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坂本龍馬の婚約者、千葉さなが結婚?

1 :日本@名無史さん:2010/07/03(土) 09:48:03

坂本龍馬の婚約者で生涯独身を貫いたとされる千葉さな(1838〜96年)が、龍馬の死後、元鳥取藩士と結婚していたとする明治時代の新聞記事が、3日までに見つかった。
旧鳥取藩の文書から藩士の実在が確認されるなど、発見した歴史研究家あさくらゆうさんは「記事はかなり正確」としている。
故司馬遼太郎氏のコラムなどから独身説が広く知られているが、記事は通説を覆すことになりそうだ。
さなは「北辰一刀流」を開いた千葉周作の弟定吉の娘。江戸の剣術修行で千葉一門に入門した龍馬は、さなと知り合い婚約したとされている。
記事は明治3年(1871年)に横浜で創刊された毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)が1903年8〜11月に連載した「千葉の名灸(きゅう)」。
さなが晩年、千住(東京都足立区)で営んだきゅう治院の来歴などを描く内容で、さなの親族に取材して書かれた。
10月4〜5日の記事によると、明治6年に横浜に移り住んださなが、定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎から求婚され、龍馬の七回忌も済んだことから受諾した。
しかし家格の低さもあり定吉が反対。「おまえの命はかつて龍馬の霊前にささげようとしたものではなかったのか」などと怒ってさなを切ろうとしたため、近くの商家が仲裁に入り、翌年7月に結婚した。
菊次郎の身持ちの悪さなどから、10年たたず離縁、千住に移り住み亡くなるまで再婚しなかった。
あさくらさんは鳥取藩主の伝記などから菊次郎の名前や当時、横浜在住だったことを割り出し、横浜市史の関連文書から商家の存在を確認。
さなの横浜時代の戸籍などは関東大震災や戦災で焼失している。
さなの関係資料を所蔵する足立区立郷土博物館の学芸員多田文夫さんは「非常に貴重な記事だ。しっかりした取材に基づいて書かれ、登場人物の実在も確認されており、信ぴょう性が高い」と話している。(共同)

坂本龍馬の婚約者、千葉さなが結婚?
ttp://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20100703-648875.html

2 :日本@名無史さん:2010/07/03(土) 11:28:35
司馬遼太郎の影響力が大きいから、事実が明るみになるのは良いことだ

3 :日本@名無史さん:2010/07/03(土) 14:26:43
さなって美人だったの?

4 :日本@名無史さん:2010/07/03(土) 14:42:46
結婚してたのか。
よかった〜何か安心した。
>>3
美人だったらしいよ。

5 :日本@名無史さん:2010/07/03(土) 17:28:03
あの時代で器量が良い女子が生涯独身を貫くなんてかわいそうだもんな

6 :日本@名無史さん:2010/07/03(土) 17:43:06
龍馬が死んだとき2歳年下の佐那は29歳。
七回忌が終わってから結婚したということは36歳での初婚か。


7 :日本@名無史さん:2010/07/03(土) 22:53:35
それにしても歴史研究家の「あさくらゆう」さんはよくここまで調べあげたね


8 :日本@名無史さん:2010/07/04(日) 14:29:10
それまでに処女喪失はしてるだろうけどな。
オナも隠れてコソコソしていたはず。
千住と言えば尾崎豊が殺された場所か。
千住にバイトしに行ってたことがあるんだよな。色々調べれば良かった。

9 :日本@名無史さん:2010/07/04(日) 14:33:15
定吉が斬ろうとしたということは、さなは寂しかったのか
大恋愛だったのかのどちらかだろう。興味があるな。
戸籍は死後数十年で抹消されるという法律が出来てしまったから
自分の先祖を知りたいなら、早く調べた方がいい。
行政書士にやってもらわないと無理だろうが。

10 :日本@名無史さん:2010/07/04(日) 21:25:11
結婚してたのが事実だとしてもこれからもドラマでは龍馬を想い生涯独身を貫いた一途な女として描かれるんだろうな


11 :日本@名無史さん:2010/07/04(日) 23:26:47
だってドラマでは龍馬の存命中から他の男と結婚していたことが明らかな
平井加尾がなぜか龍馬の婚約者だったなんて適当な話になってるじゃん
どうせ妻のお龍以外の女関係なんて適当に創作だよ
ましてや龍馬死後の佐那なんてドラマでは描かれないし

12 :日本@名無史さん:2010/07/05(月) 00:05:04
●ネトウヨ(ネット右翼)がみっともない12の理由

1.威勢が良いのはネット上だけで現実の行動は何もしない
2.2ちゃんねる発の噂を裏も取らずに事実と断定する
3.愛着を持っている日本文化が伝統文化ではなく漫画・アニメ・ゲーム程度
4.国防重視を説くくせに現実に自衛隊には入らないし入っても役に立たない
5.都合の悪いことはすべて反日勢力の自作自演ということにする
6.特亜・在日・創価・左翼以外の社会悪は平気で見過ごして批判しない
7.戦前戦中・終戦直後の今よりひどい貧困を味わった世代に敬意を表さない
8.自分は何もしてなくても過去の日本人の手柄を自分の手柄のように誇る
9.反中国のくせに高い国産商品より安い中国製品を買うことを恥じない
10.何の話題でも嫌特亜、反左翼に結びつけないと気が済まない
11.たまたま日本人に生まれただけで努力して何かになったわけではない
12.この文章を読んで「これを書いた奴はチョン」と証拠もなく勝手に断定

