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  任那日本府   

1 : :2010/04/19(月) 22:16:42
実在したのか否か
最新情報求む

2 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 22:41:05
モルダー、あなた疲れてるのよ

3 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 18:38:13
346年 倭の軍隊が突然に風島を襲い、さらに進軍して金城(新羅首都)を包囲して激しく攻めた。【三国史記・新羅本紀】
364年 倭兵大いに至る。 新羅王はこれを聞き、とても敵わないと恐れた。【三国史記・新羅本紀】
391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、臣民とする【広開土王碑】
393年 倭人が侵入し、金城を包囲して5日間も解かなかった。【三国史記・新羅本紀】
397年 百済、倭国と国交を結び王子の腆支(テンシ)を人質に送る。【三国史記・百済本紀】
399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とし、百済は誓いを違えて倭に通じた。【広開土王碑】
400年 倭が新羅城の中に満ちる。新羅救援の高句麗軍が接近すると倭賊は任那・加羅に退く。【広開土王碑】
402年 新羅、倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣(ミシキン)を人質に送る。【三国史記・新羅本紀】
404年 倭、不軌にも帯方界に侵入し、高句麗軍と戦う。【広開土王碑】
405年 倭兵が侵入し、明活城(慶州市普門里)を攻撃。【三国史記・新羅本紀】
405年 倭国に人質となっていた百済王子の腆支、倭国の護衛により海中の島にて待機してのち百済王として即位。【三国史記・百済本紀】
407年 倭人が東部と南部へ侵入。【三国史記・新羅本紀】
407年 万を超える倭が進出。【広開土王碑】

4 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 18:38:54
425〜443年の間 倭国王珍が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】
451年 宋が倭国王済を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東将軍・倭国王に任ず。【『宋書』倭国伝】
462〜478年の間 倭国王武が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】
478年 倭国王武、宋に上表し、「昔より先祖代々にわたり、東は五十五国を征し、西は六十六国を服し、さらに海を渡って九十五国を平定してきたこと」を述べた上で、「高句麗との対決を決意していること」を告げる。
宋は倭国王武を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任ず。【『宋書』倭国伝】

5 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 18:44:30
『日本書記』
神功皇后元年 皇后自ら大軍率いて新羅を討つ。新羅王は降服し末永く服従し朝貢することを誓う。また微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)を人質として差し出す。

神功皇后5年 新羅王が謀を用いて人質を新羅へ逃れさせた。このため葛城襲津彦は新羅に渡り草羅城を攻め落とす。

神功皇后49年 荒田別(アラタワケ)・鹿我別(カガワケ)を派遣し、百済の将木羅斤資・沙々奴跪を加え新羅を討ち、比自[火本]・南加羅・[口?]國・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定し、さらに時比利・辟中・布彌支・半古の四邑を降服させる。

神功皇后52年 百済の久氏等来朝し七枝刀(七支刀;石上神宮に現存)、七子鏡、及び種々の重宝を献上する。

神功皇后62年 新羅が朝貢しなかったので、葛城襲津彦を遣わし新羅を討たせた。

応神天皇3年 百済の辰斯王が応神天皇への礼を失したので、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を派遣。百済国は辰斯王を殺して謝罪する。紀角宿禰らは阿花を王に立てる。(『三国史記』392年辰斯王の不審死と阿?王即位の記事に対応)

応神天皇8年 百済人が来朝。(『三国史記』397年阿?王が倭国と好を結び太子腆支を質とする記事に対応)

応神天皇15年 荒田別(アラタワケ)、巫別(カムナギワケ)を遣わして王仁を召す。

応神天皇16年 王仁来日。平群木菟宿禰に精兵を授けて加羅に遣わす。新羅の国境に臨んだところ、新羅王は恐れてその罪に服した。そこで弓月の民を率いて襲津彦と共に帰ってきた。


