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【島津】 関ヶ原の戦い 十六 【津軽】

1 :日本@名無史さん:2009/08/11(火) 06:51:23
ここは関ヶ原の戦いについて本格的に検証するスレです

前スレ
【石田】 関ヶ原の戦い 十五 【三成】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1213010334/

関連スレ
戦国時代板
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ13【東軍】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1214108230/

2 :日本@名無史さん:2009/08/11(火) 12:35:11
2get

3 :日本@名無史さん:2009/08/11(火) 22:18:27
駒野城についてお聞きします
八月十九日に徳永寿昌、市橋長勝らの東軍の攻撃によって駒野城主、高木帯刀は降伏しましたが
関ヶ原本戦の時に駒野城に篭城していたのは西軍の池田秀氏だそうです
これはどういうことでしょうか?
どちらかが間違った説ということでしょうか
最終的に駒野城を確保していたのは東西両軍のどちらでしょうか?
ご教授願います

4 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 10:01:11
島津から津軽って、南から北までってことかね。

5 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 13:10:49
スレたてた人サンクス!

6 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 02:58:38
>>3
>どちらかが間違った説ということでしょうか

どちらも正解。揖斐川より西が東軍の勢力範囲だったら本戦敗戦時、島津義弘、長束、長宗我部、毛利勝信は敗走できない。
8月23日の合渡川の戦いでは三成の家臣、高野越中が駒野城にいることが確認されている。
8月19日の時点で一時的に東軍に奪われたが、その後すぐに西軍が奪回している。
西軍は桑名城、大田山城、駒野城、大垣城の揖斐川西のラインを防衛線としていたから
東軍に抜かせることは許さなかった。奪回後の駒野城の守備についたのが伊予大洲の池田秀氏。
高木帯刀がどうなったかは不明。

7 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 03:02:17
>>4
津軽は家康近くにも参戦し、
三成息子逃走にも関係がある。
でも、
松前だって参戦しているらしいじゃん、ねー。

8 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 03:26:19
きゃわわ

9 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 12:55:47
松前って関ヶ原で何してたんだ?

10 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 18:42:07
松前氏は、たいした戦力ではなかったので、それほど具体的な指示もなかったようで、人質だけ出して領国にいました。

11 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 20:22:19
>>10
つまり在国ということか
米沢口に最上の援軍として
南部、秋田、戸沢、六郷、仁賀保といっしょじゃなかったってこったな  

12 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 22:05:46
池田秀氏?
高木帯刀?
誰?

13 :日本@名無史さん:2009/08/14(金) 01:45:54
>>11
人質を差し出したということは米沢口まで出陣したのでは?  

14 :日本@名無史さん:2009/08/15(土) 00:50:14
>>11
戸沢・六郷も在国
最上陣には赴いてない

15 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 02:58:40
ん?南部利直、秋田実季、戸沢政盛は最上城に終結してるぞ

16 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 12:57:57
南部と戸沢は東軍だけど
秋田って怪しい動きをしたんだろ
実のところどっち側だったんだ?

17 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 13:10:27
豊永清政が戦国時代について、ニコニコ生放送で語る!

「天下統一までの道のり」

http://live.nicovideo.jp/watch/lv3029422

このコミュは主の主観的な見地からいろいろな事を討論するコミュニティです。主の独断と偏見なので辞めたい人はいつでも辞めて結構です。


18 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 15:42:51
>>16
え、東軍でしょ、秋田が最上と上杉の城攻めることがバレたのがいったん和を結んだ上杉が最上領に侵攻することになったきっかけでしょ!

19 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 18:27:37
>>18
義光みずから一万の兵を連れて上杉の味方になるとか書かれてる
『上杉家記』に収められている文書のことか

書状現物の所在は明らかでない以上
上杉家の捏造の可能性が高い 

20 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 23:19:10
秋田実季は東軍なのに減封されためずらしい大名

21 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 00:05:57
秋田家は西軍に通じていたというが上杉家側史料に秋田家一味せりとの証跡を検する事も出来ぬ。
恐らく「首鼠両端を持す」というのが、同家此時の態度を最も適切に表現する辞ではなかったろうか。

22 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 03:50:04
秋田の話題はあきた

23 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:40:50
お前ら、小早川秀秋の兵力は1万5千で間違いないのか?
正解を教えてくれ!

24 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 06:55:52
参謀本部が石高から計算した数じゃないの

25 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 14:09:46
宇喜多の兵力ももっと少ないらしいけどな

26 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 23:15:38
今、手元に検証する資料がないので記すことができませんが
史書による兵数の記録がまちまちですね。
日本戦史などは質題の通りの1万5千余を採用してます。
8千人という記録もあります。その書について失念しましたが
関ヶ原軍記だっただろうか?この合戦に長曽我部家などは本来なら会津征伐において
100石につき1人の軍役だったが20数万石の動員数で100石につき3人の
約6千人の兵を率いて参戦した。
また、立花宗茂なども10数万石ながら約4千人の兵を秀頼様馳走の為と
動員してきていた。
島津家なども上方留守であるので100石につき1人の軍役予定であったが
西軍加盟に及び薩摩本国に再三の派兵要求をしています。
島津義弘が関ヶ原合戦において西軍敗退の折「薩州兵5千もあらば今日の戦いに勝てたものを・・・」と
悔しげにつぶやいたことから、義弘知行分と
忠恒(義弘の子息で兄義久の養子となり島津家当主)知行分の約20万石からの数字であるでしょう。
いずれにせよ関ヶ原合戦参加の諸将は、東西いずれが公儀であろうとこの争乱に奉公と手柄を現し恩賞をえようとした。
質題の小早川の件ですが一説の8千人なら100石につき3人でほぼ数字があう。
恐らく間違いであろうと思うが、50数万石の所領との記録もあり
それなら1万5千ほどになります。しかし、合戦後の恩賞が広島50数万石であることから採用するには難しい。
では何故、1万5千なのか。
推察となりますが、小早川家は先代の隆景の頃は豊臣家において家康と型を並べるほどの席次にあり
親豊臣体制のスタンスであった。
朝鮮の役においても継戦派との記録もある。
恐らく推察するに豊臣体制内で経済的なある利権をもっておりそれによって石高30数万石不相応な
動員兵力を有していてのかまた、秀吉からの付け家老である稲葉・平岡の2人の石高が
合算されていないことも推察します。
有識者のご回答を待ちたいものですが・・・

27 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:14:46
三成が真田に宛てた書状に小早川8000人と書いてあるから8000人で確定

28 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:52:09
関ヶ原合戦の軍勢数は、島津に課せられた100石につき3人の軍役を、
各大名に当てはめただけだと、日本戦史に思いっきり書いてあるだろ

小早川秀秋の軍勢も、戦後の所領52万石と勘違いして算出したと明記してあるっての
本来なら筑前36万石で算出し10800人の間違いともある
陸軍参謀部の勘違い
こんなの原本見れば答え出てるのに、単純な史料にさえ目を通さないのがホント多いよな

で秀秋の軍勢は8000人、宇喜多も同数


後、島津義弘や忠恒の知行分20万石と言ってるけど、
知行分ではなくて蔵入地、直轄地ね

29 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 00:16:47
宇喜多も8000人だったのか!
こりゃ驚き!

30 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 19:19:25
宇喜多8000人説は>>28の思いこみ

福島と互角だったから、だいたい8000人ぐらいだっただろうとゆう勝手な憶測。

31 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 19:27:24
だったら同じ書状に書いてある小早川秀秋の8000人も憶測だなw
無知って恐ろしいw


32 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 20:34:02
夏厨を煽るな。逆切れして荒らすから。

関が原の東西両軍の数ははっきりわからないからね。
家康の軍勢ですら本当に3万もいたのかわからないのだから。

33 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:10:47
宇喜多8000のソースは?  

34 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 23:47:07
>>33は文盲


35 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 12:38:50
石田三成が真田昌幸に宛てた書状には宇喜多秀家の兵力は18000
文盲は>>34

36 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 12:52:30
>>35
おいおい、そんな嘘書いても小早川秀秋、宇喜多秀家は8000人とあるぞ
よくまぁそんな事かけるなw


37 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:13:02
>>32
兵力がはっきりと分かってるほうが少ないんじゃない?

38 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 02:33:25
宇喜多秀家8000人とか言ってるバカは八千のすぐ上にある一萬を読めなかったとか?
そんな落ち?

39 :ウッキー:2009/08/22(土) 03:03:12
ハロー? ウッキーでーす

40 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 06:41:49
小早川と宇喜多が各8000と書いてあるのに一万とかなんだ?
だったら小早川も18000と言い出すのか?

41 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:14:24
>>40は何か勘違いしているなw


42 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:05:50
小早川秀秋と宇喜多秀家の軍勢の事書いてあるんだがな
18000とかいい加減にして欲しいわ


43 :日本@名無史さん:2009/08/23(日) 00:20:11
宇喜多8000人とか言ってるのは夏厨 

44 :日本@名無史さん:2009/08/23(日) 01:38:47
実際は日本の戦争の兵隊の数なんて10分の1以下だろ。

45 :日本@名無史さん:2009/08/23(日) 10:55:10
いかにもアレな一般書籍で、資料に直接当たれない自分を晒すようでちょっと恥ずかしいが、
一応、桐野作人著「真説関ヶ原合戦」学習研究社発行(学研M文庫)には、宇喜多家の兵力について、
「一万八千」(真田昌幸宛石田三成書状)
「浮田が勢一万二千」(関ヶ原合戦当日記)
「騎馬千五百、雑兵一万五千」(備前軍記)
「二万余人を五段に立てて」(軍記大成巻之二十四)

といろいろな説がある。と書いてある。
もちろん、作者の勘違い等の可能性もあるからなんとも言えないけど、
昌幸宛の三成の書状に8千と書いてあるというなら、
とりあえずその根拠をもう少し具体的に示して欲しいとは思う。
個人的にも石高×300人で計算しても1万7千くらいにはなりそうだし、
8千人は少なすぎる印象を受けるんだが?

46 :日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:57:58
というわけで>>40の敗北が決定しました。

47 :日本@名無史さん:2009/08/24(月) 19:18:42
桐野の勘違いとしか言いようがない

>「一万八千」(真田昌幸宛石田三成書状)
とあるが、同じ書状に小早川秀秋の軍勢と一緒に書いてあるんだよ
なんで秀秋だけ8000人と言うのに、秀家は18000人に化けるのかが不思議


48 :日本@名無史さん:2009/08/24(月) 19:33:41
>>47
大日本史料の稿文も秀家1万8千、秀秋8千ですな

49 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:21:17
勘違いしているのは>>47

50 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 10:39:41
先週末に関ヶ原行ってきた。地元の人の話を聞いたり実際の地形を見て今までの疑問が一気に解決したよ

51 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 12:10:04
小早川秀秋は大坂警備の当番だったから1万5千の大部隊を率いていたと聞いた。

52 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 15:46:30
関ヶ原の戦いに詳しいみなさんにお聞きします
曽根城について教えてください
西軍の真っ只中にありながら持ち堪えたこの城に非常に興味があります
現地に行って見てきましたが
小さな平城っぽいですし
留守部隊しかいなかったのだから簡単に落とせそうですが
赤坂への進出を許してしまったのは西軍がこの城を確保しなかったからだと思いますが
西軍はなぜ落とせなかったのですか?
ご教授願います。

53 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 16:00:39
攻める必要もない小城だから。

54 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 16:34:50
http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/PICT0321.jpg
小さいと言っても三方を川や池に囲まれた要衝です
攻めるからにはそれなりの数が必要でしょうし、そこに費やす時間の浪費を
恐れたのでしょう
むしろそのまま清州城まで進出して遊兵化するつもりだったかと

55 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 16:46:06
ほんと小さい城だなあ。城というより土豪屋敷くらいか。
家臣の屋敷(小大名の家臣だから相応の小身)とくらべればその小ささがよくわかる。
いちおう堀らしきものもあるようだが、ほとんど用を成さない程度の幅しかなかったのではないか。

56 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:01:01
大きさはあまり関係ない
重要なのは周辺の地勢

57 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:03:07
平地で小さけりゃあっという間に蜂の巣ですが・・・

58 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 17:22:23
たとえ小さくても周りに接近不可な川や深田・湿地があれば良い

59 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:03:39
それに曽根城は周辺の集落がすっぽり入る大きさの様に見えるのだが…

60 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:38:53
>>58
図面見る限り深田は南方だけ
こりゃ守りようがないね。

61 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:56:46
>>60
北と東には川
更にその向こうにある揖斐川との間は現在は田んぼであることから
当時も田んぼか湿地帯と推測される

62 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 19:24:47
曽根城は攻められてるぞ。大谷が焼き討ちしたり、島津も攻めたりしてる。

63 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:21:18
>>61
川があったところで大して大きくないだろ。
そんなもん鉄砲全盛の時代には役に立たんよ。
小城の小勢でいったいどう対抗すると?
それに当時は人口少ないから現代みたいにあちこち水田ってわけでもなし。
そんなに水田の中の城が堅固ならわざわざ稲葉山みたいな山の上に城作らんよ。
まあ図面見る限りは水田の中の城じゃないみたいだが。

64 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:31:49
>>47
申し訳ないけど、「書いてあるんだよ」とだけ言い切られても信憑性が…。
できれば、図書館とかで確認できる書籍くらいで、
8千人と既述されているものとかを紹介して頂けるとありがたいが。

65 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:40:19
>>63
あの河川に挟まれた低地の場所なら、当時は湿地帯でしょうから
軍勢の移動は難しいでしょう

後、山の上に城を造る大きな理由の一つは眺めが良い事

66 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:42:46
>>62
大谷が焼き討ちしたのは領地
後、島津が攻めたのは赤坂占領後の事で西尾光教や水野勝成がいる

67 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:43:41
攻めにくいからだろw

68 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 20:53:19
私は防備よりも情報の得やすさが上だと思いますがね

69 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:14:06
>>65
近くに川が流れてるだけで別段挟まれてる様でもなし。
ただの平地の小集落だろ。
って言うか小城のくせに攻め口多すぎ。
かなりひどい城だね。

70 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:26:19
>>69
挟まれていると言ったのは北から東にかけて流れる川(平野井川)と揖斐川の事
ここが低湿地帯で南が深田・沼なら比較的開けているのは西側のみと言う事になる

71 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:03:27
留守の兵力はどれくらいなんだ?
そもそも西尾光教はいつ戻ってきたんだ?
まさか、福島、徳永、市橋らと同時期? 

72 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:27:04
>>70
揖斐川沿いに堤があるから低湿地じゃないね。
むしろ川沿いに町屋が広がってるくらいだし。
そもそも沼田がわざわざ特記してあるのに、
攻められないような低湿地帯が広がってんのなら
その旨書いてあるはずだよね。


73 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:31:28
>>71
そう
但し、西尾が曽根城を東に発したのは大谷が垂井に陣してから
その辺考えると、少なくとも半分は残しているだろうから500人か

74 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:37:22
ここで無料で読めるな、何か目新しい情報はあるかな
http://www2.ocpl.ogaki.gifu.jp/webmuseum/collection/collection_details.do?division=collect&Search_Mode=2&Conf_Name=koten&Said_Number=10&View=0&Data_Id=33&Class_Name=koten

75 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:54:46
>>72
揖斐川の治水なんかは江戸時代にならないと出来ないでしょう
あの図にはあるのは基本的に自然堤防かと

後、南のは特に深かったのでしょう、国土地理院の地図を見ても
岐阜経済大学の辺りは低くなっています
西側に平野井川の堤防があるのをみると、無かった昔はかなりの
沼か深田だったのでしょう
そしてそれ以外の地はほぼ田に囲まれているのが解ります
川などの遮断線がない場所にある一番近い集落は西の加納かと


76 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 22:54:51
西尾光教は曽根城に戻れなかったと思うな
曽根城は西軍の勢力圏内にあるんだから
単独じゃ突破は無理
清洲に戻った後常に東軍先鋒といっしょに行動していて
みんなといっしょに岐阜城を落として揖斐川を渡河してからようやく曽根城に戻ったって感じでしょ






77 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:16:41
西尾って、いったん曽根城に戻ってから岐阜城攻めに参加したのでは?

78 :日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:35:37
>>77
無理だと思うな
曽根城に戻るのを、石田、小西、島津、織田が指を咥えて見ているわけがないよ

79 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:09:25
>>75
いちおう集落があるんだから堤くらいあったでしょ。
土地自体が低いのと深田の深さは関係ないし。
図からわかるのは治水された平野に小集落がぽつぽつあるということ。
現代と違って人口は少ないんだから、田は集落ごとに分散していただろう。
道もよく整備されており、攻め口も豊富。縄張りにも工夫がない。
相当に攻めやすい城かと。
西美濃には平城が多いがいずれも評価は低い。
堀と石垣でがちがちに固めた大垣城ですら例外ではないしな。
曽根城ごときでは・・・。

80 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:46:38
>>78
いや、それが8月9日の時点で戻っていた可能性が高いのよ、一柳直盛も8月9日に黒田城に帰城しているからね、この日は三成がどっちにつこうか迷っている伊藤盛正を口説いている最中。この時点においてなら曽根城への帰城も西軍の攻撃を受けず可能なはず。

81 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 02:57:49
>>79
田の中というだけで十分要害
深田でなくても水を引けば十分、地形障害だし
西美濃の縄張りが大したことないというのはこういう大前提があるから
道も実際は田の畔道だから遮蔽物や部隊も展開できない

82 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 03:13:09
なんで曽根城ネタでこんなにスレ伸びんだよw    

83 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 06:43:45
>>81
そもそも田の中かどうかわからない件。
田の中にあればよいというのなら、詰めの城というものが発展しなかった件。
田は十分人間の移動できる深さしかなく、しかも畦もあるため、防御施設しては
はなはだ不十分な件。

っていうか、田んぼなんか役にたたねーよw

84 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:20:08
障子堀みたいなもんだよ
それにこの辺りは基本的に水郷地帯なのだから、周辺は水に漬かりやすい土地でしょう
揖斐川をあえて決壊されたら曽根城は浮き城になる

85 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:41:39
田圃が障子堀ってw
そんなのが役に立つんなら誰も山城なんか作らないってw

86 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:10:30
言い過ぎではあるけどね
でも、実際あの辺は低湿地帯だから堤を切ってしまえば
難攻不落でしょうな

逆に曽根城を赤坂占拠前に落とさなかったのはそれを
されて岐阜城との連絡を絶たれる事を恐れたかもね
大垣城も水に浸かるし

87 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:29:04
難攻不落どころか自滅だろ。
つうか堤切った所で川が増水してなきゃ浸水しないし。
そもそも曽根城は稲葉屋敷に毛が生えたようなものだから
防衛能力は城とは呼べないレベル。
おそらく関が原当時、守将も逃亡して無人だったんだろう。

88 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:12:24
あの辺りは自然に水が湧き出てるほどの低湿地帯です
あそこは輪中でもありますから途端に浮き城です
後、曽根城は500m四方はあると思うのですが

89 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:38:32
つまり地元民が「うちの城すげー!」って自慢してるってことか?
曽根城でw

90 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:47:57
一番早く清洲城に到達した東軍の部隊が福島正則・市橋長勝・徳永寿昌らで八月十一日
それに八月十四日、福島正則・池田輝政・一柳直盛・西尾光教らの武将が清洲城で軍議を行なっているのが確認されているので
西尾光教の本隊は曽根城に戻れず東軍が赤坂を占領するまでわずかな留守部隊のみで守備していたことになります
それで本題の西軍はなぜ東軍の赤坂占領までに曽根城を攻め落とせなっかったのかという疑問につながるわけですが
ちなみに伊勢国安濃津五万石の富田信高でさえ安濃津城の留守兵は20余人でした

91 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:52:21
そもそも曽根城に守備隊なんかいたの?

