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※ 九州王朝はなかったのか? ※ 16

1 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/04(日) 23:38:24

※九州王朝はあったか?※の復活です。
九州王朝を肯定する人も否定する人も、立場の違いを超えて、思う存分語りましょう。
九州王朝に関心がある人は、おおいに語りましょう。
九州王朝に関心のない人や、九州王朝に関りの無い主張は、書き込まないでね。


144 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 00:25:54
>>139
ここでの斎藤忠氏の評価はどうなんだろ。

斎藤氏は、このころの日本を、連邦国家九州と連邦国家大和の対立と捉える。
蘇我馬子は大和の豪族でありながら崇峻を裏切り、
台頭してきた大和王朝の芽を摘む(この後、女帝が相次ぐ)。
この功績により九州王朝で重用される。
蝦夷の代になり、九州王朝で実権を奪う。
しかし、乙巳の変でその子入鹿とともに暗殺される。
なお、暗殺したのは九州王朝の末裔である中大兄。
いわゆる「天智」とは別人、としている。

145 :のんびりひまじん:2009/11/08(日) 08:35:38
>>142
>仮説の積み重ねは妄想に過ぎない

例えば日本書紀での伊勢王そのものは、重要人物なのに、
系譜不明、二度も死ぬ、死後にも活躍なのか同名の別人か・・・
→仮説を重ねて真相を読み取る努力を続けるべきでしょう。
また、仮説にこだわり過ぎることも留意していたいものです。

146 :のんびりひまじん:2009/11/08(日) 08:51:31
>>144 >斎藤忠氏の評価はどうなんだろう
>連邦国家九州と連邦国家大和の対立と捉える

・連邦国家という言い方には注目します。豪族集団と考えても良いのではありませんか。
・対立だけと考えてしまうなら、いかがなものか。対抗しつつ同時に並存したのでしょう。
→教科書に採用されつつあるレベルの知見:天下立評を前提すべきでしょう。
  評という統一的な地方統治制度が実施したのは九州王朝と仮説するのですが、
 関西の豪族集団は積極的に関与したであろう。その中心に関西代表として
 蘇我日向=伊勢王が存在したと私は考えます。

147 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 09:31:02
仮説を絡めるなら丹波の勢力を忘れちゃダメでしょ。
畿内の鉄はここから供給されていた可能性大なのに。

148 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 11:10:07
>>146
つうか、だったらなんで「評」が神奈川県まで広まっていたりするんだよ?

「筑紫王朝が、東日本の太平洋側を支配する」

というのは、地政学的に絶対に120%無理な話で、
現実にも北部九州に首都を置く勢力が、東海・関東を支配できたことは一度も無い。
ここが、九州王朝説の致命的ポイントでもある。

九州に自律的な首長勢力が存在したことは否定しないが、
「博多からでは、広義の東日本(関ヶ原より東)の太平洋側に、絶対に手を伸ばせない」
という致命的な点が足かせとなって、
本州島の全国支配権を握れなかったということは、明らかだろう。
これが、奈良盆地のそれも南部という、よくみると微妙な土地の首長が、
後の皇室となった最大の理由。
奈良盆地南部からは、伊勢回りで東日本を押さえることができる。

149 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 11:30:37
うん、別に九州王朝なんてモノがあった事は否定しない。
倭人伝にも伊都に代々王有りと書かれてるし。
でも九州王朝の歴史を後に大和朝廷が書き替えたとか、
はあり得ない。それじゃ皇室が九州から来たとされてる意味無いし。

記録から消されてるのは丹波の勢力でしょ。


150 :日本@名無史さん:2009/11/08(日) 11:49:39
>>149
丹波は重要かもしれないが、出雲と一緒で、脇役だよ。主役にはなれない。
(俺は、むしろ記紀の出雲神話が、著しく誇張されて執筆されたと考えている)
これは、実は地形がもたらすもので、
「どうして西南日本の統一王権は畿内が握ったのか」
「8世紀には、すでに国力が大和>>新羅であったのはなぜか」
ということに対する答えでもある。