13 :日本@名無史さん:2010/07/05(月) 13:50:32
確か龍馬の妻のおりょうも再婚してたよね

14 :日本@名無史さん:2010/07/05(月) 16:43:50
あさくらゆう は歴史研究家だったのかwww

15 :日本@名無史さん:2010/07/05(月) 20:41:35
>8
お龍の回顧録では千葉佐那は道場に来ている男に
恋文を片っ端から出していた(勿論龍馬にも)
と書いたものもあるよね。

16 :日本@名無史さん:2010/07/05(月) 23:43:32
>>15
まずお龍がソースってのがなんだか信用ならない

写真みても意地悪そうだし

17 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 01:07:19
>>15
会ってもいない人間によくそんなデタラメ書けるな
海援隊メンバーにも嫌われ、
後の夫には龍馬の妻だったことを鼻にかけるで
本当に嫌な女だよおりょう

18 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 07:52:59
大河ドラマの篤姫見た人で歴史に疎い人は小松が篤姫に片思いしてたとか本気で思ってそう

19 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 12:06:47
別にいいんじゃないの、佐那が結婚しててもさ。
だいたい佐那ヲタの
「一途に1人の人を思い続けた純情貞淑な女」・・・
幻想が気持ち悪いんだよ。

幕末〜維新の激動の時期、江戸の大道場といわれたところも
その波に呑まれて困窮した道場が多かった。
女である佐那が結婚に生活と安定を求めたとしても
彼女の傷にはならないだろ。

20 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 19:08:04
>>19
そんな幻想持ってる佐那オタなんかいるか
美貌で剣も強い、これに尽きる

21 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 19:43:58
どっちにしろ七回忌で随分遅くに結婚してるから、そうとう一途な人だったのは間違いない
気が良くて、優しくて、剣にも恋愛にも何事にも一生懸命だった、すげー良い女だったんだなってのが伝わってくる。
そういう人が最期は一人で亡くなったってのは、むしろ寂しいよな
菊次郎と孫に囲まれて幸せの内に過ごして欲しかった。

まあ物語的には「一途に1人の人を思い続けた……」って言う方がおいしいしけど
>>3
伊達宗徳が「伊達屋敷に出入りする女中の中で一番美人」って言ってる

22 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 20:24:20
そうか そんなに美人なんだ
剣の腕も本当に凄かったのですか?

23 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 20:44:08
>>17
お龍は龍馬から聞いたと言っているよね。
お前こそ龍馬にもお龍にも佐那にもあったことがないのに
なぜお龍の言葉は間違いで
佐那の言葉は正しいと言い切れる?

24 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 20:45:59
>>19
生活のために結婚したのならばなぜ離婚したんだろう?
しかも、他の男との結婚経験までありながら
晩年に私こそが龍馬の婚約者だと雑誌記者に言いふらすのもなあ。
なんか、違うんだよなあ>佐那

25 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 20:46:18
>>19
>そんな幻想持ってる佐那ヲタなんかいるか
大河板とかに居るんじゃね。

>>22
伊達の殿様が言ってたとかいう記事は新聞にも出たし
2ちゃんでも話題になったよ。

26 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 22:37:05
>>22
むしろ剣の腕のがガチ
北辰一刀流の小太刀術免許皆伝
長刀の名人でもある
若い頃は江戸伊達屋敷で剣術師範をやっていた時期もある

27 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 22:54:02
>>24
そこはやっぱり彼女も人間じゃないの
それこそ小説のようにいけばいいけど、わだかまりや割り切れない気持ちとかがあったんだよ、たぶん
さなの晩年って龍馬が全国的に有名になる前だから、売名行為とか、そういう類のものではなかったと思うよ

28 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 23:05:46
剣の腕も良く美人なのか
凄いじゃないか

29 :日本@名無史さん:2010/07/06(火) 23:24:28
で、美人の基準は現代と比べてどうなの?

30 :日本@名無史さん:2010/07/07(水) 01:32:42
>>27
千葉佐那が死ぬ前に龍馬は贈正四位を受け、そこそこ有名になってるよ。
千葉佐那は新聞のインタビューも受け、生きている間に、龍馬の婚約者として新聞記事になっている。
死の直前にはそこそこ有名人になったせいで、襲撃未遂事件なんてのを起こされている。


31 :日本@名無史さん:2010/07/07(水) 11:29:38
つーか順番が逆だべさ
さなが「私は龍馬の婚約者だった」って自分から触れまわったんじゃなくて、
汗血千里駒で龍馬が流行ったからマスコミの方から取材が来て、それに応じただけでしょ