92 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:58:31
>>88
>浮き城

それはないわ。
そもそも室町以来の美濃国中の内乱でも織田の侵攻でも
あの手の西美濃の小城が浮き城になったということもない。
そんな簡単に浮き城になれたら誰も苦労しない。

93 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 13:04:37
>>89
このくらい国土地理院の地図や航空写真みれば解る

>>92
そりゃ元から輪中だもん
やってやれない事はないが、元からでも十分だし
やったら被害も大きい
やらなくても蓋然的な脅しになるだろうし

94 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 13:31:23
できないからやらない。やっても効果がないからやらない。
それだけのこと。
っていうか、輪中って水害に備えて集落の周りに堤を築いておくものであって、
常時水に囲まれてるわけじゃないし。

95 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:25:23
曽根城が難攻不落てw
そんなこといったら日本中の城は難攻不落になっちゃうよw

96 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 14:52:14
南は沼と田
それ以外は田でこの辺りは水が湧きやすいから
基本的に深田かと

97 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:20:28
南は沼田。
沼田なんだからいちおうあぜ道はあるな。
その他は普通の平地。条件はほかの平城と同じ。
攻め口もたくさんある。

どう見てもただの小城ですが。
図を見る限り農村は城の近郊に分散してて、城の周りがそんなにたんぼに覆われてるようにも見えないし。
っていうかこんだけたんぼにこだわってる人も珍しい。
昔はいわば農本主義だから城の周りにたんぼくらいあっても
別段特筆するようなことでもないわけだが。


98 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 15:40:56
戦国時代に輪中ってあったの?
輪中が発展したのは江戸時代だというのが一般的だと思うけど。

99 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 17:20:10
>>97
そうは思わない
沼田なのはそこが特別で
他は田とみるべき、場所的にも低湿地帯といえるし

第一、図には村があるのだから地勢的に見て
空白部分に田が広がっているのは間違いない

100 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 17:53:50
現代と違って、人口も少なく灌漑技術も未熟だから、
平野に村がぽつぽつあるイメージ。
空白部分は原野だろうな。
城の形状・町並みから言って、豪族館を中心に家臣団の屋敷が並んで
城が構成されているわけだから、農村が発展して城・町になったというより、
武士団が大規模化して城・町になったのは明らか。
だから城のまわりに田畑があるかどうかは疑問だな。
あってもそれほど大規模ではないだろう。
あったところで何らアドバンテージにならないが。

101 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 18:59:04
http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/PICT0321.jpg

これか。城というより屋敷街だね。
傘下の土豪たちに屋敷を与えて集住させたのを堀で囲んでみました、ってのがよくわかる。
元は稲葉氏の館だろうから、地形的にも大したことはないね。

102 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 21:06:48
東軍の大坂屋敷が攻め落とされなかったようなものか?

103 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 21:57:52
これから、このスレにいる奴の90%以上が
NHK観るだろうな。

104 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 00:11:21
曽根城がなぜ持ち堪えたか?
それはズバリ西尾光教がそこにずっといたからではないでしょうか?
会津攻めのために江戸に集った武将に西尾光教の名は見当たりません
100石3人制で二万石だから600人の兵力が篭城していれば
石田らもおいそれと手だしできないでしょう。

(会津攻めのために江戸に集った将)
赤井忠泰、秋山光匡、浅野幸長、天野景俊、荒尾平左衛門、有馬豊氏、有馬則頼
池田知政、池田輝政、池田長吉(輝政の弟)、池田彌左衛門、生駒一正、石河貞政
石川康長、伊丹正親、市橋長勝、稲葉道通、浮田詮家(坂崎直盛)、大島光義
岡田助左衛門、岡田善同、織田長孝、織田有楽斎、落合新八、加藤嘉明、金森可重
金森長近、兼松正吉、河村助右衛門、京極高知、九鬼守隆、黒田長政、桑山元晴
小出秀家、佐久間勝之、佐久間政實、佐久間安政、佐々行政、佐々長成、佐藤堅忠
真田信繁(幸村)、真田信幸、真田昌幸、清水小八郎、神保相茂、鈴木重時
施薬院、千石秀久、田中長顯、田中吉政、柘植正俊、津田信成、津田正秀、筒井定次
寺澤広高、藤堂高吉、藤堂高虎、戸川逵安、徳永寿昌、徳永昌重、富田知信(信高)
中川忠勝、中村一榮(一氏の弟)、中村一忠、中村元勝、野尻彦太郎、能勢頼次
野間久右衛門、長谷川重成、蜂須賀至鎮、一柳直盛、平野長元、福島正則
福島正之(正則の継子)、福島正頼(正則の弟)、舟越景直、古田重勝、古田重治(重勝の弟)
別所治直、細川忠興、細川忠利、細川忠隆、堀田権八、堀田重氏、堀尾忠氏
本多正武、松倉重政、水野清忠、溝口源太郎、三次慶清、三好為三、村越光
森可政、山内一豊、山岡景宗、山岡道阿彌、山城秀宗、山名禅高、分部光嘉

105 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 01:39:55
【秀忠君の苦悩を味わおうツアーのお知らせ】

実際に秀忠軍が通った旧中山道を上田から大津まで走覇するツアーです

■参加費無料 ■交通費、食事、宿泊費自腹 ■最少催行人員:1名 ■添乗員またはガイド:なし

用意する物:運動靴、地図、お金

日付 行程
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集合場所:上田城址
08:00発 
↓ 徒歩
9月20日
大津城址

106 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 02:49:06
>>104
西尾は岐阜城攻城戦に参加しているが…これはいったい…こいつは謎だな

107 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 09:07:45
>>106
西軍が蜂起してから東に行き、西進した東軍先鋒と合流
以降、行動を共にする

108 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 13:16:41
上杉討伐に出陣したが江戸に到着してなかったんでしょ。
そのまま城放棄して東軍に。
西軍に参加した大名だって会津攻めに参陣するはずだったのが少なからずいるわけだし。
江戸に到着してたのが会津攻めのすべての大名ではないよ。

109 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 17:32:48
>>108
西尾は大谷が垂井に来るまでは曽根城にいた

110 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:44:26
>>109
合度川の戦いはどう説明する
背後を突かれるぞ

111 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:55:08
図説 美濃の城 より曽根城の縄張りについて

 曽根は西三河平野の中央に位置し、西に杭瀬川、東に揖斐川が南流し、さらに両河に注ぐ支流が数多く交
錯して低湿地が点在する地勢である。現在田は田の下層から土建用資材の川砂利採取が盛んに行われている
のは、かつてこの付近一帯が揖斐川の流路であったことの証左である。
 城は、揖斐川の支流平野井川の湾曲部を利用して築かれた平城で、防備はもっぱら豊かな水濠と土塁を基
調に曲輪を配して築城された。
 本丸跡に建てられた華渓寺所蔵絵図(享保八年(=一七二三)作)の写しによると、本丸を中心にして二の
丸、その外側に三の丸に該当する家臣屋敷を配した輪郭式縄張である。
 本丸曲輪を囲む内濠、二の丸曲輪を囲む中濠、屋敷町曲輪を囲む外濠を設け、湾曲した平野井川を総濠
とし、二重三重に濠を巡らし各曲輪を区画し、濠の内側には土塁を盛り、防備を強固にしている。ことに平
野井川に面した北側・東側は土塁を高くして洪水に備えたようで、後年大垣輪中堤が築かれた際には、土塁
をそのまま堤に利用したようである。
 大手筋は南西方向で、濠・土塁を二重にしたり、自然の沼田や泥田を利用して敵の侵入を困難にしている。
搦手筋は北方外濠と総濠との間に春日神社を祀って搦手曲輪にあて、艮(東北)方面は土塁・総濠を隅欠状
に曲折させて築城定法どおりに鬼門除地としている。絵図によると二の丸虎口は南側になっているが、土塁の
配置から考察すると、大手口の外濠を渡り三の丸に入り、中濠に沿って北進し、右折して濠を渡り二の丸虎
口を通り、さらに本丸南虎口に入るのが妥当と思われる。
 そのほか三の丸内に八幡社を祀り、その境内を広くして馬場としたり、あるいは城内を通じる道路を比較
的屈折が少なく直線的にし、その中の一つを幅の広い大路として、平時は馬場に急ある時は武者揃え場
に共用できるようにしたり、城の出入り口付近には町屋を整然と配している(城下町)ことなどが、稲葉氏築城
の特徴となっている。

112 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:57:22
>>110
その時は福島と一緒

113 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 22:22:56
何か勘違いしてないか?
大谷が美濃に来たのは9月2日で合渡川の戦いは8月23日だぞ 

114 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 22:51:32
>>113
7月2日の話し。垂井にいる時、佐和山で蟄居中の石田三成に子を参陣させるよう促して逆に三成に決起を持ちかけられてる時の話し。
西尾がそれを密告してる。

115 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:01:18
>>114
そういう意味かw
俺はてっきり大谷が北陸戦線から美濃に転進して来るまで
曽根城に西尾光教が在城していたと言ってるのかと思ったわw  

116 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:03:44
>>113
寛政重修諸家譜によると上杉征伐に従軍しようと大坂を発し、所領曽根に至った時に大谷が垂井まで来ており
平塚を通じて東向を止めるように言ったが、その夜に西尾は兵を率いて関東へ向かった
その報復として大谷は彼の所領を焼いたとある

その後は清州城に至り、岐阜城攻めに至る。その後に水野と共に曽根城に籠り、島津の攻撃を撃退したりして
本戦の傍らで大垣城を攻めたわけです。

曽根城を攻撃しなかったのはこの後、北陸に行く予定の大谷が長居をしたくなかったからでしょう
>>111の曽根城に敦賀の領地に兵の多くを置いた状態で攻めれるとは思いませんし

117 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:23:35
しかし三成は何やってたんだ
さっさと占領して
福原長堯あたりに守らせとけば
赤坂まで進出されることはなかったのに   

118 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:37:21
>>116
上方での異変を知らずに、わずかな留守兵しか置いていかなかった東軍諸将と違い
西尾光教は知ってて城を後にしたな
こりゃかなりの兵力置いてるわ
持ち堪えるわけだわ   

119 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 00:29:37
>>117
石田三成ってそういうとこあるよね
清洲城もさあ、説得して明け渡させようとしたり、無駄な時間費やして、そうこうしてる内に福島らに戻られちゃうし
これが秀吉なら力攻めで清洲城奪取、備蓄米三十万石も奪取、戦線を東に押しやるのに
石田三成ってなんかセンスないよね、西軍が負けたのは、やっぱこいつのせいだと思う

120 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 03:00:42
西尾光教恐るべし

121 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 06:08:14
最近西尾ヲタが沸いてるな

122 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 09:52:51
まあ城主不在だし、城は捨てたんだろうね。
それか二枚舌で西軍に内通する書状でも送ってたのか。

123 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 10:15:41
>>122
前者は知らん、大谷に領地を焼き払われたとあるが、城を落とされたとはないし
西尾が兵を発して東向したとあるが、城を捨てたとはない

後者は無いね
大坂の妻子が三成の追及から逃れて近衛信尹に匿ってもらっているから

124 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:00:21
ほう、それは知らなかった

125 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:07:32
西尾光教ってなにげに凄いよな
落とされないだけの守備兵を置いていったり
大垣から関ヶ原への西軍の転進に最初に気付いたり
大垣城水攻めを提案したり
大垣城攻めも水野の手柄にされてるけど一番活躍したのは西尾光教だろ

126 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 03:40:38
三成は一応、曽根城を攻めようとしていたぞ、馬淵兵左衛門って奴を曽根城に送りこんで謀略をもって落とそうとしていた。

127 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:39:54
>>119
石田が大垣城に入城出来たのが8月10日
福島が清洲城に戻って来たのが8月11日
時間的に力攻めは無理
どっちにしろ間に合わなかった。 

128 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 12:53:05
三成だけでなく、秀吉にも言えるが書状に細かい作戦計画や状況を書きすぎ
普通はこういうものは使者の口頭で済ますはずなのに
機密情報の取り扱いに問題があると言わざる得ない

129 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 13:18:01
アホだなあ。
花押付の書状に書くからこそ意味があるのに。
口頭でよけりゃそもそも使者だけで十分だろ。

130 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 13:45:34
>>129
書状に書くのは
「これこれこういう事をしました。確認して下さい」
「これこれこういう事をしてくれてありがとう。覚えておきます」
というその後の恩賞の証拠になるような事。
軍事機密なんかは紙に書くと、盗まれた際に大問題だから
使者の口頭で済ますもの。

131 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 15:15:34
>>130
書状は恩賞のためだけに書くものではない。
というか、書状の中に恩賞を約する内容のものがあるというだけのこと。
相手に何らかの行動を求めるときに、「自分はこれこれこういう行動をとります」
「自分はこれだけのことをするからあなたも動いてね」、とするのは自然なことで、
相手が同輩の場合はなおさらだ。相手の歓心を得なきゃいけないんだから。
その辺を使者に任せず書状に書くのは、人心を掌握する上で重要なこと。
それに使者だって捕まることあるし、それなりの「格」のある使者を派遣できないこともある。
そもそもこの手の軍機って、自分の都合のいいことばっか書いたり、嘘誇張を書くことも珍しくない。
だから鵜呑みにできなかったりする。

132 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 17:16:12
>>131
書状に書くのは普通は自分にとって都合の良い、戦況の概要が普通
書状に嘘書いたらそれこそ証拠に残ります
使者の能力についてはだからこそ使番は優秀な人材を求められるという事であり、
その点でも秀吉や三成は人材不足と言える
そういう意味でも細かい書状もらうより、それなりの地位の人物を使者に立てた方が
歓心は得られる

133 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 17:43:41
それなりの地位の人はそうそう書状届けの旅には出られません。
戦時ならばなおさら。
お使いの中級家臣の言葉じゃ軽いからこそわざわざ書状に書き記しているわけだよ。
あえて書状に書いてるんだよ。

134 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 18:04:55
そんなことは無い
使番はただの伝令役で無く、場合によっては秘書や外交官的な役目を果たす
重要な職、書状よりも余ほど重みがある

第一、それで機密を漏えいする方が大問題
三成はそれで自軍の脆弱さを吐露する文章を奪われ、家康にその内実を晒すことになった
家康が秀忠抜きで決戦に挑んだ大きな根拠であろう

135 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 19:11:48
本人の書状のほうが重要に決まってるだろ。

136 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 19:35:37
>>132
書状に嘘書いたって、ばれる前に味方にしちゃえばいいだけのことだ。
味方として後戻りできないように行動させてな。
そんなのごく当たり前の手法だ。乱世は非情。


137 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 20:08:48
>>135
敵にもね
>>136
まあね、上から下限定ならそれで良いかもね
対等や下から上だと大問題だけど

138 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 20:24:29
対等といっても勝てば豊臣政権の大幹部だから無問題。
それに書状を受け取る側も内容を鵜呑みにするほど世間知らずではないと思われ。

139 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 20:39:22
使い番って武田で言うところのムカデ衆だろ?
近習なら重臣の子弟とかまざってたりするけど、
ムカデ衆から出世したやつって聞かないよな。

140 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 21:36:34
使番が書状を届けてたとしても、使番は機密を預かるほどの職ではないからな。
重要な書状ならばちゃんと使者を立てて届けさせるだろう。

141 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 22:20:07
>>138
たしかに機密保持が重要な理由かな
>>139
関ヶ原の使番では酒井重勝、成瀬正成、米津親勝、小栗忠政等
元では安藤直次がいる

142 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 23:03:11
>>140
使番にも色々いて、千石以上を領する大身もいる
彼らは相当の機密を預かる職にいた
勿論、使番だけがそうした任に当たっていた訳ではないが

143 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 23:22:13
使番と一口に言っても、本陣より派遣されて軍監のような役を務める者もいれば、
一騎がけの使い走りのような者もいる。
各大名家によってその地位は異なるし、役割も異なる。

まあ一番一般的なのは戦場の伝令役だな。

144 :日本@名無史さん:2009/08/30(日) 00:16:22
結果として、秀吉・三成の書状に多くの内容を書くという事は関ヶ原での敗北という
破局をもたらす大きな要因となったわけだ

145 :日本@名無史さん:2009/08/30(日) 02:44:03
>>127
美濃の大名達への説得工作自体は8月5日から始めているんだが

146 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 07:18:45
>>144
妄想乙

147 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:53:02
>>146
書状の日付は9月12日、奪ったのは伊勢街道沿いの高須城にいた徳永長昌
翌13日に家康は清州から岐阜にでているので、この間に家康が書状を受け
取るのは自然

148 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 11:25:41
書状奪われたつーのは軍記に出てくる与太話ジャマイカ。

149 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 11:43:58
>>148
「古今消息集」にも全文が引用されている

150 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 13:59:49
奪われたなんて書いてあったっけ?

151 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 14:22:07
なんだw
結局与太話を元に熱く語り合っていたわけかw

152 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 14:36:15
石田三成発増田長盛宛の手紙が写しであれ残っているのはそういう事かと

153 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 15:29:44
くだらない議論だったね・・・。

154 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:32:39
>>150
慶長右平記に北面の某が大津城の京極高次へ行こうとした所、石田三成の飛脚と
出会い、捕縛してこの書状を手に入れて14日に家康に提出したという

155 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:59:42
>>154
自分で書いてなんだが…なんだこのスパイ大作戦的な展開は
確かにこの時期の北面武士はどんな裏稼業しているか解ったもんではないが

156 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:42:27
北面最強伝説キタコレ


157 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 19:47:28
東西両軍に対しても中立を維持でき、情報が入りやすい京・禁中にいることができ、
朝廷にも目を配れる

どちらが表か裏かは知らないが、間者の隠れ蓑としては便利かと

158 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 19:57:51
ほんと下らないな。

159 :日本@名無史さん:2009/08/30(日) 20:49:42
この史料は「朝野旧聞褒稿」が出典だが
書状の内容のみのが「武功雑記」、「古今消息集」
入手の経緯まで触れているのは「慶長右平記」、「国朝大業広記」、「関原軍記大成」
内、「国朝大業広記」は14日家康入手を否定し、15日以降としているが「朝野旧聞褒稿」は
それを再否定して、14日としている

160 :日本@名無史さん:2009/08/30(日) 22:11:15
ここまでの総括

北面の徳永某(伊勢街道沿いの高須城主)が大津城の京極高次へ行こうとした所、石田三成の飛脚と
出会い、捕縛してこの書状を手に入れて14日に家康に提出したという


???
こりゃひどい



161 :日本@名無史さん:2009/08/30(日) 22:28:23
>>160
徳永は除いといて
それは桐野作人の説だから
彼は徳永が書状を手に入れたと考えている

それとは別に朝野旧聞褒稿では北面の某が
大津に行く際に入手したとしている

162 :日本@名無史さん:2009/08/30(日) 22:47:00
珍書珍説桐野作人までもう何でもありだね。
ネタ本は歴史群像と見た。

163 :日本@名無史さん:2009/08/30(日) 23:18:04
>>161
桐野氏のは『真説 関ヶ原合戦』学習研究社,2000年だなぁ

後者は朝野旧聞褒稿から直接引用

164 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 01:22:14
戦国板では、家康が毛利や宇喜多の光成加担を読んでいたかどうかって議論になってる。

165 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 03:07:10
徳永が書状を手に入れるのは不可能
なぜなら駒野城は西軍支配化にあるからだ
大垣より南、揖斐川より西、伊勢街道は西軍の勢力圏だ 
伊勢街道の交通を遮断するのは不可能だ 

166 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 03:20:30
どうでもいいよ

167 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 09:53:25
>>165
街道に小部隊を潜ませていたかもしれない
戦国時代で明確に前線が構築されたのは賤ヶ岳や小牧くらいなもんでしょう

168 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 11:02:35
だから珍説なんだろ?
そんなのを真面目に論じても仕方ないだろうが。

169 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 12:01:25
写しとはいえ書状の内容がしっかりあるのだから、ある時点で奪取されたのは確か

170 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 13:46:16
本気でいってんのか?
武将の書状なんて吐いて捨てるほど残ってるわけだが、
それらも奪取されたのかw

171 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 14:06:42
原本じゃなくて写しなの?
なら偽物かもしれないじゃん。


172 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 17:49:30
直江状みたいなものか。
あれも原本残ってなくて真贋が論争になってるね。

173 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 18:03:37
>>170
改易された相手から改易された相手に出した手紙が残った例はそんなに無いよ
現に、何度か出したと書状にある石田から増田への書状のうち、残るのはこれだけだし

真田は例外ね、あれは信幸がそのまま引きつでいるから


>>171>>172
この書状を偽作と考えた人は今のところいませんが

174 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 18:25:24
>>172
直江状はほぼ同内容で存在したという説のほうが有力になってきてる。

175 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 18:40:51
宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年発行)

176 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:06:50
>>170
有名武将の書状って結構人気だったらしいな。

177 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:25:16
結局約一名が珍書の珍説見て盛り上がってるだけなのか。

178 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:47:02
>>177
珍書て
あの書状は有名な物で
日本戦史や大日本史料稿文、徳川家康文書の研究など多岐に亘って引用されていますが

179 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:09:26
この人全然わかってねーやw
まあ珍書収集に熱心なのは結構だが。

180 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:21:45
>>179
解らないので、是非にお教えください

181 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:24:14
>>173
そもそも滅亡しなかった大名の書状でも散逸したものは多いわけだが。
一方滅亡した大名宛て書状もそれなりに残ってる。
残ってるからといって奪われたという根拠には全くならないのは言うまでもない。
まあなんというか、珍説乙だな。

182 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:33:21
珍書説だから仕方がないよ。

183 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:33:28
しかしこれが偽書なんて初耳だな
きっとしっかり内容把握して、比較検討し論じているに違いない
ぜひその根拠を

184 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:37:48
>>181
ではこの場合、あるはずの他の石田から増田への書状が無いのは何故?
石田から真田の書状は複数、あるのに対して

185 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:40:52
>>184
まず最低限の読解能力を身につけてくれ。

186 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:44:29
せっかくの珍スレなんだからage推奨

187 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:46:10
>>185
何故、
例の書状が増田の元に残っていたならその他の書状が残っているのが普通
でも、ない
似たような事例の真田家には残っているのに?
という事は、この書状がそうでない特殊な環境で入手されたものだから

第一、この書状が奪われたものという以外の入手方法が示された資料は存在しない

188 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:05:50
なんかものすごい陰謀論

189 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:12:08
そりゃ諜報戦というのは基本的に表にはでないもんだし

190 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:12:55
>175
最近は宮本さんの直江状偽書説に反論が加えられてる。


191 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:14:01
>>187
>例の書状が増田の元に残っていたならその他の書状が残っているのが普通

別に普通ではない。たとえば三成宛秀吉書状なんかも散逸して一部しか残っていない。
それに書状の入手方法なんてわざわざ記録に残すものでもない(一部マメな人が残しているものあり)。

192 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:24:59
直江状は古今消息集収録だったか?

