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ヒクソスから帰還した渡来人

1 :月光仮面:2008/03/07(金) 14:28:57
カラスク人等とされるバイカル湖周辺からアルタイ方面にBC4-3千年紀頃から展開して
いたモンゴロイド系を主体とするモンゴロイド、コーカソイド混合移動遊牧集団はアンドロー
ノヴォ文化圏に含まれるセイマ-トゥルビノ青銅器ホライゾン(この場合は線状に拡大する)
ステップ交易路を移動して、遠く黒海、コーカサス、そしてシリア、パレスチナ、エジプト
に入った。ヒクソスは約100年間エジプトを統治した後、パレスチナ、シリア、ミタンニを
経由して黄河上流に到着した。そのうちの多くは塞外の民となり、高句麗、百済、新羅
を経て古墳時代の日本に渡来人として入ってきた。彼らの数奇な遍歴は日本に多くの
神話、伝承をもたらし、それらとエジプト、ユダヤ、ギリシャの神話には多くの共通点が
ある。

210 :月光仮面:2008/04/30(水) 15:49:32
出雲国造神賀詞に「事代主命の御魂を宇奈提に坐せ」とあるが、「日本書紀に、壬申の
乱の時、「われは高市社にいる。名は事代主神」とし、顕わした予言は的中、天武天皇
から勝利に功ありとされたとある。」
宇奈提と言うのは雲梯、天国へのタラップであり、出雲の高殿のように国の中心に据え
たようである。
http://kamnavi.jp/as/kawamata.htm
天高市神社の祭神は、品陀別命、息長帶姫命、比賣神であり、場所的には
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=135%2F46%2F40.675&pnf=1&size=500%2C500&nl=34%2F30%2F35.135
畝傍の土は住吉神社に運ばれる神聖なもので、伊勢の雲出川の砂がS字甕に使用され
ることは、雲出も宇奈提/雲梯であろう。神武が天香具山の土で甍を焼いたというのと似
ている。天武はコトシロヌシをポセイドン、ホイトシロと認識していたのかも。ちなみに、
アヴァリス、金海、河俣、雲出川は同じ用に河の合流、分岐点にあり、それを重視する
のはユーラシア・ノマディック・パストラリストの基本行動パターンであろう。

211 :月光仮面:2008/04/30(水) 16:26:46
>>169 楯の飾としての巴形銅器であるが、「コストロムスカヤは、南ロシア、クバン川
流域でも古いクルガンのひとつで、時期は紀元前7〜6世紀頃に比定されている。」
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7a/Horse_burials_and_artifacts_of_Kostromskaya_Kurgan.JPG
このクルガンは周の穆王時代のスキタイ文化を極めて明確に表しており、まるで、
フグサシのように丸く配列される殉葬の馬は穆王のような当時の王の比類ない権力を
表すのであろうが、これが上記の巴形銅器のモチーフとなったこともあろう。

212 :月光仮面:2008/05/02(金) 16:45:16
「古代ユーラシアにおける東方型冶金は西方型冶金より出現は遅かったが、それとは
独立したものであった。「セイマトゥルビノ」冶金はこの種の最初のものであり、その影響
の主要な方向は西方に向けられていた。カラスク冶金はこの後の前2000年紀後半に
出現するが、これは中国文化に向けられていた。西は黒海北岸から東は満州に到る
まで巨大なユーラシアステップ・ベルト地帯がその千年間に形成され、2種の冶金の
架け橋となった。」
http://www.kaogu.cn/en/detail.asp?ProductID=1668

213 :月光仮面:2008/05/02(金) 16:46:12
「前4千年紀末に遊牧民族が大規模で戦闘的な移動を行った総合的であり、且つ、強力
な証拠が出現する。前2000年紀中葉のいわゆる「セイマ・トゥルビノ」現象はこうしたこと
の衝撃的な一例である。これは、アルタイ地方の特定民族全体がステップ地帯北辺沿
いに欧州南東に急激で、戦闘的移動を行ったことを示す一連の考古学的発掘現場が
物語っている。こうした移動は、前第一、第二千年紀の大きな東方からの侵入を
物語る。軍事的拡張に対する大きな障害がないことはユーラシア内陸部を、自然と、
軍事史、そして、それゆえに政治史の一環に変えるのである。」
http://www.uhpress.hawaii.edu/journals/jwh/jwh052p173.pdf
デービッド・クリスチャン(歴史学者)
http://en.wikipedia.org/wiki/David_Christian_(historian)

214 :月光仮面:2008/05/02(金) 16:53:32
カラスク文化人はモンゴロイド、ヒクソスもモンゴロイド、フルリ語は羌の言葉と
同様の能格言語であり、フルリ人は後にバクトリアに撤退している。それは秦氏の
興る甘粛の彼方である。

215 :月光仮面:2008/05/03(土) 08:51:28
私はセイマトゥルビノ・ホライゾンはダウール・羌遺伝子を持つ玉造窯業鉱業集団の
アンドローノヴォ文化圏を通過して中近東に向かう往路時代のものであり、この時代に
シンタシュタ・アルカイム地域において、馬具並びに祭祀用二輪車の鋳造技術を完成
させ、中近東、特にエジプトにおいてヒクソスとして戦闘二輪車を普及させたことを意味し、
カラスク・ホライゾンとは、それより東寄りの、騎馬民族にまで成長する機動性を持つに
到る、中近東を撤退して中国と内モンゴル地域に展開する文化であったのではないかと
考えている。

216 :月光仮面:2008/05/03(土) 09:02:10
ダウール・羌遺伝子というのは、
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O2b_%28Y-DNA%29
↑これがダウール型であり、玉造系、
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_D_%28Y-DNA%29
↑これが羌系であり、天孫系
http://www.isogg.org/tree/ISOGG_HapgrpD.html
http://www.isogg.org/tree/Main06.html
ではないかということなんだが、東アジアのノンピストイヤリング(NPE)の起源と拡散
「日本と台湾のNPEを比較すると、その違いが大きく浮かびあがる。すなわち、日本
(約7000〜5000年前)は非ロクロ系で、これまでも日本の研究者が指摘しているように
北方系の特徴を示す。一方、台湾(南中国からベトナムまでの地域を含む-約3500〜
2500年前)はロクロ系で、リングと受軸器とがセットとなる。」
http://www.nihonkaigaku.org/03f/i031213/t1.html
この玉造系の管錐穿孔
http://www.geocities.jp/tamasakukouzin1/gyokusyounodougu.html
技術はアマゾン・モホスにおいて隼人紋、遺伝子、骨の形質と共に出現している。

217 :天之御名無主:2008/05/04(日) 10:07:39
上げ

218 :月光仮面:2008/05/04(日) 11:01:08
↓鳥型陣形
安本美典氏 邪馬台国東遷説 神話のなかの地名 
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Cusae
宇奈提/雲梯・・・太陽祭祀用の構想タラップではないか。


219 :月光仮面:2008/05/04(日) 11:03:27
↑高層タラップの間違い。
いずれにせよ移動遊牧民的であり、スキタイ神話とも軌を一にしているようだ。

220 :月光仮面:2008/05/04(日) 11:09:16
ヤマトトトビモモソヒメというのはエベンキ語のLamutが馬飼い族、鹿飼い族に対する
海東族という意味であるし、飛ぶ鳥のアスカ、百磯城等を勘案すると連合艦隊司令長官
の高い位置、高御座というのか、から太陽を拝んだということになろうか。

221 :月光仮面:2008/05/04(日) 16:09:28
BC4200-4000年頃ドナウ河Karanovo VIを崩壊に導いた東方騎馬民族には優秀な玉造
技術があり、↓これは日本にも御物石器として残っている。
http://users.hartwick.edu/anthonyd/images/mace%20heads.jpg
この民族がセイマトゥルビノ文化人としてウラルシンタシュタにおいて手がけるのは↓
非常に手の込んだロストワックス青銅二輪車で、。
http://web.comhem.se/vikingbronze/images/chariotmodel.jpg
これがエジプトに入ると実用的戦闘二輪車となる。
http://www.touregypt.net/featurestories/chariot6.jpg
彼らの技術の元は玉造技術であり、二里頭で発見されたトルコ石の装飾品は彼らが
同時に仰韶文明にも影響を与えていたことを物語る。
http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/876.html
この匠の技の淵源は >>216 興隆窪文明にあり、これは縄文の技術と深く関係して
いると考えられる。

222 :月光仮面:2008/05/04(日) 16:28:25
>>216
小河墓遺跡で衝撃的であったのは牛の血が乾くまでに胡楊を製材し、狂いのない棺を
製作できる木工技術であった。しかも角は滑らかに研磨されていた。鉄器を使用した
ような形跡はなかった。遺骸には崑崙山脈の蛇紋石の装飾品があった。つまり、
http://www.nihonkaigaku.org/03f/i031213/t1.html
ここで指摘されている通り、玉造技術集団はこの頃チベット・青海・雲南に向かって
移動を始めていたのだと考えられる。

