え忘れて自作自演がばれた左翼あり。

303 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 13:38:22
>>300
君は>>293が読めなかったの?

304 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 13:42:32
支那や元のほうが朝鮮にとってはよほど多大な被害を与えてると思うが…
女も財宝も全部吸い取られてみじめな属国生活を永劫に繰り返しているわけだから



305 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 20:15:08
日章旗切り刻み民主マーク!鳩山氏「神聖なマーク、きちんとつくるべき」
http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090817/elc0908171755028-n1.htm

どの道日本は大陸の植民地になる運命です。国旗と同じように国民も国土も弄ばれて地球上から消滅します。

306 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 04:59:22
国書の和訳DQN風味
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」
    至元三年八月 日


まさにDQN

307 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 09:26:53
おとなしくブチのめされときゃよかったんだよ、変に「神風」とかで
辛勝を味わったから数百年後にも勘違いして神風特攻隊とかやっちゃったんだよ

308 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 12:40:30
ギャハハハハギャハハハハ 民主に都合の
悪いことは一切メディアは流しませんよww

日本は政権交代によって解体されるのだから
国旗ぐらい解体されても大した問題はないw

くだらないことで騒ぐ揚げ足とりのウザイ
糞倭猿どもは今すぐこの日本から出てけ!

309 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:06:39
元寇スレでこんな下衆な書き込みをしていること自体が
元寇は武士圧勝の事実に反論できない腹いせからくるものであり
完全なる敗北宣言であることに>>307−308はまだ気が付いていなかったのでした

310 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 19:30:39
まあいいんじゃない。ここでネトウヨが吠えても民主圧勝→日本解体は
確定ですからwwwwwwwwwwwwwwwww

311 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 21:45:29
こんどは神風は吹きませんからwwwwwwww

312 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:00:50
武士圧勝とかwホルホルにもほどがあるなw

313 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 10:34:35
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、

「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません」

という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。

明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」


314 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 10:39:00
>>311
二〜三か月も上陸させてもらえず
海を逃げ回ってれば台風にあうぐらい当たり前



315 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 14:30:51
ここが学問板ということすら認識できないバカがいると聞いて

316 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:03:40
まあ実際は中共の解体のほうが早そうではある

317 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:13:31
>>313
だが、その返事を書いた懐良親王は、そのあと明に臣下の礼をとって、
日本国王に冊封されたわけだが。

318 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:38:22
それ別に明にビビったんじゃないよ。

ヒント:南北朝の争いはまだまだ続いてました。

319 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 17:50:31
だが、臣下の礼をとったことに変わりはないな。

320 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:28:32
やはり日本は征服されるべきだったな
この勝利がきっかけで日本がアジアを見下すようになり始めたんだろうし

321 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:17:17
んな事言われたってなあ・・・
文句があるなら一回目は一日戦っただけで撤退を決めて(高麗史)、二回目は
蛮族相手に二ヶ月も上陸させてもらえなかった情けない元軍に言ってくれ。

もちろん、その中にいた高麗軍にもね。

322 :高麗兵&蒙古兵:2009/08/19(水) 21:05:10
どーけやチョッパリ!
(対馬・壱岐で略奪して)ヨッシャー!

323 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 22:09:51
>>320
実際に宋滅亡以降の中華は日本にとって
敬意を払うに値しないぐらいのレベルに墜ちたし
チョンに至っては端からアウトオブ眼中

324 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:06:33
>>319
貿易するのに必要だったからな
前だって取引先のえらいさんに頭ぐらい下げるだろw

で、そのえらいさんがお前の会社そのものを乗っ取ろうとしてきたとき
進んで差し出したのが朝鮮

丁重にお断りしたうえ力づくで来るならいつでもお相手しますよと言い返す能力と自信があったのが日本(>>313

325 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 03:48:02
ウスラサヨク工作員が来るようになると
ああ夏休みだなぁっておもうよね

326 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 08:24:37
>>320
渡来人のおかげで二足歩行ができるようになった連中ごときが生意気だよね

327 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 23:14:27
八幡さまもびっくり!今度の元寇での異国の尖兵には
八幡神社神主もまざってるぜ。

http://www.election.ne.jp/TakanoMamoru/profile.html

328 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 02:48:59
ハト左ブレのせいでミンスボロボロだからって
この工作はひどいな

329 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 05:31:26
これがそんなに気に入らなかった?

水車を何百年もかけて結局、普及出来なかった国のお話。
農業技術は中国と日本から何度も移入しているのだがいつまでたっても追いつかなかった。

1429 世宗11年12月3日 日本の水車が凄いと報告。
1430 世宗12年9月27日 水車を造ろうとする
1431 世宗13年5月17日 中国も日本も水車の利を得ているが我が国(朝鮮)にはそれがない。
1431 世宗13年11月18日 日本と中国の水車の研究の記述がちらほら。
1431 世宗13年12月25日 水車導入を試みる。
1451 文宗元年11月18日 どうやら水車の導入に失敗。
1488 成宗19年6月24年 水車導入の試みがあります(そして音沙汰無し・・・。)
1502 燕山君8年3月4日 水車導入の試みが書かれています(そして音沙汰無し・・・。)
1546 明宗元年2月1日 水車導入の試みが書かれています。琉球(沖縄)と中国で教わった福建式の水車の様です。
 ここから100年間水車の記述が有りません。消滅したようです。
1650 孝宗元年5月15日 水車導入の試み
 そして30年記述無し。
1679 肅宗5年3月3日 水車を造らせたと記述。 そして70年記述無し。
1740 英祖16年4月5日 水車など無くなりました。『孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方, 今無見存者』
1740 英祖16年11月20日 また水車を造らせたと記述。一向に普及する様子が有りません。
1764 1763-1764年 の朝鮮通信使の「日東壮遊歌」に(淀城の水汲み水車の感想)「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」と記述有り。
1795 正祖19年2月18日 水車之制について盛んに出てくる。普及している感じはしない。
1811 純祖11年3月30日 ここの記述でも水車なんか必要なのか?と書かれており全く普及していない事が読み取れる。

330 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:59:00
昔が駄目駄目だったからって過去を捏造してどうなる。
ブラジルは20世紀前半は豊かだったが没落した。
そして今はブリックスの一つだ。
日本だって敗戦から立ち上がって先進国になった。

どうして事実を認めず前に進まないんだ?

331 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 21:23:29
>>320
アジアは半島ではないんだぞ。

332 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 03:30:19
まあどう話題逸らしをしようが
元寇でろくに上陸もできずに逃げ帰った事実は変わらない

333 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:35:21
一度平野で当時世界最強らしかったモンゴル騎兵と
どんぱちやり合いたかったってのはあるな
南宋兵や高麗兵は弱すぎるんだぜ

334 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:43:10
>>306

面白い。
日本側の対応もヨロ

335 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:21:07
平野で最強だからと言って上陸戦でも無敵とは限らない

336 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:26:47
正々堂々大陸の平原でモンゴル騎兵と勝負しろや!

337 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 16:29:14
まあ赤坂とかは平野といっていいんじゃないかなぁ


338 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 06:22:35
当時の船では馬匹を大量輸送はムリポ。
敏感な馬を長時間狭い船室に閉じこめられない。
暴れて自傷するだけ。
確か量産型の船は兵員20人が乗船でなかったかな?
そんな小舟だと、2匹程度がやっとじゃないかな?

クレーンが無いので、上陸用の小舟に乗せるのも暴れて大変。
競馬の出走ゲートに入れるのも苦労するんだぞw
将官用の乗馬がせいぜいで、騎馬隊編成はとてもムリだろう。

339 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 13:06:35
今日の博多湾はなかなか浪が高い

340 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 16:10:36
騎兵の海上輸送なんて十字軍でもやってるだろ

341 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:37:44
なんかモンゴルの馬を「サラブレッドみたいな大型馬」だと思ってる人がいるようだ。

342 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:31:18
>>341
日本在来馬と同系統のポニーですね。

343 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:54:10
もし日本が朝鮮に攻め入り元寇時の元軍と同じように敗北してたら…
どんな評価されるだろうw

344 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 01:59:27
5月21日 対馬襲われる
5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北

345 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 01:13:50
戚継光 「紀効新書・長刀解」
此は日本の武士が我が国に攻めてきた時初めてわかったことである。
彼らは舞うような歩法を用い、前方への突進力は光が閃くようで我ら明の兵は気を奪われるのみだった。
日本人はよく躍動し、一度動き出せば丈あまり、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間合でも攻撃される。
我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される。
これは彼らの武器が鋭利であり、さらに両手で振れるため強力で重い刀を自在に用いているためである。
こちらもただやられてばかりではない。
武士には遠くからの鳥銃が有効である。
だが武士は全く臆せず攻めたり刺したりできる至近まで突っ込んでくる
兼ねてよりこの銃手が弾を込める間に時間を取られて接近を許すことが多い
その勢いを止められない
武士の刀捌きは軽くて長く
接近を許した後の我が軍の銃手の動きは鈍重すぎる。
われわれの剣は銃を捨てて即座に対応するための有効な武器ではないのだ。
それゆえ我々も日本式の長い刀を備えるべきだ。


346 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 14:14:56
>>338
十字軍遠征では、騎馬運搬用の舷側開閉船を使ってたというし、
波揺れに対処するために馬の体を皮ひもで吊ってたそうだし、
大量の馬匹を海上輸送することは、やっぱ相当困難なことだっただろな

347 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:30:38
つまり困難だからやらなかったとはいえないわけだ

348 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:35:45
まあもっとも大元になってからは
どこの戦争でも元は歩兵中心なので
「騎馬を大量導入してれば日本に負けなかったホルホル」とはならないんだけどね

349 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:48:45
そもそも渡海云々言ったって三百年後の唐入りじゃ一瞬で明の国境まで来たしね

350 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 00:00:37
一瞬ではない。
一ヶ月だ。

まあ、国内の戦と比べりゃ一瞬だが。

351 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 01:08:04
一瞬で到達(二十日)したのは漢城まで

352 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 02:44:39
オマエラの頭は
海に対しては元軍より劣るなあw
地中海と東シナ海や玄界灘を一緒にするなよw
戦闘用のガレー船なんて、水夫と戦闘員を合わせると200以上乗っていた。
40人も乗っていなかった、元軍の量産船と比べてもなあ。

大型のジャンク船にしても中国船の構造は平底で竜骨がなく、外圧に耐えるために
中は水密隔壁で仕切られて、馬の運送には適してないよ。
それに、小さくても馬は馬、暴れれば手を付けられないぞ。

353 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 08:52:48
元軍が馬を持って来なかったと言いたいのか?

354 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 11:45:46
持ってきてたら勝ってたと仰りたいそうですよw

355 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 13:00:56
元のジャンク船は全長40メートルだろうと420トンあろうと
40人も乗れず馬の輸送も出来ない素敵仕様
朱印船貿易で日本から馬を輸出していたのも当然後世の捏造

356 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 14:24:20
>>355
お前アホかw
艦隊決戦をやるんじゃないぞ
420トンのジャンクでどうやって敵前上陸するんだよw
大型船は指揮官クラスが乗るの
大量に建造したのは乗船戦闘員25人程の船だぞ

上陸用舟艇と同じ平底だから、恐らく
干潮時に浅瀬に突っ込んできて、ドブンドブンと海に飛び込んで上陸
潮が満ちてきたら離礁

元軍の鎧が綿製なのも、一つは上陸作戦だからじゃないかな?
布製鎧と云ってバカにしてはいけない、その頃の日本では綿が生産できなかったから、
鉄砲が無い当時としては、軽くて動きやすいハイテク鎧?
綿は軍需物資として必需品なので戦国時代まで明から輸入していた。
綿が国内需要を満たすのは江戸時代に入ってから。

そしてまた、上陸作戦で馬は用を為さない
限られた輸送力では、馬より兵を優先
将校や偵察部隊の騎馬だけで十分。

それに当時の沖積平野の多くは沼沢地であり、砂州の内側では馬は動きが取れない。
幅広い陣形を取れなければ、運動量が武器である騎馬隊の意味がない。
朝鮮征伐でも、山谷沼沢の多い半島では明軍の騎馬軍が全く用を為さなかった。

バカウヨは何でも中国や朝鮮を叩くだけのアホ
日本が日本たり得たのは、島国であった他に、支配階級が、百姓出身の武士であった事。
これにより儒教のクビキから解放され、支配階級に労働や武を尊重する文化が育まれてきたから。
その意味でも、公家文化の京を離れ、鎌倉に幕府を起こした頼朝は立派。



357 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 17:05:52
>>355
>>352
文永の役の記録で、蒙古兵の馬術の巧みさを誉めているぞ。
この誉められた蒙古兵は何に乗っていたのか?

358 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 17:09:06
>>357
四つん這いにさせた朝鮮人

359 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 17:42:19
>>356
アホかお前は。
日中戦争の日本軍やアメリカ海兵隊じゃあるまいし。
元軍には敵前上陸の装備なんてねーよ。
だから弘安の役では上陸を諦めたんだよ。
脳内妄想ではなく史実を見ろ。

360 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 18:40:24
>>358
ビールを鼻の穴から噴出した・・・

361 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 19:39:59
ほんとウヨは神風を強調したり、旧南宋人、高麗人を雑魚扱いしたりしてウザイわ

362 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 19:40:06
モンゴルが日本に攻めてきて鎌倉時代が滅んだように、古代、ユダヤ人が日本に攻めてきて弥生時代が滅んで、ユダヤ人による古墳時代が始まったんですよ

363 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 22:06:11
>>357
何を寝ぼけているの!
戦術と戦略の違いも知らないアホだな。
将校や偵察部隊、連絡兵は騎馬に決まってるだろう。
主力は歩兵であったと云ってるの。
その歩兵の集団戦術に、一騎駆けしても苦戦したの。
>>359
お前こそアホだろ。
壱岐、対馬がやられているので、博多湾は奇襲攻撃ではない。
前敵が薄いか濃いかは別にして、基本的には敵前上陸なのだよ。
安全な大型船ではなく、小型船で渡洋攻撃を仕掛けるのが「敵前上陸装備」なのだぜw

旧日本軍は残念ながら本格的な敵前上陸をする能力は無かったよ。
まさか呉松(ウースン)を云いたいのではないだろうねw
対英米では、バターン半島の攻撃で一度やって包囲殲滅され失敗。
別の所に無血上陸し、狭い水道を渡る渡河戦に変えて成功している。
シンガポール攻略と同じね。

 お前は脳内妄想をする能力もないだろw

364 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 22:21:37
>>363
>将校や偵察部隊、連絡兵は騎馬に決まってるだろう。

それがわかっているなら馬を船で運べないなどと書くな。
こう言えば「大量に運べない」という意味だと言うだろうがな。

365 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 23:29:07
こら、集団戦術に一騎駆けとか言ってる子相手にしちゃダメでしょ

366 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 23:44:35
誰も騎兵が主力だなんて言ってないのに
こいつ誰と戦ってるんだ?

367 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 23:46:51
>>364
歩兵部隊であろうとも行軍にあたっては、前方に騎馬の索敵部隊を配置するの!。
また、司令官の近くには騎馬部隊が控えており、ここと云うときには突出させ
負けたときには、一緒に逃げるw
戦闘の常識も知らないのに噛みつくなよ。

>>333の仮想に対しての反論から始まってるの!

368 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 23:53:16
>>357
乗馬を良くする云々は例の『八幡愚童訓』の文永の役での博多上陸の場面で出て来る文言だが、

「(もし、よする者あれは、中に包て引退て、左右より端をまはし合せて、とりこめて、
 皆ころしける、其中に、よくふるまひ死したるにをは、腹をさき肝をとりてそ、のみにける、
 もとより牛馬の肉を、うまきものとする國なりけれは、人のみならす、いころさる□馬をも、
 とりて食とせり、)鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つよく、命をします、豪盛勇猛、
 自在きはまりなく、かけ引せり」(『八幡ノ蒙古記』)
「(寄ル者アレバ中ヲ引退キ、両方の端を廻合テ取籠テ、無残所討レケル。能振舞テ死ヲバ、
 腹ヲ開キ肝ヲ取テ是ヲ飲ム。自元牛馬ヲ美食ニスル者ナレバ、被射殺タル馬ヲバ喰ラヒテ
 飽満リ。)甲ハ軽シ馬ニハ能乗ル、力ハ強シ命ハ不資。強盛勇猛ニシテ自在無窮ニ馳行。」
(『八幡愚童記』(菊大路本))

とあるように、「鎧かろく、馬に、よくのり」の直前に、捕らえた相手の肝を食べるとか、
人間だけじゃ無くて射殺された牛馬を食べるとか書かれていて、「誉めている」とかそういう
ニュアンスではなくて、むしろ(人外風の)敵としての「脅威」のこととして語っているものと
見た方が良さそうだ。(勿論、戦闘中によってたかって捕らえた人間を腹を裂いて肝を食べるとか
どこぞの仏教説話に登場する餓鬼畜生界の住人みたいな真似事が実際あったとは思えないが)

文永の役の時に、軍馬が海峡を超えて博多にまで来た事は日本側の資料にも出て来るし、
『高麗史』にも文永の役の前後に高麗国内に耽羅島や日本への派遣軍の兵站として定められた
村落や地域で、軍馬の糧抹の供出を担当するようにされたところがいくつか出て来るから、
渡海中にどうやって馬を載せていたのかは分からないが、戦艦を建造した高麗側の資料からも
軍馬を乗船させていた(少なくともそれを前提に派遣軍が運営されていた)ことが
裏付ける事ができる。
ただ、大陸内陸部の軍みたいに千戸隊単位で何千頭も分乗させて来たような感じは無さそうだが。

369 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 00:10:02
>>230の人かな

370 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 00:26:26
>>359
『元史』世祖本紀に「戰船大小合九百艘、征日本」とあるように、文永の役の時に
日本に派遣された総勢九百艘の船団も、全部が全部大船だった訳では無くて、
「大小合わせて」九百艘だった、ということのようだ。

それで、その「戰船大小」とはどういうものだったかというと、『元史』日本伝に、
「(至元)十一年三月、命鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、
 拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百、共九百艘、載士卒一萬五千、期以七月征日本。」
とあって、大量輸送用の「千料舟」、「拔都魯(バアトル)輕疾舟」、「汲水小舟」が
各々300艘づつあったらしい。

他に用例がなかなか無いので、良く分かっていないんだが、この「拔都魯(バアトル)輕疾舟」
というのが揚陸戦用の船だったんじゃないかと目されている。
モンゴルの習慣として、特に戦闘で勇猛果敢な人物を「バアトル(勇士)」と呼んであだ名するので、
「輕疾舟」とあるように「バアトル」のごとく素早く果敢に敵前に揚陸し、前衛として真っ先に戦うような
役目を担ったので、多分このように名付けられたんじゃ無いか、と推測されている。

こういった船が「千料舟」のような大船に随伴して博多まで来たのか、あるいは「千料舟」などに積載し、
必要に応じて海上に下ろされ戦闘要員を揚陸させていたものかは、これもさっぱり不明なんだが、
少なくとも、派遣された900艘のうち、「千料舟」、「拔都魯(バアトル)輕疾舟」、「汲水小舟」の
それぞれに種類があり、必要に応じて揚陸などに使われていたらしいことは確実のようだ。
(馬は多分「千料舟」のような船に乗せられて来たんだろうが、どうやってそこから陸揚げされたのかは
 やはりさっぱり分からない)

371 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 00:46:51
そういえば元が済州島に牧場を作って馬産地にしたのは
やっぱり日本攻略を意識してのことだったのかな

372 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 00:47:37
各々300艘づつか

373 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 01:33:40
どのみち元が負けた言い訳にすらならない

374 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 08:05:48
>>368
>「誉めている」とかそういう ニュアンスではなくて、

もちろん、文章全体として「誉めている」はずがない。乗馬技術について言ったのだ。

「よする者鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つよく、命をします、豪盛勇猛、
自在きはまりなく、かけ引せり」

ここだけ取り出せば、蒙古兵の乗馬技術を含めた戦闘能力を高く評価している、
つまり「誉めている」のは間違いない。

>餓鬼畜生界の住人みたいな真似事が実際あったとは思えないが

強い相手の肝を食えばじぶんも強くなるという迷信は日本にもあった。
西南戦争の時、薩摩兵が戦死した政府軍兵の肝を食った話がある。

375 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 14:40:37
>>367
>歩兵部隊であろうとも行軍にあたっては、前方に騎馬の索敵部隊を配置するの!。
>また、司令官の近くには騎馬部隊が控えており、

なるほどなるほど。
で、その馬はどうやって運んで来たの?

376 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 15:23:54
また「やあやあ我こそは」の人が来てる?

377 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 20:59:11
オマエラ資料物神で、自分で考える事ができない厨だな。
せめて、垢まみれの既知文書ではなく、不明な事は同時代の別の資料から証明しろよ。

馬は水を怖がるが、泳ぐ事はできる。
平家物語の宇治川の合戦なんか有名だろ。
舷側の低い船なら、突き落とせば良い。上陸地点なら足が着く。

しかし、常識とか一般教養の無さには呆れるばかりだ。
ジャンクは喫水が浅いから、甲板に大きな船など乗せたら復元力がなくなり、外洋では横波を受けて転覆するぞw
元軍がしたかどうかは別だが、曳航という言葉を知らないのかw

 船で馬が運べないわけがないだろ、アホか!
ただ、馬は神経質なので、病気に掛かったり自傷する割合が高いので
限られた輸送力では、上陸戦に役立たない馬は必要最小であっただろうと推測できるのだよ。
 馬は輸送熱と云って、ストレスから運ぶだけで発熱し、酷いと肺炎を起こす。
それに暴れて足を折るのもザラ。
 お前、兵站の概念がまるっきしないな。馬は人間の何倍も食べるし、発熱を押さえるためにも
水を大量に与えなければならない。
 戦線が伸びれば、馬が重要になってくるが、後から補給船で運べば良いだけ。

378 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 23:17:24
みなさん >> これ付けて書き込んでください

379 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 12:33:04
>>361
逆じゃね?
武士が弱いと主張する方が、なぜ元寇で元軍を撃退できたかという理由として
高麗兵や旧南宋兵の弱体ぶりを挙げて、モンゴル主力部隊が来れば日本軍壊滅だった主張するケースが多いだろ。

380 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 17:00:37
だな
そもそも雑魚だったのは高麗兵だけだよ

あとは元にしろ南宋にしろ
日本ときっちり戦って結果敗北したにすぎない

平民虐殺して大喜びしてた高麗だけが雑魚

381 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 19:01:08
てか南宋兵とは交戦に至ってないぞ

382 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 19:27:55
>>381
なに言ってんだ?
白旗を揚げたやつを斬首してないだけだろ。

383 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 01:02:49
ただでさえ戦に弱い中国人なのに
南宋兵は中国歴代王朝でも糞弱い部類だから
まだ高麗兵の方がマシなんじゃないかな

384 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 07:07:02
そのクソ弱い南宋を中々攻略できなかった人たちはなんなんでしょうね?

385 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 14:20:46
>>381
高麗兵はさっさと逃げちゃったから知らないかもしれないが
鷹島で日本と南宋も戦ってるよ
その後投降してきたもののうち国交のあった南宋人を助命したってことだな

>>384
ふーん
じゃあ高麗はその南宋にてこずった元の足元に這いつくばって犬のように仕えていたわけね




386 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 12:28:22
>>385

朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」

387 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 17:06:40
>>334
日本側の対応は・・・・

無視
無視
無視
無視
斬首
斬首
斬首
無視

とかじゃね?ww

388 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 23:29:56
>>329
何度見ても、ほのぼのした間抜けさがなんかおもろいw


389 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 04:14:15
バカウヨのレベル低杉!
神国日本、神風キター レベル

過去は自慢すべきものではなく
失敗に学ぶべき物だよ。

390 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 11:28:45
神風は来ていないのだが


偉そうに言う前に自分が過去レスを読め

391 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 13:48:56
>>389
うわあバカそうなレス・・・

392 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 16:57:30
印象操作しかできないバカサヨw

393 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:23:27
このスレ、会話ができない人多くないか

394 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:51:24
失敗も成功も学ぶべき
それが日本でも外国でも

395 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:56:34
ところで博多は誰が焼いたか決着付いたの?

396 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 03:44:15
日本の失敗

併合によって朝鮮人の人口を増やした

397 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 12:31:57
>>389
このスレでは右翼的には神風否定派が多いんだがね。

武士が強くて、元軍が2ヶ月間も上陸できないと、そのうち時化にも遭うでしょ。
それを神風って言われてもね・・・

君の意見は、頭が足りない。ちょっとは考える能力を身に付ければ良いのに。


398 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 12:34:00
考える頭どころか、まず過去ログを読むくらいの努力をすべきだな。

399 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 13:22:56
元軍も日本軍も台風シーズンが近いことぐらいは知ってたはずJK。
本隊の上陸を許さなかった時点で日本軍の勝利は必然。
元船が上陸しようとすると、日本軍の決死隊が小船で強襲し白兵戦になる。
白兵戦では日本兵が圧倒的に強かったらしい。

400 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:34:20
元が知ってるというより、高麗が知ってそうだな

401 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 03:42:55
1554年12月、朝鮮では、鉄砲の技術を学ぶため、教官として一人の日本人が招かれていた。
その日本人教官が、朝鮮の国境警備隊(備辺司)の隊長に、こんなことを言った

「自分の知り合いに、先に朝鮮の取締りを逃れ済州島から命からがら逃げてきた倭寇の薩摩人がいるのだが、
その者が、明春、報復のため大船団を派遣して済州島に攻め込むと言っている。
気をつけられよ。」

これを聞いた朝鮮政府はこう反応した。
「無い無いそんな事www」
無論、何の対策も採らなかった。


そして5月11日

倭寇は、来た。
七十隻あまりと言う大船団で。

彼らは全羅道の達梁浦に上陸すると、達梁城を取り囲む。
何の対策もしていなかった達梁城はわずか5日で陥落。
さらに全羅道各地の軍事施設を軒並み破壊し尽くし、
朝鮮の防衛体制は完全に麻痺、さらに六月になると済州島を襲い、
当地に甚大な被害を与えた。

このように暴れまわった挙句、倭寇は再び去っていった。
この事件は「達梁倭変」と呼ばれ、当時の朝鮮政府に、深刻なショックを与えたと言う。

402 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 03:58:35
日本の海賊はいまいちロマンが無いよな

403 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 10:27:36
どこの海賊にもロマンなぞない

404 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 15:33:58
>>401

こんな事件があったのに朝鮮征伐の準備をしていなかったなんてさすがに
考えづらいと思っていたが、本当らしいな。
図書館で調べたら本当だった。

朝鮮人はまったくもう・・・

405 :日本@名無史さん:2009/09/16(水) 02:07:23
実際、朝鮮征伐前は正使が「日本は攻めてくる!」っていったけど、副使が「日本は攻めてこない」って報告して、
副使の言を鵜呑みにしたら一気呵成に蹂躙されちゃった過去もあるw

406 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 08:30:26
>>239
大鎧着用者率が高いのは
船の上以外の白兵戦がほとんど描かれてないからだな
騎射の段階では郎党は、はるか後ろを走ってるから一緒には描けない

ほぼ同時代の絵巻でも白兵戦が描かれたものでは下級の郎党と半々ぐらいになってる




407 :日本@名無史さん:2009/09/24(木) 03:57:11
良レス

408 :日本@名無史さん:2009/09/24(木) 10:30:35
>>405
なんで副のほうが発言の信頼度たかかったんだろうな
家柄とかか?