193 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:35:16
江戸時代は、どういうルートでか、古い書状が流通してたらしいね。
有名大名の感状なんか人気で、宛名を先祖の名前に書き換えて、
先祖の武功を詐称するなんてことが、横行していたらしい。
大名でも水戸光圀だっけ?結構有名な収集家がいたはず。

194 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:01:25
>>191
例の書状にはあるですよ入手の経緯が
「北面の某が大津城に行く途中に、三成の飛脚を捕縛して14日に家康に届けた」
という由来が

195 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 00:28:04
三成の飛脚が佐和山ルートを通るわけがない
なぜなら長松城に一柳がいるからだ

196 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 02:41:45
例の書状を奪ったのは徳永寿昌だ
その日は駒野城を攻撃中
そこに飛びこんできた敵の伝令を捕縛している
これは常識

この徳永寿昌は凄い奴で書状を奪っただけでなく
小山会議でまっさきに家康に味方すると言い出して全ての従軍諸将が家康に従うことを誓約させた。
さらに全軍に先駆けて清洲城に舞い戻り、鈍重な福島を尻目に揖斐川舟運の要地福束城と高須城をあっという間に攻略し
大垣からの援軍も返り討ちにしている
そして南宮山の吉川を説得して動かないように仕向け
牧田川で長束と安国寺に大打撃を与えている
戦後も関ヶ原の戦いの全国の諸大名の論功行賞を任されている
こんな凄い奴見たことないよ!

197 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 05:40:03
まず手紙奪ったのが北面なのか徳永なのかはっきりさせろやw
そんなことだから珍説呼ばわりされるんだよw

まあ事実珍説なんだろうけどw

198 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 08:35:20
>>194
だからそれが「珍書」に書いてある「珍説」だと指摘されてるんじゃない。

199 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 10:02:05
>>195
捕えたのは大津城に行く前だから山科辺りかと
>>196
出典を教えてください

200 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 10:03:20
>>198
珍書と言う根拠は?

201 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 11:13:51
桐野作人説なんだろ?
まさに珍書珍説じゃんw

202 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 11:36:33
>>201
桐野説は徳永寿昌入手説

北面入手説は慶長右平記を出典とし朝野旧聞褒稿に記述され、日本戦史・大日本史料稿文・徳川家康文書の研究
などに引用されている

203 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 12:39:55
>慶長右平記

え?こんなのが根拠なの?
しかも北面ねぇ・・・。

あえて言おう。
 
 な ん だ そ り ゃ 〜 ! !

204 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 13:25:52
>>203
>>155

少し、遅れて、聞こえます

205 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 14:54:53
徳永じゃなくて北面の武士が入手って?
ほんと珍説だな。まだ桐野作人説のほうがまともに見える。

206 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 19:56:39
大津城は攻城戦の真っ最中。というより落城寸前。
そんなとこに北面wが行くのもおかしなもんだが、
途中で石田の飛脚?を襲撃して書状を奪取、家康に献上というのも奇妙な話だな。
西軍の支配地で、天下の公道でそのような狼藉を働き、西軍を避けながら
家康の陣所まで行かねばならん。
しかも書状の日付は12日。時間的余裕もない。

確かに珍説だなw

207 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 21:06:16
「事実は小説よりも奇なり」と申しますので

208 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 21:23:22
×「事実は小説よりも奇なり」と申しますので
○「珍説は小説よりも珍なり」と申しますので

209 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 21:31:29
>>206
北面は中立な上に、問答無用で切り捨てる事は出来ない
大津城は開城前なので行こうとしたと考えられる
時間に関しては、馬を使えば京〜大垣は半日程度で着く

まぁ、「普通」に考えれば「珍説」だと考えてもしょうがないですな
世の中というのはナカナカ、面白いものだと思うんですがね

210 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 22:36:02
普通に珍説ですな。
これにて終了ということで。

211 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 23:11:06
>>210
兎も角、秀吉・三成は奪われるかもしれない書状に重要事項を長々書く
情報漏洩について無頓着な連中でした
おかげで書状を奪われて、関ヶ原敗戦の要因を作りました

で、よろしいですね

212 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 00:04:24
>>196
>そして南宮山の吉川を説得して動かないように仕向け

こらこら
こんな話し初めて聞いたぞ
出典を教えろ

213 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 08:08:33
>>211
重要事項なんだから自分の署名付の書状にはっきり記して
その内容の正確性を証明するのは当然のこと。

兎も角、>>211は珍説を元にくだらない思い込みを長々書く
資料批判について無頓着なお方でした
おかげで2ちゃんで馬鹿にされ、人生敗戦の要因を作りました

で、よろしいですね

214 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 09:43:08
>>213
馬鹿ですねー
それで情報漏えいしては、元も子もない
ふつうは概略のみ書いて「仔細は○○より、口頭で」と書状に書かれるものです
関ヶ原前の村越直吉が東軍先鋒に行った時の家康の書状が良い例ですな

215 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 10:00:54
秀吉三成と一緒くたにしているが秀吉の事例は?


216 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 10:07:21
>>214
馬鹿ですねー
使者が拷問されたらどうするんでしょうねー
それに普通の信書と命令を通達する書状とは全然違いますねー
何でもかんでも一緒くたにしてどうしようもない人ですねー

217 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 11:07:19
>>214
概略でも敵に奪われたら重大な問題なわけだが。西軍武将の東軍内通書状とか思いっきりアウトだね。
お宅の言うようにそんなに使者が重要なら、そもそも書状なんか持たせない方がいいということになってしまうな。

218 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 12:17:49
>>215
小牧・長久手時の秀吉書状
>>216
紙に書いてあるのと、拷問されてる使者の口から出たものどっちが信頼性高い?
>>217
誓約関係は危険を承知でも残さないといけないでしょう、後々の証拠になるから
作戦計画は機密性は同じ位あるけど、特に後世に残す必要はない

219 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 12:27:11
これ昨日の珍説騒動の延長戦?
ほんと珍説論者は懲りないね。

220 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 12:30:53
>>219
ブーブーと豚みたいに文句しか言わんのね

221 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 13:14:03
>>220
珍説元に難癖にもならん珍癖繰り返す人よりははるかにましかと。

222 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 13:40:57
>>221
碌に反証となる史料も挙げずにただ、珍説扱いするよりは
那由他ほどマシかと

223 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 13:51:15
うんこ ちんこ まんこ

224 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 13:53:41
>>222
証拠となる史料がトンデモな内容であり、自身もトンデモなことを認めたくせに
なに言ってんでしょうね。

225 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 13:58:31
>>224
例えトンデモな内容でも、その行動が実行不可能なもので無く
また、それを否定するような史料が存在しない限り、尊重されるべき

226 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 14:07:03
>>218
書状は後世に残すために存在しているのではない。現在の思うところを伝えるために存在してるのだ。
で、お宅も認めるとおり、「概略」を書状に書くことは横行しており、それが敵に取られたら情報筒抜けだ。
秀吉三成が情報にルーズだったとか、あまり「珍説」ばかり唱えなさんな。

227 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 14:14:27
>>226
書状はその内容を記録し保証するための物
形になる証拠
口約束は形として残らない

概略だけなら戦略的には問題はあるが、戦術まで
暴露する恐れはなくなる、情報はできるだけ秘匿すべき

228 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 14:15:44
>>225
トンデモな内容な時点で信憑性ゼロ。
そのトンデモな内容を合理的に説明する資料でも
ない限り、信憑性ゼロのトンデモなまま。
まだ桐野作人説の方がマシ。

229 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 14:40:01
>>227
お宅は書状というものがわかっていないようだ。書状と一口に言ってもつまらない痴話喧嘩のものから
証文系の堅いものまで多岐にわたる。内容を保存すべきものがあるとすればそれは証文系のものであって、
ただの書状は内容を記録する必要もなければ保存する必要もない。が、それなりの相手にそれなりの内容を伝えるためには
書状にすることは必要だ。つまり三成は当たり前のことを当たり前にやっただけ。

230 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 15:06:26
桐野作人にも劣るのか・・・orz

231 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 18:47:43
どうでもいいよ

232 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 00:47:15
例の書状を奪ったのは徳永寿昌だ
この事実は動かしようがない
そして吉川を説得して動かないように仕向けたのも徳永寿昌だ  

233 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 02:04:00
それで書状を奪ったのは北面なのか徳永なのかどっちなんだ?

234 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 06:13:16
>>233
ひとつ上のレスくらい読んでください。

235 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 18:32:45
今日は静かだね。

236 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 23:06:26
どんだけ知識を持ってるのか知らないけどこの研究者だから信用
できないとかじゃなく、内容で判断すべきではないのかなあ。

237 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 00:13:16
吉川担当は黒田長政だろ

238 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 12:45:46
>>237
海津史も読んだことないのか? 


239 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 17:14:08
「戦国時代のコミュニケーション」山田邦明

「(前略)
 使者や飛脚は一般に「書状」を運んでいるから、「書状」が通信のメディアで、書状の文面がメッセ
ージだと、とりあえずはいえよう。ただ、所々でしめしたように、大名の意を受けて派遣された使者は、
口頭で主人の気持ちを相手方に伝え、場合によっては対面交渉をして政治的課題を実現させる任務を帯
びていることが一般的であった。このような場合には重要なことは使者の「口上」によって伝達され
るわけで、書状の文面はいたって簡略なことが多い。(中略)、細かなニュアンスは使者によって口頭で
伝えられていたから、書状の文面は簡単で良かったのである。」

240 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 17:51:28
「(前略)
 「口上」を主軸とする伝達の場合、主たるメディアは使者自身、メッセージは使者の口上ということ
になろうか。長い道のりを進みながら、主人の内意を忘れずに旅をし、無事先方に付いたらこれを開陳
し、さらによりつっこんだ交渉までしなければならない。こうした任務を十全に担える人物は、当時と
しては相当の才覚の持ち主と言わざるをえない。そしてしばしば述べたように、畠山・北条・毛利とい
った名だたる大名家でも、このような人物は多くはいなかったのである。
 こうした状況も影響して、通信の中心は次第に飛脚による書状の運送に移っていくが、それでもや
はり信頼できる使者による、面と向かっての口頭伝達こそが、理想的なコミュニケーションの方法であ
るという認識は崩れることがなかった。信用できる人物のもたらした情報だけが、厳密な意味では信を
置けたわけであり、最も信頼感のあるメディアは、やはり顔を見知っている人間だったのである。」

241 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 18:41:53
徳永は息子の代で改易

242 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 22:37:00
以上より、秀吉・三成の書状が細かく内容を書いているのは人員の払底に
その理由を求めることができると言えよう
そしてそのことが情報流出点で大きな問題をはらんでおり、実際に三成の
書状が奪われ、家康の利になったものと思われる

243 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 23:14:01
いや書状奪われたって言うのは珍説に過ぎないから。
それに
>畠山・北条・毛利といった名だたる大名家でも、このような人物は多くはいなかったのである
って書いてあるし。
よーするにどこの大名もそんな人物は少なかったんだよ。
つーか、
>こうした状況も影響して、通信の中心は次第に飛脚による書状の運送に移っていくが、
ともあるなー。



244 :日本@名無史さん:2009/09/04(金) 23:57:53
>>243
奪われたという説を否定する史料も研究者もいない

>それでもやはり信頼できる使者による、面と向かっての口頭伝達こそが、
>理想的なコミュニケーションの方法であるという認識は崩れることがなかった。
>信用できる人物のもたらした情報だけが、厳密な意味では信を置けたわけであり、
>最も信頼感のあるメディアは、やはり顔を見知っている人間だったのである。

同時期の徳川家がこういった使者を用いた方法をとっている以上、豊臣・石田方に
何らかの落ち度があったのは否めない



245 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 00:08:30
>>238
海津史って何だ、聞いたことないぞ、吉川の調略担当は黒・田・長・政なの! 

246 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 00:24:47
>>244
>>228

家康も飛脚使いまくりだしな。
関が原で家康が何百通書状送ったか知らんけど、ほとんど飛脚だろ。
つうか豊臣石田に落ち度はないし。

247 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 08:35:05
江戸幕府の職制で言うところの使番には監軍的役割も含まれてるから、
たとえば文禄慶長の役で渡海した石田三成なんかある意味使番だ。

248 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 10:03:19
>>246
重要な要件は使者を遣わしている
村越直吉が東軍先鋒に使者として出向いたのは良い例

そういった使者を派遣できずに、重要要件を書状で行う場合は
細かな内容まで書かなければならず、情報漏えいの恐れが大きい
そいう言う意味で、そういった人員を多数抱えていなかったのは
豊臣・石田の落度というわけだ

249 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 10:25:47
>>248
家康が諸将を味方につけるためにばら撒いた書状はことごとく重要な書状だが。
要するにあんたは自説を引っ込めることができなくて駄々こねてるだけ。

250 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 11:02:18
それはその時期の家康文書を調べ、統計を出さないと解らない問題

ただし、家康文書に具体的な作戦計画を記したものは無い
そういうのは使者の口上であった模様

251 :馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/05(土) 11:25:16
 江戸時代、百姓は馬車馬の様にして働き、重い年貢に苦しめられ、ご公儀に
無礼を働いたとして、犬猫の様に殺された。
黒船が来て、幕府が外国の要求を受け入れた為に、庶民の生活が益々苦しくな
った。坂本竜馬ら草莽の士が窮民を救う為に倒幕に立ち上がった。明治維新を
実現させる為に何万人もの草莽の士が斃れた。
 帝政ロシアは日本を含むアジアの侵略を企み、コンクリで固めた旅順要塞を
建設して、その基地にしようとした。貧しい日本は乏しい武器弾薬を使って、
肉弾攻撃を行うしか方法がなかった。死屍累々の山を築いても、28センチ榴弾
砲をもってしても、堡塁を破壊する事は出来なかった。砲撃の援護射撃を受け
た決死の肉弾攻撃が功を奏した。乃木将軍の真心に将兵が奮い立ったのである。
ロシアの侵略を防ぐ為に何十万人もの兵士が斃れた。
 メーソンはアジア侵略を防ごうとする日本を、侵略者に仕立てて葬る為に、
日本のメーソンを使って真珠湾攻撃を工作させた。日本の最後通牒遅延を工作
したのは、騙し討ちにして米国民の戦意を高める為である。
暗号解読によって空母等新鋭艦を避難させた。ミッドウェー海戦で艦爆の兵装を
転換させて敗因を作った。日本軍は玉砕、神風特攻で最後の抵抗を試みた。自
分の命を捧げる事で護国の鬼となって、国民の命を護ろうとした。日本を護る
為に何百万人もの人命が失われた。最後に特攻隊員・大塚要の遺書を紹介します。
 母上様
 要は特攻破邪隊第3隊の一員として往きます。
 母上様もこの一事あるは覚悟されていた事と思います。
父亡き後、母上がいかに御苦労なされたか一番知っている自分です。しかし、
国あっての家です。国のお役に立つ、君の御楯となる、男子としてこれ以上の
光栄がありますでしょうか。母上には申訳ありません。家はお願いします。要
が先に逝ったからとて、母上は決して悲しまないで下さい。また身体を悪くさ
れたりすると死んでも死に切れません。健康に充分注意して決して無理をせず、
強く生きて下さい。


252 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 12:46:35
家康って作戦計画を書き送らない人だったの?
にわかには信じがたいが・・・。

253 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 17:22:52
>>252
ttp://ksbookshelf.com/SH/OyamaHyojyo.htm

254 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 17:48:39
>>249
確認した所、その殆どに口上の使者を付けている
加藤清正に送った書状にも

>>252
具体的な作戦計画は口上で済ませていた
使者へ事前に送った口上のための覚書には作戦計画が示してある
勿論これは出向く前に覚えるもの

255 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 18:40:26
>こうした大量の書状の特徴を、久保田昌希氏が「関ケ原合戦における家康の戦略と戦術」(【関ケ原合戦のすべて】)で以下のように分析しておられます。

>7月は39名、8月は76名プラスα(木曽諸奉行人)、9月は28名となる。
>さて、これからあきらかなように、書状は北から南までの諸将にあてられている。内容は、大きくまとめれば、7月は上杉景勝平定と石田三成等の挙兵について、
>8月は石田方との合戦を前提にしてその状況および諸将への政治的対応の指示、さらに9月には戦況報告といった有様であり、

なるほど。家康は指示や戦況報告の書状を送りまくりだね。

256 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 19:50:35
そりゃ送るだろ。送らないと情報が伝わらない。
情報が伝わらなければ相手も動揺し、味方になるものも敵になる。

257 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 22:31:08
>>245
正確に言うと南宮神社で黒田長政と徳永寿昌の二人と吉川広家が密会しているんだよ

海津史参照

258 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 00:48:01
前から気になってたが
徳永寿昌ってどうして徳川四天王と同列の扱いなの?
論功行賞で加わってたよね?
小大名なのに…

259 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 09:03:30
徳永寿昌って尾張徳川家の初代じゃなかった?
詳しくは知らんけど、尾張家の初代はこんな名前だったような。

260 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 10:52:06
と言う訳で、家康の書状は基本的に使者を立てるものであり、その点において詳細を書状に残す
小牧役時の秀吉・関原役の三成とは一線を画すものである
もっとも、朝鮮役の秀吉ともなると人材的に多少は余裕ができたのか、使者を立てることが多くなっ
ているが、それでも詳細を記した書状が多いのは情報漏洩に対する危機管理の無さと受け止めら
れる

結局、秀吉から続くこうした情報に対する軽視が、関ヶ原の敗北に繋がるわけである

261 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 12:13:32
>>258
関ヶ原の戦いの東軍勝利は徳永寿昌のおかげだから 

262 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 12:17:15
>>260
珍説はもういいよ

263 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 13:32:10
>>258
徳永と徳川が似てるから徳川が親近感を感じたから 

264 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 14:20:56
>>262
論理的な反論もできなくなったか

265 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 14:53:23
>>264
>>255

266 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 15:11:02
>>258
その領地決めだが、徳永寿昌、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、大久保忠隣の5人だけでなく本多正信も加わっていたらしい

267 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 17:47:05
>>265
それらの家康の書状は全て概要のみで、しかも使者を立てている
細かな指示は殆ど書かれていない


268 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 19:26:23
>>260
唐突な勝利宣言ワロタw
たしかに指示や戦況報告送りまくりだわw
苦しくなったから開き直って勝利宣言したんだなw

269 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:29:41
>7月は39名、8月は76名プラスα(木曽諸奉行人)、9月は28名となる。
>さて、これからあきらかなように、書状は北から南までの諸将にあてられている。内容は、大きくまとめれば、7月は上杉景勝平定と石田三成等の挙兵について、
>8月は石田方との合戦を前提にしてその状況および諸将への政治的対応の指示、さらに9月には戦況報告といった有様であり、

家康機密バラマキ過ぎ

270 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:39:13
それで書状は徳永が奪ったってことでFA?

