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国司について語るスレ

1 :日本@名無史さん:2010/02/09(火) 04:18:41
律令時代に出来て幕府滅亡まで延々と続いた国司について語るスレです

2 :日本@名無史さん:2010/02/09(火) 06:43:40
国司が完全に地方官としての実態を失うのはいつなんだろう?
平安末期、源平時代は、知行国主のもとで国司の任命や目代の派遣が行われていたし、
鎌倉時代も国司と守護が共存する公武二元体制だった。

3 :日本@名無史さん:2010/02/09(火) 18:02:54
国府が無くなったのっていつ頃?
鎌倉時代には一応はあったのか?

4 :日本@名無史さん:2010/02/09(火) 19:43:44
平家物語の作者と言われているのが後鳥羽院の時代の信濃前司行長なる人物だが、
信濃前司(しなののぜんじ)っていうのは、前信濃国司(信濃守?)ってことだから、
その頃は普通に貴族の国司がいたってことだろうね。

建武の新政では各国に守護と国司を併置して、楠木正成も河内守に任命されてるけど、
その後、守護の権限強化が進んでいくから、国司の消滅はやはり南北朝の混乱期?

5 :日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:02:53
武士が○○ナントカノ守何某とか名乗るようになるのは、いつ頃からだろう?
戦国末期には、織田上総介信長とか羽柴筑前守秀吉みたいな名乗りが使われている。
この頃には、既に国司制度は形骸化して完全に実質を失っている。

上記の楠公なんかは、楠木河内守正成とか名乗ってたのかな?

6 :日本@名無史さん:2010/02/09(火) 23:32:59
室町時代までは半済や一条家等の下向とかやっていたから守護と国司が併設されていたのだろうか?
それとも在地の武家が徴税を請けおって公家や朝廷に金品を送っていただけ?


7 :日本@名無史さん:2010/02/10(水) 01:34:06
いつ頃からか、国司でも上級職の方は都から下らなくなってゆき、中級以下の職は在地の権力者が占める様になる
公地公民制は既に崩れているので、国司が下っても行政権を行使すべき対象が無い

8 :日本@名無史さん:2010/02/10(水) 02:37:47
北畠具教が織田信長に降ったのが国司の終焉という気がする。
官途としての形式という点では、飛騨守の姉小路(三木)もいるけど。

9 :日本@名無史さん:2010/02/10(水) 08:48:08
>>1 既出だと思いますが論点を示しておきます。

国司制度は、朝廷の地方支配の核、国司の実権がなくなると朝廷支配の
低下ないし消滅につながる。
遙任国司・受領国司の区別  知行国主とは
遙任国司の在庁代理人である目代とは
在庁官人とは 国衙とは 郡司・郷司・保司とは
幕府の守護・地頭との関連は!
荘園領主や荘官など荘園公領制度との関連は!

などがあります。

10 :日本@名無史さん:2010/02/10(水) 11:37:08
>>2
>国司が完全に地方官としての実態を失うのはいつなんだろう?

国司は中央官僚じゃないかい?

郡司以下は地方官だろうけど。


11 :日本@名無史さん:2010/02/10(水) 19:12:00
北条氏の歴代執権や連署などは、
実際に国司としての職務を行っていたのだろうか?

北条時政 遠江守
北条義時 相模守
北条時房 遠江守、駿河守、武蔵守、相模守
北条泰時 駿河守、武蔵守
北条経時 武蔵守
北条時頼 相模守(時宗、貞時、高時も相模守)
北条政村 陸奥守、相模守

12 :日本@名無史さん:2010/02/10(水) 20:54:40
国司については、
>>2が、一番難しくて根源的な質問ですね!
中世後期は「荘園公領制」の在地支配が大きく変わる頃です。

国司は、朝廷の地方行政機関です。今で言えば知事みたいなもの。
武家政権(幕府)で、やはり国ごとに置かれた「守護」と対立並存関係にあります。

国司は、長官の守と次官の介などの総称です。
例えば、越前守は長官、上総介は次官になります。

13 :日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:18:41
>>5
応仁の乱後の戦国時代(15世紀末から)には、
荘園公領制・朝廷の地方統治システム(国司)は、すでに崩壊しその実質を失っているので、
戦国時代の受領名(国司)は、私称なら単なる名乗り、
公称なら権威付けの名誉職でしょう。


14 :日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:29:27
このスレの上限は国司が令によって設置された大宝で
下限は荘園公領制が完全終了した太閤検地までってことでOK?

大岡越前とかまで国司に含めるとキリないし

15 :日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:37:37
>>14
そうですね! 戦国時代、特に太閤検地以後は国司職に実質がなく、
公称であっても単なる名誉職的名乗りですからね!

16 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 17:12:53
下限は南北朝でよくない?

17 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 18:35:55
>>16
南北朝時代は一応国府が機能していたんじゃ・・・

18 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 20:50:27
>>16 >>17
これから議論が出てくると思いますが、
南北朝期は、公領制度の崩壊期、国司の役所(実際は遙任が多いが)国衙(国府)
が、守護に乗っ取られるハザカイ期です。

19 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:29:40
その前に、国司の機能と職務について明らかにしておきたいです。
法の範囲による権限と、実態としての行動など

20 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:55:49
持統朝、少なくとも文武朝に入る頃には国司制度の原型は出来てたんじゃないの?
前史としてのその辺を排除するのはいかがなものか?
まああまり資料ないけどね。

21 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 21:48:28
>>10
通常使われる用語としての地方官は、
地方統治に関わるという職務に着目しての分類だから、
国司も郡司もともに地方官で良いんじゃないかな?
郷長や、郡書生とかまでおりると、
官じゃないってことで地方官って言えないんだろうけど。

22 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 21:53:59
国司とは目までの四等官のみ?
史生とかは含まれるのか?
国医師・国博士は?
国師・講師っていった僧侶は除外でいいかな?

23 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 21:57:23


24 :日本@名無史さん:2010/02/13(土) 00:13:29
>>19 国司の基礎知識

国司制度は、
8世紀初頭、律令制度の施行と同時にできました。任期は4年です。
その職務は、国内の行政(特に徴税)、司法、軍事、祭祀です。

国司とは、四等官あり、長官の守・次官の介などの総称です。中級貴族が任命されました。
常陸、上総及び上野は「親王任国」といって、親王が守になりますが現地に赴任しないので、
事実上のトップは介になります。

現地に赴任しない在京国司を、「遙任国司」といいます。
代わりに自己の私的な代理人「目代」を国衙に派遣し、在庁官人を支配させました。
 逆に現地に赴任する国司で、最上位の者を「受領」といいました。

平安後期には、国司を推薦する権利を特定の権門貴族・寺社に与える「知行国制度」が
できました。この国司の上位の者を「知行国主」といいました。

その後、荘園公領制度の崩壊や幕府任命の守護・地頭により、国司はその職権を侵害され、
制度の崩壊、しいては朝廷の全国統治権の低下・消滅につながっていきます。


25 :日本@名無史さん:2010/02/13(土) 18:12:42
伊勢や飛騨を除いて形骸化したとはいえ、一応国司が仕事をしていたのはいつ頃までなの?