409 :日本@名無史さん:2009/09/26(土) 03:06:43
副使は情報部の目付け役みたいな感じか?


410 :日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:22:42
漢城在住の両班、士族では派閥抗争が起こってたらしく、朝鮮使節の正使が西人派、副使が東人派だった。
この使節たちが日本にくる時は西人が実権を握ってたけど、日本滞在途中に西人派の力が弱まって東人派が実権を握ったから。
副使の「日本は攻めてこないよ」ってのを、疑いもなしに鵜呑みにしたというお話しだったのサ。
朝鮮がいつまで経っても統一できぬ事がよくわかる。

411 :日本@名無史さん:2009/09/26(土) 16:51:42
話しが過ぎた戻そう。

412 :日本@名無史さん:2009/09/27(日) 23:41:02
NHKの日本と朝鮮半島2000年を見た
途中から視点が高麗から三別抄側に変わって
高麗が積極的に日本への侵攻を上奏してた事はスルーされたよ(´・ω・`)
さすが日韓友好番組だね

413 :日本@名無史さん:2009/09/27(日) 23:47:40
あんな偏向番組を許していいの?

心ある大学教授は怒れよ

414 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 00:09:47
これが日本人が望む歴史
大多数の視聴者は喜んでいるよ

415 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 00:28:01
>>413
おまえが怒れよ!

416 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 00:33:32
この調子だと朝鮮出兵も楽しみだね
良い番組じゃないか
日本、朝鮮お互いに満足できる歴史観

417 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 00:35:10
俺が怒ってもネットしか発言の場所がないだろ!
学者がそれなりの場で怒れ

418 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:51:29
1264年にクビライは唯一のモンゴル皇帝になったが、番組だとモンゴル帝国の領土全部を
支配していたような印象だが、実際にはカイドゥとか色々あって中央アジア以西は直接支配は
一度も出来なかったし、ベトナムの陳朝大越国がはじめから独立していた印象だが、モンケ時代の
南宋遠征時にモンゴル帝国に臣従していて、クビライの頃にも臣従関係は保たれていたんだが、
それもスルー。

拉致された使節団の救出のためチャンパー遠征が行われ、その過程で陳朝は過剰な遠征物資の徴発を
要求して来た対チャンパー遠征軍に「反乱」を起こした。泥沼な消耗戦が続き、最終的に元朝軍は
大敗したことが『元史』に出て来るけど、その後も陳朝からの要請で陳朝に有利な条件で再度の
「元朝側への臣従」が締結されているので、元朝と陳朝の関係は、簡単に「独立」とは呼べない。

征東行省として元朝の地方行政に組み込まれていたらしい高麗よりは独立性はかなりあったのは確かだけど。

元宗の死を取り上げたのは良いけど、忠烈王とかの「忠」は名乗らせられたんじゃなくて自分達で「名乗った」
とかだったはずだが・・モンゴル皇帝家の姻族となるべく積極的に工作したのは世子時代の忠烈王自身だったとか、
その背景には高麗王朝内部の権力闘争から弱体化していた国王の権力を再建・強化するため、モンゴル皇帝の権威に
接近した結果だとか、珍島・耽羅島遠征の前後で高麗軍と元朝からの駐留軍の首脳部で確執があって文永の役の後にも
尾を引いていたとか・・・

襄陽があっという間に陥落したような印象だけど、包囲は何年も続き、最後は南宋政府に見捨てられたので
籠城側が開城したこととか、弘安の役で江南軍を指揮していたのはその襄陽包囲戦で南宋水軍の司令官だった
范文虎だったとか、番組で出て来た要素がそれぞれ絡んでいた内容やら背景やらは一言触れるべきところが多かった。
それに、全体的に高麗と日本だけで、高麗が直接関わる元朝側の動向がかなりスルーされている。
弘安の役のあとに起きたナヤン・カダアンの乱ではカダアンの反乱軍に高麗南部まで城塞が占拠されたり
しているんで、一時間半もあったんだからこれも一言触れるべきだったようにも。

419 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 08:44:21
そんな媚韓番組に期待すんなよw

420 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 09:04:13
案の定、対馬や壱岐の虐殺はスルーだったね。
逆に朝鮮出兵は最大限、残虐行為を延々とやるんだろNHKさんよ

421 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 09:21:57
高麗の将軍が乗り込んできた話
やったっけか?

422 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 09:28:58
韓国サイドとしては、
モンゴルの手下になって日本を攻撃した
という事実を消し去りたいのかな

423 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 11:48:15
この番組いつごろやったの?
28日深夜?

424 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 14:39:16
しかもモンゴル帝国を赤色で表示してるのに
朝鮮半島は白のまま

気持ち悪いわNHKって

425 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 19:55:15
日本と言うのはつくづく良い位置にある
しかも島国

ベトナムのおかげで第三次元寇も消えたので、運も良い

426 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 21:06:51
>>423
昨夜の22時、NHK教育


今、録画見終えました。
あれだけ、朝鮮側の情勢をあげたわりに
日本側の情勢の内容が薄いのにはガッカリ。
文永の役以後の、鎌倉幕府の対応が石垣のみで丸で空っぽ…
蒙古の使者を斬った経緯や、高麗への出撃計画やら、完全スルー

あと、三別抄の琉球王朝ってマジですか?
初めて聞きました。

427 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 21:39:20
>三別抄の琉球王朝

何それ?

428 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 22:34:53
朝鮮牒状不審条々の下りは面白かったよ
当時の人の息吹を感じた

>>427
ちょうど三別抄が鎮圧されたころの琉球遺跡から高麗瓦が出土し
そのころ石積みの技術も急速に進歩したところから
三別抄の生き残りが琉球に渡っていたかもしれない、という説を紹介していた

429 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 22:57:26
フーン、中国だけでなくチョンも沖縄を狙っているのかな?民主党沖縄ビジョンの実施後が楽しみだ。

430 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 23:41:53
「朝鮮民族がモンゴルに30年間抵抗して、国が荒廃して飢饉で苦しんだ」って
ゲストの韓国学者が言ってたけど、実際どうだったんだろう。
モンゴルに支配されて、一部の朝鮮人が時々反乱起こしてすぐ鎮圧されたことが
時々あっただけでは?
日帝時代でも、ごく一部の不満分子がレジスタンやってただけで
抗日戦争なんて大げさに言ってるし。


431 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 08:42:29
>>430
野戦じゃ対抗できないので兵士住民共々山城に篭って抵抗したが、
その間は無論田畑を放りっぱなしなので結果的に荒廃した。

高麗の抵抗なんて基本あっという間に国土を蹂躙されて江華島に逃げ込んで
渡洋侵攻能力の乏しい元軍が諦めて帰るのを待つってのばっかりだよ。

432 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 11:44:24
>>422
そんな感じだったね。
本当は反乱分子にすぎない三別抄をやたらと強調することで
真正の高麗王朝が日本を侵略した側であることを薄めている。

433 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 11:53:30
三別抄が救援を求めたのに日本側が無反応だったことが
朝廷や幕府がバカだったかのように言いたげだったけど

真正の高麗王朝ではない三別抄が
説明もなく自らを高麗王朝を名乗るだけだったから
朝廷や幕府が実態を把握できなかったんでしょ。
だから「朝鮮牒状不審条々」なんて文章があるんだよ。

434 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 12:10:24
>>426-427
【韓国】「沖縄は韓国人が開拓した国」〜新羅・于山国が沖繩を670年間支配していた[02/22]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1172120974/
ソース:NAVER/ソウル=連合ニュース(韓国語)
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=001&article_id=0001554195

【竹島問題】 曹渓宗総務院長「独島はもちろん、沖縄と対馬も韓国の領土」〜韓総理「その話は今は・・・」[07/22]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1216906768/
ソース:朝鮮日報(韓国語)http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2008/07/22/2008072201447.html

【日韓】高麗の職人製造の瓦を使った遺跡が沖縄で発掘・・・琉球王国の基盤を作ったのは高麗の軍隊だった[07/18]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1184737354/
ソース:東亜日報(ハングル)
http://www.donga.com/fbin/output?n=200707180054&top20=1

435 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 12:16:06
全部朝鮮発信かよw

436 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 13:14:27
そもそも三別抄ってモンゴルと戦ったことあったっけ?

437 :日本@名無史さん :2009/09/29(火) 14:27:51
朝鮮の歴史なんぞあやふやだから、
危うく番組信じるとこだったw



438 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 15:55:18
どんなことにせよ朝鮮起源説は疑ったほうがいいよ。
でもNHKの言うことだからって素直に受け入れる人間も多いんだろうな。

439 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 16:50:47
>>428
間違ってたわ、訂正
×朝鮮牒状不審条々
○高麗牒状不審条々

440 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 18:06:01
三別抄は反高麗王族であって
反モンゴルではないんじゃなかったか

441 :日本@名無し:2009/09/29(火) 21:31:41
>NHKの日本と朝鮮半島2000年を見た

確かにあの内容は酷い。韓国人が作ったのなら理解できるけど。
大雑把に言えば、元は三別抄の頃は南宋攻略がメインだから、日本なんか相手
にしない。文永の役は、高麗が五月蠅く元にお願いしただけ。
三別抄の抵抗の結果、元の襲来が遅れ、戦力も低下していた、なんてバカも
休み休み言え、という感じだね。

442 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 22:22:08
>「ワールドカップを取材したい、この目で観たいと思って渡ってから
>あっという間に9年が経ちました。」


お姉さん、ワールドカップなら日本でもやってましたよ

443 :日本@名無史さん:2009/09/30(水) 15:13:18
何時になったら、鎌倉武士達の奮闘による
必然的な勝利という正しい歴史観が認知されるのか・・・。

444 :日本@名無史さん:2009/09/30(水) 15:25:31
結局三蔑称はモンゴルと戦ったの?戦ってないの?

445 :日本@名無史さん:2009/09/30(水) 16:01:26
忠烈王が進言した旨の文章どんなだっけ?

446 :日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:32:48
威力偵察説については
http://blog.goo.ne.jp/miritetsu/e/7b21129793757c583f4cf4ceabb9fb18
こことかが考察してるわ。

447 :日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:42:51
すげー。俺が言いたい事が全部書かれてたw

448 :日本@名無史さん:2009/09/30(水) 22:59:07
朝鮮は悪くないニダ、日本が悪いニダ(by犬HK)

449 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 10:46:38
結局三蔑称はモンゴルと戦ったの?戦ってないの?

450 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 11:03:11
戦略(ストラテジー)と戦術(タクティクス)の違いがわからん人は威力偵察説を鵜呑みにするんでしょうな

451 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 12:58:56
威力偵察説うんぬん以前に高麗史と元史に撤退理由書いてるじゃん。
高麗史金方慶伝
金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。
    我が軍は少なしといえども既に敵地に入っている。我が軍は自ずから戦うことになるがこれは秦穆公の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。
    再度戦わせて頂きたい」
忽敦 「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。
    疲弊した兵士を用い、日増しに敵軍が増えている状況で相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」

元史日本伝
「我が軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境の日本人を虜掠して帰る」

この二つの文章をみても予定的撤退だったと見るのは明らかバカげてる

452 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 13:02:50
こういう人たちにとっては『八幡愚童訓』は信用に足る史料で、『元史』『高麗史』などは
一方的な視点で書かれているので信用できないそうですw

453 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 17:20:54
だけど元軍が撤退した本当の理由はなんなんだろう?

454 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 18:35:32
14万そこらじゃ力押しで防塁突破出来ないんで諦めたんだろ

455 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 19:04:15
ヴェトナムのように戦えば評価されたんだろう

456 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 19:33:27
むしろ水際作戦で完封勝ちのがスマートじゃないか

457 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 20:11:08
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/index.html

同月、中書省は元皇帝に日本侵略の計画について奏上した
(以下、『元高麗紀事』耽羅至元九年十一月十五日条より現代語訳)。

「これより先、日本・耽羅のことについて枢密院官と打ち合わせました。
 南国より日本を経由して来れる耽羅人三名を召し、地図を書かせました。彼らは申しました、

『日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』
(上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう)



耽羅人が2、3万あれば太宰府制圧できるなんて言ったから>>451みたいな事に・・・

458 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 20:18:01
あらら、完全に威力偵察なんて頭にないねwwww

459 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 22:12:25
>>453は文永のこといってるんだよね?

460 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 22:41:42
そうだよ

461 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 22:42:12
中国の古い地図だと日本が高麗より遥に小さかったりと異常に小さく描かれていたりする。
このような不正確な地図に元ずく過った日本認識では二・三万もいれば征服できると考えるのも無理は無い。
しかし、実際に攻め込んでみると、とても二・三万で征服できるような国では無かったので、撤退したというのが真相ではなかろうか。

462 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 22:43:51
普通に大宰府落しに来たんだろ

463 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 00:11:08
忠平成天皇

464 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 01:36:07
結局三蔑称はモンゴルと戦ったの?戦ってないの?

465 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 02:50:04
>>461
慧眼ですな。
相手側の視点で考えるって意外とできない。

466 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 09:26:30
>>464
じぶんで調べろ。
いくらでもウィキに書いてある。

467 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 12:23:18
>>464
世界を転戦した元の将軍に、今までで最も勇敢で手ごわかったと言わしめてるよ。

468 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 13:17:21
その言葉の出典は?

469 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 14:04:49
三別抄を滅ぼした元・高麗の軍の将軍たちはそのままスライド人事で日本遠征に参加w
うん、手強かったね三別抄w

470 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 16:09:36
>>464
戦ってないよ
三別抄を滅ぼしたのは高麗

471 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 17:31:31
>>470 >>464
鎮圧軍の将軍の一人、洪茶丘は出身が高麗人ではあるがモンゴルの将軍なのだから
その手勢はモンゴル軍だ。

472 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 18:07:44
というか忠烈王自身が高麗人のモンゴル国人


473 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 18:57:58
少なくとも文永の役の時は主力は高麗軍だろうね。
モンゴル軍の主力は南宋に向けられてる

474 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 20:32:08
>>473
比率はどんなもんなの?

475 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 00:30:16
『高麗史』に「蒙漢軍二萬五千、我軍八千」とあるから、文永の役の
時の遠征軍での高麗王国軍の割合いは全体の約4分の1程になろうか。

「蒙漢軍二萬五千」の内訳だが、『高麗史』によると、高麗の首都開城の北方にあって
モンゴル帝国領となっていた鳳州屯田から忻都が率いて来たのは「蒙漢軍萬五千」とあって、
残りの一万は元から高麗に駐留していた部隊が合流したのか、良く分かっていない。
正規の軍勢に数えられていない余剰兵力をひっくるめると一万になったとかなのかも
知れないが、そこら辺は資料になかなか出て来ないので謎だ。

「蒙漢軍」というのが曲者な用語だというのは何度か関連スレでも触れられたと思うが、
「屯田軍」だと言っていることから、これはモンゴル帝国が耕地開拓のために華北から
現在の東北地方一帯に配属させたモンゴル高原周辺の諸部族や現地の女直人や漢人などから
なる混成の屯田軍のことで、「蒙古漢軍」と呼ばれていた。『高麗史』の場合も派遣されて
来た先にことや「蒙漢軍」という字面から考えて、『元史』でいう「蒙古漢軍」と同じものと
解釈してそう間違いでは無いだろう。

地理的な状況を考えて、この「蒙漢軍」に高麗人部隊もいた可能性もありそうだが、『元史』
にしろ『高麗史』しろ、特にそれらしい部隊がいたかは記していない。むしろ、目立って
あげているのは「女直人」なので、まったくいなかったか、そこまでは無いにしても、
居たとしても目立つ程の数は居なかった、と見た方が無難だろう。

476 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 11:18:52
>>461
その視点良いなぁ。
ヨーロッパ人がアメリカ大陸を発見したときにアジアだと思ったように、
対馬、壱岐、大宰府を攻略すれば日本全土を支配したつもりでいたのかもね。
元の地図って日本は本当に小さいんだから。

477 :ホルホルホル:2009/10/03(土) 12:41:04
【元寇・文永の役】 <*`∀´>「今日は高麗・元の連合軍が日本を撃退した歴史的記念日ニダw」
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1223043311/l50#tag36
聯合ニュース
http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2008/10/03/0800000000AJP20080911002900882.HTML

> 今日の歴史(10月3日)


> 1274年:高麗・元の連合軍が日本撃退

478 :ホルホルホル:2009/10/03(土) 12:56:16
【韓国】高麗・モンゴル連合軍(元寇)は台風で壊滅せず、破竹の勢いで日本本土占領を開始した … 新刊小説『日本征討軍』出版 [08/01]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1217719609/
著者は、麗蒙連合軍の日本征伐がいわゆる「神風」という表現によって深刻に歪曲されているという点に
衝撃を受ける。大多数の人々はいまだに、麗蒙連合軍がいわゆる「神風」と呼ばれる台風のために日本
本土にたどり着けぬまま全滅したと理解している。しかし麗蒙連合軍は対馬、壱岐、博多湾一帯、九州
南部をあっという間に攻略して、破竹の勢いで本土占領に乗り出した。著者は日本での現地踏査を通じ
て、九州全域はもちろん本州の内陸奥深くまで麗蒙連合軍の跡があちこちに残っていることを確認した。

麗蒙連合軍の遠征に関するもう一つの歪曲は、元国の圧力に負けた受動的参戦だったという指摘だ。
著者は、日本征伐が元国の高麗服属計画を鎮めるための秘策であり、むしろ高麗が元のクビライを説得
して推進した戦争だった、と強調する。動員された兵士の数ではモンゴルの方が多かったが、日本征伐
はあくまでも高麗軍が主導した。

▽ソース:スポーツソウル/Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2008/08/01 11:41)
http://www.sportsseoul.com/news2/life/culture/2008/0801/20080801101050900000000_5819195479.html
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=13&articleid=20080801114100254d8&newssetid=85

479 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 12:59:24
>>477-478
やめろ
日本人は謙虚にならないと

480 :無念ニダ!!:2009/10/03(土) 13:31:09
【韓国】「あのとき日本に勝っていさえすれば」 … 『高麗・モンゴル連合軍の日本征伐』出版 [02/25]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1172378829/l50

鄭氏は、この戦争が高麗・モンゴル連合軍側の勝利で終わっていれば我が国の歴史は
丸っきり変わっていたはずだ、と口惜しがる。

▽ソース:スポーツ朝鮮(韓国語)(2007/02/25 12:16)
http://sports.chosun.com/news/news.htm?name=/news/life/200702/20070226/72z23003.htm

481 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 16:22:08
朝鮮人の気持ちを考えて歴史を語れ

482 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 16:43:50
九州に拠点さえ置けてないのに酷い妄想ですね

483 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 18:45:50
>>481
それやると歴史がファンタジーになる。

484 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 18:53:09
朝鮮史観は隔離スレみたいのたてて、そっちでやってくんないかな。
いちいち出張してくるからウザいんだよね。

485 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 19:32:52
NHKの悪口やめろ

486 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 23:38:26
で、>>467はネタなの?

487 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 01:24:53
NHKが大々的に朝鮮史観を垂れ流す今の時代
朝鮮史観は無視できない。

488 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 01:30:14
むしろ、そちらを本流とすべきだし、そうなる運命

489 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 02:06:19
日本人は反省し謙虚になれて幸せ
朝鮮人は誇りを持てて幸せ
良い関係になりそうだよね
それを目指してるんじゃないの?

490 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 05:42:26
>>478
あっというまに追い返されたのにね

491 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 09:08:15
それが良い関係という意味がわからん。

492 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 12:01:08
なにやらネトウヨのにおいがする。

493 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 14:19:32
蒙古襲来を鎌倉武士の勝利と言う奴はネトウヨ←New!

はあ、またネトウヨの定義が増えたなw
もう日本人みんなネトウヨでよくね?

494 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 15:06:23
良識者がイラついてるなw

495 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 15:52:41
情報薄弱者以外の日本人全部が含まれちゃうな

496 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 16:44:43
@2chで、このスレ変だな。とか、なんかレスが営業臭いレスが目立つな、と
おもったら、たいていネット監視会社(いわゆる工作員)の仕業。

ピットクルー 株式会社 http://www.pit-crew.co.jp
株式会社 ガーラ http://sales.gala.jp/cybercops/index.html
株式会社 ガイアックス http://solution.gaiax.co.jp/solution/supportdesk/
日本エンタープライズ http://www.nihon-e.co.jp/solution/support.html
株式会社 ライトアップ http://www.bc-manage.jp/
株式会社プラップジャパン http://www.prap.co.jp/

最近この手の会社が増えてきた。
つまり、このスレでもこいつらは、相当数活躍しているということ。
一人おかしいヤツが居たら、最低20人はコイツラが潜んでいると思ったほうが良い。

497 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 20:46:34
文永の役の時、元軍が博多を占領したことをもって、日本軍は敗走したと言う人がいるけど
当時の日本軍にとって博多とは戦略的にどういう立場にあったの?守るべき対象?それとも元
から守る気なかった?

498 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:12:10
博多を占領?

499 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:41:02
占領はしてないな。焼いただけ。
しかも鎌倉武士が迎え討ったのは博多より内陸部だったはず

500 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:41:14
また新たな歴史がつくられたな。

501 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 23:51:42
敵がどこに上陸してくるかわからない以上は肥前から本州の周防辺りまで警備していただろうから、
各地の兵力はかなり手薄だったと推測される。一旦、兵を退いて体制を立て直すのも兵法というもの

502 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 00:13:00
そもそも元軍の会話を見りゃ
とても元軍勝利とは言えねえな

503 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 01:43:06
家の先祖は鳥飼で蒙古の兇徒と合戦して首をあげたらしいがホントかいな?

504 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 01:49:48
八幡愚童訓で検証して見れば?

505 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 02:06:52
>>230
なんだこの生きた化石みたいな左翼ジジイ こんなジジイが日本の歴史を歪めてんだよな

506 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 03:53:40
>>479>>481>>483>>489
1日の終わりに死んで詫びろks

507 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 09:12:05
>>502
「威力偵察」だったとしてもモンゴルの総司令官はそんな言い方を部下に
対してしないだろうな。高麗の将軍に対しても。
士気にかかわるからかえって危ない。

508 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 09:15:14
補足:「そんな言い方」というのは例えば「今回はちょっと当たってみる
だけだから適当に戦っておけ」という風なことだ。
こういう言い方をされれば部下はたちまち命が惜しくなる。

509 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 12:21:32
>>507

http://blog.goo.ne.jp/miritetsu/e/7b21129793757c583f4cf4ceabb9fb18

510 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 12:47:04
>>507
何の根拠もない駄レスをわざわざ2回に分けて書くな

511 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 13:53:24
>>509
その駄文のリンクって意味あるのか?
ぐちゃぐちゃ書いてあって読みづらい。

512 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 14:08:42
>>506
ん?

513 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 14:19:08
>>511
読まれると都合が悪い
だから読まないでってことか

514 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 14:41:55
>>513
へへへ。
残念ながら、鎌倉時代の初めっら俺の祖先は九州で武士だったんだよ。
おめ〜の祖先は参戦したのか?
農民風情がでかい口をたたくな。
へへへ。

515 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 17:05:34
つまり威力偵察なんてのはありえない

516 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 17:49:25
>>515
いやいや。武力偵察だったとしても、部下や高麗の将軍には「太宰府を
取るのが目的」と思わせる、ということ。
そして予定の撤退であってもやむを得ない事情のように思わせる。
でないと「なーんだ」ということになる。

517 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 19:22:44
裏づけがないから妄想って言われるんだよ。
『元史』に「官軍整わず」って書いてあるのに。

518 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 19:33:48
>511=>514=>516かな?話の流れ的に。
俺生粋の>509のブログ主だけどごめんね、>516みたいなことを
言い出す戦術の基礎知識皆無の人に分からないような書き方
してごめんね。戦術の基礎知識がある人対象に書いてるから
ぐちゃぐちゃしてるって感じたんだね、ごめんねごめんね。

で、だ。
>そして予定の撤退であってもやむを得ない事情のように思わせる。
>でないと「なーんだ」ということになる。
ありえません。秩序だった「後退行動」と、算を乱した「逃走」は全くの
別物です。後退行動を成功させるには、収容援護部隊による援護
(追撃の阻止や包囲環の完成の阻害)や、後退する部隊同士の突出
防止等、やるべき事が多数ある。そしてなにより、当初から後退する
ことを企図しているなら、決定的戦闘に陥ることを避けなければならない
から、決戦を求めるときとは自ずから戦闘要領が違ってくる。

「決定的戦闘を避ける」事と「適当に戦う」事を混同するような奴に駄文
呼ばわりはされたくないなぁ。

519 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 19:54:59
元寇スレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news7/1143443308/

520 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 20:11:56
連中は最初から議論なんかする気ないんだよな。

威力偵察というならまったくその成果を活かせていない手際の悪い第2次侵攻は何、という問いに対しては
弘安のときは棄民だった、だからなw

それぞれの結果を自分の都合のいいように解釈しているだけ。

521 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 05:45:40
スレの最初から見る限り、「文永の役は威力偵察ではない」って意見が
どうやらこのスレでは優勢のようだが、じゃあその説を採る場合、
具体的に「文永の役」はどういう代物だったと見ている訳?