271 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:52:05
>>269
「進撃を見合わせよ」「防備を固めろ」「とっとと攻めろ」「何日に出馬します」「岐阜城を落して、大垣まで迫りました」
この程度の内容で、殆どには使者が付けてある

>>270
ずっと前に出典求めたけど今に至るもなし

272 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:10:24
村越以外の使者の名前は

273 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:21:21
>>272
西尾吉次、中川忠重、津金胤久、田中清六、屋代秀正、永井直勝、加藤成之、山岡道阿彌、板部岡江雪
本多正信、山本新五左衛門、犬塚平右衛門他多数

274 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:49:41
小牧長久手時に書状の奪取による情報漏洩とかあったかな?

275 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:59:08
書状を奪ったのは徳永寿昌
これは女子供でさえも知ってる常識 

276 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:01:23
>>274
あったらもう少し、書状の取り扱いに注意しているでしょう
>>275
出典は?

277 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:30:31
>>276
珍説はもういいよ     

278 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:36:34
>>277
まるで壊れたオルゴールの様だ

279 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 02:14:13
>>273
参謀の本多正信を村越と同じ使者扱いしている時点でおまえの言ってることは信憑性0と証明されたなw

280 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 05:49:53
>>271
>「進撃を見合わせよ」「防備を固めろ」「とっとと攻めろ」「何日に出馬します」「岐阜城を落して、大垣まで迫りました」

これだけわかれば十分すぎだろ。

281 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 11:05:33
というか、一大名の私信と総大将にして大老の下し文とを同列にあつかってる時点でアレだけどな。

282 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 12:39:12
>>279
使者と言うのは交渉・折衝役といった外交官的な役割も含みます
よってその能力を持つ者なら本多正信・井伊直政といった大名級を使者とすることは
それ程、おかしなことではありません
むしろ、重視しているからこそ一線級の大名を送ったともいえます
>>280
何時、誰と、どの様に、どの様な目的でが解らんと具体的な行動などできない
>>281
自軍の内実と苦境を長々と書いている書状の重要性が理解できんのか

283 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 14:02:59
>>282
馬鹿だな。内容が内容だから書状に認めたんじゃないか。
書状=本人の言葉
使者=家臣の言葉

重みが全く違う。

284 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 14:04:45
>>283
>>239
>>240

285 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 21:16:04
>>284
>>239-240は「理想的なコミュニケーション」についての文。
重み云々とは無関係だな。ということで全くの的外れ。

286 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 21:48:49
>>285
「重み」とはどういう意味?
「信頼性」や「重要性」なら口上のほうが書状よりより上と書いてあるのだけど
後、使者は「家臣の言葉」でなく、「主君から託された言葉」ね
そして何より、書状は「使者」と異なり「交渉」ができない、情報も漏洩する

287 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:07:20
その他の大名家ではどうだったんだ。他の大名家でも豊臣石田と似たようなもんなら
それは落ち度でなく徳川が独特なのか先進的だということでは。


288 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:31:32
それで、結局、書状を奪ったのは、徳永寿昌なのか?北面の某なのか?いったいどっちなんだ!

289 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:48:31
>>288
どちらも間違い

正解は京極高次

大津で三成の飛脚を捕らえて入手したと

『京極高次大津籠城志』にはっきり書いてある

というわけで終了

290 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:48:34
>>286
家臣の言葉は所詮家臣の言葉ね。
書状と違ってそれが主君の言葉であるという証拠がないわけだから。
それに使者の口上が信頼できるなどとは書いていない。
信頼できる人物がもたらした情報が信用できる、
信頼感のあるのは顔を見知った人間であるといっている。
つまり受け手が信頼している使者の持ってきた情報は信頼できる、といってるだけ。



291 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:49:20
>>287
武田家は徳川に近い、毛利家は豊臣に近い

292 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:51:30
>>290
どこをどう斜め読みすればそうなるのか…

293 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:56:38
>>289
それもそれで包囲されている中でどの様に手に入れたのかという話になる気が…

294 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:58:56
京極高次って結構凄いよな
立花と筑紫の陣に夜襲かけてるもんな

295 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:07:06
>>293
11日の夜に京極高次の家臣、山田大炊、赤尾伊豆らは、立花宗茂、筑紫広門に夜襲をかけてるから0時過ぎたあたりに奪ったんだろ
ちょうど12日だ  

296 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:19:55
>>290
>書状と違ってそれが主君の言葉であるという証拠がないわけだから。
それを言うなら書状だって佑筆が書いたもんじゃないのか?

297 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:28:39
>>295
書状の日付は12日だからそれはチトおかしいかと

298 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:31:20
京極高次ってあの立花に夜襲かけたのか!?
そんなの初耳だぞ

299 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:44:04
>>298
おまえら、京極舐めすぎ、こいつは東軍の真田だよ、マジ根性座ってる、立花ごとき屁でもない

300 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 02:55:04
そもそも大津城って何日頃に完全に包囲されたのさ?

301 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 11:18:11
6日か7日頃に西軍到着、12日頃から城に突入

302 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:21:58
大阪からの援軍が着く前、11日の夜に京極高次の家臣、山田大炊、赤尾伊豆らは、立花宗茂、筑紫広門に夜襲をかけてる
11日には立花宗茂、筑紫広門しか大津周辺にいなかった

303 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:43:09
>>302
別にそれだけでなく、全軍の中の立花・筑紫に攻撃したのでしょう

304 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 11:58:38
>>303
違いますよ

305 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 13:36:58
>>301
公家の日記には6日か7日頃に西軍が大体、到着したとあるけど

306 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 00:23:16
>>305
だから6日か7日頃に西軍到着と書いてあるだろ

307 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 00:53:48
>>305
>>301でなく>>303だね

308 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 23:04:28
それで、結局、書状を奪ったのは、徳永寿昌なのか?北面の某なのか?京極高次なのか?いったい誰なんだ!

309 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 23:53:14
徳永寿昌は場所的に疑問があるし、出典が不明
北面某はまるで小説の様な展開
京極高次は時間的に問題がある

310 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 12:52:14
北面の某じゃないことだけは確か

311 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 14:46:17
>>310
理由を述べよ

312 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:09:57
この前の大河見てて思った。直江が言うとおり追撃していれば徳川は大混乱におちいって
上杉が勝ったのかな?偉い人教えて

313 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:22:24
>>312
結城秀康・徳川秀忠が宇都宮に残っている上に、家康も江戸にいる
合計すると8万強の大軍がいる中、領国の守備を考慮せずに攻撃しても
碌な目には合わない

314 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 03:02:14
書状を奪ったのは徳永寿昌
海津史にそう書いてある

315 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 12:47:00
上杉が最上に侵攻したせいで西軍は負けたようなもんだな
上杉が領内に篭ったままだったら家康も秀忠も関東から動けなかった


316 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 22:23:07
>>315
篭ってても伊達や最上が侵攻するから家康や秀忠には影響ない。

317 :日本@名無史さん:2009/09/16(水) 22:03:46
>>316
家康が小山から江戸に引き返した途端
上杉と伊達は和睦を結んだわけだが

318 :日本@名無史さん:2009/09/16(水) 23:35:34
>>317
白石を落としたのはその前?和睦してても最上に救援の部隊も出すし、福島にも攻め込むし、
伊達は信用ならん。

319 :日本@名無史さん:2009/09/16(水) 23:49:40
家康は山形城に集結していた南部、秋田、戸沢に帰国するよう命令を出した
それはなぜか
最上という餌に上杉を食いつかせるため
南部、秋田、戸沢がいたままなら上杉も躊躇する
しかし、これらがいなくなり最上だけとなれば
上杉も食らいつくはずだと家康は読んだ
その読み通り上杉は最上という餌に食いついた
それを確認した家康と秀忠は関東を安心して離れることができた
ちゅうわけや

320 :日本@名無史さん:2009/09/17(木) 01:15:44
>>319
南部は領国で一揆が起こったから帰って行ったんじゃなかったっけ?

321 :日本@名無史さん:2009/09/17(木) 04:00:46
>>319
おいおい、上杉が最上に侵攻したのは家康が江戸に帰ったあとだぞ。

322 :日本@名無史さん:2009/09/17(木) 16:20:42
>>319


323 :日本@名無史さん:2009/09/17(木) 19:46:47
上杉軍が最上領の侵攻を開始したのは9月8日  

324 :日本@名無史さん:2009/09/19(土) 00:26:51
関ヶ原の戦いに詳しいみなさんに古田重勝についてお聞きします
どの関ヶ原本戦の布陣図にも古田重勝が載っていますが
古田重勝は富田信高、分部光嘉などと共に伊勢に帰国して
松坂城で篭城していたのではないのですか?
これはいったいどういうことでしょうか
ご教授願います

325 :日本@名無史さん:2009/09/19(土) 05:29:15
>>324
どうやら「へうげもの」の古田重然と混同したようです

326 :日本@名無史さん:2009/09/19(土) 11:07:42
古田重然(古田織部)=山城国西岡3万5000石
古田重勝=伊勢国松坂3万4000石

名前と石高も似てたから間違えた

327 :日本@名無史さん:2009/09/19(土) 12:30:36
それは混同したで済む問題なのか?
今まで誰も指摘する奴がいなかったのか?

328 :日本@名無史さん:2009/09/19(土) 13:03:50
蒲生頼郷と蒲生郷舎の混同みたいなもんかw

329 :日本@名無史さん:2009/09/19(土) 13:48:28
>>327
この人、武人としての情報が少なすぎるんですよ、茶人としてはしっかりあるけど

330 :324:2009/09/20(日) 00:20:28
古田織部との混同でしたか
そういえば織田有楽と金森長近といった茶人武将といっしょに仲良く布陣してますね
別名が古田重然とは驚きました
古田重勝とは一字違いですね
これは混同されるわけです
納得しました

331 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 01:54:43
待て待て、本当に古田織部と混同しているのか?
古田織部が本戦に参加した出典は?
実際、古田重勝が途中で合流したんじゃないのか?
あれだけいろんな書物に本戦に古田重勝が参加と書いてあるんだぞ。

332 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 03:39:29
>>331
松阪城からどうやって合流するんだ 

333 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 12:43:43
>>332
松阪城は開城したから、その後赤阪まで移動したのでは?

334 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 15:32:07
神集島の去就会議について知りたいのですが。

1.何月何日頃に開催されたのでしょうか?(関ヶ原本戦の前なのか後なのか)
2.出席者は誰?
3.会議後を経て、どのような行動に出たのでしょうか?

市販、あるいは図書館で入手・閲覧可能な資料があればご教示願えませんでしょうか?

335 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 17:41:48
>>333
いや、開城していない
そのまま頑張っている

古田重然は寄合衆の一員として松平忠吉の東にいた

336 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 22:26:59

最も早くに西軍と東軍が戦ったといわれる田辺城の戦いについて聞きたいですが

豊臣恩顧の有力大名で最も早くに東軍へ味方を表明した細川忠興の領地を西軍はなぜ大軍で攻めたのでしょうか?

@有力恩顧大名の中でも細川忠興は東軍ついたのが一番早かったので領内の軍勢はすでに家康と供に上杉討伐へ向かい

領国には隠居済みの父幽斎と500人しか兵力がいなかったのに但馬、丹波の大名1万5千人もの大軍で戦ったのでしょうか?

いくらなんでもこの1万5千もの兵力が関ヶ原に向かわなかったのはおかしくないです?忠興はすでに領国はなれて足止めにもならないわけですし

A朝廷が勅命を出して助命までする人間国宝級な細川幽斎という格の高い人物になぜ西軍は1万5千もの兵力で囲んだんでしょうか?500人しかいないのに
しかも元々西軍は積極的に攻める気も無いとはどういうつもりなんでしょうか?

B但馬・丹波の軍勢は関ヶ原に近く三成の隣の国といってもいいほどです。軍糧や鉄砲玉や資材を本国から関ヶ原に送りやすく1万5千もの軍勢も参戦しやすい
しかも隣国ほとんどは西軍で但馬・丹波の本国に守備兵を残す必要も無かったように思えるですが、なぜこんな行動をとったのでしょう?

家康の東軍が勝てばお家断絶の可能性が十分あったわけで、三成や毛利の西軍本陣からも関ヶ原に来るよう要請も無かったんでしょうか?非常になぞの戦いでは?


337 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 22:41:53
>>334
1.8月5日
2.松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・寺澤正成
3.関ヶ原の結果を聞いて松浦以外は領国に帰国、松浦のみしばし当地に留まって状況を観望

大日本史料稿文より

338 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 22:46:03
>>336
日本戦史によると細川忠興と石田三成ら西軍諸将の確執が大きな要因とある

339 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 23:14:41
>>338
うーん・・・?細川忠興と石田三成ら西軍諸将の確執なんですが

こんなもの家康の首を挙げる関ヶ原に勝てば東軍についた細川忠興の生存権なんて好き放題にできたと思うんですけどね。

しかも忠興なんて三成が挙兵する数ヶ月前から家康と一緒に上杉討伐に同行して領国にゃいないって分かってるのにねぇ



340 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 23:29:08
>>339
だって関ヶ原云々以前の話
三成が各方面に部隊を送って、支配権を広げようとした段階での話ですもの
他の伊勢なんかは調略が可能かもしれませんが、忠興の親ではそれはありえず、
攻めるしかないという事

後、攻めたのは周辺の大名で彼らに踏み絵を踏ませて、西軍に加わざるえないようにした
ともいえます。もっとも彼らの消極的な態度を見るに失敗したようですが

341 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 23:45:36
>>340
もう忠興の国には500人(しかも老人)しか兵力が残ってないでしょ?
幽斎は忠興が家康についていくと決めた時に本国に残って討ち死に覚悟で篭城する覚悟で息子を送り出した。
だから隣国の西軍領地を攻める兵力も無いのになんで三成は貴重な畿内の豊臣恩顧の但馬、丹波の大名勢1万5千の兵力で
500人の城を無駄に攻め続けさせただろうか?結局この1万5千もの軍勢は家康がいる関ヶ原に参戦できなかった


元々但馬・丹波を納めていたのは明智光秀。秀吉は光秀討伐後はかなり秀吉恩顧の武将(与力など)にこの領地を与えてたのでは?
しかも豊臣本拠地に近い国で朝廷である都京都の隣国。しかも前田玄引の弟など5奉行に非常に近大名衆だったはず。

結局家康からお家断絶(切腹)までした大名もこの大名の中にはいた訳で

342 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 00:01:07
これはオレも不思議なんだよな。細川ガラシャの件もあるし。
細川幽斎っていう人物も重要な人物なんだよな。
この人当時では相当な格上な人物なんだよな。田舎侍である織田信長と朝廷(天皇・公家)を
光秀と一緒に強力なパイプ役になったり、秀吉時代は歌人で文化人では千利休並みの実力者であった。

一番すごいのは関ヶ原のような天下分け目の戦いの中、当時の天皇が東軍の大名の幽斎の命を救うように
攻めていた西軍の武将に勅命をだして戦争に介入までさせた事。天皇がこんな微妙な時期によく勅命を出したもんだ。
こんな大名ほかにいないよな?


343 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 00:05:22
>>335
おいおい、松阪城は鍋島に攻め落とされただろ

344 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 01:31:35
>>342
日本中の全大名が一触即発の臨戦態勢で関所やら街道、国境を守ってる最中に
よく公家の大納言と中納言クラスを京都から田辺城まで使者として送ったもんだぜ。しかも天皇の勅命を持参してな。
殺し合いをしている戦場によく参上できたもんだよな。大納言も


345 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 01:39:51
>>343
出典を教えてくれ
松阪城攻城戦の記録なんてどこにもないんだが 

346 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 09:06:25
>>343
睨み合いで終始

347 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 09:40:12
>>341
田辺は日本海航路の要衝であり、確保すべき重要な拠点
後、攻城軍は大将の小野木が責任を追求されて切腹した以外は御咎めなし
結局彼らの殆どは成り行きで西軍になったに過ぎないし

348 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 11:44:16
>>345
>>346
松阪城は鍋島に攻め落とされたと、いろんな本に書いてあるよ。

349 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 11:54:35
>>348
「朝野旧聞褒稾」で確認した。松坂城は落されていない

350 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 12:01:23
詳しく説明すると、双方とも相手が手ごわいと認識して、共に手出しをしないという形で和平をした
つまり、休戦したという言葉の方が実際に即している

351 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 14:13:40
つまり鍋島は圧倒的な兵力を持ちながら古田の威を恐れて事実上降伏したわけだ。

352 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 14:21:06
>>351
この辺りから東軍に消極的な内応をしていたという説もある

353 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 00:13:48
それで古田重勝は関ヶ原まで転進したんだな 

354 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 00:53:33
>>353
いいや、そのまま松坂城を固守

355 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 01:18:14
>>354
本当かよ、最後まで松阪城にいた証拠あるのか?
犬山城主の石川貞清だって東軍に降伏後、関ヶ原に転進してるぞ

356 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 01:31:23
藩翰譜にはそうあるし、大日本史料稿文にも古田重勝が退城したという記述は無い

357 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 03:33:52
>>355
石川貞清は降伏してはいない
他の奴らが寝返っただけだ
ちなみに犬山城を調略したのは
古田織部

358 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 06:45:25
>>353-354の結果言えることは

・松坂城攻防戦に勝利した古田重勝は、そのまま城にとどまった
・古田に助命された鍋島勢は、古田家臣として関が原に進軍した

359 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 07:50:26
>>358
後段は全然、違う

360 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 11:56:00
犬山城もよくわからんなあ、攻められた様子はないのに、いつの間にか開城してるし

361 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 12:17:30
>>360
城主以外の諸将が東軍に内応したので、
名目は自分から出城、実際は追い出されて開城している

ただし、石川貞清には家康からの忠節をたたえる書状が
送られており、どうも胡散臭い人物

362 :日本@名無史さん:2009/09/23(水) 00:15:32
胡散臭いも何もあるか
石川貞清は改易されてるだろ 

363 :日本@名無史さん:2009/09/23(水) 00:35:39
9月9日に開城したことを褒する家康の書状が残されている。(徳川家康文書の研究)
どうやら、その後に西軍に復したようである

364 :日本@名無史さん:2009/09/23(水) 02:45:47
>>363
生熊長勝と伊藤長俊はどうなったんだ? 

365 :日本@名無史さん:2009/09/23(水) 07:49:15
石川貞清は家康に内通しており、兵を動かさぬまま開城。
朝熊で謹慎する筈だったが、関ヶ原本戦では石田隊に合流し、戦闘に参加。

素直に朝熊に向かえば、家名は保てただろうに・・・

366 :日本@名無史さん:2009/09/23(水) 12:48:19
なぜ石川だけ朝熊山に?竹中、加藤、関とかはそのまま東軍に合流したのに?

