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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 50

1 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 01:36:19
  ∧,,∧    ∧,,∧   ∧,,▲
  (,,・∀・)   ミ,,・∀・ミ   (;;・∀・)
〜(_u,uノ @ミ_u,,uミ @(;;;;uuノ

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 49
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1249402306/l50


2 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 03:21:10
漢文読みが放射式で読もうがどうしょうが、結局文献から決定打は出てこないじゃんか。


3 :前スレ981:2009/08/16(日) 03:55:12
>>1乙!

>>2
つうか「放射式」自体が殆ど「裏技」みたいなもんで
まるで「漢文読み」全体に連帯責任負わせるが如き表現は不味かろうwww

それでも個人的にはいくつかの条件下では成り立つかな?とも思っているが

前スレ>981
>ただ行程記事をものもしたのが実際に卑弥呼のもとに赴いた魏使ではなく
>伊都国あたりに常駐していた郡使で
>その文章が放射式で書かれていたとしたら?
>で、その一次資料を陳壽かもしくはその前の記録者が(漢文の常道に基づいて)連続式で解釈して書いていたとしたら?
>この場合、放射説の目は出てこないものかな?

…でもこの板の九州説連中にかかれば放射式で読んで ”当たり前” らしいw

前スレ>992
>まあ、君らの読解力では放射式で読むってことに気づかないかも知れないが、
>漢文に慣れた人ならば、十分に読めるんだよ。
>昔から史書は連続式ばかりではなく、放射式も使用されていた。それほど難しい
>読み方ではないってことだな。

哀れ、畿内説の学者のみならず白鳥や久米以下放射説を扱ってこなかった九州説の大家も
梁書や御覧で明確に連続式で読んだ中国人も

2ちゃんねら以下の馬鹿揃いに成り果てましたwwwwwwwwwwww

4 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/16(日) 07:09:34
前すれ >>993
>>皆に否定されてると思うけど。

残念ながら誰も否定できていません、皆返り討ちにあっていますよ。
あなたも、何も否定できないのでしょう。

>>3
まぁ畿内説の「方位が間違ってる」説から始まって、
よくよく見たら伊都国奴国あたりの距離も合わないからと「方位も距離も間違ってる」説がでてきて、
更には至・到の1文字にすがりつく「経路も間違ってる」説(放射説)がでて、
どんどんそのの自由度を広げて比定地が日本全国に広がったのが邪馬台国論争ですからね。
自由度を広げてようやく比定できた説は、それらどれかを否定されるともう成り立たない。アワレ


5 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 07:37:48
>二 ◆.L.MXSPOgc
 ↑
こいつってたまに見るけど馬鹿なの?


6 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 08:07:50
>>4
隋書だかに、邪馬台国は大和のことだと書いてあるでしょ?

現代日本人より漢字を読みこなせる昔の中国の人が、
「邪馬台国=大和」ということに疑問を持って無かったってことを、
もっと考えるべきだね。

九州説を言い出したのは、隋よりもっと後の江戸時代の日本人だぜ?
江戸時代は自国の古文書である記紀も読めなかった頃だ。



7 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 08:18:17
>隋書だかに、邪馬台国は大和のことだと書いてあるでしょ?

現代日本人より漢字を読みこなせる昔の中国の人が、
「邪馬台国=大和」ということに疑問を持って無かったってことを、
もっと考えるべきだね。


文献でしか解明出きない、というのなら、九州説でも東遷説を取らざるを得ないという事ですよ。
でも、中尾説だったかな、隋書の記事は間違っているという前提での九州説を聞いた事ありましたが・・・。
九州説でも文献否定派はおられます。

8 :3:2009/08/16(日) 08:21:25
>>4 二 ◆.L.MXSPOgc
>それらどれかを否定されるともう成り立たない。

なんか、自信満々の自己陶酔しているところ悪いんだがw

お前の場合、梯儁と張政の二つの報告書(原資料)があることを否定されると
成り立たなくなるわけだが?

そもそお前の説の枠組みに乗っかるなら
原資料は別に3つでも4つでも、なんなら10以上あっても良いわけだ。

四方位で書かれたもの、八方位で書かれたもの
長里で書かれたもの、短里で書かれたもの
里数でなくて日数で書かれたものetc…

いくらでも想定できてその自分がでっち上げたものの中から
都合の良いものを選択すると言う言わばマッチポンプw

>どんどんそのの自由度を広げて

と言うのはおまえ自身のことだ気付けよ馬鹿wwww

9 :3:2009/08/16(日) 08:28:43
>>4 二 ◆.L.MXSPOgc

それから…

http://yamat-2007.blogspot.com/

改めて上記のブログ見たが
(まとめのあたりをパッと見程度だがw)

 <梯儁ルート>における
  奴國=福岡平野、那の川流域

 <張政ルート>における
  C國(奴國2)=佐賀市あたり

とはどう言う意味だ?

福岡平野から佐賀市にまたがる巨大なクニがあったのか?

それとも別々のクニで最終的に倭人伝に掲載されたのが前者とか?

どちらにしてもトンデモにしか思えないんだが?wwww

      


10 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 08:36:07
>>7

どこの文献に邪馬台国が東遷したなんて書いてあるんだ?
バカじゃないの?


11 :8=3:2009/08/16(日) 08:39:19
>>8
>原資料は別に3つでも4つでも、なんなら10以上あっても良いわけだ。

上記について補足

二 ◆.L.MXSPOgc のブログより
>また魏使のルートとは別に次の情報が混ざっていると考えています。
>E國(投馬國2) 琉球(沖縄)        「水行20日」
>(水行10日陸行1月は郡から邪馬壹國までの日数(倭人からの伝聞情報)で、水行20日の目安のための情報)


一応、言質をとらせてもらう格好にしておくwwwwwwww

12 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 08:40:05
>>3
畿内説をとる学者の中にも、放射説を支持する者がいるよ。畿内説の場合、放射説より
連続説の方が畿内まで引っ張るのにずっと楽だが、放射説の読み方が正しいと思うから
それを指示してるんだよ。例えば、山尾、直木らがそうだな。
放射説をとらなかった大家が馬鹿扱いというが、確かに気づかなかったのは恥ずかしい
ことだね。

>>7
隋書に書いてあるのは、「魏志にいう邪馬台だ」というだけで、大和だなんてことは一言
も書いてないよ。魏志にいう邪馬台というのは、当然、九州のそれだ。
だから、隋書は隋の使者が男王タリシヒコと会ったと書いている。当時の大和の天皇推古
(女帝)ではない。畿内説論者は、タリシヒコを大臣と会って天皇と間違えたなんて無茶
苦茶言ってるがね。



13 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 08:51:22
後漢末期より三国時代初期にかけて、
遼東郡から朝鮮半島北部にかけて遼東公孫氏が事実上の独立政権を打ち立てていた。
このため、倭や朝鮮半島南部(韓)などのいわゆる「東夷」と呼ばれた諸民族の
朝貢ルートが閉ざされていたと考えられている。

『三国志』魏志公孫淵伝によれば景初2年8月23日(238年)に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、
魏が楽浪郡と帯方郡を占拠すると、邪馬台国の女王・卑弥呼は帯方郡への使者を送って魏との交流が再開された。

倭国は、238年まで、魏に朝貢することが出来なかったわけで、
九州から出土する、中国製の銅鏡は後漢時代のものであることからも裏づけされる。

では、画文帯神獣鏡など呉の作と見られる鏡はどこから手に入れたのか?
魏が、呉を滅ぼしてから、わざわざ敵国の呉鏡を倭国に配布したのか?
魏が贈るものとしてふさわしくないように思えるが。








14 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 08:52:26
>>12の追加
白鳥のために、一言弁護すれば、彼は放射式には気づかなかったが良いことも言ってるよ。
即ち、彼は倭人伝から明瞭なこととして
@邪馬台は不弥国よりも南方に位置すること
A不弥国より女王国に至るには有明海を航行すべきこと
この2点を指摘しているね(これも邪馬台国と女王国を混同しているところは
問題だが)。


15 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:02:49
画文帯神獣鏡が呉の作として、
三角縁神獣鏡も呉の鏡職人の作ったものなら、
倭国が魏に朝貢できなかった間、倭国と呉が国交を結び、
呉からの難民を受け入れていたことが推察される。

つまり、画文帯神獣鏡が倭国にもたらされたのは、
魏と国交が再開する以前、239年以前ということになる。
これは、ホケノ山で庄内式土器と共に出土する状況と一致する。

時系列で言えば、
2世紀末・卑弥呼共立
3世紀初頭・公孫氏が帯方郡を支配していたため、魏と国交が出来ず、呉からの難民を受け入れる。
画文帯神獣鏡がもたらされる。庄内式土器の時代。ホケノ山が作られる。
238年・公孫氏が倒され、帯方郡を魏が占拠。
239年・卑弥呼が帯方郡に使いを送る。



16 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:03:42
>>12
隋の時代のヤマトが九州内だという証拠は?

17 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:06:16
>>13
画文帯神獣鏡は長江流域から多く発見されているとはあるが、必ずしも呉鏡とは
考えられてないようだな。
徳島県から出た画文と朝鮮半島北部で出た画文とが同型だそうで、福永はこの種
の鏡は公孫氏からもたらされたものだろうと指摘している。公孫氏が滅亡する前
後に我が国に亡命してきた連中がもってきたものかも知れんな。

18 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:06:37
まあ 二 ◆.L.MXSPOgc の「複数報告書説(仮)w」も方社説も

自説にとって自由度が広がったは良いが
の自由度は結局話をドンドン拡散してしまうだけなんだよなw

放射説にしてもその分岐点も伊都国以外にも幾つか説があったと思うが
分岐先で更に分岐と言うのも理論上可能なのかな?wwwwwwwwww

畿内説と言うか大方の学者の考えは
「方角が間違っている」と言うより
「魏志倭人伝で位置の特定なんかできる訳が無い」だろうにw

まともな文献史学者で
「魏志倭人伝の読み解きだけで位置は特定できる!」
と豪語しているやつっているのか?w








19 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:06:47
>>4
否定というより相手にされてないだけだろw

20 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:09:52
>>16
倭人伝に書いてあるからだよ。倭人伝の邪馬台国が九州で、隋時代の邪馬台国が
九州にないならば「魏志にいう邪馬台国だ」なんて言葉は出てこないさ。
少なくとも、東遷したとか、なんか説明がつくだろう。

21 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:12:17
>>13
>>15

この流れから、卑弥呼は当然畿内の女王たる巫女だったはず。

北九州が衰退したのは、公孫氏による影響が大きいだろう。
公孫氏が帯方郡を支配していた期間、倭・韓が建安9年(204年)に公孫氏が独断で設置した帯方郡の支配下にあったことが記されている(『三国志』魏書東夷伝韓条)。

北九州が影響力を失ったときに、畿内の大和王権は九州を併合。
一大率を置いたわけだ。






22 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:17:55
>>17
公孫氏が帯方郡を支配下に置いた200年頃に、
倭国は公孫氏の影響下にあったということになる。
卑弥呼が共立され、倭国の女王だったのもその頃。

公孫氏が画文帯神獣鏡を倭国に送ったことは考えられる。
その場合であっても、画文帯神獣鏡が出土するのは畿内中心であるので、
卑弥呼が畿内にいたことは揺るぎようが無い。




23 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:19:09
>>18
>「魏志倭人伝の読み解きだけで位置は特定できる!」
>と豪語しているやつっているのか?w
そんなこと言える奴がいるわけないじゃないか。みんな、伊都国を怡土に比定したうえで
考えてるからな。怡土へ行った以上、出口はないんだよ。
放射式に気づかない時代には、有明海沿岸へ行ってもその先がすっきり読めなかったんだよ。
伊都国からではなく、不弥国から南水行が始まるとばかり思い込んでいたからな。
だから、伊都国を見直すべきだということに気づかなかったんだ。


24 :ローガン:2009/08/16(日) 09:24:07
>>12
>隋書は隋の使者が男王タリシヒコと会ったと書いている。

男王にあったとは書いていないですよ。

25 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:25:17
>>21 >>22
公孫氏が力を失ってその影響があったというなら、公孫氏と交渉をもっていた
卑弥呼が力を失うって筋書きになるんじゃないかな。


26 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:27:52
卑弥呼が、共立されたときから魏と通行し、
魏の使者も卑弥呼共立からずっと倭国と行き来していたというわけではあるまい。

卑弥呼が共立され、倭国を統治していた頃は、
朝鮮半島北部の帯方郡は、公孫氏が支配していた。
漢や魏とのパイプは途切れていたわけである。

2世紀頃までは、北九州は中国大陸と国交できたが、
3世紀になると、公孫氏の存在によってそれが不可能になった。
そこで、畿内勢力が団結し、卑弥呼を共立、北九州を支配下に置いた。
3世紀初頭、畿内の卑弥呼は公孫氏と通じ、画文帯神獣鏡を手に入れ、近畿の連合国に配った。

239年に公孫氏が魏に滅ぼされたときに、初めて卑弥呼は魏と国交を結ぶために使者を送った。
そのことが魏志倭人伝に記されたわけである。



27 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:29:33
>>20
そんな無理な解釈しなくても簡単じゃないか、
邪馬台国はヤマトに有ったという事ですよw

28 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:29:48
>>24
タリシヒコは倭王とされる。王の妻はキミ、後宮には女が6、700人いると
いう。これでもタリシヒコは女だというつもりかね。

29 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:31:39
>>25
それを恐れていた卑弥呼はすばやい動きを見せるとw

公孫氏がヤバイ事になっていた時点でいつでも魏に朝貢できるようにスタンバイ!

239年には猛ダッシュで朝貢に赴いたとwww



30 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:32:10
>>25

卑弥呼は公孫氏と関係が深かったのは確かだろう。
が、公孫氏が滅んだあとは、すばやく魏に朝貢したことにより、
魏から信用を得ることが出来たはず。

もっとも、魏と国交を結ぶことを拒否する国内勢力はあったかもしれない。
クナ国もその例かもしれない。
魏よりも、公孫氏に近い渡来人が倭国内で政治にからんでいたことはありうる。
この先は空想になるけどな。

31 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:40:16
>>22
公孫氏が倭国に画文帯神獣鏡を送ったことは考えられる。→だから、画文帯
神獣鏡が多くある畿内が邪馬台国に違いない。

それは論理の飛躍というべきか。


32 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:40:28
>卑弥呼は公孫氏と関係が深かったのは確かだろう。
この点にもまちがいがあるんだよ。卑弥呼の共立は2世紀後半ではない。
魏に朝貢する少し前なんだな。そのことは榎が指摘している。興味があったら
読んでみるがいい。
2世紀後半とみると、卑弥呼が70年も女王を務めたという不自然な話になる。
そうではなく、卑弥呼の朝貢は共立された挨拶なんだ。公孫氏と関係が深かった
のは北九州諸国。卑弥呼は公孫氏とは関係がなかったから、魏に接近できた。


33 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 09:41:00
2〜3世紀の国際社会を俯瞰すると、こんな感じになる。

時系列で言えば、
2世紀・北九州は大陸と国交を持っていた。畿内はまだカヤの外。
2世紀末・公孫氏が帯方郡を支配。北九州はそれに伴い衰退。
2世紀末・畿内で卑弥呼共立。北九州を支配下に入れる。一大率設置。
3世紀初頭・公孫氏が帯方郡を支配していたため、魏と国交が出来ず。
呉からの難民を受け入れる?
画文帯神獣鏡が、公孫氏からもたらされる?
庄内式土器の時代。ホケノ山が作られる。 庄内式土器と画文帯神獣鏡が副葬される。
238年・公孫氏が倒され、帯方郡を魏が占拠。
239年・卑弥呼が帯方郡に使いを送る。 金印をもらう。
248年頃・卑弥呼死ぬ。

だいぶ、歴史が整理できてきたね。
どこかおかしなところある?


34 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 09:43:17
>>32

卑弥呼が70年も女王を務めたということに、不思議さは無いけどな。
トヨは13歳で女王になったわけだし。

>榎が指摘している
書名とか詳しく教えて。

35 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:44:22
>>32
それは解決済み。卑弥呼共立は西暦180年頃で問題ない。

36 :ローガン:2009/08/16(日) 09:46:26
>>28
>これでもタリシヒコは女だというつもりかね。

隋書からは王の性別を特定出来ないと言っているのです。

37 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:46:34
>>33
2世紀の時点でも吉備や畿内、特に日本海側は
大陸と国交は持っていたと思うよ。

38 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/16(日) 09:58:25
>>31
畿内だったら金印は卑弥呼でなく天皇がもらう。記紀には当時
(崇神前後ころ)男王しかいない男王国(天皇国)とあり、女王国と
いう型の国は崇神ころ記紀に記述のないところから存在してない。

しかし貴殿は飛躍かな?とブレーキをきかせているから、頭脳は
間違い至らぬように警戒しており、改めとは違い正常であり好ましい。

39 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:59:42
>>36
中国の史書で「王」と書いていれば男だと考えてかまわないと思います。
中国では王は男ですから。
卑彌呼は女だから「女王」と書いてあり、
倭人伝中では、女王との対比から男王と書いていますが、

40 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 10:08:35
>>36
入院でもされた方がいいのでは・・

41 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 10:12:43
>>37

貨泉が出てましたね。
ということは、それなりに畿内も大陸と国交があったわけですね。

けども、依然として主導権は玄界灘を押さえてる北九州が持っていたでしょう。
「漢倭奴国王」金印をもらっていた頃までは。

しかし、2世紀末に公孫氏が帯方郡を支配したことでそれまでの朝貢貿易ができなくなった。
玄界灘を押さえてる重要性が低下したことで、九州は後ろ盾を失い、
畿内勢力が九州に進出することが出来たと。

漢に朝貢してた九州は公孫氏を受け入れられなかったが、
畿内勢力は公孫氏とも外交を展開して、画文帯を手に入れたと。


42 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 10:29:37
>>34
「邪馬台国」榎一雄増補版222頁、次のようにある。
住七八十年は男王の支配が七八十年続いているという意味にとるのが正しいと思う
従ってそれは卑弥呼の即位する以前七八十年は男王の時代であったが、その男王の
支配時代の末期に国が乱れたということで、乱れたのは卑弥呼即位の直前で、それ
は倭の女王が最初に魏に通貢した景初二年六月よりやや以前のことであったのでは
あるまいか。

「邪馬台国の暗号」安田哲也も同じ解釈。七八十年が男王の期間とすると、倭人伝
には乱の時期が書いてないことになる、乱→共立→授位、これが一連のものだから
授位の時期だけを示したのだという考え方。


43 :ローガン:2009/08/16(日) 10:40:36
>>39

アメタリシヒコ…
王の名前だと考えますか?とすれば、これは上表ですね。
開皇20年の遣使、これと大業3年の「使者曰」を比較したとき その七年間で対中外交姿勢の変化を示す史料が見えない以上、
開皇20年も大業3年と同様のコンセプトで臨んだ遣使だと考えるべきでしょう。
上表ではないという意味です。
上表でない以上、王の実名をあかしたりはしません。単に「アメタリシヒコ」と言う王を意味する天皇に先立つ呼称を述べたものでしょう。


44 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 10:47:25
>上表でない以上、王の実名をあかしたりはしません。
その根拠は?

45 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 10:56:06
>>42
七八十年は男王、つぎに倭国乱れて歴年、
つぎに「女子」を立てて王と為すと書いてありますが。

共立が朝貢の直前なら、あとの「歳が長大」という記述と合いませんよ?
すでに婆さんの卑弥呼を共立したというなら、
年長としての威厳とか調停能力に期待したことは考えられるけど、
あとでトヨを13歳で女王にするのはおかしい。

その説はちょっと納得しがたい。

46 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:00:35
結局この板の邪馬台国九州説は九州王朝説になってしまうんだなwwww

で結局、隋使が訪れた九州の邪靡堆って何処なんだ?(棒読み



47 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:00:46
「女子」は単に女性の意味。女子とあるから子供だったなどという解釈はまともな
学者はまったくしません。
年已に長大は、文章的に当然、共立された時は長大だったという趣旨。
トヨが13歳で女王になったからといって、卑弥呼がそうだというわけにはいきま
せん。

48 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:08:16
>>45
何度も話題に上がったけど、年已長大、無夫壻というのは
「已に成人女性であるけれど結婚していない」
という意味でしょう。
事鬼道と能惑衆が対。年已長大と無夫壻が対。
長大は老婆という意味じゃないです。

49 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:13:39
>>47への追加
卑弥呼やトヨが擁立されたのはなぜか? これは倭国の乱で敗れた北九州諸国
が男王では従うことができなかったということだな。おそらく、男王が乱に際し
て酷いことを繰り返した、だから男王には絶対に従いたくないというだけの話
なんだよ。


50 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 11:14:55
>>47-48

それなら、それでもいいけど、
だったら、男王の時代はいつからいつまでで、大乱の期間はいつからいつまで、という
年代を示してくれるかな?


51 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 11:19:20
>>49

なるほど、じゃあ、卑弥呼は30歳くらいで即位して40歳くらいで死んだと、
そういうことでいいのかな?

九州勢力弱体化により、卑弥呼が畿内で即位したという流れは同じだよね。


52 :ローガン:2009/08/16(日) 11:22:00
>>44
> その根拠は?

とりあえず、一例を
隋書突厥伝「大隋天子胎書大突厥伊利倶盧設莫何沙鉢略可汗」
書を隋皇帝に出した大突厥可汗は名を名乗りません。 その後自らを皇帝の臣と称して、「摂図」を名乗って上表します。

53 :縄文人:2009/08/16(日) 11:27:32
>>33
<庄内式土器の時代。ホケノ山が作られる。 庄内式土器と画文帯神獣鏡が副葬される>
時期が間違っている。正確に言えば、ホケノ山古墳の築造時期は未だ確定していない。

54 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:29:02
名乗らなかったとは書いてないね。

55 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 11:33:30
>>53

庄内式土器+画文帯神獣鏡の時代が4世紀ってことは無いよ。
いくらなんでも。


56 :縄文人:2009/08/16(日) 11:35:47
>>51
昔は女性の結婚年齢は低かった。15歳前後が適齢期だったろう。20歳ともなればバアさんと言われたんじゃないかな。

<九州勢力弱体化により、卑弥呼が畿内で即位したという流れは同じだよね>
どうしてこのような根拠のない話ができるのか、不思議です。

57 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:36:13
>>51
男王の時代は七八十年続いた→160年ころから135年ころまでだろう。
乱は数年、130年代後半に卑弥呼共立ということだ。
長大は「大人になる」と言う意味と「老人だ」という意味があるが倭人伝の
場合は後者。おそらくは、共立されたとき5、60歳だろう。

58 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 11:37:54
>>55
「いくらなんでも」は論拠になりません。

59 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 11:49:21
>>56
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%AD%8F%E5%80%AD%E7%8E%8B
公孫氏が帯方郡を支配していた期間、
倭・韓が建安9年(204年)に公孫氏が独断で設置した帯方郡の支配下にあったことが記されている
(『三国志』魏書東夷伝韓条)。

九州は大陸と朝貢できなかったんだから、勢力は衰えますよ。

>>58
年輪年代やC14で、庄内期は3世紀とされてます。
九州説では、年輪年代やC14を疑ってかかってますが、
疑ってるだけでは、「庄内期は3世紀ではない」という証明になりません。
「庄内期は4世紀」という物証を出してください。


60 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 11:57:06
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E6%B0%8F_(%E9%81%BC%E6%9D%B1)

公孫淵は三国一強盛にして自領とも密接につながる魏に臣従を装いながら、
一方では呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。
236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められた際、公孫淵はついに魏に反旗を翻して、燕王を称した。
翌年には年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。
近隣部族に玉璽を与えるなどして魏を刺激し、いよいよ争乱は決定的となった。


公孫氏が魏と対立して、呉と通じ、近隣部族を抱えてたのは、
もろに卑弥呼の時代だよね。

画文帯神獣鏡が公孫氏からもたらされたと見るのは、確実性が高い話じゃないかな。



61 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 12:01:50
全くのド素人なんだけど・・・

投馬国=時代を下った對馬国ってのは考えられないの?
漢語林で「對」と「投」の呉音が似ているのを見つけただけなんだけど・・・

62 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 12:27:14
>>57
訂正130→230

63 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 12:28:25
公孫氏の勢力拡大により、洛陽から鏡をはじめとする銅器が遼東に流れにくくなった。画文は
遼東産ではなく製作地は別ではないかな。邪馬台国連合が物品の移入と北九州経営のため
公孫氏と連絡を取りあっていたというのは十分考えられるだろう。大陸の事情に詳しかったこと
が、公孫氏滅亡直後のタイムリーな朝貢につながる。(これは九州説でも言えることだが)

64 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/16(日) 12:37:09
>>6
>>隋書だかに、邪馬台国は大和のことだと書いてあるでしょ?

畿内ヤマト政権に邪馬台国の記憶がないのは、記紀をみれば明らかです。
中華人も、数百年前に倭国にあった国が今どうなってるのか知るすべもない。
つまりその当時は既に倭人も中華人も邪馬台国を知らなくなっていた。

でも畿内ヤマト政権の人は、倭国をずっと支配してきたっていう事にしたいのだから
「邪馬台国ってのは畿内ヤマトのことですよ」と中華人に言った。
中華人も倭人がそういっていると歴史書に書いた。

ということですよ。


65 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 12:39:43
いやあ、公孫氏滅亡で、卑弥呼が魏に朝貢したという認識はあったけど、
公孫氏と邪馬台国との関係なんて、いままで全く眼中に無かったよ。

考えてみりゃ、おかしいよね?
邪馬台国の卑弥呼って、絶対、公孫氏と関係を持ってたはずで、
九州と畿内のパワーバランスもその流れで考えるべきだった。

公孫氏と邪馬台国の関係について、
もうちょっと詳しい資料とか書籍とか無いですか?

66 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 12:45:22
>>64 >つまりその当時は既に倭人も中華人も邪馬台国を知らなくなっていた。
畿内説だが、この部分は同意。隋書の編纂者が三国志等の古書をすみずみまで完全に
理解していたということはないだろう。つまり隋書のこの部分は誤謬の可能性がある。文献
とはそのよう可能性を含むもの。倭人伝を「素直に」読んだからといって邪馬台国にたどり
つけるものではない。常に誤謬・錯誤・誇張・虚偽の存在を考慮しながら読むべきもの。




67 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/16(日) 12:47:59
>>8
新しい方でしょうか、歓迎いたします♪

2度の魏使があった訳ですから、それぞれ報告書などを作成したと考えるのが普通だとおもいますが、
それを否定するのは結構大変ですよ。

原資料については、昔サガミハラさんに逆の指摘を受けましたが、陳寿は歴史書を書くにあたり、2つどころか
手に入れられるだけ多くの資料を集めたと考えていますよ。多くの方もそう考えていると思いますがどうでしょう。

私は2度の魏使が(末盧国から)別々のルートを通って邪馬台国に行ったという新しい説をだしましたが、
それぞれのルートについては先人のものと非常に良く似たものですよ。これは私が好き勝手にルートを決めたのではなく、
それぞれ国名からなるものと方角里程からなるものというように、一定の基準をもって2つに分けている為ですが、
先人がそのどちらに注目したかで私と同様のルートになっているのです(というか私が後ですが)。


68 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/16(日) 12:58:32
>>9
ということで、末盧国から梯儁と張政のルートが分かれるという説であることを理解していただければ、

梯儁がたどった末盧國の次の伊都国の次の国が「奴國=福岡平野、那の川流域」で
張政がたどった末盧国の次の次の国が「佐賀市あたり」ということで、
これらが当然別の国のことだと分かっていただけると思います。

「倭人伝に掲載されたのが前者」というのは良く分かりません、
両方の国のことが混ざって書かれているというのが私の説です。

2つの別の事を同じものだと勘違いすることは良くあることですので、これをトンデモとは言えません。

69 :縄文人:2009/08/16(日) 13:00:40
>>59
<九州は大陸と朝貢できなかったんだから、勢力は衰えますよ。>

なぜそうなるのか分らないのです。仮に公孫氏の影響を受けていたとしても、公孫氏勢力から知識や文物を受けて
かえって進歩していたとも考えられるでしょ。邪馬台国は公孫氏の滅亡を見てすぐさま魏へ朝貢を行いました。な
かなか機を見るに敏じゃないですか。そういう政治性(老獪さとも言えます)を九州の勢力が持っていたとしても
不思議ではないでしょ。畿内でなければ出来ないという理由がないですね。

<「庄内期は4世紀」という物証を出してください。>
そう言われましても、これは「ホケノ山古墳の築造時期が3世紀である証拠を出して下さい」と相打ちになりますので、
これで争うことはやめにした方がよさそうですね。


70 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 13:00:54
>>66
>つまりその当時は既に倭人も中華人も邪馬台国を知らなくなっていた。
知らなくなっていたら「魏志の邪馬台と同じだ」とは書かないよ。
分かっていたから書いたんだ。もちろん、常に間違いが絶対ないなどとは
言わないが、少なくともこの部分につき誤記を疑うべき事情はない。


71 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/16(日) 13:01:04
>>18
私の説は自由度は少ないですよw
2つのルートが邪馬台国の1点に収束しなければならないので、筑紫平野にしか比定できません。
畿内にも宮崎にも行くことができない不自由な説です♪


72 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 13:09:56
>>68 二 ◆.L.MXSPOgc

おk。

じゃあそのロジックを畿内説に拝借してだ…

報告者:A 邪馬台国まで行った
       報告書記載は 日数のみ「水行十日陸行一月」

報告者:B 南九州の何処かか沖縄に行った 
       報告書記載は 方角のみ「南至」

「2つの別の事を同じものだと勘違いすることは良くあること」 故に

「両方の国のことが混ざって書かれ」 たのが例の記述。

当然何処の比定地でも同じような事はできるだろうwww

結局、 「自由度を広げてようやく比定できた説」 のワンオブゼムに過ぎないと思うがなwwwwwwww






73 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 13:25:21
>>65
まあ、あくまでも説なので、実際は公孫氏と通行のあった北九州を邪馬台国連合が制圧した
のかもしれない。ただその場合でも、画文の流入状況から邪馬台国が以後の大陸交渉権
を握ったという大勢は変わらない。長年の倭国乱が終結し、卑弥呼が共立された事情を考え
ると、その要因が卑弥呼の鬼道だけとは考えにくい。で、大陸との関係を考えてしまうわけだ。
ただ、卑弥呼共立と考えられる180年代は遼東は公孫度の時代ではあるが、楽浪郡はすで
にその支配下にあったと考えられている。
いずれ遼東公孫氏関係の資料は、その滅亡により少ない。


74 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 13:40:08
73補足
北九州制圧という言葉を用いたが、実際は邪馬台国連合は北九州(福岡平野周辺)の小国
(歴史は古いがクニの規模は小さい貿易国家群)のよき商売相手だったのかもしれない。
那珂八幡古墳の被葬者の処遇などからもそう考えることができそうだ。ただ、その場合倭人伝
の記述にある「一大率」の正確付けが難しくなってくるが。ww





75 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 13:51:40
>>73
画文帯神獣鏡が、公孫氏からもたらされたというのは、
説としてはメジャーなんでしょうか?
福永の本も、読み返してみたらさらっとだけ書いてありましたね。

でも、画文帯神獣鏡が、魏から輸入されたという話は、おかしいなあと感じてたんだよね。
呉の時代の長江流域の鏡をかき集めて臣下の礼に卑弥呼に渡すとは思えないし。
呉と通じてた公孫氏経由で輸入されたと考えるほうがしっくり飲み込める。

公孫氏時代の楽浪土器も九州からちゃんと出てるらしいから、半島と交易はあったんでしょう。
でも、九州には後漢鏡までしかなくて、その後の中国鏡である画文帯神獣鏡が近畿に輸入されてるということは、
邪馬台国が九州にあったとした場合、鏡の輸入を拒否していたとしか思えない。






76 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 13:52:12
>>72
前々から思ってたんだけど、二 ◆.L.MXSPOgc の説は畿内説の応用出来るよね

77 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 14:26:44
いくら応用したってつぎはぎではねえ。恥ずかしいからやめな。

78 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/16(日) 14:34:19
>>64
同意点多い。

79 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 14:34:38
>>75
北九州の奴国、伊都国は公孫氏と関係があったんじゃないかな。
南九州の邪馬台国は、まず、なかっただろう。だから、卑弥呼は魏に接近しやす
かった。まあ、奴国、伊都国も後漢時代にはともに中国に朝貢した国だから、邪
馬台国がその国々を討伐したというのでは魏からにらまれるおそれがある。
卑弥呼共立は北九州諸国も共同して新しい盟主を立てたということで、魏の立場
を失わせることはない。うまい政治判断だったのではないかな。

80 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 14:37:04
>>75
証拠はあまりないのでメジャーではないかと。というか現時点の考古学では語れない部分
なので、邪馬台国御用達の考古学者でも触れる人は少ない。ただ、中国科学院の編年を
みても画文は意外に古いものです。


81 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 14:37:54
何だかさあ、公孫氏と交易してたのが、倭人伝にいう邪馬台国だけと決めつける必要も証拠もないじゃない
古墳時代に九州と畿内それぞれに大きな勢力があった、
それぞれの勢力が公孫氏と交易してた、
公孫氏滅亡後の魏に邪馬台国が朝貢した、
何故か魏の皇帝が邪馬台国を気に入って、檄文やら金印やら与えたもんで倭人伝に記録が残った、
それだけだよ

82 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 14:47:18
>>81
>何だかさあ、公孫氏と交易してたのが、倭人伝にいう邪馬台国だけと決めつける必要も証拠もないじゃない

そうですね。
北九州からは公孫氏時代の楽浪土器が出てるそうですので、北九州が交易してたことは間違いありません。
庄内式土器と平行する時代でもあるので、
北九州を中継して畿内と公孫氏が結びついていたと言えなくはないでしょう。
畿内からは楽浪土器は出ませんが、代わりに画文帯神獣鏡で出ているということです。

なんにせよ、庄内期には、北九州には楽浪土器は輸入されても鏡は輸入されなかった、
つまり、経済的に北九州は衰退した、という状況は同じかと。




83 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 14:51:56
>>64
それは「邪馬台国ってのは畿内ヤマトのことですよ」と中華人に言った。
中華人も倭人がそういっていると歴史書に書いた。

それなら記紀にも邪馬台国=ヤマトと、魏志の記述にあわせて
大々的に書きますよw

しかしそれではヤマトの歴史が古くならないから
邪馬台国時代の伝承等を、記紀には神話に織り交ぜながら
残しただけでしょう。

84 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 14:58:10
>>82
畿内説だとそういう解釈になるだろね
立ち位置が違えば、見え方も違うのは仕方ないよ

85 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 15:24:51
>>84

九州説側に立つとどういう解釈になるんですか?
まず、卑弥呼が30国から共立された時代は、楽浪土器と庄内式土器が平行して出てくる時代ですよね?
庄内式土器は九州〜畿内から出てくるので、
これだけで、矛盾すると思いますが。


86 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 15:33:54
>>85
九州と畿内が別々の文化圏にあったってことだよ

87 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 15:36:01
>>86
横からだが、それでは九州の庄内式が説明できない。安本氏が最も苦しんだところだな。
しかし、この話題はループする。

88 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 16:21:08
隋や唐などの記録では、彼らは民族を見分けて分けて表記しているが
日本の記録は倭人しか出てこない。
度海千里復有国皆倭種

皆倭種と書かれてあるのだから
日本では倭人としてまとまっており、文化の区分など意味が無いのでは?
中華との距離で、文明の発達具合は違うだろうけど。

89 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 16:42:03
中国において画文は2世紀後半から出ており
これが何故4世紀まで日本に入らなかったのか?

一体如何なる阻害要因があったのか?

逆に九州説論者に聞きたいwww



90 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 16:59:03
ちなみに福永によると…

中国での初期の画文、永康元年(167)銘鏡、中平四年(187)銘鏡等は
「雲車」の方向が反時計回りであるに対し日本の物は時計回りで
そこから日本への画文の流入は3世紀初頭との事・・・

大陸での紀年鏡の出土がある画文を4世紀に持ってくるのは流石に無理だろうと思うがwwwwww


91 :縄文人:2009/08/16(日) 19:07:06
>>90
畿内出土の画文帯神獣鏡の製作地は分っているのでしょうか。中国で製作されたものか、日本で製作されたものか
の情報が欲しいですね。呉が滅びようとした頃(BC280年前後)に呉を脱出して日本へ向かった者のうち海流に流
されて山陰方面に辿り着いた一団の中に鏡師が居て、この鏡師が日本の原料を使って画文帯神獣鏡の製作を始めた
可能性はないでしょうか。日本に来た呉の鏡師とその技術を受け継いだ後継者達が3世紀末以降も同じ形式の鏡を
作り続けたとすれば4世紀の遺跡に出土しても不思議ではありません。ただし、これは想像ですから、畿内出土の
鏡の製作地が何処であるかの情報が欲しいのです。材質分析(組成分析など)での検討は行われているのでしょう
かね。


92 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:15:35
画文帯は4Cどころか5Cの古墳から出土している例も多いですよ。

しかも同型でキズを共有するものが大半なので、国内での複製品が
ほとんどと考えるのが常識的な見方ですよ。

この状況でホケノの画文帯だけは複製ではないとか、ホケノだけは
特別古いとかいうのは、常識的は判断力を失っている人でしょう。


93 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 19:20:34
>>91
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm

>これは、中国南方の銅で作った画文帯神獣鏡などの銅製品をまとめて溶かし、
>国内であらたに三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡を製作したことが理由と考えられる。
>つまり、中国からの輸入品は成分がばらつくが、
>国産の鏡はブレンドによって成分のばらつきが平均化されたことを示している。


安本教授は、同位体のばらつきぐあいから、
画文帯神獣鏡は中国で作られたものとし、三角縁神獣鏡は日本で作られたものとしてるね。
安本教授は、画文帯神獣鏡は4世紀の東普製と考えておられるようですが、
どういう根拠かはよくわかりません。誰か説明してください。

94 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:28:31
>>92
画文帯神獣鏡は、熊本県の江田船山古墳からも出ている。
この古墳は、ひょっとすると6世紀かも、とも言われる。

95 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 19:35:33
>>94
6世紀ですか。
ずいぶん、長い間人気の図柄だったんでしょうかね?

ところで、ホケノ山が6世紀なわけは無いので、
画文帯神獣鏡がすべて4世紀の古墳から出土、というのならまだしも、
画文帯神獣鏡出土期間を4世紀〜6世紀というのであれば、
3世紀〜6世紀と言ってみても誤差の範囲ではないでしょうか?



96 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:38:20
>>93
安本は画文帯を出土した古墳した年代がバラバラなのを無視して、同位対比に
ばらつきがあるので舶載としているが、これは誤りだろうね。

画文帯のなかには三角縁と同一固体といえるほどに同位対比が近似しているものがあるが、
これは三角縁と同時(ほぼ同時)に作られたものだろうね。


97 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:44:30
ホケノ山の年代自体が、例の炭素年代測定で早まってる。
全国の古墳、遺跡、遺物全てを年代測定し直す必要がある。

98 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:46:11
画文4世紀西晋製作説の直接証拠は、彼の著作を読んでも見つからない。あえていえばそれ
が自説に合うからだろう。あと、明らかに古い後漢鏡でも後代の古墳から出土したものはある。
伝世の期間は事情により様々だろう。


99 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:49:45
>>98
4Cの古墳から出土する漢鏡は、ふつうに国産の複製品だろう。
漢字が文様化したものとか、TLVがずれているとかは当然として。


100 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 20:02:00
>>99 それは暴論。すべてがそうでないことは自分でわかるだろう。

国産の銅使用は考えにくく、鏡の原料には弥生後期青銅製品の鋳つぶし(改鋳とまではいえない
程度)もあっただろうから、同位対比は慎重に見なくてはならない。少なくとも安本氏の論にあるほ
ど簡単なものではないようだ。

101 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 20:09:18
ttp://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html

こっちのサイトには、新聞記事の報道として、
三角縁神獣鏡の成分を調べたところ、銀とアンチモンの含有比が中国鏡に近いとし、
一方で、鉛の同位体比は、神岡鉱山と一致という話をしてる。

ちょっとよくわからないんだけど、
鉛の同位体比が国産で、銀とアンチモンの含有比が中国産ってことはどういうこと?
銅材料は輸入品を鋳潰して、日本で鉛を混ぜて製品化したってこと?