ただ「威力偵察」って単語が出るとその都度叩いてだけ話が見えないんだが。

522 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 06:40:47
威力偵察じゃねえなら本格的侵攻か、橋頭堡を築くための前哨戦じゃね。

523 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:59:35
>>521
>「文永の役は威力偵察ではない」って意見がどうやらこのスレでは優勢のようだが、

そっちの意見が優勢というより威力偵察のほうは文献等の裏づけがないから全く支持されてないんだよ。

524 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 08:46:10
>>518
>ありえません。秩序だった「後退行動」と、算を乱した「逃走」は全くの
別物です。

なにを言っているのかわからない。「予定の撤退」か「やむを得ない事情
による撤退」かは、「秩序だった後退」か「算を乱した逃走」か、とは別次元
の話。
つまり「やむを得ない事情」によって「秩序だった撤退」を行うことが
あり得る。

現に元軍は「食糧や矢が不足だ」という「やむを得ない事情」(あるいは
そのような名目)によって秩序だった撤退をしている。

525 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 13:13:17
>524
ごめん。君が戦術素人だってのを忘れてて途中経過を
すっとばしてた。

「予定通りの撤退」でなければ「秩序だった撤退」なんて
できないよ。じゃないと、だれが収容援護部隊になるのか、
収容援護部隊の後退をどのようにするのかを詰める事
ができないから。
浅井・朝倉に包囲されそうになったときの織田信長とは
同列に語れない状況だからね。そんだけ接触状態からの
後退は困難って事だよ。

526 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 13:35:22
>>525
>「予定通りの撤退」でなければ「秩序だった撤退」なんてできないよ。

君は元軍が「予定通りの撤退」だったから「秩序だった撤退」ができた、
と言いたいのか?
それなら私の言ってることと同じだ。
私は「予定通りの撤退」だったにも拘わらず「やむを得ざる事情」の
名目をつけた、と言っているのだからね。

>そんだけ接触状態からの後退は困難って事だよ。

すでに日本軍は水城に引き揚げた後だったから「接触状態」では
なかった。


527 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 16:45:38
ここで述べられている「予定」ってどっから決められてた予定のこと?

大陸で出港前での予定ということなら、「予定外の撤退」といえるし
博多で戦ってみて「こりゃやべえ武士強い」のが判明した後の夜の軍議で決まった通りの
撤退ができたという意味では「予定通りの撤退」ってことじゃないのか

まあ帰りの海でしけにあってるようだからこっちの意味でも予定通り帰還できたわけじゃなさそうだが

528 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 20:42:42
お家に帰るまでが軍事作戦であります!

529 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 21:59:59
ケロロ軍曹乙

530 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 22:01:32
まあいずれにせよ、陸地に展開した、馬や機材を含む数万の軍隊を、
暗夜に、しかも日本人に気づかれることなく、ほぼ完全に乗船させる
ことに成功したのだから、撤退作戦としては見事だ。
曰く、「敵ながら天晴れ」。

531 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:09:33
NHK偏向報道ぶりが大問題に
元寇でもあきらか

【日台】 『NHK偏向報道』で2次提訴、パイワン族の原告らが来日会見「自尊心傷つけられた」[10/06]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1254829889/l50

532 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 12:12:56
>>530
元軍の逃げ足の速さは異常、と鎌倉武士は思ったろうな。

533 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 08:28:38
いや、やはりさすがは元軍だよ。たった一日で敵の力量を即座に判断して
撤退を決断するなんてことは並の軍にはできない。高麗軍の金方慶が背水の陣
を布こうと提案したように、意地になることの方が普通の軍には圧倒的に多い。
日本軍に気付かれずに撤退したことといい、元軍は相当な軍だったことは間違いない。


534 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 10:15:07
そんな相当な軍を力でねじ伏せた武士すげえ

535 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:18:38
同じ日本人への強烈な甘え

536 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:21:08
誤爆

537 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 22:35:57
>>434
>>477-478
>>487-488
NHKも連携してるし
その内、日本の教科書に「1274年:高麗・元の連合軍が日本撃退 」とか
「沖縄は韓国起源」で「韓国領土」とか書かれそう。

【日中韓】日本外相「韓日中共通教科書が理想的」「村山談話、いまや言葉よりも行動する時」[10/08]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1254954016/
【日中韓】韓日中「共通の教科書」、青瓦台高官が前向きな反応[10/08]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1254970300/

538 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 23:06:17
>>496
どのレス?

539 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 23:10:38
三別笑が沖縄に渡ったのは吹いたわ

540 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 23:30:33
昔は南から来た土人ぐらいの認識だったがなw
妙な絡みかたするのがチラホラ出始めた。それをNHKがw

541 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 00:11:19
海流から考えて無理だし。

542 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 03:23:05
まったく可能性が無い訳じゃないな

543 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 07:37:26
縄文土器は世界最古の土器だから土器の起源は日本。なんてこという日本人は
いないのに、三別抄は沖縄に渡ったなんていう根拠の欠ける主張をする韓国人ははっきり言ってキモイ。

544 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 20:21:37
NHKはいろんな説を紹介しているだけです!!





(^^)

545 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 15:22:38
蒙古撃退最大の立役者
我が祖国最大の英雄
金通精さまマンセー

546 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 13:20:32
金包茎だの金精通だのヤらしい名前ばっか

547 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 17:47:49
韓国の歴史教科書って惨めだろうな。
韓国の歴史は植民地の歴史だもんな。
有史以来ずっと植民地という国も珍しいわなw


548 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 18:02:38
三韓から後三国時代にかけては普通に面白い。
李氏朝鮮になってからつまらん。

549 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 18:06:07
とはいえ万年属国史が面白いと思えるのも
他国の歴史だからだな

550 :日本@名無史さん:2009/10/22(木) 09:15:23
外国の良い所だけみるのも問題だなあ

551 :日本@名無史さん:2009/10/22(木) 13:45:01
日本が無条件降伏するまで大人しく日本に従っていたなんて恥だよな。
普通反乱起こすだろ?

552 :日本@名無史さん:2009/10/22(木) 13:51:29
>>547有史以来ずっと植民地という国も珍しいわなw

珍しく独立すると北朝鮮みたいになっちゃうし・・・
どうしようもない民族だなw

553 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 05:49:49
どうか日本にしてくれと頼まれたから併合したのに
この仕打ち
ひどいよ朝鮮

554 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 09:49:09
「てつはう」の威力ってどんなものだったの?大河ドラマ北条時宗なんかでは
なんかまるで「手榴弾」みたいな扱いだったけど、有り得なくね?
てつはうの中身は鉄の破片やらがあって、飛び散るしくみだったようだけど、
それだけでは怯ませることはできても戦局に大きな影響を与えれるのか疑問。
それとドラマのなかにあったんだが、発石車みたいな奴で「てつはう」を遠く
まで飛ばすなんてことあったの?それと手投げ兵器だったという場合、相手の矢の
射程範囲内に入らなくてはいけない。そんな危険がある上に、「てつはう」を投げた
後、てつはうが爆発するまで味方も被害を受けるかもしれないから、爆発するまで
じっと待ってるのかな。それか、てつはう持った特攻兵が味方の矢の援護に守られながら
日本軍に接近してくのだろうか。なんか「てつはう」というのは集団で使うものではなく
ゲリラ戦とかに使うのに適してる気がするんだが。

555 :日本@名無史さん:2009/11/13(金) 23:39:05
モンゴル国の国際関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82

南に隣接する中国とは、伝統的に関係が悪い。「娘が中国人と結婚したら一家の恥」との通念が今でも通用しているし、国政選挙でも中国との関係改善の是非が争点になる。
モンゴルが漢字文化を一切受容しなかったのも、モンゴル人が中国人を嫌ったためである。
モンゴル人にとって「中国人のようだ」というのは最大の悪口となり、選挙でも「あの候補は家系に中国の血が入っている」というのは最大のスキャンダルとなる。
日本人を含めた東洋系外国人が、街頭で「中国人か?」と聞かれることはまずない。中国人は蔑称であり、喧嘩を売っていることになるからである。
通常であれば、「中国生まれのモンゴル人(または韓国人)か?」と聞かれる場合が多い。ただし、日本とはまだ縁遠いため、日本人かと聞かれることは少ない。
モンゴル人と中国人との衝突事件、あるいは中華料理店に対する襲撃事件は、ニュースにもならないほど日常的に起きている。
学校教育で、中国人に敵意を煽る教育は行なわれていないが、家庭教育で敵意を植え付けている場合が多い。
モンゴル人の子どもが語る「学校の怪談」でも、中国人による殺人事件が頻繁に登場する。
現在、中国人が嫌いなモンゴル人は9割、好きなモンゴル人は1割と言われる。
衣料品や、家庭電化製品は、中国製がほとんどであるが、モンゴル人は、「中国の商品は構わないが、中国人の思想が気に食わない」と語る。


556 :日本@名無史さん:2009/11/13(金) 23:42:12
モンゴルは親日らしい。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/MONGOLIA/kankei.html
>2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、
>「最も親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な対日感情を有する国となっている。


モンゴルは中国を嫌っているらしい。

モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0721&f=politics_0721_005.shtml


>歴史的に何度も中国からの侵攻を受けたモンゴル国は、中国に対する激しい敵対心を抱いており、
>中国人がモンゴルで襲われるほどである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E4%B8%AD


>歴史的に中国との関係は悪く、今でも一部の民衆には反中感情がある。
>例えば日本人観光客が中国人に間違えられるとトラブルに巻き込まれ、
>中国関連の施設に「看板等に使用している漢字を3日以内にモンゴル語に変えなければ、強制的に撤去するかペンキで塗り潰す」
>という過激な内容警告文を出され、さらに独立記念日に活動家に襲撃される事もあるくらいである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD


557 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 22:01:37
よく元寇で恩賞が出なくて鎌倉幕府の求心力が低下したといわれていますが、
防衛戦で恩賞が期待できないのは当たり前では?
御家人って馬鹿??

558 :日本@名無史さん:2009/11/15(日) 12:12:21
その話自体を疑う発想はなかったのか

559 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 11:02:08
>>555
そりゃ侵略者たる中共にいい感情持ってるわけないよ

560 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 12:46:12
>>557
そういうの信じる必要ないよ。
元寇から鎌倉幕府滅亡まで世代交代してるので、
忘れっぽい日本人が恨みつらみを抱いてるわけないよ。

歴史家は頭がおかしいと思うのがデフォなんですよ。

561 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:08:54
直接的原因とは言えないだろうが、鎌倉が
求心力を失う遠因のなかでも有力なもの
とは言えるのではないか。

「恩賞貰えないのは当たり前」なんてのは、
現実に元寇での出費を補填しなきゃならん
武士達には納得できない理論であって。
で、徳政とかの「形を変えた補填≒恩賞」
は、結果として武士達のより一層の困窮を
招き、それら問題をうまく調停し得なかった
鎌倉の求心力低下に繋がる、と。

562 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 22:36:17
>>509の引用文が言っていることは、「威力偵察と本攻撃は一連のものだ。
だから本攻撃が失敗したのなら威力偵察も失敗だ。(だから威力偵察ではない)」
ということだろう。

しかしこれは詭弁だ。威力偵察が失敗か成功かと、威力偵察であるのかないのか
とは全く別問題だろう。

さらに言えば威力偵察が成功して本攻撃が失敗することもあり得る。
例えば文永の役は上陸に成功したのだから、「上陸は容易だ」と報告したと
すれば、これは威力偵察としては成功だ。

これを受けた本攻撃が、容易な上陸を前提として行われ、防壁のために
失敗したとしても、それは威力偵察の責任ではない。なぜなら、文永の役の
時点で、日本が防壁を築くということは予想できないからだ。

563 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:12:19
>562
まだ言ってんのかw
要点を言うか
1 文永の役において、船上での作戦会議の主眼が「実行の可能度」
であって「作戦の正否」ではなかったこと
2 「偵察の成功」とは「正しい情報を取ることが出来た」と言うことである。

この二つが理解できないんなら口をつぐんだ方がいいんじゃないか?
あ、ちなみに俺が>509のブログ主だ。

564 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:14:55
まあ、威力偵察説を主張するなら、せめて元軍のEEIと
収集項目の列挙ぐらいはしてから語って欲しいものだ。

565 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 09:04:32
>>563
君の言う「作戦会議」とは高麗人の副将とか、後世の正史の立場から書かれた
ものだ。
それが真実であったとは限らない。

また、例えば「上陸は容易だ」という情報は、威力偵察でなければ得られない
情報だ。数人の斥候で暗夜に上陸して見たとて、地形はわかるだろうが、
敵の抵抗まで含めた情報は得られない。

566 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 10:56:26

敵国降伏 敵国降伏 敵国降伏
敵国降伏 敵国降伏 敵国降伏
敵国降伏 敵国降伏 敵国降伏

567 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 11:08:38
>なぜなら、文永の役の
時点で、日本が防壁を築くということは予想できないからだ。

予想できなかったのは七年もあけたモンゴル側のせいでこっちの都合じゃないよねw

>>562のほうがはるかに詭弁
>>509の引用文が言っていることは、「威力偵察と本攻撃は一連のものだ。
>だから本攻撃が失敗したのなら威力偵察も失敗だ。(だから威力偵察ではない)」
>ということだろう。

それを言うなら

>>509の引用文が言っていることは、「威力偵察と本攻撃は一連のものだ。
七年もあけたら最初の侵攻の情報が役に立たなくなることが最初からわかっている(だから一連のものとは言い難い)」
ということだろう。

仮にそれでも威力偵察だと言い張るなら威力偵察説支持者にとってモンゴル軍は
「七年もあけたら最初の侵攻の情報が全く役に立たなくなることが」理解できないほど馬鹿だったといっていることになる

個人的にはどっちでもいいよ
文永の役は威力偵察ではない=モンゴル軍は二度とも正々堂々正面から武士と戦い華々しく散って行った
でも
文永の役は威力偵察=モンゴル軍はさかしく威力偵察なんぞやってはみたもののまるで役に立たないアホ情報しか持ち帰れず七年後自滅した

でもね

568 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 12:09:08
>>567
>予想できなかったのは七年もあけたモンゴル側のせいで
>こっちの都合じゃないよね

ヨーロッパ遠征のときはもっと間をあけている。
いずれにしてもそれは威力偵察軍の責任ではない。

>七年もあけたら最初の侵攻の情報が全く役に立たなくなることが理解できない
>ほど馬鹿だったといっていることになる

モンゴルが馬鹿であることは認めるよ。ヨーロッパ遠征のときはヨーロッパ
側がカルカ川の戦いの敗戦に学ばなかった、ということが本攻撃のときの
リーグニッツの敗戦につながった。それが、モンゴルをして、相手側の
対応能力を甘く見る学習をさせたかもしれない。

しかしそれもまた、威力偵察軍の責任ではない。いわんや威力偵察であること
を否定する根拠にもならない。

569 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 12:17:48
新路線だな。威力偵察説をなんとかして成立させるために
モンゴルはバカとか抜かしやがった。

570 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 13:24:35
威力偵察説ほど説得力のない説も珍しいな。

571 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 14:09:58
>>569
成立させるために?
わかってないな。モンゴルがバカかリコウかは、威力偵察説の「成立」に
関係しないのだ。
それがわからないのはバ・・・(以下略)

572 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 18:07:33
>ヨーロッパ遠征のときはもっと間をあけている。

ならそれ威力偵察と違うんじゃね?

573 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 18:27:13
威力偵察って例えば全軍が激突する前に1〜2小隊で当たってみて
敵の戦術を見るとかそういうことを指す用語でしょ
年単位の壮大な話じゃないっしょ

たとえば加藤清正の満洲攻めを威力偵察ということはまあ可能かもしれないけど
文禄の役そのものを威力偵察とは言いようがない

年単位で時間を開けたらその時点で「威力偵察以外の何か」じゃないのかねー

574 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 18:47:03
当時の状況考えたら偵察なんて必要ないよ


575 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 19:32:20
だから>564の問いに答えてくれよw
EEIの意味が分からないならMI分野に言及
するような無謀なことは止めた方がいいよ。

576 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 19:36:23
ごめん。>575は>565、>568宛ね。


577 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 19:40:08
詭弁の練習をしに来ているとしか思えんな。
本当は本人も威力偵察なんて思ってなさそう。

578 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 19:51:40
>>572 >>573
文永の役の兵力が4万だから威力偵察でないとか、弘安の役との間隔が
7年だから違うとか言う人は、世界史を勉強したほうがよい。

1223年に、モンゴル軍がロシア(および周辺国)の騎士団を壊滅させた
カルカ川の戦いは、第1次のヨーロッパ遠征の過程で起こった。
kalka river, battle でぐぐれば英文資料がたくさんあるが、このときの
遠征を威力偵察と見なしている資料は多い。
そのうちの一つは、ジンギスカン自身がこれを威力偵察と見なしていた、と
言っている。
この第1次遠征の総兵力がまさに4個軍団、4万人であった。

その18年後の1941年、モンゴル軍は本攻撃とされる第2次のヨーロッパ遠征
において、ポーランドとドイツの連合騎士団を、リーグニッツの戦いで壊滅
させた。この第2次遠征の総兵力は15万であった。

第1次ヨーロッパ遠征が4万、18年おいて第2次が15万。
文永の役が4万、7年おいて弘安の役が14万。

間隔だけちょっと違うが、よく似た関係だ。

579 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 19:53:18
>そのうちの一つは、ジンギスカン自身がこれを威力偵察と見なしていた、と
>言っている。

出典は?

580 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 19:54:43
>>578
訂正:
その18年後の1941年 → その18年後の1241年


581 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 19:56:40
>>579
私の書いた通りに、じぶんでぐぐってごらん。
2,3ページのうちに出てくる。

582 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 20:02:07
論文じゃなくてチンギスハンの発言がなんという資料に出ているのか教えてください。

583 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 20:07:27
だから、日本名:文永の役における元のEEIは?
威力偵察説を採るなら、自分の予想でもいいから
EEIを述べなって。
あ、一応予想ってのは根拠があってのことだから
ね。妄想連ねて「これがEEI」とか言わないでねw

584 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 20:13:27
>>582
それは私にもわからない。ちなみに論文は:
http://www.historyofwar.org/articles/battles_kalka.html

その要約が表紙ページの最初に出ているが:
Taking place in the Southern Ukraine near the mouth of the Dniepr River the battle of Kalka River
was part of the Mongol invasion of Russia between 1221-1224. The Mongol Commander Subatai smashed
the Army of Prince Mstislav of Kiev despite the Russians outnumbering the Mongols 2 to 1 having 80,000
troops compared with an estimated 40,000 Mongols. The Battle was another example of Subatai's skilful
leadership and left the Ukraine open to pillage for the Mongols even though Genghis Khan regarded the
invasion as merely a reconnaissance in force.

最後の一節を訳すれば:チンギスハーンはこの侵略を単なる威力偵察と見なして
いたにも拘わらず

585 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 20:45:45
>584
元のEEIは?

586 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 20:50:31
>>562
なんか「イチロー○○安打達成!マリナーズはコールド負け」と
同じ考え方してないか?w

587 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 20:52:35
>>584
なんだ、ただの受け売りですか。がっかり。

588 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 22:36:32
>>586
うん、いい喩えだ。それでいいと思うよ。

589 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 22:38:09
>>587
このなかに、モンゴル語が読めて議論している人がいるのか?

590 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 22:43:13
なんか苦し紛れにおかしなこと言い出した人がいるね。

591 :586:2009/11/17(火) 23:15:44
>>588
自分の意見を肯定的に捉えて貰ってると勘違いしてる馬鹿w

592 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 02:35:19
EEIの件は完全無視する気みたいだねwぐぐれば出てくる言葉なのにw

593 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 07:58:19
>>589
モンゴル語の文献にチンギス・ハーンが威力偵察とみなしたとあるのですか?

594 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 08:59:44
スレが伸びてると思ったら
案の定、以前のアスペルガーくんが湧いてるのか。

595 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 09:00:23
>>591
ちゃかしたつもりが肯定になってしまっている馬鹿

>>593
いや、モンゴル語でそう書いてあると言わなければ君が満足しない
だろうと言う意味。

596 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 11:29:01
そもそも「威力偵察」なんて用語、当時の元にあったのか?

597 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 11:52:00
>>457では少なくとも太宰府までは侵攻する気マンマンのように見えるんだけど?

598 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 11:52:35
一つ言えるのは理由はどうあれ元が負けた言い訳にはならないってことだね

599 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 12:12:34
もう威力偵察クンが何言っても説得力ないなw

600 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 12:24:42
撤退の理由は

単純に対馬と壱岐で虐殺しすぎて矢を消耗しすぎた

武士が想像以上に強いし明日以降どんどん増援が来るので勝ち目がない

だべ
まあもともと短期決戦のつもりだったのは事実だろうけど(迅速に大宰府さえ落とせばなんとかなると思ってたんだろう)

601 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 15:33:24
>>596
13世紀に、現代の用語がそのままあった、などと考えるのがそもそも馬鹿。
「威力偵察」そのものがreconnaissance in forceの和訳だ。それに相当する
命令を発したかどうかだ。

さて、チンギスハーンが直接、スブタイに「あのあたりの様子を見て参れ」とか
言ったかどうかは置いといて、以前に言ったように、kalka river, battle
でぐぐって出てくる英語の資料を次々開けてみると、申し合わせたように
reconnaissannceまたはreconnaissance in force の言葉が出てくる。

つまり、モンゴルの侵略の直接の被害者である西欧世界では、第一次遠征を
威力偵察と見なすことが「定説化」しているのを知るのである。

そして第一次欧州遠征に対してこのような見方に立つならば、文永の役に対して
「4万という人数が多すぎる」「7年という間隔が長すぎる」という、否定派クン
たちの二つの根拠は雲散霧消するのである。

602 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 16:43:54
つまり

@文永の役は威力偵察ではない=モンゴル軍は二度とも正々堂々正面から武士と戦い華々しく散って行った

A文永の役は威力偵察=モンゴル軍はさかしく威力偵察なんぞやってはみたもののまるで役に立たないアホ情報しか持ち帰れず七年後自滅した

@とAのどっち?


603 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 17:39:36
英米の学者が言っている=正しいとは今時珍しい人だな。

604 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 18:05:09
ましてや分野は東洋史なのにwwww

605 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 18:05:32
もともと敗走の言い訳として出てきた説なんだけど残念ながら
そもそも「威力偵察と呼ぶことにしたとして」九州上陸後一日で惨敗した言い訳にはなってないのよね








606 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 19:59:54
>>602
どちらかと言えば(2)だがニュアンスが違う。

文永の役のモンゴル軍は、全軍を上陸・展開することに成功し、日本軍と
手合わせした上、一夜にして全軍を撤収して乗船させたところまでは
威力偵察として大成功。
その後の海難は単なる不運。

弘安の役のぶざまな敗戦は威力偵察軍の責任ではない。
それはまた別のテーマだ。

というわけだ。

607 :586:2009/11/18(水) 20:02:48
>606
で、元のEEIは?

608 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 20:05:05
チンギス・ハーンが威力偵察とみなしたという根拠は?

609 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 20:07:47
まあなんだね。威力偵察君は、ガダルカナル当初における
大本営みたいなもんだわいな。

610 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 21:31:35
このスレの伸び方は威力偵察クンの狂いっぷりにかかってきたな。

611 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 00:36:45
幕府軍にとっては得るものがない勝利であった


612 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 00:39:01
こっちのスレもよろしく
【文永の役】元寇(蒙古襲来)を考察【弘安の役】
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1258338795/

613 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 08:08:07
>>611
得るものはあったよ
本所領一円支配地の非御家人をも幕府が動員できる根拠を得た
まあ社会矛盾をさらに大きくさせてしまったわけだが


614 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 09:07:16
「4万は多過ぎる」「7年は長過ぎる」は聞こえなくなったな。
それをわかってもらっただけでもいいのだよ。

615 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 12:04:05
いや、四万は多すぎるし、七年は長すぎるし、威力偵察説は根拠薄弱だし
チンギスハーンの認識のソースもないし。突っ込みどころが多すぎで
しかも反論できないことからは徹底的に逃げるから、今はそこに触れる人がいないだけ。

616 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 12:32:57
>弘安の役のぶざまな敗戦は威力偵察軍の責任ではない
まず威力偵察軍かどうかが確定ではないよ

さらに敗戦の最終責任はフビライにあるのはあたりまえ
というより偵察だと言い張るなら
七年も間をあけたら戦場の状況が全く変わってしまうであろうことは子供でもわかりそうなもんだが
それがわからなかったモンゴル軍はやっぱり大馬鹿としか言いようがない

そんな大馬鹿に蹂躙されたヨーロッパや支那の立場ゼロだな

あと文永の役のときの軍が持ち帰った情報はなに?
そこまで自信満々に言うなら調べさせるにあたって事前に調査項目とか
調べた後報告したときのなんか資料残ってんでしょ?

617 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 12:49:54
>>611
元にとっては失うものばかりの敗戦だったな

618 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 13:32:53
>>616
>敗戦の最終責任はフビライにあるのはあたりまえ

そんなことはあたりまえだ。弘安の役の敗因を(威力偵察である)文永の
役に結びつける言い方に対して言っているのだ。

>それがわからなかったモンゴル軍はやっぱり大馬鹿としか言いようがない

だから大馬鹿であることを否定していないって。
しかし大馬鹿でも欧州では通用したことを忘れてはいけない。
欧州のときは、カルカ川で用いたとほとんど同じ戦法が18年後の
リーグニッツの戦いで通用した。
つまり、相手が学習しない、ということを学習して、それを日本に
あてはめたところが大馬鹿なのだ。無条件に大馬鹿なのではない。

>あと文永の役のときの軍が持ち帰った情報はなに?

