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元寇総合スレ2

1 :軍事虫w:2009/12/03(木) 23:54:35
なんかスレ立ててみた。テンプレらしきものがないので前スレだけ貼っておく。

元寇総合スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1245701930/l50

2 :日本@名無史さん:2009/12/03(木) 23:57:35
四十年勤め上げた大學を退職し早二十年、何やら張り合いの無い日々を送る内、大學生 の孫に「退屈しのぎに遣って見たまへ」と
勸められた弐チヤンネル。當初は「こんな電腦掲示板、何たる幼稚加減」と莫迦にしてゐたものの、 遣つて見ると存外に面白ひ。

華やかな色彩の髪と目を持つうら若き乙女に「ゆとり乙」と何度と無く罵られるにつけ、食ふや食はずやで慌しく過ぎ去つた學生時代が自ずと思ひ返され、
「戰爭さえ無ければ、小生もこのやうな青春が送れたやも知れぬ」 と獨りごちることも屡々。
すつかり虜となつた今では、孫の部屋から白銀色の電腦計算機をせしめては書齋に篭もり存分に「祭り」を堪能する毎日を送つている。

下手の横好きとはいえ「繼續は力なり」の言葉通り、最近では画面破壊画の回避 や複写転載の管理にも慣れ、「好きこそものの上手なれ」を座右の銘として
弐ゲツトに勵んでいる。

同年代の友人達が癡呆や重い病に惱まされるなか、老いて尚矍鑠として外線會に向かえるのも、ひとえに弐チヤンネルのおかげかと思えば、再三に渡る
「半年ROMつてろ」の罵り文句も、何やら「まだまだ死ぬには早いよ」と言われているようで愉快極まりない。
ひとつ間違えれば自らが乗り込んでいた機體と同じ名前を持つ固定ハンドル名に出會える日を樂しみにしつつ、今日も画面に向かう。

それでは、弐ゲツト。

3 ::2009/12/03(木) 23:59:54
うはwいつもスレ立て規制にかかってたから、まさか立てられるとは
思わなかったわw
まあ前スレの人達が来るかは分からないけどどうぞ。

前スレ>997
>997 名前:日本@名無史さん 投稿日:2009/12/03(木) 21:44:11
>>>993
>軍事虫くんの「誤解」がわかった。
>君の概念では、「威力偵察」に任ずる部隊の近くには常に、より大きな
>規模の「主力」が控えていなければならないのだ。
>
>文永の役が威力偵察でないという根拠も、そばに「主力」がいないから
>と言いたかったのだろう。
>
>そこが近代戦との違いだ。時間、空間を大きくとればいいのだ。

さて、文永の役威力偵察説の補強に「 日 露 戦 争 」を最初に持ち
出したのは彼な訳だがw
If 彼の発言に矛盾も間違いもない Then
日露戦争 = 近代戦争ではないw

4 ::2009/12/04(金) 00:02:03
>2
そのネタ貼るなら、ちゃんと2get失敗しろよみっともないw

5 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 00:47:20
>>3
支離滅裂だな威力偵察クンw

6 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 01:28:16
すでに論破済みなのに未だ威力偵察に固執する粘着厨がいるというスレはここですか

7 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 01:33:54
偵察クンが三度スルーしたレス



767 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:34:51
>弘安の役は何月単位でかかっているではないか。
>>457を読んだのか?

文永の役で日本攻略に必要な物資そのほかは耽羅人等の情報から計画したんだろ
が、大宰府攻略に必要な分量をはかり違えたんだろう
まさか高麗兵があんなに虐殺好きな変態どもだとは予想外だろうし
武士の強さもなめてたんだろう

http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/index.html
同月、中書省は元皇帝に日本侵略の計画について奏上した
(以下、『元高麗紀事』耽羅至元九年十一月十五日条より現代語訳)。
「これより先、日本・耽羅のことについて枢密院官と打ち合わせました。
 南国より日本を経由して来れる耽羅人三名を召し、地図を書かせました。彼らは申しました、
『日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』
(上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう)

一方弘安の役は前回の失敗を踏まえ、変態クンが多少予想外なことしてもいいように物資は余分に持ってきたものの
まさか海上に追い払われ逃げ回るはめになるとは予定外だったろうなw
そのうえ江南軍遅れるしw踏んだり蹴ったり

くぎ刺しとくけど文永の役での失敗を踏まえて弘安の役での必要物資を見積もったからといって
そんなもんを威力偵察の根拠にするなよw
そういう学習はどんな戦争でもやることだからな

過去レスでいろんな人が指摘してることだけどさw

8 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 02:25:39
偵察クンがカウント不能なほどスルーし倒したレス

750 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:40:30
>>747

>敗軍の将のその後の待遇で
>軍の勝敗や目的を判断するとか愚かしいわ。
>古代ローマ軍なんて、遠征失敗しても
>お咎めなしだった例は幾らでもある。

これについてジャワ遠征と文永の役の将軍の処分の違いを書いた人間としてどう思うんだ?

9 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 02:27:41
偵察クンがカウント不能なほどスルーし倒したレス・その2


918 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 17:10:02
>だから十四万で来た。それこそが威力偵察の成果だ。

723 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 11:12:58
>>712
だーかーらー

■■単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れるっての■■

あとづけで似てる似てると連呼したって何にもならん
お前の長々とした駄文では何の証明にもなってないよ
古今東西の戦争すべてを威力偵察にするつもりか?


「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?」

10 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 02:37:00
717 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:06:46
ttp://ethnos.exblog.jp/1908596/
>その間にモンゴル諸家からの供出部隊が参着したほか、先鋒隊による威力偵察を行い、
>「イランの地」の王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけた。

しかし威力偵察って言葉はこういう人たちにはずいぶん好き勝手に使われるんだな。
押しかけていって王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけたりするのなんて
もはや威力偵察でもなんでもないぞ。

11 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 03:25:27
>>1
なんか偵察厨テンプレ出来そうじゃんw


12 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 14:07:11
前スレの最後のほうで
ついに威力偵察の誤用を正当化しようとしだす偵察厨。

しかし、この時点で「誤用であることを認めてしまっている=つまり威力偵察ではない」自爆には気が付いていない様子。


13 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 16:55:22
>>10
だよなあ。
それが威力偵察なら
秀吉の文禄の役も、島津の琉球征伐も
全部威力偵察で片付けられちゃうよな

14 ::2009/12/04(金) 18:26:03
>12
むしろ、誤用を大人しく認めた方が傷が浅いけどなw
このまま強弁続けたら包囲環が完成するぞw

15 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:37:39
ところで威力偵察君こないねぇ。ここを発見してないのか、それとも
>>3へはさすがに反論できないのかw
これはいくら厚顔無恥でもスルーして別話題に、って訳にはいかない
んだろうねぇw

16 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:46:25
取り敢えず>>1乙。
>>7のサイトに訳文が載っているが、自分が見ただけでもいくつか訳し間違いや省略が見られるので、
『元高麗紀事』「耽羅」至元九年十一月十五日条の原文と、サイトの訳文をベースにしつつ仮訳を
付けてみる。ただ、自分はあまり漢文が読めないのでここでも訳し間違いがあったら、そこは勘弁して
欲しい。ちなみに『元高麗紀事』原文では「耽羅」の「耽」は耳偏ではなく目偏だが、ここでは
「耽」で代用する。また原文では平文のままだが、会話部分などで一応段落別けをしてみた。

『元高麗紀事』「耽羅」至元九年(1272年)十一月十五日条
-------
「(至元九年)十一月十五日、中書省奏、
 「先奉旨議耽羅日本事、臣等樞密院官詢問、有自南國經由日本來者耽羅人三名、
 畫到圖本、稱『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』。臣等謂若先事日本。
 未見本國順逆之情。恐有後詞。可先平訖耽羅賊寇。然後若日本國。果不放趙良弼等返國。
 徐當再議。似無後患。又兼耽羅國王曾來朝。見今叛賊逐其主。占據城郭。義當先平」。
  上曰、「察忽先令人入耽羅。今囘未」。
  臣僚奏、「未囘」。
  上曰、「其人囘日。若耽羅歸順。夫復何言」。
  又奏、「其人囘而不歸順。竊恐遲誤軍事」。
  上曰、「行之。至如耽羅歸順不用兵。別亦有調用之處。卿等議合用多少兵力」。
  囘奏、「臣等約量本處屯田軍可摘二千。復於漢軍選三二千人。船中載馬費力。蒙古軍可少。
 差高麗國合僉五六千。共一萬餘軍可矣」。
  上曰、「武衞軍差二千。卿等更議餘者」。」
-------

17 :日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:51:11
>>16の続き。
『元高麗紀事』「耽羅」至元九年(1272年)十一月十五日条 の訳文。
----
「(至元九年)十一月十五日、中書省が奏上するには、
 「先だって聖旨にて承ったところの日本・耽羅のことについて、臣らは枢密院(軍政担当部門)官と
 打ち合わせ致しました。南国より日本を経由して来たった耽羅人三名がおりまして、(彼らに)
 地図(圖本)を書かせましたところ、彼らは申しますには、
 『日本の太宰府周辺に上陸地から向かうには、軍勢約二、三万ほどが必要でしょう』とのこと。
 臣らは申し上げます。もし日本への出兵を先にするのであれば、(かの国は)未だに我が国(の意向)
 に順応するのか反抗するのかその意思を見せていませんので、後々問題がありましょう。まず先に
 耽羅の賊を平定した方がよいでしょう。しかる後に日本国が、趙良弼らを我が国に帰国することを
 させぬようなことがあれば(つまり趙良弼らを拘留して帰国させないようなこと)、当然再び軍議を
 開くべきですが、この時には後顧の憂いを考慮する必要がありません。また、あわせて耽羅国王が
 来朝しましたが、今、叛賊がその主を放逐し、城郭を占拠したことを見ますに、まず先にこちらの
 平定制圧にあたるのが正しいかと存じます。」

  皇帝は仰せられるには、
 「察忽(洪茶丘)が耽羅には(和平を勧める)使者を派遣している。まだ戻っていないのか。」
  (中書省の)臣僚が奏上するには、
 「戻っておりません」
  皇帝は仰せられるには、
 「その人(使者)が戻って来た日に、耽羅が帰順を受け入れれば、何も言うことはあるまい」
  また奏上するには、
 「(しかし、)使者が戻って来ても、帰順しないようなことがあれば、軍事に遅誤が生じませんか。
 我々はそれを恐れます。」
  皇帝が仰せられるには、
 「(では、)こうするがいい。もし耽羅が帰順したら派兵には用いない。その軍は別のことに用いよう。
 卿らは(派兵に)必要な兵力はどの程度か協議せよ。」


18 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:07:12
>>17の続き。(『元高麗紀事』「耽羅」至元九年(1272年)十一月十五日条 )

 中書省が回答して奏上するには、
「臣らが概算しましたところ、本処屯田軍は二千を選り抜き、また漢軍は二三千を選び、
 船中に馬を載せますと体力を費やしますので、蒙古軍は少なくすべきです。高麗国は
 総計五六千を差遣させます。合計一万余りにすべきかと存じます。」
 皇帝が仰せられるには、
「武衛軍(主として漢人からなる精鋭部隊)二千を差遣させよ。卿たちにその他のことは任せる。」
----

さて、『元高麗紀事』という史料は、もともとは大元朝時代後期、1331年、文宗トクテムルの
勅によって編纂された大元朝における典故・制度に関する官庁文書集『経世大典』の外征や
軍事関係の項目に書かれていた記事で、後に明代になって『永楽大典』が編纂されると、他の
資料ともに転載された。

こうした『経世大典』→『永楽大典』に移録された資料としては、他には『站赤』『駅站』
『大元馬政記』『大元官制雑記』『大元倉庫記』『大元海運記』なんかがある。
『元高麗紀事』はこれらのうち高麗や耽羅島への軍事・遠征関係を扱った部分の記事で、
中書省やクビライなどの軍事関係の政務上のやり取りを記録したもの。
>>7の記事はその「耽羅」の段に出て来る。

『経世大典』は894巻(目録12巻、公牘・纂修通議各1巻、本文880巻)という大部な官庁文書集で、
『元史』編纂時の主要な典拠になったが、大元朝末期の混乱と、『永楽大典』に転載された文書が
多かったこともあって早くに散逸した。しかし、肝心の『永楽大典』も清朝末期の混乱でほとんど
散逸し(編纂当初の約3%のみ現存)、現存する『永楽大典』の断簡のなかに『元高麗紀事』と
称されるこの文書などが辛うじて残るに過ぎない。(『元文類』など現存する『経世大典』と同じ
時期に編纂された文書集類を見ると日本に関する記事も『経世大典』にあったと考えられる)

19 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:13:41
>>8までの経緯を貼っておく

730 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 19:42:21
>>727
>元軍の攻撃はことごとく撃退され、

え? 日本軍の間違いか?

>あまつさえ指揮官が重傷を負わされてるのに

漢人の指揮官一人怪我したところで、指揮官はあと3人いるではないか。
なにをおおげさな。

ところで、ジャヴァに行った蒙古軍は現地人のだまし討ちにあってほとんどの
幹部を殺され、将軍3人はかろうじて逃げ帰った。
その結果、2人の将軍が罰を受け、むち70回と財産1/3の没収を食らった
ことが記録に残っている。

文永の役でたった1日で逃げ帰ったのは、かなりぶざまな負け方だが、それで
罰を食らった将軍は一人もいないどころか、ほとんど弘安の役に再任されている。
これはジャヴァの場合と較べてかなり不公平だ。
これをなんと説明する?

731 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 20:23:40
>>730
自分の発言の中に答え出てるのに・・・元は不意打ち・だまし討ちを受ける
ような事態になることを固く戒めていた。親衛隊衛士の規則にも、警戒を
怠った者への厳罰規定があるのは当然知ってるよね?

戦って負けた者とだまし討ちを受けるほど油断した者との差だよ。

20 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:16:08
732 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 21:18:14
阿塔海
金方慶
洪茶丘
忻都
范文虎

弘安の役の大敗戦の後、彼らはどんな罰を受けたんだ?処刑でもされたのか?
引き続き第3次遠征の計画に関わっているのもいる。

フビライの怒りを買って斬首されたという話のある范文虎も、『元史』世祖本紀によると
フビライの没年以後も生存していたというしな。

738 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 11:22:07
>>732
秀吉の唐入りだって、敵前逃亡した大友を除けば
一回目の講和の後、所領取り上げられたり処刑された奴はいないな。
加藤とかは石田との仲間割れが原因だし。

敗軍の将のその後の待遇で
軍の勝敗や目的を判断するとか愚かしいわ。
古代ローマ軍なんて、遠征失敗しても
お咎めなしだった例は幾らでもある。

21 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:18:07
745 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 12:54:44
秀吉の唐入りは威力偵察、古代ローマ軍で任務失敗しても咎められなかった例も威力偵察だったからww

ああ、弘安の役も威力偵察ですw
だってジャヴァよりもはるかに多くの損害を出したにも関わらず将軍が厳罰を受けていないんだからねww

はんぶんこなんか斬首どころか成宗の時代まで生きていましたよ。これが弘安の役が威力偵察であった証拠。
http://www.chinapage.com/big5/history/y02.htm

750 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:40:30
>>747

>敗軍の将のその後の待遇で
>軍の勝敗や目的を判断するとか愚かしいわ。
>古代ローマ軍なんて、遠征失敗しても
>お咎めなしだった例は幾らでもある。

これについてジャワ遠征と文永の役の将軍の処分の違いを書いた人間としてどう思うんだ?



以降、>>750への回答を求めても最後までスルーする威力偵察君でした。

22 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:20:05
http://mimizun.com/log/2ch/history/1245701930

前スレはここで読めます。

23 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:41:34
>>16-18
現代語訳乙

>肝心の『永楽大典』も清朝末期の混乱でほとんど散逸し
つい最近の事じゃないか・・・ググったらひどかった・・・(´;ω;`)

24 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:59:19
>>16-18
誤訳の訂正と自分勝手な解釈は違うものだって事知ってる?
例えば、トンデモ本書いてる奴なんて
完全に自説ありきで引用史料を強引に解釈して語るから
いくら参考文献や参考論文が多くても
結局、馬鹿げた答えにしか辿り着かないんだよね。
逆説の日本史の人とか日本刀役立たず説唱えた人とか騎馬民族制服説の人とか。
まあ民間のトンデモ本書いてる奴だけでなく
プロの大学教授ですらそういうの割といるからね。
お隣の国の大学教授の電波捏造ぶりには負けるけど
我が国にだってFランどころか宮廷にすらトンデモ教授が結構いる。

25 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 01:13:27
おっと早速威力偵察くんの登場か?

26 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 02:19:45
そうなると
主力艦隊を温存し露払いの航空戦力で攻めたパールハーバーすら威力偵察

27 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 02:54:33
ソ連の大軍相手に少数で善戦したノモンハンも威力偵察

28 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 05:22:57
>>24
> 誤訳の訂正と自分勝手な解釈は違うものだって事知ってる?
どこか間違っている箇所があると思ったら、どこら辺がどう間違っているのか
ここがこうだと指摘してくれたら良い。
(ただ、文全体でいまいち何が言いたいのかちと良く分からないが。)

例えば、>>17の「察忽」は『高麗史』その他の資料で、この時期の高麗関係の記事で何度か
現れるが、これは高麗に派遣された管領帰附高麗軍民総監、洪茶丘だと考えられている。
洪茶丘は本名を洪俊奇という。「茶丘」はモンゴル名のチャクゥ caqu だろうと考えられる。
特に大元朝時代にテュルク・モンゴル語の固有名詞を漢字に音写するとき、ca(チャ)は
「察」で、qu は「忽」で表すのが一般的なので、「察忽」もチャクゥと読むべき単語だ。
例えば、「クビライ」(qubilai)は「忽必烈」と書くし、その皇后のチャブイ(cabu'i)は
「察必」と書く。

当時、高麗で耽羅島に使者を送れるような権限を持っていて、「チャクゥ」と呼ばれている
ような人物は、洪茶丘しか知られていない。また、『高麗史』でも洪茶丘を単に「察忽」と表記して
いる場合もあるため、『元高麗紀事』のこの「察忽」は、普通「洪茶丘」のこと考えられる。
(そこら辺は杉山先生の最近の著書とか森平論文などを読むと良い)

29 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 06:07:15
>>28の続き。
こうしたモンゴル帝国史というか、大元朝史、高麗史関係の論文とか
読んでいれば、大体、当時の用語の使われ方から重要と思われる単語を拾い、
それに合わせて文意を読み説くことができる。(というか普通はそういう風に読む)
>>7のサイトの人は「察忽」とか重要そうな単語をいくつか読み落としているので
一応は、こちらに張るには全文を見て欠けている箇所を補う必要があった。

それで>>7のサイトの人はえらく史料を博引して論展開していて、その労力には
甚だ敬服するが、「通説の不条理的な言説に反駁する!」という鼻息の荒さがどうにも
目立ち、巨視的な観点が欠けているようにも感じる。
(例えば『八幡愚童訓』の扱い方だが、諸本ごとに書き方に微妙な差異があるため、
 自分の意見に都合の良いことが書かれている写本の箇所を切り張りしているような
 印象さえ受ける。『八幡愚童訓』諸本おのおのの特徴や欠陥など全体を見据えつつ、
 史料としてどう扱うか、という慎重さに欠けてるようにも。)

ただ、『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』を
(上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう) と訳すのは
文意の通ったかなり良い意訳だと思う。少なくとも自分ではこういう訳し方は
出来ない。

あと、自分自身としては、『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』
という耽羅人の発言に基づいて文永の役の時における派遣軍の規模が決定された、
とか、この文面から文永の役には大宰府攻略が目標となっていた、という意見には
ちと首肯し難いのだけれども。

30 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 07:45:35
首肯しがたいのならば理由を書こうよ。

31 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 08:32:11
なるほど、つまり耽羅人の発言にあるのと同程度の軍隊が同じ発言のなかにある大宰府の近くまで
来たのは単なる偶然という訳か。

ふむ、確かにそう考えればつじつまはあう。

32 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 08:45:09
>>29の根拠というか、個人的な意見に過ぎないが、

> 『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』
> (日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ)

確かにこの『元高麗紀事』の「耽羅」(「耽」は耳偏ではなく目偏)において、文永の役の
二年前にあたる至元九年十一月十五日条に、中書省とクビライとのやり取りで、中書省の
奏上のなかに、「日本を経由して南国から来たという耽羅人三名(「有自南國經由日本來者
耽羅人三名」)から図本を書いて言った言葉として、「日本の太宰府周辺に上陸云々」と
発言している記事が載っているのは確かだし、これは文永の役の時の『高麗史』忠烈王世家や
金方慶伝に載る「蒙漢軍二萬五千と、我軍八千」(つまり合計3万3000)という実戦力の
規模とほぼ一致するのは確か。

ただし、これは飽くまで、『元高麗紀事』の耽羅島人の発言と、『高麗史』に記載されている
遠征軍の規模がほぼ一致するという以上のものでは無く、何よりもこの耽羅島の発言をもとに
文永の役での軍団派遣規模が決定した、という明確な記録は無いため、これだけでは
この発言から「大元朝は(1)文永の役で大宰府攻略を意図し、(2)それを達成する規模の
兵力として実戦力2、3万の軍勢を派遣した」というような推測の証拠とはならないので、
注意せねばならない。これらを立証するには関係者がこれに類する意見なりを述べたような
資料を見付けねばならない。

これだけでは、せいぜいが、太宰府を拠点とする地域の日本の兵力と伍するには、こちらも
2、3万の兵力を動員する必要がある、という認識が中書省からの奏上で「推測」できるとか、
耽羅島や日本への遠征についての議論で、中書省の奏上のなかにある耽羅島人の発言も
日本遠征計画への参考の一つになったろう、程度の推測は十分可能だが、飽くまで
そのレベルに留まる問題だ。

何より、この中書省からの奏上は「〜と耽羅人が申していますので、臣らが思いますに、
太宰府を攻略するためには2、3万の兵力が必要かと存じます」とかいう内容の発言では
無いからだ。


33 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 08:49:06
>>32の続き。
そもそも、この十一月十五日条の頭から最後まで読めば分かるとおり、これは耽羅島の
遠征計画について各部署から派遣される人員など、方針が決められたという内容であって、
日本についての話しがメインではない。
「耽羅人がこんなことを言ってましたが、日本ではなく耽羅島を先に攻めるべきです!」
という程度に留まり、冒頭以後、日本については全く話に絡まない。
(上の『元高麗紀事』の場合、中書省の奏上に「耽羅人は『〜』と申していますが、日本は
耽羅と違い、未だに我が国の(意向に)順応するのか反抗するのかその意思が明らかでは
ありません。まずは耽羅を攻めるべきでしょう。日本を攻めるのであれば趙良弼等が帰還
してその意見を聞いてからでも遅くは無いでしょう」とかいう内容が続く。なので、本文は
「耽羅人の進言」を入れたというか文脈ではない。)

例えば、
「太宰府を攻める/陥さんとして、2、3万を用いてこれを攻めんと欲す」みたいな言い方が
『元史』本文や『国朝文類』などの文書類で、クビライの発言や大元朝側の中書省や同じく
軍政を担っていた枢密院、あるいは高麗からの奏上で明確に記述があれば、
(1)の文永の役で大元朝側は太宰府を攻略目標としていたことと、
(2)のその大宰府攻略のために2、3万を動員した、と確実に言えるが、そのような
記録は今のところ、『元高麗紀事』の他の部分を見ても、『元史』、『高麗史』、その他、
『国朝文類(元文類)』や『元典章』など大元朝時代に編纂された政書・文書集類を見回しても、
どうも現存しない。

最終的な文永の役での派遣軍の規模を決定する主要な要因であれば、耽羅島人の発言よりは、
むしろ文永の役の直前まで太宰府に来て(一年近く滞在して)いた趙良弼の報告を重視したはずだ。
趙良弼は文永の役の前年に帰還したおり、六月には「日本君臣爵號、州郡名數、風俗土宜(産物のこと)」
について報告書を提出したことが『元史』世祖本紀に出て来る。


34 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 09:05:49
>>33の続き。
『元史』趙良弼伝によると、太宰府から帰還して五月にクビライと謁見した時、クビライから
慰労の言葉を受けており、「臣は日本に一年ほどおりましたが、その民の風俗を見ますに、
狼勇殺生を好み、父子の親しみや上下の礼を知らず、地味は山水が多くて耕作にも向きません。
人民を得ても役に立たず、土地を得ても利益を増せません。水軍を使って海を渡っても海風の
時期をはかれないので、損害がどれだけ出るか予測も出来ません。これは有用の民を底なしの
巨大な穴に埋めるようなものです。臣が思いますに、遠征などはなさらぬのが宜しいかと」
というようなことを言上している。

クビライはこれに従ったと書かれてあるが、周知の通り遠征は取り止めていない。
前年の耽羅人三人は中書省と枢密院との協議の中で、耽羅人が図本と「太宰府に〜」という
発言があったと奏上のなかで触れているだけだが、趙良弼の場合は、現物は残っていないが
「日本の君臣爵号、州郡の名や数、風俗や産物」についてより詳しい報告をクビライ自身に
している。
『元史』や大元朝時代後期に編纂された『宋史』などの日本伝では、日本の歴代天皇のリストや
諸国の名前が列記されており、趙良弼の遠征反対の意見自体は採用しなかったが、「日本君臣爵號、
州郡名數、風俗土宜(産物のこと)」について趙良弼の報告が後々まで参考にされたと伺わせる。

まとめると、
1)耽羅人の発言にそのものに、クビライや中書省側が政策として採用した明確な形跡が見られない。
2)この耽羅人の発言以外に太宰府に行くには2、3万必要だという話が記録に無い。
3)そもそもクビライや中書省、枢密院などが文永の役で太宰府を攻略すると明言している資料が
  見付かっていない。
4)日本への政策には国使である趙良弼の報告データを採用したはず。

というのが、まあ大元朝は(1)文永の役で大宰府攻略を意図し、(2)それを達成する規模の
兵力として実戦力2、3万の軍勢を派遣した」という意見に否定的な根拠。



35 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 09:34:04
>>34の続き。
加えて、イラン鎮戍軍やカシミール鎮戍軍がだいたい騎馬部隊だけで2〜3万騎の
規模だったことからも分かる通り、国家規模のモンゴル帝国外部の勢力に近接する
辺境部の鎮戍軍の場合、外部遠征などでも普通にこの規模で行動していた。

同じく辺境部の鎮戍軍と同じ性格を持っていたと思われる文永の役の時の高麗周辺の蒙・漢軍と
高麗軍をあわせた歩兵・騎兵からなる実戦力三万強という数字はそれほど特殊とは言い難い。
むしろ通例に近いと言える。

なので、『元高麗紀事』の「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」と
『高麗史』の「蒙漢軍二萬五千、我軍八千」の直接的な関連性は、『元高麗紀事』のこの
部分だけでは立証出来るとは言い難い。

『元高麗紀事』単発だけでは、鎮戍軍の通常見られる規模とも大差が無いため、個人的意見
としてはぶっちゃけ>>31のいう「偶然」だと思う。
(関連性が全く無いとは、これも言えないが、『元高麗紀事』のこの部分だけでは証拠不十分)


書くと長ったらしくなるんで控えていたが、まだ100スレいってなかったので根拠とか意見を
書くと大体こんなところ。特に興味が無かったらスルーしても構わない。

36 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 10:00:46
 .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ,,,,,,,,,,,,,,,_ ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)  f';;_-ェェ-ニ ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i `'' ̄    r';' }   | 久々に良レス
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l 、     ,l,フ ノ   | こういう冷静な書き込みが沢山あった
 . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  < のが昔の歴史板なんだよな 最近は資料も読まずに
   .| ::゙l  ::´~===' '===''` ,il" .|'".    | 煽り合いをする奴が多いから困る
    .{  ::| 、 :: `::=====::" , il   |     \________

37 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 11:49:09
至元十八年八月の弘安の役の報告に「日本に至り、太宰府を攻めんと欲す」と
あるように弘安の役の目標に太宰府が設定されていたのも偶然だな。

攻略しそこねた目標を再度狙ったなどということは考えられない。

38 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 14:06:52
前スレとうって変わって良スレの予感、読みごたえあるわ。


39 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 14:11:12



自画自賛乙

40 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 15:17:53
自画自賛かはともかく前スレがひど過ぎただけ。

威力偵察くんは工作員をクビにでもなったのか?

41 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 15:45:15
文永の役で元軍が野営せずに船に戻ったのは、夜襲の危険もあるだろうが
すでに地元漁民ゲリラなんかに船を襲われはじめてたんじゃないか?
一日目の昼間の戦闘だけで決戦で敵を大いに破るか逃げるかしないと
元軍自体が略奪の対象になりつつあったんじゃないだろうか?

42 :日本@名無史さん:2009/12/05(土) 15:55:40
スレがクロスオーバーしてきたなw

43 :日本@名無史さん:2009/12/06(日) 04:23:58
>>37
いや、それは「偶然」という語彙の使い方を間違えている。

「日本に至り、太宰府を攻めんと欲す」というのは、『元史』日本伝、至元十八年八月条にある、
「八月、諸將未見敵、喪全師以還、乃言:『至日本、欲攻太宰府。暴風破舟。猶欲議戰、
 萬戸q徳彪、招討王國佐、水手總管陸文政等不聽節制、輒逃去。本省載餘軍至合浦、
 散遣還郷里。』」

「 (至元十八年)八月、諸将未だ敵を見ざるに、全師を喪って以て還る。
 乃ち言う、
 『日本に至り、太宰府を攻めんと欲す。暴風舟を破る。なお戦わんことを議せんと欲せしも、
  万戸q徳彪(れいとくひょう)・招討王國佐(おうこくさ)・水手總管陸文政(りくぶんせい)等
  節制を聴かず、輒(すなわ)ち逃げ去る。本省、余軍を載せて合浦に至り、散遣して郷里に
  還らしむ。』」

と続く文章で、本文に「日本に至って太宰府を攻める」ことを「欲する」ような「本省」なので、
状況的に、この文章の発言者は征日本行省のことと考えられている。

44 :日本@名無史さん:2009/12/06(日) 04:38:18
>>43の続き。
すなわち、これは「征日本行省」つまり「征収日本行中書省」(略して征東行省、日本行省とも)」という
『大元朝の日本遠征を担当する部署』が『直接的に』、「日本へ行って太宰府を攻撃することを意図した」
と述べており、大元朝の公的な方針(少なくともそのひとつとして)として弘安の役では太宰府の攻略が
目標とされていたことが分かる。(「征東行省」は1280年に高麗国王忠烈王を長官として設置された、
日本遠征にともなって新設された地方行政組織)

よってこれは、>>37が言うような「偶然」云々とか何とかそういう問題では無く、疑い無く、
>>33で書いた「クビライの発言や大元朝側の中書省や同じく 軍政を担っていた枢密院、あるいは
高麗」のような、遠征の政策当事者の「直の証言」、「明確な記述」の類いそのもの、また
>>32で書いた「関係者がこれに類する意見なりを述べたような資料」そのものにあたる。

つまり、(くどいようだが)
『元史』日本伝、至元十八年八月条の「日本に至り、太宰府を攻めんと欲す」の部分は、
大元朝が弘安の役で太宰府を攻略する計画を持っていたことが、政策当事者からの発言によって
分かる、明確な「例証」「証拠」の類いと見て良い。

>>17-18などの『元高麗紀事』の耽羅人の発言とは、状況・立場が根本的に違う種類の
資料なので、そこは十分注意せねばならない。

45 :日本@名無史さん:2009/12/06(日) 04:47:12
もうちょっと口語調というか
くだけた口調で書いてほしかったりするな

46 :日本@名無史さん:2009/12/06(日) 11:27:10
>>37
うっかり>>43-44でもうひとつ書き忘れていたけど、殊、この日本伝の部分の例を
考えた場合、もし文永の役で大宰府が攻略目標として予め定められていたら、この
『元史』日本伝、至元十八年八月条では「日本に至り、『再び』太宰府を攻めんと欲す。」
みたいな言い方をしているのが自然だと思う。しかし、文永の役の時の事を踏まえたうえで
「太宰府を攻め」るのに「再び」とか「再度」とかそれに類する言葉が、見ての通り文中には
全く無い。

もし前回の文永の役の時に大宰府を攻める予定で、実際に攻めたり、攻めようとしてそれが
出来なかったのだったら、それらしいことを文中で何がしか書くなり触れるなりしておくのが
やはり自然だろう。それが全然無いってのは、これは十分注意しておくべきことだと思う。

>>36,>>38
やあ、そう言ってくれると非常に有難い。
前スレの後半なぞは、資料の概説とかその中身の吟味とかまるでやる気配が無く、ひたすら
煽り合戦に終止して目を覆いたくなる感じだった。あの状況にいい加減フラストレーションが
貯まってたというか見ていられなかったので、前スレの終わりあたりからついガーッと書いてしまった。
資料を単発でぽんと出しても、事情を知らない他人が見たらそれがどんなものか理解出来ないか
知らない場合があるんだから、まずそれがどういった資料かあらましを触れつつ、自分の言いたいことを
説明するとかいうスタイルは大事だとは思う。(前スレの場合資料の引用を他のサイトあたりから
コピペして大した説明もなしで、とにかくこうだ!という雑なやり方が流行っていたけど)

日本史板にしろ世界史板にしろ、ここ数年で資料を吟味した上での長文カキコ、みたいなのが
いつの間にか殆ど無くなってしまった。日本史は戦国時代板へ、世界史は難民板と中国英雄板
あたりに人口流失したせいとかでこんな状況になったんだろうかねえ・・・ 

>>45
すまん、もともと文体が固くて読みづらい方なので、眠気も手伝って大分ガクガクした文章に
なってしまった。これ以上くだけた感じにすると、自分の考えている内容に沿って文章化出来るか
自信が無いので、読みにくかったらまあちょっと勘弁して欲しい。

47 :日本@名無史さん:2009/12/06(日) 16:43:59
>>1
日露戦争でだいぶ議論したが、威力偵察の好個の例を忘れていた。
それはディエップ上陸作戦だ。
「ディエップ、威力偵察」で引けばずらずらと出てくる。
「Dieppe, reconnaissance in force」で引けばもっと出てくる。

1942年8月19日、カナダ軍を主とする6000人規模の部隊が北フランスの
港町ディエップに上陸した。
ディエップを奪取してこれを一定時間維持した後、ドイツ軍の本格的な
反撃が始まる前に撤退する計画であった。
作戦の目的はドイツ軍の反撃能力を知ると共に新規な上陸作戦用装備の
効果を試すことであった。
攻撃部隊はチャーチル戦車を有し、空軍部隊の掩護もあった。

しかしドイツ軍の反撃が早かったことなどにより上陸部隊は早期に壊滅し、多くは
捕虜となり、駆逐艦などで救出されたのは1000人ほどに過ぎなかった。
すなわち作戦は失敗した。しかし失敗したからと言って「威力偵察ではなかった」
ということにならないのはもちろんである。
この作戦によって連合軍は多くのことを学び、それはノルマンジー上陸作戦に生かされた。

ところで、軍事虫くんによれば威力偵察は掩護部隊の任務であり、したがって
威力偵察部隊の近くには掩護されるべき軍主力がいるはずである。

しかしディエップの近くにはもちろんそんなものはいなかった。
いたとしてもそれは海峡の彼方であり、すぐに海峡を渡る態勢にもなかった。

また軍事虫くんによれば威力偵察があれば間を置かずに主攻勢があるはずである。
しかし主攻勢にあたるノルマンジー上陸作戦が開始されたのは約2年後の
1944年6月6日であった。

さて、軍事虫くん、どうする?

48 :日本@名無史さん:2009/12/06(日) 19:00:35
>>47
また来たのかよ┐('〜`;)┌

で、>>7-9への回答マダー?(・∀・ )っ/凵⌒☆

49 :日本@名無史さん:2009/12/06(日) 23:38:31
>>47
別に「軍事虫くん」を全面的に擁護はしないが、君は詭弁ばかりだね。
他の戦闘・戦争はどうでもよろしいから、早く威力偵察である確固たる証拠をあげてくれよ。

50 :日本@名無史さん:2009/12/06(日) 23:54:52
>>47
>日露戦争でだいぶ議論したが
元寇で議論しろよw

51 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 01:07:50
>>47
近代戦争の概念は元寇には適用しえないからその議論は無効ですね^^

52 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 01:27:27
姉妹スレ
もし蒙古が九州ではなく蝦夷から日本に侵攻していたら
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1194316331/


53 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 01:40:55
>>47
これ、作戦の実施要領はともかく、作戦目的の出どころがよく分からない
てか誰かの推論が一人歩きしてるだけって気がするぞ。つまり、典型的
な誤解。ちなみに、パウル・カレルの著書「彼らは来た」では、
ディエップの作戦はソ連からの要望により、ドイツの戦力を吸引する
ことを目的として、大西洋側での反攻が始まったと欺瞞するための
作戦だったと記されている。

アスペルガー君は、この辺「ソースはインターネット(笑)」とか
以外に、ちゃんと良質な書籍から情報仕入れてるの?パウル・カレル
は各国の陸軍大学で推奨図書に指定される程度には良質だけどね(笑)

54 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 03:22:48
ターンブールにつづき再び
誤用をソースに得意げな偵察厨

55 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 04:59:42
文体は似てるけど>>46>>47は別人かい?

56 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 06:02:09
>>55
うん、全然別人。
>>16-18,>>28-29,>>32-35,>>43-44,>>46は自分が書いたが、それ以外は別の人の。
というか近現代史は専門外だし、軍事関係となるとさらに全然知らないので自分じゃ
何も書けない。自分は古代〜中世史あたりがテリトリーなので、それ以外だとまるで
分からない。(中世までの宗教史とかだったらまだ何とかなる)
ノルマンディーは良いとして「ディエップ上陸作戦」って何?人名?って感じだったりする。

57 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 06:58:38
おkサンクス。
きっと別人だろうなあとは思ってたが
やっぱり別人だったのね。

58 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 07:11:34
>>57

>>47はただの馬鹿だよ

「今と昔では威力偵察の定義が違う」とか言いながら
「日露戦争の・・・」「ノルマンジー上陸作戦の・・・」と近代戦を例に挙げるようなやつ
その上、自分に都合の悪いレスはすべてスルー
ただの馬鹿としか言いようがないw


59 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 07:13:24
おっと

× 「ノルマンジー上陸作戦の・・・」
○ 「ディエップ上陸作戦の・・・」

60 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 08:24:02
>>53
たしかにディエップ上陸作戦の目的についてはいろいろな説がある。
ある資料は君の言うように「他の戦線のために独軍を牽制する」ことを
「目的の一つ」としてあげている。
他の資料は作戦目的が不明瞭なことが敗因であったとさえ言っている。

しかしそれらの資料でさえ、「威力偵察」という言葉でこの作戦を呼んでいる。
つまり複合的な目的を持つ作戦ではあったが、偵察がその目的の一つで
あったことは諸説に共通している、ということだ。

61 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 08:42:32
いつまでスレ違い続けるつもりだコイツ

いいから「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」 に答えろよ

62 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 13:35:14
まず整理しよう

文永の役は威力偵察ではない

話の都合上仮に威力偵察らしきものだということにしようとも九州上陸後、水城すら見ずに敗退した言い訳にはならない



63 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 14:05:19
>>60
で、ディエップ上陸作戦が威力偵察であることと、文永の役とがどう関係するんだ?

結局、文永の役が威力偵察であるという確証はない・・・でおk?

64 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 16:20:36
>>62
>話の都合上仮に威力偵察らしきものだということにしようとも九州上陸後、水城すら見ずに敗退した言い訳にはならない

それは、「失敗したから威力偵察ではない」という例の論理と同じだ。
威力偵察であるかないかと、作戦が失敗したか成功したは全く別の話。

ディエップ上陸作戦も完全な失敗だったが、失敗したから威力偵察では
ない、と言わないだろう?

なんかいこれを言えばいいのやら。

65 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 17:39:25
>>64

>>7-9への返答は?
返答できないんですね?
スルーですか?
何気に>>63もスルーしてますよね?
逃げるんですか?

66 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 18:03:26
>>63
>ディエップ上陸作戦が威力偵察であることと、文永の役とがどう関係するんだ?

わからないかな? これまで出た「文永の役は威力偵察ではない」の理由付け
は、ディエップですべて否定されるのだよ。

1)文永の役の2万数千(漕ぎ手を入れて4万)は威力偵察としては兵力が
大きすぎる。
→ディエップ攻撃は7000名+戦車60両+空軍の掩護

2)全軍が威力偵察ということはあり得ない(威力偵察部隊は全軍の一部)
→ディエップ攻撃は全軍が威力偵察部隊であった。

3)2)と同じだが、威力偵察部隊の近傍に主力が控えていなければならない。
→英軍の主力は海峡の彼方。

4)文永の役と弘安の役の間が7年開いているから文永の役は威力偵察ではない。
→ディエップ攻撃とノルマンジー上陸作戦との間は2年開いている。
 技術力の差を考慮すれば7年と比較し得る。

5)威力偵察と主攻勢とは間をあけず連続して行われる。
→ディエップ攻撃とノルマンジー上陸作戦との間は2年開いている。

67 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 19:24:20
>66
ネットでぐぐっただけで「ジュビリーは威力偵察!」とか言い出すなよw
ちょいと俺もぐぐったけど、まともな所なんかねえじゃねえか。

俺の手持ちの資料もパウル・カレルしかないんで>53と同じ事しか言え
ないが(リデルハートの著作なら載ってるかもしれんが、手元にない)
お前の「ある資料」とかいうのよりはまともだわなw


68 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 19:28:14
>66
一言付け加え忘れたw

お前の>66は全て「ディエップが威力偵察である」が真なら、が「前提条件」
であって、そもそも「ディエップが威力偵察である」が真だというのを保証
するのは「あるサイト」の記述でしかないわなw

はっきり吐いちまったら?>60の最初の一文を見れば、ソース元がwiki
日本語版だって丸わかりなんだわw

69 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 19:32:46
せっかく詳しそうな人が来ていい流れだったのに
前スレから粘着してるバカのせいでまた荒れる。

70 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 20:03:56
>>68
悪いが私の見たページはすべて英文だ。
当然ながら英文のほうがはるかに資料は多い。

71 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 20:32:42
>>66
元寇時と第二次世界大戦時じゃ動員兵力にそうとうな差があるということを気付いてないのか?

さらに、君のいうようにディエップが威力偵察だったとしても、ソ連の要請による欺瞞作戦という面もある
文永の役と同列に語るのは無理があるなw

72 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 20:56:39
>70
でも読んでないだろ?例えば
ttp://www.stormingmedia.us/05/0543/A054314.html
ここなんか、表題としてはDieppe 1942: Reconnaissance in Force with Strategic Overtones
だが、任務は「西部に脅威を与えて戦力を吸引する事」だとしてるしな(かなり意訳だが)
「将来の揚陸作戦のための資を得る」を「威力偵察」だとするのは、はっきり言って誤用としか
判定できんわいな。

73 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 21:21:59
もう威力偵察厨はスルーでいいだろ?
どうせ逃げるだけなんだし。
さっさと勝利宣言でもすりゃいいのに。

74 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 21:25:49
>73
すまない。もうスルーするわ。どうせ明日から10日ぐらい来れないしな。

75 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 22:14:05
>>72
http://www.dtic.mil/cgi-bin/GetTRDoc?AD=ADA413450&Location=U2&doc=GetTRDoc.pdf
は、かなりまじめな資料だ。

これによれば、ウィンストン・チャーチル自身がディエップ上陸作戦を「威力偵察」と
呼んだ、と書いてあるな。これに対しては議論があると断ってはいるが。

また1942年はじめに、英軍の統合参謀本部(?)に対して出された指示が
「独軍の防御体制について情報と経験を与えるような威力急襲(raid in force)
を検討せよ」というものだったと言う。これは威力偵察の指示と言っていいだろう。

もちろん、スターリンの要請に応えようと言う面もおおいにあり、また独軍の配置
に対してそれなりの効果もあった。

また上陸作戦の経験によって浮き埠頭や水陸両用戦車が発案され、ノルマンジー
上陸作戦に貢献した、とある。

要するに複合的な目的を有する威力偵察作戦である。

76 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 22:38:43
>>75
>また1942年はじめに、英軍の統合参謀本部(?)に対して出された指示が
>「独軍の防御体制について情報と経験を与えるような威力急襲(raid in force)
>を検討せよ」というものだったと言う。これは威力偵察の指示と言っていいだろう

これ、「スーパージムナスト」じゃん。後に目的や作戦様態を変えて「トーチ作戦」になるが。
この程度、欧州戦線の専門家なら常識レベル。こんなのをジュビリーと混同するなんて・・・

77 :日本@名無史さん:2009/12/07(月) 23:40:16
ちなみに、後に「トーチ作戦」として実施されることになる「ジムナスト」だが、
これは1942年1月にチャーチルが提案した連合作戦だが、連合国各国の
思惑が混交して、上陸地点や実施時期が二転三転して(この間、マーシャル
やアイゼンハワーはスターリンに欧州上陸を密約していたが、これは時期尚早
と考えたイギリス参謀本部はジムナストを放棄せずに「スーパージムナスト」と
改称して研究を続行した)結局米軍主導の作戦になったという経緯がある。
ジュビリー作戦の目的が不明確とされている理由は、この「ジムナスト」が
「トーチ」になった経緯を見ると分かるように、欧州への上陸を時期尚早として
いたイギリスが、何故ジュビリー作戦の実施に同意したのかが分からないから
なんだな。で、あげくは>>75のソースのように「スーパージムナスト」と混同
するような状況が生起している、と。
更に追記だが、「トーチ作戦」は「オーバーロード作戦」の予行的性質を
持っているという評価はほぼ確定済み。威力偵察とは誰も言わないけどね。
むしろ、これによって余計な戦力を北アフリカに吸引されたという負の評価
もされている面がある。

横から失礼した。

78 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 00:13:14
そもそもraid in forceって軍事用語じゃないよね。
raid自体に襲撃って意味があるから日本語に
例えて言うと頭痛が痛いみたいな語感。
attack in forceとかassault in forceとか言わない
のと一緒。reconnaissanceは隠密偵察の場合も
強行偵察の場合もあるから別だけど。

そのサイトの人、軍事関係の知識ちょっと怪しい
んじゃないの?存在しない軍事用語を作っている
時点で。少なくとも俺の手元にある英和・和英米軍
用語辞典にはraid in forceなんて載ってないな。

79 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 00:40:15
>>56
ディエップ上陸作戦なんて、どマイナーもいいところな作戦なんで、知らなくて当たり前。
日本史に例えたら結城合戦ぐらいの知名度じゃねえの?少なくともWW2の主要な作戦で上がる名前
じゃないよ。

ところで、アスペルガー君ってソースがほぼ必ずネットだよね。本とか読まないの?

80 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 04:29:37
偵察厨、また速効で論破されちゃったな


81 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 09:15:45
>>77
>>75の資料(United Army War Colledgeの論文)は、私が引用した指示(論文の
なかでも引用文)が、二つの作戦につながったと述べている。一つはディエップ
の前に実行されて成功した、コマンド規模のサンナゼール爆破作戦であり、
もう一つがディエップ上陸作戦である。
君が、上記指示が北アフリカ作戦に関するものであるとする根拠はなにか?
>>78
DOD(米国国防総省)の軍事用語辞典でraidを引いて見よう。
raid:An operation to temporarily seize an area in order to secure information,
confuse an adversary, capture personnel or equipment, or to destroy a capability.
It ends with a planned withdrawal upon completion of the assigned mission.

情報を収集したり、敵を攪乱したり、個人または装備を捕獲したり、能力を
破壊したりするために、ある地域を一時的に占拠する作戦。与えられた使命の
達成とともに計画された撤退をもって終了する。

これをコマンド規模などでなく「威力をもって行う」からraid in force なのだ。
師団規模などの「威力をもって行う」のが威力偵察reconnaissance in force
であるのと同じ。

82 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 09:50:44
どのみち元が負けた言い訳にはならないのにガンバるねぇw
で、>>7-9からはまた逃げるわけね

83 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 10:14:32
>>81
訂正:
United Army War Colledge → US Army War College
直訳すれば「米国陸軍戦争大学」だが正式にはなんと訳するのか知らない。

84 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 10:54:32
威力偵察説うんぬん以前に高麗史と元史に撤退理由書いてるじゃん。
高麗史金方慶伝
金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。
    我が軍は少なしといえども既に敵地に入っている。我が軍は自ずから戦うことになるがこれは秦穆公の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。
    再度戦わせて頂きたい」
忽敦 「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。
    疲弊した兵士を用い、日増しに敵軍が増えている状況で相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」

元史日本伝
「我が軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境の日本人を虜掠して帰る」

この二つの文章をみても予定的撤退だったと見るのは明らかバカげてる

85 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 12:10:31
なにげに>>71-72からも逃げてるなw

86 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 12:44:41
すでに敗北しているのに
みっともなく逃げ回りながらもスレをうろちょろする偵察厨の姿は
まさに弘安の役での元軍そのものだな

87 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 13:35:37
>>77
>君が、上記指示が北アフリカ作戦に関するものであるとする根拠はなにか?

に対する答えがないが、指示が北アフリカ作戦に関するもの「ではない」証拠は
君がコメントした私の書き込みに、すでに含まれている。

すなわち、私が引用した指示は:
「「独軍の防御体制について情報と経験を与えるような威力急襲(raid in force)
を検討せよ」
であるが、私がそこだけわざわざ原文にしたように、これはraidを検討せよと
いう指示である。

raidは、>>81で私が解説したように撤退を予定した短期作戦、期間限定作戦である。
これに対してトーチ作戦はinvasionすなわち侵攻作戦であって、もちろん短期作戦
ではなく、事実、チュニジアの独軍が降伏するまで約半年のあいだ続いたのである。

わかったかな?

88 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 15:48:21
>>7-9からはまた逃げるわけね

89 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 19:28:54
ところで「矢尽く」だけど、矢って拾って再利用しないのだろうか。
「矢拾い地蔵」の伝説などもあるから、日本では拾って再利用していた
のではないか?

