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高潔 西郷隆盛は最高のサムライ2 道義

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 14:49:02 ID:sNqi2HjT0
日本史板から隔離です。

前スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1109653451/l50

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 20:07:14 ID:QLzO5L+/0
>>378
久光と仲良けりゃ死ぬ事はなかったよ

380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 21:25:19 ID:VU4LlB0nO
西南戦争は トムクルーズの 『ラスト・サムライ』1877年




村田新八 彼は着てて和装 西南戦争でてます。

381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 22:33:30 ID:KS7ZuF690
>>377
どっちにしろ薩摩の有り様が変わらないから影響なし。
薩摩は地理的にも文化的にも日本の中の僻地であり異端の地。
藩や士族の存続に執着する閉鎖集団は、遅かれ早かれ討伐する必要があった。
本来なら幕府が薩摩を討伐すべきだったんだけど、
明治政府によって討ちとられたのは歴史の皮肉だ。

382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 10:14:20 ID:AM4cEFB90
>>381
それだけに薩摩藩の連中は自藩に対しての気概や自覚はそうとう強かった
のだろうな・・
幕府すら見下しているような所があった
家格で言えばうちらの方が上・・みたいな

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 10:55:52 ID:O01N+ULo0
イモ侍の屁は臭うてな〜

384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 16:47:04 ID:JI95fFXp0
上野の西郷像は核シェルターなんだぞ!

385 :武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/18(日) 23:26:14 ID:bTViSWGIO
西郷さんの銅像の前でキスしたことある人いる?

386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 23:35:29 ID:33tdRZIg0
>>382
薩摩は日本のなかの異国なんだよ。
最近まで訛りがひどくて言葉も通じなかったとこだし。

387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 20:15:06 ID:X8WmpjrF0
オレの通ってる高校の電車内で同じ沿線沿いの養護施設の
奴が「西郷」って呼ばれている

いつだったか西郷は列車とホームの間に落ちたっけ
みんなで「西郷大丈夫か?」って・・
サラリーマンのオッサンも笑いを必死で隠してたぞ



388 :武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/25(日) 01:04:44 ID:vHYbjiOFO
>>387
イヤな奴だなオマエ

389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 07:23:29 ID:ZjpGtmxz0
オレが小学生の時、特殊クラスにイガグリのでくの坊で目だけやたらに
澄んでいた奴がいた
そいつのあだ名もやはり「西郷どん」

390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 11:22:26 ID:8eGOlp3T0
国語の先生のあだ名が西郷だった
動きやしゃべり方が緩慢な印象のオヤジだった
3年位前に淫行で免職になったと新聞で知る。ホントだよ!


391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 13:22:56 ID:fkVULPiiO
賊軍になった西郷銅像がなぜ上野恩賜公園にあるのか…

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 16:01:03 ID:ghxpIA7f0
反新政府の目的で江戸っ子が招致した。
今「彰義隊の聖地に新政府が押し付けた!」と叫んでいる古老は、当時の経緯を知らない。

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 19:57:24 ID:EXeQYLSb0
>>392
でもハトの糞にまみれた西郷像は屈辱的にすら見えるよ
連れてる犬もいい犬じゃね〜な!きっと・・・

394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 20:28:31 ID:bajSbqc8O
西郷さん、日本は今こうなりもした。
どげんですか?

395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 22:05:15 ID:Wn7Aj/PS0
西郷のイメージは安田大サーカスのヒロ君

396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 23:28:20 ID:Nd4G1iqw0
> 連れてる犬もいい犬じゃね〜な!きっと・・・

薩摩犬のツンな。薩摩犬は小型で飼い主には従順だが、
猟犬としては獰猛かつ優秀で、イノシシさえ獲る。

397 :七生報国学院:2008/05/26(月) 00:18:40 ID:5/rLryyTO
南州先生は愛国の国士です。冒涜
は私がゆるしませんよ

398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 01:57:36 ID:UtdO+8/Q0
ちなみに当時の鹿児島人は犬を常食してた。
ツンは西郷の非常食。

399 :平間重助:2008/05/27(火) 21:43:01 ID:fFDYY+Ir0
>>398
別に鹿児島だけじゃなくたって俺らのじーちゃんが子供の時とかって
家畜はペットじゃなかったんじゃねーか?
生き物は食い物だったと思うぞ

生き物をペットとしてカイダしたのは昭和40年代位じゃねーの?
しかも銀座のホステスとかだけだろ?