367 :日本@名無史さん:2009/09/23(水) 15:52:42
面従腹背だったのかな

368 :日本@名無史さん:2009/09/24(木) 00:00:27
>>365
石川貞清が内通していたなどという事実はない
内通していたのは加藤貞泰だ

369 :日本@名無史さん:2009/09/24(木) 12:21:20
西軍は竹ヶ鼻城と岐阜城と犬山城の3点で東軍を食いとめる戦略構想を立てていたそうですが
岐阜城は織田秀信6000と佐藤方秀の1000と三成の援軍2000合わせて9000人ですけど
犬山城と竹ヶ鼻城の総兵力ってどれくらいでしょうか?

370 :日本@名無史さん:2009/09/24(木) 20:49:08
>>369
岐阜13万石の織田秀信が6千人、美濃上有知2万石の佐藤方政が1千人動員していることから
美濃の諸将は100石5人制であることがわかります。

石川貞清 600
生熊長勝 850 
伊藤長俊 850  
加藤貞泰 2000
関一政 1500
竹中重門 300
稲葉貞通 2000
稲葉通重 600

よって犬山城の総兵力は8千7百人と思われます。
竹鼻城はわかりません。

371 :日本@名無史さん:2009/09/24(木) 22:09:16
>>369
竹ヶ鼻城は総勢6千5百人

372 :日本@名無史さん:2009/09/24(木) 23:20:47
>>371
そんなにいたの?

373 :日本@名無史さん:2009/09/25(金) 00:34:31
竹鼻城主、杉浦重勝は8千石だから、100石3人制で240人、5人制でも400人程度なはず

374 :日本@名無史さん:2009/09/25(金) 01:57:18
>>373
http://nakasnp2.hp.infoseek.co.jp/tuika1/IMG_09237.gif

375 :日本@名無史さん:2009/09/25(金) 21:05:08
>>373
それが、加賀野井城の加賀野井秀盛
織田秀信からの援将、梶川三十郎、花村半左衛門
三成からの援将、毛利掃部
といっぱいいたんだよ
竹鼻城は秀吉でさえも堤防で囲って
水攻めしなければ落とせなかった堅城
陥落したのは梶川、花村、毛利による裏切りのため

376 :日本@名無史さん:2009/09/25(金) 21:39:19
http://www.fuwaiin.com/kenendou/hasima-rekisi-sanpo/takehanajyou-ezu-best.jpg
これか、小さい城だね。秀吉がなぜてこずったのかわからないなあ。

377 :日本@名無史さん:2009/09/25(金) 22:32:31
重要なのは大きさで無く、周辺の地形

378 :日本@名無史さん:2009/09/25(金) 22:37:46
木曽川と長良川に挟まれているというは
低湿地帯であったろうと想像できる
周囲の湿地帯を巧みに取り込んだ縄張りで
土塁も高く、堀も深そうだ
これは要害だ

379 :日本@名無史さん:2009/09/25(金) 23:55:36
犬山城って中村一栄に攻め落とされたんだね

380 :日本@名無史さん:2009/09/26(土) 12:34:40
犬山城攻城戦の記録はどこにもない

381 :日本@名無史さん:2009/09/27(日) 00:12:35
>>375
三成の配下って忠誠心が凄くって三成を絶対裏切らないってイメージあったけど
裏切ってる奴もいたんだな

382 :日本@名無史さん:2009/09/27(日) 03:35:43
>>381
毛利広盛は石田家の家臣ではない

383 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 00:03:43
竹ヶ鼻城攻城戦のことが詳しく書かれているサイトや書物はないでしょうか?

384 :日本@名無史さん:2009/09/30(水) 17:55:36
夏休みの自転車旅行でほぼ東軍と同じルートで東京から京都までいったことを思い出した。
尾張美濃は、大河が多かった。橋を渡らなければ進めないのは、案外大変なことだと実感した。
一人でもそうなんだから、まして大軍を展開して大合戦をするような場所じゃない。

北畠顕家が関が原方面への突破を企てた青野ヶ原合戦は参考になるかも。
湿地帯で断続的に攻撃を仕掛けられた南朝軍は、疲弊のため近江への突破をあきらめてしまった。

385 :日本@名無史さん:2009/09/30(水) 22:00:07
竹鼻城の西軍が6500人は多すぎると思う
5人制で杉浦重勝が400人で
毛利広盛が150人
合わせて550人
すると岐阜からの援将、梶川三十郎、花村半左衛門が6000人ぐらい率いて来てることになる
織田秀信は岐阜に6000人既に動員しているので
織田は12000動員したことになる
これはおかしい

386 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 00:00:51
そもそも竹ヶ鼻城の西軍総勢6千5百人の出典は何よ?


387 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 17:02:11
竹ヶ鼻だけで6千5百人もいたなら大垣と岐阜と犬山の西軍と合流して東軍に野戦を挑めただろ

388 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 19:12:43
杉浦、梶川、花村、毛利掃部は起の渡しに布陣し
対岸の福島、黒田ら1万6000人と
睨みあってるから、それくらいはいたでしょう
数百の兵しか、いないのならずっと竹ヶ鼻城に篭城している。

389 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 09:50:38
しかし、関ヶ原前の徳川は譜代大名の石高を合わせても250万石、豊臣は直轄地で200万石だが譜代を合わせたら300万石以上はあっただろうに
豊臣譜代は徳川に付くしオカシイ展開だよね

390 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 10:09:19
その譜代が内部分裂しているんだもん

391 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 10:45:00
徳川家の直轄地は50万石位?

392 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 10:47:22
豊臣の譜代ってどの辺りまで言うんだろう?
福島加藤石田とか秀吉が開拓した奴ら?
山崎の合戦で付いた細川とか中川迄?
前田、山内とか織田時代の同輩部下クラスまで入れる?

393 :日本@名無史さん:2009/10/03(土) 10:50:47
>>391
100万石、これは当時の大名の中でもずば抜けた割合

394 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 00:33:27
>>388
一人の武将が指揮できる戦力は1千人が限界なはず
梶川三十郎と花村半左衛門はそれぞれ1千人を率いていた可能性が高い

395 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 08:14:06
>>394
意味がわからん
武将の定義は何?

396 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 12:03:23
>>394
ゲームの設定の話か?w

397 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 01:51:42
これだけ戦力が分散していたなら
関ヶ原の一戦で敗れたくらいで西軍は解散しなくても良かった気がする。
大阪城に集結して籠城すれば長期戦になっただろうし、
長期戦になれば秀頼と大阪城を手駒にしている西軍が圧倒的に有利だろうに。

398 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 02:01:39
確かにな
輝元も大阪城にいたわけだし、西軍も大阪城に戻れば再起できた
秀頼を慕ってた福島を始めとする徳川勢の豊臣恩顧の大名も
秀頼を押し立てた大阪城を攻めるわけにもいかず、分裂した
可能性もあったろうし。強固な大阪城に篭城し、徳川と対決すれば
多分徳川は負けたと思う

399 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 03:26:38
無理やな
あんな大軍で篭城したらあっという間に餓死するわ
補給線絶たれたら一巻の終わり

400 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 03:55:37
>>399
大阪城が補給源なんだが

401 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 03:58:42
はあ?

402 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 04:04:25
はあ? じゃねぇよカス

403 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 04:09:09
はああ??

404 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 05:12:54
毛利と宇喜多と長宗我部がいて大阪城周辺なら、
瀬戸内海を使っていくらでも補給はできそうだが。

それに全軍が大阪城に入る訳でもなし。

405 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 08:58:42
諸将との連絡の要であった石田三成らが行方不明では
元々、情報弱者の西軍が崩壊するのはむしろ当然

406 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 10:49:55
>>405
まあ、そうだろうな。
決戦前から疑心暗鬼にとらわれていた西軍が、篭城戦を持ちこたえられるはずがない
淀殿、毛利、宇喜多あたりが囚人のジレンマを演じるでしょ

407 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 20:21:19
それは秀頼の籠もる大阪城を攻める東軍も同じ条件なんじゃない?

秀頼がいる分、西軍の方がまとまると思うが。

408 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 20:30:02
東軍には家康と言う名実そろった人物がいる
彼は当初から各方面と交渉をして自身の優位なようにしていった
西軍が大坂城に籠った段階でそれがより活発化するのは当然

一方、西軍には主導して方針、行動、決断を行える人物はいない
この段階で籠ろうが籠らまいが西軍は負ける

409 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 21:05:54
家康にしても秀頼を直接攻めれば大義名分を失うから調略は無理なんじゃない?

410 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 21:21:06
秀頼様救出の為とかいって二の丸まで落して、本丸に手を出さなければ
問題無し

411 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 00:09:27
大阪城を落とすのは不可能
毛利軍4万に豊臣本軍6万に、増田やら前田玄以やら片桐やら、田丸直昌がいて
10万以上の西軍がいる、それに立花やら木下一族やら関ヶ原での残存兵力が加わったら15万にはなる
そんな大軍が大阪城に立て篭もったら100年かかっても東軍には落とせない

412 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 00:31:33
そんなに居て兵糧尽きちゃうどうしようもないんじゃ…
大阪城といったら津軽信健はどうやって三成次男の重成(他二名)を連れて城抜けたんだろ
津軽為信も大垣城攻め時にいたかどうか怪しい、忍者家臣服部康成は活躍したらしいが

413 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 00:56:45
大阪城の備蓄米は10万の兵力10年分
だから余裕

414 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 01:47:01
豊臣本軍って6万もいたのかよ!

415 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 01:51:59
お前らは戦っつうものを全く判ってないようだね
そんなどこから内通者が出るかもしれん状況の大軍で篭城ってアホなのか?
篭城っつうのは一時的な劣勢を凌ぐために少数の兵で時間稼ぎに使うモノ
篭城で勝ったからといってそれは勝ちでは無く生き長らえたというだけよ

416 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 02:09:24
大阪城攻めるとか無理だろ
東軍も豊臣軍だよ
東軍から寝返りが続出する
福島とかマジぶち切れるし

417 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 02:49:34
ボードゲームだと
徳川譜代以外で秀頼攻撃できるのは藤堂と池田ぐらいだった
後の東軍は中立化
福島は西軍に寝返り
加藤清正も西軍に寝返って大急ぎで上洛してくる

418 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:42:37
>>416
西軍も太閤逝去の地、伏見城を燃やしたじゃん

419 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 08:19:13
あの、荒らすつもりはありません
最近歴史に興味が興った中学生です
ここを読んでとても面白いのですが、何故皆様方はこんなに博学なのか、羨ましく
プロの方なのか、はたまた趣味が高じて詳しくなられたのか
歴史書をただがむしゃらに読んでも、皆様方のように理解できない
何か、ヒントが頂きたく
勝手申し、すみません

420 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 08:50:53
>>419
大人になると仕事と関係ない読書などが妙に楽しく
頭に入るもんなんだよ。(人はそれを現実逃避というが)
ま、年季ですよ。お若いの。

421 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 09:13:02
>>420
レス痛み入ります
では、自分はまだまだなんでしょう
今日は学校の創立記念日で休みなので、図書館に詰めようと
歴史で話ができる友人がいないので、実に有難いと思います
スレ汚しすみません

422 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 09:49:05
>>411
豊臣本軍は七手組の1万程度では?

423 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 10:26:40
三成が昌幸に宛てた書状に書かれていた豊臣本軍の兵力

大坂留守居 7500
御小姓衆 8300
御弓鉄砲衆 5900
前備後備 6700
伊賀在番 7000

総計 35400

424 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 10:28:46
>>411
三成書状だと8月5日の段階で大坂城には4万2400
毛利は4万1500(大阪城守備を除く全軍計算)
他の連中は東軍の追撃で崩壊するのは間違いない
北国勢は東軍と前田に完全に包囲断されるし

そういう状態で大坂城の連中が一致団結する可能性は
ゼロにも等しい

425 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 10:33:05
>>423
7500は小姓衆で、8300は馬廻衆ですよ

にしてもこんな内容を書状に(しかも真田宛)つらつら書く
三成はやっぱり情報管理について疎いと言うしかない気がする

426 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 11:02:00
>>423
伊賀在番って何?
伊賀は筒井の領地では?

427 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 12:09:09
伊賀上野城は新庄直頼によって落城されている

428 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 12:31:42
新庄は豊臣本軍じゃないでしょ
三万石の小大名だし7000もいない
なんだろう、この伊賀在番7000人ってのは?


429 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 12:47:02
新庄直頼、直忠兄弟が伊賀上野城を占領した後、豊臣本軍7000が入城したということだろ
ここは戦略的要地だから、それくらいの大兵をいれて置く必要がある
伊勢方面軍はその後、安濃津城攻略に向かったんだろ

430 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 15:52:10
原資料の書状には豊臣本軍とは書かれていない
大坂城御留守居と書かれているだけ

431 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:10:09
俺思うんだけど伊賀在番の7000って
川口宗勝、松浦宗清、木下延重、鈴木重朝、寺田光吉、野村直隆、樋口雅兼、毛利秀秋、駒井重勝
のことでは?
こいつら伏見攻めの後さっぱり出てこないんだよね
安濃津城攻めにも大津城攻めにも名前がない

432 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:16:41
>>431
三成の性格からして、それらの小大名を、伊賀在番 7000、と表記することはない
伊勢口、美濃口、北国口、瀬田橋東番衆の1万石クラスの小大名達の名前も
きちんと一人一人丁寧に書いてあり、ひとまとめにしていない
よって大坂城御留守居、伊賀在番などは豊臣直轄軍だと思って間違いないでしょう。

433 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 02:02:36
西軍の団結力がいまいちだったのは大阪城が旗色をはっきりさせなかったから。
秀頼の名前で大阪城で籠城すると公に宣言すれば、
西軍が団結するだけでなく、東軍が逆に分裂する。
関ヶ原の西軍を追撃する事自体も困難になるだろうよ。




434 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 02:50:33
毛利が家康と戦うわけない
吉川が内通したが、毛利の重臣・福原(元就の母の実家)も内通しており輝元も黙認していたように思う
あと徳川軍は秀忠や前田や小早川と合流して15万に達している



435 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 04:28:35
西軍も最低でも10万は残存兵力があったからどうだろうね。
毛利に戦う意志が無いと言われたら、それでおしまいだけど。



436 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 07:18:06
>>433
莫迦だなあ。

東軍=豊臣政権の上杉討伐軍
西軍=幼児の秀頼を掻っ攫った謀反軍

東軍連中は火病を発症した福島あたりが音頭をとって
ものすごい勢いで大坂城に攻めかかるよ。
秀頼君奪還と称して。
大体だ、東軍諸将は大坂城押さえられた時点で
秀頼と戦うこと覚悟してるに決まってんじゃん。

437 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 08:47:49
無理だろ。福島もそこまで単細胞じゃない。

438 :1:2009/10/07(水) 09:10:26
>>432
色々、誤解されている様なので全文書きます

伊勢口
 一四万千五百人   安芸中納言殿
  右之内一万人息藤七殿付在之
  右三万全ハ輝元自身召連出馬
 一一万八千人    秀家
 一八千人       筑前中納言殿
 一二千百人      土佐侍従
 一千人         大津宰相
 一三千九百人    立花左近
 一千人         久留米侍従
 一五百人       筑紫主水
 一九千八百人    龍造寺
 一千二百人      脇坂中務
 一三百人       堀内安房守
 一四百人       羽柴下総
 一四百人(城加番) 山崎左京
 一三百七十人(同) 蒔田権介
 一三百九十人(同) 中居式部大輔
 一千人         長束大蔵
  以上七万九千六百八十人

439 :2:2009/10/07(水) 09:27:31
美濃口
 一六千七百人    石田冶部少輔
 一五千三百人    岐阜中納言殿一手
 一千四百人      羽柴左京、稲葉彦六
 一五千人       羽柴兵庫頭
 一二千九百人    小西摂津守
 一四千人       同与力四人
 一四百人       稲葉甲斐守
  以上二万五千七百人

北国口
 一千二百人      大谷刑部少輔
 一三千人        若狭少将、同宮内少輔
 一五千人        丹波七頭之衆
 一二千五百人     但馬二頭
 一七百人        木下山城守
 一八百人        播磨姫路衆
 一二千人        越前東江衆
 一五百人        戸田武蔵
 一五百人        福原右馬亮
 一三百人        溝江彦三郎
 一三百人        上田主水
 一五百人        寺西下野
 一五百人        奥山雅栄
 一二千五百人     奥山土佐、同左馬亮
 一千人         生駒雅楽
  但主煩故家老之者兵召連
 一二千人        蜂須賀安房守
  右同
 一六千人        青木紀伊守
 一八百人        青山修理
  以上三万百人

440 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 09:37:05
>>438
>>439
大坂城の秀頼の部隊が抜けてる 

441 :3:2009/10/07(水) 09:40:40
勢田橋爪在番
 一千二十人      太田飛騨守、同美作守
 一四百五人      垣見和泉守
 一四百五人      熊谷内蔵丞
 一六百人       秋月長門守
 一八百人       相良左兵衛
 一八百人       高橋左近
 一五百人       伊藤豊後
 一三百六十人    竹中伊豆守
 一千五百人      中河修理
 一五百二十人    木村弥一右栄門尉
  以上六千九百十人

大阪御留守居
 一七千五百人    御小姓衆
 一八千三百人    御馬廻
 一五千九百人    御弓鉄砲衆
 一六千七百人    別備後備
 一一万人       輝元人数
 一千人         徳善院
 一三千人       増田右栄門尉
  此他七千人伊賀ニ在番
  以上四万二千四百人
都合十八万四千九百七十人

442 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 10:45:10
どうやら伊賀在番は増田の兵の様で

443 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 10:46:37
しかしやっぱり何を考えているんだ石田三成
こういうものを書いているから官僚止まりの男とか言われるのだ

444 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 11:13:28
実に見事な陣容
こんな書状受け取れば誰でも忠勤を励みたくなるだろうな

445 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 11:49:28
小鼻が拡がった三成しか思いつかない

446 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 12:47:40
官僚止まり大いにけっこう、本人も天下人の器とか思っちゃおるまい?
真田さんへの信頼アピールだからバカ正直な内容とも限らんし
しかし小鼻をふくらましながら、こんなことをつらつら書いてる三成思い浮かべるとあまりにらしくて笑ってしまうな

447 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 13:09:06
>>438みると大物中の大物であるはずの宇喜多秀家が名前でしかも呼び捨てにされている。
すでに三成の権力が秀家を大きく上回り、事実上臣従させていた事を示している。


448 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 13:32:55
もし、秀頼公が御自ら関ヶ原に出陣していたら
小早川は無論の事、福島や加藤、山内は家康から寝返ったと思うが。

449 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 14:00:45
>>447
ホントだw 何で秀家だけ備前中納言殿じゃないんだろう?
なんかの間違いかな・・・

450 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 15:31:23
俺は秀家を諱で呼べるほどの仲だぜ
と言う事かな

451 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 16:33:42
>>415でも言及されていたけれども、
毛利輝元が豊臣秀頼を戴いて大阪城に篭ったとして、後詰が来る可能性があるだろうか?
上杉はすでに守勢に回っているし、九州では黒田、加藤が暴れている。
西軍の残存兵力では大阪城周辺を支えるのが手一杯だろう。

また、幼君を人質にとる奸臣と非難されれば大義名分も崩れ去る。
吉川の裏交渉が無ければ、応永の乱の大内義弘と同じように敵中で孤立するはめになっただろう。

452 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 23:25:40
輝元が関が原に出陣していれば、西軍の勝ちだったと思う?

453 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 00:09:10
>>442
増田右栄門尉というのが増田だから伊賀在番が増田の兵ということはない
やはり伊賀在番などは豊臣直轄軍で間違いないでしょう。 

454 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 01:17:06
此他七千人伊賀ニ在番って新庄直頼じゃねえの?

