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元寇総合スレ3

1 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 20:33:07
元寇総合スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1245701930/l50

元寇総合スレ2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1259852075/


偵察厨涙目w

2 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:53:36
『八幡愚童訓』は神々の軍忠状

関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館)
・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が
あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。
 同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。
弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として
四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、
そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』
正応六年三月二十八日「太政官牒」)。

・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての
異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・
祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。
 神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の
軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。

・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。

・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。
 すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と
その軍忠に対しての当然の恩賞だった。

3 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:56:03
741 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 15:31:53
竹崎季長が恩賞として海東郷の地頭職を与えられたのは1276年で、『蒙古襲来絵詞』の作成はそれよりも後の1293年頃です。

絵巻の作成された1293年は、霜月騒動で討たれた安達泰盛とその一族の名誉回復が始まった年でした。
文永の役の翌年、恩賞訴願のため鎌倉に赴いた竹崎季長は、恩賞奉行だった安達泰盛によって海東郷の地頭に任じられたのみならず、馬と具足を賜るという破格の好意を受けました。
『蒙古襲来絵詞』は恩義ある安達泰盛とその一族への感謝の気持ちを込めて作成されたのです。

4 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:59:09
942 :日本@名無史さん:2010/05/28(金) 13:54:35
Excuse:一騎打ちしか知らない武士は蒙古軍の集団戦法に苦戦したんだから蒙古の勝ち
Answer:武士も集団戦にて戦っていました。

まず、当時の武士が一騎打ちを行っていたとする根拠がありません。
唯一の根拠として八幡愚童訓の写本の一つ『菊大路本』があげられることがありますが、
そもそも八幡愚童訓は後世の宗教書ですので信憑性に疑問があります。
さらにいえば該当箇所も実際のところただの書き間違いです。

八幡ノ蒙古記
「高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に」

菊大路本
「高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」

要するに元寇のとき武士が一騎打ちしていたなどというソースはどこにも存在しません。

次に元寇の詳細を記録した資料として信憑性が高いとされている蒙古襲来絵詞には武士が集団で元軍と戦い、元軍を蹴散らしている図が示されています。
総勢百騎などと注釈が付けられており、相当の規模での集団騎射戦が可能だったようです。

5 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 22:23:36
教科書で有名な騎馬武者が苦戦する場面
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/graphics/photo/mouko_shuurai_ekotoba.jpg

全体図で見てみると…
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html

6 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 23:09:47
大河ドラマで北条時頼が息子時宗に
「時輔を殺せ」
と言っていたが、時頼が生きていた頃から
時輔は朝廷側とよしみを結ぶなどの武士の鉄の掟を破る程の
問題行動が目に余る奴だったんだろうか?

7 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 23:38:42
>>6
NHKの大河ドラマを信用してはいけません

8 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 00:59:02
偵察クンが三度スルーしたレス



767 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 18:34:51
>弘安の役は何月単位でかかっているではないか。
>>457を読んだのか?

文永の役で日本攻略に必要な物資そのほかは耽羅人等の情報から計画したんだろ
が、大宰府攻略に必要な分量をはかり違えたんだろう
まさか高麗兵があんなに虐殺好きな変態どもだとは予想外だろうし
武士の強さもなめてたんだろう

http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/index.html
同月、中書省は元皇帝に日本侵略の計画について奏上した
(以下、『元高麗紀事』耽羅至元九年十一月十五日条より現代語訳)。
「これより先、日本・耽羅のことについて枢密院官と打ち合わせました。
 南国より日本を経由して来れる耽羅人三名を召し、地図を書かせました。彼らは申しました、
『日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』
(上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう)

一方弘安の役は前回の失敗を踏まえ、変態クンが多少予想外なことしてもいいように物資は余分に持ってきたものの
まさか海上に追い払われ逃げ回るはめになるとは予定外だったろうなw
そのうえ江南軍遅れるしw踏んだり蹴ったり

くぎ刺しとくけど文永の役での失敗を踏まえて弘安の役での必要物資を見積もったからといって
そんなもんを威力偵察の根拠にするなよw
そういう学習はどんな戦争でもやることだからな

過去レスでいろんな人が指摘してることだけどさw


9 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 01:00:07
偵察クンがカウント不能なほどスルーし倒したレス

750 :日本@名無史さん:2009/11/25(水) 13:40:30
>>747

>敗軍の将のその後の待遇で
>軍の勝敗や目的を判断するとか愚かしいわ。
>古代ローマ軍なんて、遠征失敗しても
>お咎めなしだった例は幾らでもある。

これについてジャワ遠征と文永の役の将軍の処分の違いを書いた人間としてどう思うんだ?

10 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 01:01:03
偵察クンがカウント不能なほどスルーし倒したレス・その2


918 :日本@名無史さん:2009/12/01(火) 17:10:02
>だから十四万で来た。それこそが威力偵察の成果だ。

723 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 11:12:58
>>712
だーかーらー

■■単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れるっての■■

あとづけで似てる似てると連呼したって何にもならん
お前の長々とした駄文では何の証明にもなってないよ
古今東西の戦争すべてを威力偵察にするつもりか?


「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?」

717 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 21:06:46
ttp://ethnos.exblog.jp/1908596/
>その間にモンゴル諸家からの供出部隊が参着したほか、先鋒隊による威力偵察を行い、
>「イランの地」の王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけた。

しかし威力偵察って言葉はこういう人たちにはずいぶん好き勝手に使われるんだな。
押しかけていって王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけたりするのなんて
もはや威力偵察でもなんでもないぞ。

11 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 01:03:15
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
 この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。

12 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 10:11:55
もうループするだけだろ>>1

13 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 14:41:33
こうして頭硬い連中が殺しあっている間も、貿易や宗教者の日元往来は続いたからな。
外交下手の武士とかと違って商人はいつの時代もしたたかやでー。

14 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 15:12:22
一方的に勝てる相手にヘイコラするのが外交上手なのかな?
日本の商人は時に倭寇になって大陸をいじめたわけだし、確かにしたたかなのは認めるよ。

15 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 15:24:56
>>14
勝てるからといって、実際に勝たなくてはいけない理由も無い。
戦争で勝つことが出来ても、戦後処理が上手くいくかどうかは別問題だしね。

16 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 15:29:05
そうだね。日本が外交下手な事実は覆らないよね。

17 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 15:36:28
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる
中国の歴史12 第5章 王勇

18 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 16:02:34
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、

「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません
(来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」

という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。

明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」


19 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 20:36:53
前スレのラスト50ぐらいはバカウヨが武士たちの逃走の件で
ごまかしたり屁理屈言ったりしてうやむやにしてたよな。

20 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 20:41:45
国書の和訳DQN風味
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」

21 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 20:42:47
■朝鮮人から見た文永の役
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本至壱岐、戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」
高麗史表
『十月、我々高麗の金方慶は元の元帥の忽敦、洪茶丘さん等と日本征伐に行ったニダ!でも負けちゃったニダ!高麗軍の被害は13500人ニダ!かんしゃくおこる』

■宋人から見た弘安の役
鄭思肖 鉄函心史
『六月なかば、元の7000隻の軍船が日本(の博多湾)を襲った。
だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。
7月30日、暴風雨が来る(神風)。
船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。
残った船は400隻余り。
十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された』

■モンゴル人から見た弘安の役
「七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。
九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。
・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ」元史日本伝
『(台風が去った後)七日、日本人と交戦、ことごとくやられ、二、三万人は捕まってしまった。
九日、(元軍最後の砦である)八角島(平戸島)にまで日本軍が侵攻、
蒙古高麗漢人は全て殺され、唐人は日本と国交があったので助命された。
結局10万人を越えるわが軍の内、帰還できたのは三人だけだった』

■日本人から見た元寇文永の役
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢」 金剛仏子叡尊感身学正記
『十月五日、蒙古人が対馬を襲う、二十日、博多を襲う、しかし即座に追い払う』

「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」 帝王編年記
『大宰府より飛脚が到着した。先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。
逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』

22 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 20:53:52
465 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 12:12:59 ID:???
>>464
決して高麗兵が弱くないことはナヤン・カダアンの乱が証明してる。
1287年4月、チンギス・カンの3人の弟の子孫である東方三王家がクビライに対して蜂起。
これに対し、忠烈王の派遣した高麗部隊や范文虎率いる旧南宋部隊の加わった元軍が、
同年6月のシラ・オルドの戦いで大勝。
なおも抵抗を続けるカダアンと息子ラオディは高麗に攻め込んだものの、高麗軍の粘り強い抵抗に
消耗し、結局1292年に鴨緑江の畔で元高麗連合により完全鎮圧。
最後にとどめを刺したのは洪茶丘だぜ。
元寇でボロボロだった連中が、モンゴルの反乱軍相手には大活躍。

23 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 22:55:39
>>11
その竹崎も白石も、その日の終わり頃には:
「肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、 天草城主矢野種保兄弟、船に懸かりし程は良く振る舞い
たれど、此所に至りて得懸からず、白石六郎通泰も得進まず」
となってしまう訳なのだが。

(八幡ノ蒙古記より。表記は現代風に直した)

24 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 23:07:58
『八幡愚童訓』は神々の軍忠状

関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館)
・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が
あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。
 同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。
弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として
四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、
そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』
正応六年三月二十八日「太政官牒」)。

・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての
異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・
祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。
 神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の
軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。

・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。

・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。
 すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と
その軍忠に対しての当然の恩賞だった。

25 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 01:00:30
>>21
> 「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢」 金剛仏子叡尊感身学正記
> 『十月五日、蒙古人が対馬を襲う、二十日、博多を襲う、しかし即座に追い払う』

原資料と比較していくつか誤記(もしくは別写本による文字の異同か?)・誤訳(意訳?)が見られる。
『金剛仏子叡尊感身学正記』は西大寺中興の祖で真言律宗の開祖、叡尊(1201-1290)の自叙伝で、
弘安八年(1285年)、叡尊85歳の時に起稿、翌年三月には再校を終えた。単に『感身学正記』、
現存写本(重懐伝写本)の外題によって『思円上人一期形像記』ともいう。(思円上人は叡尊の字)

西大寺所蔵の延文四年(1359年)法隆寺重懐伝写本では、実際には(改行の状態も含め)↓のように書かれている。

「文永十一年 甲戌 七十四歳
  十月五日、蒙古人著對馬、廿日、著波加多、即
  退散了。」

「著」はこれだけだと現在では「著しい」の意味になるが、ここでは「着」の意味。
(もともと「着」の字自体が「著」の俗字) >>21の「畢」の文字の意味は「おわる、おえる」、
重懐伝写本の「了」と同じく「をはんぬ」と読む。「〜してしまった」の意味。

>>21も含めて、訳文は(多少語彙を補いつつ)なるべく正確に訳すと以下のようになる。

『文永十一年 甲戌 (叡尊師)七十四歳。十月五日、蒙古人(の軍勢)が対馬に着き、
 二十日、博多(波加多)に着いた。(しかし蒙古人たちは)すぐに退散してしまった。』
(ちなみに『感身学正記』原文の文永十一年の記事はこれだけで終わっている。)


26 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 01:04:23
>>25の続き。
>>21の訳文は「著」「着」を「襲う」と訳すのは、そこまで意図が込められた語彙では無いので
意訳が過ぎると思われるが(こう訳すのは訳文を作った訳者の好みの問題なのだろう)、さらに、
「即退散畢」を「即座に"追い払う"」では文面と意味が違うし、なにより文章の前半と半ばに対して
後半部分で主語が入れ替ることになる。
>>21も「蒙古人著對馬、廿日、著波加多」も主語は「蒙古人」であり、「即退散了」「即退散畢」も
 同じく主語は「蒙古人」となっている文章。)

「追い払われてしまった」ならまだ主語が通っていて良いかも知れない。
高校や大学の古文購読の授業とかで>>21みたいな訳をすると減点されかねないと思う。

27 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 04:26:26
■ 元寇 ■ サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答
Excuse:海を越えての侵攻は難しいから元軍は負けて当然
Answer:日本→大陸では勝ち戦がありますが何か?
確かに渡航という行為は難しいのですが、その中で相対的に見れば対馬海峡はとりたてて難しいわけではありません。
日本から大陸への侵攻では過去何度も成功例※がありますし、
負けた言い訳とするにはちょっと苦しいのではないでしょうか?
そもそもこちらが頼んで来てもらったわけではありませんよね?
攻めてくるからには勝算があってのことでしょう。
その目算が外れたということは…まあ言わずもがなですよね。
ちなみにそんな程度の元軍でも各国に勝利してきています。
鎌倉武士は優秀だったということになりますね。
むしろ海がそんなに侵攻の障害になるならそんな障害をものともせず大陸や半島を震え上がらせる日本の兵站能力がますます強調されるだけですね

※すべての準備が整った西暦202年10月、
この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。
新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。
恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。
彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。
神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。
彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』
※百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳>そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、
百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
【広開土王碑】
※自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息
<訳>我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
『明史』(ちなみに日本軍が朝鮮南部に無数に築いた「倭城」を明朝鮮軍は最期まで全く落とすことができませんでした)

28 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 04:27:22
■ 元寇 ■ サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答
Excuse:元軍や朝鮮の弓は和弓より優れているので負けるわけがない
Answer:飛距離に関しては互角かあるいは和弓が上です※

※弘安の役を例にとります
防塁は切岸ですので白兵を挑む敵軍の内陸部への侵攻を止めるには効果的ですが、
矢のような飛翔物から累上の武士を守る遮蔽としては効果がありません。
つまり飛び道具には無力。
したがって本当に和弓より威力も射程も勝る弓を大量に投入できていたなら
上陸するまでもなく船上から防塁の上の武士めがけて矢を放ち、射散らしてから上陸すればいいはずです。
ところが実際の元軍は防塁の前になすすべなし、
結局防塁がない陸継島に上陸を試みています(結局今度は武士の白兵戦の能力の前にここからも敗走)
つまり元軍にも高麗軍にも海上から、
あるいは海岸線から防塁上の武士まで届く有効な射撃ができるほどの弓はなかったことになりますね。

29 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 04:28:45
■ 元寇 ■ サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答
Excuse:文永の役は本気じゃなかった
Answer:意味がわかりません。本気じゃない戦争ってなんですか?