400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 06:26:30 ID:bozKHXSJ0
>>399
日本人は縄文の昔から犬は食べない。
犬を食べるのは朝鮮人と鹿児島人だけ。

401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 22:44:27 ID:QIa9MhrB0
>>400
でもそんなの解らんよ
戦後だって犬食ってたらしいから。腹へりゃ何でも食うだろ?
しかもタコやナマコ食うより道理だと思う

それにオレは個人的にはとても偉人には見えない上野の像は好きだ!

402 :武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/28(水) 23:22:23 ID:7YilLX25O
>>400
昔から犬、盛んに食べられてたよ
近世なんかの武家屋敷跡から食用にされた犬骨がよく出土したりするしさ

403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/29(木) 00:38:06 ID:9ztT9qd00
>>400
食糧難の時は仕方なかったのか食ってる。
何だったかなぁ、色によって味の程度が変わるって俗歌もあった。
年配の人に尋ねれば、まだ教えてもらえると思うよ。

ぶち犬が一番不味いって話だけは覚えてるw

404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/29(木) 05:49:52 ID:uVHZU3tG0
>>403
赤犬じゃなかったっけ?

405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/29(木) 15:09:45 ID:5J7AF6cP0
篤姫をきっかけに明治維新の偉人達についてあれこれ調べてみた。
すると西郷隆盛がいかに偉人であり、これまでどれだけ誤解していたか
を再認識。

西郷隆盛は実は無益な殺生を否定し、むしろ平和主義者であったこと。

敬天愛人
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/index.htm

西郷の遣韓論
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai11.htm

梅田あかねさん(西郷隆盛研究家)
http://www.city.kagoshima.lg.jp/var/rev0/0000/4411/2008228104923.pdf

406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/29(木) 15:13:44 ID:5J7AF6cP0

因みに過激右翼は敬天愛人の天を無理やり天皇にこじつけているが、

全く違う。
天とは森羅万象、全ての源であり、
わが命、またその天命をつかさどる根本。
だと解釈する。


407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/29(木) 21:01:34 ID:jHDABPYb0
 大田南畝の『一話一語』には「薩摩にて狗(いぬ)を食する事」という
項があり、「薩摩にては狗の子をとらへて腹を裂き、臓腑をとり出し、
其跡をよくよく水にて洗ひすまして後、米をかしぎて腹内へ入納、針金
にて堅くくりをして、其まま竈の焚火に押入焼くなり(略)甚美味なりとぞ。
是を方言にてはゑのころ飯といふよし。高貴の人食するのみならず、
薩摩候へも進む。但候の食に充るは赤犬斗を用るといへり。」と、その
料理法までも紹介しています。

 この薩摩の犬食いは江戸の人々の間では結構知られていたことの
ようで、「品川と麹町とに入れあげる(「品川」は薩摩屋敷から近かった
品川の遊里、「麹町」は上記の獣肉屋をあらわす)」「大部屋に赤犬な
どのあらがあり」「酒盛にきゃんと言わせる御国柄」「『赤犬が紛失した』
と芝で言い」「『赤犬は喰いなんなよ』と南女言い(「南女」は品川の遊
女のこと)」などといった川柳が残されています(「江戸のおしゃべり)

408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/29(木) 22:30:04 ID:RTEiLrlg0
すっげ〜ピンポイントな知識をよくも、こうスラスラと・・・

>>407恐るべし・・・

409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 00:16:26 ID:mgrS6tA40
まあ今でも日本国中にゲテモノ喰いはいるわな。
とは言え、江戸時代の食文化における犬喰いは普通。


410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 00:21:08 ID:uPZNniqhO
兎も喰うよ(^^)フランス料理では常識だが


今じゃ日本はペット文化になり喰わなくなりました。

411 :武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/30(金) 00:33:43 ID:OUcpAGY+O
友達に連れられて韓国料理屋で犬食べたけどマズかったな。
臭いんだよね。