455 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 01:26:34
新庄直頼が3万石
新庄直忠が1万4千6百石
新庄直定が1万3千石

3人合わせて5万7千6百石

100石5人制だとしても7000人は多すぎる

456 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 01:45:55
>>453
だからさ、俺が言うとおり伊賀在番の7000って
新庄直頼、新庄直忠含めた、川口宗勝、松浦宗清、木下延重、鈴木重朝、寺田光吉、野村直隆、樋口雅兼、毛利秀秋、駒井重勝
のことだと思うんだよ
新庄直頼は田辺城攻撃軍の小野木重勝にあたる伊賀上野城攻めの大将なわけで
全軍含めて7000じゃないかと思うわけ
ちなみに川口宗勝、松浦宗清、木下延重は秀頼直属の武将なわけだから半分は当たってると思うよ

457 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 02:27:14
>>452
史実以上に指揮系統が混乱したと思う。


458 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 09:12:27
>>453
増田の項と伊賀在番の項が(で接続されています
つまり伊賀在番は増田の兵と言う事になります

459 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 09:58:35
>>438-441
官職名で書かれても誰が誰だがわからん
きちんと翻訳してくれ

460 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 10:03:54
>>459
ネットで検索すれば大体出てくる
先ずは自分で何とかした上で、それでも駄目な時は
質問すべし

エロ動画スレではないが
「あれもこれも欲しがるな」

461 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 00:01:46
なるほど、増田長盛は100石3人制だと6000人だが、100石5人制だと10000人だから
大阪城に3000人で、伊賀上野城に70000人でぴったり合うな
しかし新庄直頼はその後どこに行ったんだ

462 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 01:12:35
新庄は伊賀上野城にずっといたよ
本戦の後、筒井が奪還しに戻ってきたら
逃げ出してる 

463 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 02:16:43
>>459

伊勢口
 一四万千五百人   安芸中納言殿=毛利輝元、毛利秀就、毛利秀元、毛利元康、吉川広家、安国寺恵瓊
  右之内一万人息藤七殿付在之
  右三万全ハ輝元自身召連出馬
 一一万八千人    秀家=宇喜多秀家
 一八千人       筑前中納言殿=小早川秀秋
 一二千百人      土佐侍従=長宗我部盛親
 一千人         大津宰相=京極高次
 一三千九百人    立花左近=立花宗茂
 一千人         久留米侍従=小早川秀包
 一五百人       筑紫主水=筑紫広門
 一九千八百人    龍造寺=竜造寺高房、鍋島勝茂
 一千二百人      脇坂中務=脇坂安治
 一三百人       堀内安房守=堀内氏善
 一四百人       羽柴下総=滝川雄利
 一四百人(城加番) 山崎左京=山崎定勝
 一三百七十人(同) 蒔田権介=蒔田広定
 一三百九十人(同) 中居式部大輔=中江直澄
 一千人         長束大蔵=長束正家
  以上七万九千六百八十人

464 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 02:22:46
美濃口
 一六千七百人    石田冶部少輔=石田三成
 一五千三百人    岐阜中納言殿一手=織田秀信
 一千四百人      羽柴左京、稲葉彦六=稲葉貞通、稲葉典通
 一五千人       羽柴兵庫頭=島津義弘
 一二千九百人    小西摂津守=小西行長
 一四千人       同与力四人=?
 一四百人       稲葉甲斐守=稲葉通重
  以上二万五千七百人

北国口
 一千二百人      大谷刑部少輔=大谷吉継
 一三千人        若狭少将、同宮内少輔=木下勝俊、木下俊房
 一五千人        丹波七頭之衆=小野木公郷、高田治忠、石川貞通、藤掛永勝、川勝秀氏、谷衛友、別所吉治
 一二千五百人     但馬二頭=小出吉政、斎村政広
 一七百人        木下山城守=木下頼継
 一八百人        播磨姫路衆=木下家定
 一二千人        越前東郷衆=丹羽長昌
 一五百人        戸田武蔵=戸田勝成
 一五百人        福原右馬亮=福原長尭
 一三百人        溝江彦三郎=溝江長晴
 一三百人        上田主水=上田重安
 一五百人        寺西下野=寺西是成
 一五百人        奥山雅栄=奥山正之
 一二千五百人     小川土佐、同左馬亮=小川祐忠、小川祐滋
 一千人         生駒雅楽=生駒正俊
  但主煩故家老之者兵召連
 一二千人        蜂須賀安房守=高木法斎
  右同
 一六千人        青木紀伊守=青木一矩
 一八百人        青山修理=青山宗畋
  以上三万百人

465 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 02:25:32
勢田橋爪在番
 一千二十人      太田飛騨守、同美作守=太田一吉、太田一成
 一四百五人      垣見和泉守=垣見家純
 一四百五人      熊谷内蔵丞=熊谷直盛
 一六百人       秋月長門守=秋月種長
 一八百人       相良左兵衛=相良長毎
 一八百人       高橋左近=高橋元種
 一五百人       伊藤豊後=伊東祐兵
 一三百六十人    竹中伊豆守=竹中重利
 一千五百人      中河修理=中川秀成
 一五百二十人    木村弥一右栄門尉=木村由信
  以上六千九百十人

大阪御留守居
 一七千五百人    御小姓衆=豊臣秀頼
 一八千三百人    御馬廻=豊臣秀頼
 一五千九百人    御弓鉄砲衆=豊臣秀頼
 一六千七百人    前備後備=豊臣秀頼
 一一万人       輝元人数=毛利輝元
 一千人         徳善院=前田玄以
 一三千人       増田右栄門尉=増田長盛
  此他七千人伊賀ニ在番
  以上四万二千四百人
都合十八万四千九百七十人


466 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 08:15:26
ご苦労様

467 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:05:57
増田長盛が一万も動員しているとは驚きだな
三成より積極的だな
しかし伊賀上野城に七千も守備兵を置いとくのはもったいないな
五百か一千で十分だろ
安濃津城攻めにその兵力を転用するべきだった
西軍は兵力運用が下手だな

468 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:26:43
>>467
おまえよりはうまいよ

469 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:28:38
>>465
木村弥一右栄門尉は木村秀望ですよ
木村由信は美濃北方城主です

470 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:31:19
>>467
おそらく上野城だけでなく、伊賀全体でしょうからそれくらいは必要かと
何しろ交通の要衝な上に住民がお上に反抗的な土地でも知られていますし

しかも家康は伊賀忍者を多く召し抱えている

471 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:51:22
伊賀上野城は要衝ですからね、東軍が伊勢方面から侵攻してくれば、ここを抜かれると大阪城を直撃されてしまう
それゆえ大軍を入れて置く必要があるわけです

472 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:04:43
伊賀在番7千人の正体もわかったようなので

次は、小西与力四人4千人がいったい何なのかつきとめようか  


473 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:09:17
>>472
天草久種、栖本鎮弘、上津浦種直、大矢野直重

474 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:14:03
早っw
つーか誰だよw

475 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:22:18
>>474
天草五人衆だよ、五人衆なのになぜ四人しかいないのかは、天正天草合戦を読んでくれ

476 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:41:13
こんな連中が関ヶ原にいたのか
つーかこいつらは大名なのか?
西軍改易大名表にも載ってないし

477 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:58:56
>>476
与力大名だから一応大名、日本史総覧では一万石以下の大名は載せてないって書いてある、天草久種、栖本鎮弘、上津浦種直、大矢野直重の四人とも一万石以下

478 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 12:39:23
>>463をみると伊勢口軍こそが西軍の主力部隊だとわかる、当初の計画では輝元自ら伊勢口軍を率い、安濃津城→長島城→清洲城と侵攻する予定だったはず
それなのになぜ計画を変更したのか悔やまれる。四万人余りが参加する予定だった毛利軍を半分の2万人に減らし  
西軍屈指の精鋭部隊立花宗茂を美濃口に向かわせたり、京極高次や脇坂安治を北国口に向かわせてたりしている
当初の計画通り作戦を遂行しておけば西軍は勝っていたはずだ。

479 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:03:37
それより長宗我部がニ千百人しかいなかったことにショック
六千六百人だとばかり思ってたのに

480 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:08:44
実際に働く連中のやる気が乏しかったから
こういう士気を上げる行為・行動も大将には重要なスキルなのだが
西軍はその辺はどうも上手くいっていない

東軍も似たような状況だったが、それを事前に見越した家康が村越直吉を
使者として督戦したことで主導権を握る事となった

481 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:14:32
>>479
九万八千石が長宗我部時の石高

482 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:30:24
小早川の1万5千といい関ヶ原布陣図はそういうミス多いよね

483 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:34:20
うむ、古田織部も古田重勝になってるしな 

484 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:44:16
>>481
敗走中脱走兵が多かったとはいえ兵300の小出秀家に何で石津浦で撃退されたか不思議だったんだけど
そういうことなのね 

485 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:45:50
>.482
兵力は明治の参謀本部が島津の書状にあった三人役を『仮に』適用したもの
問題はそれから後、新史料がぽこぽこ出てきているのに、細かいとこだけ
批判して、こういうのはそのまんま引用している現在の学者連

古田ミスは江戸時代の軍記物でもそこそこあったらしい
他にも家康本隊に酒井作右衛門(重勝)と酒井左衛門尉(家次)と混同して
酒井家次が本戦に参加したと書いてあったり

486 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 14:04:02
伊勢方面軍の動きの鈍さが全体の戦局に与えて影響は大きい
長束正家と安国寺恵瓊の2人が富田信高らの船を家康の軍勢と誤認して退却しなければ
八月五日には安濃津城は西軍の物になっていた
東軍先鋒が清洲城に戻ってくる八月十一日までには長島城も清洲城も落とせていたはず
そうすれば戦局は全く違ったものになっていた
長束正家と安国寺恵瓊の責任は大きい

487 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 14:27:42
奉行に先鋒をまかす方が問題かと

488 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 17:04:19
小早川秀包は13万石なのに千人しかいないのも気になります
九州の大名は一人役なのでしょうか?

489 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 17:27:42
九州の自領を守るために多くを在国させていたかもしれません
防衛が好きな毛利家の事ですし

490 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 17:33:34
>>488
筑後の軍役はそうでしょう
上杉征伐における立花宗茂の軍役はおおよそ100石に付1人
13万石の立花は1千3百人でいいのに「秀頼様馳走の為」と3千9百人の軍を率い参陣した。

491 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 17:39:27
西軍最強の立花軍とか言うけど、武将がいくら武勇に溢れていても、
結局は多数いる一兵卒が戦って相手に勝たないと戦争には勝てないのだから、
率いる将によって部隊の強さが劇的に変わるとは思えないんだが。

変わるとしたら戦前の駆け引きくらいじゃないかな。
それも集団戦になったら一部隊程度の駆け引きじゃなんともならないだろうし。

492 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 17:44:19
>>490
鍋島はそれなりに動員しているようだけどね
もっとも島津みたいに実際と異なる場合もあるから慎重に
なる必要はある

493 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 18:01:54
>>491
立花軍には無敵の鉄砲隊がいる。
鉄砲装備率は30%を超えており
立花道雪の発明した「早込」というものがあってだな
薬莢代わりの竹筒に一発分の火薬と弾丸を油紙に分封した包みを入れ
鉄砲隊の肩から袈裟架けさせかけさせることで、鉄砲の速射を可能とした
立花宗茂が他家の三倍速で連射を浴びせかけ
相手方にすれば隙間無く打ち込まれる弾丸に次々打ち倒され制圧される状況にたちまち総崩れとさせられてしまうことから
小早川隆景が「立花家の3000は他家の1万に匹敵する」と言った。
立花軍は西軍最強の部隊なのだ。

494 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 18:08:45
あ〜あ立花厨が涌いてきちゃったよ   

495 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 19:02:11
小西行長も二十四万石の大名なのに二千九百人は少ないと思うなあ
宇土城にどれだけの守備兵を置いてきたんだろうねえ   

496 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 19:40:25
>>495
彼の所領は与力分も含まれますから

497 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 19:49:16
島津義弘の5千というのもいわゆる通説(2千弱?)よりも随分と多いような。


498 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 20:10:07
>>497
これは期待値でしょう
おそらく三成は各武将が申告した今後到着予定分を含めて
記述したんでしょうな

499 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 20:19:00
惜しむらくはこのような多数の部隊が様々な所で活躍していたのにも関わらず
たった1回の野戦で西軍が崩壊し、全てが終わってしまった事だな。

時間を稼げは稼ぐ程に西軍が有利になる状況だっただけに残念だ。

500 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 20:27:40
それは簡単
家康がそうなるように計算して行動し、その通りにしたから

主導権を握るというのはこういう事を言うのである

501 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:09:55
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E6%96%87%E6%9B%B8
家康の手紙攻勢は半端じゃないよな
どうでもいい小大名にも送ってるし

502 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:40:00
手紙攻勢は三成も全く負けてはいないかと。

503 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:50:13
>>502
記録が残る上杉と比較しても、最上と比べても倍近い差がある

504 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:03:05
>>503
上杉でこの有様だから他の大名との書状比較は想像するまでもなく
家康の方が上であろう

さらにいうと使者の面でも家康の方が上
その為、三成は細かい内容の書状を書き、情報漏洩のリスクを冒している
実際、記録に残る限りでは2回ほど書状を東軍に奪われている

505 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:16:16
わかります、徳永寿昌ですね

506 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:20:41
一つは9月1日書状にある、もう一つは先般からゴタゴタしているモノ

507 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:27:50
>>505
またお前か

508 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:41:46
>>481
長宗我部は22万石でしょ!今月号の歴史街道も22万石ってはっきり書いてあるよ。

509 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 01:29:41
今月は長宗我部特集だったな
なかなか面白かった

510 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 02:34:49
>>469
これは申し訳ない、大垣守備組の垣見、熊谷、秋月、相良、高橋といっしょなので、木村由信だと思い込んでしまったわい
先入観というものは恐ろしいのお

>>473
同与力四人はその四人のことだっとは今初めて知ったわい
これは逆に勉強になりましたわ

511 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:06:14
>>508
あれは間違い
土佐は9万8千石が正解

512 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 16:22:17
ちょっと教えて
関ヶ原の時の織田信雄の所領と居城を教えて欲しいんですけど
わかりますか?    

513 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 17:40:02
信男は隠居で京か大坂で閑居してたんじゃね?

514 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:15:31
関ヶ原の時に織田信雄は大和国内に1万8000石を領してたことまではわかっているんですが
大和国内のどこなのか?
城はどこなのか?
それが知りたいんです
お願いします

515 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 19:17:47
相伴衆というから隠居としての蔵米だろうから
特にそういうのは無いんじゃないかと

516 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 19:40:15
所領は大和宇陀松山で城は宇陀松山城じゃないの?

517 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 19:51:07
>>516
それは多賀秀種だよ

518 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 20:10:04
息子の織田秀雄が悲惨だな
前田利長、利政兄弟といっしょに東軍として大聖寺城攻めに加わって戦ったのに
信雄の命で西軍に寝返ったばかりに改易
そのまま東軍のままだったら加増されて10万石ぐらいの大名になってただろうに

馬鹿な父を持つと子供は悲惨だね  

519 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 20:35:29
織田秀雄って東軍だったの?

520 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 20:59:27
織田秀雄は東軍から西軍に寝返っためずらしい大名

521 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 21:15:48
青木一矩と青山宗勝のほうが酷いだろ
西軍→東軍→西軍→東軍だぞ

522 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 21:32:53
信雄の支持なのかね?越前大野の位置関係上、前田軍が金沢に戻った後孤立し、西軍につかざるをえなかったのでは?

523 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 21:49:18
織田秀雄も
東軍→西軍→東軍だからね

524 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 22:11:12
織田秀雄が西軍に寝返ったのっていつですか?

525 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:00:10
例の9月12日付けの奪取された石田三成発、増田長盛宛書状

一.赤坂の敵は今日に至るも、何等の行動を起こさず、ただじっと居陣しているだけで、何かを待っているように見受けられ、皆が不審だと言っている。
一.大垣城には、伊藤盛正の家来を始め近辺のものまで人質に取っているが、敵より放火の才覚があり、伊藤は若輩ゆえ、家来の者共は様々な才覚をするので、心を許すことはできない。
一.今日の相談で味方の軍略も大体決まるであろう。一昨日自分らは長束正家・安国寺恵瓊の陣所を訪れて、彼等の内存を承ったが、その限りでは、事がうまく運ぶとは思われない。
というのは彼等は殊のほか敵に対して大事をとり、たとえ敵軍が敗走しても、それを壊滅させる工夫もせずに、とかく身の安全ばかりを考え、陣所を垂井の上の高所に設けたが、
そこは人馬の水もない高い山で、万一のとき人数の上下もできない程の山であって、味方中も不審に思い、敵もきっとそう思っているであろう。
一.当地で苅田を行えば、兵糧は幾らでもあるのに、敵を恐れて苅田にさえ人を出さず、兵糧は近江から運ぶことにしているようだが、近頃は味方中が畏縮してしまっている。
一.とにかくこの様にだらだらと日を延ばしているようでは、味方の心中も計り難い。御分別をなさるべき時である。
敵味方の下々の取り沙汰では、増田と家康との間にひそかに話合いがついていて、人質の妻子は一人も成敗することは無いと言っている。
これもものの分ったものが申すのではなく、下々の申すことである。先書にも申した如く、犬山に加勢に赴いた衆が裏切ったのも、妻子が大丈夫だからであると、下々では言っている。
敵方の妻子を三人・五人成敗すれば、心中も変わるだろうと当地の諸将は言っている。
一.大津の京極高次のことは、この際徹底的に処分しなければ、以後の仕置のさわりになると思う。殊に高次の弟高知が当地で種々才覚していることは、御推量のほかである。

526 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:01:50
一.敵方へ様子を聞きに放った人が帰ってきての報告に、佐和山口から出動した衆のうち(小早川か)大軍を擁して、敵と内通をし、伊勢への出陣をも抑え、
各自それぞれの在所在所で待機するように命じたという噂が、このニ〜三日頻りに伝えられ、敵方は勇気づけられていたが、近江の衆が悉く山中へ出動したので、
敵方では噂に相違したと言っているということだ。とにかく人質を成敗しなければ、取られた人質について心配しないのは当然で、これでは人質も不要のように見受けられる。
一.連絡のための城には、毛利輝元の軍兵を入れておくようにすることが肝要である。これには子細ある事であるから、御分別なされて、伊勢を始め太田・駒野に城を構える

ことは良かろうと思う。近江と美濃の境目にある松尾の城や各番所には中国衆を入れておくように御分別なさることがもっともである。いかほど確かな遠国衆でも、いまどき

は所領に対する欲望が強いので、人の心は計り難い。分別すべきときである。
一.当地の儀は、なんとか諸将が心を合わせれば、敵陣を二十日以内に撃破することはたやすいことであるが、この分だと結局は味方の中に不慮のことが起きるのは、目に見

えるようだ。よくよく御分別ありたい。島津義久・小西行長も同意見であるが遠慮しているようである。自分は思っているだけのことを残らずいっている。
一.長束正家・安国寺恵瓊は思いのほか引込み思案である。貴方に当地の様子を人目なりともお目にかけたい。さてさてて敵のうつけたる体たらくといい、味方との不一致と

いい、共に御想像の他であるが、それ以上に味方中はさげしむべき体たらくである。
一.毛利輝元の出馬しないことは、自分はもっともだと思う。家康が西上しない以上、不必要かとは思うが、これについても下々では不審をたてて、いろいろいうことである



527 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:03:24
一.度々申し入れたとおり、金銀米銭を使うのはこのときである。自分などは分相応にはや手元に持っているだけ出してしまった。人をも召し抱えたので、手元の逼は御推量ありたい。
この際が一番大事な時期だと思うので、あなたもその御心得がありたい。
一.近江から出動してきた衆(小早川か)に、万一不慮のこともあろうかと存じ、これがただただ迷惑である。
輝元の出馬がなければ、中国衆を五千人ばかり佐和山城へ入れておくように処遇することが肝要である。
また伊勢へ出陣された衆は、万一のときは大垣・佐和山の通路を経ずに、太田・駒野から畑道を通って直ちに退去しようという意図のように見受けられるので、長引くことと思われる。
一.宇喜多秀家の今度の覚悟はあっぱれで、このことは方々からお聞きになるだろうから、申し上げるまでもないが、一命を捨てて働こうとの態度である。
その分別御心得ありたい。島津義久・小西行長も同様である。
一.当分成敗をしない人質の妻子は、宮島へ移されるがよかろう。御分別がすぎてもよくない。
一.長束正家・安国寺恵瓊は、この度伊勢方面より出動した中国衆は勿論のこと、大谷吉継及び秀頼隷下の御弓鉄砲衆までも南宮山に引き寄せようとしているので、
人数が少々無駄になるようだ。
一.丹後方面の人数がいらなくなった由であるから、その人数を少しでも当地へ差向けるようにしてほしい。

528 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:11:31
北面wが大津wで奪取した書状ですかw

529 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:24:24
その件については全てのネタを机上に晒したので、これ以上は何も言わない

町雀の如く好きに囀ってなさい

530 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:05:37
書状を奪取したのは徳永寿昌  
海津史に書いてある

531 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:33:16
海津史て海津町史の事?
あるあるいってないで少しは引用したら

532 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 00:08:07
それで織田信雄の所領と居城はどこなのかわかったのか? 