6 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 20:00:48
韓国では任那日本府を無かった事にするため『三国史記』や『広開土王碑』に記述されている“倭”は
「海賊である」、或は「傭兵である」などと主張し、大和朝廷による半島進出を否定する。

しかし、このような主張が『日本書紀』や『宋書』との整合性がないことは明らかである。
それどころか『三国史記』や『広開土王碑』内の記述だけでも、倭は新羅の都を何度も包囲したり占領したりしている。
単なる海賊や傭兵ではこのようなことは不可能。韓国の主張は荒唐無稽である。


また韓国では当時の大和朝廷に半島に大軍を派遣する能力は無かったとも主張し
大和朝廷による半島進出を否定する。

しかし、応神天皇陵や仁徳天皇陵の巨大さは、その造営に膨大な人員動員能力を必要とすることは一目瞭然である。
膨大な人員動員能力を軍事に転用すれば、それは大軍の運用能力となる。
当時の大和朝廷が大軍を派遣できる能力を持っていたことは明らかであり、
『日本書紀』や『宋書』の記述とも整合性がある。


当時の大和朝廷が半島に進出し、勢力を伸張していたことは明らかだ。

7 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 20:15:04
>>6
>しかし、このような主張が『日本書紀』や『宋書』との整合性がないことは明らかである。
>それどころか『三国史記』や『広開土王碑』内の記述だけでも、倭は新羅の都を何度も包囲したり占領したりしている。

< ;`Д´>  『日本書紀』や『宋書』の記述は捏造ニダ!!
< #`Д´> 『広開土王碑』は日帝が改竄したニダ!!



>しかし、応神天皇陵や仁徳天皇陵の巨大さは、その造営に膨大な人員動員能力を必要とすることは一目瞭然である。

< `∀´> 日王はウリナラ系ニダ!!

8 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 17:04:42
現在の朝鮮人は、半島東北部の太白山脈の東側に住んでいたワイ族の子孫である。
高句麗人(フヨ族)ではないし、韓人(カラビト)でもない。
今、国際社会で「コリアン」と呼ばれている民族は、実は朝鮮人ですらない。
もともと朝鮮人というのは、紀元前1世紀の時代に半島北部に住んでいた漢人のことである。
つまりチャイニーズのことだ。
衛氏朝鮮国の住民である漢人が「朝鮮人」と呼ばれていたのだ。
現在の『コリアン』と呼ばれている半島人(ワイ族)とは、異種なのである。

古代の半島南部に住み、日本列島の住民から韓人(カラビト)と呼ばれていた人々は、倭人系民族だった。
彼らは、当然倭語(日本語)を話したし、現在の半島人とは人種・民族が異なっていた。
カラ半島南部においてワイ語(現在の朝鮮語の基になった言語)が公用語になったのは、8世紀以降であり、
7世紀までは、半島南部の公用語は倭語(日本語)だったのである。
古代日本人が交流していた相手は、あくまでも半島南部の倭人であって、ワイ族(今の朝鮮人の先祖)ではない。
古代における日本列島住民と半島南部住民の交流には、現在の朝鮮人(ワイ族)は無関係なのである。

9 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:00:40
半島は統一国家の誕生まで暫く待たねばならい時代であったし、
倭国の王朝も統一政府であったかどうかも危うい時代のことなんだ。
真実がどうであれ、現在の日本、韓国伴に全く面子は損なう様なことはない筈なんだ
「日本の影響力があったんだぜ〜!」とか調子付いたりするのも、「こんなもん捏造だ!」とかハナから否定することも、双方で無駄なことなんだよ。

10 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:30:28
半島南端の任那とか伽椰とか呼ばれる地域には、交易を基盤として半島人も倭人も暮らす地域であったと考えるの妥当。
五島列島、北部九州も同じ様なもんだったのだろう。
つまり、この一帯には倭人も半島人も混在して生活しており、その民達はかなり財力もあり、当然相当な武力もった村がいくつも存在した。
そしてそれらの村々は、半島の百済、新羅、そして倭の王朝といったどの勢力にも、組み入れられず、完全に自治状態であったのだろう。
だが、それらの勢力とは日和見的に同盟したり、援軍を求めたりして、利用しあっていただけなのだ。