223 :***********************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************月光仮面:2008/05/06(火) 17:04:58
>>208
蒙古襲来的パターンではないが長期的に満州草原からの牧畜経験のある民族、
主として山岳と平野、水辺を季節的に移動する山戎、トランスヒューマント、が主として浸透
したが、時には平原の戦闘的移動遊牧民、犬戎、も若干入り込み、先着の稲作
民族とは南北、東西、海山等で住み分けるように住み着いていった。しかし、彼等には
共通する宗教文化的な精神的要素があり、イザ鎌倉といった場合には中央、つまり、
纒向であるとか、吉備であるとかに集中したのではなかろうか。

224 :月光仮面:2008/05/12(月) 15:10:05
ファラオの申し子、エジプトを語る。
http://www.luxor-co.com/entertainment/intavew/intavew_0401.shtm
フィフィというのはファラオ・アポフィに通じ、ナイル
デルタには今なおヒクソス↓
http://touregypt.net/featurestories/hyksos1.jpg
の末裔が暮らしており、フィフィさんもそうだろう。
「ヒクソスの拠点となったアヴァリスでは、第14王朝時代にセト神が主神となった。
このことは第14王朝の王ネヘシに対する修辞の1つに「フト・ウアレト(アヴァリス)の主、
セト神に愛されし者」という表現があることから知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B9
日本神話のアメノホヒはアポフィスであり、オシホはヨセフのことかもしれない。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/76/Challenge_of_Amaterashu_and_Susanoo.svg/414px-Challenge_of_Amaterashu_and_Susanoo.svg.png
フィフィさんと久本雅美、柴田理恵さんは血縁関係があるのかも。

225 :月光仮面:2008/05/12(月) 17:03:34
「古代においてさえも既に、多くの鹿石は処分され、破壊されるか、或いは、他所に移動
された。祖先の御霊を表したものを処分するということは、祖先自体にのみならず、子孫
にも取り返しのつかない害毒をもたらすことになる。鹿石は既に紀元前5世紀において単
なる石材として使用され、既にその頃において、石を刻んだ人々、彼ら自身 http://history.novosibdom.ru/files/u8/sibir_65.jpg の御霊は忘却の河に沈んでしまっ
ていたのである。」(モンゴリア)
http://inoues.net/ruins/iwatoyama_kofun.htm
「ニギハヤヒは別名「布留御魂大神」である。そして石上とは、石神で「石工・メイソン」で
ある。だから物部の墓は、皆 石を敷き詰めてあり、其れが伊勢神宮の伊勢の名の元に
成っていて、天皇家の武蔵野の多摩御陵は 皆 石を敷き詰めてあり、物部の仕来たり
を受け継いでいる。」(Hurとは古代アルタイ語で「太陽鹿」の意味)
http://white.ap.teacup.com/miitu1223/315.html
http://blog.livedoor.jp/jiteki129/archives/2006-05.html
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_isogam.html
弥生人はバイカル湖・内モンゴルの鹿柱、石積墳文化人を主体としたものであった。
そして、彼らは、印欧系遊牧民と協力してエジプト中近東にヒッタイト、ミタンニ、カッシ
ート、そして、中央アジアにホレズミを築き、殷を滅ぼし、周を立て、朝鮮半島・日本列島
に無紋・弥生文化をもたらした。フルリ人とはバイカル湖・内モンゴルの鹿柱、石積墳文
化人であったのである。

226 :月光仮面:2008/05/12(月) 17:22:18
鹿柱とは↓
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Deer_stones.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/61/Deer_stone%2C_Mongolia.jpg
http://en.wikipedia.org/wiki/Deer_stone
http://www.si.edu/mci/english/research/conservation/images/fig8UTgroup.jpg
http://www.si.edu/mci/english/research/conservation/images/fig9UT-5shelter.jpg
http://www.si.edu/mci/english/research/conservation/images/fig10EEscanning.jpg
http://www.si.edu/mci/english/research/conservation/images/fig12UT-5basic.jpg
http://www.si.edu/mci/english/research/conservation/deer_stones.html

227 :月光仮面:2008/05/13(火) 07:35:28
>>225
>弥生人はバイカル湖・内モンゴルの鹿柱、石積墳文化人を主体としたものであった。
しかし、考古学的には弥生初期のBC900-BC200年頃、弥生文化は縄文人によって
吸収されたものであり、渡来人が急増するのは秦の中国統一活動に伴う中国から
の、主として、斉、趙、燕の賽内のものとか、賽外にいた遊牧農耕民とかが、九州
北部の背振山系の東南にl展開する吉野ヶ里とか、近畿、東海の環濠集落が出現
する頃であり、神武の話しにしても近畿の豪族が九州の英雄を招聘するといった
もの。そして魏志倭人伝は初代元首が卑弥呼であったと伝えている。従って渡来人
が全てであったのではないが、大陸においての彼らの足跡は日本の民俗・神話の
起源を知る上で貴重である。



228 :月光仮面:2008/05/13(火) 07:51:14
「唐書〜列伝」は、東胡を箕子朝鮮のこととしている。・・・「契丹古伝〜第42章」 皇上
は、喜んで云うには、「私の出自は神の子で、奇契丹燕キキタエである。いわゆる炎帝
が是にあたる。今こそ五原を回復しなければならない。」
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya31_b.htm
[炎帝がホヒ、ヒクソスのApophisくさい。]
「 Y(穢)南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。戸二萬。
昔箕子既適朝鮮、作八條之教以教之、無門戸之閉而民不為盜。其後四十餘世、朝鮮
侯淮(準)、僭號稱王。陳勝等起、天下叛秦、燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口。
  Y(穢)。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は大海(日本海)に尽き、今の朝鮮
の東は皆、 Y(穢)の土地である。戸数は二万。昔、箕子が朝鮮に行き着き、八條の教
えを作り、これを教えたので、門戸を閉じずとも民衆は盗むことをしない。
 その後、四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。陳勝(と呉広が反乱を)起したことで、天下
は秦王朝に叛くと、燕・齊・趙の民は戦乱を避けて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。」
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-4-waihaku.htm
日本に戦闘的環濠集落、青銅祭器・銅剣銅矛、高地性集落を持ち込むのはこの辺
のことであろう。



229 :月光仮面:2008/05/13(火) 08:00:20
殷末周初の安陽、山西省オルドス、河北省、遼寧省における鹿柱に描かれた武器から
周、殷と通じる秦のようなもの、燕から遼寧に移動する箕子のような動きが解読されて
来ている。

230 :月光仮面:2008/05/13(火) 15:53:52
>>227
漢代の中国における弥生人類似出土人骨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
九州山口に多い渡来形人骨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-12.html
九州の甕棺
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/suitonoko/noko.html
「 第U期(須玖式,立岩式) T期の副葬品に加えて前漢・九州産青銅服,鉄製武器
を所有する。墳墓形態には地城型が幾つか存在する。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan3s.jpg
 第V期(桜馬場式,三津永田式) 集中所有型 王莽・後漢前半代の境,九州産青銅
器を所有する。」
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan4s.jpg
歴博 科博資料でこの辺のことは言い尽くされている。


231 :月光仮面:2008/05/13(火) 16:36:19
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_14_02.jpg
魏志倭人伝が倭人の出自を会稽・タンジ、呉越方面であることを強調し、邪馬台国
の方角もその方向に偏向しているのも、当時の倭人の中に残る強烈な呉越方面
の風習に衝撃を受け、[なんとかしないと呉、蜀方面と同盟された魏に攻められると
えらいことになるという恐怖から]破格の銅鏡供与につながったのではなかろうか。
ところが魏の使節団には目に付かない裏日本方面に当時もぐりこんで石積墳、古墳
を支えていたのは北方の烏桓の亡民などと見られる民族であったのではないかと思
われるのだ。

232 :月光仮面:2008/05/15(木) 10:11:30
>>190
アルタイ・トゥーヴァ大学の民族名考証と内モンゴルの考証より古代日本民族名
を考証すると↓
鹿飼/鹿族 
サカ サカエ サカイ サエ サイ
犬鹿族 ク+サカ(日下) キ+サカ キプ+サク キプ+チャク
折衷型 クシ+フル
主たる鹿族
オ+ガ(遠賀) オオ+ガ(大賀) オ+サカ(刑) オオ+サカ(逢坂) オオ+サケ(大僻/大酒)
太陽鹿 *Sol *Kur フル(布留) クレ(呉) コリョ(高霊) コーラ(高良) 
クルド ダ(大)+フル
=犬+太陽鹿族
バシ(=頭) コルド(クルド) 
コ+グリョ(高句麗) コウ+クリ(高句麗) キッ+クリ(ミタンニの馬飼) キ+クリ(菊理)



233 :月光仮面:2008/05/20(火) 12:41:48
ちょっと、発想の転換のためにわき道にそれ→古代出雲東北日本海新羅王朝の謎
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1121432937/menu363-376
だべっていたが、要するに。弥生の末期には色んな渡来人があったということ。
かのエジプトのヒクソスもこうしたパターンであったに違いない。


234 :天之御名無主:2008/05/20(火) 12:48:47
邪馬台国はどこにあったのでしょうか?