考えるまでもない。経験したこと全てが情報だ。なにしろ海を渡って
日本を攻めることは、モンゴルとしても、中国としても初めてなの
だからね。
(念のためだが、元帝国は当時の中国でもある)

619 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 13:50:11
>>618
>考えるまでもない。経験したこと全てが情報だ。

考えるまでもない?
じゃあ威力偵察とそれ以外の区別が何もないじゃん
それじゃすべての軍事行動が威力偵察だといってるようなもんだ
あーあ持論を自分で破たんさせちゃったよ


620 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 13:57:11
>考えるまでもない。経験したこと全てが情報だ。なにしろ海を渡って
日本を攻めることは、モンゴルとしても、中国としても初めてなの
だからね。
樺太に攻め込んでますが、何か?

621 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 14:20:08
>>606
『日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ 元高麗紀事』
(上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう)
大宰府まで行けなかった文永の役は威力偵察であろうが無かろうが「失敗」ね

我が軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境の日本人を虜掠して帰る 元史日本伝
当人たちが予定外の撤退だというとりますが?

622 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 14:24:04
通常の軍隊のように当然偵察的な意味合いはあったに違いない。ただし、文永の役
の当初の目標は>>457のとおり、大宰府攻略にあると考えたほうが妥当。
敗戦後、文永の役の敗戦の経験を元に、文永の役の3倍以上の兵力が必要だと認識
し、その結果が弘安の役14万もの大軍の派兵だったのだろう。そういった点で言えば、
文永の役は威力偵察だったというのは間違いではない。

623 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 14:28:58
>>618の脳内では威力偵察目的ではない軍隊は何の情報も持ち帰らないといいうことになってるらしい

624 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 14:54:38
大坂冬の陣も威力偵察です。

625 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 15:00:42
じゃあ秀吉の文禄の役も威力偵察だね

626 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 15:27:19
第一次世界大戦も第二次のための威力偵察です。

627 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 16:48:32
文永の役は大宰府攻略を目的とした侵攻作戦でしょう


撤退の理由は
1、対馬、壱岐による虐殺、予定にない長期滞在によって物資を消耗した。
『我が軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境の日本人を虜掠して帰る 元史日本伝』

2、予想以上の武士の抵抗により指揮官が重傷を負うなど自軍に予想以上の消耗と被害を受けた

3、明日以降の武士の増援を恐れた
『忽敦曰 兵法小敵之堅大敵之擒 策披乏乃兵 敵日時之衆 非完計也 不若回軍 復亨中流矢 先登船 遂引兵還』

などの事情によるもの
単純に元の敗北でしょうね

628 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 18:57:26
あ〜あ、話が進んでしまったw
一応、威力偵察君が徹底的にスルーしてたEEIは、
「情報主要素」の事ね。ちなみに、これは「今何が
最も知りたいか」を指す言葉だから、まだ答えて
ないけどねw
EEIを語るには「何を決定するために」「どのような
情報が必要なのか」を語らなければ答えになって
ないから。

ん〜、少し考えるためのヒントを出すか。例えば、
遭遇戦において指揮幕僚活動の焦点が「戦場の
決定」である場合、EEIは「敵の前進開始時期及び
前進経路は」って感じ。で、EEIを具体化するための
収集項目が、敵の集結地での状況とか(兵站活動が
一段落付いて、宿営の施設を縮小したら前進開始が
近い)交通の要点になる地点で、どちら方向にどれ
だけ向かったかとか。

こんな感じで、文永の役における元のEEIと収集項目
を語ってくれれば、妄想と言われることはないと思う
んだけどね。

629 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 20:20:41
>>620
そのとき樺太は日本だったの?鎌倉武士が守っていたの?

>>621 >>622
日露戦争で威力偵察とされるミシチェンコ騎兵団を考えて見よう。
騎兵団の当面の目標は、はるか南、渤海沿岸の営口にあった日本軍の補給基地
の破壊にあった。事実、騎兵団は奉天から長駆して営口に到達したが、日本軍の
抵抗のため破壊は小規模に止まり、すぐさま反転して奉天に戻った。
すなわち当面の目的は達成されなかった。しかし騎兵団は日本軍の配備に
ついて多くの情報を得た。これがその次の黒溝台の攻勢、日本軍の危機に
つながった。(日本軍が全面崩壊を免れたのは、路軍の内部事情で自ら攻勢を
中止したからに過ぎなかった)

このようにミシチェンコ騎兵団は当面の目標を達成しなかったが、威力偵察
としては成功したのである。
また破壊が困難と見るやすぐさま反転したのは、その性格上、みずからの
補給に限界があり、したがって限定的な作戦だったからである。
このように見てくると、なんと文永の役の蒙古軍の行動に似ていることか。

630 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 22:07:05
妄想するのは勝手だけどさ。攻めてきた本人たちの史料は「それが真実であったとは限らない。」
とか言っちゃってる奴の言うことなんて、全く説得力無い。何々似てるから威力偵察なんて子ども
みたいなこと言ってないで、具体的な史料とそれを裏付ける元軍の行動を提示してくれ。

631 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 01:50:46
>>629
>>573

632 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 03:52:34
自分の主観で似てる似てると連呼したからってそれがなんなの?としか言いようがないよね

玉ねぎはレタスに似ている、つまり玉ねぎはレタスである

馬は犬に似ている、つまり馬は犬である

ジャバザハットは小沢一郎に似ている、つまりジャバザハットは小沢一郎である

木村カエラはうちの母ちゃんの若いころの写真に似ている、つまりうちの母ちゃんは木村カエラだ

福山雅治とみっちーは似ている、つまりみっちーは福山雅治だ

偵察君の言ってることってこういうことだろ



633 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 08:25:04
>>557
鎌倉幕府倒幕とは関係ないかもしれないが、恩賞の要求は有り得ると思う。
たった130年前の日本で、西南戦争に対する恩賞が少ないとして
軍人が蜂起した「竹橋事件」なんてのが起きたくらいだから。
お前らそれが仕事だろう、とw

634 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 10:26:16
>>615
>チンギスハーンの認識のソースもないし

Stephen Turnbull という人の、Genghis Khan and the Mongol conquests 
「チンギスハーンとモンゴルの征服事業」という本は面白い。そのちょい見せ
ページから拾って見た。

その74ページに:
When the Shar died in 1221, Subodai was one of the commanders entrusted
with the reconnaissance mission to the Western lands that took the Mongols
into Russia for the first time.

訳:(ホラズムの)シャーが1221年に死んだとき、スボダイは将軍の一人として
西の土地の偵察の使命を与えられた。これによって蒙古人たちは初めてロシアに足を
踏み入れた。

つまり、スボダイが威力偵察の使命を帯びていたことが前提として語られている。

635 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 10:29:34
同じページにさらに詳しく:
Their earlier conquests of the territory of the shar of Khwarazm had taken
the Mongols as far as the borders of Azerbaijan at which point Subodai and
Jebe asked permission to proceed north and reconnoitre the "Wetern lands".
This led to the conquest of Azerbaijan and Georgia, after which they came upon
the normadic Polovitsians, referred to in the chronicles as Kipchaks and Cumans.

訳:それまでのホラズム・シャーの領域の征服によって、蒙古人たちはアゼルバイ
ジャンの国境まで来ていた。この地点でスボダイとジェベとは、北に進んで”西の国”を
偵察する許可を求めた。その許可を受けて彼らはアゼルバイジャンおよびジョージアを
征服し、その後、遊牧民のポロブチャンと遭遇した。歴史上キプチャクあるいはクマン
と呼ばれている民族である。

このポロブチャンが、カルカ川でロシア人と同盟して戦った民族である。
この文章からわかるように、スボダイの軍はホラズムを滅ぼした征服軍であったが、
その後、チンギスカンの指示を請うてロシアへの威力偵察軍となったのである。

著者のターンブルはむしろ日本史が専門だから、当然、文永の役にも言及している。
65ページ:
The 1274 attack was, however, of very brief duration and bears comparison to the
first phase of the Mongol operations described above, all of which began with a
reconnaissance force.

すなわち:しかしながら1274年の攻撃は非常に短期間のもので、上述したモンゴルの
作戦の第一段階に相当するものである。モンゴルの作戦は全て威力偵察軍を手始めと
したのである。

636 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 10:39:09
>>635
訂正:「ジョージア」は英語の発音にしたがったが、我々には「グルジア」
のほうが正しい。関取「黒海」やスターリンの故郷である。

637 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 11:15:40
歴史家が専門外の用語を誤用してるだけじゃん

638 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 11:23:59
>>554
蒙古襲来絵詞:改竄?3人の蒙古兵は「江戸時代の加筆」―歴史学者が集大成出版

 気付いたのは、中村学園大(福岡市)の佐藤鉄太郎教授。平成6年
(1994)の日本古文書学会で初めて指摘した。村井章介・東京大大学院教授
は「蒙古軍の軍装などはそれまで3人の絵をもとに議論されていた。その前提を
崩す衝撃的な発表だった。継ぎ目の問題など説得力があり、目からうろこという
感じで聞いた」と打ち明ける。
 佐藤さんは、鎌倉時代と明らかに違う装束の人物がいるなど、加筆や修正され
た個所が他にも多数あると指摘。今春、研究の集大成として『蒙古襲来絵詞と竹
崎季長の研究』(錦正社)を出版した。
 その中で佐藤さんは、炸裂している鉄砲の絵も、3人の蒙古兵と同時に書き加
えられたのではないかと問題提起している。3人の靴や剣、槍の柄の黒と鉄砲が
全く同色で、しかも蒙古軍のいる左側ではなく、右側から飛来しているように描
かれているのは不自然というのが理由だ。
 村井教授は「長崎県鷹島沖の海底から実物が出てきた鉄砲まで追筆とはにわか
に思えないが、その他の部分も含めて再検討は必要かもしれない」と言う。
 佐藤さんは「古い資料は後世の修正や加筆を念頭に入れて見る必要がある。今
でも3人の蒙古兵の絵を載せた教科書があるが、後世の絵師が想像で誇張して描
いたものであることを正しく教えてほしい」と話している。(毎日新聞
2005-08-19)

639 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 12:04:12
いいから早く史料を出せよwwww
そんなのいくら並べたって証拠にならないの。

640 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 13:22:10
>>638
そんなの常識だ。
石築地の場面で、築地の上であぐらをかいて休んでいる武将たちの前で
変な格好でなぎなたに凭れてたたずむ徒歩兵がいるよね。
あれもほんとうは疾走していたのだ。
修正した跡まで残っている。

641 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 13:40:48
>>637
>歴史家が専門外の用語を誤用してるだけじゃん

専門外? ステフェン・ターンブルの経歴を見よう。

Stephen Turnbull (historian)
Stephen Richard Turnbull is a historian specializing in eastern military
history, especially the Samurai of Japan.
He attended Cambridge University where he gained his first degree. He currently
holds an MA in Theology, MA in Military History and a PhD from the University of
Leeds where he is currently a lecturer in Far Eastern Religions.(Wiki)


訳:ステフェン・ターンブル(歴史家)
ステフェン・ターンブルは東洋の軍事史、特に日本の武士に専門を有する歴史家である。
彼はケンブリッジ大学で最初の学位を得た。彼は神学と軍事史でMAを有し、
リード大学から博士号を受け、現在はここで極東の宗教について講義している。

わかるかな? 東洋史と同時に軍事史の専門家だ。

642 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 13:46:42
>>638
その発表があってだいぶ時間たったけど、今だに教科書に載ってるのはなぜだろう?

643 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 13:51:30
何をどう言い訳しても文永の役で敗北した言い訳にはならないけどね

644 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 14:10:49

フビライさんがそういう命令を出しましたって言う文献一つ出せば皆納得する話

645 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 14:33:25
ステフェン・ターンブルかよ。奴の知識は相当に割り引いて
考える必要があるぞ。
ディスカバリーチャンネルの「武士の魂 日本刀」で、正に
元寇の時代の話をしているのに「帯刀を許されていたのは
武士のみ」と、刀狩り以前は庶民も武装していたのが当然
という常識に反した発言をしていたり、日本刀をメインアーム
と捉えた発言していたり、肩書きに偽りありってのが明確に
分かるよ。

あと、元軍は確かに「主力に先立って威力偵察を実施」する
のが常套手段だったけど、これって軽騎兵の行動と混同して
いる感じがする。元の軽騎兵は、敵情の解明のみならず敵の
拘束・誘致導入・主力の側背掩護といった行動をするけど、
これは現代戦術における掩護部隊の行動と合致する。
現代におけるこの種の部隊の典型例は米陸軍の騎兵連隊
とかだな。

いずれにしても、ちょっとでも戦術に詳しければ文永の役が
「威力偵察」であったという発言はおかしいと分かるんだが。

646 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 14:46:40
ああ、あの元寇の活躍によって日本刀はサムライの魂になったようなことをほざいてた人かw

専門外の話をしたり顔で話す学者ほどタチの悪いものはないね。
いや、そんな学者を無批判に信奉するヤツの方がタチ悪いかなw

647 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:06:52
テーサツクンは鈴木信者の親戚みたいなやつだな

648 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:38:01
鈴木信者も議論できる場からはいなくなったな。
威力偵察くんも話を逸らしたり都合の悪い話題から逃げることしかできないなら
消えたら?

649 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:44:07
要するに同一目標を複数回攻撃した場合、最新の攻撃以外は後付けでなんでもかんでも「ひとつ後の攻撃のための威力偵察よばわりできます」ってだけのことじゃん
で、そんな言葉遊びをして結局何が変わるの?
名前を変えても本来の「威力偵察」にできるわけじゃないんだぜ?

お前の理屈じゃ「威力偵察もそれ以外の攻撃も本質的に何も変わらない」ということになる
名前を変えただけだからね

650 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:48:26
>>645
>元軍は確かに「主力に先立って威力偵察を実施」するのが常套手段だった
>けど、これって軽騎兵の行動と混同している感じがする。
>ちょっとでも戦術に詳しければ文永の役が「威力偵察」であったという発言は
>おかしいと分かるんだが

それは「威力偵察」の定義によるが、戦術に詳しい君は「威力偵察」を
どのように定義しているの?




651 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:55:01
タンブル厨は
戦術レベルの用語をどうして「役」全体の行動に当てはめたがってるの?

652 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 16:31:32
>>644
ペルシア語文献に載ってますよ。

653 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 16:33:25
民明書房にものってた

654 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 17:22:43
何語の文献とかいいから何という文献なのかを教えてください。

655 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 17:26:31
>>645
あの番組の日本刀をメインアームの話は
あくまで志賀島での夜討ちなどの「白兵戦では日本刀使ってた」ってことかと解釈してた。
それなら別に間違いじゃないからな。
が、もしかして全面的に白兵戦しかしてなかったんだって言うアホ主張だったのか?あれ

656 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 17:45:55
エルデニイン・トプチに乗ってた

657 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 17:51:21
>>655
全面に渡ってそういう主張だったぞ。
ニコ動かつべで見てみろ。
刀の製法自体は正確に解説してるのに
歴史とかの話になった途端突っ込み所満載の主張してるから。

658 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 17:56:16
日本刀がメインアーム的な話の所では、明らかに宮本武蔵を
題材にした映画(?)を挿入したり、明治期のものと思われる
錦絵(絵の題材自体も、服装からして幕末期と思われる)を
映したりして、明らかに「サムライの発生から一貫して日本刀
がメインアーム」という論調に捉えていいかとおもうぞ。

659 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 19:55:19
>>645
「威力偵察の定義」はまだ?

660 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 20:11:08
刀は武士の証でした

中世 天皇の政治的発言力は失われ
武士が台頭します

武士以外の人間の帯刀は禁止され
違反すれば殺されました

武士の身分を証明するのは
刀を所持していることでした

帯刀はエリートの証だったのです

DR STEPHEN TURNBULL(日本史の専門家)

661 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 20:19:45
金剛仏子叡尊感身学正記
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」

662 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 20:48:20
>>649
君の書き込みを見過ごした。

「最新の攻撃の一つ前の攻撃」

これが君による、威力偵察の定義か?

663 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 20:49:25
となると第3次攻撃が予定されていたということは
弘安の役も威力偵察だったんだな。

664 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:32:47
>>654
エルデニイン・トプチだといってるんだから、早く読んで来いよな。

665 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:37:20
『エルデニイン・トプチ』は大分下った時代に書かれた本だぞ。当時の資料もってこいって行ってるのに
どこまでズレれば気が済むんだろう。

666 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 21:52:01
 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  
  | |@_,.--、_,>  
  ヽヽ___ノ  偵察後14万の大軍を送ったら今度は上陸すら出来なかったでござる
                                          の巻

667 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 22:27:07
>>663
>第3次攻撃が予定されていたということは
>弘安の役も威力偵察だったんだな。

>>649の定義によればそういうことになる。


668 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 08:35:22
>>645 も、>>649も、威力偵察の定義を示さないな。
定義なしならなんとでも言えるし、なにを言っても出まかせだ。

それではこちらから定義を示そう。威力偵察は外来の概念だから、
外国語で見た方がよい。

ある百科事典:http://en.allexperts.com/e/r/re/reconnaissance.htm#hd2
は次のように説明している。

Reconnaissance in force (RIF) is a type of military operation used specifically
to probe an enemy's disposition. By mounting an offensive with considerable
(but not decisive) force, the commander hopes to elicit a strong reaction by
the enemy that reveals its own strength, deployment, and other tactical data.
The RIF commander retains the option to fall back with the data or expand the
conflict into a full engagement.

訳:威力偵察(RIF)は、特に敵の戦備を検出するために用いられる一種の軍事
行動である。相当な(しかし決定的ではない)勢力で攻勢をしかけることに
よって、指揮官は敵の強い反応を引き出し、これによって敵の戦力、配置、
およびその他のデータを明らかにすることを期待する。RIF指揮官はデータ
を持って退却するか、衝突を全面的な交戦に発展させるかの選択権を保持する。

注:disposition は「戦備」と訳したが、辞書によれば本来の意味は「性向」
であり、軍事的には配置、作戦計画などである。


669 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 08:55:12
これはカルカ川の戦い、ミシチェンコ騎兵団、それに文永の役を統一的に
説明することができる、よい定義だと思う。

もうすこし分析して見よう。
第一に威力偵察は「大勢力」である。必然的に、威力偵察はその行動を秘匿しない。
これが普通の斥候との大きな違いである。

第二に、威力偵察は「攻勢」である。決して戦術的な「ちょっかい」ではない。
これが、大勢力を要する理由である。

第三に、威力偵察はその目標に執着しない(退却か全面的交戦かの選択権を
有する)。なぜなら一応の目標はあっても、目的は「データ」にあるからである。

ミシチェンコ騎兵団は1万人で攻勢をしかけ、「営口」という目標が困難と
見るや、「データを持っての退却」を選択した。
文永の役の蒙古軍は4万人で攻勢をしかけ、「太宰府」という目標が困難と
見るや、「データを持っての退却」を選択した。

これに対して、弘安の役の蒙古軍は長々と目標に執着した。彼らはあくまで
「占領」を目指した。このことは彼らが文永の役になかった「農具」を持って
来たことにも現れている。

670 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 12:40:27
2万の兵を送ったジャワ島遠征は威力偵察ですか?

671 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 13:16:37
ミリ哲ならブログで威力偵察の定義出してるけど

672 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 13:30:58
>668
未だに元のEEIは何か、から逃げてる威力偵察君に逃げてる呼ばわり
されたくないなぁ。
俺の「威力偵察」の定義は、以前から「敵の勢力・編組及び配置を暴露
させるとともに、その反応を見るために行う、限定目標の攻撃による偵察」
なんだけどね。

ちなみに、君が示した定義のうち、重要な用語の相当数が君の勝手な
思いこみ、妄想によって歪められているよ。
dispositionはどちらかというと「陣形」に近い意義を持っている言葉だ。
海軍用語だと、モロに「陣形配備」になるしね。「作戦計画」なんて言葉
にはならない。作戦計画はそのまま「operation plan」となる。そもそも、
長々と引用した文章にmilitary operationの用語が入っている時点で
君の説が否定されるんだけどねw軍事用語で言うmilitary operation
は、狭義には方面軍以下の行動を指す言葉だからね。つまり、文永の
役に当てはめると「元軍4万がいかにして戦うか」の情報を収集する
行動になってしまうわけw

あと、攻勢と「ちょっかい」は違う、とか意味不明w単に「決定的戦闘」を
避ける、ってだけの話だよ。で、この「決定的戦闘」が何を指すのかと
いうと、結局は「威力偵察に任ずる部隊が戦場に捕捉・撃滅」されるのを
防止する、ってだけの意味合いしかない。
意味が分からないなら、まずは「決戦」の定義から講義するよ?

673 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 13:45:39
>672
ちょっと修正
×「元軍4万がいかにして戦うか」の情報を収集
○「元軍4万がいかにして戦うか」に資するための情報を収集
だな。

674 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 13:46:07
>>672
文章をよく読め。
「作戦計画」というのは辞書(ジーニアス英和辞典)に載っている
訳語を紹介しただけだ。
また君がどのコメントにあたるのか知らないが「逃げてる」と言った
ことは一度もない。人の言わないことをあげつらわないように。

で、「文永の役」が威力偵察に当たらない理由は何か?

675 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 13:56:41
>674
>>645 も、>>649も、威力偵察の定義を示さないな。
>定義なしならなんとでも言えるし、なにを言っても出まかせだ。
↑普通、こういうのは逃げてる認定ですwまあ元のEEIをちゃんと
示してからデカいことを言ってくれw

威力偵察じゃない理由>威力偵察は、比較的短期間に変化しうる
勢力・編組・配置を暴露させるものであり、その任務を負う部隊が
掩護部隊であるため。「先遣部隊」と「掩護部隊」の違いは分かるか?
分からないならそれも説明するが。

676 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 13:58:36
>>672
またmilitary operationだが、英語ウィキがいくつかの類型を挙げている
うちで最初に挙げているのが:

Military operations can be classified by the scale and scope of force employment,
and their impact on the wider conflict. The scope of military operations can be:

Theatre: this describes an operation over a large, often continental area of
operation and represents a strategic national commitment to the conflict such as
Operation Barbarossa, with general goals that encompass areas of consideration
outside of the military such as the economic and political impacts.

ということで、その例はバルバロッサ作戦なんだが。
(あと三つか四つかだん小規模な例を挙げている)

677 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 14:03:41
>>675
>威力偵察は、比較的短期間に変化しうる勢力・編組・配置を暴露させる
>ものであり、その任務を負う部隊が掩護部隊であるため。

そんな定義はどこにもない。

678 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 14:33:55
>677
ヒント:>677
え?君自身が訳してるでしょ?
>敵の戦力、配置、およびその他のデータを
>明らかにすることを期待する。
ここでの戦力ってのは、より明確に定義すると
「勢力」(もっと具体化すると、敵の規模って意味に
ほぼ等しい)、配置は君もモロに言ってるし、編組
ってのは「勢力」と「配置」の間に入っている概念だし
(部隊の種類、規模及び展開状況を含む)。

掩護部隊のことで言えば、もうこれはFM7-50あたりを
読んでくれとしか言いようがない。

679 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 14:42:32
ああ、一応掩護部隊について一例を示しておくか。
ヒント:湾岸戦争における第2機甲騎兵連隊

680 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 16:36:07
>>678
「比較的短期間に変化し得る」と「援護部隊」とは君じしんの定義に入って
いないではないか。
定義を挙げた以上、定義にしたがって議論し給え。

ついでだが、君はミシチェンコ騎兵団の営口攻撃については「威力偵察」だと
思うのか?

681 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 16:39:30
今、今津の防塁で一人佇みながら博多湾を眺めてます。
気分は竹崎五郎です(>.<)y-~

682 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 16:48:38
>680
えっと、「比較的短時間に変化しうる」なんてのは定義以前の常識
と言うか「そのとき何を企図しているか」の話なんだからむしろ前提
条件でしょ。過去スレとかでも野球に例えてる場面があったんで
それに例えると、現在のイニングで敵が狙っていることなんか次の
イニングでは変わってるなんてごく当たり前でしょ?同様に、戦況の
推移に従って配置も編祖も変わるのが当然だろ。例えば、前衛から
側衛に任務変更されるとかね。
同様に、「掩護部隊」の持つ任務が「主力の行動に寄与するため、前衛
・側衛等の警戒部隊としての行動や威力偵察、主力の集結・進出掩護
のための要点の確保、敵の誘致導入をする」ことなんて、戦術上の
常識であって、なんで敢えて定義しなきゃならんの?って話だ。
ま、そんな常識も知らずに戦術談議してたんなら、当然訳分からん
かっただろうから謝るよw

ミシチェンコ騎兵団については、威力偵察云々ではなく「任務に有る
程度の幅をもった、独立的に行動する部隊」としての行動だね。
ああ、「任務に有る程度の幅」も分からないか、掩護部隊の何たるかも
知らないんじゃ。長くなりすぎたんで、必要なら別途説明するよ?

683 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 19:34:23
>>682
簡単に聞こう。
ミシチェンコ騎兵団の営口攻撃を威力偵察であるとする資料は多いが、
君はミシチェンコ騎兵団の営口攻撃を威力偵察であると考えるのか?
それとも威力偵察ではないと考えるのか?

684 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 19:56:38
>683
文永の役における元のEEIは何か、に答えたら答えるわw

685 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 20:01:58
つかジャワ遠征は威力偵察なのかどうか答えてくれよ。
日本に対するより少ない2万程度と言われるが、威力偵察とするのを見たことがない。
この違いは何なんだ?

686 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 20:21:23
自分は質問から逃げるのに他人には答えを強要する威力偵察クン

687 :日本@名無史さん:2009/11/21(土) 22:13:03
>>652
そのペルシア語文献とは?