11 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:58:28
そら、半島は言語が異なる色々な民族が住んでると
中華は書いてあるからな。
そのなかで、倭人と呼びヤマトと同一種の民族も
半島に居たと書いてあるんだから


言語が異なる民族が居るということは
それぞれ集団で区分しているということだから
それぞれの専用地域があったということで
当然、倭人の自治区域があったはずだ。
任那がそれだろう。

12 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:08:14
任那スレって落ちたの?

13 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 04:59:13
>>11
同時に倭国内にも半島人に拠る自治居住区もいくつかあったのだろう。
倭の朝廷は彼等の文明に脅かされたりしながら触れることが多く、同時に当然それを欲しがった。
そこで、その文明を手に入れるべく倭の朝廷は、勅命で留学めいた使節を半島に派遣するということはしていたのかも知れん。
その拠点を任那と呼び、当然ながら地元の自治集落との利害一致の上、合意の元で居住していたのだろう。
したがって、多くても数十人程度が人も入れ代わりながら、居候的に居住していた程度と考えた方が良い。
利害一致の倭の義務な何かと言えば、半島有事の際の援軍派遣であることは言うまでも無かろう。

14 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 06:12:47
>>13
それ、何か根拠があるの?

15 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 06:57:30
最新の研究により任那とは戦闘奴隷である倭人の養殖場であった事がわかった

16 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 08:52:54
倭人伝に記された投馬国が任那日本府の原型だろう。
韓は倭に接すとあるように半島南部には倭人の居住地があったとのだろう。

17 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 12:17:19
>>13
シナの記録では
日本列島内に、倭人以外の言語集団は無いのでは?
ということは、もし元漢人などが来たとしても、大和言葉を喋る
ようになったということは、家来止まりということ。

半島では、言語も風習も違う、民族として区分された集団が記録されてるから
それぞれが自治区を持っていたことになる。

18 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:06:41
>>13>>16
おいコラ
投馬国の倭人が半島から来たことにすんな
でも半島アピールするって事は、
自分のご先祖が半島経由なのは認めてるんだね
謙虚さって大事^^

19 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:22:15
>>17
シナの記録では、聖徳太子の頃、日本に華夏と変わらない言語集団が
あったのでは?

20 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 15:21:16
>>19
言語?
文書は漢文だよな。そのころ。

倭人と呼ばれてた頃は、言語は倭語で、文字は無い。とされてたよなあ。
それにくらべると奈良時代は中華になってるな。

21 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 15:28:34
たしか、唐が最大勢力を誇っていた頃
日本も唐にかぶれて、日本のエライ人とかは
自分用に唐人の名を作って名乗ったり
漢語を喋ったりしてたとか聞いたなあ。ソース無いけど。

まあスレタイと関係無いけど。
唐や隋のころには、日本にも漢人は結構増えてたろう。
百済が漢人の拠点だったようだから、当然日本にも
特に百済滅亡などで来てるはずだな。

22 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:08:07
任那の話なんだから、応神朝前後の時代から語るべし。


23 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 22:25:04
>>21
むしろ初めから、藤原氏は唐人だったんだよ
藤原氏いきなり増えて国司だの郡司だのになるでしょ、あれ密航者
ちなみに唐は鮮人の国だったらしい
なかなかおそろしい話ですね

24 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 22:27:05
昔は大和の・・・といっても
だんだんと侵食されてるよな。

任那、大阪、だけでなく日本中の都市部も将来は
昔はこの島の都市部は和人だけが住んでたんじゃ。
みたいな話になりそうだなあ。

25 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:01:22
藤原氏は百済系って言うけど、被支配民は王族とは別で、
半島には百済建国以前に、中国の燕・斉・趙から亡命者が来てる。
この燕っていうのが半島の北にあって、アレな気配濃厚。