32 : [―{}@{}@{}-] 日本@名無史さん:2010/07/07(水) 13:21:03
時系列をまとめるとこんな感じ

1867年12月10日(旧暦慶応3年11月15日) 坂本龍馬暗殺。
1871年 千葉佐奈子、横浜へ転居。
1873年7月 千葉佐奈子、横浜で山口菊次郎と結婚?
1876年 千葉佐奈子、川崎へ転居。
1883年よりも前 千葉佐奈子、山口菊次郎と離婚?
1883年 千葉佐奈子と兄重太郎、京都へ転居。
1883年 汗血千里駒の連載開始。千葉佐奈子の名前も登場する。
1885年 兄重太郎、死去。
1886年 千葉佐奈子、千住へ転居し、千葉灸治院を開業
1891年4月8日 坂本龍馬に贈正四位
1893年8月、千葉佐奈子が取材を受ける。日記の存在も報じられる。
 (8月22日山梨日日新聞、8月24日読売新聞など)
1896年6月23日 千葉佐奈子は警察を詐称して侵入した強盗を撃退。
 犯人(金物商の間部鉄雄)は一週間後に逮捕。
1896年10月15日 千葉佐奈子死去。


33 :日本@名無史さん:2010/07/07(水) 20:07:53
>>32
女子学習院の話は

34 : [―{}@{}@{}-] 日本@名無史さん:2010/07/07(水) 20:30:52
>>33
細かいところが色々間違っていた。以下訂正

1867年12月10日(旧暦慶応3年11月15日) 坂本龍馬暗殺。
1871年 千葉佐奈子、横浜へ転居?
1873年7月 千葉佐奈子、横浜で山口菊次郎と結婚?
1876年 千葉佐奈子、川崎へ転居?
1879年12月5日 父定吉が死去。
 おそらくこの頃には千葉佐奈子は東京へ戻っている。
 1883年よりも前に千葉佐奈子、山口菊次郎と離婚?
1882年9月 千葉佐奈子、学習院女子部に舎監として奉職
1883年 兄重太郎、一家を連れて京都へ転居。
1883年 汗血千里駒の連載開始。「千葉光子」なる人物が、千葉周作の娘として婚約者として登場する。
1885年5月7日 兄重太郎、京都で死去。
1885年9月 千葉佐奈子、学習院女子部を辞める
1886年 千葉佐奈子、千住へ転居し、千葉灸治院を開業
1891年4月8日 坂本龍馬に贈正四位
1893年8月、千葉佐奈子が取材を受ける。日記の存在も報じられる(8月22日山梨日日新聞、8月24日読売新聞など)
1896年6月23日 千葉佐奈子は警察を詐称して侵入した強盗を撃退。犯人(金物商の間部鉄雄)は一週間後に逮捕。
1896年10月15日 千葉佐奈子死去。


35 :日本@名無史さん:2010/07/07(水) 23:12:38
>>31
いや、小説汗血千里駒では姪の光子が龍馬の恋人役だった。
そのためこれを読んだ佐那が怒って龍馬の恋人は私ですと抗議した。
汗血千里駒では佐那は龍馬の恋人などではなかったのに
佐那のところに取材など来るわけがないだろ。

36 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 00:16:36
それはそれで、歴史小説に抗議する遺族みたいなもんで、わかる理屈な気がするが
まして当時は存命の当事者がたくさんいたわけだろ

37 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 00:58:01
いや、周作の娘だから、サナのいとこだろ。
まあそもそも周作には光子なる名前の娘がいない。

サナが小説に抗議したという話は初耳だけど、
実際に取材を受けたのは小説が出てから10年経ってから。


38 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 01:04:51
ああ、でも土佐史談の記事によると、

『「汗血千里駒」の誤りを正すため学習院でもずいぶん人に見せましたよ。』

とあるから、学習院の関係者である谷千城を介して抗議した可能性は否定できないか。



39 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 12:56:43
谷千城といえば龍馬殺しは新撰組の仕業だ!!!って最後まで言い続けてた人だよね

40 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 13:12:08
土佐史談が信用できないな。

41 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 14:03:02
明治18年(1885)9月5日に、学習院女子部が華族女学校として独立している。
この時の校長は谷干城なんだが、職員名簿を見ると千葉佐那の名はすでに無い。
したがって、勤めていたとしても明治18年8月以前ということになる。

42 : [―{}@{}@{}-] 日本@名無史さん:2010/07/08(木) 17:55:53
>>41
『女子学 習院五十年史』に掲載の旧職員名簿を確認したが、確かに載っていないね。
名簿は辞めた順に載っており、最初の5人をリストアップすると

1.谷干城(子爵) 校長 明治18年9月-明治18年12月
2.並河尚鑑  助教  明治18年9月-明治19年2月
3.平岩扶佐吉 雇書記 明治18年9月-明治19年2月
4.小野梅ヶ枝 助教  明治18年9月-明治20年8月
5.森田勝   助教  明治18年9月-明治29年9月

一方で、サナ本人の証言では、
『明治18年9月、学習院女子部が華族女学校となり、校長に土佐出身の谷干城中将が就任し、
引き続き勤務をしておりましたが、谷中将が農商務大臣となり下田歌子が校長の代理となりましたのを機に学校を辞職し、
千葉家に昔依り伝えられている家伝灸を施して細々と暮らして居ます。』

谷が初代農商務大臣なったのが明治18年12月22日なので、
このインタビューが正しいとすると、明治18年12月頃までは勤めていたことになるんだけどな。

可能性としては、
(1) 千葉サナの雇用形態・地位が職員名簿に載るほどのものではない。
(2) 職員名簿が完成する前に辞めてしまったため記載漏れ。
(3) 本人の記憶違いで、明治18年9月よりも前に辞めている。
(4) 実は嘘。