元軍の兵数は蒙漢軍2万5000人、高麗軍8000人で合計3万人を超えています。
そして、この兵数は当時の世界の大半の国を余裕で征服できる数。
第4回十字軍は艦艇200隻、兵数1万2000人と文永の役の元軍の3分の1の兵力でしたが日本より人口の多いピザンツ帝国を征服しています。
ましてや元軍は直前に樊城、襄陽を立て続けに攻略し、攻城戦に絶対の自信を持っていた時期。
これだけの大軍投入してる以上、本気じゃなかったなんて言い訳はできません。

30 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 04:30:23
■ 元寇 ■ サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:一騎打ちしか知らない武士は蒙古軍の集団戦法に苦戦したんだから蒙古の勝ち
Answer:武士も集団戦にて戦っていました。

まず、当時の武士が一騎打ちを行っていたとする根拠がありません。
唯一の根拠として八幡愚童訓の写本の一つ『菊大路本』があげられることがありますが、
そもそも八幡愚童訓は後世の宗教書ですので信憑性に疑問があります。
さらにいえば該当箇所も実際のところただの書き間違いです。

八幡ノ蒙古記
「高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に」

菊大路本
「高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」

要するに元寇のとき武士が一騎打ちしていたなどというソースはどこにも存在しません。

次に元寇の詳細を記録した資料として信憑性が高いとされている蒙古襲来絵詞には武士が集団で元軍と戦い、元軍を蹴散らしている図が示されています。
総勢百騎などと注釈が付けられており、相当の規模での集団騎射戦が可能だったようです。

31 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 04:33:25
■ 元寇 ■ サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:元寇を防げたのは二度とも偶然ふいた神風のおかげでしょ?
Answer:いいえ。ちがいます。
まず文永の役。
高麗史によれば風雨によって被害を受けたという記載があるのは日本でボロ負けした後、逃げ出した後のこととなっています。
一方、日本側の当事者たちの記録には風雨に関して全く記載がありません。
つまり高麗史を信用するなら、風雨は日本からかなり離れた後のことでしょう。
また。一説には日本との戦いでの損害をごまかすため風雨を言い訳にした、という見方もできるそうです。

次に弘安の役。
まず、元軍はそれ以前の5月から日本と交戦していた点を忘れてはいけません。
元軍は日本軍に追い落とされ、海上を数ヶ月間逃げ回っていたところに台風が来たわけです。
また、そもそもそんな長い間上陸を阻止し続け、海上を追い回した、日本軍の防衛能力の高さも評価されるべきでしょう。
さらに言えば元軍の大半は嵐の後も生き残っていました。
一部の元軍は残存する船とともに逃げのびましたが、10万近い兵が鷹島、平戸などに取り残されておりました。
これらの残党は日本軍との交戦によって滅ぼされています。
結論から言えば、台風はあってもなくても元軍敗北の事実は変わらなかったことになります。

32 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 10:46:17
>>25
訂正乙です

33 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 13:16:33
>>30
人数が100騎なら集団戦法か、というと、少なくともそれは「蒙古軍は集団戦法」
というときの集団戦法と同じではない。真の集団戦法ではなく、「集団一騎駆け」に
すぎない。
100騎、あるいはそれ以上の集団が複数あって、それらが互いに有機的に連係して
働いてはじめて真の集団戦法だ。
日本では戦国時代に至ればこのような戦法があっただろうが、鎌倉時代ではまだまだ。

絵詞の白石集団はたまたまうまく行ったが、一族ごと取り込められて全滅した集団
があったことを八幡ノ蒙古記は記述している。

なぜこうなるかと言うと、戦う目的が主として軍功にあるからだ。
「我々一族が突っ込むから見ていてくれ」と言って突っ込む。
他の集団はその働きをただ眺めて、「証人」の役目をする。
突っ込んだ集団は、うまく行ったら首を持って帰って来て一休みする。
竹崎が出会った菊池一族の状況だ。

いくら100騎だろうと、このような戦法を「集団戦法」と称したら
蒙古軍に対して恥ずかしい。

34 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 14:05:04
頼みの綱は恩賞クレクレ目的で書かれた八幡ノ蒙古記だけかwww

35 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 14:13:27
八幡の蒙古記は客観的かつ史実に基づいている。
白装束の神の使いが三千人出現したってのはさすがに
多過ぎかもしれないけど当時の八幡大菩薩の神威から言えば
千人単位での動員は十分にありえるだろ。

36 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 14:55:34
>>34
恩賞クレクレとレッテル貼りすれば都合悪い事一切無視できる、と未だに粘着して失敗続きなので悔しいのはわかるが。
そろそろ……w

37 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 15:01:51
つうか増鏡や一代要記壬集のように、勝利を神威に結びつける記述は何も八幡系統の記録だけじゃない。
むしろ、当時の人間の宗教観から見ると恩賞クレクレのために嘘をつく、と決め付けるほうが異常で。
本人達は、少なくとも主観として事実を記述したつもりだった可能性のほうが高いな。

38 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 15:24:21
>>35
白装束は三千人じゃなくて三十人だろ。
私はここは全くの作り話だと思うよ。
作り話である証拠にわざわざ蒙古の捕虜に語らせて裏付けしている。
キリストの復活に証人がいるのと同じだ。

しかし一方で、なるほどと思う記述も含む。
例えば弘安の役で、蒙古軍の滞陣が長くなったことが、同時に日本軍の悩み
でもあったことを書いている。
日本軍とても長くなれば兵糧が尽きるからだ。

39 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 15:29:24
当時は民衆も武装していて当たり前の時代だったから、
博多とか焼かれたり略奪されたりして恨みに思った武士以外の一種にゲリラ攻撃を、ありゃ神様の使者だと誤認したのかもね。

40 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 16:01:11
>>39
それはあり得るな。武士頼りにならず、我々でやろう、という日本版
三別抄?

八幡ノ蒙古記でなるほどと思うことを二、三。
弘安の役の石築地は、海側を急に、陸側をなだらかに作られているが、
これは馬ごと駆け上がって射下ろすためだったという記述。

また築地の守備に就いた武士たちが、文永の役を思い出して
はじめは戦々恐々であったという記述。
考えて見れば、石築地じたいが、敵に上陸させてしまってはとても
敵わない、という文永の役の「教訓」を表しているわけだ。

41 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 16:07:06
実際のところ、防壁を作って有利に戦おうっていう発想は野戦を得意とする民族でも見られることだから、
むしろ一次侵攻を探知できた時点でやってもおかしくはなかったんだろうけどね。
恐らく費用や民の負担(とそれに付随する反発)を考えて、実際に本当に来た後に先延ばししたんだろうけども。

42 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 18:14:44
>>41
モンゴルが城壁を作ったということはなかったんでないか?
城壁を壊す技術は徐々に発達させたが。

43 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 19:11:50
なんで源平の合戦の頃から集団戦術やってるのに元寇だけやってないと言い切るのかw

44 :日本@名無史さん:2010/06/02(水) 21:09:06
>>43
>>33に書いたように、「集団戦法」の定義の問題だ。

45 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 00:08:29
>>23
竹崎五郎兵衛尉季長が文永の役で元軍の船に攻め込んだなどという事実は無い。
つまり、八幡ノ蒙古記の記述は全くデタラメということ。
そもそも八幡ノ蒙古記は書かれた動機に思いっきり利害関係があって、客観的とはほど遠い文献。
おまけに、白装束三十人とかの荒唐無稽な記述もある。
元寇の記録としては価値が無いよ。

>>39
博多が焼かれたり略奪されたりなんて事実も無いな。
もし、博多が焼かれたり略奪されたというのなら、それを裏付ける史料をだせよ。

46 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 00:15:46
>>44
それを言い出したらヨーロッパの集団戦法は
隊列を維持しつつ前列と後列を入れ替えながら前進・・・・ってのが基本的なんだけど

集団戦法は集団戦法でそれ以上ではない。どういった集団戦法かという違いはあるけどな
ああ、ちなみに
>100騎、あるいはそれ以上の集団が複数あって、それらが互いに有機的に連係して
>働いてはじめて真の集団戦法だ。
を源平合戦において武士はちゃんと実践してるからw

で、そのすばらしい「集団戦法」を身につけている元軍は武士に勝ったのか?
勝利できたのは緒戦で先走った一部の武士に対してだけだったと思うが

47 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 00:28:43
>>33
蒙古襲来絵詞の詞書によれば、息の浜に集結した日本軍はモンゴル軍が寄せ来たところで、
「一同で駆けて追物射るべき由申さるるに就きて、「言質の約束を違へじ」とて各々控えし」だった。
当時の日本の戦術は、「100騎、あるいはそれ以上の集団が複数あって、それらが互いに有機的に連係」
そのものじゃん。
そして、この鎌倉武士の集団戦法にモンゴル軍は歯が立たずに敗退したわけだろ。
何しろモンゴル軍自身が「官軍整わず」と、集団戦法で鎌倉武士よりも劣っていたことを認めてるんだから。

48 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 01:50:38
規制が解けてまた流れ速くなったな

49 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 04:19:06
ここには、水軍の末裔血縁者が多そうで‥

藤原氏
藤原純友→蒲池氏、有馬氏の子孫
少弐氏→龍蔵寺氏の子孫
阿波氏の子孫
河野氏の子孫
嵯峨源氏
渡辺党渡辺氏の子孫↓
松浦党松浦氏、平戸氏、波多氏、奥州安倍氏の子孫
村上源氏
村上氏の子孫

同じ海神族の子孫

中国からの帰化の人も‥
王氏の子孫
毛氏の子孫
徐氏の子孫
葉氏の子孫


50 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 04:35:47
>>49の訂正。
×龍蔵寺氏
〇籠造寺氏

51 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 06:25:27
>>46
>それを言い出したらヨーロッパの集団戦法は
>隊列を維持しつつ前列と後列を入れ替えながら前進・・・・ってのが基本的なんだけど

そういうのが、文永の役の日本軍にもあったと言いたいのか?

>集団戦法は集団戦法でそれ以上ではない。

なるほど、二人以上で戦えば集団戦法というわけだな。

>>47
>一同で駆けて追物射るべき由申さるるに就きて、「言質の約束を違へじ」とて各々控えし

それこそが、抜け駆けがいかに多かったかということの証左だ。

52 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 06:37:37
>>51
抜け駆けが多かったことの証左になんてなってないよ。
そもそも、抜け駆けしても恩賞の対象にならないから、抜け駆けする意味が無い。

53 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 08:43:01
>>45
>竹崎五郎兵衛尉季長が文永の役で元軍の船に攻め込んだなどという事実は無い。

「船にかかりしほど」というのは水際戦闘、上陸阻止戦闘のことを言ったのではないか?
(竹崎季長はやや遅れて戦場に来たから水際戦闘はやっていないが。)

「船にかかりしほど」という言葉で戦いの初期の段階を代表したのだろう。

>つまり、八幡ノ蒙古記の記述は全くデタラメということ。

八幡ノ蒙古記を全否定すれば、武士たちが華々しく活躍する場面も否定することになるが
それでいいのか?

54 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 08:48:00
>>52
抜け駆けそのものが軍功ではない。
抜け駆けしないと目立つ軍功があげられないから抜け駆けするのだ。

55 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 08:49:56
>53
他のにほの記録だけでなく、元や朝鮮の記録でも武士の活躍は証明されてるから、わざわざ偽書を頼らなくてもいいだろ

56 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 09:32:23
八幡ノ蒙古記以外で白装束集団が活躍したソースってあるの?
なければ極めて信憑性に乏しい文献ということになるな。

57 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 09:39:26
一見史料をソースにしてるようで、屁理屈ばかり。
やはり例の威力厨か。
ホント主題を変えながらしょっちゅう出てくるな。
そんなに武士が大敗北したことにしたいのか

58 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 10:15:14
白装束集団の出現は八幡ノ蒙古記に記録された史実。
それを否定するということは八幡ノ蒙古記の信憑性を疑うということになるんだぞ。

59 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 10:31:56
>>56
>八幡ノ蒙古記以外で白装束集団が活躍したソースってあるの?
>なければ極めて信憑性に乏しい文献ということになるな。

八幡ノ蒙古記以外では蒙古襲来絵詞ぐらいしかないのだから、
八幡ノ蒙古記にしか出ていない記述はいくらでもある。
少弐経資が敵将・流某を射落とした話もその一つだ。

しかしこの話は高麗史の劉復亭負傷の記事で裏付けられる。
君の言い方を借りれば、八幡ノ蒙古記は極めて信憑性に富む文献
ということになるな。

ちなみに>>58は私の偽物。
私は白装束については、要所要所に出てくる鳩と同様に、作り話という
立場だ。

60 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 12:50:12
>>53
>「船にかかりしほど」というのは水際戦闘、上陸阻止戦闘のことを言ったのではないか?

だから、文永の役でそのような事実はない。
もし事実があれば、蒙古襲来絵詞に書いてないはずがないからな。
平気で嘘が書いてある八幡ノ蒙古記は極めて信憑性に乏しい文献と考えるのが当然。
元寇の史料としては全く価値が無い。

61 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 13:01:39
>>54
抜け駆けして目立つ軍功をあげても恩賞の対象にならない。
だから抜け駆けは無い。

新御式目
「役所に寄せ自由の合戦を致すの事
  縦い抜群の忠と雖も、其の賞を行なわるべからず、所詮大将の命に随い進退せしむべきの由、
  厳密に九州の守護並びに御家人以下の輩に相触れらるべき也」 

62 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 13:10:37
しかし史料の絶対数が少ないんだから
八幡ノ蒙古記だって全く参考にしないという訳にはいかないだろ

まあ大坂の陣を語るのに難波戦記を持ち出すくらいアレだとは思うけど

63 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 13:51:05
つうか「ぼくのかんがえたつおいにほんぶし」に反するからって史料をレッテル貼りで全否定するのは……。
対馬・壱岐戦についてはほぼ唯一の史料だし。

64 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 14:30:34
だいだい恩賞狙いならそんな迂遠な真似する理由が……。
当時に出版社はないぞ(笑)
それこそ竹崎季長みたいにわざわざ鎌倉まで出かけて直訴するほどがっついて、挙句に俺こんなに苦労したんだぞ、とわざわざ自賛絵巻作らせるほうが怪しいわ。

65 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 14:38:40
>>63
レッテル貼りじゃないだろ。
八幡ノ蒙古記みたいな宗教色の強い文献を信用しないってのは、史料批判の世界標準。
今まで平気で史料として使っていたことが異常なわけで。

66 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 14:44:15
>>65
お前の中だけでh(ry

67 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 14:47:32
武士贔屓したい、という感情論の塊だから相手しても切りないよそいつ。
普通に経過だけ書いたところだけでも見ようよ、という程度でさえムキになって噛み付いてきた奴と多分同じだしw

68 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 14:51:49
>>60
>だから、文永の役でそのような事実はない。 <水際戦闘

では日本軍は、小舟で上陸する蒙古軍を指をくわえて眺めていたと
言うのか? そんなはずはあるまい。

>もし事実があれば、蒙古襲来絵詞に書いてないはずがないからな。

竹崎季長は、すこし遅れて戦場に到着したから、水際戦闘があったと
してもそれに加わっていない。
蒙古襲来絵詞は竹崎季長がじぶんで見た範囲だけを正直に書いているから
それ以外のことは含まれない。

だから八幡ノ蒙古記の「船にかかりしほど」は竹崎に関しては不当なの
だが、筆者は水際戦闘とそれに続く初期の戦闘を「船にかかりしほど」と
漠然と書いたのではないか。
あるいは竹崎と二人並べた後者のほうが水際戦闘で働いたのかもしれない。

69 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 14:54:14
だったら八幡ノ蒙古記に書かれているように、白装束の神の使いが30人出現して海面が燃え上がり
元軍は逃げ帰ったと主張すればいいじゃん。
そう主張しないのは、八幡ノ蒙古記の記述を信用してないからだろ?
同じ文献の都合のいい箇所だけ切り抜いて使用のが有りなら、学術研究なんて成立しない。

70 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 14:56:57
元寇の原因は、日本の倭寇。
フビライに日本攻略を進めたのは趙イが知られるが、彼は娘を倭寇にさらわれたりと酷い目にあっていた。
この復讐のために元を利用したんだ。

71 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 14:58:04
>>69
一か十かの単純脳に学問は厳しい、という見本提示ありがとうwwwwwwww
自分のウヨサイトに帰りなさい。

72 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 15:07:46
>>71
学問における史料批判の常識をかいただけだよ。
反論できなくなった途端、ウヨとか言い出すわけ?
それこそ、単純脳に学問は厳しい、という見本提示じゃん。

73 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 15:18:25
>>68
八幡ノ蒙古記の記述が竹崎に関しては不当だと認めるわけだろ?
白装束云々が全くの作り話だとも認めてるんだよな?
にも関わらず、八幡ノ蒙古記が信用できない文献だということに同意しないのは何故?
嘘だらけじゃん。
八幡ノ蒙古記に書かれているように日本軍が劣勢だったなら、博多が被災したことを裏付ける史料が
全く無いのはどういうこと?
海岸沿いにある博多の町すら全く被害を受けてないのに、日本軍が劣勢って一体どういう状況だよ?