・近畿
・九州
・四国
・その他


【大分】卑弥呼の国は大分市だった 古代史講演会
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1211175637/

235 :月光仮面:2008/05/20(火) 17:33:24

『三国志』魏書巻三十、烏丸鮮卑東夷伝倭人条
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
邪馬台国は九州から最も遠く離れた日本列島にあって、最も人口の多い地域であり、
卑弥呼の没したAD248年頃、これは弥生の終わる頃↓
炭素14年代の較正にもとづく弥生時代の実年代
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
時代区分と弥生文化の範囲
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/sousei/yayoinoukou/hokoku05/b/b.html
に当たるが、日本の中心として存在していなくてはならない。
この頃はまさに古墳時代の始まりであり、邪馬台国は最初に最大級の古墳が作られた
地方でなくてはならない。それは纒向以外にありえない。

236 :月光仮面:2008/05/21(水) 07:40:28
「その所のさまをいはば、南にかけひあり。岩を立てて、水をためたり。林の木ちかけ
れば、つま木をひろふに乏しからず*。名をと山といふ。まさきのかづら、あと埋めり。
谷しげけれど、西はれたり。観念のたより、なきしにもあらず。 春は藤波を見る。紫雲
のごとくして、西方に匂ふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る*。秋は
ひぐらしの声、耳に満り。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。」
鴨長明



237 :月光仮面:2008/05/21(水) 07:42:12
「また元暦二年(1185年)のころ、大地震が襲った。その有り様は尋常ではなかった。
山は崩れて川を埋め、海では津波が発生して陸を襲った。地面は裂け水が湧き上が
り、岩は割れて谷に落ち、渚をこぐ舟は波に漂い、道を行く馬は足元が定まらない。
 まして都の内外では、至るところあらゆる建物は一つとしてまともなものはない。ある
ものは崩れさり、あるものは倒壊する際に塵が舞い上がり煙りのようだ。地が揺れ家が
壊れる音は雷のようだ。家の中に居たならたちまち押しつぶされかねない。走って飛び
出せばまた地面は割れてしまう。人は羽をもたず空を飛ぶことはできない。また龍でな
いので雲に上るわけにもいかない。恐ろしいもののなかでとりわけ恐るべきものは地震な
のだと実感したことだ。」鴨長明

238 :月光仮面:2008/05/21(水) 07:45:21
「そういった中に、ある侍の六、七才の一人息子が、築地塀の蔽いの下で小さな家を作
ったりして、他愛もない遊びをしていたのだが、この地震で急に塀が崩れて埋められ、
無残に押し潰され、二つの目は一寸(3センチ)ばかりも飛び出してしまった。その子供
の遺体を父母が抱えて、声も惜しまず嘆き悲しんでいるのは、まことに哀れであった。
子供を亡くす悲しみには、勇猛な武者も恥じを忘れてしまうのだと改めて気づいた。これ
は気の毒だが当然のことだと思われる。
 このような激しい揺れは短時間で止んだのだったが、その名残りの余震はその後絶
えず続いた。普通にびっくりするほどの強い地震が、一日に二三十度は下らない日は
ない。十日、二十日と経過していくと、だんだん間遠になって、一日に四五度となり、
二三度、あるいは一日おき、さらに二三日に一度など、おおよそ余震は、三カ月ばかり
続いただろうか。」

239 :月光仮面:2008/05/21(水) 07:47:07
「四大災害の中では、水火風は常に害をなすのだけれど、大地震は(大地に至りては
殊なる変をなさず)
むかし、齋衡(854-857年)のころとかに大地震があり、東大寺の大仏の頭部が落ちたり
といったひどい被害があったが、それでも今回の地震ほどではなかったという。その
当時は人々は互いにどうしようもないことを嘆きあって、心の憂さを晴らしているように
見えたのだが、年月が経過してくると、このような災厄を日常の話題にのせる人もなく
なってしまった。」

240 :月光仮面:2008/05/21(水) 07:53:45
「喇家遺跡(らつかいせき、ラーチアいせき、L?ji? Yizh?)とは、喇家村(らつかそん)とも
いい、中国青海省民和回族土族自治県官亭鎮にある新石器時代の遺跡である。
[編集] 概要
黄河北岸の盆地に位置するここに、今から約4000年前に高度な文明を持った町が存在
した。しかし、地震に伴って黄河の水が流入して起きた水害により、一瞬にして町が
水没し、泥によって密封された状態で発見されたため、東方のポンペイとも言われる。
多くの文化財や建物が2000年の発見時に至るまで残ってきたため、喇家遺跡は中国
の考古学上重要な遺跡の一つとなっている。
[編集] 遺物
主な遺物として次のようなものが発見されている。
麺類
現在、世界でもっとも古い麺類が、2005年10月にこの遺跡から出土した。麺は密封され
た器の中から発見され、分析の結果、粟が原料で、放射性炭素年代測定で約4000年前
のものと確認された。器の内部は半真空状態になっていたため、現在まで残っていたと
考えられる。 」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%87%E5%AE%B6%E9%81%BA%E8%B7%A1

241 :月光仮面:2008/05/21(水) 08:09:22
↑ http://maps.google.com/maps?ll=36,96&spn=1,1&q=36,96

242 :月光仮面:2008/05/21(水) 08:15:13
「斉家文化のトルコ石象嵌飾りは、現在でも殆ど存在を知られていない珍しいもので
ある。斉家文化の末期に表れて、短い期間に、限られた地方で作られたものらしい。
そもそも斉家文化が栄えた期間は短く、その文化を担った人達はどこかに消えてし
まった。黄河上流のさらに支流(甘粛省の南辺り)に栄えた文化である。」
http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/newpage62.htm


243 :月光仮面:2008/05/21(水) 08:28:02
>>190
>こうした朝鮮半島をスキップする移住の原因は火山列島である日本の
>方には朝鮮より多くの里山、山岳地形があったからであろう。

244 :月光仮面:2008/05/24(土) 09:50:09
ウラジオストーク極東民族歴史考古民族学研究所ユーリー・ヴォストレツォフ氏「環境
変化と民族移動-ケーススタデー」によれば、沿岸部が寒冷化海面低下、地上海中景
観の変化によって狩猟漁業基盤が破壊される一方、降水量安定化により農耕民に
便利に働く。これが内陸農耕民を沿岸部に押し出す。同様の環境変化は完新世中期BP4,800-4,300年頃(三内丸山遺跡が約5500年前〜4000年前だ)沿海州南部ボイスマン
文化から→ザイサン文化への移行、このときに櫛目文から刻目突帯文土器に及び
完新世後期BP2,400-2,200年頃ヤンコフスカヤ文化から→クローノフスカヤ文化
(BC500-AD300)、これは沿海州では雑穀農業だが、朝鮮・西日本では無文・弥生稲作
農業の形を取るとのこと。

245 :月光仮面:2008/05/24(土) 10:05:52
「中国東北部にある他の新石器時代初期の遺跡では、栽培穀物の種子は見つかってい
ない。それにもかかわらず、中国東北部南部の初期文化では進んだ農具が紅山文化と
趙宝溝文化で作られている。(しかし、これと農業との関連性については特別の調査が
必要である。)したがって、中国東北部南部で新石器社会が存在した地域と、初期農業
が営まれていた地域とは地理的に一致しているのである。この時代、初期農業と平行
して狩猟・採集も大きな役割を担っていたことは間違いない。また、中国東北部やその
近隣地域では、初期の豚繁殖も行われていた。遺跡の増加からは人口の増加が見て
取れるが、これは農業が成功したこと、そして食料獲得に農業が重要な役割を果たした
ことによって初めて可能となったと思われる。
 一般に、初期の農耕社会地域と金属を利用した中心地は一致している。中国東北部
南部では、峡江下流文化が金属利用の中心地であった。初期の中心地に関し、農業の
初期段階の起源や特徴を示す確固としたデータはない。」
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/shinpo/alkin.html