26 :日本@名無史さん:2010/02/13(土) 18:20:29
在庁官人というのは荘官クラスの地方武士で、のちの地頭層になるわけだから、
南北朝の頃に守護に国司の権限が吸収されたといっても、地方支配の実態としては、
そう変わらなかったような気もする。

受領層の中央貴族が国司として赴任したのは院政時代が最後?

27 :日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:46:39
>>26
混乱の南北朝期を経て、南北朝合一室町期になると守護が国司の権限を吸収し、
守護大名に成長していきます。
一方、従来の地頭・在庁官人・荘官クラスは、新たなる在地領主「国人」へ
と成長していきます。

>>2さんも書いていますが、鎌倉時代は、朝廷・幕府の公武二元支配ですから、
国司は存続し、守護との併置だと思います。

28 :日本@名無史さん:2010/02/14(日) 23:44:06
守護や地頭は、文治の勅許(1185年)を受けて頼朝が設置した事に始まる。
それに先駆ける平家追討のさ中、院宣という大義を押し立てて進軍する頼朝軍の兵站確保および後方治安のため、
軍事発動的に各地で行われた行為が端緒。
守護人を設置し、在庁官人らを指揮して国内の治安維持・民政にあたり、兵粮徴発や兵士動員などを行わせた。
この時点で合法か非合法かと言えば、後者。
治天の君後白河による平家追討の院宣がくだっており、それを奉じて軍を進める頼朝には超法規的な行為が黙認されたのだろう。
戒厳令下の国情と言っていい時期。
やがて平家が滅ぶと、次は源(木曽)義仲の追討、続いて源義経の追討と絶え間なく院宣が発せられ、
その大命を奉じて頼朝は戒厳令司令官としての軍権を行使できた。
それを合法と追認したのが、文治の勅許。守護・地頭の正式な設置。
1232年(貞永1)に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三ヶ条の検断
(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、
国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。

という事は、守護は国司の権限を侵してはならない、という事だね。
違法と言えば全て違法。朝廷としては律令政治が建前だから、幕府というもの自体が違法。
というか、戒厳体制がずっーと続いている状況が幕府政治。軍権による国権の代理行使。


29 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:46:09
それでいつ頃まで中央から国司や目代が派遣されたの?



30 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:56:18
守護や在地武家が荘園を侵略するのは解るんだけど国衙領は流石に侵略出来ないと思うんだけどな
でも侵略されて殆ど無くなったが太閤検地まで残っていたというのは不思議でならん


31 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 03:41:06
>>29
源平争乱期は、陸奥守の藤原基成とか伊豆の目代の山木兼隆とかがいるから、
中央からの国司や目代の派遣はあった。

鎌倉期になると、北条氏の執権や連署が東国の国司になっているケースはあるが、
その他の国に朝廷からの国司や目代の派遣はあったのだろうか?

32 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 08:47:31
>>28 さん
守護・地頭の設置の「文治の勅許」(1185年)は、鎌倉幕府成立年とも言われている画期ですよね!
>>29 >>31
どこかのサイトで、通りすがりで鎌倉後期の国司補任表を見たことがあります。
鎌倉幕府消滅「建武の新政」で国司が完全復活したことは、教科書にもありますが。
>>30
国衙領(と荘園)は、南北朝期を経て室町初期のころ守護請けや押領などにより、事実上の守護領に
なったものと理解しています。
一方、有力荘園は戦国時代も存続し、太閤検地で完全に消滅した。

33 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 16:22:16
室町中期以降の国司は江戸期に伊達が陸奥守 島津が薩摩守名乗っていたのと同じ様な感じで
守護大名が担っていただけ。

34 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 18:29:36
>>33
江戸期には、江戸町奉行の大岡忠相が「越前守」を名乗っています。
当然、越前の国を支配する国司ではなく単なる名乗りです。

35 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 19:34:39
>>34
そんな事知っているが?
だから知行地と名乗りが一致している陸奥、薩摩、加賀等の一部の大大名を上げたんだが?

36 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 20:41:30
ところで相模の国府ってどこ?
小田原・鎌倉・海老名の3説が有力らしいが

37 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:19:59
親王任国の受領ってなんで権守でなく介なんだろう?
平将門の時期の権守、興世王あたりは、あくまで守代行って感じだけど、
道長時代あたりだと、公卿が兼務してたりして、権守>守ってなってるよね。
権介も少将あたりの兼任で、権介>介になってるみたいだし。
この辺の逆転的現象っていつ頃からでどういう経緯なんだろう?
それと六位の国守っていつ頃まで存在したのかな?
奈良時代にはいた七位の国守ってのは、
せいぜい9世紀前半で消滅したんだろうけど。

38 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:38:36
公卿の国司兼任は
公卿職がメインで権守は収入の為だけの収奪ポンプ
守は下級貴族の終着駅で一応メインの職だからじゃね?


39 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 01:47:46
>>36
鎌倉説ってあったっけ?

40 :日本@名無史さん:2010/02/17(水) 22:32:31
>>26
院政時代とは、平安後期の白河上皇(1086)の頃から、
鎌倉末期の後醍醐天皇親政直前の後宇多上皇の院政停止(1321)の頃まで
との学説(上横手雅敬)もありますね!
ポイントは、鎌倉時代も院政は存在したです。

41 :日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:28:52
>>24 >>40
鎌倉時代は、国司(朝廷側)と守護(幕府側)は、対立関係にはなく、
相互補完関係だとの学説が有力だそうだ。

42 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 17:56:56
鎌倉時代は摂家・宮将軍の中にも西国の権守を兼ねている人もいたが、
「権」守ってことは、単に収益めあてのポストだったのかな。

43 :日本@名無史さん:2010/02/21(日) 20:45:10
>>24 >>29
国司(中央は朝廷)の権限は、
平安時代は不輸の荘園領主によって侵害され、
鎌倉時代は幕府が設置した地頭にも侵害され、
南北朝室町初期に、守護によって侵害されて、形骸化したでいいと思います。

44 :日本@名無史さん:2010/02/21(日) 20:50:16
それはわかるんですが、鎌倉時代に中央貴族(受領層)の国司が、
実際に任国に派遣されて実効支配を行ってたんでしょうか?