西南日本の衛星写真を見れば分かるが、
西日本の基本は、微妙な山岳地帯と、それを縫うように流れる河川で、
これは朝鮮半島と基本的には同じ。これでは、高生産性を持つ農地を広く開拓できない。
ちょっと大雨が降るだけで、山裾まで洪水が及んでしまうことになるから。
大きな「平野」や「盆地」は、西日本では畿内にだけある。
この「断層地溝地形(片側だけの傾動地形も含む)」こそが、
畿内の圧倒的優位をもたらした源泉でもある。
(筑後も悪く無いが、なぜ全国支配権を握れないのかは、東国が関わる)

そして、日本最大の「断層地溝地形」は、濃尾&伊勢平野だったりする。
東日本の太平洋側というのは、比較的平野に恵まれた地形で、
関東以北の火山灰土の不利、やませの不利を考えても、
ここを押さえずには、全国覇権は握れなかったのだろうと思われる。


151 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 00:09:24
>>148
筑紫王朝が大和王朝を支配し、
九州の制度を大和王朝が取り入れた、
あるいは強制されたという考えはどうでしょう


152 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 00:14:38
>>151
根拠のない妄想です。
皇室は九州から来たと言ってるのに、
わざわざ歴史を改変して隠す必要もない。



153 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 00:44:26
>>151
無理大杉(キッパリ


記紀の「畿内中心主義」を貫くと、記紀解釈に無理が生じるというのが、
九州王朝説の出発点だったんじゃなかったのか?(笑)

偉大なる筑紫王朝が、畿内王朝を支配して、
1000kmかなたの関東まで「間接支配」を及ぼしたのかよ(大爆笑

この勢いだと、中華南朝くらい簡単に征服できそうだな>筑紫王朝
どうだい?「中国南朝は、実は九州王朝だった」
「呉の都南京は、実は大宰府だった」なんて
楽しい「大九州王朝説」なんていかがかな??
赤壁の戦いは、実は筑後川で行われたなんて話も面白いだろう。

154 :のんびりひまじん:2009/11/09(月) 08:26:30
いまのところ、提示していることは、
固定観念からすれば、まさに無理スジの仮説です。

大和王朝が実在したに違いないというどうしようもない固定観念を指摘します。
一例あげておきましょう。
敏達13(584)年、やっと播磨の国に見付けた落第坊主を招いた蘇我馬子が石川に寺を立てた。
   (これより仏法はじめておこれり。)
       ↑
     この落差を見よう
       ↓
九州年号の金光年間(570年代)創建の寺院として、長野県善光寺、愛知県鳳来寺

>>151 は、ほぼ私のいうところ(=大和王朝はマボロシ)に、に近い。

155 :のんびりひまじん:2009/11/09(月) 08:47:58
>>154 補足
播磨の国は、大和王朝(実体は関西の地方豪族集団)にとって外国(支配地の外)だった!


>>150 の指摘
地理上の経済的な実力≒生産力≒人口 において関西地域、濃尾&伊勢平野の優位ということは
十分あり得る。それと
文化的、政治的な優位とは別の問題。(→のち、壬申の乱)

156 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 09:21:25
地理上の経済的な実力がある場所に普通権力が集中します。
水銀だって大半畿内圏に集中していたという点もあるしね。

九州は大陸、半島の文化が入りやすい土地だが、同時に
戦乱の前線基地でもあったのに、王権なんてのは維持出来ませんよ。

157 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 13:00:24
>>156
>九州は大陸、半島の文化が入りやすい土地だが、同時に
>戦乱の前線基地でもあったのに、王権なんてのは維持出来ませんよ。

そうですね。
九州では、1世紀から7世紀まで、50年未満の短期政権の興亡が続きました。


158 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:08:35
>>154
こりゃひどい。壮大な自爆だよ。

あのな、一度、愛知県の鳳来寺と、長野県元善光寺(のほうがよい)の位置を、
日本地図でよーく見てみろ。
まさに、ずばり、「東日本の太平洋側」だ。関ヶ原のはるか彼方にして、
博多から日本海回りでは、どうやっても到達不可能なところ。
どう足掻いても、絶 対 に 筑 紫 勢 の 手 の 届 く と こ ろ で は な い 。
ここは、東国固有の地域体質のかなり強いところで、九州どころか、畿内勢でさえ、
古代には、支配におくためにかなり手間取ったところ。
三遠銅鐸の分布や、神社の分布が物語る。