246 :月光仮面:2008/05/24(土) 10:17:57
アムール・ポリツェの鍛造袋状鉄斧が朝日遺跡で出土するが、同遺跡は吉野ヶ里、
ポリツェ同様極めて戦闘的軍事的であり、スキタイ・匈奴文化の影響を受けている。
三内丸山時代から日本は興隆窪・趙宝溝文化と関係を持っているようだ。この文化圏
が中近東を舞台に繰り広げた春秋戦国・五胡十六国の時代模様の中でヒクソスが生
まれ、ヒンドゥー・ベーダ両文化も生まれたのであろう。それを秦氏が日本に持ち込んだ。

247 :月光仮面:2008/05/24(土) 11:00:16
東京龍原府(吉林省琿春市八連城に比定)
穢貊の故地に設けられ、上京府の東南に位置し「柵城府」とも言った。慶州、塩州、
穆州、賀州を管轄していた慶州が府治であり、龍原、永安、烏山、壁谷、熊山、白楊の
6県を管轄していた塩州は現在のポシェット湾岸のクラスキノ南方の城址に比定され、
日本への出発港が設けられていた。下部に海陽、接海、格川、龍川の4県を管轄してい
た穆州は府の南方120里に位置し、会農、水岐、順化、美県の4県を管轄していた賀州
の位置は不明であるが、洪賀、送誠、吉理、石山の各県を管轄していた。
http://maps.yahoo.com/;_ylc=X3oDMTExNmIycG51BF9TAzI3MTYxNDkEc2VjA2ZwLWJ1dHRvbgRzbGsDbGluaw--#mvt=s&lat=42.648607&lon=130.798072&zoom=12
この辺の地形は虹の松原、志賀島、天橋立と同じで陸繋島、貝塚文化、ウリル・
ヤンコフスカヤ文化で黒竜江漁労民族ポリツェの影響も受け、マグロ漁を行い、布留式
土器のようなタカツキを使用している。

248 :月光仮面:2008/05/24(土) 11:30:57
クローノフスカヤ文化であるが、後の渤海東京龍原府(吉林省琿春市八連城に比定)は
穢貊の故地に設けられ、上京府の東南に位置し「柵城府」とも言った。慶州、塩州、
穆州、賀州を管轄していた慶州が府治であり、龍原、永安、烏山、壁谷、熊山、白楊の
6県を管轄していた塩州は現在のポシェット湾岸のクラスキノ南方の城址に比定され、
日本への出発港が設けられていたとされる。lat=42.648607&lon=130.798072 これが
天橋立そっくりな地形であり、笠沙の岬のような地形に上陸するのはこの辺から来るの
であろう。尾張・海部等の海人族は天橋立から琵琶湖を通って朝日遺跡に入ったのだ
ろう。義仲、信長、家康の遠祖であり、源氏もこの辺から来るのだろう。

249 :月光仮面:2008/05/26(月) 08:28:14
秦氏が持ち込んだというのは大筋において間違いはないだろう。つまり、ヒクソス、
ミタンニ、殷、周の馬、二輪車、日本の馬、養蚕の背景には馬、交易・・・秦という
線が残る。トルコ、ハンガリー、ブルガリア、アングロサクソン、ロシア、タタール、
モンゴル、五胡十六国、高句麗、匈奴、鮮卑、烏桓、裏日本、東北、関東にある
エミシ、夷の背後にあるl軍事武術指向のパストラリスト・ノマディズム(牧畜移動遊牧)
の精神がこれだ。しかし、より細かく言えば羌、姜、羯等の諸民族が関与しており、
渡来したものがいみじくも言った夕月と言うのがこの尚武精神を言い表しており、
現在イスラム諸国の国旗などにもなっている。

250 :月光仮面:2008/05/26(月) 08:50:12
ナイルのクサエの境以北を直接統治したヒクソス、これに屈したテーベ政権、こうした
姿は日本の朝廷とか、前漢、後漢にもあった。韓国洛東江下流の金海、金冠加羅と
上流の高霊の関係、或いは、キョンジュ、プヨとの関係もこうしたものであった。
これが江戸と京の対立として現代にも残っている。

251 :月光仮面:2008/05/26(月) 09:10:57
しかし、理想的農耕社会の理想的君主は叔斉伯夷、仁徳のような高潔な人物であり、
天照大神のような存在でなくてはならず、素盞嗚命のような存在は天皇にはふさわしく
ない。ところが、日本の史書、記紀に登場する天皇にそうした理想的人物は全く登場
しない。徳川時代全般を通じても父子の親子関係が保たれたり、高徳な将軍のいたこと
は記録にない。歴史とはこんなものであり、何とか党の党史、とか、社史とかいうのは
歴史とはおおよそ縁遠いものである。ところが競馬、ペットとなると俄然血統書に商品
価値が出てくる。

252 :月光仮面:2008/06/04(水) 12:42:19
>>240
「黄河北岸の盆地に位置するここに、今から約4000年前に高度な文明を持った町が
存在した。しかし、地震に伴って黄河の水が流入して起きた水害により、一瞬にして町
が水没し、泥によって密封された状態で発見されたため、東方のポンペイとも言われる。
多くの文化財や建物が2000年の発見時に至るまで残ってきたため、喇家遺跡は中国
の考古学上重要な遺跡の一つとなっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%87%E5%AE%B6%E9%81%BA%E8%B7%A1
この地方の住民は大地震のため西方に移動し、仰韶時代から彩文土器で交易関係の
あったBMAC、イラン北部ヒッサール、ヘキサバード方面との交易に重視するうちに
タジキスタン北部でエニセイ・ケト人の発明のロストワックス工法による画期的なセイマ・
トゥルビノ青銅器、青銅二輪車、馬の飼育を習熟し、ウラル・羌族はコーカサス族と合流し
フルリ人と化し、これがエジプト、アナトリア、メソポタミアを席巻する。アルカイムの円形
都市の元になったのは姜寨、客家の土塁、圍、伊勢遺跡のような環濠集落的発想であり、
その起源は興隆窪集落にあるのではなかろうか。

253 :月光仮面:2008/06/04(水) 12:51:36
オルドスの朱開溝文化は竜山初期、中期、二里頭晩期、二里崗初期と続くが、犬を
犠牲とする犬戎文化はその最終段階の二里崗初期に浸透してきている。これをヒクソス
の帰還と見たい。これに付随し、高句麗、シ歳貊、伏見稲荷、八坂神社、豊川稲荷
等の元となった犬戎文化が日本に入ってくる。

254 :月光仮面:2008/06/04(水) 13:03:43
皇極斎明時代にも百済方面からトカラ・インドを含む渡来人が来て、先着のエミシ
と朝廷のバックでのパーティーを開いたりして文化交流を行っている。このころ
信濃に善光寺の名目で寺が建立されるが、「三位一体」と「八紘一宇」的なデザイン
のお寺であり、牛に引かれての言葉の通り、ギリシャからシルクロード経由で伝えら
れた文化を後戸に秘めているようである。

255 :月光仮面:2008/06/04(水) 13:11:07
しかし、先住弥生人はアマテラス独裁、牧畜のスサノオの徹底的差別を掲げて
既得の土地権益を守り通した。こうして日本のひずみは徳川時代を通しても
持ち越された。しかし、織田信長の子孫とか、真央ちゃんはいまだにイタリア勢を
下してヒクソスのラムセスへ優勢を立証してくれているように見えるのだ。
春日の局もお犬様で犬戎の精神を発揮した。

256 :月光仮面:2008/06/04(水) 14:13:06
>>253
カラスク文化人、これが帰還したヒクソスの武人像であろう。
http://history.novosibdom.ru/files/u7/sibir_61.jpg

257 :月光仮面:2008/06/04(水) 17:05:45
http://history.novosibdom.ru/files/u8/sibir_65.jpg
二輪戦車に操縦士と射手が必要なように移動する牧畜民(ノマド)も操縦士・シャーマン
王と世俗王、天皇と藤原氏のようなものが必要というのは安曇野に入植した渡来人
が賽神としてカップルの道祖神を祭ったことに見られる。これがお地蔵さん、鹿島様
などクナド神の始まり。二輪戦車のホイールが菊紋、八紘一宇であり、善光寺の
クローバーのような紋章は三位一体、起源は二輪車とこれに乗る女神、かぐや姫
のようなもので、アナトリア・ギリシャの女王は獅子に引かせたりしている。

258 :月光仮面:2008/06/04(水) 17:10:01
太陽が二輪車に乗って世界樹を回るということかたこの世界樹が柱になり、これを
原印欧語でスタンバ、インド語でストゥーパ、日本語では卒塔婆となる。往路と帰路が
変わるというジンクスはいまだに日本の葬礼で継承されている。