文永の役の蒙古軍が再利用しようと思えば、広くもない戦場にいっぱい落ちて
いただろう。死体にささっているのも程度が良ければ抜いて使えばいいし。

それに日本軍はもはや戦場にいないのだから、悠々と拾い集め作業が
できたはずだ。

90 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 23:33:59
>>81
secure informationを「情報を収集」と訳するのは完全に誤訳。
secureは「確保」だが、これは「既に手にしている物を引き続き
保持し続ける」という意味合いが強い。情報の収集は通常
intelligence collectionとかになる。secure informationは意訳
気味になるけど「企図の秘匿」とかになるよ。ちなみに、前出の
英和・和英米軍用語辞典だと、同義語にholdがあったりする。
そもそも、DOD(米国国防総省)の軍事用語辞典を持ち出して
いるが、それにはraid in forceなんて載ってないしね。
reconnaissance in forceはreconnaissanceとともに載っているが。
「どちらも載っている用語」を持ち出して「同じだ!」とか言っても
意味ないぞ。

続いて>>87だが
>これ、「スーパージムナスト」じゃん。後に目的や作戦様態を変えて「トーチ作戦」になるが。
これを意図的に無視してるのかな?それともマジで池沼?
トーチ作戦が策定される上で、イギリスはロンメル率いる
DAKを挟撃するために北アフリカの地中海沿岸を、アフリカ
に深入りする気のないアメリカは(それこそ、アメリカはraidに
止めることを企図していたんだがw)カサブランカを主張した
ことぐらいは常識だよな?

91 :日本@名無史さん:2009/12/08(火) 23:56:05
>>90
つまり、要約すると「企図の秘匿」あるいは「情報の保全」と訳すべき
ところを「情報の収集」と誤訳している点、raid in force等という存在
しない用語をreconnaissance in forceと無理矢理結びつけて勝手に
造語している点、「ジムナスト」>「スーパージムナスト」>「トーチ」と
変遷していく間に作戦目的、実施要領等が変化していったという部分
を意図的に無視している点(42年6月の、北アフリカにおけるイギリス
軍の劣勢が作戦変質の決定打と言われる)でお話にならない。
むしろ
>君が、上記指示が北アフリカ作戦に関するものであるとする根拠はなにか?
とか言い出す前に「ジュビリー作戦が威力偵察である確固とした証拠」
を示せと言いたいね。先に示したように、raidには「情報の収集」なんて
意味合いはないから、「ジュビリー作戦はraidを命じたものだから威力
偵察だ!」なんて言い分は通用しないんだから。

92 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 00:00:53
更に根本的問題に戻ると、そもそも威力偵察が話題になっているのは
「弘安の役における元の撤退は予定通りか否か」という話の中で、
「予定通りである」とする論者が持ち出した説の中に「威力偵察説」が
あった訳で、ここまでに多数の人が示しているように「元の撤退が予定
通りではなかった」証拠を示す文献がゴロゴロ出てきているんだから、
いくら「弘安の役は威力偵察だ!」とか叫んでも無駄な訳だ。

あ、それと「近代戦の概念は元寇には通用しない」んだから、第2次大戦
持ち出すこと自体が間違いだよなw
知らないかもしれないから一応言っておくけど、日露戦争よりも第2次大戦
の方が後に起こった出来事だよ?

93 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 00:35:30
>>89
モンゴルの戦闘で矢を拾う話はおよそ聞いたことがない。
『三国志演義』に諸葛亮が十日で10万本の矢を集める話があるが、それ以外だと
中国史でも戦場で矢を拾う話はあまり聞かれないような。確たる証拠がある訳ではないが、
大陸では基本的に矢は完全に消耗品扱いで一回使ったらそれっきりとかで、回収は
普通しなかったのでは?

日本では武功を明瞭にするため矢に名前を書くとか、欧州でも戦場跡で矢を拾う話が
あったような気がするが、中国史や中央アジア、中東などでは勝ち負けに関わらず
戦場跡で矢を拾うような話は聞き覚えがない。あれば教えて欲しいくらいだが。

94 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 00:46:58
>>92

もうやめて!!
威力偵察厨のライフは0よ!!

95 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 02:37:04
威力偵察厨は>>7-9をスルーしました。
威力偵察厨は>>71-72をスルーしました。

しかし、彼はここへ威力偵察にきているだけなので負けではありません。

96 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 05:06:20
>>84
>>35でも触れたが、まず、
文永の役の遠征軍が、イラン鎮守軍やカシミール鎮守軍などが行っていた外部地域へ
モンゴル帝国への帰順を促すことを主目的とした掠奪遠征の例と同じような種類の遠征軍だったと
考えた場合、博多周辺地域を劫掠し、現地の軍に対して武威を示せた時点で、文永の役での派遣の
目的はほぼ達成していたと自分では思っている。

文永の役では大宰府が攻略目標だったような明確な文献的証拠は(今のところ)無く、また文永の役の
派遣軍の行動が、この種の相手政権に対する降服を促すための鎮守軍の外部遠征の様式と同様のものと
考えた場合、城塞などの軍事拠点を陥落させるなどあまりしないので、現地に長く留まったりせず、
戦利品などの掠奪や現地の軍を攻撃するだけで早期に撤退を予定したとしても、特に不思議な事ではない。

『八幡愚童訓』(と『八幡ノ蒙古記』)の記述に従えば、博多上陸前に平戸、能古、鷹嶋が
襲撃され、掠奪や住民の男女が捕虜にされたりしており、松浦党も敗退しているという。
また、文永の次の建治年間(1275-1277年)の日蓮の書簡や、1280年代前半に最初の編纂が
された『一代要記』などの年代記類にも、文永の役においては幕府軍が対馬や壱岐、博多などで
「蒙古軍に敗北した」というような記述が見られることから、実際の博多周辺での勝敗がどうだったかは
置くとしても、文永の役では、遠征軍の性格である「現地の政権や軍に対して武威を示す」という
目的は十分果たせていたと思う。

また、前スレの終わりでも書いたが、『高麗史』金方慶伝にある高麗軍の指揮官・金方慶と
遠征軍司令・忽敦のやり取りも、文永の役前後の高麗領内における駐留軍、総管・洪茶丘、
金方慶+高麗側との抜き差しならない対立を考えれば、遠征軍の性格もあわせて、単純に
会話の内容でもって撤退理由と考えて良いのか微妙な問題だ。

97 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 05:20:46
『高麗史』金方慶伝の書き方だと、なおも進撃を主張する金方慶に対して遠征軍司令の忽敦が
状況的に撤退が最善として退けたもので、基本的に伝の文脈は、
「(金)方慶、植(た)つが如く少しも却かず、一嗃矢(こうし。かぶら矢のこと)を抜き、
 q声(れいせい。素早く甲高い音)大喝するに、倭辟易して走る。」
とあるように、「金方慶の武功」を顕彰する方向にある。
そういった資料上の性格もあってか、本来軍議にあってしかるべき、副司令のひとり洪茶丘の言動が
記録されていない。金方慶伝は金方慶にまつわるところをピックアップしてはいるが、軍議全体の
模様は掴み難い。(洪茶丘の発言がないことを考えると、金方慶のこの発言が出た段階で、すでに
軍議では派遣軍の撤退は決まっていたとも考えることができる。)

また「官軍は整わず」という文句も、前スレや上でも書いたような耽羅遠征あたりから表面化し
始めていた、軍の運営を巡る内部対立との関連を臭わせるものだと推測がされている。

>>84
「(至元十一年)冬十月、入其國、敗之。而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸。」
((至元十一年)冬十月、その国に入り、これを敗(やぶ)る。しかるに官軍整わず、
 又た、矢盡き、惟だ四境を虜掠して帰る。)
中華書局版の『元史』では「入其國、敗之。」と文を一旦切っているので、これに従うと上のようになる。
一方、岩波文庫版では「その国に入りこれを敗ろうとしたが、官軍は整わず、また矢が尽き、ただ四境を
虜掠(りょうりゃく。かすめうばう、人をとりこにし財物をうばう)して帰った」と訳している。
前者は日本に入って敵を撃ち破っており、そのこととは別に「官軍が整わず」矢が尽きたので、
「四境を虜掠」しただけで帰還した、と読めるが、岩波版の訳者の石原道博氏は
「蒙古軍は撃ち破ろうとしたが、果たせずに撤退した」的な解釈をしているようだ。

98 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 05:32:39
おっと、>>97は>96の続きね。

そろっと100レスだけど、人が少ないうちにまた参考用に文永・弘安の役についての
日本側資料や大元朝・高麗側の資料の該当部分とかうpした方が良いんだろうか?
> 『元史』とか『高麗史』とか『八幡愚童訓』とか『勘仲記』とか日蓮の書簡とか

99 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 07:28:44
深読みしすぎて出口を見失ってるな




100 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 07:29:31
威力偵察厨の理解不能な行動


何を思ったか、日露戦争における威力偵察の例を挙げる。



論破されると、「今と昔では威力偵察の意味が違う」と言い逃れ。



先の自分の発言を忘れたのか、第二次世界大戦の威力偵察の例を持ち出す。

101 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 07:55:59
>>89
なんだこいつ前々スレにいた「矢拾いバカ」と同一人物か?
妄想癖もたいがいにね

102 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 08:49:17
>>81
なるほど、君は軍事虫くんだったのか。
しかし、君の乏しい語学力で用語の問題をあげつらうのはいい加減にしたらどうか。

>secure informationを「情報を収集」と訳するのは完全に誤訳。
>secure informationは意訳 気味になるけど「企図の秘匿」とかになる

普通の辞書でいいからまず引いて見てからにしてくれ。
動詞のsecureの最初に書いてあるのは「確保する」だがその次は
「(苦労して)手に入れる」だ。
第一、レイド部隊が「企図を秘匿する」ために襲撃するなんて、
理解不能ではないか。

>raid in force等という存在しない用語をreconnaissance in forceと
>無理矢理結びつけて

reconnaissance in forceはフランス語のreconnaissance en force の英訳だ。
恐らくナポレオン時代にできた用語だろう。
そこでen forceを仏和辞書で引くと「大勢で」と出ている。
これでわかるだろう? 偵察を大兵力でやるのがreconnaissance in force
なのだ。
同様にraidを大兵力でやるのがraid in forceだ。この言葉が軍事用語に
ない、と言うならin forceの部分が一般用語だと思えばよろしい。

そもそもこの言葉は統合参謀本部に出された指示を引用したものを私が
そのまま引用したのだから、私に文句を言われても困るのだ。

103 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 09:30:35
>>98
見ての通りスレが荒れ気味だから
上げるだけ無駄かもよ

104 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 10:04:28
威力偵察厨の理解不能な行動


何を思ったか、日露戦争における威力偵察の例を挙げる。



論破されると、「今と昔では威力偵察の意味が違う」と言い逃れ。



先の自分の発言を忘れたのか、第二次世界大戦の威力偵察の例を持ち出す。



結局フビライが指示したという証拠はナシ

105 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 10:12:54
夜中に敵地で矢が拾えると思ってるような馬鹿が何いってもねぇ


106 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 16:14:33
元軍は甲冑なども棄てて逃げたらしいな

107 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 18:53:04
>>102
普通の辞典じゃなく軍事用語の辞典見たら?secureは「施設やなんかを敵の破壊活動や各種行動から守るため」に地形やら地点
を「確保」する事だから。君の用法を適用すると、「敵の破壊活動から施設を防護するための情報の獲得」がraidになるんだが?
はっきり言って、あまりに意味不明なんで、うまく日本語にできないわ。

108 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 19:08:08
威力偵察クンの説を採用すると、歩兵以外は全て砲兵になる件

109 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 19:39:14
>>107
ご苦労さんだね。頭痛くなったんじゃないか?
あまり「軍事用語」にしばられて考え過ぎないことだな。
軍事関係の文献だって、大部分は一般用語で書かれているのだ。

まあ、「(苦労して)手に入れる)だから「収集」よりは「取得」のほうが
良かったかもしれないね。

「情報を取得するためにある地域を一時的に占拠する作戦」
でなんの問題もない。

110 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 19:41:10
訂正:
手に入れる)→ 手に入れる」

111 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 20:56:41
>>90
軍事虫くんに悪いが、誤訳をしていたので訂正する。
例の指示は統合参謀本部「に出された」のでなく、「から出された」のだった。

1942年初頭、米軍参謀本部(Chiefs fo staff)が英軍のそれと合流して統合参謀本部
(combined chiefs of staff)になった。その直後に次の指示が出された。

"Raids in force designed to obtain information and experience in the enemy's
defense system are to be pressed forward as opportunities arrive"

「敵の防衛体制について情報と経験を取得するように計画された威力急襲が、機を
見て推進されるべきである」

この指示がどこに対して出されたかというと、それはBritish Combined Operations
Headquarter、英国共同作戦司令部だ。なんでもないような名前だがこれがくせもの。
「陸海共同の部隊を用いる急襲(raid)によって欧州大陸の独軍に脅威を与えるため
の、British War Officeの一部門」
つまりレイドに特化した部門なのだ。(その他に上陸作戦の技術開発も受け持った)
ここに対して出された指示である時点において、すでにトーチ作戦は除外される。

112 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 21:00:00
さて、ここのトップがルイス・マウントバッテンで、その参謀長がジョン・ヒューズ−
ハレットという人だが、このハレット氏が二つの作戦を考えた。ポイントだから原文を
示す。
Hughes-Hallett conceived the two great raids which contributed so much to the
invasions of North Africa and Normandy. Because the second raid (Dieppe)
would not have taken place if the first had been unsuccessful, the incredibly
daring attack on the French Biscayan base of St.Nazaire is an essential
ingredient of the Dieppe story.

訳:ヒューズ−ハレットは北アフリカおよびノルマンジーの侵攻に多大に貢献した二つ
の大きな急襲を考え出した。第一のそれが成功しなかったならば第二の急襲(ディ
エップ)は起こらなかっただろう、という意味において、フランス側ビスケー湾の
基地、サンナゼールへの信じられないほど果敢な攻撃は、ディエップの物語の重要な
成分なのである。

まとめれば、問題の指示が出された先のCombined Operations Headquatersはレイド
に特化しており、その担当地域は欧州である。この指示がトーチ作戦とは一応、無関係
であることがわかったかな?

そこで指示に戻って、「敵の防衛体制について情報と経験を取得するように計画された
威力急襲」とは、すなわち威力偵察そのものではないか。

113 :日本@名無史さん:2009/12/09(水) 21:33:13
>997 名前:日本@名無史さん 投稿日:2009/12/03(木) 21:44:11
>>>993
>軍事虫くんの「誤解」がわかった。
>君の概念では、「威力偵察」に任ずる部隊の近くには常に、より大きな
>規模の「主力」が控えていなければならないのだ。
>
>文永の役が威力偵察でないという根拠も、そばに「主力」がいないから
>と言いたかったのだろう。
>
>そこが近代戦との違いだ。時間、空間を大きくとればいいのだ。

さて、文永の役威力偵察説の補強に「 日 露 戦 争 」を最初に持ち
出したのは彼な訳だがw
If 彼の発言に矛盾も間違いもない Then
日露戦争 = 近代戦争ではないw


114 :二代目軍事虫w:2009/12/09(水) 23:20:59
>>102
自分に反論する奴が全員同一人物に見えるなら、煽り抜きで
精神科に通った方がいいよ。ましてや、自分が「軍事虫」とやら
に見えるなら。

まずは語学力()とは無関係なところから指摘
raid in force>軍事用語ではないが、raidを軍事用語と解釈して
軍事的な意味を持たせている。
raidの説明にsecureがある>このsecureは一般用語
明らかにおかしいだろw普通なら「軍事用語の解説に出てくる用語
が単体で軍事用語として存在するなら、その用語も軍事用語の意味
を採用する」のが当たり前だ。一例としてArmor Divisionという用語で、
Armorを一般用語と解釈するのは明らかに誤りなのと同じ。

>en force
何故「強行に」という、普通に威力偵察に合致するような(威力偵察は
「強硬手段による」偵察)訳語を避けて、自分の都合がいい方の訳語を
採用するのかなぁwそもそも>>108をスルーしている時点で、反論でき
ないんじゃなく、言ってる意味が分かんないんだろうなぁ。このレベルの
人が他人に「乏しい語学力」とか言ってるのか。
ちなみに、あくまで推測だが
>en forceを仏和辞書で引くと「大勢で」と出ている。
って、どこぞの英語文献から「原語はフランス語の〜から」ってところを
コピペして、それでヒットしたところを使ってるんだろう。だってトップに
出るところが「大勢で」しか例示していないんだもん。(厳密にはトップ
ではないが、本当のトップはエラーで繋がらない。)
普通の辞書(笑)

115 :二代目軍事虫w:2009/12/10(木) 00:04:16
>111
「統合」参謀本部なんて訳す時点で軍事知識皆無なのはさておくとして、
俺がせっかくトーチだけではなく「ジムナスト」までヒントを出してやって
たのに、なんでトーチ作戦成立の概要すら調べようとしないのかねぇ。
それとも何か?君にとってシェルブールは欧州ではなくアフリカであり、
従っていかに「アメリカがシェルブールへの上陸を主張したが、イギリス
との妥協によりアルジェリア〜チュニジアに上陸することになった」と
いう経緯があったとしても、全てアフリカの話であり「欧州への上陸を企図
した作戦とは無関係」なのかな?
まさか、あそこまで他人を馬鹿にしたんだから、この辺を知らないわけ
ないよな?


116 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 00:57:08
>>97
>((至元十一年)冬十月、その国に入り、これを敗(やぶ)る。しかるに官軍整わず、
 又た、矢盡き、惟だ四境を虜掠して帰る。)
「その国に入りこれを敗ろうとしたが、官軍は整わず、また矢が尽き、ただ四境を
虜掠(りょうりゃく。かすめうばう、人をとりこにし財物をうばう)して帰った」

日本版と中国版にこんなに文章内容に隔たりがあるとは知らなかった。史料的には中国版の方が正しいの?

117 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 01:16:10
>>112
既に指摘されているけど、Combined Operations Headquatersは統合参謀本部なんか
じゃないよ?統合はjointであり、複数の軍種、つまり陸海空軍の指揮系統を一つ
にまとめて運用する事なんだわ。Combined Operations Headquatersは「連合」作戦
司令部であり、「連合作戦」とは「複数の国家の軍隊の指揮系統を統一して行う」
作戦なんだよ。つまり、ここでのCombined Operations Headquatersとは、米英の
連合作戦に関する部門なんだね。よって
>「陸海共同の部隊を用いる急襲(raid)によって欧州大陸の独軍に脅威を与えるため
>の、British War Officeの一部門」
てのは、明らかに著者の誤りか誤訳かのどちらか。敢えてどちらとは言わないけど。
てか、そもそも「連合」じゃなければ、米側が英側に「命じる」事なんてできないん
ですけど。軍隊における命令ってのは、君が考えるより遥かに重いものだ。

118 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 01:22:52
>>117
コピペ場所間違えた。combined chiefs of staffは「統合」参謀本部なんかじゃないよ?だね。
まあ大勢に影響はないが。いずれにしても陸海空軍の「統合」はjointであり、combined
は使わないからね。

119 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 02:36:05
>>102
「企図の秘匿」のための襲撃、あんたが自分自身で例を挙げてるじゃんw
ノルマンディーでも行われたし、比較的最近では湾岸戦争とか。
「我の主攻正面がどこなのか」の企図を秘匿するための襲撃。
あんたのこじつけよりよほど整合性あるわw

120 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 02:40:45
>>116
訳者の解釈の違いかなあ?

121 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 05:30:59
>>116
勿論、百衲本とかの明代の『元史』原本だと句読点とか打ってないので、見た感じだと
訳者・校訂者の解釈で両方読めそうな雰囲気。

「入其國、敗之」に続く「而官軍不整」の「而」が順接の「しかして」なのか
逆接の「しかるに、しかれども」と取るかがネックで、そこで解釈に違いが出る。
漢和辞典を調べても分かる通り、「而」は順接・逆接両方使うので、原文でも
取り用に依っては両方解釈出来る感じ。

個人的には、本文の文意が岩波文庫版的な解釈で正しい場合、本文の「敗之」の前に「将」を
入れて、「将(まさ)にこれを敗らんとするも、官軍整わず(将敗之、而官軍不整)」
みたいな言い方をしてはっきりと「敗ろうとしたのだが、官軍は整わず〜」的な
書き方をすると思うので、中華書局版の方がどちらかというと妥当な気がするけど。

>>120
まさにそんな感じだと思う。

122 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 09:32:54
>>117
>Combined Operations Headquatersは統合参謀本部なんかじゃない

>>111をちゃんと読んでくれ。私が「統合参謀本部」と訳したのは
Combined Operations Headquatersではなく、Combined Chiefs of Staff だ。
これは>111にも書いたように、米軍と英軍の参謀本部が合体してできたものだ。
この場合のCombinedは君の言うように複数の国家の連合だから、君の訳語が
正しいと思う。「連合参謀本部」でいい。

しかし、Combined Operations Headquatersは違う。
これはチャーチルじきじきの指示で生まれた、British War Officeの下部組織だ。
そのこともちゃんと>111に書いている(チャーチルは別として)。
この組織ははじめから上陸作戦とレイドに特化しており、そのために海軍と
陸軍の部隊を一体的に指揮する。君の言う異なる軍種間の「統合」だ。
だからCombined Chiefs of StaffのCombinedとは意味が違うのだ。
こちらのほうがかえって「統合作戦司令部」でいいかも知れないね。

>「陸海共同の部隊を用いる急襲(raid)によって欧州大陸の独軍に脅威を与えるため
の、British War Officeの一部門」てのは、明らかに著者の誤りか誤訳かのどちらか。

上に述べたように、誤訳でもなんでもない。Combined Operations HeadQuartersで
引いて見て。英文ウィキもあるし(上記はそのウィキの文章)、他に次の
ページもある。
http://www.encyclopedia.com/doc/1O129-CombinedOperations.html

私も、最初は君と同じようにCombined Operations Headquarters の、一見
普通な字面から判断したから原文の文意がつかめなかった。
Combined Chiefs of Staff から、Combined Operations Headquarters に
対して、レイド作戦検討の指示が出されたのだ。前者が後者の上位にある。

123 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 09:44:59
>>119
>「企図の秘匿」のための襲撃

作戦目的を伝えるのにinformationを「企図」と訳しているようでは、
その襲撃部隊ははじめから負けているな。
戦争では命令を正確に伝えることがまず必要なんじゃないか?

>>114
なんでもいいから、raid in forceに対して君が考える訳語を
示してくれ。
ちなみに私の訳語は上に書いたように「威力急襲」だ。

124 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 11:02:50
>>652
よく、対馬の領主が朝鮮の官位を持ってた事を理由に
対馬が日本と朝鮮の両国に属していた
と主張するバカがいるがとんでもない話だ。
あくまでも
日本の中央政府=本社
対馬=支社
朝鮮=取引先
なわけで。
対馬の領主宗氏は元々は小弐氏の家臣だし
朝鮮が攻めてきたときは300ばりの活躍で撃退してるが
秀吉の九州征伐ではあっさり従った上
唐入りの時は日本の正規軍として参戦。
朝鮮に属していた事実はどこにもない。

125 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 11:03:59
すまん誤爆

126 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 13:09:01
威力偵察厨の理解不能な行動


何を思ったか、日露戦争における威力偵察の例を挙げる。



論破されると、「今と昔では威力偵察の意味が違う」と言い逃れ。



先の自分の発言を忘れたのか、第二次世界大戦の威力偵察の例を持ち出す。



結局フビライが指示したという証拠はナシ

127 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 16:15:44
>>118
>いずれにしても陸海空軍の「統合」はjointであり、combined
>は使わないからね。

言葉の使い方はよく言えば寛容、悪く言えばいい加減だ。
>>122で説明したCombined Operations Headquartersは英国で初めて
陸海軍を「統合」した司令部であったことが特筆されているが、
jointではなくcombinedを使っている。

また、かの「連合艦隊」は国家間でなく、異軍種間でさえなく、
単に同じ国の艦隊を合わせるに過ぎないのに、「連合」を使っている。
その英訳はいみじくもCombined Fleetだ。

128 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 16:54:08
いいからはやく>>7-9に答えろよ

129 :日本@名無史さん:2009/12/10(木) 22:52:55
>>127

>>7-9に答えられず、詭弁で逃げ回る
無様だなwww

130 :二代目軍事虫w:2009/12/10(木) 23:43:16
>>122
明確に違う。
>Combined Operations Headquatersではなく、Combined Chiefs of Staff だ。
>これは>111にも書いたように、米軍と英軍の参謀本部が合体してできたものだ。
この時点で既に誤り。連合軍参謀本部(Combined Chiefs of Staff )と両国JCS
メンバーがダブってるので誤解されやすいが、これらはパラな存在というか、
両国JCSの調整機構的意味合いしかない。従って、Combined Operations
HeadquatersにCombined Chiefs of Staffが指示した、という部分だけで、既に話が
破綻している。Combined Chiefs of Staffが指示したんなら、それはCombined Chiefs
of Staffの下位組織たるCPSあたりになるしかないし、Combined Operations
Headquatersに指示するなら英国JCSになる。(第二次大戦時点では、Combined
Chiefs of Staffから直接関係国独自の下位組織に命令する権限はない)
よって、Combined Chiefs of Staffから指示が出た、という部分を重視すれば、これは
トーチ作戦に関する検討を(つまり、米英両者の案に関する検討)指示したものとしか
言いようがないし、逆にCombined Operations Headquatersに指示という部分を重視
するなら、これは英国独自での話と解釈しなければならない。

>Combined
これがJoint的意味合いで使われるのは同一軍種内での「協同」の場合であり(例を
挙げればCombined Armsや、いみじくも君が言っているようにCombined Fleetのように)
かつ「英国で初めて」陸海軍を統合した司令部、という部分も、JCS(正確にはその前身)
がアメリカの後を追うように英国でも1930年代後半に誕生している時点で極めて怪しい
としか言いようがない。

131 :二代目軍事虫w:2009/12/11(金) 00:05:52
続き
もし仮に「Combined Operations Headquaters」と「raidによって欧州大陸
の独軍に脅威を与えるための、British War Officeの一部門」 という
部分を結びつけ、そこに統合の意味合いを付け加えるなら、これは主客が
転倒していて、「連合作戦を行う部隊」がまずあり、そこが「英国で初めて
統合作戦を実施することになった」という解釈をせざるをえない。
根拠としては、ジュビリー作戦にはアメリカ軍が参加をしているという点。
つまり、これは歴とした「連合作戦」であり、連合作戦を実施する部隊の
HeadquatersがCombinedを名乗っているなら、それは「連合」という意味で
解釈せざるを得ない。実質的に隷下部隊を持たないHeadquatersが出てくる
のはもう少し後になってからだ(Tailor Made Methodの誕生とほぼ前後して)

132 :二代目軍事虫w:2009/12/11(金) 00:26:11
ついでだから、>>108の解説もしておくか(俺が書いた訳じゃないし、
もしかしたら>>108の意図と違うかもしれんが)
>歩兵以外は全て砲兵
砲兵artilleryの語源はフランス語のartillerieだが、これは古フランス語
のatillier(装備する、支度する)にラテン語のars(学問、技術)がくっつ
いたものであり、元々「砲兵」と言うよりは「特殊装置の準備をするもの」
または「特殊な装置を装備したもの」といった意味合いで使われて、
現代で言う工兵的任務が含まれていた。つまり、旧日本軍での特科に
近い用語なんだな。

何が言いたいか(と言うか、多分>>108が言いたかったこと)は、語源に
拘泥するのは馬鹿げてる、って話かな。まあen forceの意味に「強行に」
ってのがあることをスルーしている時点で、この話しても意味がないが。

ところで、何の話でここまで来たんだ?まとめておくか。

文永の役は威力偵察>根拠:威力偵察は大規模の部隊で行うものだから&
主力がそばにいなくても行うものだから

前者の例はことごとく反論され尽くしたと思うし(en forceの「強行に」を故意に
見なかったことにしているところからも)「主力がいなくても行う」には、secure
の時点で他の部分の諸々吹っ飛ばしてると思うし。

むしろ、文永の役は(威力偵察の意味を含まない用法での、というか一般用語
での)raidであったから、って方が、よほど説得力があると思うんだけどなぁ。
>>96なんかは、現代戦で言うところでの「懲罰的航空攻撃」に近い戦理に
基づいた行動だし、航空機の存在しない時代にそれを行うと、その様態は
raidになるだろうし。

133 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 02:05:12
>>132
確かに、>>96的考えで行けば威力偵察説よりはよほど説得力
があるけど、問題は「元≠大モンゴル帝国」と言う点と、この時代に
至っては攻城戦能力が向上したこともあってか、元の軍事行動
には「あくまでも敵を屈服させる」という傾向が強いこと、フビライ
の政策は農耕民族的であり、富の収奪のみならず土地の占有
意識が強いこと、なんかの視点が欠けているような気がする。
中華思想的に考えて文永・弘安の役両方とも「鷹懲」の意味合い
が強く(フビライが中華思想に傾倒していたのは異論がないと思う)
「相手から頭を下げてきた」という実績がないと、目的を達成したとは
感じなかったんじゃないのかな?
これは、宣諭師の派遣前から蛮兵の高麗への移動、1275年1月
の段階で既に高麗に造船等を命じている点(高麗史世家の金方慶
の請願)なんかが傍証になると思う。

134 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 05:02:25
>>133
ちと横槍になるかもだが、
クビライの政策が、特に「農耕民族的であり、富の収奪のみならず土地の占有意識が強い」
という訳ではなく、チンギス・カンのウイグル方面や金朝の中都接収以後の政策や、同じく
ホラズムシャー朝崩壊後のマーワラーアンナフルの統治政策、オゴデイによる以降の
華北経営などを見る限り、基本的にモンゴル帝国は穀倉地帯に対しては積極的に農耕や
蕪荒地開拓を行っていて、クビライの政策などもその延長線上にある。

モンゴル語で「くに」を意味する単語が主に「人間集団」を念頭においた「ウルス」で
表現されることから、「土地の占有意識」が希薄のようにも受け取られやすいが、
遊牧民の「国家経営」は「(遊牧する)人民」+「放牧地域」なので、王族や諸侯たちも
どう言った所に本拠地や采邑が封じられるかは結構問題にしていた。彼らも先祖伝来の
放牧地の確保は割と意識していて、例えばティムール朝時代でもチャガタイがチンギス・カンから
拝領されて以来の本拠地、イリのあたりの領有はチャガタイ家のモグーリスターン王家なんかは
割とこだわっていたりする。農耕地域のそれと同じとは言えないだろうけど、遊牧民でも
「先祖代々」的な「土地の占有意識」は結構ある。

> 中華思想的に考えて文永・弘安の役両方とも「鷹懲」の意味合い が強く(フビライが中華思想に
> 傾倒していたのは異論がないと思う) 「相手から頭を下げてきた」という実績がないと、目的を
> 達成したとは感じなかったんじゃないのかな?

チンギス・カンの時代から、「『相手から頭を下げてきた』という実績がないと、目的を達成した
とは感じな」いというのは外部政策の基本方針で、その後もオゴデイ〜モンケの時代でも
自らのオルドで相手政権の当主やそれに準ずる王族たちと直に接見して、帰属の言質を得ることは
モンゴル帝国の政策というか習慣としては基幹的なもので、クビライの場合も対馬の弥二郎たち
みたいに直に接見させたりと、その行動はチンギス以来の歴代のモンゴル皇帝たちの様式と
全く同じ。なので、クビライが文永・弘安の役の前後にも、外征を交えつつ日本からの使者の接見に
こだわっているが、これらの行動もモンゴル帝国の皇帝としての振る舞いの範疇に収まる。


135 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 05:05:05
>>134の続き。
「文永・弘安の役両方とも「鷹懲」の意味合い が強く」というのは多分そうだと思うが、これらは
『元史』などの文脈だとクビライの所作は「中華皇帝」的なものと理解出来そうだが、基本的に
クビライ以前のモンゴル皇帝たちの方式や所作から逸脱しないし、むしろそちらが主体。

チンギス時代からモンゴル帝国としての政策を漢語や中華的な文化様式に合わせた施行をしており、
クビライ自身も「大蒙古国皇帝」と名乗っているように、「モンゴル皇帝」であることを第一と
していた。彼らは中華的な文化を触れたり、「漢地」に対して「中華」的な政策を行っているが、
それらはクビライも含めて「モンゴル帝国としての政策」を「中華思想」的な文脈に置き換えて
文書の発令などを行っている、とモンゴル帝国の政策全体から判断される現在の研究では
理解されている。

クビライはモンケの治世に京兆府(長安)から中都に派遣され、中都(今の北京)や上都開平府
あたりが本拠地となったが、1250年代までは京兆府にいたことから、恐らくそれまでずっと
漢地のトルイ家領を領国としていたと思われ、その後も大元朝成立に至るまでずっと漢地経営に
携わっていた。クビライの頃に漢文での命令文形式がある種のフォーマット化が進展したようで、
(それまではモンゴル帝国共通の命令文形式の漢文変換は多くあったが、変換方式は固定化まで
 行っていなかった。)南宋遠征も相まってクビライの政策には「中華」的な色彩が強そうだが、
これはクビライの領有している地域が「漢土」全域+モンゴル帝国東部なので、ある意味
地域的な必然と言え、クビライ個人や政策に「中華思想に傾倒していた」と言い切れるかは
実際には微妙なところだったりする。

(クビライが『孝経』のモンゴル語訳を作らせたりしているので、中華的な文化にも感心がかなり
高かったのは確か。ただ、もともとモンケらとともに幼少からイラン系の官僚たちからペルシア語
文学などの手ほどきを受けていたようで、モンケの政策を受継いで回回司天台建設に前後して
(多分アラビア語)プトレマイオスなどの天文学関係の書籍を収集させたりとペルシア語や
アラビア語などの西方の文物にも感心が高かった。)


136 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 05:26:10
この人はせめて句点で改行するクセつければだいぶ読みやすくなるんだが

137 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 05:46:14
>>135の続き、という程でもないけど、
>>133
> 元の軍事行動には「あくまでも敵を屈服させる」という傾向が強いこと、
これもモンゴル帝国の軍事行動や政策としては一般的だったりする。
勿論、族滅的な討伐も色々伝えられているが、服従してモンゴル帝国の宗主権を認めれば
それで良しとする場合もかなりある。無論、高麗がそうだったように、服従すると原則的に
帝国の行う軍事行動への随伴や、それらの遠征などへの物資の供出を課されたり、大体の
場合、代官であるダルガチが国内に赴任したりするけど。

あと、前スレの>>932でも触れたが、文永の役が「威力偵察」だったと言っているのは
主に杉山正明先生だが、杉山先生は明確な論拠を上げていないものの、十中八九、
>>132で触れたような「モンゴル帝国の軍制、特に探馬赤(tammaci)などと称される、
モンゴル帝国の境域地域に派遣・配属された鎮戍軍の性格や軍事行動に基づいて」、
その行動様式を現代風に表現して「威力偵察」と言っているに過ぎないと思う。

なので、現代の軍事用語である「威力偵察」の意味でこだわる必要はなく、飽くまで
「モンゴル帝国の軍の行動様式」一般と、高麗近辺諸軍の特徴を踏まえつつその動向の
分析に基づいて、そこから、文永の役の時の派遣軍の性格を理解した方が妥当だと思っている。
(ただ、そこまでモンゴル帝国〜大元朝の政治動向や軍事行動の様式、高麗近辺諸軍の特徴、
 外交スタイル etc.を満遍なく見通して文永の役や弘安の役を分析した人は、残念ながら
 まだ居ないようだけど。近いことをやった人なら何人かいるものの。)


138 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 06:09:32
>>136
それはすまんかった。
長文を打ち込む時は、4、5〜8行前後でなるべく横いっぱいに収まるように、
文節ごとに切り詰めて改行する癖がついているので、自然とこうなってしまう。
余程読みにくいというのであれば、可能な限り善処するつもり。


139 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 08:49:55
>>130
>かつ「英国で初めて」陸海軍を統合した司令部、という部分も、JCS(正確にはその前身)
>がアメリカの後を追うように英国でも1930年代後半に誕生している時点で極めて怪しい
>としか言いようがない。

「英国で初めて」の部分に重点を置くことによって「陸海軍を統合した」
に煙幕を張っているな。初めてであろうとなかろうと、後半部分がcombined
で表されていることに変わりはないではないか。

>>133
>むしろ、文永の役は(威力偵察の意味を含まない用法での、というか一般用語
>での)raidであったから、って方が、よほど説得力があると思うんだけどなぁ。

一般用語でのraidってどんな意味?

140 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 14:30:52
>>137
つまりそもそもな話、そんな誤用をしなければよかったって結論になるよね


141 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 16:34:47
>>130
>Combined Operations Headquatersに指示するなら英国JCSになる。

それでいいではないか。Combined Chiefs of Staffが米国のJCSと、英国の
BCS(註1)とから成るのだから、BCSからの指示はCCSからの指示と同じ
ことだ。

註1:英国のJCSというのはない。あるのはBritish Chiefs of Staffだ。

しかし君があくまで英国独自だと言うならそれでも構わない。例の指示が
どこから出されたかよりも、どこに対して出されたかの方が重要だ。
例の指示が、レイドと上陸作戦(の技術開発)を専門とするCombined Operations
Headquartersに対して出された、ということには最早反対していないようだな。

>>131
>「連合作戦を行う部隊」がまずあり、そこが「英国で初めて
>統合作戦を実施することになった」という解釈をせざるをえない。
>根拠としては、ジュビリー作戦にはアメリカ軍が参加をしているという点。

なるほどこれが、君がCombined Operations Headquatersの何たるかを知らなかった
ことの負け惜しみか。強引もいいところだ。
ディエップ急襲作戦にには米軍はオブザーバーしか参加していない。これで
「連合作戦」とは、アメリカ人でも恥ずかしくて言えないだろう。

つけ加えるが欧州上陸作戦を計画した英国側の組織はBritish Combined Commanders
と呼ばれ、マウントバッテン卿の下に陸軍、海軍、空軍の上級将校がいた。
異軍種間の共同を表すのに、英国はcombinedを使い、米国はjointを使う傾向が
あるのではないか?
言葉の使われ方はそれほど固定的なものではないし、英国と米国の違いもある。

142 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 17:14:45
壁貼りしてないで>>7-9に答えたら?
みっともない

143 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 17:44:44
>>131
続きだが、軍事虫(軍事虫モドキ?)くんは、せっかく私が紹介したCOHの文献を
読んでいないのではないか?

軍事虫モドキくんによれば、「連合作戦」が先にあった、つまりCOHは連合作戦の
名の下に統合作戦を行った、と言うのだが、Combined Operations Headquartersは
米国との「連合」が始まるはるか以前から存在した。

チャーチルはダンケルク撤収の直後、1940年6月にすでにレイド作戦の方針を示し、
アラン・ボーンという海兵隊准将をそのためのトップに任命してCommander of Raiding
Operations on coasts in enemy occupation, and Adviser to the Chiefs of Staff
on Combined Operationsという長たらしい肩書きを与えている。このときすでに
combined Operationsという言葉が使われている。

ボーンは同年7月に更迭されてキースという海軍提督が任命され、その肩書きは
Director of Combined Operationsであった。彼はCombined Operations Headquarters
を設立し、さらにCombined Training Centreを設立した。

Combinedの氾濫だ。
このように、Combined Operations Headquartersは1940年7月から存在し、その
任務ははじめからレイド作戦であった。

144 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 18:19:13
軍事厨はいいかげん軍板の元寇スレにでも移れよ

145 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 18:20:02
偵察厨にいえよw

146 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 18:20:48
壁貼りしてないで>>7-9に答えたら?
みっともない

147 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 19:20:07
>>143
訂正:
海兵隊准将 → 海兵隊中将

148 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 19:43:17
歴史を研究するにあたって、最も避けねばならないことって現代の「常識」
とか「通例」を過去にあてはめることなんだよね。
原始人が交易網を持っていたはずがないって定説が70年代に覆されたし。

当時威力偵察があったかどうかもわからないし、向こうの文献にもそういう
考えや意図が見受けられないならどう考えても無理があると思うんだが。

149 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 22:55:37
>>143
これを書いたら軍事虫三号に指定かな?
Combined Chiefs of Staffの成立は1938年です。まあこの
名前になったのは1942年だが。ソースは統合軍参謀マニュ
アルの第1章から。これは米統合幕僚学校の教育用テキスト
だから、文句は米統合幕僚学校に言ってくれ。

150 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 23:05:04
>>149

          ____
       / \  /\  キリッ
.     / (ー)  (ー)\
    /   ⌒(__人__)⌒ \          <Combined Operations Headquartersは
    |      |r┬-|    |            米国との「連合」が始まるはるか以前から存在した。
     \     `ー'´   /
    ノ            \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))


151 :149:2009/12/11(金) 23:10:28
ついでに、ジュビリー作戦に参加した米軍兵力は
1コ大隊なんだが。これがオブザーバー?
ソースは近代戦争概史別冊から。

152 :149:2009/12/11(金) 23:19:13
連続ですまんけど、>>130もソース元は
統合軍参謀マニュアルじゃねーかな?
この本、英軍のもJCSって表記してるから。

153 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 23:43:30

          ____
       / \  /\  キリッ
.     / (ー)  (ー)\
    /   ⌒(__人__)⌒ \          <en forceを仏和辞書で引くと「大勢で」と出ている。
    |      |r┬-|    |            偵察を大兵力でやるのがreconnaissance in force
     \     `ー'´   /            なのだ。普通の辞書でいいからまず引いて見てからにしてくれ。
    ノ            \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

※普通の仏和辞典ではen forceの意味として「強行に」が出てくる。よってreconnaissance en force
は「強行偵察」ぐらいが正しい意味



154 :二代目軍事虫w:2009/12/11(金) 23:47:34
>>141>>143
分かった分かった。
まずお前のやることはな、別の所にスレたてて>>141>>143貼って
俺をそこに誘導することだ。そこでならいくらでも相手してやるから。
俺もお前も迷惑なんだよ。俺は規制で無理だったのでよろしく。

すまんね、皆さん。ここでのレスはもう控えます。

155 :日本@名無史さん:2009/12/11(金) 23:58:34
>>137
レスが膨大なんでここにリンクするけど、元というかモンゴルの
鎮守軍が周辺諸国を服属させる様態に関してちょっと疑問
が付くような気がする。
いや、疑問と言うよりは「引くときの有りようにもある程度の区分
が必要なのでは?」って意見というか。

>城塞などの軍事拠点を陥落させるなどあまりしないので
とか
>現地に長く留まったりせず
に関して、そのときの余力はどうだったのか、あえて近代戦術
の用語を持ち出すと「攻勢限界点に達していたのかどうか」を
考慮する必要があると思う。

156 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 00:11:55
>>155の続き
「攻勢限界点に達する」要因は色々あるけど、総じて言えば
相対戦闘力上優勢を保てない、に尽きる。兵站の問題にしても、
兵站という概念自体が「戦闘力の維持増進」にあるから、極端な
話、例え兵站が尽きかけても(「矢尽き」の状態)「相手がそれ以上
に疲弊していて相対戦闘力の優越を確保できるなら」攻勢限界点に
達したとは言えない。
もっと簡単に言うと「まだ行けるけど止める」のと「もう行けないから
止める」のは、根本的に差異があるって事かな。ここまでは戦術
云々以前に常識として納得して貰えると思う。

で、ここからがかなり異論が出ると思うが、「まだ行けるけど止める」
の場合は、基本的に「勝ち」と認識していいと思う。例えこれで相手が
屈服しなくても、これは「政治的な目的を最終的に達成する」ための
「軍事的目的・目標」の選定誤りであり、どちらかというと政治的失敗
に属するからだ。

157 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 00:32:17
>>156続き
問題は、「もう行けないから止める」場合の話。
鎮守軍は「現地に長く留まったりせずに」の部分から
類推するに、「攻勢限界点に達したら下手に防勢転移
せずに後退行動に移る」と言っていいかと思うが、
これを「予定通りの行動」と言うのは果たして適切か、
と言うこと。
もちろん、常用戦法の観点から言えば「予定通り」に
なるんだろうが、軍事のための軍事は存在しない、
つまり政治的目的・目標の達成という観点から捉え
れば、「現在までの成果で政治的目的・目標は達成
しうると元軍が考えていたかどうか」にスポットを当て
ないと駄目なのではないかと思う。
つまり、「(至元十一年)冬十月、入其國、敗之。
而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸。」 の部分で、
「これを敗(やぶ)る。」と解釈したとして、その時点で
政治的目的・目標を達成したから帰ると決心したの
なら、「又矢盡」という言葉が出てくるのが不自然では
ないのかと。

158 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 00:46:23
>>157
「又矢盡」と言うことは、つまり兵站上の問題が
話題として(例え本題ではなかったとしても)
上がったと言うことで、「これ以上の戦闘力発揮
は兵站上難しい」という判断、もっと言うと「これ以上
戦ったら決定的敗北を喫する」という見積がなければ
出てこないのではないかと。つまり、元には自分たち
が攻勢限界点に達しつつあり、かつ日本にはまだ余力
がある、という認識がなければいけないと思う。
そういう状況下で、果たして政治的目的・目標を達成
したと「判断」したのか疑問が残るんじゃないんだろうか。
(一応、文献には出てこなくても、人間の心理として
「やばいな」って時には自分を偽って「成功だ」と言う
場合がある、という部分も含みおいて考えると)

而官軍不整には触れなかったけど、まあこれはタンネン
ベルクの時のロシア軍みたいな感じと考えるべきかな
と言うことで。

なんか長々と失礼。本当は「文永の役後の、元の対日戦
準備状況」も含めて「目的を達成したと考えた」かどうかも
書こうと思ってたが、長くなりすぎたんで今日はこれで。

159 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 01:15:37
なげーよ!と言おうとしたけど、実は案外重要な視点かも。
シンガポールの山下将軍の「イエスかノーか!」も、あれは
「もうやめて!日本軍のライフはもうすぐ0よ!」な意味だった
って本人の述懐もあるし。傍目と内実の違いは考慮せにゃならんわな。
ただ、元の余力がどうだったかがイマイチわからんな。

160 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 01:21:27
一応、上は快勝に見えて実はギリギリの例で、他に勝ったつもりで
全然勝ってなかったのが南京かね。
これで十分だろと思って余力残して引いたけど、相手は応えて
なかったって例は思い浮かばないな。

161 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 08:41:01
>>154

>>141 >>143
>分かった分かった。
>ここでのレスはもう控えます。

遂に白旗を掲げたな。

>>117で:
>つまり、ここでのCombined Operations Headquatersとは、米英の
>連合作戦に関する部門なんだね。

と知ったかぶりしてしまった軍事虫モドキくんとしては、もはや
戦闘継続不可能であることはよくわかるよ。

162 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 09:16:45
>>151
>ジュビリー作戦に参加した米軍兵力は1コ大隊なんだが。これがオブザーバー?

これは私の間違いだった。確かに米軍は参加して、戦死者も出している。

ただし、兵力は1個大隊とはとても言えない。
1個大隊と言えば少なくとも500人だろうが、ディエップに参加した
米軍は陸軍レンジャーの60人(一説に50人)で、戦死者は3人だった。

163 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 10:19:49
>>152
>この本、英軍のもJCSって表記してるから。

http://www.jcs.mil/page.aspx?id=12
こういう資料もあるから読んで見たら?
正確にはBritish Chiefs of Staff Committeeだな。

これが先にあり、これに習って米国のJCSができたことがわかるよ。

164 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 13:52:48
長々と無意味な議論してるな。
博多に上陸した元軍が僅か1日の戦闘で撃退され、1万3500名もの人的損失を被ってる以上、
文永の役の目的が威力偵察だろうが武威の示威だろうが元軍の作戦は失敗、大敗北だから。

165 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 17:37:16
>>160
支那の情報操作ってほんときもいよね
http://www.youtube.com/watch?v=bRVCn1M-8MA

166 :日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:27:49
>>155-158
以前から関連スレでも話題になっていた『元史』日本伝のこの「又矢盡(「又た矢が尽き)」が
どういった内容のものだったのかが焦点になりそうだが、レスを書いている途中でブラウザが
落ちたのと、この部分を扱った蒙古襲来関係の研究書のひとつが、けっこう杜撰な文献引用の
仕方をしていてページをめくるごとに頭を抱えながら読んでいたせいで大分気力がダウンしたので
「又矢盡」についての考えももうちょっとしてからしようかと思う。

あと、しばらく前から話題に上がっていたジャワ遠征についても比較対象として調べていたんだが、
これのまとめももうちょっと掛りそうなので、それの話しもまた後にしようかと思う。

167 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:09:14
>>166
元軍は何年も前から文永の役のために準備してきたわけで、まともに消費しただけでは、
どんな激戦でも僅か1日で矢が尽きるわけない。
元軍は自分たちで武器や鎧を捨てちゃったから、矢が尽きたんだよ。
ちゃんと『高麗史』に書いてある。

『高麗史』巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王6年
「又た、昔、東征の時に於いて、五千三百軍の齎去せる衣甲・弓箭は、多くを棄失するあり。
僅かに収拾するを得、府庫に頓えしも支用に堪えず。」

潰走する敗残兵が少しでも身軽になろうと武器や鎧を捨てるのは戦場でよくあること。
これで疑問氷解だな。

168 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:15:40
>149を華麗にスルーする威力偵察厨w

169 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 01:13:56
>>161
いいから余所でスレ立てしてやれよ。
これ以降ここで続けたら、むしろお前の方が「これ以上続けたら
反論できなくなるからスレ立てて移動出来ない」って判断する。

170 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 03:23:15
>>164
前スレで文永の役をガダルカナル撤退戦になぞらえて見事なんてレスがあったが
文永の役は例えるならガダルカナルから撤退しようと船に乗り込んだら、船が難破してほとんど死んだだからなあ。
確かにどんな理由で死んだにせよ、生還者の数みたら見事なんてお世辞にも言えんよね。

171 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 09:39:49
>>168
これは組織名の話だから、1938年になんという組織ができたのか、示すのが
先ではないか?



172 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 09:47:51
>>167
別の所を見ると、戦争で使った武器類は、戦争が終わった後に返納する
ものだったらしいな。

で、ここは「5300人の軍隊が携えて行った武装や弓矢は、大部分
(海難で)海に抛ったり、船と共に沈んだりして、失われました。
わずかに回収した物も(水に浸かったりして)使用に耐えません」

と言うのではないか?