43 : [―{}@{}@{}-] 日本@名無史さん:2010/07/08(木) 18:05:07
あれ?
でもググると1888年(明治21年)2月まで
寄宿舎の舎監をやっていたとするサイトもあるな?
どっちにしても『女子学習院五十年史』の旧職員名簿には載っていなかったけど、
寄宿舎なら、学校とは独立した組織だから、載ってなくても仕方ないかもしれない。

それよりもサナがいつまで学習院にいたのか分からなくなった。
>>34の学習院を辞めた時期は間違いかも。


44 : [―{}@{}@{}-] 日本@名無史さん:2010/07/08(木) 18:16:36
追記

学習院の男子部の方の旧職員名簿の方には辞めた寮監の名前も記載されているけど、
女子部の方の旧職員名簿の方には、「寮監」「舎監」やそれに準ずる職名が記載された人物が
一人も載っていなかった(「学生監」は兼任での記載があった)。

50年間一人も辞めてないことはあり得ないので、
女子部の舎監は教職員として扱われなかったことは間違いない。よって、>>42に関しては、

(1) 千葉サナの雇用形態・地位が職員名簿に載るほどのものではない。

が正しいと思われる。

辞めた時期は良く判らないけど、明治18年9月〜明治20年2月の間?


45 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 18:57:23
江戸時代の女性が徹底的に抑圧されていたという左翼の幻想は歴史界では揺らぎ始めているが
竜馬伝の製作者のインタビューとか見る限り、まだまだ足を引っ張って抵抗している奴が多いな。
「江戸時代が良い時代だったら、近代日本人のアイデンティティが崩壊する」んだろうな。
江戸の見直しが始まって10数年が経つけど、一般人のイメージを変えるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

江戸時代は離婚・再婚が現代よりも多かったのに、乙女役の寺島しのぶなんかは
「乙女姉さんは、嫁ぎ先から戻ってきちゃったんですよね。あの時代では画期的ですもんね」とかコメントしてる。
スポーツ界でもそうだけど女っていうのは間違った常識から抜け出すのに時間がかかるらしい。
明治から続く歴史捏造・誇大化が平成の若者にまで影響しているとは恐ろしい。

46 :41:2010/07/08(木) 19:21:49
>>42
特別に君に教えてあげます、「華族女学校年報」というのがあります。創立時から毎年発行されてます。
これが一番詳しい資料です。これには職員名簿から生徒名簿、職員の棒給表までなんでも載ってます。
役職名として「舎監」というのは存在しません、ただ舎監に相当すると思われる役職として「保母」という
役職がみられます。保母という役職で2名の女性の名が記されています。
安藤伊具と小沢佳奈という人です。

「華族女学校年報」の第1報は資料としても大変興味深いです。開校式で谷干城が皇后陛下に奏上
した祝辞なども全文掲載されてます。職員名簿は第1報は前期と後期に分けてあります、これは明治
19年2月に職制の改定というのをおこなっているためで、全職員を一旦解職とし改めて再雇用という
形をとっています。この改定の時に「保母」という役職は廃止され、「当分雇い」という、その他大勢
みたいな扱いに格下げされてます。

ちなみにこのソースは国会図書館のデジタルライブラリーにありますので、ネットで見ることができます。
興味あれば探してみてください。
 

47 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 21:37:04
>>44
たぶんそうだろうね。
1881年か1882年の前半ぐらいに山口菊次郎と離婚。
1882年9月に華族女学校に舎監として奉職。
1885年9月華族女学校を辞める。
1886年千住で千葉の灸を創める。
こんな感じか
旦那は薩摩侍か長州侍か、土佐だとしても維新の生き残りに限る、
ということかな。

48 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 22:28:42
1885(明治18年)の終わりごろまで学習院女子部→女子華族学校に勤めていたようだね。

49 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 00:03:38
清運寺のブログで記事はインチキのような発言している。新聞より小田切謙明伝?のほうが正しいと。
ちなみにあの墓に佐那の遺骨が分骨されたと書いたのも同書。
しかし、
http://www.city.adachi.tokyo.jp/003/d10100169.html
これの399号を見るとドッチが嘘なのか解るわな。

ちなみに小田切謙明伝が谷中の天王寺説を書いた初出。

50 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 02:15:33
>>46
ttp://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812641/19
明治十八年九月廿一日付けのところを見ると、
「学習院保母安藤伊具同小沢佳奈に本校の保母兼勤を命ず」とある。
つまり元々学習院保母として雇われていた者の内、安藤・小沢両名には昼間の学校の保母を兼ねるよう雇用したように読める。
また保母の安藤伊具は明治19年2月に再雇用されていないけど、女子部の旧職員名簿には退職者としては掲載されていない。

たった二人で寄宿舎を切り盛りしていたとは思えないし、学校の保母とは別に
「学習院保母」と称される寄宿舎の職員が、学校職員とは別扱いでいたように見える。


51 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 21:08:29
あさくらゆう氏のブログによると、生涯独身の初出は昭和11年に出された小田切海洲略伝とのこと。
謎なのが佐那子は実家と絶縁してて無縁仏になりかかっていたというのは本当か、ということ。
佐那子の死後も千葉の灸は続いていたわけだし。

52 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 21:09:10



53 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 21:47:39
>>51
子のなかった佐那は事故死した実妹の子(男子)を引き取って養子にしたらしい。
しかし、この養子が佐那の死ぬ一年前に佐那より先に死亡。
そのため菩提を弔う者がいなくなった。