259 :月光仮面:2008/06/04(水) 17:14:19
ケレクスルというモンゴル・バイカルの円墳にはスポークのような石積文様のあるもの
があり、ケレクが乗物、輿で、スルが御霊であるから、どうも車輪をイメージしたものら
しい。半島、列島の円墳の起源もこの辺にある可能性が大である。

260 :月光仮面:2008/06/05(木) 12:47:10
善光寺の本田善光、これはホムタがブリャート・モンゴル語でアフラ・マズダ、善光
から転じて天神を意味するKhormustaと言う言葉をホムタと読んだもの。これは百済
の扶余がブリャートモンゴルと同じ天神信仰を持っていたことを意味し、さらに、ホムタ
ワケが気比大神の神名を取ったということは気比大神が本来、唐松神社のカラマツ、
クロマタ山のクロマンタ同様ユーラシアの天神を意味していたことを示す。気比神社に
ある桃太郎こと、キビツヒコの彫り物はエニセイ・ケトが鉄勒に参入する際にキビと
名乗ることから、八上から気多神社に移動し、更には北陸から飛騨に入る鬼面製作、
車製作、鬼面踊り、羯鼓踊り、獅子舞、ナマハゲなどに見られる木工技術文化をもた
らし、ミラノ北部のスイスにもナマハゲをもたらしたフン族と同一のものとみられる。
おそらくは殷・周時、土方、犬戎と共に中近東エジプトから帰還した鬼方(オークネフ
三つ目鬼神)文化で、モンゴル・チベットのチャムとか、ドゴンの仮面文化、天文学を
残したものではなかろうか。チュルク系のキビと言う言葉はキミとも読まれることがあり、
金海と言うのが吉備、気比と同じことであるのかもしれない。

261 :月光仮面:2008/06/05(木) 12:57:53
エニセイケト族が秦である、羌族と共にユーラシアを席巻し、ドナウ・ドニエプル方面で
御物石器、独鈷石を残していたとしないと木曾山中の独鈷石の起源が不明となる。
こうした動き無しにはエジプトにアジア系ヒクソスが出現することが考えにくくなる。
いわゆるユダヤ人・キリスト教と言うのは相当遅れてはいるもののヒクソスの撤退
であるとか、イランのゾロアスター教とかを加味しているようである。神功・応神の話も
キリスト生誕の話もイラン文化のコピペのような感じがする。

262 :月光仮面:2008/06/05(木) 13:47:16
米国がロシア・旧ソ連考古学を大きく前進させたことは大いに評価できるが、反面、
内モンゴル、中国、中国東北部、朝鮮半島、日本列島の考古学の遅れが目立つ。
ロシアで認められていたオークネフ、カラスク文化に含まれるモンゴロイド要素が
米国の言語学者によってアルタイ系言語の活躍が見られないことによってモンゴロイド
の活躍自体にも否定的なニュアンスになってきていることは大いに残念である。

263 :月光仮面:2008/06/05(木) 18:55:38
高天原故地碑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91
「伽耶山の大きな岩の下に祭壇を準備し、玉のように澄んだ水で体をきれいにした後、
空の神である「イビハ(夷比訶之)」の妻にしてくださいと祈った」おそらく、天空神を迎え
る井戸が千葉、丹後にある「真奈井」であろう。
http://sjmelon.go.kr/jpn/culturetourism/culturetourism_01_01_02_01.jsp
神武がこうした話を知らないという「井光」の話は 
http://www.7kamado.net/ikari.html
拘邪韓國(伽耶)は倭国北岸とみなす倭人伝の認識が失われたころに神武紀が生まれ
たからであろう。倭人と言うのがユーラシア・ノマドである限り、ユーラシア全域にに高天
原はあるはずだ。

264 :月光仮面:2008/06/06(金) 10:01:21
>>260
「犬戎(厳允)
 陜西省から夏回族自治区にいた遊牧民族で、白犬(または白狼)を崇拝。それをトー
テムとしていたことから、古代羌族の部族(西羌族)だとされるが、犬戎や古代匈奴も
トーテムは犬であり、後には、高車、鮮卑、突厥、契丹なども犬のトーテムを崇拝して
いる。 羌族(きょうぞく)とはチベット系民族のことだが、この定義も困難で、その文字
からも「羊」を追って西アジアからきた遊牧民族だが、中国西部に広範囲に分布して
おり、漢水の上流にいた羌族を南羌族、青海周辺に居た羌族を西羌族と区分すると、
南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となって
同化する。彼らのトーテムは当然「羊」である。犬トーテムは西羌族だけで、彼らは時に
胡人とも呼ばれた。」
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kozoku/kozoku6-touko.htm
太公望の故郷ではないかとされる姜寨という環濠集落遺跡が発見されたらしいが
輪中を思わす。


265 :月光仮面:2008/06/06(金) 12:44:30
>>252 このとき三苗をはじめ羌などノマドを含む周辺民族の時計回りスピンオフ
が開始され、その余波が↓
日本人どこから来たんだ?3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1209009011/menu336-341
しかし、時代のはるかに下った弥生末期、中国で戦国時代の終わろうとする頃、
日本には鬼方(木工、鬼面、青銅器金型製作)、土方(鹿石、境界石、土師)、犬戎
(武装環濠集落、高地性集落)等のノマドが九州北西沿岸、裏日本沿岸、近畿・東海
に浸透してきた。しからば、チベット・雲南に多いYDNA YAPが満蒙・朝鮮にあまりいな
い理由はと考えると、YAPは本来興隆窪文化圏・アルタイ・バイカルにいたのが東西
において南下し、興隆窪文化圏・アルタイ・バイカルには三苗の北上したものが収まり
その一部は日本にも南下したといったストーリーが考えられる。

266 :月光仮面:2008/06/06(金) 13:11:02
>>264
「羊神社[ヒツシ]羊神社「火之迦具土神 配 天照大神」愛知県名古屋市北区辻町5-26 
トラベルオンライン 参拝のしおり
創立年月日は不詳なれど、第61代醍醐天皇の御代にまとめられた延喜式神名帳に、
尾張の国山田郡羊神社と記され、本国帳に従三位羊天神とある古社である。神社に
保 存されている棟札によれば、本殿は慶長10年に再建されたとある。その後天保9年
尾張藩主徳川斉温公の時代に改築され今日に至っている。 」
http://www.kamnavi.net/en/owari.htm
従三位羊天神、これって羌神、つまり、炎帝とちがうか。天のホヒなどと言うのもこれか。

267 :月光仮面:2008/06/06(金) 17:15:08
>>260
気比大神の旧神名がユーラシア・ノマド共通天神ホムタであったことより、
初期大和朝廷/邪馬台国の実施した政策は
(1)魏からの冊封
(2)旧青銅祭祀の廃止と銅鏡・前方後円墳による中央集権的統治
(天日矛青銅器・鏡集団による元伊勢地区銅鐸集団の改編・リストラ、
国産内行花文鏡・アマテラス独裁)
(3)ユーラシア・ノマド共通天神ホムタ(アフラマツダ)の神社の敦賀への設置
(4)四道将軍・天皇による辺境の討伐
これが全て失敗し、神功皇后によるユーラシア・ノマド共通天神ホムタ(アフラマツダ)
を応神に取り込むことによる三韓・九州辺境部緊張の発展的解消が行われた
ことがわかる。日本建国は北陸近畿が東海・吉備を取り込み近畿中心に行われたため
従来の九州地方と半島の関係を全く無視していた。つまり、日向高千穂は単なる
神話の名所にしか過ぎなかったということであろう。

268 :月光仮面:2008/06/06(金) 17:27:38
神功皇后の成功は三韓が高句麗の脅威を受けていたことに加え、やはり、倭面土国
帥升、委奴国、丹波出身の新羅ダッカイ王等古代倭人の実績によるものであろう。
しかし、仲哀天皇を政策論争で倒し、三韓・筑紫・大和を統一したのは神功の名に
ふさわしい天皇だな。

269 :天之御名無主:2008/06/06(金) 19:39:18
昔の天皇とか天皇家には時折神懸かりした人が出たからね



270 :天之御名無主:2008/06/06(金) 21:34:39
億ウソとかはどう思われますの?