鎌倉時代になると、貴族の国司はほとんどが遙任=利権ポスト化して、
在地の武士(在庁官人や地頭)から収益を得るだけだったんでしょうか?

45 :日本@名無史さん:2010/02/21(日) 22:24:15
受領って言ったって、平安末期あたりだと、
任期中に一度だけ短期間赴任する程度らしい。

46 :日本@名無史さん:2010/02/21(日) 23:33:22
国司の行政権ってなに?

47 :日本@名無史さん:2010/02/21(日) 23:52:28
>>44さん
>>45さんも回答していますが。

受領国司(現地赴任国司)全盛は、平安中後期ころだと思います。
平安末期ごろに知行国制度が確立した頃には、国司は現地赴任せず(いわゆる遙任)、
「目代」派遣が主流らしいです。

鎌倉時代は、基本的に公武二元支配です。
西日本では、遙任ながら国守は、目代を派遣して国衙支配をしていました。
しかし、承久の乱で朝廷方が敗れ後には、幕府は西日本にも地頭を補任し支配力を強化しました。
その後元寇の頃を経て、鎌倉後期の得宗専制が確立した頃には、
各国の守護が国衙在庁の実権を掌握したとの記事を読んだことことがあります。
土地課税台帳である太田文の作成を、守護が国衙に命じて作らせているとかです。
したがって、鎌倉後期の国司(朝廷)は、在地実効支配権限を失っていたものと推量されます。




48 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 00:40:17
「国衙支配」  国衙に赴いて何をどう支配するの?
「地頭を補任し支配力を・・・」  何に対する支配?

49 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 00:49:32
知行国主の話が全然出てこないな。
ばっかみたい

50 :武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/02/22(月) 01:06:07
>>49は私。
書き込みが久方ぶりなんで、ハンドルネーム入れるのを失念してしまった。
…それはともかく、知行国主を持ち出さないで院政期の受領国司の権益論じるなんてダメダメだよ。
基本書全然読んでないよねみんな。

51 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 01:08:01
知行国主って、国司を任命できるんだよね?
国司は県召の除目(あがためしのじもく)で人を選任し、勅命をもって任じるハズだったのに
臣下の誰かに一任するなんて、朝廷は地方支配を軽んじる様になったとしか言えないな

52 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 01:38:28
ぶよーは知識は豊富そうなんだけど、その知識を披露しないで非難批判見下しをするから板が荒れるんだよなあ・・・・

53 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 07:49:23
それに、ここまでの話題はどちらかというと在地での国司・国衙の消滅に関する話題メインだしな。

54 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 14:15:53
伊勢の北畠は国司と呼べるのかな?
一応在地で貴族なんだけど

55 :日本@名無史さん:2010/02/22(月) 23:28:26
伊勢の北畠、飛騨の姉小路、土佐の一条の3家は世襲の国司じゃなかったかな。

56 :日本@名無史さん:2010/02/23(火) 01:02:39
>>54
伊勢の北畠氏は、「戦国大名」になりましたが、その前身は国司ですね!
国司出身は、珍しいです。
通例、戦国大名の前身は、守護、守護代、国人が多いです。
駿河の今川、越後の上杉(長尾)、安芸の毛利など。

鎌倉後期にいったん弱体化した国司(>>47)は、後醍醐の「建武の親政」で、
その権限を一時復活させます。
その後南北朝に分裂し、伊勢国司北畠氏は南朝側につきます。

伊勢国司の北畠氏は、南伊勢に限っては、実権を伴った地位のようですね!
南北朝合一(1392)後は、その既得権が幕府にも認められ、
北畠顕泰が、先ず南伊勢「半国守護」に補任されています。

応仁の乱後の文明期には、北畠政郷が、北も含めた伊勢「一国守護」にも
補任され(1484)、その後戦国大名としての地位を固めた。
の時系列のようです。

57 :日本@名無史さん:2010/02/23(火) 21:49:23
土佐一条家は自分の荘園を管理するだけの在地領主じゃない?
やっぱり室町中期以降の国司は南北朝以来の北畠、姉小路の世襲国司だけなのかな?


58 :日本@名無史さん:2010/02/23(火) 21:53:33
一条 姉小路 北畠は受領層というよりも土着化した公家だからなあ・・・・

59 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 03:26:11
どういうわけか、土佐一条家の代わりに戦国三国司に入れられることのある阿波国司一宮家。

60 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 08:38:22
西園寺は何で国司じゃないの?

61 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 11:36:43
54以下
戦国三国司の伊勢の北畠氏、飛騨の姉小路氏、土佐の一条氏。

  北畠氏は、>>56のとおり南朝任命の国司が起源、のち土着して伊勢の戦国大名
に成長した。戦国末期に織田信長により滅ぼされる。
  姉小路氏も同じく南朝任命の国司が起源です。その後幕府任命の守護京極氏に
圧倒されます。最終的に滅ぼされたのは秀吉によってです。
  一条氏は、異色で、応仁の乱の頃に荘園領主として土佐に下向し土着して
戦国大名に成長しました。新興の戦国大名長宗我部氏によって滅ぼされます。

62 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 14:00:33
>>47
守護による太田文の作成は頼朝の頃からある
薩摩や日向の太田文が良い例

63 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 18:10:05
北畠顕家を祖と仰ぐ陸奥国司浪岡北畠家。

64 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 19:29:34
当初の意図がどうでも、結局は戦国時代近辺に話が言っちゃうんだよな。
ここの住人も歴女と傾向は変わらないね。

65 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 20:28:17
国造が廃され、国司が置かれていった経緯は?
書ける人いる?

66 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 20:44:06
従来は国造に任命した地方豪族に地方統治を任せていたが
中央集権国家を築くために中央から官吏を派遣して地方を統治させることとした
従来の国造は郡司等になった(出雲国造家も国造の称号は許されるが郡司になった)


67 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 21:02:12
>>64
戦国時代以降の武将の国司名乗りは、実体を伴わない単なる名誉職的名乗りですから、
戦国一辺倒にはならないと思いますよ!