中臣鎌足は朝鮮人。
印象操作で権力を握り、人の持っている物をくすねとる民族。
そう考えると、いろんなことが見えてくる

26 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:11:47
投馬国の倭人は日本から半島に稲作する土地を求めて移住したのだろう。


27 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:50:48
>>26
なぜに投馬国狙い撃ち
ただの邪馬台国が支配する国の一つだよ、それ

28 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 00:13:05
圧倒的な文明レベルの差が存在していた大韓半島に倭人が自力で勢力を維持していたと考えるのは無理がある
大韓民族が戦闘時の盾とするために倭人を養殖していたと考えるのが自然であろう

29 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 01:08:49
>戦闘時の盾
ヘタレ過ぎわろす

30 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 01:16:02
NHKの特集ではっきりした。
任那政府など存在しなかった。日本の捏造が判明した。

31 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 01:43:04
1.伽耶から来た人達が、日本列島に吉備国を作る
2.吉備国、大和連邦に加わる
3.伽耶本国も大和連邦に加わり、任那と称する

みたいな感じだと思うんだけど、
任那は日本領土だったと言うには弱いね。
ま、いらんけど。

32 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 01:53:45
1は有り得ない 任那と言うものは国家ではなく倭人の養殖場に過ぎないからだ

33 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 02:41:08
継体の時代の磐井の乱の磐井って新羅と組んだというが何者なんだ?

34 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 04:15:49
>>31
竹取物語の「かぐや姫」の故郷だろ。

35 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 04:25:38
>>34
竹取物語と佐用姫伝説、椎彦と織姫の七夕伝説が似ているのも同じ話が大陸や半島、日本の帰化人が行ったり来たり語るから、立場がゴッチャに成っているだけなんだろ・・。
室町物語の御伽草子は、沢山、歴史を解く鍵が眠っている。

室町物語(御伽草子)一覧
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/otogi/otogi.html

36 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 04:48:20
まあ、言及する時代は新しくても「白村江の戦い」までにしておけ。

37 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 09:00:31
>>32
むかしはそのように考えていた。
しかし大成洞の発掘でその考え方はなくなった。
「大成洞国」を倭人居住地とするには独自性が強すぎる。
しかし倭と無関係とするには倭系遺物が多すぎる。
倭国の同盟国とするのが妥当。

38 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 11:24:28
対等な関係じゃないんだから倭国の同盟国じゃなく属国だろ

39 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 15:24:09
海を隔てた異民族の国である倭と組むのであるから、対等な友好関係でなければ意味がなかったと思うけどな。
属国という位置付けでは新羅や百済に下った方がマシじゃん。

40 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 16:37:45
任那だけが一方的に倭国の軍事支援に依存してる以上、対等な関係というのはありえない。
現在の日米関係見ればあきらか。

41 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:35:55
古墳時代、飛鳥時代の話を現代の尺度で計るのはかなり乱暴であろう。
そもそも、倭国はまだ真の中央集権的統一国家となってない時代なのだし、継続的に外地である任那に大きな軍勢を駐留させていたとは考えられない。
再三の援軍要請がありながらも、それに応えることが可能だった機会は極僅かであったであろう。
また、その半島出兵の是非を巡っての内乱も起きていたと思う。
神功皇后が実在したかは定かではないが、その夫とされる仲哀天皇との半島出兵を巡る意見対立は、それを暗に示している。

したがって、当時の倭国の軍事力は、あまり買い被らない方が良い。

42 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:48:24
巨大な古墳を造ることができるってのは、それだけの動員力があったってことだよ。
だから、継続的に外地である任那に大きな軍勢を駐留させていても何の不思議もない。
現実に多くの倭系遺物が半島南部に存在することがその証拠。