それだけでなく、これはひどい自爆なんだよ。
三河国奥三河(鳳来寺)や、長野県南信(元善光寺)で、
「九州年号」なる記録があるということは、
つまり、これは「九州の年号ではあり得ない」という、有力な証拠になってしまう。
なにしろ、地理的に、筑紫の手が決して届かないところなのだから。
「九州年号なるもの」が、本当に九州のものなのか、実に疑わしくなる。


159 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:09:54
九州は朝鮮半島より、むしろ、中国の山東半島や福建省の影響が強かったと思いますね。
朝鮮半島からの漂流者は、潮流に流されて、出雲や越後に着くことが多かった。
やはり、筑紫の磐井は、斉い(岩井)だったとするのが妥当。

160 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:14:18
この考え方は、かなり明確な視点を提供する。
簡単な話だ。

「東日本の太平洋側(濃尾伊勢以東)に伝わっている要素は、筑紫勢力の要素ではあり得ない」

これだけで、かなりのものがそぎ落とされ、
九州王朝説なるものが、コーエー(ゲーム会社)もびっくりの
とんでもない妄想から、少しはマシな視点を得ることになるだろう。
ただ、「古代の偉大なる大筑紫帝国」の「産物」は、おそらく1/4程度になるだろうけどね。


161 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:24:13
>>145のような妄想は、なぜ起きるのかといえば、理由は実は簡単なんだ。

「九州王朝論者が、真正の畿内勢力の話のかなりの部分を、筑紫の話にパクっているから」

何のことは無い。剽窃していたのは、九州のほうだったのだ。
この剽窃を正当化しようとすれば、
筑紫を首都とする、偉大なる大九州王朝が、
1000km近く離れ、山を越え谷を越え、対立する諸勢力をいくつも乗り越えて、
東海やら関東に、帝国支配を及ぼすという話にならざるを得ない。
このためには、とてつもない強大な中央権力が必要だ。
こんな権力があれば、朝鮮南部どころか、遼東半島まで楽々支配できようし、
江南や山東半島も、「大筑紫帝国」の版図に楽々入るはずということになる。
嘘に嘘を重ねると、こういうひどいことになる。

実際、真正の「筑紫勢力」である倭寇は、江南から華北、朝鮮西岸全域を荒らし回っていた。
しかし、同時期、鳳来寺の近く、例えば愛知県の渥美半島に、
筑紫の海賊が襲ってきたなんて話は聞いたことが無い。

162 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:31:59
別に、九州にそれなりの首長制があったことは否定しないよ。
魏志倭人伝なるものは、おそらく九州のどっかの女酋長の話を、
極めて不正確に記述したものと思われる。
(が、あまりに不正確で粗雑すぎるので、どうみてもまともに扱うべき「文献」ではない。)

ただ、仮に九州を統合する勢力が生まれていたとしても、その支配圏は
精々、今の「福岡の政治・経済圏(=九州ブロック)」程度が関の山だろう。
南端を除く九州島と、精々、本州の西端部(山口県)くらい。
こういう勢力圏というのは、歴史を通じてあまり変わるものでは無い。

これ以上、何か支配を東に広げたというのは、明らかに妄想だ。

163 :唐松山:2009/11/09(月) 21:34:26
いいじゃねの。九州王朝なんてオウムと同じで、新しい九州年号とかそれらしくこじつけるだけで、
教団内で地位が上がっていくんだよ。まさにカルトだし、怖ろしいね。おそらく実生活においては
敗残者の集団。

164 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 21:35:38
>>160
6世紀初頭まで九州王朝(倭國)は1歩たりとも九州島より東に進出していません。
九州外の諸国を傘下のゆるい国家連合の一国に加えることはあったでしょうが。
それらの諸国は倭國とは別国です。
隋書には倭國は九州島の範囲であると明記されています。
『俀國在百濟 新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居・・・・・其國境東西五月行 南北三月行 各至於海』

165 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 21:49:28
>>162
7世紀初頭までの状況についてはは同意。
九州王朝が九州以外の他地域に進出しようとした時が崩壊の始まり。
7世紀末には九州王朝の崩壊は完了。