74 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 16:11:08
>倭寇

これって元が高麗を従える前後に、小弐氏が倭寇を高麗国使の前でわざわざ処刑してみせたりしてるんだよね。
あまり注目されないけど、やっぱり影響あるのかなー。

75 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 16:21:34
>>58
台風さえ神様のお陰、にしちゃう時代だぜ?
夜間なにがしかの戦闘があり、それを勘違いしても不思議じゃないし。
要するにボクの脳内にとって都合悪い史料は、そういう揚げ足とりで全否定したいんだよー、だってことはもうわかったからww

76 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 16:33:56
>>75
要するにボクの脳内にとって都合悪い記述は無視するわけだ

77 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 16:40:09
当の武士達でさえ自分の武勲は神様のお陰だ、と島津氏のように地元に御霊分けの神社作るぐらいだからね。当時の人間の平均的な信仰心()現代では迷信だが)フィルターはむしろ当然で、それを理由に全否定なら本気でどの史料も使えないじゃん。

78 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 16:46:01
日本の史料が基本的に私的なモノしかないのに加えて、
こういう時都合悪いことでもひたすら記録する記録魔・中国側の史料も、
元史はいわゆる国史の中では悪質と昔から批判食らってる微妙なものだし。
高麗史もこれまた元を悪く書いている、といわれているもんだし。
基礎資料である八幡愚童訓をウヨ的発想から黙殺するのはアホだが、確実な史料が無いのも確か。

79 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 16:50:52
>>77
程度の問題があるよな。
八幡ノ蒙古記はそもそも信仰心フィルター自体が目的で書かれた文献。
他の史料とは同列に扱えないのは当然だろ。
それに、他の史料との矛盾点も多い。
こういうのは、史料を扱う際に当然検証すべきことで、揚げ足とりでもなんでもない。
八幡ノ蒙古記を信用する理由なんて、要するにボクの脳内にとって都合いいってだけじゃん。

80 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 17:41:06
>>79
>それに、他の史料との矛盾点も多い。

その例をどうぞ。

81 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 17:53:47
>>80
例えば、八幡ノ蒙古記によれば博多の町に布陣していた日本軍はひた破りに破られた揚句、
夜になると博多の町を棄てて大宰府に退却したことになってるじゃん。
でも、博多の町が文永の役で被災したことを裏付ける他の史料は皆無。
つまり、八幡ノ蒙古記のこの部分は丸々他の史料と矛盾する信用できない記述ってこと。

82 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 18:05:02
>>81
博多の町は焼けなかったとか、日本軍が夜通し博多の町に留まったとかいう資料が
出てこない限り「矛盾」とは言えない。

83 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 18:15:26
>>82
博多の町が本当に焼かれたら、それが一切記録に残らないわけないだろ。
当時博多の町には、櫛田神社の近くに謝国明が住んでて、承天寺には鉄牛円心がいて、
崇福寺には南浦紹明がいたんだよね。
特に南浦紹明の崇福寺における言動は、大応国師語録として残ってる。
史料上、博多の町は完璧に無事。

84 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 18:18:38
>>64
だからあれが描かれたのは恩賞貰った後だと何百万回言えば・・・

85 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 19:46:12
〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎
人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、

86 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 20:20:18
>>83
君の解釈に従えば、八幡の蒙古記は博多の町について、焼けたとも焼けなかったとも言って
いないのだから、実際に博多の町が焼けなかったとしても、矛盾はない。

また別のことを言えば、君の論法は「蒙古軍が博多を占領したら必ず町を焼いたはずだ」という
前提に立っている。この前提が必ず成り立つとは限らない。蒙古軍は博多を占領したにも
かかわらず町を焼かなかったかもしれない。

例えば略奪のほうが重要だったとしたら焼かない方が安全に略奪できる。またこのときは
蒙古軍はすでに乗船中である。誰しも、燃えている港から船に乗りたくはないだろう。

87 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 20:24:12
>>85
菊池三郎有隆が、十月二十日のうちに対馬まで行ったと言いたいのか?

88 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 20:34:27
>>86
博多が被害を受けた記録一切が無いの。
蒙古軍が博多を占領したという記録も、略奪したという記録もね。
八幡ノ蒙古記みたいなオカルト文献の記述を信用するのは根本的に間違いだということ。

89 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 20:37:21
>>87
何故そうなる?
普通に読めば十月二十日は鎌形で蒙古を討った日だろ。

90 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 21:30:29
>>88
君の解釈に従えば、八幡ノ蒙古記は蒙古軍が博多の町を占領したとも、
占領しなかったとも、言っていないのだから、たとえ蒙古軍が博多の
町を占領しなかったとしても、「矛盾」はない。

91 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 21:37:37
>>90
博多の町に一切被害を与えないで、博多に布陣する日本軍を撃破することなんて不可能ね。

92 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 21:37:39
>>90
いや、菊池三郎有隆が蒙古の将を討ち取ったのも鎌形でのことなのだよ。
だから追討対馬国が間に挟まれているのが分からないの。

対馬へ行ったのは後からゆっくり行ったのだと言うのなら、そんなこと
もあったのかな、というだけだ。

93 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:04:35
>>91
八幡ノ蒙古記では、戦闘の記述で「博多」という地名は出て来ないの。
だから博多の日本軍が撃破されようと、撃破されまいと、「矛盾」はない。

94 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 02:35:41
>>51
>なるほど、二人以上で戦えば集団戦法というわけだな。
www
極端から極端に飛ぶことしかできないバカはROMってろよ

95 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 05:15:45
>>90
いい加減に消えろ、基地外荒し。

96 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 07:39:54
>>89
ごめん、>>92>>89へのレスだ。

97 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 07:41:36
>>94
では、「集団戦法」の定義をどうぞ。

98 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 09:21:58
携帯の規制が解けた途端コレだよw

99 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 10:34:53
>>88
八幡ノ蒙古記と他の文献との間に、「博多」に関する「矛盾」はないこと
がわかったかな?
では他にどんな矛盾がある?

100 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:08:24
日本側の対応ってかなり南宋人の恨みが入っているような気がする。
防塁ってあんまり日本人的な防御施設の発想じゃないし。どっちかっつーと万里の長城みたいなあちらの対騎馬民族防御。
元の使者を殺す、なんて蛮行もやらかしているし(あの秀吉でさえ、降伏の使者だと思いこんでいて実は違った明使を殺すなんて非礼はしていない)。
亡命した南宋人(僧侶ら)が幕府重鎮らと近かったが、こいつらが「黒衣の軍師」だったんだろうか。

101 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:10:39
>>84
文盲乙。
だから恩賞もらうために苦労したんだぞ、という自賛だといってるんじゃん。
いくら自分の妄想に誰もつきあってくれないからっていい加減に全て敵視するのはやめれw

102 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:28:51
大友頼康が博多一帯や神社を焼き討ちされた戦犯に仕立て上げられているのに対して、
小弐景資が流れ矢に当たった劉復亨を射た本人に美化されている(ウヨ粘着が異様に敵視する愚童訓含めてw)のは、
後年の政治事情で凋落した景資への判官贔屓なのかな。

103 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 12:53:43
竹崎季長だって、訴訟成功を神様に祈願しているし。当時の日本人にとって宗教的要素というのは空気みたいなもの。
それを理由に排除したら、それこそ祈って成功し、奉納したって流れの絵詞だって使えないんじゃないか。

>小弐

の父親も狂歌であざけられてなかった?

104 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:04:47
>>99
結局、八幡ノ蒙古記の「あまたの軍勢、一日の戦に、たへかね、博多、筥崎を、うちすてて、おち入ければ」
という記述は嘘だったと認めるわけね。
じゃあ、こんな嘘だらけの文献信用できないだろ。

105 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:24:36
>>104
どう見てもそんな風には読めないが。
妄想ウヨ脳が誰も相手にされないからって、人のレスをまともに読まないものそろそろ……w

106 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:25:11
>>104
いや、全面的に信用しているよ。
ただ、博多が焼かれたとも、占領されたとも書いてない。
書いてないことには「矛盾」もない。

107 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:26:57
>>105
博多が全く無事だったんだから、あまたの軍勢が博多をうち捨てたってのは完全な嘘じゃん
何が不満?

108 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:29:22
完全人力の現象でさえ、神の威光と考えるのは当時の日本人には当たり前のことだってばだから。
じゃあ神社絡みの絵詞も、逆風吹いたのはきっと神のお陰だとする勘仲記も全否定すべきだな公平に。

109 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:31:00
>>106
博多に布陣していた日本軍が、丸一日戦って撃破されたら、博多が無事なわけないだろ。
一体どういう状況で八幡ノ蒙古記の状況が成立するのか説明してみろよ。

110 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:31:06
>>107
だから無事じゃないじゃん。
街は略奪され、火は日本側本陣としていた神社にまで及んで消失。
守備指揮官は揶揄され、軍は水城にまで後退を余儀なくされた。
脳内無敵武士に反するからって、別段矛盾が見受けられない内容までなんとかこじつけて否定したいウヨ君、
誰にも相手にされない、説得力が無い理由まだわかんない?

111 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:33:11
>>110
いや、博多は完璧に無事。
博多が略奪されたというのなら、それを裏付ける史料出してからにしてね。

112 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:42:42
亀山上皇らが八幡宮を再建したときの額縁とか、兵火の証拠は現物まで残っているのにね。
ああ、日本軍が逃げる時に自分達で煙幕代わりに火をつけた、という珍説もあったかな(当然、まともじゃないが)

113 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:43:44
>>111
箱崎・櫛田神社などの焼かれた神社の、その損害や再建に関する神社文書を当たればいいじゃないか。
否定する根拠が無いからって、肯定する材料を宗教的だからの一言で不公平に封殺しようとしても無駄だって。

114 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:46:30
>>113
博多の神社仏閣の損害や再建に関する史料には当たったよ。
だから、博多は完璧に無事。
八幡ノ蒙古記の記述は捏造ってこと。

115 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:49:15
いやよくある誤解だが、箱崎神社の額縁は醍醐天皇のもののはず。
元寇での焼失・再建時に亀山上皇から送られたのがあったのは確か(石清水文書・宮寺縁事抄)だが。

116 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:50:03
>>114
嘘つき乙
もしくはウヨ妄想で自分の都合の悪い史料は有名なものさえ避けたor嘘と決め付けたというオチだなw

117 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:53:03
>>116
じゃあ、図書館通って博多の町が文永の役で被災した史料があるか自分で確かめたら?

118 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 14:57:28
その博多の公式史でも損害があったことを認めているんだがね(今でも福岡市のHPから辿れるかな?)

119 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 15:04:18
絵詞はてつはうや蒙古兵が江戸時代に書き込まれたことが判明しているから、これも微妙っちゃ微妙だよな。基本的に一人の武士が見た、俺の苦労譚だし。
総大将が「ここで迎え撃とう」といってるのを振り切って先陣いきました、とか当時の日本武士でもありえないだろう。

120 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 15:08:28
>>119
振り切ってじゃなく、ちゃんと総大将の許可をもらってだよ。

121 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 15:12:48
>>120
と、本人がいってるだけだがな。
実際に軍功として認められておらず、後の神社に祈願しての鎌倉直訴に繋がる。
幕府が大友氏に発した書状だと、むしろ守護するという名目で戦わない武士が多くいたそうだが、と叱責されているから、消極的な武士が多数だったわけで。

122 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 15:14:53
>>107
八幡ノ蒙古記は博多をうちすてたと言っているだけで、その後博多が焼かれたとも、略奪されたとも、
占領されたとも言っていない。
だから博多がその後どうなったとしても、八幡ノ蒙古記とは矛盾しない。

123 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 15:22:38
>>121
その幕府が大友氏に発した書状って、最近では偽書ってことになってるよ

124 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 15:28:33
>>122
だから、一体どういう状況で八幡ノ蒙古記の記述が成立するのさ?
博多に布陣していたあまたの軍勢は、丸一日の戦いに耐えかねて博多を棄てたって書いてるんだぜ。
でも、博多の町は全く無事。
ちゃんと説明できる?

125 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 15:54:30
>>124
説明できても、できなくても、それは八幡ノ蒙古記の責任ではない。

126 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 15:57:14
>>125
それって、八幡ノ蒙古記の記述のような状況は成立しないってことでしょ。
つまり嘘じゃん。

127 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:24:14
成立しても、しなくても、八幡ノ蒙古記の責任ではない。

128 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:45:09
だから博多の街は無傷じゃないと。
そのうち天皇が焼けた神社再建しました、そのために直筆の額縁送りましたという記録さえ嘘扱いしそうな勢いだな。

129 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:46:02
>>123
なってない。小数の珍説程度。
史料としてきちんと扱われている。

130 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:46:59
アホウヨは巣に帰れって。
ろくにアクセス数ない武士万歳ブログのことだけど。

131 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:47:18
>>114
お手数だが、調べ上げたそれらの史料を逐一貼ってくれないものか。

132 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:48:43
いい加減お前らも白装束集団の手によって日本が守られたことを認めろよ

133 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:49:56
・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。

あと、肥後武雄社から発せられた鏑矢にも感謝しろよ。

134 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:56:48
少なくとも当時の日本人は武士含めて武功を神様に感謝し、
都合よい自然の動きのような偶然もそう捉えたのは間違いないが。
そういう事実を無視して何がしたいんだ?

135 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:59:19
自分のブログの宣伝を臆面も無く貼りつけ、わざわざ名前出された史料さえ無い、それも無理だと捏造とされたと言い張る。
数年前の過去スレのも同じ行動パターンの奴があるな。無残w

136 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 18:16:00
どこにブログの宣伝があるんだ?そのブログ見てみたいな。

137 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 18:30:36
対馬・壱岐・博多で略奪された人々の行方ってどうなったの?
金方慶が200人余を高麗王に献上した、程度の記述しか見つけられなかったんだけども。
捕虜になった家族を探す・買い戻すみたいな戦国期のような動きは……国が違うから無理だったのかなぁ。

138 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 18:33:46
>>137
強制連行ですね

139 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 18:36:16
倭寇のような国家的バックを持っていない日本人が略奪した朝鮮人の家族さえ買い戻された例は無い。
本気で死んだも同然じゃないの、あの時代に海を隔てて行方不明になるってのは。

140 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 22:26:54
>>114
この資料出すの、普通被害あった派だよな
被害があるから資料に残るわけで、ないなら資料があるはずない
元寇による被害なら神社だけでなく、他の武士などの記録にも残るはずだから、被害あったのに一切資料がないとはならないだろうし

141 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 22:42:03
>>129
でも、大友の家臣が鳥飼で蒙古軍相手にもの凄く勇敢に戦ったって史料もあるんだよな。
手元にないからUPできないけど確か『鎌倉遺文』文永11年12月。

142 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 23:11:17
そういえば元側の史料には博多焼き討ちしてから引き上げました的な事書いてあんの?
普通、街を襲って焼き討ちにしたんなら自分達も記録に残すはずなんだけど

143 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 23:14:34
>>128
博多の街に焼けた寺社なんて無いし、当然再建しました、そのために天皇が直筆の額縁送りましたという記録も無い

144 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 23:56:15
>>142
元史
「官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る」

「四境を虜掠して」だから略奪自体はあったんだろう。

145 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:04:22
>>144
「四境」って国境のことだから対馬・壱岐でしょ

146 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:20:17
>集団戦法

銅鑼の合図でトロトロ進む中華式の横隊。
何故必要かというと優秀な下士官が少なく、限られた少数の人間しか指揮出来ないから。
日本兵はモンゴルの様にチャージをしないし、固まってたら打ち掛けられ放題。短弓だと撃ち負ける。
かといって手盾に片手剣じゃバラけたら勝てない。
編成の段階でモンゴルは負け


147 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:45:18
そういや八幡蒙古記で
博多「から」避難って記述は実は博多「へ」避難
って書いてあったのが後世に誤植されたって話が
前スレあたりで出たがその話はどうなったん?

