2ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

目賀田守蔭

1 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 18:56:34
幕末に蝦夷の調査をした人らしいが、ほとんどの人は知らないと思う。
しかし蝦夷の古地図にはこの名前の作のものがかなりある。
どんな人物なのかご存知のことがあれば教えてください。

2 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 19:57:02
目賀田守蔭

  文化4(1807)年、旗本目賀田弥左衛門の長男として江戸に生まれ、帯次郎、帯刀と称し、文信と号した。
詩歌を好み、弟の介庵と共に江戸南画の総帥、谷文晁の門に入ると、文晁流の実景図の手法を学びそれを得意とした。
掲出資料所収の浅間山、霧島山などは、文晁の著した『日本名山図会』(1812年刊)所収のものとほぼ同じ図で、
その師弟関係が垣間見られる。妻は文晁の三女、於篤(おとく)。安政元(1854)年、蝦夷地図取調御用出役となり、
『蝦夷志料』の編者として知られる前田夏蔭の下で関係資料の収集にあたり、維新後は開拓使御用掛などの役職を勤めた。
北方探検家の松浦武四郎とも交流があり、官職を初学童蒙のために解説した『官位百敷草』を刊行し、明治15(1882)年に没した。
  守蔭は、蝦夷地を実地踏査(安政3〜5年)した体験に基づき、『北海道歴検(真)図』(守蔭自筆 国立公文書館、北海道
大学附属図書館で所蔵)なる実景図の大作を遺したが、北海道以外の地の実景図を描き遺したことはあまり知られていない。

tp://www.ndl.go.jp/jp/publication/geppo/pdf/geppo0802.pdf から抜粋

3 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:30:12
>>2
ありがとうございました、大変参考になりました。
あの谷文晁の娘を嫁にもらったんですね、少し驚きです。
彼が蝦夷の赴いたのは蝦夷に興味があったからなのでしょうか、それとも
絵師として未開の地を描いてみたかったからなのでしょうか。

2 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.02.02 2014/06/23 Mango Mangüé ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)