173 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 10:01:29
>>172
それは「棄失」じゃないじゃん。
「棄失」ってのは自分から捨てて失うってことだよ。
ようするに、生還できたのは武器や鎧を捨てて身軽になった兵だけで、その他は逃げ遅れて戦死したってこと。

174 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 11:50:20
>>173
海に落ちれば重くて水を吸う綿甲を脱ぎ「捨てる」
船が浸水すれば軽くするために積み荷を海に「捨てる」
「捨てた」結果「失われる」

175 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 12:12:12
>>174
綿甲を着たまま海に落ちれば脱ぎ捨てるまえに溺れ死ぬから。
そもそも航海中に無意味に綿甲を着てるわけないし。
僅か1日で敗退。
戦死行方不明13500人。
上陸付近にある博多や大宰府など主要施設は全く手付かずのまま。
あきらかに元軍ボロ負けじゃん。
元軍の幼稚な戦術は鎌倉武士に通用しなかったんだよ。

176 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 15:43:30
>>175
この文章が書かれた状況を考えろ。
この文章は、忠烈王が元の中書省に使いをやって提出した、なるべく高麗の負担
を軽くしてくれるように頼む哀願状のなかにある。
ここでは(本来は高麗が兵士から回収しているべき)弓矢等がほとんどないから、
新たに元から支給してくれるように哀願しているのだ。

そんな状況で、弓矢の不足をじぶんの責任になりそうな陸上での敗戦
(敗戦していればだが)のせいにするよりも、この時代にあっては不可抗力
な海難のせいにする方が、自然ではないか。

また元側も当然そのように受け取っただろう。

177 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 16:18:23
>>176
で、現実にこの文章は弓矢の不足を海難のせいなんてしてないじゃん。
元側も海難のせいなどと受け取ってないというのは、元史で海難に一言も触れていないことからも明白。
そもそも、元史に撤退理由として「矢が尽きた」と書いてるんだから、元側も当然敗走する時に武器や鎧を
棄失したって分かっていたということだろ。

178 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 16:23:22
どっちにしろ人も物も帰って来なかった結果の哀願状だからな。
書いた側は失った原因が戦闘だろうと嵐だろうと、これだけの物が戻って来なくて負担ですってのが書きたかったんだろ。

179 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 16:27:53
>>178
>人も物も帰って来なかった結果

この部分は間違ってる。
武器や鎧を棄失した兵は帰って来たって認めてるんだから。

180 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 16:37:51
>>179
そうなると立場的に元軍敗退し、なんて書けるわけないから、遠回しな表現をしたって事かな。


181 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 16:45:32
>>175
> 上陸付近にある博多や大宰府など主要施設は全く手付かずのまま。
大宰府には蒙古軍は行かなかったらしいが、博多周辺の聖福寺、承天寺、
筥崎八幡宮、香椎宮、住吉社などの主だった社寺は軒並み文永の役の時の
兵火で罹災しているとかじゃなかったか?

182 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:00:33
>>181
文永の役で博多が兵火で罹災したなんて記録はないよ


183 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:18:59
>>177
>現実にこの文章は弓矢の不足を海難のせいなんてしてないじゃん。

陸上で捨てたとも言ってない。

>元史で海難に一言も触れていないことからも明白。

高麗史では触れている。

>元史に撤退理由として「矢が尽きた」と書いてるんだから

弓が尽きたとは書いてない。

184 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 17:28:41
>>183
無理過ぎ。

185 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 18:33:19
>>182
筥崎八幡の社官が書いたらしい『八幡ノ蒙古記』に文永の役の時に
筥崎八幡宮が焼けたって出て来なかったっけ?
あと、これは後代の編纂だが洞院公賢(1291-1360年)が書いた年代記、
『皇代暦』(『歴代皇紀』)の亀山天皇の事蹟、文永十一年の段に
「十月異賊亂入壹岐對馬五日亡對馬 十五日亡壹岐云々 廿日筥崎社燒亡」
とあって、一応、文永の役の時に筥崎社が焼けたという記録自体はあるようだけど。

186 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 19:15:21
>>183
前にも書いたが、ここは忠烈王がフビライに対して、武器の補給を哀願して
いるところなのだ。

「我が高麗兵は日本兵に敗れて潰走するときに弓も矢も捨ててしまいました。
ぜひ補給をお願いいたします」と言ったならば、
「おまえの兵はそんなに弱いのか。それはおまえの訓練がわるいからだ。
弓矢がなくなったのはおまえの責任だから弓矢は高麗で作れ」
となりかねない。

「帰途の風雨はいかんともし難く、これによって多くの兵器が失われて
しまいました。ぜひ補給をお願いいたします。」と言えば、
「天災は仕方がない。補給してやろう」となる可能性が高い。

以上、見てきたような話。

187 :日本@名無史さん:2009/12/13(日) 22:32:42
>>185
筥崎八幡宮はただ火事の記録があるだけ。
そして博多が被災したという記録は皆無。

188 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 04:51:02
>>187
じゃあ、博多周辺での戦闘があって、しかも筥崎八幡宮の目の前の浜辺で
遠征軍が上陸して幕府軍が交戦してその当日に「筥崎八幡宮が焼亡した」
とあるのに関連性が皆無だと?

「博多が被災したという記録は皆無。 」と言い切るなら、単文レスで
済ませるんじゃなくて、間違いなく罹災していないと結論できるだけの
根拠を普通示すもんだが、そういうことはしないのか。

189 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 07:39:07
>>188
それは悪魔の証明になるぞ

190 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 08:34:21
>>167
>元軍は何年も前から文永の役のために準備してきたわけで、まともに消費しただけでは、
>どんな激戦でも僅か1日で矢が尽きるわけない。

これはまことにその通りだと思う。そして、その大量の矢は船に積んであった
わけだ。
それを考えれば、兵士が一日の携行分(20本ぐらいか?)の矢を陸上で
捨てたからと言って、矢が尽きるというものでもなかろう。

191 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 10:09:53
>>188
筥崎八幡宮の目の前の浜辺で遠征軍が上陸したなんて記録もないし。

192 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 11:26:02
>>191
燃える筥崎八幡宮の炎のなかから白装束のものが出て来て矢を射かけたから
蒙古軍が恐怖した、という話が日本側にあるが、
ということは矢の射程、つまり100mぐらいのところで蒙古軍が乗船中で
あったわけだ。
作り話だとしても、そのあたりに蒙古軍がいたという認識が日本側にあった。

193 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 11:46:43
>>192
それ、八幡ノ蒙古記の記述だよね。
その文献の信憑性はひとまず置いとくとして、白装束のものの攻撃受けた蒙古軍は
松原の陣から海へと潰走したと書かれてるんだよね。
博多と松原は10キロ近く距離があるから。

194 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 16:53:22
>>193
残念ながら「箱崎松原」という地名があり、箱崎神社から500mぐらいしか
離れていない。箱崎神宮に関連して語るからにはこちらの松原だろう。

195 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 17:12:42
>>194
残念ながら蒙古軍は今津から上陸して松原に陣を置いたと書かれており、
箱崎松原の可能性はない。

196 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 18:58:18
>>195
残念ながら今津は高麗軍(一説には洪茶丘軍)だ。
蒙古軍主力は箱崎、博多に上陸したという資料が多い。
箱崎はとうぜん、箱崎松原を含む。

197 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 19:10:18
この口調・・・威力偵察厨か

198 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 19:57:10
>>195
箱崎神宮には碇石があるが、この碇石は博多港中央埠頭付近で発見された
ものだ。中央埠頭と箱崎神宮は近い。
このあたりまで蒙古軍が来ていたという、「動かぬ」証拠。

199 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 19:57:15
>>189
> 悪魔の証明
いや、そうじゃない。

「博多が文永の役の兵火で焼亡した」という認識は割と見られる訳だから、
例えば博多周辺の発掘調査とか社寺の記録を見て回って、古記録や考古学的な調査を見ても、
兵火で罹災したとは思われないような雰囲気だったら
「従来罹災したとされるが、現在までの調査報告や資料上の内容から判断して、13世紀後半、
 文永の役の時期に博多が兵火で被害を受けたという確実な証拠は見付けられない」とか、
「このように、無かったと考えた方が、あったと見るよりも蓋然性が高いと思われる」
みたいな言い方を普通はするものだ。

日本史でも東洋史でもあるいは西洋史でも何でも良いけど、歴史研究を扱った論文や研究書の類いを
読んだ事があれば分かると思うが、今まであったと思われていたものが、実際は検証出来ない、と
結論する場合は、当時や近い時代の資料を可能な限り実見する。
そこで、何とかいう資料ではここそこにこのように書かれてあるがそういった事柄はどの記録が
見付けられないとか、そのような事柄があったという認識がどのくらい以前に遡るのかとかを
調査した上で、後代に潤色されり、別の時期のものと混同して後世に広まった可能性なども
検討したりして、「今まであったと思われているが、無かったと判断した方が良い」
という風に論証とか検討とかをして行くのが、歴史研究のセオリー。

自分が「博多が被災したという記録は皆無。 」と思うののだったら、前振りも無しにただ
それが自明のことのように言うのじゃ無くて、筋道を立ててこれこれこうだから自分は
「博多が被災したという記録は皆無と言える」くらいの論述はすべきだ、という話し。

200 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 21:01:00
>>192
『八幡ノ蒙古記』も、だね。

「夜中ニ白張装束ノ人三十人計、筥崎ノ宮ヨリ出テ、箭鋒ヲ整ヘテ射ケルガ」云々は
『八幡愚童訓』の主な写本、菊大路家本(『八幡愚童記』)、文明本(『八幡大菩薩愚童記』)、
東大寺上生院本(『八幡愚童記』)などに共通して表れるが、これは筥崎宮の八幡神による
重要な奇蹟譚なので、『八幡愚童記』の性格からすると当然おおよそ全ての写本などに書かれて
あってしかるべきものだったりするけど。
勿論、『八幡ノ蒙古記』や群書類従本の『八幡愚童訓』にも出て来る。

ただ、自分が「博多が兵火を受けた」記録として問題としたいところはそこではなくて、
『八幡ノ蒙古記』で言うと、幕府軍が水城へ撤退し「流将公」が小弐景資らに射られた話しと、
博多、筥崎が放棄されたという件の後の箇所で、筥崎宮の僧俗社官が筥崎宮の御神体を
極楽寺へ避難させている場面。(この御神体を避難作業をしていた人物の一人に、
『八幡ノ蒙古記』の編者だという圖書允定秀も名前が上がっている。)

「逃来しあとを、かへり見れは、在々所々、猛火おひたゝしく、もえあかりけり、
 これまさしく、賊のしわさと見る、おそろしさ、いはんもおろかなり、」

もうひとつが『八幡ノ蒙古記』で言うと件の「白装束の人、三十人計」の直前に書かれているもので、
蒙古軍が二十一日には「退散」し、志賀島に打ち上がっていた兵船の兵士二百二十人が斬された後の件で、

「こゝかしこより、つとひあつまる人々、親は子をたつね、夫は婦をまとはし、宿所はやけ、
 資財は盗みとら[れ]身を所もなしとて、なけきは猶も、やま[さり]けり、をりしも、すこう
 見わたさるゝは、消亡の灰、浦風に吹上られて天にふたかり、國にみち、目もあてられぬ、
 ありさまなり、たゝ、はうせんとして、おもふに、落にし事は昨日そかし、一夜のほとに、
 かくも、かはりはてぬるものかなと、うちうめかるゝ程に、博多に迷ひし、おちうとゝも、
 一夜過て、かへり来しに、是も住し家々、あと方もなく、あさましう、同し思ひになけく中に、」

とあるところ。


201 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 21:07:44
>>200
博多が兵火に焼かれたことは歴然だね。
博多、箱崎方面の戦闘記録が「西部戦線」に較べて少ないことが誤解のもと。

202 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 03:10:05
>>201
よく読め。
「博多に迷ひし、おちうとゝも」が一晩博多で過ごしたと書いてるのに、
博多が兵火に焼かれた証明になるわけないだろ。

>>199
八幡愚童訓はね、その部分が「「博多ヲ逃シ落人ハ、一夜ヲ過テ帰リシニ」
となってたの。
つまり、まったく逆だったわけ。
そして従来の研究は、この八幡愚童訓の記述だけを根拠に「博多が文永の役の兵火で焼亡した」
とか言っていたんだよ。
でも、その他の文献に、博多が焼かれたなんて記述は一切ない。
唯一の根拠も単なる書き間違い。
「博多が文永の役の兵火で焼亡した」なんてことを裏付ける史料は存在しないんだよ。

203 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 08:09:44
>>202
>「博多ヲ逃シ落人ハ、一夜ヲ過テ帰リシニ」

こっちのほうがオリジナルだというわけ?
それならなおのことだ。
「博多を脱出した難民たちは、一夜を(脱出先で)過ごして帰って来て見たら」
というのだから、これはよくある戦争難民の話だ。
で、その後に「住んでいた家が跡形もない」に続く。
この「跡形もない」はその前の「灰が海風に吹き上げられて凄かった」
を受けているのだから、家が焼け失せた話であることは明らか。

「これしかない」は別として、この資料じたいは疑う余地はない。

204 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 08:22:52
なぜ博多、箱崎の戦闘記録が少ないかと言えば、そもそも博多で戦闘が
起こったのがその日の遅い時間で、あまりたいした戦闘はなかった
からだろう。

元軍は、まず博多から遠い西方の海岸に高麗軍を上陸させて、日本軍を
引きつけると同時にこれを消耗させ、時間差を置いて主力のモンゴル軍を
博多に上陸させたのではないか?

支配民族が植民地軍を捨て駒として先鋒に使うのはよくあることだ。
文永の役の元軍は中核のモンゴル部隊の兵力温存を最重視していたのでは
ないか?

205 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 09:16:13
>>203
いや、そっちはオリジナルじゃない。
『八幡愚童訓』は文中に「九十四代ノ朝底」とあり、花園天皇即位後の1308年以降成立。
一方の『八幡ノ蒙古記』は正応二年(1289年)成立だから。
「博多へ避難した難民たちは、一夜を(博多で)過ごして帰って来て見たら」
というのがオリジナルの文章で、難民が一夜を過ごしてる以上、博多が焼き払われていた可能性はない。

206 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 13:16:17
>>205
そうだったとしても同じ事だ。
「博多を迷いし」とは博多のなかで逃げ惑った、という事だろう。
全部が焼けたわけでもなく、全部に蒙古兵がいたわけでもなかろうから、
比較的安全な地域に逃げたということだ。

なにしろ「帰って来て見たら家々は跡形もなかった」というのだから
焼けたのと別の地域で一夜を過ごしたことは明らかだ。

207 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 16:15:56
威力偵察の話題でフルボッコにされたから
次は別の話題で切り込んでるんですねわかります

208 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 16:46:32
>>206
そんな無理無理な解釈しても意味無いの。
博多が焼亡したなんて書いてる文献は皆無なんだから。
当時日本有数の大都市だった博多が焼亡したのに、同時代の文献全部がスルーするなんてあり得ないし。
どうしても博多が焼亡したことにしたいのなら、一生懸命図書館通ってそれを裏付ける文献探して来なさい。

209 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 17:21:16
>>207
ディエップ上陸作戦への反撃は全て撃退されたから、いつでも
再開可能だよ。
それとも君はまだディエップが威力偵察ではないと言いたいのか?

210 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 17:26:13
>>208
なんで無理か。

>「帰って来て見たら家々は跡形もなかった」というのだから
>焼けたのと別の地域で一夜を過ごしたことは明らかだ。

これに対して反論できるのか?
「かへり来しに」この一語は重いよ。

211 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 17:27:08
>>209
お前馬鹿?
ディエップと文永の役はまったく関係ないから
ディエップが威力偵察 = 文永の役が威力偵察 とはならないんだけどwww

212 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 17:29:40
>>209

>>7-9への返答はどうしたんだ?w
お前が威力偵察の話題でフルボッコにされてるのはここでは周知の事実だからwww

213 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 17:33:49
>>210
博多で一晩過ごして「かへり来しに」なんだから博多は無事だったってことじゃん

214 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 18:05:17
冗談半分で言ってみたら
本当に威力偵察くんだったでござるの巻

215 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 20:12:35
威力偵察厨逃げ出したなw

216 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 20:39:46
>>219
君は単なる軍事虫の尻馬だからわかっちゃいないだろうが、軍事虫は
さすがにディエップの重要性を理解していたな。
彼が「ディエップは威力偵察ではない」と言って必死になって否定した
わけがわかるか?

ディエップが威力偵察だということになると、文永の役を威力偵察ではない
とする根拠がすべて成り立たなくなるからなのだ。

もちろん、軍事虫のディエップ威力偵察否定は失敗したよ。
だから彼は出て行ってしまったのだ。
尻馬くんたちは馬の尻がなくなってしまって気の毒だな。

217 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 20:52:59
>>213
>博多で一晩過ごして「かへり来しに」なんだから博多は無事だったってことじゃん

たったそれだけであの文章全体が否定できると思っているのか?

「帰り来る」とはどこかよその場所に行っていた人が元の場所に戻ることだ。
その「よその場所」とはどこなのか?

それから「無事」だと言うが、「家々が跡形もない」のがどうして
無事と言えるのか?


218 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:29:42
>>216
>ディエップが威力偵察だということになると、文永の役を威力偵察ではない
>とする根拠がすべて成り立たなくなるからなのだ。
なぜそうなるのか、というところを述べてほしいものだなw
過去レスでそれらしいものは無かったと思うが
類似していると関係があるのは別ものだぞ
それに、似ているから同じであるということもないしな

で、>>7-9への返答はまた無しかい?
答えられない・・・と解釈していいんだなw

219 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:34:10
>>216
仮にディエップが威力偵察だとしても、ソ連の要請による作戦という側面もある以上、
文永の役と同列には成り得ないのだが・・・そこのところどうお考えなんですかねぇ?
威力偵察クン

220 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:36:19
>>216
ディエップが威力偵察 = 文永の役が威力偵察 となる根拠は?

似ている、類似しているというだけでは根拠にならないからw

221 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:58:06
偵察厨フルボッコwww

222 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:05:15
おまいら、威力偵察厨で遊んでるだろ?www

223 :日本@名無史さん:2009/12/15(火) 23:49:17
>>222
当然。あいつの存在はネタでしかないw

224 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 08:06:43
またわらわらと尻馬くんたちが出て来たな。
これでまたこのスレ一杯楽しめる。
はっきり言って「うれしい」

225 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 08:22:47
>>218
>ディエップが威力偵察だということになると、文永の役を威力偵察ではない
>とする根拠がすべて成り立たなくなるからなのだ。
>なぜそうなるのか、というところを述べてほしいものだな

>>66 で私はこう言っている:

わからないかな? これまで出た「文永の役は威力偵察ではない」の理由付け
は、ディエップですべて否定されるのだよ。

1)文永の役の2万数千(漕ぎ手を入れて4万)は威力偵察としては兵力が
大きすぎる。
→ディエップ攻撃は7000名+戦車60両+空軍の掩護

2)全軍が威力偵察ということはあり得ない(威力偵察部隊は全軍の一部)
→ディエップ攻撃は全軍が威力偵察部隊であった。

3)2)と同じだが、威力偵察部隊の近傍に主力が控えていなければならない。
→英軍の主力は海峡の彼方。

4)文永の役と弘安の役の間が7年開いているから文永の役は威力偵察ではない。
→ディエップ攻撃とノルマンジー上陸作戦との間は2年開いている。
 技術力の差を考慮すれば7年と比較し得る。

5)威力偵察と主攻勢とは間をあけず連続して行われる。
→ディエップ攻撃とノルマンジー上陸作戦との間は2年開いている。

コピペは以上だ。これで軍事虫および尻馬たちの出した理由(文永の役が威力偵察
でない理由)は網羅していると思うが、他にあったら出してくれてもいいよ。

226 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 08:39:30
これに対して軍事虫はこう答えている:

>お前の>66は全て「ディエップが威力偵察である」が真なら、が「前提条件」
>であって、そもそも「ディエップが威力偵察である」が真だというのを保証
するのは「あるサイト」の記述でしかないわな

コピペは以上。これを裏返せば、「ディエップが威力偵察である」が真実で
あれば、上に列挙した「文永の役は威力偵察ではない」という根拠はすべて
成り立たなくなる、ということだ。

軍事虫はそれがわかっているから、ディエップ威力偵察の全否定にかかった。
そして私が示した、ディエップ威力偵察につながった指示を、アフリカ侵攻
作戦に関するものだとか、ディエップを担当したCombined Operations Headqurters
が陸海共同作戦ではなく米英連合作戦の担当部門だとか、珍妙な説を並べたが、
すべて失敗した上に赤恥かいて、ここにいられなくなってしまったわけだ。

これでディエップの威力偵察は確定し、「文永の役が威力偵察ではない」理由
は全滅した。今はここまで来ているわけだ。

もちろんこれは、「文永の役は威力偵察である」という積極的肯定と同じ
ではない。それについてはこれからの議論だ。

227 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 09:36:28
>>217
>「帰り来る」とはどこかよその場所に行っていた人が元の場所に戻ることだ。
>その「よその場所」とはどこなのか?

だから、その「よその場所」とは博多なんだよ。
で、博多へ一晩避難していた人たちが帰ってみたら「家々が跡形もない」状態だったわけだから、
被災したのは博多以外の場所ってこと。
つまり、博多は無事だったってことじゃん。

228 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 10:13:12
偵察厨はいつになったら>>7-9に答えるの?

229 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 11:24:57
>>227
>被災したのは博多以外の場所ってこと。

じゃあ、その被災した場所はどこ?


230 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 11:52:26
>>229
モンゴル軍の上陸した百道原とか生の松原の辺りだろ。
文面から断定できることは絶対博多ではないということぐらいだな。

231 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 13:17:29
赤坂の辺りもだよ

232 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 21:09:34
>>230
君の言うことも一理あるな。改めて読んでみると「博多に迷いし」は
「博多に避難した」と取れないこともない。
なぜなら被災した人と、避難してもどった人とを区別して、後者に「是も」
と言っているからだ。
ただし焼けたと言っている場所がどこなのかは、引用してある文章の
前を見ないとわからない。
私はまだ全文を入手していないので、入手して読んでからにする。

233 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 01:11:06
>>225
そんな屁理屈よりフビライが軍隊に威力偵察を命じた証拠を出せばいいんだよ。
それがないから屁理屈をこねてるんだろうが。

234 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 08:02:01
>>233
君は文永の役が威力偵察ではないと思っているのだね。
では威力偵察以外で、何が目的だと思うの?

235 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 08:26:36
どんなに粋がろうとも、迷惑だから余所で相手してやるって言われたのに
ここに粘着して勝利宣言してる時点で逃げてると判断せざるを得ない>威力偵察クン
要するに、余所で軍事虫とやり合うのが怖いんだろ?

236 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 10:09:56
偵察厨は>>7-9にはまだ答えないの?

237 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 14:01:41
>>234
そんなのは文永、弘安の役どちらも当時の文献に記されてるだろ。
自分の主観を証明する存在の物じゃない。
もし自分の主観を証明したいならフビライが威力偵察を命じた文献を示せばいいだけだろ。


238 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 16:54:01
>>237
いや、君の考えを聞いているのだよ。
文永の役の元軍の目的は何だったのか。
(弘安の役ははずしていい)

239 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 17:42:00
普通に大宰府攻略だろ

爾、爾が国に還り、速かに軍額を奏せよ。
不らずんば、爾をして将に之を討たしめん。
爾等、軍を出して、将に何れの国を討たんとするか知らざらん。
朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。
今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。
朕、不庭の国を征するに、爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。
爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、米三、四千石を載すべきを造れ

240 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 19:11:08
>>238
>>235

241 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 19:38:15
>>238
どの資料を読んでも威力偵察とは書かれていないようだな

お前の脳内ソースだけで威力偵察と自己主張されてもな・・・

242 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 19:40:39
>>239
なるほど、太宰府攻略が文永の役の元軍の目的か。
で、「太宰府攻略」とはどこに書いてあるのだ?

243 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 20:41:44
では威力偵察君は「威力偵察」の目標地点はどこにあったと
考えているのかな?

244 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 20:43:41
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」

245 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 20:46:28
712 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 18:13:09
>711
>そもそも文永の役は大宰府征服目的

>>672を読んだか? 軍事厨くんによる威力偵察の定義は:

「敵の勢力・編組及び配置を暴露させるとともに、その反応を見るために
行う、限定目標の攻撃による偵察」

「限定目標」、それが太宰府。



では太宰府を限定目標にした作戦とはどこに書いてあるのかな?

246 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 22:13:04
>>244
『鎌倉年代記』は折本仕立て一帖二十六折で、書名は原本包紙による。
原本は京都大学附属図書館所蔵で壬生家の旧蔵書。写本や活字本では『北条九代記』と称されている。
幕府の要人などが政務時に過去の出来事を参照するために作られた携帯用の年表のようなもので、
元弘元年(1331年)頃成立し、まもなく追記・裏書などが記入されたと考えられるんだそうな。
鎌倉幕府の吏員が編纂したものだろうと考えられている。
ちなみに表面の年表部分の文永十一年前後には文永の役に関する記事は特に無なかったりする。

『一代要記』という文永の役の直後くらい、後宇多天皇の時代(在位1274-1286)に最初に
成立したらしい年代記があるのだが、その後宇多天皇(「今上皇帝」)のところの文永十一年十月条に
文永の役についての記事があり、以下のように書かれている。

『一代要記』後宇多天皇(「今上皇帝」)文永十一年十月条より
「十月五日、異國群勢襲來之由、自宰府申之、同十三日、異國軍兵
 亂入壹岐嶋、同十四日、彼嶋守護代莊官以下被悉打取云々、
 對馬以同前、同十九日亥刻、攻來筑前國甲良郡、同二十日始合戰、
 宰府軍等皆北了、爰同日亥刻、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、
 測知是神明之儀也、即異國兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々、」

「同二十日始合戰、宰府軍等皆北了、」は「同月(十月)二十日、合戦始まり、(大)宰府軍ども
 皆北しておわんぬ」と読み、「十月二十日に(異国の軍兵との)合戦がはじまり、大宰府の軍たちは」
 皆、敗北してしまった」というようなことが書かれている。

日蓮の書簡も含めて、文永の役直後に成立した日本側の資料のなかには、文永の役は博多での合戦で
幕府側の軍が蒙古軍に敗北した、と明記しているものがいくつかある。『八幡ノ蒙古記』も跋文の
正応二年(1289年)という年代を信じるなら、恐らくこれらの十三世紀中の資料のグループに
含まれるだろう。

247 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 22:16:29
>>246の後段は「(博多周辺での)合戦で幕府側の軍が〜」と訂正。

248 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 22:16:38
どどーん

249 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 22:53:27
ずぴぴぴー

250 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 23:42:19
ちんこ!

251 :日本@名無史さん:2009/12/17(木) 23:42:53
ここで寝るなw

252 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 00:10:04
合戦といっても小規模なものだろ?

253 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 00:25:32
>>246
実際に戦ったのは武士だからな。
蒙古襲来の史料として価値が高いのは武士の残した史料だよ。
神様や祈りのおかげで勝てたとかいう宗教がかった文献は、信憑性が低いと考えるのが当然。
『一代要記』や『八幡ノ蒙古記』は武士に手柄独占されて面白くない連中が、自分たちの功績主張しようとして
非現実的なことを書き連ねただけだろ。
大体、それらの文献も蒙古軍が大敗したことでは一致しており、それらの史料を根拠に蒙古軍が勝っていた
と主張するのはおかしい。

254 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 00:36:01
何をどう言おうが、文永の役で水城にすらたどり着けず、
弘安の役で上陸すら満足にできなかったという事実は変わりませんので

255 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 01:29:37
>>242
太宰府攻略が文永の役の元軍の目的だったてのは、『元高麗紀事』耽羅の至元九年十一月十五日条。

「中署省奏、”先奉旨、議耽羅、日本事.
臣等同樞密院官詢問、有自南國經由日本来者、耽羅人三名、晝到圖本.
稱、’日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬.’」

256 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 06:29:13
>>253
というか当時の事だから
情報が色々と混乱してたんじゃない?

257 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 09:08:06
>>255
これは耽羅人三人がそのように言った、というだけで、作戦の目的ではない。
また太宰府等處に下船する、すなわち上陸すると言っているのだから、
大宰府と博多を混同している。

さて、文永の役の目的が大宰府攻略であったという根拠は他になにが
あるのかな?

258 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 09:20:32
>>243 >>245
私は大宰府が目標、とは言ったが「大宰府攻略」とは言っていない。
その違いをよく考えて見ることだな。

259 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 09:41:42
>>257
大宰府と博多を混同しているというのが認識が大間違い。
実際に日本を訪れたことがある耽羅人が、大宰府と博多を混同するわけないだろ。
元軍は太宰府等處に下船する場所として博多湾に上陸したわけで、まさに太宰府が
攻撃目標だった動かぬ証拠。

260 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 09:56:07
そもそも平民が住んでるだけの当時の博多だけ襲って何になるんだよw
偵察厨はどんどんぼろが出てくるな

261 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 12:31:17
>>256
他にはある場所では勝利したが
他の場所では敗北し、情報が混乱してたから
その敗北したニュースだけが伝わった可能性とか。
少なくとも現場にいた竹崎や菊池達は自分達は
戦闘で勝利したと認識してるんだよな?

262 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 12:38:17
>>261
もちろん現場からはちゃんと合戦で元軍を撃退したと報告されてる。

『帝王編年記』
六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。

263 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 15:57:39
>>259
>まさに太宰府が攻撃目標だった動かぬ証拠。

いつのまにか論点をずらしているが、私は大宰府が攻撃目標だった根拠を
聞いているのではない。
(威力偵察だったとしても大宰府は攻撃目標だ)

「大宰府攻略」が作戦目的だった根拠を聞いているのだ。(239参照)
攻略とは占領して無期限に保持することだ。

結局、「大宰府攻略」が作戦目的であったという根拠はないのだな。

264 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 16:00:27
なんで>>7-9に答えないの?

結局、「威力偵察」が作戦目的であったという根拠はないのね

265 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 16:18:45
>>263
>攻略とは占領して無期限に保持することだ。

この定義がおかしい。
攻略には一時的な占領や破壊も含まれるのが常識。
例えばイラク戦争で米軍はバクダット攻略を作戦目標にしていたが、無期限に保持するつもりなど
最初から微塵もない。
「イラクの自由作戦」は威力偵察が目的だったとでも言うのか?

266 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 17:46:08
偵察厨はちょいちょい「定義」を歪曲・捏造するから信用されない

267 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 18:57:11
>>265
現代戦と当時とでは戦術的常識が違うから同列には
扱えないんですよ、多分^^

それにしても威力偵察厨はまだスレ立てしないのか。
そんなに怖いの?

268 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 19:24:21
>>265
オーケー、
では君はどちらだと思うのか?
文永の役の元軍は、大宰府を占領して、無期限にこれを保持する作戦
だったのか?

それとも大宰府を占領して、これを一定期間保持した後、撤退する作戦
だったのか?

あるいはまたさらに、大宰府攻撃の態勢のみ示して、敵と交戦の後、撤退する
作戦だったのか?

まず君の立場を明らかにしてくれ。

269 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 20:19:01
>>268
大宰府占領が最低限の目標で、そこから先はケースバイケースだろ。
例えば大宰府占領に日本側がビビって元への帰順の意向を示せば、それに満足して撤退したかもしれないし、
九州の豪族が大量に寝返ったりすれば、太宰府を保持したまま更に作戦継続したかもしれない。
いずれにしろ、元は文永の役の準備に莫大な投資をしてるわけで、当然それに見合うだけの具体的な戦果が
求められる。
最後の、大宰府攻撃の態勢のみ示して、敵と交戦の後、撤退するなんて作戦は全く無意味。
ガキの使いじゃあるまいし、そんな作戦なら最初からやらない方がマシ。

270 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 20:54:36
>>269
なるほど。納得できる作戦だな。では、

「最低限大宰府を占領せよ。それから先はケースバイケースで判断せよ」

とフビライが命令したという資料がなにかあるのかな?
念のためだが文永の役についてだよ。

271 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 21:49:33
>>270
お前見苦しいぞw

272 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 00:09:09
そっかもうすぐ冬休みか

273 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 00:15:55
>>238
他人に質問してる暇があったら>>7-9に答えてやれよ。


274 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 00:46:33
>>270
他人に質問する前にフビライが文永の役で威力偵察を命じた文献があるかないか答えろ。

275 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 06:22:49
>>232
>>103で止めた方が良いように言われたが、ひとまずちょっと長いが『八幡ノ蒙古記』だけでも
今度は全文うpしてみる。

『八幡ノ蒙古記』
いわゆる『八幡愚童訓』諸本のうち甲類に分類される資料の一つ。対馬や壱岐の攻略も記されている。
跋文に「正應二年己丑八月 イ筥崎宮社官 圖書允定秀誌 (花押)」とあり、正應は弘安の
次の年号で、正應二年(1289年)は弘安の役(弘安四年、1281年5月〜7月)から8年、
文永の役(文永十一年、1274年11月)からだと15年しか経っておらず、しかも戦場となった
博多の筥崎八幡宮の社官の手になる資料であり、『八幡ノ蒙古記』が最初に編纂されたのはほぼ
同時代と呼んで良い時期になる。

ただ、現存する『八幡ノ蒙古記』は近世中期に書写されたものであるらしい。江戸時代後期の国学者、
橘守部(1781-1849)が編纂した『歴朝神異例』の巻五、『蒙古諸軍記弁疑』の巻二にこの『八幡ノ蒙古記』が
収められていて、守部による自筆稿本が現存し、慶応義塾大学付属研究所斯道文庫と天理大学付属天理図書館の
二ケ所に分蔵されているんだそうな。

橘守部は『蒙古諸軍記弁疑』で群書類従に収められている『八幡愚童訓』の記述を、この『八幡ノ蒙古記』
の文と比較してと思われるが、『太平記』からの影響や『元史』あたりからの引用と思われる大元朝からの
牒状が挿入されるなど、後代に潤色された部分があると批判も行っている。
また手稿本『八幡ノ蒙古記』と、『新訂増補橘守部全集 第六』に収める『蒙古諸軍記弁疑』『歴朝神異例』
に引かれた「やはたの記ノ巻」「八幡宮蒙古記」では文面に若干の違いが見られるようで、手稿本
『八幡ノ蒙古記』にはどの段階のものかは不明だが異本からの書き入れがあり、橘守部自身は異本を
重視していることが指摘されている。


276 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 06:24:27
>>275の続き。
内容全体は、文永の役直前の予兆と蒙古軍の対馬・壱岐の上陸にはじまり、船団が博多湾から忽然と
撤退するまでの文永の役全体と、弘安の役の部分の二部構成になっている。

本文では々・ヽ・ゝなどの重ね字を用いたが、くの字点は表記出来なかったので、「ゝゝ」で代用した。
また本文では異本に基づくらしいいくつかの書足し入れられ、棒線なども附されている。書足しについては()や改行してなんとか表現した。一応一通り確認したが、誤字や脱漏などがあれば勘弁願いたい。
(小野尚志「橘守部旧蔵の「八幡ノ蒙古記」(八幡愚童訓)について」
 『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店、2001年9月。179-205頁。
  初出、同「橘守部旧蔵の「八幡ノ蒙古記」(八幡愚童訓)について―付・翻刻」
 『帝京国文学(6)』帝京大学国語国文学会、1999年。)


『八幡ノ蒙古記』
--------
文永五年二月朔日、蒙古國使来る、牒状を京
都へ奉りしかとも、返牒はなく、使はかり、おひ
返〔さ〕る、其牒使、夜々見めくりて、筑紫の地理、
船津、運庭(マゝ)、足懸、逃路等に至るまてを、こ
とことく図し、又、あひあふ人の、やうすを
想し、所のあないを、しるしなとして、諸事
はかりすまして、返りけり、此ののち、来ける
使ともゝ、又々、しかしけり、京都には、諸社」(1オ)


277 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 06:27:03
>>276の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

御祈祷あるよし、當社八幡には、三月五日奉
幣、同十三日十四日、浄行社僧四十五人に仰せ
て仁王講行はる、又、大般若經の供養等もあり、
かく連々、御祈祷等ありしに、同十一年
十月五日卯時に、對馬國府八幡宮假御殿の内
より、火焔おひたゝしく、もへいつ、國府在家
の人々、焼亡出来しよと見るに、もゆへき
物もなきを、怪しみけるほとに、同日申時
に、對馬の西おもて、佐須浦に、異國船見ゆ、」(1ウ)
其数四五百艘はかりに、凡三四萬人もやあらん
と見るはかり寄来る、同日酉時、國府の地頭に
つく、即地頭宗馬允資國、八十餘騎、同日丑時、彼
浦にゆきつく、翌日卯時、通人真継男を使
者として、蒙古人に、事のしさいを尋る処に、
散々に舟よりいる、大船七八艘より、あさち原へ、
おりたつ勢、一千人もあらんと見ゆ、其時、宗馬
允、陣をとりて戦ふ、いはなつ矢に異國人、数
しらす、いとらる、此中に大将軍と、おほし」(2オ)
き者四人、あし毛なる馬にのりて、一はんに、か
けむかふ者、宗馬弥二郎に右の乳の上を、いられ
て、馬よりおつ、此時、馬允に射倒さるゝ者、四人、
宗馬允かく戦ふといへとも、終にうたれぬ、
同子息宗馬次郎、養子弥二郎、同八郎親頼、刑
部丞郎等に三郎、庄太郎、入道源八、在廰左近馬
允手人、肥後國御家人、口井藤三、源三郎、已上十二
人、同時に討死す、蒙古、佐須浦に火をつけて、
焼拂ふよし、宗馬允か郎等、小太郎、兵衛次郎」(2ウ)


278 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 06:30:18
>>277の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

博多にわたりて告しらす、同十四日申時に壱岐
嶋の西おもてに蒙古の兵船つく、其中に二艘
より四百人はかりおりて、赤旗をさして東の
方を三度、敵の方を三度拜す、其時、守護代
平内左衛門尉景隆并御家人百餘騎、庄三郎か
城の前にて矢合す、蒙古人か矢は、二時はかり
いる間に守護代か方にも二人手負、異敵は
大勢なり、終に叶ふへくもなかりけれは、城の
うちへ引退て合戦す、同十五日に、攻めおとされ」(3オ)
て城の内にて自害す、同十六□(日カ)、十七日の間、平戸、能
古、鷹嶋の男女多く捕らる、松浦黨敗す、同十
八日、平内左衛門か下人宗三郎、博多へわたりて告知
する程に、はや蒙古の船とも、おしつらねて、筑前
國今津にそ、つきにける、此のよし京都へも聞え
しかは、いよゝゝ御祈祷ありて當社へ金銀太刀
鉾を奉り給ふ、是、異國降伏の御祈祷の
為とそ、此九國にては、かねて攻来へしと思ひ
し事なりけれは、来ぬときより、馳参る」(3ウ)
軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松
浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛
寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつま
りたれは、たとひ異敵十萬に及ふとも、何ほと
の事かあらんとて、いさましく見えにけり、
其中に、太宰小貳三郎左衛門尉景資殿を、日大
将軍として待かけたるところ、十月廿日
未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗
をあけて攻めかゝる、こゝに前小貳入道覺慧孫」(4オ)


279 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 06:32:40
>>278の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

わつかに十二三なるか、矢合の為とて小鏑を
射出したりしに、蒙古一度に、とつと笑ひ、大皷
をたゝき、とらを打て鬨をつくる事お
ひたゝし、日本の馬とも、これにおとろき、をと
り、はねくるふほとに、馬をこそ刷ひしか、
向はんとする時の、おくれけるうちに、射かけらる、
蒙古か矢、みしかしといへとも、矢のねに
毒をぬりたれは、ちともあたる処、とくに氣に
まく、かくて敵より数百人、矢さきを、そ」(4ウ)
ろへて雨のことくに、いけるに、向ふへくもあら
す、楯、鉾、長柄、物の具の、あき間をさして、
はつさす、一面にたちならんて、もし、よする者
あれは、中に包て引退て、左右より端を
まはし合せて、とりこめて、皆ころしける、其
中に、よくふるまひ死したるにをは、腹をさ
き肝をとりてそ、のみにける、もとより牛
馬の肉を、うまきものとする國なりけれは、
人のみならす、いころさる□馬をも、とりて」(5オ)
食とせり、鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つ
よく、命をします、豪盛勇猛、自在きはまり
なく、かけ引せり、大将は高き所にあかり
ゐて、引へき所は、逃皷をうち、駈へき時には
攻皷を鳴し、それにしたかふて、ふるまへり、
その引とくに、てつはうとて、鉄丸に火を包
て烈しく、とはす、あたりおちて、わるゝ時、四方
に火をとはし、火烟を以て、くらます、又、
其音、甚高けれは、心を迷はし、きもをけ」(5ウ)


280 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 07:29:50
>>279の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

し、目くれ耳ふたかりて、東西をしらすなる、
これかために、打るゝ者、多かり、日本の軍の如く、
相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり
勝負とおもふ処に、此合戦は、大勢一度に、
より合、足手のうこく所、われもゝゝと取つき
て、おし殺し、又は生捕けり、この故に、かけ入
ほとの日本人に、一人として、もれたる者こそ
なかりけれ、其中にも松浦いさみたりし故、
おほく打れぬ、原田一類、澤田に、おひこまれ」(6オ)
て、うせにけり、日田、青屋二三百騎はかりにて、
ひかへたり、青屋かのりたる馬、口つよくして、
しねんに敵陣にそ引れたる、主人入しかは、
かの手に、したかふものとも、つゝいて、かけ入たり
けるに、ひしゝゝと巻こめられて、残りすく
なく打死にす、主人ののりし馬、御方の陣、
へ歸しにこそ、青屋伐れたりとは、しら
れたれ、肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、
天草城主矢野種保兄弟、船にかゝりしほ」(6ウ)
とは、よくふるまひたれと、此所にいたりて、
得かゝらす、白石六郎通泰も、えすゝます、こゝに
山田か若者五六人、蒙古に、おひたてられ、赤坂
をくたりて、のけ兜になりて、にくる処に
蒙古三人、もみにもみてそ、おひかけたる、
されとも、とくにけ延し事、一町あまり
なりしかは、蒙古ちからなく、せめての事
にや、尻をかきあけて、此方へむかひてそ、を
とりける、この時、山田の逃武者とも、口をし」(7オ)

281 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 07:37:52
>>280の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

き事かな、奴原に、かく追立らるゝ事よと、精
兵を、えらひて、いあつへきには、あらすとも、遠矢
射て見む、南無八幡大菩薩、此矢、敵に當させ
給へとて、何にあつよもなく、はなちけるに、
あやまたす、かの二人とも射殺しつ、此とき、日本
人は一度に、とつと、わらへとも、蒙古は音もせす、
手負を掻具して、にけさりつ、大菩薩の御
罸にあらさるほか、いかにして、かの矢の、あたる
へき事あらんと、貴はさる人なく、うれし(7ウ)
さ、はかりなかりけり、されとも蒙古、次第に
つよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百
道、赤坂まで乱入して、松原の中に陣を
取てそ居たりける、かほとの事あるへし
とは、兼ては、おもはさりけれは、妻子眷属を
かくしもおかすして、数千人そ捕られに
たる、はしめより軍立、思ひしにたかひて、おも
てを、むくへきやうもなく、御方追々に
引退て一人も、かゝる者こそ、なくなりに」(8オ)
けれ、こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかり
を二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけち
らし、上になり下になり、勝負をけつし、
家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、いかゝ
したりけん、菊池はかりは、うちもらされて、
死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、
御方の陣に入しこそ、いさましけれ、是偏
に、大菩薩を深く信して、もし、勧賞ある
ならは、賜ひたらん一はんの物を、手向奉らん」(8ウ)



282 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 07:45:46
>>281の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

との立願なりし故なりとて、後に太宰府よ(ママ)
より注進して、京都より賜はりし甲冑
を當社へそ納めける、小貳入道か子息、大将
三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎
左衛門等を始として、大矢野、竹崎、白石等、
更により合て、さんゝゝに戦ふ、此外、名ある
者、恥をおもひ、大事をなけく者あつまりて
攻しかとも、物のかすともせす、蒙古ひたや
ふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱れ入」(9オ)
たりけれ、異國かせん、何ほとの事あらんと、あな
つりて、妻子、老人を隠しおかさりしよと、な
けくも、かひなし、在々所々に、おし入て、いく萬
人を奪取けん、みな人々(カ)、はしめは、ふんとりせんとするに、
御方多くして、一人に一人は當つかすあるへき
にやなと、いさみ進みしに、たゝ一旦の戦ひに、
あきれさわきて、いふかひなく、軍、辰刻より、は
しまりしか、日もくれかたに、なりしかは、
あなたこなたに、さゝやき事こそ、多くなり」(9ウ)
にけれ、何事にかあらんと、あやしみしに、しよ
せん武力及はす、水木城に引こもり、さゝへて
みんと、逃したくをこそ、かまへたりけれ、これ
をきくより、おそしやとて、われさきに
落ゆくか、多かりけれは、いよゝゝおくひやう
神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ
者こそ、たえにけれ、爰に大将小貳景資、蒙
古の大将とおほしくして、長七尺はかりの大男、
ひけは臍邊まて、おひさかりたるか、」(10オ)


283 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 07:53:52
>>282の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

あか(カ)鎧に、あし毛なる馬にのり、十四五騎うち
つれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる、その
時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、
八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究
竟の馬廻に、弓の上手かありしかは、それに下
知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ
出させたり、かの奴原を見かへりて、よつひき、
はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を
射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ」(10ウ)
たる郎等とも、これをおとろき抱へ入ける紛
れにそ、景資、水木城の方へ引きかへす、その時、同
し、あし毛馬に金作のくらおきて、馳出たる
異敵を、おひ廻し捕へたり、此者に、かの大男を
尋ぬれは、蒙古一方の大将、流将公と云うものな
りとそ、又申けるは、出たつより、あやしや、鳩、翔
りて、既に吾か大将軍を、うちてけりと云
にそ、八幡宮の降伏、めてたく、たふとき事
を知て、皆人かんしける、さて、水木城と」(11オ)
申すは、前は深田にて、路一すちあるのみ、う
しろは野原ひろくつゝきて、水木おほく、ゆた
かなり、馬蹄、飼場よく、兵粮潤澤なり、左
右、山あひ、三十餘町をすかして、石もて高く
きひしく筑たり、城戸口には、磐石門を立
たり、今は礎石はかりになりたり、南山近
くて、あひそめ川なかれたり、右山の腰には、
深くひろく堀を、とほして、二三里廻れり、
これ、いにしへのみよゝゝ、異賊をふせかんた」(11ウ)


284 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 08:01:50
>>283の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

これ、いにしへのみよゝゝ、異賊をふせかんた」(11ウ)
めに、帥の大将を、おかれたりし、大城なり、かくゆゝ
しき古城なれとも、あまたの軍勢、一日の戦
に、たへかねて、博多、筥崎を、うちすてゝ、おち入け
れは、末は、いかになり行ものかと、あやしの
賤山かつまて、泣まと(カ)ひ、かなしまさるそ、な
かりける、つかの間も、をしき、いのちとて、妻子を
引具し、老幼を扶け、いつちともなく落ゆくな
るは、中有の旅に迷ふ(カ)も、かくやと、見るにたへす、
なかぬ人こそ、なかりけれ、筥崎宮の留主を」(12オ)
はしめとして、僧俗、社官、固め居たりしかとも、
たのむ所の軍兵の、皆おちぬるうへは、かくても
いかゝ有へき、たとひ、身は遁れなんとも、神體を
すておき奉り、今忽ち異賊等に穢させ奉
らん事こそ、かしこくも悲しけれ、いのちあらん
かきり、いつまても御供して、いつき奉らんとて、
なくゝゝ宮にいつ、あまり火急の事なれは、神輿
にも、のせたてまつらさるこそ、恐く、かたしけな
けれ、御供には、留主左衛門尉定重、平左衛門尉景」(12ウ)
親、同景康、圖書允定秀以下の社官とも、少々参て
けり、産宮へとて、いそきし処に、彼宮にも、はや落
はてゝ、一人もなく、扉をかたく閉て、いれ奉るへき
やうも、あらされは、せんすへなくて、上山の極楽寺
にそ、いれたてまつる、をりふし、ふるあめに
涙おちそひて、いとゝ袂そ、ぬらしける、逃来
しあとを、かへり見れは、在々所々、猛火おひ
たゝしく、もえあかりけり、これまさしく、賊
のしわさと見る、おそろしさ、いはんもおろ」(13オ)


285 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 08:09:22
>>284の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

かなり、よきをりにしも、ゐてたてまつりこしと、
皆人々(カ)、なけきの中にも、よろこひあへり、こゝの
みね、かしこの谷に、かくれたる、おちうとゝも、夜あけ
て、押よせ、さくられなは、今は何方へか逃ぬへき
と、なけき、かなしみけり、かゝるさわきの中
なれと、いかなる者か、したりけん、三首のうた
をそ、詠したる、
前小貳入道覺慧の事を
 臆病を いかゝはせうに 入道か はちをかくえの名」(13ウ)
 に落にけり
大友頼康を
 大ともは 子ともうちつれ 落行て 方々にこそ
 よりやすみけれ
筥崎留主の子息、紅葉を縫たる直垂を着て落け
るを
 直垂に ぬるもみち葉も 落にけり はけしき
 敵や 木枯の風
さる程に夜も明ぬれは、廿一日なり、あしたに松原」(14オ)
を見れは、さはかり屯せし敵も、をらす、海のおもて
を見わたせは、きのふの夕へまて、所せきし賊船、一艘
もなし、こはいかに、いつくへは、かくれたる、ようへ
まて、いねもらやれす、かくては九國に、みちたる
人たねは、つきはてなんと。よもすから歎きあか
しつるに、何とてかうは、かきけちて、失にけんと、
たゝ、ゆめかとはかり、たとらるゝ、ありさまなり、此
ありさまを見る人々(カ)、けさまて泣まとひけるも、
やうゝゝ人こゝろ、つきそめて、よはかり出来(カ)て」(14ウ)


286 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 08:18:05
>>285の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