>>101
あれって安達や少弐への鎮魂とかそういう意味合いだって聞いたこともある。

>>144
博多って四境に入るのかな。また対馬や壱岐でヒャッハーした可能性は?
かの船を焼く云々の高麗伝には何て書かれてた?

148 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 01:06:22
対馬・壱岐でヒッハーしまくってたな

149 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 06:04:53
蒙古軍は本当に博多を焼かなかったのではないか?と考えて見ると面白い。

なぜ焼かなかったか? それは撤退時の乗船を早くするためだ。
上陸の時は港でないから、わざわざ小舟に乗り換えて浜に乗り上げた。
撤退の時は暗夜にこの逆をやったのかと思って、大変な熟練だなと
思っていた。

しかし博多の港からなら、直接大船に乗れる。馬だって板を渡して
直接、歩いて乗れる。
博多は当時、逆F型の半島だったから、多くの船着き場が同時に使える。
恐らく20〜30隻は同時に着けただろう。

10回ぐらい交替すれば全軍が乗れるわけだ。
しかしそのとき、港が焼けていたのでは困る。人間だって火の粉で
危険だし、船に燃え移る心配もある。特に困るのは馬が暴れる
ことだろう。

こう考えて来れば、意図的に焼かなかった可能性は十分にある。

150 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 09:18:37
>>149
元軍が有利に戦ってたならその論も成り立つが、橋頭堡どころか陣地構築すらできず、潰走してるのに無理だな

151 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 09:48:43
>>150
潰走して海岸に殺到したら溺死者が出るだろう。しかし文永の役では、座礁した1〜2隻の船の
記録はあっても、溺死体の記録はない。

152 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 10:40:11
要するに「あいつら強えから一旦仕切りなおそう」
って早めに引き上げてきたってことだろ。

153 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 11:47:27
もうひとつ書いておく。
夜中に乗船して撤退、と言うと暗い海でどうやって連絡し合ったのか、と思う。
これも考えて見れば箱崎が燃える火で博多の港は明るかったわけだ。
それでも明るさが足りなければ、博多の町の一部を照明用に、コントロール下に焼く
こともできる。

154 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 12:01:35
>>153
蒙古軍が撤退したのは夜中じゃなく夕方だろ。
20日中に日本軍は兵船繰り出して追撃開始し、元艦隊の一部が漂流してるの確認してる。

155 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 12:57:08
まぁ、人力の結果であっても、偶然であっても神様に感謝する日本人の思想感が。
昭和になって戦争に負けかけてから、
「日本は神の国だから神風が吹く、だから負けない」
という結果と原因が逆転した価値観として吹きだし、軍人さえそれを信じてイっちゃった件を見ると歴史の皮肉を感じるな。

156 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 13:28:16
>>154
>20日中に日本軍は兵船繰り出して追撃開始し、元艦隊の一部が漂流してるの確認してる。

ソースをどうぞ。

多数の馬を含む3万人の軍隊が乗船するのに何時間かかるか、考えてみろ。
港を使ったとしても、1隻の船を着けて、何百人が乗り込んで、馬を追い入れて、さて
岸壁を離れるまでに少なくとも三十分はかかるだろう。これを何回繰り返せばいいのか?
夕方に戦闘が終わったとして、最後の船が離れたのは早くとも深夜だろう。

157 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 13:37:36
つうか当時夜間戦闘なんてどの国でも奇襲とかの意図が無い限り自殺行為だから、
まともな日本武士も日没で水城に撤収してるんじゃ……。
やったとしても土地勘がある地元のとかだろう。それでも無謀っぽいが。

158 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 13:40:44
>>156
歴代皇帝記
「二十日大宰府以三百餘艘之兵船發向賊船二百艘漂蕩神威力云々」

敗軍の元軍がそんな呑気に乗船するわけないじゃん。
兵の多くが武器や鎧を投げ捨ててやっと生還してるわけで。

159 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 13:46:50
ミスった。
>>158は歴代皇記ね。

160 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:35:11
>>158
二十日は二十一日、二百艘漂蕩は二艘漂蕩の間違いで、翌朝座礁していた元軍の船を
寄ってたかっていじめた出来事を誤り記したものだろう。
というか、この一行を裏付ける他の資料はあるの?

>敗軍の元軍がそんな呑気に乗船するわけないじゃん。

敗軍ならなおのこと、整然と乗れないから時間がかかるだろう。
で、君は敗軍三萬の乗船時間を何時間と見積もるの?

私は敗軍でない「引き分け軍」三萬の乗船時間を5時間と見積もる。
理由は300隻の船が30隻づつ、10回入れ替えで港について、1回の乗船時間が
30分。

161 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:36:24
橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか
水城が見えるところまですら到達できず
福岡平野沿岸部をうろうろしただけで先駆けレベルの武士団だけで返り討ち
弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍


162 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 14:42:20
>>64
>>11にて既出

元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
 この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。


163 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 15:00:57
>>160
二十日って書いてあるんだから二十日の出来事だろ。
元軍は上陸作業をスムーズにするため、わざわざ揚陸用の船300艘を用意していたわけで、
30隻づつなわけないじゃん。
で、大慌てで逃げ帰ったから兵は武器や鎧を投げ捨てていたし、揚陸船300艘も回収できなかった。
高麗史にも船を棄てたこ書いてるし、大宰府の兵船が見つけた賊船200艘もこれだろ。

164 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 15:31:27
ループコピペうぜぇ。そんな真似したって誰もウヨ史観に媚びたりしないぞ学問板じゃあ。

165 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 16:09:10
>>163
歴代皇紀(皇代歴)は14世紀中葉から15世紀中葉にかけて書かれた年代記だ。

同じような年代記で、文永の役直後に書かれた「一代要記」では、後宇多天皇の
文永十一年十月条に「同二十日始合戰、宰府軍等背北了」と書かれている。
(背北=敗北)

数十年ないし二百年後に書かれた歴代皇紀のほうが、同時代資料の一代要記よりも信頼できる
という理由を記せ。

166 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 16:22:34
>>165
一代要記に背北とは書いてないよ
北の前後の文字は解読不能

167 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 16:23:27
金方慶伝でも、「倭兵大敗」だぜ。
ぶっちゃけ勝ったか負けたかとかの言葉尻を捉えても余り意味が……。
戦術的勝利、戦略的敗北(あるいは逆)なんて玉虫色の捉え方、情報がしっかりある近代戦ですら判別が付けにくいぐらいでな。
とりあえず結論ありきで都合悪い史料貶めたり、相手が別にいってないことを言ったりするコピペ連発のウヨは失せておk。

168 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 16:39:02
>>167
でも、金方慶伝はその後戦況不利になって撤退を余儀なくされてるだろ

169 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:08:43
>>167
なら戦略、戦術目標を達成できなかった時点で元軍の大敗とはっきりしてるじゃないか
顔真っ赤にしてウヨウヨ連呼するなよ


170 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:10:06
人のレスを読まないウヨ必死。
そんな勝敗の断言なんぞ難しいじゃん、あとコピペやめいといってるのに短レス連投で噛み付くとか。

171 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:22:10
蒙古軍は寸土も獲得できないまま逃げ帰り1万3500余人もの犠牲者出してるんだから明らかに惨敗だろ
どこにも判断尽きにくい要素なんてないじゃん。

172 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:24:27
図星だったか
元軍が戦略、戦術目標を達成できなかったのは既に結論の出た話だろうが
コピペもお前のように脳みそが出来損なってるやつには過去レス示しても読めないんだから仕方のないことだろ
ありがたく思っておけ

173 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:32:07
>>166
日蓮が建治二年に身延山から与光日房に宛てた書簡、「種種御振舞御書」の終わり近い箇所に、
「同(文永十一年)十月に大蒙古国よせて壱岐対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府も
やぶられて少弐入道大友等ききにげににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ」
と書かれている。

数十年ないし二百年後に書かれた歴代皇紀のほうが、同時代資料の日蓮書簡よりも信頼できる
という理由を記せ。



174 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:44:11
>>173
それを言うなら叡尊の金剛仏子叡尊感身学正記は「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢」。
元寇の情報なら在野の日蓮よりも鎌倉の叡尊の方が正確だろ。

175 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:51:46
>>166
>一代要記に背北とは書いてないよ
>北の前後の文字は解読不能

出任せでいい加減なことを言うな。下のURLに原文のそのページがある。
右から3行目の下の方に「背北」の文字がある。これでも判読不能か?

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h002/image/09/h002s0951.html

176 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:56:29
>>174
即退散には違いないではないか。
日蓮書簡は負けたと言い、叡尊感身学正記は勝敗や戦況に言及していないのに
「の方が正確」とはこれいかに?

177 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 17:59:04
>>175
ちゃんと確認してから書けよ
京都大学附属図書館所蔵の「一代要記」は流布本だろーが

178 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 18:07:36
>>176
でも、そういうことを突き詰めてくと、一番信用できるのは「蒙古襲来絵詞」だろ。
何と言っても、その場で実際に戦ってたんだから。
日本軍を指揮していたのは「少弐入道」じゃなく少弐景資だし、「其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれ」
てもいない。
現に竹崎も菊池も白石も無事だったし。

179 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 18:38:23
謝国明さんとかはなんて書いてるの?

180 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:01:59
>>177
では、金沢文庫本では背北が読めないというソースをどうぞ。

181 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 22:04:56
>>178
蒙古襲来絵詞にけちをつけるつもりはないが、個人の経験を正直に書いている記録だから
全体的な記述が物足りない。また、恐らく欠落だろうが、竹崎も加わっていたはずの
終盤戦の描写がない。

総司令官が覚恵入道か経資かについては、日本軍の組織はいいかげんだから、一般には
覚恵のほうだと見られた向きもあったのではないか? だから「恥をかくえ・・」と
代表して狂歌にも詠まれたのだろう。

いずれにしても、日蓮書簡は「太宰府もやぶれ」などと不正確なことは認めるが、
「日本軍がこてんぱんに負けた」という認識が当時、一般的にあったことを示している、
というだけの価値はあると思う。

182 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:41:51
日蓮的には
「軍事大国モンゴルに壱岐・対馬が蹂躙され、九州上陸も許した」
「少弐氏の軍もやられたじゃん」
「だから俺様教を信じろとあれほど…」

って思ってたって事はわかった

183 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 23:48:02
>>181
といってもな、そもそも正確な資料自体が無いわけだから
次善的には蒙古襲来絵詞となるのは仕方のないことだと思ふ

184 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 00:47:16
文永についてはもはや日本の負けでほぼ結論出ているが
弘安も日本の勝ちとは言い難い。
元は暴風雨で艦船に被害受けたから撤収しただけだろ
10万なんて言ったって多くは南宋の敗残した老兵で
元が処理に困って日本に植民目的で武器より農具を積み込み派遣した者たち
また兵力数の中には非戦闘要員の船員が多数含まれている
大宰府を落とせなかった?w
ていうか日本側は対馬や壱岐でガッチリ惨敗してますがw
多数のモンゴル本隊も参加しウリャンハダイやドゴンのような一線級の将帥に率いられ侵攻したベトナム遠征では
ベトナム軍の反撃で司令官クラスを含め多数の元軍を捕虜にされた
モンゴル本隊が殆どいなかった日本侵攻だが
さて日本側は大勝したと喧伝する割には敵の高級指揮官は勿論、多数の捕虜を得ていない
しかも敵の退路は陸路じゃないんだぜ
この時代の騎馬武者には馬上槍すら存在せず、騎乗での直接打撃による戦闘は殆ど行われなかった
というより出来なかった
日本で直接打撃戦闘を行う騎馬武者が現れるのは南北朝期
こんなんで本格的戦闘は行われたんかねぇ?

185 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 02:33:57
>>184
お前超面白いなw

>>文永についてはもはや日本の負けでほぼ結論出ているが
元側が勝ってるなら、のんびりしてせめて2泊ぐらいして帰ればいいのに
なぜ夜逃げしないといけないのかな?w
3万もいれば帰宅も大変だろうに、対馬などでは数日いたのに九州では1泊もせず夜逃げw

>>弘安も日本の勝ちとは言い難い。
まともに上陸できない時点で明らか鎌倉幕府軍の圧勝
上陸すらさせずに退ける⇒大勝利(圧勝)
上陸されるがなんとか退ける⇒勝利
上陸され大宰府が占領されるが奪還し退ける⇒辛勝
上陸され大宰府が占領、更に敗戦し続け鎌倉幕府降伏⇒敗戦

186 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 05:07:24
>>184
おいおい、文永の役では水城にすら到達できず、弘安の役では上陸すらまともに出来ず
これでどうやったら元の勝利になるんだ?
戦略的勝利どころか戦術的な勝利さえ対馬・壱岐を除いて皆無なんだがwww
しかも、対馬・壱岐は戦力差を考えれば元が勝利していて当然。むしろ負けてたら笑い物もいいところ
だからこそ、後に20倍の兵力で対馬へ侵攻して返り討ちにあった朝鮮軍が笑われているのではないかw
で、台風が襲来したのは東路軍の攻撃開始から数カ月後、江南軍との合流後からも1カ月近く経ってから

と、釣りだと思いつつも全力投球してみた

187 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 13:37:36
>>186
釣りじゃなかったら、解釈判断能力ゼロな人と考えられる。
俺は相手にしない。

188 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 18:16:12
さて、ウヨ連呼してた人や武士惨敗唱えてた人たちは
今頃反論の準備でもしてるのかな?

189 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 19:17:03
>>186
もし南宋軍が邪魔で処分したければわざわざ大切な船3500隻に乗せて戦わせない
陸路でいける国へ派遣して潰せばいいだけ、世界最大の海洋国家を征服して船3500隻
を失うのは余りに痛すぎる。
船は商業交易で使えるから非常に大事、大事な船3500隻も使って攻めるからにはそれなりの
勝算があるはず。
精兵部隊を乗せて戦えば船も失わず、日本も征服できると考えたはず。
元が南宋の城を落とすのに5年もかかっているから日本相手にも長期戦見込んで
農具も持たせただけで、征服もしていない国へ攻めるのにほとんど農民では死に行くだけ。



190 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 04:30:51
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる
中国の歴史12 第5章 王勇

191 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 07:15:21
一代要記の、「宰府軍等背北了」に続く文章を読むと、亥の刻(夜10時ごろ?)に二艘の軍船が
出てきて、暗夜に合戦し、そのために(?)敵軍が退散したということを、神秘めかして
書いているのだね。

これは例の白装束説話と同根かもしれない。
太宰府軍が撤退した後、神社の関係者が霊験をねたにする恩賞狙いで射手を乗せた船を出した、
少しちょっかいをかけてみたらあら不思議、蒙古軍がいなくなってしまった、実は蒙古軍は
撤退中であったとは知らなかった、
ということか?