三角縁神獣鏡が舶載かどうかという文脈だけど、
国産だとしても、前漢〜西普時代の銅を大量に確保し、
同一規格品を大量生産したのは大和王権ってことには変りないわけで、
九州では、そのような生産活動は起きなかったということなんだよね。






102 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 20:27:04
張氏車騎神獣画像鏡

103 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 20:43:34
>>101
専門ではないので間違ってるかもしれないが、鉛含有率は、弥生後期青銅器は3〜5%、古墳
青銅器では5〜6%程度なので、たとえばの話、銅鐸を鋳つぶして銅鏡をつくろうとした場合、錫
と鉛を新たに添加しなければならない場合が多かったのではないか。大陸産の銅そのものを
用いても当然添加しなければならないし、弥生後期青銅器といっても、銅はもともと大陸産で
あるし。




104 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 20:59:37
西村物知りだなぁ

105 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/16(日) 21:05:23
>>103
青銅の鉛は同位体3次元分布図で判断しなければ意味がない。
弥生期以降の銅は一部を除いて国内産。銅鐸は100%国内産。誰の研究か忘れたが。

106 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:11:53
>>105
森浩一かな?

107 :縄文人:2009/08/16(日) 21:15:10
>>101
<国産だとしても、前漢〜西普時代の銅を大量に確保し、
同一規格品を大量生産したのは大和王権ってことには変りないわけで、
九州では、そのような生産活動は起きなかったということなんだよね。>

貴方の意見そのものについては文句をつけません。ただし、貴方の意見は大和王権の成立時期なり鏡の副葬時期
に関しては関係のないことですね。大和王権が 前漢〜西普時代の銅を大量に確保し、 同一規格品を大量生産した
としてもそれは3世紀か4世紀か5世紀のことであったか 何も分りませんからね。


108 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:16:29
>>105
その研究は大きな間違い。弥生の国産銅山を示してみてください。

109 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:23:39
>>101の引用先の下のほうに、>>102の張氏車騎神獣画像鏡が紹介されているね。

あれは三角縁とは外区の文様が異なるから、即座に三角縁ではないと確定できるのに、
なんか一人で盛り上がって書いているのには笑えるね。


110 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:25:42
>>106
俺も読んだことがある。
たしか、成分分析では銅鉱石からの銅ではなく自然銅が使われていて、
国産ではないかということだった記憶。
実際はどうだか良く分からないが。

111 :13=15=21=22=26=30:2009/08/16(日) 21:26:25
>>107

三角縁神獣鏡は布留以後だから、それ以前の画文帯神獣鏡が興味あるところ。

いずれにしても、九州では「鏡を配布した」という痕跡はないよね。




112 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:30:22
>>100
漢字が文様化したものは、中国本土の製造とするのは無理だよ。
そこで、朝鮮とかいろいろ言うのもいるが、見苦しいだけ。

TLVのゆがみは朝鮮でもあるというが、これが逆になっていて漢字が
文様化していたものまで舶載と言うのはカルトにしか見えん。

113 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:31:34
日韓の文化財科学についての共同研究で、日韓の青銅成分の鉛同位対比を比較したとこ
ろ、前2〜4世紀頃のものについては、日韓でデータの一致性が高く産地の候補としては
中国の鉱床との関連が指摘された。近畿式・三遠式銅鐸についてもこの範疇に含まれ、前漢
の武帝が紀元前108年に楽浪など四郡を朝鮮半島においたのに伴い、漢からの文物が楽浪経
由で日本列島に入ってきたと考えられていたことを裏付ける。つまりは中国産銅の可能性が
高いということ。

114 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:39:10
と言うか仮にホケノやその他の画文が国産だとしても
画文を契機に銅鏡の出土分布が畿内を中心になる大筋に変わりは無いよな?

まさか出土する画文の全て4世紀以降の国産って話でもなるまいに…wwwwwwwww

もしそうだと言うのなら中国で流通していたものが100年もの間何故か
日本に入ってこなかったと言う摩訶不思議な話になると思うがw

ちなみに最古の画文帯神獣鏡とされるのは京都府太田南二号墳出土の環状乳三神三獣画紋帯神獣鏡で
2世紀第3四半期〜3世紀第1四半期頃とか。





115 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:39:31
113続き
次に、同位体比が一致する4〜7世紀の別グループとしては、中国の華中〜華南産原料の数値範
囲内にあり中国の鉱床の可能性がまず考えられる。しかし、慶尚北道の漆谷鉱山の数値がこれと近
接していること、その近くに位置する鉱山の地質などから、新たに、朝鮮半島南部地域の鉱床からも
たらされた可能性もある。
これは、313年楽浪郡の滅亡による技術者達の朝鮮半島南部地域への流入の可能性や4世紀の朝
鮮半島南部地域における古代国家形成の動きとの関連から原産地を考察することもできるだろう。

つまりは中国産銅の可能性が高いが、朝鮮半島南部の可能性もあるということ。

116 :ローガン:2009/08/16(日) 21:47:45
>>103

> 鉛含有率は、弥生後期青銅器は3〜5%、古墳
> 青銅器では5〜6%程度なので、たとえばの話、銅鐸を鋳つぶして銅鏡をつくろうとした場合、錫
> と鉛を新たに添加しなければならない場合が多かったのではないか。

末期銅鐸は純銅に近いので添加しないと数学が上がりませんが、それ以前は△鏡よりはるかに鉛の含有量が多いですね。
さておき、成分分析など出来ない時代、雑多な青銅を鋳つぶして鉛を5%程に揃えるのは考えにくいでしょう。
大陸由来のくず鏡が 原料だと思います。


117 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:49:11
国産鏡と舶載鏡の違いはなかなか難しい。
長年、中国鏡とされてきた平原遺跡の方格規矩四神鏡はどうも国産らしいね。

118 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:51:52
青銅器の場合、鉛よりもスズの割合の方が興味があるんだけど。

119 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 21:59:07
708念、武蔵国秩父郡から、和銅(精錬の必要の無い自然銅)が発見され朝廷へ献上され
た。これを記念して年号が和銅と改められ、日本最初の流通通貨といわれる「和同開珎」が
作られた。もちろんこれ以前にも国産銅鉱石からの精錬はおこなわれていたであろうが、大
量生産はのぞめず、銅鐸などはほとんど輸入銅を原料としたと考えるのが自然である。

120 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:07:00
>>117
染色したあとに仕上げがされているので、まあ国産で確定だな。
この点の指摘も反論もせずに、舶載というクズもたまに居るが。

121 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:08:13
>>116
新井宏氏は、「三角縁神獣鏡の鉛分布は漢代の鉛と後漢鏡・魏晋鏡の鉛を混合使用したと
考えれば、作り出せることである。すなわち、前代(漢代)の青銅器原料に魏晋代の原料を混
合したと考えれば、日本でも中国でも製作可能である。」と書かれています。製作地はともかく
原材料としてはそのあたりが妥当とも考えられますね。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40007277369/


122 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:15:28
>>114
ホケノの画文帯は同向式。
日本で出土する画文帯の同公式の30面弱は判別可能なものは全部同型の複製品。
これと同型の鏡は中国では1面も出土していない。
ゆえに王はこれを中国の同向式画像鏡を模倣した日本製とした。

その他の画文帯は原鏡が日本に来て、日本で大量に複製されたと考えられる。
しかも複製した年代がまちまちなので、鏡から古墳の年代を出すことは無理。


123 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:17:45
>>120
同じく新井氏の研究より、楽浪城土から出土の鉛原料(方鉛鉱)との比較から、平原鏡の17
面は朝鮮半島の鉛を使用している可能性が高く、柳田氏の平原鏡倣製説を裏付ける結果と
なっているようだ。

124 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:21:47
平原といえば方形周溝墓に割竹形木棺ってのが気になる

125 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:31:05
>>122
なんか話がかみ合っていないなwwwwwwwwwwwww

じゃあ仮に同向式を全て国産にしたところで

それより古い「環状乳四神四獣画紋帯神獣鏡」を見ても
分布は畿内を中心にしていると思うが?





126 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:43:13
>>124
割竹形木棺といえば、椿井大塚山古墳や黒塚古墳もそうだったっけかなあ。

127 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:50:00
また、椿井大塚山古墳と黒塚古墳は、どうみても瓜二つだな。

128 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 22:52:47
>>126
大阪の久宝寺1号墳で方形周溝墓に割竹形木棺という組み合わせで出てるし
割竹形木棺は北陸が発祥とも言われてるから、平原の被葬者は九州の人間
じゃないのかなと思えて

129 :125:2009/08/16(日) 22:55:18
じゃあいっそのこと画文帯の全てを国産にしてもだw

何故九州ではその複製を殆ど作らなかったのか?
それに変わる鏡が潤沢にあったわけじゃなし
カケラを後生大事に副葬する始末wwww

これも結局、三角と同じで製作地より年代の方が問題になると思うが
じゃあ3世紀の初頭には中国に流通していた画文が何故百年もの間入ってこず
4世紀になって突然大量に国内で生産されるに至ったか・・・

何か合理的な理由付けがあるのか?



130 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/16(日) 23:26:36
>>106
>>110
青銅の研究をしたのは考古学者ではない。
元エンジニアだったと思う。日本書紀を読めるのに鋳造技術についてやたら詳しかった。
企業に所属して日本国内の金鉱脈を探索していた人だったかもしれない。
弥生期からの銅鉱山遺跡を幾つかあげていた。
その研究では、鉱山遺跡は西日本に分布していた様に記憶している。
自然銅の鉱山の発見方法も書いていた。
満月の山肌からの反射光を利用して自然銅鉱脈を見つける方法は興味深かった。

鉛同位体比3次元図から日本産か他国産かを判定する方法を示したのは別人。

ちなみに、僕も金属化学関係の元エンジニア。
漢文は大学入試で国語の選択科目で取る程度だったが、40代になってから和漢籍等を原文で読み出した。

131 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/16(日) 23:44:48

元エンジニアのアマチュア研究を無視し続けたのは、自然科学論文を理解する能力のない考古学の専門家。


132 :日本@名無史さん:2009/08/16(日) 23:50:45
古墳時代に入っても、勿論銅鏡は威信財であったろうが
大型首長墓祭祀の中で相対的価値の低下は免れなかっただろう。

そう考えれば大型倣製鏡の需要は大型首長墓祭祀へのシフトを見せなかった
九州にこそあったわけで

「画文は国産だ」「三角も国産だ」…としても
じゃあ何故に九州でそれらの倣製鏡の量産が無かったのか不思議ではある。

九州は大型の銅鏡を造りたかったが
畿内ヤマトに威信財の銅鏡の生産をコントロールされていたが為造れなかった。
(平原は例外として…)
「破鏡」は需要に追いつかないが為の苦肉の策?w

…なんて説もあるが、あながち間違いでもないような気がするwwwwwwwwww




133 :ローガン:2009/08/16(日) 23:55:26
>>121
あ〜 新井宏氏ねえ。神原神社鏡が神原神社鏡と鉛同位体比が類似していると書いてた人ですね。
面白かった。

134 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/17(月) 00:09:55
>>72
頭大丈夫? 別々のところに辿り着いたのでは意味無いですよ。
それで自由度を広げた証明になってるつもり?
ワンオブゼム言いたかっただけ?


135 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/17(月) 00:11:48
>>76
新しい見解?
もし出来るのでした私は畿内説に転ぶ可能性が高いですよ、是非に教えてください♪

136 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/17(月) 00:16:38
>>83
記紀は日本の歴史書ですから、中華の歴史書に合わせて日本の歴史書を書き直すようなことは、
しなかった/できなかった、と私は考えるのですが。
貴方は日本書紀に邪馬台国が載っていないのは何故だと思いますか?


137 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 00:23:20
>>134 二 ◆.L.MXSPOgc

ん?

<梯儁ルート>における
  奴國=福岡平野、那の川流域

<張政ルート>における
  C國(奴國2)=佐賀市あたり

この二国は結局別のクニだったんだろう?w
だったら同じ事じゃないかwwwwww

もし「使用された史料は最終目的地は同じものに限る、混同は無かった!」と言うのなら

報告者:A 邪馬台国まで行った
       報告書記載は 日数のみ「水行十日陸行一月」

報告者:B 邪馬台国まで行った  
       報告書記載は 郡からの方角のみ「南」 以下記載無し

方角と距離のソースを別々にできるのならなんとでもなるさwwwwwwwwww








138 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 00:32:08
> 二 ◆.L.MXSPOgc

そもそもお前の説って北部九州説にとってネックと言われている
例の「水行陸行」を切り離しているよな?

良く分からないんだが結局
「郡からのトータル日数」
とかにしちゃってるのかな?

まあその時点で
「何の矛盾も無い説」
とか自画自賛されても呆れるだけなんだがw

ちなみに今まで、中国人の学者による倭人伝の読み解きも、日本で何冊か出版されており
中には「放射説」もあるらしんだが

その著者らが皆とっていない説が
「郡からのトータル日数云々」
で、どうも漢文の常道では無理らしいw

(まあそれでも中国を探せばその説をとってくれる学者も見つかるだろうがw)

少なくとも放射説よりはランクが下と言わざるをえない。

まあ、もっとも、どっちが上だろうが下だろうが別にどうと言う事も無いがwwwwwwwwww




139 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 00:48:44
>>132
大型の国産内行花文鏡は、大和でも見つかっている。下池山古墳。
畿内説の考古学者は、こんな鏡を作るのは国家的大事業といって持ち上げている。
直径37.6cmで平原のものよりは小さいが。

140 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 00:49:01
しかし、「倭人伝の読み」というのはいっちゃ悪いが、量子力学の最新加速器のすぐそばで
ファラデーの「ろうそくの科学」を読んでるようなものだな。いや、もちろん「ろうそくの科学」は
よい本なのだが。


141 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 03:20:03
九州説では江田船山から出土した鉄刀の碑文をどう説明してるのだろうか。

142 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 07:02:35
>貴方は日本書紀に邪馬台国が載っていないのは何故だと思いますか?

九州に邪馬台国なんてものが存在しなかったからだよ。
大和が倭国の盟主だったからだよ。



143 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 08:07:12
吟じます!

  ♪きゅ〜う〜しゅう〜 やま〜たい〜こく〜


 あるとおもいます!



144 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 09:36:45
>>139
北九州の工人が作製したものかな? 文様は同じ?

145 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 10:46:13
成分や同位体比をいくら調べたところで、その数値で製作地が確定的に判ったように言うのは絶対無理。

146 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 12:27:27
>>142
灯台下暗しだな

147 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 15:36:13
>貴方は日本書紀に邪馬台国が載っていないのは何故だと思いますか?
邪馬台国が大和にあったのなら書けるんだが、九州にあったから書けないんだよ。
大和は倭国の一員ではなかったなんて書くのは恥ずかしかったんだろ。

148 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 15:43:40
卑弥呼は神功皇后だって間接的に書いてあるだろ。

149 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 16:27:03
ではここで、「コテハン ダメランキング」をば集票。エントリーは、

A 太国 B 唐松山 C 河童虫(黴毒) D 改め(ドツボ) E 美濃もん太 F doontakuka
G  doontakukaの弟子 H 縄文人  I 二  J ローガン  K サガミハラハラ(ギーコギーコ)
L 九州王朝大好き  M www(ジョーカー、厳密にはコテハンではないが)  N その他

です。できれば理由もどうか。

150 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 16:41:01
>>149
ダメランキング?

信頼できるランキングじゃないのか

151 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 16:45:38
>信頼できるランキングじゃないのか
信頼できるの、いるか?


152 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 16:50:33
>>151
ななしよりましだろwwwww

縦目氏
愛知県民氏
二氏
もいれて

153 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 16:52:12
すみません、勘違いがあるようですが、
このA〜Nはランクではなくエントリーナンバーで順不同。投票するのはあなた自身。


154 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 16:56:43
分かってるけど甲乙つけがたいんだよ。だめな奴ばかりで・・・

155 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 16:58:20
>>154
どれもおまえよりましだってw

156 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 18:17:33
もん太が結構お気に入りだ
古代日本史スレのマスコット、清涼剤とでも言うべき奴だ
自分の間違い認めないし馬鹿な話ばっかりするけど
もん太は相手を馬鹿にしないし罵倒しない
ここらへんは他のコテも見習うべき

157 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 18:44:54
確かに本人のいうように携帯からあの大量レスを書いてるとしたら、その情熱は見習うべき
ものがあるな。

158 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 19:49:13
インパクトがあるのは、やっぱり河童虫さんですよ。
突っ込みどころ満載ですし。
どうしても彼が主役になってしまうように思うけど。

159 :縄文人:2009/08/17(月) 20:02:11
>>145
同感です。原料の産地や鋳造の事情(古い銅器具を使ったかなど)についてはある程度の推定が出来るかも知れませんが、
製作地までは至らないでしょう。やはり、鋳型の出土などの鏡製作が行われていた場所を示す直接的証拠が望まれます。
ところで、銅剣などの鋳型が吉野ヶ里で出土していますが、これには特殊な石が使われています。銅鏡の製作に使われた
鋳型はどのようなものだったのでしょうか。私は吉野ヶ里の鋳型のような石ではなかったろうと思います。複雑な紋様や
文字などを彫るのは大変です。模造するなら見本の鏡を使って石英砂と粘土で型をとり、これを鋳型に使うのが簡単で便
利です。新しく鏡を作る場合でも粘土で造形し、焼いて固めて、これから石英砂と粘土で鋳型を作ります。ところが、現
代の鋳物製造で見られるように、この鋳型は金属が固まったら壊して取り除かれます。したがって、鋳型として出土する
可能性は極めて小さいのです。結局、銅鏡の製作地を特定することは望み薄だと思います。

160 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 20:15:18
>>158
ツッコミ所満載の割には、妙に納得しちゃう場面も多い。[不思議な奴]

161 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/17(月) 20:24:01
>>137
よく分かってないのかな?
例えば新宿駅から東京駅に行くのに、山手線を使うのと中央線を使うのでは、新宿駅から2駅目・3駅目・・・は
別の駅になりますが、最終目的地はどちらも同じく東京駅なのですよ。
それで、何と何が「同じ事」だと思われているのかよくわかりません。

>>方角と距離のソースを別々にできるのならなんとでもなるさ
やってみてください。私の説の自由度は低いですよ。
畿内に持っていけたなら、私は畿内説に転ぶかもしれません♪


162 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 20:34:57
>>160
あれで納得しちゃうのは、多分勉強不足。
自分の知らないことを自信たっぷりに断言されると、
そうかなと思っちゃうのが人間だもの。

163 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 20:35:25
方角と距離だけで畿内説に来られても困るんですがね。

お帰りくださいとしか。


164 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 20:39:44
>>162
何故に改めさんは名無しなの?

165 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 20:44:13
方角と距離で畿内説を主張できるのは、貴重な人材だよ。

166 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 20:47:31
>>161 二 ◆.L.MXSPOgc
>私の説の自由度は低いですよ。

まあねえ…

「自由度が低い」と言っても、恐らく比定地争いに自由度を与えている最大の要因の一つ
「水行陸行」を切り離している時点で
少なくとも北部九州って事になるんだろうな(苦笑

http://yamat-2007.blogspot.com/
>(水行10日陸行1月は郡から邪馬壹國までの日数(倭人からの伝聞情報)で、水行20日の目安のための情報)

結局、一番の難問を切り離して、良く指摘される「方角のずれ」を修正するに
「W報告書(原史料)の合成」と言うアイデアを出して来たに過ぎないからな。

方角の辻褄合せには複数の報告書があったと仮定して
「水行十日陸行一月」は報告書に基づくようなものじゃない
・・・こんなご都合主義ならなんでもありだ

この何の保障も担保も与えられていない「水行十日陸行一月」を
やはり報告書にあったものとすれば畿内に持っていくのは造作も無い。
(方角は複数原史料による情報の混入・編集者の勘違いで済ませられる)

結局そんなものネット上に転がるトンデモ説のワンオブゼムにすぎない。
まあその語が気に入らないなら「目糞鼻糞」に置き換えても良いがwwwwwwwww

まあどう評価してもお前がせせら笑っている放射説以下なのは動かないと思うが(理由は>>138)w


167 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/17(月) 20:48:03
>>138
「水行20日」と「水行10日陸行1月」が行程記事であるのなら、
1、何故急に里程から日程に変わったのか
2、途中の国々の記述がなくなるのか
3、上陸地点は国ではないのか(2とかぶる質問になりますが)
4、水行→陸行→水行となるのはなぜか、ずっと水行でよいのではないか
などといった疑問から、この2つの記事が行程ではないと考えるのが妥当だと判断しているのですが、
それほどおかしな事ではないでしょう?
本居宣長をはじめ「邪馬一国」の古田氏など、北九州説・筑紫説の多くは同じだと思います。

逆に「水行20日」「水行10日陸行1月」を行程記事だと主張するなら、上記の1〜4にトンデモではない説明をしてみてください。

ところで「水行10日陸行1月」ですが、これは邪馬台国から郡までの日数の倭人情報だと私は考えています。
2回の魏の使いのトータル日数のことだと間違われることが多いですが、違います。
倭人が郡までかかる日数で、韓国内陸行だろうと思われます。魏の使いは韓国は水行しています。
これら2つは似ていますが別のことなのです。

「水行20日」は邪馬台国と交流のあった南にある琉球国までの距離のことで、
この20日の目安として「水行10日陸行1月」が書かれていたのではないかと考えています。

ところで、中国人やらアメリカ人やらが採っていないからと言って、私の説が否定されるものではないですが・・?

168 :サガミハラハラ:2009/08/17(月) 20:56:25
前スレで出しました、クイズ(1991年に邪馬台国を発見したのは誰でどこでしょう)の正解を発表します。
正解は後藤幸彦で佐賀県小城市甘木が邪馬台国の都です。ただし、最初の到達地は都の南端の土生遺跡です。
卑弥呼の墓は小城公園内の桜ケ岡(さくらおか)です。
かれはこのことを一書にまとめ「倭国歴訪 明窓出版」として1999年に上梓しました。

169 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 20:57:48
>>167 二 ◆.L.MXSPOgc
>この2つの記事が行程ではないと考えるのが妥当だと判断しているのですが

それまでの行程記事とソースが違うで十分説明が付いてしまうが何か?

倭人からの伝聞でも良いし
また北部九州の里数で詳細に書かれた部分は群使による地理情報の集積で
日数で書かれた部分は魏使その他数回邪馬台国に行った中国人の情報とかでも良い。
(当然里数への換算は難しくなる)

「自分の説は自由度が少ない」と言うのなら
その”切り離し”にもっと説得力を与えないとなwwwwwww



170 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/17(月) 21:00:16
>>166
>>結局、一番の難問を切り離して、良く指摘される「方角のずれ」を修正するに
>>「W報告書(原史料)の合成」と言うアイデアを出して来たに過ぎないからな。
その通りです。
見事に方位のズレ、距離の問題、伊都国・奴国の比定地、という難問をクリアしたのです。

>>方角の辻褄合せには複数の報告書があったと仮定して
>>「水行十日陸行一月」は報告書に基づくようなものじゃない
これらも2度の魏の使いの報告書に基づくものだと考えているます。
そうでなければ逆に行程記事に混入されたことが考えにくくなります。

それ以下の文章はよくわかりません。
不彌国はやや内陸であったと思いますが、ここから「水行十日陸行一月」などというのはトンデモだと私は判断します。
佐賀平野から「水行十日陸行一月」で畿内に行ったというのもトンデモだと私は判断します。

171 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 21:08:28
>>170 二 ◆.L.MXSPOgc
>トンデモだと私は判断します。

お前の「オレサマ基準」だけ強弁されてもなあwwwwwwwwwww

そもそも複数の原史料の可能性を認めておいて(それ自体は妥当だが)
「水行十日陸行一月」はトンデモと切り離す合理性が無い。

「里数からに数に変わる」も「他のクニグニの記載が無い」もその他諸々

『 原史料は複数あったから 』で説明付くじゃねえかwwwwwwwwwwwwwwwwww



172 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 21:10:15
>>168
Be sencible Martins.   (「第三の男」より)


173 :171訂正:2009/08/17(月) 21:10:37
誤)「里数からに数に変わる」
 ↓
正)「里数から日数に変わる」

174 :ローガン:2009/08/17(月) 21:16:44
>>159 >>145
私も同感です。たとえば、馬淵氏による荒神谷銅剣の分析では、
A列の1本が半島鉛、A列の10本が華北鉛と半島鉛の混合、残りが全部華北鉛…
つまり一本が見本、ほとんど制作したが用意した原料が足らなくなって、別に仕入れたもので残りの10本を作ったと。
使用された鉛が違えど、一括制作と考えて良いでしょう。しかし、この銅剣群が一括でなく各地でバラバラに出たとすれば、華北鉛半島鉛混合の10本は別の解釈がされたでしょう。
成分などだけで産地を考えるのは無理です。

175 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 22:37:09
では、何を基準にして産地をはかる?

それとも産地を言及すること自体がナンセンスということにする?


176 :縄文人:2009/08/17(月) 22:48:28
>>175
ある意味ナンセンスと言えるかもしれませんね。産地を特定する考古学試料が得られていないし、此処で銅鏡が作られていたと書かれた
文献も未だ見出されていないでしょ。

177 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 22:48:39
いままでも、九州説側から見た卑弥呼がもらった鏡について、
何も言及されてこなかったと思うけど、
これからも、九州説・畿内説ともに、卑弥呼のもらった鏡は不明ということでいいのかな?

>ALL


178 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 22:56:15
そういえば、卑弥呼がもらったとおぼしき鏡って何も無いね。


179 :縄文人:2009/08/17(月) 23:06:38
>>177
卑弥呼が貰った銅鏡については、魏で作られたもの それも魏の権威を示すに十分な立派な銅鏡だったと推定されますが、
どのような紋様や文字が記されたものであったか倭人伝に記述されていませんから分りませんね。枚数は百枚と記述されて
いますから、それを越える数の出土がある銅鏡ではないことは確実でしょうね。また、鋳造時についたと考えられる傷のあ
るような粗悪品ではなかったでしょう。畿内出土の銅鏡に候補となるものがあるのでしょうか。これらの銅鏡が今だ発見さ
れていない可能性を排除することは出来ないでしょう。未だ、銅鏡で問題の決着はつかないと言うことです。今は、倭人伝
を中心に大陸や半島の文献などを参照し、地理、地勢、気象その他の学問からの考察も含めて議論するのが本筋だろうと思
います。

180 :縄文人:2009/08/17(月) 23:07:27
>>177
卑弥呼が貰った銅鏡については、魏で作られたもの それも魏の権威を示すに十分な立派な銅鏡だったと推定されますが、
どのような紋様や文字が記されたものであったか倭人伝に記述されていませんから分りませんね。枚数は百枚と記述されて
いますから、それを越える数の出土がある銅鏡ではないことは確実でしょうね。また、鋳造時についたと考えられる傷のあ
るような粗悪品ではなかったでしょう。畿内出土の銅鏡に候補となるものがあるのでしょうか。これらの銅鏡が今だ発見さ
れていない可能性を排除することは出来ないでしょう。未だ、銅鏡で問題の決着はつかないと言うことです。今は、倭人伝
を中心に大陸や半島の文献などを参照し、地理、地勢、気象その他の学問からの考察も含めて議論するのが本筋だろうと思
います。

181 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 23:23:51
ちょこっと調べたところ、銅鏡は、粘土の鋳型を使って作ったと考えられて
いるらしい。しかし、粘土は高温の溶けた銅を入れると割れてしまう。そこで、
粘土に砂を入れていたと考えられていた。

ところが、粘土に砂を入れると精巧な模様が出来ない。
古代人も、ちょっとしたジレンマに陥ってしまったに違いない。

中国では、土製の銅鏡鋳型が見つかっているが、これには砂が入っていない
らしい。日本では銅鏡の鋳型があまり見つかっていないらしく、製作方法は
謎に包まれているといわれる。

ところで、銅製品は溶かして再び利用できる。たとえば、中国の銅製品を
溶かして日本で銅鏡かなんかを作ったら、それは成分分析的にはどこの
製造品になるのだろうな。

182 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 23:28:42
平原から出てきた大型鏡が中国ではイレギュラーサイズで
国産鏡の可能性が高いそうだが

そうなると、鏡のありがたみがあまりないような気がする。

平原は卑弥呼以前という説もあるそうだし。

183 :日本@名無史さん:2009/08/17(月) 23:35:12
>>182
平原は普通に国産で確定だろうね。
ろくな根拠もなくコソコソ異論を書いているみっともない人も居るみたいだけど。


184 :ローガン:2009/08/17(月) 23:36:22
>>175

理系の視点からみた考古学の問題点…だったかな? 件の書を揶揄しただけですよ。
私のレス読んでもらえば 例えば鉛同位体、「個体評価」に役立つものである。と判ると思いますがね。
使い方次第でしょう。考察に「使える使えない」二者択一なんて…少なくとも私は考えません。
勿論、自説の都合に合わせるつもりもない

185 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/17(月) 23:48:50
>>169
>>また北部九州の里数で詳細に書かれた部分は群使による地理情報の集積で
>>日数で書かれた部分は魏使その他数回邪馬台国に行った中国人の情報とかでも良い。

畿内説は方角が違わないと成り立たないですし、水行10日陸行1月がないと辿り着けないから、必死になるのは分かります。

貴方の書かれたように、不彌国までは里程で書いたけどそれ以降は書かなかった。
ところが別の中国人が不彌国までは書かなかったけど、それ以降を日数で距離を書いた。
という主張になりますが、このような主張はトンデモだと私は判断しますし他人もそうでしょう。貴方はどうかしりませんが。

張政が(梯儁でもいいですが)里程を書いたなら、途中で理由も無くやめたりはしません。邪馬台国に行っていない説なら
別でしょうが、行ったなら全行程を里程で表しただろうと考えるのが妥当ですし、情報が混ざったときもそれが切り捨てられる
可能性は低い(ないといってもよいかもしれない)と考えなければ、貴方のようなご都合主義者になってしまいます。

だから単純に「それまでの行程記事とソースが違う」では説明が付かないのです。
ちなみに私説ではそのようなことは言っていませんので、ご注意ください。

186 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:14:25
>>185 二 ◆.L.MXSPOgc
>貴方の書かれたように、不彌国までは里程で書いたけどそれ以降は書かなかった。
>ところが別の中国人が不彌国までは書かなかったけど、それ以降を日数で距離を書いた。
>という主張になりますが、このような主張はトンデモだと私は判断しますし他人もそうでしょう。貴方はどうかしりませんが。

勘違いしているようだが、その複数ソースが全て「邪馬台国へ至る為の情報」とは限らないぞ?

例えば・・・

・不彌国までの詳細な情報は郡使が北部九州の地理情報として収集したもの
・不彌国から先の行程は倭人からの伝聞

上記二つの合わさったものとしてどうしてトンデモになるのかな?w






187 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:20:48
>>184
同位対比が同一固体の測定誤差なみに近似するときは、同時製造が推測されるという
新井の考えは同意できるね。

一方で馬渕のように同位対比から原産地を推定をするのは、中国側の資料の不十分な
ことや、添加した鉛の影響から不確定要素が多いね。
中国で鏡の同位対比の測定が進まないと原産地の方はなんとも言えない。


188 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:23:14
>>185 二 ◆.L.MXSPOgc

それに、結局のところ最後まで里数で表された情報は用いられず
途中からに数表記になっている事実は動かない。

最後まで里数で表した報告書があったとして
なんで途中から里数に変えなきゃならないのか?

元々不彌国まで里数で書かれた物と
不彌国から先日数で書かれた物が別のものであったとする方が蓋然性がある。

何か編者が途中で日数表示に変えなきゃならない合理的な理由でもあるのか?wwwwww







189 :訂正:2009/08/18(火) 00:24:19
>>188
なんで途中から里数に変えなきゃならないのか?

なんで途中から日数に変えなきゃならないのか?

190 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:30:55
そんな単純なことが分からないのかな。正確な里数を出しにくかったから
に決まってるじゃないか。

191 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:36:06
>>190
それは 二 ◆.L.MXSPOgc に言えw

http://yamat-2007.blogspot.com/
<張政ルート>
末盧國      唐津市、松浦川流域
B國(伊都國2) 小城市または多久市あたり  「南東500里至」
C國(奴國2)  佐賀市あたり        「南東100里至」
邪馬壹國     吉野ヶ里〜筑後川下流域   「東100里至」

二 ◆.L.MXSPOgc によれば邪馬台国まで
きちんと里数で表した報告書は存在する事になっているんだからwwwwwwwwwwww

192 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:38:37
魏使が報告を書いたこと自体すでに怪しいと思うけどね。書いたとしても陳寿の手に渡ったか
も不明。なぜ、こんなことにこだわるのかわからないな。歴史的部分は、晋に残ってた鴻驢府
の資料から、地理・風俗的部分は陳寿が倭人伝を書いた晋代280年頃の情報から・・・あたり
が常識的だと思うんだけど。

193 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:40:52
>>19
で、正確な日数を用いたと?
矛盾の見本だなw

194 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:42:00
>>192
と言うか、そもそも仮に「報告書」の如きものが残っていたとして

何が悲しゅうて邪馬台国への道程を
詳細に書かなきゃならないのか理解に苦しむwwwwww





195 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:43:48
>>194
でも、途中まで書いてあるじゃんw

196 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:47:16
>>195

「途中まで」とするならばだ
途中から詳細な記述をやめたって事か?w

九州北部だけ詳細に記して
目的地の邪馬台国に近づくにつれ「やっつけ」「いい加減」になっていると?w

途中で飽きちゃったんだなwwwwwwwwwwwww

だったら元々別資料だとした方が余程合理的だとは思わないかね?w

197 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:49:31
秦始2年(266年)に倭女王が朝貢したとあるけど、これは陳寿が倭人伝を書くおよそ20年
ほど前かな。その後、邪馬台国と晋との通行はなかったかもしれないが、まず陳寿の頭に
は晋代の倭国情報が先入観念としてあったと思うんだよな。(あるいは、全然知らなければ
まず同時代の詳しい人に聞くかな?) 
倭人伝⊃魏答礼使報告書 となる可能性は結構低いんじゃないかな。まして、それを前提に
しての2ルート説というのは、とんち話のようだね。

198 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:51:10
>>179
倭人伝を中心に、邪馬台国は九州であると。

で、畿内の大和王権はどうやって生まれたの?
九州の邪馬台国はその後どうなったの?

まさか、東遷したとは言わないよね?
倭人伝にも、記紀にも邪馬台国が東遷したなんて書いてありませんから。


199 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 00:51:51
>>193
矛盾なものか。魏使は現実に邪馬台国を訪ねてるんだ。それに倭国の役人も距離を表すには
日数をもって表す習慣なのだから、裏づけもとれる。
日数で表示しておけば、投馬国や邪馬台国がどの程度の距離にあるかはおおよそ見当がつく。
(倭人伝を正しく読めればの話だがな。)


200 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:04:25
>>198
そんなことは、あとで考えればいいことだろ。まず、倭人伝をそのとおり読んで
邪馬台国を見つけることだ。

201 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:06:48
>>199
>魏使は現実に邪馬台国を訪ねてるんだ・・・・・・諸説ある部分
>倭国の役人も距離を表すには日数をもって表す習慣なのだ・・・・根拠不明

魏使が報告書を書いた・・・・根拠不明
陳寿あるいは魏略等の作者がその報告を読んだ・・・・根拠不明

これだけ負の蓋然性が積み重なってるんだから、初めから魏使の報告による部分が大きい
と考えて読むのは科学的ではないんだけどね。ただそれだとゲームというか、予定調和の
世界が成り立たないのかな?

202 :縄文人:2009/08/18(火) 01:07:15
>>198
<で、畿内の大和王権はどうやって生まれたの? 九州の邪馬台国はその後どうなったの? >
私がこの質問に答えなければならない理由が分りませんね。
大和王権の成立事情など倭人伝には書いてないし、邪馬台国のことは壹與のところで記述が終っているし、
答えようがないでしょ。




203 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:09:48
>>199
見当がつくのなら最初から日数で表せばいいじゃんw

204 :ローガン:2009/08/18(火) 01:16:55
>>187

> 同位対比が同一固体の測定誤差なみに近似するときは、同時製造が推測されるという新井の考えは同意できるね。

ただ数値の近似だけではなんとも言えんでしょう。原料に使われたものが何かわからないんですから。
「同一遺跡から出たもの」と言うような前提が必要でしょう。


205 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:21:21
>>202
邪馬台国の成立事情なら倭人伝に書いてあるだろ。

倭国大乱後に諸国が共立の女王を立てた、それだけの事ですよ。
そのヤマタイ(ヤマト)国=大和と随書でお墨付きをくれてるだろ。

中国側の「文献」だけの立証だとそれしか解釈は無理で、
あとは結局推測願望でしかない。

206 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:27:11
>>198
邪馬台国が九州にあったとしたら、その後どうなったか。
これは、やがて衰退したか、あるいは遷都したかのどちらかしか考えられない。

しかし、衰退したといっても勢力が弱まっていたとは考えにくい。磐井の乱
からも、6世紀でさえ、大和朝廷と渡り合える武力を持っていたことがわかる。
九州の邪馬台国が、大和朝廷の武力に屈したとすれば、かなりの激戦が
繰り広げられたと思われ、この痕跡が記紀に残っていないのはおかしい。

九州邪馬台国の衰退説もいろいろと疑問点が出てくる。

一方で、後の大和朝廷は遷都を繰り返している。奈良県だけでなく、大津など
もあり、やがては京都に都を移している。最終的には東京に移ったわけだが。
日本の歴史的には、邪馬台国東遷もそんなに不思議なことでもないと思う。

207 :縄文人:2009/08/18(火) 01:31:38
>>201
魏使は魏の皇帝の命により邪馬台国に派遣されています。邪馬台国に行っていないでは命令違反(職務不履行)
でしょう。皇帝の命令に違反すれば厳罰を受けます。だから、魏の使節は命令を遂行した証拠を持ち帰った筈です。
陳寿もそれは確認したでしょう。倭人伝の記述では壹與が大夫率善中郎将(木夜)邪狗等20人で魏の使節張政を送る
とともに魏の皇帝のもとに男女生口30人他の献上品を持って行かせています。その記録もあったでしょうし、政が邪
馬台国に行っていないと疑う根拠がなかったのでしょう。

208 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:34:52
>>207
確実なものは、倭人が郡か中国本土に来た時の記録しかないね。倭人伝をよく読んでごらん。
あとはすべて、状況証拠、推測。

209 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:35:15
>>204
同一固体並みに同位対比が一致していても、「偶然の一致」かもしれないということだね。
しかし、偶然の先に考えるのではなく、同時製造の推定を先に考えるのが論理的では?

同一遺跡とか、同型鏡とかであれば、偶然性を排除する要素が増えますが、その要素が
ない場合でも推定はありますよ。


210 :縄文人:2009/08/18(火) 01:42:17
>>205
隋書は遣隋使や遣唐使あるいは商人らの知識(大和王権が畿内にある現実から邪馬台国も畿内にあったものとの思い込み)
を基に書かれたのではないですか?お墨付きと言えますか?

211 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:48:31
>>210
これは、諸刃の剣だね。隋書は商人らの思い込みを鵜呑みにして書かれたかもしれない。
しかし、そういう思い込みは倭人伝にもないとはいえない。どうしても、資料批判は必要と
いうこと。

212 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:49:17
>>210
疑い出せばいくらでも出来ます。
それはどんな文献でも同じでしょう。

しかし現時点では一応確実な文献記録ではないですか?
個人的推測や願望を無視すれば、邪馬台国=大和としか
かいてませんからね。

213 :ローガン:2009/08/18(火) 02:10:28
>>209

> 同一固体並みに同位対比が一致していても、「偶然の一致」かもしれないということだね。

原料に鉛添加をしない場合、つまり入荷したスクラップ鏡を利用する際、原料となった鏡の鉛同位体が近似していれば、
どこで再鋳造しようとも近似するでしょう。同時鋳造とは限りませんね。

214 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 06:16:07
>>205
>ヤマタイ(ヤマト)国=大和と随書でお墨付きをくれてるだろ。
そんなことは一言も書いていないな。魏志の邪馬台だと書いているだけだ。
倭人伝の伝える邪馬台国が九州ならば、隋書が伝える邪馬台国も九州、当然の
話だろ。そんな理屈も分からんのかね。



215 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 06:21:06
>>208
疑い出せばいくらでも出来ます。
それはどんな文献でも同じでしょう。しかし現時点では、倭人伝は確実な文献記録とみて何ら
問題はない。

216 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 06:39:29
>>206

大和朝廷が九州を征伐したことは、景行天皇から何度も繰り返し記紀に登場します。
ちょうど、トヨの後くらいですよ。

これで東遷したなんて、文献重視派の人が言うべきではありませんね。
九州に邪馬台国があったとしても、衰退して滅んだのですよ。
そこまで認めて、九州説は説として成立すると思いますが。



217 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 06:48:54
>>216
>大和朝廷が九州を征伐したことは、景行天皇から何度も繰り返し記紀に登場します。
>ちょうど、トヨの後くらいですよ。
日本書紀にはそんなことは書いてないよ。景行天皇の時代は1、2世紀のこととして
書いてある。トヨの後くらいなどというのは、あなたの勝手な思い込みだ。


218 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 07:54:27
>>217
景行1・2世紀なら、神武東征ははるか紀元前。これが最も原文に忠実な読み方であると
考えるなら、どちらも3世紀の邪馬台国とは何の関係もない。しかし東遷説は最大の根拠が
失われることになる。

>>214
こういう何の根拠もなく結論だけ述べるレスは無意味。まあ、他説の気分を損ねるためだけ
に書いてると思われてもしかたがない。隋書の記述が九州を指すという論拠を示すべき。

>>215
確実とは何を指すのか?一言一句すべて真実であるということか?