よくゝゝ見れは、異賊の兵船一艘、志[賀]嶋にかゝ
りて、逃のこれるも見え(カ)にけり、さりけれと、あ
まり恐れて、さうなく、むかふ者しもあらす、かの
陣とりし跡所の、いとあやしく荒れたるを見
つゝ行に、こは、たゝ事なたしと、おもへと、なを、
さても、おちをのゝきたる、心くせの、はなれぬは、
蒙古か方より手をあはせて、をかみけれと、
我ゆかんというふ人なく、たゆたひてあるに、
賊とも、助船もよせこさるは、降るをたにも」(15オ)
ゆるさゝる心にこそと、おもひ切て、その中の大
将、海に入てそ、うせにける、のこる敵とも、御方の
地に、わたりきて、弓箭をすて、兜を脱く、其時
はしめて、われもゝゝと、おしよせて高名か
ほに生捕にける、残る賊ともを水木岸に、引
ならへて、二百二廿人、斬てけり、やうゝゝこれを、見
きゝて、蒙古退散しにけりと、こゝかしこより、
つとひあつまる人々、親は子をたつね、夫は婦を
まとはし、宿所はやけ、資財は盗みと□(らカ)[れ]、身を(カ)」(15ウ)
所もなしとて、なけきは猶も、やま[さり]けり、
をりしも、すこう見わたさるゝは、消亡の灰、浦
風に吹上られて天にふたかり、國にみち、目も
あてられぬ、ありさまなり、たゝ、はうせんと
して、おもふに、落にし事は昨日そかし、一夜
のほとに、かくも、かはりはてぬるものかなと、
うちうめかるゝ程に、博多に迷ひし、おちうとゝも、
一夜過て、かへり来しに、是も住し家々、あと方
もなく、あさましう(カ)、同し思ひになけく中に、」(16オ)


287 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 08:26:28
>>286の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

語りあへるは、こたひすてに武力つきはてゝ、
かかる大勢、敗北して、にけうせにしは、國の危き
かきりなりき、今はかうと見えし、夕過(カ)る比、
白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢
さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏
し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原
の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり、
船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまゝゝ沖に、にけたるは、大
風に吹しつけられにけり、此事さき□(にカ)生捕[た]」(16ウ)
る日本人の、其夜歸来て、かたると、今朝生捕
たる蒙古か云と、同し事なりけれは、更に、あや
まり有へからす、もし、此時、日本の軍兵、一騎な
りとも、ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれ
すして、わか高名にて、おひ返せしとも、申なさ
ましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、
さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、
つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、偏に神軍の威
徳厳重にして、不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ」(17オ)
たまひけりと、ふしをかみ貴はぬ人こそ、な
かりけれ
 建○○○
    此下、紙四五枚うせににけり」(17ウ)



288 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 08:34:50
>>287の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

又、建治元年正月廿三日、高麗人、蒙古使を率
て来にけり、徒類七十餘人、太宰府に留めて、
杜世忠と云ふもの、供二人をつれて牒状を奉る
とて、関東へ赴きぬ、筑紫の武士等きひしく
番して、こたひは、かの徒類の者とも一人も、う
こかさす、○○○○○、もはら咎人の如し、○○○○
   此間、紙六七枚うせたり」(18オ)


○○○○○○○同四年五月廿一日、蒙古賊船
おそひ来る、こたひは蒙古、大唐、高麗以下
國々の兵等をひきゐて、凡三千餘艘の大船
に十七八万の大衆、のりつれてそ来ける、
其中に高麗の兵船四五百船、壱岐、對馬
より上りて、見かくる者を打ちころし、らう
せきす、國の民さゝへかねて、妻子を引具し、
深山に逃かくる、さるに赤子の泣こゑを
聞つけて捜りもとめて捕けり、さりけれ」(18ウ)
は、かた時の命をしむ、世のならひ、愛する
児を、さし殺して、にけ隠れする、あさましき、
ありさまなり、此高麗船、捕へきほと、とりて、
宗像の沖による、蒙古、大唐の船とも、對馬
にはよらす、壱岐嶋につく、それより筥崎の
前なる能古、志賀二島にそ、つきにける、こ
れを見て、高麗船、宗像より、おしいたし、
蒙古と一つに、なりにけり、こたひは一定討取
へしとて、住居すへき、世わたりの具、耕作」(19オ)



289 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 08:45:20
>>275
八幡の蒙古記の全文、ありがとう。
まだ問題のところまで行っていないが、その前に一言。

「今津、佐原、百 道、赤坂まで乱入して、松原の中に陣を
取てそ居たりける」

この文章を読むと、「松原」は地名ではなく、そのあたりの松原、という
一般名詞であるように思われる。これがそうであれば白装束に追われて
「松原の陣」を退いた、という「松原」もこれを受けていると思われる。
つまり地名の松原ではない。

もっとも地名の松原と言っても、今津松原とか生の松原とか、いろいろ
あって、単なる松原というのはない。これもそこらじゅうに松が生えて
いたからこそだろう。



290 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 08:56:54
>>271 >>274
見苦しいと言うならお互い様だ。
>>269がせっかくまじめに答えてくれたのにスケープゴートになって
もらって気の毒だったが、これでわかっただろう。

文永の役の作戦目的については、例のタンラ人の話の他は「討日本」および
「征日本」の文字、これしかないのだ。

作戦目的についてどのような立場から、どのように推定しようと、その根拠と
なる資料は存在しないのだ。
「威力偵察説」以外の説はデフォだから根拠は必要ない、というのはないよ。

291 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 09:00:55
>>290
訂正:
根拠は必要ない → 資料は必要ない

292 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 09:31:10
元が文永の役で作戦目的が達成されたと考えたのなら、おそらくもっと明確に史料として残っただろうな。
文永の役が惨憺たる大失敗だったからこそ、あえて作戦目的を曖昧にしてるんだろ。

293 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 09:34:43
>>288の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

の、すきくは、農具等まて、あまた持わた
りけり、島より蒙古、又寄来たりと博多
へ告来ぬ、夜中の事なれは、あわてさわき、
東西にかけ、南北にはしる兵とも、おひたゝし、
本より、うみはたには数万の沙石の築地をつい
たり、一丈あまり高く、面はきうに、此方は
のへにして、馬にのりなから、はせのほり、
賊船を見おろして、さけ矢に、いるやうに
そ、しこしらへり、其上に火をたき、城口」(19ウ)
きひしく、かまへたり、九國二島の兵とも、はせ
あつまり、矢さきを、そろへて待といへとも、
兵粮ともしくて、ちからうすく、鎧おも
く、玉しひ、身にそはぬ、こゝちして、弓引へき、
いさみもなし、文永のかせんに、あらかしめ、
手なみは見えつ、たかこゝろにも、かなふ
ましと、おもふ心あり、されとも前々の
神の御扶けを、ちからとして、抜々に
志賀嶋にこそ、うつろひにけれ、まつ一はん」(20オ)
に天草の大矢野十郎、同三郎、二艘にて夜
討して、異國船にのりうつり、首廿一とりて、
船ともに火をつけて、かへりたり、退て其火
を見れは、四五艘に燃つきて、あまたの賊
とも、亡ひけんとそ見えし、其後用心して、
船を、くさり合せ、押廻らして守護し、
もし寄する者あれは、大船より石弓を
くたしけるに、日本の小船、たもちかたく、
是かために、たひゝゝ打れけれは、此事」(20ウ)


294 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 09:42:02
>>293の続き。続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)
今は詮なし、夜打を止て、かせんすへしとそ、
ふれられける、されとも、猶やますて伊豫國
住人、河野六郎通有、異賊退治のため、
本國を立し時、十年のうち、蒙古よせ来ら
すは、異國へわたりて、かせんすへきと、起請
文をかきて、氏神、三島社に誓ひ、それを
焼て灰を飲て、此八ヶ年まて待々(カ)て、今
其時を得たりと、いさみたちて、兵船二艘
を以て、異賊か中へ押よす、蒙古も待」(21オ)
うけて、射合するに、蒙古か、はなつ矢に、究
竟の郎等四五人、射ふせられ、たのむ所の伯父
さへ手負、我も石弓に左の肩を、つよくうたれ、
弓引へきにも、ちから及はねは、かた手に太刀
ひつさけ、帆柱を切て、賊船にわたしかけ、乗
うつりて、さんゝゝに切めくり、多くの敵の首
をとり、又其中に、大将と、おほしくして、王冠
きたる大男を、生捕て、前にしめつけて
そ帰りける、大友嫡子蔵人貞親、三十」(21ウ)
騎にて洲さきをつたひて、せめより、手
あらく戦て、敵船をやふり、首とも取て、
         (イ夜うちせし者ともは、皆多くうたれつ、)
かへりつ、その後も、九國の兵、たひくおし
(されとも、蒙古こたひは、甚たに、おししつまりて、)
よせて戦ふ、そのほこさきの、つよかるに、
(軍を、いそかす、何事を、はかるとにか、あらん、)
蒙古も、たすく、かゝりかたくや、おもひけん、
兵船ともは、はるか沖の方なる鷹嶋へこそ、
こきよせけれ、此時、大軍をもて、おしよせは
と、おもへとも、皆三十五十の、よりあつまりにて、
これと云大将もなく、誰か、しきすと、云人」(22オ)


295 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 09:49:38
>>294の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

も、あらされは、つよきやうにて、おのゝゝ、文
永の手こりに、おちたれは、勢ひうすし、
かゝる折から、さらぬたに、人口さまゝゝな
るに、九國既に打落され、長門にちき、たゝ
今、攻上りなんにと、云しらひ、又、東海、北海
よりも、おしよすなとも(カ)、ひしめきあへり、
これをきく者とも又、心おちせられて、一先
何方へか逃のふへきやと、みゝさゝやきして、
さりともと云者も、やうゝゝなくなりぬ、」(22ウ)
さるまゝに、米穀の類、西國へは積いら
す、京都より下りをる商人等、賣買に物
をつくし、取へきあたひ、なけれは、いかゝ
せん、蒙古乱入せすとも、かゝゝへる飢渇には、
死ほかなしと歎くめり、軍兵等も、
武力より兵粮粮につきはてゝ、いかんとも、せん
すへなし、去文永にも、御方既に落はて
て、萬死一生に攻なされたりしに、宇
佐、筥崎神(イ々)の、神軍を率たまひて、降(23オ)
伏、速なりきと、たゝ當社 八幡 筥崎に御
祈祷あるのみなり(なりイ) さるほとに、志賀嶋より
早馬来りて申は、七月晦日、夜半より乾風
おひたゝしく吹て、閏七月朔日、賊船ことゝゝ
く、漂蕩して海に沈みぬ、大将軍の船は
       あやしき龍神に
風の以前に、青龍、海より頭を、さし出し、
硫黄の香、虚空にみち、異形の者とも、眼に
さへきるに、おちおそれて、追はれて、にけさり
 たれと猶其イ
ぬ、此ふねも(碎て)、長門の浦に、吹つけられたりと」(23ウ)


296 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 09:55:16
>>295の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

きこゆ、残れりし舟は、皆やふれて、礒に
上られ、沖にたゝよひて、海のおもて、_を
ちらしたるに異ならす、死人は、きしに打
よせられて、つみかさねたるか如し、鷹嶋
に打上られたる異賊、数千人、船なくて、
疲れ居たりしか、破船ともを、つくろひて、
蒙古人、高麗人、七八艘うちのりて、逃んと
するを、鎮西の軍兵とも、小貮三郎左衛門
景資を大将として、数百艘おしよせたり」(24オ)
しかは、異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、
今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出し
ては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、
後には打積おきて、魚のゑとそ、なしにける
とそ、又、かの長門の浦に吹入られたる、大将の
ふねともは、閏七月五日、関東より、はしめて、
甲田五郎、安藤二郎着して、其手の者、新」(24ウ)
左近十郎、今井彦次郎等を一手とし、九國の
兵、より集りて、いく手になりて、おしよせ、皆
うちとる、但し、ことゝゝ、殺し尽しても、
こたひの神の威徳を、しらて止へけれは
とて、只三人を、たすけて、汝か王に、事の
趣を、いつはらす、いひきけよと、いひつけて、小舟に
のせて、おひ返す、さて此朔日の大風の事
を、後にきゝあつむれは、當社(宇佐イ)の震動、伊
勢の風宮の震動、津国住吉社の震動」(25オ)


297 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 10:10:47
>>296の続き。(橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』)

いつれも同時なりきと、うけ給るこそ、貴と
けれ、當社よりも、そのよし、京都に告たりけ
るに、京にて、おちあひて、その事きゝ、来ぬ、
かゝれは、蒙古か、とりさたよりも、此神の霊
威を、他国も、さそあらん、此九国の人民、一
同に貴ぶみあへぬは、なかりける、
  右此二まきは、異賊禦きに出ける日、
  目前に、診もし、きゝもしたる事ともを、
  あらゝゝしるしつ、こたひの事は、人も、あまた」(25ウ)
  しるせりと、きけは、世に委しきも、あるへ
  けれとも、われは、たゝ此神々の霊験を
  後の代にも正しく傳へ、のこさんとて、
  の、わさなれは、こまかなる事は、皆もらしつ、
   正應二年己丑八月

     イ筥崎宮社官
      圖書允定秀誌
           (花押)」(26オ)
------------
以上。

途中二回程連続投稿の規制に引っ掛かったが、何とか一通り全部うp出来た。
出来れば『八幡愚童訓』のバージョンの方も転載出来ればと思うが、菊大路本や
東大寺上生院本など室町時代に流布した諸本はフォントに無さそうな面倒な異体字とか
返り点の文章ばかりのものが結構あり、量もあるためなかなか出来そうに無い。
一応、愛媛の八幡浜市八幡神社蔵の文明本(『八幡大菩薩愚童記』)が返り点の殆どない
漢字・カタ仮名文なので、うpするとなったらこれを使うかも知れない。それにしても疲れた。

298 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 10:46:34
お疲れ。
ただ、せっかくだけど八幡ノ蒙古記とかその系統が、本当に史料批判に耐えうる文献なのか大いに疑問。
例えばよく戦術の違いとして引用される>>279にしても、本当に蒙古が捕えた人や馬をその場で腹さばいて
食べたと考えているのかと・・・
蒙古が毒矢を使用していたなんて話も、八幡ノ蒙古記系統以外では聞いたことがない。
ましてや、海が燃え上がったり、青龍が海から顔出したりするのなんて論外だろ。
史料批判が厳密な海外では、この手の文献をそのまま根本史料にしたりしないよね。

299 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 11:01:08
>>292
モンゴル帝国の主に漢籍に残されている、文永の役のような小〜中規模の
遠征の記録の場合、必ずしも目的とその目的が達成されたかを明確に記録
している訳では無い。

例えば、チンギス・カン時代に何度か西夏遠征が行われているが、
『元史』の太祖本紀の1205年(歳乙丑)と1207年(太祖二年)記事には、

「歳乙丑、帝征西夏、拔力吉里寨、經落思城、大掠人民及其鰉駝而還。」
「二年丁卯秋、再征西夏、克斡羅孩城。」

としか書かれておらず、どういった目的で西夏に遠征したのかさっぱり書かれていない。
ただ、西夏のあった河西地方は乾燥地域の荷駄獣として活躍する駱駝の名産地として有名で、
「大掠人民及其鰉駝而還」から考えて、西夏遠征の大きな目的の一つがこれら物資の陸上輸送に
欠かせない大量の駱駝の獲得があっただろう、と考えられている。

恐らく、西夏遠征には、有り勝ちな「モンゴルの征服欲が云々」みたいな単純な話ではなく、
チンギスの時代以前から続くケレイトやナイマン、ウイグル、オングトといったモンゴル高原から
漠北全域の政治力学上の問題が絡んでいることが想像され、さらに西方の西遼との問題もあって
今後の大きな戦役を見越して大量の荷駄獣などの獲得を狙い、西夏に掠奪遠征に出たのだろう、
田村実造とか村上正二先生の頃以前から色々推測がされている。

が、こういったことは必ずしも資料に明確に表れるとは限らないので、こういった場合は広く
その時代(前後)の傾向を掴み、少ない材料から確度の高い推定を重ねる他無い。

300 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 11:30:58
>>299
文永の役がモンゴル帝国の作戦として小規模というのはあり得ないだろ。
チンギス・カン時代の西夏遠征なんかとは準備期間や投資された資源の量が桁違いなんだけど。

301 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 11:33:12
>>298
最近の中世関係の歴史学の主潮は「宗教文書や説話文学だから歴史史料として使わない」という
以前のセオリーを改め、「宗教文書や説話文学」に含まれている、それらが成立した背景や
非現実的っぽい説話のなかに潜む史料を制作した人々の思惑や意図なども考察する方向にある。

資料に書かれている事が実際にあった事か、著者の主観によって故意に曲筆されたり仄聞や
誤伝に基づくものかを見極めるのは難しい。基本的に不明な点は周辺資料をあたって考察することは
歴史研究の手法として変わらない。年代記資料に書かれている内容があやふやだったり
誤・偽情報の場合もあれば、説話文学などで事態の詳細や背景などが書かれている場合も
日本の資料に限らずあるため、「宗教文書や説話文学だから歴史史料として使わない/使えない」
ということは当たらない。

江戸時代に対馬や壱岐の諸藩で書かれた歴代当主の年代記の場合、文永弘安の役に関わる事蹟は
『八幡愚童訓』からの情報丸写しの場合が多い(例えば宗資国(助国)の事蹟とか)。
江戸時代には鎌倉時代の壱岐や対馬に関する情報がなかなか無かったこともあるだろうが、おおよそ
彼らの事蹟について後代の対馬の宗氏などの認識では『八幡愚童訓』の情報とそんなに違わなかった
ため、そのまま採用された可能性も考えられる。(ここら辺の問題は難しいが)

また、『八幡愚童訓』に書かれている文永弘安の役の合戦関係の日時は『勘仲記』などの当時の
日記や後に編纂された諸資料ともおおよそ矛盾が無く、捕らえられた蒙古人らしい捕虜から
撤退途中に「青龍が表れた」とか「夜半に白装束の連中に襲われた」とか奇蹟話があっても
それらは一先ず置くとして、神秘的な話があってもそれに注意しながら資料として扱うべきものだろう。
(例えば当時の筥崎八幡はじめ八幡宮勢力と小弐氏とか菊池氏、大友氏などとの関係からどうかとか
 から『八幡愚童訓』の記述をどう見るかとか)

>>289
ともかく、仄聞した資料の断片で色々やり取りするより、その前後を含めて資料全体に書かれている
ことを、まず見る事が重要だろうと思い取り敢えず再うpした。誤記脱漏や読みにくさがあったら容赦願いたい。

302 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 11:55:54
>>301
>非現実的っぽい説話のなかに潜む史料を制作した人々の思惑や意図なども考察する方向にある。

こうした考察って戦後の元寇研究で本当におこなわれてる?
元寇に関する書籍は何冊も読んだけど、『八幡愚童訓』について最低限の説明すら無いじゃん。
例えば、博多焼失について周辺資料との整合性はどうなってるのさ?
江戸時代に書かれた年代記だって、一部を『八幡愚童訓』の情報で補ったとしても、博多が焼失した
なんて書いてなかった。
昔の国学者の方が史料について今よりまともな考察していたよ。

303 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 12:03:27
>>300
「小〜中規模」と言ったのであって、「小規模」などとは言っていない。
文永の役の規模と性格にについては>>32-35で触れた。
「大規模」というのは、弘安の役の時の東路軍4万+江南軍10万とか
チンギス・カンのホラズムシャー朝遠征の推定14〜20万とか
モンケの時代の南宋遠征での公称60万とかそういうレベルで、
「小〜中規模」の遠征と言うのは鎮守軍2〜3万(騎)レベルからそれ以下の
遠征について言っていると考えてもらえば良い。

文永の役の準備は、高麗近辺でほぼ賄われ、一応遠征の6年くらい前から準備が
始められているが、この時は南宋遠征への派遣を念頭に始められたもので、
高麗側が過負担に耐えかねて高麗近くの戦役へ使うかして欲しい、という要望に対して
「あるいは南宋を攻めるため使うかもしれないし、あるいは日本を攻めるために
 使うかもしれない。(とりあえず準備はせよ)」ということで始まったものだが、
本格的な派遣準備は、日本への遠征が現実味を帯びて来た文永の役の前々年から
前年の趙良弼の使節派遣あたりからになる。

モンゴル帝国の遠征準備はだいたい派遣のだいたい2〜3年前くらいから行われるが、
チンギス・カンの第2次西夏遠征も最初の翌々年に行われている。

304 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 12:31:10
>>302
残念ながら、文永・弘安の役の研究に関しては
「非現実的っぽい説話のなかに潜む史料を制作した人々の思惑や意図なども考察する」レベルでの
研究はまだされていないようだ。(西洋史や中東・中央アジア史などではそこら辺の進捗が見られるし、
室町時代や戦国時代については結構やっていると聞いているがどうだったか)
そもそも、近年の一般書籍での記述は現在のモンゴル帝国史研究の成果を踏まえているものすら少なく、
90年代後半以降のものでもクビライや大元朝などの立場や政治情勢についても明らかな誤解や認識不足と
見られる記述も少なからずある。

ややもすると資料精査が十分で無いままの考察が進められ、付会的な言説もまま見られるのはいささか
残念なところ。日本史の人で13世紀の中国の軍事・経済史に詳しい研究者か、モンゴル帝国史自体を
やっている人、出来ればこの時代の華北や江南史、高麗史の研究者が日本の諸資料を踏まえた上で、
文永弘安の役について何かしら書いて欲しいところだが。海域史研究が流行しているからそのうち
その方面からフィードバックがあるかも知れない。ただ、現在そっち方面の人たちが文永・弘安の役の
研究に進出しそうな雰囲気はまだ無いので、しばらくは文永弘安の役については研究者のエッセイ
レベルのものしか出ないかも知れない。

305 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 13:53:54
あー読むのめんどくせ
俺の人生めんどくせ

306 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 15:57:00
結局のところ、文永の役が威力偵察だったというのは見つからなかったなw

307 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 16:37:13
>>306
結局のところ、文永の役が威力偵察でないというのは見つからなかったな

308 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 16:46:31
>>307
文永の役が威力偵察でないという史料など必要ないだろ。
文永の役は中世の渡航侵攻作戦としては最大クラスなんだから、威力偵察だったという
決定的な史料でもない限り、威力偵察などではないと考えるべき。

309 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 16:46:58
>>286
ごめん、問題のところはすでに出ていたのに、前後した。
で、「松原」だが、私はやはり一般名の松原か、それとも箱崎松原の
箱崎を省略したものか、どちらかだと思う。

というのは、箱崎松原は箱崎より北にあるのだが、この文章が箱崎宮を
中心にして書かれているとすれば、志賀島の難破船を見に行くのに、
「かの陣取りし跡」を過ぎて行くからだ。この「陣」というのはその前に
2カ所、松原に陣を取ったと書かれている陣と同じだろう。

だから問題の松原は今津などとは箱崎に関して反対方向にあったということ
になる。

310 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 16:56:56
それから焼けた場所だが、文章が言っているのは箱崎宮とその周辺では
ないかと思われる。
というのは、ご神体を極楽寺に避難させて、逃げて来た後を振り返ると、
すでに数カ所に煙が上がっていて、「いい時に逃げて来て良かった」と
安堵しているからだ。

上に言ったようにこの文章が箱崎宮を中心にして書かれているとすれば、
家を焼かれて嘆く市民の描写も箱崎の市民であろうし、「博多に迷いし」
は君の言うように「博多に逃げて」箱崎に帰って来た市民、ということに
なる。
で、博多のことはなんとも言っていないので、博多が焼けたかどうかは
結局、なんとも言えない。

311 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 17:06:33
それにしても威力偵察厨はまだスレ立てしないのか。
そんなに怖いの?

312 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 17:14:16
>>290
威力偵察を命じた文献がないなら、お前の威力偵察説も推測の中の一説でしかないんだよ。

313 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 18:52:30
>>309
>>285の筥崎宮が焼亡しているすぐ後に書かれている、
「こゝのみね、かしこの谷に、かくれたる、おちうとゝも、夜あけて、押よせ、さくられなは、
 今は何方へか逃ぬへきと、なけき、かなしみけり、」と書かれている部分の
「こゝのみね、かしこの谷に、かくれたる、おちうとゝも」と、>>286
「おもふに、落にし事は昨日そかし、一夜のほとに、かくも、かはりはてぬるものかなと、
 うちうめかるゝ程に、博多に迷ひし、おちうとゝも、 一夜過て、かへり来しに、是も住し家々、
 あと方 もなく、あさましう(カ)、同し思ひになけく中に、」の「おちうとゝも」が文脈の上では
同じような集団を指しているのか別個のものなのかで解釈が異なって来るように思う。
『八幡愚童訓』の方では同じようなグループと解釈して「博多ヲ逃ゲシ落人」としているのかも知れないが
そこは文献学的な考証を練る必要があるので今のところは何とも。

ちなみに、橘守部は『蒙古諸軍記辨疑』巻二では、>>285の筥崎宮の焼亡について、『暦代皇紀』
(『皇代暦』)の「文永十一年十月、異賊乱入云云、廿日筥崎社燒亡と見えゆ。」という記事を引きつつ、
「こは異賊の汚穢を忌て燒させ給ふなるべし。」と筥崎宮側が意図して焼却したものと解しているらしい。
(根拠は特に示していない。)
また、「夜に入て此宮より奇き火出し事、彼ノ對馬國府八幡宮より神火の出たると合せ考ふべし。」と
両者の同一的な奇瑞的な記述にについて注意を促している。

ちなみに、↓は福岡の住吉神社に所蔵されている江戸時代に鎌倉時代の博多周辺の海岸線を推定して
描かれた古地図。原本は室町時代以前に描かれたらしくて江戸時代になってから複本が結構出回った。
聖福寺の古地図や『蒙古襲来絵詞』などと並んで、文永の役の後に築かれた石築地が描かれている
割と貴重なもの。

ttp://toumyou.hakata.net/images/history/kozu_kamakura750.jpg
上が南で下が博多湾。博多湾周辺の推定海岸線の絵でもあればと探したが無かったので、位置関係を
見るのに参考として使えそう。


314 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 19:04:33
>>307
ここまで低能だと呆れるなw

文永の役が威力偵察だという確たる資料は見つかっていない以上、威力偵察だという意見は推測の域を出ない
だから、「文永の役が威力偵察でない証拠」を見つける必要などない。存在しないものを見つけることはできないからな
つまり、お前さんの言う
>結局のところ、文永の役が威力偵察でないというのは見つからなかったな
とは、「月にウサギが住んでいない証拠がないから月にウサギが住んでいる」と言ってるのと同義

はい、論破完了w


315 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 19:09:46
ついでに言えば、>>225-226は文永の役が威力偵察だという説明になってないよ
ここまで物分かりが悪いと、どう言えばいいのか思いつかなくてな・・・

316 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 20:58:56
>>308
もう忘れたのか?
大兵力だから威力偵察ではないという理由は、同じ渡海作戦のディエップで
否定されるのだよ。

317 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:06:23
>>316
もう忘れたのか?
フビライが威力偵察を命じた文献がない以上は推論なんだよ。


318 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:20:32
>>315
前に言ったように、威力偵察を否定する説も、肯定する説も、直接証拠は
皆無だ。だから状況証拠しかない。
八幡ノ蒙古記は状況証拠という意味では威力偵察に有利である。

八幡の蒙古記は武士(日本軍)の情けない戦いぶりを強調している。
神社の宣伝であることを差し引いても、日本軍が不利であったことは
否めないであろう。

一方でこの本を読む限り、蒙古軍は勝ち誇っている。
蒙古軍の撤退理由は、この本を読んでも全くわからない。
(白装束が怖かったなどというのは除外)
蒙古軍が予定の撤退をした、と受け取られるところが威力偵察に
有利な状況証拠。

つけ加えれば、この本では神風は吹いていない。難破した船は
風雨のためではなく、操船ミスで座礁したと考えればよかろう。

以上はあくまで八幡ノ蒙古記の範囲での話だよ。

319 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:22:38
>>318
訂正:
威力偵察に有利 → 威力偵察説に有利

320 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:25:34
>>314
それは結局、威力偵察以外の説はデフォだから証明不要、というのと
同じだ。

321 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:27:14
>>317
もう忘れたのか?
大宰府攻略説も推論の一つに過ぎないことを。

322 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 21:52:52
>>310
八幡の蒙古記は博多の被害についてなにも言っていないのだが、推論は
できる。
箱崎の住民がなぜ博多に避難したかと言えば、その時点で博多のほうが
より安全だったからだろう。なぜ安全かと言えば、箱崎が被害を受け始めた
時点で博多はまだ日本軍が戦っていたと考えられる。
その日本軍もやがて退却するのだから、それ以後は博多は無防備になり、
これもまた戦禍を被ったと考えるほうが自然だ。

で、博多に避難した箱崎住民たちはどうしたかと言えば、やはり郊外や
山など、市街地以外の場所に避難して、「一夜を過ごした」のではないか?

つまり「博多に迷いし」とは避難した時点の話だと考えれば、「一夜を過ごし」
た場所は博多とは限らない。だからこの文章をもってしては「博多が焼けなかった」
証拠には不十分だと思う。

323 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 22:06:49
>>322
うん、だとすると文永の役を威力偵察と推論するには、当時の文献の中から確実なものを引っ張りだして来た方が早い。
一つの資料とか都合のいい部分の切り取りよりもね。そして時空を越えた例えはいらない。
そもそも現代でいう所の威力偵察に当て嵌めるのに無理があると思う。
そもそもフビライ以下の元軍に威力偵察なる概念があったか?疑問だからな。


324 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 22:17:13
>>323
うん、だとすると文永の役を大宰府攻略と推論するには、当時の文献の中から
確実なものを引っ張りだして来た方が早い。
一つの資料とか都合のいい部分の切り取りよりもね。

325 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 22:22:33
>>316
そもそも、ディエップを比較に出すのが間違い
これだけ時代(技術)が離れてしまうと渡海作戦の困難さが違いすぎる

326 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 22:30:57
>>324
大宰府を最初の攻略目標にするのはそう不思議ではないと思うが
この時代の渡海作戦である以上、補給が滞りがちになるのは目に見えている
であれば、補給が来るまで持ち堪える拠点となる場所が必要となるだろ
目の前の敵拠点を放置して橋頭保の構築にかかるなんて危ない真似果たして元はできたのかな?

327 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 22:39:01
この時代前後100年ぐらいの威力偵察の例は無いのか?

328 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 23:29:45
>>316
>大兵力だから威力偵察ではないという理由は、同じ渡海作戦のディエップで
>否定されるのだよ
ディエップ関連はここでは迷惑だから他で相手する、と言われてるのにそれを
スルーして勝利宣言?どんだけチキンなんだよw

そういやこんな事もあったなw
          ____
       / \  /\  キリッ
.     / (ー)  (ー)\
    /   ⌒(__人__)⌒ \          <en forceを仏和辞書で引くと「大勢で」と出ている。
    |      |r┬-|    |            偵察を大兵力でやるのがreconnaissance in force
     \     `ー'´   /            なのだ。普通の辞書でいいからまず引いて見てからにしてくれ。
    ノ            \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

※普通の仏和辞典ではen forceの意味として「強行に」が出てくる。よってreconnaissance en force
は「強行偵察」ぐらいが正しい意味

329 :こんな事もあったなw:2009/12/19(土) 23:31:52
          ____
       / \  /\  キリッ
.     / (ー)  (ー)\
    /   ⌒(__人__)⌒ \          <Combined Operations Headquartersは
    |      |r┬-|    |            米国との「連合」が始まるはるか以前から存在した。
     \     `ー'´   /
    ノ            \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

149 名前:日本@名無史さん 投稿日:2009/12/11(金) 22:55:37
>>143
これを書いたら軍事虫三号に指定かな?
Combined Chiefs of Staffの成立は1938年です。まあこの
名前になったのは1942年だが。ソースは統合軍参謀マニュ
アルの第1章から。これは米統合幕僚学校の教育用テキスト
だから、文句は米統合幕僚学校に言ってくれ。

330 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 10:54:07
今月出た『乱神』(高嶋哲夫)という小説が、元寇をあつかってる。
ぱらぱらっと立ち読みしただけだが、
この作者は文永も弘安も、「日本側の戦闘能力によって勝利」という考えのようだったな。


331 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 11:14:26
流石に今時フルボッコにされたけど
神風のおかげで勝ちましたという説は
いくらなんでも鼻で笑われるからなあw
最近は教科書ですら、文永は兎も角弘安は
武士達によるワンサイドゲームと教えてるぜ。
少なくとも俺は高校の時そう習った。00年代初期の話ね。

332 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 14:40:51
>>331
残念なことに、現在の教科書でも神風のおかげで勝てたと書いてあるんだな
ソースは、2年前は高校生だった俺

まあ、友達と「教科書間違ってるなw」とネタ扱いしていたが

333 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 16:20:44
>>323
>そもそも現代でいう所の威力偵察に当て嵌めるのに無理があると思う。

それは当たり前だ。そんな議論をするところがすでに軍事虫の悪影響だ。
前にも書いたように、中世の戦争で「威力偵察」と称するのはあくまで
比喩なのだ。つまり現代の戦争で言えば「さしづめ」威力偵察だ、と
いうこと。中世に「威力偵察」という言葉はないのだから当たり前だ。

軍事虫は現代の軍事論に引っ張り込んで煙にまこうとしたが、「威力偵察」
でそんなにしゃっちょこまる事はない。威力偵察がなんたるかは、その
言葉が示している。「威力」すなわち強力な軍を用いて偵察を行えば
それが威力偵察だ。そう言っても君たちはまだ「偵察」で引っかかるだろう。
なんとなく少人数で潜入するようなイメージがあるからだ。

それなら元に戻って見ればよい。元の言葉はreconnaissance en forceだ。
en forceは「力を頼んで」と「軍をなして」と両方に解釈できるが
どちらでもよい。reconnaissanceは動詞reconnaitre(見分ける)の名詞化
だから「見分けること」、つまり情報を得ることだ。
情報を得るために強力な軍を動かして攻撃すれば、それが威力偵察なのだ。

情報を得るのが目的であって占領が目的でないから必然的に短期作戦に
なる。

334 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 16:23:34
>>333
訂正:
しゃっちょこまる → しゃっちょこばる

335 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 16:42:58
>>322
いや。
当時、日本有数の大都市だった博多が被災して、周辺資料がそれにまったく触れないなんてありえないから。
史料に無い以上博多は無事。
君の勝手な推論が入り込む余地などないの。

336 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 17:09:18
>>333
文永の役は短期に撃退されただけで、最初から短期作戦を想定していたわけじゃないぞ。
その点は金方慶が作戦継続を主張してることから史料上明確だ。

337 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 19:50:09
>>336
洪茶丘がなにも言っていないのがミソだな。
クドゥンと洪茶丘がぐるで、金方慶はこけにされていたかも知れない。

それと、元軍の立場になった見よ。
そのころの元は南宋で攻城戦に失敗ばかりしていた。
ある城市は、取ることは取ったが4年かかった。
攻城戦恐怖症になっていただろう。
そして大宰府までは行って帰った遣いがいるのだから、その防備は
わかっている。

補給のない2万余の軍勢でこれからなにをやろうと言うのか。
包囲したところで続々集まって来る日本軍に逆包囲される。
私はそもそも文永の役では大宰府攻略は考えていなかったと思うね。

338 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 19:51:58
>>337
訂正:
なった見よ → なって見よ

339 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 20:11:57
>>337

>>325-326はスルー?w

340 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 20:29:50
>>328-329もね


341 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 20:30:27
次は投石器持参してなかったから
本気じゃなかったよ説を持ち出すんだろうなあ

342 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:32:41
回回砲は持ってきてたんじゃね?

343 :日本@名無史さん:2009/12/20(日) 22:35:14
偵察厨の頭の中では官軍が整わなかったのも計画通りなのかな?

344 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 09:27:09
>>337
>補給のない2万余の軍勢でこれからなにをやろうと言うのか。

元軍の兵数は蒙漢軍2万5000人、高麗軍8000人で合計3万人を超えてる。
そして、この兵数は当時の世界の大半の国を余裕で征服できる数なんだよ。
第4回十字軍は艦艇200隻、兵数1万2000人と文永の役の元軍の3分の1の兵力でしかなかったが、
日本より人口の多いピザンツ帝国征服してる。
ましてや元軍は直前に樊城、襄陽を立て続けに攻略し、攻城戦に絶対の自信を持っていた時期。
これだけの大軍投入してる以上、大宰府攻略なんて最低限のノルマでしかないの。

345 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 09:38:16
>>343
モンゴル軍の撤退には、やれ長雨が続いたからとか、やれ馬の餌が尽きた
とか、なにか言い訳をくっつけるのが言わば「お約束」だと書いている
ページがあったな。

>>325
私はディエップと文永の役の共通点が非常に面白いと思う。
それは、両者とも、初めての渡海・敵前上陸作戦であることだ。
英国は上陸作戦はいろいろやっているだろうが、近代戦争になって
からは初めて、特に独軍に対する敵前上陸ははじめてだ。

モンゴルは文永の役の前にベトナムに第一次遠征しているがそのときは陸路。
渡海・敵前上陸は生まれてはじめてだ。

ディエップは一言で言えばばかげた作戦で、今でも批判が多い。
それでもチャーチルはやらざるを得なかった。それほど渡海・敵前上陸
は分からなかったのだ。だからノルマンジーのミニ版で予行演習をやった。

いわんやモンゴルをおいてをやだ。
やはりいちかぱちかで攻略目的の大軍を送る前に、予行演習は必要だと
考えただろう。

346 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 10:00:59
>>345
残念でした。
モンゴルは三別抄の乱鎮圧で珍島、耽羅とバッチリ渡海・敵前上陸の予行演習済ましてるんだよ。

347 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 10:12:04
偵察厨は
まーた誤用を正当化しようとしてるな

348 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 10:14:22
>>344
>ましてや元軍は直前に樊城、襄陽を立て続けに攻略し

10万人の兵力で4年かかってな。

>>346
しょせん匪賊相手だ。
生まれてはじめてとは言えないかも知れないが、渡海する距離や相手の
強さを考えれば改めて予行演習は必要と考えただろう。

349 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 10:15:00
>>345
お前は、>>7-9>>325-326>>328-329に答えてから他のレスしろ!

350 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 10:39:08
>>348
樊城、襄陽の攻略は攻城戦の手本となるべき見事な作戦だぞ。
無理攻めを避け、真綿で首を絞めるように着実に攻略したお陰で、味方の損害を最小限に抑えただけでなく、
敵の守備兵をほぼ無傷でモンゴル軍に編入できたんだからな。

351 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 13:11:52
ついに威力偵察の誤用を正当化しようとしだす偵察厨。

しかし、この時点で「誤用であることを認めてしまっている=つまり威力偵察ではない」という自爆には気が付いていない様子。

352 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 15:46:57
>>350
>樊城、襄陽の攻略は攻城戦の手本となるべき見事な作戦だぞ

だから、10万人で4年かかる作戦を文永の役の蒙古軍が目指していたのか?

ところで、襄陽の攻略を挙げてくれたおかげで、また新しい視点が生まれた。
10万人で4年もかかり、その間には大土木工事もあった襄陽の攻城戦は、
機動力を旨とする蒙古兵にはまったく不向きだ。
だから襄陽の攻城戦の主力は中国兵、つまり宋の降兵であった。

これを見ると弘安の役の元軍が10万の江南軍を含んでいたことは、
「今度こそ攻城戦」という作戦目的の表れではないか?
しかも長期戦覚悟だからスキクワ持っていたと・・・

353 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 15:55:35
いや、ひょっとするとスキクワは土木工事用かも知れない。
水城の堀を埋めることを考えていたとか・・・

354 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 16:41:03
平戸で立てこもるとき使ってるよね

355 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 17:46:47
>>348
>しょせん匪賊相手だ。
元は日本を匪賊と同程度か少し上程度に見ていた節があるんだよね
まあ、そういう資料があるわけではなく、ただの推察だが

356 :日本@名無史さん:2009/12/21(月) 19:16:24
>>352
>だから、10万人で4年かかる作戦を文永の役の蒙古軍が目指していたのか?

もちろん水城は樊城、襄陽ほど堅固じゃないから、速攻で攻略できると考えてたんだろ。

>これを見ると弘安の役の元軍が10万の江南軍を含んでいたことは、
>「今度こそ攻城戦」という作戦目的の表れではないか?

襄陽守ってた南宋軍ってモンゴル軍に編入された後、文永の役に投入されてるんだよ。
モンゴルは文永の役も本気で攻城戦やるつもりだったってこと。

357 :日本@名無史さん:2009/12/22(火) 09:36:05
>>345
たとえば馬の餌が切れたとかで終わった作戦はどれくらいの期間行われたんだろうか?
文永の役並に短いの?

358 :日本@名無史さん:2009/12/22(火) 10:50:30
>>357
馬の餌が切れたとかで終わった作戦ってのはフレグの中東遠征で、1253年秋にモンゴル高原を出発し、
途中1256年にイランのイスマーイール教団を滅ぼした後、1258年にバクダードを攻略して更にシリアへと
侵攻したところでモンゴル帝国皇帝のモンケの訃報が届き、1260年2月にアゼルバイジャンまで撤退。
この時、ルイ9世宛ての手紙の中で撤退理由を「馬の餌が切れたから」と説明してるって話。

もう一つの長雨の方は、モンケの南宋侵攻で1257年に樊城、襄陽を包囲したタガチャルが、
わずか1週間で撤退してしまった理由を、元史が「秋の長雨のため」と記してるって話。

どちらの例も、研究者の大半は撤退理由の説明を鵜呑みにせず、モンゴルに都合の悪いことを
隠すための単なる建前だと考えてる。

359 :日本@名無史さん:2009/12/22(火) 14:12:58
もし鎌倉幕府が元寇に負けてたらどうなったの?
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1261458138/l50


360 :日本@名無史さん:2009/12/22(火) 16:44:13
ありがとう。短期の「威力偵察」どころかかなりの長期遠征じゃないのw

しかも完全に言い訳だな。

361 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 06:11:34
内陸国出身の蒙古人には、日本海を渡ってくるのは辛いだろうな。


362 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 22:20:23
>>324
少なくとも上陸点は事実で動かせないんだよ。
俺は文永の役の目的が太宰府占領とレスした事はないが
君は君の妄想の中の思い込みが強すぎないか?
ちなみに威力偵察という概念を元軍は持っていたのかとレスしてるんだよ。


363 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 22:23:44
>>333
もう一回書いとくな。言葉があるなしではなく威力偵察という概念を持っていたのか疑問だってレスしてるんだ。
それだけで文永の役の元軍の目的が限定されかねないだろ?
意味わかるか?


364 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 06:34:09
ストローマン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
ストローマン (straw-man)とは、議論において対抗する者の意見を正しく引用せず、あるいは歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。

語源は仕立て上げられた架空の存在を藁人形に見立てたことから。そのまま直訳して「わら人形」「わら人形論法」とも言う。

概要
相手の意見を誤解していたり、正しく引用することなく歪めたり、誇大に解釈すれば、その意見に反論することは容易になる。
このばあい第三者から見て一見すると反論が妥当であるように思われるため、人々を説得する際に有効なテクニックとして用いられることがある。
これは論法として誤謬(論点のすり替え)であり、無意識でおこなっていれば論証上の誤り(非形式的誤謬)であり、意図的におこなっていればその実態は詭弁である。
しばしば感情に訴える論法と共に用いられる。また相手の発言のうち、反論するのに都合の良い部分だけをとりだして反論することをクオート・マイニングとも呼ぶが、クオート・マイニングはストローマンの一種である。

マスメディアにおいて対抗意見を充分に取材せず、独自に解釈した反論を両論併記などの形で用いることは、故意でないにしろストローマンに繋がるものである。
しかし実際にはこうした手法はしばしば報道に取り入れられている。

ストローマンの手順
相手の意見を歪めた説明を相手が提示したものとして引用する。
これに対する自らの反論を示し、論破されたものと扱う。
相手の意見に同調する不完全な擁護意見を持ち出し、充分な主張・再反論がされたように見せかける。
批判されて当然である(本来無関係でも一見関係のありそうな)問題や考え方を創造し、さも相手側の意見はこれを象徴するものとして強く非難する。
簡単な例:

A氏「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
B氏「そうは思わない、子どもが外で遊ぶ

365 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 08:04:50
>>364
まさにここの偵察厨そのものだな

366 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 14:55:36
永井建子作詞作曲の「元寇」。
いつ聴いても良い曲です。


367 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 13:38:40
>>360
>しかも完全に言い訳だな。

理解がいいぞ。
「矢尽」「官軍不整」などは単なる言い訳だというのが私の言いたいことだ。

これも研究者が鵜呑みにせず、単なる建前と考えてもいいわけだ>358

368 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 13:41:50
ようするに元軍は普通に負けたってことだね。

369 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 13:55:43
>>363
>言葉があるなしではなく威力偵察という概念を持っていたのか疑問だ

「威力偵察という概念」というのが、すでにして言葉に裏付けられた概念だ。
前にも言ったように、威力すなわち強力な軍隊をもって、偵察すなわち
敵軍の情報を獲得するための行動を行えば、それがすなわち威力偵察だ。

370 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 13:58:14
>>368
それは理解が悪い。その逆だ。
「単なる建前」とか「言い訳」とか言うのは、「予定の撤退」に
副った考え方だ。

371 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 14:06:56
>>370
予定通りだったら言い訳する必要がないじゃん。
言い訳してるってことは作戦が失敗したってこと。

372 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 16:55:24
「よし、お前日本をちょっと脅してこい。
 ある程度やったら戻ってきて良いからな。」
「わかりやしたーw」



「矢が尽きたんで撤退しましたーw」
「は?」

373 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 17:11:38
>>371
>予定通りだったら言い訳する必要がない

そう言うだろうと思った。
予定通りの撤退だったとしても、たった一日の交戦で、しかも八幡の蒙古記で
見たように(あるいは蒙古じしんも「これを敗る」と書いているように)
戦いに勝っているのに、撤退したわけだ。
これは歴史に書くときに格好がわるい。だからしかるべき言い訳を
書いて置く、という話なのだ。

374 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 17:26:18
>>373
もしかしてギャグのつもりで書いてるの?

375 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 18:26:24
>>373の要約


「べ、べつに負けたから撤退するんじゃないからね!!
 格好悪いから撤退するだけなんだから!!勘違いしないでよね!!」

376 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 18:34:44
>>375
>格好悪いから撤退するだけなんだから!!勘違いしないでよね

と勘違いしているお笑い。

377 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 18:54:05
さてすこし話題を変えよう。

>>230 で私は:
>君の言うことも一理あるな。改めて読んでみると「博多に迷いし」は
>「博多に避難した」と取れないこともない。

と書いたが、また意見が変わった。「博多に迷いし」は、「博多で逃げ惑った」
と言う意味だと思う。つまり箱崎とは別のグループの話だ。
なぜそう思ったかというと、
http://gfujino1.exblog.jp/9881020/
に中世博多の地形が載っているが、中世博多というのはベニスのような
海上都市なのだ。
瓢箪を逆さにして、その成り口のつるのところが箱崎方面との細い連絡通路を
なしている。その大きい方の、つまり沖側のふくらみの上っぺりがオキの浜だ。
後が山などに続いている箱崎と違って、この連絡通路が押さえられたら、袋の
ネズミなのだ。しかもオキの浜にはすでに蒙古軍が上陸している。
こんなところに、箱崎からわざわざ避難するだろうか。

というのが私の疑問だ。

378 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 19:20:08
>>377
博多が無事だったことは、「博多が被災した」と書いた史料が皆無である以上、確定事項。
だから万に一つも「博多で逃げ惑った」 である可能性はない。
その場合「浜にはすでに蒙古軍が上陸している」「箱崎からわざわざ避難する」という前提が
間違っているということになる。

379 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 19:39:30
「馬のエサが尽きた」のは言い訳で確定している。
矢が尽きたのも言い訳と考えた方が自然。

380 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 00:23:17
>>373

格好悪いから書かないなら、他にも類例あるだろ?
元のでも明のでも良いから、それが戦いの中にどれほどあるか提示してみせろよ。

というか、明が元の格好悪いところ隠して何かあんの?

381 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:33:44
疑問なんだが、弘安の役の日本側の動員数が推定約4万って少なすぎないか?
承久の乱じゃ鎌倉方は20万騎も動員してるのに。

382 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:39:49
>>369
そこまでおっしゃるなら>>7-9に答えてくださいな^^

723 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 11:12:58
>>712
だーかーらー

■■単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れるっての■■

あとづけで似てる似てると連呼したって何にもならん
お前の長々とした駄文では何の証明にもなってないよ
古今東西の戦争すべてを威力偵察にするつもりか?


「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?」

383 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 09:35:58
>>379
>矢が尽きたのも言い訳と考えた方が自然。

だから言い訳だと言っているのだよ。つまり本当に矢が尽きたのではない。

>>380
>というか、明が元の格好悪いところ隠して何かあんの

>>358の、タガチャルが1週間で包囲を止めたことを考えて見よ。
これも、本当のところは恐らくタガチャルのモンケに対する、公然たる
サボタージュなのだ。
しかしサボタージュとは書かないで、タガチャルがそう言ったかどうかは
わからない「長雨」を理由にしている。
これも「明が元の格好悪いところ隠して何かあんの?」と言いたくなる
ではないか。

384 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 09:55:33
それは結局元軍のボロ負けだったってことなんだよ

385 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 12:26:09
簡単に長雨というが、大陸の水害はすごいけど。
水を治める者が中原を治める。

386 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 18:48:45
>>384
ボロ負けなら尚更のことだ。
ボロ負けによる撤収を「長雨のせい」だと、(明国人が書いた)元史が
粉飾した、ということになるのだから。

>>385
>簡単に長雨というが、大陸の水害はすごいけど

襄陽攻めを命じられたフビライの長期戦に業を煮やしたモンケがフビライを
罷免してタガチャルを任命、そのタガチャルが一応攻める格好をしてすぐに
撤収、これに怒ったモンケが再びフビライを任命、フビライは再びグズグズ、
しびれを切らしたモンケがみずから親征して陣中で死亡、その後タガチャルが
フビライに加担してフビライの即位に成功、
という経過を見れば、権力争いに絡んだ意図的なサボタージュであった
可能性が非常に高い。

387 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 19:05:27
>>386
お前さ、知らないことについて適当にオリジナルストーリー作って書くなよな。
ここは学術板なんだからさ。

388 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 19:34:54
>>386
明人の粉飾がどの程度なのか推測でなく確固たる根拠とともに明らかにしていただけますか?