412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 00:38:28 ID:mgrS6tA40
日本に近代まで食人習慣があったことは新聞記事として報道されて
います.
東京近郊ある焼き場では、生まれつき虚弱体質
の人々が生焼けの頭蓋骨をつよく欲しがることが
あるとも報道されている。詳細は1902年2月の
『万朝報』3018号3頁、及び同月の他の新聞を
参照のこと



413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 00:42:11 ID:mgrS6tA40
日本人は犬どころか人まで食っていた。
ってわけだ。

414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 01:13:39 ID:uPZNniqhO
陸戦は現地食料調達しなきゃ無理だからね。

なんでも喰わなきゃだめなの喰わなきゃ戦はできんしな


戦国時代も食い物は大切だが 何でも喰わなきゃ損、喰な兵士はくたばる


つまりに(死)を意味する。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 04:50:06 ID:uPZNniqhO
鳥羽伏見・禁門の変・戌辰戦争

(素人集団・新政府軍)と(元士族の抜刀隊)VS 西郷軍


西南戦争です。

416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 05:18:09 ID:K53nE31T0
>>409
江戸時代は四足を食べることはタブー。
犬どころか豚や牛も食べなかった。
だから犬を食べる薩摩人が気味悪がられた。

417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 08:13:57 ID:oYdfLOC60
獣肉は一般的な食事ではなく病人に与える滋養の薬として
ももんじ屋で売ってた程度でしょ。
人肉というか死罪人の肝臓を薬として用いてたのは聞いた事ある


418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 09:11:36 ID:75Tzdr/K0
日本の食人
>>
江戸時代頃では人間の肝臓は人胆丸とよばれ
正式な薬剤として売られていたそうです。
胎児も薬とされていたみたいです。
遊女などが堕胎して死んでいった胎児を
干して煎じて服用したという話を読んだことがあります。
このように人肉は妙薬である
と信じられてきた時代もあるようです。
あと日本の風習として遺骨を食べるというものがあります。
骨噛みというらしいのですが。
これは
食べれば故人が自分の血肉となる
という感じの深い愛情から来るものらしいです。
国語の授業(多分中学生の時)で
ある戦争の話(詩だったかもしれません)を読みました。
題名も内容もあまり覚えていないのですが
少女が空襲により焼かれた自宅で
骨となっていた家族の骨を口に含む
とい描写があったのは覚えています。
その場面だけは強烈に記憶しています。
<<

419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 09:48:55 ID:75Tzdr/K0
敬愛幼稚園
1916年(大正5年)県内初の私立幼稚園としてこの地に創立されました。
初代園長のミス・フィンレー宣教師は西郷隆盛の人柄に惹かれ、
「敬天愛人」と言う西郷隆盛の言葉が聖書の教えに通じることから、
敬愛幼稚園と名付けました。

420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 10:58:11 ID:75Tzdr/K0
西郷隆盛が沖永良部島へ持っていった主な書物

『通鑑綱目』、『春秋左氏伝』、『孫子』、『韓非子』、
『近思録』、『言志録』、『嚶鳴館遺草』等

・・・・もっとも、西郷は後年明治になって、
「今日の世界万国の様子は複雑多岐のように見えるが、
『春秋左氏伝』の知識と『孫子』の理をもって眺めれば、
もとづくところ、帰趨するところ、瞭然たるものがある」
と言っている。ずいぶん心読したことがわかる。

海音寺潮五郎さんの『西郷隆盛』より


421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 11:15:27 ID:75Tzdr/K0
海音寺潮五郎『西郷隆盛』より

もし松陰が維新後まで生きていて、明治新政府の一員となったなら、
新政府は最も清潔なものとなったであろうし、その後の日本の歩みも
また違って来たであろう。
明治新政府の重大な欠点の一つは、政府の要人らに学問ある
道義の士がきわめて少なかったことだ。彼らは皇室にたいする
忠誠心だけは信仰としてかたく持っていたが、学問のないかなしさには、
人間として必要な他の道義の念を欠如していた。
(中略)
しかし、もしこの時期に松陰が健在で、西郷とならんで
新政府の中心にいれば、その欠陥は大いに救われたろう。
もう一人橋本左内がいれば、保守的になる心配はない。
最も完全であったろう。日本のその後の歴史は
ちがっていたはずである。
かえらぬくりごと、死児の齢を数えるに似ているが、
ぼくにはそう思えるのである。返す返すも残念である。
---------------------------------------
と評し、西郷隆盛と並び吉田松陰、橋本左内を挙げ、
悲劇的な結果を招いた明治政府と近代日本の歴史に
対する後悔の念が伺える。


