2ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

京都大学大学院法学研究科教授・毛利透

1 :法の下の名無し:2010/02/26(金) 07:15:37 ID:zy8iojG5
新進気鋭の憲法研究者。
専門領域は、民主政・表現の自由・憲法パトリオティズム・行政機構など。

2 :法の下の名無し:2010/02/26(金) 07:18:08 ID:zy8iojG5
以下、
http://kyodai.jp/shokai/staff/ma-mori.html
より引用。

@著書
●平成17年度
『憲法 Cases and Materials 人権 (基礎編)』、『同 (展開編)』(初宿正典他との共著、有斐閣)
『VIRTUAL 憲法』(君塚正臣、藤井樹也との共著、悠々社)
●平成19年度
『憲法 Cases and Materials 憲法訴訟』(初宿正典他との共著、有斐閣)
●平成20年度『表現の自由―その公共性ともろさについて』(単著、岩波書店)

A論文
●平成16年度
「自由な世論形成と民主主義 − 公共圏における理性」憲法問題15号17−32頁
「主権と平和 − インゲボルク・マウス、そしてハーバーマス」樋口陽一他編『国家と自由 − 憲法学の可能性』265−287頁
「結社の自由、または「ウォーレン・コート」の終焉と誕生」『憲法論集 (樋口陽一先生古稀記念)』81−115頁
「「法治国家」から「法の支配」へ − ドイツ憲法裁判の機能変化についての一仮説」法学論叢156巻5・6号330−357頁(2005)
●平成17年度
「国民主権原理と改憲論」『法律時報増刊 憲法改正問題』20-25頁
「代表概念」、「行政権の概念」『論点探求 憲法』248-256頁、293-302頁(小山剛・駒村圭吾編)
Freedom in the Public Sphere and Democracy ? What Ties Them Together?, Kyoto Journal of Law and Politics, Vol.2(1), at 55-69 (2005)
「アメリカの表現の自由判例における萎縮効果論 − ウォーレン・コートからバーガー・コートへ(一)〜(三)」法学論叢158巻1号1−23頁、3号1−32頁(2005)、4号28−62頁(2006)
●平成18年度
「官僚制の位置と機能」ジュリスト1311号64−71頁
「アメリカの表現の自由判例における萎縮効果論 − ウォーレン・コートからバーガー・コートへ(四)」法学論叢159巻2号1−46頁
「国家の時代の終わり?」『市民社会と責任』63−83頁(棚瀬孝雄編、2007)
●平成19年度
「市民的自由は憲法学の基礎概念か」『岩波講座 憲法1』3−30頁(井上達夫編)
「憲法改正論議への比較法的視座−ドイツ憲法学の視点より」法学論叢161巻4号1−18頁
●平成20年度
「表現の自由をめぐる近年のドイツ連邦憲法裁判所判例」『国民主権と法の支配 佐藤幸治先生古稀記念論文集 下巻』269-293頁
Die Geschichte des Begriffs "Schmahkritik" - Zur Wechselwirkung zwischen Bundesverfassungsgericht und Bundesgerichtshof, Der Staat 47(2008),S 258-276
Ein rechtsvergleichender Kommentar uber Verfassungsanderung-Japan aus der Sicht der deutschen Staatsrechtslehre, in :Rainer Wahl (Hrsg.), Verfassungsanderung, Verfassungswandel, Verfassungsinterpretation (2008),S.183-198

3 :法の下の名無し:2010/02/26(金) 07:18:56 ID:zy8iojG5
続き

Bその他
●平成16年度
「プライバシー侵害を理由とする週刊誌販売差止めの許容性−週刊文春事件」判例セレクト2004(法学教室294号別冊付録)7頁
●平成17年度
「「マニフェスト選挙」なんてものはない」世界2005年11月号112−115頁
(講演録)「表現の自由の公共性」『憲法の現在』265−286頁(自由人権協会編)
●平成18年度
新刊ガイド・内野正幸『民主制の欠点』 法学セミナー616号126頁
解題・クラウス・ギュンター「自由か、安全か−はざまに立つ世界市民」 思想984号50−51頁
●平成19年度
Key Word「首長多選制限」法学教室329号2−3頁(2008)
●平成20年度
「自らの名前を名乗ることと意見表明の自由、一般的人格権」『ドイツの憲法判例V』153-158頁
書評:川人貞人『日本の国会制度と政党政治』レヴァイアサン42号169-172頁
ブックレビュー:杉原泰雄編『新版 体系憲法事典』法律時報81巻1号93-95頁(2009年)

4 :法の下の名無し:2010/02/27(土) 00:45:03 ID:giwnflco
「民主政の規範理論」の表紙の写真は誰?

5 :法の下の名無し:2010/02/27(土) 03:46:55 ID:ZqfcHn2h
ハーバーマスじゃないの?