68 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 22:06:19
>>66
地方の実際の行政は、郡司がやっていたんだよね・・・。
国司って、国衙に詰めているだけで、帳簿付けくらいしか仕事してないから。
班田収授法って、まず戸籍を6年ごとに作り直さないといけない。
それには国勢調査みたいな一軒一軒ごとの調査がいるわな、そんな細かい作業は郡司に頼らないと国衙では何もできない。
そして田圃の支給と徴税。
これも、一戸ごとに纏めて納めさせて、それを運ばせるという、現場管理指揮の行動力とノウハウがいる。
そういうベタな部分を郡司が担ってたんだよ。
郡司は、昔はみんな国造だった家柄で、いわば地元の名士だから、農民を従わせる事ができた。
言い換えれば、国司は中央からやって来る事になったが、実際に地方のこまごました行政をやっていたのは郡司だという事だな。
その代わり、国司には郡司を推薦する職権と成績査定する職権がある。(郡司の任命は式部省)
その構造によって、中央政府は地方の農地と農民を間接支配したという事だな。


69 :日本@名無史さん:2010/02/25(木) 01:21:03
スレチかも知れないけど郡司って衰退した後は武士や庄屋になった人が多いの?
土着の有力者で地盤もあるから零落して路頭に迷ったのは少なそうな気がするが。

70 :日本@名無史さん:2010/02/25(木) 01:42:23
郡司の機構が廃れたからといって郡司層が衰えたとは必ずしも言えまい。
大半は田堵とか荘官とか神官とか、地域の有力者になったと考えるのが自然だろう。
維新後の旗本や終戦後の華族みたく、いきなり放り出されたわけでもないし。

余談だが、曾祖母の実家が郡司姓で、某親藩の下士とは言え士族だったよ。

71 :日本@名無史さん:2010/02/25(木) 01:47:02
思えば郡司って、一番歴史が古くて由緒ある家系かも
郡司の前は国造だった家が多く、国造ってその土地の王みたいなものだろう
中央集権が確立する前は

72 :日本@名無史さん:2010/02/25(木) 02:56:22
今の時代、郡司の勝ち組は庄屋→地主じゃない?
貧乏華族、郡司由来士族であぼーんって結構聞くけど百姓地主から貧民まで落ちたって聞かないしね。

73 :日本@名無史さん:2010/02/25(木) 03:38:58
>百姓地主から貧民まで落ちたって聞かない
一地方に住んでる者から言わせてもらうと、そんなことは断じて無い。

当主(男手)が二代続けて早死にすれば、農家は大概零落した。
実際に150年前のわが家がそうw 郡司出身じゃないけどね。

他にも、事業に失敗したわ、博打や道楽、政治に費やして貧窮したわ、
農地改革の時には、男手が皆死んでいたり、不在地主だったりで、丸ごと巻き上げられたわ、
家督相続から均分相続に変わったため細切れになってしまったわ、
連帯保証人になって返済のために全て失ったわ、

…とまあ、零落した豪農・地主の例なら掃いて捨てるほどあるぜ。

74 :日本@名無史さん:2010/02/25(木) 09:15:18
>>69
郡司は、平安後期にはすたれていますね!
郡司の一部はその後身として国衙の在庁官人になったり、鎌倉期には地頭になったり、
室町期には国人になったり、していると思います。

75 :日本@名無史さん:2010/02/25(木) 17:56:27
弥生時代の小国の王(キミ)
→古代の地方豪族(大化前代の国造→律令時代の郡司)
→平安後期の在地豪族(荘官や郷司・保司・在庁官人)
→中世の地方武士(鎌倉時代の地頭→室町時代の国人領主)
→近世の村役人層(大庄屋・庄屋・名主)
→近代の寄生地主(エノケンの歌にもある「親父は地主で村長」)
→現代の安サラリーマン(農地改革で没落)

76 :日本@名無史さん:2010/02/25(木) 23:19:29
>>60
西園寺家は、国司よりさらに上位の「知行国主」だったような!
国司は、中下級貴族(いわゆる受領層)の官職です。
詳しい人、解説してください!

77 :日本@名無史さん:2010/02/26(金) 00:21:34
>>76
姉小路、北畠も4−5位の中下級貴族でなくて「公家」だけど

78 :日本@名無史さん:2010/02/26(金) 01:41:24
伊勢の北畠氏、飛騨の姉小路氏、陸奥の浪岡氏は、建武新政時に下向したものだが、
その当時、国司機構や国衙領が残存していて、或いは再編して、それを継続させたとは思えない。

土佐の一条氏と、伊予の西園寺氏は、どちらも知行国主ではあるけれど、
荘園領主として下向、在地支配を試みたもので、国司というのは名目だけ。

周防の大内氏(大内介)と、常陸の大掾氏(常陸大掾)は、
建武以前の在庁官人から出発して相応に勢力を保ちながら、中世後期まで地域支配を継続した稀有な例。
大内氏にしろ大掾氏にしろ、庁官の出自を以て領知の正当性を誇っていただけで、
国衙の組織を継承しながら、庁官筆頭として国衙領の支配をしていたわけじゃなかろう。

八介の残りでは、上総の上総氏(上総介)と、相模の三浦氏(三浦介)は、早くに粛清されて族滅。
出羽の安達氏・安東氏(秋田城介)は、先行した越後城氏の滅亡後に称しただけで、実質は伴っていない。
下総の千葉氏(千葉介)は抗争が絶えず、加賀の冨樫氏(冨樫介)は一向一揆に乗っ取られ、
伊豆の狩野氏(狩野介)、遠江の井伊氏(井伊介)は、国人領主として存続したに過ぎない。

一宮大宮司職を世襲した阿波の一宮氏は変わり種で、支配者としては地頭・国人に過ぎないと思うが、
戦国三国司に含まれる場合もあるのは、国司の職掌としての祭祀を幾ばくか継承していたからなのか。

安東氏(秋田氏)と井伊氏のみ、近世に所を変えて大名として存続したが、他の各氏は太閤検地までに全て滅亡している。
国司が実質を伴っていたのは南北朝時代までで、北畠氏や姉小路氏も実際の統治様態は守護や国人領主と変わらなかったろう。
大内氏、冨樫氏、千葉氏も、庁官筆頭としてよりは、守護職として振る舞っていたろう。

任官した受領国名と支配領域が重なっていれば、支配機構に関わらず実質を伴った国司だと言うならば、
宇都宮氏(下野守)や北条得宗家(相模守)も国司と言えそうだけど、そりゃあ違うだろうし。

79 :日本@名無史さん:2010/02/26(金) 02:16:40
親王太守が現地に赴任したのは、、義良親王の他には居たんですか?

80 :日本@名無史さん:2010/02/26(金) 17:53:20
>>78
正確な分析・解説、勉強になります。
最後の方、関東の鎌倉幕府高官の支配領域と受領名の一致は、
鎌倉幕府の在地支配の特殊性によるものでしょうね!