166 :日本@名無史さん:2009/11/09(月) 21:57:11
九州北部勢力と日向宇佐勢力が繋がっているような感じがしない。
九州内でも遠いんだ。文化も違う。宇佐と宗像が繋がっているような
記述もあるが、北九州筑豊ルートで細々と繋がっていたのかも知れない。

日向→東遷(瀬戸内海ルートで畿内へ)→白村江で北部九州征服
なんて妄想持ってたりする。

倭の征服は7世紀から8世紀とかなり遅い形跡がある。

167 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/09(月) 22:50:40
>>164の間違いを修正
×:6世紀初頭まで九州王朝(倭國)は1歩たりとも九州島より東に進出していません。
○:7世紀初頭まで九州王朝(倭國)は1歩たりとも九州島より東に進出していません。


168 :日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:18:42
>>167

九州王朝氏は、通典などに見える659年の蝦夷國朝貢記事をどう考えますか?

>蝦夷國、海島中小國也。其使鬚長四尺、尤善弓矢。挿箭於首、令人戴而立、四十歩射之、無不中者。

169 :のんびりひまじん:2009/11/10(火) 00:43:49
>>108 再掲
>九州年号なるものの文献残存地を見ると・・・
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
九州に多いのは確かですが、なんと
青森、秋田、宮城、福島、群馬・・・といった遠方からも
見付かる。
いったい九州王朝が直接的に支配していたのか?    それとも、単に
文化面の指導力:カレンダーの発行元という程度なのか?<

まず、史料事実は、共有尊重したい。(解釈意見は分かれるとしても)

年号史料として、那須国造碑がある。なんと唐の年号で
永昌元年(=九州年号・朱鳥4=日本書紀・持統3=ad689)とある。

古代年号(九州年号)が全国的に検出できるとしても、文化面の指導性は言えても、
そのまま政治的支配であったかは別かも知れない。

170 :のんびりひまじん:2009/11/10(火) 01:02:12
>>166
>宇佐と宗像が繋がっているような 記述もある<

どの文献のどこに、その記述があるのでしょうか?


>>164
>東西五月行 南北三月行<

距離で 東西方向 > 南北方向 
これを九州島内と考えるのですか?

171 :日本@名無史さん:2009/11/10(火) 01:20:01
>>170
そんなことも知らんのか。
日本書紀だよ。
宗像三女神を宇佐嶋に降らせたとある。


172 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/10(火) 01:42:59
>>168
蝦夷国は、旧唐書の日本國(畿内王朝)と同列の日本列島内の独立政権です。
しかし倭國の影響下にありました。被支配下にあったのではありません。
倭國が唐に朝貢しないので、日本國と共に唐への朝貢の機会を得る為に遺使したのでしょう。
日本國の入朝者は、「多自矜大 不以實對」と唐側に思われて、この時には朝貢に失敗しましたが、
蝦夷国は朝貢に成功したのです。
蝦夷国は、旧唐書に言う「毛人之國」の一国で、仙台平野に都を置く北上川流域から福島県までを領域とする日高見國(東北王朝)です。
その都は、650年頃郡山遺跡に置き、7世紀末には多賀城に遷都しました。
又九州王朝倭國の衰退滅亡期にはその亡命者の受け入れもしました。
この亡命者の受け入れが福島県の浜通りの製鉄と共に、8世紀の畿内王朝の日高見國侵攻のきっかけとなったと思われます。

173 :日本@名無史さん:2009/11/10(火) 01:56:29
>>172

しかし、通典では「隨倭國使人入朝」、
蝦夷国は倭国の使者とともに朝貢したとされていますが。

174 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/10(火) 03:04:18
>>173
倭國の使者に日本國(畿内国)の使者と蝦夷國の使者がつれだったのです。
日本國と蝦夷國が一緒だったことは日本書紀にあります。

>>170
済州島は『其南海行三月 有[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里』(隋書百濟伝)ですから。
百濟の錦江河口から済州島までが「三月行」(約260km)の距離、
済州島の東西幅は千餘里(約75km)、南北幅は数百里(約50km)。

『其國境東西五月行 南北三月行 各至於海』
同様に、九州島の東西幅は三月行(約250km)、南北幅は五月行(約400km)
(其國境とあるから俀國は対馬を含む九州島となる。)

175 :日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:02:18
ところで、話題の纒向は邪馬台国でいいの?

