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謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!49

1 :県民:2010/07/26(月) 19:39:10
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

謎につつまれた邪馬台国のミステリー。
古代日本のあり方、また魏志倭人伝に記載された邪馬壹國の場所や
女王卑弥呼の正体は? 今、古代最大の謎に挑む!

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1277138023/

2 :日本@名無史さん:2010/07/26(月) 19:52:07
>>1
(`・ω・´)ゞ 乙であります!です

3 :日本@名無史さん:2010/07/26(月) 20:05:56
山鹿素行 『中朝事実』 (→吉田松陰、乃木希典に続く)
http://www.youtube.com/watch?v=t8zEJ6UnaiI
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6938281

皇統(上) 皇統章

 故に皇統が一度(ひとたび)定まって億萬世之れに襲(よ)って変ぜず、天下皆正朔
を受けて其の時を二つにせず、萬國王命を稟(う)けて其の俗を異にせず、三綱終に沈
淪せず、徳化は塗炭に陥らず、外国の到底企て望み得ることではない。夫(そ)の支那
では天子姓を易ふることを殆ど三十で、戎狄が入って王となった者が数世ある。春秋の
二百四十余年に臣子が其の國君を弑した者二十又五もある。其の先後の乱臣賊子に至っ
ては枚挙することは出来ない。朝鮮では箕子(きし)が天命を受けて王となって以後、
姓を易ふること四氏、其の國を滅して或いは郡縣となり、或いは高氏は滅絶することが
凡そ二世、彼の李氏は二十八年の間に王を弑する者四度あった。況んや其の先後の乱逆
は禽獣の損ない合うと異ならない。唯我が中國(なかつくに)は開闢からこのかた人皇
に至るまで二百万歳にも近く、人皇から今日まで二千三百歳を過ぎてゐる。而も天神
(あまつかみ)の皇統は違(たが)ふことなく、其の間に弑逆の乱は指を屈して数ふる
程もない。其の上外国の賊は吾が辺藩をも窺ふことも出来なかった。後白河帝の後に武
家が権力を執って既に五百余年にもなる。其の間に利嘴長距が場を壇にしたり、冠猴封豕
が火を秋の蓬に縦つ類のないこともないが、それでも猶ほ王室を貴び君臣の儀を存してゐ
る。是れは 天神 人皇の知徳が顕象著名であって世を歿するまで忘れられないからであ
る。其の過化の功、綱紀の分がこの様に悠久で、このやうに無窮であるといふことは皆至
誠から流れ出たからである。三綱が既に立つときはその条目は治政の極致として著はれる。
凡そ八紘の大なるも、外国の汎きも中州に如くはない。皇綱の化文武の功、其の至徳、何
と大きいことではないか。

 →中国や朝鮮では易姓革命が度々起こり、乱臣による弑逆も度々起こった。
  一方、日本の皇統は神代以来一度も変わることなく萬世一系である、ということを示す。
  萬世一系の皇統を以て日本が中朝である事実、即ち「中朝事実」を示している。

4 :日本@名無史さん:2010/07/26(月) 20:08:34
馭戎慨言 - 日本外交史 本居宣長 (著), 山口志義夫 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4990361717

紀元前一世紀から十六世紀に至る日本とシナ・朝鮮との外交史。
基調をなすのは日本こそが中国であり、 シナを「中国」と呼んではならない
という熱い主張である。
内外の膨大な史料を調べ上げ、緻密な考察を加えた本書は、 彼の実証主義
精神を知る最適の書であり、 明治維新の精神的指導者・吉田松陰もむさぼり
読んだという傑作である。

 「邪馬台国」に関する記事は後世に与えた影響の大きさで余りにも有名。

5 :日本@名無史さん:2010/07/26(月) 20:10:13
ここは、今は亡き「改めドツボ」氏への、お別れ会の会場です。生前の氏を偲んで、あちこちからすすり泣き
の声が聞こえてきます。思えば、氏は誠に偉大なコテでありました。
さあ、ご焼香とともに故人に一声かけてあげてくださいませ。