533 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 01:06:33
>>525->>527
島津義久?
はあ?  

534 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 01:51:42
海津町史には澤田で三成の使者を捕らえ書状を奪ったとあるな 

535 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 08:36:38
>>534
通史編か資料編のどれか教えてきただけますか
できれば何巻かも

536 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 20:25:39
◆関ヶ原合戦、西軍勝利後◆
毛利(広島城)150万石
宇喜多(岡山城)90万石
島津(鹿児島城)85万石
上杉(神指城)150万石
石田(佐和山城)45万石
小早川(名島城)75万石
小西(宇土城)30万石
伊達(岩出山城)45万石
真田(上田城)55万石
前田(金沢城)150万石
福島(清洲城)15万石
加藤(熊本城)15万石

徳川(江戸城)30万石


537 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 20:57:07
(`д´)ノ徳川はお家取り潰し

538 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 21:08:05
減知のうえ家康は隠居。秀康、秀忠もそれぞれ隠居、廃嫡。

539 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 00:15:45
それで織田信雄の所領と居城はどこなのかわかったのか? 

540 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 00:31:08
ないということは蔵米なんでしょう

541 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 01:00:44
「西美濃わが街」274号に徳永寿昌が澤田で三成の使者を捕らえ書状を奪ったと書いてあるね

542 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 01:53:47
>>539
小田原征伐後の徳川家の関東転封に伴う旧徳川領への転封を命じられると
「父祖伝来の地を離れたくない」と拒否し、それを理由に一気に所領を全て没収される。
下野鳥山(捨封持2万石)・出羽秋田・伊勢朝熊・伊予と配流を続けたが
朝鮮出兵に際して、家康の斡旋で秀吉の御伽衆となる。
この頃から茶に傾倒したという。
慶長年間に長男・秀雄が越前大野5万石と羽柴姓を拝領すると
信雄も天満に居住して扶持を受けて世に復帰。肥前名護屋に在陣した。
豊臣政権において家康を頼りにしていた信雄だが
関ヶ原の戦いでは西軍から恩賞尾張一国を提示される。
信雄は金1千貫の報酬で西軍に応じる予定だったが
金が銀に変更されたため不信感を抱いて、双方に属さず
家康に畿内の情勢を報告するのみで終止したという。
が、銀を貰ったことに変わりは無い上
大谷吉継司令で加賀前田家に備えて西軍として働いた秀雄が改易になった。
(徳川家から米は支給されていたそうだ)
禄を無くした信雄は豊臣家に身を寄せた。
方広寺鐘銘事件の際には淀殿の相談を受け
片桐且元の殺害及び挙兵の計画を打ち明けられる。
穏健派の信雄は慎重論を唱え、一方で密かに且元に計画を暴露して彼の退去に貢献する。
自身も最終的には秀頼の挙兵に呼応せずに城を落ち延びて
二条城へ赴いて家康に謁見。豊臣家の情勢を報告している。
大坂の陣では戦闘には赴かずに京都に居たが、大和・上野に5万石を拝領して大名に復帰。

織田信雄は関ヶ原の時は大阪の天満に屋敷を構えていた模様
大和国内1万8000石は蔵米

543 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 17:18:57
日本戦史関原の役によると、攻め落とした高須城に市橋が入城し、三成の書状を奪ったとある

544 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 18:59:53
>>543
福束城では?

545 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 20:26:51
徳永の動きもよくわからんなあ、南濃町史通史編では駒野城を落としているが
日本戦史では攻略しようとしたら宇喜多の大軍が北上してきたので諦めたとなっている
しかし最終的には牧田川金谷に布陣しているのは確実だな

546 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:15:58
>>543
日本戦史には大坂から大垣への書状とある

547 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:09:15
そもそも大阪ー大垣間の書状のルートはどの道を使っているんだ?  

548 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:23:30
もし仮に出す側が自分の所領を経由させる(替馬を調達し易い)なら
増田は大和街道経由、三成は中山道経由

549 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 23:37:41
長松城に一柳がいるので美濃路は遮断されているので
西軍が大垣から関ヶ原に転進したルートから中山道〜東海道
もしくは暗越奈良街道〜伊賀街道〜東海道〜駒野経由の伊勢街道ルート

550 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 00:23:53
福束城を奪われたのが痛いな
徳永、市橋、横井の揖斐川西への侵入を容易にしてしまった
書状を奪われるようになったのは福束城のせいだな

551 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 00:37:25
豊臣秀頼公は家康が伏見城会見で人的資質の将来性と若さに嫉妬してしまう程だった。

豊臣国松公は幼少でありながらも御立派な最期を遂げられるくらい優秀だった。

そう考えると、豊臣宗家が大阪の陣で滅亡せずに存続していたら
徳川は豊臣に負けたに違いない。

552 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 12:42:51
西軍と東軍の境界線は揖斐川になっていたはずですが
西軍は栗原、大垣、南宮山でも哨戒線を築いていたでしょうが
東軍が岐阜、曽根、赤坂、と進出してきた上、長松城に菩提山城も東軍の支配化にある以上
南宮山の北側から伝令を走らせるのは無理ですね
南方の哨戒線は桑名、太田山、駒野までで、そこから栗原まではがら空きの状態ですね
やはり福束城を奪回するべきでしたね
赤坂の東軍は20日間動かなかったのですから可能だったはず
遊兵化している鍋島に攻略させればいいのに
西軍の戦略に問題ありですな  

553 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 18:45:16
>>552
西軍の戦略ってよりは、あの合戦時に
島津が本気で戦い、小早川が西軍方として普通に参戦し
毛利・吉川等が南宮山から東軍後方を攻撃していれば
普通に西軍が東軍に勝っていたと思うのだが…。

554 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 19:35:29
史料を見るに島津は井伊本隊や松平忠吉とガチで戦っている
碌に戦っていないのは小西行長
桐野氏は島津後詰説を唱えたが、自分は逆に小西が後詰なの
ではないかと最近、考えるようになった

555 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 19:51:36
コニタンは国元が気になって
兵力少なかったと聞くけどどうなの?

556 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 20:25:06
三成の書状を見る限りではそれなりに動員している

557 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:26:19
書状のルートの特定は難しいね
曽根、長松、福束と北西南を東軍に押さえられてるから
やはり、大垣ー若森ー綾野ー宇田ー嶋田ー澤田ー牧田ー関ヶ原ルートかね
長松城を奪われたのは致命的だと思う

558 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:04:51
>>493
そんなに強いんだったら京極なんかに苦戦してんなよ

559 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:27:33
宇土城 兵力

560 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:38:48
>>553
毛利ファンだけど、毛利は中立だから動いたらっていうIFは存在しないの。
もしIFをするなら関ケ原の戦いで逃亡したヘタレ島津を語ろうぜwww
逃亡しないで初めから戦えよw

561 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:45:30
>>560
>毛利ファンだけど、
会津ファンだけど、の誤りと思われます

562 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:58:00
島津と毛利・吉川は腰抜け。
吉川も密約があるとはいえ、西軍の総大将が輝元である以上、
お咎めがないと考えるとは....小学生か?

563 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 02:28:56
関ヶ原の時の宇土城の兵力を教えてくれ!


564 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 03:06:55
西軍は書状奪われすぎ
東軍が木曽川を越えていない時点でも上杉への使者が中仙道で捕まってる

565 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 10:20:40
>>562
だから島津は戦っているがな

566 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 12:53:41
>>564
そんな話しは初めて聞いた
詳しく!

567 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 14:39:53
>>565
それで華麗に義弘は豊久犠牲にして逃亡っすか?w

毛利一族は誰も死んでませんよww

568 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 15:03:36
>>567毛利は大幅減封。300年の飢えを考えるとどっちがお得だろうね


569 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 15:30:16
>>567
華麗なんてもんじゃなく、血塗れ状態で何とかだと思う

570 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 18:31:25
>>568
長州藩は実高100万石を超えると聞いたが。
ソースは司馬遼。

571 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 20:22:18
>>570一回藩運営自体を投げたしたが幕府は許さず黙殺。そのため家臣を帰農させたり、土地という土地を開拓して
食っていった。そのため徳川幕府に対して食い物の恨みがある。この辺は司馬遼も書いてるが


572 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 20:52:11
>>571
”300年”の飢えではないだろって言いたかっただけ。
近世初頭の大開発や、西国を中心とした商品経済・貨幣経済の流れに上手く乗れたんだろうね。

573 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 00:02:48
>>563
清正記に書いてあるでしょう

574 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 01:19:24
>>572なるほど一理ある。訂正します。
300年の飢えとは文字通りではなく後の数々のせざるを得なかった施策を含めてということで許して。

昔、NHKで後の奇兵隊は関ヶ原以後帰農した武士がいたから素地があったという話があったが、地元的には
領民皆兵の気風はあるの?


575 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 11:46:49
宇土城の兵力だが
天草4万石の兵は別にいるので
宇土、益城、八代の20万石で5人制で1万人動員
七千百人が宇土城と麦島城の守備についていたと思われる

576 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 13:41:57
>>575
本隊より守備兵の方が多いとかありえないから   

577 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 16:24:52
ありえないってことがありえない by猿渡先輩

578 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 23:55:21
>>566
木曽を押さえている山村・千村が捕らえている 

579 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 11:01:31
秀頼が誰の子かわからなかったのが家康の勝因

580 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 15:09:48
家康が「実は秀頼はワシの子なんじゃよワハハハハ」とか言い始めたらどうなってたのだろうか。

581 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 19:27:47
>>580
諸将ドン引き

582 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 02:33:59
家康と浅野長政の関係について疑問なんだが

浅野長政は本当に家康を暗殺しようとしたのか?
暗殺未遂が家康の自作自演だったとして
長政は寝耳に水で、家康にぬれぎぬをきせられたのか?
それとも前田利長と大野治長を嵌める目的で家康と示し合わせて長政は一役かってでたのか?
土方雄久もグルっぽいけど
そこらへんのこと詳しく知りたい


583 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 06:30:33
全員戦後加増されているのが全てを物語っている、浅野長政は秀忠といっしょに上田城攻めに参加している、家康から補佐を頼まれてる
暗殺しようとしてた奴に取る態度じゃないな
土方雄久も前田への説得の使者として活躍している、この二人は確実に結託している
問題は大野治長だが、関ヶ原で戦っているんだよな、東軍として、この時点では家康派だったと考えるが妥当だろう
前田はこの3人に罠にはめられた

584 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 11:59:38
(`д´)ノ前田利長が交戦の道を選んでいたら、大谷、石田に退路を切断され東軍壊滅、家康討ち死に

585 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 12:46:29
加賀討伐が行なわれていたらどうなっていたんだろうね
案外、加増目当てに、毛利、上杉、宇喜多、も徳川といっしょになって攻めこむかもw

586 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 14:48:56
あたりまえじゃん。戦国武将なんて自分の領地増やすことしか頭にない連中なんだから。
治部あたりも渡りに船とばかりにちゃっかり先鋒申し出そうだな。

587 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 18:23:06
甘いな、前田の次は自分と思って、みんな前田に味方するよ
5大老の主導権争いなんだから

588 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:05:25
島津1500の史料は何でしょうか
ちなみに「島津史料集」にある「惟新公御自記」「惟新公関原御合戦記」には記載されていませんでした
合戦記には3000が殆どで中には4000、撤退時に1000というのがありました
後、忠恒への書状に7000の兵を求め、特にその半数を至急送るように要請しています(8月19日)

589 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:21:05
自己解決しました

590 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:31:54
>>589
詳しく  

591 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:32:26
どうも島津1500というのはそれ程、信頼性が高くない気がする
というのも日本戦史の付記にある「関原御合戦進退秘訣」という島津家の史料が
出典なのだが、当たり前だが島津礼賛色が強い
おまけに知るはずもない家康の褒め言葉まで載せている
極めつけは1500と言っておきながら戦闘で大半が倒れたが1000で切り抜けたとか
言っている

正味、信頼性が高いとはいえない

592 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:46:19
島津1500で思い出しました
前々から疑問だったのですが
生駒一正の1830もわかりません
生駒親正は17万1800石なのに
どうしてこんな数値になるんでしょうか    

593 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 21:48:43
子の正俊が西軍なので、半分に割ったらしい
結構いい加減です参謀本部

594 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:15:06
>>593
2倍にしても3660ですが
17万1800石なら5154になりますので
2577にならないとおかしいのでは

595 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:18:18
>>568
米を現金に換えて生活用品を買うんだけど、
米の値段は100年で半分になったから、
商品作物を持ってないところは実質的に収入が半減。


596 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:22:43
6万1千石で計算してます
所領は15万石としているのにおかしな話ではあります

597 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:23:03
生駒一正は秀吉の四国征伐前は赤穂六万一千石で3人制で調度1830人になる
これもまた日本戦史のミスでしょう

598 :597:2009/10/19(月) 22:29:46
間違いました、生駒一正ではなく生駒親正でした  

599 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 22:36:55
生駒一正が率いていた兵力はわからんなあ
大谷指揮下の北国口に生駒家の家老の高木法斎が2000人率いて参加しているし
田辺城にも生駒正俊を派遣している    
非常に難しい

600 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 02:05:45
>>597
参謀本部ミスだらけだなw  

601 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 12:35:03
島津は兵力は少なかった筈だよ。
「長宗我部や立花が規定の軍役以上の兵力を出してるのに、こっちは
千もいない・・」という旨の書状があるし。

602 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 12:51:18
>>601
その前日の書状に「7000を求められているので、半分は急いで出してほしい」とある
これが8月19日
どうもその時にそれに近い兵が出たんじゃないかと思う

603 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 22:20:15
>>601
因みにその書状だと長曽我部は本来2000で実際は5000とあるが、惟新公関原御合戦記では3000とある

604 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:16:00
>>599
何か勘違いしてない?
高木法斎は蜂須賀の家老だよ

605 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 13:00:06
蜂須賀至鎮は18騎で東軍に参加らしいな
阿波18万石の大名のくせに少なすぎだろ    

606 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 14:16:57
>>605
騎馬が18騎なだけで、騎馬1騎につき雑兵が10人は付き従うので180人といったところか
どちらにしろ氏姫までもらっておいて親家康派の大名としては少ないな
17万5千7百石なので四国の大名の軍役が1人制だったとしても1750人は出さないと
この兵力の少なさは謎だな

607 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 14:47:07
元々、出陣しなくても良いのに敢えて供奉したから
人質みたいなもの

608 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 16:03:51
>>607
蜂須賀は出陣しなくてもよかったの?

609 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 16:57:49
讃岐の生駒家も同じことをしている
四国で慶長の役で実際に戦ったから動員されなかったのでは
大阪に近いことも理由の一つかも

610 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 19:20:54
四国も全員動員でしょ
長宗我部盛親は東に向かおうとしてたし  

611 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 20:25:35
俺は生駒一正と蜂須賀至鎮は宇喜多詮家と同じく先発隊説を唱えてみる、そうすれば全て辻褄があう

612 :609:2009/10/21(水) 21:05:46
>>611
成程
個人的には畿内の大名は動員されていないからその一環と考えているのだが


613 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 22:26:29
>>602
それ、それ、思い出してたぜ、昔、エポック社から「関ヶ原」ってボードゲームが出てて
それ、やった時にさあ、島津の援軍ってカードがあってさあ、島津は元々1ユニットしかないんだけど
そのカード出すとあと2ユニット増えて、合計3ユニットになるのな、1ユニットは1500人なんだけど
それで、これは何をシミュレートしてるのって話しになったのさ
そしたら、何たらと何たらという二人の島津の家臣が3000ぐらいの部隊を率いて大阪を北上中だったんだって
けど、関ヶ原の敗報を聞いて引き返していったんだって
そのことだと思うわ

614 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 22:38:18
ボードゲームって…  

615 :日本@名無史さん:2009/10/22(木) 00:35:24
>>613
何たらと何たらについて詳しく!

616 :日本@名無史さん:2009/10/23(金) 01:48:17
その島津の援軍は長谷川伊豆守と稲田太郎左衛門だと思う  

617 :日本@名無史さん:2009/10/23(金) 12:37:07
>>616
それは蜂須賀至鎮と合流しようとしていた蜂須賀家の援軍 

618 :日本@名無史さん:2009/10/23(金) 16:03:08
因みに吉川家文書にある広家の関ヶ原合戦についての報告書にも
「島津ふとゑり勢三千」とあります

619 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 00:09:31
>>618
読めません
現代語に翻訳してください

620 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 00:27:06
>618
「嶋津なとゑり勢三千」じゃないの?

621 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 07:37:27
ああ、「なと」ですね「島津など選り勢三千」
つまり「嶋津(義弘)など精鋭三千」

622 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 08:18:24
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
ちなみに本文読みたい人はここのデータベースで
古文書フルテキストデータベースを選択して
「吉川 南宮山」で検索すればよし

623 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 11:35:26
西軍:83800
正面戦力:36100
松尾山:19800
南宮山:27900

東軍:88500
正面戦力:39600
予備戦力:48900

正面戦力は両軍とも殆ど互角だったわけで
地形効果で有利な西軍が序盤は東軍を圧倒していたらしい

624 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 13:24:22
それ三人役一律ですから
実際はかなり異なるでしょう
まぁ、他に比較方法は無いんですけどね

625 :日本@名無史さん:2009/10/25(日) 00:30:33
福島正則は地元だから総動員してるだろうから5人役だろうな
急ごしらえの宇喜多隊1万8千VS士気の高い福島隊1万
こんなとこでしょ
宇喜多と互角でも不思議でない

626 :日本@名無史さん:2009/10/25(日) 02:52:52
福島は明石にボコられてなかったか?

627 :日本@名無史さん:2009/10/25(日) 07:48:48
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E6%88%A6%E3%81%AE%E9%85%8D%E7%BD%AE
福島8000、井伊先手2000
宇喜多は諸説あるが15000かね

628 :日本@名無史さん:2009/10/25(日) 16:28:35
というわけで島津が三千でその後方に小西の五千が後詰として控えていたとなると
通説と異なり、井伊・松平忠吉は非常に厳しい場所にいたことになります
特に井伊の先手は福島の援護に出向いていますし

629 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 00:05:05
>>627
大事なことを忘れているぞ
金屋に福島の別働隊の横井伊織、横井作左衛門、横井孫右衛門が布陣している
徳永、市橋、横井一族合わせて3000人
横井一族だけで1500〜2000人と思われる

630 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 16:29:21
横井時泰は独立大名でしょ

631 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:28:25
横井は福島の配下のはず

632 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:26:18
>>631
福島正則家中分限帳には横井一族は載っていない

633 :日本@名無史さん:2009/10/27(火) 03:14:02
>>629
そんなに動員できるかね、横井時泰は五千八百石、横井時朝は千二百八石、横井時久は千九百石、三人合わせても一万石いかないし
五人役で500人といったところでは  

634 :日本@名無史さん:2009/10/28(水) 00:02:08
書状の奪取について話しを戻すが、徳永、市橋、横井は南宮山の南にまで進出したのはいつなのかね
大垣以南の揖斐川より西は西軍の勢力範囲じゃないのかね?
まさか大垣城は東軍に完全に包囲されていて補給線、連絡線が断たれている状態なのかね?