192 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 14:28:02
■ 元寇 ■ サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:蒙古軍なんて言うけどさぁー実際に戦ってたのは高麗兵と南宋兵が殆どじゃん
Answer:それは言い訳にはなりません。

第一に蒙古軍はもともとそういう混成部隊で各国を侵略してきており、対日本戦だけのことではありません。
第二に文永の役での高麗軍はわずかに8000、弘安の役東路軍の高麗軍は10000だけです。
緒戦で直接本州へ上陸を試みた東路軍には南宋兵は含まれていません。
それなりの比重ではありますが「殆ど」といいはれるほどではありません。
しかも蒙古軍は連戦連勝だったウルス。
例えばナヤン・カダアンの乱で、カダアンとその息子ラオディ率いるモンゴル反乱軍は、
朝鮮半島で大元ウルス・高麗連合軍によって壊滅しています。
渡航作戦を経験していたヒンドゥを指揮官にしていますしね。

193 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 16:07:49
いくら誰にも相手にされないからって、脈絡も無く過去相手にされなかったりしたコピペ連呼ウゼェなぁ。
ウヨが相手にされないのは、説得力もさることながらそういう態度がいけないんだろう。
自分達の脳内ででっち上げたサヨなるものに、同調しない連中全員が見えているんだろうなw

194 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 16:51:37
相手にされてないのはどっちなんだかw

195 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 17:07:16
認定すればするほど無視されるというねw

196 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 17:57:49
所詮、コピペはコピペだからな。
相手が別に言ってるわけでもない内容を、(意図的に馬鹿にした形で)否定してみせて悦にいってる意味不明な状況になっているだけだし。

197 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 19:34:10
忽揮龍口劍
虜使頭足分
忽起西海颶
怒濤殱胡氛

ウヨ脳患者からすると、藤田東湖も脳内で造り上げたサヨの一人になっちゃうんだろうなぁw

198 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 21:00:55
>>197
右だの左だの言ってるお前も同類だけどな

199 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 21:08:45
河野道有かっけー

200 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:35:38
ウヨとか言って荒らしてる奴、政治思想板に逝けよ。学問板でもっとも不要なタイプだよお前。

201 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 22:41:34
虜使頭足分はけっさくだな。

202 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 23:48:05
>>196
そのコピペに対してマトモに反論出来てないじゃん。

>>197
サヨとは思わんよ。
ただ、内容を端折り過ぎてるなあと思っただけ。

203 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 00:14:39
いやどう見ても武士厨が論破されまくってるだろ

204 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 02:03:49
×いやどう見ても武士厨が論破されまくってるだろ
○いやどう見ても武士厨に論破されまくってるだろ

間違い正してやったぞ
死んで感謝しろよ

205 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 05:23:25
>>177
金沢文庫本では「背北」が読めないというソースはまだ?

206 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 08:57:16
素朴な疑問があるんだ
既出ならすまん
知識不足なんで釣りではなくまじめに聞きたいんだが

なんで大宰府が元軍の最終攻撃目標とされてるんだ?
政庁は一応あったとはいえ、当時栄えているのは博多のほうだし、元軍が大宰府にこだわった理由がわからん
日本軍も最初から大宰府を本陣にしていたわけじゃないんだろう
元軍が大宰府を最初から攻略目標にしていたと記す史料はどれなんだ?

それから、なんで日本軍は大宰府に行ったんだ?
「メシ食いに帰った」とかここでは言われてるけど
大勝して夕方に元軍が逃げてるならあんな離れた大宰府まで行かなくても
陣のある博多周辺でメシ食って寝ればいいだろう
そのあたり史料ではどう書いてあるんだ?

そこらへんがわかりにくいので、どうも考えがまとまらないんだよ


207 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 09:02:32
すまんもうひとつ
大宰府守護所って当時は当然大宰府にあったと思ってたんだが
ttp://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/nanmei.html
ここ見たら櫛田神社近くにあったって書いてあるんだよ
これは間違いかい?

208 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 10:18:14
>>207
大宰府の博多出張所みたいなもんだろう。
ちなみに当時の博多は一種のチャイナタウンね。

209 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 11:36:29
>>208
ありがとう。ということは大宰府守護所はふたつあった?
当時の大宰府の位置づけがわからんので
現在の太宰府に九州の武家の中心が間違いなくあったということでいいんだね。
元寇の本陣も太宰府に最初からあったということでいいんだね。

210 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 12:46:13
>>206
ちなみに武士が飯食いに行ったのは水城ね
位置的には大宰府と近いが
大宰府と水城では全く意味が変わってくるので注意ね

211 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 12:55:17
確かにな
武士が勝って元が退却したんなら
水城まで退かなくてもいいわなw

212 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:11:52
前スレですでに済んだことまた蒸し返すのかよ

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
>住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
>総勢百余騎。
>武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)

武士は勝とうが負けようが定期的に最前線の兵力が交代する。
一気呵成に攻撃し、ある程度の戦果をあげたらすぐに退き、
また攻め込む。
そうやって少しづつ元軍を削っていく。
したがって元に反撃する余力があるなら押し返すチャンスはいくらでもあったはず。
ところが実際は元軍はどんどん後退するばかり。

>菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
>別の一隊は別府の塚原へと退却。
>塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
>敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
>季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
>旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
>季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
>肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
>たまらず敵は退却を始めた。
>武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

そして集団騎射をメインに戦う以上、日がくれたら自陣に帰還するのは当たり前。
武士が勝って元が退却したからといって
水城に帰還するのに何の矛盾もない。



213 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:20:31
>>210
すまん水城と書かないといけないな
ところで太宰府と水城とではどう意味がかわってくるのかが
実はよくわかってないんだが

>>211
いやそういう意味じゃない
退いたかどうかは戦況しだいじゃないか
聞きたいのは、水城に最初から陣が存在してみんなそこから出陣してたのかってことだ

214 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:21:55
>>68
お前がアホなだけで、軍事的には十分ありうる行動。

攻撃側は上陸地を自由に選択できるのに対し、
防御側はできない。
文永の役ではただでさえ日本側の動員数少ないのに、
どっかの海岸に勘で貼り付けてスカしたら元も子もない。

実際資料でも組織的には水際防御してない。
地元を見捨てられない松浦党が勝手に戦ったが。

215 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:23:38
偵察厨は武士は暗視可能な超能力者でしかも不眠不休で戦えるサイボーグだと思っているらしいw
こりゃ光栄だねーw

武士だって飯も食えば睡眠も必要。
その両方が水城に用意してあるんだからそりゃ水城に帰るにきまっとるわな。

216 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:24:54
>>212
既出だったかすまん
ところで、絵詞に「まず水城に陣を敷く」という記述ってあった?
最初から水城に陣があるなら帰還にはもちろんなんの問題もないから
こっちも安心なんだが


217 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:27:47
>>215
それが決め手なんだ
「その両方が水城に用意」これはどこに書いてあるのか
すまんが教えてくれないか
困ってるんだ

218 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:32:26
>>213
街と基地の違い

博多湾>福岡平野>水城(堀と切岸と仮居用の更地の三層が1km以上延々と続く。)>大宰府の順に並んでいる
博多湾から上陸する敵は水城を突破しない限り大宰府には到達できない

俺が説明するよりも自分で地図みたほうがいいとおもう

219 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:34:54
繰り返しでもウヨでもコピペでももう勝手にしてくれ。
ただしあぼんしやすいようにコテとかつけてくれよ。

220 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:35:47
>>218
ありがとう
つまり陣は大宰府の政庁じゃなくて水城の真裏あたりに敷いていたとみていいんだね

221 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:36:30
逆に聞きたいが

たとえばお前が「米軍が沖縄へ」というニュースを聞いたとしよう。

その時おまえは米軍がまあどこでもいいけど例えば那覇市内のホテルや月極駐車場など(市街地)に無理やり宿泊すると思うか?
それとも当然のことながら米軍基地(基地)に帰還すると思うか?

222 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:45:04
>>211
いやそう言われても…
日本軍は最初水城に陣を敷いたという記述がどこかにあればいいと思って聞いただけけなんだが

水城なんか古代の遺物で日本軍はそもそも博多に陣を敷いていた
大宰府守護所も博多で少弐氏はそこにいた
日本軍は結局本陣を失ったから水城まで退いた

これに反論したいから調べたけどわかんなくて聞きたいと思った
水城に最初から陣があって兵糧もそこにあるという記述があるのならなんの問題もないんだ


223 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:46:12
あ、アンカーミス
上は>>221

224 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:50:49
レイプ魔だらけのところで
歓楽街にあるカギのかからない小屋に泊まるか
セキュリティしっかりの砦に泊まるかって話だな

225 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 13:54:53
>水城なんか古代の遺物で日本軍はそもそも博多に陣を敷いていた
>大宰府守護所も博多で少弐氏はそこにいた
>日本軍は結局本陣を失ったから水城まで退いた

こいつ多分バカだから反論いらね

226 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:01:05
結局水城に最初から陣立てしていてそこから出撃したなんて記録はない

鎌倉武士最強厨は「水城に兵糧が準備してあった"はず"」
偵察厨は「負けたから古代の遺物水城に頼らざるをえなかった」

どっちをとるかはあなたしだい

227 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:14:36
一方その頃元軍は
ほうほうのていで海上を逃亡していた

228 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:22:16
>>226
ないのか。残念。

>>227
だからこそ日本軍が水城に向かう理由付けをはっきりと欲しかったのだが
結局推測で、米軍基地のたとえ話をするしかないのかな

229 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:29:02
偵察厨はsage自演を覚えた

230 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:29:38
>>223
どうすればアンカーミスするんですか?

231 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:32:04
水城に帰ったら負けたことになるなんて珍説
ここの偵察厨以外誰も言わないよね

232 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:36:54
いやそうじゃないんだ
「水城へ退却」じゃなく「水城へ帰還」と言いたいから
その証拠が欲しかっただけなんだ

233 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:39:03
それ以前に、水城一帯が「内陸侵攻するには必ず通らなければならない隘路」
だってのがすっぱりと抜け落ちているよね、この議論は。
上記のような特性があるからこそ、水城があそこにある訳だし、太宰府もあの
位置になったんだという。

234 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:40:50
俺は議論したいんじゃなくてタダの「教えてクン」なんだよ。すまん。

235 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:44:07
>>226
>鎌倉武士最強厨は「水城に兵糧が準備してあった"はず"」
>偵察厨は「負けたから古代の遺物水城に頼らざるをえなかった」
>どっちをとるかはあなたしだい

どっちをとるかじゃなくて、同時に両方成り立つじゃないか。
せっかく八幡ノ蒙古記の全文を載せてくれた人がいるのだから、
読んでから書いたら?

「さて、水木城と申すは、前は深田にて、路一筋あるのみ、うしろは野原
広く続きて、水木多く豊かなり、馬蹄、飼場よく、兵粮潤澤なり、左右、
山あひ、三十餘町をすかして、石もて高く厳しく築きたり、城戸口には、
磐石門を立てたり、今は礎石ばかりになりたり、二三里廻(めぐ)れり、
これ、いにしえの御代御代、異賊を防がんために帥の大将を置かれたりし
大城なり、かくゆゝしき古城なれども、あまたの軍勢、一日の戦に耐え
かねて、博多、筥崎を打ち棄てて落ち入りければ、」

答え、兵糧はあった。司令部については古代の話ししか書いてない。
推定、司令部兼兵站センターだった。

236 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:46:07
>>233が答えだな
結局地図見ろの一言で終わる話だった

237 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:48:11
■ 元寇 ■ サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答
Excuse:文永の役でもし武士が勝ってたなら日暮れになって水城に退くわけないから武士の負け
Answer:武士は暗視可能な超能力者でしかも不眠不休で戦えるサイボーグだと思っているようですが武士も人間です。

蒙古襲来絵詞を参照してみましょう。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
>住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
>総勢百余騎。
>武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)

武士は勝とうが負けようが定期的に最前線の兵力が交代していたようですね。
一気呵成に攻撃し、ある程度の戦果をあげたらすぐに退き、また攻め込む。
そうやって少しづつ元軍を削っていく。
したがって元に反撃する余力があるなら押し返すチャンスはいくらでもあったはず。
ところが実際は元軍はどんどん後退するばかりでした。

>菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
>別の一隊は別府の塚原へと退却。
>塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
>敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
>季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
>旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
>季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
>肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
>たまらず敵は退却を始めた。
>武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

238 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:49:01
そして集団騎射をメインに戦う以上、日がくれたら自陣に帰還するのは当たり前です。
(今昔物語などには闇夜であるにもかかわらず正確に敵を射ぬく武士の逸話も出てきますが、あくまで逸話に過ぎませんし仮に可能であったにせよ
さすがにそんな武士は「中にはそんな達人がいてもおかしくない」程度しかおらず、全体としては夜になったら射撃は不可能と見るべきでしょう。)
武士が勝って元が退却したからといって水城に帰還するのに何の矛盾もないわけです。

239 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:50:48
>あまたの軍勢、一日の戦に耐えかねて、博多、筥崎を打ち棄てて落ち入りければ

結局これしか記録が無い
最初から水城に本陣を置いていたなんて記述はないんだよ
ここから出撃してさんざん元軍を打ち破ってハラ減ったからメシ食いに帰るか
なんてのは幻想

240 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:52:37
一方その頃元軍は
ほうほうのていで海上を逃亡中でしたw

元軍が勝ってたなんてのは幻想

241 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:53:28
それ以前に、当時の兵站能力からして、物資の事前集積をしていない場所に
集結する必然性が見当たらないよな。

242 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:54:14
だから水城に本陣を最初から置いてなければ「帰還」にならないって
その水城本陣説のソースを出さないとダメ

243 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:57:17
ソースつうか状況証拠はすでに提示されてるな
>>233>>241

244 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:02:11
>>214
蒙古襲来絵詞を読めば、博多の息ノ浜に軍兵が集結しており、経資の司令部も
そこにあったことが書いてある。

一方、蒙古軍が息ノ浜に上陸したとしている資料が多い。(ソースはわからないが)
日本軍の集結地、前線司令部の所在地の前面に蒙古軍が上陸しても日本軍は
無抵抗で上陸させたのか?

また箱崎の松原に蒙古軍が司令部を置いたことは八幡ノ蒙古記に書いてある。
ここにも日本軍はいただろうし、いなかったとしても息ノ浜から
見通せる、距離にして1キロぐらいの場所だ。この場合も?

松浦党の水際戦闘は記録に残った、博多・箱崎のそれはたまたま記録に
残らなかった、というだけではないか?

245 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:05:43
景資が箱崎正面に進出していたのは確実だが、経資がどこにいたのかは
不明なんだよな。
ただ、経資が前方に進出していたなら、何らかの文献に記述がないのが
おかしいし、そうなると経資は当時太宰府にいたと推定するのが妥当。
で、太宰府から図上距離で3キロない水城なら、当時の交通事情を勘案
しても第一線と後方地域の関係と考えても差し支えないと思われる。

246 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:09:02
>>244
息ノ浜は景資じゃないの?