422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 12:29:30 ID:75Tzdr/K0
『江戸城無血開城』

勝は後年、これは相手が西郷であったから出来た。
他の人ならこちらの言葉の些少の矛盾や小事に拘泥して、
こうは行かなかったろうと言っている。
ここで、勝の当時の人物評を紹介する必要があろう。
彼は「氷川清話」で、大久保利通の事を、
「大久保は西郷の漠然たるに反して、実に截然としていたよ。
江戸開城の時、西郷は、『どうかよろしく頼みます。
後の処置は勝さんが何とかなさるだろう』といって、
江戸を去ってしまったが、大久保なら、これはかく、あれはかくと、
それぞれ談判しておくだろうさ。
しかし考えてみると、西郷と大久保の優劣はここにあるのだよ。
西郷の天分がきわめて高い理由はここにあるのだよ。」

といっており、木戸孝允のことを、
「木戸松菊は西郷などにくらべると、非常に小さい。
しかし綿密な男さ。使い所によっては、ずいぶん使えるやつだった。
あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがのう」
といっている。この人物評によると。
同じく維新の三傑といわれていても、この二人はこの際の
談判相手としては皆落第ということになろう。


423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 12:30:12 ID:75Tzdr/K0
『西郷隆盛と勝海舟』

生前の西郷と親交の深かった人々が集まり、
西郷の墓を建てようということになりました。
その人々は具体的内容について、勝海舟のところに
相談に訪れましたが、海舟はひとこと、

「墓か、墓ならすでに俺が建てているよ」

といってその人たちを驚愕させたそうです。
海舟は西郷の死後2年目に、近所の寺に西郷の墓を建立し、
ひとり西郷の霊を弔っていたというのです。
勝海舟の西郷隆盛に対する深い思い入れがよく分かると共に、
西郷を失った後の、勝の寂しさが伝わってくるようです。


424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 12:45:13 ID:75Tzdr/K0
勝海舟歌碑(鹿児島市上竜尾町 南洲神社)

勝海舟の詠んだ歌

 「ぬれぎぬを 干そうともせず   子供らが なすがまにまに   果てし 君かな」

明治6年(1873)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、
鹿児島に戻り、青年の教育のため私学校を設立しました。
ところが明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。
ついには西南戦争を引き起こしたのです。
この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、
愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。
隣に立つ常夜燈じょうやとうは、西郷と勝海舟との会談により
江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、

昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。
歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石けだないしでできています。

(説明板より)

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 16:09:25 ID:75Tzdr/K0
幕府と薩摩藩の関係

特に薩摩は、関ケ原戦には西軍に付き、西軍の負けが決まると

引き上げるとき大胆にも敵のまん中を通ってしりぞいたこともあり

幕府は薩摩を危険と考えていた。 

 宝暦の治水工事
http://www.keiten-aijin.com/chisui.html

倒幕

明治維新

426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 21:33:43 ID:bSzMQ4Fd0
 大田南畝の『一話一語』には「薩摩にて狗(いぬ)を食する事」という
項があり、「薩摩にては狗の子をとらへて腹を裂き、臓腑をとり出し、
其跡をよくよく水にて洗ひすまして後、米をかしぎて腹内へ入納、針金
にて堅くくりをして、其まま竈の焚火に押入焼くなり(略)甚美味なりとぞ。
是を方言にてはゑのころ飯といふよし。高貴の人食するのみならず、
薩摩候へも進む。但候の食に充るは赤犬斗を用るといへり。」と、その
料理法までも紹介しています。

 この薩摩の犬食いは江戸の人々の間では結構知られていたことの
ようで、「品川と麹町とに入れあげる(「品川」は薩摩屋敷から近かった
品川の遊里、「麹町」は上記の獣肉屋をあらわす)」「大部屋に赤犬な
どのあらがあり」「酒盛にきゃんと言わせる御国柄」「『赤犬が紛失した』
と芝で言い」「『赤犬は喰いなんなよ』と南女言い(「南女」は品川の遊
女のこと)」などといった川柳が残されています(「江戸のおしゃべり)