6 :日本@名無史さん:2010/07/26(月) 20:17:53
>>5
確かに偉大なコテハンであったが、最期まで河童を超えることはできなかったな。
さぞや心残りだったろう。・・・合掌。

7 :日本@名無史さん:2010/07/26(月) 20:22:13
「東倭重譯納貢」など、数々の逸話も今となっては懐かしい思い出です。
どうぞ安らかに眠ってください。チーン。

8 :日本@名無史さん:2010/07/26(月) 20:27:26
馭戎慨言 - 日本外交史 本居宣長 (著), 山口志義夫 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4990361717

卑弥呼は神功皇后(じんぐうこうごう)の不正確な伝聞

『後漢書』にある「一女子がいた。名を卑弥呼と言った」とは、息長帯姫尊
(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后の御事を、三韓などから誤り
混じりに伝え聞き申し上げて書いたものである。「卑弥呼」は姫児(ひめご)
と申すことで、神代の巻に「火之戸幡姫児千々姫命」(ひのとばたひめご
ちぢひめのみこと)、また「万幡姫児玉依姫命」(よろずはたひめごたまより
ひめのみこと)などと書かれている姫児と同じである。
姫を比弥(ひみ)と言っている用例も古い書物に見られる。だからこれは、
御国人(日本人)が常日頃尊んでこのように申し上げていたのを、韓人などが
聞いて伝えたものを御名と思い込んだのであろう。
 「妖気で大勢の人を惑わすことが出来た」
などと言っているのは、戎人(からびと)が大御国の神の道を知らないために、
このような妄言を言うのである。

9 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 01:07:33
国学って、ほんっっっっっとうに馬鹿だね

10 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 05:00:35
今の考古学者よりはだいぶましだろう。

11 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 11:53:17
神功紀は歴史的事実を書いている。ただし神功が政務を見ることは無い。
そして本当の 応神、仁徳が生きた時代である。
神功紀を引き延ばし、その後ろを応神、仁徳で埋めたのが、日本書紀である。

317年 ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通 不遵朝廷之令 至是以倭王
女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

ラジオ氏は丁丑年を377年と言うが、377年では倭が従うべき朝廷は無い。313年とすると

316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)
323年 癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
340年代には百済は大国として存在する。

これが正しい歴史だ。

12 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 12:04:24
文献史学がアホなのは、400年前後の高句麗による、倭国大敗が見えないこと。
この敗戦で、河内に巨大古墳は作れない。
この事実を歴史に織り込まない。この時代を歴史から抜いては、正しい卑弥呼に行き着かない。


13 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 12:33:53
文献史学の誤り
戦後の文献史学は、神功紀をねつ造記事とし、半島への進出を否定した。
これにより高句麗に大敗した事実も覆い隠される。
だから5世紀にまで巨大古墳を作れる。となる しかし敗戦から70年近く時は過ぎたが、
日本史の謎はそのまま残っている。この事実は時代の読み方が間違っていた証拠である。
だから時代設定を新しくする必要がある。

@ 神功による渡海と半島占拠は在った。
A 好太王碑に書かれた倭国大敗は事実である。

大敗後、朝鮮特需は無かった。だから巨大古墳の築造は下火となる。
2次大戦後の日本と一番異なる処である。

考古学は卑弥呼の時代を正しく認識しているが、巨大古墳の時代を遡上できていない。



14 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 14:22:44
>>13
捏造はオマエの得意技だろうが・・・。ww

15 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 14:46:17
私は太陰暦で書かれ「正朔」の文字のある日本書紀に、「倍年」などという
ねつ造編年はしていません。


16 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 14:54:37
そんな大口を言う前に、紀のどこに神功〜.仁徳が三重在位をいたという
記述があるのか? これはオマエの捏造だ。