219 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/18(火) 08:01:10
>>186 >>188
まず私説を間違われているようなので説明しておきます。
2回の魏使はともに邪馬台国まで行っており、共にそれぞれ報告をした。
邪馬台国まで行ったので里程もちゃんと残している、梯儁はまとめて万2千里、張政は各国間の距離を書いていた。
2人のルートが違うので間の国の数も違うし、張政の里程の合計は万2千里にはならない。
(差の1300里は2人のルート差として妙にリアリティーのある数値だと私は感じるのですけどね<これは私の感想w)


だから 186 での主張のように、魏使が不彌国までしか行っていない、その先は伝聞情報、という「邪馬台国に行っていない説」と
いうのは、今までここではトンデモ説とされてきたものですよね。
もっとも邪馬台国や卑弥呼の記述全部が伝聞情報だと主張されるなら、それを否定するのは、なかなか難しいですが。

そのような主張をしなければ畿内説は成り立たないというのは分かりますが、それは私の主張とは異なります。
「行っていない説」は私は支持できないですし、他の多くの方も支持しないでしょう。


188 に書かれている
>>何か編者が途中で日数表示に変えなきゃならない合理的な理由でもあるのか?wwwwww
は、あなたの畿内説の根拠を自ら否定されているのでしょうか?


220 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 08:07:34
>>217

たしかにそうだ。

邪馬台国の時代には、景行天皇がとっくに九州を平定しているな。
文献を重視して読むなら、邪馬台国が九州で独立していたわけがない。


221 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 08:16:30
>景行1・2世紀なら、神武東征ははるか紀元前。
原文には何と書いてあるのかをきちんと把握して、どこまで信用できるか、どこは
信用できないかをはんだんすべきだと言っているのだよ。

>何の根拠もなく結論だけ述べるレス
きちんと理由を述べているつもりだが。そうと読めないならば、あなたの読解力を
疑うね。

>一言一句すべて真実であるということか?
まじめに書かれた文章として何ら問題がないということだ。





222 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 09:36:26
>>221
>きちんと理由を述べているつもりだが。そうと読めないならば、あなたの読解力を
疑うね。

何処に理由がかいてあるの?

文献を重視するなら邪馬台国は大和ですが。
隋書では曲解しないとヤマトが九州にあったとは
とても理解できませんよ。

223 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 09:45:27
>>219
邪馬台国へは行ってない説は結構多いと思うけど。

隋書倭国伝が魏志倭人伝から冒頭文を引き合いにだして
引用してるが「倭人は距離を里数を知らない、日数で測る」
という文がありますからね。
その一文に従うと、投馬や邪馬台国へは倭人の情報という事になる。

224 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 09:45:40
景行仲哀神功の事跡は九州にしか見あたらない。
仲哀は下関にもあるけど。

この3人の事跡は畿内ではなにかある?
畿内の方の知識が少ないので教えてください。

225 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 09:53:33
神功なんて畿内は勿論、半島から越に至るまで足跡あるでしょ。

226 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 10:01:17
>>222
隋書は、隋使が訪れた先を魏志の邪馬台だと書いているだけだ。
倭人伝の伝える邪馬台国が九州ならば、隋書が伝える邪馬台国も九州、当然の
話だろ。もちろん、倭人伝の伝える邪馬台国が大和ならば、隋書が書くところ
も大和になるが、隋書に大和だなんてことは書いてないよ。

>「倭人は距離を里数を知らない、日数で測る」という文がありますからね。
>>223
>その一文に従うと、投馬や邪馬台国へは倭人の情報という事になる。
倭人が日数ではかっていたからといって、日数の記事が倭人からの情報と限られる
わけではない。使者は邪馬台国を訪ねたんだから、自らの体験として書いていると
考えてよい。


227 :縄文人:2009/08/18(火) 10:15:14
景行天皇が1、2世紀だとか3世紀末の人物だとか言っている人が居られるようですが、
6世紀以前の記紀の記事の年月など信用できません。天皇という称号も存在していません。万葉集にさえ天皇ではなく
大王の呼称の歌しか見えません。それが紀に景行12年などと年号で記載されているのをおかしな事とおもいませんか?
弥生時代はおろか古墳時代に年号などがあったという証拠はありません。大陸や半島の史書にも5世紀以前の倭の年号
が見られますか?天皇名と年号が書いてあるのは記紀のみです。その記紀は8世紀に編纂されたもので、景行12年だと
か神武**年だとか崇神**年だとかは創りものなのです。景行天皇だって6世紀以降の人物ではないかとさえ考えら
れるとする見方もあるでしょう。

228 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 10:22:50
 20年ほど前に古田武彦が言ってた、九州=天神=倭国=梅、大和=天照=日本国=桜
と言った学説はどうなったの。

229 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 10:24:37
>>227

だったら、神武東征も作り話だと認めるわけだな?


230 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 10:27:25
景行、成務、仲哀はタラシヒコ一族
久留米の高良大社に景行が滞在したという伝説がある。

高良玉垂宮という名前もあり、久留米周辺にはいくつかの玉垂宮がある。
創建は4世紀終わりから5世紀初めとされる。

231 :縄文人:2009/08/18(火) 10:53:06
>>229
そのようなことを言っているのではありません。事件の記憶は残るが年月などの時間関係はあいまいになるのが
人間の記憶だと言っているのです。貴方は織田信長が寺を焼き僧らを虐殺したということをご存知だと思いますが、
それは何年前の出来事であったか分りますか?書物を見ないと分らないでしょう?時間関係のことは時が経つにした
がって正確さがなくなるのです。

232 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 10:56:51
>>226
結局全部推測願望じゃないかw

233 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 11:07:25
>>226
>隋書に大和だなんてことは書いてないよ。

さすがに筑紫の東に進んで秦大国、14国を経て海岸線に出て、
更に進む国を九州に比定する事は不可能ですよ。



234 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 11:29:53
>秦大国、14国を経て海岸線に出て、
秦王国、10余国を経て海岸線に出るというだけでは、大分の海岸へ出たという
解釈もできるんだよ。後10日では大和に到達しないしな。
だいたい、倭人伝をみれば、末盧国から南、南とあるんだ。大和ならばその倭人
伝の記事が誤りであることをきちんと書いたはずだ。それがないということは、倭
人伝の行程(南に邪馬台国があるということ)を是認しているとみることができる。




235 :縄文人:2009/08/18(火) 12:10:59
>>234
そうですよね。

236 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 12:26:30
>>234
>だいたい、倭人伝をみれば、末盧国から南、南とあるんだ。大和ならばその倭人
伝の記事が誤りであることをきちんと書いたはずだ。

それが冒頭の「邪馬台国とは(畿内の)大和」の事であるという
文になるともとれる。

それに倭国伝を元に、大分から南に10日で大和の国があるなんてのは
相当曲解しないと実証不可能だと思うけど。

237 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 13:14:58
>>231

そういう縄文人は、織田信長が寺を焼き僧らを虐殺したということが、
事実だとどうやって確認したんだ?
誰が目撃して記録したと思ってるんだ?
それが真実だとどうして決め付けられるのかね?



238 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 13:35:10
>>237
縄文人はどうやら常識が欠如してるようだね。まあ、まともな社会生活を営んでる人間が、
2chでコテハンなどやるはずはないんだけどね。

239 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 13:54:24
>>238
まあ、確かに悪評高い2chですからね。普通は、HPを開くか自費出版でも考えるでしょうね。
ただ、HPも曲学さんのように掲示板に害虫がたくさんたかるようではどうしようもないですけど。

240 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 15:47:59
縄文人はもうだめぼ…

241 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 15:54:26
>>238
まともかどうかは知らないが、たまに出社するだけで
社員の倍近い給料を戴ける、取締役と言う身分は
社会常識からは逸脱しているかもな。
暇だから2ちゃんでもやるしかない。

242 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 16:03:23
>>237
そんなことを言っていたら、歴史は語れない。
信長の比叡山延暦寺の焼き討ち事件については詳しい記録が残っているので、
それを信頼するしかないな。
たとえば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1_%281571%E5%B9%B4%29

243 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 16:32:12
>>241
自作ですか。ご苦労ですね。

244 :ローガン:2009/08/18(火) 16:35:54
>>227縄文氏
>6世紀以前の記紀の記事の年月など信用できません。
>>231縄文氏
>事件の記憶は残るが年月などの時間関係はあいまいになるのが人間の記憶だと言っているのです。
という事は「6世紀以降の記紀の記事は信用しても良い」ととれる発言ですね。では当然推古16年は7世紀ゆえ、信用できるものであると。
ところが、>>234氏のコメントに対して >>235で「そうですね」と…。
ひょっとして紀の裴世清と隋書の裴清が別人とでも考えてるのかしらん。
書き込みに一貫性が無いのでさっぱりわからん。

245 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 16:47:27
>>244
まあ、ヤシは都合の良さそうなとこだけ信用するんだろうな。

246 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 17:04:29
形式的に7世紀だからどうこうではないだろう。隋書が書く隋使の訪問先がどこかは
タリシヒコが男性で、当時の天皇は推古女帝だということも見逃せない。
さらに、日本書紀は隋から使者が来たとは一言も書いていない。大唐からの使者とす
るだけだ(日本書紀の編者らは隋のことをしらなかった? そんなことはないよな)。
このようなことから、隋の使者が大和へ来たという見方には問題があるんだよ。日本
書紀によっても隋使訪問は認めがたいということだ。

247 :ローガン:2009/08/18(火) 17:09:33
>>246

では、紀の記述は嘘だと云う事でいいの?

248 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 17:13:24
>>244
この人は、学識の高い人格者といったような評価を得たいのだろうが、所詮2chでそんなことを
して何になるか、というのが一つと、学識も人としての徳も結局はレスによってボロが出てしまう
にじみ出てくる、というのが一つ。この二つのことをまず理解すべきだろうな。



249 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 17:18:56
>>248
そうだね。ここは、もちろんレベルの高い人もいるが、平均的に見ればひどいありさま。ここで
滔滔と自説を述べてもどこへも繋がらない。単なる暇つぶしでやる分にはいいのだが、自分は
偉い、人にものを教えてやろうという態度では得るものは少ないだろうね。

250 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 17:29:32
隋書に阿蘇の記述がありますが、畿内説の方はどう解釈してるのでしょうか?

251 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 17:35:39
>>248お前もな。

252 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 17:37:32
>>294
2ちゃんで謙虚って、意味ねえ-。

253 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 17:38:49
隋書が3世紀書かれたと思ってるバカ発見。


254 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 17:42:49
>>250
行き帰りの道中に寄ったんじゃないの?
火山は珍しいはずだし。

255 :ローガン:2009/08/18(火) 18:02:00
>>248
> この人は、学識の高い人格者といったような評価を得たいのだろうが、

貴方の云うように、2ちゃんでの評価?なんて、なんの意味もないでしょ? お互いどこの誰かなんて知らない訳だし。
ここは人口が多いので、未知の論が聴けるでしょ。詳しい人もいる。 だから暇な時間に覗いているんですよ。

256 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:13:12
>>180

結局、九州から卑弥呼がもらったはずの鏡が見つかってないわけだ。
後漢鏡・国産鏡しか見つかっていない。
いったい、100もの鏡はどこへいったのか?
魏志倭人伝を解読したところで、物証がなければただの解読ゴッコ。

畿内には三角縁もあれば画文帯もある。
国産だというやつもいるが、画文帯は舶載ということは安本も認めている。
九州よりははっきりとした物証が畿内にはある。


257 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:19:50
>>256
不動産ならいざ知らず、動産に固執するのは何故?

258 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:23:32
>>254
そんなレベルですか。よくわかりました。

259 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:24:04
>>219 二 ◆.L.MXSPOgc
>だから 186 での主張のように、魏使が不彌国までしか行っていない、その先は伝聞情報、という「邪馬台国に行っていない説」と
>いうのは、今までここではトンデモ説とされてきたものですよね。

はあ?「邪馬台国に行っていない説」??
>>186の何処にそんな事を書いている?

北部九州の地理情報を収集したのは(伊都国あたりに常駐していた?)
 『 郡 使 』 と書いてあるんだが?
「魏使が邪馬台国に行かなかった」なんて何処にも書いていないし
過去にそう言う立場をとった覚えすらないが?

簡単に言えば…

あるかないか分からないw魏使の報告書を想定せずとも
郡使が「勝手知ったる?北部九州の地理情報」に不弥国から先、邪馬台国に至るルートを
倭人から聞けばあの記事の出来上がりだwwwwwwww
(途中から日数に表記が変わる、情報の密度が落ちる等々、こちらの方が余程無理なく説明ができるw)

ひょっとしてお前、畿内説が
「魏使は邪馬台国まで行っていない事にしないと成り立たない」
とか勝手に思い込んでいるのかな?wwwwwww



260 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:25:19
結局、二 ◆.L.MXSPOgcの説は、
「陳壽は計算が合わなくなっちゃって里数の表記を途中から日数にしてしまいました〜」
と言うご都合主義の産物。

正直、これだったらまだこいつがトンデモ扱いしている
「魏使は邪馬台国まで行ってない説」の方がマシw
(てか実際結構あっちこっちで実しやかに言われているw)

そもそも陳壽の辻褄合わせと言ったところで
不弥国から先の残り1300余里(対馬〜壱岐が1000余里)を
水行を計30日、陸行一月と言う日数に置き換える事の違和感は何ら拭える物ではない。
(古典的な説としては「一月は一日の誤り」等で解決を試みているが…
まあ正直そんな計算自体がナンセンスだとも思うがw)

個人的な総評としてwwww
この 二 ◆.L.MXSPOgcの 「W報告書説(仮w)」は
不弥国までに見えるクニの位置についての辻褄合わせに主眼が置かれて
(まあそこが本人にとって「大変よくできました」と褒めてもらいたいところなんだろうがwww)
肝心の「膨大な日数」についてはなんら解決策を打ち出していない。

「畿内説をやっつけたい」のなら問題の優先順位を間違えている。
不弥国までは、畿内説・九州説ともに認める、ほぼ定説と言うものがあり、実際のところはあまり争点になっていないww

北部九州説をとる人間にとってすら
この説は魅力があるのか疑問だと思うがどうなんだろう?wwwwwwwwwww

261 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:43:10
倭人伝は、晋代の知識層が読むものであり、陳寿は同時代人の評価を何より気にしただろう。
まあ、辺境の地誌が評価の対象とされることも考えにくいのではあるが、倭人伝の地理的記述も
当時晋代の倭国の認識から大きくずれたものではないだろう。

262 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:50:48
>256

http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/dokyo.htm

九州出土の鏡を集計しようと思ったが
めんどくさいので見てたら
いい具合に集計しているとことがあったので貼っとく。

263 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 18:53:42
>>260
伊都周辺の事をどんなに詳しく説明してくれても、
投馬=出雲(但馬)、邪馬台国=ヤマト説の者からしたら
全く影響ないからね。

264 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 19:04:25
>>263
そう思うのは構わないけど、伊都國の場所は大いに関係あるだろ。

265 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 19:08:31
>>264
伊都国から放射説を採る訳でもないので
別に大した問題ではない。


266 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 19:15:26
>>265
伊都國は佐賀県でいいのか?

267 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 19:26:22
鏡で言えば九州説の連中は画文の日本における流通開始時期って
どれくらいを想定しているんだろうか?

大陸では3世紀初頭には出ている画文が3世紀中には日本には伝わらず
4世紀になって倣製としてのみ出てくるって筋書きなのかな?

ホケノの様な同行式を全て国産としても、じゃあそれより古い型式に限定したら
九州のほうが出土が多いなんて話があるのか?w

268 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 19:31:12
>>267
年代測定の話になってループするだけ

269 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 19:35:58
>>247
一言で言えばそうゆうことだな。ただ、厳密に読めば「隋使がきたのは大和
ではないよ」と分かるように書いている。その意味では嘘ではない。

270 :ローガン:2009/08/18(火) 20:23:33
>>269
>厳密に読めば「隋使がきたのは大和
> ではないよ」と分かるように書いている。

では、具体的に教えていただけませんか? また、後程来ます。

271 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 20:31:59
おまいら先人に感謝しとけな

フランスが明治新政府に対し、「日の丸を500万円(当時の金額)で我が国に売却して欲しい」と依頼

財政難で喉から手が出る程欲しい明治政府

しかし、その誘惑を明治政府は、「国旗を売り渡す事は、国家を売り渡す事」として断る

その百数十年後、ミンス党が日の丸を切り貼りして、党旗として掲げる ←今ココ


http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/hinomaru.html

272 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 20:34:19
>>267
ループさせる罠に陥らないためにも、もうちょっと考えてみよう。

中国で4世紀に流行ってた鏡って他にある?
あれば、それが、画文帯と一緒に出てくるケースが多いのかどうか?

わかる人いる?



273 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 21:03:32
A・方格規矩四神鏡・内行花文鏡(漢鏡)1世紀

B・画文帯神獣鏡(三国時代の長江・呉?)2〜3世紀

C・三角縁神獣鏡(国産?)4世紀?


倭国で多く出る鏡は、大きく別けると、この三種類。
Aは九州に多く、BCは近畿に多い。
Aは卑弥呼より古く、Cは新しい。
Bが卑弥呼の時代になりそうだが、まだ未確定。

もし、BCが国産であっても、それでも中国鏡は輸入されていたはず。
はっきり年代のわかる中国鏡があれば、一緒に副葬されたBCのおよその入手年代もわかるはず。




274 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 21:13:29
倭人は特に神獣鏡が好きだったらしい。
4世紀に中国で流行っていた神獣鏡が、すぐに手に入るなら、それを手に入れただろう。
わざわざ、100年前に流行った画文帯神獣鏡をコピーする必要は無いはず。

王の威信を示すには、大陸から輸入された最新の鏡、見せびらかすことであるはずだ。
4世紀に中国で流行っていた神獣鏡は、日本に入っていたのか?それはどんな鏡か?どこで出土したか?


275 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/18(火) 21:31:12
>>223
その主張でしたら、万2千里と里程が書かれているのですから行った事になるのですが。
まぁあれでしょ、女王国は邪馬台国とA国とB国で、C国は女王国ではないという「幻の女王国説」。
そんなトンデモ説はどうでもいいです。

多数決で決まるなら、距離が間違ってる説、方位が間違ってる説が2トップ。
次に経路が間違ってる説(放射説)、ついで幻の女王国説とかかな。
私の2ルート説は、私しか言っていないから最下位タイってことになるのでしょうね。

276 :ちなみに・・・:2009/08/18(火) 21:39:30
岡村の漢鏡7期編年だと…

画文は7期第2段階で
第1段階としては…上方作系浮彫式獣帯鏡・飛禽鏡・画像鏡・き鳳鏡・獣首鏡 等を挙げている。

しかし話は変わるが
岡村センセイの漢鏡編年とそれに与えている年代観は
例の歴博発表の年代と合致するよな?wwwwwwwwwwww







277 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 21:43:16
ぶっちゃけた話、九州説論者には一度
「これが3世紀の九州の鏡です」
と言うのを三つ四つぐらい出してもらえないだろうか?w

卑弥呼が魏から下賜された所謂「卑弥呼の鏡」は特定が難しいとしても

「卑弥呼の時代の鏡」なら出せるべ?wwwwwwwww

278 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/18(火) 21:49:23
>>259
不彌国から先は倭人からの伝聞のみ、というのはその先に魏使が行っていないという主張かと思ったのですが、
魏使が何の記録も残さなかった説でしたか。卑弥呼の墓とか臺與とかも魏使ではなく郡使からの情報だった?おかしいですね。
さすがに無理なく説明できる説です、私には分かりませんが。


>>魏使は邪馬台国まで行っていない事にしないと成り立たない
いえ貴方がそういう主張をしていると言っているのです。ご自身は気付いておられないようですが。

貴方の畿内説の主張は、途中で日数表示に変わってる、でしょ?なのに >>188 で下記のように書かれている。
>>何か編者が途中で日数表示に変えなきゃならない合理的な理由でもあるのか?wwwwww
「合理的な理由」は、日数表示に変わってると主張する畿内説がしなければならない事ですよ。


279 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/18(火) 21:56:36
>>260
>>「陳壽は計算が合わなくなっちゃって里数の表記を途中から日数にしてしまいました〜」
>>と言うご都合主義の産物。
どうしてこの人は、人の主張を曲げて書いてまで自分が正しいという主張をされるのでしょう。頭が悪いのかな?
私は「里数の表記を途中から日数にしてしまいました」などとは主張していないですよ。そう主張をしているのは畿内説である貴方ですよ。
自分と相手の主張がどのようなものかも分からなくなってしまったのでしょうか。

>>不弥国から先の残り1300余里(対馬〜壱岐が1000余里)を
>>水行を計30日、陸行一月と言う日数に置き換える事の違和感は何ら拭える物ではない。
などを主張しているのは畿内説ですよ。私説ではないですよ。

>>不弥国までは、畿内説・九州説ともに認める、ほぼ定説と言うものがあり、実際のところはあまり争点になっていないww
私説もその定説を含みますので、これに反論していたりしませんよ。

いったい誰に向かって言っているのでしょう。
電柱か壁に黙々と語りかけているようなイメージが沸いてきました・・

280 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 22:10:03
>>278-279 二 ◆.L.MXSPOgc

>卑弥呼の墓とか臺與とかも魏使ではなく郡使からの情報だった?おかしいですね。
今のところ一例の報告も無い「殉葬」が出てくる時点で大概怪しい
これも魏使の直接の見聞に基づくものじゃないという傍証かな?w
無論、卑弥呼の墓のみの特異例と言う可能性はあるが・・・

>「合理的な理由」は、日数表示に変わってると主張する畿内説がしなければならない事ですよ。
>私は「里数の表記を途中から日数にしてしまいました」などとは主張していないですよ。

何をわけの分からない事を言ってるんだ?馬鹿。
現実問題、倭人伝の記事は途中からに数になってるだろうが?

こっちは元々「里数による情報と」「日数による情報」があったとしている。
” 変えた ”わけじゃない 元々別ソース。

対してお前は「最後まで里数で表された情報」があったとしながら
わざわざそれを採らず日数の表記に” 変えて ”いるわけだ。

これ自体が大抵アクロバチックという話だよw分かったかな?wwww






281 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 22:13:05
まあ「トータル12000里」から計算して…と言うのは
この二 ◆.L.MXSPOgcのみならず九州説の得意技だがw

素朴な疑問それっていつ測定したんだ?wwwwwwww

二 ◆.L.MXSPOgcの場合だと少なくとも梯儁・張政の報告からはその数字は出ないわけでw



282 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/18(火) 22:22:49
>>277
一個くらい、畿内天皇がもらったとかいう金印でも出してもら
えないだろうか。w

283 :日本@名無史さん:2009/08/18(火) 22:26:55
>>282 犬国◆yVAs7uaYlY

相変わらずアホだなw

鏡と金印、 『 分母 』が違うだろうが?

「分母」の意味が分からなければ夏休み中の孫にでも聞けドアホwwwwwwwww


284 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/18(火) 22:31:27
>>283
鏡と金印は分数なのか?ppp www

285 :聯合:2009/08/18(火) 22:37:44
改め君、これ見たら後で連絡してね。大丈夫だから。

286 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:03:57
張政は間違いなく邪馬台国に足を踏み入れてないよ、断言出来る
当時の箸墓のような墳墓は中国には全く無く特筆に値する
が、埋葬方法のみならず、その特異な形、大きささへも倭人伝では正確に伝えていない
故に邪馬台国には行ってない

以上

287 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:06:14
>>286
張政は箸墓には行っていないことは証明できるだろうけど
邪馬台国には行っているのではないかな。

288 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:07:26
>>286
それは魏使が邪馬台国に行っていたのなら
必ず報告書のようなものがありそれを元に倭人伝の記事が書かれている

・・・と言う、根拠無き思い込みに縛られていないかな?

289 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:09:53
箸墓=卑弥呼の墓
と言うのが確定してから喋るべき与太話であって今の時点で言われても

290 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:21:19
前方後円墳は、方墳or円墳でいえば、円墳に見えるだろう
前方部は礼拝壇であって、被葬者は必ず円墳部の中心に埋葬されているのだから

291 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:27:51
>>276
岡村は魏晋鏡も「漢鏡」にしているからなあ。
「中国での鏡の編年」という素直なネーミングにしなかったのは、
年代遡上を使命付けられたからだろうね。



292 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:29:44
前方後円墳が円墳でないと言う人がいたらお会いしてみたい

293 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:32:52
>魏使は邪馬台国に行ってない説

ひょっとして今の教科書に載っているのかな?

昔、話のタネに買ったw 『新しい歴史教科書(市販本)』扶桑社 にも

>また、その使者にしても、列島の玄関口にあたる福岡県のある地点にとどまり
>邪馬台国を訪れてもいないし

…とはっきり書いてある。

まあ執筆編集に当たった連中がアレだとしても
仮にも文科省の検定をパスする事を目指した教科書なんだし
それに”拘るなら”近現代史だろうしwwwwwwwww

他にも以前この板のどこかで見た子供向け学習アニメでも
やはり邪馬台国まで行っていない事を断定していたっけ…

これって何かのトレンド?
事情知っている人いたら教えてチョンマゲwwwwwwwww

294 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:33:48
>>273
日本では弥生時代後期の半ばまでは、鏡の出土の99%位は九州に集中している。
九州以外では弥生終末期以降の時期の遺跡からしか鏡は出ない。

んで、九州以外からは、AもBもCも出土している。
じゃあ、弥生終末期がAの1世紀というとそんなわけはない。
つまり、本州で出土するAは、後世に日本で複製された可能性が多い。


295 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:46:08
やっぱ円墳だろ?

296 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:55:20
>>294
と言うか、いつも思うんだが
その九州説(多分東遷説?)による鏡の編年を出して欲しいなwwwww

岡村の7期編年を元に言えば・・・

画文を4世紀とするなら7期第2段階を4世紀とする事になる。
一方

>九州以外では弥生終末期以降の時期の遺跡からしか鏡は出ない。

で言えば3期の物を4世紀とする事になると思うが…

つまり岡村が3期(BC50あたりか?)から7期(AD150あたり?)まで分類しているものを
全てひっくるめて4世紀以降に持ってくると言う超大技w

正直どんな形の編年になるのか想像すらつかないんだが?wwwwwwww

何処かに東遷説御用達の漢鏡編年ってあるのか?
あったら教えて欲しいw



297 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 00:57:51
それが決まるとどうなるのかを書くべきではないだろうか

298 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:04:02
実際円墳として書かれてる箸墓の絵も残ってたしな。


299 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:16:13
>>275
万二千里は正確な表現ではなく、文末に持ってきている事から
推測すると「こんなに遠い国です」という〆の文とも解釈できますよ。

何度か話が出てたが、漢書では大月氏国等も全て
万二千里程度で記述されてますからね。

300 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:42:58
二 ◆.L.MXSPOgc説だと…

http://yamat-2007.blogspot.com/
<張政ルート>
末盧國      唐津市、松浦川流域
B國(伊都國2) 小城市または多久市あたり  「南東500里至」
C國(奴國2)  佐賀市あたり        「南東100里至」
邪馬壹國     吉野ヶ里〜筑後川下流域   「東100里至」

末盧國まで1000里だから合計10700里
ただし陳寿はこの数字を取らず「梯儁はまとめて万2千里」と言う数字を取った。

その梯儁の万2千里と言うのは梯儁の測定したものなのか?

「梯儁はまとめて万2千里」と片付けられるのなら最初からあった数字のようだが・・・
意味が良く分からないなw


301 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 01:49:18
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302 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 02:11:47
>>299
月(大月氏)と太陽(日本)を華中かシンメトリに置いている点
倭の地を周旋すること五千里余とか、道教臭い
まるで東岳泰山真形図の様だ

303 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 02:26:06
>>296  植草君の質問も意味不明だなあ。

俺が行ったのは、「漢鏡」の編年ではなく、「中国での鏡の編年」にするべきということ。
岡村は、「魏や晋の時代の鏡は何か?」ということは全く言及しない。
これは論外。

つまり、中国での鏡の出土状況を中国での地域差を考慮して、正確に述べないと
議論の出発点にさえ立っていないということ。
岡村はその出発点に立つべきだろう。


304 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 02:28:26
>>303を書いてて思ったのだが、wwwwwwww君は

 通称 ミラーマン

に決定ね。


305 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 02:34:07
倭人伝どおりでは自分が考えたところにたどりつけないときに使者は行かなかったと
いってごまかすんだよな。


306 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 02:40:01
>>303
で、

>日本では弥生時代後期の半ばまでは、鏡の出土の99%位は九州に集中している。

とか

>九州以外では弥生終末期以降の時期の遺跡からしか鏡は出ない。

と言うのは当てにならない岡村編年では無く
きちんとした編年のモデルがあってのことなんだろう?w

それがどのようなものであるのか教えてもらえないかね?

「邪馬台国○会」探せば出てくるのか?wwwwwww



307 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 07:22:39
万二千里が、「こんなに遠い国」なら、韓は、「こんなにバカでかい国」か?
天子の治める国なんてたいした事ないと笑い者にするのか?

308 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 07:30:18
伊都国までが万五百里。そこまで、区分表記していながら、万二千里が急に、「こんなに遠い国」
なんて具体性のない使われ方になるわけはない。
伊都国から千五百里で女王国に入る、そうゆうふうに解釈すべきは当然だと思うがな。


309 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/19(水) 08:34:34
>>280 >>281 >>300
まず私の説を評価しようとするなら、少なくとも私の説を理解してください。
私の説とまったく違うことを批判されても私としては困ります。
それから、次に自分が何を言っているのか、何と主張しているのかをちゃんと理解してください。

>>現実問題、倭人伝の記事は途中からに数になってるだろうが?
私説は、その日数が行程ではない、というものです。ですから途中から行程が日数表記に変わったなどという主張ではないのです。
それとは別に、その日数がどこから来たものか、何故混入してしまったのか(琉球云々)ということを、憶測ですが書いています。
もしこの憶測が、現実的にありえないような話であるなら叩かれるでしょうが、それほど突飛なものではないと思っています。

ここで言うありえない話というのは、日数が混入したこと自体ではなく、混入した日数の由来です。私は混入の証拠が、他でもない倭人伝の記述だと言っていますので。
そしてもし、こちらを否定しようとするなら、途中から日数に変わったと考えられる正当な理由を挙げてください、と申しています。

ここでようやく、畿内説の貴方の主張の話になりますが、これが元々別ソースで、別ソースの理由が
魏使は邪馬台国まで行っていない説=邪馬台国の話は全部伝聞だった、とか
魏使は何も報告してない説(卑弥呼の墓とか臺與の話も、昔の郡使がもたらしたものらしい?私には理解できません)とか、
まともなものはなく、それでいて「途中から日数表記に変わってる合理的な理由がなければならない」と主張されているのですよ。

なお私説では、万2千里は梯儁が報告した、群から邪馬台国までの距離です。
そんなに難しいことを言ってはいないのですけど、理解できないのは何故ですか?

310 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 08:44:21
>万2千里は梯儁が報告した、群から邪馬台国までの距離
これでは会稽東冶の東がまったく理解できませんね。

311 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:01:17
>>309
>なお私説では、万2千里は梯儁が報告した、群から邪馬台国までの距離です。

それは 梯儁が測定したのか?

何故、張政のより「万2千里」が選ばれた?その根拠は?


312 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:05:30
>>308
逆だろ、文末に万二千里と書かれてる点が
単なる具体的距離の説明ではないと推測できるのでは?

それに他国の万二千里の説明をどうする?

313 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:17:13
>>302
確かに道教臭いね。
万二千は後の華厳経臭いし。

314 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:22:37
>>291は岡村編年を年代遡上だと批判できるくらいだから、
鏡に詳しい人なんでしょう。

ならば、お尋ねしますが、九州から出土してる、
卑弥呼がもらうにふさわしい魏鏡を一つでも挙げてみてください。
できないのであれば、邪馬台国が九州であろうと畿内であろうと、
九州には卑弥呼の鏡は一枚も残ってない、という結論になりますが?



315 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:25:59
もしかしたら、魏の時代に、卑弥呼は漢鏡をもらったと考えておられるのでしょうか?

魏に朝貢に来て金印を与えるような相手に、100年前の漢鏡を与えるなんてことはしないですよね?



316 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:36:54
九州説では、魏の時代に鏡が作れなかったとか言ってますが、
それは本当ですか?

中国で出土する鏡で、魏の時代に鏡が作られなくて、
漢鏡が伝世されていたという様子があるのでしょうか?

また、画文帯の中国での出土状況において、長江流域と言われますが、
魏の時代には、画文帯は魏の領域に集められていたのですか?
そうでなければ、魏の皇帝は、わざわざ長江から画文帯を取り寄せたことになりますが。
であれば、魏の領域からも少なからず画文帯が出土しているはずです。
そうした様子はありますか?

魏の領域からほとんど画文帯が出てこなければ、卑弥呼のもらった鏡が画文帯とは考えられないし、
4世紀以後に魏から輸入したという考え方もできなくなります。
画文帯は3世紀に、なんらかの交易ルートで手に入れたと考えるべきではないか?


317 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:38:06
>>309
今までレスが付かない事を歎いていたのに、付いた途端に我が儘贅沢言い出すとは
何たる態度。けしからん

318 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:38:44
そこでやはり考えられるのが、
画文帯は、公孫氏から卑弥呼がもらった、という説になるわけですが。

そうなれば、卑弥呼は畿内にいたことになります。

九州説からの明瞭な反論を期待します。


319 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:46:38
九州説は、すぐにそこで画文帯は国産だと結論しようとしてますが、
安本のサイトに、画文帯は国産ではないという理化学的データが存在します。

答えは2つです。

1.画文帯は3世紀の卑弥呼の時代に、なんらかの交易ルート(公孫氏?)で手に入れた
2.画文帯は4世紀に魏から輸入した

1.であれば畿内説確定です。
2.であれば、4世紀以後の魏(普)の領域から伝世された画文帯が多く出てくるような状況がなければおかしい。



320 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 10:14:43
>>318
>公孫氏から卑弥呼がもらった、という説になるわけですが。
そうとは限らんだろう。別の国の者がもらったかも知れない。
公孫氏勢力が亡命してきて自分たちの宝として持っていたかも知れない。


321 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 10:20:23
>>306  来たなミラーマンw

九州以外の弥生時代の遺跡からは鏡の出土は極端に少ないことは誰も争わないだろ。
これに対して、「本州も九州と互角に鏡を所持していたが、全て伝世して古墳時代に
なってから墳墓に埋められるようになった。」という伝世論がある。

その理屈で三角縁は弥生時代の日本に来て、古墳時代に埋められるようになったとして、
方格規矩も内行花文も弥生時代に来たものが古墳時代に埋められたので、弥生時代に
おいても本州は九州と互角以上に鏡を保有していたとしてきた。

今ではこんな学説の存在自体が黒歴史だろうけど。


322 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 11:19:41
>>320
公孫氏が4世紀に亡命してきて、畿内にもたらされたのですか?
すると公孫氏自身は呉と交易して画文帯を手に入れることが出来ていたと。
これは朝鮮半島から画文帯が出土してるので確かでしょう。

同時に、北九州からは楽浪土器が出てるので、
北九州は公孫氏と交易していたはず。
このとき、鏡が交易品に含まれていなかったというのは奇妙です。
しかし、北九州からは画文帯が出てこなくて近畿から出ている。
近畿勢力が画文帯を横取りしていたことなる。
これは、交易の主導権を近畿が握っていた証拠になりますね。

それに、公孫氏が亡命してきたのなら、北九州にもっと画文帯があってもいいはずです。


323 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 11:22:00
>>321

画文帯から話をそらそうとしてるのかな?

もっと正面から議論してみてはどうですか?

九州には、卑弥呼がもらったとされる鏡があるのか、答えてください。


324 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 11:26:27
鏡、年輪年代法、C14・・・

畿内説側は物証を出す努力を重ねています。
それに対して、九州説側は、物証を否定するだけ。

では、九州説の年代に合致した物証を何か一つでも出してきたのか?
と、思い返しても、いままで何も出てこないではないか?

いくら、畿内説側の主張を捏造と言ってみても、
九州説側からは、それ以前に物証が何一つ出てこない。
畿内説を否定したからといって、九州説が正しいとはならない。


325 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 11:37:06
安本流のレトリックに騙されてはならない。

畿内説の物証を否定し、畿内説は間違いだと決めつけることで、
あたかも九州説は間違ってないような印象操作をする。

実際は、九州説からの整合性のある物証は無いに等しい。
卑弥呼がもらった文物や、九州に邪馬台国があって繁栄していた証拠は、どこにあるのか?

九州説では、卑弥呼がもらって諸国に配ったとされる100枚の鏡の特定すら出来ないではないか。



326 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 11:42:54
とりあえず九州なら方格規矩四神鏡が候補かな

国産鏡は論外だし、百枚以上出てくる鏡は候補から外して良かろう。
あと、支配関係国に下賜するのならそう沢山の鏡をほいほい渡すものでもない。

古墳から一枚ずつ出てくる鏡にその可能性が高い。

ただ他の古墳からは大事そうに一枚ずつ出てくるのだが
伊都からだけは大量に出てくるのは、そこが管理していたと言うことか
それとも近くに邪馬台国があったのだろうか。

327 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 11:42:57
都合が悪くなると出てくる決まり文句がある。

「魏志倭人伝に立ち返って考えよう」


冗談じゃない。そんな誤魔化しが許されるものか。
ただの暗号解読ゴッコじゃないか。
それで、邪馬台国が甘木だの吉野ヶ里だの日向だのと、想定されたとしても、
物証が無ければ何も確定しない。
だだの想定であって、証明にはならない。

最後の証明に必要なのが考古学上の物証なのだ。
その物証を出すことを放棄するようでは、研究姿勢そのものが疑われる。
本人が遊びでやってるならともかく、
いまだに教科書にも邪馬台国の記述が避けられてるのはおかしい。
これは、九州説側の責任として糾弾するしかない。




328 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 11:53:54
邪馬台国に関係がないものを並べられてもなあ。
物証の意味が分かってないねえ。

329 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:07:52
とりあえず方格規矩四神鏡なら間違いなく魏鏡だし
3世紀の記年鏡がでているから時期的にも
問題は無かろう。

330 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:10:37
>>328
物証の意味を拝聴しようか。

331 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:12:37
方格規矩四神鏡の3世紀の記年鏡って九州から出て無いでしょ。

332 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:14:38
>>327
>物証がなければ


刑事事件ならそれでいいが、1700年前の物証が全て揃うのか?
たまたま出てきた物
今までに邪馬台国の遺物目的で発掘調査したものでもあるのか?
別件捜査での物証を無理矢理邪馬台国に結び付けているだけじゃないのか?

333 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:18:16
卑弥呼が貰ったであろう銅鏡は、そのままの形で埋葬し、後世に伝えるとでも
記録されているのか?

334 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:19:25
それは、屁理屈というのもだ。


335 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:27:16
>>323
何をイミフなことを・・・
画文帯は、呉の領域の鏡、卑弥呼がそれをもらうというのは無理がある。

卑弥呼が魏からもらったのは、方格規矩、内行花文、双頭竜紋が主体だろう。
それも中国に多い小型のものが大半だろう。

画文帯は呉が滅んでしばらくしてから日本に来た。
穏当に考えれば、300年以降だろうね。

336 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:31:59
>>334
理屈であろと屁理屈であろうと、事実は事実
たまたま出てきた遺物と、たった一例の文献で記された文化。
それをただ結び付けているに過ぎない。
当時の日本が全て邪馬台国文化であったならまだしも、日本の一部の文化に過ぎない邪馬台国ではないのか?

