明治維新はただのブルジョア革命
- 1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/20(日) 18:57:29 ID:ARJLUsQd0
- 金持ちの利権の争いで
日本のため、とか、国のためなんて思ってた奴はいない。
ある軍閥を、別の軍閥が倒して、うはうはしただけ。
伊藤博文なんか見てみろ。
毛沢東のように幼女買いまくってたぞ。
- 397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/12(火) 17:14:08 ID:Li0u4w4m0
- >>394
>漠然としたそのテーマでは、簡単に説明することはできない。
何にも書けないと正直に書けばwww
>人に聞く前に自分の考えを述べろ。
何も書けない奴が偉そうにいうなって。
- 398 :397:2008/08/12(火) 18:16:47 ID:ib/ps0Vd0
- >>394
>漠然としたそのテーマでは、簡単に説明することはできない
じゃあ簡潔に述べれば、1869年7月に成立したニ官六章の大政官政府は
結果論的にみれば、ごく短命の政府であったにすぎない。しかし、発生史的に
考えるならば、戊辰戦争を朝廷側で遂行した諸勢力全体を律し結合している
正当性そのものの国家的制度化と位置付けることができる。この新政府の
特質は何か?
1)府・藩・県三治一致体制の活動を前提に、維新政府が諸藩の上に
超越的に存在し、機能するということがある。したがって維新政府の
論理の中では、薩長が他の諸藩と質的に異なる扱いを受ける論理は
いまだ確立していない。七月八日の官製改革の際、大久保・木戸・板垣
後藤の四名は、「劇職を免じ散官に任ず」との理由をもって、共に閑職の
待詔院学士に任じられている。
2)「天下公論」、「公儀輿論」の制度化は、いわばこの維新政府の構造の
内部に不可欠なものとして定置されていた。維新政府が広く国民に政府の
諸施策と政治姿勢を知らしめるために印刷・頒布したものこそ、「大政官日誌」
とならび「公儀所日誌」および「集議院日誌」であった事実がそれを裏付けている。
これは日本人だけでなく、在日外国人も同様であった。パークスの本国への報告に
それが残されている。ソースは、
Corespondence respecting affairs in Japan 1868-70,
presented to both Houses of Parliament by Command of Her Mjajesty 1870,
Parkes to Clarenon,Apr,13,1869
3)この維新政府は、その成立とともに、すでに不可欠の構成要素として固有の
栄典制度、国家的価値序列を作り上げた点がある。国是諮詢のさなかの六月二日
戊辰戦功賞典が与えられるが、それは賞典禄十万石以下五十石まで、親王公卿諸侯以下
第一親兵隊まで96の個人及び団体、他に一時賞金一万両以下を多数の者に賜うという
ものだった。これをみても明白なように、確立した維新政府の価値基準は、王政復古から
戊辰・箱館戦争にかけての国家的貢献度により成立していた。したがって、そこにある
論理は、薩長の排他的国家権力の占有とはまったく異質のものだった。
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