朔なんか後付けだよ。日数は空白日がたらふくあり、オマエの日数数字
など、クソの役にも立たない。

17 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 14:56:59
ラヂオ氏の書き込みは
太国:日にちはなくてもいいんだよ。こちらは年代を確定させることが目標であり、
別に無くてもたとえば大陸の皇帝の××年に倭の△△オオキミと付き合いをしたとかの信頼おける
古文献が出て来たら、もうそれで日数がどうのこのなんか関係ない。

古文献の一つである。


18 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 14:59:00
ラジオさんにスリ替えて誤魔化すんじゃないよ。オマエの編年表をまず
丸投げしないで具体的に説明してから大口をたたくんだな。コチラに考え
ろなんぞ、ふざけるな。

19 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 15:44:22
>>15
>ねつ造編年はしていません

じゃぁこれ ↓ はどうなんだ?

【復活】日本書紀総合考察スレ【しました】
>932 唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/27

 景行28年から景行40年を1年とする。
 否定するなら、この間に起こった事を説明して否定するのが本筋

本筋のこれ ↓ はどうなんだ。

同スレ
>935 太国 ◆yVAs7uaYIY :2010/05/27

 先代旧事本紀大成経

 (景行)36年8月
 物部大臣 胆咋宿禰の子、五十琴姫を后と為し 五十功彦命を生り

20 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 15:57:48
ねつ造倍年は先代旧事本紀大成経 も視野に入るが
正朔を得られなければ、その記事はねつ造と見られる。

>オマエの編年表をまず丸投げしないで具体的に説明してから大口をたたくんだな。

太国倍年に、神功49年と同52年の記事を表記出来ていない。
これが説明出来なければ、太国倍年は ねつ造である。


21 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 16:01:28
説明出来てないのは、丸投げの王者のオマエ自身だよ。ww

こちらに考えろではオマエの説明表記が出来ていない。つまり説明
出来ない編年表を出したオマエこそ、オマエの言い回しでの〜他なら
ぬ、ねつ造だということだ。ww

22 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 16:07:23
>先代旧事本紀大成経
 (景行)36年8月
 物部大臣 胆咋宿禰の子、五十琴姫を后と為し 五十功彦命を生り


胆咋宿禰とは誰の子供ですか?そして
五十功彦命の活躍は?
他書で確認出来ますか? 先代旧事本紀大成経 の中での確認は出来ますか?

確認出来なければ、江戸時代に作られた 先代旧事本紀大成経 でしか主張出来ない。




23 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 16:19:10
そんなことで言い逃れしてもだ、景行28年〜景行40年が1年だという
ことが他の文献のどこにそこが1年だとあるのか?

これはオマエでしか主張出来ない妄想である。その論拠として成務
が4年だとか言ってるが、これも全国の神社等にいくらで成務の二桁
年代が存在する。これでもオマエの主張は棄却される。頑張って
攻めて来ても、所詮これらでオマエのマシがオマエのねつ造だと白日
のモトにさらけ出ている。つまりオマエのマシはデタラメそのもの
だ。いまからでも同経の景行36年の記事で、マシが不成立だと目を
覚まして振り出しからやり直すのが、オマエの論の再生救出の唯一
の道だな。さもないとヘリの事故のように、オマエの論は奈落の底。

倍年暦は古代南バビロニアの2倍年暦の行使ほか、古代エジプト、
古代マヤ等のn倍年暦の行使など、古今世界各地でこの行使が散見
されているが、マシなどのバカな真似をやってた国、地域なんぞどこ
にも見受けられぬデタラメであるのだ。

24 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 16:21:30
古事記 日本武尊
故受命。罷行之時。參入。伊勢大御神宮。拜神朝廷。即白其姨倭比賣命者。天皇。既所以思吾死乎。何撃遣西方之惡人等而。返 參上來之間。
未經幾時。不賜軍衆。今更平遣。東方十二道之惡人等。因此思惟。猶所思看吾既死焉。患泣罷時。倭比賣命。賜草那藝劍。