337 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/19(水) 12:47:51
>>310
「会稽東冶之東」は「計」、つまり倭にこなかった郡の役人か中国本土の役人が、
魏の里で考えたら丁度そのあたりになる(と言っている)と書かれているものです。

>>311
万2千里は梯儁です。張政はさらに各国間の里程を書いています。伝には両方の記述が書かれているのです。
どちらが選ばれたということではありません。

>>312
他国の、というのは西方の事だと思いますが、それこそソースが違う情報なのですから、一緒くたに考えるのはどうでしょうか。
西の里は、韓半島を方4千里と書いた里と同じものではなでしょ?

338 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:51:40
>>335
画文帯は、呉の領域の鏡だからこそ、
公孫氏が卑弥呼に送った可能性があるということを言っているわけです。


>画文帯は呉が滅んでしばらくしてから日本に来た。

その説を裏付けるためには、普が呉鏡を収集してた事実が必要だと考えます。
日本に鏡を輸出するために、わざわざ長江から画文帯を集めたという、新たな仮説が必要です。
それは、三角縁を卑弥呼のために特製に造ったという説とトンデモ度合いは同じです。



339 :縄文人:2009/08/19(水) 12:52:51
まだ墓や鏡の話をしているのですね。
卑弥呼の時代の鏡なんて魏で製作された立派な銅鏡であるに決まっているでしょ。それは卑弥呼の墓が発掘されて
大事に副葬された鏡があれば、それが候補として考えられるでしょう。だが、卑弥呼の墓は未だ見つかってもいな
いし、魏の立派な銅鏡も出土していないのですから、三角縁神獣鏡はおろか画文帯神獣鏡ごときでがたがた議論し
て何の役にたちますか。アホラシ。

邪馬台国も卑弥呼も最初に登場するのは魏志でしょ。魏志の後に書かれた中国の史書にも登場しますが、先ず魏志
に記述されたことを解釈するのが第一、これを単なる謎解きなどと言うのは魏志では畿内説が成り立たないゆえに
癇癪を起こしているにすぎません。考古学資料は大事ですが、過去の全てが遺跡や遺物として出土するものではあ
りません。幸運にも発見された僅かばかりの遺跡、遺物で想像を膨らませても空しいでしょう。

ところで、「伊都国を怡土との語呂合わせや平原や三雲・井原鑓溝などの王墓級遺跡の存在を理由に現前原市に比
定するのは畿内説も九州説も同じで異論はない」みたいな発言をする人を見かけますが、そのような畿内説や九州
説は古くさいもので、すでにカビが生えて腐りつつあります。壱岐からは糸島水道へ舟で行けるのに、わざわざ末
盧国に上陸して、夏の暑い盛りに草木繁茂して前を行く人の姿も見失いそうな道をゆく馬鹿がどこにいますか。し
かも方角は60度も違う。アホラシ。


340 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 12:56:38
>>339

九州には物証が無いから、魏志倭人伝に泣きついてるだけ。

たんなる逃げ口上にしかすぎない。

九州で、卑弥呼の墓らしきところから、卑弥呼の鏡らしきものが見つかったなら、
それとばかりに九州説の物証として利用するのではないのかね?
現時点では、そういう物証になりうるものすら九州には無いと指摘してるのだよ。



341 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:09:01
>壱岐からは糸島水道へ舟で行けるのに、わざわざ末盧国に上陸して、夏の暑い盛りに草
  木繁茂して前を行く人の姿も見失いそうな道をゆく馬鹿がどこにいますか。

339レスが冗長な上に意味不明なのだが、上の引用は末盧国には上陸していないということ
をいってるのかな?

342 :縄文人:2009/08/19(水) 13:13:16
>>340
九州で卑弥呼の墓が出て来たらそれは決まりでしょう。物証のレベルが違いますからね。
なお、現時点でも畿内に物証になり得るものもまた無いのは変わらないでしょ。
箸墓を卑弥呼の墓だなどとタワゴトを言ってる人も居ますけど、愚かですねえ。


343 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:15:50
画文帯という後世の呉鏡を
卑弥呼に下賜された鏡と考える理由がわからない。

344 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:18:33
近畿にも物証は何にもないね。画文鏡? 魏帝が卑弥呼にどんな鏡を渡したのかすら
分からないのだから、物証なんぞと言えるわけはない。

345 :縄文人:2009/08/19(水) 13:20:27
>>341
あなた 暑さで思考が停止していませんか?
伊都国が前原市あたりにあるのであればわざわざ末盧国に上陸して困難な陸路で行く馬鹿はいない。壱岐から
そのまま舟で行けば良い。すなわち、伊都国は前原市辺りにはなかった。末盧国から陸路で東南五百里のとこ
ろにあった。陸路でしか行けないから末盧国を経由したということですよ。

346 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:21:21
>>343

ただ単に畿内から出てくる鏡を卑弥呼の鏡と言い張りたいだけ。

同じ間違いを三角縁神獣鏡でもやっている。

347 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:30:11
>>345
なるほど、言いたいことはやっとわかった。文章が下手なのは直らないだろうから、もっと丁寧に
書いてくれ。あと、その節は間違ってるよ。

348 :縄文人:2009/08/19(水) 13:38:59
>>347
あなたの文章もかなりお上手とは言えませんね。
<あと、その節は間違ってるよ。>
とは何のことですか?

349 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:40:29
>>339

基本的に自分は九州説なのだが、伊都の地勢と遺跡からみれば
伊都国という名前ではないにせよ相当の国があったことは確実だと考える。

松浦から佐賀に抜ける道は今でさえ相当に険しい。
松浦までたどり着けば、伊都までそのまま沿岸を海路で行った方が楽だと思う。

行き先を筑後、八女あたりで想定するとどう見ても松浦にたどり着いて、一息
いれたあとは、また海路で糸島まで行き、陸路で福岡、鳥栖、久留米と移動するのが
正当なルートだと思う。

しかし実際にはそうなっていない。そのまま読めば佐賀に抜けるルートである
可能性はかなり高いと思う。

福岡経由ルートは平和な時代の標準ルートであり、佐賀越えルートは
戦争時の緊急避難ルートでは無いかと思っている。
そのため、通過してはいないが、標準ルートの国々を記載したのではないかと考えている。

350 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:45:35

九州説では、九州の卑弥呼の墓はどこなのか、それすらわからないじゃないの。
きちんと、100歩と書いてあるんだから、それらしい古墳を決めてみたらどうですか?

畿内説でも、箸墓が卑弥呼の墓と断定してるわけじゃない。
奈良には古墳がいっぱいある。
「箸墓は卑弥呼の墓じゃないだろ」と、畿内説を攻撃するのも、
安本おとくいの幼稚なレトリック。

ごまかされませんよ。



351 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:46:28
畿内のそれらしい古墳って何?

352 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:52:13
十年前に起きた事件の物証と、千年以上前に起きた事件の物証とを
同一レベルで思考するなと言う話し。
だいたい古代史に、出土物による物証を求める事自体馬鹿げたもので
「出て来てよかったね」程度の価値で十分。

353 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:55:00
>>351

言えば攻撃する気まんまんだろ。

そろそろ、九州説が卑弥呼の墓を特定する番ですよ。


354 :縄文人:2009/08/19(水) 13:56:34
>>349
おっしゃるとおり、前原市には王墓級の遺跡や出土品がありますから、有力な豪族が居たと私も思います。


355 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:59:44
>>353
>言えば攻撃する気まんまんだろ。

そりゃもちろん♪

正直言って、九州には弥生どころかそれ以前の遺跡が
あちこちにあるからなあ。紀元前なんてざらだし。
どこにしようか。

というか、何が出たら卑弥呼の墓と特定できるのかねえ?


356 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 14:07:24
>>355

鏡。

卑弥呼がもらった100枚相当の鏡を特定してもらいましょうか。


357 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 14:17:29

卑弥呼がもらった鏡100枚は1種類に限定できるのですか?

何種類かの鏡を数枚ずつ、つまり「詰め合わせ」にして100枚贈られた・・・ということも
一応は想定しておく必要はありませんか?


358 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 14:27:15
方格規矩鏡を候補として
とりあえず前に出ていたホームページからコピペ


福岡県前原市 平原遺跡1号墳 31
福岡県前原市 井原鑓溝遺跡 21
佐賀県唐津市 桜馬場遺跡 1
佐賀県東脊振村 松葉遺跡 1
佐賀県東脊振村 横田遺跡 1
佐賀県大和町 池ノ上遺跡 1
佐賀県小城町 寄居1号墳 1
大阪府高槻市 闘鶏(つげ)山古墳 1
大阪府高槻市 安満宮山古墳 1
京都府 太田南5号墳 1
京都府 椿井大塚山古墳 1
あといくつかあるらしい。

伊都国を筆頭として佐賀辺りから筑紫平野かな。
伊都国が何らかの特別な地位にいたのだろうが、
山越えでは大軍を送れず、筑紫平野の支配までは
出来なかったので卑弥呼を共立。

共立で統一できないと言うことは、あまり差がない
国がいくつもあったのだろう。

大阪、京都にいきなり飛んでいるのは誰かが東遷でもしたのかな(冗談)

359 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 14:45:37
>>355
古すぎる遺跡じゃ逆にダメですよ。

360 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 14:52:30
物証なら鏡なんか無くても畿内説の方が有利でしょ。

貨泉は西日本一帯から出土してる=九州内30国比定説に矛盾。
「その山に丹あり」=弥生末期の水銀産出地跡は徳島と宇陀のみ。

これらだけでも北部九州説は論外ですよ。

361 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 14:56:21
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市

佐賀の丹は縄文遺跡からも出土

362 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 15:09:48
>>361
それらはもっと後の時代ですよ。

出土が確認されたのと、産出跡では意味合いが違う。
産出跡が確認されたのは徳島と宇陀のみ。



363 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 15:18:25
コピペ

>水銀系の朱の使用は BC100年ごろの吉野ヶ里遺跡をはじめ 
>弥生時代中期から後期の福岡県前原市平原・岡山県下楯築・
>東大阪市巨摩廃寺・尼崎市田能遺跡などで発見されている。

朱としての使用はかなり古くから行われている。
金属水銀としての使用がいつからかは知らない。

364 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/19(水) 15:20:30
当時の鉱脈を掘り尽くしてりゃぁ出て来まいが?

365 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 15:25:05
丹生氏は丹を求めて九州の伊都国から和歌山の伊都へ
移動したという伝承もある。

つまり縄文期、佐賀辺りの川でも水銀朱が獲れたのだが、
掘削技術も乏しかったので表面上を取りつくしたら終り。

それから丹を求めて徳島や紀伊半島に移動したとも考えられるな。
その後弥生中期頃には掘削技術も進んだので、
本格的に産出体制が出来たのかもしれない。


366 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 15:42:55
鏡と丹が証明する東遷説

367 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 15:46:49
>>366
あったとしたら1〜2世紀になるけどな。

368 :ローガン:2009/08/19(水) 15:54:15
>>357

いや、魏代の遺跡から見つかる銅鏡なんて僅かでしょう。常時100枚以上在庫があったと考えにくいのでは?
皇帝発注の特鋳ですよ。きっと。

369 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 15:56:15
>>365

丹生氏が九州からきた伝承ってどこで伝えられてるの?
聞いたこと無いが。

370 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:26:24
丹生氏が登場するのは紀国造の後だよ。


371 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:36:15
>>321
>これに対して、「本州も九州と互角に鏡を所持していたが、全て伝世して古墳時代に
>なってから墳墓に埋められるようになった。」という伝世論がある。
>今ではこんな学説の存在自体が黒歴史だろうけど。

で、それが?この板の誰に向けて言ってるんだ馬鹿w

黒歴史であろうが白歴史であろうがどうでも良い。
そんな事、この板で俺ですら言ってないし、他の畿内説の人間も誰も言っていないが?

毎度おなじみの「東遷厨の怨み節」

お前がリアルで考古学者を相手取って
「精勤的苦痛を受けた!謝罪と賠償を要求する!」
と訴訟起こすってんなら誰も止めないから好きにしろ。

いやむしろ面白そうだから是非やってくれwwwwwww

(半島の人間の”恨(ハン)”って感覚に近いのかな?w)

てめえの「怨みつらみ」は頼むからチラシの裏にでも書いておいてくれっちゅう話(呆

372 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:41:26
>>335
>画文帯は、呉の領域の鏡、卑弥呼がそれをもらうというのは無理がある。

>画文帯は呉が滅んでしばらくしてから日本に来た。
>穏当に考えれば、300年以降だろうね。

出ました東遷厨のお得意のパターンw

長い戦乱の中銅鏡の製作組織も壊滅したこともあり
魏が銅鏡の製作まで手が回らず、また呉が臣従していた時期もあり
呉地に紀年鏡をアウトソーシングしていたであろう事は確実。
(と言うか政治的に対立する二国間で文物の往来が絶えると言うのなら、春秋戦国時代はどうなるんだ?って話だが…w)

その事は東遷厨の大好きな王も論証しているとかwww

実際『黄初』の年号のある同行式神獣鏡や対置式神獣鏡の中国での出土がある。

恐らく何も知らない人間に
 「三国志知ってますよね?
  魏と呉は争っていたでしょ?
  だから呉があるうちは呉地の鏡は魏には流れないんですよ!」
とイメージ操作しようってんだろうが幼稚なレベルでの詐欺、勘違い商法、

良いこのお友達は騙されないように気をつけましょうwwwwwww

もうこのパターンも何回も繰り返している
恐らく本人も分かっててやっているんだろうが…

嘘も死ぬまでつき続けたら真実になるって事かな?wwwwwwwwwwwww

373 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 16:50:23
>>329
>とりあえず方格規矩四神鏡なら間違いなく魏鏡だし
>3世紀の記年鏡がでているから時期的にも
>問題は無かろう。

根拠は?

「間違いなく魏鏡」と言うのなら魏代のものとして中国で出土があるんだろうな?

ひょっとして >>303 もお前かな?

>俺が行ったのは、「漢鏡」の編年ではなく、「中国での鏡の編年」にするべきということ。
>岡村は、「魏や晋の時代の鏡は何か?」ということは全く言及しない。
>これは論外。
>つまり、中国での鏡の出土状況を中国での地域差を考慮して、正確に述べないと
>議論の出発点にさえ立っていないということ。

まあこういう指摘もある事だしぃ〜
きちんと根拠出しておこうなw

ちなみに『青龍三年(235)銘方格規矩四神鏡』なら
中国じゃなくて、しかも畿内の
 
 ・京都大田5号墳
 ・大阪府安満宮山古墳 

出土のものなら知っているが(爆w

これって4世紀以降の倣製なんだよな?wwwwwwwww

374 :縄文人:2009/08/19(水) 17:34:15
>>373
現在までに出土している銅鏡では邪馬台国の所在地を指定することは出来ない ということを貴方は理解出来ていないようですね。
いつまでくだらない議論を続けるつもりですか?

それより面白い話がありますよ。水行十日陸行1月です。
これは「舟で十日行ったのち陸路で1月行った」ということでしょう。陸行1月水行十日ではないですからね。
仮に、巻向の近辺に卑弥呼の宮殿があったとします。九州から其処まで行くのに陸路を行くのは大変ですね。利口な人間なら舟で
瀬戸内を行きますね。多分大阪辺りに着きますね。でも大阪から陸路で行くのに1月かかりますかね?もし、1月かかると言われ
るなら、九州内でも大阪ー奈良間の距離の場所はいくらでもありますから、陸行1月を九州説否定の根拠にはできませんね。
じゃあ、陸行1月にするために岡山辺りで上陸させますか?でもそこで上陸する理由がありませんね。舟で行った方が便利なので
すから陸路をとるにはそれ相応の理由がある筈です。
さらに、もっと楽に巻向辺りに行くには河内から大和川を上ってそのまま巻向まで舟に乗ることです。途中流れの急なところもあ
りますが、なに 鞆に縄をつけて人夫達に岸から引っ張らせて行けばなんということもありません。

昔、私が奈良湖の話をしたとき、私の話を逆手に取って奈良は水運の便に恵まれていたから物資の搬入が楽だった みたいなこと
を言っていた人がいました。あの人は何処へ行ったのでしょう?あの人に言わせれば、陸行?そんな馬鹿な!!ということになる
でしょうね。
奈良に行くには水行が一番。ということは、畿内説は頓珍漢説ということですね。


375 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 17:35:06
面白いよな。4世紀に紀年を入れてまで呉鏡を模倣することにどんな意味があるんだろうな。

376 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 17:48:12
>>374 アホの縄文人

お前が鏡の話に興味が無かったらスルーしておけw

ボクちゃんの興味あるお話で進行しないと嫌なのかなあ〜?

一口に邪馬台国と言っても、文献でも考古でもそこから先、多岐に渡る。
自分が興味無い事に口を出す必要はないし
(逆にその方面に知識がないと言って攻められる所以も無い)
興味のある事にレスつけてりゃ良い。

何仕切ってンだドカスがwwwwwwww



377 :縄文人:2009/08/19(水) 17:57:18
この人は昔私がチンピラと呼んだお方でしょうか。
畿内説派の皆さんが困る話題をだすとこんな調子でがなるだけですね。あなたもドカスですか?

378 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:05:02
>>377
つうかだな常に複数のテーマが進行していて
自分が興味のある話が中心に進むとは限らない。

餓鬼が駄々こねるみたいな事言うなドアホw

自分のお話しによってきてもらいたかったら
面白いネタを撒いて客寄せしろ、甘えるなドカスw

それに何?畿内説が困る?
日本海ルートなら問題なし
方角の違いは複数ソースによる情報の錯誤。

そんなもの万年ループネタの一つ
鬼の首でもとったつもりではしゃいでいるのか?
おめでたいやつだなwwwwwwwww

379 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:05:54
>>376
おまえが仕切るな!ドカスがWWWWWWW

380 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:07:37
親魏倭王の金印を与える使者に
ふつう呉鏡は送らないよな。

魏鏡を送ることで、威信材として役に立つと言うものだ。

381 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:10:00
とりあえず ww でアボーンしとけば?
議論の価値がない相手だから時間の無駄だ。

暇で仕方がなければ遊んでやってもいいかもね。

382 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:18:54
>>378
>それに何?畿内説が困る?
>日本海ルートなら問題なし
>方角の違いは複数ソースによる情報の錯誤。

馬鹿だなあ。投馬國を出雲あたりに持ってきたいがために日本海ルートにするんだろうが、仮に投馬國を出雲あたりに
しても奈良はそこから南にはあたらないだろ。方角の違いは複数ソースによる情報の錯誤などと 次々にいい訳を拵え
なければ成立しないのが畿内説だ。
万年ループとはお笑いぐさだ。畿内説派が敗北を認めていないだけだ。おめでたいのはおまえの方だ。


383 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:20:22
>>380
が、実際に中国で魏年号の神獣鏡が出ている現実があるからなw

それらの鏡とて大陸で威信財として使われたんだろうし…




384 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:30:08
結局、「三角縁神獣鏡」と言う今日の日本での分類に限定するなら
中国での出土は無いものの”神獣鏡”なら中国での出土はある(魏の紀年鏡で魏代は保障されると思うが)

対して九州説のイチオシTLVは中国で魏代のものと確認できるものが出土したと言う話は聞いた事が無い。
(九州説で知ってる奴がいたら教えてくれ)

東遷厨やサイキバ君がうわ言の様に繰り返す
「三角の日本と中国の出土500対0」 と言うのは
九州に魏代の物と同じものが無い時点で意味が無い。

大陸での出土を見る限り神獣鏡の方が分があると言わざるを得ないwwwwwwww

385 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:31:52
>>374

水行十日陸行1月が、九州説ではどうなるか、逆に聞きたいね。
もちろん、筑紫平野より南だよな?
日向でもないよな?海岸沿いにいけばいいんだから。
そうなると、ずいぶん南の内陸ってことになるが、



それでいいのか?





386 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:34:19
まあ三角と似たようなものなら中国で出ている・・・と言う話と言う事で
以下のサイト参考までにwww

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/mokuji/kojousizuisou.htm
>V「三角縁神獣鏡」の中国初出土例?か

387 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:38:46
>>385

内陸なんかにならねえだろう。海岸沿いを進めば、何時までも海岸沿いだで。

388 :縄文人:2009/08/19(水) 18:40:27
ローガンさん
>>235 の書き込みについて質問されていたのですね。
あれは、隋書の著者が魏志の邪馬台国の所在地を正確に知っていたなら、もしその所在地が畿内の大和であれば
魏志の方角記事は間違いと気づく筈だから、魏志に書かれた南は東の誤りだと訂正してもよいであろう という
ことで そうだ そうだ といったのです。

なお、記紀の記事で6世紀以前の記事の時間関係は信用できないと書きましたが、それは7世紀以降の記事は全て
正しいということを意味するものではありません。間違いもあるでしょう。


389 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:40:31
>>387

そうだよね。
「水行十日陸行1月」が九州では無いことを意味してる。


390 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:42:57
>>387
では、何故船で水行しないのかということになるな。1月も海岸沿いを歩く意味は?

391 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:44:06
文献ネタなら「水行陸行」の前に「萬二千余里」がまだ未消化なんで
チト引っ張らさせてもらうwwwwwww

単に 二 ◆.L.MXSPOgcだけの問題じゃなくて
「萬二千余里」…この数字を根拠に使っている九州説人間は
それが 「いつ」 「誰が」 測定したと考えているのだろう?

そしてそれ(不弥国〜投馬国〜邪馬台国 間の距離の実測値)が何故
倭人伝に記されず、あの日数の表記になってしまったか?

きちんと答えられるんだろうか?

392 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:45:22
>>384  何が言いたいの?

393 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:46:17
>>374
投馬が但馬だとすれば帯方郡からみて南に水行20日
その南に邪馬台国が水行10日か陸行1月の位置とも解釈できるな。


394 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:50:03
>>392
読んでそのままの意味だよw
つうか手っ取り早く言えば三角舶載説もまだ目があるって話かな?wwwwwww

実際今は舶載説はどう言う立ち位置なんだろう?

むしろ今の年代観の変遷からすれば結構支持受けているのかな?

395 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:51:02
確かに萬二千余里が実数なら、
邪馬台国への距離が日数なのと矛盾するよね。

これを説明するには、邪馬台国の行程=倭人伝聞説と
萬二千余里非実数説(大月氏国との対比)しかないですね。

396 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:51:58
南に水行10日行った先に
陸行一月出来そうな大陸がない。

397 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:52:05
>>390
測量するのに地形に合わせ、最適な方法を選択したからだろう。

398 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:53:07
魏志倭人伝には、
邪馬台国まで水行十日陸行1月という記述の前に、
水行二十日で投馬國に至るとある。

不彌國から、合計水行三十日陸行1月で邪馬台国だ。
これは大和までの道程としてリアルな数字だ。



399 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:56:17
>>398
一度も渡海していないので、不彌国が九州内なら
投馬も九州内。

400 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 18:58:39
現代なら衛星写真で郡と邪馬台国の二点間の距離をダイレクトで測れるがw
古代なら当然クニとクニの距離を測ってそれを積み上げていく(ボトムアップ)しかないわけで

・・・そのデータ何処に行ってしまったん?w



401 :縄文人:2009/08/19(水) 19:00:06
>>393
<投馬が但馬だとすれば帯方郡からみて南に水行20日 >
魏志にそんなことは書かれてないでしょ。不彌國の記述のあとに南至投馬國水行二十日としか書かれていません。

402 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:01:59
>>401

だから、その記述どおりだと、邪馬台国はずいぶん南の内陸だよな?
九州にそんな場所があるのかってことだ。

おまえはどこだと思ってるんだよ?


403 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:05:43
水行をどういう風にやったのかな。
江戸時代の樽回船だと性能の良い帆なら10ノットくらい出たそうだが
この時代2〜3ノット(時速5キロくらい?)程度だろう。
一日行けば50キロ程度か。30日で1500km

ガレー船のように漕がせていったのかもしれないがさすがに資料がない。

さらにそこから陸行一月して、江戸時代だと一日10里で見込んでいるが
40キロの半分の20キロとすると、30日で600キロ

地図で距離を見てみると… 北海道?

404 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:06:22
>>401
別に不彌国からとも書いてある訳でもない。

投馬、邪馬台国伝聞説だと別に伊都国周辺の情報は不要でしょ。
ダイレクトに帯方郡からみた国の位置が解ればいいんじゃないの?

405 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:08:23
陸行一月は曲者だなぁ

406 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:08:40
>>394
舶載説の立ち位置は、きわめて厳しいんじゃないかな。
反対説の人も表立って反論するのは可哀想というところがある。
試験1週間前の3浪生のようなデリケートな存在。

407 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:11:18
しかしここの畿内説の連中ならみんな腹の中で思ってるよな?

萬二千余里なんて”蛮夷朝貢国は帝都から一万里以上の僻地にある”という
中華思想でかなりテキトーに編み出した数字である・・・とw

まあテキトーな数字じゃないと言うのならその積算根拠をヨロシクwwwwwwww

408 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:19:31
>>407
中華思想が加味されると、韓は帝国と肩を並べるほど馬鹿でかい地域になるが
それは愛嬌なのか?

409 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:23:08
目先の万二千里ばかりに気をとられていて、韓まで神経が回らなかったか?

410 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:23:37
>>407
北九州諸国としては、奴国、不弥国までしか書いてないんだよ。その次が女王国だ。
女王国とあるだけで、邪馬台国とは書いてない。ということは、邪馬台国とは別の
概念なんだよ。
簡単に言えば、伊都国の東南に奴国がある。その奴国の領域が終わったところから
女王国が始まる。その女王国が始まるところまでが万二千余里ということだ。
女王国は会稽・東冶の東といわれるように広大な地域。郡から邪馬台国までまでの
距離ははっきりしない。会稽・東冶の東とあることから見当をつけるしかないな。

411 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:25:45
>>410
九州のどこにそんな地域があるんだよ。

412 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:32:54
おいおい、縄文人の土俵に上がってやったのに、レス無しかwwwwww


いったい、邪馬台国は九州のどこにあるんだい?
魏志倭人伝に書いてあるんだろ?


413 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:36:05
東夷伝の方角や日数なんていい加減だろ。

たとえば、韓伝には馬韓の西に済州島らしき大きな島がある記述があるが、
現代の感覚で言えば南だし。

「陸行一月」もその間に国が一つも無いなんて不自然だ。


414 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:36:10
で、結局、九州説側から

>「萬二千余里」…この数字を根拠に使っている九州説人間は
>それが 「いつ」 「誰が」 測定したと考えているのだろう?

・・・これに対する答えは無いのかな?

例えばその数字が魏使の前に既にあったのか?
後になって出てきたのか?
・・・によって色々話も違ってくると思うのだが?www

415 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:37:25
縄文人は前スレに書いてたが、陸行1月は1日の行程が3〜5km説なんだよ。しかも伊都国
=前原を否定してる。といえば、もうわかるだろう。wwwww

416 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:39:50
>>414
それは陳寿が倭人伝を書いた晋代の認識じゃないの。「とにかく遠いところ」程度のもの。

417 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:48:39
松浦から糸島まではほぼ真東で、若干北東方向になる。
この部分は納得いかないが、北が海だと考えて海岸線を移動すれば
混乱することもあるかもしれない。(弱気)

伊都から南東が奴国は納得できる。日向峠を通る道で、峠を越えると
福岡西区、早良区辺りに出る。このあたりは弥生遺跡は多い。
三種の神器のでた古墳もある。室見川流域には博多周辺や太宰府とは別の
勢力がいた形跡がある。ただし、ここから博多や太宰府までは結構遠い。

博多や太宰府から東に行くと宇美となる。そこから南に行くのなら
博多区から宇美へ移動し、宇美から、太宰府天満宮方面へ抜けて筑紫野
方面へ移動することになる。筑紫野から先は筑後平野の領域に入る。

418 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:52:01
>>415
うん、大和ではなさそうだな。

419 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:58:35
イザナギイザナミで

筑紫の日向のたちばなの小戸のあはぎ原

この文章が伊都から日向峠を通っているようにみえて
仕方がない。

日向峠を越えて、山を下って、海岸の方向に行くと
ちょうど小戸の海岸に出る。
立花がよくわからないが。

420 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 19:58:49
>>415
>陸行1月は1日の行程が3〜5km説なんだよ。
いい感覚かもな。使者一行をどんなふうにして案内するかを考えれば、宿泊できる
豪族の家についたら、その先へ伝令を飛ばして次の豪族に受け入れ態勢を準備させ
る。それが整ったところで出発だ。1日10数キロ歩く日があっても、待機の日も
結構あるだろう。平均すれば、3〜5も考えられる。

421 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:00:38
>>414

>いつ

後漢代


>誰

官人

422 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:02:44
>>420
おまえ縄文人だろ。wwwww

423 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:06:47
>>421
じゃあ邪馬台国は後漢代に既にあり

官人がやってきていたと言う事か?


424 :420:2009/08/19(水) 20:08:33
そんな歳ではないよ。

425 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:14:09
東大寺山の中平刀が中国刀なら、後漢から卑弥呼共立記念に使が来た可能性もあるかも
しれないけどね。

426 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:14:11
wikipediaによると後漢は西暦220年まで続いている

光和年間(178年 - 184年)に卑弥呼は共立されている。

後漢の時代につながりがあってもおかしくない。

427 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:16:49
>>424
ええっ、縄文人て中学生だろう。wwwwww

428 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:28:49
>>415
>陸行1月は1日の行程が3〜5km説なんだよ。

東と南を間違う並みの読み方だな。

倭人伝は公文書なんだから、常識的な行程で考えるべきだろ。
「陸行1月」と書いてあれば、読み手に対して、結構な距離があるものとして、
装備も準備が必要だという意味になるものだ。

429 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:30:34
で、なんだ?

縄文人は前原が邪馬台国だと思ってるわけ?

じゃあ、割られた鏡の中に卑弥呼の鏡があるはずだな。
だったらそう言えばいいだろう。

430 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:34:14
>>423

後漢代に邪馬台国がなかったら、後漢書に邪馬台国とは書けないだろう?

431 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:48:52
>>429
いやそうじゃなくて、「伊都国は前原ではなく、末盧国から陸路東南五百里」といってるし、
陸行1月を近距離としてるから、おそらく古くからある典型的な説だろ。



432 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:53:50
>>431
末盧国から陸路東南五百里?ってどこだろう。

まさか、宇佐じゃないよね。
そこまでバカじゃないと思いたいが。

433 :縄文人:2009/08/19(水) 20:54:00
>>412
この人は横着な方のようですからあまり相手にするとこちらの人格まで疑われそうで躊躇しますが、

末盧国から南東に五百里(魏の公式里と称する里ではない)行くと有明海に面した佐賀平野(昔は海が入りこんでいた)に出ます。
此処(佐賀市の北部辺り)が伊都国です。ここから東南百里のところに奴国があります。吉野ヶ里はこの奴国の領域に入り、鳥栖市
あたりまでの平野部も含まれます。倭人伝にはも一つ奴国が記されていますが、これは漢から金印を貰った奴国で福岡市と春日市の
辺りにありました。倭国大乱の頃でしょうか、奴国内部の勢力争いの結果、奴国の勢力のかなりの部分が別れて新しく奴国を建てた
のが戸数2万の奴国です。ここから東に百里で不彌國です。ここは太宰府、宇美、筑紫野の辺りでしょう。ここまでは魏の使節は自
らの目で距離のおおよそを測れたのでしょう。この不彌国からは川(昔の川)を利用して舟で行きますが、蛇行したり迂回したりで
距離感が掴めなかったのでしょう。それで日数表示になったのではないでしょうか。途中宿泊、食事、用足しなどのため豪族の屋敷
に立寄りながら、20日後に投馬国の首都(八女辺り)に到着します。船小屋辺りに港があったのでしょう。投馬国は戸数五万ですか
ら大国です。久留米市から大牟田市辺りまでが領域になるでしょう。船小屋からまた水路(有明海)で南下し、10日後に上陸します。
邪馬台国の入り口です。ここから内陸部へ歩いて1月邪馬台国女王卑弥呼の宮殿に着きます。この陸行の際も宿泊、食事、用足しなど
で各地の豪族の館に立寄りながらの旅です。邪馬台国は戸数7万余を有する、倭国随一の大国です。その版図は熊本県から宮崎県に跨
がる広大なものだったでしょう。卑弥呼の宮殿は防衛に有利な地形のところにあったでしょう。

こんなものでどうですかね。



434 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:02:24
しかしこいつのレスはなぜこう冗長なんだ。もう少し2chで読んでもらえる書き方を学べば。

435 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:03:02
>>433

宇美から八女は水行はどんな川をたどっても無理
自分は福岡ルートは水行は無かったと考えています。
佐賀越えルートは水行が可能

筑紫野から鳥栖辺りは結構標高が高い。
あのあたりは佐賀福岡では結構積雪がある場所なのです。
この辺りでは珍しい場所です。

水分(みずわけ)といって、このあたりで
福岡側か有明海側か川の流れが変わります。

ここに両方を繋ぐ運河があったという説も見たことがありますが
実現の可能性は低いと思います。

436 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:04:56
>>433

なにい?
邪馬台国は熊本県から宮崎県に跨がる広大なものだったでしょう?

クナ国はどこいったんだよ?


437 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:10:50
鹿児島の熊襲じゃね?

438 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:22:27
>>437

そこに九州説の矛盾があるんだよな。

クナ国が鹿児島だとすれば、ただの片田舎に苦戦してたことになる。
だったらそれより東の四国や吉備や出雲は、邪馬台国とどういう関係だったんだ?
敵対してなかったとしたら、友好国ではあったはずだ。
土器が行き来してるわけだから。
それともほんとに無関心無関係だったのか?

じゃあ、それらの東の国は、魏の冊封を受けた邪馬台国がおとなりにあったのに、
何のアプローチもせずに、卑弥呼共立にも50年間無関心だったのか?
魏から見たら、熊襲制圧にゲキを飛ばす前に、
四国や吉備や出雲といった地域が邪馬台国と同盟するように助言するはずじゃあないのかね?
無視し続けるっておかしいだろ。



439 :縄文人:2009/08/19(水) 21:24:10
>>435
昔と今では地形が変わっています。有明海から細長い入り江が太宰府の辺りまで伸びていました。この辺りには津古や干潟や四三島などかつては
海あるいは幅の広い川であったであろうことを示唆する地名があります。

440 :縄文人:2009/08/19(水) 21:31:53
>>438
狗奴国は熊本県南部および宮崎県南部と鹿児島県でよいでしょう。片田舎と言ったら失礼ですよ。幕末には日本を
変えた薩摩の土着武士の先祖かも知れません。

四国や吉備や出雲は邪馬台国連合の勢力によって平定制圧されていましたから、別になんちゅうこともなかったで
しょう。



441 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:34:20
>>440

>四国や吉備や出雲は邪馬台国連合の勢力によって平定制圧されていましたから

何を証拠に?

魏志倭人伝のどこに書いてあるの?


442 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:36:29
>>438 隼人の帰属には大和朝廷も苦戦していた。はっきり片が付いたのは9世紀頃。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1

>>440 この根拠は全くないね。



443 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:45:09
>>439

地形が変わることは比定しないのですが、2000年程度で変化する可能性は低いです。
現みやき町南部や糸島の九大伊都キャンパス南側は2000年前は海だった可能性は
高いと思いますが、それらとは問題にならないくらいに標高が違います。

川であれば福岡側は御笠川、有明海側は宝満川がその候補となると思われますが
川をたどると天拝山東側付近で分かれているのがわかると思います。

分かれ目は天拝山東側付近になると思いますが、ここで必ず船を下りることになります。
また、この辺りはかなりの上流域となるため、川幅水量、傾斜により水行は
難しいとおもいます。

全く可能性がないとは言い切れませんが、かなり難しいことを考慮してください。

444 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:58:03
>>440
>四国や吉備や出雲は邪馬台国連合の勢力によって平定制圧されて
いましたから、別になんちゅうこともなかったでしょう。

どの邪馬台国に何時平定されたの?
何処かに記述でもあるのでしょうか?

445 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 22:02:07
>>441
>四国や吉備や出雲は邪馬台国連合の勢力によって平定制圧されていましたから

まず出雲などの北陸・山陰は四隅突出型弥生憤丘墓など、九州・畿内ともに別文化の地であり、
神話的にも独立している。
3世紀以前の平定などというのは、歴史を知らない証拠。

446 :445:2009/08/19(水) 22:05:34
アンカーミス。>>440でした。sorry.


447 :420:2009/08/19(水) 22:07:40
>>442
これまで常識とされてきたことを見直さなければ、真実はみつからないだろうな。
ほんの20年前まで、南九州の古墳はみんな5世紀以降だなんて言ってたんだ。
まだ、みんなの頭にはそのころの「常識」から脱却できていない。

448 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 22:11:16
昔は大和の古墳はみんな4世紀以降だなんて言ってたのを、ちゃんと見直してますが。

古い常識を守ってるのは九州説でしょ。

449 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 22:18:49
消えた日本の歴史

百済王家 = 天皇家
百済王 = 天皇(大和朝廷と百済王朝統合)
百済の高官 = 蘇我家 = 大和朝廷の高官
百済人 = 日本人(朝鮮半島が安定せず弥生時代から奈良時代まで大量移民。
縄文人の蝦夷、熊襲を追い払う)

そもそも私たち日本人のほとんどは朝鮮半島からの移民である。

450 :420:2009/08/19(水) 22:25:09
>>448
大和の古墳が一番最初だと言いたいがために、必死に時代をさかのぼらせてるだけじゃ
ないかな? 古墳の発祥は九州だと認めるのかね?

451 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 22:38:58
>>450
いつもの東遷厨か?西都原81号墳などなら、畿内の古墳と比較してどちらが古い
などとはまだいえない。お前の心には闇があるな。

452 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 22:41:58
>>450

どの古墳が発祥だってえ?

西都原から画文帯が出てるならともかく。

453 :420:2009/08/19(水) 23:02:19
>>452
西都原はまだあまり掘ってないからなあ、しかし、持田古墳から画文が
出てるよ。それより古い漢鏡もいくつかある。

454 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 23:03:39
>>453

なら、西都原が邪馬台国だということでいいんじゃない?


455 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 23:05:57
西都原は単なる墓場だろう。畿内説論者みたいに古墳を枕にしていたなんて
ことは考えないんだよ。

456 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 23:09:45
西都原は、王都とは呼べないということか。

457 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 23:23:23
>>417
>松浦から糸島まではほぼ真東で、若干北東方向になる。

松浦ってどこよ?

それとな、
真東と北東は、お互い方角として相容れない概念だぞ。
真東か北東か、どっちかはっきりしろよ!

458 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 23:28:22
>>456
墓場ってのは敬して遠ざけるものだ。毎日、先祖の墓を眺めながら暮らしたい
なんて奴はいない。

459 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 23:33:48
>>450
徳島も古いですよ。

460 :縄文人:2009/08/19(水) 23:42:26
>>443
貴方は現在の地形を見て論じていますが、宝満川の昔はもっと大きなものだった可能性があります。それと、もしかして太宰府天満宮
の辺りで舟に乗ったと私が言っていると勘違いされてませんか?舟に乗って行けるところから行くのです。

461 :縄文人:2009/08/19(水) 23:54:54
>>441
魏志には書いてありません。書く必要もなかったのでしょうね。女王国の東側の海を渡ったところにある国々は皆倭種の國
といった程度の認識ですから。私が邪馬台国連合勢力によって制圧されていたと書いたのは、紀の神武東征の話から推定し
たものです。なお、私は神武は崇神と和風諡(ハツクニシラス)が重なるので、同じ頃の九州勢力の指導者だったろうと思
います。倭国大乱の頃に東征したのだろうという見解に立っています。

462 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 00:01:58
>>460
少し読み間違っていました。
那国、宇美と来たので、御笠川から水行のまま
宝満川に出るものとおもっていました。
それで無理だと書いたのですが、間違っていたようですね。

大宰府から一山越えて筑紫のほうへ出れば、当時宝満川が
十分に大きければ水行はできそうです。

463 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 00:11:01
>>461
色々文献を読むと、神武は結局出雲から
九州へ下った人物ともとれます。

私はその九州から畿内へ帰る行程が、神武東征の記録として
残されたという見解ですね。

464 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:15:31
>>461

そこに九州説の矛盾があるんだよな。

じゃあ、それらの東の倭種の国は、魏の冊封を受けた邪馬台国がおとなりにあったのに、
何のアプローチもせずに、卑弥呼共立にも50年間無関心だったのか?
魏から見たら、熊襲制圧にゲキを飛ばす前に、
四国や吉備や出雲といった地域が邪馬台国と同盟するように助言するはずじゃあないのかね?
倭種とかいって無視し続けるっておかしいだろ。

しかも、大和には倭国大乱の頃に東征した九州勢力の指導者がいたと、自分で書いてるのにだ。



465 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:26:28
日本書紀の神武東征を倭国大乱の頃の史実とするならば
政治の中心は魏志倭人伝の時期には大和に移っているはずだしな。

466 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:29:52
>>464
畿内説では既に九州は支配下にあるんだよね?