出戻りの女性を生家の墓に入れるという風習はなかったのかもしれないよ。
佐那が死んだときにはすでに父も兄もなく、甥たちとも疎遠に
成ってたのかもしれない。

坂本家の次男坊だった龍馬の墓も土佐の坂本家にはないんだよね。
土佐の坂本家を継いだ長男の家系の墓になっていて
龍馬の墓は土佐藩士らによって作られた京都の霊山護山神社にある。




54 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 22:35:53
http://blog.goo.ne.jp/seiunzi/e/aa72dd23fa05d9f4426748eceec51328

お墓のある清運寺は全面対立だな♪

55 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 23:35:15
>>50
まず最初に、私は「舎監」=「保母」だと断定してるわけじゃありません。舎監という役職はありません
から比較的それに近そうな役職を探すと保母というのがそれに当たるのかなあと言っているのです。
あと、兼任についてはそのとうりで、保母はもともと男子部、女子部両方に跨る仕事だったんでしょう。
女子部が独立したので、一時両方を兼任していたのでしょう。しかし明治19年2月の職制改定の時に
安藤伊具は男子部(学習院)専任に小沢佳奈は女子部(女学校)専任になったんじゃないでしょうか。
私はそう思ってますけど。

いずれにしても、女学校が明治18年9月に創立された時点においてもそれ以降においても、千葉
佐那という人物が女学校に職員として在籍していた事実はないということが客観的事実として言える
わけです。これは認めなければなりません。

したがって、佐那の学習院での足跡を探すためには明治18年8月以前、つまり女子部が分離される
前の学習院の職員名簿を調べる必要があります。もし、そこに佐那の名が見つかれば在籍期間も
役職名も分かるでしょう。



56 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 23:40:16
>千葉さな子さんも困惑してしまうかもしれません。

そういう坊主の姿勢にあの世で困惑してしまうかもしれません。

57 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 14:58:34
>>54
小田切謙明は佐那の墓を建てた人物だが、どの程度付き合いがあったんだろう?
佐那の鍼灸院に来ていたと言うがおそらく佐那が離婚してからのことしか知らないだろうし
結婚が破綻した前夫とのつらい過去を
鍼灸院にきているそれも男性患者に親しげに語ったりするものだろうか。
小田切謙明が信じた佐那貞女説がこんにちまで一人歩きして居る感じはするんだが。

58 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 15:47:24
テスト

59 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 17:44:36
まぁ確かに「王様は裸だ!」と言いたい歴史オタの気質が暴走しそうな空気はある

60 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 18:40:51
>>57
小田切謙明は明治26年4月に亡くなっている。
なので、存命しているさなの墓を建立することはない。
アンタが悪いのではなく、こうした部分も話がひとり歩きしている証拠。

61 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 19:14:16
>>60
奥さんのほうだね。
破瓜、いや墓ウンヌン前後の千葉家の事情にはまだわからないことが多いな。
あさくら氏がまたなんか発表するって言ってるけど。

62 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 00:53:51
http://blog.goo.ne.jp/ryouma1026/e/f753edad2970e2d111cbe1adc1c04c8b?fm=rss

宮川氏もなんか発表するみたいだな……。

63 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 01:12:57
尻軽女だな結局
愛を死ぬまで貫き通せよ


64 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:13:25
死んだ人間を追っかけるよりは良いかな?

65 :日本@名無史さん:2010/07/12(月) 06:36:45
アゲ

66 :日本@名無史さん:2010/07/12(月) 12:35:41
>>63
純愛を賞賛するっていうのは近代西洋の価値観。
女性に処女性を強要するのも西洋(中国にもあるが)のもの。
江戸時代の女性は結婚するまで自由な恋愛を許されていたので、処女性を重んずる
ことはなかった。
家の血筋に関係するので、既婚女性の不倫は頭髪を剃る刑がかせられたが、
それでも離婚した女性の再婚が全然OKだったことは、西洋人にとっては驚きだったようだ。

67 :日本@名無史さん:2010/07/12(月) 12:39:06
浮世絵にも出てくるけど、女大学をマジメに守っている女性なんて少なかったそうだ。
そもそも女大学っていうのはかなり上級の科目で、武家ならともかく庶民の女性のモラルに
浸透していたかどうかは怪しい。「貞女二夫に見えず」という儒教の教えを
一番守っていなかったのは江戸時代の日本人。
なぜか明治時代になってそれが厳粛化され、再婚しない女性が増えた。

68 :日本@名無史さん:2010/07/12(月) 21:57:42
佐那が再婚しようが個人の勝手なんだが
どこで佐那生涯未婚貞女説ができあがったのかだな。
幕末ファンの中には今まで佐那貞女説のために
佐那好きだった人が少なからずいるわけだろう?