427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 10:09:34 ID:FrD06SwP0
西郷は武士の特権の回復をめざして暴動を起こした封建反動の巨魁。

428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 11:27:53 ID:HtFsh0rj0
西郷隆盛の遣韓論と日本を取り巻く国際情勢

『 通説における西郷隆盛の征韓論は間違いである。』
--------------------------------------------------------------
明治五年(1872) 7月19日 西郷隆盛 陸軍元帥、近衛都督を兼務
明治六年(1873) 5月10日 西郷隆盛 陸軍大将兼参議となる

西郷隆盛の遣韓に至る経緯
--------------------------------------------------------------
明治元年(1868年)日本は朝鮮に使節を送り新政府の樹立を告げ
     新たな国交と通商を求る。当初その使節となったのは、
     従来から朝鮮との折衝にあたってきた対馬の宗氏である。
     しかし朝鮮政府はこれを拒否し続ける。
--------------------------------------------------------------
これに対し明治政府内部から朝鮮に対する武力制圧を主張する
政策意見が出始める。
当然ながら、陸軍大将兼参議である西郷隆盛に対して
政策要求が起こるのは当然である。
また西郷隆盛は当時日本を取り巻く国際情勢における安全政策と
職務上、それに関わる上で中心的立場にあったことは当然である。
即ち、西郷隆盛は個人的に征韓を唱えたわけではなく、
職務上、またその過程において基本的対策と戦略を示したに過ぎない。
もし西郷隆盛が強行的な征韓論者であれば遣韓提案などせず、
直ちに出兵準備の為の政策動議を掛かった事だろう。
それどころか西郷隆盛個人としては、全く逆の立場に立ち、
強行に征韓を唱える政府内部の抑制に努めた結果である。
よって通説における西郷隆盛の征韓論は間違いである。

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 12:03:59 ID:1hnpiezE0
幕府と薩摩藩の関係

薩摩の犬食いの悪習を幕府は危険と考えていた。

徳川綱吉による犬優遇政策

犬食いは死罪

薩摩人ファビョーン

食い物の恨みで倒幕

明治維新

430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 12:21:24 ID:HtFsh0rj0
日本人は犬どころか人まで食していた。

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 13:41:16 ID:cadT1vzR0
>>430
人を喰ったようなこと言うね・・

432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 13:47:16 ID:4MLqH1hy0
会津に遊びに行ったら、郷土食で「イナゴの佃煮」があったけど、
バッタ食うよりは犬食った方がよくね?

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 14:36:54 ID:HtFsh0rj0
明治維新と西郷隆盛と敬天愛人と宝暦治水工事

千辛万苦に耐え、堅忍不抜の精神を以って
極めた宝暦治水工事と薩摩義士

宝暦治水と薩摩義士  伊藤光好(前海津町長)
http://www.mirai.ne.jp/~wakita/gisi/ito.htm

後世の人の心構え
 
私たちはこの崇高な精神を尊び、治水に対する関心を強め、
治水を考えるとき薩摩義士の映像が浮き彫りに成るほど
人の心の中に薩摩義士を生き返らせるべきである。
そしてこの精神を鑑とし感謝の真心を捧げながら、絶えず心の洗濯を行ない、
たゆまず心の成長を願って行くべきであると、強く願うものである。


434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 14:42:35 ID:uBA7TUDo0
イナゴは鹿児島でも佃煮や甘露煮にして食べる。
昔はタガメも食べてた。

435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 17:19:03 ID:XQZg0ESr0
タガメ?今となってはスッゲ〜勿体無い様な気がする!


西郷どん万歳!!


436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 18:50:12 ID:aZHLVv4g0
やっぱり西郷さんはエライ!!
偉そうじゃない所がエライ

437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 21:47:43 ID:W/H0RiD80
多くの人間は西郷になりたい、
だが現代に於いて誰も西郷になることを許されない。
まずは大久保利通になることだ。

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 08:45:51 ID:WbIO6eaP0
思えば九州の地でクマソと言われた昔から
中央政府へのレジスタンス→敗れて服従
を繰り返し7度目にして初めて天下をとったのが明治政府
というのが彼らの維新観らしいよ

439 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 17:50:22 ID:rwznnYNm0
クマソではなく隼人族だと思うがね。