688 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 10:10:29
>>684
682であれだけの文字数を使った君が、こんな簡単なイエスオアノーに
答えられないのか。
答えられない理由を教えてやろう。
ミシチェンコ騎兵団を威力偵察と認めてしまうと、数々の共通点を
有する文永の役を威力偵察と認めざるを得なくなるからだ。

689 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 12:51:51
ジャワ遠征は威力偵察?
あなたも答えてくださいね。

690 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 13:39:23
>>662
おまえさんsageが一人だけと思ってるみたいだけど
例えば俺は>>649だが、>>645じゃないよ

691 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 13:47:09
>>688
>>632

692 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 13:58:42
>>683
質問がおかしい
ミシチェンコ騎兵団は満洲軍のごく一部の部隊じゃん
いうなれば文永の役の全軍はこの満洲軍に当たる

たとえば
文永の役のうち例えば白石六郎軍らに追い散らされた金方慶軍と
ミシチェンコ騎兵団を比べるとかならまだわかるが

693 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 15:15:06
相変わらず自分は質問から逃げる威力偵察クン

694 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 17:22:23
>688
自分で言ってて恥ずかしくない?一応ミシチェンコ騎兵団の行動が「威力偵察だった」
に好意的なネタを振ってまであげたのに・・・
そもそも、当初の目的が「後方連絡線の遮断により3Aの北進を遅延させるとともに、
第一線兵力の牽制」だったものを「威力偵察だった」にするには、俺が言ったように
「任務にある程度の〜」って事にしなきゃダメだってのに・・・

ま、これ以上語って欲しかったら、さっさと「元のEEI」に答えてくれってこったなw
本当はこんな話も語る気はなかったけど、なんかいかにも俺が逃げてる的な事
言ってるのに腹立ったんでなw

695 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 19:26:31
タンブル厨フルボッコだな

696 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 21:41:31
>>689
モンゴル軍の行動から判断すれば征服軍だね。彼らは1年分の食糧を積んで
いったというし、事実、居座った。文永の役の蒙古軍が、食糧はわからないが、
たった1日で矢を射尽くしたのと対比される。

>>692
領域を一つの戦場に限定して考える必要はない。
文永の役は東アジアと言う戦域で元が日本に対して動員し得る兵力のなかでの
2万数千(前に4万と書いたのは誤り)だし、
ミシチェンコ騎兵団は南満州のロシア軍30数万のなかの1万だ。

>>694
ぐだぐだ書く必要はない。
要するに君はミシチェンコ騎兵団の営口攻撃は威力偵察ではない、と
考えるのだね?

697 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:01:04
撤退理由として「矢尽き」の前に「官軍整わず」とあるのは無視?”威力偵察”としても失敗だったとは認めるの?

698 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 22:07:25
>>696
一日で矢を打ち尽くす?対馬や壱岐での虐殺は無視か?

699 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 01:50:05
むしろ対馬や壱岐で民間人虐殺エンジョイしすぎて
本戦の頃には矢弾が尽きちゃったってオチじゃね?

700 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 07:01:33
>696
だから「元のEEI」は?先に質問に答えろよw

701 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 07:07:23
まだ逃げる威力偵察クン

702 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 09:39:57
>>697
>撤退理由として「矢尽き」の前に「官軍整わず」とあるのは無視?

>>668を読んだか?
「威力偵察の指揮官はデータを持って退却するか、衝突を全面的な交戦に発展
させるかの選択権を保持する。」

威力偵察は当面の目標(この場合は太宰府攻略)の達成が困難と見れば退却を
選択してよいのだ。「官軍不整 又矢尽」はその理由の説明である。

>威力偵察”としても失敗だったとは認めるの?

上記のように、指揮官の判断で退却したことが即ち威力偵察の失敗ではない。

>>698 >>699
民間人を殺戮するのに貴重な矢は使わないだろう。まあその前の守備隊との
交戦には使っただろうけどね。いずれにしても短期作戦、限定作戦だ。

703 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 09:53:16
>>697
追加:
私は「文永の役は威力偵察だった」と言っている。
「威力偵察だったか否か」と「威力偵察として失敗したか、成功したか」
は別の問題だ。

704 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 11:15:24
>702
元のEEIは?

705 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:20:23
派遣軍全体が威力偵察とかいう時点で与太話もいいとこ





706 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:24:01
>>696
>領域を一つの戦場に限定して考える必要はない。
お前それ本気で言ってんのか?

707 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 13:42:01
>>702
単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れるっての
お前の長々とした駄文では何の証明にもなってないよ
古今東西の戦争すべてを威力偵察にするつもりか?

「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?」
この問いに証拠付で答えるだけでいいのに




708 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 14:13:44
秀吉の文禄の役も威力偵察ニダ

709 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 14:36:09
ジャワが征服軍で日本の場合は威力偵察だったとするからには
命令書などの証拠があるのでしょうか?

710 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 14:50:42
>>709
いまのところそんな証拠は提示されてないね

711 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 16:40:57
そもそも文永の役は大宰府征服目的(>>451>>457
ジャワより物資少ないから威力偵察でしたとか言っちゃって
タンブル厨は恥ずかしくないのか?

712 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 18:13:09
>711
>そもそも文永の役は大宰府征服目的

>>672を読んだか? 軍事厨くんによる威力偵察の定義は:

「敵の勢力・編組及び配置を暴露させるとともに、その反応を見るために
行う、限定目標の攻撃による偵察」

「限定目標」、それが太宰府。

713 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 18:24:25
>>712
ジャワと文永の役、どちらも服属拒否への制裁として派兵したのに片方は征服で
片方は威力偵察とするからには明確な根拠があるんだろ?

まさか、片方は駐留したから征服軍、片方は撤退したから威力偵察なんて話じゃないよな?
征服でなく威力偵察とするからには命令存在するんだろ?一度では征服できないので
まずは偵察して様子を見るようにというような命令がさ。

714 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 18:38:19
つかジャワより九州のが大陸から遥かに近いんだから
用意する兵糧がジャワよりずっと少ないのは当たり前なわけで。
元にしてみりゃ、あれでイケると思ったんだろ。
で、征服は無理だと判断したから早めに撤退したと。

もし本当に威力偵察目的だったってんなら
「撤退すんの嫌ニダ!」ってファビョった
高麗の武将は作戦内容すら理解出来てなかった池沼だな。

715 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:49:08
ベトナムへの第1回侵攻は食料不足もあって撤退したようだな。
これは威力偵察か?

716 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:50:17
>>714
>元にしてみりゃ、あれでイケると思ったんだろ。
>で、征服は無理だと判断したから早めに撤退したと。

で、それで学習したから次の弘安の役には食糧どっさり積んで
来て何ヶ月も粘ったと。
・・・ん? それこそ威力偵察の成果じゃないか?

717 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:06:46
ttp://ethnos.exblog.jp/1908596/
>その間にモンゴル諸家からの供出部隊が参着したほか、先鋒隊による威力偵察を行い、
>「イランの地」の王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけた。

しかし威力偵察って言葉はこういう人たちにはずいぶん好き勝手に使われるんだな。
押しかけていって王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけたりするのなんて
もはや威力偵察でもなんでもないぞ。

718 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:19:37
>>714
『元史』には「日本に入りてこれを敗らんとするも」とある。
日本の降伏と服属を目的としているのは明白だよ。

719 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 23:33:14
普通に考えたら従属を迫り実現させるのが目的だよな

720 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 23:35:09
威力偵察を実証できる文献は結局ないのかよ。

721 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 23:47:28
そういや>>652のペルシア語文献はまだ?

722 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 00:48:14
ダンブル厨って聞くとホグワーツの長髭校長先生を思い出す。
俳優の人70だか80で子供作ったんだっけ?

723 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 11:12:58
>>712
だーかーらー

■■単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れるっての■■

あとづけで似てる似てると連呼したって何にもならん
お前の長々とした駄文では何の証明にもなってないよ
古今東西の戦争すべてを威力偵察にするつもりか?


「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?」

724 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 13:19:45
なぜ、それほど損害を出していない文永の役の蒙古軍がたった1日で撤退した
のか? 
矢が尽きたと言うなら、なぜそのくらいの準備しかしてなかったのか?

対して、弘安の役の蒙古軍は勝てる見込みもないのになぜ長々と粘ったのか?
また、それだけ粘るだけの補給品を持ち、あげくは農具まで持っていたのか?

これらの疑問に答えられない限り、アンチ威力偵察説は威力を持たない。

725 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 13:45:41
威力偵察説がまったく説得力を持ってないのに何言ってるんだ?
一方的な勝利宣言はまさに詭弁のガイドラインにピッタリ当て嵌まるわ。

726 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 14:19:04
補給品や農具など、要するに「文永の役より準備がいい」のはそりゃ文永の役で学習したんだろう
どんな戦だってそりゃ何か学習はするさ

で、「文永の役で学習したなら威力偵察」って言いたいの?
本気でそういうつもりなら言ってごらん?その瞬間お前さんの持論は自爆することになるからね。

727 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 14:27:42
>>724
元軍の攻撃はことごとく撃退され、あまつさえ指揮官が重傷を負わされてるのに「それほどの損害を出していない」w
とりあえず撤退の理由は何度も出てる。例えば>>451ね。

要するに
1、対馬壱岐での予定外長期滞在による物資の消耗(金方慶の暴走)
2、武士の予想外の強さ
3、そんな武士が今後増殖し続けることの恐怖

全部既出のはずだが?

728 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 14:54:29
タンブル厨は>>704-710をスルーしました
タンブル厨は>>713をスルーしました
タンブル厨は>>715をスルーしました
タンブル厨は>>718-721をスルーしました
タンブル厨は>>723をスルーしました

729 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 19:39:13
>712みたいにとんちんかんな考え方してる奴にとってみれば、
確かに俺は軍事厨だなw
威力偵察のための限定目標を太宰府に選定するなんてあるわけ
ないだろw
なぜなら、太宰府一帯は福岡平野に進出した日本軍を捕捉・撃滅
しうる目標だからだ。つまり、太宰府を目標とした場合、決定的戦闘
に陥ってしまうと言うこと。その程度の戦術的常識も持ち合わせずに
語るなよ。

まあ、太宰府一帯を目標とした威力偵察も考えられなくはないが、
その場合、福岡平野一帯に進出した部隊を警戒部隊、太宰府に
逐次集結中と見積もられる部隊を日本軍主力と考え、「福岡平野
一帯の日本軍警戒部隊を駆逐しつつ、太宰府一帯に集結中の
日本軍と接触し、情報を収集する」って方針じゃないと話が合わ
なくなる。この場合、当然「偵察目標である日本軍主力」と接触すら
出来なかったんだから、威力偵察は完全に失敗、って評価になるん
だけどねw


それより元のEEI答えてよw

730 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 19:42:21
>>727
>元軍の攻撃はことごとく撃退され、

え? 日本軍の間違いか?

>あまつさえ指揮官が重傷を負わされてるのに

漢人の指揮官一人怪我したところで、指揮官はあと3人いるではないか。
なにをおおげさな。

ところで、ジャヴァに行った蒙古軍は現地人のだまし討ちにあってほとんどの
幹部を殺され、将軍3人はかろうじて逃げ帰った。
その結果、2人の将軍が罰を受け、むち70回と財産1/3の没収を食らった
ことが記録に残っている。

文永の役でたった1日で逃げ帰ったのは、かなりぶざまな負け方だが、それで
罰を食らった将軍は一人もいないどころか、ほとんど弘安の役に再任されている。
これはジャヴァの場合と較べてかなり不公平だ。
これをなんと説明する?

731 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 20:23:40
>>730
自分の発言の中に答え出てるのに・・・元は不意打ち・だまし討ちを受ける
ような事態になることを固く戒めていた。親衛隊衛士の規則にも、警戒を
怠った者への厳罰規定があるのは当然知ってるよね?

戦って負けた者とだまし討ちを受けるほど油断した者との差だよ。

732 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 21:18:14
阿塔海
金方慶
洪茶丘
忻都
范文虎

弘安の役の大敗戦の後、彼らはどんな罰を受けたんだ?処刑でもされたのか?
引き続き第3次遠征の計画に関わっているのもいる。

フビライの怒りを買って斬首されたという話のある范文虎も、『元史』世祖本紀によると
フビライの没年以後も生存していたというしな。

733 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 22:36:38
で、威力偵察を裏付ける文献はまだですか?

734 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 23:10:12
「矢尽き」を強調する威力偵察クンが「その国に入りこれを敗らんとするも」を
見ないフリする件について。

735 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 07:50:41
文永の役の威力偵察で元軍は情報を持ち帰ったというけど、日本側にも実に多くの情報がもたらされたわけだよなw
威力偵察をしなくても戦闘で情報がもたらされることのいい例だ。

736 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 08:50:15
>>729
>威力偵察は完全に失敗、って評価になるんだけどね

「威力偵察は完全に失敗」ということは「威力偵察である」ことを前提に
しないと言えないな。

「威力偵察としては失敗」だから「威力偵察ではない」という論理はない。

わかるかな?

737 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 09:36:07
>>727
>対馬壱岐での予定外長期滞在による物資の消耗(金方慶の暴走)

馬山出発から鷹島到着まではちょうど2週間だ。
当時の船旅は風任せだから、このくらいかかるのは普通のことだ。

たった2週間を予定外の長期滞在というからには、やはり短期作戦だった
んだろうな。

>>731
>元は不意打ち・だまし討ちを受けるような事態になることを固く戒めていた

私の文章を読んでの後出しじゃんけんでない証拠に、ソースを出し給え。

738 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 11:22:07
>>732
秀吉の唐入りだって、敵前逃亡した大友を除けば
一回目の講和の後、所領取り上げられたり処刑された奴はいないな。
加藤とかは石田との仲間割れが原因だし。

敗軍の将のその後の待遇で
軍の勝敗や目的を判断するとか愚かしいわ。
古代ローマ軍なんて、遠征失敗しても
お咎めなしだった例は幾らでもある。

739 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 11:54:18
>>737
いつだれが馬山から鷹島の話なんかしたんだよほんと頭わりいな
対馬壱岐での虐殺の話だろ
元軍は対馬上陸から博多上陸まで15日かかってんだぞw



740 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 11:57:26
>>元軍の攻撃はことごとく撃退され、
>え? 日本軍の間違いか?

え?マジで言ってんの?じゃあおなじみの貼っちゃおうか
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。

741 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:11:22
>>738
最初に言い出したのは>>730なんだけどなw

742 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:32:20
>>738

ジャヴァに行った蒙古軍は現地人のだまし討ちにあってほとんどの
幹部を殺され、将軍3人はかろうじて逃げ帰った。
その結果、2人の将軍が罰を受け、むち70回と財産1/3の没収を食らった
ことが記録に残っている。

文永の役でたった1日で逃げ帰ったのは、かなりぶざまな負け方だが、それで
罰を食らった将軍は一人もいないどころか、ほとんど弘安の役に再任されている。
これはジャヴァの場合と較べてかなり不公平だ。
これをなんと説明する?

743 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:48:50
>>742
>>731

744 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:50:36
>>723はまた見えないふりをする偵察厨

745 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:54:44
秀吉の唐入りは威力偵察、古代ローマ軍で任務失敗しても咎められなかった例も威力偵察だったからww

ああ、弘安の役も威力偵察ですw
だってジャヴァよりもはるかに多くの損害を出したにも関わらず将軍が厳罰を受けていないんだからねww

はんぶんこなんか斬首どころか成宗の時代まで生きていましたよ。これが弘安の役が威力偵察であった証拠。
http://www.chinapage.com/big5/history/y02.htm

746 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:59:07
>>717
それだけ誤用が氾濫してるってことだろうな

747 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:21:41
>>739
対馬でかなり滞留したことは知っている。
私が言っているのは:風待ちしていい風が吹かなければ15日ぐらいは
あっと言う間だ、ということだ。

で、15日かかったとして、それが「予定外長期滞在」になるのなら、
全体の計画は当時としては「短期作戦」ということになるではないか。

ついでだが、>>742はコピペだよ。

748 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:29:08
珍説!短期作戦ならすべて威力偵察だ!!
ハイいただきましたw

749 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:32:44
そもそも短期で引き上げざる得なくなったのは対馬や壱岐での寄り道虐殺のせいじゃん

750 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:40:30
>>747

>敗軍の将のその後の待遇で
>軍の勝敗や目的を判断するとか愚かしいわ。
>古代ローマ軍なんて、遠征失敗しても
>お咎めなしだった例は幾らでもある。

これについてジャワ遠征と文永の役の将軍の処分の違いを書いた人間としてどう思うんだ?

751 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:42:35
対馬から博多まで15日もかかりません

752 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:51:17
>>747
10月5日から一週間にわたってホルホル
10月14日から壱岐でホルホル
17日に平戸でホルホル
20日に博多だよ

武士のいないところばかりで長期滞在してホルホル

移動にはほとんど時間使ってないね

753 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:00:27
これだけ道草して平民虐殺してれば
そりゃ矢も無くなるわ

754 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:08:47
高麗兵の変態殺人癖にはフビライも頭を抱えてそうだな

755 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:25:33
そもそも5日の対馬襲撃の知らせが大宰府に入ったのは6日といわれてるわけだが?
たとえば帝王編年記だと6日に知らせが入ったことになってるな
要するに船団による移動ということを考慮しても15日なんてかかりっこないんだよ

ハイまた偵察厨が無知晒しましたとさ


756 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:43:15
その気になれば対馬から大宰府までたった一日で来れるのに
高麗軍の暴走のせいで予定がダダ狂いになって
物資も浪費、兵も消耗させられてほんと元軍涙目だな

そのうえ「船を焼いて背水の陣で戦えば明日は勝てるニダ」とかさっそく火病起こすし


757 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:56:19
愚かな私達、愚かなニッポン
ナルシストJAPAN最高や!

758 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 15:00:34
>>757
朝鮮系の人って論破されると必ずそう言って逃げるよね
もしかしてビンゴ?

759 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 15:51:15
高麗軍の将(都督使)「金方慶」率いる高麗軍は
戦略的に意味が無い対馬・壱岐に執着し、防備の薄いこの島々を攻め
膨大な非戦闘員を殺戮した。
島々におけるこの行為は遠征目的と何の関係もなく、
それにフビライは"百姓を殺すな"と命じていた。
この無用の残虐行為は主将の「金方慶」の性格、朝鮮人の民族性によるとの事である。

彼らは島民を見つけ次第、男子は斬殺し、女子は手の掌に穴を
あけて綱を通し船舷にぶらさげるなど残虐の限りをつくした。
家屋は焼き尽くされ、家畜の被害も甚大で、壱岐牛も一頭もいなくなった。

「ムクリ・コクリ」が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほど、
その残虐な行為は壱岐・対馬・北九州の人達に恐怖感を植えつけています。
ムクリー蒙古―元、コクリー高麗のことです。「蒙古トハ異国ムクリノ事
也」(『沙汰未練書』)というようにムクリが通用していました。

高麗軍と闘った将士がことごとく
戦死すると、敵兵は住民を捕らえ暴虐の限りを尽くしたということです。
山に逃げ隠れ潜む住民の赤子の泣き声を聞いて、捜しまわり、
捕らえては、ことごとく殺しました。

捕らえられた妊婦は腹を裂かれ、中の赤子を掴み出されて殺されました。
意にそまぬ婦女子は手に孔をあけられ縄を通してから、
引きずり回され、後、舷外に吊るされました。

新元史・鎮西要略・壱岐国史・元寇物語

760 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 16:37:36
「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」

761 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 17:41:57
>>554
存在自体が怪しいけど
あったとしても大きな音で威嚇するぐらいのもんでしょなあ

カタパルトもちこんだ形跡もないし
手投げなら
騎乗武士の和弓の射程のほうがはるかに勝るわけだから

762 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:03:09
>>751 >>752 >>755
15日というのは私が言ったのではない。

>>739 が:
>元軍は対馬上陸から博多上陸まで15日かかってんだぞ

と言ったのだ。
私が言っているのは、15日かかったのを「予定外の長期滞在」と言うなら、
全体スケジュールは当時としては短期作戦と言うべきだ、ということだ。
弘安の役は何月単位でかかっているではないか。
文句があったら「15日」ではなく、私の文章に対して言ってくれ。

763 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:11:23
>>740

おまえこそマジか。
そんなのは一つの局面を、しかも第三者でなく当事者が述べたことだ。
たとえ一時的かつ局部的な優勢があったとしても、
日本軍の総退却はその後に起こっているのだ。

764 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:12:43
>>762
おまえホントに頭大丈夫か?

15日も無駄に予定外の虐殺してたせいで
博多上陸後一日しかもたなかったんだろ

そもそも短期作戦だからなんなんだ?
まさか本気で短期作戦はすべて威力偵察といいたいのか?

765 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:15:36
>>763
おいおい
飯も食わせず一睡もさせず夜通し戦えってか?

武士は水城で夕飯食ってぐっすりお休みしただけですがなにか?
一方元軍はこそこそ船に戻って逃亡

766 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:28:52
元寇での高麗軍、中国での朝鮮兵、ベトナムでの韓国軍
全部似たようなことをしているよね


767 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:34:51
>弘安の役は何月単位でかかっているではないか。
>>457を読んだのか?

文永の役で日本攻略に必要な物資そのほかは耽羅人等の情報から計画したんだろ
が、大宰府攻略に必要な分量をはかり違えたんだろう
まさか高麗兵があんなに虐殺好きな変態どもだとは予想外だろうし
武士の強さもなめてたんだろう

http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/index.html
同月、中書省は元皇帝に日本侵略の計画について奏上した
(以下、『元高麗紀事』耽羅至元九年十一月十五日条より現代語訳)。
「これより先、日本・耽羅のことについて枢密院官と打ち合わせました。
 南国より日本を経由して来れる耽羅人三名を召し、地図を書かせました。彼らは申しました、
『日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』
(上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう)

一方弘安の役は前回の失敗を踏まえ、変態クンが多少予想外なことしてもいいように物資は余分に持ってきたものの
まさか海上に追い払われ逃げ回るはめになるとは予定外だったろうなw
そのうえ江南軍遅れるしw踏んだり蹴ったり

くぎ刺しとくけど文永の役での失敗を踏まえて弘安の役での必要物資を見積もったからといって
そんなもんを威力偵察の根拠にするなよw
そういう学習はどんな戦争でもやることだからな

過去レスでいろんな人が指摘してることだけどさw

768 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:44:34
>>762
あーつまり、朝鮮人がホルホルしなかったら博多で15日ぐらいは粘れたかもしれんってことね
まあそれぐらいの期間があれば大宰府ぐらい攻略できると予想してたんだろ

そりゃ
フビライ「大宰府なんて博多から数キロのとこなんだし
もし元軍のほうが武士より強けりゃ一日二日ですぐ大宰府占領してあとは
現地調達しながら籠城すりゃすぐに
日本がビビって不平等条約結ぶ気になるだろ」程度の認識になる


769 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 19:02:01
元寇の前(1019年)にも刀伊(女真)の入寇というのもあったな
この時も高麗が絡んで壱岐・対馬・九州北部を襲っている
そして同じようなことを現地でしているわけだ

770 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 19:04:49
まあ単純に考えればそうだよね
もともと元は日本に朝貢させたかった訳だし
「ちょっと上陸して太宰府でも焼けば詫び入れてくんだろwww」
って感じの示威的な軍事行動だったんじゃないかな?
それが効果なかったから今度はより大軍で攻めてきたと。

771 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 19:26:43
文永の役は相手を侮った上での示威的な軍事行動とすると色々と辻褄があうんだよな。

772 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:37:29
>>764
>15日も無駄に予定外の虐殺してたせいで博多上陸後一日しかもたなかったんだろ

おまえこそホントに頭大丈夫か?
虐殺と1日しか持たないのとが、どう結びつくのか?
矢を使ったって? だから民間人の虐殺に貴重な矢は要らないと言っただろう。
それに対馬、壱岐とも交戦、虐殺はそれぞれ1〜2日だ。
あとの費やした日数は風待ち、休養、訓練のうちどれかだろう。
訓練も大いにあり得るよ。あれだけみごとに撤収したのはかなりの訓練を
要したはずだ。

>そもそも短期作戦だからなんなんだ?
>まさか本気で短期作戦はすべて威力偵察といいたいのか?

短期作戦は納得したらしいな。

短期作戦がすべて威力偵察だとだれが言ったかは知らないが、
短期作戦であることが威力偵察の条件になることは確かだ。



773 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:59:17
>貴重な矢はいらない

じゃあ元軍は、相手が僅かな数とはいえ対馬や壱岐での戦闘で
弓矢を一切使うことなく接近して現地の守備隊を斬殺するほど
胆力と矢に対する回避能力と白兵戦での格闘能力を備え
逃げ惑う民衆に対しても矢で射殺さずに
鎧着たまま足で追いついて斬り伏せるほどの駿足を持っていたのかw
元軍兵士は飛天御剣流か虎眼流でも体得してんのかよw

774 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 21:01:39
>あとの費やした日数は風待ち、休養、訓練のうちどれかだろう。

ただの根拠のない推測。何のソースもない。

お前こそ「矢尽き」を論じるなら、その前の「その国に入りこれを敗らんとするも」を
見ないフリするのはいい加減やめろ。

775 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 21:21:28
>>772
>>750へのレスがまだだな。逃げるなよ。

776 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 21:49:19
物資が十分でないのは大規模な渡海作戦を行ったことがない経験不足からだな。

777 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:30:17
渡海作戦に不慣れで、退路のない敵地で夜を明かすことを嫌ってすぐに撤退できる船に帰ろうとする輩が多くいたから
「即孟明焚船淮陰背水也」なんて言葉が将軍から出たんだろうな。

778 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:35:25
>>774
これを敗らんとするもじゃなくてこれを敗るですよw
つまりコテンパンにやられたのは武士の方ですよw

779 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:35:31
>>772
>〜だろう、〜したはずだ。
全部お前の妄想じゃねえか!

780 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:39:20
>>778
岩波書店に間違っていると伝えてあげてくれ。

781 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:40:15
威力偵察君の別キャラ登場か?