ちなみに、鎌倉時代の幕府正史「吾妻鏡」で
源頼朝と北条政子の長女大姫が婚約者の木曽義高が死んだ後も思い続け、
結婚にも乗り気にならずたびたび寝込んだりしているのを「貞女の鑑なり」と称賛しており、
女大学ができる前から生涯一人の男を想って未婚を貫く女を
日本人の男が称える風潮があったのは事実。

69 :日本@名無史さん:2010/07/13(火) 10:39:04
実はさなが男だったら面白いのに

70 :日本@名無史さん:2010/07/13(火) 17:37:34
オリンピックで疑われたアフリカの選手のように?あれは男だろ。

71 :日本@名無史さん:2010/07/14(水) 00:28:23
さなが26で
おりょうが23ぐらいの年齢だったのは龍馬にとって
大きかったかもな
婚約して1年後ぐらいにもうおりょうと恋人関係
おりょうが歳くってから証言したように龍馬はさなのことは
好きでもなんでもなったのかもしれないな
実家への手紙でもさなを娶りたいとは書いてないし

72 :日本@名無史さん:2010/07/14(水) 09:28:43
龍馬と佐那子の間にどんな感情と交流があったかなんて
本当のことはわからないし、
淡い恋情のようなものが存在したかもしれないという想像は可能。
でも「婚約していた説」には多くの疑問がある。

坂本家には龍馬と佐那子の二人が言い交わしたことを
立証できるような書状も覚書のようなものも、
言い伝えも何も残っていないようなのに、
 (その、何も残っていない事について、 佐那子贔屓の一部は
 その証拠となるものは「お龍が燃やしてしまった」とか言ってるが)

佐那子を悪く言うつもりは無いんだけど、(以下、憶測です)
美貌で賢く武芸にも秀でたぬきんでた女性の誇り高さもあいまって
「かなわなかった若き日の恋」への思いが凝り固まって膨らみ
自分は婚約者だったのに・・・
との強い思いこみが出来上がってしまったのでは。

73 :日本@名無史さん:2010/07/14(水) 20:30:01
むしろ、さなは当時の感覚からしてごく普通の女性だったから、
龍馬に一途につくしたけど、肝心の龍馬を引き止めるだけの魅力はなかった。
だから、身を引いた。

おりょうは、当時の感覚からすればかなりぶっとんでたけど、
だからこそ龍馬にはおもしろがられた。
一方、坂本家としてはウザかったから追い出した。

龍馬ファンとしては、お龍でよかったんだけど、
凡人の男の感覚では、さなに同情したくなるだろうさ。

74 :日本@名無史さん:2010/07/16(金) 00:15:08
アゲ

75 :日本@名無史さん:2010/07/16(金) 03:28:37
しかし1865〜1866龍馬が京で、おりょうと同棲、結婚、新婚旅行などのニュースを
佐那はしらなかったのか?
もし知っていたらどんな気持ちだったのか〜
それでも龍馬を思いつづけていたのか〜

数ある道場通いのなかから 何故に坂本を
想像だが 国家の世直しに関与するような なにか大きな人間像を
見抜き、異性として、人間として物凄く曳かれるものを感じたんだろうな〜〜

結婚暦があるとは知らんかった
うpしてくれた人 
トンクス

76 :日本@名無史さん:2010/07/16(金) 09:19:25
徳川慶喜が坂本龍馬の存在を知ったのは明治の世になってから
龍馬は死んでから有名になった人なんだね

77 :日本@名無史さん:2010/07/16(金) 14:26:26
さな子も同様。

78 :日本@名無史さん:2010/07/17(土) 17:05:28
>>76
土佐藩主の父、山内容堂が将軍慶喜に建白した船中八策、大政奉還案の
考案者が坂本龍馬であることを知ったのも明治になってから〜

慶喜は明治以降 かつての家臣、勝海舟を 勝先生と呼んでいた
慶喜は明治以降、一度、江戸城を訪問し、明治天皇から歓待されている

79 :日本@名無史さん:2010/07/17(土) 22:33:53
そりゃ勝は慶喜の息子を養子にして、爵位を継がせているからな


80 :日本@名無史さん:2010/07/18(日) 22:03:42
はっきり言うと、慶喜家が勝に世話になっていた。


81 :日本@名無史さん:2010/07/18(日) 22:57:49
スレ違い。

82 :日本@名無史さん:2010/07/20(火) 14:47:32
age

83 :日本@名無史さん:2010/07/20(火) 17:45:58
龍馬は佐那の兄、重太郎の口利きで松平春嶽に謁見している
その当時、重太郎は龍馬より十一歳年上の三十八歳であった。

龍馬が千葉道場へ入門した当時から、おもに剣術指南したのも、この重太郎であった。
その後、重太郎は、鳥取藩に仕官し、江戸政界にもかかわり、幕府の内外に多くの人脈を築いていた。

佐那と結婚したその鳥取藩士も、重太郎との関連で、知り合ったのかもしれない


84 :日本@名無史さん:2010/07/21(水) 16:03:05
別に結婚しててもいいじゃん。

85 :日本@名無史さん:2010/07/21(水) 21:40:21
>>84
勿論自由さ
ただ結婚暦を知らない人のほうが 今でも多いんじゃないかな

86 : ◆tr.t4dJfuU :2010/07/21(水) 21:46:57
a

87 :日本@名無史さん:2010/07/21(水) 22:15:35
剣術とか火炎瓶とか
千葉の女は凄いな

88 :日本@名無史さん:2010/07/22(木) 00:08:45
さなもガックリ低視聴率・龍馬伝 17.0% orz


89 :日本@名無史さん:2010/07/22(木) 00:13:55
だけど法務大臣は死刑が嫌い♪

90 :日本@名無史さん:2010/07/22(木) 02:33:32
てか千葉道場の人たちとか集合写真とかとっておけよって感じ
千葉さなとか写真ねえから美人説がでてるけどさ
知り合いだっただれかが器量が良かったって言ってるのって信用できるのかね〜