>>60 >>76
伊予の西園寺氏は、南北朝期にその知行国伊予に下向・土着し、
公家大名となりました。
その後南北朝末期に、公武の政権を掌握した義満により、
その既得権を認められ、守護河野氏をけん制するために南伊予「分郡守護」に任命されました。

81 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 04:46:45
>>66
国造は任命される官司ではないだろ。
大和王権に服属した地方語族の世襲の職掌だな。

82 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 05:28:27
国造の世襲は豊臣秀吉や徳川家康が外様大名に所領安堵したみたいなもんか。
で、旧国造層は郡司職を世襲したわけだが、最末期まで世襲できていたのかな。
受領国司の恣意で罷免させられたりしたの?

83 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 08:23:50
大宝令以後の国造は職かな?官とは言い難い気もするけど。
続日本紀によく任命記事があるね。
女官の例がかなり多い。

84 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 16:06:55
>>82
> 国造の世襲は豊臣秀吉や徳川家康が外様大名に所領安堵したみたいなもんか。

そう単純でもなかろう。祭政一致の古代社会だから、
土地云々よりも産土神の「祭祀権」が大事だったんじゃないかな。
「転封」「改易」で縁のない豪族に神様を祭らせるわけにはいかないw

85 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 20:20:59
おおやけ(公)とか天皇とかの権威が上回っていくまでは、在地の然るべき筋合いの者を介してしか地方を掌握できなかった、という事だろうな

86 :日本@名無史さん:2010/02/28(日) 00:31:50
西園寺とか一条は国司と言うよりも公家大名だろう。
北畠、姉小路は国司由来の公家大名。
逆に応仁まで京にいた一条、西園寺が何故、弱小ながらも戦国大名として武家と拮抗していたのか気になる。

87 :日本@名無史さん:2010/02/28(日) 02:23:15
>>86
西園寺が宇和郡を押領したのは南北朝のドサクサ時分

88 :日本@名無史さん:2010/02/28(日) 02:44:29
つくづく思うのは、国司制度の元で税は本当にちゃんと中央に届いていたのか、ってこと。
最初期から末期まで、
どこまでもザル状態じゃね?
朝廷や貴族、どうやって暮らしてたんだ

89 :日本@名無史さん:2010/02/28(日) 03:45:17
令制に則って人民一人ごと田地一筆ごとにきっちり国内を統治するのが国司の本分だったけど、
所定の官物が貢納されれば国司に丸投げでいいやという投げやりな方針に替わってからは、
国司という名目の存続と国衙領や国司機構の存続を同列に論じるのはあまり意味が無いだろう。
とりあえず上がりを納めさえすれば、統治様態は在地の現況に合わせて適当にやってりゃいいんだから。

そういう意味では、国司や知行国主の名目を以て現地に下向して、在地の有力者経由とはいえ、
現地からの収奪で生活したり、幾らか懐に納めたりした公家は、当世的受領と言えるかもしれない。
周防の大内氏や越前の朝倉氏に寄寓した公家衆とか、諸国を漫遊した近衛前久とか、
そういう名目があったようにも思えないし、受領層より遥かに高位の堂上だけど。

しかしながら国司は、派遣された地方官として、官物を収納したら中央の朝廷に送らなきゃいけないが、
僻遠の土佐一条氏や陸奥浪岡氏がそんなことを継続していたとは思えない。
先に挙げた公家衆も、自分の糊口を凌いでいただけだろう。皇室にお裾分けしていたのか。。
北畠氏は偶々近国だったから何かしらの貢納をしていたかもしれないけど。

朝廷にとっては、下心見え見えでも金品を貢ぐ在地勢力の方が、よほど国司っぽかったに違いない。
ただ、各地の武家が献金しても当該地域の国司に任官した例はそんなに多く無い。
先任や他家、守護との兼ね合いもあったろうし、国司の官位相当はあんまり高くないし。

90 :日本@名無史さん:2010/02/28(日) 12:54:41
下級貴族が一番なりたかったのは国司
国司の俸禄自体は高くないから租税をピンハネしていたんだろうね

91 :日本@名無史さん:2010/02/28(日) 14:07:41
>>86 >>89
一条氏が土佐へ下向した頃(応仁の乱)は、
荘園制(そのころ公領制は既に崩壊)の崩壊過程で、
一条氏は、荘園領主として下向し在地支配を試みたものでしょう(>>78さん)!



92 :日本@名無史さん:2010/02/28(日) 22:53:27
税をピンはね、というより、
本来は国に納めるべき税(国衙領の収益)を国司に給料に当てる、と言うのが知行国制
ピンはねどころか、国には一切納められない事になる
国家の財政収入はゼロ
でも政府が倒れないのは、貴族も上皇もみんな荘園を持っているから
造営も軍隊も財政ゼロの朝廷には賄えなくなっている、だから、持っている人にお願いする
大番として武士を都に召し出して警備に使ったり、乱の鎮め、政敵を葬る武力として使う
内裏の修理や造営についても、適当なものに命じて行わせ、褒美に官位をあげる
それで全てが回っていた

93 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 00:50:36
荘園公領制とかはスレ違い?

94 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 01:18:51
>>93
荘園公領制度のもう一つの片割れ、
日本史別スレ「荘園について語ろう」もありますよ!
国司は、公領制度の中核役職です。
国司を語るときは、荘園・公領を同列に考えて、荘園制度も参考にするとよいと思います。


95 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 01:47:26
室町守護〜戦国時代の大名あたりは国守の任官あまり受けていないの?
古くからの国主とも言える武田や島津も甲斐守や薩摩守受けていないし

96 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 10:01:16


97 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 10:10:23
>>95
島津貴久や毛利元就は、陸奥守を任官しているね。実効支配地にはこだわってない。
家康の三河守任官は逆にこだわったもののようだが。

98 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 20:38:41
>>97
戦国時代、既に国ノ守(国司)は、実体のない地位だったですけど、
戦国大名の実効支配地への国守任官に付きましては、
朝廷は慎重だったらしいです。
理由は、朝廷が「お墨付き」を与えように誤解されるのを嫌ったようです。

99 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 23:38:33
奈良時代の国司下行なんて、すごい見物だったろうな。
まだ、竪穴式住居にすんで粗末な貫筒衣なんて着てる人間が
それこそ尺に冠に白袴はいた人間がゾロゾロと動いてるのを見て、どんな感じだったんだろ?

100 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 07:02:43
土民は土下座させられるから、見物どころじゃないと思う。

101 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 10:41:43
家奴だの奴卑だのは土下座させられたのかもしれんが、地方豪族の末端クラスの良民まで土下座かな?
それはそれですごいな。

102 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 12:24:24
土下座っていつからあったのだろう・・・。

103 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 15:07:09
郡司はたとえ位階が上でも国司目以上に会えば下馬して挨拶。
当初は外五位の郡司は例外だったが、後のは外五位でも下馬。
と言うことは逆に言うと郡司なら下馬して礼するだけで良かった。
すると郷長とか以下は土下座?