6 :法の下の名無し:2010/02/27(土) 03:54:28 ID:wXfZLscl
>>4

明記されていないけど、本の内容からしてハーバーマスだろうね。


ところで、最新著である
毛利透「自由「濫用」の許容性について」阪口正二郎(責任編集)『公共性
――自由が/自由を可能にする秩序』(自由への問い3、岩波書店、2010年)44頁以下
は、すごく面白い。
毛利先生は「表現の自由は権力をもたない弱いものであるからこそ、公共性を発揮する」
としばしばおっしゃるけど、それが、ワイマール共和国の「たたかう民主制」の歴史によって裏づけられている。

7 :法の下の名無し:2010/02/28(日) 00:44:35 ID:TlIWzH+K
>>5>>6 サンクス

「自由への問い」第3巻は、地元図書館が書庫整理中でしばらく読めません。
自費購入するだけの資金の余裕もないしw


8 :法の下の名無し:2010/02/28(日) 00:52:52 ID:TlIWzH+K
毛利先生は1967年生まれとのこと。
下記は助手論文でしょうか、さすが英文読解と社会学にご堪能のようですが。
石川健治も社会学文献(尾高関連)の引用が豊富でしたね。

「人種分離撤廃の現実と法理論」(一)(二)未完
国家学会雑誌106巻7・8号(1993)、107巻7・8号(94)

そもそも「規範理論」で憲法パトリオティズムが
当然の前提として説明が始まっていたので面くらいましたが、
こちらの論文の脚注で「憲法愛国主義」と定義されていましたね。

こちらの第二部以降、60年代末・70年代はこのまま未公表のままなのだろうか。
どうしても読みたいと渇望しているわけではないけれどw
せっかくの立法事実論についてそれなりの結論は知りたいという気もします。


9 :法の下の名無し:2010/02/28(日) 01:02:01 ID:TlIWzH+K
ハーバーマスは誰を読んだらいいんでしょ。
河上倫逸、田中成明、村上淳一?


10 :法の下の名無し:2010/02/28(日) 16:11:58 ID:dxPUQNLd
>>9

いきなり『公共性の構造転換』や『事実性と妥当性』を読むのもよいかもしれません。
ロールズの一部の日本語訳と違って、特に翻訳が悪いわけではないので。

11 :法の下の名無し:2010/02/28(日) 22:37:37 ID:waLhAac0
ハーバーマスってことはコミュニタリアンの流れの主張ってことでOK?

12 :法の下の名無し:2010/03/01(月) 02:35:21 ID:u+3/hHSR
9じゃないけど、ハーバーマスは普通コミュニタリアンとはいわないんじゃないかな。
アメリカの政治思想には収まりきらないけど、リベラリズムか共和主義(リパブリカニズム)
として受けとめるのが、一般的なんじゃない?

13 :法の下の名無し:2010/03/01(月) 03:06:58 ID:RfRmw8hN

「民主政の規範理論」81頁

「集団的決定が市民の自覚的政治的意思形成、公共での政治についての熟議と離れてしまうのでは、
たとえ仮にそれで国家権力による過大な侵害が防がれるとしても、民主政の理論としては弱すぎる。
法制度を戦略的妥協のために利用する主体だけではなく、公共の場で政治的問題についておこなわ
れる議論の力が民主政にとって持つ意味にも注目しなければならない。
これらに対して、ハーバーマスの関心は国民内部でおこなわれるコミュニケーション(つまり国民の
一体的意思ではない)、およびそこから生まれる公論と立法を行うために制度化された審議との
結びつきあいに向けられるのであり、彼は、これを「熟議の政治」という名で民主政の規範的理論
として提唱することになる。」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



毛利意見とハーバーマス見解との区別がつきにくいのですが、
前段が表現の自由の公共性へとつながり
後段が「規範理論」のテーマということでしょうかね。


14 :法の下の名無し:2010/03/04(木) 03:54:07 ID:e/Rg8xf6
毛利先生の次の研究テーマは、インターネット法のようです。

彼の話を直接聴くかぎり、彼は、インターネット空間は
人々が萎縮効果を受けることなく、自由に言論活動を行えるので、
民主政にとって大きな役割を果たす、と積極的に評価しています。
彼の議論における一つの大きな軸は、萎縮効果のようです。

15 :法の下の名無し:2010/03/04(木) 03:55:52 ID:e/Rg8xf6
ちなみに、京大法学部・法学研究科のホームページの教員紹介には、
教員が研究テーマなどを自己紹介する箇所があります。
毛利先生は、かなり頻繁に自己紹介ページを更新しています。
毛利先生の次の研究テーマがインターネット法であることも、
そこで明らかにされています。
URLは
http://kyodai.jp/shokai/staff/ma-mori.html

16 :法の下の名無し:2010/03/07(日) 14:42:19 ID:tCpILtny
リパブリカニズムとコミュニタリアンの違いがよく判らん
前者は後者に包摂されると自分では思っていた

17 :法の下の名無し:2010/03/07(日) 19:15:25 ID:cGL0WC+Z
>>16

コミュニタリアンの一人であるマイケル・サンデルは、共和主義コミュニタリアニズムを採っていて、
彼においては共和主義(リパブリカニズム)はコミュニタリアニズムに包摂されるけど、
他のコミュニタリアンやリパブリカンは、あまりそのようには考えない。
だから、リパブリカニズムとコミュニタリアニズムは、一般には別次元の規範理論と捉えられている。

ハーバーマスやアーレントの議論は、政治参加が道徳的に優れている、とする共和主義に近いといえるだろう。
だけど、ハーバーマス・アーレントは、コミュニティが個人の道徳的・価値的母体として機能すべきである、
とは考えていないはずだ。
特にアーレントは、全体主義の悲惨な現実を目の当たりにしているから。
またアーレントは、「個人が」自己の卓越性を示すために政治参加するのが望ましいといっているのであって、
コミュニティの価値を重視しているわけではない。
ハーバーマスもアーレントも、根本的には個人主義だから、コミュニティを重視するコミュニタリアニズムとは
一線を画している。

そういうふうに考えると、リパブリカニズムをコミュニタリアニズムに、一般的に包摂させることは、
無理があるんじゃないかな。

18 :法の下の名無し:2010/03/07(日) 22:15:06 ID:tCpILtny
>>18
解説ありがとう
つまり共和主義を採用するのでも個人に重点を置くか共同体に重点を置くかで異なると理解した
仮に個人主義vs共同体主義(X軸)
共和主義vs世俗主義(Y軸)という分け方をすると
ハーバーマスは個人主義&共和主義、
ノージックは個人主義&世俗主義、
ロールズは共同体主義&世俗主義になるのかな?