例えば千葉道場の門下生や定吉にお世話になった人に顔の善し悪しを聞いたとしたら
たいがいの人が器量よしって言うしかないでしょ
まー すげーブスとかじゃなかっただろうけどさ
写真がねんだからなんとも言えないよな


91 :日本@名無史さん:2010/07/22(木) 19:57:31
>>85
ただな、くだんの毎日新聞の千葉の灸っていう記事を鵜呑みにしていいものやら。
さな子の死後に千葉重太郎家の養子嗣の束っていう人が喋ったことなんだよな。
話の中の横浜在住の人が実在していた記録が見つかったからと言って、裏が取れたと言っていいものやら?
山口菊次郎の実家に記録はないもんなのかな。嫁とったんだったら何か出てきそうなもんだが。


92 :日本@名無史さん:2010/07/22(木) 19:59:25
>>90
美女は陸奥の奥さんだろうな
うまいことやりやがって



93 :日本@名無史さん:2010/07/22(木) 23:19:21
あんまりそういうイメージがないんだけれど
千葉さなは
楢崎龍より年上なんだな

94 :日本@名無史さん:2010/07/23(金) 05:20:47
>>91
死後40年たって親族ではない者によって書かれた「小田切海洲略伝」よりはマシ。

95 :日本@名無史さん:2010/07/23(金) 20:35:35
>>94
実はな
「千葉周作遺稿」というのがあってこれにも

坂本龍馬と婚約したが、その礼を挙げる前に龍馬が刺客に殺されたので、さな子は縁を喪った。しかし、貞操を固く守って、遂にさな子は終生、独身をとおした。


とあるようだな。
何かの文書を参考にしたのだろうか。



96 :日本@名無史さん:2010/07/23(金) 20:54:12
>>95
その本も昭和17年の本。千葉栄一郎って千葉栄次郎の孫だけど、確か養子じゃなかったけっけ?

本の出典はここで
http://www.ndl.go.jp/

97 :日本@名無史さん:2010/07/23(金) 23:56:29
>>96
仕方ないだろ。

>>95は萌え〜の素材がひとつ消えたことの恨みなんだから。

モレは個人的にはどっちでもいいや♪

98 :日本@名無史さん:2010/07/23(金) 23:59:22
>>96

>>95はオナ材料を失った恨みだよ。相手にするな。

正直、ドッチだっていいだろ。

99 :日本@名無史さん:2010/07/24(土) 13:12:42
>>98
おいおい、さなは龍馬が死んだ時でもう30のおばはんで、結婚の時は40近かったわけだろ
幕末にネタをとるなら和宮とかにしないかい



100 :日本@名無史さん:2010/07/24(土) 16:25:07
>>99

>>95は熟女が好きなのかもしれないよ。人の好みはそれぞれだから♪

101 :日本@名無史さん:2010/07/24(土) 19:21:01
なるほど〜

しかしそれならバツイチであっても変わらんだろ

結婚できない女のレスかもしれんな

102 :日本@名無史さん:2010/07/26(月) 01:59:58
age

103 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 14:46:53
ま、コレで終わりかな?

104 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 08:00:22
勝栄二郎財務事務次官は慶喜の曾孫なのか?

105 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 21:24:55
>>104
そうなんか
その人知らんけど
慶喜の直系ひ孫と言ってる人は広告カメラマンやってたという人だけわかれば十分
敵前逃亡にあらず、朝敵になるのを恐れたにあらず、遺伝子の中に何もかも投げ出す癖があったんだよという本書いてたな

さな子に失敗に終わった短い婚姻歴があろうとなかろうとどーでもいい
それより、他家に一旦行った女は出戻ると入る墓もなくなるということのほうが、驚き
重太郎家には養子さんや子孫がいたというのに
今でもそんな家もあるのかもな





106 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 23:16:05
>>91
山口菊次郎は近年、鳥取藩士の名簿から名前が確認できただけの人物らしい。
佐那との間にも子はなかったようだし、これだけ元妻が新聞をにぎわしても
元夫も元夫の家族も何も言ってこなかったのだから、
あるいは佐那が新聞社に暴露する前に
元夫は縁者もなく死亡し、もう家は残ってないのかもしれない。

しかし、佐那もよくわからんよな。
なぜ離婚したとはいえ自分を妻にしてくれた元夫ではなく
結婚もしてくれず、それどころか京都で勝手に結婚していた龍馬なのか。
龍馬の存命中、龍馬と常に活動を共にしていた龍馬結成の海援隊の証言からも、
龍馬の妻がお龍といったという話は出ているが、
他に婚約者がいたと龍馬から聞いている人は誰もいなかった。
編集者が面白おかしく佐那を婚約者に仕立て上げただけのような感じがするが。



107 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 23:51:34
>>106
上から目線でこたえてあげよう。
龍馬と婚約していたという話は明治26年にさな子が山梨日日新聞の記者に語ってる。
甲府の小田切夫妻にも語ったと考えられる(じゃないと龍馬室と彫りこんだ墓を建ててあげるはずがない)。
龍馬も婚約の文字こそ入れなかったが、乙女姉への手紙でさな子の長所を並べ立てた文章を書いている。