247 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:11:16
経資がどこにいたのかが不明というのは残念
ただ、大宰府もしくは水城にいたという推定が出来れば上等
ちゃんと本陣が水城と記述があれば
>博多、筥崎を打ち棄てて落ち入りければ
ウソつけさすが宗教史料と言えたのにw

248 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:16:27
なんで元軍は
橋頭保も維持せずに
夜逃げしたの?

ってとこを回答しないとね

249 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:17:21
>>246
ごめん、絵詞に書かれているのは景資だった。
そうなるとたしかに経資は大宰府にいた可能性があるな。

250 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:20:06
経資が大宰府にいてくれないと
帰還にならん
どこかに証拠がないものか

251 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:24:44
もはやスレ違いだけどコレ思い出したw

「間もなく現れた日本勢と闘ったが忽ちにして敗れ、申は南漢江に投じて溺死して果てた。
この戦場は弾琴台と云って、稲田多く、馬を馳(はし)らせるのに不便な処であった。
この戦場より南一里の処に姑母山(こぼざん)と称する古城がある。
山峡重なって中に川が流れ、一夫守って万夫を防ぐに足る要害である。
日本軍は必ずや此処に朝鮮軍が拠(よ)って居るだろうと斥候を放ったのに、只一人も守って居ないのに驚いた程である。
呆(あき)れながら越えて見ると、稲田の中に陣を布(し)いて居た。
後に明将李如松(りじょしょう)が日本軍を追撃して此処を過ぎた時、申の無策を嘆じたと云う。」

せっかく防衛に有利な拠点があるのにそこを使わないなんてあり得るのか?
と思ったが少なくともお隣の国ではありえるらしいw

252 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:41:25
ウヨ妄想的に都合の悪い史料が研究の主流である→気に食わないので、難癖や妄想で貶める→当然、誰も相手にしない→ムキになって粘着、コピペ爆撃

確かに一律あぼんしたいわこういう手合いは。

253 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:44:59
ここはサヨク史観全開の妄想スレじゃないから仕方が無い

254 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:45:38
なにこれ
スレ盛り上げ役?

255 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 15:47:30
蒙古襲来絵詞が研究の主流なことが都合の悪い人ってどっちかって言うとサヨクのほうじゃね

256 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 16:15:24
>>252は色眼鏡と思考停止の達人だから一目おいてあげよう

257 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 16:15:53
>>251
要塞があるのに使わない
日本人には思いもよらない発想だな

258 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 18:55:15
蒙古襲来絵詞を見ると、少弐景資の顔は白く塗られている。竹崎季長の顔も白く
塗られている。その他大勢の顔は肌色に描いてある。

これは上級武士を示す記号かとも考えられるが、それとも本当に化粧したのだろうか。
源平時代、熊谷直実に討たれた平敦盛は化粧していたと書かれているが、後世、その風習が
鎌倉武士にも広がったのかもしれない。
さらに下れば桶狭間で討たれた今川吉元も化粧していたし。

259 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:08:03
まったくのド素人の疑問なんだが
まず、水城の話になってるけど
双方、不眠不休で闘うわけにはいかないから一旦休憩しなきゃいけない。
休息をとる時に、折角すぐ近くに水城という絶好の拠点があるのに
わざわざ何にもない平地や、市街地の博多で夜営するメリットなんて何処にあるの?
そういうとこに陣布くのって普通自分から敵領地に攻めてる場合
もしくは両軍ともに拠点から遠く離れてる場合なんじゃないの?
あと、狂歌や日蓮とかについてだけど、コレ戦を知らない庶民や坊さんが
戦闘が終了して引き上げてる武士達を「逃走した」と誤解した可能性は?
現在でも、一般人の中で軍事行動に詳しい奴なんて殆どいないじゃん。
武士が日頃訓練してたとはいえ、当時は戦乱の時代というわけじゃないし
囃したてた庶民とかにそういう戦の基本的な知識が無かったという可能性は?

260 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:18:47
戦場⇒福岡平野 城壁⇒水城 城⇒大宰府
で考えたら、鎌倉幕府軍からすれば城壁は死守しないといけないから
そこまで引き返して陣取るのは普通だろ、城壁まで引いて陣取ったら
負けってありえん。
敵がすぐそこにいるのに市街地で寝泊りはあまりに危険すぎる。
寝てる間に包囲されたどうするんだ?3万の大軍相手に少数の鎌倉幕府軍
が市街地で寝泊りしないと蒙古軍の勝ち!!って本気でいってるんか?


261 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 22:25:56
文永の役での焦点は、少数の鎌倉幕府軍が大軍の蒙古兵に対して日本の重騎兵が
どれだけ強かったかだろ?なんせ副将討ち取られて一泊もせず夜逃げw
3万人分の武器防具食料と900隻の船を用意するのには何ヶ月もかかったはず
にもかかわらず上陸用の小船200〜300隻を回収せず大慌てで逃げるんだから
余程やばかったことが推定できるのに…蒙古軍の勝利!!はマジウケルw

262 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:02:30
>>260
>そこまで引き返して陣取るのは普通だろ、城壁まで引いて陣取ったら
>負けってありえん。

勝ち負けはともかく、それは野戦を籠城戦に切り替えたってことだろ?
「水城で支えて見ん」という言葉もそれを表しているし。

263 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:22:40
>>262
敵が夜間に水城を包囲しなければ、明け方から打って出て戦うだろ
敵は3倍以上なんだから、野戦で包囲を食らうのが最悪。中途半端に突出して水城を抜かれるのがその次に悪い。


264 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:52:35
博多に本陣を敷いたにしろ、敵勢が多いので水際撃破から機動防御に切り替えて
水城に司令部を移転した で済む事じゃね?

265 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:57:49
水城って防塁だと思ってたけど、
城砦なの?

266 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 00:09:41
>>265
防塁。三国志の洛陽前面にあった関に近いかな。
要地に抜ける谷間の道を塞ぐ形で築城するから、敵は迂回も出来ず強化地点の攻略を強いられる

267 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 00:13:40
あーでもwikiには高さ10mとあるし、10mの壁を防塁とは言わないかも


268 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 02:23:28
>>239
(個々の)出撃地点が水城でなくとくも、戦闘後に水城ののよな要塞に集結するのは当然のことだろ
「言葉の柔軟な使い方」というのを学ぼうな

269 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 02:26:33
http://blogs.yahoo.co.jp/ftomoki2005/archive/2007/02/23
なかなか強固な守りだな

270 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 02:30:04
>>262
だからさ、状況を考えろって
近くに拠点があるんだから、そこを使用するのは当然だろ
そうしない場合も状況次第ではあるだろうが、この状況下では妥当だろ
わざわざ野営するメリットが何もない

というか、
水城に戻る = 野戦を籠城戦に切り替えた
とするお前さんの思考回路の方が摩訶不思議だよ
翌日になったら普通に再出撃すると考えれないのか

271 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 02:50:38
そもそも幕府の防衛ドクトリンはそういう意味で言ったら
最初から水城で籠城戦だよ

単に主力を温存した状態(主力は最初から水城を動く気ナッシング、本州からの増援も水城へ)で
活きのいい地元の少数精鋭がうってでて試しにジャブ打ってただけじゃん
お試しジャブがクリーンヒットしちゃったのか元軍のほうが水城攻める前に逃げちゃったけど

272 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 09:41:17
>>271
最初から主力は水城にあって動かなかったというのは
どこに書いてあるんだ?
教示してくれ。

273 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 11:11:40
>>269
いまだにこんなしっかり残ってるんだな

274 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 11:43:06
>>260
滑稽なことに本気みたいだよ

275 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 12:13:53
八幡愚童訓には、少なくとも兵糧馬料が備蓄されて準備されていた記述があったりするが>水城。
ウヨ史観によると宗教者がかかわったものは委細構わず信用できないそうだから駄目だなw
こいつって自慰史観研究会の残党なんだろうか。
前はニュースになるほどだったが、最近はこういう手合いがネットで喚くだけになっちゃったね。
客観性と説得力が致命的に欠けているから。

276 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 12:34:51
>>275
八幡愚童訓の記述ってこの部分かい? >>235
これだと準備されていたってことになんないよ。水城の紹介部分だもん
他にあるのならスマソ

しかし八幡愚童訓はウヨが全く信用できないと言うから
どっちにせよダメだなw

277 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:06:50
ところで
なんで元軍は
橋頭保も維持せずに
夜逃げしたの?

278 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:12:33
正嘉三年(文永の前)に幕府が修築命じた文書を根拠にしたものかな?>水城最終ライン
いずれにせよ、敗走した日本軍が集結したところを考えると、ある程度拠点として打ち合わせていたんだろうけども。
当初の本陣の箱崎神宮は焼けちゃったし。

279 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:14:33
強固な防衛施設があれは当然そこに集結する
これは日本に限らず支那でも元でもおよそどこでも常識以前のことなんだろうけど
>>251みたいなこともあるんだなー
>>251で全く防御に適さない水田地帯に陣を張って案の定あっさり日本軍に蹂躙された朝鮮の武官が
このスレ見てたらやっぱり「水城に集結するとかありえない」とか思うんだろうなw

280 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:18:19
>260
喧嘩をした事ない人間が、虚勢を張るような話だろ。
「大軍にビビッてやんのw   ダセェwww」と云っているのと変わらん。
命の取り合いもさしてない、素人の喧嘩と同義にしか語れない厨なんかほっておきなはれ。

281 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:19:18
いや、なんでそのコピペを必死で引っ張るのかわかんないが、同じ国の人間からも無策といわれている話じゃん。
もしかしてウヨ史観に誰も賛同しない→朝鮮人に違いない!→よーし朝鮮人を馬鹿にする話に持ち込んで嫌がらせしてやれ!
という定番のウヨ妄想の袋小路じゃないだろうなww

282 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:20:07
むしろ>>251みたいな間抜けなことが歴史上あったという方が驚きというか
にわかに信じられんぐらいだ

防衛施設があるのに使わなかった
水城があるのに使わなかった
という議論なら
んなばかなソース出せって話になるだろうけど
その逆で噛みつくとか意味わからんなw

283 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:20:52
もしかして総合スレ2あたりで、水城への大友勢敗走を否定できないからそれは指揮官が個人で逃げただけなんだ、とトンチンカン喚いた奴がまだいるの?
しばらく消えるまで放置したほうがいいか。

284 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:21:38
無策といって嘆いたのは明軍でわ?

285 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:22:19
図星突かれて速攻必死になっているあたり、自慰史観賛同者以外は全員外国人病患者らしいな。
わかりやすすぎる(笑)

286 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:25:49
自慰史観賛同者って何?
鎌倉武士は一騎打ちしてたから元軍に負けたとかそういうアホみたいなこと言う人のこと?

287 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:28:23
必死になりすぎて文永の当初は日本側も野戦迎撃したことも結局貶めているしな。わけがわかんねぇよ。
お前の理屈によれば、日本側は野戦で蒙古を蹴散らしたことになってなかったか?
都合悪い史料を一切イチャモンで無視してまで……。

288 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:40:13
八幡愚童訓にも、たとえば菊池勢の「百騎」「二手二分」「重勝負」のように集団戦が描かれ、
別に一騎打ちだけしてたなんて書いてないわけだが。
手柄取るために一騎打ちがもてはやされたのは他の群書にも見られるが、だからってそれだけだったなんて書いてないし。
脳内で造り上げたサヨに全部見えてるんだろうなぁ、自分に賛同しない奴らは。
だから貴重な史書でさえ全否定。
この期に及んで、都合のいいところだけやっぱり愚童訓も信じますなんて言い出さないだろうなw

289 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:44:12
>>260
>>280
弘安の役で防塁築いたことですら
それは武士弱かったからだとか言い出す阿呆もいたしな
バカの壁って本当にあるんだなと思わせられる

290 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:48:50
だから自分に一部が都合悪いからって史料全否定するのはやめい、と前からいわれているのに。
やっぱりブーメランしているじゃん(つかこれもループだ過去レスの)
自慰史観論者が勝てるのは、脳内で造り上げた間抜けな相手だけなんだから。

291 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 13:57:57
自慰史観賛同者って何?
元軍や朝鮮の弓は和弓より優れているので武士が勝てるわけが無いとかそういうアホみたいなこと言う人のこと?

292 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 14:52:23
結局、水城が最初から本陣で兵糧を備蓄していたという史料はないの?
普通考えたらそうだよ、なんて論法はなしにして。

こんな重要なことがどこにも根拠が無いなんてことは考えられないよ
どこにも書かれてないから博多は焼けなかったという話は通用するのに

293 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 15:00:10
なるほど
では鎌倉武士は水城という防衛施設があるのに
そこを使わず
野っぱらに物資投げだして
ピクニック気分で戦ったにもかかわらず
元軍を撃退しちゃったのか

294 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 15:01:46
博多・箱崎を野っぱらなんて言ってたら笑われるぜ

295 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 15:02:26
>>288
日本には集団戦法がなかった、と言うとたちまち一騎打ち論者と見なされるから、
日本には「蒙古式集団戦法がなかった」と言えばいいのかな?
もちろん「日本式集団戦法はあった」という意味だ。

296 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 15:04:28
素朴な疑問なんだが

元軍が圧勝してたんならなんでたった一日で
逃げ出したんだろう?

297 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 15:05:52
>>293
それでいいんじゃないのか
ピクニック気分で元軍撃退で
水城なんて本来必要ないだろう最強なんだからw

298 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 15:09:25
結局どっちが圧勝なんてことはなかった
決着着かず日が暮れそうになったから
元軍は船へ帰り鎌倉軍は水城へ行った

こんな簡単なことなんでわからないんだ

299 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 15:11:12
互角なら橋頭保維持するんじゃね

300 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 15:13:16
その論法なら
鎌倉軍だって互角なら博多にそのままいるだろうよ

301 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 15:35:11
>>292には誰も答えない

302 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 16:15:49
陸と陸の話と
船と陸じゃだいぶ違うと思うが

303 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 16:46:06
元軍が船に戻ったのと武士が水城へ帰ったのと
どっちが先なんだ

304 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 16:55:53
>>300
三倍以上の敵相手に、巧く遊撃して戦い敵を海際に押しとどめた なら、それは互角以上だろ。

現地軍の目標は援軍が来るまで時間稼ぎなんだから、港町の不動産に固執する必要は無い。


305 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 17:11:16
>>304
だから、結局どっちが圧勝なんてことはなかったんだろ
決着つかず日が暮れそうになったから
元軍は船へ帰った
鎌倉軍は水城へ行った
双方夜襲が怖いからな

それでいいんじゃないのか

306 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 17:16:09
夜襲が怖いだけなら
船まで戻るかね
それこそ必死で陸上の自陣を死守するんじゃ…

翌日また危険を冒して揚陸からやりなおすのだるくね?

まあ武士側にしちゃそこ狙うつもりもさしてなかったけど
元軍はそんな事情はしらんだろうし

307 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 17:26:40
もしも鎌倉軍圧勝で船まで逃げたのなら
いくら要害の地であるといっても
沿岸まで結構な距離のある水城へ行かずともいいのではないのか
いやむしろ揚陸に備えてその場に陣取っていたほうがいいじゃん 見張り立てて
水城に帰らないと寝られないし食事も出来ないわけでもあるまい
元軍はもういないのだから

そこがどうしても疑問だわ
橋頭堡築かれて元軍が陸にいるのなら
安全策で水城に退くのならわかるが

水城にそもそも本陣があったとすればそんな疑問は解消するのだけどね。

308 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 17:34:35
結構な距離かねぇ
現代の博多湾から水城ですらさほどの距離でもないのに

309 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 17:37:43
博多湾全域に水際防御線引けるぐらい人員分散させて
ただでさえ寡兵の武士に何か得があるのか?