389 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:00:51
>>387
オリジナルストーリーかどうか自分で調べて見たらどうか。
「タガチャル、フビライ、モンケ」あたりで引けばすぐ出てくるぞ。

>>388
サボタージュによる撤収を長雨による撤収と書く程度です。
ただし、明国人が書いたと言っても蒙古人が書いた底本があったと、
このスレのだれかが言っていましたね。

390 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:07:51
ついでに付け加えて置こう。
ある資料によればモンケには持病があり、脳腫瘍であったと推測される
と言う。
以下は私の見方だが、フビライ、タガチャルがモンケの命令をサボったのは
モンケの余命の少なさを見越していたのだろうね。
だからその死後の覇権争いに備えて、じぶんの勢力温存が大事だったのだ。

391 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:44:46
>>389
訂正:蒙古人が書いた底本 → 元国人が書いた底本

392 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:27:57
>>389
つまり適当にググって信憑性の不確かなネット情報の中から自分に都合のいいものだけをつまみ出し、
オリジナルストーリーを作ったってことだね。

393 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 08:18:18
>>392
いやいや、君たちにも分かりやすいように要約しただけだよ。

しかしオリジナルストーリーと勘違いするほど面白いすじがきであることは
確かだ。

ところで君はぐぐって確かめて見たのか?

394 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 08:45:01
>>344
>元軍の兵数は蒙漢軍2万5000人、高麗軍8000人で合計3万人を超えてる。

これが途中までになっていた。
たしかに高麗史の金方慶伝にはそう書いてある。

蒙漢軍二万五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百余艘、留合浦、
以待女真軍

しかし元史外夷一には:
十一年三月,命鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘,以千料舟、拔都魯輕疾舟、
汲水小舟各三百,共九百艘,載士卒一萬五千,期以七月征日本。冬十月,入其國,
敗之。而官軍不整,又矢盡,惟虜掠四境而歸。

となっていて、士卒は一万五千だ。これは高麗軍を含まないのかとも思うが、
船の数は九百艘で一致しているので、そうとも思えない。
また高麗軍を含まないとしても蒙漢軍の段階ですでに一万少ない。

実数は三万三千より少なかったのではないか?

395 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 09:11:07
>>394
そこは、元史日本伝のもとになった元文類・日本だと「士卒二万五千」なんだよ。
だから高麗史の記事の方が正確だと考えるべき。

396 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 10:34:34
もういい加減、うざくなってきた。
何言っても答えないで、持論のみを主張するやつなんか議論出来ねえだろ?
弄るのやめろよ(´・ω・`)

397 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 16:27:15
>>395
高麗史のほうが正確と言うより、船数が900艘で一致しているから
蒙漢軍と高麗軍合わせた総数が二万五千と考えるべきでは?

398 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 22:44:45
念のためだが、高麗史は蒙漢軍二万五千と高麗軍八千で総数三万三千なのだ。

これに対して>>395が挙げた元文類・日本の数字は「士卒二万五千」だ。
この元文類の数字は蒙漢軍という断りがないのなら総数と考えるべき。
すると総数は二万五千と三万三千という違いがある。
高麗史の方が正確と言う根拠はなんだろうか。

399 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 19:40:03
高麗史の方は確か別に編纂された高麗史節要とも数字が一致してたはず。
あと、元史は巻152・劉通で「統軍四萬、戦船九百」とも書いてる。
これは高麗史の蒙漢軍二万五千、高麗軍八千、梢工・引海・水手六千七百の計3万9700とほぼ等しい数字。
元史はとにかく編纂が荒くて、弘安の役についても江南軍の兵数だけしか書いて無かったりするだろ。
「士卒二万五千」というのは直接に忻都と洪茶丘の指揮下にあった蒙漢軍のみの数字で、
高麗軍や梢工・引海・水手の数は含まれていないと考えるべき。

400 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 20:19:55
>>399
>弘安の役についても江南軍の兵数だけしか書いて無かったりする

これは次の文章だね:
十八年正月,命日本行省右丞相阿剌罕、右丞範文虎及忻都、洪茶丘等率十萬人征日本。

将軍のほうは東路軍、江南軍の両方を含んでいるのだから、十万人を
江南軍だけとすることには問題がある。

文永の役についても三万三千よりも二万数千とする資料のほうが多いのだが、
どうも実数は額面より少なかったという見方があるのではないか?

乱暴だが:33000×10万/14万≒24000
という計算もできる。

401 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 20:28:05
>>400
現実に将軍のほうは東路軍、江南軍の両方を含んでるのに、兵数は江南軍だけだろ
元史は短期間で無理やり編纂されたから、そういうところは滅茶苦茶いいかげんなんだよ。
それから、二万数千とする資料のほうが多くは無いよ。

402 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 23:14:07
>>401
「(10万という)兵数は江南軍だけ」というのは「高麗史は必ず正しい」と
いう意味に過ぎないことに気づくべき。
もちろん「元史は必ず正しい」ではないが、少なくとも両方の可能性が
ある。

403 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 08:03:44
>>402
元史だって巻154・俊奇傅ではちゃんと忻都指揮下の兵数を「将舟師四萬」、范文虎指揮下の兵数を
「将兵十萬」と書いてあるんだよ。
つまり、元史の中ですら書いてある数字がバラバラなの。
現に文永の役の兵数だって巻152・劉通傅は「統軍四萬、戦船九百」で高麗史と一致してるだろ。
こういう場合、高麗史の数字の方が元史よりも信憑性が高いと考えるのは当然だろ。

404 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 15:45:36
NHKで日本、朝鮮半島2000年の再放送見たんだけど、このスレと全然違うこと言ってるね

405 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 17:09:23
>>403
>それから、二万数千とする資料のほうが多くは無いよ

ネット資料にいくらでもあるが、ネットばかりだと文句を言う向きもある
ので、たまには本から引用しよう。

中公新書の「元寇」という本がある。東京都立大教授の旗田巍という人が
書いている。

「元は高麗に対して、兵士八千、梢工・水手一万五千の提供を要求した。
これは過大でとても応じきれなかった。交渉の結果、兵士六千、梢工・水手
六千七百をだすことになった。」
「元は二万の兵士を動員した。そのうち五千は、これまで高麗に駐留し、
三別抄の討伐に使われていた屯田軍であり、残り一万五千は、あらたに派遣
された蒙古人・女真人・中国人からなる部隊であった。」

兵士の合計は二万六千である。旗田教授が金方慶伝などの記事を知らない
はずはないから、上記の数字にはそれ以外のなんらかの根拠があるのだろう。

406 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 17:17:27
>>405
学術書なんだから本当にそれ以外のなんらかの根拠があるのなら、それが書いてないとおかしいわな。
書いてないってことは、そんなもの無いってこと。
戦後の元寇研究なんて全部インチキだよ。

407 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 17:36:16
本論に関係ないけど、旗田巍って朝鮮べったり学者だよね。
元寇関連で言えば「三別抄の反蒙古抵抗戦は蒙古の日本
侵入を遅延させ、日本に大きな利益をもたらしました」とか。


408 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 19:53:02
>>406
中公新書は学術書というより一般向け解説書だろう。

さて次は、これも一般向け解説書だが、中央公論社「日本の歴史」シリーズ第8巻、
「蒙古襲来」だ。大阪大学/大谷大学教授の黒田俊雄という人が書いている。

「まず兵数は、屯田軍として忻都のもとにあったもの四千五百と洪茶丘のもとに
あったもの五百、それに新来の征東兵一万五千、計二万人、それに高麗の助成軍
約六千、合計二万五千〜六千人。
 船員および船中の雑役夫・漕手は高麗の負担したもの六千七百人。これは大船
百二十六艘分にあたるというから、他に元から供給されたものが多数あったはず
である。」

旗田巍の記述よりも具体的であり、かつ兵員の総数は一致している。
これだけ一致するからにはなにかあるのだろう。
元史の「士卒一万五千」、実は二万五千は、総数である可能性が高くなる。
実際、文章を素直に読めば総数と受け取れるし。

409 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 20:19:36
>>407
> 「三別抄の反蒙古抵抗戦は蒙古の日本侵入を遅延させ、
> 日本に大きな利益をもたらしました」
まあ、そこら辺は序文の方だったかでも
「高麗/三別抄の抵抗は民族自決の独立闘争として評価すべきだ」みたいな
書き方をしているんで、『元寇』が出版された1965年当時の雰囲気と思えば
十分かと。

ただ、文永の役前後で高麗国王や高麗の廷臣たち、洪茶丘や高麗方面の軍を
監督していた忻都たちの間で目まぐるしい対立が繰り広げられていたことは
割と詳しく本文中に書かれているので、著者の「民族主義」云々は一先ず
置くとして、この当時の高麗周辺の情勢を前もって知るにはちょうど良い
概説書だと思う。(絶版しているので図書館とか行かないと見られないのは痛いが)

>>404
クビライの支配領域が今のトルコのあたりやロシア・ウクライナあたりまで
及んでいたような印象を受ける地図を何度も見せたり(カイドゥとかはスルー)、
ベトナムの陳朝が最初っから独立していて(モンケの南宋遠征のときに降伏)、
クビライの「侵略」を撃退したみたいな内容になっている時点でかなりいい加減な
作り方しているw
(両者激戦の末、陳朝が元軍を撃退したのは『元史』にも載っているので確かだが、
 陳朝が反乱を起こした原因のチャンパーが元朝に帰順して陳朝が孤立し、陳朝も
 再び元朝に帰順を申し入れ、それが受け入れられた事も触れられていないのは問題。)


410 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 20:19:39
>>408
それらの本の兵数が一致するのは当然。
戦後の元寇研究は全部昭和8年に書かれた池内宏の『元寇の新研究』の焼き直しだから。
巻末の参考文献をみれば、必ず池内宏の『元寇の新研究』がリストアップされてるはず。
で、池内宏の『元寇の新研究』には、元史や高麗史以外の根拠なんてないよ。
池内宏の『元寇の新研究』への批判がタブーになっちまって、おかしな論法も墨守し続けてるのが、
戦後の元寇研究を歪めてる根本原因。

411 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 22:00:58
>>410
征東軍一万五千は高麗史にも出てくるからこれはいい。
問題は屯田軍が五千しかいないことと、
高麗軍が八千から六千にまけてもらったこと、
この2点だ。

池内宏はこれをどこから持って来たの?
あるいはどんな理屈でひねり出したの?
知っていたら教えてくれ。

412 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 16:19:17
文永の役では、元側の司令官クラスが自軍は少ないという共通認識を持ってる様子なんだけど、
日本側は実際のところ何人いたんだろうか。

413 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 21:41:59
Put into Japanese.

414 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 14:17:50
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

壮絶だなー

415 :日本@名無史さん:2010/01/15(金) 09:20:27
>>411
ようやく規制が解けたので続きを書く。

「屯田軍五千」の根拠が分かった。
高麗史・玄宗15年2月(家070)に、屯田軍に供給する食糧の話があり、
その対象として、「忻都官人の所管する軍四千五百人」と「洪(茶丘)総監の
軍五百人」と書いてある。

また三月(家072)には(屯田)経略使の王総監が来て、「命じて軍五千を発し、
日本を征するを助けしむ」とある。この五千は上記に対応していると思われる。

五月になると「元の征東兵万五千来る」とある(家074)。
両方合わせて、蒙漢軍は二万だ。
高麗軍が額面通り八千だとしても総兵力は二万八千だ。

上記のように、屯田軍五千の根拠はちゃんとあることがわかったから、
高麗軍八千を六千にまけてもらう話も、まだ見つけてないがどこかに
あるのだろう。
とすれば総兵力は二万六千だ。

416 :日本@名無史さん:2010/01/15(金) 12:52:09
鎌倉時代にモンゴルが攻め込んで来たように、弥生時代末期にユダヤ人秦氏が攻め込んで来て日本を建国し、古墳時代が始まったんですよ。

417 :日本@名無史さん:2010/01/17(日) 01:19:38
中東の外人が数人あるいは数十人わたってきたところで
単なる「めずらしいお客さん」にすぎないでしょー



418 :日本@名無史さん:2010/01/19(火) 08:05:01
天狗のモデルになったという話を聞いたことがある。
赤ら顔で鼻が高く目が大きいなど東洋人離れした特徴など


419 :日本@名無史さん:2010/01/19(火) 08:14:34
>>415
そんなのは根拠になってない。
高麗史には蒙漢軍2万5000、高麗軍8000と明記してあるんだから、
高麗史の記述をどういじろうと総兵力は3万3000。

420 :日本@名無史さん:2010/01/21(木) 09:40:12
>>419
同じ高麗史の同じ玄宗世家に、二つの数字があるのだから、その片方の
数字のみが絶対に正しいと言うことはできない。

421 :日本@名無史さん:2010/01/21(木) 10:46:51
>>420
それは嘘。
高麗史には蒙漢軍2万5000、高麗軍8000という一つの数字しかないぞ。

422 :日本@名無史さん:2010/01/21(木) 15:59:03
>>421
嘘なものか。

>>415に書いたとおり、
<家070>と<家072>に、屯田軍五千という数字はあるのだ。
その他に<家074>に、新着の征東軍一万五千の数字がある。
合わせて二万だ。

そしてその後の<家078>に、君の言う蒙漢軍二万五千の数字が
出てくるのだ。

あくまで二万と二万五千の、二種類の数字がある。

423 :日本@名無史さん:2010/01/21(木) 18:20:35
>>422
その二万ってのはお前が勝手に作った数字だろーが。
高麗史には蒙漢軍二万五千という一種類の数字しか書いてない。

424 :日本@名無史さん:2010/01/21(木) 20:12:50
>>423
よく読め。
屯田軍が五千というのは二回も出てくるのだ。
(一回は四千五百+五百)
そして新来の征東軍が一万五千。
一万五千と五千を足せば二万という、小学生でもできる足し算だ。

黒田俊雄も明らかにこの足し算をやっている。

425 :日本@名無史さん:2010/01/21(木) 20:53:17
>>424
だから、そういう足し算には意味がない。
高麗史には蒙漢軍二万五千という一種類の数字しか書いてないんだから。

426 :日本@名無史さん:2010/01/21(木) 23:15:44
>>425
<世家070><世家072><世家074>
これらは高麗史ではない、と言っているのか?


427 :日本@名無史さん:2010/01/21(木) 23:56:21
>>424
五千というのが二回出てきて、新着の征東軍一万五千の数字があるのなら、
五千と五千と一万五千を足して二万五千じゃん。
小学生でもできる足し算だぞ。

428 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 09:39:08
>>424
そうではない。
まず<世家070>に、屯田軍の内訳が忻都の四千五百と洪茶丘の五百と
出てくるのだ。

その後<世家072>で、本国から(屯田軍を統括する)経略使という
のがやって来て、屯田軍五千に対して出征の命令を伝えるのだ。
この五千がその前の四千五百+五百に対応していることは明らか。

そしてその後の数ヶ月しかない短い期間に、征東軍一万五千以外の軍が
到着したという記録はない。
だから屯田軍五千という数字は動かないのだ。

429 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 11:20:20
>>428
それでは足しても二万五千にならないから、あきらかに間違い。
蒙漢軍は全部で二万五千なんだから、<世家070>の五千と、<世家072>の五千は別々ってこと。
屯田軍は合計で一万なんだよ。

430 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 18:55:41
>>424
自分の頭脳が小学生以下だという自爆www

>屯田軍が五千というのは二回も出てくるのだ。
五千 + 五千 = 一万

>そして新来の征東軍が一万五千。
一万 + 一万五千 = 二万五千

どう計算しても二万にはなりません



431 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:09:59
もうこねえよ!

432 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:52:53
>>430

私は真実を言っているのだ。
君がどう言おうと真実は変わらない。


433 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:01:48
事実は一つ。
高麗史には蒙漢軍二万五千という一種類の数字しか書いてない。

434 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:39:43
部隊の内訳を網羅的に書いてあるという根拠がないかぎり
足し算は無意味。総数の記述は一つのみ。


435 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:45:09
>>432は私の偽者だ。

ところで申し訳ないが私は間違えていた。
<世家072>の五千は屯田軍ではなく高麗軍だと思う。

岩波文庫の訳文:「三月丙戌、元、経略使王総管を遣わし来たり、命じて
軍五千を発し、日本を征するを助けしむ。」

原文:「三月丙戌、元遣経略使王総管来、命発軍五千、助征日本。」

これと同じ構文の記事が<世家07>にある。
原文:「八月巳酉、元遣日本征討軍都元帥忽敦来、令加発四百五十八人。」

前の「発」に対して「加発」だから対応している。追加したのだ。
「京軍」とは近衛軍のようなものだろう。高麗の王都はいずれも「京」が
ついたが、元は「大都」だったから高麗の近衛軍と思われる。
とすれば前も高麗軍だ。「助征」も高麗軍にふさわしい。

436 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:57:29
まとめれば:
屯田軍 五千(忻都四千五百+洪茶丘五百)
本国からの征東軍 一万五千
(小計:蒙漢軍二万)
高麗軍 五千四百五十八≒六千
合計:二万六千

黒田俊雄の「高麗軍六千」の根拠はこれだったのだ。
蒙漢軍二万五千、高麗軍八千は、それぞれに船関係以外の従軍人夫を
加えたものだろう。だいたい同じ割合で増えている。


437 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:59:38
>>435
訂正:
<世家07>→<世家077>

438 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:22:21
>>435-437
黒田俊雄の書いてる数字がインチキだとわかって良かったじゃん。
高麗史では、忻都の所管する金州屯田軍四千五百と洪総監の軍五百人の他にも
鳳州屯田軍、羅州屯田軍、全州屯田軍、襄城府生券軍、奥魯・濶端赤が日本遠征のため
高麗に駐屯していたことになってるんだが、それらの数字はどうなってるのさ?

439 :日本@名無史さん:2010/01/23(土) 10:14:22
>>438
まず訂正すると、>>435の引用文で「京軍」の字が抜けていた。京軍四百五十八人だ。

>黒田俊雄の書いてる数字がインチキだとわかって良かったじゃん。

インチキとは? 高麗軍五千四百五十八人を六千人に丸めたことを言っているのか?
少しでも君の主張に近づく方向だが。

>忻都の所管する金州屯田軍四千五百と洪総監の軍五百人の他にも

金州屯田軍などと、書いてもないことを発明してはいけない。
「忻都の所管する軍四千五百人の、金州に至る行糧」と書いてあるのだ。
金州とは金海のことで、出発地の合浦(馬山)のすぐそばだ。出発に備えて
港の近くに集結する、そのための行軍中の食糧を供給する話だ。

その他に出てくる各地の屯田軍は出征軍四千五百人とだぶっているか、あるいは
留守軍であるか、どちらかだ。
また奥魯・濶端赤は私の書いた「船関係以外の従軍人夫」に当たる。
梢工・水主はいずれも船の関係だから、それ以外の補給・輜重要員がいたはずだ。
それが人数の2〜3割を占めてもおかしくない。



440 :日本@名無史さん:2010/01/23(土) 11:34:31
>>439
{家070}の「忻都の所管する軍四千五百人の、金州に至る」の後の{家071}で、金州・全州・羅州の
屯住軍や鳳州屯田軍が出てくるんだから、金州屯田軍四千五百の他に全州・羅州・鳳州に屯田軍が
いたことはあきらかじゃん。

>その他に出てくる各地の屯田軍は出征軍四千五百人とだぶっているか、あるいは
>留守軍であるか、どちらかだ

お前が勝手に作った数字と辻褄合わせるために史料無視して適当なこと書くなよ。
高麗史には蒙漢軍二万五千と書いてあるんだから、屯田軍は金州の四千五百人だけじゃなかったってことじゃん。

441 :日本@名無史さん:2010/01/23(土) 16:51:30
>>439
>それ以外の補給・輜重要員がいたはずだ。
奥魯(a'uruq, アウルク)・濶端赤(kötöci, コテチ)というのが、モンゴル帝国の軍制では、
まさにその「補給・輜重要員」の部分のことを指していた。

ただ、『元史』などの漢文に出て来る「奥魯」は、要員だけではなくて、派遣軍の兵站部門として
設定された現地の田畑や村落なども含んでいる場合が多いので、外部から派遣されて来た
「奥魯」の管理を任された人員のみを指すとは限らず、注意が要ると思う。
(純粋にテュルク・モンゴル系の騎馬軍で「アウルク」と言えば、派遣軍の兵站やら補給・輜重、
 後方を担う、軍に随行する兵員たちの家族や家産である家畜群、その幕営拠点なんかを
 ひっくるめた全体を指したりするものだけれど。)

「コテチ/コトチ(濶端赤)」というのは、「引き馬(kötöl)する人」くらいの意味だが、
軍役にあたって補充用の牛馬(特に軍馬)の整備や育成を担当した部署や人員を指す。
通常、派遣兵員の家族や家畜群以外でも、「アウルク」を構成する重要な要素だった。

442 :日本@名無史さん:2010/01/23(土) 18:35:38
「日本攻めたのは威力偵察だよ。」
「日本せめてきたのは実はたった2万の寄せ集めだよ。」

以前の博多関連の話題もそうだが
要するにこう主張して武士弱かったよ説唱えたいだけだろ?
ボコられたけど神風のおかげで助かったよ説が
近年真っ赤な嘘だと明らかになったから別の切り口から攻めないとな。
他にも元軍の士気は最初から低かっただの、元の国書無視した日本が悪いだのとかもね。
果ては元寇を境に戦術や武器が大きく変わったんだから
武士たちは絶対に敗北したはずだとかいう説唱えた馬鹿も以前このスレにいたよな。

443 :日本@名無史さん:2010/01/23(土) 21:25:24
>>40
>>金州屯田軍四千五百の他に全州・羅州・鳳州に屯田軍がいたことはあきらか

鳳州は<世家061>に、「鳳州等の処に於いて営軍屯田せしむ」とあるから、
屯田基地の一つだったのだろう。
なんども言うが、「金州屯田軍」という言葉は出て来ない。君もその前に書いて
いるように「金州(の)屯住軍」というのはある。
屯住とは屯田のように畑も耕すのではなくて、一定期間滞在することだろう。
それは例の<世家070>で、「金州に至る行糧**碩、又屯住処の糧料」と続く
のでわかる。

つまり、鳳州などの(一カ所とは限らない)屯田基地から抽出された遠征軍が、
金州まで行軍して、出発までこの地に「屯住」した、ということだ。
それが金州(の)屯住軍であり、すなわち忻都の所管する軍四千五百人だ。

では全州・羅州(の)屯住軍とはなにか。それは<世家070>に、「大船三百隻、
全羅・耽羅の両処に就きて打造せしめよ」とあるところから、これらの場所に
屯住する、洪茶丘の造船督励軍であろう。

ということで、これ以外の到着の記録はないから、少なくとも遠征に加わったのは
四千五百+五百人、ということだろう。

>高麗史には蒙漢軍二万五千と書いてあるんだから

毎度のことだが、「高麗史には」ではなく「高麗史の世家078には」と
書いて欲しいね。前にも言ったように、これは非戦闘員を含んでふくらんだ
数字だと思う。なぜなら「海の非戦闘員」については具体的に書いてあるのに
「陸の非戦闘員」については書いてないからだ。

444 :日本@名無史さん:2010/01/23(土) 21:32:29
訂正:
>>40>>440

445 :日本@名無史さん:2010/01/23(土) 22:12:09
>>443
> 毎度のことだが、「高麗史には」ではなく「高麗史の世家078には」と
いや、揚げ足を取るようだがこの<世家078>とかいうのは岩波文庫版の『高麗史日本伝』を編訳した
武田幸男氏が凡例に書いているように、『高麗史』の日本関連の記事を抜き出して便宜的に付けた番号
だから、『高麗史』の本文そのものにはそういう番号は何ら書かれていない。

だから<世家078>とかで引用箇所を示すんだったら、正確を帰すには「岩波文庫版『高麗史』の」
とかいう前置きをしてからの方が良いと思う。

446 :日本@名無史さん:2010/01/24(日) 09:05:14
>>445
それはその通りだった。
ただ、相手もその本を元にして書いているから、相手との間では通じている。

447 :日本@名無史さん:2010/01/24(日) 12:35:17
>>443
>ということで、これ以外の到着の記録はないから、少なくとも遠征に加わったのは
>四千五百+五百人、ということだろう。

その他にも塩・白州帰附軍がいるじゃん。

448 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 09:33:50
>>447
塩・白州帰附軍て、忠烈王元年にやって来て、高麗女性と集団結婚して、
翌年帰って行ったという、1500人の南宋降兵のこと?
文永の役以降の軍隊のことはまだ議論していないのだが。

449 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 13:59:53
中国自身の歴史書に「二回目の遠征から帰ってきたのは3名だけ」という趣旨の記述がありますが、これはどう解釈すべきなのでしょうか?
字面だけをみれば「10数万の死人が出て、3人だけがいかだを必死で漕いで帰ってきた」
といったふうに読めますがそんなわけはないでしょうし。

明代の歴史学者に元をおとしめる意図があったとしても、なぜもっとまともな数字でなくたった「3名」としたのでしょうか?

450 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 14:35:55
「百万騎の大軍」みたいな常套表現なのか。
それとも指揮官クラスと言うことなのか。

451 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 15:17:01
>>449
明代の歴史学者に元をおとしめる意図なんてないよ。
その部分は、元代に書かれた文献の記述を、単純にまる写しにしたただけ。
台風の後、江南艦隊の船は全滅状態になり、出撃した十余万人がそのまま置き去りにされて
日本軍に虐殺されたってこと。
元史以外の高麗史とか元韃攻日本敗北歌とかも、ほぼ同じこと書いてる。
3人だけが帰還できたってのも、日本側の文献に一応「3人だけ小舟に乗せて送り返した」って
書いてるのがあるし。
普通に事実をそのまま書いただけだろ。

452 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 16:16:42
ご回答ありがとうございました。
ほかにもそういった史書に記載されていたとは知りませんでした。

453 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 17:22:29
>>451
高麗史(世家150)には、全員殺されたのではなく一部の技術者が生かされた
となっているな。
そして約1年後に、5人と6人のグループがそれぞれ逃げ帰って来た。
日が経っているから、上記生かされた技術者のなかから脱走したか、
送り返されたのだろう。
だから高麗史によれば生還者は11人だ。

ところで3人だけ送り返したという日本側の文献は何?

454 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 17:47:09
>>453
八幡ノ蒙古記だよ

455 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 22:52:09
>>454
確かに書いてあるね。そして帰した時期は戦いの直後だ。
だから三つの文献を較べれば:
  文献      時期    人数
八幡ノ蒙古記    直後     3
元史        不明     3    
高麗史      約1年後   11  

456 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 03:00:46
当時の地層から十字軍の騎士の剣が発掘されたってマジですか?
鎌倉武士団側に十字軍の騎士が居たってことですか?

457 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 00:03:32
そうです。しかし、その方(十字軍の騎士)は戦闘開始早々に戦死されましたw
ご冥福を祈ってあげてくださいw

458 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 17:21:33
しかし彼は日本の女性に子供を産ませていました。
その子孫が丸に十の字の島津になったのです。

459 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 19:37:50
マジレスするが島津家の家紋は少なくとも平安末期には存在したぞ

460 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 21:07:36
現実に元寇の遺品の中にはヨーロッパ製と思われる兜があるよ。
モンゴル軍が昔ヨーロッパへ遠征した時の戦利品を元寇でも使ってたと考えられてる。

461 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:25:26
久々に来たんだが過疎化しててワロタw

462 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 21:37:55
鎌倉武士最強厨早くきてくれーーーーーー

463 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:33:12
威力偵察厨が戻ればまた伸びる。
彼こそこのスレの牽引車。

464 :日本@名無史さん:2010/02/13(土) 21:10:23
結局、武士完勝でいいの?

465 :日本@名無史さん:2010/02/14(日) 01:37:45
最近アクセス規制が多すぎる・・・

466 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 01:51:22
ネタが薄すぎるなw
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1266133551/

467 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 18:37:41
なんか武士って碌な戦術をもってなかったかのように言われてるけど、
それで勝利できるならそれはそれで凄いと思う

468 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 18:42:02
>463
威力偵察厨ってさ、結局「コウモリが鳥類であると主張し、その証拠
として様々な鳥類を持ち出して『ここが似てる、あそこが似てる。よって
コウモリは鳥類だ』と結論づけている」って感じなんだよな。
実際にやるべきなのは、「『これが鳥類にあって他の生物にはない特徴
だ』って言う鳥類の定義を明示し、それに合致しているかどうかを示す」
事なのに。

ま、奴は鳥類どころか蝶類持ち出して「似てる似てる」と連呼してる面も
多々あったがw

469 :日本@名無史さん:2010/02/21(日) 15:28:15
ウルセー馬鹿

470 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 13:37:26
>>468

http://blog.goo.ne.jp/miritetsu/e/7b21129793757c583f4cf4ceabb9fb18

471 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 15:08:58
http://blog.goo.ne.jp/p_lintaro2002/e/331cb856ef5daf2d32a9bd7ff181713a
元は日本を支配する予定ではなかった、とはよく言われる説だ。高麗の三別抄を鎮圧出来ず、南宋の抵抗もあって、
日本がこれらと連携しては困るのでとにかく同盟を結びたかった、或いは併合ではなく属国としたかったのだ、という説である。
僕もおおむね賛成なのだけれど、絶対に征服併合しなかったという保証はない。国書を何回も無視しているわけで、
そうなれば攻められる事は必至となる。元は怖いのだ。
 結局、元は攻めてくる。といっても海に守られた日本であるから船を作らねばならず、支配下にあった高麗は突貫工事で
船を量産させられた。そして文永11年に元・高麗軍はまず壱岐・対馬を攻めるのである。壱岐・対馬は壊滅状態になった。 
このことは、後の太平洋戦争の沖縄戦に似ている。元寇に打ち勝ったことばかり喧伝されているが壱岐・対馬の犠牲をもっと知るべきだろう。
 そして元は九州に上陸する。日本の戦法はまだ「やあやあ我こそは…」であったらしくこれでは鉄砲も持つ元軍に勝てるわけがない。
義経でも居たらいい勝負をしたかもしれないけれども当時の鎌倉武士では勝ち目はなかった。
 しかし奇跡が起こる。夜になって船に引き上げた元・高麗軍を嵐が襲う。神風だ。一説によるとこの戦いは偵察であり元軍は帰ったのだ、
という説もあるが(この文永の役は11月であり台風シーズンではないため)、とにかく元が居なくなったことには違いはない。とりあえず命拾いである。
 しかしその後も元の使者杜世忠を幕府は斬り(国際常識がない)、その後の使者周福も斬り、攻めてくれと言わんばかりの行動をとる。
弘安の役は起こるべくして起こった。

472 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 15:09:39
 今度は元も本気であり、鎌倉幕府も危機感を募らせ防塁を築き関東から幕府軍も来ていた。しかし戦力は圧倒的に元が勝る。
しかし、またもや奇跡は起こるのである。2度目の神風。今度は8月でありおそらく台風だろう。元軍は壊滅した。
 その後元は日本を襲うことなく無事に過ぎたが、元寇には恩賞もなく、御家人はますます窮乏し幕府崩壊の最大の要因となったことには間違いない。 
では、もしも弘安の役のときに神風が吹かなかったとしたらどうなっていただろうか。
 文永の役では神風はなかったという説もあり偵察派兵とも言われているが弘安の役は本気だった。元軍は14万、対する日本軍は6万である。防塁を築き、
軍船に夜襲をかける等戦術も工夫していたが、やはり攻め込まれていたと考えるのが妥当ではないか。

473 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 15:15:49
なんか他の元寇スレでも↑みたいな資料にもならない妄言だけのブログ貼り付けてるのが沸いてるけど、論破された威力偵察厨がやってるのかね?


474 :日本@名無史さん:2010/02/23(火) 07:11:00
誰も信じてないのにな、もはや見ていて哀れに感じる

475 :日本@名無史さん:2010/02/23(火) 16:23:04
弘安の役の後、高麗から九州まで船を並べて橋みたいにして、
本格的な騎馬部隊をモンゴルから送り込もうとした計画があったってホントですか?

476 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 08:41:25
>>475
そんな面倒なことしなくても、本格的な騎馬部隊なら元軍は文永の役にも弘安の役にも連れてきてるよ。

477 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 10:29:41
>>476
釣りだ。相手にするな

478 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 22:47:53
>>471-472
惜しいな。もう5年前の記事か。
レスしたところでブログ主は見もしないだろう。
最近書かれたものならば完膚無きに論破してやったのにw

479 :日本@名無史さん:2010/03/01(月) 09:23:37
ブログ主は観なくても閲覧者は観る



480 :上記ブログ筆者:2010/03/02(火) 23:44:51
えーと、ブログ主です。こんな古い記事に最近やたらとアクセス多く、
また「名無し」のコメントも入ったりして(捨てハンのコメントは削除していますが)、
なんだろなと不思議に思ってアク解したらこちらでした。
あの記事はブログ始めたての頃だったので、しっかりと原典史料などにもあたってはいなく
おそらく2、3冊の何か周辺の書籍の知識だけで書いたんだと思います。書きたかったのは
「後醍醐が世に出る前に鎌倉幕府が傾いたとしたら」が主眼なので、元寇のことに関しては通り一遍です。

問題は(スレッドみんな読んでませんのでよく分かりませんが…ごめんなさい)、
「偵察派兵とも言われているが」「当時の鎌倉武士では勝ち目はなかった」あたりなんでしょうか。
このあたりに誤認があるなら修正しますよ。ブログに追記という形で。
スレッドもこのあと最初から読もうとは思いますが、こちらで教えてもらえるならそれでも有難いです。
なかなか勉強の時間がありませんので、ちょっと追記するにしても時間がかかるとは思いますが。
また質問をするかもしれません。

なお、ブログにコメントいただいても結構ですが、
「名無し」「通りすがり」等で書き込むのはやめていただきたいのです。
あちらは個人ブログです。もしも自分のサイトをお持ちであったら、
それも是非リンクして紳士的にご意見ください。

また、2ちゃんねるに書き込むのは当方はじめててルールも何も分かりません。
ただ、歴史の専門家が集まってらっしゃる場所だと思いますので、478のような
「完膚無きに論破してやったのにw」となどと貶めることが目的のような言動をされる方は
少数派だと信じます。どうか、ご教授いただければ幸いです。
また覗きにきます。

481 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 02:02:18
>>480
2ちゃんの書き込みに特別なルールなんてないよ。
個人的には、そういう2ちゃんの感覚の延長で個人ブログに乗り込んで行くのに抵抗あったから、
そちらから来てくれたのはありがたい。
基本的には、元寇について書いてること全部が問題。
それが、巷の書籍一般の記述そのままだということは、承知してるけどね。
モンゴル、朝鮮、中国という東アジアの国々からの侵略に見事勝利した元寇は、戦後の自虐史観に
目の敵にされ、滅茶苦茶歪曲されてるからね。

482 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 02:07:52
>>481の続き。
>元は日本を支配する予定ではなかった、とはよく言われる説だ。

モンゴルは世界征服を国是としている帝国だよ。

>日本の戦法はまだ「やあやあ我こそは…」であったらしくこれでは鉄砲も持つ元軍に勝てるわけがない。

元寇についての史料だと、日本は組織的な戦法で元軍を圧倒している。
逆に「やあやあ我こそは…」だったなんてことを裏付ける史料がない。
あと、元軍の「てつはう」と後世の鉄砲は完全な別物。

>しかし奇跡が起こる。夜になって船に引き上げた元・高麗軍を嵐が襲う。

敵側史料である「高麗史」に、元軍の総司令官が日本からの撤退を決定し、帰路についた夜に嵐に遭遇したと明記してある。
元軍は普通に敗退したのであって、奇跡でも何でもない。
偵察云々に史料的根拠などなく、単に自虐史観の連中が日本の勝利を認めたくないだけ。

>しかしその後も元の使者杜世忠を幕府は斬り(国際常識がない)、その後の使者周福も斬り、攻めてくれと言わんばかりの行動をとる。

文永の役以前に来た元の使者がスパイ行為をした挙句、元軍が攻めて来たから、それ以後は国防上仕方なく処刑することにした。
そもそも、元の使者に対しては、ベトナムが投獄して拷問、ビルマが処刑、ジャワが顔に入れ墨をして送り返す、と周辺国は一様に強硬な
対応をしており、文永の役以前の使者を全員無事に帰国させていた鎌倉幕府はむしろ穏やかな対応をした方。
国際常識がないなんてのは、それこそ当時の国際常識を無視した全くの言いがかり。

483 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 02:10:56
>>482の続き。
>島国であるがゆえ世界を席巻した騎馬部隊が使えないからだ。

これもよく広まったデマ。
例えば、島国のイングランドが1066年にウィリアム征服王に征服された際には大陸から騎馬部隊が船で運ばれているし、
十字軍に至っては欧州から中東まで対馬海峡の20倍以上の長距離を騎馬部隊の海上輸送している。
もちろん東アジアでも馬は普通に海上輸送されていて、元寇と同じ対馬海峡越しの倭寇にも大勢の騎馬部隊が含まれていた。
馬の産地として有名な済州島に牧場作ったのは、他でもない元朝だしね。
「蒙古襲来絵詞」にだって元軍の騎兵が描かれているし、元寇に大勢の騎馬部隊が加わっていたことは確実。

最後に、弘安の役で元軍が博多湾に到着したのは6月。
江南軍だって遅くても7月初めには日本近海に到着している。
つまり、元軍は2ヶ月間も日本軍によって九州への橋頭保確保を阻止されていたわけ。
これだけ長期間海上にいて台風に遭わなければ、逆にそっちの方が奇跡だよ。
さらに言えば、もしその奇跡が起こって台風に遭わなかったとしても、2ヶ月間も海上を逃げ回るだけだった元軍に、
北九州を制圧する力なんて無いと考えるのが妥当だと思うが。

484 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 21:29:40
>壱岐・対馬の犠牲をもっと知るべきだろう。
対馬と壱岐は地理的に考えても兵数で考えても当然の結果だろう
むしろ、仮に対馬や壱岐すら制圧できなかったならそちらのほうが問題だ

>日本の戦法はまだ「やあやあ我こそは…」であったらしく
それは戦法でも戦術でもありません。混同しないでください

>これでは鉄砲も持つ元軍に勝てるわけがない。
てつはうを勝手に鉄砲にしないでください。全くの別物です
また、てつはうが活躍した記録はありません

>当時の鎌倉武士では勝ち目はなかった。
元軍が打ち破ったのは竹崎季長のように先走った一部の日本兵だけです
大宰府にさえたどり着けていません
3万程度の兵力では九州勢すらも駆逐できませんので、最初から日本の勝利は決まっていたと言えるでしょう


485 :484:2010/03/03(水) 21:30:40
あっ、アンカーは>>471>>480

486 :484:2010/03/03(水) 21:34:22
>>471
>夜になって船に引き上げた元・高麗軍を嵐が襲う。
嵐が襲ったのは元軍が撤退している途中です
つまり、元軍の引き上げと嵐は無関係です

>弘安の役は起こるべくして起こった。
使者を切ったから起こったわけではありません。おそらく、どちらにしても起こったでしょう

487 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 21:58:14
>>472
>やはり攻め込まれていたと考えるのが妥当ではないか。
おいおい、元軍は上陸すら満足にできなかったんだぜそれも1〜2カ月。神風まで。完璧に防衛してるだろうが
あの時期に数か月も海上でホルホルしてりゃ、そりゃあ台風も直撃するってもんだ

488 :ブログ主:2010/03/03(水) 22:09:29
少しづつ追記の準備をしようかと思います。

>モンゴル、朝鮮、中国という東アジアの国々からの侵略に見事勝利した元寇は、
戦後の自虐史観に 目の敵にされ、滅茶苦茶歪曲されてるからね。

この件は、ブログ記事にはふさわしくないので申し訳ありませんが反映はスルーします。
こちらだけで話をしたいと。考え方はいろいろだと思いますけれども、
元寇が鎌倉武士団によって退けられたことが覆い隠されているとすれば、
それは戦後教育ではないのではないかとの感想も持ちます。明治以来、いや尊王運動以来の
皇国史観からではないでしょうか。神風に特化し、武士団の働きを(朝廷と対立した側として)
貶めたかったからではないかと。
「カミカゼ」と言えば昭和前期の皇国史観の象徴である印象もあります。これを、戦後教育が
強調する理由がいまいちよくわかりませんので。
そのように思いますが、これは当方の印象です。戦後すぐの指導要領とその解説書を分析した
ものではありませんので、間違いかもしれませんが。
おっしゃりたいことは、日本がこの時代に外国相手に勝利したことなど考えられないので、
風が吹いて偶然侵略防止できたことにしよう、という自虐史観で歴史を歪曲したということでしょう。
まあそれも分からなくはないですが、それを記事に書くことは控えたいと思います。



489 :ブログ主:2010/03/03(水) 22:12:50
>>元は日本を支配する予定ではなかった、とはよく言われる説だ。
>モンゴルは世界征服を国是としている帝国だよ。

えーっと、僕の脳内では、元は高麗を最初は属国化(つまり冊封国的)しようとし、
意に沿わなかったので征服したのだと思っていました。これは、間違いですか?
「世界征服を国是」と書くにはまだ勇気が要ります。

「やあやあ我こそは…」については、訂正したいと思います。
これは完全に僕の30年くらい前の知識。日本が当初はそうであったとしても後に集団戦法に
転じたことは分かりました。なお「てつはう」については後の銃と違うことは承知しています。

このあたりからはじめたいと思います。後のことはおいおい書いていきます。

なお、

>偵察云々に史料的根拠などなく、単に自虐史観の連中が日本の勝利を認めたくないだけ。

偵察については、当方も「説」として書いているだけで、そうであったとは僕も考えていません。
だいたい、そんな説はずっと知りませんでした。
ただ、威力偵察という説が最近は主流であると書籍で見ましたので
(出典はもう忘れました失礼します)
そのように書き加えただけです。もちろん記事はそこが主眼ではありませんので
威力偵察であろうが本気であろうがどちらでも良かったので。

威力偵察厨という言葉が分からなかったので検索しましたら、どうも中学生並みに威力偵察に
固執している人物を指す言葉であるようで。それは誤解です。よく読んでいただきたいと。

なお、487のような口調にはどうも慣れません。こちらが頼んで貼り付けてもらったわけじゃなく。
つるし上げるような物言いは不愉快です。また来るようにはしますが。

490 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 22:16:25
>>488
そもそも、鎌倉幕府自体が武士団の働きをあまり認めたがらなかった(認めると恩賞を渡さなければならなくなるから)
という事情もあって、神風説が大きくなったわけだ

あと、弓の有効射程と最大射程の違いすら分かっていない専門家も多いので、専門家の本だからといって信用しないほうがいい

491 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 22:23:11
>>489
世界征服を国是としていたかどうかは分からないが、

俺の属国になれ → 嫌だ → なら戦争だ

では、そう考えられても不思議じゃないと思う

492 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 22:57:14
>>488
>「カミカゼ」と言えば昭和前期の皇国史観の象徴である印象もあります。これを、戦後教育が
>強調する理由がいまいちよくわかりませんので。

戦後は「神風」は否定され、「台風・暴風雨」という偶然の助けにより侵攻を免れた事になった
どちらにせよ、元軍は鎌倉武士の抵抗に逢い、橋頭堡も築けなかった事は無視されてるんだけどね

493 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 23:04:43
源氏と平氏の戦いを調べれば、当時から日本に集団戦法があったことは分かるはず
なのにわざわざ集団戦法が日本にはなかったと教えているのが現代の教科書

494 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 23:19:40
>>488
戦前の元寇に対する一般的な認識についてなら、例えば「元寇」という有名な軍歌がある。

 一、四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る/十万余騎の敵/国難ここに見る/弘安四年夏の頃/なんぞ怖れんわれに/鎌倉男子あり/正義武断の名/一喝して世に示す
 二、多々良浜辺の戎夷(えみし)/そは何 蒙古勢/傲慢無礼もの/倶(とも)に天を戴かず/いでや進みて忠義に/鍛えし我が腕(かいな)/ここぞ国のため/日本刀を試しみん
 三、こころ筑紫の海に/浪おしわけてゆく/ますら猛夫(たけお)の身/仇(あだ)を討ち帰らずば/死して護国の鬼と/誓いし箱崎の/神ぞ知ろし召す/大和魂(やまとだま)いさぎよし
 四、天は怒りて海は/逆巻く大浪に/国に仇をなす/十余万の蒙古勢は/底の藻屑と消えて/残るは唯三人(ただみたり)/いつしか雲はれて/玄界灘 月清し

あともう一つ、幕末の志士が愛した頼山陽の「蒙古来」。

 筑海の颶氣、天に連なって黒し
 海を蔽うて来る者は何の賊ぞ
 蒙古来る 北より来る
 東西、次第に呑食を期す
 趙家(南宋)老寡婦を嚇し得て
 此を持して来り擬す男児の国。
 相模太カ、膽甕の如し
 防海の将士人各力む
 蒙古来る 吾は怖れず
 吾は怖る関東(鎌倉幕府)の令山の如きを
 直前、賊を斫って願みるを許さず
 吾が檣を倒して虜艦に登り
 虜将を擒にして吾が軍喊す
 恨む可し東風一驅大濤に附し
 羶血をして尽く日本刀に膏らしめざりしを

どちらも前面に押し出されてるのは、蒙古を迎え撃った鎌倉武士の勇ましさでしょ。
それが戦前の元寇に対する一般的な認識だった。
「蒙古来」に至っては、「神風」どころか武士の手柄を奪った「恨めしい東風」扱いだし。
戦後、日本を占領したGHQが教科書から墨で消したのは、こういう武士の勇ましい記述なんだよ。
戦後の元寇に対する認識は、そうやって造られたわけ。

495 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 23:20:54
>480
ブログも読んでいないし、この種(元寇関連)のスレには何年も書き込んでいないけれど、同年代の方のようなので少少御節介を。

>また、2ちゃんねるに書き込むのは当方はじめててルールも何も分かりません。
ルールのようなものもあるにはありますが守らない人間も多いのでクウキを読めれば問題ないかと。

>ただ、歴史の専門家が集まってらっしゃる場所だと思います
幻想です。五年以上前に絶滅しました。ここにいるのは歴史オタです。専門家ではありません。

>貶めることが目的のような言動をされる方は少数派だと信じます。
残念ながら他人が引用したものを再引用しているだけの中高生が大半です。
煽り耐性の無い方、相手をする価値のある人間・無価値の人間をレスのみで判断できない真面目な方は悪い印象を残して退場なさるでしょう。

>488
>「カミカゼ」と言えば昭和前期の皇国史観の象徴である印象もあります。これを、戦後教育が強調する理由がいまいちよくわかりませんので。
>そのように思いますが、これは当方の印象です。戦後すぐの指導要領とその解説書を分析したものではありませんので、間違いかもしれませんが。
「昭和前期の皇国史観」が何を指すのか不明ですが、行き過ぎた戦前・戦中における皇国史観の強制教育は高だか十年程、地域・学校によっても
かなりの格差があります。
「カミカゼ」を誰がどのような状況で用いたのか、東北や信州の山奥で一部の狂信者が強烈に主張したのか、新聞の記事(大学教授)であればそれは政府系か否か
意図は何か、再吟味されたほうがよろしいかと。

496 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 23:38:47
>>492
だから、それは誤解なんだって。
戦前は、元軍が鎌倉武士の抵抗に逢い、橋頭堡も築けなかった事もちゃんと認められていた。
でもそれが終戦の時に墨で消され、「神風」だけが「台風・暴風雨」として残ったんだよ。
その方が戦後の自虐史観にとっても都合が良かった。
何故なら「神風信仰」なるものが戦争に導いた原因だとして日本叩きに結び付けることが可能だから。

497 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 00:00:34
>>489
気になる事があるのでご参考までに。

>そのように書き加えただけです。もちろん記事はそこが主眼ではありませんので
>威力偵察であろうが本気であろうがどちらでも良かったので。

とのことですが、主眼でない事項の記述であっても、その記述内容によって記事全体の
信頼性を損なうことになる可能性があると思う。


あと、威力偵察について、このスレで評判が悪い理由の一つが厨の存在もある。
ただ、史実の展開が威力偵察にしてはおかしいのが大きな問題だと思う。
最低でも翌年には再度の侵攻がないと状況が変化するので偵察にならない。
史実では防御を固められて上陸できずに洋上で壊滅してしまった。
文永の役の翌年に弘安の役並の侵攻をすれば、元はもっと有利に戦闘を進められたはずです。


498 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 00:22:02
夜間撤退を行ったというのも威力偵察説が否定される要因の一つだな
本当に威力偵察で来たのなら、わざわざ危険な夜間撤退をする意味がないわけで

499 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 00:24:35
>>497
文永の役の翌年に弘安の役並の侵攻をは不可能
弘安の役であれだけの兵を投入できたのは南宋の艦隊を接収したから

500 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 00:40:46
そもそも、偵察のための部隊が帰りの船を焼いて背水の覚悟で戦うことを議論するなんてありえないわけで・・・

501 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 17:45:14
恩賞問題って、実は弘安の役の4年後に勃発した霜月騒動とその余波の岩戸合戦で
少弐景資を筆頭に元寇で功績のあった有力御家人がごっそりと討たれ、
更にその領地を残った御家人の恩賞に充てることができたため、ちゃんと解決してるんだよな。

502 :497:2010/03/04(木) 21:34:28
>>499
だから、威力偵察説はおかしいと言うこと。
後続する侵攻計画が無いんだもの。
防御を固められただけになってしまった。

印象としては、退却するのは予定していたが、予定通りの退却ではない。
つまり、日本軍の増援が来て劣勢になるなら退却することは考えていたと思うが、
九州上陸1日で劣勢になるとは思っていなかったはず。

ある程度九州の軍勢を撃破することで、その後の交渉を有利に進めることが
戦争目的ではないかと推測している。



503 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 22:04:50
当時の地図だとさ、日本は朝鮮より小さいことになってるんだわ
まあ、仕方のないことだけどね
だから、元が3万で日本を征服できると考えていても不思議ではない

504 :ブログ主:2010/03/04(木) 23:17:09
「高麗史」における記述については、今のところ原典を読める環境にありませんので
ネットで部分を孫引きによって見ました。
この史書については室町時代の成立ということもあり、あたまから信用していいのかとの
疑念もあるにはありますが、内容については、前後のことからして
おおむねその通りであろうと当方も思います。よってこれに沿おうかと。
半島側の後代史料を信用するとここでは自虐史観ととられる恐れもありますが、内容によりけりかと。


505 :ブログ主:2010/03/04(木) 23:21:03
杜世忠を斬ったことについて

「国際常識がない」という文言につきましては、確かに感覚で書いたと記憶してます。
5年前の当方の理解とは、おおまかに言ってこういう感じです。

杜世忠は高位で国書を持っている。それを斬ることは、断交であり、
開戦要求と同等の行為と解釈していい。
元という国家の力を幕府は知っていたはずで、また、攻めてきたら撥ね返せると計算したとしても
日本には結果消耗しか残せない。そんな開戦のきっかけをわざわざ作らずともよいのではないか。
ここには、スパイ云々の視点は欠落しています。5年前は確かにそうでした。よって、
国際常識に欠けると書いたのです。

おそらく杜世忠を斬らなくても元は攻めてきた、とは確かに言えることです。南宋の平定が
一段落ついた時点で日本に目を向けるはず、と。ですが、使者斬刑もその口実のひとつになった
と理解していました。フビライは立腹した、と伝えられていると思っていましたので。


506 :ブログ主:2010/03/04(木) 23:24:15
このような書き方をするとまた突っ込まれるのでしょうが…。

当時の国際常識として、使者を刑殺したり虐待することが常識であったとは今でも思えないのです。
ただ、元の使者に対してのベトナム、ビルマ、ジャワのやり方は知りませんでした。これが
当時の国際常識というものであるとのことに多少驚いています。
「受け入れられない要求を提示された場合、使者は斬るのが当時の国際常識であった」
こう追記するのには、今でもやはり抵抗は残ります。もう少し勉強しないとここまでは書けません。

>当時の国際常識を無視した全くの言いがかり

こういう言われ方は非常に不快でしたが、よくよく考えるとこちらも現代尺度で語っています。
もう少し深化させてみないと、とは思います。

507 :ブログ主:2010/03/04(木) 23:29:00
騎馬部隊についてですが、
元以外の国の実例を出されても困惑しますが、知りたいのは

>元寇に大勢の騎馬部隊が加わっていたことは確実

であるなら、なぜそれが機能しなかったのかということです。元軍は敗れたのですから。
素朴に考えて、いくつか要因があるかと。それは、また次にでも考えたいと思っています。


495の方、恐れ入ります。
やはり、匿名掲示板で書くのは疲れます。早く退場したいと思います。
もう話は当方のブログから離れていると思われますので、
この程度でフェイドアウトしてもいいのかな、とも思いますけど…。

508 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 00:28:21
>>504-507
高麗史の元寇に関する記事なら、岩波文庫の『高麗史日本伝』で概ね読めるよ。

モンゴルからの使者に対しては、他にもホラズム・シャー朝がモンゴルの通商団を皆殺しにし、その問責の
使節団に対しても正使は処刑し、副使は髭を剃り落として追い返してる。
あと、エジプトのマムルーク朝も使者を全員打ち首にしてカイロで晒し首にしてるな。
日本を含めこういう国々に共通してるのは、隣国がモンゴルに侵略される様を目の当たりにしてること。
侵略国家に対しては外交の余地なんて無いんだよ。
実際、当時モンゴルと隣接した国に外交で平和を維持した国なんて一国も無いわけで。
モンゴル自身、使者派遣なんて侵略前の情報収集と調略の手段程度にしか考えていなかった。
その証拠に、モンゴルが日本侵略の準備を開始したのは、最初の使者がまだ日本滞在中の1268年5月なんだよ。

509 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 00:56:15
このブログ主って人、モンゴルからの使者総数がいくらで、その中に殺されず
帰国できた遣使が何回あって、だから鎌倉幕府のやりようは非常識だと言えば
分かるが。

510 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 01:40:16
>>507
>元以外の国の実例を出されても困惑しますが、知りたいのは

>>元寇に大勢の騎馬部隊が加わっていたことは確実

>であるなら、なぜそれが機能しなかったのかということです。元軍は敗れたのですから。

そんなの簡単。
元軍が敗れた理由は鎌倉武士の方が強かったからでしょ。

511 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 05:58:34
なぜ日本では騎兵が発達しなかったのか

512 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 11:17:52
>>511
日本では武士という騎兵が発達しまくって、遂には蒙古騎兵にまで圧勝してるんだが

513 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 11:54:33
随伴歩兵つきで運用する騎兵と言えなくもないって事か

514 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 12:06:05
>>513
随伴歩兵なんていないよ。
騎馬武者は騎兵として単一兵種で運用するのが基本。

515 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 20:39:22
下人とかが徒歩でついてくるもんだと思ってた

516 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:23:58
>>514
鈴木説と逆ベクトルで同レベルに落ちてきてるぞ

517 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:53:41
その「徒歩でついてくる下人」って資料的裏付けの無い存在なんだよ。
資料には「○○騎」って騎兵だけしか書いて無くても、無理やり「徒歩でついてくる下人は員数外だから」とか
屁理屈つけてるんだから。
そんなの滅茶苦茶じゃん。
「平家物語」や「太平記」に騎兵と歩兵が一緒に登場する時は、ちゃんと騎兵を「○○騎」、歩兵を「○○人」って
区別して書いてあるのに。

518 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:01:21
物語で証明するとは…

519 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:10:02
>>518
「蒙古襲来絵詞」だって騎馬武者は単一兵科で運用されてるだろ。
貧乏御家人の竹崎季長ですら家の子郎党5人全員が騎乗し、騎兵のみでユニット形成してる。
白石の百余騎だって騎兵のみの編成じゃん。

520 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:22:29
薙刀持ってるのが描いてあるだろ。
薙刀は騎兵の武器じゃないんだが。

521 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:56:40
>>520
薙刀は普通に騎兵も使うよ。
それは兎も角、「蒙古襲来絵詞」にしろ、その他の資料にしろ、歩兵が存在すればちゃんと書くわけじゃん。
歩兵は資料上員数外の扱いなんて受けていない。
資料に「○○騎」みたいに騎兵しか書いて無ければ、それは騎兵単一兵科の部隊ってことだろ。

522 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 23:17:25
>>521
「〇〇騎」がユニットとしてどんな内容だったかと、下人が「歩兵」扱いされていたかどうかを明らかにしたら済む話

ところでさ
元って、「野戦は騎兵、都市は攻城部隊でいけるかな」
とか思ってたのかな
ステップや砂漠・華北平原みたいな地形じゃないかもしれないから歩兵も用意したり
水戦も視野に入れた編成はしてたかも知らんけど
不用意に過ぎる印象がある
経験に頼りすぎたのか、情報が少な過ぎたのか
ちょっと疑問

523 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 23:18:24
旗本八万騎
従者無し?