271 :月光仮面:2008/06/07(土) 07:50:18
朝廷とされる側にも改革派が出ているし、幕府とされる側にも保守反動はでており、
天皇家、将軍家といっても所詮社会的活動の所産に過ぎない。しかし、その行動理念
には一貫としてユーラシアノマドの強権支配の考えが流れている。天皇とか権力者の
系列の歴史よりも、それを頂点とする集団の推移を見るのがいいのかもね。

272 :月光仮面:2008/06/07(土) 08:01:42
いまや、米露アラブ石油価格独占の寡頭体制が温暖化を背景に焦眉の問題と化し、
考古学や歴史の出る幕ではないようではあるが、独占による独走が過去の悲劇の
原因であったということを彼らにも認識して欲しいよなー。

273 :月光仮面:2008/06/07(土) 08:14:33
宇宙飛行士はブッシュ、プーチン、メッカ、アブダビに向かい、これ以上の油価暴騰は
宇宙ステーションの落下につながると訴えてもらいたい。

274 :月光仮面:2008/06/07(土) 11:00:58
アルタイ・オークネフOkunev文化 石碑(ステラ)
三つ目神像2種
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image007.gif
三つ目神頭櫓2種
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image008.gif
三つ目神頭櫓1種
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image009.gif
「オークネフ文化の重要性・ステップベルト地帯の北辺において、私はオークネフ文化
の極度の重要性を強調したが、この文化は一方においては極東と関係し、他方におい
ては明確にアジア中心地帯南部と関係している。そして、私はメイン・モチーフとスタ
イルの特徴においてオークネフ文化の岩石陰刻と関連している一連の岩石陰刻をイン
ダス峡谷Chilas近辺で発見した。前三千年紀及び前二千年紀初頭、おそらくは初期
牧牛ノマド移動により数千キロの距離を結ぶ関係が存在したということはありえないこと
ではない。」Jettmar Karl「前二千年/一千年紀中国西部の文化と民族」より
http://www.silk-road.com/artl/westchina.shtml


275 :月光仮面:2008/06/07(土) 11:08:16
これはいまだにモンゴルに残るが、
http://www.asiasociety.org/arts/mongolia/images/dunjidma.gif
http://www.asiasociety.org/arts/mongolia/tsam.html
http://www.face-music.ch/Bilder/tshoijoo.gif
http://www.face-music.ch/Bilder/tshoijokl2.gif
http://www.face-music.ch/Bilder/tsamgru.gif
http://www.face-music.ch/tsam/mask_tschojooen.html
http://www.tengerism.org/Yama.html
これらは中国で言われる「鬼方」の文化であろう。
そして、ウラルにおいてはアーリア神話でアシュヴィン双神となり、西欧全域に広が
るが、インドにおいてアーリア文化は仏教に取り込まれ、三つ目神はヒンドゥー教
ルードラとなる。
http://www.exoticindia.com/product/ZL95/
↓日本の神紋でオークネフ文化に色濃い天文学的解釈を留めているものは
http://www.genbu.net/data/etizen/asuwa_title.htm
http://www.genbu.net/data/etizen/wake_title.htm
継体天皇の生まれた福井に集中しているが、「『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫
(曾孫の孫)で父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふり
ひめ)である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87
そして、そこはツヌガアラシトの気比神社に近い。


276 :月光仮面:2008/06/07(土) 11:11:40
おそれおおくも、かしこくも継体王朝はユーラシア・ノマド正統の王朝であるかもしれない。
さすれば、エジプトのヒクソスがアジア人であるのもよくわかるのであるが。

277 :月光仮面:2008/06/07(土) 11:27:25
>>274
Chilas[こんなハイウェーがあったら、三蔵法師も苦労せずにすんだであろうに]
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/KKH.png
Chilas岩石陰刻
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Petroglyphs_near_Chilas_-_Pakistan05_007.jpg
http://en.wikipedia.org/wiki/Chilas

278 :月光仮面:2008/06/07(土) 11:37:32
こうなると、気比大神の御名を簒奪した神功・応神、更には崇神等は縄文からの在地集団
であり、継体はどうも大陸奥地からの渡来人である可能性が高まるが。

279 :月光仮面:2008/06/07(土) 14:39:41
「継体21年(527年)、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑などの諸国を奪還すべく
任那への赴任を命じられる。しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野
の進軍を妨害しようとしたため、渡海できなかった。このとき、磐井は毛野に対して
「かつて同じ飯を食った仲間がなぜ命令するか」(昔は吾が伴として、肩摩り肘触り
つつ、共器にして同食ひき)と詰問したとされるが、近江の豪族・毛野と筑紫の豪族・
磐井との間に、それ以前に交流があったかどうかは不明である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E6%AF%9B%E9%87%8E
これは継体軍と岩戸山古墳 http://inoues.net/ruins/iwatoyama_kofun.htm
文化は大陸で同一の文化圏にあったことを物語っているようである。


280 :月光仮面:2008/06/07(土) 14:50:01
アルタイ・オークネフOkunev文化 石碑(ステラ)
三つ目神像2種
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image007.gif
三つ目神頭櫓2種
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image008.gif
ここには四隅突出墳平面図のようなものがあるが、インドの曼荼羅結界、諏訪の
御柱と同じアルタイ起源のもので、オークネフ、モンゴル北西のアルタイの埋葬
は箱式石棺墓であり、その分布は
http://www.hyperborea.ru/RU/MAP.HTM
これは東胡と合致する石板墓の分布
http://www.hyperborea.ru/RU/MAP.HTM
とはことなり、また、オークネフ文化は高地性集落遺跡を伴う。


281 :月光仮面:2008/06/07(土) 15:16:27
バイカル湖を中心に広がる東胡と見られる石板墓文化↓
http://www.baikalfoto.ru/library/articles/fold_01/fold_01/006.htm
これであった。

282 :月光仮面:2008/06/07(土) 15:27:34
オークネフの後がカラスクであり、これが商、周と関連する。この頃、山東、遼東、
半島で支石墓が始まる。支石墓と言うのは盛り土のはげた古墳であり、欧州から
日本、ミャンマーなどにもあるようだが、古墳共々土師の文化。その宗教は
尾張大國靈神社↓
http://www.kamnavi.net/en/owari.htm
で今も生きている。例の岩戸山古墳の近辺から装飾古墳が始まるが、横穴式で
あるほかに太陽の船の文化が印象的。ところがこの傾向はエニセイ・ケト人文化
に強い。バシコルスタンの犬戎文化とアマルナ文書時代のエジプトとには関連があり、
この辺からヒクソスから帰還した渡来人を唱えるわけであるが。ところで支石墓と
箱式石棺が合体したような構想がマルタ神殿であり、地母神、地蔵、胎蔵、金剛蔵
等の起源はこの辺にあるのであろう。


283 :月光仮面:2008/06/07(土) 17:47:53
ところで魏志倭人伝では卑弥呼の墓に関連してと解釈される文脈で「有棺無槨」という
言葉を使用しているが、この槨を文字通りに木槨と解釈すると当時の纒向のホケノヤマ
などの構造から見ておかしい。これを石舞台のような支石墓構造を持たぬ、つまり、
横穴式ではないと解釈するとよく意味がわかるんだが。

284 :月光仮面:2008/06/07(土) 18:10:43
>>275
http://www.masksoftheworld.com/images/Bhutan-Dragon-Mask-a.jpg
http://www.masksoftheworld.com/India/Bhutan%20Deer%20Dragon
このブータンの仮面を見ると獅子舞、鹿踊り、龍踊りのルーツであるとか、龍の
起源が鹿であるのがよくわかる。鹿が海を渡ると龍である。

285 :月光仮面:2008/06/08(日) 11:33:53
この辺で用語統一をしておこう。
中国語、石板墓であるが、
「-用石板做墓底、墓壁并封頂。是種墓在我国始于新石器時代晩期,盛行于春秋戦国
時期,唐時渤海墓葬亦多為石板墓。」箱式石棺墓のこと。鬼方。
トランスバイカル・スラブストーン墓-これは、スラブ形状立石を外にに倒し気味にた
立てた墓域内に各種形式のピット、石櫃、木棺の組合わせを埋葬すること。
楯築墳丘墓、豊前、松尾大社、伊豆諸島に見られる。・・・東胡人
スラブ立石墓域の代わりに円形石積をおいたものをケレクスル、ヘレクスルと呼ぶ。

286 :月光仮面:2008/06/08(日) 16:43:56
箱式石棺墓・高地性集落文化圏(オークネフ文化圏・石棺墓は粛慎の末裔渤海に残る)
http://www.hyperborea.ru/RU/MAP.HTM
石板立石墓文化圏(三足土器文化圏)これが、鮮卑、烏桓となるのであろう。
http://www.baikalfoto.ru/library/articles/fold_01/fold_01/006.htm
日本神話に顕著なスキタイ神話の影響は箱式石棺墓・高地性集落文化圏(オークネフ
文化圏)がタガール文化期にスキタイの影響を受けたあとに、おそらくは、趙、斉など
戦国末の動乱で朝鮮半島南部に避難したものによって百済・高句麗の崩壊と共に伝わっ
て来たと見るべきであろうか。

287 :月光仮面:2008/06/08(日) 16:48:20
しかし、粛慎文化は後の靺鞨白山部に当たる方面から弥生中期から既に朝日遺跡に
浸透してきているようである。