635 :日本@名無史さん:2009/10/28(水) 12:58:22
横井時泰は尾張徳川に仕えている
広島についていっていないから福島の配下ではない

636 :日本@名無史さん:2009/10/28(水) 19:26:50
>>635
流石に前日、西軍の大軍が目と鼻の先を通って関ヶ原に赴いたことになるから
ありえないかと
やはり、西軍が移動した後でしょう

637 :馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/10/31(土) 13:54:13
 今も昔も世の中は悪と嘘が勝利し正義と真実が敗れ去る
 直江兼続は主君・上杉景勝を動かして、石田三成と共に関ヶ原合戦を引き起
こした張本人である。家康が上杉討伐の軍勢を率いて行く途中の小山で、三成
の挙兵が伝わったとあるが事前に把握していた。小山軍議で福島正則に「内府
殿にお味方申す」と発言させたのは予定の筋書である。他の大名は三成に大坂
で妻子を人質に取られ去就に迷っていた筈である。細川忠興の妻・玉子が自害
したと言う話は嘘くさい。キリシタンは自殺しないし、無抵抗主義である。秀
吉が主君・信長の仇を討って天下を取ったのだから、玉子(光秀の娘)を離縁し
なければならない。しないで済んだのは光秀が信長を殺していないからだ。秀
吉と家康が共謀して信長を殺した。家康にとって玉子の存在は目障りであった
から隠れて貰った。三成は玉子の自害で人質を見逃す口実を得た。殆どの大名
は妻子が助かる保証を得ていたから家康に味方した。労せずに味方の軍勢を得
て戦う事が出来た。なぜ上杉軍はこの軍勢を追撃しなかったのか。直江は家康
に喧嘩を売って、命懸けの勝負に出た筈である。それが武士の矜持である。三
成の軍勢と挟み撃ちにすれば徳川家は滅んでいた。直江は敗戦後なぜ死罪にな
らなかったのか。家康は「毛利の家老には宍戸、島津には伊集院がいる。こい
つらは皆三成に頼まれて自分の主人に逆心を勧めた連中だ。直江一人成敗すれ
ば、奴等は皆自分も殺されると思って、領国に楯籠もって大乱を招く。直江は
助けて置くのが得策だ」と述べている。これは大嘘である。関ヶ原合戦の際毛
利を吉川広家が、小早川を稲葉正成が徳川方の軍使で見張っていた。だから、
毛利等は動けず、小早川は裏切った。島津義久は義弘を代理に立てて西軍に参
加させたが、義久は徳川方で義弘の兵増強を阻んだ為、千人余の手勢となった。
 三成も直江も家康も皆ぐるで、八百長の喧嘩を演じていた。関ヶ原合戦は豊
臣恩顧大名を共倒れにして徳川が天下を取る為の権謀術数が働いた世の醜悪を
見せた物である。今の世はそれが極まった世の末で、だからこそ絶対神が世を
立て替えるのである。


638 :日本@名無史さん:2009/11/01(日) 17:24:21
今もこんな古ぼけた歴史観でものをみている>>637みたいなのいるんだ

639 :日本@名無史さん:2009/11/13(金) 02:03:16
西軍負けたのは毛利輝元のせいだと思うんだ
総大将が引き篭もってちゃそら負けるって 
家康みたいに前線までこないと

640 :日本@名無史さん:2009/11/13(金) 04:23:14
>>639
徳川家康もかなり引きこもっていたと思うけど。
引きこもってる間にどんだけ仕事をしていたかだよね。
結局、段取り八分ってやつだ。

641 :日本@名無史さん:2009/11/13(金) 06:51:03
大阪城に引き籠もり何もせずに降伏したボンクラ輝元
関ヶ原でもノホホンと弁当食べてピクニック気分の毛利軍
そりゃ負けるわな

642 :日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:07:55
うむ

643 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 01:02:17
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E6%88%A6%E3%81%AE%E9%85%8D%E7%BD%AE
ウィキの関ヶ原本戦の配置にいつの間にか地図がうPされてるな
この精巧さは素晴らしい

644 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 13:07:05
>>643
西軍厨の俺から言わせてもらう

まず、北の山手沿いから
西軍の織田家は七男信高と十一男長次だけではなく八男信吉、九男信貞も参加している
伊藤長実と矢部定政は大津城攻撃軍に参加しているからここにはいない
三淵藤英はとっくの昔に死んでいる

南天満山麓について
赤松則房も二年前に死んでいる
毛利勝永は南宮山、栗原山付近に布陣しているのでここにはいない
太田一吉は居城の臼杵城にいるのでここにいるはずがない
池田秀氏は駒野城に篭城しているのでここにいるはずがない

大垣城について
熊谷直盛の名前がない

ざっと見ただけでもこれだけの疑問が瞬時に浮かんだが
東軍の方もおかしなとこがあるんじゃないか?

645 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 13:12:58
>>644
「朝野」を出典にしているから、そういうのも敢えて無視しているんじゃない

646 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 18:43:02
ですよね、転載しているだけだから問題なし。

647 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 20:46:07
それだけの問題のある資料に基づく事自体に問題がある。

648 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 21:08:22
書いた本人が言わせてもらいますが、では他に複数の文献を基に、その出典が記載してある状態で、
それなりの権位を有した撰者達の見解(綱文)がある、関ヶ原合戦の詳細を記した資料が他にありますかと聞きたい

649 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 22:21:49
>>648
ありません

650 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 22:52:18
>>644
>西軍の織田家は七男信高と十一男長次だけではなく八男信吉、九男信貞も参加している
織田信吉、織田信貞は平塚為広勢に加わっていたが、あまりにも小人数だったため省略された

>伊藤長実と矢部定政は大津城攻撃軍に参加しているからここにはいない
大津城落城前に転戦してきた

>三淵藤英はとっくの昔に死んでいる
子の三淵光行の誤記

>赤松則房も二年前に死んでいる
子の赤松則英の誤記で本戦の後で佐和山城に篭城した

>毛利勝永は南宮山、栗原山付近に布陣しているのでここにはいない
通説の栗原山付近は間違いでこっちが正解

>太田一吉は居城の臼杵城にいるのでここにいるはずがない
子の太田一成の誤記

>池田秀氏は駒野城に篭城しているのでここにいるはずがない
本戦の後で駒野城に篭城した

>熊谷直盛の名前がない
う〜ん これだけは擁護しようがない 後はお前にまかせた


651 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 23:14:58
ちなみに出典が「大三川志」なのであれだが、三成陣となりの寄合衆の数28,800という
これまでの三成奮闘説を根底から覆す記述がある

652 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 23:36:06
>>650
おいおい、三淵光行は東軍だろ!

653 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 00:05:44
>>651
それはひょっとして豊臣本軍か?

654 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 01:03:31
>>651
ねーよ 

655 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 02:03:05
寄合衆が28,800人いたとか、そういう珍説はたいがいにしてくださいね、はっきり言って迷惑です。

656 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 07:49:42
まぁ、話半分でも大した数だとは思う
諸書では西軍の計は10万となっているし

657 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 14:08:10
石田隊と島津隊の間に宇喜多隊よりも多い軍勢がいたの?
これは歴史的発見だべ

658 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:04:56
宇喜多の背後は直ぐ山だけど、越前街道沿いは平地が続いている
縦深が深ければありえない話ではない

659 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 18:30:43
それ黄母衣衆でしょ
織田信高と伊藤盛正と岸田忠氏でしょ
学研の歴史群像シリースじゃ2千人て書いてあったよ
桁を1つ間違ってるんじゃないの

660 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 19:49:11
そういうのはみんな「日本戦史」を参考にしているだけ
確かに「朝野」に収録されている史料の中には黄母衣衆と記述した物もあるが、
撰者達はそれだけでないと判断している

661 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 20:26:24
じつは秀頼率いる20万の豊臣本隊であった

662 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 20:33:23
そういう史料はないなぁ

663 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 22:50:25
>>660
具体的にその部隊を率いていた武将の名前を教えてくれんかね 

664 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 22:58:15
>>663
いや、単に黄母衣衆とあるだけ

665 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 23:00:43
28800人とかいいかげんにしてください、家康本隊と同数じゃないですか、そんな大軍が西軍にあれば負けてません

666 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 23:09:48
>>665
まぁね、西軍は史料によって兵数は大きくぶれるから話半分程度だとは思うよ
ただ、これまでの通念とされてきた、大軍の東軍に対して寡兵の石田が奮闘というのは
修正が必要ではないかという提起という事で

667 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 00:27:47
黄母衣衆28800人って豊臣本軍ですよね
後詰であろうと関ヶ原にこれだけの兵を投入してたとなると
もはや豊臣秀頼VS徳川家康の戦いですね
だから戦後、220万石から65万石に減俸されたんですね 

668 :日本@名無史さん:2009/11/22(日) 07:49:42
>>667
黄母衣衆と書いてあるのと、複数の人名を上げて28800としているのは「朝野」内の別の史料

669 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 23:12:52
黄母衣衆って七手組のこと?

670 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 23:49:25
違うのは確か
というより黄母衣衆という存在が良く解らん
一応、使番というのが定説だが、他にも実戦部隊とも言われている

671 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 02:14:37
織田信高・長次、伊藤長実、中島種長、滝川忠継、服部土佐守、寺田播磨守、岸田伯耆守、高田薩摩守、秋田助右衛門、矢部豊後守、三渕大和守及び大坂弓鉄砲衆等

28800人ってこれのことか?

672 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 07:39:07
YES

673 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 16:31:44
要するに馬廻りだろ

674 :日本@名無史さん:2009/11/26(木) 00:31:24
高田薩摩守
秋田助右衛門
三渕大和守

この三人何者?
検索しても出てこないんだが

675 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 14:33:14
織田信高って信長の息子じゃん、秀吉の馬廻りやらされてたのか、すごいショックだわ

676 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 18:37:06
>>675
織田家もなりあがりでしょ
尾張守護代の庶家が一代で天下人になっただけ。
世が世ならというほどでもない。

677 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 09:21:38
>>676
しかも分家だしな。

678 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 14:37:08
前々から不思議に思っていたんだけど、加藤清正って何で上杉討伐に加わらなかったの?

679 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 18:10:06
国許で小西戦ってたからじゃ

680 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 19:07:02
朝鮮の役で疲弊が激しかったからでは

681 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 22:25:53
九州の大名は参加する必要はなかったからでは
黒田長政と寺沢広高は自主参加っぽい 

682 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 05:20:53
清正は長政といっしょに三成襲撃したほどなのになぜ同行しないのだろう
逆に寺沢広高は武断派から三成といっしょに憎まれてた奴なのになぜ東軍に参加
おかしくね  

683 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 08:48:45
仲良しごっこやってるんじゃないんだから。

684 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 11:35:10
>>682
ここらへん、単純に尾張派vs近江派、武功派vs文治派みたいに単純化できないよな

685 :日本@名無史さん:2009/12/06(日) 01:53:38
前田利家存命時、家康と利家が対立した時、清正は石田三成、長束正家、小西行長といっしょに前田派についてる

686 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 09:26:14
田中吉正もな。

687 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 16:24:18
田中って東海道逆走中は疑われていたよな

688 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 19:57:59
田中吉政は実際西軍に内通していました
家康の講和命令を無視して佐和山城を燃やしてしまったのは城内に見られては困る手紙があったからです

689 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 20:16:15
毛利秀元軍が京に撤退してきたら北政所は素足で逃げ出したそうだ

これはいったい何を意味するのか考えてみた

毛利秀元は東軍で満ち溢れている佐和山城付近を通過したのに東軍から攻撃を受けていない

またその時、それまで同行していた安国寺が逃げ出すように離れて別行動を取っている

我々は大阪城で宗茂と篭城を主張したという後世の後知恵から秀元は吉川に騙されただけでバリバリの西軍主戦派と思いこんでいるが

どうやら根本的に勘違いしているようだ

690 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 21:22:28
>>689
ねねって東軍だから西軍がきたら逃げてもおかしくないわけだが

691 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:35:25
>>690
寧々については、最近は西軍よりとする見解もあるようだけど、秀秋を調略する際に、浅野幸長は
北政所の御為に家康につきなさいよと書状で述べているので、正直一概には言えなそう。
木下一族の動向を考えても、どうにもハッキリしない

692 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:15:43
>>691
浅野の書状から判るのは『浅野が高台院は徳川を支持してると書いた』事だけで、実際どっちを
支持していたのかの判断材料にはならない、と思う。

693 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 01:20:16
姫路城に篭っていた木下某が弟の金吾が入城しようとしたら追い返したような記憶がある
伏見城に篭城していた木下某も攻撃前に逃げ出したり
ここらへんの経緯がよくわからん

694 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 12:41:44
>>693
>伏見城に篭城していた木下某も攻撃前に逃げ出したり
それは城側から西軍と内通の恐れ有りと見なされたからでしょ。

695 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 19:26:38
多賀谷重経が家康に夜襲をかけようとしていたようだが
こいつ1万8千石の大名だろ
どれだけ恐いもの知らずなんだよw

696 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:38:26
>>695
夜襲か。全然怖いもの知らずじゃないな。
むしろ臆病者だ。

697 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 04:22:41
>>695小藩だから手柄を立てて加増期待じゃね?大藩だと失敗した時を考えて保守的になるし、人数が多ければする必要もないしね


698 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 22:24:44
多賀谷の夜襲計画って露見したはずだが
東軍から報復攻撃を受けた形跡がないな

699 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 22:57:41
おまえら多賀谷舐め過ぎ!「地戦千騎」と呼ばれる関東最強の1000挺の足軽鉄砲軍団を持ってる奴だぞ

700 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 01:42:16
>>695
多賀谷重経は6万石だろ

701 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 12:38:54
1000挺って凄いな、異常な保有率だ

702 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 11:47:06
東軍加増表を見て疑問を感じました
筒井定次は本戦に参加したのにどうして加増なしだったんでしょうか?
教えてください! 

703 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 18:48:41
>>702
居城の上野城を西軍に落とされたからでは

704 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 23:40:33
>>703
そんな理由なんですか
摂津にある織田長益の味舌城、有馬則頼の三田城も西軍に落とされていると思いますが
二人は加増されてますよね
これはいったいどういうことでしょうか?

705 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 23:53:44
>>704
三田城主は山崎家盛

706 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 23:58:26
>>705
あれ
三田城じゃなかったっけ?
ならどこ?  

707 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 00:01:02
>>706
淡河城

708 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 11:32:04
>>704
味舌城と淡河城が西軍に落とされたソースはあるのか

709 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 13:35:28
摂津や播磨の小大名の小城なんてあっという間だろ

710 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 14:03:32
重要なのは城の大小ではで無く、周辺の地形
本多俊政の高取城は西軍の攻撃を跳ね返して最後まで持ち堪えた

711 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 16:09:16
大和高取城か
7年前に行ったことあるけど
あれは落ちないよな
ていうか関ヶ原の時、大和高取城で攻城戦あったのか?

712 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 17:44:41
>>711
毛利輝元が攻めてる

713 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 18:18:02
ずっと大阪城にいたと言われる西軍の総大将が自ら城攻めを行なってたのか
これは歴史的発見だな     

714 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 18:30:42
>>712
そんな話し初耳だぞ
ソースをくれ 

715 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 18:36:12
>>714
http://nofuro.com/28/481.html

716 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 18:38:55
また、新年早々凄いネタを投下してくれたな  

717 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 18:49:38
毛利輝元が大阪城の外に出て戦うなんてありえないから何かの間違いでしょ


718 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 19:07:44
高取城攻城戦は何月何日から行なわれたんですか?


719 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 19:32:15
毛利輝元が攻めてる ってのは
毛利の部下が攻めてるって意味だってことぐらい解ってやれよ

720 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 20:06:55
大津城攻めの総大将は元康ですけど
高取城攻めの総大将は誰ですか?   

721 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 20:28:13
>>720
ウィキによると松倉右近だそうです

722 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 20:31:43
>>721
松倉重政の父の松倉重信か?
この頃はもう死んでるだろがw

723 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 20:37:18
「高取町史」によれば、箸尾高春、多賀秀種、横浜茂勝が高取城を攻めてる、毛利軍が参加した形跡はないが

724 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 20:46:09
あれだろ、総大将が毛利輝元である西軍の部隊が、攻めたって意味だろ

725 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 23:46:38
輝元が箸尾らを差し向けたってことでしょうね

726 :702:2010/01/02(土) 20:19:26
何か話しがそれてますね
筒井定次が加増なしだった理由わかりませんかね    

727 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 00:14:16
1、上野城の留守居役の筒井玄蕃が無抵抗で西軍に城を明渡す
2、島左近が定次の元家老
3、筒井と言えば洞ヶ峠の日和見野郎だから信用できない
4、伊賀という戦略的要地を徳川が欲しかった

1番が一番大きな理由だと思う
高取城も田辺城も大津城も安濃津城もみんな戦っている
松阪城は怪しいがw

728 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 12:38:39
>>711
高取城の縄張りは素晴らしいよな 

729 ::2010/01/03(日) 16:15:02
薩摩藩主と絡んだ中山成彬元国土交通相

http://pwvx.hp.infoseek.co.jp/0202/8/180.html

薩摩藩第11代藩主であった島津斉彬の誕生日が絡んでいた。

730 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 16:52:22
何かの本に筒井と田中は西軍と通じていて寝返る気満々だったって書いてあった 

731 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 00:09:51
竜造寺と鍋島の連合軍に興味あるんだけど、この軍はどういう構成だったんだ
龍造寺高房に指揮権があったのか

732 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 00:33:48
>>730
田中は実際そういう噂があったみたいだな。

733 :日本@名無史さん:2010/01/19(火) 18:45:48
関が原は高台院と淀の確執が発端
女の争いが天下分け目の戦いに発展するなんて凄い話し

734 :日本@名無史さん:2010/01/20(水) 00:56:01
小早川秀秋と脇坂安治の両方におねの息がかかってんのがスゲエ
大谷刑部は誰に殺されたんだろうな

735 :日本@名無史さん:2010/01/20(水) 01:02:59
秀忠にゆっくり中仙道を行くように言ったのは江
高次に寝返るよう言ったのは初
利長に東軍につくよう言ったのはまつ

736 :日本@名無史さん:2010/01/20(水) 02:59:07
そういえば初はずっと大津城にいたね、西軍は西軍からは人質を取らなかったのかな
人質取ってれば寝返りが続出することもなかったのに…三成はアフォだね

737 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 09:22:25
>>733
未だに大河ドラマ頭脳
>>734
意味不明
>>735
ソースは、

738 :日本@名無史さん:2010/01/30(土) 00:35:30
お願い、誰か戦国板に関ヶ原の戦い総合スレを立てて  

739 :日本@名無史さん:2010/01/30(土) 22:29:48
>>738
立ってるな。
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ15【東軍】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1264805400/

740 :日本@名無史さん:2010/02/05(金) 23:56:37
毛利が一番馬鹿な感じだな
なんとなく総大将になるも全力上げて戦わず
大坂城に居座ればいいものをさっさと明け渡し
吉川内通も無視され責任問われて大減封とか

741 :日本@名無史さん:2010/02/06(土) 12:11:39
毛利が一番うまく立ち回っただろ
まんまと総大将になるも後方で戦力を温存し
大坂城に居座れば滅亡したものをさっさと明け渡し
敗軍の総大将だったのに打ち首・切腹どころか転封すらされなかった

馬鹿とは宇喜多や石田のようなやつのことを言う。

742 :日本@名無史さん:2010/02/06(土) 14:35:16
早い段階で広家を粛清して
南宮山から打って出て東軍を挟撃していたら歴史がどうなったやら
もっともその場合家康はあんな布陣を最初から取るまいが

>>741
本当は改易の予定だったよ
吉川広家がもらうはずだった所領を献上されて生き延びただけ
そのあげく吉川家を逆恨みとかもうね

慎重に保険をかけながら天下まで狙ってかつ生き延びた黒田家とか
一躍大大名に躍り出た山之内一豊とかに比べると話にならない
生き延びただけたいしたものだけど

743 :日本@名無史さん:2010/02/06(土) 21:59:19
上杉も減封で済んだし取り潰されはしないだろ

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取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。
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