104 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 16:31:59
>>102
魏志倭人伝では、既に下戸(庶民)が大人(権力者)に、はいつくばって挨拶してると書いてあるな。
日本側の記録でも、律令制になるまでは立礼ではなく土下座が普通だったとあるし。

105 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 03:38:36
意外と良スレだな
見方によっては武家政権の成立・発展を裏側から辿るスレにもなるし
国司というのは奥が深いテーマかも

106 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 12:25:13
鎌倉期以降の国司は専門書読んでもイマイチ解らないからな
詳しい人の解説待っているぜ

107 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 13:41:15
よく国府が形骸化して守護などの武家に乗っ取られたと言われるけどそれ以上は解らないよな。

108 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 14:15:51
ただ、源平時代の頃から目代とか在庁官人は、荘官とかと同じ在地武士だし、
仕える相手が朝廷や貴族から鎌倉殿になったというだけで、地方支配の実態は
そんなに変わらなかったのではなかろうか。

109 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 14:43:39
鎌倉幕府知行国って国司の任免権を持っている以外は国衙の税はきちんと朝廷に納めていたのか?

110 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 15:09:18
知行国制度って、院や上級貴族の収入源を確保するため、
国衙の税収を丸々、知行国主になった人物に与えるんじゃなかった?
だったら、関東御分国の国衙の税収は鎌倉殿のものになるんでは?

111 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 17:31:54
>>院や上級貴族の収入源を確保するため
国内の荘園に関しては、知行国主である鎌倉殿が領家への進納を保証する責務がある
国衙領に関しては知行国制度が始まった頃から知行国主の取り分、つまり幕府が収納するのかな
これら一連の施策って、朝廷への税を回復するの為に出されたものじゃ無いよ、すべて荘園領主の権益確保が目的
鎌倉幕府をその実行者として使おうとする考えは、寿永二年の宣旨ですでに端緒が見えるよ

112 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 19:18:24
知行国主と親王任国と院宮分国がごっちゃになってる悪寒

113 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 19:34:11
>>109
幕府源家の知行国の実態は、わかりませんが、
一般論として、不輸の権(免税特権)を獲得している知行国主とそうでない知行国主とが、
あったんじゃないかな!
詳しい人教えて!

114 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 19:56:49
>>>106 >>107
基本的に鎌倉時代は、「公武二元支配」はご存知だと思います。
承久の変までは、東国は幕府中心支配、西国は朝廷中心支配で、
その後幕府支配(新補地頭の設置などで)が西国まで及んでいったとの説明が、
多いです。

その頃鎌倉後期の支配の実態は、どうなんでしょうね!
上横手雅敬氏などは、「公武二元支配」ながら、
あくまで朝廷が全国の支配者で、幕府はその補完勢力だとの学説もあります。
本郷和人氏いわく鎌倉後期は、よくわからないというのが実態だそうです。
さらにその後、
後醍醐の倒幕・建武の親政で「国司制度」が一時的に復活したのは、ご存知のとおりです。

115 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 18:26:55
将軍が御家人を国司に推薦してという感じだったのかな?

116 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 11:31:28
>>113
一般の知行国は、
朝廷(中央政府)への進納義務を免除されているわけではありません。
>>109
ただ、幕府知行国(相模、武蔵、越後など)は、幕府が朝廷を超越していた存在ですので、
進納義務はなかったのだと推測されます。
>>11
執権や連署などの北条氏は、幕府知行国の国守になっていますが、いわゆる「名国司」で、
実際の職務はやっていないと思います。

鎌倉後期に詳しい人、補足願います!

117 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 20:30:03
>>116
平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる「院政期」です。
この時期の国司の権限と地位は、多彩です。まず公家国司と武家国司では、その性格が異なります。

朝廷は治天の君(上皇)が天皇の上位にあり、地方支配は知行国主が国守の上位にあり、
はたまた幕府は、得宗(北条一族当主)が執権の上位にあり、すべてが院政。
公家の場合、
この時代の国司(守)は、いわゆる名ばかり国司で上位者国主に実権を握られている存在です。
武家の場合は、
朝廷とは支配形態が違い、国司が任国を支配し年貢を上納するという形態を取りませんので(守護・地頭による支配)、
国司職は、完全に名誉職だと思います。

118 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 07:45:21
>>116 >>109
「承久の乱」を境に、
朝廷と幕府の力関係が逆転したことは事実ですね!

119 :日本@名無史さん:2010/04/10(土) 12:35:43
>>116 >>117
の鎌倉後期に関する国司制度に付きましては、
ネット上に「鎌倉後期の知行国制」のタイトルで東大の先生が、論考を公開しています。
興味ある方は、参照ください。
専門的になりますが、
知行国制は、「院政的国司制度」だとかいろいろと興味深い指摘をされています。
最後の方は、建武政権との継続性も論証されています。

120 :日本@名無史さん:2010/04/21(水) 08:36:47
>>119
国衙(国司の役所)は、いつごろ無くなったんだろうね!

121 :日本@名無史さん:2010/04/21(水) 18:33:35
鎌倉時代まではあったらしいけどね
公家の国主はきちんと下向したんだろうか?


122 :日本@名無史さん:2010/04/23(金) 00:40:00
>>121さん 120です。
自分でも調べている途中ですが、
そうですね! 「鎌倉時代」まであったらしいですね!
承久の乱後は、事実上各国の守護の支配下にあったとの説明がありました。
このころは、国守は遙任で目代派遣が主流で、
知行国の場合も、国主は在京、国守は実権ナシ(もちろん遙任)で、
現地へは目代派遣らしいです。


123 :日本@名無史さん:2010/04/23(金) 20:54:16
>>120
国司=朝廷の地方支配機構ですから、
荘園公領制の「職の体系」が崩壊したときに、国司・国衙も消滅ということでしょう。
実際には、南北朝末期頃に武家政権の守護に取って代られ、自然消滅だと思う。
爾後朝廷は、現実権力を失い、形骸化の流れでしょう。

124 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 17:33:42
国司としての仕事があったのはいつ頃まで?
室町時代は守護が支配地の国司になる事って多かった?