524 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 23:23:54
>>522
だから結局下人なんて資料には存在しないって。
本来なら下人が戦場で随伴してたことを証明するべきだろ。

525 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 23:27:51
えっ

526 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 23:29:57
>>523
時代が全く違うじゃん

527 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 00:05:26
江戸時代には従者がいたと思っているんだね。
では、いつから従者がでてきたと思っているの?
応仁の乱以降?南北朝?

528 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 00:32:26
>>527
例えば戦国時代には従者も含め動員された後、戦場では騎兵は馬上奉行、足軽は槍奉行というように
兵科ごとに再編成されていた。
江戸時代の従者だって戦場で騎兵に随伴したりしないだろ。

529 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 09:41:50
>>521
http://www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/images/shiryo-mouko-l.jpg

この場面で左のほうに、一人は鉤、一人は薙刀持って走っているのは
なんだ?

騎馬武者のなかで薙刀持っているのがいるか?

530 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 11:20:43
>>529
だから、それは歩兵だろ。
「蒙古襲来絵詞」は歩兵が存在すれば、それをちゃんと描く。
つまり、文永の役の竹崎勢や白石勢は完全に騎兵のみの編成だったってことじゃん。

531 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 14:02:01
鎌倉期の歩兵ってどっから集めるの?

532 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 14:31:13
これが現実でござるwww

【ドイツ】『日本刀 vs. 西洋ロングソード』どっちが強いか? 独テレビ局が実験[10/03/05]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1267798423/

533 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 15:39:08
>>532 いつまでアホなことやってんだ?w

427 :名無し三等兵:2010/03/05(金) 22:57:44 ID:???
それ日本刀の形してるだけで刀ですらねぇじゃん…

430 :名無し三等兵:2010/03/06(土) 00:07:35 ID:???
動画主が自分で刀作ってる動画あるけどもうムチャクチャ。
せめて玉鋼使えよと。

609 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 00:49:42 0
ドイツのオッサンが形だけ真似て作った日本刀モドキで実験wwww

610 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 01:38:30 0
そりゃ単に形だけ真似て作っただけなら、厚のあるブロードソードが勝って当然だろ

618 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 03:40:51 O
本当にオッサンが作っててワロタ

619 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 03:54:44 0
日本刀つくりたいなら、まず玉鋼を調達しなきゃなあ。

631 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 12:00:54 O
実際アホな実験そのものなんだから困るわww

431 :名無し三等兵:2010/03/06(土) 00:50:44 ID:???
専門家が作った日本刀じゃなく個人で作った日本刀だろそれ
ブロードソードと日本刀じゃ作る難易度が違うんだわ

437 :名無し三等兵:2010/03/06(土) 13:07:26 ID:???
それ、「日本刀」じゃなくドイツ人が適当に作った模造品だよ。
http://www.youtube.com/watch?v=qpEC38sL3iU

534 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 17:31:27
純粋な日本刀でやってほしいわ。
Bestハウスにでてくる居合いの兄さん連れて行って。

535 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 20:57:20
つかマシンガンでロングソード撃て。
日本刀はたしか最初の5発ぐらいは斬ってたから
7発以上斬れたらロングソードの勝ちと認めてやる

536 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 21:16:45
>>530
>だから、それは歩兵だろ。

下人と「歩兵」は、どこで見分けるの?


537 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 11:10:01
>>536
史料上架空の存在なのが「下人」。
史料に騎兵だけで編成された部隊が登場しても、史料には出てない「下人」なる存在が
騎馬武者に随伴してることになってるのはおかしいって話。

538 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 12:37:22
http://bbs63.meiwasuisan.com/bbs/arms/img/12662873350061.jpg
日本刀の倍以上の大きな西洋剣でぶったたかれても日本刀はぴんぴんしてたね。

ちなみに瞬間的に大きな力がかかった場合ならば日本刀も大きくしなる
これは日本刀の「靭性」の高さの証明だね
小さな力ではびくともしないが大きな力が瞬間的にかかると大きくしなり、そしてすぐに元に戻る

539 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 12:55:22
久しぶりにのぞいたら騎兵と歩兵でもめてるようだな
一度整理しておこう

まず元寇スレなので鎌倉時代でのことという前提で
それと用語として騎兵は騎馬武者もしくは騎馬、歩兵は徒士と言い換えさせてもらう


Q騎馬のみの運用はあったか?
Aありました(正確には戦場までは徒士もついてくる。交戦が始まると徒士は後方においたまま
騎馬のみで集団騎射戦へ突入、その後両者が馬上打ちものにシフトすると後から追い付いてきた徒士が合流することはよくある

要するに騎馬が機動力を徒士に合わせるようなことは当時はしていない
そのあたりが戦国時代とは違うんだな)

Q騎馬は薙刀を使いますか?
Aたまに使います
(ただし基本的には徒士のための武器であることは確認するまでもない。
騎馬武者が騎射をメインとしていた以上当たり前の話だが)






540 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 13:08:44
例の刀の件だが、そもそも実用的な本物の日本刀って
現代じゃロストテクノロジーって聞いたぞ。

541 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 13:34:13
武士の武装や主力層に関しては室町時代と安土桃山時代あたりを境に大きく変わっている
前者と後者の違いを簡単にまとめると

武士が主力           :足軽が主力
歩兵(徒士)は武士のサポート役 :武士は歩兵(足軽)を指揮する存在
主力たる武士は騎馬戦を頻繁に行う:西国では馬が不足し武士も徒歩戦闘が増える(普通は戦わないので結局騎乗していることが多いが)
白兵戦の主武器は日本刀     :白兵戦の主武器は槍(大太刀含め日本刀使用頻度も充分高いが)
射撃戦の主武器は弓       :射撃戦の主武器は鉄砲(とはいえ弓も充分現役)

542 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 17:54:58
>>539
>交戦が始まると徒士は後方においたまま 騎馬のみで集団騎射戦へ突入、
>その後両者が馬上打ちものにシフトすると後から追い付いてきた徒士が合流

なるほど、よくわかった。
>>537は、その、まだ「徒士」が追いついていない局面を絵で見て、
「騎馬だけで編成された部隊」と勘違いしたのだね。

543 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:13:04
>>542
それは
ひょっとして
ギャグで
言ってるのか?!
(AA略)

544 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:32:10
鎌倉武士は従卒なしで騎乗戦闘が可能
つまり日本の戦場でも騎馬隊同士の戦闘は可能
そして元軍には精鋭モンゴル騎馬隊がいた
しかしさほど活躍せず海の底に沈んでしまった

って事なのかな

545 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:51:18
要するに>542が「編制」と「編成」の区別が付かないだけの
話じゃん。

例えば、陸自普通科連隊内普通科中隊は「編制」上は迫撃砲
小隊が入っている。つまち、曲射火力を保有した部隊だ。
ところが、その普通科連隊が諸職種部隊を配属されて普通科
戦闘団として行動する場合、各普通科中隊の迫撃砲小隊を
特科大隊に配属して一括運用するってのがセオリー。この際、
各普通科中隊は迫撃砲小隊欠、つまり曲射火力を持たない
部隊になっている訳だな。要はそういう事だ。


546 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:05:33
集団騎射戦のイメージがわからない。
移動しつつ弓を射るの?
だとしたらどういう運動をするの?背後に回ろうとするの。
相手に向かって直進するの?
それとも弓を射た後に移動もしくはチャージするの?

547 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 00:22:17
>>546
モンゴルのこと言ってるの?

548 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 09:08:48
>>546
「イメージ」はイメージで見るのが一番。
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_2953448_2?20060420214602

これを10騎とか50騎とかの集団でやると思えばいい。

549 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 13:54:50
>>546
その全部だよ
蒙古襲来絵詞なんかだと正面から蹴散らしに行く感じだし
太平記なんかでは背後にまわろうとするところとか
逃げるふりをしながら追いかけてくる奴を射るとかやってる
要するに>>546であげたの全部やってる

そのための訓練の一つが有名な犬追物
複雑で高速な動きをする犬を一定のルールの下、集団で追い
竹製のボンボンのついた矢をだれが最初に当てるかを競う

そんな訓練してればそりゃ集団でまとまって移動しながら攻撃もできようってもんだよ




550 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 14:12:02
下人・所従について、ある本から引っ張って見た。
中央公論社「日本の歴史」第7巻「鎌倉幕府」石井進・著

「ここまでが(註:家の子・郎党まで)が騎馬隊であるが、当時の軍隊は騎馬武者
ばかりで構成されていたわけではない。馬の口とりに、かいば等の世話に、また兵糧
などの運搬に、かちだちの(註:徒歩の)多くの下人・所従たちが随行していた。」
<中略>
「かれらは騎兵隊の活動を支える重要な役割を果たしていたけれど、これを直接戦闘
に参加する歩兵部隊ということはどうであろうか。軍記物語には。主人がみごとに射
たおした敵将を、下人がつと走りよって首をかく、といった描写が現れるから、かれら
をまったくの非戦闘員とみることはむろんできない。しかしすでに見たように、騎馬に
よる一騎打ちを主体とするたたかいにあって、かれらかちだちの兵士たちの果たし得た
役割はごく小さいものであった。」
<中略>
「当時の軍事組織の根幹は騎馬武者隊であり、これに随行した下人・所従のかちだちの
兵士たちはあくまでその補助部隊にすぎず、かりにかれらを歩兵隊とよぶとしても、
その機能は騎馬隊に付随してはじめて発揮されるものであった。のちの南北朝時代から
きざしはじめ、戦国時代にいたって完成されるような、主力軍としての歩兵隊とは、
まったく違った性格のものだったということに注意しなければならない。」

むしろ、「下人・所従はいるが歩兵はいない」と言ったほうがいいね。

551 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 16:08:39
>>550
そこに書いてあることって何一つ史料に基づいてないってのが凄い。
そもそも、一騎打ちを主体とするたたかいってところから根本的に間違ってるじゃん。

552 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 16:12:26
てかそのレベルでのサポート要員がいるってのだったら
世界中のすべての騎兵にくっついてるだろうとw

553 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 17:12:45
>>552
>てかそのレベルでのサポート要員がいるってのだったら

「そのレベルでのサポート要員」を除けば、まともに「歩兵」と呼べるものが
いない、というところが重要。

554 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 19:06:29
>>553
だから、それは現実じゃないんだって。
現実の戦場にいるのは歩兵だけで、サポート要員の下人なんてのは戦場で随伴したりしないの。

555 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 19:52:06
>>554
その歩兵の正体は何?

556 :日本@名無史さん:2010/03/08(月) 21:42:02
しかし馬鹿の一つ覚えみたいに蒙古襲来絵詞ばっかり…他に資料無いの?
例えば吾妻鏡とか増鏡とか、ネットでも簡単に読めるだろ
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118005.html
ttp://www.j-texts.com/chusei/gun/masukall.html

557 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 00:33:43
>>555
歩兵は歩兵だよ。
騎兵は騎兵部隊として運用され、歩兵は歩兵部隊として運用される。
単純な話。

558 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 00:41:49
説明すると自説がピンチなのでトートロジーで逃げるでござるの巻

559 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 00:59:08
>>558
中世の合戦で騎兵が騎兵部隊として運用されてたことに異存はないんだろ?

560 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 02:34:54
>>557
武士にも騎兵と歩兵がいたって事か

561 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 08:57:33
「歩兵」は軍事的機能を表し、「下人」は身分を表す言葉だから、
「歩兵はいるが下人はいない」なんて言うのはそもそも意味がない。
それは例えば「騎兵はいるが郎党はいない」というのと同じ。

惣領から下人・所従までの身分階層を含む「家」単位がそのまま戦場に
持ち込まれる。
トップの惣領から中間層の郎党までが騎馬。それ以下の下人・所従は徒歩。
家単位のなかの下層にある下人・所従の、戦場での機能がいわゆる「歩兵」
すなわちここでは「徒歩の準戦闘要員」として現れる、というだけ。

ただし、歩兵といっても戦国時代の足軽隊のように「歩兵部隊」として
運用されるわけではない。必要に応じて武器を用いる「準戦闘要員」。

562 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 09:52:09
>>542
Q騎馬のみの運用はあったか?
Aありました

>>539をもう一度読んでごらんよ


563 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 10:47:23
要は歩兵の機能をもった要員は
いつでもどこまでも騎兵に随伴していたわけじゃないってことね

馬の機動力を活かすときは両者は別行動をしたと

564 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 10:53:25
絵詞厨の意見も聞いてあげて

565 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 12:12:26
結局>>511>>513が無知ということでこの話はおしまいだな

566 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 13:50:48
>>562 >>563
突撃の初期の段階で先頭集団が騎馬兵だけになる、ということに誰も
反対してはいないよ。

http://www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/images/shiryo-mouko-l.jpg
の二人の徒歩の兵士が、身分的には下人・所従である、ということは
いいのかな?

567 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 13:55:38
>>566
竹崎さんは実戦でその二人の徒歩の兵士とは完全に別行動とってるんだけどね

568 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 15:10:54
>>567
その根拠は?


569 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 16:04:17
>>568
蒙古襲来絵詞の詞書にそう書いてある。
兵船に乗り込む際、『季長「懇望して乗る上は、若党を乗するに及ばず。弓箭の道進むを以て常となす」
依て手の物一人も相具せず、唯一人ばかり相向かふ。』だったって。

570 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 17:29:46
「乗するに及ばず」とわざわざ言っているのは、本来は(自前の船さえあれば)
いっしょに乗るつもりだったってことじゃないか。
そういえば徒歩の兵士が持っている鉤は敵船に接舷するためのものだね。
実際に使っている場面がある。

ただし上記は舟戦の話だから、騎馬突撃とは関係ない。

571 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 17:57:39
北畠顕家は1335年12月22日に多賀城を出発し、鎌倉を経由して翌1336年1月中旬に坂本到着という
900キロ以上を約1ヶ月の超高速移動してるけど、徒歩の兵士随伴で可能なの?

572 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 18:09:21
徒歩で一日30キロは現代人の想像を越えるが不可能ではない。
逆にそれだけの期間、馬を世話する人がいないというのは不可能。

573 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 18:55:28
歩兵の一日25〜30キロは平均的な軍隊の行軍速度です。

574 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 21:19:11
>>573
どんな平均?

575 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:03:50
>900キロ以上

↑には誰も突っ込まないの?

576 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 23:07:54
>574
>583じゃないけど一応答えてみる。
まず、徒歩行進は1日〜2日間なら、1日あたり通常40km(50分
で4キロ歩き、10分休憩の繰り返し)途中に大休止を1〜2回入れ
て、概ね9〜10時間が1日の行程になる。これより速度を上げると
強行進、旧軍用語で言うところの強行軍になる。(速度を上げる要
領と、実際に行進する時間を増やす要領(50分のところを1時間歩
いて10分休憩みたいな感じ)があるが、通常後者の方が疲労が少
ないとされる)
しかし、これは2日間程度(距離にして80km〜100km以内)の行
程の時のみで、それ以上になると極度の疲労を考慮して1日の行進
距離を7〜8割程度とするのが普通(40km/日を長期間続けるのも
強行進に分類される)
旧軍でも自衛隊でも、徒歩行進の基準はこんな感じ。

577 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 23:23:59
>576
秀吉の「中国大返し」は平均的な軍隊の行軍速度ってことか。
じゃあ何でわざわざ「大返し」なんて呼ぶの?

578 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 23:44:18
>577
決戦正面が四国>近畿と変化した状況に際して、兵力転用
を見事に行った(戦術的な手腕ではなく、謀略的な手腕だけど)
事に対する評価じゃないの?
ナポレオンの内線作戦にしても、ドイツの東西二正面作戦にして
も、兵力転用ってのは運用の妙が要求される行動だから(後者は
失敗したけど)

579 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 00:00:29
>578
イギリスのマールバラ公は1704年に35日間で約400キロを行軍して伝説になってるけど、
これなんて「平均的な軍隊の行軍速度」ですらないんだが・・・

580 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 14:20:48
ちなみにモンゴル軍の場合、

ブラハからサマルカンドまで250キロを5日間で1日平均50キロ。
メルブからニーシャープールまで350キロを12日間で1日平均29キロ。
漢中からケ州まで500キロを1ヶ月で1日平均16.7キロ。
スィドロフからワールシュタットまで450キロを20日間で1日平均22.5キロ。

モンゴル軍はほとんどの場合、平均的な軍隊の行軍速度以下の鈍間な軍隊ってことね。

581 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 14:54:57
>>579
所々で休養したり、同盟軍の待ち合わせをやりながらね。
到着したときの兵士たちの健康状態がいいことが賞賛された。

582 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 15:00:19
歩兵の一日25〜30キロは平均的な軍隊の行軍速度なんてのがトンデモなんだろ。
前近代の歩兵の行軍速度なんて一日10キロ以下が普通。
一ヶ月間でモンゴル軍の倍近い距離を進んで「平均」とかありえないから。

583 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 15:04:23
>>577
秀吉は出発第1日に27キロ移動してある城に入り、第2日に約70キロ移動して姫路城に
入った。この第2日の移動距離が驚異的。
ただし第2日に姫路城に入ったのは秀吉を含む先遣隊のみであり、秀吉は第3日をここで
過ごして本隊の到着を待った。
だから全体としては3日の平均は約30キロで、「平均的」。

584 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 15:22:47
>>583
秀吉の中国大返しが「平均的」になっちゃうなんて、「歩兵の一日25〜30キロは平均的な軍隊の行軍速度」が
いかに現実離れしてるかを証明してるだろ。
3日の平均約30キロは当時では「神速」だったんだよ。

585 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 16:05:02
ノモンハンではハイラルからノモンハンまで約250キロを8日間で行軍してるな。
一日平均約31キロ。

586 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 16:14:20
>>585
それ、おもいっきり近代戦なんだが・・・

587 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 18:01:47
>586
日本軍の自動車装備率を考えろよ・・・

588 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 18:19:51
>>587
その時代だとアメリカ以外、馬車が移動の主流
日本軍でも移動にはトラックだけでなく馬車も使って運んでる
まあ、ノモンハンではジューコフが、日本の援軍と勘違いするほど大車列で撤退はしてるけど

589 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 18:34:13
いや、完全装備で徒歩だ。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05b/chap06/content/docu108.html
など見るといいよ。

別の資料だが落伍者だけトラックで拾われた。
日本軍はそんなにトラックを持っていなかった。

590 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 18:49:48
>>589
だからなんでトラック限定?
ドイツ機甲師団でも自動車は定数に足らず馬車なんて日常なんだが
定数満たせる工業力あったのは当時アメリカだけで、どこも自動車と馬車の両方で定数満たしてる状態
それにノモンハンは満州国内の自動車徴発もしてるんで部隊のみじゃないぞ

591 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 18:53:20
>>589
だから、それ近代じゃん。

592 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 21:12:37
>>590
>だからなんでトラック限定?
>馬車なんて日常なんだが

トラックも馬車もあったがそれは物資専用。人間はあくまで歩いた。
>>589で紹介したのは6月末に出発した部隊の手記で、そのころの行軍の
新聞写真がある。
http://www.asahi.com/information/db/history_photo/20080511.html

8月に負け戦になってからの増援部隊の兵士の手記もある。このころは夜間行軍
だったらしい。一晩40キロ、4晩連続で中間の待機地点まで歩いたそうだ。
http://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/1606wada.htm

この手記に馬車の話が出てくる。街頭で中国人の荷馬車を車夫ごと徴発して
使ったらしい。しかしそれもまた物資用で、人間はあくまで歩いている。
馬車に揺られて戦場へ行く関東軍兵士はいなかった。

>>591
>だから、それ近代じゃん。

近代であれ何であれ、人間の能力の話だろ?
ノモンハンの日本軍兵士は、30キロの完全装備を背負って、一日30km
以上、連日歩いた。
この話の発端である北畠顕家の軍の、馬の口取りの従者は、これに較べれば
はるかに軽装だ。

593 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 23:35:33
>>592
軍隊の行軍速度を決めるのは、人間の能力とかじゃないから。
物資運搬にトラックや鉄道を使える近代の軍隊と、それ以前の軍隊は根本的に違うの。
前近代の軍隊としては破格の速度で行軍してる北畠顕家の部隊は、あきらかに従者も全員騎乗した
完全騎馬部隊だな。

594 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 08:17:05
>593
残念ながら、人一人が背負う荷物の問題がある以上、前近代と
近代以降が云々言っても説得力に欠ける。
ちなみに、軍隊の行進速度が最も遅かった時代は、砲兵の登場
以降自動車が普及するまでの時代だと言う説もある。(具体的な
行軍速度は記されていなかったが)で、歩兵まで自動車化される
以前は、当該「砲兵はいるけど自動車化されていない時代」を除き
概ね歩兵の徒歩行進速度によって規定されている。

595 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 12:50:43
>>594
軍隊の行軍速度を決める最大要因は兵站だよ。
だから、近代と前近代は決定的に違うの。

596 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 19:40:06
>>19
こ、これは・・・

つまり日本の武士団とはガチで殴り合って、元が完敗したってこと!?

597 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 21:31:58
>>593
>前近代の軍隊としては破格の速度で行軍してる北畠顕家の部隊

そんなことはない。北畠顕家軍が特に早かったのは鎌倉〜美濃間で、22日だったが、
当時の他の軍隊もだいたいそんなところだ。

1335年8月 尊氏軍 美濃垂井〜鎌倉 16日
〃 11月 義貞軍  京都〜箱根 23日
〃 12月 尊氏軍  箱根〜近江   20日

ついでに「兵站」について言えば顕家軍の西征はその凄まじい略奪で名を残した。
つまり兵站は現地調達であった。   


598 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 00:09:37
なんかようわからんけど、要は鎌倉武士敗北説も
威力偵察説も博多消失説もダメになったから
今度は実際に戦った兵力は少数だった説を主張するわけ?

599 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 02:31:20
>>597
尊氏軍も義貞軍も前近代の軍隊としては破格の速度で行軍してるから騎兵部隊だな。

あと、前近代の軍の兵站は世界的に現地調達が普通だから。
トラックや鉄道の無い時代の貧弱な陸運では、根源地から大量の兵糧を輸送するなんて出来ないの。
だから、前近代の軍の行軍速度は近代の軍と比較にならないほど遅いんだよ。

600 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 08:35:30
>>599
>尊氏軍も義貞軍も前近代の軍隊としては破格の速度で行軍

だれでもやることを「破格」とは言わない。
また、これらの軍が全て「全員騎乗」だったと言いたいのか?
馬の口取りまで馬に乗るとははじめて聞いた。新説だな。

>前近代の軍の兵站は世界的に現地調達が普通だから

現地調達なら「兵站」にしばられないではないか。
そう言えば秀吉の大返しでも沿道で炊き出しをさせたそうだが、これも
「現地調達」の一種だな。

>大量の兵糧を輸送するなんて出来ないの
>だから、前近代の軍の行軍速度は近代の軍と比較にならないほど遅いんだよ

ノモンハンの日本兵が一日に30〜40キロ歩いたことを「兵站」では
説明できない。
なぜなら行軍間の食糧は各自携行だったから。
水は確かに自動車で補給した。しかしそれも砂漠/草原だったからこそ。
日本内地など自然の水がある場所なら別だ。

601 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 12:21:02
一日に平均30〜40km歩かされるのが普通な軍隊はイヤだな
俺が歩兵なら逃げる

602 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 12:34:26
>>600
ノモンハンの日本兵が一日に30〜40キロ歩いたことは「兵站」で完璧に説明できる。
なぜなら前近代の軍隊は、「現地調達」の目途が立たない砂漠/草原を、各自携行可能な食糧だけで行軍
すること自体不可能だから。
日本兵が行軍間の食糧を各自携行するだけでよかったのは、それ以降の兵站をトラックなどか支えてるからじゃん。

603 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 13:33:51
>>602
>ノモンハンの日本兵が一日に30〜40キロ歩いたことは「兵站」で完璧に説明できる。
>日本兵が行軍間の食糧を各自携行するだけでよかったのは、それ以降の兵站をトラックなどか支えてるからじゃん。

なるほど、兵站基地と兵站基地の間の行軍、あるいは到着先で現地調達が可能な
場所への行軍ならば、途中の兵站がなくても一日30〜40キロの移動は可能、
と言うわけだな。


604 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 13:47:59
帝国陸軍の兵隊さんって、結構凄いよな

605 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 13:53:59
前近代の軍隊では現地調達という制約が行軍速度を大きく削ぐことになる。
ほとんどの住民は現地調達に協力的ではないし。
現地調達可能な地域しか行軍できないから目的地まで大きく迂回しなくちゃいけなかったり、
現地調達の不確実性を緩和するため輜重隊をだらだらと尻尾のように引き連れていたりね。

606 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 14:27:57
現地調達という言葉にしてしまうと聞こえがいいが、
その実態は略奪だからな。

607 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 22:15:27
>>605
>>603に正面から答えてないな。まあいい。原点に戻ろう。原点は:
>>571
>北畠顕家は1335年12月22日に多賀城を出発し、鎌倉を経由して翌1336年1月中旬に坂本到着という
>900キロ以上を約1ヶ月の超高速移動してるけど、徒歩の兵士随伴で可能なの?

この前提がどうもおかしい。
北畠顕家が霊山城を出発したのは8月中旬、鎌倉を陥したのが12月24日だ。
その間は奥州、関東を転戦していたのだ。
顕家軍がほんとうに早かったのは正月早々に鎌倉を出発してからだ。その後
美濃黒田宿(いまの尾張一宮)まで20日間で到達した。
この距離を、鎌倉街道はわからないので東海道の里程を参考にして推定すると
約80里、320キロだ。一日あたり16キロ。途中の合戦のため数日費やした
としても一日あたり20キロ前後。
この速度なら別に無理もなく、徒歩兵士は随伴できただろう。

608 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 22:26:40
>>607
訂正:
尾張一宮 → 一宮市

609 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 20:56:13
575 名前:日本@名無史さん 投稿日:2010/03/10(水) 22:03:50
>900キロ以上

↑には誰も突っ込まないの?

610 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 22:01:24
奥州・関東の部分が500キロぐらいあるのだろうが、それを何ヶ月も
かかっているのだから突っ込んでも意味ない。

12月22日に多賀城出発というのはウィキにもそう書いてあるが、これが
どこから出たのか。
「日本の歴史・南北朝の動乱」を見ると12月8日に小山城を落としてから
鎌倉に向かったとなっており、明らかに一致しない。もっとも、小山〜鎌倉
の行程も十分早いけどね。
それ以前が遅い。


611 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 22:21:55
>奥州・関東の部分が500キロぐらいあるのだろう

久久に長文を書こうかと一瞬思ったが一行目と三行目のレベルの高い思考についていけそうにないわ(苦笑


612 :日本@名無史さん:2010/03/15(月) 10:09:53
ごめん、1335〜6年の第1回遠征と、1337〜8年の第2回遠征とを
混同していた。第1回のときは確かに>>571の言う快速長距離進撃があったのだ。

問題は元に戻った。

613 :日本@名無史さん:2010/03/15(月) 15:08:28
鎌倉武士の行軍も、駅逓よろしく休憩所とかで飯食ったの?

614 :日本@名無史さん:2010/03/15(月) 22:02:44
第1回遠征で北畠顕家が進撃した距離を、きわめて乱暴な方法で推定する。

グーグルアースで、多賀城から鎌倉までエイっと直線を引き、距離を測る。
350キロと出る。
同様にして鎌倉〜美濃黒田宿(一宮市)の直線距離を測る。235キロである。
さらに美濃黒田宿〜坂本の直線距離を測る。90キロである。
合計すると675キロである。

鎌倉〜美濃黒田の実際の(曲がりを含んだ)里程は、東海道の里程から
推定して80里、320キロであった。直線距離からの増加率を、直線距離の
合計にあてはめると:
675×320/235≒920

920キロと出る。「900キロ以上」は過大ではない。

顕家軍の徒歩の従卒は関東軍兵士より軽装だから一日30キロはたいしたことない。
しかしそれを30日間続けるというのが凄い。
しかし不可能と言い切ることはできない。なぜなら関東軍兵士の記録も、すでに
現在人の想像を越えるからだ。

615 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 00:42:50
>>614
その30日間の兵站はどうするの?

616 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 02:54:58
どこまで脱線するんだw

617 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 02:59:40
いいじゃん。どうせ結論は出てるんだし、そんなスレタイ教条主義にこだわらなくても

618 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 09:10:20
>>615
>その30日間の兵站はどうするの?

前近代の軍の兵站は現地調達が普通だ。

619 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 13:38:04
>>618
もしかして、「現地調達」って現地の住民がご飯用意して待ってくれてるとでも思ってるの?
現地の住民が調達されるのを避けるため、食料を隠したり、逃亡したりするのなんて普通だし、
時には武力で抵抗することだってあるでしょ。
兵站を「現地調達」に頼る軍は、行軍だけに専念できないの。
例えば食料の現地調達に2〜3日を要したら、平均一日30キロを維持するためには、翌日60〜90キロを
進まなくちゃいけないってことでしょ。
ただ歩いてれば良かった関東軍兵士とは根本的に違うんだよ。
歩卒なんか随伴してたら一日30キロなんて不可能。

620 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 16:14:54
>>619
では君は、北畠顕家軍が、どうやって一ヶ月900キロを達成したと思うのか?

>歩卒なんか随伴してたら一日30キロなんて不可能。

これは歩卒が一人もいなかった、という意味か?

621 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 17:40:31
>>619
横から一言いいか?
間違ってるよ。現地調達が基本だし、それで速く移動するのは、絶対に不可能ってわけじゃない。

行軍が速いことで知られていたナポレオン軍は現地調達で悪名だかかった。
ロシア侵略で大量の荷馬車隊を伴ったのがむしろ例外(失敗したけど)
W・マクニール著「戦争の世界史」第六章には、
「あらゆる陸軍の恒久的な必需物資である食糧と秣は、長距離を運搬するにはあまりにもかさばるので、そもそも現地調達するしかなかった」
と述べられた上で、
「食料を持たず、行軍途中で拾い上げたものを腹におさめるのを基本とした革命フランス軍は、
田野を横切って通常の二倍もの行軍速度で移動できることを証明し、それによる兵力及び火力の集中によって数の優位を確保した」
とある。

622 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 17:55:45
>>619
北畠軍は進軍しながら現地調達していたと『太平記』巻第一九に記されているようだぞ。

北畠顕家軍が鎌倉から上方へと向かったときの様子を記すに、
「元来無慚無愧ノ夷(えびす)共ナレバ路次ノ民屋ヲ追捕シ、神社仏閣ヲ焼払フ。
 惣(そうじ)テ此勢ノ打過(うちすぎ)ケル跡、塵ヲ払テ、
 海道二三里(道の左右二、三里)ガ間ニハ、在家(民家)ノ一宇モ残ラズ、草木ノ一本モ無カリケリ」

なお上記は集英社版 日本の歴史G「南北朝の動乱」からの孫引きであり、
著者の伊藤喜良によると、
「このころの軍勢は、兵糧米を現地で調達するのがふつうだったので、
 進撃する軍勢は、極端にいえば、略奪を繰り返しながら進んだ」
とのこと。

要は、イナゴかバッタのごとくすごいスピードで物資を略奪し、
制限をつけず民家や荘園の倉を食い荒らしながら上洛したんじゃねw?

623 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 18:19:23
太平記の北畠軍の略奪っぷりは正直、誇張入ってるんじゃね? と思うけど。
常識で考えて、道の周辺をわざわざ壊滅させながら移動するとかないわw 
北畠軍を夷と呼んでるし、奥州蔑視の意識があるから略奪の光景を誇張したんだろう。

でも現地調達=行軍が遅くなる、とは必ずしもならない。
そのことは奪いながら他国の二倍もの速度で行軍したナポレオン軍が証明しちゃってる。
そこで前提を間違えてるから答えが出ないんじゃない?

略奪そのものを目的にしてぐずぐず荒らしまわってるような軍じゃなく、
北畠顕家という優れた将のリーダーシップによってきちんと統制され、
戦略的な目標をきちんと持って進軍する軍なら不可能ではないと思う。

624 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 20:40:13
付け加えれば、「かれい」の存在があった。
「かれい」は炊いた米を日に干したもので、軽くてかさばらず、水に戻せば
すぐ食べられた。

「かれい」は、「あさがれい(朝食)」という言葉があるように、日常の
軽食として普及していたが、その特性から、旅行中の食糧の基本でもあった。
そのことは、鞍の後輪の両脇に附けた縛着用のひもを「かれいつけ」と呼んだ
ことにも現れている。

恐らく武士たちは、自前で用意した「かれい」を、略奪した食糧で大事に
食い延ばしながら、京を目指しただろう。

625 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 20:52:11
徒歩で一日30キロとか40キロとかいうのは、途方もない距離のように
思われるだろう。

私も、走る習慣がなかったときはそうだった。10キロ以上の距離は異次元の
世界に思われた。
しかし20キロ、30キロ、42キロの大会をそれぞれ数回走った今では、
距離に対する概念が変わった。一日に歩く(走るのでなく)距離としての
30キロ、40キロはなんでもないという感覚がある。
問題はどれだけの荷物を背負うかだ。
その意味では関東軍兵士の真似はちょっと無理だけどね。

626 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 21:22:41
そもそも、なんで「行軍速度が速い=全員騎馬」なんて結論が出るんだろうね。
遊牧民の行軍速度が速いのは、補給物資に足が生えて歩いてくれてる(羊)のと
替え馬が常識はずれに多いおかげで一頭当りの負荷を減らせるせいだぞ。
騎馬武者を乗せた馬、荷物を一杯背負った駄馬、胴丸と手持ち武器を見につけた徒歩兵
どれも行軍速度に大差があるようには思えないが。
むしろ悪路を進むことも辞さない強行軍ならば、徒歩兵こそが一番速く行軍できそうだ。

627 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 01:10:01
日本側死者1000
元の奴隷兵シナチョンの死者150000


こんな一方的な大勝利は世界史上ほとんどないwww

628 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 08:22:42
>>621
その、行軍が速いことで知られていたナポレオン軍ですら、1805年にフランス北部海岸からアウステルリッツに
至る約800キロを5週間、1日平均20〜25キロで北畠顕家軍よりもかなり遅いんだよね。
それから、マーチン・フォン・クレフェルト著「補給戦」は従来のナポレオンの「略奪」戦争のような固定観念に
否定的で、
「ナポレオン戦争がそれまでの戦争と根本的に異なっていると今なお信じられている分野は兵站術であるが、
そのこと自体兵站術という問題がなおざりされてることを示している」
としている。
ナポレオン軍の行軍の速さの最大要因は、
「そしてナポレオン自身の説明を借りれば、フランス軍の規模そのものが大きいため、要塞包囲のために
前進を停止する必要がなく、それらを迂回することができたことである」
なんだと。

629 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 08:25:00
>>626
それと、モンゴル軍で、日本の「かれい」に相当したものは干し肉だった。
これは羊肉を、乾燥しては叩くことを繰り返して繊維状にしたものだ。
「かれい」と同じように水に戻して食べた。

もっとも、日本に来たモンゴル軍はすでに中国化していたから、干し肉より
穀類だったろうけどね。

630 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 08:42:00
>>625
兵站という問題さえなければ、徒歩で一日30キロとか40キロとかの行軍を短期間おこなうことについて、
特別驚異的だとか言うつもりはないよ。
秀吉軍は「大垣大返し」において、宿場ごとに大量の兵糧を炊き出させるという方法で、53キロの距離を
5時間で行軍してるし。
でもそれと、900キロという長距離を、1ヵ月間という長期間に渡り、1日30キロの行軍速度を維持することは、
問題が違うから。

631 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 09:06:53
>>626
>遊牧民の行軍速度が速いのは、補給物資に足が生えて歩いてくれてる

っていうのは誤解ね。
羊の行動半径は普通1日6キロ以内であり、そんなもの引き連れていたら速く行軍することなんてできないよ。

それから、悪路における高機動こそが騎馬武者の最大の強みじゃん。
だからこそ、山がちな日本において騎兵である武士が圧倒的な軍事力を持つ存在として支配階級にまで
登り詰めたわけで。
1569年正月に信長は三好三人衆の襲撃を受けた足利義昭救援のため、
「信長馬上十騎ならでは御伴なく六条へ懸入」
と通常3日の行程を2日で走破してるわけで、全員騎馬武者は当然ながら大差で速いんだよ。

632 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 09:43:14
>>631
>羊の行動半径は普通1日6キロ以内であり
移動速度と行動半径を混同してませんか?

633 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 13:27:53
藤井の城郭研究の師である故鳥羽正雄博士の家に、
藤井は子どものころからよく遊びに行っていた。
そこで鳥羽博士から聞いた話がある。
鳥羽博士が、地方の山城の調査を頼まれて現地に行ったところ、
小型馬が用意されており、山の上へ馬で登って調査した、
と言うのである。
昭和30年代までは、山に登る道具として馬が認識されていたのである。

戦国時代の馬も同じだった。貴人は馬で山を登ったのだ。
山城は馬の存在があって始めて築城と運用が可能だったのである。
ttp://www.sengokushi.com/gote/b00200.html

634 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 13:41:09
>>598
逆じゃないの?
「騎馬武者とかいったって実際は随伴歩兵がべったり貼りついたトロいやつだろw」
と言いたいわけだとおもうよ

でも実際のところは>>539
Q騎馬のみの運用はあったか?
Aありました(正確には戦場までは徒士もついてくる。交戦が始まると徒士は後方においたまま
騎馬のみで集団騎射戦へ突入、その後両者が馬上打ちものにシフトすると後から追い付いてきた徒士が合流することはよくある
要するに騎馬が機動力を徒士に合わせるようなことは当時はしていない
そのあたりが戦国時代とは違うんだな)

ただ、ここのところの流れでは超長距離の行軍でも騎馬のみが主流だったのかどうかとかいう
正直どうでもいい流れになってる気がする
どっちにしたって騎馬のみで戦闘がおこなわれることがあった事実は動かないし、むろん徒歩と入り乱れての乱戦もあったわけで
少なくともふもとから山頂付近の敵拠点まで移動する程度の場合、騎馬のみのこともあったようですよ、というぐらいが双方確認できればそれでいい気がするけど

元寇に話を戻せば水城ぐらいのきちんとした拠点があれば
そこから騎馬のみで出撃して沿岸部で交戦してくるぐらいの騎馬単一行動はありましたよという以上のことを
そこまで議論する必要もないような



635 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 18:05:37
>>630 >>631
>900キロという長距離を、1ヵ月間という長期間に渡り、1日30キロの行軍速度を維持することは、
問題が違う
>全員騎馬武者は当然ながら大差で速い

なにが言いたいのかわからない。

900キロを30日というのは記録のほうがおかしい、事実ではない、と言いたい
のか?
それとも、記録は事実だが、それは全員騎馬武者だったからこそ達成できた、と
言いたいのか?

後者だとすれば一人でも徒歩従卒がいてはならないよ。
なぜならその一人の徒歩従卒が律速段階になるから。

636 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 01:53:22
もうそれ別スレ立てろよw

637 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 11:36:17
私の意見をまとめておこう。
北畠顕家軍は騎馬武者が中心だったが、徒歩の従者も必ずいた。
理由は:長期間にわたって馬の世話をすることは騎馬武者じしんでは無理で
あること、またこの時代は急激に戦争の動員数が増えて、騎馬武者だけでは
とうてい充足できなかったこと。(第2回の遠征軍は記録によれば30万
とも50万とも言われる)

行軍速度については、徒歩の従卒を律速段階と考えれば、当時の人は徒歩で
30キロ/日×30日が可能であったと考えるしかない。事実が優先だ。

「兵站」については、「かれい」を基本とすればかなりの分を携行食糧で
まかなうことがっできた。これに加えて、略奪する食糧があるし、
途中の鎌倉などには商人がいただろうから、携行した「金(ゴールド)」で
調達することもできた。

一言で言えば、30日ぐらいの作戦なら「兵站」なしで可能だったろう。

638 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 14:44:01
>>636
同意するw

639 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 16:31:00
話を威力偵察に戻せ

640 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 16:36:08
逃げた威力偵察厨の代わりに、君が頑張ってくれ

641 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 17:00:28
>>637
>長期間にわたって馬の世話をすることは騎馬武者じしんでは無理で

何で騎馬武者自身には無理なのさ?
これって全く根拠が無いだろ

642 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 17:21:41
結局威力偵察なんて言葉がいかんのだ
あれは威力誇示軍

643 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 17:35:13
>>642
わざわざ元軍は弱いって誇示するために来たのか?

644 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 17:43:58
どうせ壊滅するんなら、マジで威力偵察しとけば次に活かせたかもね

645 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 17:53:04
いや、誇示しようとしたんだが失敗したんだ
カミカゼが吹いたから
吹かなければどうなっていたかわからん

646 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 18:01:03
文永の役
高麗人 12700人
モンゴル人  30人

このソースはどこだ

647 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 18:29:24
>>646
その数字に根拠なんてないよ

648 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 18:38:50
結局高麗人とモンゴル人の正確な人数割合なんてわからないんだから

649 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 18:49:54
>>648
文永の役の場合、高麗人の数は「高麗史」に書かれてる軍8000人、悄工・引海・水手6700人だろ。
モンゴル人の数は最低でも忻都官人の所管する軍4500人。

650 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:08:12
>>641
>何で騎馬武者自身には無理なのさ?