288 :月光仮面:2008/06/08(日) 17:03:26
チベット、雲南にかけて蔵、土、土家といった地蔵(地母神)に関連する民族名、
犬、馬、鬼面文化が残るが、日本にもそっくり残る。YDNAでは共に他に類例を見
ないYAPを共有している。これを単なる偶然としていいものだろうか。殷・周のころ
中国西部には鬼方、土方、犬戎と言うのがいた。なぜ日本の神社には狛犬があり、
沖縄では屋根の上にまでカップルの獅子が飾られるのであろうか。何故沖縄の
馬踊りはポーランドで踊られ、鹿児島・東北の鬼面はチベット・モンゴル・スイス
に残るのであろうか。

289 :月光仮面:2008/06/09(月) 15:45:39
これはオークネフ時代の円壁墳墓だが、いわゆる磐境のごとき板立石墓、であるとか、
曼荼羅型四隅突出型墳丘とかは機能的にこれと同じだ↓
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image012.gif
しかし、コーカサスにも同様の円壁式の墓地があるようだ。非常に重要なことは
青銅鏡の埋葬がオークネフで始まっていることであり、中国でも青銅鏡の始まるのは
甘粛斉家文化だ。斉家・四覇文化は欧米において中国における馬家畜化が開始された
場所としている。中国の文献では秦氏の祖である非子が馬の飼育を始めて羸姓を
賜ったとある。秦氏はヒクソスの疑いが強い。

290 :月光仮面:2008/06/09(月) 15:53:47
ちなみに青銅鏡は遼寧方面に向かい多鈕細文鏡として日本に入るが、この製作集団
は倭面土国王帥升によって伊都国に呼び込まれ、八咫鏡の製作を手がけ、天日矛
として畿内・丹波に移住してきたのであろう。鏡作りと言うのがこれではなかろうか。
伊勢遺跡が客家の土塁とか、ウラル・アルカイム遺跡の構造を持つのも彼らが
オークネフ・セイマトゥルビノ・カラスク文化に関連しているからでないかと思うのだが。

291 :月光仮面:2008/06/09(月) 16:57:48
http://sibirfilm.narod.ru/RUS/proekt-bronz.files/image005.gif
「金属使用時代の独特な宇宙像を表すものに有名な「Azkiz卵像」がある。メンヒル
(立石)の赤ちゃんと言う意味の「Keze palazy」と呼ばれるミニチュアの石像は古代の
世界創造神話を図示するものである。世界は巨大な卵より生まれた。卵の上層は天と
なり、下層は地底の黄泉の国となり、黄身は太陽となった。全世界は巨大な殻に収ま
っている。殻はもろく、不安定である。世界のバランスを失うと人類は神話宇宙の全てを
破壊しかねず、従い、人類は全ての存在を大切にしなくてはならない。世界が卵から
生じたという説話は多くの民族に残る。同様の話はインドのヴェーダ、古代エジプト伝承
及び世界の多くの民族にある。」日本では、玉依姫命をお祀りする筥崎八幡宮には
「タマセセリ」、秋田の横手には梵天様がある。これはオークネフから世界に流れ、西欧
ではイースターの卵となっている。

292 :月光仮面:2008/06/10(火) 16:51:09
ヒクソスから帰還した渡来人、実際ナイル川まで旅をした遺伝子もあっただろう。
しかし、人種が環境になじむことは大変なこと。しかし、ノマドは旅をする。船員の
ようなもの。彼らは言語、神話、慣習といった文化のリレーも行う。ユーラシアの
大きな変動には遺伝子の区間ごとの移動とその上を流れる文化のリレーの
バトンタッチ、これが重なり合っているのであろう。伊勢の五十鈴川のせせらぎには
瀬織津姫という美しい女神がいたがいつの間にか東北に引越し、その後には
戦闘的な天照大神が収まった。これは日本だけの話だろうか。東南アジア、中国
東岸、朝鮮半島には瀬織津姫のような女神とよく似た東アジアの言語が存在して
いたのではあるまいか。弥生から始まる日本の戦国は東アジア全体の戦国であり、
それはアジアと言う駅伝区間においてユーラシア駅伝の決戦が繰り広げられた。
現代の中国語、日本語、韓国語等はアンカー・ランナーの言語ではないであろうか。


293 :月光仮面:2008/06/14(土) 14:19:28
参照:日本人どこから来たんだ?3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1209009011/menu378-383
日本民族形成には中国周辺の丁羌(鬼方、犬戎、土方)、百濮、百越が寄与していること
はまちがいないが、西アジア・中近東の銅石・晩期青銅器都市文化がノマドによる乱世に
入る波乱万丈の時代にアジア人がハム・セム・ヤペテの世界でエジプトのファラオにまで
上り詰めるのは信長・太閤記なんてものではないはずである。まだ中国と言う文明さえ
ないのにどうやってそこまで成功したのか。これにはネットでいうプロキシ的存在があっ
たからではないかと思う。その黒子はおそらくフルリ人であり、その主体はエニセイケト
でないかとおもう。実は気多神社がケト、羯族くさいのである。


294 :月光仮面:2008/06/14(土) 16:04:19
実は日本には在日朝鮮人コロニークラスのユダヤジンとかケト人ではないかと
見られる集団がこんなにもあるのだ↓
ユダヤ・アシケナージ I-P19                      0.4%
朝鮮、アルタイ、シボ、満州エベンキ、ウイグル、ベトナム共通 N-LLY22g*  1.2%
ヤクート、ウラル Tat N-M178 0.4%
3.5-4万年前のアラル海起源NO-M214*               2.3%
インディアン(古代ケト人か)Q-P36                  0.4%
インディアン(古代ケト人か)R-M207                 0.4%

295 :月光仮面:2008/06/14(土) 16:09:54
これを合算すると古代丁羌族を担ぎ上げたフルリ人環境と言うものが存在した
のかもしれない。実は「フル」という石上神社の神霊は欧州、エジプト、ユーラシア
東部全体に共通した天神の概念なのだ。ギリシャ、ゲルマン、ケルト、コルシカ、
クレタ、アフラマツダ、ホルス、高霊、高麗、呉、高良・・・きりがない。

296 :月光仮面:2008/06/14(土) 16:21:35
http://www.familytreedna.com/public/N%20Y-DNA%20Project
ここに出てくるM-128は日本には来ていないが、日本に来ているN-LLY22g*
とほぼ同様の広がりを見せており、この地域はアファナシエヴォ文化と重なる。
この辺がセイマトゥルビノ馬・二輪車軍団の中近東への出発点でなかったのでは
あるまいか。

297 :月光仮面:2008/06/14(土) 16:29:58
四国のタバナクル式白人神社でイスラエル大使が「皆さんもユダヤ人かもしれませ
んよ」といっていたが、プロキシではなく実際に来ていたのかもしれない。「虎の巻」
は虎屋の羊羹になってしまったのかもしれないが。

298 :月光仮面:2008/06/14(土) 17:11:26
ケト人神話にはエジプトの太陽の船、西シベリア神話は上鴨・下鴨があり、装飾古墳、
賀茂神社信仰、ずばりそのものとして気多神社がある。越前・木曾を中心に広がる
木工工芸、天狗、ナマハゲ、ネブタ、鹿島様、獅子舞、羯鼓踊等の牧畜境界・鹿石・
鬼方の芸術は運慶を初めとし、江戸の浮世絵にいたる日本文化の基礎となり、
世界を風靡したエジプトの車は。くしくも同じ地方からいまや全世界を席巻している。

299 :月光仮面:2008/06/16(月) 17:29:05
白人神社は美馬市にあり、この近辺には首切り馬伝承がのこり、楽浪から、纒向ホケノ
ヤマ画文帯神獣鏡をもって阿波の北方、鳴門に降臨しているのは神武とも似たパターン
であるが、白人というのは狛人のことで、モンゴルの白老人(日本では寿老人になった)、
チベット近辺では最大のYAP+保持者である、雲南のプミ族が白人と自称することから
全ては古代アルタイ方面の出自であろう。月読命は阿波のオオゲツヒメを殺した罪で
天照大神に責められて天界を追われているから、吉野川を挟んだ鳴門と上八万銅鐸
文化の闘争は熾烈なものがあったに違いない。このオオアサヒコ族は安房に上陸、
上総、葛飾方面で牧畜を始めたようであり、地名に鹿浜、鹿骨、カツシカ、鹿取等
阿波の美馬市で馬の犠牲祭祀を行ったことと一致する点が読み取れ、更に、麻の
栽培を武蔵、阿波で広めたのではないかとも考えられる。