43 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:37:12
倭人の居住があったのは当然だが、その出土品から軍勢が駐留していたという証拠にはならない。
そもそも、統一国家形成過程である大和の政府としては、海を隔てた半島の地を自発的に併呑する価値は何もない。
半島を通じての大陸からの文明を、統治の過程で独り占めしたい大和が、
任那、ときには百済へと軍勢になるべく民を奉納していたということなら考えられる。
そういうと、むしろ倭が隷属状態であった様にも思われるかも知れないが、
やはり、互いに持ちつ持たれずの関係であろう。

44 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:59:39
現実に大和の政府が海を隔てた半島の地を併呑してるんだから、それを前提に考えるべき。
半島南部に残る前方後円墳はあきらかに倭人は支配的階級だったことを示してるだろ。
隷属状態や、互いに持ちつ持たれずの関係とかありえない。

45 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:00:13
うーん。
墓の様式だけでその民族まで断定していいものかどうか分からんが、
当時の朝鮮南部はヤマトの文化の強い影響を受けていたことは明らか。

46 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:17:03
紀には多くの混血の名前が記載されているね。
いわゆる日系の。
物部と現地の名前だとか、大伴と現地の名前だとか。

それだけでも半島へ倭人が渡り、向こうの有力者の娘の婿になることができ、
その子供が現地で位を得ることができるだけの関係にはあったわけだ。

47 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 08:27:00
最新の多国間研究において任那日本府が存在しなかった事が確認された

48 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/02(日) 13:10:55
新羅193年は、崇神6年である。
210年頃 崇神末に任那建国
215年 崇神崩御、この年ソナシチ任那より朝貢に訪れる。
垂仁3年迄滞在し、珠城宮(纒向辻遺跡の大型建物)の造営にたずさわる。
垂仁年間には、任那より複数回の朝貢があり、その鉄で剣を造り、石上へ蓄積する。
238年 魏使は、任那を訪れ、倭王及び大和朝廷に朝貢を求める。
239年に卑弥呼を大王とする朝貢団を派遣する。
274年 晋が幽州を分け平州を置く。神功の渡海。
323年頃 永嘉の乱の終息。半島の倭軍は、百済の将軍と共に、半島を再編成する。
326年 七支刀。先の領土割譲のお礼として、百済から七支刀がもたらされる。
これ以降任那は、倭国の対外窓口となる。


49 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/02(日) 13:24:41
>>47 任那日本府を葬るには
百済本紀が正しいことを証明せねばならないが、韓国考古学に、新羅、伽耶土器の編年はあるが
百済土器に編年がない。研究者により編年に幅がある。
これを庄内式と比べたら、百済土器はほぼ50年新しい方へずれている。となる。
七支刀を369年から326年へ移動すれば、誤差はなくなる。
その場合百済本紀に間違いがあり、書紀の神功50年辺りの記載は正しいとなる。
百済本紀に400年前後の好太王碑の記述が確認出来ないのは、間違いが有る証拠である。


50 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 14:13:50
捏造だらけの日本書紀をそこまで信用する神経が理解できない。

崇神のモデルになったミマキ大王が実在の可能性の高い大王であるにせよ、
書紀に書いてある年月日や事件の細部は全部、後世の創作。
4世紀頃のミマキイリヒコという三輪の王様の伝承は、断片的でおぼろげなもので、
書紀に書いてあるような時系列や年月日なんて机上の創作にすぎない。

51 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/02(日) 14:38:14
書紀は太陰暦で書かれている。ただし伸長もされている。
この事実を、確認しながら、歴史に合わせれば、正しい日本の歴史となる。