440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/04(水) 05:36:44 ID:e2u6O6ze0
軍人としてはどうなんこの人

441 :名無しさん@お腹いっぱい:2008/06/04(水) 10:19:47 ID:5q5SiZwf0
あくまで純軍事的な能力に限定して評価すると大村益次郎がダントツNO.1だろう。

上野攻撃の作戦を全面的に引き継いだ大村は、綿密な構想のもとたった1日で彰義隊を壊滅させた。
それ以後、北越戦争、東北戦争、函館戦争全てに作戦面で指揮をとった。
彼の天才的頭脳がなければあのように短期間で戊辰戦争を終了しなかっただろう。
特に桂小五郎は彼がいなかったら黒田清隆や山県有朋が悪銭苦闘していた、
北越方面の長岡藩に勝てなかっただろうと述懐している。
(戦況悪化の為、西郷が頭を丸めて新兵力を集めるため薩摩に戻ったのはこのころ)
大村は西郷に今から薩摩に行かれてもお帰りになるころに終わっていましょう。
といったがその通りになって西郷は坊主頭を撫で回しながら大村の鮮やかすぎる能力を賞賛した。

また大村はこの時点で西郷がいずれ反政府軍を率いて起つことを予測していて
西郷を「足利尊氏ごときもの」と評した話は有名

442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/04(水) 19:24:49 ID:3JWut2In0
西郷隆盛の征韓論は間違い。
正しくは遣韓論者。

征韓論を唱えるものは韓国に対する武力行使などを手紙やら記録から
論拠としているが、それは当時、陸軍大臣であり参事であった西郷隆盛の
言わば、個人的な主観ではなく職務上、また立場上、当然の仮定であり
記録である。

正式な政府会議では武力行使を唱えず、
まずもって自身が交渉役として遣韓を唱えた。
もし西郷隆盛が征韓論の言う強硬な征韓論者なら
即刻、武力行使の動議を発動していた事だろう。

然るに西郷隆盛は外交においてまず平和的交渉を優先し
解決を望んだ。



443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/04(水) 19:40:10 ID:3JWut2In0
大村は西郷を全く理解していない。

西郷隆盛の基本精神は「敬天愛人」あり、その本質は
争いごとを好なかった、しかし自らの運命を天命として
割り切り事をなす。

下野後は私学校を開き、傍ら農作業などに従事する。

逸話として西郷隆盛は農作業に行く途中、
 農夫に肥え(糞尿)掛けられた時、
「田に掛ければ米が育つ、畑に掛ければ野菜が育つ、
 着物に掛けても何も育たぬぞ」
 と恐縮していた農夫を咎める事もなくその場を
 立ち去ったそうだ。


444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/04(水) 19:45:07 ID:3JWut2In0

右翼が「敬天愛人」の天を無理やり天皇にこじつけているが、
そんなもんじゃない。
天とは自らの生と天命をも含めた森羅万象全ての
摂理と生命の根本を指す。

西郷隆盛の本質は全く逆。


445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/04(水) 19:48:00 ID:3JWut2In0
×着物に掛けても何も育たぬぞ」
○着物に掛けても何も育たぬな」


446 :名無しさん@お腹いっぱい:2008/06/04(水) 20:29:26 ID:KMuTInUD0
>>443

本質はそうかもしれんが西郷はそんな単純な人間じゃない。
西郷は大村によって早く戊辰戦争が終わったことを実は後悔していた。
西郷としては徹底的に日本中が血を流さなければ、革命は完成しないという意識があった。
革命、反革命のエネルギーを流血によって吸収しなければ収まらないと考えていた節がある。

不幸にして西郷の予感は十数年後に的中することになる。
西郷は一筋縄ではいかない大変複雑な人間だと思う。


447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/04(水) 22:07:16 ID:B/nnQJZx0
>>446
それはないと思うな
西郷のパーソナリティーってやはり
自然児だと思う

448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/05(木) 08:37:14 ID:acQTjjIK0
西郷は久光を地ゴロと面罵したり、
慶喜について「ついこの間まで乞食同然の浪人大名だったやつが将軍ですよ」とサトーに言ったり、
奄美大島に流された当初は島民を「けとう」「ハブ」と侮蔑的な言葉で書いたり、
けっこうきつい嫌味な性格だよ〜