300 :月光仮面:2008/06/16(月) 17:52:52
ブリャートのサイトでは白老人はサンタクロースになったのではないかとしているが
「川の下にあるのは強深瀬(江深淵)といい,流れは矢を射るように速く,波は山のよう
に高く,川上より巌石が流れ来て,罪人の五体をうち砕く。死ねば生き返り,生き返れば
また砕かれ,水底に沈めば大蛇が口を開いてまちうけ,浮きあがれば鬼王夜叉が弓で
射る。ここは悪人のみが渡るところである。」

301 :月光仮面:2008/06/16(月) 17:57:31
「以上は《地蔵十王経》《十王讃陸鈔》の所説であるが,《地蔵十王経》は偽経である。
三途の川のことは,死出の山とともに説かれるが,仏説ではなく,俗説である。三途の
川のほとりには衣領樹(えりようじゆ)という大樹があり,その下に奪衣婆(だつえば),
懸衣翁(けんえおう)という鬼形の姥と翁がいて,姥は亡者の衣服を奪い取り,それを
翁が受け取って衣領樹に掛ける。亡者の生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が異
なるという。」春先のエニセイ川は氷塊の山が爆弾の轟音と氷の衝突による電光を
発しながら北極に流れる。氷川神社と言うが世界で唯一三途の氷川の通るところ。
この翁と衣領樹こそサンタとクリスマスツリーの起源ではないだろうか。

302 :月光仮面:2008/06/20(金) 11:42:11
■ 調査最新情報 ■
文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.3 (2006年8月号)より
公募研究「北方ユーラシア遊牧民部族社会の考古学的研究」の開始にあたって高濱秀
(金沢大学)
公募研究「北方ユーラシア遊牧民部族社会の考古学的研究」研究代表者
http://homepage.kokushikan.ac.jp/kaonuma/tokuteiryouiki/news/newsletter03/image/5-4.jpg
「オラーン・オーシグ山を東、南、西の方向から取り巻いて、10箇所ほどのヘレクスル群
が見出される。この遺跡はその一つであり、また鹿石を伴う唯一の遺跡でもある。また
山のウブル(南)ではなくほぼ東に位置している。我々は、調査に当たってその全体的
な立地を前提とする必要があると考え、この遺跡をオーシギーン・ウブルではなく、オラ
ーン・オーシグIと呼んでいる。 我々がここを調査対象として選んだ理由は、モンゴル青
銅器時代の主な遺構と考えられる鹿石とヘレクスルが共に存在するからであり、その
2種の遺構の関係を捉えるのに適当と考えたからである。そのほか、やはり青銅器時代
の墓である板石墓も1基あり、少し離れたところに数基見出されている。」
写真4    「1号ヘレクスル」
「我々は既にこの遺跡において1号および12号ヘレクスルを調査し、南部の鹿石の周辺
をも一部発掘した。1号ヘレクスルは積石塚の直径が約13m、高さ2m足らずで、方形の
石列によって囲まれ、主としてその東側に21基の石堆をもつ(写真4)。」
これは四隅突出型墳丘墓の原型ではないかという点から注視している。



303 :月光仮面:2008/06/20(金) 11:56:42
「1号ヘレクスルの中心の積石塚からは、石棺が発見されたが、中に人骨は発見されな
かった。」・・・日本でも四隅突出墳丘墓から箱式石棺墓が出ることがある。従い、
四隅突出墳丘墓と箱式石棺墓を結ぶものとして大事である。いま、私は、オークネフ・
カラスクの箱式石棺墓からコーカソイド人骨が出土するという情報とモンゴロイド人骨が
出土するという情報に挟まれて困っている。おそらくは人種的混合があったのであろうが
この辺をはっきりさせてもらいたい。

304 :月光仮面:2008/06/20(金) 13:10:44
「また中国北辺東部に分布する夏家店上層文化には、動物紋様など初期騎馬遊牧民
文化に共通する要素が認められ、その年代が西周時代後期から春秋時代前期、すな
わち黒海沿岸の先スキタイ期に相当することも明らかになってきた。このように草原地
帯東方におけるこの時期の様相が注目されるようになってくると、また調査の比較的行
き届いていないモンゴル高原の状況が問題になってくる。」

305 :月光仮面:2008/06/20(金) 13:11:35
「モンゴル高原においては、鹿石と呼ばれるものが知られている。高1〜3mほどの方柱
状の石に鹿などの図像を彫りこんだもので、その鹿の図像から初期騎馬遊牧民文化と
のつながりが早くから考えられていた。しかしE.ノヴゴロドヴァの研究によって、鹿ととも
に彫りこまれた剣や戦斧などの武器が、商代、西周時代に併行する中国北辺のもの
や、夏家店上層文化のものと類似することが明らかになった。以前に考えられていたよ
りも古く、前2千年紀の後葉から前1千年紀前葉ということになる。鹿石はモンゴル高原
において最も多く発見され、すでに500個を超えている。」

306 :月光仮面:2008/06/20(金) 13:12:32
「またザバイカリエ、アルタイ、新疆ウイグル自治区、ウラル地方、北カフカス、黒海北岸
からも少数発見され、北カフカス出土のものは、先スキタイ時代の古墳に伴っていた。
アルジャン古墳からも鹿石の一種の破片が発見されており、アルジャン古墳自体よりも
古い時期のものとも考えられている。このようにして鹿石は初期騎馬遊牧民文化の始ま
りの頃と強い関係を持つことが推測されるようになってきた。」

307 :月光仮面:2008/06/20(金) 13:13:59
「またモンゴル高原においては、青銅器時代の埋葬址と考えられる遺構として、ヘレク
スルが知られている。ヘレクスルとは、積石塚を方形あるいは円形の石列で囲ったも
ので、多くの場合、主にその東側に石堆が複数置かれ、さらにその外側に全体を囲むよ
うにして、数個の石からなる小型ストーンサークルを何重にも配置することもある。発掘
しても遺物の出土例がほとんどないところから、その年代には異説もあり、用途につい
ても、墓というのが定説になったとはまだ言いがたい。しかし初期騎馬遊牧民時代にな
って、ユーラシア草原地帯に突然出現する大型墳丘墓の先蹤としてヘレクスルを考える
ことは、きわめて自然なことである。」
http://homepage.kokushikan.ac.jp/kaonuma/tokuteiryouiki/news/newsletter03/news03_05.html

308 :月光仮面:2008/06/20(金) 13:18:09
日本神話の基本がスキタイ神話であることであることとか、何故、日本に忽然と
古墳時代が始まるのかの謎解きは今始まったばかりなのである。

309 :月光仮面:2008/06/20(金) 14:10:00
鹿石次代の前、アルタイにはオークネフ文化があり、石柱に鬼面のような神像
が描かれる。これはヒンドゥー教、モンゴル、西蔵密教によくある三つ目像。他方
時代的にはアルタイがオークネフの後、カラスクに移る頃、メソポタミアには
カッシートが出現する。そして、カッシートには「Kudurru」という境界石がある。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6c/Caillou_Michaux_CdM.jpg
「Kudurru」とは前16-12世紀カッシートにより家臣に与ええられた権利書のような境界石
として使用されたいわば石の書類である。アッカド語では「辺境」、「境界」を意味する。「Kudurru」はカッシートのバビロニア統治時代の唯一今に残る遺物であり、ルーブル博
物館、イラク国立博物館に残る。「Kudurru」は国王の家臣への許可の意思決定の記録
である。「Kudurru」現物は寺院に保管され、許可を受けた人には境界石の公的証明抄本
としての粘土板が発行された。「Kudurru」には契約保護神の象徴的イメージ、契約
内容、違約時神罰が描かれた。若干の「Kudurru」には土地使用を許可した王の姿も
描かれた。画像や契約が大量であるため、「Kudurru」は大きな石碑となった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kudurru
日本の地蔵、道祖神、猿田彦神社はおそらく、熊本の磐井の乱の岩戸山遺跡の頃から
始まるのではないかと思う。

310 :月光仮面:2008/06/20(金) 15:36:45
前2000年頃喇家遺跡に見られる大地震が長江、黄河上流に大災害をもたらし、移動
牧畜民のカザフスタン方面への移動が始まり、これにウラル北部のセイマトゥルビノ
青銅技術革新とボタイ地方の大型馬、アルカイムにおけるインドイランとの接触が羌、
羯、フルリ、インドイランの四方への拡散の引き金となったのではなかろうか。そして、
インダス、中東、エジプトに新体制が生まれ、その後鉄の登場と共にスキタイ時代に
入る。中央アジア後期青銅器文化は羌族により殷に伝えられる。殷はこれに触発され
独自の青銅器文化を発展さす。流動化してスキタイ・匈奴となったものが稲作農業の
拡散を追うように半島、列島に浸透。

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取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。
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