125 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:36:04
>>124
難問ですね!
ア 一般的には、南北朝末期室町初期の義満政権のころに朝廷権力は、幕府に接収され、
地方支配の拠点たる国司・国衙機構も守護に吸収されたとの説明が多いです。
イ 私の私見ですが、鎌倉中期の「承久の乱」を契機に、幕府は東国政権から全国政権となりました。
鎌倉後期には、朝廷の地方支配(国司制度)は武家政権に圧倒され、形骸化寸前までいっていたと思います。
ウ しかし、後醍醐の倒幕と建武の新政により、朝廷権力が一時的に回復されると
同時に朝廷の地方支配制度「国司制度」も実権を回復した。
エ その後、朝廷は南朝と北朝(実際は幕府の傀儡)に分裂し、義満政権(前記ア)で南北朝合一の流れだと思います。

126 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:59:30
>>125
鎌倉幕府が、守護・地頭を設置したのちは、
朝廷による各国の地方支配は国上層部レベルだけになり、在地は幕府が設置した地頭に支配権を奪われた、
との説明もありますね。
やがて、
その国司も、守護に職権を奪われていくということではないでしょうか!

127 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 01:55:30
>>126
荘園はもともと国司の支配が及ばない聖域では?
荘園はそれ独自の職の体系によって権門に直接結びついていた訳で、
その意味では国府に統括されない空白の土地が全国に散在していたと言える
むしろ、その閉鎖的な体制に切り込む様に配置されていったのが地頭な訳で、
地頭と守護によって、幕府は国府や朝廷に代わり全国の土地人民を再編成しようとしたとも解釈できる
荘園=もともと聖域 →地頭が侵食
国司の国衙在庁指揮権 →守護が奪っていく


128 :日本@名無史さん:2010/05/11(火) 23:23:35
中世の国司の問題は、「荘園」とは何か? 公領との関係など、
荘園公領制の根源問題にも関わってきますね!

129 :日本@名無史さん:2010/05/12(水) 21:39:35
「荘園」とは、
中央政府(朝廷)の行政権が全く及ばない治外法権的な地域ではなく、
国家に規制された公的な行政単位でもあったとの説明もあります。
事実、内裏造営など重要な国家行事の費用ねん出のための「一国平均役」は、
荘園・公領に関わらず賦課されました。

130 :日本@名無史さん:2010/05/17(月) 13:53:14
公的な行政単位と言うのはどうでしょう?
領主による自治権があって、領民の裁きなどもやっていたんですから

131 :日本@名無史さん:2010/05/18(火) 00:38:51
>>129は、問題提起として掲げてみました。
確かに、本所領家内の荘民の相論は、その権門の政所で訴訟を取り扱ったとあります。
引用書籍には、「公的な行政単位”でも”あった」とその両面性を指摘しています。
そう解しないと、
朝廷(中央政府)が幕府(鎌倉殿)に対して、公領のみならず荘園にも地頭設置を認めたことが説明できないし、
朝廷(鎌倉後期以降は幕府)が、荘園に対しても「一国平均役」を賦課しえた根拠も説明できません。

132 :日本@名無史さん:2010/05/18(火) 01:26:09
>>131
地頭設置は、戦乱間もない国土の中、荘園の治安回復をはかる為ですよ
野党による横領や、戦乱にかこつけての荘官の上納しぶりがあったので、幕府に治安回復を命じたのです
その代価として、荘園・国衙領から1段あたり兵粮米5升を徴収する権利を与えました
つまり朝廷としては、権門の財産を守るために地頭設置を認めたのです
荘園の最上位の領主が認めているのだから、と言うかそっちサイドから出された施策なので、公領のみならず荘園にも置かれて無問題です
「一国平均役」も朝廷サイドの財政難を救う施策なので、貴族も少し自腹を傷めて、自ら所有する荘園にも賦課したと、そういう事です
それをもって、荘園が公的な行政単位、とは言えないんじゃないですか?


133 :日本@名無史さん:2010/05/18(火) 08:51:31
その書籍も「公的な行政単位」であると言い切ってはいないようです。
強弁するつもりもありません。自分もわかないから史実を知りたいだけです。
前者(地頭の件)は、貴族・寺社を本所とする荘園はその設置に抵抗したそうです。
一概にはそう断定できないと思います。
後者(一国平均役)は、室町中期(当時は段銭)まで、約300年も継続して実施されています。
”貴族も少し自腹を痛めて”程度の理由だけでは、この長期間の負担の説明としては少し抵抗があります。

134 :日本@名無史さん:2010/05/19(水) 11:41:16
守護・地頭のごく初期の性質について
「寿永二年十月宣旨」
@源頼朝に、東海・東山両道の荘園・公領の領有権を旧来の荘園領主・国衙へ回復させることを命じる。
Aその回復を実現するため東国行政権を承認する。
この年、山陽道・四国・九州は平家、東海・東山道は頼朝、北陸道は木曽義仲に掌握され、
朝廷では官物・年貢の運上が期待できなかった。
そこで、頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、
頼朝による東国支配権を公認したものとされる。
「文治の勅許」
@行家・義経追討のため、諸国に惣追捕使と国地頭を設置する必要を説明し、後白河法皇により勅許された。
九条兼実は、守護地頭設置の申請が諸国の土地の年貢徴収のみならず、
土地の管理権を含む権限について許諾を求めるものであることについて驚きを見せている。
これら一連の朝廷と幕府の動きにより、守護・地頭は設置された訳です
朝廷は荘園を守ろうとし、幕府は荘園の保護と上納を請け負う代わりに荘園への「進駐」を認めさせた感じです
やがて、地頭請・守護請というのが発生します
公家と武家の関係が良く現れています、つまり妥協の産物ではあるんでしょうね
「公的な行政単位」の問題に関しては、いまいち性格が掴めません
もちろん、朝廷レベルの公権力 > 荘園 だったとは思いますが
わざわざ記録荘園券契所を作ったりしている事からすれば、律令的な観念では「公的な行政単位」と見なされていた様に感じません
現代の政府が、一般企業を法や行政指導で縛る感じくらいにしか感じません

135 :日本@名無史さん:2010/05/19(水) 19:06:54
>>134さん! 解説ありがとうございます。
>>129 >>131 >>133(他>>125 >>126など)を投稿した者です。
>>129の引用書籍は、『網野善彦著作集第三巻 荘園公領制の構造』です。
その321頁以下(抜粋)

>そもそも「荘園」とは、何なのか。これはたやすい問題ではない。
比較的最近まで、荘園を私的大土地所有にもとづく農業経営の単位と見て、
・・・。 ・・(中略)・・
しかし、その実態は・・・現地の領主が年貢・公事等を、荘園の支配者である貴族・寺社等に貢納するさいの請負の単位であり、
国家に規制された公的な行政単位でもあった。
また、郷・保・名などの国衙領−公領も、荘園と同じく、その国衙に所定の負担を納める請負の単位であり、
知行国の制度を通じて荘園と同様、天皇家・貴族・寺社等の経済を支えていた。<
が出典です。
そこに、”国家に規制された公的な行政単位でもあった。”との記述を見つけ、>>129のように投稿した次第です。
ウーン!「荘園」(荘園公領制)は難しいです。