467 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:35:24
>>466
そうだな東京の大手ゼネコンが、地元九州の土建屋の縄張りを食い荒らすようなものだ。

468 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:44:08
そうすると、どうやって九州を支配下に入れたの?

469 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:45:00
九州説なら、クナ国が大和だくらいのことを言わないとな。


470 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:54:57
邪馬台国が九州だとした場合、
四国・吉備・出雲・大和との関係はどうだったのか?

1.敵対してたなら、クナ国と見るべき。すると、魏志倭人伝の方位がデタラメという結論になる。
2.邪馬台国が平定してたなら、卑弥呼共立の30国に加えるべき。
3.全く何の関係ももたない倭種だったなら、そんな関係が50年も続くのか?

九州説は矛盾だらけ。


471 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:57:19
>>469
それには南を東に読み替えることが必要だから出来ないでしょう。

472 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 02:18:43
>>470
>邪馬台国が九州だとした場合、
>四国・吉備・出雲・大和との関係はどうだったのか?

吉備・出雲・大和:魏志倭人伝においては認識なし。
中国:周防が倭種
四国:伊予が倭種


備考
邪馬臺國は筑紫
狗奴國は肥




473 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 02:36:11
狗奴國は温泉施設「狗奴国城」があるからわかりやすいな。

474 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 02:54:48
>>433 アホの縄文人

伊都国=佐賀市北部なら良く出てくる佐賀大和で良いのか?

先ず奴国から東へ不弥国と言うのが良く分からない。
 
 奴国・・・吉野ヶ里から鳥栖を含む領域
 不弥国・・・大宰府・筑紫野・宇美

どう見ても東じゃなくて東北、鳥栖辺りから見ればむしろ 北 じゃないのか?

その不弥国から投馬国(八女)まで水行二十日と言うのも良く分からない
有明海から川を遡上していった方が余程早そうだが・・・

ここら辺の説明は日向厨の放射説のほうが分かりやすくはあるwwwwwwwwww



475 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 03:27:04
誰も>>468に答えてくんないのね・・

476 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 03:41:47
じゃ敢えて>>468に答えようw

恐らく畿内説論者でも意見が分かれるところかもしれんが
少なくとも俺は3世紀にヤマトが九州を武力制圧したなんて説は採らない。
(じゃあ後世6世紀の磐井の乱はなんだったのと?言う話になりかねないしなw)

所謂「ゆるやかな首長連合」を想定する
(まあこの構想はここの九州説の連中には蛇蝎の如く嫌われているがwwwwwwww)

そもそも九州という括りでまるで九州が一枚岩であったが如き想定をする必要が無く
そんなものは「アンチ畿内説」に凝り固まった九州説の脳内だけのお話w

福岡平野の動きを見れば畿内ヤマトの文化を積極的に受け入れている(土器古墳等)

むしろ交易相手としても積極的に首長連合に加入していった方がメリットが大きい。

何かそれを拒む合理的な理由があるかな?


477 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 03:50:39
>>476
ゆるやかな首長連合とは便利な言葉だね。まあ取りあえず置いとくとして、
何を持って傘下に置いたかを教えて欲しいんだけど。

478 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 03:52:41
>>477
日本語の通用しないやつだなwwwwwww

読んで分からないか?

傘下に”入れた”んじゃない
傘下に”入ってきた”んだよ?



479 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 04:08:04
>>478
なぜ傘下に入るの? メリットは?

ぶっちゃけ、九州説から入ったんだよ。
今でも倭人伝・隋書に細かく描写されている地理・風俗は紛れも無く九州のことだと思っている。
でも、邪馬台國・投馬國に関しては、畿内にあったんじゃないかと考えが変わって来たんだよ。
但しその場合、何を持ってそんな遠国が九州を支配(じゃないらしいが)していたのか、これが最大の疑問なんだよね。

480 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 04:17:56
「何を持って」の問いの内容が不明だな。

理由を聞いているのか?。
それとも手段を聞いているのか?

481 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 04:23:24
>>480
両方知りたいんだけど。

482 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 04:27:23
>>479
はあ?
既に言った交易一つとってもメリットがあるが?
(福岡平野で作られた銅矛でも瀬戸内・山陰への東進が見られる)

それに安全保障上の事を考えても本州方面からと半島、あるいは玄界灘より西側の勢力からの侵攻
二正面三正面作戦は愚の愚w

まあ本州側からの軍事圧力なんてそう無かったとしても手を組んでおくに越した事は無い。
商売相手にもなるとなれば尚のことw

どう考えても良い事だらけw

逆に首長連合に参加しないメリットを聞きたいが?wwwwwwwww


483 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 04:35:27
>>482
人の話聞いてないのはどっちだよ。
畿内、九州、それぞれに國々があったんだろ?
その長がヤマトの邪馬台国、そういう意味なんだろゆるやかな首長連合ってのは?
それとも倭人伝に書かれた伊都國から先は、全て畿内って言ってるの?

484 :482:2009/08/20(木) 04:48:16
>>483
悪い。
質問の意味が、レスの内容が、全然見えてこない。

ちなみに 首長連合=邪馬台国 じゃなくて首長連合=女王国 な。


485 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 04:48:56
>>481
大和川の主張でよく見かけるのは
北九州を影響下に置く理由は、「威信財」や「鉄」の入手。
すなわち、朝鮮半島との通商が目的。

卑弥呼共立のきっかけとなった倭国大乱は
広域で起きたと考えられているようだ。

486 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 04:49:51
失礼、大和川じゃなくて大和側ね。

487 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 05:00:52
どの道、九州説でも半島との交易の為、玄界灘周辺は抑えておく必要がある。

「首長連合」のような形態を否定するなら
そりゃ、力づくって事になるだろうが

例えば筑紫やその他、中部南部の勢力が
玄界灘周辺を支配下に治めたって根拠は何かあるのかな?

福岡平野ならその証明は免除されるだろうがwwwwwww





488 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 05:27:32
>>485
通商はしてたろうね。
さっきも書いたけど、倭人伝他漢書を読むと、
九州のみor畿内のみで考えるのは、無理があるんじゃないかと思うようになったんだ。
でもそうなると、遠いヤマトが九州をまとめる理由が見つからない。

>>487
どうしてそうケンカ腰なんだろね。首長連合を否定したわけじゃないよ。
でもその質問の仕方は、九州中部南部の國々は傘下ではないって前提だよね?
そうなると、君の言う首長連合に賛同できなくなるんだけど。

489 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 05:53:40
「九州のみor畿内のみで考える」とか「九州をまとめる」とか、
自分だけの言葉で語られてもわからんのよ。

490 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 05:56:46
学術用語しか受け付けないなら、考古学板池

491 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 06:02:15
一般の日本語としての話だけどね。
目的語が欠けてたり、対象の範囲が不明だったり。

492 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 06:15:19
通説に沿ったネタしか、突っ込みできないからだろ
一般人は黙ってろっつーいつものパターン
だったら放置すりゃいいのに、難癖だけはつけて発言を封じる

493 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 06:29:32
>>492
他人にわかるように自分の考え方を説明すればいいじゃん。

どうも九州一円がなんらかの形で統一されているという
前提に立っていると思うけど、何故そう考えるのか。

>>488でいえば、
「九州中部南部の國々は傘下ではない」が
どうして
「君の言う首長連合に賛同できなくなる」のか。

494 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 07:03:48
>>493
そんなに変なこと言ってるかな?
彼の首長連合がどういう内容なのか知らない。
ただ彼は、北九州は出土品から考えて首長連合に含まれる、と言った。
つまり中部・南部九州は含まれない、ということを言ってるよね?
それなら賛同できない、という自分の意見を言ったんだけど、おかしいのかな?

495 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 07:14:08
>>494続き
元が九州説だから、偏って考えてるかも知れない。
だけど、狗奴國はやはり球磨川流域に比定するのが自然だと思う。
女王國=首長連合だとするなら、狗奴國のすぐ北に首長連合内の國がないと変だよね?

496 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 07:35:27
>>494-495
畿内説で狗奴國を球磨川流域に比定する説は見たことが無いな。

考古学界では、狗奴國は東海地方に比定する説が主流みたいだ。
その他、群馬や栃木に比定する人もいるようだ。

497 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 07:55:05
>>496
そうなのか残念。
というか畿内説に全面移行できないのは、他の國の比定地がしっくりこないからなんだよね。
その辺をさっき畿内のみ、と言ったつもりだったけど、わかりにくかったみたいでごめんね。
全てが解明される日は来るのかな。

498 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 08:25:45
本州なんぞ全部毛人の国なんだろ?

499 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 09:14:59
>>488
畿内圏に水銀鉱脈が集中してる事がわかったからだよ。

神武の伝承も紀伊半島をまわって宇陀に入ってるでしょ?
大陸の人間が大和にやってくる理由も同じ事が言える。







500 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 09:25:03
たしかに、「首長連合」という言葉は曖昧で、
九州説から見たらなんのこっちゃとなるだろう。

じゃ、九州説側から考えてみよう。
九州が、九州単独で独立してたとしよう。1世紀くらいなら、そういう状況にはあったろう。
その場合、近畿はどうだったかというと、近畿は九州より広範囲の銅鐸祭祀文化圏が広がっていた。
(銅鐸祭祀文化圏というのも、もう古いが、九州説にはわかりやすいだろう)

九州のほうが、近畿より先進国で立場が上だったと、九州説は考えているだろう。
その場合、何が起こるかと考えれば、九州に対抗して近畿が一丸となって連合するということだ。
ヨーロッパのEUのようにな。ここまではいいな?
EUを例にすれば、九州はイギリスだ。最初はEUに反対し、完全加盟するでもなく、独立を保とうとしている。
でも、イギリスだって、EUを無視して経済は成り立たない。

EUがイギリスを支配するとか、武力制圧するなんてことは無い。
イギリスがEUに歩みよっている。同じことが、九州にも言える。
九州は独立を保とうとしてたかも知れないが、近畿連合に歩みよることが国益だったということ。


501 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 09:30:27
九州説は、武力で東進して畿内を征服したと思ってるかもしれないが、
それこそまったく証拠が無い。

だいたい、九州説ではクナ国を南九州と考えて、クナ国にてこずってたような邪馬台国が、
どうして遠距離を移動して近畿を一気に制圧出来ると思えるのかわからない。

実態は、九州が近畿連合に歩みより、経済に組み込まれていき、
経済的に、近畿を抜きにして九州単独で独立を維持できなくなった、ということだ。



502 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 09:35:43
決して安定していた訳ではない対半島、大陸対策を考えたら
背後の諸国と手を結ぶ事を当然考慮するしな。


503 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 09:37:15
経済的に、九州と畿内が融合していたことは、
庄内式土器の移動という明確な証拠がある。

武力制圧という痕跡は無い。
畿内の鏃が九州の庄内式土器と一緒に出てきたとか
九州の鏃が畿内の庄内式土器と一緒に出てきたとか、そんな話は聞かない。

これ以上、何か質問があるのかな?

504 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 09:52:56
九州説で考えるとどうしても島内で30国を
考えてしまいがちになるが、
そうなると当時の出雲や丹波、吉備の存在が説明つかないからね。

貨泉が西日本一帯の弥生時代の遺跡から出土している以上は
1、2世紀当時の中国と無関係という事は有り得ない事だし。
中でも最多は岡山で出土しているしな。

505 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 10:19:34
>>499
九州勢がより多くの水銀を求めた、には同意なんだけど、
中国本土で沢山水銀は採れるのだから、わざわざ輸入する必要はないと思うよ。

>>500,501
そういう流れには同意するよ。

>九州説は、武力で東進して畿内を征服したと思ってる
俺は思ってないよ。衰退して組み込まれた、まさにそうだと思う。
狗奴國との争いの種は上にもあった水銀だと思う。
邪馬台国のすぐ南が狗奴國、という記述はないし、都はもっと安全な場所に置くものだろう。

506 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 10:26:45
なかなか謙虚な九州説論者ですなw

九州説の人は熊襲=狗奴國と考えてることが多いようだけど
熊襲こそ純粋な九州文化圏だと思うんだけど・・

507 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 10:33:16
>>504
その通り。だから同様に畿内だけに無理矢理全てを当てはめるのもおかしいと思うんだよ。
なぜ折衷案はないの?

>>506
でも東海地方はないと思うよ・・

508 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 10:33:25
>中国本土で沢山水銀は採れるのだから、わざわざ輸入する必要はないと思うよ。

しかし水銀でも質があるからね。宇陀の物は良質とされた事から、
量を求める者としたら見逃せないのでは?

509 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 10:38:58
>>500
だから九州勢力は早くから、大陸王朝の旗下になったのさ
巨大な組織に飲み込まれない為の工作

510 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:06:01
「邪馬台」って「ヤマト」と発音するんだから明らかに畿内だろ

511 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:19:13
>>501
狗奴国は大きな国ではないよ。旁国の一つにすぎない。邪馬台国は狗奴国にてこずっていた
わけではない。魏に朝貢していた国として、朝貢国同士が私闘をしたと非難されることのな
いよう根回しをしていただけだ。

512 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/20(木) 11:20:57
だったら伝は「伊都国」のように「邪馬都国」と書くだろうが。
だから「邪馬壹国」なんだよ。

513 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:25:06
>>503
何で鏃と土器が一緒に出てくる必要があるんだ? 鏃は武器、土器は食料の保存だろ。
もともと、性質が全く異なるものだ。
近畿では銅鐸を鋳つぶして他の物にしていただろうが。それこそ、外部の勢力に征圧された
証拠だよ。大切にしてきた銅鐸を鋳つぶすなんてことは、自分たちではけしてやらん。

514 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:25:59
>>512
日本語の発音(五十音)と表記に使われた漢字は一対一対応なのか?

515 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:26:24
台と都が同じ読みだったんかいな

516 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:26:41
>>510
畿内に「ヤマト」ができたのはいつなのかな? 証拠をみせてくれよ。

517 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:36:24
>>504
説明つかないなんてことはないさ。倭国は九州。そこに30国があった。
本州は毛人国。そこに、出雲や丹波、吉備があった。それだけのことだ。
倭国が九州だけだといっても他と交流がなかったというわけではない。倭国は毛人国とも
ある程度の交流はあったんだよ。朝鮮半島と交流があったようにな。

518 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:46:36
>>517
30国が九州だとすると、貨泉は九州各地から幅広く出土しないとね。

現状では北部九州に集中してあと宮崎のみ、
他は皆西日本(一部中部も)ですよ。

倭人伝の記録からは、毛人国と使いや関係が有ったとは
読み取れないですね。

519 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:48:41
>>513
それならそれで、
九州勢力が畿内に侵攻して銅鐸を廃棄したのは、何年だと思ってるわけ?
4世紀だというなら、畿内の銅鐸祭祀は3世紀末まで続いてたことになるな?
そういう証拠はあるのか?


520 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 11:50:43
>>515
壱与(いよ)を「台与」の誤記として「とよ」と読む説があるから、「台」も「と」と読むのではないか

521 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/20(木) 11:54:16
>>510

「ヤマト」は「大和」の日本語表現。

522 ::2009/08/20(木) 11:56:23
邪馬台国=ヤマイ(ヤマイチ)国説なら畿内には
「市」の付く地名なら沢山あるぞ。

ヤマトタケルと関連が深い「古市」に箸墓は「大市」だ。
奈良盆地南部は「高市」だしな。

523 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 12:01:25
>>520
台のほうは良いけど、都のほうはどうなのってこと

524 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 12:07:35
「伊都国」がイトと発音したという証拠は?


525 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/20(木) 12:18:00
「都」は、漢音でト、呉音(和音)でツといわれる。倭人伝に表記された「都」が呉音ツを採用したのなら、ツシマのツは
隋書のように「都」を使用したであろう。

526 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 12:19:44
>>525

古音に詳しいようだけど、卑弥呼の発音は「ヒミコ」でいいのかい?


527 ::2009/08/20(木) 12:26:45
ヒミコはヒミホじゃないの?
少なくとも「コ」ではない気がする。

528 :河童虫:2009/08/20(木) 12:30:10
>>526

卑弥呼はヒミコ表記だよ
ヒミコは、ヒミカホの転訛
ただヒミコと表記されていても、現代のヒミコ発音と全く同じであったかは
当時の人しかわからない。

529 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/20(木) 12:47:22
>>514 >>515
伊都は何と読むんかいな? 全然「都」は と と読まないっていう
かいな?

それにヤマトと言ったって畿内とは限らんぜ。日本全体的に言う
場合もあるだろう。


530 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/20(木) 12:49:37
>>522
当時の地名らしきもので言ってくれよ。

531 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/20(木) 12:51:22
>>522
あ〜そうか? 後段に乗ってるわけね。それは国名なのかい?
それに限定するのが妥当でないの?

532 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/20(木) 12:55:27
太国さんの言うように、ヤマトを畿内限定にする事は難しい、かと言って
列島すべてをヤマトとは呼べないけど

533 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 13:02:25
>>531
>国名なのかい?

太国は、高市も大市もしらないのか。
何年古代史やってるんだよ。
このていどの教養で九州説強弁されても説得力ないよなー。



534 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 13:03:06
>>391
私の説では明快に答えているのですけどね。

万2千里は梯儁が邪馬台国に来たときに計った実測ですよ。
国々間の距離は張政が邪馬台国に来たときに計った実測、ただし梯儁とルートが違うため通過国数がちがう。
足りない2国間分の距離に適当(数学的用語に近い適当ね)な数値をもってきたのが20日と10日1月。

私の説を批判できなくなってきたから、対象を九州説全般に広げたのでしょうか?

535 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 13:07:30
>>534
>万2千里は梯儁が邪馬台国に来たときに計った実測ですよ。

どういう測量技術で実測を得たんだ?って話だろ。

測量技術者を連れてきたのか?
当時、どの程度の測量技術があったんだ?
海洋を越えて、実測が可能だったのか?
古地図を見ても、現代と比べてまともな地図は無いと思うが。

536 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 13:21:13
>>534

あんたの説はマジ外だべ。

傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海 求蓬萊~仙不得 徐福畏誅不敢還

列島の測量をやったのは、徐福 だべ。



537 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/20(木) 13:21:50
>>533
何言ってるんだ。誰が知らないと言った? オマエが知らないと
決めこんでるだけ。どっちも知ってるね。こちらは目が悪いんだ。
ガチャ目なんだよ。疲れてくると略読みになるから、そういうふうに
なって答えたということだよ。

538 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 13:23:21
>>476
「ゆるやかな首長連合」など想定しなくても、文化的交流があった程度で説明が付くのではないですか?
連合に加入しないと文化的・商業的な交流を行わない、といった排他的な連合だったのでしょうか。


>>518
>>30国が九州だとすると、貨泉は九州各地から幅広く出土しないとね。
>>現状では北部九州に集中してあと宮崎のみ、
>>他は皆西日本(一部中部も)ですよ。

畿内説としては、九州各地から、なおさら幅広く出土しなくてはならないのではないでしょうか?


539 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 13:32:36
>>538

貨泉が銅鐸、銅矛に化けたてこどもあるべな〜。




540 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 13:32:47
>>349
>>福岡経由ルートは平和な時代の標準ルートであり、佐賀越えルートは
>>戦争時の緊急避難ルートでは無いかと思っている。
>>そのため、通過してはいないが、標準ルートの国々を記載したのではないかと考えている。

私とはルートが書かれた由来が異なるもものの、私説とよく似た考えですね。
「2ルート仮説」は私のものが絶対正しいと思っているわけではないので、同じような考えの方が増えて
色々検証してくださると嬉しいです♪


541 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/20(木) 13:33:43
二氏の名を見て思い起こしたが、当時の古代日本は畿内の男王国
(天皇国)と九州の女王国との二元だったということだ。それは大陸
が諸葛亮の名言の天下三分の計の如く魏、呉、蜀に三分されて
いたように、日本側は畿内のヤマト国と九州の邪馬壹国との二極
たる天下二分の計だったということなのだ。だから国名が九州のほう
は畿内の国名のヤマト国とは違う国名なわけだ。

542 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 13:35:04
>>538

商業的な交流があったことは認めるのか?

なら、次の段階で、商業的交流で財をなした豪商がクニの首長になり、
「ゆるやかな首長連合」が形成されたという流れは必然だと思うが。




543 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 13:45:25
>>534 二 ◆.L.MXSPOgc

また意味の分からないレスだなwwwwwww

>万2千里は梯儁が邪馬台国に来たときに計った実測ですよ。

郡と邪馬台国の2点間の距離を(衛星写真とかでw)ダイレクトで測定できない以上
クニとクニの間の距離を積算していくしかない。

で、梯儁ルートで不弥国まで10700里、残り1300里、その測定データが何故出てこない?
そのまま「投馬国まで○余里」「邪馬台国まで○余里」と書けば良い。

それとも梯儁はクニグニの間の距離を測定せずいきなり12000里と言う数字を弾き出したのか?wwwwwwwwww





544 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 13:54:44
>>538
>畿内説としては、九州各地から、なおさら幅広く出土しなくてはならないのではないでしょうか?
何故?伊都のある北部九州に集中している方が都合よいのだが。

石川と大和川が合流する場所が古市、
箸墓の場所が大市、宇陀や吉野への入り口が高市。
つまりこれらは何を意味するかというと、
元々市とは水銀(辰砂)の交易の場所を意味するとも推測できますね。

山の市、つまりヤマイチ説です。「その山には丹あり」とも関連つける
事も可能ですね。



545 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 14:08:26
>>519
銅鐸がいつ消えたのかなんてことは、これまで考古学者があれこれ論じているだろう。
それに合わせて論を立てればすむことだ。

546 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 14:13:02
>>518
貨泉は何のために入ってきたんだ? まさか我が国で貨幣として流通していたわけではあるまい。
外国と交易したときなどに、記念品代わりにもらったものだろう。
多いとか少ないとかは、たいした意味を持たないよ。いずれにしろ、それを使うような国々と通
交または交易があったというだけの話だ。


547 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 14:22:23
>>545

銅鐸が消えたのは2世紀頃じゃない?
ならば、おまえの論でいえば東征があったのは2世紀ってことだよ。


548 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 14:35:04
2世紀が正しいなら、東征も2世紀だろう。ただ、邪馬台国が2世紀に東征していたとは
認めがたい。となれば、2世紀に東征したのは邪馬台国とは別の勢力だろうな。邪馬台国
の東征は3世紀後半と考える。

549 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 14:37:05
>>548

それなら、邪馬台国が東征した証拠は無いってことだよ。

550 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 14:46:37
>>546
>それを使うような国々と通交または交易があったというだけの話だ。
それが西日本一帯にある事が重要なんだと思うけど。





551 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 14:48:13
何を証拠と考えてそう言っているのかな?

552 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 14:51:18
>それが西日本一帯にある事が重要なんだと思うけど
銅鐸を作ってたんだろ。銅は輸入だ。貨泉なんぞに頼らんでも海外と関係が
あったことは分かる。

553 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 14:56:23
>>552
弥生時代の遺跡から出土するのだから確実な痕跡でしょ。
しかも貨泉は時代の特定がし易いしな。

554 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:14:08
>>553
で、1世紀以降も海外と何らかの通交があったことが分かると?
それぐらい、当たり前のことと思っていたがね。
まあ、考えようによっては、海外との通交の痕跡が乏しい本州としては
貴重な痕跡なのかもしれんね。

555 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:19:32
>>554
>で、1世紀以降も海外と何らかの通交があったことが分かると?
それぐらい、当たり前のことと思っていたがね。

でも一部の九州説論者さん達はそう思ってないみたいだからね。

しかし海外との通交の痕跡が多いはずの九州で
北部九州以外からの出土が少ないのは何故でしょうかね?


556 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:21:51
つまり30国とは瀬戸内を中心とした区域と考えるのが
一番自然ですな。

557 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:23:03
>>555
九州では倭国の乱があったからねえ。鋳つぶして鏃に変わったという可能性も高そうだね。

558 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:26:47
>>557
北部九州には沢山出てるけど。

あと数は吉備が一番多いし、倭国大乱で使うというなら
高地性集落も多い瀬戸内が舞台だろう。


559 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:30:44
>>558
分かってないねえ。北九州のように銅が豊富なところでは、小さなコインをつぶす
必要性は少ないだろう。
倭国の乱は倭国内部の出来事。瀬戸内は関係ないんだよ。


560 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:41:49
倭国の乱とは関係なく、
瀬戸内にはのろしを上げられるような高地性集落が出来たと。
そういうことすか。





561 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:43:34
>>559
で、北部九州以外の九州ではコインをつぶす必要性あった訳か。
それは屁理屈ですなw

吉備から大量に出土する理由も?だし、
それに高地性集落の存在も説明つかないな。

562 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:47:11
瀬戸内で高地性集落が出来るほど緊張があったのに、
九州の邪馬台国は南のクナ国のことしか気にしなかったと。
九州の卑弥呼は、吉備や出雲と同盟しようともぜず、九州は孤立してたと。


563 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 15:51:04
邪馬台国は九州だと言うだけなら簡単だけど、
矛盾を解消する努力はしようよ。

矛盾が解消できなきゃ、九州説は捨てるべきだ。


564 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 16:00:28
>>560
倭国の乱は倭人伝が伝えるもの。その乱と高地性集落とが関係ないことは
常識だろう。学者の本でも読んでみな。

565 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 16:04:50
>>562 >>563
何を馬鹿なことを言っているんだ。倭国の乱があったといってるじゃないか?
それは狗奴国とは無関係。北九州と南九州の戦いだよ。邪馬台国時代というのは
その乱がようやく終わったところだ。
吉備や出雲は倭国の乱には無関係だ、介入するだけの実力はなかっただろう。


566 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 16:13:09
高地性集落は諸国間による軍事同盟が発生していた証拠
要するに、その発生時期は神武による統治がある地域に限ってではあるけど為されたという事
倭国大乱とは直接的関係はないよ

567 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 16:58:37
>>563
邪馬台国が畿内だと言うだけなら簡単だけど、
倭人伝の行程記事との矛盾を解消することはできるのかな?
矛盾が解消できなきゃ、畿内説は捨てるべきだ。
倭人伝はまちがいだなんていうだけでは矛盾解消とはいえんぜ。

568 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 17:05:43
倭国大乱の痕跡は吉野ヶ里の負傷人骨や九州の中部、北部に多量に出土する鉄鏃などであろう。瀬戸内から畿内に多く
見られる高地性集落跡は防御的なもので、倭国大乱の時期に九州から進出して来た勢力に備えたものとすれば説明し易い。
大乱以前に政治的大国であった奴国(福岡市一帯)は内部の権力争いで分裂し、一部は別れて吉野ヶ里辺りに移り、土着
の豪族を吸収して新奴国を建てる。これを契機に(背景には異常気象などによる食料産物の不作による経済危機があった
と思われるが)倭国の主導権争い(大乱)が発生する。
一方、邪馬台国勢力の一部(紀の神武を指揮官とする軍団)は日向から船団を組んで瀬戸内へ向かい、沿岸地域の豪族達
を支配下に収めながら畿内まで進出した。この間、武力で威圧したり、懐柔したり、婚姻関係を結んだりと、かなりの年
月をかけて奈良まで到達した。奈良では開拓事業を行い食料生産力の向上に努める。
神武が東征を行っていた間、倭国は卑弥呼を共立して大乱を終息させる。
239年に卑弥呼が魏に朝貢を行った頃から九州南部の狗奴国と邪馬台国
との間で揉め事が多くなり、魏の使節が訪れて調停を行うが、この間に
卑弥呼は死去する。卑弥呼の後に男王が立つが倭国は治まらず主導権を
めぐる戦闘で多数の死者を出す。卑弥呼の縁者の壹與を共立することに
より再び治まる。この間、倭国より東へ移住する者が続く。
その中に崇神がいた。崇神は若かったが優れた才能を持ち、奈良に移って
からは神武の仕事を受け継ぎ、3世紀末には事業をほぼ完成させた。この
間、出雲や出雲系豪族を懐柔し畿内とその周辺一帯を支配する王権を確立
した。
一方、壹與の邪馬台国は266年に西晋に使節を送っているが、その後の消
息は不明である。


569 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 17:26:10
>>568
完全に魏志倭人伝の話じゃなくなってるなw
縄文人さんwwwww

570 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 17:36:47
えっ〜!
なんで縄文人なのさ!?

571 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 17:45:19
これって前にどこかに書いたやつのコピペじゃないの?

572 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 18:10:58
九州で倭国の大乱があったころ、畿内は平和な時代を迎えていた。

ニギハヤヒと神武が争ったのも遠い過去のことである。
孝霊天皇の娘、ヤマトトトヒモモソヒメは巫女として成長し、
崇神天皇の時代には、三輪山の大物主を祀り生涯を終える。
国津神と天津神の架け橋となったヤマトトトヒモモソヒメは、西日本の多くの信者を得ていた。
ヤマトトトヒモモソヒメは箸墓に葬られ、前方後円墳という墓制が全国に広まる。

こうした近畿の動きと無関係だった九州の邪馬台国は、
トヨが普に朝貢した後、衰退し消滅したのであった。





573 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 18:39:16
>>535
はいはい、魏使が三角測量でもしている様子を勝手に想像でもしていなさい。
どうせ宮崎説あたりの人でしょうが、相変わらず知能が低い書き込みしかできないのですね。

574 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 18:44:14
>>564
下らん釣りだなw

575 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 18:44:27
>>542
>>なら、次の段階で、商業的交流で財をなした豪商がクニの首長になり、
>>「ゆるやかな首長連合」が形成されたという流れは必然だと思うが。

少なくとも学術的に”必然”というのであれば、その証拠を世界中の国々で同様のことが起こっていたことを
(そうでなかったところが、どの様な例外的な状況でそうでなかったのかを)挙げた上で、
日本国でも連合が形成されたことが必然だと考えられる、と結論づけてください。

今の段階では、そこに必然性は認められません。


576 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 18:47:23
>>575

「商」という国は商売で発展したから「商売」という言葉が出来たんだよ。


577 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 18:49:56
>>567
投馬、邪馬台国伝聞説なら矛盾ないけどな。

放射説も伊都ではなく帯方郡からだと方角も大丈夫。
倭国は東南にあるという記述に矛盾はない。

578 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 18:54:44
>>543
何故、国々の距離を残さずにトータルの万2千里のみを残したのかは、想像で語ることはできても、それ以上のものは無理でしょう。
例えば西国の数例の万2千里は、私は疎いので知らないのですが、これらの国間の距離が全部書かれていて、
それで合計で万2千里と書かれているのでしょうか?
あるいは、道が間違えなさそうだと思われる所への距離は、個々に道標となるところまでの距離を書かずに、
最終的に足し合わせた距離だけを書くといったことが良くあったのかもしれません。

ところで、不弥国まで10700里、残り1300里、で12000里の女王国は畿内説だと何処になるのでしょうか?
邪馬台国は畿内だから、女王国が北九州で、女王国というのはどこどこの国々のことだ、という幻の女王国説でよいのでしょうか。

万2千里=遠い国だというなら、最初の倭国である狗邪韓国までを万2千里としなかったのは何故なのかも、説明してください。


579 :縄文人:2009/08/20(木) 18:59:11
>>569
私の考えにそっくりですね。いや〜素晴らしい。世の中には良質な想像力を持つ人がいますね。愉快ですね〜

580 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 18:59:29
>>544
訳が分かりませんが。
畿内説は、九州は北も南も邪馬台30国連合の一部だったというのでしょ?
普通に考えれば、北九州も南九州も同様に貨泉が流通したはずなのに、何故北九州だけで出て
南九州で出ないといったことが起こるのか、それを説明すべきでしょう。

それとも、ゆるやかな首長連合では物流はなかったという考えでしょうか。

581 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 19:20:37
>>580
訳が分からないのは自説に凝り固まってるからじゃないの?
もっと頭を柔軟にしなくちゃね。
九州の北も南も30国連合とは思ってないですけどね。

南九州では宮崎でもでてるが北部九州に多いのも事実だな。
まあ大陸に近いのだから当然だが。

貨泉が確認されたのが確か西日本を中心に39箇所位かな。
まあ近接しているものがあるのと、
弥生以降に埋められたと推測できるものもあるが、
ざっとみて北部九州周辺、宮崎、出雲、丹波、吉備、畿内から
は確認できるからな。

582 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 19:25:55
>>577
>投馬、邪馬台国伝聞説なら矛盾ないけどな。
「伝聞だから方角がちがってもかまわない」っていうんだろ。しかし、倭人伝を否定したのでは、矛盾解消に
ならんのだよ。倭人伝はまちがっている、真実はこうだ。これで矛盾解消ならば、どこへでも比定できる。

583 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 19:28:17
>>582

倭人伝が正しいと思ってる九州説の諸氏は、それぞれ比定地がバラバラじゃないか。



584 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 19:33:24
そんなことより、近畿は中国本土とは通交があったのか?
どこの港を使って通交していたんだ?

貨泉は朝鮮半島経由ってことも考えられるな。

585 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 19:35:19
>>583
九州説論者にもちゃんと倭人伝を読めない人はいっぱいいるんだよ。
それでも、大きなところを間違えないだけ、○○説論者よりはましだが。

586 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 19:37:43
貨泉は瀬戸内海から出るから瀬戸内海ルートでしょ。
同時に丹後も通交はあったろう。

丹後がどれだけ繁栄してたか知らないんじゃないの?
太田南5号墳からは「青龍三年鏡」が出土してる。
鉄器だってわんさか出てるぞ。


587 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 20:44:32
>>581
>>九州の北も南も30国連合とは思ってないですけどね。
そんな特異な畿内説は初めて知りました。伊都国や奴国は北九州でしょうが、
これらの国々は邪馬台国の30国連合ではないというのですね。

畿内説の方々はこれが畿内説の主張でよいのでしょうか。
畿内説も先に1本にまとめる必要があるのでは?

それで結局、ゆっくり連合に南九州は入っていないが畿内説なのですか?


588 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 20:48:42
>>586
瀬戸内海から黒潮に逆らって中国本土、あるいは丹後から対馬海流に逆らって中国本土
か。で、当時の倭船はどんなエンジンを使ってたのかな?

589 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 20:57:28
瀬戸内で黒潮?


590 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 20:58:17
>>582
別に否定なんかしないよ。帯方郡から放射説としてみれば
畿内は東南だから、方角の間違いも少ない。
倭人伝では対馬から壱岐だって方角ずれてるしな。
それに当時正確な地図があったとは思えないから
方角に関しては疑問が有るのは確かだが。

>>584
瀬戸内ルートは勿論、出雲や丹後、敦賀の日本海ルートも
あるでしょ。痕跡もたっぷりあるし。
>>586の言うように2〜4世紀の丹後なんて、
ここには相当な力を持った王がいたとしか思えないから。
今日も豊岡から初期製鉄に関するニュースがあったな。

591 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:10:06
>>587
誤解させたようだが。
「ざっとみて北部九州周辺、宮崎、出雲、丹波、吉備、畿内から
は確認できるからな。」
の文で、おおまかな30国の範囲と理解して欲しいな。
九州内でも隼人のように後々まで抵抗する事からわかるように
一枚岩ではないでしょう。

勿論畿内説といっても行程に関しては説がわかれるだろう。
特に投馬国に関しては説が色々あるからな。俺は投馬=但馬説だが。

>>588
意味不明だな。

592 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:17:19
>>538 二 ◆.L.MXSPOgc
文化的にも接近し(特に祭祀形態を一にするのが大きいかな?)
商業的にも接近。

ここまできたら政治的にもほぼ融合されていくだろう…
ゆえに”ゆるやかな”首長連合なわけだねw

古代に明確な政教分離・政経分離があったとも思えないしなw

それに威信財の銅鏡が畿内を中心に分布すると言う現象まで起きる…等々
まあ総合して単に文化の伝播だけじゃあ説明が難しいだろうな。

しかし古墳の一要素である銅鏡で東遷説ぶちかます九州説論者に比べ
これだけの要素をもってしても「ゆるやかな首長連合」に止めておく畿内説論者は
本当、穏便と言うか慎重派と言うか奥ゆかしいんだろうなwwwwwwwwwww


593 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:21:31
>>496
>畿内説で狗奴國を球磨川流域に比定する説は見たことが無いな。

スイマセン、ゴマンナサイ…
そこら辺(球磨・菊池)でもいいんじゃないかと考えてマスwwwwwwwww

「其南」と言うのは女王国=首長連合の南って事なら問題無いよな?
元々古典的な畿内説なら狗奴國を球磨・菊池に求めるのはあったんだし…

つうか今日有力となっている 狗奴國=東海地方 と言う説には懐疑的。
理由として…
(1)前方後方墳の意味
  前方後円墳と前方後方墳で文化の違いを強調して
  そこから対立構造を導き出しているように思うが
  そこまで読み取れるものか疑問。
  そもそも前方後方墳は大和にもあり(纏向ならメクリ1号?)
  大和以西にも湯迫車塚や西求女塚があり三角も出している。
(2)対立の原因が不明
  東海にとって半島からの文物が瀬戸内を西進し
  大和川を遡上して大和まで来てくれるならむしろ願ったりかなったりで
  そのために頻繁に纏向を訪れていたなら搬入土器中の高い割合も納得いくのではないか?
(3)纏向遺跡の在り様から…
  無論今後の発掘でイメージがガラっと変わる可能性はあるが
  少なくとも現在の開放的な印象すらある纏向からは、軍事的な緊張感は感じられない。

…まあ他にもあったと思うがこんなところかな? つづく

594 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:22:37
>>593 の つづき

じゃあ狗奴國を球磨川流域に求める根拠は?と言うと先に
「福岡平野あたりは自分の方から積極的に首長連合に参加してきた」
と言った事と関係してくるが…

動機と言うか対立の必然性で

その新しい交易機構からあぶれ貧乏くじを引かされてしまった勢力もあっただろうと言う事で
それが熊本あたりの勢力ではないかと…w


『上記の説に対し予想される九州説側からの反論w』

当然方角について
「おいおい畿内説は方角は反時計に90度回転させるんじゃなかったのか?」
と言う声が真っ先に上がるだろうが
まあそこは複数ソースの情報の混乱と言う事でw

「南の狗奴國との対立」と言うのは卑弥呼の魏に出した文章に書いてあったものだろうから
方向の間違いは無かったと言う事でなんとかw




595 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:28:31
三世紀辺りの狗奴国は南九州一部と四国だろ
高地性集落の変遷を見るとどうもそう思えてくる

596 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:34:55
>狗奴國=東海地方 と言う説には懐疑的。
これには同意だな。


597 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:39:11
そう?南を東と読み替えるんだから
むしろ自然と思うけど。

598 :593訂正:2009/08/20(木) 21:39:12

誤)文物が瀬戸内を西進し

正)文物が瀬戸内を東進し


599 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:50:14
纏向は3世紀前〜中期に築かれたもので(ホケノ以降)、それ以前の政治的中心地はもっと
南にあったと考えたい。つまり卑弥呼共立とされる180年代からは、約50年後に盛んになっ
たと見る。東海からの搬入土器が多いのは、狗奴国敗北後のものだと思う。

600 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:54:55
599補足
南といっても九州ではなく吉備あたりまでを想定。もちろんホケノ以前も、石塚や小集落は
あった。

601 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 21:59:11
>>593
おおっ、やっぱそうだよね。
東海地方と対立してるなら、隣接した國がもっと武装していなけりゃおかしいよね。
そういう風に柔軟に考えてくれるなら畿内説にも十分説得力が出てくると思うんだよ。

倭人伝の記述に関しては、2つのルートという着想はいいと思うんだ。
でもそれは伊都國から投馬國・邪馬台國に直接行くルートと、伊都國から九州内部に行くルートなんでは。
九州の方が近いから、漢〜魏時代、商人が沢山行き来していて、詳細な情報がいくつもあった、
邪馬台國本国まで行った商人・使者は少なく、ロクな情報がなかった、と想像してる。

602 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:06:59
邪馬台国から狗奴国までは間に21カ国が記されてるのを
どう考えているのだろう。

603 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:15:54
倭人伝の里数とか生体系、習俗などの記録を残したのは張政一行だよ
商人風情にそんな余裕も学なんぞ無い

604 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:21:47
>>603
無学で商売が成功するハズないよ。

605 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:23:49
三世紀の瀬戸内航路は危険だった筈
楽では無かったが陸路を選んでた筈
恐らく航路として盛んに利用され出したのは景行以降
なぜなら河内勢力衰勢がその頃だからだ

606 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:28:48
>>603
商人には古典をそらんじるような教養は無かったかもしれないが
自分の商売する地域の情報はそりゃ真剣に集めただろうな。

仮にそれらの情報が張政御一行によってもたらされたものであっても
張政できたのはそういった現地の事情に詳しい人間からの「聞き取り」だろう。

まさか距離を測定しながら、あるいは風俗習俗を観察しながら邪馬台国に向かったと?