782 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 00:47:29
対馬の虐殺が一日?
こりゃまた珍説だな


783 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 00:53:46
短期決戦とか勝手に言っちゃってるけど
結局武士にぼこられて逃げ出した言い訳してるだけじゃんw

短期決戦×
短期逃亡○

784 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 01:02:38
予言しよう
偵察厨は>>767>>768>>770>>771をスルーする

785 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 02:08:55
>>772
>短期作戦であることが威力偵察の条件になることは確かだ。
それが何?
条件になるからといって威力偵察だとは限らないんですけど

786 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 02:30:34
--対馬壱岐での予定外長期滞在による物資の消耗の話をしてるのに--

>馬山出発から鷹島到着まではちょうど2週間だ。
>当時の船旅は風任せだから、このくらいかかるのは普通のことだ。

--などと知能を疑うような返答をしたのち--

いつだれが馬山から鷹島の話なんかしたんだよ対馬壱岐での虐殺の話だろ
元軍は対馬上陸から博多上陸まで15日かかってんだぞw

--と返されたら--

>私が言っているのは:風待ちしていい風が吹かなければ15日ぐらいはあっと言う間だ、ということだ。

--などと対馬〜博多間の船移動には何の関係もない話のすり替えを行い、
あげく短期決戦なら威力偵察だなどとわけのわからないことを言い出し--

10月5日から一週間にわたってホルホル
10月14日から壱岐でホルホル
17日に平戸でホルホル
20日に博多だよ
武士のいないところばかりで長期滞在してホルホル
移動にはほとんど時間使ってないね

そもそも5日の対馬襲撃の知らせが大宰府に入ったのは6日といわれてるわけだが?


と、つっこまれ結果無知をさらすことになった偵察厨

787 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 02:57:00
偵察厨の主張
・第1次のヨーロッパ遠征が威力偵察だったから文永の役も威力偵察だ
・ロシアのミシチェンコ騎兵団の営口攻撃が威力偵察だから文永の役も威力偵察だ

788 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 03:02:53
そしてその根拠はステフェン・ターンブルの一点押しw

789 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 07:51:08
見事な撤退は対馬・壱岐に滞在して訓練した成果!!
民間人を殺すのに貴重な矢は使わない!!

790 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 09:32:33
>>774 >>778
>「その国に入りこれを敗らんとするも」を見ないフリするのはいい加減やめろ。

問題は原文だ。原文は:
「至元十一年冬十月、入其国敗之。而官軍不整・・・」

そのまま読めば「その国に入りて之を敗る」だ。
「敗らんとするも」などというのは、武士が敗れたことにしたくない
翻訳者が、どうにでも送り仮名をつけられる日本語の性質を利用して
「まだ敗れていない」という意味に妄訳しているのだ。

疑問があったらまず原文に戻ろうね。

791 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 09:50:39
文脈を無視して読み下しただけじゃねえかww

それと日本を敗る意図があって侵攻したことをついに威力偵察くんも認めてしまったようだね。

792 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 10:12:06
矢を貴重だと惜しむほどの元軍が、途中の島で大量の物資を消費しながら滞在して
撤退の訓練?

793 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 10:29:10
>>790
おkわかった。
あんたはどうやらその筋の専門みたいだな。
今からその正しい訳を公式に発表して
岩波書店関係者をギャフンと言わしてやってくれ。
それが出来ないのなら、その訳こそアンタの勝手な解釈だな。

794 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 10:45:41
>>790

まあ対馬壱岐では日本を破ったと言えるそのことをさしてるんじゃないか?
九州では日本が勝利したのは間違いない
一日で矢が尽きるぐらいの激戦だと双方とも損害は多かっただろうが
日本側はまだまだ戦力を投入できたし
元軍は逃げ出したし

795 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 10:56:42
ふと思ったんだが、対馬壱岐で略奪したんなら
逆に食糧とか増えてる可能性もあるよな
だれか当時の対馬壱岐の人口とかわかる?

796 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 12:08:59
ところで、軍事用語はさっぱりなんだが、>>770-771の「示威的な軍事行動」と
先般から話に出て来る「威力偵察」とかとは何か意味的内容的に違いがあるの?

797 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 12:24:17
>>790
該当箇所は『元史』外夷伝・日本 石原道博偏訳の82ページだな。
http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/daihyou/kb035.htm

ちゃんと責任もって抗議しろよ。

「而官軍不整」の存在も忘れるな。撤退は予定外だぞ。

798 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 12:58:07
威力偵察くーん、>>750へのレスを忘れてますよー。

799 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 13:00:06
>>796
偵察とデモンストレーションの違い。

800 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 13:49:45
>>798
? それだけだと、偵察なのに「威力」と付いている意味がやっぱり分からん。
具体的な例を上げて両者の違いを説明してくれ。

801 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 14:38:17
>>795
少なくとも二万人の胃袋を満たすような増量は無理だろ



802 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 14:39:25
威力偵察は普通小規模な部隊で敵をあえて攻撃して敵の意図や規模なんかを探る。
自衛隊でも7Dの偵察部隊に戦車が配備されている部隊があったりするのはこのせいじゃないかな。

威示的な軍事行動は台湾が緊張したらアメリカが空母派遣したりとか艦艇を使うのがわかりやすいような。

803 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 15:37:40
784 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 01:02:38
予言しよう
偵察厨は>>767>>768>>770>>771をスルーする

>>784の予言的中

804 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 15:56:20
>>786
>などと対馬〜博多間の船移動には何の関係もない話のすり替えを行い、

はじめから風待ちの意味だよ。「風任せ」と書いたら、風のまにまに海上を
漂っているような印象を持ったかも知れないね。
我々は動力船の時代に生きているから、つい距離だけで考えるが、昔の船旅
はそんなものではない。
円仁の日記を読んでごらん。帰路、山東半島の金山で別れの挨拶をした後、
実に1ヶ月半も風待ちしている。そのあと済州島の近くの島についてまた
2日風待ちしている。これもほんとはもっと待つはずだったのが、海賊の
うわさがあってやむなく沖に出たら運良く風が吹いたのだ。

まあ、私も分かりやすく書くべきだったが、君の無知を引き出すことが
できたから、よしとしよう。

>そもそも5日の対馬襲撃の知らせが大宰府に入ったのは6日といわれてるわけだが

それは手漕ぎの軽舟の話だ。馬や食糧も積んで大量輸送する軍船の場合は
そうはいかない。あくまで風待ちだ。(蒙古の軍船は絵詞などで見ると、
ローマの軍船やバイキングシップのような櫂を持たない。)



805 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:04:11
それでも15日もかかりません
そもそも単なる移動での物資の消耗と
虐殺しながらの消耗ではぜんぜんちがいますよねw

806 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:08:00
>>802
小規模ではない。>>668で書いたが、もういちどallexpertsの定義を出そう。

「威力偵察(RIF)は、特に敵の戦備を検出するために用いられる一種の軍事
行動である。相当な(しかし決定的ではない)兵力で攻勢をしかけることに
よって、指揮官は敵の強い反応を引き出し、これによって敵の戦力、配置、
およびその他のデータを明らかにすることを期待する。RIF指揮官はデータ
を持って退却するか、衝突を全面的な交戦に発展させるかの選択権を保持する。」

「相当な、しかし決定的でない兵力」である。
また、ここで「攻勢」という言葉を使っているが、もとの英語はoffensiveである。
そこでoffensiveを、また英語ウィキで調べると、単に「攻める」だけでなく
ある程度の「規模」を伴う概念であることがわかる。挙げられている例は
1万以上である。

807 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:08:01
元のEEIは?


808 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:12:40
文永の役は大宰府攻略を目的とした侵攻作戦でしょう

撤退の理由は
1、対馬、壱岐による虐殺、予定にない長期滞在によって物資を消耗した。
『我が軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境の日本人を虜掠して帰る 元史日本伝』

2、武士の奮戦により劉復享が重傷を負うなど自軍に予想以上の消耗と被害を受けた

3、明日以降の武士の増援を恐れた
『忽敦曰 兵法小敵之堅大敵之擒 策披乏乃兵 敵日時之衆 非完計也 不若回軍 復亨中流矢 先登船 遂引兵還』

などの事情によるもの
単純に元の敗北でしょうね

809 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:14:42
>>805
風待ちには15日以内などという保証などない。
希望の強さ、方向の風が吹くまで何日かかるか、だれにもわからない。
悪くすると円仁のように1ヶ月半待つことだってあるわけだ。

それから、滞在することによる食糧の消耗はあるだろうが、民間人の
虐殺による消耗なんてネグリジブルだ。たとえ的代わりに矢でいて
遊んだとしても悠々と抜いて再利用すればいいしね。

810 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:19:39
いつまでも枝葉をぐるぐる回っていないで
フビライが威力偵察を命令した証拠を出したらいいじゃない?

811 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:38:30
橋頭保も維持できず、戦略目標である大宰府の制圧どころか
前線の水城にすら全く届かず、
ただの先駆けレベルの武士団にいいようにすり潰され遁走した元・高麗軍

武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。
小勢は別府の塚原へ退く。
塚原より鳥飼の汐干潟を大勢に成り合はむと退くを追駆くるに、
馬干潟に駆せ走して、その敵を延ばす。

812 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:52:58
予言しよう偵察厨は>>798をスルーする

813 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 17:05:08
それ以前に>>793>>797をスルーしてる件。
やっぱり威力偵察くんの勝手な解釈だったわけね

814 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 17:10:57


都合の悪いレスや質問から必死に逃げ惑う偵察厨ですが、

彼はこのスレに「威力偵察」しに来ているだけなので

決して負けではありません



815 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 18:03:07
威力偵察はその会戦での情報収集をするために行うもんでしょー?
七年後の戦のために負けてもいいから突っ込んでこいなんていう威力偵察なんかありえない

816 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 19:05:57
>806
なんでこう自分勝手な解釈でこじつけるかねえw

何度も言っているように、威力偵察は「決定的戦闘を避ける」という
特徴があるってのを無視するなよw

あと、英語版wikiのどこをどう翻訳して「規模」とかいう話になったんだ?
the number of troops involved in the side initiating the offensiveの
所か?こりゃ、編集した人間の書き方もおかしいが、攻勢ってのは「攻撃
だけではなく、いくつかの行動を組み合わせて攻勢が行われる」って意味
だぞ?
具体的には、例えば師団級の部隊が攻勢作戦を行う場合、一部の連隊が
主力の進出掩護のために重要な地形を確保したり、側背掩護のための部
隊が両翼に展開したり、場合によっては敵の逆襲(又は機動打撃)を阻止
するための部隊が局地で防御したり、そういう行動が組み合わさってるって
意味だよ。

817 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 19:24:27
あ、wikiの英文だけを引用して「いくつかの行動を組み合わせてなんて
どこにも書かれていない!お前の方が勝手な解釈だ!」とか言うなよ?w

とりあえず、ネットでもFM7-30 Chapter4 OFFENSIVE OPERATIONSが読める
から、4-2. ORGANIZATION OF OFFENSIVE BATTLESあたりを読め。
あと、旅団の戦闘とかでも To provide a degree of security by keeping the
following battalions in position to counter threats from the flanks.とか
書かれてるしな。

818 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 19:33:26
>>816
>なんでこう自分勝手な解釈でこじつけるかねえ

解釈じゃなくて単なる翻訳なんだが。原文も示してあるから翻訳の間違いが
あるんなら言ってくれ。あ、dispositionは「配置」でかまわないよ。

>何度も言っているように、威力偵察は「決定的戦闘を避ける」という
>特徴があるってのを無視するなよ

ちゃんと定義に書いてあるじゃないか。
「RIF指揮官はデータを持って退却するか、衝突を全面的な交戦に発展させる
かの選択権を保持する」

そう言えば文永の役の蒙古軍も「決定的戦闘」を避けたな。

>英語版wikiのどこをどう翻訳して「規模」とかいう話になったんだ?

真珠湾とかバルバロッサとか、いろいろ例をあげてあるが、いちばん下の
ほうに定義のようなものがある。

An offensive is a conduct of combat operations that seek to achieve
only some of the objectives of the strategy being pursued in the
theatre as a whole. Commonly an offensive is carried out by one or
more divisions, numbering between 10-30,000 troops as part of a
combined arms manoeuvre.

1万ないし3万の師団の一つまたは二つ以上でやるのが普通だとある。
「規模の概念を含む」の意味がわかるだろう。



819 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 19:53:20
>818
前段を抜かすなよw故意にか?w
「戦域において戦略的目標を達成する場合には」師団以上の
部隊で行うのが普通、だ。FM7-30は見たのか?旅団による
独立的な攻勢作戦とか普通にあるんだがw

あ、米軍の旅団は上級部隊に師団がある(というか、任務に応じて
独立旅団として運用されるか、複数の旅団を集めて師団を編成する
かのどちらか)ので、師団に準ずる部隊と言うよりは連隊に近い
部隊だぞ。「旅団だから師団と同じだ!」とか言わないようにw

820 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 19:54:45
>>791
>文脈を無視して読み下しただけじゃねえか

「文脈」なんてもっともらしい考えが恣意的翻訳の始まりだ。
漢文はこの上ない簡潔さを持つ文章だが、簡潔であればこそ、
文字が持つ以上の意味を付け加えてはいけない。

だいたい、漢文の書き手である中国人が、「(敗)らんとするも」などという
希望的・未然的なニュアンスを、どの文字に読み取ったらいいのか?
「入其国敗之。而官軍不整・・・」 のなかで?

>それと日本を敗る意図があって侵攻したことをついに威力偵察くんも
>認めてしまったようだね。

>>806の定義を読め。威力偵察は敵を敗ることができれば敗って、一向に
かまわないのだ。それを徹底的にやったのがカルカ川の蒙古軍だ。

821 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 19:58:05
>>819
結局、規模の概念を含むではないか。
分隊、小隊の話ではなかろう。

822 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:04:33
だから、フビライが威力偵察を命令した史料は?


823 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:07:55
>821
はい残念wトラップに引っかかってくれてありがとうw
INFANTRY BATTALIONにもTANK AND MECHANIZED
INFANTRY COMPANY TEAMにも「攻勢作戦」の記述があるw
Company、すなわち中隊より下の単位には兵站能力がないから
独立的行動は出来ないが、少なくとも100人規模の部隊(というか
兵站機能を有する部隊だな。Tank Companyはもっと人数が
少ない。多くて80人程度、少ない場合は50人いない)には
OfFensive Operationの概念があるってこった。

824 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:41:35
偵察厨は>>767>>768>>770>>771>>793>>797>>798をスルーし続けておられますwww

反論できないでおk?

825 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:57:55
>824
EEIもずっと無視されてる。付け加えてくれw

826 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 21:11:34
偵察厨は>>767>>768>>770>>771>>793>>797>>798をスルーし続けておられますwww
さらに、EEIについても無視を決め込んでいるようですwww

反論できないでおk?

827 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 21:22:05
>736への反論忘れてたから、スルー認定される前にしておこうw
ま、一言で言うと「ここまで読解力ないとは・・・」なんだけどねw

>729を素直に読めば、「太宰府を限定目標とした威力偵察なんて
あり得ない」が趣旨であって、後段は「太宰府を限定目標とした威力
偵察があり得ると無理矢理に解釈した場合」という仮定の条件で、
「でもそれだと偵察は失敗」というしかない、と言うことだ。どこにも
「失敗してるから威力偵察じゃない!!!11!!11」なんて書いて
ないのにw

ほんと、なんでこう自分勝手な解釈しかしないのか・・・

828 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 01:32:34
>>827
偵察厨以外の読者である俺は普通にそう読めたから
おそらく偵察厨も本当はわかっているけど論破されて悔しいから無理やり反論してるだけかと
案の定反論になってないけど

829 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 01:59:13
タンブル厨は>>704-710をスルーしました
タンブル厨は>>713をスルーしました
タンブル厨は>>715をスルーしました
タンブル厨は>>718-721をスルーしました
タンブル厨は>>723をスルーしました

その後も順調に>>767>>768>>770>>771>>793>>797>>798をスルーし続けておられます

さらに、EEIについてもことごとく無視を決め込んでいるようです

ですが

彼はこのスレに「威力偵察」しに来ているだけなので

決して負けではありません

830 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 09:18:53
たいへんな誤りを書いてしまって、>>805くんに申し訳ない。
絵詞で見ると、蒙古の軍船は片舷9〜10個の櫂を備え、帆柱は持たない
完全な漕ぎ船だった。
だから対馬での滞留は「風待ち」ではない。

831 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 12:14:40
いいからスルーしたレスにも謝れよ。

832 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:03:00
>>823
それは形容詞のoffensiveと名詞のoffensiveを混同している。

offensive operationという場合のoffensiveは:
名詞(攻撃)および動詞(攻撃する)のoffenseから派生した形容詞(攻撃的な)である。
この形容詞がoperationを修飾してoffensive operation(攻撃的作戦、攻撃作戦)
という言葉を作っているわけだ。

これに対して名詞のoffensiveは、形容詞の形を名詞に転用することによって
それのみで「攻勢」という独自の意味を持つようになったものだ。
その証拠に、「テト攻勢」「ルントシュテット攻勢」にあたる英語はそれぞれ
Tet offensiveおよびRuntstedt offensiveであって、決してoperationは
つかない。

だから名詞offensive(攻勢)は規模の概念を含んでいるのだ。

833 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:07:49
>>827
なぜ太宰府を限定目標にしてはいけないのか。
太宰府は日本全体、あるいは懲罰すべき首長のいる鎌倉または京都に
対して「限定された目標」ではないか。

834 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:25:08
>832
せっかく少しでも規模に関連する方を取り上げてあげてたのに・・・
offensive - A principle of war by which a military force achieves decisive results
by acting with initiative, employing fire and movement, and sustaining freedom of
maneuver and action while causing an enemy to be reactive.

軍事用語におけるoffensiveとは、あくまでも「決定的な成果を得るための原則」なのに・・・
いいか、再度強調するけど「原則」ね。規模なんか全く関係ないんよ・・・
攻勢「作戦」なら、思いっきり小規模の部隊なら出てこないんだけどね・・・

835 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:31:12
>833
なんども言わせるなよ。「福岡平野一帯に進出した日本軍と
決定的戦闘に陥るから」だよ。
あ、「威力偵察でも敵を破ることが出来れば云々」は持ち出すなよ?
それはあくまでも「結果そうなった」であって、最初から太宰府を目標
にしたら、「福岡平野の日本軍を打ち破れるかどうか」の結論が出る
「前」に決定的戦闘に陥るから。つまり「こりゃダメだ。情報持ち帰る
だけにしよう」と決心したときには、離脱すら困難な状況に陥って、
情報を持ち帰れるかどうかも分からなくなるからね。

836 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:33:45
というか、未だにこれが出てなかったな。
ソースはwiki()笑

まあ、状況を見るに煽る必要もないんだけどね。あ、ちなみに
俺が軍事用語関連で持ち出しているソースは、FMとか陸自教範
なんで。

837 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:07:26
威力偵察君はスルーしたレスに答えろよ。
もう説得力のない自説の開陳はたくさんですから。

838 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 22:25:32
こいつ、今年の3月ぐらいに涌いて
人のレススルーしまくった挙げ句
最後は前スレむちゃくちゃに荒らした奴と一緒じゃね?

839 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 22:28:20
>>836
いやいや待て待て。威力偵察氏の深い考察の方がたかが
軍人の言うことよりもあてになるよー(棒

てか、FM=Field Manual=米軍野戦教範の事だってぐらいは
知ってるよね?威力偵察君もwもしも「FMってなんだ?出所
不明の怪しげな言説よりwikiの信頼性の方が上」とか言い出
したらあまりにも哀れだから、今のうちにちゃんと教えておいて
やろうかw

840 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 22:50:45
>>836

>FMとか陸自教範

予備自官補とかやってた?
それとも本職?

841 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 23:03:27
>>840
陸自教範はともかく、FMなんかネットで普通に見られるよ。
陸自教範にしても、軍事関係の本とか雑誌で引用されてい
たりね。だから、その辺の用語を知っている=自衛隊関係者
と考えるのは早計だと思う。むしろ、現職自衛官はFM引用
とかあまりしないんじゃない?部外者は陸自教範とFMを
どちらも「本職の知識」として扱うけど、現職自衛官なら自分
とこのを優先して考えるだろうし。
あ、別に言説を否定している訳じゃないけどね。>>836の(と
思われる)過去発言には賛成だ。

842 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 23:14:38
>840
あ〜、なんか>841に言われてしまったけど、自衛隊の経験はない。
FMに関してもその通りでネットで読んだ(グロセキュ)。自衛隊用語
は、元自衛官の著作で少しずつ覚えた。威力偵察は、確か松村劭氏
だったかの著作に載ってたのを、自分でtxtにして保存してたわ。(軍研
だったかも)

843 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 23:43:59
俺もみんなに倣って威力偵察クンの示した言葉を調べてみたけど
Tet offensiveはwikiではベトナム戦争間に起こったa military campaign
であるってこったな。で、campaignは調べきれなかったけど、通常は
「戦役」とか訳して、複数の作戦からなる軍事行動、ぐらいの意味合い
だな。
この辺から考察すると、単にTet offensiveってのは一般用語としての
攻勢、つまり攻めている状態を表してるに過ぎないんであって、そこに
軍事的な明確な定義はないような気がする。日本語でもあるじゃん?
○○が軍団を率いて云々とか。この場合の軍団に、複数の師団が集
まってできた部隊なんつー意味はないわけだし。英語のarmyも同じ
ような用法だろうし。

844 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 00:09:34
>>838
みんな気づいていると思ったからあえていわなかったけど
彼は前スレの国書クンですよ。

845 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 01:26:55
>>844
kwsk

846 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 08:58:21
>>835
>なんども言わせるなよ。「福岡平野一帯に進出した日本軍と
>決定的戦闘に陥るから」だよ。

何を言っているのか。
決定的戦闘になる可能性があるような目標でなければ敵の主力は動かない、
動かなければそもそも威力偵察の目的は達せられないではないか。

847 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 11:02:02
ほおほお敵の主力を動かすのが威力偵察の目的なんですか

848 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 13:11:59
威力偵察さんは元軍が敵の主力を動かすような行動を取ったと
お思いですか?

849 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 13:22:05
>847
もちろんそれも入ってるよ。が、>846は致命的に理解力に欠けているのは
変わりないけどねw
>846が真だとすると、警戒部隊の配置自体が無駄になるし、予備隊の存在
意義もなくなるし、そもそもFEBAの意味も分かっていないんだろうなって話
になる。他にも色々あるがw

解説は長くなるから、敢えてここではしないでちょっと回答を待つかw
ヒントは>729にある。

850 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 16:04:00
>>849
>もちろんそれも入ってるよ。

ちゃんと分かっているじゃないか。
だから太宰府は絶好の目標なのだ。

851 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 16:26:48
>850
ちっとは人のレス読めよw読んだ上でそのレスなら
真性のバカだw

852 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 19:16:43
>>851
そんなぐだぐだを読む必要はまったくない。
君の言っていることは、「買い物とは金を出して物を入手することだ」と言う
のに対して、
「いや、確かに金を出して物を入手するが、自動車で行かなければ買い物では
ない」とか、「旦那が帰って来る前に済ませなければ買い物ではない」とか
言っているのと同じことだ。

853 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 19:47:56
威力偵察さんは元軍は威力偵察の目的を達成したと考えるのですか?
逃げないで答えてくださいね。

854 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 20:07:30
>852
ぜんっぜん違うw自分に理解できないからって他人の意見に難癖
つけるのはやめろよw

しょうがないから答えを小出しにするかw
>決定的戦闘になる可能性があるような目標でなければ敵の主力は動かない
この言葉が正しいと、FEBAと接触しても敵主力は動かないって
言ってることになる。はっきり言ってそんな事はあり得ませんw
あ、FEBAの意味ぐらい自分で調べてくれよw

855 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 20:20:06
威力偵察くんに
詭弁のガイドライン適用したら
いくつ当てはまるだろうか?

856 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 20:47:03
むしろ、それこそ買い物のたとえ話で言うなら、威力偵察君のは
「金を出して物を入手するという行為は必需品の買い物である」
と言っちゃってるようなもんだと気付いているんだろうか。。。

857 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 21:17:46
散々ぐだぐだ書いてきたのは威力偵察君だろwww

858 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 21:22:49
欲しいものを買いに行く途中でお金を使い果たしてしまい、
目的地に着く前に引き返したがこれは予定通り、というのが
威力偵察君の主張なんだよね。

859 :日本@名無史さん:2009/11/28(土) 23:03:57
>>855
異常に頭悪いだけで別に詭弁ではないって事にしてやろうや(笑)

860 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 00:01:06
本日追加された威力偵察クンのスルーワード:offensive
攻勢には規模の概念を含む!は取り下げた模様w

861 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 00:19:51
威力偵察さん>>750へもレスしてあげてください。

862 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 02:08:10
話の内容に一貫性のない威力偵察クンでしたwwww

863 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 09:10:51
軍事虫くんは、「威力偵察は決定的戦闘を避ける。だから決定的戦闘になり
そうな目標は選ばない。だから太宰府は威力偵察の目標ではあり得ない」
という珍説を展開している。

そこで、黒溝台会戦を考えて見よう。この会戦において、グリッペンベルグが
指揮する10万の兵力が日本軍の左翼、沈旦堡を目標として襲撃した。

日本軍の司令部は、この会戦の初期に於いて沈旦堡とさらに左翼の黒溝台が
圧力を受け始めた時点では、これを威力偵察と見て動かなかった。しかし
圧力が大きくなるとたまりかねて第8師団2万を送った。この時点でも
まだ威力偵察と考えていた。つまり威力偵察の段階で主力が動いたのである。

日本軍が威力偵察にこだわったのは、その直前のミシチェンコ騎兵団の
経験に影響されたのである。このときは日本軍は威力偵察と見破って
最小限度の対応に止めた。

さて前記第8師団もまた危機に瀕するにおよんで参謀部ははじめてこれが
攻勢であると気づき、さらに増援の師団を送って辛うじて撃退した。

864 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 09:11:59
ここで考えて見よう。沈旦堡は、ここを突破されれば日本軍の中央が包囲
される危険がある要地である。ここが圧力を受けて危機に瀕したとき、
日本軍司令部はなお威力偵察と見ており、沈旦堡が攻勢の目標であるとは
思わなかった。つまり、攻勢の目標と威力偵察の目標は選ぶところがない
ことがわかるのである。

またもし露軍の攻撃が日本軍の考えたように威力偵察であったとしたら、
それは決定的戦闘になり得る(現に決定的戦闘になった)目標を選んだ
ことになる。そのような地点を、日本軍司令部は威力偵察の目標として
奇異に思わなかったのである。
また逆に言えば、威力偵察と考えていた段階でも第8師団が動いたが、
それはこのような要地が目標として選ばれたからこそである。
へっぴり腰の目標では威力偵察としてもだめなのだ。
冒頭にもどって、軍事虫くんの珍説がいかにおかしいかがわかろう。

865 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 10:27:01
日露戦争スレ?