「未經幾時」を先代旧事本紀大成経では説明出来ない。


25 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 16:27:46
>>24
>大成経では説明できない
抽象的文言に終始し、記の文だけ出したところで、説明出来ない事由が
書くことが出来てない。これでは、反論が暖簾に腕押しで、説得力は0
である。結論だけ書きこんで、どうしてかを説明できない。

26 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 16:49:27
ホ39017  ときヤマトタケ をたけびて ニシむけマなく またヒガシ 
古事記 未経幾時

同じ事を言っている。だからホツマを記載する。
書紀や古事記でも主張出来ないことは、なるべく記載しないようにしている。

>マシなどのバカな真似をやってた国、地域なんぞどこにも見受けられぬデタラメであるのだ

年数を引き延ばしていたのは、古代の日本だけである。だから何処を探しても日本にしか無い。


その方法として太国倍年を行使していた国は無い。月日を伴わない暦法は存在しない。
書紀の季節や日付を書き換えることも出来ない太国倍年。こんな愚にも付かないことを朝廷が行ったと
主張しても、その証拠は皆無である。
欠史8代の日数統計とは、太陰暦で有る。
ここで太陰暦を否定し、正朔もねつ造太陰暦の季節や月日もねつ造とする太国倍年である。
年、月、日がねつ造であれば、太国2,3倍年で数えねばならないが、数える方法は無い。

癸未年千熊長彦は新しい資料であるが、
この資料の正誤も見分けられないのが太国倍年で有る。





27 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 22:14:25
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜。

太陰暦を否定するなどとは言っていないぜ。言ってないことを言ったなどと
インチキをばら撒くな。><

古代南バビロニアでは2倍暦法が行使されていた。古代マヤでは1.4倍暦法
の行使が行われていた。後者は今でも現地で行使されているし、日本でも
これをやっている者らが少人数ながらいる。倍年暦は現実である。

28 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 22:55:48
>>22
サッカーも1:0でも1点いれたほうが勝ち。それで

「いや1点だけですか〜1点のほかに点数が何点かありますか? 1点しか
 ないのならばあなたを勝ちとは認めません。」

と頑張ったところで、観客も審判団も、1点でも勝ちは勝ちとする。


将棋もそうだ。

「この詰み手ですが、ほかにも別の詰み手がこの局面でありますか?
 詰み手が1個しかないから、自分が負けとは認めません。」

とか言ったところで、1回でもあれば詰みは詰みだね。bbb

zzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・

29 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/28(水) 20:51:39
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜。

古事記とホツマは、同じ時空を表記しているが、大成経はそうでは無い。
であるならば、古事記を支持する。

偽書の最右翼は、太国が大好きな大成経である。
まあ自分で認識しているだろうが、暦の後付けとする太国倍年に暦を後付け出来ない。
この事実は、太国倍年が妄想の産物である事を物語る。



30 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/28(水) 21:46:22
ホツマは偽書の横綱、筆頭だ。pupupu!

つまりオマエの脳内の吐露であることごとくの論が偽書だということだぜ。

31 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 22:10:29

目糞嗤鼻糞

32 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 22:13:17
私の偽書には 不可能という言葉はない

                        唐松山

33 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/28(水) 22:14:41
奴はインチキ造りの天才ww

34 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/28(水) 22:16:58
>ホツマは偽書の横綱、筆頭だ。
日本の歴史が太陰暦で見える今、ホツマを偽書とするのは困難だぞ。
ホツマが偽書である場所を提示出来るか?出来ないだろ?
これが出来なければ、太国の遠吠えでしか無い。

大成経が偽書である処を一つであるがあげた。
狩りは秋から冬にかけて行うのが常識。この常識を否定する太国倍年も同類。
太国倍年と大成経を同類としては、大成経に申し訳ないが。
暦の後付け説の太国倍年は季節も違える、そして暦の後付けも出来ない。
これは事実です。