607 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:32:36
>>606
当時は紙なんぞ無かったんだよ
記録し尚且つ報告出来るのは一部の人間
倭国が、外国商人に通行許可を与えたとは思えない
っていうか、危険すぎるから足を踏み入れない

608 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:33:03
>>572
>トヨが普に朝貢した後、衰退し消滅したのであった。

そのようですね。
では、邪馬台国が衰退し筑紫のリーダーとしての地位を失った原因は何か?
その原因のひとつは狗奴國(肥)の北進です。
狗奴國が筑後に進出して来たのです。
4世紀になると狗奴國の進出勢力は、広川及び矢部川中下流域に定着しました。
彼等は横穴式装飾石室墓の文化を携えてきたのです。
彼等は倭の5王となった勢力で、4世紀末には筑紫のリーダーとなったのです。

609 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:35:38
ひいいっ、九州王朝だわ。

610 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/20(木) 22:43:35
>>609
>ひいいっ、九州王朝だわ。

よくわかったね。

611 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:45:13
中学の歴史家(学者)の多くは商人だよ
教養階級かつ官途で身を立てるしかない者が役人になる

612 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:47:43
>>578 二 ◆.L.MXSPOgc
>何故、国々の距離を残さずにトータルの万2千里のみを残したのかは、想像で語ることはできても、それ以上のものは無理でしょう。

と言うかそれが説明できないと話しにならない。

「積算根拠は出せませんが、このトータル数字は正しいのです」

と言われて納得する馬鹿がいるのか?wwwwwwwwwwww
(まあこれはこの板の他の九州説にも言える事だが)

>万2千里=遠い国だというなら、最初の倭国である狗邪韓国までを万2千里としなかったのは何故なのかも、説明してください。

一応郡から一万里の範囲、末盧國の手前までは何とか皇帝の徳が届く範囲で
末盧國からいよいよ辺境の地と言う設定だったんじゃないのか?w



613 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:50:02
一万年王朝は一万里四方を知らす

614 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 23:01:01
>>593
なんか手前勝手なお話ではないでしょうか。

例えば北九州はお願いしてまでメリットだれけのゆったり連合に入ったのに、南九州はそんなの見向きもしなかったのか、
南九州は何故入らなかったのか、入れなかったのか。「新しい交易機構からあぶれ貧乏くじ」なんて、何の説明もできないってことでしょ。

でもって九州〜畿内の連合が、南九州の勢力に脅かされて魏に助けを求めたのですか?
中国以東の国々は北九州を助けようともしなかったのですね。

しかも日本書紀には自力で熊襲退治やらやってます。南九州だけでなく四道将軍やら大和健やら
日本全国武力で制圧しましたって話であふれています。こちらも嘘800が書かれているっていうのかもしれませんが。
でも、ゆったり連合ってどういう関係を築いたのでしょうね。

当時の遺跡からみえてくるのは、畿内ヤマト王権が如何にして日本を制覇していったか、という事です。
それはそれで、武力だけでなく交流や文化の広がりなど、色々なファクターが見えてきて面白いでしょうが、
そこに邪馬台国など影すらも見えないことは、謙虚に受け止めるべきですよ。

# ゆっくり連合が伝の一大卒の記述に合わないという話もありますが、真っ赤な嘘本が倭人伝と逃げるのでしょうね。


615 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 23:11:50
>>614

それなら、3世紀の邪馬台国から4世紀の大和王権誕生まで、
どういうシナリオを考えてるわけ?


まさか、東遷説ですか?



616 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/20(木) 23:16:58
>>601
「2つのルート仮説」だけだと、いろいろと考え方があるものですね。
唐津市(末盧国)あたりから畿内を目指すには、陸路だと福岡平野から筑紫平野にいって大分に出て、
そこから北に行ってから山口から瀬戸内を通り畿内へ抜けるというのがメインロードだったのではないかと
考えています(大間違いかも?)。大分から船に乗るならもっと楽でしょう。
違う人の意見は刺激になって楽しいです♪

最近「2つのルート仮説」を考えてくださる方が増えてきたような感じがして嬉しいです。
畿内の草植え氏も、不彌国あたりまでの説明としては優秀、みたいなことを言っていましたしね。
もちろん私は邪馬台国までしっかり説明しているつもりですが。



617 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/20(木) 23:19:32
「万二千餘里」は遥か遠いところの意味ではない。
「餘」が付いているから、1200里+α里の意味。
12000里の計算根拠は40年前の古田説が正しい。
郡より12000餘里はどこか?
古田説に従って計算すると、奴國と不彌國が帯方郡より12000餘里となる。
即ち女王國に、奴國と不彌國が含まれることになる。
奴國と不彌國は女王國の構成国なのである。


ちなみに、古田説とは異なるが、
郡より11900餘里の伊都國は惣座遺跡、
奴國の城郭は佐賀城、
不彌國の城郭は吉野ヶ里遺跡。

618 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 23:21:35
>>614 二 ◆.L.MXSPOgc
>南九州は何故入らなかったのか、入れなかったのか。

そりゃ半島からもたらされる文物と言うかパイの大きさには限界があるからなw
主に九州を中心に流通されていたものを東日本にも流さなきゃならないとなったら
九州の中南部は色々減らさなきゃならないw

新しい交易機構ができるまで恵まれた環境にあった中南部の九州の勢力にすりゃ自分の取り分が減る事になり
反発したんじゃないのか?w

無論絶対量としては本州の多くの地域を上回っていただろうが
「自身の取り分が減る」となれば「そんなの関係ねえ!」だろうよwwwwwwwww

逆に日向あたりだと銅鏡や鉄もヤマトと変わらないぐらい少なかったわけで
そう言った”減点要素”がなかったからこそその新しい機構に乗っかったとw

・・・と言う事で

 12000里の積算根拠ヨロシクwwwwwwwwwww

619 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 23:31:36
しかし、芥川龍之介の「藪の中」だね。
解釈の仕方でがらりと変わる。

620 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 23:32:48
>>619
羅生門ジャマイカ?wwwwww

621 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 23:40:25
>>620
映画のことか?
あれは「藪の中」が原作だよ。舞台や設定の一部は「羅生門」を取り入れてるけど。

622 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 23:52:04
はあ、俺は横溝正史かと思った・・・って「蔵の中」だな。

623 :縄文人:2009/08/21(金) 00:02:41
>>618
横から口をはさんで申し訳ないが、万二千里も二つのルートも考える必要はないんじゃないの。
そんなもん考えなくても邪馬台国には辿りつけるじゃあ〜りませんか。ついでに、放射説も放った
方がよござんすよ。な〜んも無理せんで読むのが正しかとよ。あんたら酔っぱらっとるね。

624 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 00:07:26
>>623
>万二千里も二つのルートも考える必要はないんじゃないの。

無論そんなもんこっちはハナから考えてないがなw

二 ◆.L.MXSPOgcのみならず九州説の場合12000里と言う数字が一人歩きしている場合が多いからな
先ずはその数字が正しいとする根拠を出してもらわんとwwwwwwwwww

つうかお前縄文人の末裔とかわめいているのに酒に弱いのか?

625 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 00:21:35
>>623
放射説を捨てたらすっきりと治まらんだろう?
あなたのは伊都国から先、どんな説だったかな。

626 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 00:23:40
奉天承運 制詔親魏倭王卑彌呼
帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所献男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到
汝所在踰遠乃遣使貢献 是汝之忠孝我甚哀汝
今以汝為親魏倭王假金印紫綬装封付帯方太守假授 汝其綏撫種人勉為孝順
汝来使難升米牛利渉遠道路勤労 今以難升米為率善中郎将牛利為率善校尉假銀印綬引見労賜遣還
今以絳地交龍錦五匹絳地□粟□十張絳五十匹紺青五十匹答汝所献貢
又特賜汝紺地句文錦三匹細班華五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤
皆装封付難升米牛利 還到録受悉可以示汝国中人使知国家哀汝故鄭重賜汝好物也
布告天下 咸使聞知
景初二年十二月二十一日

皇帝御璽

627 :縄文人:2009/08/21(金) 00:28:19
>>624
縄文人の酒は猿を掴まえて縄でくくり付けてドングリを噛ませて、その噛んだやつを壷に詰めて蓋をして穴の中に
半月ばかり寝かせて作るのだ。旨いぞ。一度試してみな。

それは置いといて、
畿内説はもうお手上げか?面白い話が聞こえんぞなもし。

628 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 00:28:45
>>625
縄文人のご高説は>>433

それに対する俺の素朴な疑問は>>474



629 :588:2009/08/21(金) 00:29:09
>>591
>>586>>584への答かなと思ったのだが。

630 :縄文人:2009/08/21(金) 00:32:57
>>625
放射説なんか無用。伊都国→奴国→不彌国→投馬国→邪馬台国の順に行けばよろし。

631 :588:2009/08/21(金) 00:37:15
>>630
>>433をみたが、やっぱりかなり無理してるな。>>474の批判のとおりだ。
放射説をもう一度、研究してみたらいい。


632 :縄文人:2009/08/21(金) 00:46:50
>>631
不彌国の位置を太宰府、宇美、筑紫野辺りにしたのはわざとやったの。ほんとはね、筑後小郡市の花立山の辺り
がいいの。それじゃ皆に分り難かろうと思って、よく知られている太宰府や宇美の名をだしたのさ。いずれ食い
ついてくる人が出ることを予想してね。

633 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 00:53:51
>>632
そんな細かい話ではなく、伊都国が有明海の沿岸なら、そこから舟で投馬国へ
行けるだろ。何のために奴国、不弥国を回るのかが分からん。
それに、八女まで20日はかかりすぎ、邪馬台国の位置もはっきりしない(熊本
県内にしたいのかな?)。
狗奴国に気を取られているのかも知れないが、狗奴国は小国だ。狗奴国のことは
まったく考えずに、邪馬台国の位置を決めるべきだよ。

634 :縄文人:2009/08/21(金) 01:05:12
>>633
なるほどね。
だけどね。奴国も不彌国も倭人伝に特別扱いで書いてあるから行く理由があったのよ。倭国内の有力国か問題国か、邪馬台国と
狗奴国の揉め事に関係して、説得なり、打ち合わせなり、用があったとは考えられんかね。


635 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 01:16:03
前にも書いたけど
伊都国は結界されてて一般の倭人は出入りは制限されてたと思うね
バチカンみたいなもんだ
で、使節はそこで足止めされてたから
実際の倭人の町である奴国で遊んだりしてた
不彌国は宗教的な施設があったんじゃないかな
恐らく今の宇佐だと思うな


636 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 01:16:36
>>614
>そこに邪馬台国など影すらも見えないことは、謙虚に受け止めるべきですよ。
畿内には痕跡たっぷりだと思うけど。

637 :縄文人:2009/08/21(金) 01:16:36
>>633
634に書き忘れた。投馬国は5万戸の大国で豪族の数も多い。特に邪馬台国に隣接しているから、この国を纏めて邪馬台国を
支援する態勢を作るため、念入りに豪族達と会合を行ったのだろう。20日くらいの日数は不自然ではないんじゃありませんかね。

638 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 01:18:59
現実に行ったとしても、後の人のために行程記事を残すときに行程として不要な
寄り道を書かないことを考えるだろう。まっすぐに行くならこうだという道を示
すと思うよ。奴国、不弥国は実際は行ったのだろうが、コース的には不要の国な
のだ。そのための、放射式表示だな。
つまり、邪馬台国へも投馬国を経由しないで直接いけるということ。


639 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 01:20:42
>>637
酔っ払ってるなw

640 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 01:24:47
>>635
使節を足止め??
何様の積りなんだ、倭は臣下なんだぞ



641 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 01:28:45
>>637
水行20日、水行10日陸行1月というのは、実際にそれだけかけたというだけではなく、
その程度でいけるところだという意味で書いていると思うよ。
もちろん、倭人が行くときはそれよりは早く到達できるだろう。使者御一行ともなれば2日
進んで1日休みぐらいのゆったりした旅、せかせか歩かせることはなかろう。
しかし、特別に会合などで長逗留した日数まで入れているとは思えない。

642 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 01:30:07
使者が歩く訳ないだろ
馬か輿

643 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 01:33:15
倭人伝の頃は馬も牛もいない。

644 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/21(金) 01:37:51
>>630
>放射説なんか無用。伊都国→奴国→不彌国→投馬国→邪馬台国の順に行けばよろし。

放射説でも順次説でもないよ。枝分かれ説だよ。
末盧國→東南行500里伊都国→東行100里不彌国→南接邪馬台国の順に行けばよろし。


世界陸上は面白いね。

645 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 01:43:03
乗馬用の馬は持ってきた可能性がある
輿と担ぎ手も

646 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 02:26:04
出土状況から、当時の倭国に牛や馬が存在していたことは確実。
倭人伝の間違いが明確にわかる部分だ。

647 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 02:53:54
3世紀の馬の埴輪がどこで出たんだ?
馬が丸々埋葬されてたってのか?

648 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 03:50:55
各地から歯や骨が出てきている・・・が、
最新の方法で分析すると、年代が怪しいみたいだ。
まだ完全否定というわけではなさそうだけど。

なので、>>646は撤回。
スマンセン。

649 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/21(金) 06:50:33
>>617
古田氏の、2島の方○○を○○x2の距離として加えて万2千里とかいうのは、算出根拠とかではなく数字遊びでしょう。
それを根拠に「奴國と不彌國は女王國の構成国」などという幻の女王国説を主張されても・・

そういえば九州王朝さんは、不彌国以降は南接としてるのでしたっけ?

650 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/21(金) 07:05:42
>>618
トンデモ説の人の屁理屈ど同レベルですね。

>>新しい交易機構ができるまで恵まれた環境にあった中南部の九州の勢力にすりゃ自分の取り分が減る事になり
反発したんじゃないのか?w
とか、得意の考古学資料で説明できますか?恵まれた環境は北九州で南ではないでしょう。
南九州に多くの取り分があったなどと、どういう根拠に基づく話なのですか。

それで、南九州の狗奴国に脅かされて、ゆったり連合の中国・四国・畿内が助けに行かずに、魏に助けを求めたのはどうしてですか?
でもって魏に冊封されて大繁栄した(というあなたの妄想の)証拠というのは何でしょう。冊封以前に大繁栄ではないですよ。


>>12000里の積算根拠ヨロシクwwwwwwwwwww
普通に国々の距離を足して言ったのですよ。なぜ(張政の様に)各々の国間の距離を書かずにトータル距離だけを記したのか?と
問われれば答えられないですが、西方の国の万2千里も国々の距離が書かれた上での万2千里ではなく、トータル距離が書かれているのではないでしょうか、
その様な書き方が普通にされていたのではないでしょうか、といっているのです。

UFOに乗って上空から万2千里を計ったとか言っている訳ではありません。

651 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/21(金) 07:13:53
>>623
無理せんで読む、というのは難しいのですよ♪

末盧国から南東500里に伊都国その南東100里に奴国ですが、前原と博多では方位・距離に無理がでてきますし、
佐賀平野に抜けると考えると金印を含む考古学的資料に無理がでてくるのです。
これは数十年来(もう100年以上かな)言われていることです。

そこで、これらを無理せずに読む方法として出したのが「2ルート仮説」ですよ。

あと放射説は、それ自体が無理して読む説ですね。無理やり読んだら放射説になります。

652 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 09:43:45
放射説でも順次説でも枝分でもダメだよ。
郡治→狗邪韓國→對馬國一大國→末盧國→伊都国→不彌国(里数で説明)
郡治→投馬國→邪馬台国(日数で説明)
同じ行程を2度説明してるだけのこと。


653 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:07:27
>>652

してねえよ。

654 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:08:46
もう何が何だか・・・


655 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:12:04

トヨタン・・・・・・・・・・


656 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:13:21
投馬国が郡からの説明なら、記録には
「投馬国在帯方南渡海二十日」と書く。

657 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:28:55
>>656
魏略では日数の説明はなく
魏志倭人伝で日数の説明は付け加えられた。
魏志倭人伝では新たに日数での報告書も参考にしているようだ。
「投馬国在帯方南渡海二十日」などと書かなくても
説明が里単位から日に変わった時点で郡治からの説明だよ。


658 :縄文人:2009/08/21(金) 10:37:40
>>651
漢から金印を貰った奴国は2世紀の後半に内部抗争が起こり二つに分裂したのです。この抗争で金印の奪い合いも起ったでしょう。
一方の要人が金印を持って避難した先が志賀島です。こんな離れ島(当時)に金印が埋もれていたのはそのような事情があったから
と考えれば説明ができます。
さて、二つに分裂した奴国はどうなったかと言えば、私が前に書いたように旧領を離れた勢力は吉野ヶ里を含む地域に移って新たに
奴国を建てたのです。卑弥呼の時代にはこの新奴国は邪馬台国に協力的であり、旧奴国は不平分子的だったでしょう。儀の使節を迎
えに出て案内する邪馬台国の官僚、武官は万一の場合(一行が襲撃されるなど)を考えて、福岡からのルートをとらなかったのでし
ょう。

なお、投馬国では一カ所に数日も滞在したのではありません。有明海沿岸を舟で行きながら、入り江や川の入り組んだ道筋の要所に
ある豪族達の館に宿泊や食事や打ち合わせなどで立寄りながら行ったのです。

659 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:45:58
>>657

魏略は唐の張が纏めた曰文であり、当時の参考書。
しかも投馬については一切触れていない。
魏略の扱いには十分注意が必要だし、参考書の意図を把握してからではないと
扱えない。
そして
書かなくても十分な説明だとするのは、貴方の個人的な思い込みにすぎない。

660 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:53:32
>>658

ここで時代物小説を掲載されても困ります。

661 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:53:41
>>657
よくある自○○至△△××日☆☆里と同じ形の漢文の長くなったものだから
「投馬国在帯方南渡海二十日」などと書かなくても里数は郡治からだ。
郡治→狗邪韓國→對馬國一大國→末盧國→伊都國→不彌國(里数で説明)
郡治→投馬國→邪馬壹國(日数で説明)
同じ行程を2度説明してるだけのこと。


662 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 10:58:38
>>661

全く説明になっていない。
「自帯方至女王國萬二千餘里」は、帯方郡からと書いてあるので、帯方郡からの里数
しかし、後は単なる貴方の都合に編み出された大リーグボールに過ぎない。

663 :縄文人:2009/08/21(金) 11:01:42
>>660
倭人伝に書かれていることを分かり易く説明しただけですよ。魏の使節が何故あのような行程で行ったのか説明を
求められましたから。皆さん倭人伝を解釈しているのでしょう?解釈の必要がなければ原文そのままで終わりです。

664 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:09:01
>>658

それは、見事なうっちゃり論ですなあ。



665 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:09:33
>>662
途中から違う単位を使っては
目的地までの距離も時間も分からなくなってしまうから
順次説は在り得ない。
畿内説はこの馬鹿げた順次説を採っているので問題外。
同じ行程を2度説明してると読むのが合理的であり
目的地までの距離と時間が理解できる唯一の読み方。


666 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:18:19
久々に北部九州説を見たわw
絶滅したもんだと思ってたw

667 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:18:51
>>665
>同じ行程を2度説明してると読むのが合理的であり

これも、うっちゃり論。

放射説に加えて同じ行程を2度説明なんて、都合よすぎるわ。


668 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/21(金) 11:20:29
>>663

あれは魏使の工程記録じゃないから

669 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:21:48
奴国が分裂ってのは漢書の100カ国が倭国大乱を経て
魏志倭人伝の30カ国になる過程を考えると不自然だよな。

670 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:23:23
倭人伝の行程記事は、当然のことながら一連の文章として読むべきものだ。あれこれ推測して、
かってに分断したり、余計な文言をつけ加えてはならない。
里数から日数に変わったからといって起点が急に郡に戻るべき理由はない。
なお、伊都国から先は放射式、それで決まりだよ。

671 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:27:23
>>668
魏使って何か工事をしてたのか?

672 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:27:53
>>665

里数で記録しようが、時間で記録しようが
理屈は同じ。単に測量方法の違いを明確にしただけ。

673 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/21(金) 11:30:13
>>671

うん。新幹線


て、単なる変換ミス

674 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:30:48
まじめに返すな。

675 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:42:42
>>667
同じ行程を里数と日数で2度説明するのは漢文でよくあることです。
続けて読む方が頭が可笑しいとしか考えられん。


676 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:49:06

こうして砂鬼四荼羅教の宗派間の争いは収まることが無いのであった…w



677 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:51:45
>>675

では、その漢文を提示下さい。

678 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:57:01
単位が変わっても平然と続けて読めるのが分からん。
わざと変な読み方をして目的地を隠しているのか
強引に畿内まで持っていく為の手段かな。

679 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 11:58:30
>>678
個人的にわからない事までは、誰もカバー出来ません。

680 :縄文人:2009/08/21(金) 12:32:19
>>678
畿内説は最初から大和に持って行きたいから続けて読むので不純行為です。この人達は家出した少女を親切に保護するため
とか言いながら、変なことをする連中に似ていると言ったら言い過ぎでしょうか。
私は純真な心で続けて読んでいます。畿内説の皆さんとは違って、真実を追い求めているのです。

681 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 12:38:20
>>680

結局おまえは、歴史の真実を知りたいんじゃなくて、

空想ファンタジー的に面白い話が好きなだけだろ。
面白い話にするために、邪馬台国が九州にないとだめだし、
九州勢力が畿内に天孫降臨しないとだめなんだろ。

勝手に自分のサイト作ってオナニー小説書いてればいいんだよ。
真面目に意見交換してる人にとっては迷惑なんだよ。



682 :縄文人:2009/08/21(金) 12:41:30
>>664
相手が立ち会いのルールを無視して早く立って突っ込んで来た場合に、待ったをせずに受け止めてきれいにうっちゃる
のはこれまた堂々たる態度とは考えられませんか?うっちゃりも相撲の決まり手であって、反則ではないですから。

683 :縄文人:2009/08/21(金) 12:45:03
>>681
私は真面目に意見を述べていますよ。
あなたの考えに沿わない意見だから迷惑なんざんしょ。あまり偉そうな口叩いたら後悔しますよ。

684 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 12:49:43
>>681
ちょっと言い過ぎだろ。畿内説にしても全てが考古学的証左によって説明出来ているわけではない。

685 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 12:51:20
>>682

お前本当に馬鹿だな。

うっちゃりというのは土俵があって初めて使える技なの。

チミの場合は、恥目から土俵が存在してないじゃn。

686 :縄文人:2009/08/21(金) 12:58:28
>>685
おまんさも馬鹿でごわんな。おまんさの土俵も見えもはんど。おいどんの説に頭からぶちかしたらどうでごわすか?

687 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 12:59:04
>>680
純真な心を持ったやつがこんな事言わんわな。

688 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 13:02:09
>>680
>私は純真な心で続けて読んでいます。

砂鬼四曼荼羅 砂鬼四曼荼羅 五劫の擦り切れ・・・

689 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 13:06:45
>>686

チミの説て
アンポンタン説のことくぁ。

690 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 13:06:50
ははは、どうせ縄文人は根拠のあることはいわない。自分のせまい経験から出た単なる
推測ばかりだ。レスしても益はないよ。

691 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 13:15:14
>同じ行程を2度説明してると読むのが合理的であり

もし最後の邪馬台国まで里数の表記があればそりゃ合理的なんだろうがw

最後不弥国まで書いて止めちゃって「振り出しに戻る」やって
今度は邪馬台国まで辿り着くってどう考えても合理的とは思えないのだが・・・

692 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 13:23:08
>>690
まったくもってその通り

693 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 13:36:38
邪馬台国=女王国です。
郡治から女王国までが12000里。
郡治から奴国までも12000里。
従って奴国が女王国(邪馬台国)の中心国です。

694 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 13:47:52
>>639
ただ「古田」と書けばわかるし、古田と書けば歓迎の雨霰。

695 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 13:49:06
639じゃなく>>693

696 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 13:58:10
古田の説明では邪馬台国が何処かよく分からない。
邪馬台国は奴国を中心とした北部九州です。

697 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 16:01:41
>>693
>邪馬台国=女王国です。
伊都国から女王国まではせいぜい千五百里、しかし、伊都国から邪馬台国まで
は少なくとも水行十日陸行一月。同じはずはないと思いますが?


698 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 16:02:42
所詮、卑弥呼がもらった100枚の鏡が九州からみつからないのでは話にならない。

倭人伝には、魏からじきじきに100枚の鏡を贈ったことになっている。
皇帝が権威を示すのに、漢代の古い鏡を卑弥呼におくるわけがないだろう。

ところが、九州説では、九州から魏鏡が出てこないものだから、
種類もばらばらな漢代の古い鏡を寄せ集めて卑弥呼に贈ったそうなのだ。
魏の権威も失墜ものだろう。

くやしいからか、畿内説の三角や画文を攻撃してくるが、
三角や画文を攻撃したからといって、九州から卑弥呼の鏡が出てくるわけではない。
まず、卑弥呼のもらった100枚の鏡を見つけてから九州説を説いたらいかがかな?



699 :縄文人:2009/08/21(金) 16:06:26
>>692 >>690
反論できない人がこんなことを言う。君らの気持ちは分ってるんだよ。口惜しいのだろ。

河童虫さんは冗談が好きだから「行程記事じゃなく、地理志だ」などととぼけたことを言う。
地理志なら水行、陸行などの記述は不要だもんね。

700 :縄文人:2009/08/21(金) 16:17:23
>>698
卑弥呼が貰った銅鏡は誰も知らないのではありませんか?卑弥呼の墓に大事に副葬された魏の鏡があればそれが有力な
候補になるでしょうが、卑弥呼の墓も未だ発見されていないのですから決定的な証拠は何もないではありませんか。
<卑弥呼のもらった100枚の鏡を見つけてから九州説を説いたらいかがかな? >と言われてもね。同じことは畿内説に
対しても言えるでしょ。三角や画文が卑弥呼の貰った鏡だという証拠はないのですから。

701 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 16:23:59
>>700

画文帯は、卑弥呼の時代の鏡。それが近畿中心にある。

九州には、卑弥呼共立以前の古い鏡しかない。
卑弥呼の墓がみつからなくても、同じこと。
九州に卑弥呼がいたなら、鏡を輸入する気がなくて、みんな畿内に送ったということになる。

702 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/08/21(金) 16:25:34
>>649
>そういえば九州王朝さんは、不彌国以降は南接としてるのでしたっけ?

邪馬臺國と投馬國領域は、筑後川を挟んで不彌國の領域に南接しています。
又、邪馬臺國の領域は投馬國の領域と筑後平野で東西に接しています。
西側が投馬國、東側が邪馬臺國です。東西の位置関係を示す根拠は隋書です。


703 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 16:29:38
いいですか?
魏志倭人伝には、卑弥呼は鏡が好きだったと明記してありますよ?

確かに、九州からは中国鏡が多く出ています。
しかし、それらは後漢時代までのもので、魏からの新しい鏡はほとんど出ていません。
魏からもらった100枚の鏡はどこへいったのでしょう?
卑弥呼の威厳を示すために他のクニに配ったはずですが、
畿内説でいう三角や画文にあたるような、権威を表す鏡は見つかっていないのです。

九州には、卑弥呼共立後に手に入れたはずの鏡が出てない。
これが、九州説の大きな問題点です。
まず、足元を見て、卑弥呼の鏡を特定したらいかがですか?




704 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 16:39:54
>>650二 ◆.L.MXSPOgc
まあ対立があって実際に戦闘が行われた…とまでは証明はできないな、うんw

ただし弥生時代後半末期、玄界灘周辺地域より筑紫が没落していったのは間違いないんじゃないかな?
Mr吉野ヶ里の高島も言っているが、鋳型の出土を見れば筑紫のほうに古いものが多く出て
むしろ玄界灘周辺地域の方が新しいんだと…

まあ福岡なら須玖岡本が衰退してもその後に比恵那珂があり
古墳時代になってもまだ交易活動の拠点的地位を保てると思うが

つうか今後の年代観の変化によっては「二万戸」と言う中々の国力を示している奴国は
その中心が既に(畿内とのより強い結びつきが見られる)比恵那珂に移っていた…なんて話にもなりかねないw
(つうか多分なるだろうと予測しているんだけどなw)

対して例えば筑紫って弥生末期吉野ヶ里のその後に代わるような拠点集落って挙げられるか?
ガラスや青銅と言った地域の工業拠点でもあった吉野ヶ里の衰退は
工業拠点が福岡平野方面へシフトする事の象徴と捉えているwww

まあ歴史の大きな流れの中で、あっても何ら不自然でもない対立を言ったつもりだが
じゃあ九州に何かそう言った仮説があるのか?

現在主流の「畿内vs東海」と言う説があり
俺は素人ながら交易体制の変化の中で起こりうる対立を言ったつもりだが

九州説側からは
「とにかく邪馬台国も狗奴國も、その対立も、何が何でも九州内での出来事!」と繰り返すだけw

トンデモ説レベルと言う前にてめえの方はどうなんだ?
「これがまともなレベルです」と言うものがあるのか?って話で

ひたすら念仏題目繰り返すしか能の無い馬鹿に言われたくないというのが本音だなwwwwwwwwwwww

705 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 16:39:56
>>700

「卑弥呼の墓がみつかったら」と言いますが、
いったい何を根拠に「卑弥呼の墓」と決めるつもりなのでしょう?
そこに魏鏡が100枚あれば卑弥呼の墓なのですか?
でも、魏から卑弥呼がもらったという証拠はありませんね?
ただ、鏡が100枚あるだけでは。

「卑弥呼の墓」と特定できる根拠が無ければ、「卑弥呼の墓」は見つかりませんよ。
九州説は永遠に証明不可能ということです。
無駄な努力お疲れさまとしか。


706 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 16:41:28
>>650 二 ◆.L.MXSPOgc

12000里の積算根拠については結局ウダウダ言っているだけで積算根拠は出せないと、まあ当たり前だがw

大月氏の例でなんとか話に説得力持たせようとしているが…
なんだそりゃ?誤魔化してるつもりか?ブザマ極まりない
チョッと頭冷やした方がいいなwwww

「西方の大月氏等の場合、こう言う測定結果が残っていてそれを合算すればきちんと12000里になります
 故に邪馬台国の場合も最後の1300里は欠損していますがそのトータル数字は信用できると思います」

…ってのが普通だろう?w

もしそっちにも積算プロセス見えなければここまで言われているように
「12000里は中華思想に基づくいい加減な数字」を裏付けるだけだな。

お前が言っている事は逆と言うか本末転倒。
「西域に対し同じような表記があるから問題ない」とでも言うつもりか?馬鹿wwww

結局二 ◆.L.MXSPOgcの「W報告書仮説w」は九州北部のクニグニの方角のずれを説明するにはある程度意味もあるかもだが
よく問題にされる膨大な日数の説明に対し新しい解決策を提示するようなものでもなんでもない。
(最終的に残り1300里をあの膨大な日数に置き換えた何ら不自然さは何ら解消されない)

本人はこれで全ての問題が片付くようなスバラシイ仮説と思っているみたいだがw

多分
「これで方角のずれは解消できた!他の問題もクリアできる!俺って天災」
と舞い上がっちゃったんだねw

まあこの板では良くあるパターンですな とwwwwwwwwwww

707 :まあ早い話目くそ鼻(ry:2009/08/21(金) 16:43:37
>>651
>そこで、これらを無理せずに読む方法として出したのが「2ルート仮説」ですよ。

ヨコからだが…

前提条件を新たに付加しなきゃならない(W報告書云々)…それって世間一般に「無理をしている」って言わないのか?wwwwwwwwwww

708 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/21(金) 16:47:46
>>699

冗談じゃなくマジレス。


試しに水行、陸行の文字を省いて文章を眺めればわかるけど
測量場所が海か川か陸かの区別がつかなくなるし、測量方法もわからなくなる。大陸内とは違い、大海の中の島を対象に描けば
それら文言は必然的であり、数値に対する起点着点も明確になる。
地理志は、乙女達の“るるぶ”じゃないから

709 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 16:47:53
畿内のほうが証拠は山ほどあります。

画文帯は卑弥呼の時代の鏡であり、それが近畿中心で見つかっています。
どこかの勢力が画文帯を輸入して配布したのは明らか。
近畿には広範囲のクニを従えた王がいたということです。
ホケノ山から画文帯が出ているのは、決定的です。

必死になって画文帯を4世紀にもっていこうとしても、もはや無駄な努力です。
誰も耳をかしませんよ。九州の学者でさえも。



710 :縄文人:2009/08/21(金) 17:16:25
>>709 >>701 >>703
私は弥生時代の王墓は全て発見されているみたいな論はおかしいと思っています。畿内でいかに多くの三角や画文が出て来ても
それは幸運にして発見されたものでしょう。明治以前に開発されて住宅地やその他の施設が作られるときに気づかれず地下に眠
ったままの遺跡の方が多いのではないでしょうか。古代史に詳しい、あるいは興味を持った人が工事現場に居たとは限りません。
九州でも徹底的に調査されれば魏の時代の鏡が出て来るかもしれませんよ。

>>705
卑弥呼の墓に魏から貰った100枚の銅鏡がそのまま副葬されているとは思いません。何か勘違いされておられるのでは?

711 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 17:19:25
>>710
>私は弥生時代の王墓は全て発見されているみたいな論はおかしい

そうではなくて、現在発掘されてる墳丘墓だけ見ても、
卑弥呼がもらってそうな魏鏡が出ていないということです。
だから今後も見通しは無いということです。

それとも、あなたは、九州で未発掘の卑弥呼の墓をいくつか特定してるわけですか?

>明治以前に開発されて住宅地やその他の施設が作られるときに気づかれず地下に眠
ったままの遺跡の方が多いのではないでしょうか。

そんなことは、近畿でも条件は同じです。

712 :縄文人:2009/08/21(金) 17:21:51
>>709
ホケノ山から画文帯神獣鏡が出ていても、それが埋められた時期が確定していないでしょ。ホケノ山古墳の築造時期が
4世紀以降と判明した場合は貴方の説は崩れます。

713 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 17:23:41
>>712

ホケノ山からは画文帯が出ていますが、三角縁は出ていません。

三角縁が流行するより古い古墳なので、4世紀以降では有り得ません。
誰に聞いても同じ答えです。九州の考古学者にも聞いてごらんなさい。


714 :縄文人:2009/08/21(金) 17:41:54
>>711
私が九州内で未発掘の卑弥呼の墓候補を持っているわけではありません。未だ見つかっていないけど、無いとも
断定できないでしょ。
また、次のような可能性も否定できないでしょう。
大和王権が成立して列島の支配権を得たのち、九州の地位は低下したでしょう。その九州に畿内関係者かあるいは
九州内の者か、九州にあった王墓などを荒らし盗掘して鏡などを畿内に持ち込んだものもあったかも知れません。
鏡が貴重なものであれば畿内の豪族は欲しがり報酬もよかったでしょう。

715 :縄文人:2009/08/21(金) 17:46:49
>>713
悪いけど、私は年代測定法の件で考古学者の方々全てを信用しているわけではありません。

716 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:07:58
>>715

年代を信用できないということは、吉野ヶ里の最盛期が卑弥呼の時代だったり、
平原が卑弥呼の時代より後だと思ってるわけですか?

まったく魏と交流をもっていた痕跡が無いのに?


717 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:12:38
>>716

魏と交流をもっていると、どんな特長の痕跡があるのか?そしてその痕跡は
必ず現代まで残っていると言う保証でもあるのか?

718 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:22:36
>>717

魏と交流があれば、同時代の鏡が入ってくるはずです。
画文帯のように。
その画文帯は近畿で多く出てくるということです。

この時点で、九州では魏と交流してた痕跡は無く、畿内には痕跡があるということです。

画文帯が呉鏡で公孫氏経由で入ってきたとしても、輸入してたの主体が近畿なのは同じことです。
画文帯が4世紀からだと言うのなら、それこそ4世紀からという別の証拠の提示が必要です。

719 :縄文人:2009/08/21(金) 18:24:13
>>716
<年代を信用できないということは、吉野ヶ里の最盛期が卑弥呼の時代だったり、
平原が卑弥呼の時代より後だと思ってるわけですか? >

そんなことは言ってませんけど。ホケノ山古墳の築造時期は確定していないと言っているだけです。

720 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:25:28
九州説を成立させるためには、
画文帯を4世紀以後の輸入だと証明しなければいけません。
証明責任は、九州説側にあります。

証明できないなら、九州説は成立しないということです。
こんなわかりやすい話はありませんよ。


721 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/21(金) 18:28:46
畿内に卑弥呼がいたんなら、金印は天皇がもらってるよ。盲象御苦労!

722 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:31:13
>>719

おかしなことを言わないでください。

卑弥呼の時代は、吉野ヶ里の最盛期の後とか平原が出来た後だと言うのですか?
それは畿内説と同じ年代観ではないですか?

九州が衰退してる最中に、九州で卑弥呼が共立されて、魏から倭王と認められて金印をもらったと?



723 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:31:18
>>718

>魏と交流があれば、同時代の鏡が入ってくるはずです。

同時代の鏡が入ってくるのではという予想じゃないのか?
同時代の鏡が日本に入ってきたとする証言でもあるのか?

ここを奇麗にクリアーしないと
以下の

>この時点で、九州では魏と交流してた痕跡は無く、畿内には痕跡があるということです。

画文帯が呉鏡で公孫氏経由で入ってきたとしても、輸入してたの主体が近畿なのは同じことです。
画文帯が4世紀からだと言うのなら、それこそ4世紀からという別の証拠の提示が必要です。


この発言は全く意味をなさない文章になるけど



724 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:34:47
>>723
>同時代の鏡が入ってくるのではという予想じゃないのか?

もっともなご意見ですが、それなら、
神武東征神話も、事実ではなく、6世紀の作り話であり、
九州勢力が畿内を制圧した事実は無いという立場に立ちますか?


725 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:38:07
まさか、物証は疑ってかかり、文献はそのまま素直に読んで事実と見なす、
なんていうことは無いですよね?

その文献も都合よく解釈して、神武東征は紀元前のことだと記紀にあるのに、
実際の神武東征は4世紀だったなんてことは言わないですよね?


726 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:47:26
呉鏡である画文帯
国産鏡の三角縁
魏鏡の方格規矩鏡

卑弥呼の鏡は様々なものを雑多に送られた可能性もあるが
1種類しか送られていないのならば、方格規矩鏡の可能性が高い。

方格規矩鏡は時代的には少し古いという指摘があるが
3世紀の記年鏡が畿内から出ている以上
それに近い年代までは制作されていたと考える。

また、それより新しい鏡は候補から外れる。
送られた当時作られてないものを
送られるはずがない。

もし新しいものがあれば、それ以降の交易で手に入れたものであろう。

727 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:50:54
>>721

では、こんなストーリーはいかがですか?
九州で卑弥呼が共立されたとき、九州はすっかり衰退に向かっていた。
畿内では大和王権が生まれつつあり、脅威を感じた卑弥呼は魏に朝貢して倭王と認めてもらった。
その頃手に入れた画文帯は、自分のものとしてではなく、大和王権に輸出していた。

九州説を立てるなら、もうそろそろ、現実に合致したストーリーを妄想したほうがよいでしょう。




728 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:56:04
>>724

>神武東征神話も、事実ではなく、6世紀の作り話であり

作り話云々というレベルのはなしではなく、日本書紀や古事記という書物にそう記されている
という話だ そこに実話も作り話もない。

>九州勢力が畿内を制圧した事実は無いという立場に立ちますか?

それは文献にてどのように掲載されているかによるんじゃないかな?
文献ネタからの引用なんだから


>>725
>まさか、物証は疑ってかかり、文献はそのまま素直に読んで事実と見なす

物証が言葉を話すなら当然物証は証人となるので、文献以上の力をはっきするでしょう。
しかし、鏡はあくまでも鏡であり 動産でもある

>その文献も都合よく解釈して

文献を都合よく解釈したと判断するのは一体誰?
都合よくとは、自分の考えることと相違するからこそ起きる思考じゃないのか?
自分の頭の中で既に組み立てられた思考を、自ら全否定してまで
他の考えで染めてしまえるほど脳味噌が柔らかい人間が、その辺にゴロゴロしているとは思えないけど
結局は、都合なんていうものは
意見を述べる者にも存在し、尚且つそれを否定する側にも存在するとという
大変身勝手なものの我がままではないのか?