神功元年の稿に記載された日食は273年である。
年号 西暦 元旦朔 増し 調整  暦日 朔干支 中国朔
神武元年42年庚辰 0日  0   0日  辛卯 辛卯
綏靖元年64年壬申 3章 1日 8033日 甲申 甲申
安寧元年78年庚申 1章 1日 13142日 癸巳 癸巳
懿徳元年90年己卯
孝昭元年94年丙戌 3章 0日 18988日 己未 己未
孝安元年120年乙酉 3章 0日 8467日 戊午 戊子
孝霊元年146年壬辰 4章2日 37976日 丁亥 丁亥
孝元元年165年辛未 3章1日 44916日 丁卯 丁卯
開化元年184年庚午 2章1日 51856日 丁未 丁未
崇神元年187年壬午 3章 0日 52948日 己未 己未
垂仁元年217年丁丑 2章1日 63904日 乙未 乙未
景行元年240年壬申 4章1日 72320日 辛亥 辛亥
成務元年262年甲申 2章0日 80352日 癸卯 癸卯
仲哀元年266年庚寅 3章1日 81799日 庚戌 庚辰
神功元年275年丁酉 0章0日 85106日 丁巳 戊午
神功39年313年 丁巳     98986日 丁丑 丁丑

仁徳元年313年丁丑      98986日 丁丑 丁丑
履中元年400年壬子      130761日 壬子 壬子

太陰暦でありかつ干支まで割り振られているから、日数まで読める。

52 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 14:40:06
ナマの伝承は、古事記とかにある年月日なしの物語的なもののほうだろう。
それは長年口承で伝承されたものだから、大筋で実際の出来事を反映していたとしても、
細部はあらかた不明になってたり、脚色されている。

そう考えると、書紀の年月日入りの詳細な記述は、漢文正史の体裁をととのえるための、
潤色や修飾、捏造や創作だらけの代物ということになる。

53 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 15:42:52
古事記の干支は中国や朝鮮の記録とも矛盾しない。
つまり、そこに書いてあることはほぼ事実。

54 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 17:51:20
だから早稲田の水野祐のように、崩年干支のある天皇のみ実在を認めて、
崇神は4世紀初頭、応神は4世紀末の人物と想定している説もある。
ただし、これだとイリヒコ系の垂仁やワケ系の景行が実在性を否定され、
タラシ系の成務・仲哀が実在認定されるというジレンマに。
(でも、水野は神功伝説は否定してたような・・・)

55 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 18:34:21
>>54
そもそも実在を崩年干支のある天皇のみに限定する必要が無い。
景行・成務・仲哀・神功、全部実在で何の問題も無いだろ。

56 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 19:02:31
>成務・仲哀・神功
さすがにこの3人は架空だろ。
成務は空気だし、仲哀・神功はオトギ話のキャラクターだし。

57 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 19:15:46
>>56
その3人の実在を否定する理由がないじゃん。
ちゃんと記録が残ってるんだから。

58 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 19:27:18
記録といっても、何百年もあとに書かれた記紀しかない。

59 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 19:58:21
それで十分だろ

60 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 21:19:08
>>58の話で思ったんだけど、
 記紀を否定するなら逆に記紀成立以前の天皇の実在は全員疑わなきゃ
 いけないんじゃない?
 何百年あとというのが信じられないというのなら、
 何年差なら信じられるのかな。
 100年?50年前?30年前?  

61 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/12(水) 22:27:23
>成務は空気だし、仲哀・神功はオトギ話のキャラクターだし。

成務は治世4年
神功渡海は、273年の日食が目安。274年幽州を分け平州を置く。ここで渡海
275年神功元年なら 神功52年は326年であり七支刀になる。
この直前が百済が大国となる場所であることを指す。
323年頃永嘉の乱が終息、東北部の前燕や東夷は独立。←この位置を動かすと、神功紀はねつ造となる。


62 :日本@名無史さん:2010/05/13(木) 15:13:28
日本は、7世紀に昔のことを思い出しながら歴史書を書いた。
朝鮮は、12世紀に〃
ということは、日本の言うことの方が正しいだろう?
どちらかと言えば。