176 :日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:06:13
un

177 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/11(水) 23:03:10

今大阪6chでしている纒向は崇神朝の宮殿址だと思う。


178 :日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:04:12
九州から来た神武が建てたものだろう。

179 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/11(水) 23:25:14
>>178
神武の建物はもっと南の奈良盆地湖の南岸だよ。
どちらも茅葺の掘っ立ての建造物だな。纒向も。

ところで、
神武は西暦何年頃の人と思う?
崇神は西暦何年頃の人と思う?

纒向は景行・成務の頃の遺跡の様に思える。

180 :日本@名無史さん:2009/11/12(木) 00:51:16
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり

181 :日本@名無史さん:2009/11/12(木) 15:38:01
179 :神武の建物はもっと南の奈良盆地湖の南岸だよ。


これ、止めといた方がいい。以前あるスレで奈良湖のことを書いてえらい目に会った。


182 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/12(木) 16:55:27
>>181
>>179 :神武の建物はもっと南の奈良盆地湖の南岸だよ。
>これ、止めといた方がいい。以前あるスレで奈良湖のことを書いてえらい目に会った。

奈良盆地湖の消長を知らないので、えらい目にあったのでしょうね。
奈良盆地湖の流出口が4ヶ所あったことをご存知ないのでしょうね?


183 :日本@名無史さん:2009/11/12(木) 18:12:52
纒向の年代測定って14Cを使ってるのかな?


184 :日本@名無史さん:2009/11/12(木) 20:44:36
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif

185 :日本@名無史さん:2009/11/13(金) 23:52:34
九州王朝はなかった

186 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/14(土) 00:38:31
>>181

>>179の修正
× 神武の建物はもっと南の奈良盆地湖の南岸だよ。
○ 神武の建物は纒向の南西方向の奈良盆地湖の南岸だよ。

神武の住居は、奈良盆地湖南岸の芦原の周辺。

187 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 02:39:34
奈良盆地湖っていうのは、邪馬台国の頃も水上交通が発達するような
大きな湖だったのか、それとも広大な湿地帯だったのか
今みたいな平野になったのはいつ頃?

188 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 09:39:08
この弥生時代から古墳時代の村は盆地にありました。
由布院盆地、その昔、由布湖があったところを由布岳の化身宇奈岐日女が堰を蹴破って盆地にした。
それが卑弥呼だったと考えられる。


189 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/11/14(土) 16:17:01
>>187
邪馬台国の時代、すなわち3世紀は崇神期になると見ています。
広瀬神社縁起によると、崇神6年に盆地湖最深部湖底は陸化しています。
崇神1年が3世紀の前半か後半であったかによりますが、
奈良盆地湖は沼沢池化しているか消失していたことになります。
どちらにせよ発達した水上交通の時代ではありません。
崇神期以降盆地湖が再度現れたことはありません。
以後盆地湖跡は大穀倉地になったようです。

なお、水上交通が発達していたのは、縄文期で、
湖水面が海抜80m位にあった頃のことです。


190 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:43:45
九州説のひとってなんで潔く負けを認められないの?
馬鹿なの?

191 :のんびりひまじん:2009/11/22(日) 22:40:29
ただ今の新刊 榊原康彦「異論 壬申の乱」の中での九州王朝説理解の仕方に
大いに異論をもつのですが、読んだ人はおられますか?

>>190 貴殿は、これしきの書物はもうお読みのことでしょう。コメントありますか?

192 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 20:07:53
>>190まだ決まったわけではないのに、なんで負けを認める必要があるの?
というか、歴史研究に勝ち負けなんてない。

193 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 23:14:52
【日本国家の成立】
【日本民族の統一】
@神武朝(神話)
A崇神朝(ヤマト:マキムク)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)
【天智天武】律令体制
【聖武】平城京
【桓武】平安京
*【幕府体制】*
【明治】維新近代化
【現在】125代今上
(各王朝内は「男系」で繋がり各王朝間は実質「女系」で維持。王朝内に女帝は置かれたが女系は認められなかった)

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