729 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:59:05
>>728

「文献を都合よく解釈しない」のであれば神武東征は紀元前660年です。
それで不都合は何もありませんよ。
文献に明記されてることですから、誰も異論は無いはず。

もし、「文献を都合よく解釈して」神武東征を4世紀などとすることは、
あなたのいうように、大変身勝手な行為です。

違いますか?





730 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 18:59:43
>>697
>伊都国から女王国まではせいぜい千五百里、しかし、伊都国から邪馬台国まで
>は少なくとも水行十日陸行一月。同じはずはないと思いますが?

女王国=邪馬台国
女王国の中心は奴国
女王の都は伊都国
女王国とは対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國
の北部九州26カ国の連合国。
郡治から奴国までが
七千余里+千余里+四百余里×2+千余里+三百余里×2+千余里+五百里+百里=12000里だから
自女王国とは奴国のことだ。
水行二十日は郡治から狗邪韓国までのこと
水行十日陸行一月は狗邪韓国から伊都国、奴国までのこと(一月は一日の誤り)


731 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:06:35
>>729

>「文献を都合よく解釈しない」のであれば神武東征は紀元前660年です。


どこに紀元前660年なんて書いてありますか?
それが都合解釈というものです。
なぜ紀元前660年という数値が導き出されるのかの説明がないと、たんなる都合になります。


732 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:08:14
基本的に結論は物証や文献からの推論によって
導かれるものであると思う。

先に結論があって、そのために物証や文献を使うものではない。

ただし、明らかに実際と即していないと考えられるものがある。
初期の天皇の異常な高齢や倭人伝による倭国の行程の記録である。
しかし、それをどのように修正するのかは、またそれぞれの解釈で違う。

明確に間違いでなければ、非常に広い解釈を取ることが出来るものも多い。

明確に否定または反論できるものでなければ、
そこに踏み込むことは難しい。

互いの構築された論は論として尊重し、自説の補強を
目指した方が実りが多いと思う。

733 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:11:17
魏志倭人伝には、魏王朝から鏡が贈られたという記事が掲載されている。
しかし
その鏡がどんな鏡であったかなんて全然書かれていない。
確かなことは、正始元年以前に作られたという史実
つまり、正始元年以前の鏡なら全てが対象となる性質のもの。

例えその鏡が後漢鏡であろうとも、その候補にがいとうする。

734 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:18:52
>>731

手元の日本書紀の解説には、東征開始が紀元前667年。
橿原即位が紀元前660年。
日本書紀の、天皇がいつ即位したとか、いつ死んだとかの記述通りに年代を計算した結果です。

違うというなら、あなたは何年だと?
「文献を都合よく解釈しない」年代を聞きたいものですね。


735 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:20:11
>>732

>初期の天皇の異常な高齢や倭人伝による倭国の行程の記録である。

その異常と判断する物差しは、当時の物差しではなく
現代の、しかも考える側の能力範疇だけで判断してのことであり
決して正しい判断の上に立っての異常とする判断ではないはず。

例えば、太国さんではないが
当時の「年」をどのように扱うかによってさまざまな答えが導き出されるし
距離にしても、十分把握されての解釈とはおもえない。

千里と書かれてあれば千里なのに、わざわざ危険をおかして現代の値に換算するという
行為を、自ら進んで実行してしっまう
当時書かれた千里は
1700年経過した今でも千里であるのに・・・

736 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:20:45
>>733

では、こんなストーリーはいかがですか?
九州で卑弥呼が共立されたとき、九州はすっかり衰退に向かっていた。
畿内では大和王権が生まれつつあり、脅威を感じた卑弥呼は魏に朝貢して倭王と認めてもらった。
その頃手に入れた画文帯は、自分のものとしてではなく、大和王権に輸出していた。
卑弥呼は、後漢鏡を自分のものとして九州のクニに配った。

九州説を立てるなら、もうそろそろ、現実に合致したストーリーを妄想したほうがよいでしょう。



737 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:23:33
>>734

>違うというなら、あなたは何年だと?
「文献を都合よく解釈しない」年代を聞きたいものですね。

年代なんて始めから書いていないんだから答えようがない。
それが史実です。

738 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:28:20
>>737

だったら、ここに何しに来てるの?

うちに帰れば?

739 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:32:26
>>738

>だったら、ここに何しに来てるの?
うちに帰れば?


直ぐにファビョってしまう。それがあなたの思考回路の限界域
ご愁傷様です。



740 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:34:16
>>735
>その異常と判断する物差しは、当時の物差しではなく
>現代の、しかも考える側の能力範疇だけで判断してのことであり
>決して正しい判断の上に立っての異常とする判断ではないはず。

まったくその通りである。そのため太国氏のような倍歴を主張する方もいれば
欠史八代は創作されたものであると主張する方もいる。
それぞれに一理あり、自分はそれを明確に否定する材料を持ち合わせていない。
どのような解釈があるのかいつも興味深く拝見させていただいている。

そして、それ自身の説の正しさは記紀だけではなく、明らかに被葬者が明確な
古墳からの出土など、記紀とは関係がない分野での傍証などが無いと
証明は難しいと考える。そのため、新たな信頼できる説が出れば
いつでも修正しなければならないと考えている。

そのため、強い主張はあまり出来ないし、しない。
あくまで、資料や考え方を提示して、他の分野の知識の豊富な方々が
どのように判断されるかを拝見させていただいている。
それによっては意見を変えるかもしれない。


741 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:35:09
>>732
>初期の天皇の異常な高齢
日本書紀を編纂させて天武朝と編纂者達、そしてそれを読んだ当時の人達は異常と思わなかったから、そう記載されてるんでは?
当時の人達と明らかに解釈の仕方を違えてるから異常になるのでは?
>日本書紀に記載された初期の天皇は異常に高齢で異常
これはいつの時代からこう解釈されだしたんだろう?

742 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:36:27
>>739

おもしろいやつだな。

こっちは暇だから一晩でもつきあってやるぜ。
おまえの史実とやらを聞かせてもらおうか。


743 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:40:23
>初期の天皇の異常な高齢や倭人伝による倭国の行程の記録である。
  しかし、それをどのように修正するのかは、またそれぞれの解釈で違う。

よい意見ですね。まず各自がこれを認めることが大切でしょう。つまり「素直に読んだら」など
と言わないことです。倭人伝は不完全な地理誌であり、独自解釈を加えなければどこへも
行き着かないということを認めるべきです。

放射説や、郡からの行程が水行10日陸行1月などというのは、おそらく「素直」とは見ない中国
人研究者が多いでしょう。何よりの根拠は、王朝あり、北九州、筑紫、宇佐、日向などなど、この
板の九州説がバラバラなことです。そのそれぞれが、「俺だけは素直に読んでいる」というなら、
それは笑い話でしかありません。



744 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:42:25
>>741
>日本書紀を編纂させて天武朝と編纂者達、そしてそれを読んだ当時の人達は異常と思わなかったから、そう記載されてるんでは?

そうかもしれない。そうであれば、倍歴などの考え方の可能性が高くなる。

またもうひとつ考えられる説としては、編纂当時すでにそういう文献があった。
当時の人間も明らかにおかしいとは思ったが、記載をねじ曲げて、正常な年齢に
換算する手法を持ち合わせていなかった、という可能性もある。
そのため、頭をひねりながらも、そう書いてあるのだから仕方がないと
そのまま記載したのかもしれない。

もちろんこれは根拠のない一説に過ぎない。否定してもらってかまわない。

745 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:43:07
>>742

>こっちは暇だから一晩でもつきあってやるぜ。
おまえの史実とやらを聞かせてもらおうか。


気が向いたらな

746 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:45:53
>>743

>倭人伝は不完全な地理誌であり、独自解釈を加えなければどこへも
行き着かないということを認めるべきです。

それはアンタの個人的ないけんだろう。
なんでそんな個人的な意見に従わなければならないのか?
自分で勝手にやってればいいだけの話

747 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:51:26
>>744
確かに日本書紀は天武朝が編纂した正史なんで、当時これをおかしいとした文献があったとしても後世に残すのは難しかったでしょうね。


748 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:52:18
>日本書紀に記載された初期の天皇は異常に高齢で異常

戦前の日本では少なくとも史実に近いもの(当然疑問視するものも大勢いたのだが)として
捉えられていた。皇国史観の一言で片づけるのは簡単だが、大々的に行われた皇紀2600
年記念を心から祝ったのが、当時の大方の国民だったろう。

この神武即位前660年を覆すには、実はかなりの論証が必要。はっきりいって文献史学的に
神武東遷3世紀または4世紀とする論拠が示されない場合がほとんどだ。「常識的に考えて」な
どというなら、これからも縄文人のような輩が幾人もはびこることになる。

749 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:58:41
だいたい、畿内だ九州だなんて騒いでいるから
変な方向に走っちゃうんだよ。
倭人伝は日本の事を書いた書。

だったら日本説しかないじゃん。

750 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 19:58:54
>>747
逆にいえば、あまりに自分たちに都合のよいように持ってきた、見え見えの記述も載せにく
かっただろうと思うけどな。壬申の乱を経て即位した天武の時代は、天皇の権力が絶頂に
あった時代とはとてもいえない。

751 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:02:38
>>744
他人の意見を簡単に否定なんてしませんよ
日本書紀の編纂年代は確実なんで、そこに記載された記述はリアルタイムの話ではなく
なにかの伝承や古い文献などを整理、引用しつつ整合性をとりながら編纂してった訳ですよね?
確かに当時すでに明確に数世代を遡る確かな物も失われてた可能性もありますね。
複数の伝承、古文献の整合性をとってしまったら日本書紀の記述になってしまったとかの可能性もなきにしもあらずですし。


752 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:02:49
天武と日本書紀編纂を絡めて考えるならば、
天武を勝利に導いた功績のある氏族が日本書紀に古い氏族として登場することを、
記紀神話から割り引いてかんがえるべきだろう。
三輪氏なんてのも、天武を最初にかくまった氏族だからな。

753 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/21(金) 20:03:28
>>727
卑弥呼が畿内の女王なら記紀に女天皇が崇神ころの皇統譜に載るよ。ところが
それがなく、当時は畿内は男王国だ。だから畿内に女王の統治した形跡はまるで
無い。単なる祭主じゃぁ金印はもらえっこない。

ところが伝では卑弥呼は女王で金印をもらってるんだから、これは畿内以外の
地域に女王がいたということだね。紀無いになけりゃぁ、これは九州だという
ことだ。統治の畿内は男王国(天皇国)であり、女王国は存在の形跡は全く無い。

754 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:09:20
九州と天武との関係でいえば、
壬申の乱では、大友皇子の出兵要請があったものの九州は腰が重かったようだ。

天孫降臨や神武東征なんてのも、九州へのリップサービスの意味合いもあるだろ。
天武がもともと天皇家じゃないという説もあるが、
だったら九州は積極的に大友皇子について派兵して天武を叩くはずじゃないか?


755 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:11:35
>>748
いつの時代あたりから公に日本書紀の記述は違うという論説が出てきたんでしょうかね?
>>750
逆にあまりに天武朝を持ち上げすぎた物でなかったんで、日本書紀は間違ってる、こっちが本当なんだよって文献が近い時代に出なかったんでしょうね。
いや無かったと確証はありませんが・・・。

756 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:13:50
アマテラス大神にしても、天武の頃の創作という説がある。

その頃の天皇は代々男王で、女性が天皇になることは異例だった。
そのため、女性天皇が即位するにあたり、根拠として、アマテラスを創出したのだ。



757 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:15:16
伊都国に「世有王 皆統屬女王國」とある
魏の治世に伊都国に卑弥呼、壱与と代々王がいた
倭の国々は全て女王国に統属していた
との意味だ
伊都国が女王国の都なのだ

758 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:20:19
壬申の乱は九州内の内乱だ
それを記紀では畿内の出来事として書いてある

759 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:20:27
>>752
これは勿論、編纂した物達は確実に何かの考えあって編纂した訳ですもんね。

760 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/08/21(金) 20:20:50
畿内説 VS 九州説 ?!アホらし〜〜ww
どいつも、こいつも、おめでたいねw

あのね、卑弥呼の時代は、都を畿内においた。
卑弥呼の祖先は”南方系”の一族で、その一族とは天皇家。
そして、
たんじ、シュガイ⇒奄美大島⇒九州⇒畿内へと移ったことが予想される。

遷都というよりは、この列島を”侵略”したわけだ。
侵略一族の天皇家による一部分が、倭人伝に記されてるわけで。

761 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:22:16
少なくとも中国の歴史書編纂は、前政権を倒して、新たに立った
政権の正当化作業の意味合いが強い。

天武朝の時代に編纂された記紀もその可能性がある。

焚書された可能性も高いが、それ以前はそれほど
強い歴史書の編纂の形跡がない。
もちろん、各豪族の歴史書は存在する。

記紀を大々的に編纂して、政権の正当化を行わなければならない
理由があったのかもしれない。

762 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:23:57
>>760
>南方系  マクモニーグルだろう。wwwwwwwww

763 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:24:38
アマテラスというのは、もともと男神だったらしい。

しかもニギハヤヒこそがアマテラスその人だったと考えられる。
ニギハヤヒの正式名は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命 (あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

名前に「天照」と付くのは、アマテラスとニギハヤヒしかいない。
神武東征前に、畿内の王だったのはアマテラスということになる。

764 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:28:17
>>760 ドツボ
>卑弥呼の祖先は”南方系”の一族で、その一族とは天皇家。

根拠は?

少なくとも天孫降臨神話は扶余を含む北東アジア系なんだが?wwwwwwwwww

765 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:28:39
>>754
ただ神武東征が事実かどうかは置いといても
日本書紀に天孫降臨と神武東征の記載したってだけでも
当時、九州に祖を持つ豪族にとってプラス以外の何ものでもないですね。

766 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:33:22
高天原というのは、もともと葛城の高天のことだった。
それを伝承してきたのは、葛城氏だった。
事実上、天孫は葛城氏だったはずである。

ところが、葛城氏の円大臣は雄略天皇によって滅ぼされてしまった。
これにより、天孫の地位は雄略が奪い、現天皇家が天孫を騙ることになったのだ。


767 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:38:41
>>765

九州に祖を持つ豪族が天武の側についた、ということは事実だろう。

たとえば、多氏は、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされる。
wikiには、「邪馬台国の女王の卑弥呼もまた、多氏の一族である肥国造の人ともされる。」なんてトンデモ話が修正もされずに載っているが。
九州と関係の深い氏族ではあったようだ。

そして、多氏の末裔である「太 安麻呂」が古事記を編纂している。




768 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:41:43
>>761
それと後世の政権が日本書紀の記述の一部を書き換えとか無かったんですかね?
まったく天武朝の編纂したままが伝わってるんでしょうか?
書き換えなしとしたら、やっぱりそれが不可能なくらい当時は常識となってしまった正史なんですかね。

769 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:53:03
神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされる多氏だが、
その多氏が編纂した古事記が偽書とも言う説もあるから、話はややこしい。

それより、多氏は神八井耳命の後裔とは騙るが、
直接、神武天皇の後裔とは騙らないのはなぜなのか?
天皇家を除けば、もっとも神武に近い氏族のはずなのだが。
「天皇の兄弟の子孫」という立場になった場合は、直接天皇の子孫を騙らないという
約束ごとがあったのか?

それなら、ヲワケがオオヒコの後裔を騙ってることが説明でき、
オオヒコの実在性が真実味を帯びる。


770 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:54:20
>768
書き換えがあった可能性も皆無ではない。
だが、漢文で書かれており、諸外国にも提示できる文献を
目指しているように見える。そうなると、中国辺りにも
送った可能性があり、なかなか変更は難しくなってくるのではないかと思う。

また、修正がないとすれば、それ以降は明確な政権交代がなかった。
または、皇統が変わったとしても、いろいろと古い系図をごまかすことによって
そのまま記紀の記述を維持したかのように見せかけた方が、正当性の
主張がやりやすかったのかもしれない。

逆に言えば、記紀編纂の直前の政権交代は、非常に大きな
政権の変動だった可能性がある。


771 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 20:57:02
オオヒコは、8代「孝元天皇」の長男で、9代「開化天皇」の実兄、
10代「崇神天皇」の叔父であり義父でもあり、
11代「垂仁天皇」の祖父という王朝内でも屈指の貴種だとされる。

オオヒコの叔母さんがヤマトトトヒモモソヒメだ。



772 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 21:01:26
>>767
古事記と日本書紀の記述の違いは明確な意図があるのか?ないのか?
なぜ記述に違いがあるのか?
小さな問題かも知れませんが気になるところですね。

773 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 21:08:48
>>770
解釈を巡って一番不思議だったのが、後世、異常と指摘される部分をなぜ書き換えなかったんだろうってとこなんですよ。
いくら当時の政権が編纂した正史っあっても当初から異常を指摘されたら正史的観点から政権の正統性を失ってしまう。
そんな物を編纂しても仕方ないですもんね。
天武朝の立ち位置ですると、自分達だけの正統性を述べる書には出来なかった。
当時の豪族間の色々な資料や伝承を絡めながら、整合性をとりそこに天武朝を落とし込む形になった
もちろん仮説ですけどね。

774 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 21:14:31
多氏の祖の神八井耳命についても語っておこう。

神武は、橿原で即位した後、妃を娶る。
日本書紀では、事代主の長女のヒメタタライスズヒメ。
ところが、多氏の編纂した古事記では、
大物主の娘のヒメタタライスケヨリヒメだという。
この食い違いはどういうわけだろう?
多氏のほうが、神武に近いので、古事記の方が正しいはずだが。

神武には3人の皇子がいた。
神渟名川耳(綏靖天皇)、神八井耳、手研耳。
このうち、手研耳だけが、神武が日向で娶った妃の子で、生粋の九州生まれだった。
神渟名川耳(綏靖天皇)と神八井耳は、奈良で娶った妃の子で、奈良生まれだった。

記紀によれば、手研耳が反乱をおこしたので、
神渟名川耳と神八井耳が征伐したのだという。
早い話が、九州生まれの皇子を排除したということだ。

このエピソードだけを読んでも、九州勢力の畿内征服なんて説がマユツバだとわかるだろう。



775 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 21:23:48
九州勢力が畿内を征服したなら、多くの氏族が九州の部族の直系を名乗るだろう。
そして、九州の氏族は団結して、立場を保持しようとするはずだ。

しかし、記紀によれば、九州生まれの皇子の手研耳は反乱を画策したということで、
あっさり殺されてしまった。

ここに、九州の氏族の地位が、奈良では、けして高くなかったことが読み取れる。

八代天皇を作り話という人もいるが、
九州勢力が畿内を征服したなら、
わざわざ、九州出身の氏族を貶めるエピソードを創作する必要は無い。


776 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/08/21(金) 21:30:31
九州勢力が畿内を征服したなら ・・・×

南方系の人々が、九州を征服、その後、畿内を征服・・・○

まだ、まだ、やのぅ(高笑)

777 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 21:34:20
>>776

そうですね。

弥生時代始めの話ですね。稲作とともに南方系の人は来たでしょう。
それで?






778 :縄文人:2009/08/21(金) 21:36:41
>>775
神武の九州時代の妃の子が殺されたからと言って、神武が九州から東征したことを否定する材料にはならない
でしょう。神武は九州から来たので畿内土着の豪族とうまくやって行く必要があったでしょう。九州閥を作る
ことが畿内を纏めるのに有効だったでしょうか。むしろ逆ではないですか?

779 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/08/21(金) 21:38:47
>>778
>神武は九州から来たので

正確にいうとこれも×
九州から畿内に向かったちゅーこと。

みんなが、思い描いてるような、生易しい歴史とは違うやんww



780 :傷塩:2009/08/21(金) 21:42:49
「謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符35!」における改めレス。

> 516 名前:アラタメ[] 投稿日:2009/08/15(土) 16:20:49

><晋書 帝紀>
 正始元年春正月 東倭重譯納貢

 少し考古学に関係しますが、重譯文化というのは何処だかご存知でしょうか?

「重譯文化」!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

781 :傷塩2:2009/08/21(金) 21:46:25
> 518 やべえ やっちまったなwww

とりあえず、落ち(逃げ) またねwwwwwww

ドツボはこのような信じがたいミスを2000回ほど重ねています。


782 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 21:48:33
くだらねえレスで埋めるな。wwwwwwwww

783 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 21:55:08
>>778

九州生まれの王を2代続けて出すことを、拒否したという歴史ですよ。



784 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/21(金) 21:56:57
>>704
まったく説明になっていないのに気が付かないのでしょうか。筑紫の没落はゆっくり30国連合に入ったのか入れなかのか・・。
北九州から畿内のゆっくり30国連合が脅威して魏に泣きついた狗奴国は南九州なの東海なの?都合よくころころ自説を変えて
逃げてるつもりなのでしょうか。言っていることに一貫性というかそういうものが無いのは、お話レベルの妄想を垂れ流しているからでしょうか。
(そもそも自説なるものがなく、エラい人のみんなが言ってるから僕の意見は正しいんだ、とか思ってるだけなのかもしれませんが)

たしか考古学関係の学生だったと記憶していますが、学者になるのは止めたほうがよいですよ、あなたには向いていません。
皆が言っているから正しい、なんてのは高校の先生ならばそれで良いのでしょうが、学者ではそれではダメです。
あなたには学者として一番大切なものが欠けています。学者の道を歩んでも平凡なままなんの成果も挙げられないで終わりますよ。


785 :縄文人:2009/08/21(金) 22:01:58
改め氏は太國ちゃんと遊んでなよ。神武は日向から船団を組んで出航し、途中宇佐に立ち寄ってから瀬戸内沿岸を平定しつつ
大阪まで来て、ここから畿内へ入ることが出来なくて紀伊半島の山越えで奈良に入った。奈良の豪族と激しい戦闘になったが
遂には勝利した。戦闘の勝利という事実だけでは占領地の支配はうまくゆかぬのが常識である。土着豪族の慰撫、懐柔などの
融和策をうまくやらねばならない。話が先に進みすぎたが、瀬戸内から畿内への侵攻、ナガスネ彦との戦闘などの記事は神武
が「元は畿内の人間である」とする考えを否定する材料である。

786 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:04:02
壬申の乱の旧唐書の記述
古事記編纂の稗田阿礼
九州の熊襲と隼人の存在
ここら辺りどう見ます?

787 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/08/21(金) 22:06:42
>改め氏は太國ちゃんと遊んでなよ。

了解

>神武は日向から船団を組んで出航し、途中宇佐に立ち寄ってから瀬戸内沿岸を平定しつつ

なんどもいうが、「平定」とか生易しいもんじゃないw
「侵略」だって教えたでしょーがwww

まあ、頑張って議論して下さい、わたしは終止符スレいきます。

788 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:10:34
>>784
>たしか考古学関係の学生だったと記憶していますが

その人は違いますよ、たぶん。縦目氏と間違えてるんでは?


789 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:12:04
>>785
>神武が「元は畿内の人間である」とする考えを否定する材料である。

そうだね。

で、神武東征は紀元前のことですからね。
4世紀じゃないよ。4世紀だって言い張るなら、新しい証拠を出してね。



790 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/21(金) 22:12:43
>>706
狗邪韓国までの7千余里も、一度に計ってないのなら積算根拠を示せ、出来ないなら出鱈目な数値だ、とかいうのでしょうね。
12000里が、梯儁の一団が実際に邪馬台国に行ったときの距離を測ってそれを記したものだ、というなんらおかしくない考えを、
「おかしい、おかしい、ギャハハ」とか一人で騒いでるマジキチと同じですよ。周りは引きまくってるのにご自身は気が付いていないでしょ?

日数にしても、私たちは半島や3回の渡海でその1里が70m程度と分かっているため、1300里の距離をあるていど正しくみる事ができますが、
当時の第三者たる魏の役人にはそんなことは不可能であるので、これを魏の里と勘違いした第三者にしてみれば突飛なものではないでしょう。
だいたい里程の合計が10700里なのに、12000里がそれより数倍遠い場所を表すのに使われている、などと本気で言う時点で頭の悪さが計れます。

まぁ「水行20日」「水行10日陸行1月」を行程ではないと否定されると畿内説終了なので、涙目で必死になっているのでしょうが。


791 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/21(金) 22:16:12
>>707
バカがループしないように。梯儁も張政も何らかの報告をしたに決まっているでしょう。

無理をしているのは、涙目で必死に無理して「wwwwwwwwwww」と書き込んでいる貴方のほうですよ。


792 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:21:29
>>791
その人(www)はジョーカーといって、宝くじで3億円当たってニートになった人だよ。

793 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:38:09
>>791
バカは間違いなくお前だと思うけど。

794 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/08/21(金) 22:48:51
二 ◆.L.MXSPOgc さんには悪いが>>793さんに同意する。

ジョーカー氏はふざけてるようで、マトモなことを言っている。
それに比べて、貴方の考えは申そうばかりのような気がしてならない。

795 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 22:53:13
>>784 二 ◆.L.MXSPOgc
>(そもそも自説なるものがなく、エラい人のみんなが言ってるから僕の意見は正しいんだ、とか思ってるだけなのかもしれませんが)

わははw

段々内容がなくなってきてるなwww
その台詞もこの板で九州説の奴が叩かれた時の典型的なパターンだwwwwwww

そうだよ?俺の言ってる事は全て何処かの本、何処かの学者の受け売りだが、それがどうかしたか?w

「ボクはひっしでかんがえたんだ、うけうりやってるおまえとはちがうんだ!」

おいおい、音楽や絵画と言った芸術じゃなし、オリジナリティで勝負するって物じゃないぞ?wwww




796 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:03:05
まあ結局ね、「倭人伝ではムリ」とする人と、「倭人伝まだまだいける」と考える人がいるんで、
「二」氏と「www」ではどうやっても議論にはならないんだな。今回は「www」がつきあった形
だが、「倭人伝信ずるに足らず」という人は当然考古資料でくるだろうし、魏使の報告書なるも
のを信じてない人も多い。

797 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:05:27
>>790 二 ◆.L.MXSPOgc
>まぁ「水行20日」「水行10日陸行1月」を行程ではないと否定されると畿内説終了なので、涙目で必死になっているのでしょうが。

まあここだけは指摘と言うか忠告しておいてやるが
そんな単純な事で畿内説ひっくり返せると本気で思っているのか?

あまりにも下らない世間知らずの(まあ元々邪馬台国ネタなんて大抵浮世離れしているがw)餓鬼の妄想wwww

そもそも日数を距離に換算する公式があるわけじゃなく
一体その日数のうち移動に費やしたのがどれくらいか分からない。
(わりと最近じゃあ謝銘仁と言う学者が指摘してたと思うが)

そんなあやふやなものに頼らなければ成り立たない説が畿内説?

じゃあそれに圧されて青息吐息の九州説はなんなんだよ?って話だなwwwwwwwwwww




798 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:20:58
じゃあ万年ループしていないネタ
恐らくは過去誰も扱わなかったネタ?を…w

現在、畿内説で卑弥呼のモデルとして人気No1の倭迹迹日百襲姫。
このネタは箸墓がその墓と言うネタもあいまって撒き餌として九州説の食いつきもバツグンだがw

畿内説の考古学者では狗奴國を東海に比定するのが有力で
(まあ俺みたいに熊本って場合でも同じだが)

その場合、記紀に見える倭迹迹日百襲姫の武埴安彦の反乱のお話は
何だったんだと言うツッコミが何故九州説から無いんだろう?w

卑弥呼=倭迹迹日百襲 なら
狗奴国王卑弥弓呼=武埴安彦 と言うのはよく言われるんだが

武埴安彦は東海や九州といった近畿以遠の勢力とは書かれていないぞとwww

799 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:30:56
九州説の人は記紀なんてほとんど読んでないでしょ。
「天の岩戸」「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」くらいしかボキャブラリー無いみたいだし。


800 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:32:15
>>772
記紀はそれぞれ邪馬台国を描いている、その描き方のちがいから記と紀の物語にちがいが
生じているということが「邪馬台国の暗号」安田哲也著に述べられている。これまで誰も
指摘しなかったような話ばかりだが、元検事が書いた本。興味があったら読んでみたら?

801 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:33:35
で、卑弥呼=アマテラスと思い込んだら、
後は自動的に東遷説の出来上がり。


802 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:36:18
でも『卑弥呼=アマテラス』ってのは魅力的だよな?w
誰だって一度は考えた事あるだろう?

俺だってリアル厨房の頃には考えたww

恐らく今後も一定の顧客をキープしていくものと思われwwwwwwwwwww

803 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:43:08
>>798
そう言えば、いつも人の説にケチをつけてはうめいたり、のたうち回っているようだけど、
お前の説はどんな話なんだ。

804 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:43:41
>>802

脳みその中にパズルのピースが少ない人は、
簡単にアマテラスと卑弥呼を結びつけるみたいね。

実際は、卑弥呼はクナ国と仲が悪く、アマテラスはスサノヲと仲が悪く、
女性という以外、まったく共通点はないわけだが。

805 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/08/21(金) 23:45:11
はあ、糞なんとか、とか、九州〜半島が二千里とか、が出てくる記事スね。
日本書紀、一通り読んだけど、カナリ前で・・・記憶が・・・・・。

806 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:55:33
武埴安彦は単に、

>更に男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。

の一部でいいと思うんだけどね。一族内の混乱であるし。まあ、武埴安彦の反乱時に百襲姫
は生きていて、倭人伝の男王の時、卑弥呼は死んでいるわけだが、そこは伝承の混乱という
ことでw


807 :縄文人:2009/08/22(土) 00:10:43
>>789
私は神武東征が4世紀だなどとは言ってないけどね。
日本書紀は西暦では書かれていないし、神武が紀元前の人物だなんて誰が言っているの?
神武は2世紀末頃に東征に出かけたんだよ。
なお、崇神だって120年も古く操作されてるんだよ。彼こそが4世紀に大和王権を確立した大王だよ。

808 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 00:18:06
>>807

縄文人は邪馬台国東遷説じゃなかったっけ?

809 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 00:19:39
モモソヒメが大物主を祀る巫女となるが、
武埴安彦の謀反は、モモソヒメが予言する。

武埴安彦の母は、河内青玉繫という名から河内の豪族を地盤にしてたのかもね。
腹違いのオオヒコは物部氏系だから、
河内の領地を物部氏と争ったという話なのかも。

武埴安彦を討った後で、モモソヒメは大物主の妻となって、
死んだ後で箸墓が作られるという筋書き。

モモソヒメともう一人、大物主を祀った大田田根子は、河内に住んでいた。

なにやらこの時代、大和と河内は何かあったんだろう。
河内で庄内式土器が作られはじめた頃か。


810 :縄文人:2009/08/22(土) 00:29:08
>>808
私は邪馬台国が東旋したなどとは一回も言ったことはない。邪馬台国勢力(高天原勢力)の一部(神武ら)が東征した
とは言ってるけどね。壹與が引き継いだ邪馬台国が266年以後どうなったかについては情報がないので分らない。

811 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 00:30:43
>>810
>邪馬台国勢力(高天原勢力)の一部(神武ら)が東征したとは言ってるけどね。

これまた微妙な言い方www

812 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 00:33:36
改めのまねだろうwwwwww

813 :縄文人:2009/08/22(土) 00:38:37
>>811
微妙では誤解を招くから、玄妙と言い換えて貰いたい。私の考えは先人の説にとらわれないものでね。
私の書き込みを見て先入観に囚われたようなレスをする人が多いので困る。

814 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 01:01:01
あまりに東遷説が分が悪いんで軌道修正したんだろ。


815 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 01:16:53
とうとう軌道修正したかw
素直で宜しい

816 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/22(土) 03:34:57
>>810
大陸で日本に対する記録が途切れるのは
記紀を編纂する時には十分承知していた。当然日本でその現象を利用しない手はない
国内に残る記録だけを調整すればいいだけの話しだから

817 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 06:50:38
>>813
>微妙では誤解を招くから、玄妙と言い換えて貰いたい。

玄妙 → 珍妙

818 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/22(土) 07:09:05
>>794
私に叩きのめされた改めさんは、同類の草植(ジョーカー)氏と連携したいってことでしょうか。
宮崎説の方も加えて叩きのめされた者同士がゆっくり連合でも組んでみたらいかがでしょう。


819 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/22(土) 07:19:58
>>795
酷くなっているのは貴方のほうですよ、気が付きませんか? 今回はおそろしく内容の無いレスでしたね。

結局、私説のおかしな処を何も見付けられなかった、無理に12000里に拘っていたようですがそれで終わり。
私説を応用すればどこでもいける、畿内説もできる、と言っていたのに、作ろうとしたら珍妙トンデモ説ばかりで失敗。
それでお得の考古学的裏付けの話をしようとするも、北九州が頭を下げ南九州をハブり東海の勢力におびえて魏に助けを求める、
という妄想を垂れ流す。その後は「冊封されて(畿内だけ)繁栄大爆発、武力で日本を制圧しました」みたいな考えでもしているのでしょうか。

そもそも考古学的裏付けで邪馬台国の証拠とかいっているのは、「冊封されれば繁栄大爆発」という妄想の上に成り立たせているもの。
それでもって「10日1月だけで畿内説云々」などど述べているわけですが、妄想が根拠なので結局「10日1月」が否定されれば終わってしまう。

こういったことが、ご自身で気が付いていないのが不思議なくらいです。
それで考古学を結構勉強されているのでその卵かと思っていたのですが、本当に只の凡人だったのですね、失礼しました。


820 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/22(土) 07:27:58
>>797
>>じゃあそれに圧されて青息吐息の九州説はなんなんだよ?って話だなwwwwwwwwwww
今までは九州説も、方位が間違っていた説やら経路が間違っていた説やら、畿内説のいろいろ間違っていた説と同様に
間違えた説しかなかったから、間違い同士でどちらが優位ということもなかったのでしょう。

私の「2つのルート仮説」は新しい説ともいえるので、今までの間違えた説同士の優越には影響を受けません♪(妄想大爆発中w)


821 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 08:36:11
>大陸で日本に対する記録が途切れるのは
記紀を編纂する時には十分承知していた。当然日本でその現象を利用しない手はない
国内に残る記録だけを調整すればいいだけの話しだから

自信持って話す事ではないだろう。
見てきたのか?
聞いてきたのか?
貴方は古代人の心が読める超能力者か?
ムーの世界を語られても胡散臭いんだよ。
しかもあなたの説はややこっしくて思考が面倒な事ばかり。

822 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 08:37:44
どの仮説も「倭人伝には大きなまちがいがある」という結論を導きたいのだろうが、
仮説を裏づける証拠を見つけることなど不可能なのだから、結局は妄想、トンデモ
を抜け出すことはできない。
倭人伝を素直に読み、陳寿の意図を探っていこうという立場だけが、残ることになる。


823 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:01:01
倭人伝を著した陳寿は、正確、堅実と定評がある史家。それまでの史書の書法を踏まえて
書いているわけで、トンデモ読みをしなければならんような文章を書くはずはない。
郡から狗邪韓国に至る行程は、海岸にしたがって水行と明記されている。韓国内陸行など
と解する余地はない。狗邪韓国までは七千里、更に三千里で末盧国。つまり計一万里で倭
の地に上陸だ。非常に分かりやすい話だな。


824 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:07:28
>>822
で、定説がなく数百年謎のまま今に至る。
つまり何処かで矛盾があるという事です。

825 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:10:41
郡から末盧国までの過程をみれば、倭人伝の1里が80〜90メートルであることが
分かる。末盧国からは、東南陸行五百里だ。上陸するんだから、内陸部に入るにきま
ってるわけで、玄界灘沿岸の前原なんぞのはずはない。当然、佐賀付近だ。
で、畿内なんぞに向かうはずがないことは明白。
伊都国には到るが使用されており、ここが区切りであることが示されている。この伊
都国からは放射式。学者の中でまともな人はそう読んでいる。畿内説の山尾や直木ら
ですら放射式が正しいって言ってる。伊都国に港があるんだから、そこから南水行を
すればよい、放射式は当然のところだ。
有明海を南下するのが南水行だ。水行二十日の先は薩摩川内、となれば、水行十日陸
行一月は八代付近で上陸してえびのの方へ抜けるってことだ。都城あたりが邪馬台国
だな。これまなら倭人伝どおりの行程だ。
方角も日数もごまかさない。これが素直な読み方というものだ。


826 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:13:10
>>824
怡土の地名に飛びついて倭人伝のとおりに伊都国を比定するという一番基本的な
ことを忘れていたからだよ。コロンブスの卵だな。

827 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:13:42
>>820
投馬、邪馬台国伝聞説で、帯方郡からの放射説読み、
12000里遠方論だとあんたの妄想論の影響を全く受けませんけど。

828 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/22(土) 09:14:05
>>821

自信をもって語ると、貴方に何か都合の悪い事でもあるのかな?
なければ別に構わないだろう。
それに私の申す事がややこしく複雑であるならば、それを理解出来る能力が貴方に身につくだけで解決出来るから頑張ってくれ。

小学生に因数分解を理解しろとは言わないが、時が経ち因数分解を理解出来る能力が備われば
先日までムズイく理解出来なかった因数分解も、簡単に理解出来る。


何事も、ムズイと感じるのは今だけだ。

829 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:24:09
>>819 二 ◆.L.MXSPOgc
>畿内説もできる、と言っていたのに

え?できるじゃないかw

最終的に12000里に足らずとも良い=距離の情報の欠落を認めて良いのなら
方角の情報の欠落を認めてもいい理屈だよな?w

とりあえずルールをまとめておこうwww
(異議は受け付けるぞw)

 ・二つの内容の異なる報告書を想定できる。
 ・その二つの報告書から編集者がどのような取捨選択をしたかも自由に想定できる。
 ・ただしその二つの報告書は最終的に邪馬台国まで行ったものとする。
  (他の地に行ったものを勘違いしたと言うシナリオは無しw)

でだ…

(1)梯儁ルート…国名と官と副の名を書いたもの(報告書として不備があるかな?)

(2)張政ルート…北部九州の地理は書くまでも無いとし不弥国から先のヤマトまでの行程を日数で表記方角の記載無し
      (報告書全体は邪馬台国と狗奴國の仲裁?に主眼が置かれていて
       日数なんかはほぼオマケ、本人の覚え書き程度だった…と言えばリアリティ上がるかな?w)

(3)『 また魏使のルートとは別に次の情報が混ざっていると考えています。』
   北部九州に常駐していた郡使による不弥国までの詳細な地理情報(方角・距離+魏使では収集できないような風俗情報もw)

で、陳寿は最後不弥国から先の方角が分からなかったので大陸の人間の先入観に基づく地理観で『南』と書いたとw

上記で何処かアンフェアな事をやってるかな? スギモリ君?wwwwwwwwwwwwwwwwwww

830 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:26:01
>>819 二 ◆.L.MXSPOgc

さてさて、この馬鹿の幾つかの誤解をといておこう。
あまりにも酷すぎる〜w

>東海の勢力におびえて魏に助けを求める
はて?
現在主流?の狗奴國=東海説に反して随分根拠を挙げたつもりだが?
畿内説を唱えるものには選択の自由すら無いのか?w
例のニュースに触発されてクスリでもやっているのか?マンモスドアホw

>冊封されて(畿内だけ)繁栄大爆発
これも意味が分からないな。
首長連合の範囲を畿内にだけ留めるなんて言った覚えも無いし
また今までそう言う想定も聞いたことが無いが?
何かカミサマのお告げかなんかで聞いたのか?ボケww

>武力で日本を制圧しました
これも言った記憶が微塵も無いんだがw
そもそも「ゆるやかな首長連合」と言うのは軍事力をバックにしたもので無いと言う想定で語られていると思っていたし
そう言う文脈で語ってきたつもりだがな?
何処からそう言う内容を引き出してきたんだ?カスwww


…つうかだな、お前これじゃあ俺なんかはともかく一般の畿内説からも
「何を言ってるんだ?」と笑われるぞ?w

この板に来て結構経ってるよな?
今まで何を読んでたんだ?
畿内説は全部読み飛ばしたか?それとも読んでも脳味噌のキャパオーバーして理解できなかったか?

まあ自分のブログの宣伝でオツムいっぱいいっぱいだったのかもしれんがwwwwwwwwwwwww

831 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:28:47
>>826
畿内説の俺でも伊都の位置は佐賀辺りだと思ってるけど。
でも投馬はミミ、ミミナリという役職名から
出雲方面の名前としか思えないので投馬は丹波に比定する。

832 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:36:47
>>831
倭人伝によれば投馬国は伊都国の南だが、丹波では南ではないな。
ミミ、ミミナリという役職名から出雲方面の名前というが、その出雲方面の呼称は
いつから使われているのかな? 九州で使われていたものが九州勢力の東征に従っ
て東に伝播していったということは十分に考えられる。
似た音にこだわるのはどうかな?