19 :法の下の名無し:2010/03/07(日) 22:27:37 ID:tCpILtny
>>18ではなくて>>17
でもロールズがコミュニアリアンというのも変てこりんだな
まあリバタリアン側からみればどちらもあまり違いはないが

20 :17:2010/03/08(月) 00:10:28 ID:BHT+kwDp
「世俗主義」という概念は、あまり聴いたことがないから、その内容はいまひとつ分からないけど、
>>18の意図するところはおそらく、政治参加することなく、私的な空間に閉じこもって、
そこで自分の道徳的価値を全面化することを許容する、プライヴァシーを尊重する規範理論である、
ということだろうね。
そうすると、ノージックはまさに>>18がいうとおりだと思う。
ハーバーマスも、プライヴァシーの意義や政治参加しない自由は否定しないだろうから、必ずしも全面的に
共和主義というわけではないけど、おおまかな位置としては>>18が正しいだろうね。
ロールズはコミュニタリアンと対決したから、>>19で書かれているように、共同体主義ではなく
個人主義だと思う。

21 :17:2010/03/08(月) 00:14:55 ID:BHT+kwDp
ちなみに、「世俗主義」という概念は、もし使うとしたら、
国家の非宗教性、国家の領域からの宗教の排除を意味するのが、一般的だと思うよ。

22 :法の下の名無し:2010/03/08(月) 09:42:50 ID:syW2LTSE
世俗主義(仮)というのは良い当てはめ言葉がないから
適当に作っただけなのですが無知をさらしてしまいましたね(笑)

結局(X軸)(Y軸)etcで括るとうまくいかなさそうですね
「現代的な自由主義&議会主義&福祉国家&市場経済」を思想の中心において
そこから放射線状に離れるような位置に各思想家を配置するしかないのでしょうかね

23 :法の下の名無し:2010/03/08(月) 10:03:44 ID:syW2LTSE
とはいえ
自由主義を自然権思想、
議会主義を共和主義、
福祉国家を配分的正義と仮に置き換えれば

自然権思想vs共和主義(X軸)
市場経済vs配分的正義(Y軸)でまとめられる気がする

すると今度は議会主義と共和主義を置き換えるのが妥当かどうかが問題になるが


24 :法の下の名無し:2010/03/08(月) 12:47:19 ID:BHT+kwDp
共和主義を、何らかの規範理論と対置させるという発想は、あまり見たことがありません。
無理に対立軸をつくり出そうとしないほうが、無難かもしれません。

ですが、無理にでも何らかの対立する理論を挙げよといわれれば、リバタリアニズムが
それに当たるでしょうね。
共和主義は、政治参加する行為が道徳的に優れていて、国家はそのような道徳的立場を、
市民に強制できるという理論だといえますが、
それに対してリバタリアニズムは、何らかの行為が道徳的に優れているなどとは想定せず、
言い換えれば、さまざまな価値観に優劣をつけることを忌避します。
またリバタリアニズムは、個人の私的で自由な空間を重視するので、政治参加という
公共的営為に、あまり価値を見出しません。
これらの意味で、共和主義とリバタリアニズムは対立するといえそうです。

リバタリアニズムが徹底した個人主義を採り、共和主義は個人主義とも集団主義とも
結びつきうるのは、これまでの議論で出てきたとおりです。

25 :法の下の名無し:2010/03/09(火) 00:19:12 ID:bv+YSxf3
なるほど
個人を道徳的に陶冶するだけでは政治思想にも政治哲学にもならないし
もちろん憲法学のテーマにもならないですね
(ギリシャやローマの哲学みたいな感じ)
共和主義が政治思想や政治哲学であるのはそれを他人に強制するからなのですね
結局コミュニタリアンとどう違うのかがよく判らないままです・・・

26 :法の下の名無し:2010/03/09(火) 00:26:40 ID:bv+YSxf3
いや、アレントなんかはもともと古代ギリシャとか大好きだったから
そもそも政治ではなくて個人の人格の陶冶を目指していただけかも

27 :法の下の名無し:2010/03/09(火) 00:36:49 ID:bv+YSxf3
私はハーバーマス自体は全く知らないのですが
コミュニタリアン側からの批判というのは
「俺らの方が立ち位置が一貫していて、お前達の立ち位置は中途半端なんだよ」
ということではないのでしょうか?(たぶん)

ロールズやノージックやマッキンタイアとはちょっと毛色が異なりますねですね

28 :法の下の名無し:2010/03/09(火) 12:18:55 ID:h8MANYZ7
>>26

アーレントが古代ギリシャを範にとったことはたしかですが、
彼女が、政治参加を非常に重視していたことは確実です。

彼女が、全体主義の歴史を踏まえて議論を展開していたことを思えば、
分かっていただけると思います。
いくら個人が人格を洗練させても、全体主義に対抗することはできません。
人格の劣った多数派が、人格の高潔な少数派を弾圧するなどということは、
いくらでもありますから。

アーレントの議論において、そこで意味をもつのが、政治参加です。
高潔な人格の持ち主(それは必然的に少数派です)が政治参加し、
人々に対して自身の「卓越性」を示すことによって、自己の人格をさらに練磨し、
かつ、他者にアピールして、多数派の暴力としての全体主義を回避・批判する
ことができるのです。