449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/05(木) 09:10:57 ID:1+wpMqb20
 沖永良部の西郷さん
http://www.keiten-aijin.com/shima.html

西郷隆盛は整然とした態度で出迎えの各位に対して
「遠来の労に感謝します。これからは一流罪人として
各位を煩わす事になりますが、よろしくします」
言葉は乱れず、自ら謹慎の意を表した。衆は皆感激し、
その礼儀の良さに感謝して、乗馬を勧めたが西郷は
乗馬を拒み「私は罪人の身であるから、
再び土を踏むことはないであろう。
もう一度この土を踏みしめさせて下さい」と言った.一

与人役大体
 人民の幸、不幸は上に立つ役人が良いか、
悪いかによって決まるものであるから、
役人が良ければ人民皆幸せになるが、
役人が悪ければ、その害は台風よりもひどく、
人民を不幸にするものである。
まず良い役人とは、第1に百姓を可愛がり、
百姓の喜びを自分の喜びと考え、百姓の不幸を、
自分の不幸と考えて仕事をする役人である。

第2に、良い役人とは、自分の為の欲を持たない役人である。
次に、たとえ代官の命令でも、
まず百姓の為になるかどうかを考え、
百姓を痛める様な事は絶対にしない役人であると、教えました。

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/05(木) 22:27:05 ID:WaGbkFKF0
>>448
それ自分じゃね〜の?

451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 02:34:48 ID:U8f9iRCv0
別に西郷さん聖人タイプじゃないと思うんだが
人間の好悪の判別が厳しく
嫌いな人にはキツイ言い回しで罵ったりしてるし

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 08:40:26 ID:qSX/A38W0
いまだに西郷を純真純朴な裸の大将・山下清的イメージで観てる人っているの?



453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 12:34:58 ID:q2StOe0G0
>>451
逸話として西郷隆盛は下人に対して怒った事はないそうです。
ミスや非道に対して怒ると言うより諭すような言い方だったのでしょう。


454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 10:47:00 ID:p68dgbZV0
山県有朋が山城屋事件を起した時に、西郷が山県を罵倒したのは有名だな。
まあ罵倒されて当然だけどね。西郷は政府高官の汚職を極端に嫌った。
しかし西郷は、「山県の汚職野郎をぶった切る!」と騒ぐ近衛の薩摩仕官たちをなだめ
山県に代わって近衛大将を引受け、左遷された山県の復帰にも努力したから、
山県は最後まで西郷を恩人として、西南戦争でも西郷軍と戦いながら
西郷本人はなんとか逃がそうとした形跡が多々見られる。

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 15:50:10 ID:/8iv622M0
西郷ドンがエッチしてる時言いそうな一言
「まっこと・・ミミズのこつありもうす!」

456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 19:56:13 ID:HKA3CGbU0
西郷さんが言いそうな言葉
「島の女子はよかっ!うまか〜っ!」

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 02:42:38 ID:7jrmxuXQ0
後世を生きるお前らなんぞに話しても大西郷の徳というものは伝わらぬ

by 高島 鞆之助

458 :西郷隆盛:2008/06/08(日) 05:20:30 ID:RiWQs8c10
あれっ?勝殿?・・こらいけん!間違えもしたっ!勝殿〜っ!!


459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 10:29:32 ID:lRXvxHsg0
西郷さんが上野の像を見て一言
ニヤニヤ・・・「ちょっといい男過ぎないか?」

460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 18:54:06 ID:6h0y8uNJ0
西郷は情・仁の人ってイメージ

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/11(水) 09:17:18 ID:rIXgsDOn0
そうかな?
確かに農政役人だったときには「民を憐れみ、苛斂誅求をしないこと」
を提言しているけど、それはあくまで薩摩の城下士としての上から目線なんだよね。

武士の身分もプライドも捨てて庶民と一体化するとか、士族よりも民衆の方をえらぶとかは絶対にない。
もしそんな思考の持ち主だったら、九州半分を荒らし回る西南戦争なんて起こせるわけがない。


462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/11(水) 09:35:21 ID:TQTfa2heO
西南の役の責任をすべて西郷にぶつけるのは酷かと
あれは西郷一人の意志でどうなるものではないだろ…