それに、その朝鮮の記録は、高麗が書いた物だろうけど
高麗は、昔の半島は百済や新羅は倭に人質を出して属国だったと書いてるし
新羅の初期の王は倭人が連れてきたとか、倭人の大臣が居たとか書いてるんだから
それの倭人の拠点が半島南部にあったと考えると
任那が当然あったと言うことになる。
これは高麗の記録で考えてもそうなるんだから。


63 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/13(木) 16:45:50
百済は、390年代に高句麗に攻められ、歴史を失う。
この歴史を失った50年ほどを、それ以前の王朝でつないだものが
百済本紀になる、だから韓国考古学も、武寧王以前の王朝を数字をもって確認出来ない。
伽耶や新羅には、編年がある。

日本には、神武東征以後は暦も、その記録もある。
ただ暦の使い方が異なっていたため再現出来なかった。
神功以降については、残留組と渡海派の確執のため、記録としては出来が良くない。
出来は良くないが、渡海と七支刀を
渡海が可能な場所と百済が大国となる場所を考えれば、場所はしぼられる。


64 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/13(木) 16:50:31
ホケノ山古墳には、伽耶の影響が強く表れている。
従って、垂仁以降になる。
この事からも、崇神5,6年は、新羅192,3年となり
纒向遺跡は、崇神からであり、書紀の記事は数字以外は信じられる。


65 :日本@名無史さん:2010/05/13(木) 21:29:36
唐松の妄想my古代史はもーいいから。

66 :日本@名無史さん:2010/05/14(金) 07:42:02
20 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 15:21:16
>文書は漢文だよな。そのころ。

日本人が漢字を用いていたという話ではないよ。
例の聖徳太子の、「日出るところの天子云々」の国書に対する隋の返使が大和まで
行ったが、その途中に「秦国」というのがあって、住民の言語・習慣は
「華夏と変わらない」と書いている。
ここだけ特にそう言っているのだから日本全体の話ではない。

67 :日本@名無史さん:2010/05/22(土) 02:43:25
日韓がタブーとする半島の歴史、室谷克実著
http://teda.iza.ne.jp/blog/entry/1595286/

     ↑
古代朝鮮半島における倭国領土が図示されてある。

68 :日本@名無史さん:2010/05/22(土) 02:47:52
>>67
【書評】虚説を爽やかに粉砕…非科学的なメンタリティの背景は?/『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克実 [10/04/19]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1271669451/
日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書) (新書)
室谷 克実 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/4106103605/ref=dp_toc?ie=UTF8&n=465392

69 :日本@名無史さん:2010/05/22(土) 07:54:28
>>67
東夷伝なら倭国領土ではなくて倭人居住地

70 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/22(土) 16:36:28
>崇神は4世紀初頭、応神は4世紀末の人物と想定している説もある。

纒向遺跡が2世紀末であるから、崇神はその時代の人物となる。
であるならば、崇神5,6年の記事は、新羅192,3年の記事に対応する。

神功渡海は、273年の日食が目安となり、この頃晋は幽州を分け平州を置く。

3世紀末の伽耶は、日本系の土器がたくさん有る時代であるから、
ここに神功渡海を想定でき、神功元年を275年とすると、神功52年、西暦326年が七支刀となる。
この直前の書紀の記事は、百済が大国として君臨するところを表示している。
323年晋は洛陽回復を断念し、永嘉の乱が終息する年代でもある。

これ以前に百済が大国となる場所は無い、また340年代には百済は大国として存在する。

東夷軍の中枢として機能していた時代は、晋が東方の覇権をあきらめた323年頃で終わる。
そこで半島南部を再編成し、領土の西北方面を百済に割譲する。←書紀の記事はこの様に書かれている。
馬韓以南は倭軍の彊譲渡して確保されている。
伽耶の鉄は百済が倭国の了解の元、掘る権利を得る。だから大伽耶からは、倭国の遺物は出ない。
ここから巨大古墳の時代となる。