29 :法の下の名無し:2010/03/09(火) 20:35:50 ID:bv+YSxf3
自己の人格を陶冶することによって他者にアピールするのは他者への強制ではありませんね
(ただし道徳的に卓越した人に何かしら特典を与えたり道徳的な行為に対して憲法解釈上で
 高い価値を与えたりするのは他者への強制になりますが。)

大変勉強になりました。
馬鹿トークにおつきあい頂いてありがとうございます。

30 :法の下の名無し:2010/03/09(火) 21:06:30 ID:bv+YSxf3
余談ですが、政治思想や政治哲学というのはやはり他者に強制をするから
政治思想や政治哲学になると思うんですよ
環境保護運動やロータリークラブだって政治思想にはなり得る

リバタリアニズムは政府や社会が個人の自由を制約することを
禁止するからこそ政治思想たり得るのだと思います。
(個人が個人の自由を制約することには無頓着というか無関心ですから
 保守主義と結びつきやすいと思います。
 個人が個人の自由を制約することを是正するために
 主として経済的な面で政府が介入することを求めるのは社会民主主義と、
 主として政治的な面で社会が介入することを求めるのは共同体主義と
 それぞれ結びつきやすいのではないかと思っています。)

31 :法の下の名無し:2010/03/09(火) 21:09:31 ID:bv+YSxf3
配分的正義についても、
正義に基づいて自分の財産を他者に配分するのは別に政治思想でも何でもありません
他者の財産を他者に配分せよと求めるから政治思想たり得るのだと思います。
(他者の財産を自分に配分せよと求めるのはいわゆるレントシーキングですね)

アレントは何を求めているのでしょうか

32 :法の下の名無し:2010/03/09(火) 23:02:33 ID:bv+YSxf3
募金活動かな
自ら積極的に自分の財産を再配分してみせることで自己の道徳性を他者に示し
それにより他者の募金を誘引して社会全体での好ましい富の再配分を目指す

政治参加を通じて全体主義を回避・批判する、というのは
三権分立にしたら権力の乱用を防止できる、とか
小選挙区制にしたら二大政党制になりやすい、とか
広い意味での政治学ですが、政治に関するサイエンス(真理や価値の追求)
ではなくて政治に関するアート(=テクノロジー)なのかもしれません

33 :法の下の名無し:2010/03/10(水) 01:16:37 ID:1UVqfpdg
>>31>>32

アーレントは、経済的な問題に対して、かなり冷淡だといわれます。
アーレントが理想としたのは、古代ギリシャの共和政です。
精確には、古代ギリシャでポリスの政治に参画した人々を、
模範としました。
その人々はどのような人間かといえば、有産階級の成人男性です。
彼らは、家政(オイコス)の領域(今でいえば、家庭内+経済社会です)
に関わる仕事を、すべて奴隷や妻に任せて、もっぱら政治のみを
考えておけばよかったです。
もちろんそこでの「政治」とは、家庭内の事項や経済問題とは
切り離されていました。
アーレントが理想としている人間像は、現実には、家庭・経済に
配慮する必要のない、経済的に自立した有産階級の成人男性のみでした。
彼らは、家庭・経済に配慮せず、もっぱら公共の事項について、
議論し、各人の卓越性を競い合いました。

アーレントに対してしばしば向けられる批判というのは、第一に、
彼女が理想とする政治参加の像は、奴隷制と、男性による女性の支配を
前提としなければ成立しないではないか、というものです。
第二に、アーレントは政治から家庭・経済に関わる事項を払拭しようとするが、
それは可能か、また妥当か、ということです。

ですから、>>32がおっしゃるような募金活動をしても、アーレントは評価しないでしょう。
むしろ、政治に経済を持ち込むことだとして、批判するでしょう。

アーレントが卓越性を示す営為としているのは、公共の場において、
自己の意見を主張することです。

34 :法の下の名無し:2010/03/10(水) 09:34:22 ID:QgRjZ6HD
なるほど
アレントの言っていることは何となく理解できそうな気がします。
丁寧な解説ありがとうございました

論理の構造としては別に政治でなくても経済活動でも同じことだと思います。
公共の場で政治への参加を通じて他者へアピールすることが政治思想と言うのであれば
同様に募金活動を通じて他者にアピールすることは立派な経済政策と言わざるを得ない
ただ、社会の多数が政治思想や経済政策で日常的に議論する世の中になってしまっては
逆にあまり宜しくないのかとも
適度にほおって置いて欲しいとも思うのですから

35 :法の下の名無し:2010/03/10(水) 20:04:51 ID:1UVqfpdg
>>34

>>「適度にほおって置いて欲しいとも思うのですから」

まさにそのとおりだと思います。
社会の多くの人は、日常的には、政治や経済について、社会に対して
主張を行う余裕もありませんし、その意義も感じていません。
たしかにアーレントにおいては、政治的な主張を行うことは、自らの
卓越性を示す、高潔・ヒロイックな営為です。
ですが現実には、一般人が政治的言論を行ったとしても、社会は
ほとんどまったく変わりません。
そのため社会の多数派は、政治的言論に消極的になりがちです。