136 :日本@名無史さん:2010/05/21(金) 23:52:55
127を書いた者です。
「荘園はもともと国司の支配が及ばない聖域」という言葉が、どうも過剰に受取られている様です。
現代においても、法人企業に対して「税」は賦課されます、また商法・労働法をはじめ全ての法に縛られます。
そういった行政権は、荘園に及んだ事でしょう。
私の言う「聖域」とは、国府が直接統治しない私有地という程度の意味です。
現代で言えば、私企業の経営権にお役人が直接介入できませんよね。
かつての律令的なスタンスでは、全国の土地人民は国有であり、経営も国営。
荘園は、その体制を逸脱した存在、公的に荘園を認めてから後は私有・民営、そういう意味での聖域です。

国司について語るなら、その名称や肩書き所有者の推移に留まらず、国司の役割や権限は何か?に触れないと、実態は見えて来ませんよね。

137 :日本@名無史さん:2010/05/21(金) 23:57:20
ちょっと修正します  >>136
荘園は、その体制を逸脱した存在、公的に荘園を認めてから後は私有・民営、そういう意味での聖域です。

荘園は、その体制を逸脱した存在、公的に荘園を認めてから後は私有・民営の聖域、そういう意味です。

138 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 21:43:40
>>129です。
荘園領主は基本的に不輸不入の特権を有し、
朝廷(現地では国司)の施政権が及びにくい地域であることは確かのようです。
かといって、中央政府の施政権が全く及ばない地域でもないようです。
中央政府の中にはその荘園領主権門をも総括しうる機構が存在し、
中世国家の統一的な国政運営を担っていたとの指摘もあります。
どこかでも書きましたが、例えばですが、
国家機構と権門家政機関が共同して国政執行にあたり、それを総括する国家意思決定機関が、
天皇・院・摂関によって構成されたとする学説です。

139 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 20:09:29
知行国制は、皇族への財産分与の一方法として考えられたのかも知れない
荘園という現物を分け与えるのと違って、知行国主は国衙領からあがる年貢の収得権を含んだ地位の補任だから、後で回収可能
上手く考えたな

140 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 00:17:23
>>138
中世国家の統一運営機構については、>>138のような学説もあります。
公領支配は、その頂点に立つ太政官機構(狭義の朝廷)が施政権を行使しえる立ち場です。
他方の荘園支配は基本的に権門家政機関が担当しますが、その「職の体系」の頂点に立つ者は、院(治天の君)です。
したがって、荘公両者を総括し支配しうる存在は、院をおいて以外考えられません。
荘園公領制の時代に院政が行われたのは、偶然ではないと思いますね!
ただ、承久の乱後は、幕府(鎌倉)が東国政権から全国政権になっていったので、
朝幕の力関係は、逆転していくことになりますが。

141 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 00:26:45
>>138 >>140
中世国家は、
朝廷 院(治天の君)−天皇
国衙 知行国主−国守
荘園 本所−荘官
幕府 得宗−執権
のように支配の二重構造(荘園は多重構造)が特徴でしょうね! 何もかも院政的。

142 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 10:09:58
初期の国司は、人間じゃなかったんじゃないかなぁ、と思う。
古来からの神を敬い、貫筒衣を身に纏い、竪穴式住居に住む現地人から見たら
仏を信仰し、唐風の衣服を着用し、掘り立て式住居に住む国司は同じ人間なんて思えなかったんではなかろうか。

143 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 10:22:17
まぁ、そんな人間以外のものと結び付くおれかっけーな郡司とそれを支持する人間がいて成立っていた、と。
そんな存在が段々と人間に落ちていく課程が、荘園の発達と押領使の登場なんてもんに権威が押し潰されていく課程なんじゃなかろうかな、と。

144 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 11:27:47
山陽道
国名/等級/水田面積(町歩)/国面積(ku)/郡数/一郡の水田面積/郷数/一郡の郷数/一郷の水田面積/戸数/一戸の水田面積/推定人口
播磨 大国 21,414 3,760 12 1,785 98 8.2 219 4,900 4.37 147,000
美作 上国 11,021 2,743 7 1,574 64 9.1 172 3,200 3.44 96,000
備前 上国 13,185 1,631 8 1,648 51 6.4 259 2,550 5.17 76,500
備中 上国 10,227 2,732 9 1,136 72 8.0 142 3,600 2.84 108,000
備後 上国 9,301 4,155 14 664 65 4.6 143 3,250 2.86 97,500
安藝 上国 7,357 4,325 8 920 63 7.9 117 3,150 2.34 94,500
周防 上国 7,834 3,038 6 1,306 45 7.5 174 2,250 3.48 67,500
長門 中国 4,603 3,075 5 921 40 8.0 115 2,000 2.30 60,000
計 84,942 25,459 69 − 498 − − 24,900 − 747,000

租税は班田で取れた稲に対して約3%と軽い。
江戸時代の4公6民(税40%)に比べるとはるかに軽いが、農民に重くのし掛かったのが労役負担。
庸=労役10日(都で)、雑徭=労役60日(国衙で)、運脚(庸調の運搬)
仕丁=50戸について正丁2人、3年間(都で)
兵役=正丁3人につき1人(地方軍団1ヶ月、宮城衛士1年、大宰府防人3年)
往復の食料はすべて農民負担。
上の表を見ても、国ごとの水田面積は格差が大きいが、人口は割と均一である。
古代は、税の主体が「労役」であり、旧国郡制は人口ベースで均等になるように設けられた行政単位だったと言える。

145 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 18:29:01
出挙はどうした、出挙は。

146 :日本@名無史さん:2010/06/20(日) 22:43:13
>>138 >>140
138の学説は、白根靖大『中世の王朝社会と院政』序章から引用しました。

147 :日本@名無史さん:2010/06/20(日) 23:13:00
>>138>>140
荘園公領制の時代に君臨したのが院だった
だが、「職の体系」の頂点に立つ院の権威に従わない勢力が生まれてきた、それが鎌倉幕府ですかね
では、武家政権が逆転していく過程に置いて、何が代わって行ったかが議題になりそうですね
「職の体系」は存続したのか、その頂点は公家なのか武家なのか、
武家の御恩・奉公の関係は「職の体系」と何が違うのか

148 :日本@名無史さん:2010/06/21(月) 19:23:37
>>147さん
>>140を投稿した者です。コメありがとうございます。
中世の武家政権(鎌倉幕府)の評価にはいろいろありますね。
この時代の朝幕の支配関係(上部支配構造・在地支配構造)は、わからないことが多いです。
批判はありますが、「権門体制論」とかも参考になると思いますが。

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