最下層の騎馬武者は家人・郎党だが、彼らとて一家の主であり、下人を
従えている。馬の世話はふだんは下人の仕事だ。それを急にじぶんで
やれと言われても(以下略)

では家人に従う下人は戦場にいたか。一ノ谷合戦の時、大手軍にいた河原太郎
という武士は、「我々家人が高名を認められるにはじぶんで手を下すしかない」と
言って、先陣討ち死にの覚悟を決め、弟の次郎に証人を頼むが、弟もいっしょに
行くと言って聞かない。そこでしかたなく下人に証人を頼む。
そして二人の討ち死にを見届けた下人が「川原御兄弟、ただいま真っ先かけて
討たれ給いぬるぞや」と呼ばわるのである。
家人・郎党といえどもその下人は戦場にいた。


651 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:27:15
続き。
純粋に騎馬武者だけの軍は、と言えば我々はまず鵯越えの、義経麾下の支隊を思い
うかべる。
時間的にも距離的にもきわめて限定された作戦において、70騎という小勢が敏速に
行動した、というイメージがあるからだ。

しかしこの支隊のなかにも下人はいた。この支隊に属していた熊谷直実は、
集団戦では功名を上げられないから、単騎抜け出して生田方面で先陣しよう
と考え、その前夜、同じことをしそうな平山季重のところへ、下人を偵察に
やっている。

義経支隊の姿は、間道をひたはしる騎兵集団ではなく、小走りに走る下人に口を
とられてトロットする馬にまたがった騎馬武者の集団である。
つまり義経支隊でさえ、その行動速度は徒歩従者のマラソン能力にかかって
いたのだ。

652 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:36:49
>>649
>モンゴル人の数は最低でも忻都官人の所管する軍4500人。

「蒙漢軍」だからモンゴル人の数は「最低でも」ではなく「最大でも」


653 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 01:17:40
>>652
いや、高麗史で「蒙漢軍」は2万5000人だから、それが「最大でも」。
その中のモンゴル人が最低でも4500人。

654 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 02:32:30
>>645
ダウト。
文永の役には台風自体が来ていない

弘安の役においても台風が来る以前に数ヶ月間も上陸を阻止され続けている時点で
事実上元軍の負け

655 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 08:15:19
>>654
誰も台風と言ってない。カミカゼ。
弘安の役では別に上陸防止されてるわけじゃない。単に上陸しなかっただけ。
ウヨはこれだから困る

656 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 09:37:26
>>653
4500人は金州にやってきた、鳳州などの「屯田軍」だろ?
屯田軍は主として新附軍だ。
新附軍というのはモンゴルに帰順した漢人軍閥をモンゴル式に再編したものだ。
もともと漢人だから農業になじんだのだね。
モンゴル人は幹部しかいない。
だからモンゴル人は「最大でも」4500人なのだ。

657 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 11:33:31
>>656
そんな史料ないぞ

658 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 13:56:45
>>655
上陸しなかっただけ?
釣るならもう少し頑張りなさいw

659 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 14:12:21
こいつ神風が台風じゃないならなんだとおもってたんだろうw

660 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 14:32:10
八幡宮から出てきた白装束の人達なんじゃない?w

661 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 15:31:39
>>657
ごめん、後から来た征東軍15000は除外して書いていた。
屯田軍4500人は主として漢人だ、ということを言いたかったのだ。

元の屯田軍については次の資料など見るといいよ。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/rekisi/heisei/gen4.htm

私の書いた「主として新附軍」は「主として新附軍と漢軍」に訂正する。
新附軍の屯田は妻帯者、漢軍の屯田は独身者が多かったそうだ。
文永の役のときの屯田軍は漢軍だったのではないか?
いずれにしても漢人で、モンゴル人の可能性は少ない。
百姓できないし、屯田制の趣旨から外れるからね。

662 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 15:47:27
655の頭の中

自分に都合の悪い事実を指摘する人=右翼
カミカゼは台風ではない!←じゃあカミカゼってなんなのw
東路軍は上陸を阻止されたわけじゃない!ただ上陸しなかっただけだ(笑)←じゃ奴らは何しに日本に来たんだw
文永の役にも台風は来ている!←あ、カミカゼでしたっけw

┐(´ー`)┌

663 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 16:18:53
最初に言っとくと俺は「騎馬武者はいつでも騎馬のみで例外は無し!」とでも言いたげな人とは別人ね
(つってもこの人も最初のころのレス読み返すと100%例外は無しとは言ってないけどね、>>519とか)

行軍中や交戦していない移動中はそりゃ騎馬も徒歩の連中と一緒に移動するでしょう。(伝令や貴人が落ちのびるとか特殊な事情なら騎馬のみもあるかもしれんけど)
そういえば江戸時代の話ではあるがフランス人の記述に日本の馬子の移動能力とスタミナが化物じみていることでえらい驚いたという話があったな
>>650
むしろこの逸話からは下人は戦場にいるだけの存在で戦力外だったという事実が浮かび上がるだけだな
>>651
坂落としの最中に下人がいたわけじゃないなそれ
移動中に馬子がついているからといって
交戦中いつでも100%随伴歩兵がいたという根拠にはならない
というか下人という身分のものが歩兵として戦闘に加わるかどうかは決定事項ではない(時に戦闘することもあった、ぐらいの頻度だろう)

要するに騎馬だけで戦うことはよくあった
特に射撃戦ではそれは顕著だった
元寇でも騎馬のみでの運用が確認できる
ただしどんな戦闘でも必ず騎馬のみという極論ではない

で結論でしょ

664 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 16:24:51
訂正
徒歩の人間が戦闘に参加することに関しての記述は>>519じゃなくて>>521のほうだった

665 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 16:36:44
そもそも高麗史ってそんなに信用できるんかい?
二次史料だし対馬朝鮮領説の根拠になってるし

666 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 16:38:06
蒙古襲来絵詞でも
戦闘中騎馬のみで描かれている場面があるが
一方移動中や防塁前で他の武士にあいさつ回りしているときには徒士に薙刀運ばせたりしている

戦闘中…騎馬のみの運用あり・騎馬徒士両方の乱戦もあり
行軍中…大体が徒歩騎馬一緒に移動。騎馬のみで戦うことを前提に移動中でも雑務を担当する者として徒歩のものが一緒に行動する

>>521の人は「下人は戦場にいなかった」という意見なのでそれはちょっと変だとおもうので賛成できないけど
少なくとも元寇のとき騎馬のみでの戦闘があったことは否定できない



667 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 16:41:15
>>661
じゃモンゴル人30人って可能性もゼロじゃないわけね


668 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 16:42:25
>>665
対馬朝鮮領説の根拠になってるかな?
大使館的な施設が対馬に会っただけでしょ

それって大使館があるから港区は韓国領って言うようなレベルのこじつけだと思うけど


669 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 16:51:31
勾当官を措いたという高麗史の記述が確かに根拠になってるが
それはコジツケもはなはだしい あとからの解釈問題
高麗史は基本的に信用できる。なんといっても朝鮮様の歴史書だからw



670 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 17:01:10
>>669

>朝鮮様の歴史書だから

釣り?

671 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 18:11:04
>>661
いや、忻都官人の所管する軍4500人は漢人じゃないよ。
1人あたり馬3頭を所持する騎馬民族部隊。
漢人部隊が計1万8000頭もの馬を所有してるわけないだろ。
だからモンゴル人は最低でも4500人。

672 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 18:20:02
>>667
>じゃモンゴル人30人って可能性もゼロじゃないわけね

屯田軍4500人についてなら、ゼロじゃない。

例えて言うと、屯田軍は植民地軍だ。
大英帝国が、インド人部隊をマレー半島の防衛に使ったようなものだ。
百姓するかどうかは別としてね。

これに対して高麗軍は、建前上は同盟国軍だ。
大英帝国が、豪州軍をマレー半島の防衛に使ったようなものだ。

673 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 18:23:39
>>671
>いや、忻都官人の所管する軍4500人は漢人じゃないよ。
>1人あたり馬3頭を所持する騎馬民族部隊。

ソース希望。


674 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 19:11:05
蒙古襲来絵詞って加筆が多いって聞いたんだけど、
もし本当なら、後世の絵師の知識や想像とかは入ってないの?

675 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 20:00:04
>>674
元軍の装備についての描写がかなり正確で
一次史料としての価値はかなり高いという話なら聞いたことある。

676 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 20:45:54
「蒙古襲来絵詞」はモンゴル軍の武装を知ることができる貴重な資料
として世界的に有名らしいね。

結果的に竹崎季長の知名度も上がって、
外国の書籍では「日本の英雄」として紹介されることもあるから、
本人が聞いたら泣いて喜びそうだ。

677 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 22:32:45
>>671

おいらもソース希望

678 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 03:21:35
>>674
加筆の部分とオリジナルの部分がはっきり区別がつくようになった=オリジナル部分の信頼性が上がった
http://up3.viploader.net/lounge/src/vllounge003669.jpg

679 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 04:23:37
>>673
>>677
『高麗史』巻二十七 元宗世家 元宗三 元宗十二年九月条 
「金方慶報云:『界内百姓、皆食草實木葉、雖有徴索勢無可爲者。且見今官軍六千而、
 科施赤則不得細[言音]其數多少。外有官人扎撒赤首領官令史并官軍家屬及其兄弟遞番往來者、
 悉令給料至乃攻破珍島後驅掠人物亦令給糧。今計正軍六千人、所帶馬率以一人三匹爲計、
 則凡一萬八千匹。一匹日支五升、自十月至明年二月則當用上朝碩十三萬五千、而本國碩則
 二十七萬矣。加以四千農牛料、一首日支五升、自十月至明年三月以上朝碩計之三萬六千本國碩
 則七萬二千。然則小邦百姓飢困固不假恤官軍所須亦必匱。(後略)』」

680 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 09:20:29
>>679
なるほどね。しかし馬の数が一人当たり3匹だからといって、それがモンゴル人
であることの証明にはならない。
>>656で書いたように、漢人からなる屯田軍と言えども「モンゴル式に再編」
された軍隊だ。
そして替え馬が多いことはモンゴルの軍制の一部なのだ。
考えて見れば、これだけの機動力を持っているからこそ、数カ所に屯田して
いるだけで高麗全土ににらみが効いたのだね。

681 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 14:26:58
>>680
だからこれは漢人じゃないって。
あなたが>>661に史料として貼り付けたサイトにも、

>軍屯には単身で屯田するものと一家全員で屯田するものがありました。単身での屯田は、
>主に漢軍で、定期的に交代しました。いわゆる一家全員での屯田は、屯軍が屯地に定住することを指し、
>家族も屯田に参加しました。これは主に新附軍と一部の蒙古軍、探馬赤軍でした。

って書いてあるでしょ
こっちは後者の一家全員での屯田じゃん。
忻都は耽羅攻略の後、手勢の中から500人を割いてそのまま駐屯させてるけど、高麗史では
「忻都は蒙軍五百を留め、金方慶も交た兵一千を留め之を鎮撫す」。
忻都はの麾下にいたのは蒙古軍だったんだよ。

682 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 15:58:38
>>681
>こっちは後者の一家全員での屯田じゃん。

一家全員での屯田だという根拠は?

683 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 16:24:05
>>682
外有官人扎撒赤首領官令史并官軍家屬及其兄弟遞番往來者

684 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 21:35:41
>>683
訳:
外に官人・扎撒赤・ 首領官・令史并びに官軍の家屬及び其の兄弟の
遞番往來する者有り、悉く料を給しせしめ

「外に・・有り」だ。外に、とは六千人の兵士以外に、という意味だ。
高麗に駐在する各種の役人およびその家族に食糧を供給する話だ。
どれだけの役人がいたかは「家123」に詳しいよ。

685 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 22:03:58
>>663
>むしろこの逸話からは下人は戦場にいるだけの存在で戦力外だったという事実が浮かび上がるだけだな

そのことは「必要に応じて武器を用いる準戦闘員」という言葉ですでに言っている。
ただし、全くの戦力外ではない。無抵抗になった敵の武士の首を、主人に代わって
ちょん切るぐらいのことはするのだ。
蒙古襲来絵詞では、竹崎末長の主従5騎に、しばしば2人の下人が随伴しているが、
石築地の場面ではそのうち一人が柄の付いた鉤を持って入る、別の場面では
小舟に同乗した下人がこの鉤で敵船を引き寄せている。(同じ下人とは限らないが)

>交戦中いつでも100%随伴歩兵がいたという根拠にはならない

誰がそんなことを言ったのかな?
竹崎末長の主従5騎に従う下人も、馬が並足で移動している場面では随伴しているが、
ギャロップで進撃している場面ではもはやいない。ついていけなければそうなるのは当たり前だ。
そうなるといわゆる「騎馬のみの運用」になるわけだ。

>要するに騎馬だけで戦うことはよくあった
>ただしどんな戦闘でも必ず騎馬のみという極論ではない
>で結論でしょ

そんな結論なら最初から出ている。

>>666
>少なくとも元寇のとき騎馬のみでの戦闘があったことは否定できない

だれも否定していないし、議論するまでもない。絵詞を眺めるだけでよい。



686 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 22:06:04
>>685
訂正:
末長 → 季長

687 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 02:32:42
なんでそんなカリカリしてんの?

688 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 15:20:58
過去レスもざっと読んだけど、やっぱり文永の役は日本の負けって感じすんだよね
博多焼かれてるし
引き返してくれて助かったなと
弘安の役はほぼ日本の勝ちだろうと思うけど

689 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 15:53:03
戦略上全く重要性のない武士のいないとこ焼いて何になるんだ?

そもそもいつ博多が焼けたんだ?



690 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:14:30
博多焼かれてないってのはさすがにないだろう


691 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:26:25
当時の政治的中心は博多。
あんな内陸じゃ日宋貿易も出来ない。


692 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:30:08
博多が焼かれたと書かれた一次資料が無い

693 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:30:37
大宰府守護所は櫛田神社のへんにあったらしいね

694 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:31:35
武士が水城で飯食って寝てた間に
平民殺してホルホルしたからってなんになるんだ?

695 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:37:26
>>684
六千人の兵士の他にその家族がいるってことだろ。
つまり、その六千人の兵は一家全員での屯田ってことね。

696 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:37:47
そう、武士は平民を見殺しにして自分らだけ昔の防衛線まで逃げたんだ
大宰府守護所もやられた

ただその反省をして次は石塁作って博多を守ったんじゃん

697 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:40:20
おいおい武士は強いとは言っても人間
飯も食うしウンコもすれば睡眠も必要

日が暮れたので拠点に戻って休養を取ったら逃げたことになるのなら
それこそたった一日で敗走した元軍は完全なる敗北だな

698 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:43:38
>>696
平民は安全な博多の町に避難してたから無事だったよ

699 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:44:16
まあ蒙古が逃げたのは動かないとしても…
そもそも武士の拠点は博多にあったんじゃないのか
聞きかじりだけど、大宰府守護所=大宰府 と呼んでたというのをどっかで読んだぞ
ソースナシだが

700 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:44:32
博多が焼けたと連呼していたやつは偵察厨と同一人物だった(>>207-214)わけだが
今いるコイツもそうかな?

もしそうならまず>>9に答えなきゃw


701 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:46:21
>>698
つまり>>694

平民殺してホルホル

というのはウソだなw

702 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:46:53
>>699
文永の役で博多には少弐氏の部隊が駐屯してた。
だから、元軍は結局博多に何の損害も与えることがでできず逃げ帰った。

703 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:48:38
>>699
そりゃ君の妄想だ
MMRでもやらんようなこじつけだな

朝鮮人が書いた「元寇では本州まで占領したニダ!」みたいな小説と同レベル

704 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:50:49
博多が焼けたってのはつまり八幡愚童訓なんだろ
ここのスレではその史料が信用できないって結論に達してるわけだな一応

705 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:50:54
結局切り口を変えても中の人はいつも偵察厨ひとりなのか?

706 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:54:05
その八幡愚童訓ですら転写ミスというオチ
信用できない資料に書かれているその内容すら転写ミス

707 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:59:37
すまん八幡愚童訓の転写ミスの話はこのスレに書かれてるかい?
長いんで探せねえ
示してくれとまで言わないよ あるんなら自分で探すからあるかないかだけ
教えて m(_ _;)m

708 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 16:59:50
「戦火から焼け出された人が博多へ逃げてきた」
ってのを無理やり曲解してるんだったっか?

709 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 17:04:30
>>708
つまり転写ミスじゃなく曲解かい?
教えてくんでゴメンよ

710 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 17:24:45
>>705
カミカゼは台風じゃないとかいってたバカは別人なのかな

711 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 17:39:06
>>695
>六千人の兵士の他にその家族がいるってことだろ。
>つまり、その六千人の兵は一家全員での屯田ってことね。

「遞番往來」を見落としたか? この言葉は列記した役人と、最後の家族との
両方にかかっている。つまり役人が任期によって本国と往来しているのに
合わせて家族も往来したのだ。屯田のような定住ではない。

百歩譲ってこれが兵士の家族だとしても、例の資料によれば:
>軍屯に従事する人員は、主に新附軍と漢軍であり、少数の蒙古軍と探馬赤軍もありました。
>いわゆる一家全員での屯田は、<中略>主に新附軍と一部の蒙古軍、探馬赤軍でした。

つまり蒙古軍の屯田は少数であり、例外なのだ。
「一家全員での屯田は、<中略>主に新附軍と一部の蒙古軍、探馬赤軍でした」を
ひっくり返しても、一家全員だから蒙古軍だ、とはならない。

なぜ例外か。元帝国はすでにかなり中国化していたとは言え、民族の区別や、
遊牧民族の誇りは生きている。遊牧民族は農民を軽蔑しており、よほどのことで
ないとじぶんで農業はやらない。
そのような例外的なことが、なぜ選りに選って高麗で起こらねばならないのか?

また、元宗12年と言えば文永の役の3年前で、すでにそのための準備は始まっている。
ただでさえ忙しくて物が足りないのに、動きが遅くて物要りな家族持ちの屯田を
やるとは考えられない。
6000人の家族持ち屯田なら6000軒の家が要るのだよ。

712 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 19:00:12
遊牧で食っていけなくなってるのに
そんな悠長なこといってられたのかな

713 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 20:47:16
>>712
支配階級だから、遊牧を捨てても食う事ができた






とまでは言わないが、屯田兵志願しなきゃいけないほど
食い詰めモンゴル人が多かったって事?

714 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:12:17
>>713
>支配階級だから、遊牧を捨てても食う事ができた

その通り。後の清帝国の満洲族と同じだ。
(満洲族は遊牧ではなくて奴隷農業だけどね)

>屯田兵志願しなきゃいけないほど食い詰めモンゴル人が多かったって事?

難しく考えることはない。モンゴル人ではなくて漢人なのだ。

715 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:10:16
>>711
なぜ選りに選って高麗でかの理由は簡単。
それは高麗が当時モンゴルの新たな侵略戦争の最前線だからだよ。

忻都の部隊を無理やり漢人だと考える理由が無いじゃん。
忻都自身はモンゴル人。
指揮下の部隊は1人あたり3頭もの馬を所持する騎馬部隊。
忻都が手勢から500人を済州島に駐屯させれば、「忻都は蒙軍五百を留め」。
史料上、忻都の下にいたのは明白に蒙古軍なんだよ。
そもそも日本遠征の主戦力は「蒙漢軍」だろ。
この程度の蒙古軍が参加してなければ「蒙漢軍」とは呼ばないよ。

716 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 09:26:04
>>715
>それは高麗が当時モンゴルの新たな侵略戦争の最前線だからだよ。

「侵略戦争の最前線」なら、誇り高き遊牧民族戦士が「農牛」を牽いて
百姓をやるのか?

>史料上、忻都の下にいたのは明白に蒙古軍なんだよ。

忻都の下にいたから蒙古軍だとは言えない。その時時でいろんな軍隊を指揮している。
済州島を攻めたのは駐留軍ではなくて遠征軍だ。そして明瞭に「蒙古軍」と書いて
ある。そのなかの一部を留めて反乱に備えたのだ。

>そもそも日本遠征の主戦力は「蒙漢軍」だろ。

「蒙漢軍」という軍隊があったのではない。「蒙軍・漢軍」なのだ。
漢軍と言っても馬鹿にはできない。フビライは金国のもとにあった漢人
軍閥の軍隊を帰順させて、蒙古式に再編することによって力をつけ、
権力を握ったのだからね。

ついでだが、「遞番往來」も説明してね。

717 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 09:49:42
>>716
実際に蒙古軍の屯田もあったって自分の貼ったサイトに書いてあるじゃん。
「蒙漢軍」というのは「蒙軍・漢軍」なんだから、元寇には大勢の「蒙古軍」参加してたってことだろ。
済州島を攻めたのは朝鮮半島駐留軍なんだから忻都の下にいたのが蒙古軍ってのは決定的だな。

718 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 10:32:57
>>716
どうでもいいとこにこだわり過ぎだな


719 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 10:49:57
なんで農業をそんなに毛嫌いするのかわからんが…
モンゴル人ってそんなに農業蔑視ひどいのか?
日本の感覚とはそんなに違うのか?

日本では農民が最も有益なる市民とみなされている。
このような国では農作物についての報酬や奨励は必要ない。
そして日本の農民は、他の国々で農業の発達を今も昔も妨げているさまざまな強制に
苦しめられるようなことはない。
農民が作物で納める年貢は、たしかに非常に大きい。
しかしとにかく彼らはスウェーデンの荘園主に比べれば、自由に自分の土地を使える。
日本の農民は、こうしたこと一切から解放されている。
彼らは騎兵や兵隊の生活と装備のために生じる障害や困難については、まったく知らない。
そんなことを心配する必要は一切ないのだ。
スウェーデン人 阿蘭陀船医・医学博士・植物学者 ツュンベリー

720 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:51:23
>>717
>実際に蒙古軍の屯田もあったって自分の貼ったサイトに書いてあるじゃん。

少数で一部。つまり例外な。

>「蒙漢軍」というのは「蒙軍・漢軍」なんだから、元寇には大勢の「蒙古軍」参加してたってことだろ。

その通り。大勢の蒙古軍がいた。征東軍15000人の中にね。

>済州島を攻めたのは朝鮮半島駐留軍なんだから忻都の下にいたのが蒙古軍ってのは決定的だな。

忻都は総司令官だよ。だからその下には高麗軍だっていた。それとも高麗軍は蒙古人なのか?

ところで「遞番往來」の説明はまだか?

721 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:55:18
つーか農耕の出来ない文明国はないよ

722 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 17:11:45
>>720
つまり、その少数で一部の例外ってのが蒙古軍の高麗屯田ってことでしょ。
済州島を攻めた時、高麗軍を率いていたのは金方慶。
忻都直属の部隊は史料にもあるように高麗に駐留していた蒙古軍ね。
あと、「遞番往來」は当番制で往来するってことだろ。

723 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 20:43:47
>>722
>つまり、その少数で一部の例外ってのが蒙古軍の高麗屯田ってことでしょ。

それは例外の一般化だ。「ほ乳類は胎生だが例外的にカモノハシのような卵生もある」
というのを裏返して「卵生ならばほ乳類である」というのと同じ。

>忻都直属の部隊は史料にもあるように高麗に駐留していた蒙古軍ね。

結局、忻都が蒙古人だから屯田軍兵士も蒙古人だ、と言っているわけだが、
植民地軍において兵士が被征服民族、幹部が征服民族であるのはむしろ普通だ。

例えばマレー半島防衛のインド人部隊の幹部は英国人であった。また、ノモンハン
に参加した満洲国軍の兵士は中国人、幹部は日本人であった。(負け戦になると
中国人兵士が反乱して日本人幹部が殺されたこともあった)
だから忻都が蒙古人だということはなんの証拠にもならない。

>あと、「遞番往來」は当番制で往来するってことだろ。

言葉の意味ではない。定住する屯田軍兵士の家族がなんで「遞番往來」するのか、
と聞いているのだ。屯田軍兵士の妻は交替制だったのか? うらやましいな。

私の解釈は:各種の駐在官が家族とともに、任期によって交替して、本国との
間を往来した、ということだ。屯田軍の家族のことではない。

724 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 04:16:17
外野から見ていてどっちでもいい話題にこだわりすぎ


725 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 11:35:34
>>723
一般化じゃないだろ。
ちゃんと蒙古軍の高麗屯田は一部の例外って認めてるじゃん。
そもそも忻都の下にいたのが漢人だという根拠が何一つないし。
ただ自分の間違いを認めたくなくて意地になってるだけ。

726 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 14:06:56
モンゴルの経済・生産活動
搾取>略奪>>遊牧>>>>農耕

727 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 16:39:01
>>725
>ちゃんと蒙古軍の高麗屯田は一部の例外って認めてるじゃん。

それは「ちゃんと蒙古軍」だと証明できてから言うことだ。
順序が逆だから例外の一般化と言うのだ。

>そもそも忻都の下にいたのが漢人だという根拠が何一つないし。

根拠は一般に屯田軍が漢軍であるという資料。
また一般にモンゴル人は農業をやらないという事実。

屯田軍が蒙古軍だという根拠も忻都が蒙古人だということしかないではないか。

ところで屯田した蒙古軍が一家全員であるという根拠として君があげた文献には
「遞番往來」と書いてあるが、定住した屯田兵の妻は交替制だったのか?
その答えをまだ聞いていないな。



728 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 18:04:59
>>727
屯田軍が蒙古軍だという根拠は、一人当たり3頭もの馬を所有する完全な騎馬部隊であること。
忻都が済州島に駐屯させた手勢500人を高麗史が蒙軍と明記してること。
ちゃんと蒙古軍だと証明できてるじゃん。
現実に蒙古軍の屯田がある以上、モンゴル人は農業をやらないなどという勝手な思い込みは
根拠になって無い。


729 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 18:17:42
>>727
それから、家族が「遞番往來」だったなんて書いてないよ。
官軍の家族「及び」遞番往來もいた。
つまり「遞番往來」してたのは家族じゃない。

730 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 20:25:28
>>628
補給戦なら俺も持ってるが、それ何ページ?
ナポレオンが「周辺地域からの徴発」と「護送隊による補給」の二つを組み合わせるのが最もよい、
と述べている文なら77Pに載ってるが。
読み落としなら、クレフェルトの主張してる説をもう一度吟味してみたいね。

あと突っ込んどくと、その説が本当にしても
それって城郭要塞もしくはそれに準ずるものが無ければ
軍隊が足止められることもないわけだから、北畠軍の行軍の速さを否定できなくなるぞ。
当時の日本の城は貧相なレベルだ。

731 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 22:32:53
>>728
>屯田軍が蒙古軍だという根拠は、一人当たり3頭もの馬を所有する完全な騎馬部隊であること。

漢軍だろうと、蒙軍だろうと、元軍である以上、替え馬を持っているのは当たり前。
なんの証明にもなっていない。
「漢軍」という言葉で誤解があると思うが、漢軍は金国という騎馬民族国家のもとで
戦っていた軍隊だから、もともと騎馬軍なのだ。

>忻都が済州島に駐屯させた手勢500人を高麗史が蒙軍と明記してること。

済州島を攻めた元軍は屯田軍2000と、本国からの増援軍2000とから成った(外に高麗軍)。
そのどちらから済州島駐屯軍が出たかはわからない。だからなんの証明にも
なっていない。

732 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 22:34:18
>>729
>それから、家族が「遞番往來」だったなんて書いてないよ。
>「遞番往來」してたのは家族じゃない。

「外に官人・扎撒赤・ 首領官・令史并びに官軍の家屬及び其の兄弟の遞番往來する者
有り、悉く料を給せしめ」

「遞番往來する者」はどこまでにかかるか。普通に読めばその前の全部、つまり「官人」から
「兄弟」までにかかるだろう。
百歩ゆずってどこかで切れるとしても、少なくとも「家属」までにはかかるだろう。
そうでなければ遞番往來したのは「兄弟」だけ、ということになり、意味を
なさない。それに「其の」が浮いてしまう。

「家属」が遞番往來したとなるとその前の「官軍」も遞番往來したことになる。
となると、これは屯田軍のことではないということになるね。
そうすると、一家全員の屯田だから(資料により)蒙古軍だ、という根拠が
なくなってしまうのだが、さて困った・・・

733 :日本@名無史さん:2010/03/23(火) 22:42:54
>>732
厳密に言えば「官軍」は遞番往來しなくてもいいね。
しかしその場合は、どうして「家属」だけが遞番往來、すなわち任期によって
交替して本国との間を往来するの? ということになる。
「屯田軍兵士の妻は交替制だったのか?」という夢のような話が浮上するわけだ。

734 :日本@名無史さん:2010/03/24(水) 16:05:37
388 :名無し三等兵:2010/03/23(火) 19:31:30 ID:???
>>376
>ここで別の疑問。上陸阻止にあたって、鎌倉武士みたく海岸線で討って出るのと、
>上記の朝鮮軍みたく城塞に篭るのとでは、やっぱ後者が数段楽なのかな?

それは当然だな。実際に元寇でも、文永の役では日本側は敗退して水城のラインまで退いている。
弘安の役では防塁を築いていたので海岸で阻止できたわけだ。

398 :名無し三等兵:2010/03/24(水) 05:14:27 ID:???
ま、自己顕彰の蒙古襲来絵詞の詞書きを引いて、博多が灰燼に帰した文永の役を
日本軍の勝利!というのは、李舜臣の乱中日記を引き合いに、壬辰倭乱は焦土と
化したウリナラの大勝利!という程度にはアホだな。

↑博多が燃えた厨がこっちへ逃げだして来て困っていますのでそちらで引き取ってください

http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1266150564/

735 :日本@名無史さん:2010/03/24(水) 17:44:40
>>731
忻都が本国からの増援軍を勝手に済州島に駐屯させるわけないだろ。
忻都が500人を割いたのは当然自分の直属部隊である屯田軍でしかありえない。

>>732
>>733
漢人の屯田は単身でおこなわれていたんだから、「遞番往來」だろうが何だろうが
「官軍の家族」が存在してる時点で、高麗屯田軍は漢人じゃないだろ。
さて困った・・・

736 :日本@名無史さん:2010/03/24(水) 18:23:53
途中からなので流れが全く分かんないんだが
いまそれ弘安の役の江南軍の話してるんだよね?

737 :日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:01:07
>>735
>忻都が500人を割いたのは当然自分の直属部隊である屯田軍でしかありえない。

駐高麗の屯田軍は、その設置の時から日本征討をミッションにしたものだ。
便宜的に三別抄鎮圧のためには使っても、恒久的な防衛のためには使えない。
また元は最初から済州島を元の直轄領にするつもりであった。
だから三別抄鎮圧の後、「耽羅国招討司(のちに耽羅ダルカチ総管府)」を
置き、兵1700を駐屯させた。

作戦終了後は、組織的にもすでに忻都の管轄外なのだ。屯田軍がここに置かれた
可能性は薄い。

>「遞番往來」だろうが何だろうが 「官軍の家族」が存在してる時点で

遂に「遞番往來」の説明は放棄したか。「遞番往來したのは家族じゃない」と
言ったばかりではないか。

家族なんて、屯田軍でなくてもどんな駐留軍にもいる。第一、単身者の屯田軍にだって
兵士以外の幹部は家族持ちだろう。それにこの時点では屯田軍設置以前からの
駐留軍がまだいる。
家族がいるから蒙古屯田軍だ、というのは「卵生だからほ乳類だ」の類だ。

738 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 10:13:12
>>737
日本語がおかしかったので訂正する。
「単身者の屯田軍にだって兵士以外の幹部は家族持ちだろう。
→「単身入植の屯田軍にだって家族持ちの幹部はいただろう」

ちなみに蒙古軍には十戸、百戸、千戸、万戸などの位があり、それぞれの
数の兵士を指揮した。
十戸は分隊長で、これは兵士のうちだろう。
百戸は小隊長〜中隊長で、マージナルだ。
千戸は大隊長〜部隊長で、駐高麗屯田軍にはこの時点では二人しかいない。
このクラスになると家族連れで赴任した可能性が高い。
その上の万戸はもはやおらず、忻都しかいない。忻都だって屯田経略使なの
だから屯田軍指揮官だ。彼も家族連れの可能性が高い。

ところで「万戸」という用語を女子学生に教えるとき、先生は困らないの
だろうか?

739 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 11:46:11
>>737-738
残念ながら済州島に駐屯した蒙軍500人が本国からの増援軍だった可能性はない。
本国からの増援軍2000人ってのは「武衛軍」なんだけど、この「武衛軍」ってのは漢人によって編成された軍なんよ。
だから、済州島に駐屯した蒙軍500人は忻都の下で高麗に屯田していた部隊だったとしか考えられないわけ。

それからさぁ、「家族なんて、屯田軍でなくてもどんな駐留軍にもいる」じゃないだろ。
自分が史料として貼り付けたサイトに漢人の屯田は単身だったと書いてあるんだぜ。
高麗屯田軍が漢人だったら、 「官軍の家族」が存在しちゃダメだろ。

740 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 14:51:36
>>739
>高麗屯田軍が漢人だったら、 「官軍の家族」が存在しちゃダメだろ。

だからそんなしゃくし定規じゃないだろうと言っているわけ。
単身入植の軍隊だったら下は一兵卒から上は将軍まで、ぜんぶ単身で、
田を耕し、牛を牽くのか、ということだ。

日本の関東軍のことを考えて見ればわかるだろう。
兵士たちはもちろん単身だったが、将校たちは家族連れで、立派な
官舎を与えられていた。それと同じだ。

現に忻都はどうするのか。忻都だって屯田軍の一員だが、忻都の家族がいては
まずいのか? 例の文章も、官職をずらすらと並べた後に官軍が出るのだから
このような上級軍人のことを言っていると考えた方がよい。

それから忻都で思い出したが、江南軍のトップは阿塔海だった。
これは蒙古人だろ?
忻都が蒙古人だから下の兵士も蒙古人だと言うなら、江南軍10万も
蒙古人だということになるではないか。

741 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 15:31:53
竹崎季長が恩賞として海東郷の地頭職を与えられたのは1276年で、『蒙古襲来絵詞』の作成はそれよりも後の1293年頃です。

絵巻の作成された1293年は、霜月騒動で討たれた安達泰盛とその一族の名誉回復が始まった年でした。
文永の役の翌年、恩賞訴願のため鎌倉に赴いた竹崎季長は、恩賞奉行だった安達泰盛によって海東郷の地頭に任じられたのみならず、馬と具足を賜るという破格の好意を受けました。
『蒙古襲来絵詞』は恩義ある安達泰盛とその一族への感謝の気持ちを込めて作成されたのです。

742 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 17:22:34
>>740
忻都の下の兵士も蒙古人だと史料にハッキリ書いてあるじゃん。
「忻都は蒙軍五百を留め」って。

743 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:33:17
>>742
「外に官人・扎撒赤・ 首領官・令史并びに官軍の家屬及び其の兄弟の遞番往來する者
有り、悉く料を給せしめ」

この文章を家122(前に123と書いたのは誤り)と較べながらもう一度考えてみた。
(家123は、軍隊組織の各段階に設けられた事務局に割り当てられる職員数の一覧表である
とわかった。ただし、その事務局が管理する兵数も含む)

この文章で、扎撒赤はわからないが、首領官と令史は家123の職名に出てくる。
また先頭の「官人」は家070に「忻都官人」という表現があるから、上級軍人のこと
であろう。

その後の「官軍」は、「官人」から「令史」までを総称したのであろう。
事務局職員と言えども軍の一部であるから、その後の「家属および其の兄弟」に
つなげるために、あらためて「官軍」という言葉で総称したのである。
言い換えれば「家属および其の兄弟」は、「官軍」というワンクッションを介して、
官人から令史までの全部にかかるのである。

つまり、任期によって交替する上級軍人と事務局職員、およびその妻子、という
ことである。こういうものは屯田軍であろうとその他の軍であろうとあまり変わらない。
また単身か一家全員かの、屯田軍の形態によってもあまり変わらない。

こう考えれば、この文章から「官軍の家族がいる以上、漢軍ではなく蒙古屯田軍だ」
と言うのは成り立たないのである。

744 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:36:28
>>743
訂正:4行目と6行目の家123は家122の誤り

745 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 02:23:40
一応くぎ刺しとくと
比率がどうあれ
武士に敗北した言い訳には出来ない

746 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 02:51:35
はいはい、話についていけないからって拗ねないでね

747 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 03:39:52
ついてく必要もないけどね

748 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 10:15:52
>>743
だからさぁ、忻都の下にいたのは蒙軍だったって高麗史に明記してあるんだよ。
もう認めるしかないだろ。

749 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 15:56:05
>>748
「忻都の下にいたのは蒙軍だった」と「屯田軍は蒙古軍(モンゴル人の軍)であった」とはイクオル
ではない。なぜなら屯田軍は元宗12年になって新たにやって来た軍隊だからだ。そのときの詔に、
「兵を発して」という言葉がある。また「接秋の」食料、つまり秋に自前の食料が収穫されるまでの
食料を供給せよ、と言っている。

それまでにも、蒙古の駐留軍はいた。これは元宗が身の危険を感じてみずから招き入れたもので、
屯田軍ではない。
そこに新たに屯田軍が加わった。6000人とはこれらを合わせたものだ。そして忻都はこれら全ての
在高麗の軍を統括した。
だから忻都の下にいたからと言って、ただちに蒙古軍だとは言えないのだ。

750 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 17:59:38
>>749
元宗12年になって新たにやって来た屯田軍は5000人。
元宗14年、その中から蒙軍500人を済州島に駐屯させたから、元宗15年に忻都官人の所管する軍は4500人。
ドンピシャじゃん。
屯田軍は蒙古だな。

751 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 20:34:10
>>750
いや、元軍は元宋12年以前に、2回にわたって2000人づつ来ている。
そして元宋12年に屯田軍が来て総計が6000人になった。
高麗史が6000人への補給量を計算して嘆いているのはその意味だ。
だから元宋12年に来た屯田軍は2000人。

752 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 03:45:42
つまり間を取るとだ

1漢人の証拠はない
2蒙古軍だとにおわせるもはっきりとはいえない

こういう状況なら普通は蒙古が主と考えといてよさそうだね
それ以上は水掛け論で意味なしみたいだし

753 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 14:29:22
訂正すると、2000人の2回じゃなくて3000人と1000人だった。

元宗10年に、高麗北部で反乱が起こったのに乗じて、蒙古は兵3000人を高麗北部に
進駐させ、この地方を直轄領にしてしまった。
ただしこの軍隊は瀋陽、遼陽が本拠地で、トップは洪茶丘父子だったというのだから、
民族的には蒙古人かどうかあやしい。

続いて元宗11年に、元宗がフビライに拝謁し、その帰途を護衛する名目で1000人が
ついて来て、王都に居座った。これで4000人だ。
その後に元宗12年に屯田軍が進駐して6000人になった。

もう一つ注意すべきは、元という国号ができたのは元宗12年の末だということ。
それまでの国号は蒙古だった。高麗史は律儀なもので、元宗12年までは蒙古、元宗13年以降
は元、と国号を書き分けている。
だから元宗12年までの記事に「蒙古軍」と書いてあっても、それは「蒙古国の軍隊」の意味
である可能性がある。

754 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 14:43:07
ついでにもう一つ、以前に私は「蒙漢軍」というのは「蒙古軍・漢軍」の意味だと書いたが、
これも違うらしい。
以前のスレを見たら、「蒙漢軍」というのは元史に出てくる「蒙古漢軍」に相当する、という
書き込みがあった。そしてその中身は漢軍、または漢・女真などの混成軍だというのだ。

そこで「蒙古漢軍」の意味を考えてみると、これは「蒙古の味方である漢軍」という意味ではないか?
つまり、漢軍は金国、蒙古、南宋のいづれかにつく可能性があったわけで、そのなかで蒙古についたもの
を、「蒙古方の漢軍」という意味で「蒙古漢軍」と呼んだ。それを約したのが「蒙漢軍」ではないか、
ということだ。

755 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 18:41:58
次の文章に「蒙古漢軍」という言葉が出てくる。私の推測に一致するね。

「史天祥:史懐徳の長子 史天沢の族兄 北京七路兵馬都元帥事(1190?〜1281?)
燕の永清出身。史懐徳の長子。史倫の次兄の系統で、曾孫にあたる。 1213年秋、当主史秉直に従い、
モンゴルの重臣ムカリの軍門に降る。当時23歳。都鎮撫に任じられ、降卒の長身武勇の者200名を領した。

清楽社より選抜した壮勇1万を率いて、父史懐徳と共に史天倪麾下の先鋒となる。1214年、金の中都(燕京)
包囲に加わり、チンギス?=カンに目通りし、銀符を賜った。

一族総出の北京攻めで父を亡くすも、北京攻略に貢献した。真定がモンゴル軍の領地になると、河北西路兵馬都元帥
に任じられる。史天倪が真定の主将となるも、ムカリ国王、ウイェル?らは史天祥の方を評価していた。

ムカリ国王により金虎符を賜り、蒙古漢軍兵馬都元帥を授かる。1223年、目を負傷し一線を退き、一族の根拠地・
北京に帰還した。右副北京等七路兵馬都元帥、のち1232年、北京七路兵馬都元帥事。モンケ?=カァン治世時に
68才で亡くなった。」

756 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 18:59:47
また推測か

偵察厨といい
推測とか主観ばっかだな

757 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 22:12:55
推測が事実で裏付けられればもはや推測ではない。
蒙古漢軍とは「蒙古方の漢軍」という意味であろうという推測が、史天祥が
与えられた称号によって裏付けられたのだ。

758 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 14:55:40
日本語でおk

759 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 15:16:48
なかなか興味深い説だ
でもそうすると実際に蒙古軍・漢軍の混成部隊があったとして何と呼べばいいんだろう?
いちいち蒙古軍漢軍と併記するんだろうか

760 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 16:29:36
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:元軍や朝鮮の弓は和弓より優れているので負けるわけがない
Answer:飛距離に関しては互角かあるいは和弓が上です※

※弘安の役を例にとろう

防塁は敵軍の内陸部への侵攻を止めるには効果的だが、
累上の武士を守る遮蔽としては効果がない。
つまり飛び道具には無力。
したがって本当に和弓より威力も射程も勝る弓を大量に投入できていたなら
上陸するまでもなく船上から防塁の上の武士めがけて矢を放ち、射散らしてから上陸すればいいはずだ。
ところが実際の元軍は防塁の前になすすべなし、
結局防塁がない陸継島に上陸を試みている(結局今度は武士の白兵戦の能力の前にここからも敗走するが)
つまり元軍にも高麗軍にも
海上から、あるいは海岸線から防塁上の武士まで届く有効な射撃ができるほどの弓はなかったことになる。

761 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 10:28:48
>>757
何の裏付けにもなってないよ。
史天祥が「蒙古軍・漢軍」の元帥に任命されただけだろ。

762 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 11:14:06
>>753
気の毒だけど、元軍の耽羅攻撃にモンゴル兵が加わっていたことは「元史」にも書いてあるから。

元史 卷一百五十四‧列傳第四十一 鄭溫
「九年,詔溫統蒙古、漢人、女真、高麗諸部軍萬人,渡海征耽羅,平之」

ついでに>>754の蒙古漢軍とは「蒙古方の漢軍」という意味だというのが、単なる妄想だと証明できたわけだ。
忻都や洪茶丘の下には、普通に兵卒としてモンゴル兵が従事していた。
洪茶丘の伝にも「二月,率蒙古、高麗、女直、漢軍,從丞相伯顏北征叛臣只魯瓦歹等。」とあるし。
文永の役は女直軍が期日に遅れたため、モンゴル人+漢人の蒙漢軍と高麗軍によって行われたんだよ。

763 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 11:39:57
>>762
そうとるのが普通だよな
憶測バカは曲解ばかり

764 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 14:52:06
>>761
>史天祥が「蒙古軍・漢軍」の元帥に任命されただけだろ。

史天祥は蒙古軍と漢軍の総帥になるほど偉くはないだろう。
漢人部隊の総帥になるのがいいところ。

>>762
>忻都や洪茶丘の下には、普通に兵卒としてモンゴル兵が従事していた。

誰もそんなことを否定してはいない。>>753を書いたのはそのためだ。
要するに屯田軍が入って来る前にも、何回かにわたって、雑多な部隊が高麗に入っていた。
それらがひっくるめて忻都の管轄になった。
だから耽羅攻略軍のなかにモンゴル兵がいることは、屯田軍がモンゴル人部隊であるという
根拠にはなり得ないのだ。

「蒙古高麗軍」の解釈は単なる寄り道だよ。

765 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 14:55:38
>>764
訂正
誤:「蒙古高麗軍」
正:「蒙古漢軍」

766 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 16:53:10
>>764
>史天祥は蒙古軍と漢軍の総帥になるほど偉くはないだろう。
>漢人部隊の総帥になるのがいいところ。

全く根拠が無いんだが・・・

767 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 17:00:11
764
また憶測w
長文小説でスレ流すのやめろよな

768 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 17:29:07
こいつ、偵察厨だろw

769 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 23:23:53
4/4(日) 6:40から時代劇専門チャンネルで「日蓮と蒙古大襲来」やるね。

770 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 16:33:55
あれは日蓮がうにょうにょ祈って嵐を呼び元軍やっつけたって言う
ファンタジーものになってたはず

ハリーポッターレベルのフィクションだと認識したうえで楽しんでください

771 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 16:24:15
>>494
蒙古来の歌は弘安の役?

772 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 16:27:26
対馬や壱岐の女を全裸にするシーンあるかな

773 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 21:40:11
どうも「蒙古方の漢軍」は成り立たないようだ。
元史列伝で「漢軍」という言葉を検索すると、「契丹漢軍」というのがあり、
これは敵方であるのが唯一有利な証拠だが、何もつかない「漢軍」もたくさん
ある。

また「蒙古漢軍都元帥」はむかしの日本の元帥と同じような名誉的称号かと
思ったが、「総司令官」に過ぎないようだ。史天祥は12万人の蒙古漢軍都元帥
だが、外に1万人程度の蒙古漢軍都元帥もある。

決定的なのは張弘範伝に:
「十五年,宋張世傑立廣王昺于海上,閩、廣響應,俾弘範往平之,授蒙古漢軍都元帥。
陛辭奏曰:“漢人無統蒙古軍者,乞以蒙古信臣爲首帥。」とある。

張弘範が蒙古漢軍都元帥を賜って、これを辞退して曰く「漢人にして蒙古軍を
統べること無き者は、蒙古の信臣を以て首帥と為すことを乞う」
これは蒙古漢軍が「蒙古+漢軍」であることを物語っている。

774 :日本@名無史さん:2010/04/02(金) 02:30:10
結局蒙古主体であることは変わんないな

775 :日本@名無史さん:2010/04/02(金) 09:05:37
>>774
「蒙古漢軍」からは、蒙古と漢軍の割合についてはなにもわからない。
蒙古主体などと言えない。
だいたい、蒙古人なんて遊牧民だから数が少ないのだ。
それが全ユーラシアにちらばって、さらに中国を支配するためには、
南宋降伏以前から、むしろ漢軍主体になっていただろう。
「蒙古」というのは民族よりもむしろシステムなのだ。

776 :日本@名無史さん:2010/04/02(金) 15:25:49
きもちわるいこじつけ

777 :日本@名無史さん:2010/04/02(金) 15:47:42
威力偵察厨は文体で分かるなw

語るのは別にかまわんが、こいつは「鎌倉武士は大したこと無かった」
と結論づけたいってベクトルが見え見えだからウザイ。

778 :日本@名無史さん:2010/04/11(日) 04:52:12
俺は理系で趣味で覗いているだけなんだけど、けっこうショッキングなスレだな
中高で習ったものっていったい何だったんだと考えさせられてしまった
以後もROMってヲチしていきたいと思う

779 :日本@名無史さん:2010/04/12(月) 17:08:48
ショッキングって言っても、ただ鎌倉武士最強的な史料解釈でやれば
こうなるって話だけだよ。


780 :日本@名無史さん:2010/04/12(月) 18:05:59
最強かどうかは知らんが
一次資料レベルでは
普通に元軍敗退の記録しかないからしょうがないよね

781 :日本@名無史さん:2010/04/12(月) 19:35:53
そもそも一次史料ってあるのかね
厳密にはみんな二次史料のような気が駿河

782 :日本@名無史さん:2010/04/13(火) 03:39:41
ひさぶりにきたらずいぶんと話が脱線してるなw
偵察厨おそるべしw

783 :日本@名無史さん:2010/04/14(水) 00:18:33
>>778
自虐史観もなんだが、このスレに常駐してる何人かの
鎌倉武士最強厨も狂信者じみてるけどな。

784 :日本@名無史さん:2010/04/14(水) 00:58:23
モンゴル軍よりは明らかに強い
という主張は見られるが、
鎌倉武士最強というのは見当たらないな。


785 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 04:34:19
>>784
783はいわゆるストローマンというやつだなまさに

786 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 13:04:36
歴史難民板で鎌倉武士最強スレ立てた奴は多分ここにも常駐してるだろ

787 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 16:20:18
具体的な反論はできないくせに、鎌倉武士が最強だと気に食わないって一体何なのさ?

788 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 16:56:28
最強かどうかは知らんが
結果的に元軍よりは強かったね

789 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 22:11:06
>>778
中高の歴史の授業なんて信頼しないほうがいいよ

文永の役では元軍が大宰府にさえたどり着けずに撤退したことはスルーで、
季長など少数で先走ったやつらが”順当に”局地戦で敗退したのをまるで日本軍全体が敗退したように記述されてるし

弘安の役では、東路軍が数カ月がかり、江南軍と合流してからも約1カ月間上陸すらできなかったのをスルーで、
神風が来たから運良く勝てたと書いてあるんだぜ

それも教科書自体に。とうてい信用できるものではない

790 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 08:08:02
>>789
>まるで日本軍全体が敗退したように記述されてるし

「日本軍全体」はその晩、大宰府に撤退しなかったっけ

791 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 08:53:07
>>790
その前の夕刻には元軍が日本から撤退してる。
だから、日本軍のは撤退じゃなく凱旋。

792 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 09:50:50
>>790
東京湾に上陸した敵を皇居を抜かせず阻止して、夜に司令部のある都庁に戻った。様な物で
そもそも撤退って程の事じゃない。

793 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 11:19:10
文禄・慶長の役で日本軍を撤退させたウリナラ大勝利!みたいなもんだなっ!(・∀・)

794 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:13:14
>>791
>その前の夕刻には元軍が日本から撤退してる。

日本軍の目の前で乗船したとでも?


795 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:28:19
>>794
元軍の兵の多くが武器や鎧を投げ捨ててることを考えれば、そうだろうな。

796 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 15:02:26
>>795
日本軍はなぜ、元軍の乗船中に攻撃をかけなかったの?

797 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 15:10:32
>>796
日本軍の攻撃受けながら必死で乗船したから、生還者は武器や鎧を投げ捨てるしかなかったんじゃん

798 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 16:03:52
大宰府に凱旋、はヒドいな
もうすこしちゃんと書かないと、信用なくすぞ

799 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 17:12:47
>>798
>日本軍の攻撃受けながら

乗船中の元軍を攻撃したという日本側の記録はあるのかな?

>生還者は武器や鎧を投げ捨てるしかなかった

これもソース希望

800 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 17:32:46
『高麗史』巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王6年
「又た、昔、東征の時に於いて、五千三百軍の齎去せる衣甲・弓箭は、多くを棄失するあり。
僅かに収拾するを得、府庫に頓えしも支用に堪えず。」

801 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 17:53:28
>>790
撤退はしてない。近くに拠点があるのならそこに戻るのが普通だろう

>>791
元軍が撤退したのは夜。夕刻の時点では船上に戻っただけ

802 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 18:07:52
>>801
元軍は日本から撤退するために船に戻ったんだよ。
つまり、夕刻に日本から撤退したってことじゃん。

803 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 18:46:13
また偵察厨?
戦線の概念がほとんど無い時代の戦闘では根拠地に帰るのが
当たり前だろ。何言ってやがんだか・・・


それはそれとして、元軍が船に戻ったのは「敗走」とは言えても
「撤退」とは言えないと思う。

804 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 23:20:21
>>803
高麗史では乗船と撤退を一連の行為として扱ってるよ。
「先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。」

805 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 23:23:08
なあ、俺の御先祖の呼子兼って元寇の時、どんな立場で、大河ドラマに出てますか?