毛利先生が、表現の自由に大きな意義を認めるのは、そのような
現実があるからです。
すなわち、他者に対して強制する力がない、「弱くてくじけやすい」
言論行為だからこそ、自由に連帯を築くことができる。
自分の意見がただちに強制力をもつような状況では、他者への
アピール・説得を通じて、他者と連帯して、徐々に支持者を拡大する必要
などなく、一挙に強制力を発動させてしまえばよいのですから。
一般人の言論活動は、弱くて他者に対する強制力をもたないからこそ、
他者にアピールして、徐々に支持者を拡大する必要があります。
そして最終的に、議会を通じて強制力を有することとなる可能性がある
(しかしそれは、一種の「賭け」です)。
一般人の言論活動は、そのような性質のものであるからこそ、他者との
連帯を創出し、社会に寛容を醸成する可能性がある(それは、あくまでも
可能性にとどまりますが)。
そのような一般人の言論が集積することで、「公共(性)」が生まれます。

続く

36 :法の下の名無し:2010/03/10(水) 20:06:24 ID:1UVqfpdg
続き

けれども、言論活動には強制力がないために、いくら活発に言論活動を行っても、
社会はなんら変わらず、無為に終わる可能性が、大いにあります。
したがって、社会の多数派は言論活動に消極的になりがちです。

しかし、無駄をおそれず社会にアピールしようと言論活動を行う、ごく少数の者が
現れた場合には、彼らが安心して表現活動を行えるようにする必要があります。
それゆえに、表現の自由に対する規制の合憲性は、厳格に審査されなければ
なりません(表現の自由の優越的地位、または二重の基準論)。
また、そのような少数者が、無駄かもしれないとは知りつつ、表現活動を行う気に
させるために、表現活動に対する萎縮効果は、できるだけ除去しなければなりません。

毛利先生は、おおむね以上のように考えます。

毛利先生が表現活動に対する萎縮効果に着目するのは、表現活動は見返りをほとんど
求めない、ヒロイックな行為だからこそ(アーレントの議論からはそうなります)、
表現活動に対する敷居を低くしなければならない、と考えるからです。

長文失礼しました。

37 :法の下の名無し:2010/03/10(水) 20:12:06 ID:1UVqfpdg
>>29で、アーレントにおいて、「自己の人格を陶冶することによって他者にアピールするのは
他者への強制ではありません」とされています。
言論行為は他者へのアピールに意義・本質があり、他者への強制力をもたない。
そのように考えるアーレントの議論を、まさに毛利先生は受け継いでおられるわけです。

38 :法の下の名無し:2010/03/10(水) 21:19:06 ID:QgRjZ6HD
すばらしい議論ですね
毛利先生の著作に興味が出てきました

ただ二重の基準論がそれでいいのかどうかはよく判りません
自由な経済活動が民主主義の基礎となることも否定は出来ないし
どこかの法哲学者(井上達夫さん?)は精神的な自由だけを
重視するのは知識人特有の偏見だとも言っています。

もともと本家のアメリカでは二重の基準論はマイノリティー保護の
ために生み出された理論だったように記憶しているのですが

39 :法の下の名無し:2010/03/10(水) 21:41:59 ID:1UVqfpdg
>>「毛利先生の著作に興味が出てきました」

ぜひ一度、ご覧になるとよいと思います。

私が>>36で申し上げたのは、毛利先生の議論を精査すれば、
二重の基準論の根拠はそのようになる、という趣旨でして、
必ずしも明確に、毛利先生がそうおっしゃっているわけでは
ありません。
しかし、毛利先生の議論からは、かなり素直に出てくる議論
だと思うので、おそらく彼もそうお考えではないかと思います。
毛利先生自身も、表現の自由の根拠として一般にいわれる、
自己実現の価値・自己統治の価値・民主政プロセスの
傷つきやすさといった要素が、表現の自由の優越的地位
(二重の基準論)の根拠となることは、肯定しておられるはずです。

私が毛利先生の議論を魅力的だと感じるのは、そのような
一般的な根拠論のほかに、表現の自由の弱さ・くじけやすさ、
あるいは表現活動のヒロイック性といった「現実」を、
表現の自由の優越的地位の根拠にすえることができる点です。

40 :法の下の名無し:2010/03/10(水) 21:52:57 ID:1UVqfpdg
アメリカ合衆国最高裁の判決(「カロリーヌ判決」)において二重の基準論が採られた際、
マイノリティー(「社会的に分離し孤立した少数者」)の権利を制約する立法に対しては、
違憲審査が厳格に行われなければならない、といわれたことはたしかです。
しかし同判決では、そのほか、不当な立法の改廃を行うことが通常期待できる政治過程を
制約する立法(典型的には、表現の自由に対する規制立法)に対しても、
厳格な司法審査がなされなければならない、と説きました。
詳細は、各種の比較的詳細な文献で、「カロリーヌ判決」「カロリーヌ・ドクトリン」の語を、
索引で調べてください。

41 :法の下の名無し:2010/03/10(水) 22:23:09 ID:QgRjZ6HD
あと一点だけ頭の中に引っかかっていることについて教えて下さい

公共の場で議論することそれ自体に価値を重く置きすぎることは
やはりある種のスノビズムを感じて引っかかっているのですよ

どれだけ英雄的な献身であっても中身が伴っていなければ無意味であり
大事なのは議論の中身ではないのかなと
配分的正義にしろ共同体にしろ自然権にしろ何からの実体的な価値を
示しているわけですが、公共の議論に参加するという目的を持って
公共の議論に参加することが共和主義というのであれば空虚です

もちろんそのような「公共の場」は絶対に必要であるし制度的に
守られなければならないとも思うのですが、あくまでも器であり、
そのような公共の場でなされた意見が適切なものか(ひょっとしたら
ヘイトスピーチかもしれない)は保証されないわけです

大事なのは多様性であり憲法学は多様性を守ることを重視すべきかなと
政治的な議論に参加することに憲法学がコミットしすぎると、
政治的な議論に参加しない人、興味ない人、営利活動が好きな人に
不利益を与えて多様性を失わせるのではないかなとも漠然と感じました。