71 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/24(月) 19:47:24
1,石村洞第3号 ドルメン(ドルムジ・ムドム)
3号古墳は方形、または長方形の段築積石塚である。A.D. 3世紀中葉の超大型級積石塚として
近肖古王( クンチョゴワン、346 〜374)の御陵である可能性が大きい。

2、石村洞第4号ドルムジ・ムドム
典型的な高句麗積石塚に「封土墳」の要素が加味された段階の形式として、松坡区一帯の百済古墳の中では確実に旧式であり、したがってそれは公州に遷都した475年以前に築造されたものと見るべきである。

3.石村洞第1古墳
平面の模様がこの積石塚と殆ど同じものとして、高句麗の積石塚である中国吉林省ファンイン県ゴリョミョザチョン第15古墳、平安北道小庵里第45古墳などがある。

5.石村洞第2号土壙墓廟(トグァンミョ)
積石塚の地層より階下に位する点から考えて、トグァン廟は積石塚より以前の時期の墓だったものと推定される。

7.内円外方形積石塚
日本の古墳には後部が平面で円形、前部が平面で方形である前方後円墳というものがあるが、その形態はこの積石塚の基壇平面模様とよく似ている。

百済の王朝は、326年頃から発展する。そして墳墓に土壙墓廟を選ぶが、400年前後の戦で
新羅の如く、高句麗軍の監視の下に置かれる。その時の墳墓が、石村洞第3号 ドルメンなどであろう。
初期には、前方後円墳も造られる(7.内円外方形積石塚)
この高句麗による支配を嫌ったガイル王は逃げ出すが、殺されてしまう。


72 :日本@名無史さん:2010/05/26(水) 06:43:30
>>67
http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/yaridama10.html

73 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 09:01:00
>>71
内円外方というのは方形の中に円形があるという意味だろ?

円形と方形がありさえすれば前方後円墳に似てると言えるのか?

74 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/27(木) 20:32:19
>前部が平面で方形である前方後円墳というものがあるが、その形態はこの積石塚の基壇平面模様とよく似ている。

基壇が前方後円墳に似ている。
これは、前方後円墳の設計図無しで前方後円墳を造る。

方形壇の上に円墳を載せた積み石塚の事では無い。
この形の積み石塚も、方形を積み重ねた積み石塚も日本にはある。
この辺のかね合いを考えている。


75 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/27(木) 20:48:43
>>72 より
朝鮮半島の人々は、一方では中国の王朝の圧迫を常に受け、南から、好戦的な”倭国”からの侵略を受け続けて来たのです。

任那の建国は、新羅本紀の209年の記事辺りになる。(216年、崇神末)
この任那(天日槍の親大和政権)は最初半島の人間が建国する。
274年 神功渡海以降、倭人が滞在する。←韓国考古学も3世紀末で確認出来ている。
半島にはまだ大国の無い時代であり、晋書の東夷の時代である。


76 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 08:42:13
>>74
http://sca.seoul.go.kr/japanese/culturalAsset.jsp?sCode=100629&sClssCode=9&sClssCode2=34
からのコピペだとわかったが、韓国人が書いたものだな。
それらしい、ものすごくいいかげんな文章だ。
基壇が前方後円になっている写真もない。

77 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/28(金) 22:15:24
>>76
韓国考古学は、仕方ないんだ。百済本紀に数字を合わせようとすると、支那の遺物と
整合性がとれない。
でも、歴史書は百済本紀を使いたい。ですから
新羅本紀は古い方へずれている。として蚊帳の外。


78 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/30(日) 20:10:44
今考えているのがこの
7.内円外方形積石塚 と松丘山古墳の関係。
字面だけなら、同一の思考の元に築造される。


79 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/30(日) 21:01:42
訂正
×松丘山古墳
○松岳山古墳

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