310 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 17:45:47
博多湾のどこから上陸するかは元軍が決められるが
大宰府へどこから攻め込むかは元軍には決められない

無理に山越えして自滅したいなら別だが
元軍は泣こうがわめこうが水城を突破するほかない

一方弘安の役では防塁のせいでもっと選択肢が狭まり
博多湾のどこに上陸するかすら元軍は…以下略

311 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 18:34:46
>>308
グーグルアースで測って見た。
現在の地名「赤坂」から水城跡まで直線距離で12.4km。道なりにすると2〜3割増えるから
約15kmだろう。
水城跡から太宰府政庁跡までは直線距離で1.9km。

312 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 18:39:31
攻撃と防御の違いも勘案せずに圧勝だそうじゃないと罵りあってもしょうがないべ。

攻撃は「敵を戦場に捕捉・撃滅」しなきゃ成功にならないが、防御は「敵の攻撃を破砕」
、つまり極論すると敵を一人も倒さなくても「敵の攻撃を失敗させ」れば成功になる。
防御に際して貼り付け部隊での陣地防御か、機動防御かは永遠の課題なんだから、
圧倒してたなら海岸線に張り付かなきゃおかしい、って考え方自体がおかしい。
戦闘力の集中という観点から言えば機動防御の方が有利だから、彼我の戦闘力を
考えて機動防御を選択しても何らおかしくない。

313 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 18:42:44
>>292、307
わかりやすく説明してやる
まずはグーグルマップをみる地図を検索で大宰府とでも入れてクリックする
すると博多周辺のマップが表示される。
地図の右上にその他、地図、航空写真、EARTHがあるだろ、その他にカーソルを合わせて
地形をクリックするとマップが凹凸感あるやつになるよな、これを見ると福岡市周辺は
綺麗な半円形の山に囲まれてるのが解るだろ、ところが大宰府のある所だけちょうど半円形の真ん中
部分が谷なっていて福岡平野を抜けて本州へ行くにはこの谷を通らないといけない。
だから谷の近くに大宰府を置き谷のちょっと手前に幅80m高さ10m長さ1,2`の防壁(水城)を築いて守った。
博多には数千の御家人がいて馬も1000頭はいただろう、数千人の食料や馬小屋、馬のえさなど何処に置いておけばいいかわかるよな?
地元にいる豪族や御家人は地元を守ろうとして平地まで出てきて陣どったかもしれんが、地元でない地の利を知らない
地方出身の御家人は何処にいれば一番いいかグーグルマップ見れば戦闘の素人でもわかるような?
戦闘のプロが3万相手に平地で寝泊りするような馬鹿ならそんな馬鹿に敗れたのは所詮それ以

314 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 19:23:31
今でも博多から水城は遠いよ

315 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 20:30:22
>>292には誰も答えない

316 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 20:53:05
当時の水城の防御力ってどの程度だったの?
今も残る土塁だけ?

317 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 20:55:42
>>314
15kmって結構遠いよな
検索してみたら、東京からだと川崎、狛江、川口、松戸。
大阪だと尼崎、吹田、八尾。
歩きもいるだろうに気が遠くなるよ。戦争の後で。2時間じゃ着かないぜ

318 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 21:24:53
「元軍は船へ帰り、日本軍は水城へ帰った。決着つかず」なんてねえ・・・
元軍総司令官の忻都が侵攻を断念して撤退を始めたんだから。
防衛に成功した日本側の勝利、になるわな。どう考えても。
間違っても引き分けにはならんわな。どう考えても。

319 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 22:44:06
>>317
だから

>かくゆゝしき古城なれども、あまたの軍勢、一日の戦に耐えかねて、
>博多、筥崎を打ち棄てて落ち入りければ

なんですよ

これをどうしても認めたくない人が多数

320 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:08:58
>315
本陣に関する資料が無い以上、軍事的合理性を基に類推するしかない。
本陣は別にあった派は、軍事的合理性を基に類推して出せばいいだけ。

>317
例えば、関ヶ原の合戦で東軍が集結した赤坂から関ヶ原の東西軍接触線
付近まで図上距離で11kmちょっと。>311基準なら12〜13kmってところで、
赤坂(博多の方な)〜水城とさほど変わらない。関ヶ原の場合、先頭が午前
2時頃出発して全軍が布陣するまで5時間程度。
つまり、第一線と集結地の距離としては、赤坂〜水城はそんなに遠いという
感覚ではないと考えられる。


321 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:34:13
関ヶ原に例えるとわかりにくいよあれは特殊だもん
じゃ関ヶ原が一日で終わらなかったら東軍は赤坂に帰って西軍は大垣城にメシ食いに帰るのかい

他にもっといい例がないかな…はて?

322 :日本@名無史さん:2010/06/09(水) 23:39:28
>>317
車や電車に慣れた俺ら現代人はそう感じるけど
昔の人にとっちゃ屁でもない距離なんじゃないの?

323 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 00:03:46
>>321
清洲城〜田楽狭間は20km以上。まあ、否定したい派には何を持ち出しても
特殊扱いされそうだがな。

324 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 00:12:01
三方原と浜松城だと、直線距離で10キロぐらいかな。いい加減な測り方
したけど。2〜3割増しなら、これも12〜13キロぐらいだから、赤坂水城
間とそう変わるものじゃない。

325 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 01:42:53
>>295
それでいいんじゃね?
だが、日本式集団戦法が蒙古式集団戦法より劣っていたというのとは別物だがな
どちらが優れていたかは知らんがね
あと、竹崎季長とかのはそれ以前に数の論理の段階での敗北だから

326 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 01:47:55
>>321
関ヶ原は両軍が集結しており、陣を敷いている状態
この状態で下手に城へ戻る動きをすれば追撃されて損害を被る可能性がある
一方、文永の役では日本側は陣を敷いてたわけじゃないから、当然拠点に帰還・集結する

状況が違えば当然行動も違ってくる

327 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 01:53:02
>>316
どの程度といわれてもな。結局戦場にはならなかったから憶測でしか語れんぞ

328 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 06:05:03
距離云々以前に地理的状況だよ、とりあえずグーグルマップ見ろ
福岡平野周辺の地形は天然の要塞、ちょっと遠いから得体の知れない3万の大軍の
目の前の市街地で寝泊りはあり得ん、アホでもわかることなんだけどな。

>>319
先走って突っ込んだ馬鹿はコテンパンにやられてるよ、それはみんな知ってる。
博多に居た御家人全員が戦ったわけじゃない(半日では集結できん)1000か2000
かそこらの御家人相手に奇襲攻撃した3万の大軍が上陸用の小船300隻を回収もせず
大慌てで逃げたことからどっちが勝ったかは明らか。



329 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 09:09:00
数万の軍勢が丸一日攻撃してたかだか数キロすら進めずに
敗退→夜逃げ

これで互角ってw

330 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 09:27:00
>あと、竹崎季長とかのはそれ以前に数の論理の段階での敗北だから
>先走って突っ込んだ馬鹿はコテンパンにやられてるよ、それはみんな知ってる。

あれれ?
御家人に蹴散らされたんじゃないの?
君達の大好きな蒙古襲来絵詞ではそうなってるんじゃないの?
上で言ってた事と矛盾してますよ
段々真実がわかってきたけど受け入れたくないってかんじだね。
博多が焼けた言い訳といい、大友が逃走したいいわけといい
相変わらず見苦しいですぞウヨくんw

331 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 10:01:45
>>321
西軍は関ヶ原盆地を囲む山に陣地構築して待っていた。
その跡はいまでも残っている。

332 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 10:49:56
>>330
蒙古襲来絵詞に季長がコテンパンの様子は描かれているけど
見たことないの?

333 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 11:57:37
>>325
蒙古式集団戦法と日本式集団戦法の違いはどこから来るかというと、それは
組織だ。

蒙古軍は10人、100人、1000人、10000人を単位とするピラミッド組織で、
それぞれに長がいた。いわば近代軍隊のはしりだ。
このような軍隊の戦法はその組織にふさわしいものだっただろう。
例えば突っ込んで来る武士を取り込むとき、正面は引き、両翼は回り込んだ
と書いてあるが、これは個々の兵士の判断ではなく、それぞれの百人隊長の
号令で行ったに違いない。
またそのような動きができるまでにはある程度の規模の集団による訓練が
あっただろう。

対するに日本軍の組織は、数人から多くて200人ぐらいの一族集団が
大将に直結していた。このことはたった5人を率いる竹崎季長が直接、景資の
指示を受けていることでもわかる。
このような組織で上記のような動き、あるいはそのための訓練をやれと
言っても無理な話だ。

おっと、どちらが優れているかは判断に任せよう。

334 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 11:59:39
でも武士の集団戦の前に負けちゃった

335 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:58:46
日本人なら、自賛史観に賛成して当たり前だ!
そのためなら、ほかならぬ日本の先人が書いた史料でもイチャモンつけて貶めていいんだ!
賛成しない奴は、単に「いや、お前らが勝手に決め付けたこと以外もその史料に書いてあるぞ」と事実を指摘しているだけでも中国人・朝鮮人に違いない!
コピペ荒らしで嫌な気分にさせてやれ!

……何この精神の貧困さw

336 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:59:48
武士は個人で蹴散らしてくれたほうがカッコいいのになあ

337 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 13:58:46
蒙古人襲来対馬壱岐致合戦之間、所被差遣軍兵也、且九国住人等、其身縦雖不御家人、有致軍功之輩者、
可被抽賞之由普可令告知之状、依仰執達如件、
  文永十一年十一月一日
              武蔵守在判
              相模守同
   大友兵庫頭入道殿

(大友文書)

幕府によると地元守護の名目で動かない奴らがいた、と批判しているけど。
有名な松浦党はじめとしていくつかの武士団はもろ本貫地を攻撃されているから、動けないのは当時の武士としては当然なんだよなぁ。
この辺りどう捌いたんだろう。
(松浦党は文永の役での恩賞は受けていないから、原則論で無視された?
それとも弘安の役の後の主要三氏による鎌倉直訴で得た恩賞に含まれていたと見るべきか?)

338 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 14:02:35
さすがに運が良かっただけって言う奴はいないな

339 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 16:22:22
なんか、圧勝だとか何だとか変なこと言っている人たちに簡単に話するよ。

元軍の目的は?⇒威力偵察でも、武力占有でも、幕府に対する恫喝でも、勝つ事。
            つまり、効果の見込める土地をある一定、一時期でも占有すること。
武士軍の目的は?⇒威力偵察でも、武力占有でも、幕府に対する恫喝でも、どうでもよい。
              来た賊軍を追い払う事。つまり、土地をある一定、一時期でも占有されない事。

で結果は?攻めてきた元軍は、橋頭堡も築けなかった。
これがすべての答えでしょ?

340 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 17:22:57
>>330
陸続きの国と違って島国の防衛の困難さはなんといっても奇襲攻撃されること
しかも大軍ならなお更防衛し難い、なぜなら島の何処でも大軍押し寄せてきても
対抗できるように常時準備するのは不可能だから。
大軍にいきなり奇襲攻撃されて無傷で勝つなんて不可能、海岸周辺にいた小規模の
豪族御家人は負けてる。
ところが午後になって本格的に攻撃してきた鎌倉幕府軍は奮闘して副将まで討ち取ってる。
数では圧倒的に不利なのに少数で奮闘した御家人たちのせいで橋頭堡が築けず。
           ト ン ズ ラ
わざわざ新造した900隻の船で一ヶ月以上の食料積んで行きこんで上陸するも
準備不足の豪族御家人しか勝てず(圧倒的数的有利で)午後から準備整えてきた
やる気満々の御家人にはフルボコにされて圧倒的数的有利なのに副将まで
やられる始末、上陸用の小船200隻以上も回収せずに大慌てで逃げる。

341 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 20:14:34
>>330
自分の語学力の無さをこれ以上バラさんでもいいだろうにw
もう一度わかりやすく言ってやるよ

蹴散らされたのは「先走った一部の武士」
他は、海岸周辺にいた小規模の豪族御家人ぐらい

これが何を意味するかぐらいは理解しろよ

342 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 20:32:34
>>333
戦闘中千人隊内の百人隊をどう動かすかは、千人隊長が百人隊長に命令→百人隊長が兵士に命令したの?
なんか凄いね

343 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 20:33:32
>>333
どちらが優れているか・・・・寡兵にもかかわらず勝利した日本側が優れていたでいいんだよな?

数・組織戦の両方で上回っていあたにもかかわらず元は敗北した。となると「武士無双」ということになるが

344 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 20:46:40
>342
この世には戦略単位、作戦単位、戦術単位、戦闘単位という言葉があってだな

345 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 20:52:43
>>333
わざわざ近代と比較しているところが笑えるね。何も理解できていない証拠だな
この時代では両戦法にそこまでの優劣はねぇよ。元寇での結果みりゃわかんだろ?
ただ、近代になると兵器・戦術面での発展があり、日本式集団戦法に限界が来たから廃れたというだけのこと

346 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 21:18:05
>>345
元寇での結果って、「倭兵大敗、伏屍麻の如し」っていう、あれか?

>近代になると兵器・戦術面での発展があり、日本式集団戦法に限界が来た

明治時代まで鎌倉武士がいたみたいな言い方だな


347 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 21:18:50
>345
ランチェスターの一次則に照らし合わせればその言は正しい。
だが、それではカンネの戦いはあり得なくなる。これをどう説明
する?

いささか煽りくさい言い方だが、他人に
>何も理解できていない証拠
などと言い放つ以上、そこそこの戦術知識はあるだろうから説明
できるだろう?というか、俺が何を言いたいのかぐらいは分かるだろ?

348 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 21:53:17
おまえら博多湾周辺知らなすぎ
一度行ってみろ

349 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 21:53:33
>>344

むしろ元軍の問題は、自分の部隊を自分で指揮出来ない事にある様な

350 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 21:55:48
>>342
命令がすべてトップから出るのなら中間管理職は要らない、という話になるな。

351 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:28:23
>>347
>だが、それではカンネの戦いはあり得なくなる。これをどう説明する?
なぜ、そう極論に持ち込もうとする?