42 :法の下の名無し:2010/03/11(木) 00:32:06 ID:jO39RAU+
>>41

>>「大事なのは議論の中身ではないのかな」

そのようなご意見には、少なからず共感を覚えます。
しかし、従来憲法学は、表現の自由に対する観点規制(内容規制)であれば、
基本的に内容のいかんを問わずに、厳格な司法審査が妥当する、としてきました。

これは、憲法学が、価値多元主義に立ってきたからでしょう。
すなわち、なんらかの価値観・意見が客観的・普遍的に正しい、などということはない。
どのような価値観・意見も、公共的討議の場において、自身の説得力を競い合い、
勝ち残った意見が、(暫定的に)真理としての地位を獲得する。
これがいわゆる、思想の自由市場による真理の発見、という議論です。

客観的・普遍的に正しい価値観・意見があるならば、それに沿う表現活動のみを手厚く
保護することも、十分可能ですし、むしろ望ましいかもしれません。
しかし憲法学は、そのような客観的真理の実在を否定し、価値観・意見は、公共的討議に
さらされてはじめて、真偽を確定することができる、と考えてきました。
もちろん、公共的討議に終わりはありませんから、価値観・意見はいつまで経っても
暫定的にしか真理でしかありえないし、逆にいえば、どのような価値観・意見も、
潜在的には真理でありえます。
だからこそ、内容のいかんを問わず、原則としてどのような表現内容に対しても、
手厚い保護がなされるのです。

このように、憲法学が伝統的に依拠してきたと考えられる価値多元主義によるかぎり、
議論の中身を問わず、言論行為には、表現の自由の手厚い保障が要求されることに
なります。

続く

43 :法の下の名無し:2010/03/11(木) 00:32:52 ID:jO39RAU+
続き

これに対して共和主義は、(徹底した)価値多元主義を批判します。
価値多元主義は、人々が抱くさまざまな価値観のうち、いずれかを特権化することを
否定します。
これに対して共和主義は、政治参加は道徳的に優れた行為であると考えます。
共和主義は、政治参加に道徳的価値を認める価値観を、採用・特権化するわけです。

共和主義からすれば、政治参加は道徳的に優れた行為であり、そのような道徳的判断を、
国家が私人に強制してもよいことになります。
すると、政治参加「しない」自由は、政治参加「する」自由よりも保障が手薄になり、あるいは
保障が否定されることになりえます。

なお、日本の憲法学説で、政治参加しない自由につき、政治参加する自由よりも
保障を手薄にする学説はあっても、政治参加しない自由の保障を全面的に否定する学説は、
見たことがありません。

毛利先生がどのような立場を採っているかは、必ずしも明らかではありません。
しかし彼が、政治参加しない自由を否定するとは考えがたいです。
また彼は、アーレントに依拠はしますが、政治参加が道徳的に優れているから、国家は
そのような道徳的立場を私人に強制してよい、などとは、まずいわないと思います。

ですから彼は、共和主義に一定以上の親和性があることは確かですが、基本的には
伝統的な憲法学と同様、価値多元主義に立っているのではないかと思います。

ちなみに、明示的に共和主義に依拠して議論する憲法研究者としては、慶應義塾大学の
大沢秀介教授や、最近では同大学の山元一教授がいます。
ただし、私は彼らの議論にあまり詳しくないので、詳細は彼らの著作を参照してください。

44 :法の下の名無し:2010/03/11(木) 00:45:42 ID:jO39RAU+
分かりにくかったかもしれませんが、「政治参加する自由」というのは、
具体的には(政治的)表現の自由や、参政権のことです。

45 :法の下の名無し:2010/03/11(木) 01:38:20 ID:02uBkjrN
声が大きいとか利害関係のつながりとかの不合理性が言論の場を支配することが
ままある、というのは経験的な事実なので(悪貨は良貨を駆逐する)、
表現の自由がもろい、というのには違和感を感じます。

例えて言えば、強い女性、たくましい女性が存在するのに、
「女性は、かよわい」と聞こえるような違和感です。


46 :法の下の名無し:2010/03/11(木) 02:38:31 ID:jO39RAU+
あなたがおっしゃる「言論の場」とは、どのようなものですか?
おそらく、議会など公機関を想定されているのではないでしょうか。
国会では野次が議事を妨害し、あるいは国会議員が地元の利権を
追求する、といったふうに。

毛利先生が、表現の自由がくじけやすいとおっしゃっているのは、
そのような場面ではありません。
彼が想定しているのは、路上でのビラ配りを典型とする、
「インフォーマルな公共圏」です。
彼において、権力と結びついていないために、連帯の可能性を
内在させている表現の自由が問題となるのは、私人の生活する
「インフォーマルな公共圏」です。
議会など、議論が強制力と直結している討議のアリーナ、つまり
「フォーマルな公共圏」での言論については、毛利先生は
表現の自由の行使とは考えていません。

なぜ声が大きかったり、背後の利害関係が意味をもつのかといえば、
それが強制力と結びついているからです。
そのゆえに、議会では議員が党派的な行動に出るのです。

これに対して、路上でのビラ配りにおいて、不合理な乱暴な声を出したり、
あるいは何者かと利害関係をもっていたからといって、通行人に対する
アピール力が増すはずがありません。
ビラ配りをしている人々にできるのは、説得力がある理由づけをしながら、
分かりやすく、粘り強く言論活動をすることくらいです。
ビラを受け取ってくれる人も限られていて、自分たちの言論活動が
社会に対してほとんどまったく影響力をもたないのではないか、という不安を
もちながら、なお言論活動しようとする人に、表現の自由は保護を
与えなければなりません。
これは、ビラ配りにかぎらず、権力と結びついていない「インフォーマルな公共圏」での
言論活動であるかぎり、同じことです。