866 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 10:40:23
だから元軍は主力を動かそうとする行動を取っているのかよ?
むしろ九州の御家人たちが到着する前に撃破されるのを恐れて船に逃げ帰ったんだろ。
つまり文永の役の元軍は威力偵察目的ではない、ということになる。

867 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 11:47:32
うん、要するに何も理解していないことがよく分かった。
要するに俺の出したヒントが分からなかったんだねw
全てを理解させるためにはスレ使い切るぐらいになる
から要点をズバリと。

つまりは、重要な所は「捕捉・撃滅」なんだよ。黒溝台一帯
は、日本軍にとってのFEBAであり、ロシア軍にとっての
「突破目標」になりうる地形でしかない。一方、元寇における
太宰府の価値は、日本軍にとっては「任務達成の核心となる
地形」であり、元軍にとっては「突破の成果を拡張して、包囲
をするための地形」なんだな。従って、日露戦争というか
黒溝台会戦との比較で示すなら、規模・位置関係の違いこそ
あるけど、黒溝台一帯=赤坂、東烟台もしくは遼陽=太宰府
と言うことになる。おわかりか?
長くなるから続きは次レス。

868 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 12:00:44
続いて、君は「決定的戦闘」と言うものを完全に勘違い
してる。FEBAの争奪戦は、局面においては確かに「決定
的戦闘」ではある。しかし、その「局面においては」という
のは、FEBAに配置された部隊にとっては、という意味で
しかない。
黒溝台の会戦を持ち出したんだから、当然「当初、黒溝台
放棄を決定したのは何故か」に関しては理解しているよな?
つまりは、日本軍はその時点でロシア軍の目標は黒溝台
一帯「ではない」と判断したわけだ。つまり、日本軍は「ロシア
軍は、黒溝台一帯を突破した後、我を包囲の態勢に導く」
と判断したんであって、だからこそ主力での対応を企図
したわけだ。

ここまで語れば理解できると思うが、まだできないか?
一から十まで解説しないとダメか?

869 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 13:43:23
>>863
>>750へもレスしてあげてください。

870 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 14:24:28


で、結局のとこフビライが命令した証拠は?



871 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 14:57:41
>>844
それ当たりかどうか実験してみようか?
これ貼ってすぐ火病起こすようならあたりだな

国書の和訳DQN風味
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」

まさにDQN

872 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:00:04
むしろ俺は、之を敗るの人だと思った。
この件は、文句は岩波に言えと言った途端黙ったな。

873 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 18:10:12
>>871
多分お得意のスルーじゃね?www

874 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:39:35
>>868
日露戦争談義をやるのが本意ではない。それこそ日露戦争スレでやるべき
ことだ。

私がここで強調しているのは、日本軍の司令部が攻勢の初期に、これをまだ
威力偵察と判断している時期に、第8師団2万を動かしていることだ。
つまり、威力偵察ならば2万で対応できると考えたのである。

逆に言えば2万の兵力で対応するような、師団規模の威力偵察が存在する、
ということになる。

これは君の言う、「威力偵察は小規模」説に合致するのか?

875 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 19:46:34
>>874
ちょっと訂正。私の前の書き込みは「目標」が主題だった。
だから「ここで強調しているのは」でなく「ここで強調したいのは」だ。

876 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 22:05:25
>874
で、攻撃目標に関する考察は捨てたのね?太宰府が威力偵察の
目標としては不適切である、とw

で、黒溝台の会戦に関しては、君は底なしの間抜けだと言わざるを
得ないw威力偵察があれば、当然その後には主攻撃がある「かも
しれない」から、それへの対処をするのは当然だろw
第8師団が実際に戦闘開始に至った時点と、威力偵察「ではない」
と判断した時点の時系列をよく把握してから言ってくれ。もちろん、
「8師団は敵を誘致導入しようとしたら、敵が黒溝台一帯の確保態
勢に入ってしまった」こと、そして黒溝台一帯の放棄(つまり誘致導入
のための仕掛け)という方針が出てくるには「ロシア軍は、黒溝台一帯
を突破した後、我を包囲の態勢に導く」 という判断がなければならない
ことを踏まえてねw

それにしても論点をコロコロ変えるやっちゃな。それほど「元のEEI」とか
「フビライが威力偵察を命じた証拠」とか示すのが嫌なのか。これを示
せば決着付くのにw

877 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 22:11:39
威力偵察と主攻撃がそれほど短い期間に連続するなんて発想は
彼にはないんだろう。何しろ文永の役は七年後の侵攻のために
行われた威力偵察と主張するお方なんだからね。

878 :日本@名無史さん:2009/11/29(日) 23:30:15
いい加減日露戦争話でお茶濁すのはやめろよ。
早くフビライが威力偵察を命じた証拠を出せ。

879 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 00:06:34
>>652のペルシア語文献って?

880 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 03:48:11
>>874
>>707

881 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 04:48:44
というか
文永の役なら文永の役で本格的な戦闘に入る前に
行うのが威力偵察でしょ?

偵察厨な人は
なんで文永の役全体が威力偵察とかわけわかんないこと言っちゃうの?

882 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 04:50:57
>>881
馬鹿だからです

結局のところ、威力偵察厨に何を言っても理解してくれません。理解する頭脳そのものがないんですからw

883 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 09:17:18
>>876
君の考える時系列は間違っているが、それを議論していると日露戦争スレに
なるので、簡単にしよう。

1月24日、総司令部は左翼の秋山支隊から、「ロシア軍2個師団が26日に
黒溝台を攻撃する予定」という捕虜情報を得たが、「今回もミシチェンコと同じ
ような威力偵察だろう」と判断した。

2個師団というのは君の言う「威力偵察小規模説」に合致するか?

884 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 09:24:22
つうか「威力偵察かどうか」は
受け取る側がどう判断するかで決まるもんじゃないだろうにw

フビライが威力偵察を命じた文献だせば済む話

885 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 09:44:36
橋頭保も維持できず、戦略目標である大宰府の制圧どころか
前線の水城にすら全く届かず、
ただの先駆けレベルの武士団にいいようにすり潰され遁走した元・高麗軍

886 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 12:21:03
都合が悪いので日露戦争話に逃避する威力偵察君
逃げ込んだ先でも分が悪い威力偵察君

887 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 12:27:23
その姿はまさしく文永の役で火病起こして背水の陣などと言い出した奴らそのもの。

888 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 15:31:53
ムクリコクリ

889 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 17:00:35
背水の陣ってのは、敵騎兵の後背への突破を防ぐ為にやる。
正にモンゴル側は日本側騎馬隊に側面を脅かされようとしていたわけだ


890 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 17:09:46
>>889
まこの場合は明日の進退についての話だから
気持ちの上での話してるんだと思うよ


891 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 17:14:27
>>884
>「威力偵察かどうか」は
>受け取る側がどう判断するかで決まるもんじゃないだろうに

そう言う話ではない。
満洲軍総司令部は、2個師団(実際は兵力十万の一部)が黒溝台を攻撃する
という情報を聞いて、威力偵察と判断した。
その前には、ミシチェンコ騎兵団の1万騎の兵力を威力偵察と判断した。

つまり、当時の日本軍の参謀は1万騎とか2個師団とかの兵力を威力偵察
と判断するような、威力偵察の概念を持っていたわけだ。

一方、軍事虫くんは以前から威力偵察は「小規模」であると言っている。
だから、上記1万騎とか2個師団とかが彼の言う「小規模」に該当するのか
どうかが知りたいのだ。

ちなみに文永の役の兵力は2万数千だ。

892 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 18:22:12
そして勝敗決して撤収した船の中で、話題を日露戦争に逸らせた文永の役が続く。
要するに言いたい事は「まだ負けてない」 でぉK?

893 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 19:47:29
>>891
>>750へもレスしてあげてください。

894 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:22:12
>891
お前は一体なにと戦ってるんだ?
>518>525>561>563>564>575>583>585>592>607>609>628>672>675
>678>679>682>684>694>700>704>729>807>816>817>819>823>825
>827>834>835>836>842>849>851>854>867>868>876
俺の発言抜き出してみたが、「威力偵察は小規模の部隊で行う」なんて
一言も言ったことないが?offensiveには規模の概念を含む(よって
威力偵察も大規模部隊で行う)という発言に異を唱えたり、「主力と一部
(=掩護部隊)」という意味で語ったりはしたが・・・強いて言えば、後者は
「全体から見て相対的に小規模」とは言えるけどな。

895 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:51:43
>>891
>>802
>威力偵察は普通小規模な部隊で敵をあえて攻撃して敵の意図や規模なんかを探る。
>自衛隊でも7Dの偵察部隊に戦車が配備されている部隊があったりするのはこのせいじゃないかな。

これは君の発言じゃないのか?

896 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:25:08
見えない敵と戦っているヒマがあったら>>750へもレスしてあげてください。

897 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 22:58:52
>895
ちげーよ。証明する術はないがな。

898 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:24:13
>>897
フビライが威力偵察命じた資料を出す方が簡単だよね

899 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 02:37:16
威力偵察=負け惜しみ

900 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 03:05:59
フビライが威力偵察命じた資料を出すことができないため、
日露戦争の例を出して必死になっている威力偵察厨w


誰がどうみても彼の敗北ですが

彼はこのスレに「威力偵察」しに来ているだけなので

決して負けではありません

901 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 03:23:33
威力偵察であるなら、偵察した後主力が控えている筈だが
文永の時はその様な事は無かったから威力偵察では無い
あえて言えば弘安の時の東路軍が威力偵察部隊。江南軍が主力


902 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 03:26:40
901
おまえさんはあえて言えばって言うが
それでも「威力偵察を連想する人も中にはいるかもしれない」程度のことで
威力偵察とは全く別だけどね

903 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 03:29:11
>>891
で?
日露の時の日本軍がどう思っていようが
『フビライが文永の役をどういうつもりで送ってきたか』
とは何の関係もないけど?

いいから『フビライが威力偵察を命じた文献を提示せよ』

しかし―このバカ一人のせいですでに400レス近く無駄に浪費されてるな



904 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 04:02:44
つうか規模がどうとかいうが『他者がどう判断したか?』とか『情報を結果的に持ち帰ったから』とかでは理由にならねーって

前からずっと指摘されてるけど必死に見えないふりですか?

しかしなんだな、水城で受け止めるのが当時の日本の防衛の基本原則
その主力ひしめく水城を一瞥することすらできず、
はるか手前の沿岸を右往左往しただけで潰走した元軍ってなんなんだろうねー


905 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 04:22:39
敵が相手の動向を見て「む?奴ら威力偵察に来ているな」と判断したからといって
敵さん本人が威力偵察のつもりで軍を動かしてることにはならない

今気がついたけど、こいつの考え方ってマジでキモイな
(偵察厨)<「ぐへへ武子さんってかわいいなぁ☆今日の服装、あれは私を誘ってるに違いない」
(偵察厨)<「武子さん、君の気持はよくわかった!付き合ってあげよう」
(武子)<「何この人キモイ。消えてカス」
(偵察厨)<「ウソだ!君は私を好きに違いない!私がそう判断したんだからそれが事実だ!」
(ギャラリー)<「なんでそうなるの?」
(偵察厨)<「まず彼女は私好みの服を着ている!これで私の出方を伺ったに違いない!これは私に気がある何よりの証拠だ!」
(ギャラリー)<「意味わかんねーってw武子さんどうですか?」
(武子)<「こんなキモイ人知らないです。初対面だし。」
(ギャラリー)<「だそうだが?」
(偵察厨)<「そういう問題ではない。」
(偵察厨)<「まず彼女は私好みの服を着ている!これで私の出方を伺ったに違いない!これは私に気がある何よりの証拠だ!」
(ギャラリー)<「同じこと繰り返すなよ」

906 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 07:27:14
>>895
>>750は無視ですか?

907 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 08:13:24
>>897
>ちげーよ。証明する術はないがな。

そうかな。君以外に7Dなどという書き方をする常連はいないと思うがな。
もし君が、師団規模の威力偵察があり得ることを知っているのなら、
>>874で私が:
>逆に言えば2万の兵力で対応するような、師団規模の威力偵察が存在する、
>ということになる。 これは君の言う、「威力偵察は小規模」説に合致するのか?

と聞いたときに、第8師団の2万は主攻撃への手当てだ、などと詭弁を弄さず、
「師団規模の威力偵察など常識だ」と答えれば、それでよかったではないか。

908 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 08:18:12
>>901
スキクワ持った宋の敗残兵移民集団が主力?

909 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 09:25:22
敗残兵はハイドゥを敗るのにも貢献したがね。

910 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 11:40:30
>>907
実際は十万規模の攻勢があったんじゃなかった?
師団規模の敵増援が考えられる地点に千や二千で偵察しても、相当機動力が無いと鎧袖一触されるのがオチ

絶対数で見てもしょうがない

>>908
スキやクワだけ持って来たわけでもないでしょ。刀や矛の一本や二本は持ってたんでは?
大体前役で三万で惨敗したのに、また三万で敵を撃破して農民を入植出来ると考えてたら
理論的に破綻してる

911 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 13:18:36
予言しよう
偵察厨は>>903をスルーする

912 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 15:12:16
>>899
でも威力偵察をごり押ししたところで
水城にすら到達できず敗戦した事実がある以上
負け惜しみにすらなってないことにはまったく気がついてないところが哀れだよね

913 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 16:06:14
姉妹スレ
もし蒙古が九州ではなく蝦夷から日本に侵攻していたら
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1194316331/


914 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 16:54:32
>>910
>実際は十万規模の攻勢があったんじゃなかった?

その通りだ。そのことは>>891にちゃんと書いている。捕虜情報はそのうちの
2個師団を伝えたものだったが、司令部はそれが全部だと考えて威力偵察と
見たのだ。

>千や二千で偵察しても、相当機動力が無いと鎧袖一触されるのがオチ

その通り。その上で威力偵察は敵にある程度の圧力を与えなければならない。
だからこそ威力偵察隊は普通、師団規模になるのだ。

>絶対数で見てもしょうがない

数を問題にしたのは、このスレで威力偵察を小規模とする見方が多いので
それを是正するためだ。なにを議論するにも用語の内容が問題だからね。

>>908
スキやクワだけ持って来たわけでもないでしょ。刀や矛の一本や二本は持ってたんでは?

その通り。一応ちゃんとした軍隊だが、スキクワ持っていたことは、中国に
よくある屯田軍だったのだ。

>大体前役で三万で惨敗したのに、また三万で敵を撃破して農民を入植出来ると考えてたら
>理論的に破綻してる

だから十四万で来た。それこそが威力偵察の成果だ。

915 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 16:58:16
>>912
口酸っぱくして説明したのにまだ威力偵察を理解していないところが
哀れだよね。

916 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 17:06:33

七年も間をあけるような威力偵察なんかありえない


917 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 17:08:54
こいつにとっては情報さえ持ち帰ればどんな敗戦も威力偵察になるらしいわw

918 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 17:10:02
>だから十四万で来た。それこそが威力偵察の成果だ。

723 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 11:12:58
>>712
だーかーらー

■■単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れるっての■■

あとづけで似てる似てると連呼したって何にもならん
お前の長々とした駄文では何の証明にもなってないよ
古今東西の戦争すべてを威力偵察にするつもりか?


「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?」

919 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 17:30:00
ウソも100回言えば真実にできる

これを地で行くつもりの偵察厨



920 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 18:10:12
>>911で予言したとおり>>903をスルーしたようだな

921 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 19:38:57
次スレ立つんなら>>723をテンプレに入れとこうぜw

922 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 19:52:00
>>907まで行くとただのインネンでしかないな

923 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 23:56:17
>>750へのレスまだ?
間違ったと素直に認めるのは恥ずかしいことでは
ないと思うけど。

924 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 23:59:02
残業終わって帰ってきたら>907とか萎えるわw
>君以外に7Dなどという書き方をする常連はいない
バッカじゃねーの?そもそも俺が書くなら
>7Dの偵察部隊
なんて書かずに7Rcnって書くわ。ホント言いがかり
としか言えないわな。
>第8師団の2万は主攻撃への手当てだ、などと詭弁を弄さず
詭弁ではなく事実です。そもそも、「師団規模の威力偵察など
常識だ」と言えるほどのデータ持ってないんでね。常識と
言うからには、最低限軍団規模以上の会戦のうち、3割は
そういう事態がないとな。

925 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 00:11:26
威力偵察厨の理論でいくと日露戦争の全期間、ロシア全軍が威力偵察だったとしないと
文永の役が威力偵察であると出来ないと思うが。


926 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 00:32:44
威力偵察くんはこのまま詫びることもなく日露戦争談義を続けるのだろうか?

927 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 00:48:51
>>915
> 七年も間をあけるような威力偵察なんかありえない

威力偵察云々以前に、そもそも文永の役(1274年)から弘安の役(1281年)まで
七年も掛った事情は、簡単に言うと、文永の役の翌々年にシリギの乱っていう大事件が
勃発してモンゴル高原周辺の情勢が緊迫し、1279年に南宋遠征が完了するまで、大軍を
外征にまわせるだけの余裕が殆どなかったから。

(南宋遠征は兄モンケの遺鉢を継ぐ形で継続したものだから、途中で放棄するとただでさえ
 少ないクビライもモンゴル皇帝位の正統性を危うくするため、南宋遠征は形はどうであれ
 続行せねばならなかった)

この反乱は元朝領内全域に小さくない影響を及ぼしていて、高麗近辺で言うと、上都の
北東方面にあったコンゴラト首長家の本拠地、應昌で当主オロチンを弟のジルゴアダイが
シリギの乱に呼応して挙兵し兄のオロチンを捕縛し、シリギの乱の主導者のひとりトク・テムル
のもとに拉致して連行した。また、高麗の真北の遼陽行省では、チンギス・カンの庶弟の家系
であるベルグテイ家の当主ジャウトゥがシリギに呼応して蜂起している。

これら元朝の西北辺境で起きたシリギの乱に呼応した小反乱は、程なく鎮圧された。
しかし、下手をしたら西北辺境域に留まらずモンゴル高原周辺全体が騒乱に巻き込まれ
クビライ政権が崩壊しかねないような緊張感があった。(その懸念はほぼ十年後の
ナヤンの乱の出来となって現実化し、高麗もその混乱に直接巻き込まれてしまったが)



928 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 00:57:36
>>924
勝手な思い込みてか妄想で決めつけるのが威力偵察クンだろ(笑)
今回の件も本人的には鋭い考察のつもりなんだぜ?
「7Dなんて書き方する奴は軍事厨だけだ!」とか言って。
実際には師団をDと略号で書くなんて、軍事関係の本では
ありふれた事なのにな。

これはつまり、威力偵察クンが良質な軍事関係書籍と馴染みが
薄い事を暗示している(笑)

929 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 01:29:37
>>927
すでに戦術や戦略を飛び越えて、軍隊ではなく国家や政治的な事情の規模になるな。


930 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 03:16:25
>>925
まったくだな

931 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 03:47:58
誰もまだちゃんと書いて無かったようだから一応書いておくけど、

クビライが「威力偵察を命じた」ということが明確に書かれた史料は、
はっきり言えば、(今の段階では現存して)無い。

『元史』にしろ『高麗史』などにしろ、クビライはただ「日本を征す」(ために
遠征軍を派遣した)とだけしか書かれておらず、文永の役における具体的な
攻略目標についても、現存するこれらの史料には直接的な言及が無い。
(弘安の役については、少なくとも太宰府の攻略が目標の一つだったことは、
『元史』日本伝に言及がある)

(弘安の役が失敗した直後の件で、「(至元十八年)八月、諸将未だ敵を見ざるに、
 全師を喪って以て還る。乃ち言う、『日本に至り、太宰府を攻めんと欲す。暴風
 舟を破る。(以下略)』」とあるのがそれ。)

「征す」とは『元史』で使われている用例からすると、「領土征服する」とかいう
意味までは持っていなくて、単発で使われる場合は「遠征する」程度に意味しかない。
そのため「征す」だけだと、それがどういった種類の遠征なのか、軍の規模とか
関係者の発言、その軍が攻撃・攻略した対象や拠点を見ないとちゃんと判断が出来ない。
そのため、「日本を征す」という文言だけで「大宰府周辺を制圧して九州北部に橋頭堡を築く」
までの意図を持って派遣したかのようなビジョンを描くのは、いささか無理がある。



932 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 03:50:46
>>930の続き。
それで、
「文永の役は威力偵察だった」との意見を述べているのは主に杉山正明先生とかだが、
杉山先生は具体的な論拠を上げずにそのように言っているものの、その意見の背景となる
根拠というものは、モンゴル帝国の軍制、特に探馬赤(tammaci)などと称される、
モンゴル帝国の境域地域に派遣・配属された鎮戍軍の性格や軍事行動に基づいて推測
された(と思える)もので、それらの軍やそれにまつわる諸々の性格や事情から判断して、
文永の役の遠征を「威力偵察」と表現しているに過ぎない。

勿論、杉山先生にしても軍事学関係には詳しい訳ではないだろうから、モンゴル帝国に
おける境域鎮守軍などの軍事行動の性格が、今日の軍事学で言うところの「威力偵察」の
定義に合致するかは、また別問題ではあるのだが。


933 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 04:12:24
でも杉山先生本人はすぐに言わなくなったよねその説

多分そこらじゅうから突っ込まれたんだろうけど

934 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 04:14:59
>>931
とはいえ
最低限大宰府を戦場にできる位の打撃を与えられないことには
日本に朝貢させるとか夢のまた夢だと思うが

935 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 07:40:27
『日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』
(上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう)

936 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 08:49:44
そもそも現代の軍事用語である「威力偵察」を、スピードも打撃力も違う
中世の戦争に当てはめることは無理である。これは威力偵察を否定する側の
論理にもあてはまることだ。

威力偵察という言葉をモンゴルについて使うのは比喩に過ぎないのだ。
で、文永の役についてなぜこのような言葉を使って説明するか、を考えて
見ると、それは文永の役のモンゴル軍の撤退を説明することが難しいからだ。

元軍が負けたからだというならば、弘安の役の元軍は台風以前にすでに
敗軍であったのに撤退しなかった。官軍不整というならば弘安の役の元軍は
もっと不整であった。矢が尽きたというならばそもそもそれだけの矢しか
用意しなかったというのがわからない。弘安の役では同じように壱岐対馬
を荒らし、その上各地で長期間戦闘しながら、矢が尽きたとは言っていない。

結局、文永の役ははじめから短期作戦であったとしか考えられない。
威力偵察とは短期作戦の言い換えなのだ。もちろん、短期作戦にも目的が
ある。その目的を考えれば一つには示威、一つにはexpedition、探検であろう。
この探検の部分が「偵察」であり、それに武力を用いることが「威力」なのである。

短期作戦と言っても、太宰府の攻略を除外するものではない。なぜなら太宰府
を攻略できれば食糧が手に入るから、中期作戦に転換することができるからだ。
それが難しいと判断したときに本来の短期作戦に戻ったのであろう。
そしてそのような判断に導いたことが日本軍の成功でもあった。

937 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 08:55:29
太宰府を取っても後詰めなしじゃ包囲食らって全滅
内陸に深入りすればする程危険は高まる


938 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 09:01:06
示威ってのは目的じゃなくて名目。示威を目的に兵を出しても得るものは無い

探検なんてのも抵抗が見込まれる地域に二万以上出してやる事じゃなし

939 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 10:24:31
>>931-932
>>936
まさに詭弁

940 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 10:31:38
略奪目的もあったんじゃないか?
ただ略奪しようとしたらボコボコにされて一日で逃げ帰る羽目になったと。

941 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 10:54:45
まあ示威だろうが威力偵察だろうが幕府軍を撃破してたら、対馬や壱岐のように虐殺や略奪しただろうな
でも一日で帰ってるって事は…

942 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 11:44:01
偵察厨みたいな理屈こねずに目的は略奪だったって考えたら簡単に説明つくよな。
略奪しようとして襲った相手が自分より強かった。
自分より強い相手を略奪出来ないから、だからすぐ逃げ帰ったと。

943 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 12:40:53
>>938
示威には略奪虐殺が含まれるだろ。自分たちに逆らえばどうなるかを
イヤというほど相手に思い知らせることができるからな。

とてもそれをできそうもないから元軍は撤退しただけです。

944 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 15:11:47
>>924
>詭弁ではなく事実です。そもそも、「師団規模の威力偵察など
>常識だ」と言えるほどのデータ持ってないんでね。

それは>>874への答えの話だが、私はすでに>>874
「君の言う「威力偵察は小規模」説に合致するのか? 」と聞いている。
>>802を君が書いてないのなら、なぜこの時点で
「小規模なんて言ってねーよ」と言わないのか。

まだ詭弁で逃げられると考えていたからではないか。


945 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 15:57:37
「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」

偵察厨は逃げ回らずにきちんと答えなさいよ

946 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 16:38:59
>>937
君は短期作戦に賛成してくれているのか? 有り難う

947 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 16:59:43
都合のいい意見にはレスする威力偵察くん。

948 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 17:16:56
というか
937読んで946みたいな答えになる頭の中身がわからない

949 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 18:22:28
なんでも都合よく考えられる頭なんだと思うよ

950 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 19:44:19
>944
は?それまでの議論と全く無関係の話題振られて意味分かんなくても
反応せいって話か?

小規模云々に反応した>891の話題は規模に関する事項が主題だが、
>874はそもそも主力の動向(これも実は不正確な描写だが)から
来てる話だから主題が違うだろが。主題と関係あるなしにかかわらず
何でもかんでも答えろっての?都合悪い話は悉くスルーしてるお前が?