当然ながら、近代において使用されており、過去にも使用されて実績を残した戦法は多々ある
しかし、近代で使用されているからといって、過去での使用が他より優れているかといえば必ずそうというわけではない

352 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:29:55
>>350

日本側もある程度家格で指揮系統は出来てたんじゃと思う

数人が千人に向かっても話にならないし、数人〜数十人からなる5千人の集団へ、総大将は命令を出せない。

全集団に伝令は出せないんだから
総大将の命令を受けて小集団に伝える人間なり、前線で家単位を纏める人間なりはいただろう。


353 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:33:54
>>346
>「倭兵大敗、伏屍麻の如し」
これ自体がそもそもあり得ない
日本側に戦略的な敗北は一度もなく、戦術においても勝った負けた以前に
負けた場合大敗となるほどの人数を日本側は投入していない

>明治時代まで鎌倉武士がいたみたいな言い方だな
前後の文脈ぐらい考えてから発言しろよ。
そこまでいちいち詳しく丁寧に説明してたら何行もかかるし見る側も見てられんだろうが

354 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:34:45
事前訓練と、陣形なりの決め事があって
後は指揮官の責任で行動させないと、柔軟性に欠けるんじゃないかな。
何かやらせるには銅鑼でもいいし、遠ければ伝令を出せばいいが、それを聞く聞かないは先の部隊長の責任。

見えない位置から敵が迫ってるかもしれないし、前線は崩れそうかもしれない。100Mも離れたら判らない。


355 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:37:24
>>352
当然日本側にも指揮系統はあった
源平合戦や奥州討伐、承久の乱のように、万単位の軍勢が動くには必ず指揮系統が必要になる(万単位じゃなくてもだが)

356 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:42:54
>351
要するに、何も分かってないんだね。
自分でも分かってないのが分かってないのか、それとも分からないけど
とりあえず反論したくてそういう言い方になったのか。

もう一度チャンスをやろうか?ヒントは「ランチェスターの一次則」だ。
これを頭に入れて、>333>345を読めば、一見おかしな事を言っている
ように受け取れるはずだから。

357 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:46:36
>>355
そうだよね。役職上は大将に直結してたのかもしれないけど、指揮系統が直結してたら戦にならない。
 
日本の勝因は>>354に書いた下級指揮官への権限委譲(というよりそもそも真っ当な指揮権が無い)と、騎乗兵の数あたりになるかな。
短弓じゃ届かない位置から入れ替わり立ち代わり、あらゆる方向から矢を射懸け、少数編成かつ騎乗してるので追撃出来ないわけで
一方的になっても不思議じゃない。大陸でのモンゴルの強さも納得。

358 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 22:47:02
>356ちょっと修正というか補足
>一見おかしな事を言っている
は>347が、って意味ね。

359 :342 349 352 357:2010/06/10(木) 22:54:26
ID出無いから誰が誰だかわからんぞw

360 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:08:59
ちょっとまって、>>356>>358
>>351を擁護してるの?批判してるの?

361 :351:2010/06/10(木) 23:18:04
>>356
どうやら俺の頭の中と君の頭の中で思い描いているのが違ったようだな・・・
だとすれば、もう少し詳しく述べてくれんと何とも言いようがない
俺は賢者じゃないんで1を聞いて10を理解なんてできんからな

362 :347=356=358:2010/06/10(木) 23:27:56
>360
名前欄の通り。

>361
いや、少なくとも他人に対して
>何も理解できていない証拠
とか言い放つ人間なら、>347は過不足無く理解できるレベル。つまりは
そういう事だよ。

363 :日本@名無史さん:2010/06/10(木) 23:35:04
>>362
それでお前さんはなにがいいたいの?
見ていて意味不明なんだが・・・・

364 :p292149.hkidnt01.ap.so-net.ne.jp:2010/06/10(木) 23:35:51
おっと、補足しておくと俺は>333とは別人。
フシアナ一応試してみるが出来てるかな?

365 :p292149.hkidnt01.ap.so-net.ne.jp:2010/06/10(木) 23:37:22
>363
他人に>345みたいな態度をとれる奴にむかついているだけだから、
関係ない人はスルーしてくれ。

366 :351:2010/06/10(木) 23:51:17
>>362
俺に理解力が無いだけか、あるいは君の文章力がないだけか。その両方か
というか、>>365
>過不足無く理解できるレベル
とか言ってる時点で君は
>他人に>345みたいな態度をとれる奴 = 俺
とさして変わらんわけだが、同族嫌悪?

いずれにせよ、>>351で何が言いたいのか不透明すぎて何とも言いようがない
最初に俺が考えたことは違うみたいだしな

367 :日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:05:09
なんか自演くさいな

368 :359:2010/06/11(金) 00:07:27
鎌倉時代には地方に封じられ土着した分家、主従十騎に満たない者が沢山いて
そういった連中は手近な家と徒党を組んで戦うか、大軍の将に引っ付くかして戦ったわけだろうけど
 
日本的なのは、そんな集団はロクな連携も出来なかったに違いないとかではなく
そういった主従が練度が高く、密集せずとも秩序を維持出来た所にあるんじゃない?
大名が出て来るとそういう手合は指揮下に組み込まれたわけで。

あと幕末になると何故か塹壕も掘らず、横列陣形で戦ったわけだけど、無線と銃の発達した現代では最小軍事単位は8人程度。
条件が違えば求められる方法も違うかと

369 :p292149.hkidnt01.ap.so-net.ne.jp:2010/06/11(金) 00:09:46
>366
いやあ、すまんすまん。君は戦術的知識があると思ったからさぁ。
結果的に
>>他人に>345みたいな態度をとれる奴 = 俺
>とさして変わらんわけだが、同族嫌悪?
になっちゃったね〜、ごめんごめん(棒

いきなり回答全部出したらまたぞろ言い訳しそうなんで小出しで。


そもそも、最初の時点で「この話題にランチェスターの一次則など
関係ない」と出てこないとおかしいんだよ、普通に戦術の知識があったら。

370 :日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:40:00
硬直的指揮体系の古典的密集陣形は運動性に難があり、従って側面や背後を痛打されればその数に比して簡単に崩れる

という話じゃないの?
>ランカスター

カンネーは敵の衝力を活用した教科書的な包囲だけども、鎌倉武士は基本弓で打ち物は崩れてからだから、適応されないと


371 :351:2010/06/11(金) 00:43:41
>>369
いやだからさ、最初からランチェスターについてはスルーしてんじゃん
だからこそ>>356で君がランチェスター云々言い出したとき>>361で何とも言いようがないと言ったんだが

>>351>>347で君が「カンネーでの包囲殲滅戦は近代でも使われている(その発展型)」みたいなことを言いたいのかなと推察してその回答だったわけだが


372 :日本@名無史さん:2010/06/11(金) 00:47:06
>>369
いや待て
それだと>>347の一行目と二行目がつながらなくないか?

373 :日本@名無史さん:2010/06/11(金) 05:41:01
>>352
そりゃ指揮系統はあるだろう。伝令もいたに違いない。
私が書いたのは組織の話。組織の現れとして戦闘方式が出て来る。

蒙古軍の一人の千人隊長がある方面を担当したとすると、その下には10個の百人隊がある
わけだ。この10個の百人隊が互いに連携して動く。だから千人が千人の力を発揮する。

対して日本軍は、数人ないし200人の集団が個々に突っ込む。
竹崎はほんとうに5人で、最後は一人で突っ込んだし、菊池は恐らく200人ぐらいで
突っ込んだだろう。(竹崎が菊池の100騎ほどの集団と合ったのは、菊池が一合戦した
後のこと)

他の集団はそれを見ていて、「ほう、なかなかやるなあ」とか「ああっ、だめだ」とか、
論評しているだけ。そして後の論功行賞では証人になる。

だから日本軍が1000人いても、数人ないし200人の力しか発揮しない。
結果として1000人対数人〜200人の戦いになる訳だ。

それでも蒙古軍を食い止めたのは、武士たちの個人的な戦闘能力(勇気も含めて)が優れていた
ことに他ならない。
そしてその代償が「伏屍麻の如し」であるわけだ。

もちろん武士たちも、いつまでもこんな戦い方をしていたわけではないと思うよ。
弘安の役の海ノ中道の戦いでは実際に野戦で、蒙古軍を大敗させているし。

374 :日本@名無史さん:2010/06/11(金) 14:17:08
日本式集団戦法のいいところを考えて見ると、一つの集団が戦って
いるときにスポーツ記者ないし応援団の役目しかしないその他の集団が、
期せずして予備軍になっていることだ。

蒙古軍千人隊が千人総出で一つの集団に対応して、ようやく全滅させても、
また同じような集団が、フレッシュな勢いで突っ込んでくる。
蒙古式集団戦法でいちいちこれに対応することは、考えて見ると相当な
運動量だ。

夕方の作戦会議で元軍の将が「疲れた兵をもってしては危ない」という
ようなことを言っているが、元軍は実際に疲れ果てていたのだろう。

375 :日本@名無史さん:2010/06/11(金) 19:46:04
敵は何ヵ所かに纏まっていたから、日本側も方面ごとに兵をわけて対応したんだよね。

方面ごとに纏まって会敵したら、後は方面部隊の最上位者がさあ戦えと言えば、各個に判断して戦うなら
関ケ原や、足利と新田やり合った時みたいに、政治的に日和見続発する様な戦いでもなければあまり問題無いんじゃない?
 
戦功確認は一駆けして戻って来た主従なり、隣りで射掛けてる者なり、その場その場で手近な者に頼めばいいし、首が取れれば取ればそれでも良い。
最上位者が戦えと言って、恩賞もでるのに大半日和見は無かったんじゃないか。守りに入って押し込まれれば戦わざるを得ないし。


376 :日本@名無史さん:2010/06/11(金) 20:33:46
>>375
まず方面部隊の指揮者がいたかどうか。
竹崎は赤坂方面(だったかな?)で戦うことを申し出て許可されたが、後はじぶんの判断で
戦っている。
この方面では菊池の方が竹崎より兵力を持っていたが、別に上位というわけでもない。
出会ったときは対等に挨拶している。
また竹崎と菊池はまったく連携していない。
竹崎は白石に救援されたが、これはだれかの指示というわけではなく、単に白石が
竹崎の親戚だったからである。

日和見というのでなく、ある集団が突っ込めば他は自然とお手並み拝見になったという意味。
結果として順次各個突入になった。
それが結果としてはかえって良かったのではないか。
蒙古軍はそんな戦い方に慣れてないから。ふだんは1回やれば大勢決しているところを
何回もやらされるから奔命に疲れたのではないか。

377 :日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:42:43
そもそも蒙古軍の集団戦法ってのはちゃんと訓練して初めて効果を発揮する戦法
寄せ集めで行った場合や訓練が行き届いて無い場合

378 :日本@名無史さん:2010/06/11(金) 22:45:13
あれ?勝手に・・・・まあいいや

続き
>寄せ集めで行った場合や訓練が行き届いて無い場合
(訓練方法が確立されていたかは疑問だが)集団としての行動が一見とれているようでとれてない

379 :日本@名無史さん:2010/06/14(月) 22:48:09
結局偵察厨の完敗で終わったかw

380 :日本@名無史さん:2010/06/15(火) 02:26:10
ってか本気じゃねーし
武士厨は運が良いだけ

381 :日本@名無史さん:2010/06/15(火) 03:45:39
>>380
それを言えば日本軍も本気じゃないと言える
なにしろ、本土の軍勢どころか九州の軍勢すら全軍投入してないんだから
そういうDQNな水掛け論はやめとけよw

382 :日本@名無史さん:2010/06/15(火) 04:35:08
>>380
どっかの国は全然本気でない蒙古軍に戦うことすらせず、小さいに島に逃げたなw

人類史上最も広大な領土を支配しほぼ連戦連勝の常勝軍団が日本を攻めてみる
蒙古高麗連合軍 VS 九州に居た一部の御家人(日本の総兵力の約15分の1ぐらい)
       九州に居た一部の御家人の圧勝
蒙古高麗南宋連合軍 VS 前衛部隊(総兵力12万5千の内約3分の1で本体は温存)
       前衛部隊の圧勝
この連敗が後に尾を引き各地で起こる反乱を抑えきれず元が滅亡してしまう。
どう考えても本気出したとしか考えられない。


383 :日本@名無史さん:2010/06/15(火) 18:51:35
数ヶ月間も海上をホルホルとは蒙古・高麗軍は余裕だねw

384 :日本@名無史さん:2010/06/16(水) 12:31:39
380みたいなのがいるから>>29みたいなテンプレが必要になるんだよな
いちいち相手するの面倒だから

385 :日本@名無史さん:2010/06/17(木) 18:47:05
文永・弘安の役は、竹崎季長みたいな恩賞狙いの命知らずの御家人ばかり。
蒙古側もこればかりは読めなかったのじゃないか。
蒙古襲来で一番喜んだのは御家人の次男・三男で「かも」が来たと喜んでいたと何処かで載っていた。


386 :日本@名無史さん:2010/06/17(木) 21:15:20
>>385
どちらにせよ結果は変わらん
・・・というか、文永の役ではその命知らずなやつらは無謀に突っ込んで返り討ちになってる
元軍を撃退したのは無謀に突っ込まなかった武士
まあ、命知らずな武士たちも文永の役で学習したのか弘安の役では活躍してる

387 :日本@名無史さん:2010/06/17(木) 23:14:00
どうでもいいけど当初竹崎季長は御家人だったの?


388 :日本@名無史さん:2010/06/21(月) 22:00:20
赤星氏の名前の由来となった、錦の御旗って並び鷹の羽だったの?
この家紋って後醍醐天皇より下賜された紋だから、蒙古襲来絵詞の作成された年代って
それ以降じゃないの?
しかも竹崎季長は菊池氏庶流なのに目結紋を使ってるのは、少弐氏から
賜与受けたのだろうか?


389 :日本@名無史さん:2010/07/03(土) 19:30:27
影の功労者達の存在が絶対に在ったと思うんだけどね
よくよく考えても謎だらけだろ?神風吹いて?一夜で終了とか?
つまり、海賊説。ロマンかミステリーかどっちでもいいんだが
そんな史料が出ないのか出し惜しみか無いのか分からないが
佐賀唐津、福岡西区、福岡糸島この辺りなんだが、そのような話はないのか

390 :日本@名無史さん:2010/07/04(日) 17:19:41
神風吹くまで数カ月。当時の船では嵐に耐えるのは難しい(第二次大戦時の軍艦ですら台風でエライ目にあってる)
まあ、当然の結果だわな

391 :日本@名無史さん:2010/07/05(月) 09:49:21
文永の役は日本国にとって初めての外国侵略軍で大軍。
日本の戦法は通用しなかったと思っている方も多いと思いますが、私はそうでも無かったと考えます。
鎌倉武士団九州御家人等の「恩賞狙い」も有ったでしょうが、これが一番ではないでしょうか「名こそ惜しけれ」。
「承久の乱」以降、大きな戦も無く「命有っての物種」は後退し「いざ鎌倉」、「名こそ惜しけれ」を真っ先に考え
無謀にも突撃し玉砕、屍の山を築き鎌倉幕府軍は水城迄退きました。
竹崎季長のような御家人が後から後から何十何百と突っ込んで行く。
死をも恐れぬ九州御家人達、こんなのを見てはモンゴル軍も恐怖を抱いたのではないでしょうか。
モンゴル軍も矢弾を使い果たし残り少なくなり夜襲を警戒、一旦船に戻ったのではないでしょうか。
影の功労者は、名も知れぬ「名こそ惜しけれ」で突っ込んで行き玉砕した名も知れぬ
九州御家人達で有ったと思います。

392 :日本@名無史さん:2010/07/05(月) 21:56:21
>>391
無謀に突撃し玉砕した奴らの人数では屍の山は築けません

393 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 13:03:07
>392
まぁまぁw
私の家みたいに、こいつ等のせいで九州に動員されて土着しちゃった家もある訳で、、、
でも一部親族しかその事を知らなかったりしてw
かなりの勢力なんだが、地元でも一般の人は「そこそこ有名な家」くらいの認識で700年前の事なぞしらん訳で。
そんな処から考えると、表に出ていないもののふの多い事多い事。

394 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 13:48:07
>>393
とりあえず突撃するしか脳の無い
弱っちいご先祖サマだったんですねw

395 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 23:23:45
394は頭にてつはうが当たって死ぬ

396 :日本@名無史さん:2010/07/16(金) 01:12:48
かわいそうに・・・・

397 :日本@名無史さん:2010/07/26(月) 13:17:33
>393
名前をきくわけにはいかないけど、そんな話を語り継いでいる人たちがいるんだ。
ちょっとびっくり。肥後のあたりかな?

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