国会・地方議会など「フォーマルな公共圏」では、討議が強制力に直結しているために、
そこでの議論にインセンティヴを与える必要はありません。
これに対して、路上のビラ配りなど「インフォーマルな公共圏」での言論活動は、
たとえ声が大きかろうが、背後に利害関係があろうが、一般大衆はほとんど興味を向けてくれません。
そのために、表現活動に対する敷居を低くしなければならないのです。

毛利先生は、「フォーマルな公共圏」と「インフォーマルな公共圏」における討議のあり方を、
かなり厳格に区別して論じておられることに、注意が必要です。

47 :41:2010/03/11(木) 23:52:31 ID:ykdji/0j
丁寧な解説ありがとうございます
アレントと毛利先生の見解も違うのですね

政治参加に道徳的に優越的な地位を与えるアレントの主張を
仮にそのまま憲法学に取り入れるとした場合の結果はやはり
違和感を禁じ得ません。
社会の多数が政治的争点に関して賛成派と反対派に別れて
議論している状態というのは社会の病理的な現象ではないでしょうか
相当程度の多数の無関心な層が存在して初めて客観的な議論が
できるのではないかという気もします
政治に無関心な人々に議論に参加するような圧力をかけると
バンドワゴン効果のようなものが生じてしまうのではないでしょうか
政治に参加しない自由を正面から肯定するような憲法学説は
ありませんが、暗黙の了解ではないかと思います

あと、私(>>41)は>>45とは別人ですが、彼(彼女)の言うことも
少し共感するような気がします
インフォーマルな空間であっても表現の自由がそこまで弱いものでしょうか
過保護に守りすぎるとかえって表現の自由が本来持っている強さと
多様性を失わせるのではないか、と彼(彼女)は考えるのではないでしょうか

48 :法の下の名無し:2010/03/12(金) 00:12:01 ID:ESBIMMPp
あと念のため補足しておきますと、私は価値多元主義と思想の自由競争に
疑問を持っているわけではなくて、政治参加と精神的な自由に重きを
置きすぎることに疑問を持っているのです。
上で引用されているカロリーヌ判決でも、別に政治参加や精神的な自由に
高い価値を置くことが目的ではなく、あくまでも公共の議論の場を維持するために
必要(それは少数派の保護に不可欠だから)であるから表現の自由が厳格に
守られなければならないとしているのではないでしょうか
そして、二重の基準論自体はよいとしても、精神的な自由と経済的な自由の
二分論ではなくて、公共の議論の場を支えるために不可欠であるか否かとで
分けられるべきではないかと思います。
精神的な自由の中でも一部の自由は政治的な目的で乱用されていると思いますし、
(一部の憲法学説はそれに拍車をかけているようにも思いますし)
経済的な自由についても政治過程を歪めるような規制(特定の集団にのみ
利益を誘導するような立法)はそれなりに厳しく審査されるべきではないかと
個人的には考えています。

49 :法の下の名無し:2010/03/12(金) 00:15:06 ID:ESBIMMPp
ただあまり非現実的な主張だけをしてもしょうがないので
なんだかんだ言って最高裁の見解が現時点ではおおむね穏当でまともな
ことが多いのではないかなとも思っています。

50 :>>42=>>46:2010/03/12(金) 00:21:26 ID:Mkb6BoQL
>>47

毛利先生も、「政治に無関心な人々に議論に参加するような圧力をかける」べきではない
とお考えですし、私もそう思います。
彼が企図しているのは、あくまでも表現活動の敷居を低くすることまでであって、実際に
表現活動を活性化することまでは、求めておられません。
アーレントが考えるように、政治参加はヒロイックな行為であって、社会の人々にそれをせよ、
と命ずることはできません。
ごく一部の勇気ある人々が、表現活動に参加してくれることに、賭けるのみです。

毛利先生は、表現の自由はあくまでも権利であって、義務ではない、という憲法学の伝統的
発想を、受け継いでいます。

続く

51 :法の下の名無し:2010/03/12(金) 00:23:38 ID:Mkb6BoQL
続き

インフォーマルな公共圏における表現活動が、そこまで弱いのか、というご指摘について、
たしかに私もある程度共感できます。
強固な信念をもった人々ならば、警察に捜査・逮捕されようと、表現活動をやめないでしょう。
しかし、表現活動への敷居を低くすれば、そこまで強い意思をもった者でない人々、たとえば、
不利益が及ばない保障があるならば、ちょっと表現活動をしてみようかな、という人が、
表現活動に参画してくる可能性があります。

憲法学が採用してきた思想の自由市場は、多くの人々が意見・主張を闘わせ、他者からの
批判を受けて、自己の意見をさらに吟味するなどして、真理が発見される、とするものです。
多くの人々が他者と触れ合えば、より幅広い寛容が生まれる可能性もあります(これもまた、
一つの賭けではありますが)。
民主主義にとっては、(参加の強制なしに)より幅広い議論の参加があったほうが、望ましい
です。
また、より多くの人々が議論に参加して得られた結論・決定のほうが、民主的正統性
(legitimacy)を、より強固に備えています。

ですから、表現の自由一般が「弱く、くじけやすい」ものであるわけではありませんが、
憲法は、「弱く、くじけやすい」表現活動・表現者に、十分配慮しなければならないのです。