ほんとなんかこう、心の病に関する病院行ってみたら?

951 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:04:19
>>950
前ぶれがなんであれ、質問は:

>逆に言えば2万の兵力で対応するような、師団規模の威力偵察が存在する、
ということになる。
>これは君の言う、「威力偵察は小規模」説に合致するのか?

要するに「師団規模の威力偵察は君の「威力偵察小規模説」に合致するか?」
ということだ。

じぶんの説にこのような自説に反する(?)名前をつけられて、それに
反応しないということはよほど鈍感なんだな。

要するに君はこの時点までは「威力偵察小規模説」を守ろうとしていたのだよ。
それが捕虜情報に関する質問になって、逃げ切れなくなったので
「小規模なんて言ってない」と開き直ったのだ。

いずれにしても君が師団規模の威力偵察を認めたのはいいことだ。
そこで質問だが、師団規模の威力偵察の場合、「援護部隊」とやらは
どうなるんだ?

952 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:07:06
>>946
早く>>750にもレス頼むわ。

953 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:07:49
>>951
ちょうどいいな。早く>>750にレスしてくれよ。

954 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:11:51
短期作戦に対するまともな反論はないようだな。
威力偵察説も短期作戦説も、鎌倉武士マンセーに対するアンチテーゼ
なんだが。

955 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:14:37
>>954
短期決戦の目論見が外れて目標に全く届かず逃げ出したことが
なんでアンチテーゼになるんだか?

956 :955:2009/12/02(水) 21:15:21
キミがいうように短期作戦だったとしても、ね。

957 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:16:31
>951
は?死ねば?

いいから自分がスルーしてきた質問に答えろよ。答えないって事は
「答えられない」って事でいいな。

あと、他の質問はともかく「掩護部隊とやら」って鼻につく言い方してる
が、これは既に答えている「掩護部隊の持つ任務の一つに威力偵察が
ある」ってのを全然読んでいないor覚えていない無能者がお前だとだけ
言っておくわ。

958 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:19:11
『日本 太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』

耽羅人の進言により用意された人数を投入したのにも関わらず、
大宰府にも攻め込めずに撤退したのが成功?短期作戦ならば目標に
かすりもしなくていいのか?

959 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:21:17
馬鹿の壁って本当に存在するんだな・・・

960 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:45:48
短期作戦、短期作戦って何を目的とした短期作戦なんだよw
略奪しながら敵地に上陸したら一日で逃げるのが作戦目的なのかよ。
短期が作戦目的って一体なんだ?
何日から何日までは短期とするってフビライが決めて
なおかつフビライが指定した場所でサバイバルしてその期間生き抜いて帰ってくるのが目的なのかよw
まったくもって意味不明なんだが。

961 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 22:24:57
短期作戦だったらなおさら対馬壱岐で寄り道してちゃダメだろwww
なにがアンチテーゼなんだかww

962 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:05:05
>>933
いや、三年くらい前に文庫化した『モンゴルが世界史を覆す』とかでもそれっぽいことを
言っていたけど、その前後から「混一疆理歴代国都之図」とか「カタルーニャ世界地図」
とかモンゴル帝国時代あたりの地図関係や、遼・契丹あたりに感心が完全にシフトしちゃって、
文永・弘安の役とかには今現在は著作で言及する程の感心が向いていないってだけのように感じる。

『モンゴルが世界史を覆す』の雰囲気からすると、杉山先生的にはそういう認識のままで
今も変わりないの知れないけど。

>>934
例えば、西方のアルメニア王国とかグルジア王国とかはモンケの時代にモンゴル帝国に
降服しているけど、これらの政権がモンゴル帝国軍と最初に戦闘したのはジェベとスベエデイが
ホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドを追撃にイラン高原に
侵攻した1220年からで、イラン高原に駐留した鎮戍軍との何度かの交戦の末に最初の戦闘から
30年ほど掛って正式に降服し、最終的にはモンゴル帝国の西南アジア政権であるイルハン朝の
旗下に加わっている。

高麗などの例が典型的だけど、相手政権の降服という目標が達成されるまで、場合によっては数十年に
わたり数年置きに数万単位の軍でもって相手領域を何度も侵攻する、ということはモンゴル帝国の
軍事作戦の様式としては(外交的手段でもあるが)極々普通なため、チンギス・カンからモンケの
時代の頃のような、シリギの乱みたいなモンゴル高原周辺に内部対立みたいな事態が全く懸念されない
ような情勢だったら、あるいは同様な数年置きに文永の役規模の侵攻が波状的に続いたかも知れない。


963 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:07:14
>>961の続き。
弘安の役の場合は、南宋遠征で江南諸軍を獲得出来たために一度に10万単位の兵力で遠征に
向かわせることが出来たが、この都度の遠征は失敗し、それを挽回出来る機会もナヤンの乱とかも
あってクビライの治世中は不可能になった。
文永の役からクビライの晩年まではシリギの乱や皇太子チンキムによるクーデター事件、ナヤンの乱
というクビライ政権を揺るがす内部崩壊の危機が続発し、それらが無ければどうなったか知れない。

クビライの晩年にはチャンパーやベトナムの陳朝、ジャワなんかもクビライのいわゆる「南海招諭」
に応じて大元朝との服属関係の修復や朝貢関係を取結んで海洋交易が活発化していたので、もはや
海洋地域への軍事遠征などはしなくても良いような雰囲気になっていた。

クビライを継いだ成宗テムルが遠征計画を中止するような発言をし、実質この時代を最後に
大元朝側では日本遠征が議論されることがほぼ無くなったが、一応、国書の伝達はしていて、
成宗テムルの命を受けてやって来たのが、例の一山一寧だ。

一山一寧は一旦幕府に拘留されたが、国師号を持つ高僧だったこともあり、彼を釈放の嘆願も多く
あって赦免された。日本ではその後厚遇され、後宇多上皇の懇請に応じ勅願寺である南禅寺の
第三代住持となった。一山一寧は結局大元朝へは戻らず、日本で亡くなったが、彼が来た後にも
日本の商船は寧波あたりにちょくちょく来航しているので、成宗テムル以降の皇帝たちはそれで
良かったのかもしれない。

964 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:28:56
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商戦の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる

中国の歴史12 第5章 王勇

965 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:31:48
時間をかけても最終的に相手を屈服させるのが目的であるなら
軍事と外交の両輪密接に関わるんだから、単純に相手に恐怖心を植えつけ弱らせていき
なおかつ外交も効果が上がるよう出来る略奪目的の遠征を繰り返そうとしたんでないかい?
文永の役は略奪目的の遠征だった
これが一番しっくり来るだろう。
略奪が見込めるところまでは進攻して行くが
自分より強い敵とぶつかって略奪出来なくなったら(自分達が略奪される側になるからな)さっさと逃げる。
これで説明つくと思うが。
外交では屈服するまで略奪と本格的進攻を続けると言えばいい。

966 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:48:48
>>936
冒頭の二段目まではそのとおりだと同意できるのだが、

> 官軍不整
これについては、今までの蒙古襲来関係の研究ではそのような見方はされていない。

「官軍不整」という状況についてだが、『元史』日本伝などにある弘安の役の出発直前に、
クビライが遠征軍の指揮官たちに勅を下しているが、

「(至元十八年)二月、諸將陛辭、帝敕曰:「始因彼國使來、故朝廷亦遣使往、
 彼遂留我使不還、故使卿輩為此行。朕聞漢人言、『取人家國、欲得百姓土地』。
 若盡殺百姓、徒得地何用。又有一事、朕實憂之、恐卿輩不和耳。假若彼國人至、
 與卿輩有所議、當同心協謀、如出一口答之。」
(至元十八年二月、諸将(江南軍司令で日本行省右丞相の阿剌罕、同右丞相の范文虎、
 東路軍の忻都、洪茶丘)は陛辞(天子にいとまを告げるため都門を出ること)した。
 皇帝クビライが勅して言うには、
 「はじめ彼の国(日本)の使者が来たので(恐らく弥二郎たちのことか)、朝廷もまた
 使者を派遣して往かせた。ところが彼は、ついに我が使者を留めて返還しない。故に、
 卿の輩に、その征討をさせるのである。朕は聞いている、漢人の言に、
 『人の家国を取るには、百姓(民衆)・土地を得ること欲する』と。もしことごとく、
 百姓を殺したら、いたずらに土地を得ても何の用があろう。また一事がある、朕は
 じつにこれを憂えている、恐らくは卿の輩は不和になるのではあるまいかと。仮にもし、
 彼の国人が至り、卿の輩と議するところあれば、まさに同心協謀し、一口から出るように、
 これを答えよ」)

とある。

967 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:54:37
>>966の続き。
弘安の役の軍の派遣直前に、クビライは指揮官たちにわざわざ「又有一事(また一事がある)」と
前置きして、「恐卿輩不和耳(恐らくは卿の輩は不和になるのではあるまいか)」と
「朕實憂之(朕はじつにこれを憂えている)」と言うのだ。さらに遠征中に日本側から使者が来ても、
指揮官たち(とやって来た使者)に、互いに協議しても「當同心協謀、如出一口答之(同心協謀し、
一口から出るように)」と述べる。

つまり軍の派遣直前にわざわざ指揮官同士に「不和」が起きないかと懸念を述べ、何か問題があっても
一致するよう、皇帝クビライ自らがわざわざ促している。ということは、以前の遠征では軍の指揮に
「不和」や「同心」せざる事態が出来していたことを伺わせており、同じ『元史』日本伝の文永の役の
時の件に出て来る「官軍不整」という文言も、研究者の間ではこのクビライの発言との関係が推測
されている。

というのも、『高麗史』に載る話だが、文永の役前年の耽羅島遠征のおり、遠征軍司令の
忻都(ヒンドゥ)と洪茶丘、高麗軍の指揮官・金方慶との間で作戦中に対立があったらしい。
遠征軍が開城に凱旋し、耽羅島制圧を祝して諸将を労うため高麗国王元宗が宴席を催したのだが、
耽羅島遠征でのことで不満を抱いていたと思われる忻都は、開城の手前で高麗国王から
饗応のために派遣された使者から酒杯を振舞われた時、「酒が薄い!」と怒って開城には入らず、
そのままクビライのもとへ帰還してしまったという。


968 :日本@名無史さん:2009/12/02(水) 23:57:16
>>967の続き。
忻都と洪茶丘、金方慶の確執は、文永の役の後にも尾を引き、1276年に洪茶丘によって
金方慶を誣告する事件にまで発展する。忠烈王もクビライや新妻である公主クトゥルケルミシュを
巫女を使って呪詛したなど根拠のない密告を受け、金方慶に至っては高麗の王族を擁して他の
高麗の朝臣らと共謀して大元朝に反乱を企てたとの容疑を掛けられ、拷問まで受けている。
これらの事件は事実無根だったため、忠烈王や大元朝から高麗に派遣された代官(ダルガチ)らの
詮議によっても無実との証明を得たが、これらの事態を釈明するために忠烈王はクビライからの
召喚を受けるなど大都と高麗を往還し、クビライの面前でこれらの密告をクビライのもとに
報告した洪茶丘に対して、金方慶など高麗の朝臣らを擁護しつつ喧々と反駁するなど、大変な
目にあっている。

弘安の役の時は、忻都も東路軍四万の司令として来ているが、文永の役には忻都は遠征軍を
指揮しておらず、実際に遠征軍を指揮して博多まで来たのは『高麗史』などによると
「忽敦」という別の人物だった。

翻って、文永の役の時の遠征について、『元史』や『高麗史』で一番情報量が多いのは
『高麗史』の金方慶伝だが、後に『元史』日本伝のなかでクビライが懸念したという
軍中での「不和」に類する事態は、特には無いようにも見える。


969 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 00:00:51
>>968の続き。
ただ、金方慶伝にある、博多周辺での戦闘の後、船中での軍議の中で金方慶が「兵法にあるように
敵地に入ってむしろ意気軒高で、今は故事にある韓信の『背水の陣』とか孟明の『焚船』みたいな
奮戦すべき時だから、さらに奥地へ進撃したい」云々なことを言って、遠征軍司令(征東都元帥)の
忽敦に「孫子の兵法にあるように、少数の兵がそれを顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には
結局は捕虜にしかならんものだ。疲弊した兵士を用いても、日増しに敵軍が増えている状況で相対
させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきだ」と論駁されている。

高麗軍の指揮官である金方慶の意見を、遠征軍の司令である忽敦が退けた訳だが、文永の役前後で
色々と金方慶と対立していた洪茶丘が出て来ないのは状況的に不自然な感じだ。洪茶丘は遠征軍では
司令の忽敦の次席である右副元帥の地位にあり、『高麗史』の同じ箇所で矢傷を受けたことが
書かれている左副元帥の劉復亨よりも位が上だ。

劉復亨は負傷しているため、軍議に参加出来なかった可能性は十分考えられるが、洪茶丘は健在
らしいので何も発言していないとはまず考えられない。金方慶が典拠不詳の「兵法」を根拠に
故事の状況に沿うとまくしたてて戦闘続行を上申し、司令の忽敦がちゃんと『孫子』の文言を
引用してこれを退ける、という展開にも妙なものを感じるのだが、文永の役前後の金方慶や
洪茶丘、高麗王家などの状況から考えて、クビライが懸念した軍中での「不和」や「まさに同心
協謀し、一口から出るように、これを答え」ざるような事態とは、やはりこの金方慶伝に記録されて
いる金方慶と忽敦とのやり取りの裏に潜んでいるのかも知れない。

970 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 00:04:36
>>969の続き。
>>936
> なぜなら太宰府 を攻略できれば食糧が手に入るから、中期作戦に転換することが
> できるからだ。
残念ながら重大な勘違いをしているようだが、基本的にはモンゴル帝国の軍は
糧秣を現地調達してそれを遠征軍の糧食に当てるような様式は採用していない。

基本的問題として、モンゴル帝国軍が遠征する場合、前線の軍は自ら携帯する分と、
「アウルク(a'uruq)」と呼ばれる後方兵站基地から配給される糧食で戦闘を継続し、
戦利品は獲得するとただちに後方のアウルクまでに輸送させて、それらは前線では
消費や分配はしない。

モンゴル皇帝の最重要の特権のひとつに、遠征などでの戦利品の分配権があり、モンゴル皇帝や
その委任を受けた遠征軍の司令は、部将や兵士の武功に応じて獲得した戦利品を恩賞(ソユルガル)
として彼らに授け、分配する、という方式をとっており、これがモンゴル皇帝と旗下の諸軍・
服属諸集団との主従関係を構築する、いわばモンゴル帝国の支配体制の根本だった。
(これは遊牧民の政権の特徴のようなもので、この方式にしないと、前線で戦利品を得た途端、
 遊牧民からなる部隊〜部族単位で前線から軍が逃亡しかねないからだ。 この大原則を破って
 勝手に戦利品を私的に隠匿すると、叛逆とみなされて部隊単位で連帯責任で処刑される)

だから、例え大宰府を攻略したとしても、戦利品は前線の遠征軍で即行で使われるという
事態は想定され得ず、もし、大宰府周辺の「富み」が遠征軍に還元される場合は、派遣軍の
拠点である高麗などへ帰還した後、論功行賞で恩賞として皇帝クビライの命のもと下賜を受けるか、
遠征軍が現地に屯田軍として配備され、大宰府周辺を開拓してその収益を得でもしない限り、
遠征軍のものにはならない。


971 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 03:17:45
そうはいっても食いもんは現地調達するしかなかろう

972 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 04:16:25
>>936
>>767で論破済み

>威力偵察とは短期作戦の言い換えなのだ。
ハァ?


973 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 04:32:09
ついに威力偵察が短期決戦になってしまったよ
さすが威力偵察厨www

974 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 06:17:18
>>971
モンゴル帝国軍の兵站の様式からすると、配属された現地に屯田をするとかあるいは遊牧する
とかでもしない限り、前線で糧食(食いもん)を現地調達するという例は記録にない。
外征先の場合は、後方のアウルクから配給される糧食や部隊で持っている糧食が続く限り
何らかの撤退命令が下りでもしないかぎり作戦を続けるのが基本だった。

勿論、何らかの理由で帝国の政情が不安定になってアウルクと前線との配給が滞り、前線や
駐留地域まで届かなくなった場合は、前線の部隊や駐留部隊は駐留する領域内での糧秣の徴収や
駐留地域外部への掠奪遠征などを敢行して糧食を確保する場合が見られるが、こと、文永の役の
場合はこれらのケースには当てはまらない。

なぜなら、遠征軍が出発するまで高麗領の内外で遠征軍に供するためのアウルクとなる村落、
穀倉地域が選定され、軍糧や馬料が1000碩単位で部隊ごとに配給されるように整備されて
いたことが『高麗史』に記録されているからだ。

さて、文永の役の派遣軍の軍艦九百艘のうち、三百艘は「千料船」と呼ばれる大型の輸送船舶
だった。明代などの海運でも「千料船」は活躍しているが、その当時 1 料=522.6リットルほどで
1000料だと500キロリットル以上になり、人員だと200〜300人ほど運送できたそうだ。
そこで「千料船」一艘につき200人と単純計算すると「千料船」が三百艘で、六万人は運べる
ことになるが、文永の役の派遣軍は操船要員などである「梢工・水手・引海」などを含めても
四万人弱くらいだった。
派遣軍の全要員に加え、糧食や戦利品を積載するにも全体の三分の一も余裕があったと見て良いだろう。

『高麗史』の弘安の役の前年の記事に、「正軍一万名の1ヵ月分の糧食は、およそ三千漢石と
算出される」という文言がある。宋代以降の度量衡だと、1料=5石=10斛だそうなので、
「千料船」三百艘のうち、余裕分は10万料=50万漢石くらいになる。
「梢工・水手・引海」を含む四万人を一ヶ月分養える糧食が1万2000石としても、これらを
載せるだけの余裕は十分あったと考える事が出来るだろう。

ただし、『高麗史』などでは文永の役の時の派遣軍が使う糧食を実際にどれだけこれらの軍艦に
載せたかとか記述がないので、そこは何とも言えないが。


975 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 08:33:24
>>957
>これは既に答えている「掩護部隊の持つ任務の一つに威力偵察がある」

なるほど。援護部隊=威力偵察隊か。
で、その掩護部隊というのは師団の一部だろう。
それなら、師団全体が威力偵察軍として行動するときは、その掩護部隊との
関係はどうなるんだ?

976 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 16:22:43
>>955
>短期決戦の目論見が外れて目標に全く届かず逃げ出したことが
>なんでアンチテーゼになるんだか?

鎌倉武士マンセーと私が言ったのは、文永の役の蒙古軍の撤退を、
蒙古軍の敗北(日本軍の勝利)による不時の撤退とする考え方だ。
(これだと、もっと敗けていたのに粘った弘安の役と比較しておかしい)

これに対して短期作戦説、威力偵察説は、蒙古軍の撤退を「予定の撤退」と
考える。
アンチテーゼの意味がわかったかな?

977 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 16:27:12
>>975
軍事虫くんは答えないな。
掩護部隊=威力偵察隊は、とりもなおさず威力偵察小規模説だから、
「小規模とは言ってない」と開き直った軍事虫くんとしては答えようが
ないんだろうな。

978 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 18:48:21
予定通り官軍整わず撤退なんて主張があるか馬鹿

979 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 19:27:48
      ,.ィ , - 、._     、
.      ,イ/ l/       ̄ ̄`ヽ!__
     ト/ |' {              `ヽ.            ,ヘ
    N│ ヽ. `                 ヽ         /ヽ /  ∨
   N.ヽ.ヽ、            ,        }    l\/  `′
.  ヽヽ.\         ,.ィイハ       |   _|
   ヾニー __ _ -=_彡ソノ u_\ヽ、   |  \   
.      ゙̄r=<‐モミ、ニr;==ェ;ュ<_ゞ-=7´ヽ   >
.       l    ̄リーh ` ー‐‐' l‐''´冫)'./ ∠__ フビライは官軍に負けるよう密書を送っていたんだよ!!  
       ゙iー- イ'__ ヽ、..___ノ   トr‐'    /    
       l   `___,.、     u ./│    /_ 
.        ヽ.  }z‐r--|     /  ト,        |  ,、
           >、`ー-- '  ./  / |ヽ     l/ ヽ   ,ヘ
      _,./| ヽ`ー--‐ _´.. ‐''´   ./  \、       \/ ヽ/
-‐ '''"  ̄ /  :|   ,ゝ=<      /    | `'''‐- 、.._
     /   !./l;';';';';';';\    ./    │   _
      _,> '´|l. ミ:ゝ、;';';_/,´\  ./|._ , --、 | i´!⌒!l  r:,=i   
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      l.    |:.:.l./';';';';';';'!    /:.:.| i´|.ー‐' | / |    |. !   l
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980 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 19:30:20
>975
なんでこう理解力に乏しいんだろうw掩護部隊の任務「の中には」
威力偵察も「含まれる」って言ってるのに=とかw(もちろん、掩護
部隊が「常に」威力偵察をするわけではない)あと、主力と一部の
関係ってのも
>それなら、師団全体が威力偵察軍として行動するときは、その
>掩護部隊との関係
とか言ってる時点で全然理解していないwそのうち、陣地防御して
いる師団の予備部隊が機動打撃する話になったときに、「機動打撃
は局地的な攻撃である。よって機動打撃に任じている部隊は防御を
していないから師団の一部ではない!」とか言い出しそうだw
↑威力偵察君には何言ってるか分かんないだろwちゃんと「主力と
一部の関係」を理解している人には分かるからw

あげく>977とかw平日の日中に返答できない人間がいることも理解
できないのかw
↑トラップ

981 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 19:32:33
官軍不整とはだれが書いたのか?
元の後の明国人だ。
書いた明国人だって、なんであっけなく撤退? と頭をひねって理由を
くっつけたのだろうよ。

982 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 19:49:11
元史は編纂期間が短く、史料の丸写しには定評があるんだが。

983 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 19:59:05
>>981
つまりお前の説だと編纂者は威力偵察の裏づけとなる史料など
見つけていないってことになるな。今よりも遥かに元に近い時代にも
そんなものは存在しなかった。お前はそれほど自信たっぷりにいうが
明人が見つけていない威力偵察の証拠でも見つけているのか?

984 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:03:20
>>980
もはや重箱の隅をつつくしかないことはよく分かるよ。

>掩護部隊の任務「の中には」威力偵察も「含まれる」って言ってるのに=とか

そんなことは分かった上で簡単に書いたのだ。
君の説によれば、掩護部隊が任務の一つとして威力偵察を行うのだから
その行っている状態において掩護部隊=威力偵察部隊ではないか。

そして掩護部隊が師団ぜんぶを占めるのでない以上、規模は師団>掩護部隊
であり、師団より「小規模」であることは明らかだ。
たとえ「小規模」という言葉を使わなくとも、君の説はもともと
威力偵察小規模説なのだ。

985 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:09:10
>>984
>>980じゃないけどキミは全軍が威力偵察をやっていた例を書いてないね。
教えていただけるか?

986 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:21:19
>984
もう死んだら?

「威力偵察に任ずる師団」は「上級部隊である軍団の掩護部隊」って話だよ。
もちろん、師団内には「敵陣地への限定攻撃を実施する師団主力」がいて、
師団主力の側背掩護のための「掩護部隊」が存在する。なんかもう、本当に
理解する能力がないんだなw

987 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:35:14
>蒙古軍の撤退を「予定の撤退」と考える

フビライが一日で撤退しろって命令してたんかーw
敵前上陸一日で撤退する作戦として立案されとったんかーw
新説だな

988 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 20:59:26
>>985
すでに書いている。カルカ川の蒙古軍だ。
もちろん、前に書いたように近代的な意味ではないよ。

全軍が威力偵察である点において文永の役の蒙古軍と比較されるのだ。

989 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:03:47
>>988
ひどいダブスタだな。近代的な意味での威力偵察ではない、と言い訳する一方で
なぜか近代の日露戦争話を延々引き伸ばしている。文永の役の参考にも
ならんだろうが。

990 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:05:37
>そのうちの一つは、ジンギスカン自身がこれを威力偵察と見なしていた、
>と言っている。

そうそう、カルカ河といえばこれの出典がまだだったな。
まさか日本で言えば江戸時代に書かれた本が典拠とかいうなよ?

991 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:18:42
>>989
おおいに参考になる。
カルカ川は西部ユーラシアという広い「戦域」における威力偵察であり、
文永の役は北東アジアという戦域における威力偵察だ。
大きなスケールで言えばどちらも威力偵察と言っていいのだ。

それを一つの「戦場」にあてはめるから軍事虫くんのような誤解が
生じるのだ。

カルカ川威力偵察説は英語資料ならいくらでも出てくるから当たってごらん。

992 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:21:56
>>991
学者の見解じゃなくてチンギスハーンが命じた証拠を聞いてる。
ないならないといえばいい。

993 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:24:36
>991
大きなスケールw

>984が酷い無知から来る誤解だってのは理解できたか?w


994 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:30:14
>>750へのレスマダー?


995 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:31:27
高麗史表
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、
軍不還者萬三千五百餘人」

996 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:34:38
「なんか来たよ?」
「めんどくさ、地方で対処させろよ」
「また来るらしいよ」
「よし、今度は出向く」
「来たよ」
「よし、ボコボコにしろ、追いかけろ」
「帰ったよ」


997 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:44:11
>>993
軍事虫くんの「誤解」がわかった。
君の概念では、「威力偵察」に任ずる部隊の近くには常に、より大きな
規模の「主力」が控えていなければならないのだ。

文永の役が威力偵察でないという根拠も、そばに「主力」がいないから
と言いたかったのだろう。

そこが近代戦との違いだ。時間、空間を大きくとればいいのだ。

998 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:48:04
移動速度に劣る中世の方が戦争における時間空間の
スケールが大きかったのか。

999 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:48:14
あーあ、結局アスペルガーのバカに
600近いレス無駄に消費されちまったよ。

1000 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 21:49:48
結局威力偵察君は終始逃げ回ってましたね。

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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