また、山口菊次郎と結婚していたという記事はさな子の死後に、重太郎の養子嗣の千葉束という人に取材して書かれたもの。



108 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 07:21:37
>>107
熟女マニアのご意見はわかりました♪

109 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 11:55:21
>>107
上から目線ねえ。

兄の養子なら佐那の結婚相手(山口菊太郎)を知っていておかしくない。
当然、兄夫婦らとともに束も結婚式に呼ばれた可能性もある。

乙女への手紙を持って佐那と婚約というのは無理だな。
お龍のことについては龍馬は妻だと記し新婚旅行の様子まで書き送っているというのに
家族にも紹介できない佐那ってw
しかも、乙女に手紙の中でたった一度だけ佐那のことをちらと書いたわずか半年後には
龍馬は何事もなかったかのようにお龍と結婚している。

佐那婚約の話は佐那の身内(兄や父など)から証言を得た事実はなく、
父や兄、龍馬本人がなくなって証言者が誰一人居なくなってから
佐那が突然言い出したもの。

小田切妻は佐那を「龍馬室」と墓に彫っており
佐那はさらに一歩踏み込んで婚約者どころか
私は龍馬の妻でしたと言いふらしていた可能性すらある。

110 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 18:24:47
>>109
たぶん、
さなが小田切豊次に「龍馬の許婚だった」と言った。
 ↓
さなが死んだ。
 ↓
豊次がさなの墓を建立しようと決めた(お龍のことは知らない)。
 ↓
せっかくだから、「許婚」じゃ可哀想だから「室」と彫ってあげよう♪
 ↓
豊次死亡
 ↓
小田切謙明顕彰会の誰かが推測でいろいろ書きまくった。

こんな流れかな?

111 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 20:29:49
>>109
鳥取藩軽格の出で炭屋なんかやってた人が、当時結婚式、結婚披露宴的なものをやるかね?狭い身内だけで地味にやったかもしれんが。
あと龍馬許婚者の件はさなが言い出したことかもしれないが、何かしらのやりとりがあったかもしれない?真実はわからないまま。
龍馬がさなについて触れた手紙の前の乙女の問い合わせ的な手紙、そんなものがみつかれば面白いのだけど。
汗血千里駒は単行本化されて版を重ねベストセラーになっていたそうだからさなにしろ、小田切妻にしろ本を通して龍の存在は知っていたんじゃないかな。
ただ小田切妻は死んだ夫の借金などもあって裕福でもなさそうなのに何故甲府にさなの墓を建てたのか。そこまでした動機の解明の資料でもないものでしょうか。
さな地味婚の話より、墓建立の前後の真実のほうが面白そうなんだが。またさなの死後養子を千葉家では立てた(その人も数年後に死亡したらしいが)わけだから、
弔う人が誰もいなかったというのも変な話なんだよな。
どうもわからん。

112 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 22:00:33
http://www.ryomadna.net/ryoma-kouza/20070803000012.php
佐那の発言もあちこちでまちまちなのな。
小田切謙明が千葉佐那に取材したという「千葉灸治院」では
佐那は16歳の頃から龍馬を思い続けて佐那の父も何度も坂本家に結婚を申し入れ、
一方的に龍馬のための紋付まで染めたが、結局は片思いで終わったことになっている。
それが明治26年には私は龍馬から結婚を申し込まれたんですという話になっている。
汗血千里駒で龍馬の恋人として出てくる光子は存在せず私のことを書いたのだと
佐那はその誤りを正すために随分あちこちでこの話をしたと言っているから、
当然、汗血千里駒を読んでおり、龍馬がお龍と結婚していたことは知っているだろう。
佐那が文句を言ったのが龍馬の妻である龍ではなく物語の中の龍馬の恋人役光子だというのがミソかな。
本当に佐那が本当に婚約者だったのならば
龍馬の妻であるお龍を攻撃していただろうから。

113 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 22:31:52
>>112
するとやっぱり婆さんになってから龍が話を聞きに来た青年に語ったように、龍馬は本当はさなを女としては
嫌っていたのかなぁ。
さなが一方的に龍馬に熱を上げていただけで。
乙女宛てにさなのことを手紙に書いてから1年もしないうちに龍を妻にしたしなぁ。
女が国事に関わろうとすることを龍馬は酷く嫌う人だったのかもしれないな。
横浜毎日の記事でも定吉が自分の娘のことを狂人なんて言ってるし。
さなはかなり変な人だったのかもしれないな。
龍もかなり変な人だったみたいだし。高知の坂本家では龍馬の嫁とは認めず、妾とみていたなんて説もあり、
龍馬の知り合いも龍の印象を良いとは殆どの人が書き残していない。
大河ドラマで印象悪くなったようだけど、平井加尾が女としては一番まともだったかもしれない。なにより後に三流小物志士を旦那に
したが、警視総監にまで出世させたあげまんだし。

114 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 01:24:12
既婚だったということになると、
こんどは転じておりょうの「アバズレだった」っていう証言が採用されそうだなw

115 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 10:57:25
さな萌えスレうざい

116 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 12:02:03
>>115
消えかかっては浮かんでくるこのスレ。

違う意味で面白♪

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