52 :法の下の名無し:2010/03/12(金) 08:43:50 ID:ESBIMMPp
思うに、例えば経済的な自由だと神の見えざる手(市場メカニズム)により
通常の場合は自由競争が働くから、政府の役目は市場が失敗したときに
サポートする役目に徹すればよい
しかし、思想の自由競争は、諸般の事情(財の有限性や効用関数?)により
本質的に競争が働きにくく(多数派に流されやすい)なっているから、
それ故少数派が意見を表明しやすいように敷居を下げてやる必要がある
とも考えられますね
表現の自由一般が弱くくじけやすいとは限らないが憲法が想定しているような
価値多元主義と思想の自由競争が働くような適切な手当をしてやるような
必要はあるのだと上の文を読んで感じました

53 :法の下の名無し:2010/03/12(金) 19:13:47 ID:Mkb6BoQL
>>52

そういうふうにいうことも、できると思います。
思想の自由市場であれ、あくまでも「自由市場」ですから、
国家が無理に、私人を参加させることは妥当ではありません。
けれども憲法は、事実上の参入規制、たとえば、あまり挑発的な
言論を行うと逮捕・起訴されるのではないか、といった萎縮効果を
除去する必要はあります。

54 :法の下の名無し:2010/03/16(火) 23:46:01 ID:h9RJ70eS
賑やかですね
ロースクールの毛利先生の情報法の講義を昨年受けた方はいますか?
感想などをお聞かせいただければ

55 :法の下の名無し:2010/03/17(水) 18:04:04 ID:8cFgOFM/
>>54

政府言論・国家による私人への情報提供など先端の学説の議論を、下級審裁判例を素材として取り上げたり、
つい先日最高裁判例が出された、インターネット上の名誉毀損に関するラーメン花月事件第一審・控訴審判決を
取り上げたりしました。
情報公開やインターネットプロバイダの責任を詳細に検討するなど、狭義の憲法学に限らず、幅広く情報法の
議論を検討していました。

先駆的な下級審裁判例や高度な学説を検討するなど、かなり意欲的な授業でした。

毎回の予習量がかなり多かったのと、議論がマニアックだということで、
当初履修登録していた院生は80人程度だったのが、
履修変更や単位認定辞退するなどして、最終的に教室にいたのは20〜30人くらいでした。

56 :法の下の名無し:2010/03/17(水) 21:46:25 ID:asP9+FHl
>>55
教科書は何を使いましたか?
シラバスまだ登録されていない・・・

57 :法の下の名無し:2010/03/18(木) 00:41:52 ID:a4B8viV3
>>56

教科書・参考書は指定されていません。
ちなみに、3年次配当科目です。

58 :法の下の名無し:2010/03/20(土) 18:36:37 ID:foMPLpED
ここは毛利先生スレですが、上のような正義論に興味のある方は
亀本先生の講義受講すると良いかもしれませんね
(でも私はEU法を受けるけど^^)

1.価値相対主義をめぐって
2.功利主義の伝統と現状
3.J・ロールズの「公正としての正義」論
4.J・ロールズの政治的リベラリズム
5.R・ドゥオーキンの権利基底的リベラリズム
6.A・センの福祉・平等理論
7.リバタリアニズム
8.M・サンデルの共同体主義
9.M・ウォルツアーの複合的平等論と市民社会論
10.ラディカル・デモクラシ−論
11.J・ハーバマスの審議的民主主義論
12.多文化主義
13.フェミニズ
14.現代正義論の展望


59 :法の下の名無し:2010/03/21(日) 02:18:14 ID:+3K5Zmna
>>58

京大ロースクールの話ですね。
京大ロー生以外も、このスレッドを見ているはずですから、
京大ローの話と分かるような表記をお願いします。

60 :法の下の名無し:2010/03/21(日) 10:32:51 ID:BQnSZjWJ
ごめりんこ
この配列を見たら固有名詞をあげているところが重要であり
固有名詞をあげていないところはとりあえず触れています、
という気がするな
亀本先生の好みかな?

61 :法の下の名無し:2010/03/22(月) 15:31:59 ID:ncM0gBv7
age

62 :法の下の名無し:2010/04/19(月) 00:07:18 ID:5e19/ZSS
age

63 :法の下の名無し:2010/04/19(月) 02:18:07 ID:j+xWXNKp
櫻井智章氏はいまどうしてはる?

64 :法の下の名無し:2010/04/21(水) 00:42:09 ID:dwoTuGc+
>>63

櫻井さんって、これまで知らなかったんだけど、
毛利先生とどんな関係?

65 :法の下の名無し:2010/07/31(土) 17:19:51 ID:2ymvzq+r
>>63
高校数学は全然できなくて無問題
あんなのは所詮公式と解法パターンの丸暗記競争だから
大学行ったら数学や物理は勿論、化学だって高校数学なんか全く役に立たない
そうはいっても国公立の理系は少なくともセンター数学を受けないと入れない
国立、特に下位駅弁からは同レベルの理系単科私大等と比べて突出した才能が出ない一因でもある
俺も文系からの理系学部進学組みだけど高校で理系だった奴は暗記重視で本質を理解している奴はいなかった印象がある
何でも覚えようとしちゃうのね。理解しようとしないで
今でも私大なら理系学部で入試に数学を課してない所があるはず(理由は前述のとおり)
但し記述式の国語があるから地頭勝負になるけどね
数学や理科といった暗記科目で挽回の効く東大前期なんかよりもある意味難関

41 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.02.02 2014/06/23 Mango Mangüé ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)