35 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/28(水) 22:31:22
ホツマは偽書のキングである。
だから日神を男だとか大デタラメを遠吠えしている。そのカルトに
脳内がマヒされてる唐松山は偽書論説造りのベテランである。

大成経の雄略4年〜
同経の雄略4年に夏8月とあるのを紀は春2月とする。当たり前だ。
雄略当時通常暦を兼ねて二重暦として2倍暦を行使していたことの
文証である。

 8月−2月=半年

当時は1年が365日の半分の半年だった暦があったから、このような
記載が残ってるのだ。だから雄略天皇の寿命は

古事記   124歳
日本書紀 62歳

で、古事記のほうは、現今の半年を1年と計上していたのだ。
唐松山が偽書と言い張っても、もう崩れはしない。wwwww

大成経の雄略4年の条で2倍年暦行使のウラが取れたことになる。
ピタリ記紀の雄略の寿命が記は記の2倍になっていることの事由が
キチンと大成経で確認されたものであり、まことに喜ばしい限りだ。

36 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 02:01:13
他の天皇は2倍になってるかな?
崇神は168と119、成務は95と107、応神は130と111。
ぜんぜん、駄目じゃん。

37 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/30(金) 20:22:01
私の考える正しい没年齢
崇神 35才程度 
成務 22才程度
応神 38才程度


38 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 16:33:55
邪馬壹國はヤマトノ国の魏国の当て字、卑弥呼は卑しい文字を当てているが
天照大御神の皇統を意味するもので、日ノ御子で決まりだろう。

細かいことは勝手にシンドバッド。捏造を繰り返せよ。www

39 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/01(日) 11:48:46
あのお方の太国倍年は、『暦の後付けの出来ない、暦後付け説』の一つです。

書紀が太陰暦で読め且つ正朔の文字がある以上、太陰暦で読めることが先決
太陰暦で齟齬が生じれば、それは何故か?を考える。

考古学が50年遡上した。文献も遡上しなければ合わせる事は出来ない。

書紀を太陰暦で圧縮して、百済本紀と合わせようとしても、合わせる事は出来ない。
七支刀を369年と見た場合、その三年前に半島を占拠できる状況が解らない
また高句麗の南下を歴史に載せられない。

書紀は百済本紀をそのまま認めると太陰暦にはならない。

新羅本紀に合わせると、書紀は太陰暦を得る事が出来る。
新羅193年の記事は、崇神6年
323癸未年 神功49年 千熊長彦
326年 七支刀
高句麗の南下は仁徳末の空白20年の内になる。

40 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 15:42:44
三国史記 (新羅本紀)
二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘(173年 倭の女王卑弥呼の使者が
訪れた)とある。

41 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 10:09:24
173年 ツノガアラシト(天日矛) 姫を追いかけ渡海。
175年? モロスケ
195年? ヒラナギ
209年 伽耶(任那)建国
215年? キヨヒコ 
220年? タジマモリ

使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

252年?以降 壹與の時代、大倭(大和)は伊都に一大率(軍)を置き、九州諸国ににらみをきかす。

238年 田道間守の渡海 推定18才
239年 田道間守の子誕生 田道間守殉死
一代の齟齬がある、しかし気長帯姫(神功)はキヨヒコの孫にあたる。
236年
256年 気長帯姫誕生?
274年 気長帯姫 応神を産む。


42 :日本@名無史さん:2010/08/02(月) 15:53:31
>252年?以降 壹與の時代、大倭(大和)は伊都に一大率(軍)を置き
>、九州諸国ににらみをきかす

何度もかきますが、手漕ぎの丸木船で伊都国を置きという発想は捨てたほうが
良いのではないか?
少しでも、畿内の文化度を上て、北九州に近づけようとして、と景行年代をいじ
くってみても、無理がある。

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