833 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:44:52
>>825
郡から末廬国までの過程を見て、倭人伝の一里が何メートルだなんて
言ってる時点で、貴方の考えは終わってるよ。
郡も末廬国も都合に合わせた任意点、
それを現代の地図で辿って計算でもしましたか?

834 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:44:59
>>832
数字ではなく日数の行程になる事から別行程、
つまり帯方郡からみて南ともとれるからな。
それに九州勢力の東征があったのなら、尚更役職名は統一されてるだろ。


835 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:45:34
>倭人伝を著した陳寿は、正確、堅実と定評がある史家。それまでの史書の書法を踏まえて
書いているわけで、トンデモ読みをしなければならんような文章を書くはずはない。

だから願望を述べても仕方ない。所詮、思い込みに説得力はない。
貴方の論法には納得しない輩が多いだろう。
貴方の前提条件が個人の願望そのままだからだ。そして、いつの間にか、脳内では願望が事実にされている。
世の中「〜な筈はない」が罷り通る程に甘くはないですよ。

836 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/22(土) 09:49:39
>>807
>神武は2世紀末頃に東征に出かけた

 6世紀だったか?それ以前の記紀の話は信じないとか言ってたが、なぜこんな
 信じないとかいう話を持ってきて、2世紀末頃とか論を組み立ててるのか?w
 非常に恣意的だと言われてもいたし方あるまいが? うまいとことのみ喰う、
 マズいところは切り捨てる〜それが君のやり方のようだな。

837 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:52:56
皆自説に対する思い込みが激しいからね。

でもさすがに九州内30国比定は捨てた方がいいと思うよ。
文献的にも考古学的にも明らかに無理があるから。

838 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:53:57
>>835
>貴方の前提条件が個人の願望そのままだからだ。
前提条件というのは、「トンデモ読みをしなければならんような文章を書くはずはない。」
というところかな。私はその前に書いた「陳寿は、正確、堅実と定評がある史家。」という
事実から合理的に推測したつもりだよ。
あなたは、陳寿にそのような定評があることは認めたうえで、「それでも、トンデモ読みを
しなければならんような文章を書いたはずだ」という前提でものを考えようというのかね?
ずいぶんとひねくれたお方だ。

839 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:57:27
>>833
>郡から末廬国までの過程を見て、倭人伝の一里が何メートルだなんて
>言ってる時点で、貴方の考えは終わってるよ。
倭人伝の里を無視して立論しようとしている点で、あなたの考えは終わってるね。


840 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:58:59
>>837
大丈夫だよ。何の無理もなく納まるから。

841 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/08/22(土) 10:01:02
>>835

書かれている内容が白か黒かではなく、書かれている事を正面から受け止めるしかないんだよ
それが白であろうと黒であろうと関係ない。
書かれている事が、現代の人が知らされた当時の歴史。
比較出来る史料がない以上は。

842 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:02:25
>>840
君の脳内でね。

843 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:03:27
>>834
>数字ではなく日数の行程になる事から別行程、
かってな法則をつくらないことだな。

844 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:05:19
>>839

倭人伝の里数を無視しているのはお前だろう?
何処にメートルなんてでてくるんだよ 頭大丈夫か?

845 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:07:38
>>844
もう少し、実のある意見を述べたら? 同士が泣くぜ。

846 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:09:19
>>843
別行程ではなく伝聞情報だな。後世の倭国伝の者も
「倭人は里数を知らない」と言ってるしな。

847 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:16:46
>「倭人は里数を知らない」と言ってるしな。
そのことから言えるのは、倭人伝の里数は倭人からの伝聞ではないということだな。
魏使は日数を知らないかな? 知らないと言えるならば、日数は倭人からの伝聞だ
と言えるだろうが、魏使が日数を数えることを知らないはずはない、ということは
日数記事を伝聞だなどという根拠はまったくないということだよ。

848 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:22:46
>>847
イマイチ意味不明ですよw

849 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:31:18
>>847
では魏使が投馬、邪馬台国に関してそれまでの里数ではなく、
日数で記録する事をどう説明する?

850 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/22(土) 10:47:17
>>829
>>最終的に12000里に足らずとも良い=距離の情報の欠落を認めて良いのなら
何をいっているのですか。全く人の説が理解できていない(頭の悪さだ)というのがよく分かります。

それはさておき、頑張って考えられた貴方の説ですが「不弥国までの詳細な地理情報」というところで、
既存の畿内説と同じで、方位と距離が間違えていないと成り立たないのでしょう。
不弥国より先も当然方角が間違えているとする。何故方位が間違えられているのか根拠なし。
張政は距離を里程で表さずに日数で表した、何故里程で書かなかったのか根拠はなし。

こんなので、畿内説に持っていける説が出来ましたって、小学生レベルですね。
日本語読解力の低さにも驚きますが、論理的な思考の練習がなされていないのか知能の低さばかりが目立ちます。


851 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:51:10
>あなたは、陳寿にそのような定評があることは認めたうえで、「それでも、トンデモ読みを
しなければならんような文章を書いたはずだ」という前提でものを考えようというのかね?
ずいぶんとひねくれたお方だ。

正確にいい直します。
陳寿にそのような定評があることは認めたうえで、それでも、トンデモ読みを
しなければならんような文章を書いたかどうかを検討しなければならない。
絶対的に陳寿を信仰してはならない。
陳寿の書いた記事が正しいという前提で説を構築してはならない。


852 :◆.L.MXSPOgc :2009/08/22(土) 10:53:41
>>830
>>現在主流?の狗奴國=東海説に反して随分根拠を挙げたつもりだが?
>>畿内説を唱えるものには選択の自由すら無いのか?w
結局、狗奴国は南九州なのか?東海なのか? 貴方が一人でころころ言うことを変えているだけですよ。

「冊封されて繁栄大爆発」は貴方の持論でしょ。
武力云々の文章は「でしょうか」という語尾で、これが私の推測であることを表しているのですが、さすがに日本語読解力の低いあなたには理解できないのですね。

ずっと前から「脳味噌のキャパオーバー」をしているのは貴方のほうなのですよ。正直、痛々しい。

853 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 11:00:36
海外で南に伸びた地図が発見されている以上、
外国物を頭から信用してはいけないよ。
南に伸びた地図というはっきりとした事例があるんだから、
しょうがないよ
それでも陳寿を絶対的に特別視するなら、それは信仰の部類だね。

854 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 11:04:23
>>850 二 ◆.L.MXSPOgc

>何故方位が間違えられているのか根拠なし。

ん?
「大陸の人間の先入観に基づく」 ときちんと書いてあるぞ?
充血して字が目に入らないのか?w

>張政は距離を里程で表さずに日数で表した、何故里程で書かなかったのか根拠はなし。

そりゃ数回通っただけで里数なんか出て来るもんかw
それとも測量しながら邪馬台国に向かったのか?wwww

ぶっちゃけ、お前が自説に与えた自由度を逆手に取っただけだがw

もう少し時間置いてで良いからやり直しておいでスギモリ君wwwwwwwwwwwww

855 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 11:07:15
12000里合算実数説だと邪馬台国まで残り1300里。
何故詳しい記述がないのか、きちんと里数で書かないのか疑問ですね。
というより矛盾有りすぎるだろw


856 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 11:12:12
>>853
当時倭のまともな地図があったとはとても思えないしな。
それどころか東西南北をなんて読んでたのかも定かではない。

857 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 11:22:23
つうか地図を描いていて端っこの国が描くスペースなくなってたら
小さく描いてそのスペースに収めるよな普通?w

(正しい方向を知りながら)逆さまにして押し込めるなんて
発想中国人なら普通に持つのか?wwwwwwwwwwwwwwwww

858 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 11:32:23
>>845
都合悪かったか?
痛い所突いてしまいすまなかった。

859 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 11:39:28
よく倭人伝を素直に読んだらというアホもいるが、そんな馬鹿げた話もない。
現代の正しい地理感覚が染み付いている時点で無理がある。
当時は正しい地図なんて存在しないし、文字の記録も充分ではない。
更に中国視線で考える必要もあるのにそれが抜けてる奴が多すぎる。

860 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 11:57:11
>>856

>当時倭のまともな地図

何時の時代と比べてるんだよ?

861 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:00:38
>>853

>南にのびた地図

何時の時代の話しをしていの?

862 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:04:42
倭人伝は倭に実際に渡った郡使の報告を基に書かれている
従って倭人伝には一部に誤植も有るが内容は自体は信頼性が高い
倭人伝が理解出来ないのは漢文に対して読み手の能力が低いから


863 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:08:17
>>856
>当時倭のまともな地図があったとはとても思えないしな。
これはそのとおりだ。だから、本州が島だということは知らなかったろう。
倭の地を島だと伝えているのは、九州島のことだからだよ。

>>853
>南に伸びた地図というはっきりとした事例があるんだから
朝鮮半島の連中は、日本列島が北東にのびていることを知らなかったと思ってるのかな?
まあ、大和と通交がまったくなかったらそんな誤解も生じるかもしれないが。
当時の人たちを馬鹿にしてはいけないな。



864 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:08:39
>>860
当然現代だろ。

865 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:12:10
>>862
その意見は3世紀に正しい方位で書かれた地図でも発見されれば納得するけどな。

866 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:13:16
>>859
そうだね。1里が430のはずだなんて思い込んじゃいかんということだね。

867 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:13:26
>>862
その郡使のレベルが問題だろ。

868 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:14:39
>>864

何で現代と比べなくちゃならないんだよ?

869 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:14:41
>>865
3世紀にまちがった方位で書かれた地図はあったのか?

870 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:15:30
>>863
九州と本州が陸地続きだと思ってたかもしれないよw

871 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:17:43
>>870
そしたら、島って言葉が出てこないんだよ。

872 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:19:40
>>871
意味わからん、本州も島ですよw

873 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:21:16
>>869
方位どころか地図自体が無いだろw

874 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:22:26
陳寿が直接倭に来て書いたものなら問題なかったのにな

875 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:24:01
>>872
それは津軽海峡を認識していてこそ分かる話だ。
津軽海峡を認識してる連中が、列島は南へ垂れ下がってると誤解するか?
あっちを弁解すればこっちがほころびる。場当たり的な説明では、どうし
ても辻褄が合わんだろ。

876 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:26:33
だいたい、日本列島をとんでもない格好にしなければ成立しない説なんて
それ自体がトンデモ説だってことよ。

877 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:26:36
たまたま残っていた昔の0点のテストを見て
当時の人は言うに及ばずそれ以前の人は皆、馬鹿だと判断しているような
現象だ。

878 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:29:37
>>875
君の言ってる事が辻褄があってるとでも?


879 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:31:33
>>877
よく考古オタがやる手法だな。


たった一枚の鏡から、当時の政治体系まで語ってしまうみたいな。

880 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:32:00
>>877
そのとおりだな。その0点の地図を書いた人が日本に来たことがあるのかどうか、
そのあたりはまったく考えずに、飛びつくんだから困ったもんだ。

881 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:32:03
>>876
いや、実際の地形変えるんじゃないからw

あくまで中国人の地理観

882 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:33:19
中国には数千年の歴史あるね、馬鹿にしちゃいかんのことよ。

883 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:33:41
>>876
実際8世紀位でもトンでもない地図しか無いじゃないかw


884 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:36:34
>>880
トンでもなのは当時倭人の書いた地図でしょ。

885 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:37:32
>>883
日本に来た人が書いた地図か? 検討して書きこんでんだろうな。>>880

886 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:40:05
現在だって、自分の今居る場所の認識すら出来ない奴が多数いるのに、
当時の日本が島であった事を知っていただけ、凄いと評価しなければならない地図なのに、
それを重箱の隅をつつく真似なんかしやがって

お前らどんだけ天狗なんだよ?

887 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:40:50
>>867
日本の古代史の学者のレベルが低いのが問題。

888 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:44:19
地図が有ろうが無かろうが、
郡使が何回も倭と往来してるんだから
倭人伝の記録は精度が高い。
その記録を正しく理解出来ん奴は頭が弱いだけのこと。

889 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:46:14
>>887に 300票

890 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:51:31
>>888
精度が高ければ邪馬台国の問題なんて存在しません、
というより投馬や邪馬台国の行程に関しては単に情報が少ないでしょw
これで精度が高いと言うのはね…

矛盾があるから今まで解決しないのです。
その現実を否定するのはちょっと?ですね。


891 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:55:58
>>890
矛盾なんてないじゃないか。かってに読む側がつくってただけだよ。
伊都国をまともに比定するだけで終わりだ。

892 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:57:49
精度が高いのが魏使の情報…
つまり投馬や邪馬台国の行程に関しては倭人の伝聞だという証拠ですよ。
だからその事を後の随書で指摘されてるでしょ?

893 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:59:40
>>887
ホントのこというと、まともな奴はちがう分野へ進んじまうんだよ。

894 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:02:57
>>892
隋使が行ったのは倭人伝にいう邪馬台だってことだけだよ。
だから、大和の推古天皇ではなく、男王タリシヒコと会ってるだろ。何がおかしい?

895 :縄文人:2009/08/22(土) 13:05:21
>>859
あなたは陳寿が倭人伝を書く時に、張政らの報告書等の資料を見たと思いますか、思いませんか?
>>823 に書かれているように陳寿は中国史書の編纂者としての評価の高い人物です。当然、存在する資料をよく吟味して
書いたと思われます。
私は倭人伝の行程記事は魏使の報告書(あるいは魏の役所の記録)に基づいて書かれていると考えます。何より当事者の証言
が第一です。ここで、「中国には日本を南北に伸びた形で示された地図がある」ことを持ち出して、陳寿の日本の地理につい
ての認識もその程度であったから東を南と間違った、つまり方角記事はあてにならないという論をなす人がいるが、これは明
らかにおかしい考え方です。例の地図は陳寿の時代よりはるか後の時代のもので、陳寿の時代には日本の地理はその図のよう
なものであると理解されていたかどうかは分りません。よく分っていなかったというのが実情でしょう。だから、陳寿は魏使
が自分で見て、聞いて、経験したことを報告した記録を見て書いたと考えるのが妥当でしょう。
魏使は末盧国から陸路で南東に五百里行って伊都国に着いた。そこから東南百里で奴国に着き、更に東に百里行って不彌国に
着いた。不彌国からは川や海の水路で南に行き20日かけて投馬国に着いた。さらに南へ水路で10日陸路で1月かけて邪馬台国
に着いた。これをそのまま報告した。陳寿もその報告書(記録)の内容を簡潔に書いた。これが素直な(まともな)見方でしょう。

896 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:07:09
中国の史書って、唐や宋の時代になっても蛮夷の地理なんて適当だがな。

897 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:10:27
>現在だって、自分の今居る場所の認識すら出来ない奴が多数いるのに、
当時の日本が島であった事を知っていただけ、凄いと評価しなければならない地図なのに、
それを重箱の隅をつつく真似なんかしやがって
お前らどんだけ天狗なんだよ?

だったら、南に伸びた列島を正しいといってしまってもいいんかいな。

898 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:12:23
>>895
行ったのなら里数で書くという、根本的疑問があります。
現状では伝聞情報だとしか解釈できません。
地図についてもそれより後年でも、でたらめな地図があるのに
精度の高い物が存在したとは考え難いですね。

899 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:13:21
西晋の時代になっても、魏の公式文書がちゃんと残っていたのかな?
魏使が皇帝に復命した時には、正確な地理情報を伝えたろうし記録にも残ったろう
だが、滅亡した国の公式文書がどの程度後世に残っただろうね

900 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:16:09
>>895
史書が行程を記載する時には、連続式が多かったが、放射式もあったんだよ。
その区別を漢文にあたって検討した山尾は次のように説明しているよ。

経歴することを示す詞(又など)や基点となる地名がなく、しかも至・地名・距離
が二つ以上続く文では、二つ目以後の距離の基点は、一つ目のそれと同じである。
それに対し、距離・至・地名の場合は、その直前にあげられている場所からの距離
である。

901 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:19:18
>>898
アメリカまで何時間で飛べるかならだいたい分かるが、距離はわからんねえ。
俺も行ったことはまちがいないんだが。

902 :縄文人:2009/08/22(土) 13:21:40
>>899
西晋は265年に司馬炎が魏から禅譲を受けて成立した王朝です。魏は攻め滅ぼされたのではなく西晋に受け継がれたのです。
公式文書などを受け継ぎます。

903 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:22:04

と言うか…
何が悲しゅうて距離や方角を計測しつつ目的地に向かわにゃならんの?w


904 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:23:54
>>901
機長に聞けばわかる。

905 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:27:41
放射式連続式に関しては倭人伝だけでは永久に結論は出ない。
別資料から補足しないと永久ループ

誰かが書いていたように
里表記から日数表記に変わる。別の中国資料に同様の記載がある。
だからこのように読む。
とか

906 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:28:36
>>904
機長は時間で数えることしか知らなかったんだよ。
そんな話は何度も出てきてるじゃないか、忘れたか?

907 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:30:57
>>905
伊都国の位置から裏づけられるよ。倭人伝に従えば伊都国は佐賀。
そこは有明海沿岸だ。南水行ができるんだから、それ以上、奴国や不弥国を
必ず経由しなければならないというのは不自然だ。

908 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:34:19
>>895
魏略では里数の行程しか記されていない
倭人伝で日数の行程があらたに付け加えられた
最初に魏略書く時にはでは里数での行程の報告書があり
次に倭人伝を書く時には日数での行程の報告書があったので
投馬国は最初の郡使が狗邪韓國と書いた場所、
邪馬台国は最初の郡使が伊都国と書いた場所。

これを合体させて倭人伝は書かれている。
里数と日数は同じ行程を別の郡使が記したもの。


909 :訂正:2009/08/22(土) 13:35:43
>>895
魏略では里数の行程しか記されていない
倭人伝で日数の行程があらたに付け加えられた
最初に魏略書く時にはでは里数での行程の報告書があり
次に倭人伝を書く時には日数での行程の報告書があったので
これを合体させて倭人伝は書かれている。
里数と日数は同じ行程を別の郡使が記したもの。
投馬国は最初の郡使が狗邪韓國と書いた場所、
邪馬台国は最初の郡使が伊都国と書いた場所。

910 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:39:10
>>909
すぐ、訂正した方がよさそうだな。
魏略は逸文だ。全文が残っているわけではない。里数部分が残ってるだけだから
といって、日数行程を倭人伝が付け加えたと決めつけることはできない。

911 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:39:45
>>906
その機長はハワイまでは距離が計れてNYまでは無理なのか?
変わってるねw

912 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:46:21
ハワイをすぎてから乱気流が続いたんだろ。

913 :訂正:2009/08/22(土) 13:46:33
>>910
他に行程の単位が里から日に変わった理由は考えられないだろ
何かある?

914 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:47:14
>>897

何を基準に正しいと判断するのかな?
列島が島であることの認識を絶賛する以外ないだろうね

915 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:48:25
>>898

ねえよ 勝手に決めるな

916 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:49:37
>>900
山尾なんてどうでもいいものダスナ。

917 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:50:26
実家糸島、佐賀市在住、仕事場久留米の俺が通りますよと。

>907
それは昔考えた。それどころか、いまでも材料があればその説を推したいくらいだ。
壱岐対馬松浦の距離から、一里は50メートルから80メートルくらいと想定できる。
壱岐対馬松浦はそれぞれ等距離ではないのでいくらか幅が出てしまう。
とくに松浦のどこ?っていうのが決められない。

それくらいの距離で、道なりに(自分は厳木経由)たどっていくと
ちょうど白石とか佐賀市の海に出る辺りで、それまで出てこなかった
水行の文字が出てくる。
また、直感だが前が見えないほど、草が生い茂っていたというのも
松浦からの山越えなら、さもありなん、と思う。

ただ、そこから表記は水行20日、とか水行10日陸行一月になってしまう。
そこから先には行っていないのか、行ったが距離がつかめなくなってしまったのか
わからないので自分的にはペンディングにしてある。

また、古代といえども、伊都はそれなりに大きい豪族であり、奴国にでて
鳥栖経由で有明海の方に出るのは、当時としてもオーソドックスな経路だったと思う。

もちろん久留米、筑後、南関を通って熊本と、それぞれ大勢力が存在できる地勢であり
無視することは出来ないだろう。

というわけで、どこかよくわからん。
もうひとつ材料が出てこないかいろいろ調べてはいる。

918 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:51:07
>>913
距離が書かれている部分は、よく分かっている部分(朝鮮半島)か見通しがきく
部分(千里)、比較的短い部分(五百里、百里)だ。
海に出て陸に戻りまた翌日それを繰り返すとか、山道を曲がりくねって歩くとい
ったところでは里数の計算が難しくなる。距離がとおくなるほど誤差も大きくなる。
正確な数字が出しにくいから日数表記にしたのだろう。何の不思議もない。

919 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:53:13
しかしねえ、倭人伝の記述を見ても「千余里、五百里、百里」だろ、これが「九百七十里」とか
「八十七里」とか書いてあれば、もう少し信用してもいいんだけどね。

920 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 13:58:53
>>917
有明海に渡ったということは、倭人の舟に乗るってことだよ。小さい舟を何艘か連ねて
行く。潮の干満の間をうまく縫っていくことになるんだろう。泥海に取り残されては
いかんから、海に出たり岸にあがったりの繰り返しだ。
水行十日の後の陸行は球磨川沿いの登山だ。山道では距離の算出はむずかしい。


921 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:00:50
>>919
何を考えてるんだ。測量するために来たんじゃないぜ。

922 :訂正:2009/08/22(土) 14:03:19
>>918
馬鹿馬鹿しい説明だな
帯方郡は公孫氏の時代から倭との交流があった
魏代に途中から倭までの里数が分からない所があったのは変だよ
別の報告者が別々に報告したのを一緒の文に纏めたんだよ
基が同じなら、報告者は日数も里数に換算して単位を統一することができるよ。

923 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:05:28
上杉謙信はやっぱすげぇ〜〜
http://rekisi777.seesaa.net/

924 :訂正:2009/08/22(土) 14:06:06
>>921
倭人伝の里数は実測だが、
正確に測量したのではなく
行程に掛かった時間や見た目で判断したと思われるね。

925 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:09:26
>>922
公孫氏の時代から倭との交流があったとしても、郡から使者がきていたかどうか
は問題だな。それに、そのころの交流はせいぜい北九州諸国だ。
南九州の邪馬台国は無関係だよ。郡の使者が邪馬台国へ行ったことなどない。


926 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:10:50
しかしなあ。どこにも文献に記述のない「魏使の報告書」なるものが、これほど皆の頭にある
理屈がよくわからないな。

陳寿が倭人伝を書いたのは280年代の晋朝、当然魏代の邪馬台国から20年以上経っていて、
その間も倭に関する情報は断続的に入ってきていた。
倭人伝は「魏史」だから、陳寿は台与朝貢までで筆を止めた。しかし、地理的情報に関しては、
魏代と晋代で違いはないだろうから、当然280年時点で手に入る情報を元にして書いた。

陳寿にしてみれば、晋代の倭国に対する知識から大きく外れて書くことはできないだろう。
当時は、身の行いを慎まず悪い噂が立ったら、すかさず讒言を受けて、死を賜りかねない
ような時代。陳寿は、仲間の知識人層の評判を何より怖れたはず。


927 :訂正:2009/08/22(土) 14:15:12
>>925
南九州に在ったのは狗奴國だよ
邪馬台国は北九州。

928 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:19:08
>>927
それは、あなたの解釈。しかも、まちがった解釈だ。
わたしの解釈は、かってに訂悪しないでくれ。

929 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:19:51
>何を基準に正しいと判断するのかな?

現存する地図を基準にするに決まっているだろう。

>列島が島であることの認識を絶賛する以外ないだろうね

列島が南に伸びている事は無視?
列島が南に伸びている地図は貴方に都合でも悪いの?

脆弱な説ほど、重箱の隅をつつかれる、ようになる。
嫌になるだろう。


930 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:22:14
>>929
何を言いたいの?

931 :訂正:2009/08/22(土) 14:23:50
>>926
陳寿は倭に行ったことがないく
当時、倭についての情報は多くはなかったのだから
先行する魏略を読むか、
晋への倭人の奏上文、
漢、魏代の奏上文や郡使の残した報告者を見て
倭人伝を書くしかない。


932 :訂正:2009/08/22(土) 14:26:17
>>928
じゃあ狗奴國は何処に在ったんだよ?

933 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:28:46
>>931
種々の状況から考えて、台与、あるいは他の倭王は「晋親倭王」の称号を受けていた。おそらく
朝貢に対する晋の答礼使も訪問しただろう。魏代と何の違いもないだろう。その最新情報を考慮
に入れて書く方が正確だ。

陳寿が倭に行ったことがないのは当然。おそらく関心も高くなかっただろう。

934 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:32:33
とりあえず福岡平野、筑紫平野で独立国になりそうなところ。

松浦、伊都、志摩、室見川流域、城南区から南区、春日市付近、宇美、太宰府から筑紫野市、
基山小郡鳥栖、三養基から神崎、佐賀市大和町、小城市、白石町北部、武雄
鹿島、朝倉市周辺、うきは市、久留米市、広川町、筑後八女、瀬高町、南関町
大牟田市

(海だったかも)大川市、柳川市

935 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:32:37
○親晋倭王 ×晋親倭王 スマソ。

936 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:40:04
南九州であの邪馬台国が成立したんだよ。

邪馬台国の遠い南に存在し

重要な鍵を握る「 裸国 」の存在を認識できてないね。

歴史の地下水脈が絡んだ秘密を読み解くと、ほくそ笑んでしまうね。

937 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:41:37
>>932
大隅半島あたりだろ。官は一名しか書いてない。戸数道里も書いてない。
したがって、旁国の一つ、すなわち小国だよ。

938 :縄文人:2009/08/22(土) 14:48:17
>>926
皇帝の使節は命令を実行した証拠とともに報告書を差し出すものです。そのような報告書は文書を管理する役所に保管されます。
なお、それらの文書目録があったかどうかは分りませんが、一つ一つの報告書が文献に載ることは稀でしょう。魏志倭人伝が魏使
の報告書が文献として現れた例と見ることもできるでしょう。

939 :訂正:2009/08/22(土) 14:48:45
>>937
大隅半島だけでは七万戸の大国の邪馬台国に対抗出来んよ。
末盧國が四千戸だから大隅半島も万戸いかないな。

940 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:51:39
>>939
卑弥呼と和せずってことだけから、大国だと思い込んでるのが浅はかなところだ。
倭人伝をきちんと読め。狗奴国は、旁国の一つとして書いているだけだ。

941 :訂正:2009/08/22(土) 14:57:23
南九州に七万戸の邪馬台国が在ったとすると
鹿児島、宮崎、熊本を全て含まないと七万戸にはならんだろう。
大分、筑後にも一部取り込まないと足らんのでは?

942 :訂正:2009/08/22(土) 15:02:00
大隈が狗奴国なら邪馬台国の中に孤立して抵抗していたのか?
纏まりのない邪馬台国だな。

943 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 15:05:04
今の感覚で考えてはだめだな。昔は北九州よりも南九州の方が人口は多かったんだ。
投馬国は薩摩、邪馬台国は日向の全域とみれば、不自然ではないと思うよ。もちろん、
投馬国が熊本の一部を、邪馬台国が大分を取り込んでいたなんてこともあるかも知れない。

944 :訂正:2009/08/22(土) 15:06:57
やっぱり北部九州が邪馬台国で
南九州が狗奴国。
邪馬台国の都が伊都国だと考えるのが一番筋が通っている。

945 :訂正:2009/08/22(土) 15:09:55
>昔は北九州よりも南九州の方が人口は多かったんだ。←根拠は?

邪馬台国は日向の全域でも2万戸いかんでしょ。



946 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 15:10:52
>>941
その手の根拠のない先入観で理論付けても無力。

947 :訂正:2009/08/22(土) 15:11:04
×邪馬台国は日向の全域でも2万戸いかんでしょ。

○日向の全域でも2万戸いかんでしょ。


948 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 15:11:28
>>942
狗奴国がどんな国か、考えたことがないんだろう。
倭人伝は卑弥呼と卑弥弓呼が和せずと書いているだけだ。狗奴国と邪馬台国が対立
していたとは書いていない。なぜだか分かるかな。卑弥呼の代になって対立したんだ
よ。卑弥呼と卑弥弓呼の呼称は女王と男王の違いでしかない。つまり、狗奴国は倭国
乱当時の南九州側の男王だろう。それが残酷なことをやったから、はじき出されて卑
弥呼が共立された。対立といっても、もともとは女王国勢力の一国だったから本格的
な戦い何ぞにはなってないんだよ。

949 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 15:26:10
>>947
そんな人口で日向の古墳を造れると思うかね?

950 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 15:39:45
>>944
矛盾だらけじゃないか。

951 :縄文人:2009/08/22(土) 16:21:36
>>948
私は考えたことはあります。皆さんもそうでしょう。
「倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼は前から不仲であった。」という記述の後にこう書かれています。
「倭は載斯・烏越等を遣わし、帯方郡に行って、互いに攻撃しあう状況を説明した。塞曹掾史・張政等を遣わし、
詔書・黄幢をもたらし、難升米に授け、檄を作り、これを告諭した。」

あなたはこれをどう解釈しますか。相攻撃とは邪馬台国と狗奴国の間の戦争を示すものでしょう。
大国邪馬台国がとるに足らぬ小国を相手にするのに、魏に援助を求めるなどしますか?狗奴国は侮れぬ力を持った
国だったでしょう。熊本県南部と宮崎県南部および鹿児島県を狗奴国の版図と考えます。



952 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:31:25
女王國に属する北部九州と女王國に属さない南九州の戦いですよ
あ。勿論卑弥呼の居る邪馬台国は畿内ですけどね

953 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:32:54
>>950
矛盾などありません。

>>949
十分造れます、時間は幾らでもありましたから。
七万戸は3〜4県分の大きさでしょう。


954 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:36:23
>>953
面積の広さと人口の多さは必ずしも比例しませんよ
面積が狭くても人口が多い都市はたくさんありますから

955 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:37:06
>>952
多分正解ですよ。

956 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:40:31
>>952
卑弥呼の居た邪馬台国の都は伊都国です
女王國(邪馬台国)は北部九州ですね
畿内など当時はド田舎です。
郡使も伊都国で卑弥呼に対面したのです。


957 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:45:37
>>954
3世紀の宮崎に大都市があったの?

>>955
倭人伝には畿内の事は何も書かれていないよ。
倭人伝の内容は北部九州を中心に山口、瀬戸内海地域、南九州までだな。


958 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:47:00
>>956
お前のような奴がいるから
九州説はバカにされてるんだよw

959 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:49:33
突発ですが
>>926 同意です
地理情報は晋の生の外交記録が元になっているでしょう
つまり台与の時代の邪馬台国です

960 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:50:02
>>957
>倭人伝には畿内の事は何も書かれていないよ。
使いが行ってないからだよ。
それに卑弥呼はめったに人に姿を見せないからね。

961 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:53:19
>>958
理由を述べて下さい。
理由もなくバカ呼ばわりは失礼でしょ。
説明も出来ずにバカと言っているキミがカバなんじゃないの。

962 :縄文人:2009/08/22(土) 16:56:37
>>952
邪馬台国畿内説は論外ですよ。倭人伝の記述に合わないし、3世紀前半以前の畿内に戸数7万余の大国が存在したという
形跡もないし、自然条件も整っていませんからね。奈良盆地は水びたし、河内平野は未開拓部が多く、食料生産力が不足
です。古墳や三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡など何の証拠にもなりません。

963 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:03:49
>畿内など当時はド田舎です。
郡使も伊都国で卑弥呼に対面したのです。

ま、頭の良い人には見えませんねw

964 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:04:26
>>959
魏略は卑弥呼が倭王に任じられる前の時代
倭人伝は卑弥呼が倭王に任じられてから壱与までの時代
魏略では倭の首長達が皆王を自称しているが
倭人伝では伊都国の王=卑弥呼=女王邪=馬台国の王と考えると
王は倭王の卑弥呼と卑弥呼の敵対する狗奴国の王しかいない。


965 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:05:24
>>962
畿内は伝承も多いし形跡だらけですよ。

966 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:07:21
>>964
魏略は曰文、しかも張が意図し纏めた参考書に掲載されたもの

967 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:15:20
>>800
ありがとうございます
興味深いですね、ぜひ読んでみます。

968 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:16:31
>>956

日本の首都は成田です。って言ってるようなものだから「バカ」と言われた。

969 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:17:14
>>963
カスのような意見しか言えんくせに偉そうに

倭人伝では伊都国の王=卑弥呼=女王邪=馬台国の王である
「世有王」は倭人伝には有るが魏略には無い
「世有王」は卑弥呼、壱与のことだ
魏略は卑弥呼が倭王に任じられる前の時代だら「世有王」が無い。
「皆統屬女王國」は倭の国々は女王國に統屬するの意味。
魏略でも「其国王皆」となっており
「其国」とは倭の国々を指している。

970 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:19:34
>>969はカスではなく埃だな。

971 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:24:46
>>969
それ以上バカを晒さなくてもよい。

972 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:28:49
九州説の方々は、魏史の時代(書かれた時代の事ですが)中国文献には登場しないが出雲や吉備はすでに存在したと考えてます?
それとも魏史の書かれた時代以降に発生して、新しくとも紀記より(天武朝)古い時代になる(勿論、四隅突出型墳丘墓の発生くらい)と思います?
果して中国の王朝はいつの時代に九州から先の倭を認識したと思います?
後、隼人や熊襲の存在は?。

973 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:28:54
>>971
論理に誤りが有れば指摘してみろ
出来んだろ脳タリン

974 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:44:58
>>973
いくらでも指摘できるがループするだけだぞ。

まず倭人伝には伊都国=女王国とは何処にも書かれていない。
初歩的な誤読、話になりません。


975 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:50:27
>>974は解説を読んだのか?
「皆統屬女王國」は倭の国々は女王國に統屬するの意味。
「皆統屬女王國」は伊都国の説明に書かれている
女王國は伊都国の説明だ。伊都国は女王國の都。
誤読はチミだよ。


976 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:52:22
>>972
ここに絶妙な心理テクニック隠されている。

ウブな素人なら陰陽五行など意識しながら

日本書記作者の表層思考の後ろを読み解く。歪んだね(笑)

977 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:54:02
>>975
話になりませんな。
女王の都する処の説明と矛盾してますが。

978 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:58:42
>>975
伊都国=女王国=邪馬台国とでもいいたいのか?
官が何人いるんだよw

979 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:01:07
そういえば中国の歴史書で日本の記述が変化する時期があるという
説を読んだことがある



倭、日本
日本

というように。

明日積み上げている本を漁ってみるか。



980 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:03:21
>>976
中国の王朝はいつの時代に倭の九州以東の存在を知ったんでしょうか?
倭の朝貢先は楽狼群、帯方群であったから当然、九州のみと考えてたなら二群は倭の領域を九州としか知らなかった事になりますね。
知ったのはいつの時代でしょう?それを文献に残さなかった訳は?

981 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/22(土) 18:06:17
当時の日本は大陸が天下三分の計なのに対し、天下二分の系。
畿内は男王(天皇)が統治し九州は女王(卑弥呼)が統治してたと
いうことだな。

982 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:12:35
>>972
まぁ漢民族だけの移住地(中華哲学)だけをを表したのが
陰陽五行だが 無知な゛東極゛の島国に強引に当てはめるとなると
色々とほころびが出てくる。南に朱雀、北に玄武などあの発想でOK。




983 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:21:26
>>979
旧唐書の壬申の乱の記述に日本と倭が出て来ますね。
昨日レスしたんですがスルーされました。
>>981
魏史の時代でなく魏史の書かれた時代に、未だに倭の領域を九州としか知らなかったと言うのはなんともですね。
書くにあたってすでに以東の領域の存在や国を知っていながら書かなかったのか?(魏史が書かれたのは魏の時代から下るわけですから)
途中で中国王朝側(楽狼、帯方二群地域の情報)が倭と認識してる以東に別の領域や国を見つけたら、なぜ書き記さなかったか?不思議ですね。

984 :縄文人:2009/08/22(土) 18:23:23
>>980
倭人伝にも書いてありますよ。女王国の東側、海の向こうに国があり皆倭種だと。ちゃんと四国、本州の存在を認識
していますね。
倭国と認識していたのは九州内の30国(邪馬台国を盟主とする連合国)でしょうね。
なお、倭国の商人達は出雲や吉備にも出かけて商売をしていたのではないでしょうか。逆に出雲や吉備の商人達が倭国
に出かけていたこともあるでしょう。博多の商人は「このまえ出雲に行ったんじゃが、あそこで食うたそばは旨かった
ばい」とか「吉備のきび団子も旨かばい」などと情報交換をしていたというのは定かではない。


985 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:31:54
>>984
しかし吉備や出雲、畿内には中国と直接交流した痕跡がありますよ。


986 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:31:55
>>977
チミの脳に矛盾が有るのだよ
『南至邪馬壹國 女王之所都』
とは「南、邪馬壹國に至、女王の都が在る所(伊都国)」の意味
矛盾などないよ。

>>978
邪馬台国全体を治める役人と
都の伊都国だけを治める役人は別にいたのだ。



987 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:34:34
>>984
邪馬台国を盟主とする連合国ではなく
伊都国を盟主とする邪馬台国連合だろう。

988 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:34:47
>>985
具体的に

989 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:36:54
>>951
檄を作り告諭したというのは、邪馬台国側だけに何か指示したということかな?
そうではないだろう。狗奴国が攻撃してくるときに邪馬台国にだけ自制せよなんて
言う訳にはいかない。狗奴国に対しても檄を示すわけだ。
それが通用するということは、狗奴国も魏に対する朝貢国なのだ。
狗奴国は、いつ、朝貢したのか?107のときか卑弥呼朝貢の時にその1国として
加わったのか?いずれにしろ、邪馬台国と狗奴国はある程度は協調の場面もあった
と考えられる。また、狗奴国が大国ならば、何で狗奴国には旁国がついていない?
それを考え合わせれば、やはり狗奴国は旁国の一つにすぎない。
朝貢国同士は戦ってはならない。これが中国を中心とした世界の当然の規律だ。だ
から邪馬台国は狗奴国がいかに小国でもかってに討伐することはできない。そこで、
将来、討伐するかも知れないことに備え、魏に対し、狗奴国は困ったものだという
ことを訴えて根回しをしていたんだよ。別に国力が拮抗していたわけではない。

990 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:36:54
>>986
女王国より北の国は何処へW


991 :縄文人:2009/08/22(土) 18:39:00
>>985
逞しい商人は何処にでも出かけますからね。物資は国家間の取引だけで行き来するものではありませんからね。

992 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:40:31
まあ結論から言うと女王国とは瀬戸内海を
中心とした西日本一帯の国の総称だ。

豊の漢字が付いてる処。
そのなかで都する場所がヤマトという事ですね。

993 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:41:14
>>984
つまり晋の時代には魏の時代、東夷の倭人は九州の耶馬台国は魏に朝貢する為に楽狼、帯方二群におとづれてきたが
九州以東にも倭人達の国があり、それは倭人同士の交流はしていたが、中国王朝に朝貢はしていなかったと認識はあったんですね。
それらの他の倭人国は遂に朝貢はして来なかった(後世、倭人の別の国が初めて朝貢に訪れれば記述しますよね?耶馬台国は朝貢したから記述した訳ですから)
でいいですか?

994 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:45:27
>>991
貨泉は西日本中心から出てるからね。
九州のみの交流説は矛盾しますな。

995 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:45:32
>>992じゃぁ結論は無理

996 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:50:21
>>990
「自郡至女王國萬二千餘里」の場合
「自郡」とは郡の中心地の郡治のこと
「女王國」とは女王國の中心地のこと
郡治から女王國の中心地までが萬二千餘里
同じように自女王国とは女王国の中心の国を指している
郡治から奴国までが行程を合計すると丁度12000里となる
つまり女王国の中心の国は奴国
自女王国以北とは奴国以北の意味だ。
奴国は2万戸あり邪馬台国の中心の国だ。

997 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 18:58:11
後、現在は楽狼群の都城跡は特定されてますが、晋の時代当たり前に知られていたはずの帯方群の都城の場所がはっきり定まってませんよね?

998 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 19:00:13
>>996
論外ですよ。

999 :日本@名無史さん:2009/08/22(土) 19:02:30
九州説はやっぱり電波が多いな

1000 :縄文人:2009/08/22(土) 19:11:53
>>993
266年に壹與が晋に使いを出した後は、宋に倭の五王達が使節を送っています。

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