806 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 00:58:31
攻撃目標の大宰府どころか
丸一日かけても
武士が寝泊まりしている水城の見えるところまですら到達できず
先駆けレベルの武士団に蹴散らされて敗走した元軍

807 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 08:35:16
>>800
それは国に帰った後の話だから、戦闘中に捨てたのか、難破で失ったのか
わからない。

>>801~>>804
問題は先に撤退(根拠地に戻ることも含めて)したのは元軍か日本軍か。
これについて何も言ってないね。

808 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 08:44:28
>>800
あ、それから、「乗船中の元軍を攻撃したという日本側の記録」は
どうなったかな?

809 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 09:26:38
また偵察厨?

810 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 09:53:08
>>796

797は確かに間違ってる
乗船中の元軍なんか攻撃できん。武士はみんな御飯に夢中だ。
だが、>>796に答えるのは簡単だ。

「日が暮れたから水城にかえって飯食って寝た」
集団騎射を得意とする武士に取っちゃ海岸にぷかぷか浮かぶ船めがけて
夜中無理して戦う必要なんかねえからな

弘安のときみたく志賀島横付けしてくれてたら夜襲も楽チンでいいんだがな

武士は明日以降長期戦になることを踏まえたうえで
無理せず確実に迎撃せん滅していく腹づもりだっただけだわなw


811 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 10:02:56
どちらが先に撤退したか?

まあわかっている範囲では
竹崎さんが戦った範囲では先に元軍が撤退
小弐景資さんが戦った範囲では劉復亨やられて元軍撤退
まあこっちの記述では先に引いたのが元軍と明記はされてないが、
劉復亨やられてほうほうの体で逃げ帰った以上、どっちが先か以前の話だわな。
日本は単に深追いしなかっただけでした。



812 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 12:23:04
あと確定してる事実としては少弐氏の布陣していた博多の町が全く無傷だったということね

813 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 13:18:42
>>811
どちらが先に撤退したか。答えは簡単、日本軍だ。
元軍の総司令官が、日本軍の遺棄死体を眺めて「何を以てかこれに加えん」と
感嘆しながら、悠々と作戦会議をやっている。

日本軍はなぜ乗船中の元軍を攻撃しなかったか。答えは簡単、その場にいなかったからだ。

814 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 13:43:06
>>813
それはない。
日本軍が先に撤退したら無防備な博多の町が全く無傷なんてありえないし。
元の船はその夜外洋で嵐に遭ってるんだから、かなり早い段階で日本から敗走したんだろ。

815 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 14:54:40
>>807
>問題は先に撤退(根拠地に戻ることも含めて)したのは元軍か日本軍か。
>これについて何も言ってないね。
何も言えねえんだよ。なぜなら、これについては正確な資料がないから
状況から推測して憶測で語るぐらいしかできんよ

とはいえ、どちらが先かはあまり問題じゃないがな
お前さんは日本が先に撤退したと言いたいんだろうが、
仮にそうだとしても、元軍の兵力がどれだけか未知なのだから無駄な消耗戦を避けたとも考えられる
後方に拠点がある状態で無理をする必要はないわけだ
結局のところどんな解釈でもできると

816 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 14:56:08
>>808
それ弘安の役でのことだから
文永と弘安を混ぜてないか?

817 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 15:43:38
津嶋紀事
「助國殞命於沙塲賊兵奔潰争船逃去」

「戰未半日蒙古軍大敗。自取殄滅者?是天亡之時也。運窮計盡冐死倒船。殘賊悉走。」

818 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:07:10
>>814
君は金方慶伝を否定しているわけ?

>>815
>仮にそうだとしても、

と部分肯定し、

>後方に拠点がある状態で無理をする必要はないわけだ

で、「後方に」下がった、と言いたい訳だろ? それを撤退という。

>>816
>それ弘安の役でのことだから
>文永と弘安を混ぜてないか?

私に言ってくれも困る。
>>797 >>800 が、文永の役で、日本軍が乗船中の元軍を攻撃した、と言ってるのだ。

819 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:43:16
>>818
結局、君は何がいいたいの?

820 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 20:52:52
>>818
この文体・・・偵察厨か。論破されたからって時間空けて戻ってくるなよw
みっともないぞw

821 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 21:06:32
>>818
確かに、「撤退」意味だけで言えばそれであっているが
「撤退」は負けの要素が強いため、この場合では普通「撤退」という使い方はしない

822 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 00:06:21
>>818
金方慶伝は夕刻に作戦中止してその夜は海上だったと書いてるんだよ

823 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 02:54:04
>>813
>>810はスルーかよw
あいかわらず都合の悪いレスは徹底的に見えないふりするんだなw

824 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 05:09:59
初日での小競り合いって結局、早く首級をあげたい欲しがり屋さん達が我慢できなくて突出しただけでしょ
先行体験版ゲットしてきましたwくらいのもんじゃん

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。
(てのものふんどりあまたなり)

この程度の散発的な攻撃になら勝てて当たり前ぐらいのことなのに
勝つどころか負けちゃうとかw

「先に撤退したのは日本だ!」とか言い訳すること自体が恥の上塗り

825 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 09:11:25
>>821
「撤退」のニュアンスがお嫌いなら、「引き揚げ」でも「撤収」でもいいし、
参謀本部の故知に学んで「転進」でもいい。
いずれにしても、元軍が乗船する前に日本軍が戦場を離れて大宰府に向かった
ことは同じだ。

826 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 09:15:37
>>820
そう言えば>>154で、combinedなんとやらのことで、

>分かった分かった。
>すまんね、皆さん。ここでのレスはもう控えます。

と言って出て行った人がいたが、彼はどうしているのかな。

827 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 09:33:49
おっと、「私は威力偵察厨です」との自白だ〜ッ!

828 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 10:41:48
水城だろ
学習能力ゼロだな

829 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 10:49:12
攻撃目標の大宰府どころか
丸一日かけても
武士が寝泊まりしている水城の見えるところまですら到達できず
先駆けレベルの武士団に蹴散らされて敗走したけど

日本軍が深追いしなかったので元の勝ちらしいw

830 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 12:42:11
日本側は数で劣るわけだから、始めから水際防御は諦めてたんじゃね?
だから水城を拠点に敵を崩したら適時追撃、夜になれば水際に張り付いても仕方ないから水城に収用はおかしくない

831 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 13:45:15
>>823
>810はスルーかよw

日本軍が水城から日帰り通勤していたとか書くのは自由だが、私は:
「先に撤退したのは元軍だ。日本軍は乗船中の元軍を攻撃した」
と言っているやつに反対しているだけだから、その点では君と一致しているわけだ。
だから>>810にコメントする理由がない。

832 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 14:04:03
そういえば、威力偵察の概念は近代と元寇当時とは違うと
言いつつ日露戦争やら第二次大戦やら持ち出した人が
いたが、彼はどうしているのかな(棒

833 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 14:07:24
一致してねーよ

先に撤退したのは元軍だ。

俺は乗船中の元軍を攻撃したという解釈は間違ってるといっただけだ。

何が日帰り通勤だ
地図見直せ

834 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 14:18:11
おっと一応
先に撤退したことが一部でも判明しているのは元軍
と言い直しとくか


835 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 16:29:10
偵察厨、なにげに>>810には何の反論もできてねーな
単にレスアンつけただけw

836 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 18:04:41
ペース配分がきちんとできていた武士

配分めちゃくちゃ、対馬壱岐ですでに息切れしちゃってた元軍

837 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 01:24:14
そもそも4万の軍隊を維持するには相当の面積を支配下に置く必要があり、10万以上なら尚更。
元冦の時代兵糧は海上輸送は出来なかったので現地調達の必要がある。
すると飢える前に4万乃至14万人分の食糧を確保可能なまでに、占領地を広げなきゃならない。補給基地に物資を集めて陸送が出来ないからね。
 
とすると、船に積んで来た手持ちの兵糧と矢弾のみで最低でも北九州一帯を制圧しなきゃならない。これは相当困難というか、戦力比から言ってもかなり楽観的に考えないとまず出来るとは思えない。 
最低でも日本側の兵が集結して居ない地点に、奇襲的に上陸しないとどうしようもないね。

838 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 03:56:48
元高麗ちゃんと日本武士ちゃんが喧嘩しました。
元高麗ちゃんはボコボコにされて逃げだしました。
ちょうど夕方になってお腹がすいてきたので、
日本武士ちゃんは水城のばあちゃんちにご飯食べに帰りました。

元高麗ちゃんは必死に逃げました。
仮のおうちまで逃げてお布団の中で震えながら考えます。
「うー悔しいニダ!明日は船を焼いて背水の陣で戦うニダ!」
しかしふと冷静になって考えます
「いやまてよ。明日お腹いっぱいになった日本武士はもっと大きくなって襲ってくる。やっぱ勝てね。」
そこで元高麗ちゃんは夜逃げします。
暗闇の中必死に逃げだすと、対馬海峡大通りに出たところで大風トラックにはねられ、哀れ大事故になってしまいましたとさ。
一方その頃日本ちゃんは水城おばあちゃんちで温かい布団にくるまり、
「明日はどうやって元高麗ちゃんと『遊ぼうか』」と考えながらすやすやおねむの時間だったとさ。

839 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 04:07:24
アジア最古の遺伝子を持つ大和民族が
民族の興亡を何度も経験して混血してきた
シナ、朝鮮地域の劣等人種に負けるはずがない。

840 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 04:38:59
遺伝子より
武士階級っていうシステムの影響がでかいんじゃないの

841 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 04:46:35
>>837
侵略してくださいと日本が頼んじゃわけじゃないし言い訳にもならない


842 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 08:38:53
>>834
>先に撤退したことが一部でも判明しているのは元軍

なるほど、局地的に見れば元軍が先に撤退した戦線もあったが、全体としては
日本軍のほうが先だったと言いたいわけか。それならわかるよ。

843 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 09:09:11
>>822
>金方慶伝は夕刻に作戦中止してその夜は海上だったと書いてるんだよ

「暮に及んで乃ち解く」は作戦中止というよりは自然休戦だろうね。
つまり日本軍ももはや突っ込んで来ないし、元軍ももはや前進しようとしない。
両軍の損害と疲労による寛解状態だ。
で、その後の日本軍の記述はない。当たり前だ。突っ込んで来ない敵のことは
わからないから書きようがない。

自然休戦の後の日本軍はどうしたか。それは日本側の記録によるしかないが、
幸い八幡ノ蒙古記などには比較的詳しく書いてある。

一方、蒙古軍はこの後、作戦会議があり、そこで撤退が決まっておもむろに
撤退を始めるわけだ。大軍だから恐らく乗船には数時間かかっただろう。

以上から少なくとも言えることは、日本軍が乗船中の蒙古軍を攻撃したという
事実はない、ということだ。

また日本軍は翌日になってはじめて元軍の撤退を知るのだから、その晩の
撤退を指をくわえて見ていたのではない。
もし見ていたとしたら元気を取り戻して攻撃しただろうね。
撤退中の軍隊はもろいから。

844 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 09:30:37
>>842
またストローマンかよ
情けない奴

845 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 09:31:20

【家系図と疑問点】

織田信長
- 2代織田信高(七男)
- 3代織田高重
- 4代織田一之
- 5代織田信門
- 6代織田信倉(養子)
- 7代織田信直(養子)←←← 大和宇陀松山藩主織田高長の孫(信雄の系統)
- 8代織田長孺
- 9代織田長裕
- 10代織田信真(1842〜?) ←←←【疑問点@】明治維新後、写真師になって、その後消息不明

- (11代から14代は不明)←←← 【疑問点A】親戚に迷惑をかけるから、父が300部限定(?)で製作配布した家系図では4代不明としたとか(週刊新潮の記事より)

- 15代織田重治(1917〜1995?)←←←【疑問点B】たった70年間(1842〜1917)の間に、先祖が5人も???
- 16代織田信義
- 17代信成(次男)←←←【疑問点C】信雄の末裔を連呼する割には、信雄・信高系統の墓がある大徳寺総見院でなく、
                信雄がぶっ殺した信孝の建立した本能寺・信長廟へマスコミ引き連れて行った。
                さらに、当時は、そこに本能寺はないというのに信長の声が聞こえたらしい…。



織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/




846 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 10:34:21
スレ違い

847 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 11:03:47
>>824
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
>武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。
>(てのものふんどりあまたなり)

偵察厨にかかれば「それこそ先に日本が撤退した証拠!」とか言い出すのに
2000ペケピョン

848 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 13:31:48
>>832
そう言えば、中世の戦争のことなのにやれ本隊だとかやれ支援部隊だとか、
半可通の現代の軍事知識をひけらかした人もいたな。

それがディエップで吹っ飛んで、おまけにcombinedで赤恥かいて、いなくなって
しまったのだが。いまごろどうしているかな。

849 :日本@名無史さん:2010/04/20(火) 08:51:47
やあやあ我こそはの人?

850 :日本@名無史さん:2010/04/21(水) 03:09:42
>>838は秀逸だな

851 :日本@名無史さん:2010/04/21(水) 16:38:38
秀かどうかはわからんが逸だとは思う
グリム兄弟が集めた民話にはオチや救いがない物もあったが
そんな感じ

そういう意味では元寇の性格をあらわしてるかも

852 :日本@名無史さん:2010/04/22(木) 04:45:03
高句麗軍にはたして名将韓信起源の
背水の陣を理解していただろうか

853 :日本@名無史さん:2010/04/22(木) 11:11:21
無茶言うな

854 :日本@名無史さん:2010/04/23(金) 11:35:59
元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答
Excuse:海を越えての侵攻は難しいから元軍は負けて当然
Answer:日本→大陸では勝ち戦がありますが何か?
確かに渡航という行為は難しいのですが、その中で相対的に見れば対馬海峡はとりたてて難しいわけではありません。
日本から大陸への侵攻では過去何度も成功例※がありますし、
負けた言い訳とするにはちょっと苦しいのではないでしょうか?
そもそもこちらが頼んで来てもらったわけではありませんよね?
攻めてくるからには勝算があってのことでしょう。
その目算が外れたということは…まあ言わずもがなですよね。
ちなみにそんな程度の元軍でも各国に勝利してきています。
鎌倉武士は優秀だったということになりますね。
むしろ海がそんなに侵攻の障害になるならそんな障害をものともせず大陸や半島を震え上がらせる日本の兵站能力がますます強調されるだけですね

※すべての準備が整った西暦202年10月、
この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。
新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。
恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。
彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。
神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。
彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』

※百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳>そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、
百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
【広開土王碑】

※自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息
<訳>我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
『明史』

855 :日本@名無史さん:2010/04/23(金) 23:15:13
>>843
いや、元軍は完全に潰走状態。

【金剛仏子叡尊感身学正記】
十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢

翌日になってはじめて元軍の撤退を知ったのは八幡ノ蒙古記の筆者だけ。
撤退中の軍は脆いから元軍は1万3500余人も損害を出し、生存者も武器や鎧を投げ捨ててたわけだ。

856 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 07:51:30
まとめてくれよ

857 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 09:22:57
>>855
>翌日になってはじめて元軍の撤退を知ったのは八幡ノ蒙古記の筆者だけ。

「だけ」と言うのは、前の晩にすでに日本軍が知っていたと書いてある、他の
当時の資料がある、という意味?

858 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 11:05:11
>>857
金剛仏子叡尊感身学正記にモンゴル軍は博多に到着して即退散したと書いてあるだろーが

859 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:00:25
それは伝聞だろ?
一日で撤退したと聞けば即退散って書くだろうさ

860 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:27:38
八幡ノ蒙古記はね、ただ宗教史料で信用度が低いというだけじゃない。
書いている内容が筆者と思いっきり利害関係あることなんよ。
箱崎宮はこの時期に度々謎の火災を起こしてるんだけど、1280年にも原因不明の火災で焼失してる。
そしてこのときの再建は遅々として進まず、1289年になっても終わっていなかった。
そういう状況の中で箱崎宮関係者によって書かれたのが八幡ノ蒙古記。
つまり、何一つ信用できない史料なんだよ。

861 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:18:14
>>860
八幡ノ蒙古記のことは置いといて:
前の晩から日本軍が蒙古軍の撤退を知っていたと書いてある、「他の資料」が
あるの? と聞いているのだが・・

862 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:01:16
だから金剛仏子叡尊感身学正記にモンゴル軍は即退散したと書いてあるだろ。
みんなモンゴル軍がすぐに撤退したって知ってたんだよ。

863 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 19:32:34
>>855
>>838

即退散に関しての解釈は>>859でいいんじゃないか?

864 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:32:27
>>859
元寇の戦闘経過について伝聞じゃない史料は蒙古襲来絵詞だけだよ
だから蒙古襲来絵詞には絶対的な価値がある

865 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 12:08:24
蒙古襲来絵詞に
文永の役で船に乗り込んで逃げる元軍を武士が攻撃した記述なんてあったっけ?

いや、あるならあるで俺にとっては新発見でいいんだが…

弘安の役、志賀島での船上戦に関しては確かに武士が元軍をフルボッコしてる場面があったとおもうが…
そっちと勘違いしているとかそういうオチじゃないよね

866 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 14:33:27
>>862
十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、

たったこれだけだ。
伝聞であろうがなかろうが、「日本軍はその日のうちに元軍撤退を知っていた」
なんてどこからも出て来ない。
日本軍は翌朝になってはじめて知った、と明らかに書いてある八幡の蒙古記
の反証にはなり得ない。

867 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:06:42
ようするにこういうことです

元高麗ちゃんと日本武士ちゃんが喧嘩しました。
元高麗ちゃんはボコボコにされて逃げだしました。
ちょうど夕方になってお腹がすいてきたので、
日本武士ちゃんは水城のばあちゃんちにご飯食べに帰りました。

元高麗ちゃんは必死に逃げました。
仮のおうちまで逃げてお布団の中で震えながら考えます。
「うー悔しいニダ!明日は船を焼いて背水の陣で戦うニダ!」
しかしふと冷静になって考えます
「いやまてよ。明日お腹いっぱいになった日本武士はもっと大きくなって襲ってくる。やっぱ勝てね。」
そこで元高麗ちゃんは夜逃げします。
暗闇の中必死に逃げだすと、対馬海峡大通りに出たところで大風トラックにはねられ、哀れ大事故になってしまいましたとさ。
一方その頃日本ちゃんは水城おばあちゃんちで温かい布団にくるまり、
「明日はどうやって元高麗ちゃんと『遊ぼうか』」と考えながらすやすやおねむの時間だったとさ。


868 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:29:37
よくできました。
武士ちゃんが水城に帰っている「間に」元高麗ちゃんが逃げ出した、ということね。
それを武士ちゃんは見ていなかったわけだ。

869 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:46:08
いちいち反芻するようなことか?

870 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 16:30:21
>>855くんは反芻どころかまだ飲み込んでもいない

871 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 16:40:52
|∀・).。oO(  韓国ネチズンの裏返しみたいなスレだな キモチワリー

872 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 17:18:03
「歴代皇記」だと大宰府が兵船300艘で元軍を追撃してるな

二十日大宰府以三百艘之兵船發向賊船二百艘漂蕩神威力云々

873 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 17:48:33
攻撃目標の大宰府どころか
丸一日かけても
武士が寝泊まりしている水城の見えるところまですら到達できず
先駆けレベルの武士団に蹴散らされて敗走したけど

日本軍が深追いしなかったので元の勝ちらしいw

874 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 13:42:51
>>872
だから何?

875 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 15:25:56
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。

賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」

帝王編年記


『大宰府より飛脚が到着した。
先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。
逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。
残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』

876 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 16:19:33
お前らそんなにたくさんの資料どこで読んでんの?国会?

877 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 08:12:18
>>875
だから何?

878 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 08:33:44
つまり、文永の役は日本軍の圧勝だったということ。
元軍は僅か1日の戦闘で追い払われ、日本軍は兵船まで繰り出して追撃。

879 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 11:22:14
圧勝とは言えないね。
戦闘は自然休戦、寛解状態になったという意味では引き分け。
なんとかそこに持ち込んだのは日本軍の成功、戦略的勝利。
その後両軍とも自主撤退。
それだけのこと。

兵船を繰り出したのは遭難の後の話だから戦闘とは関係ない。

880 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 11:27:36
元軍だけが逃走してるんだから、自然休戦でも寛解状態でもないだろ

881 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 12:33:24
文永の役より2年半前、日本では幕府と朝廷との間に内戦が起こる
その時の朝廷側の重要人物の1人に北条時宗の兄である
北条時輔がいたとされている

882 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:19:23
>>880
暮れに及んで乃ち解く。これを自然休戦、寛解状態と言う。
この時点で日本軍は水城へ撤退開始、元軍は作戦会議の後に撤退。

883 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:42:26
ようするにこういうことです

元高麗ちゃんと日本武士ちゃんが喧嘩しました。
元高麗ちゃんはボコボコにされて逃げだしました。
ちょうど夕方になってお腹がすいてきたので、
日本武士ちゃんは水城のばあちゃんちにご飯食べに帰りました。

元高麗ちゃんは必死に逃げました。
仮のおうちまで逃げてお布団の中で震えながら考えます。
「うー悔しいニダ!明日は船を焼いて背水の陣で戦うニダ!」
しかしふと冷静になって考えます
「いやまてよ。明日お腹いっぱいになった日本武士はもっと大きくなって襲ってくる。やっぱ勝てね。」
そこで元高麗ちゃんは夜逃げします。
暗闇の中必死に逃げだすと、対馬海峡大通りに出たところで大風トラックにはねられ、哀れ大事故になってしまいましたとさ。
一方その頃日本ちゃんは水城おばあちゃんちで温かい布団にくるまり、
「明日はどうやって元高麗ちゃんと『遊ぼうか』」と考えながらすやすやおねむの時間だったとさ。


884 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 16:15:06
確かに日本側にとっては自然休戦といった形になるだろうが
上陸作戦をやって橋頭保すら築けずに船に戻った元側から見れば明らかに敗戦

885 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 19:46:07
>>884
>元側から見れば明らかに敗戦

それは文永の役の戦争全体を見たときに言えること。
「元側から見れば」と言うなら元側は戦闘においては「敗戦意識」を持っていない。
なぜなら「倭兵大いに敗れ、伏屍麻の如し」なのだから。
つまり元側の意識は、「戦闘に勝って余裕を持って自主撤退したが、海上で
遭難した」ということ。

弘安の役では元側の記録も戦闘で勝ったとは言ってないのだから、上記をもって
我田引水、手前味噌と言うことはできない。

886 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 19:46:18
つーか、勝ち負け議論して何かいいことあるのか?

887 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:51:40
>>885
日本軍を大敵、自軍を小敵と称してる時点で元軍が「敗戦意識」を持っていたのは明白。
そもそも戦闘に勝ってたら撤退するわけないじゃん。
その上、海上で日本軍の追撃まで受けてるのに。

888 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 03:26:02
>>885
上陸戦で戦闘に勝ったら当然前進する。
大体、船が沿岸部にいれば嵐が来てもすぐ陸に上がれるだろ?

逃げ帰る途中、沖で沈んだとしかかんがえられない

889 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 04:58:46
>>879
元軍の死傷率9割の時点で誰が見ても
日本軍の圧勝だろwwww

890 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 07:52:47
よく学園ドラマのいじめテーマのときの三文芝居でいじめられっ子が校舎を逃げ回るなんてのがあるけど
あれでDQNが飽きて自然に帰って行ったあと、
とぼとぼと帰宅したいじめられっ子は「勝った」といえるのか?って話だな。


891 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 07:56:06
まあ第一に
日本軍はデコピン、あるいはジャブ程度の戦力しか投入してないからな
それで互角以上に渡り合って各々の局地戦ではおおむね圧勝してるわけで…

しかも日本軍の当日の戦い方は一気に元軍をせん滅させようというようなスタイルではなく
押しては退き(首級を持ち帰り)押しては退きを繰り返しながら
元軍を細かく削っていくスタイルだということが蒙古襲来絵詞からわかる
それでも元軍は押しこまれてどんどん戦線を後退させて言ってるわけで…

>>885
もちろん元軍だってそれなりの軍隊なので日本軍の被害ゼロってわけにはいかない
上で述べたように日本軍は勝とうが負けようが首級お持ち帰りタイムがある。
夕方になって「今日はこの辺で首級狩りはやめとくか」と最終的にひきあげた後に日本軍の死体が多少転がっていたところでなにも矛盾はないな

892 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 14:08:58
>>872
これ初めて知ったよ
歴代皇紀って各天皇の在位とかのリストだけだと思ってた


893 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 05:31:59
>>885
>戦闘に勝って余裕を持って自主撤退したが
それが本当であれば、わざわざ海上まで自主撤退なんてしません。なんのための上陸戦なのでしょうか?w
この時点で論理が破綻していますw


894 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:56:35
「倭兵大いに敗れ、伏屍麻の如し」
これって、前のスレでも議論になって、松浦党のことを言ってるんじゃないかと
言われてたな。要するに日本軍本体は福岡平野で元軍を待ち構えていて、松浦党が百騎
ほどで上陸する元軍に先制攻撃を加えたんだが、大勢に無勢で返り討ち食らったんだよ。
で、調子に乗って元軍が内陸まで進軍すると日本軍本体に出くわし、戦況が一変
した。これは、高麗史の「倭兵大いに敗れ、伏屍麻の如し」の後に続く文章が悲観的に
なっていくことでも説明が付くみたいな結論になってた

895 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 02:33:52
>>891

水城を発射台にして
武士軍団を射出してるイメージだな

896 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 03:05:50
文永の役でも追撃してたのは初めて知った
追い付けたのかどうかはわからんけど

897 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 11:58:32
>>872に脱字があった。
正確には、二十日大宰府以三百餘艘之兵船發向賊船二百艘漂蕩神威力云々

で、文永の役で日本軍が追撃した史料なら他にもある。

〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎
人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、

898 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 13:03:09
>>895
ロケットパンチ

899 :日本@名無史さん:2010/05/08(土) 00:35:50
ジミンガー&グレートジミンガーだな

最近はオバマガー、テンノウガーなども現れたが

900 :日本@名無史さん:2010/05/13(木) 15:46:53
>>897を踏まえると
武士が迫撃したタイミングってどのくらいだろう

高麗史などの軍議のあった時間帯って
夕方か若しくは夜で元軍が夜逃げしたのが言葉通り夜だという認識だったのだが

これってもっと前倒しだった可能性があるのかな?
夕方軍議して即退散、夕方には乗船終了出港とか

武士は日のあるうちに追撃したのか夜になってから追撃したのか…



901 :日本@名無史さん:2010/05/13(木) 23:04:39
日本側は各集団が自律的に動くから(それが強さでもあるんだけど)合戦全体の
流れが掴みにくいね。

902 :日本@名無史さん:2010/05/14(金) 09:56:07
〔少弐系譜〕〔武藤系圖〕〔筑紫系圖〕など少弐氏系の史料は文永の役と弘安の役が混同されてるんだけど、
一応全部共通して少弐景資が劉復享を射止めた場所を百道原としてるんだよね。
あと、麁原で勇戦した御家人の記録もあったな。
武士の残した記録は、元軍が赤坂で撃退され麁原に追いつめられたとする蒙古襲来絵詞と矛盾しない。

903 :日本@名無史さん:2010/05/14(金) 12:38:17
陸上の迫撃じゃなくて
船出して追いかけたのはいつかなって思ってさ

904 :日本@名無史さん:2010/05/17(月) 05:18:09
まあ追った追わないにかかわらず
元軍が潰走したことには変わらない

905 :日本@名無史さん:2010/05/17(月) 12:12:56
靖国神社で元寇展やってた

906 :日本@名無史さん:2010/05/19(水) 15:00:45
どうだった?

907 :日本@名無史さん:2010/05/20(木) 16:51:56
八幡愚童記正応本
其中に高麗の兵船四五百艘壱岐対馬より上りて
見かくる者を打ち殺し狼藉す
国民ささへかねて妻子を引具し深山に逃かくれにけり
さるに赤子の泣こえを聞つけて捜り求めて捕けり

ひどい…

908 :日本@名無史さん:2010/05/24(月) 10:09:24
■朝鮮人から見た文永の役
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本至壱岐、戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」
高麗史表
『十月、我々高麗の金方慶は元の元帥の忽敦、洪茶丘さん等と日本征伐に行ったニダ!でも負けちゃったニダ!高麗軍の被害は13500人ニダ!かんしゃくおこる』

■宋人から見た弘安の役
鄭思肖 鉄函心史
『六月なかば、元の7000隻の軍船が日本(の博多湾)を襲った。
だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。
7月30日、暴風雨が来る(神風)。
船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。
残った船は400隻余り。
十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された』

■モンゴル人から見た弘安の役
「七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。
九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。
・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ」元史日本伝
『(台風が去った後)七日、日本人と交戦、ことごとくやられ、二、三万人は捕まってしまった。
九日、(元軍最後の砦である)八角島(平戸島)にまで日本軍が侵攻、
蒙古高麗漢人は全て殺され、唐人は日本と国交があったので助命された。
結局10万人を越えるわが軍の内、帰還できたのは三人だけだった』

■日本人から見た元寇文永の役
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢」 金剛仏子叡尊感身学正記
『十月五日、蒙古人が対馬を襲う、二十日、博多を襲う、しかし即座に追い払う』

「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」 帝王編年記
『大宰府より飛脚が到着した。先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。
逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』

909 :日本@名無史さん:2010/05/25(火) 02:41:26
ある程度知識ある連中はもう騙されないにせよ

日教組があんな感じでは
受験レベルの知識の連中はいまだに騙されたまんまなんだろうな

910 :日本@名無史さん:2010/05/25(火) 03:49:19
>>909受験レベルのは試験過ぎたら忘れてる


911 :日本@名無史さん:2010/05/25(火) 09:11:30
いや、「やあやあ、われこそは…」とか、全く根拠のないことだけども教師が武士を
バカにしてる姿って案外忘れないものだよ。俺も学校で習って結構たつけど、未だに
教師がうれしそうに武士をバカにしてる姿が思い浮かぶ。

912 :日本@名無史さん:2010/05/25(火) 14:17:10
印象操作ってやつだな

913 :日本@名無史さん:2010/05/25(火) 17:37:59
そういう印象操作の被害者が一番厄介

悪気が一切ないし
人から訂正されても意固地になるだけ

なんかよく知らんけど地球って丸いんだろ?
レベルで信じ込んでるから訂正のしようが無いんだよね

一般の会話でわざわざ指摘することでもないしそもそも話題にも出ないが
TVそのほかで何となく見知った誤情報だけは脳裏にしみこんでいくという

914 :日本@名無史さん:2010/05/25(火) 18:11:28
左翼に取っては階級自体が許せないからな

915 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 03:09:24
>>911
昔、世界ふしぎ発見で「やあやあ我こそは」って言ってたな。

916 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 05:17:43
TBSで不思議発見だけは良番組と思っていたのに
そんなことがあったのか



917 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 19:42:21
十数年も前の事だから、今作るとどうなるかは知らんけど。

つか、現在の教科書ではどうなってんだろう?

918 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 19:55:39
>>917
酷くなってるよ。
元寇では日本を侵略した東アジアの人々に感謝しなくちゃいけないらしい。

919 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 20:06:26
え、なんで?
高麗の抵抗のことかな

920 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 23:39:20
まあ、歴史家の中にも一時、元に征服されたりキリスト教がもう少し普及すれば世界的普遍性を日本人が身につけることが出来
後のアジア支配も上手く行ったかもと言う人も結構いるよね。

 日本も米支配に入ってマッカーサーのおかげで多少は異民族支配の方法を体感出来たから次あればもう少しは上手く行くのでは

921 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 23:49:05
どこの誰だよそんな馬鹿な事言ってる奴

922 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 23:51:55
>>920
それこそ自虐史観そのもの。
元に征服されて身につくのなんて奴隷根性だけ。
元寇の勝利によって自立心を維持できたから明治維新があったわけで、
負けていたら後のアジア支配どころか日本も他のアジア諸国同様植民地になってた。
米支配に入って植えつけられた奴隷根性を完全に払拭しないと次なんてないよ。

923 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 00:08:07
少なくとも俺の高校では元を撃退した国家は国威発揚し国勢が上昇したと教わっていたが最近はどうなんだろう

924 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 02:38:26
本当に思想の偏った奴らに歴史に携わる教授や教師やってほしくないね。
こいつらのせいで、日本の歴史が歪められて日本人の意識に歪んだ
歴史観が刻み込まれてると考えると、腹が立つ。

925 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 02:45:03
まあ、でも最近は変な思想に染まっていない佐藤鉄太郎教授のような人が
元寇研究の第一人者になりつつあるし、もしかしたら将来は、ある程度客観的な
元寇観になってるのかもしれないが。

926 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 09:02:36
八幡ノ蒙古記も「ある程度客観的」と言えるのでないか?

927 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 10:57:15
>>926
八幡ノ蒙古記は1280年に謎の火災で焼失した筥崎宮の再建中に、筥崎宮関係者によって書かれた文献。
つまり思いっきり利害関係があったわけで、全く客観的とは言えない。

928 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 12:00:01
八幡ノ蒙古記は
まあ当時の宗教観みたいなものを伺い知るにはいい資料だろうが
記録としてはあまり信用されてないね

その辺の話はこのスレか前スレか忘れたが詳細にやってた気がするが?

929 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 14:03:48
>>922異民族支配はされた経験がないと身につかんだろ。いまでも中国あたりで苦労させられてる日本の会社


930 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 14:20:34
>>929
>>異民族支配はされた経験がないと身につかんだろ
これがすでに根拠ねえ妄想だと気づかないところがすごいね君。
誰の受け売りかは知らんが、普通に考えて支配されるより支配を
多く経験するほうが遥かに良い経験になるわ。

931 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 15:05:36
>>929
中国で閉口させられるのは日本に限らずどこの人だって同じ。
支配だの被支配だの国際感覚だのは全くのヨタ。

932 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 18:08:53
>920ってもしかして統一か?
ついさっき統一信者から同じこと聞かされたんだが

>キリスト教がもう少し普及すれば世界的普遍性を日本人が身につけることが出来



933 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 23:57:02
>>932たぶん司馬


934 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 02:06:11
左翼史観は虫唾が走るが、かつて海舟に今の政府はどう思うかと尋ねたら「失敗するだろうよ、だってあいつら勝ち戦しか知らねーんだぜ!
勝ち戦しか知らないって言うのは荷車の片輪だけで走ってるようなものでね」という予言的な事をいっていた。

 史観は史観ちゃんと事実関係を突き詰めて分析するべき。左翼も思考停止だが右翼も対極にいるだけで思考停止だろ

935 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 02:47:37
ちゃんと事実関係を突き詰めて分析すれば、モンゴルに支配された朝鮮もロシアも身につけたのは後進性だけ。

936 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 07:15:52
国書の和訳DQN風味
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」

↑こんな無礼なアホウに支配されなくてよかった

937 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 10:06:56
>>891
元が本当に勝ってたなら
日本が首持ち帰るために後続と交代する時、退いた分だけ押し込めばいい

が実際は元のほうが退きっぱなし
怖くて押せないほど元は追い詰められてたんだろう

938 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 12:26:33
攻撃目標の大宰府どころか
丸一日かけても
武士が寝泊まりしている水城の見えるところまですら到達できず
先駆けレベルの武士団に蹴散らされて敗走した元軍

939 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 12:52:23
鎌倉武士団強すぎワロタ

940 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 13:39:42
>>934
急にどうしたの?
ここって右翼の集まりなの?

941 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 13:43:05
>>926 >>927 >>928
比較の問題だ。これより「まし」な資料は他にはない。
戦った当事者ではない、という意味で客観的。
竹崎季長の絵詞も、じぶんが戦った局面しか書いてない。
ある意味当然だし、それだけ正直だとも言えるのだが。
そのほかの資料はとにかく遅くて断片的。

942 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 13:54:35
Excuse:一騎打ちしか知らない武士は蒙古軍の集団戦法に苦戦したんだから蒙古の勝ち
Answer:武士も集団戦にて戦っていました。

まず、当時の武士が一騎打ちを行っていたとする根拠がありません。
唯一の根拠として八幡愚童訓の写本の一つ『菊大路本』があげられることがありますが、
そもそも八幡愚童訓は後世の宗教書ですので信憑性に疑問があります。
さらにいえば該当箇所も実際のところただの書き間違いです。

八幡ノ蒙古記
「高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に」

菊大路本
「高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」

要するに元寇のとき武士が一騎打ちしていたなどというソースはどこにも存在しません。

次に元寇の詳細を記録した資料として信憑性が高いとされている蒙古襲来絵詞には武士が集団で元軍と戦い、元軍を蹴散らしている図が示されています。
総勢百騎などと注釈が付けられており、相当の規模での集団騎射戦が可能だったようです。

943 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 13:59:07
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記でもまあ武士圧勝なんだがな


944 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 14:18:56
まあバクダットの例を挙げるまでもなく
元軍に蹂躙された地のその後は悲惨なもんだよ

日本は負けなくてほんとよかった



945 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 18:52:08
>>920
少なくとも、お前さんに世界的普遍性が皆無なことだけは分かった

946 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 22:17:51
>>943
それは弘安の役

947 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 22:28:26
>>943
前小貳入道覺慧の事を
 臆病を いかゝはせうに(小貳)入道か(が)はち(恥)をかくえ(覺慧)の
 名に落にけり

大友頼康を
 大ともは 子ともうちつれ 落行て 方々にこそよりやす(頼康)みけれ

筥崎留主の子息、紅葉を縫たる直垂を着て落けるを
 直垂に ぬるもみち葉も 落にけり はけしき(激しき)敵や 木枯の風

これが文永の役(八幡の蒙古記より)。


948 :日本@名無史さん:2010/05/29(土) 02:36:23
ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、
おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、
勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、
菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、
頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ
八幡ノ蒙古記

菊池やるなぁ

949 :日本@名無史さん:2010/05/29(土) 15:45:44
勇ましい場面も情けない場面も、両方書いている八幡の蒙古記は
そこそこ客観的

950 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 04:00:05
「客観的な資料」にばかり拘りすぎても、何も語れないしね。
歴史において主観性と客観性は相互作用の関係にある、ってカーも言ってたし。
「客観的である」という判断にも主観は入り込む。

951 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 08:21:18
そう、主観ばかりだと「武士が撤退する元軍を追撃した」などというところに入り込む。
水城落ちを笑う狂歌という「客観」がそれを救ってくれる。

952 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 11:12:07
なんだ結局

「歴代皇記」
二十日大宰府以三百餘艘之兵船發向賊船二百艘漂蕩神威力云々

〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎
人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將

を遠まわしに否定したがってただけかw
偵察厨陰湿すぎw

どちらにせよ元軍が攻撃目標の大宰府どころか
武士の前線基地である水城の見えるところまですら到達できず
先駆けレベルの武士団に蹴散らされて敗走した事実はどの資料でも変わらないわけだが


953 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 13:41:21
元軍は「全軍がまるごと」逃げ出した(複数の資料で一致の事実)
日本軍は逃げ出した「個人も」いた(しかもフィクションかもしれない資料がソース)

とてもではないが等価ではないねえw

954 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 14:53:04
>>953
いくら「個人」でも司令官クラスじゃ困るな

大友 頼康(おおとも よりやす、貞応元年(1222年) - 正安2年9月17日(1300年10月30日))
は鎌倉時代中期の大友氏第3代当主。鎌倉時代の御家人。名は頼泰とも表記する。
(中略)
はじめは御家人として京都や鎌倉で活動していたが、元寇の危機が強まると幕命により鎮西東方
の奉行に任命され、九州の軍政を担当した。文永11年(1274年)の文永の役では箱崎で元軍と
戦い敗れ、箱崎八幡宮を敵に焼かれるという醜態をさらして世間からの非難を浴びたが、
弘安4年(1281年)の弘安の役では志賀島の戦いで奮戦して金方慶や洪茶丘らが率いる元軍に大勝し、
汚名を返上した。
(ウィキペディアより)

955 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 16:41:00
いくら指揮官クラスでも「個人」だからなぁ
全軍逃げ出すのとは規模が全然違うわなぁ

956 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 16:47:26
宗教書みたいなフィクションでなに書いてあっても参考程度にしかならん
書かれている事象の雰囲気を知るにはいいが事実かどうかは結局わからない資料
嘘とまではあえて言わないが信憑性が無いことには変わらない

「客観的」な視点で書かれた「フィクション」では「信憑性」という点では何の意味もない

957 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 16:49:08
そもそも客観的かどうかも怪しいけど

958 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 17:01:50
ウィキに頼るとか相当追い詰められてんな

959 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 17:51:13
北条時宗は極悪人
文永の役の2年半前、名越分家の謀反の鎮圧はいいとして
その時、京都に滞在していた兄、北条時輔に謀反の疑いをかけて殺す
文永の役の後、大元帝国の使者が博多にやってきた時、
非戦闘員である外交官を打ち首にするよう命じる

960 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 18:51:40
むしろ元寇直前にごたごたするのを避けるために早めに政敵を潰し
政情の安定をはかったんだろ
おかげで元寇に際し武士は一致団結して戦えた

文永の役の後なら使者なんてスパイと同義
殺されて当然
文永の役の前に来た使者はみんな丁重にお帰りいただいてるだろw
他国じゃこの時点で殺してるとこ多数
日本は優しすぎる位だ

そして使者に関しての話は既出
何度もおんなじこと蒸し返すな

961 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 20:09:14
>>955
なるほど、指揮官の大友頼康「個人」が水城に落ちて行き、戦場に踏みとどまった武士たちは
命令も待たず自発的に、乗船中の元軍を攻撃した、というわけか。

962 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 20:18:14
>>956
「八幡ノ蒙古記」のことか?
フィクションというと事実に基づかない創作、ということになるが、そこまで言い切れるかな?

ヒストリーとストーリーは同根だと言うように、すべての歴史は語る人の見方を通じてしか
語られ得ない、という意味ならわかるよ。
そのなかで信憑性を担保する方法は結局「裏を取る」ということしかない。「裏を取る」という
のは複数の資料の間で一致する、ということだ。
その意味では「八幡ノ蒙古記」には裏が取れる記述がいくつかあるのではないか?

963 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 22:52:03
>>961
元は指揮官もいない軍にぼこぼこにされたのか


964 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 23:03:53
>>963
水城へ落ちて行ったのは大友頼康軍のなかで大友頼康一人だけだった、
あるいはその息子と二人だけだった?
ソースをどうぞ。

965 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 23:44:58
>>964
何で?
ソースを出すのはお前だろ?
大友頼康個人ではなく軍として逃げたといってるのはお前なんだから

966 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 06:56:04
>>965
軍として逃げたとも言えないだろうな。
むしろ個人の集団として逃げた。
ソースは八幡ノ蒙古記。

967 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 08:20:16
>>966
>軍として逃げたとも言えないだろうな。
>むしろ個人の集団として逃げた。

個人の集団で統率されたのが軍だろうが
個人がばらばらに逃げてるなら大友軍は「潰走」したんだよな?
どこにそんな記述あるんだ?


968 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 10:32:40
>>967
「日も暮れ方になりしかば、 あなたこなたにさゝやき事こそ多くなりにけれ、
何事にかあらんと怪しみしに、しよせん武力及ばず、水木城に引きこもり、支えて
見んと、逃したくをこそ構えたりけれ、これを聞くより遅しやとて、我先に
落ち行くが多かりければ、いよいよ臆病神に誘われて、今は一人も戦わんと思う
者こそ、絶えにけれ。」

(表記は現代風に直した)

969 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 11:44:20
「歴代皇記」
二十日大宰府以三百餘艘之兵船發向賊船二百艘漂蕩神威力云々
〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎
人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將

↑コレに直接噛みついても勝てないと踏んで
「八幡ノ蒙古記は客観的(信憑性の話は徹底して避ける)」などというおかしな理屈でけむに巻こうとするも失敗

苦し紛れに「北条時宗は極悪人」などとわけのわからない妄言でスレを流そうとするもこれも失敗←今ココ

いずれにせよ
元軍が水城にすら到達できず、何もさせてもらえぬまま敗走した事実は動かせず

970 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 11:45:20
実際逃げたかどうかもわからん伝聞にいちいち相手するのもなんだが
大友康平が逃げようが大友克洋が逃げようが
それで元軍敗走の事実が消えてなくなるわけでもないのにね

つまり八幡ノ蒙古記がどうであれ元軍敗走の事実は何も変わらない

971 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 11:51:44
>>968
要するに日が暮れたら何か怖くなってきたんで
みんなして水城に帰りましたってこと?

972 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 12:06:24
日没とともに拠点へ帰還するのは集団騎射主体の日本の軍事ドクトリンとしては普通じゃん



973 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 12:10:14
つうか日没前後の時間帯なら
すでに元軍のほうは全軍が潰走中

974 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 13:15:09
>>971
>要するに日が暮れたら何か怖くなってきたんで
>みんなして水城に帰りましたってこと?

その通り。理解がいいぞ。
ただし整然とではない。一人去り二人去り、やがて我先に。
「個人の集団」たるゆえんだ。

>>973
>つうか日没前後の時間帯ならすでに元軍のほうは全軍が潰走中

これは正しくない。
少弐経資が敵将、劉某を射落とした話しは上記引用文の後に出てくる
から、日本軍の撤退中、いわば「しんがり戦」の出来事であったと
解釈される。



975 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 14:06:47
しかし何度も何度もループさせて別に話が進むわけでもない
まさにルーピーだなお前ら

976 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 14:23:00
ループさせてんの偵察厨だけだよ

977 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 14:52:51
>>968 
ごめん、次の文章が読めてなかった。
「逃したくをこそ構えたりけれ」

これは「逃げ支度をこそ構えたりけれ」
だね。

978 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 15:37:32
『八幡愚童訓』は神々の軍忠状

関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館)
・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が
あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。
 同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。
弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として
四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、
そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』
正応六年三月二十八日「太政官牒」)。

・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての
異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・
祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。
 神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の
軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。

・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。

・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。
 すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と
その軍忠に対しての当然の恩賞だった。

979 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 15:55:31
>>974
その状態でも元軍は水城どころか大宰府も落とせず挙句、劉復亨が重傷を負う
普通、ここまで押してるなら博多や大宰府落とせるし、弓や鎧捨てて逃げるなんてありえないな
八幡ノ蒙古記は完全なフィクションということだ

980 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 16:02:41
>>969
>〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎
>十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將

変だな。「松浦党関係資料集」によれば菊池三郎有隆は箱崎の松原で蒙古と
戦い、鎌形というところで蒙古の大将を討ち取った。このとき菊池が賜って掲げた
錦の御旗に血が多く付いたのを後に叡覧有り、「赤き星に異ならず」として
菊池に「赤星」の総名を賜った、となっており、対馬は出て来ないのだが。



981 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 16:06:03
八幡ノ蒙古記はね、ただ宗教史料で信用度が低いというだけじゃない。
書いている内容が筆者と思いっきり利害関係あることなんよ。
箱崎宮はこの時期に度々謎の火災を起こしてるんだけど、1280年にも原因不明の火災で焼失してる。
そしてこのときの再建は遅々として進まず、1289年になっても終わっていなかった。
そういう状況の中で箱崎宮関係者によって書かれたのが八幡ノ蒙古記。
つまり、何一つ信用できない史料なんだよ。

982 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 16:09:24
そんなこといったら当時の日本は公式の機関の記録さえ恣意と利害の塊じゃねーかw
そういった点をあげつらっている奴に限って、同じような史料は万歳して自分好みの妄想を披露するからわけわかんね。

983 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 16:27:55
>>982
火病起こす前に同時代で完全に公平な資料出してみろ


984 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 16:44:23
>>983
文盲乙。
程度の差こそあれ、そんなものは無いってこと。
あったらいちいち論争なんてしないだろ。
痛いところ突かれたからって火病とかどんだけ馬鹿なんだよw

985 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 17:02:54
蒙古襲来絵詞が一番信頼されてる
これは左も中道も右も共通

986 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 17:04:12
>>982
偵察厨とかな

987 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 17:49:45
>>981
少弐経資が敵将を射落としたことは八幡の蒙古記に書かれている。
そしてこれが事実であることは高麗史によって裏付けられのである。
八幡ノ蒙古記の信憑性の一例だ。

ところで、このような武士の功績を書くことが箱崎宮にとってどんな利益になるの?

988 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 17:52:01
>>987
訂正
誤:裏付けられのである
正:裏付けられるのである

989 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 18:09:37
神様への信心のおかげで矢が当たったのだ!

ってな感じか

>>978にはなるほどなと思わせられるな



990 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 18:15:32
>>985
それだって結局は個人の手柄話じゃないか。
まずいことは書かないだろうよ

991 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 18:24:40
>公式の機関の記録さえ恣意と利害の塊じゃねーかw

具体例を挙げて説明してもらえるか?

992 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 18:41:24
>>989
>神様への信心のおかげで矢が当たったのだ!

なるほどな。実際、そのような書き方がしてあったと思う。
しかしそれをもって信憑性がないというなら、例えば中世ヨーロッパの史料は
すべて信憑性がないことになるな。
なにしろ、敵も味方も神の加護を願って戦うのだから。

993 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 18:56:23
キリスト教のありがたさを喧伝する史料にそう書かれていれば
その可能性は高い

994 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 19:20:37
ああ、また偵察厨か。今更蒸し返すのもなんだが、米統合幕僚学校の
テキストやフィールド・マニュアルよりもwikiのほうが信頼性あるって
言い出す御仁だな。

>848の時、いい加減我慢の限界に来そうだったが脱線しまくりそう
だったんで自重したけど、本当に何も変わってないんだな。

995 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 20:34:30
新スレ

元寇総合スレ3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1275305587/

996 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:01:16
そう言えば、せっかくUS Army War Collegeの論文を紹介してやっているのに
英語が読めないばっかりに赤っ恥かいて、いなくなってしまった人もいたな。
いまごろどうしているかな。

997 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:07:19
偵察厨は何で都合の悪いレスはスルーなのかなw

998 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:11:29
>>996
US Army War Collegeで大佐ったら学生なんだが・・・
いわば、東大の卒論持ってきて「東大の権威ある論文によると・・・」
とか言ってるのと同レベル。

999 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:38:08
>>998
それさえ読めないんだから何をか言わんや。

1000 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:42:15
>999
FMはちゃんと読んだか?

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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