それに情・仁の人ではあるよ。その対象が没落していく武士達のほうに向かっただけのことで…

463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/11(水) 18:10:24 ID:2Og8NoZV0
この人にとって農民はあくまで撫育の対象だったんだろね。

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/11(水) 19:52:13 ID:3Qq1MndV0
それにしては下野後に設立した私学校は、農地開墾が主な業務でした。

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/11(水) 21:42:47 ID:TQTfa2heO
死ぬまで農本主義者だからね。
斉彬の1番弟子なのにそこは影響受けなかった。


466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/12(木) 02:23:38 ID:z79dXD9J0
実は斉彬と大久保
久光と西郷が似たもの同士だったてこと?

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/12(木) 11:24:09 ID:Gb+svrhq0
薩摩の武士の多くは農民だったんだよね。

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/12(木) 13:45:06 ID:GuRK1OCo0
西郷・大久保はスケールの大きな近藤・土方。

そしてスケールの小さな毛沢東・周恩来。


469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/12(木) 14:08:54 ID:GHriM+0Y0
西郷隆盛の本名は、西郷隆永 と言う話をどこかで見たことがある。


  本当なのかな?

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/12(木) 16:54:11 ID:GCb3ZBBE0
間違えて新政府に登録しちゃったんだよ。
隆盛は本来お父さんの名前だったと思うよ。
>>466
殖産興業を推し進めたって点で大久保は斉彬と近い世界観をもっていたね。

471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/13(金) 22:36:37 ID:CzMazGV00
>>461
情、仁の人だからこそ西南戦争を回避しなかった
大久保や伊藤のような主義者なら負け戦などしない

武士を捨てなかったのも罪人の身を中央政権に引き上げてくれた
久光への義理立てだ

472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/14(土) 00:57:28 ID:7cuVI+e8O
義理立てかなぁ…
もっと爽やかじゃない屈折した感情があったと思う。

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/14(土) 03:21:29 ID:IqOrgDRu0
司馬遼太郎は
この人解読不能てサジ投げてたよね

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/14(土) 05:11:04 ID:PPhmBGdO0
>>472
もちろん情が強い人だから頑固な所あるだろうし
爽やかというイメージではないでしょうね


475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/14(土) 08:13:30 ID:JbID049C0
>471
それで、士族のプライドよりも民衆の暮らしや国土を守ることを優先させたら
情なしだ功利主義だ腰抜けだと言われちゃうんだなあ…勝や慶喜みたいに。
引きあわねえなあ。

日本人は大半が百姓町人出身なのに、武士を守って民衆を蹂躙する人間をマンセーする奴隷根性の持ち主。


476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/14(土) 11:42:52 ID:7cuVI+e8O
勝も慶喜も評価されてるだろ。
一部の偏狭なヤツからは糾弾されてるが。

当時の時代は武士が日本を動かしてたのは事実だし、武士が主導しなきゃ近代化はなかった。
民衆が力をもてない制度じゃないからね。
明治初期の士族反乱は武士社会からの脱却における陣痛みたいなもんで、誰か個人の責任ではない。
これ以上ない正論なんだけど、安易に現代の平民主義な価値観だけで
人物を評価してしまうのは当時の現実を見れてないよね。


477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/14(土) 15:39:41 ID:7cuVI+e8O
× 制度じゃないからね
○ 制度だったからね

478 :徳川慶喜:2008/06/15(日) 14:01:23 ID:paNv0wwV0
>>476
私は人付き合いが下手な上に趣味のケメラと自転車での散歩が
あの頃の日本人には理解されなかったのさ・・
人の機微と言うものが解らなかったよ!ケケッ!

勝とかみたいに武家株を買って武士になったわけじゃないからね
全く好かれると嫌われるとじゃ背中合わせに離れる様に人気の差がつくよ
篤姫とか和宮とかババアに嫌われたのも敗因だな
みんなも気を付けようね!




479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/16(月) 14:39:39 ID:eEUDsXTg0
>当時の時代は武士が日本を動かしてたのは事実だし、武士が主導しなきゃ近代化はなかった。
その結果として武士階級は総失業→没落階級となった怒りを何処へ向ければ良かったのか
西郷は死ぬことで彼らを受け止めてやるしかなかったんだよね

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取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。
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