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涅槃

1 :考える名無しさん:2005/10/05(水) 22:02:57
すべての雑念から解放され、
精神的な境地に到達する。
これを「涅槃(ねはん)」、と言う。
つまり、「悟り」、だな。

涅槃的に世の中を語っていこう。


2 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2005/10/05(水) 22:08:03
無抵抗。
全ては無抵抗にしか繋がっていない。

3 :& ◆LMRaV4nJQQ :2005/10/05(水) 22:23:55
涅槃に達し、雑念から解放された私は、何も語りません。さようなら。

4 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2005/10/05(水) 22:25:16
1.道具があれば道具を使って何かをする。
2.道具がなければ道具を作って何かをする。
抗えず何も出来なくなれば(道具がなくなれば)
その次は何でも出来るようになる。
つまり、最初(2.)から始められる。不自由の中の自由。

5 :考える名無しさん:2005/10/06(木) 14:23:22
問題は涅槃の境地にいつまでもいることができないことだ

6 :考える名無しさん:2005/10/06(木) 19:34:34
ここで待ってるって言ってたんだがなぁ
あの勘違い野郎!

7 :凡人:2005/10/06(木) 20:05:00
>>1番さん
仏語の涅槃は宗教上の商売用語で有るから用いる事はしませんが悟りは人が
人間として生きる知能を育てる為に欠く事のできない必須事項です。
宗教的精神を含まずに人が悟る為の方法で有るなら哲学的に尤も重要な部分
ですので真剣にお話し致します。
大変に良いスレですね。

8 :考える名無しさん:2005/10/06(木) 20:21:11
凡人さんヨミニクイ。

9 :Tar ◆SQIDAUQYpc :2005/10/06(木) 20:23:31
なぜ世の中を語りたいのか語れ。

10 :考える名無しさん:2005/10/06(木) 20:25:58
国民には選択させておけばよいのだ。


11 :考える名無しさん:2005/10/09(日) 23:20:20
彼は彼岸だから

12 :考える名無しさん :2005/10/10(月) 16:52:58
真理を悟る

13 :考える名無しさん:2005/10/23(日) 01:56:38
パーラミタってことですか?


14 :考える名無しさん:2005/10/23(日) 02:03:47
無住所涅槃ってことです。



15 :考える名無しさん:2005/10/23(日) 23:24:37
へぇー、涅槃=悟りなのか。
「菩提樹の下で明けの明星を見たときに悟った」
「涅槃はお亡くなりになる事」
と聞いてたから別だと思ってた。

16 :考える名無しさん:2005/11/15(火) 12:34:28
僕が「悟り」と解釈しただけだよ。

17 :考える名無しさん:2005/11/29(火) 19:51:59
全てが無意味であることを

18 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 15:51:30
涅槃(ねはん)で待つって言葉的には合ってるの??

19 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 22:49:19
ブッダの教え(目覚めた人の教え)では、死んだ後のことは知覚できない
つまり、わからないということで死後の世界のことは無記なので
沖雅也サンのように飛び降り自殺の際の遺書に用いちゃうのは、誤解もいいとこです。

20 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 23:10:23
<覚せい剤所持>沖雅也さんの養父を逮捕 警視庁

 俳優の故・沖雅也さんの養父で会社役員の日景忠男容疑者(68)が
覚せい剤取締法違反(所持)容疑で警視庁に現行犯逮捕されていたことが
分かった。日景容疑者は、83年に飛び降り自殺した沖さんが「涅槃で待つ」
と遺書を残した相手として知られる。日景容疑者は使用したこともを認めているという。

(毎日新聞) - 12月12日12時56分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051212-00000040-mai-soci

21 :俺たちは天使だ!さん:2005/12/13(火) 02:54:57
沖雅也(本名: 日景城児)さんは、天国という意味のつもりでネハンを
用いたんでしょうね!

22 :考える名無しさん:2005/12/13(火) 20:28:31
遅いな、アイツ

23 ::2005/12/13(火) 20:56:54
>>22
これ、某千葉県某白井市某桜台のゾンビ議員たちの蛸壺墓守寝首掻き野卑坊と申しまして、
ゾンビですので、暫く、こちらの涅槃にいつくかもしれませんが、うっちゃっておいてやってください。
哲学の、て、もわかりませんので。
もちろん、政治も財政も、共同幻想のなんたるかも、な〜んにもわからないDQNどん臭痴ほう議員のふんどしかつぎです。
かみさんがふんどしをしめるのですが、これがまた、まったく戦意のない不戦連敗痴ほう議員でつ

24 :考える名無しさん:2005/12/14(水) 23:23:55
23は、やはり
ころころころがった糞を相手の顔面に投げる練習もしたり
金魚のクソでありつづけた
経験があるようだな?


25 :考える名無しさん:2005/12/20(火) 15:57:18
アフオ 待ってたぞ!!

26 :考える名無しさん:2005/12/20(火) 17:11:54
「悟り」って、私のイメージでは何事にも動じないって感じなんだけど
そんな人って本当にいるのかなー?もし、そんな人が実際にいたら
いろんなイタズラを仕掛けてどんな反応するか、見てみたい。
まるで、ドリフのコントだけど。
お釈迦様がいま、生きてたらなぁ。

27 :考える名無しさん:2005/12/21(水) 01:13:21
何事にも動じない.......?

28 :考える名無しさん:2005/12/21(水) 15:30:32
>>18
悟りの境地で待つ、って意味じゃ?

29 :考える名無しさん:2005/12/26(月) 10:32:53
あの時代はまだ同性愛者への偏見が強かったからなあ…
あの世で幸せになろうって意味だと思った。

30 :考える名無しさん:2006/01/15(日) 01:05:06
>>15
亀で面目ないが、入滅って意味で使われることもあるようなのでそれもありだそうでし

31 :考える名無しさん:2006/03/22(水) 02:20:49
つうどう

32 :考える名無しさん:2006/03/22(水) 02:52:36
http://blog.m.livedoor.jp/deathvox/

33 :ヨヴァ:2006/03/22(水) 03:46:54
すべての物は常に流転し、
その中に自分と捕らえられる物は無く、
すべてが苦の為にしか存在していない
ようはこれを受け入れることがニルヴァーナなんでしょ。
俺は
>かくすればかくなるもの
>と知りながら已むに已まれぬ大和魂
みたいな
普遍不動の魂を我とする物のほうが好きだが

34 :考える名無しさん:2006/03/23(木) 02:01:16
おん369そわか
おん369そわか
おん369そわか

35 :考える名無しさん:2006/03/23(木) 02:03:57
なにこの煩悩w

36 :みょーん:2006/04/28(金) 19:52:58
極彩色のうごめくエネルギーみたいなものに、
私は角砂糖のように解け溶けて行った。
「ああ、死ぬってこういうことか」
こうして戻っていくんだ根源に。
それはせつないような・・でもむしろ感動と喜びでした。
私はこの成分の一部。この成分で出来ている。

夢を以前見て、たぶんこのビジョンが私にとっての涅槃。
この夢を見て以来、心の中にいつもそのエネルギーを感ずるし
感動とせつなさを抱いている。
私は今の与えられた条件のもとに生きて、そして、そこに戻っていく。


37 :メフィスト:2006/04/29(土) 10:27:24

うちの嫁はエッチのときに

「ああ、極楽涅槃ってこのことね!」

 と言っております。

 

38 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 02:16:25
>>37
脱我ってやつだな。

39 :チン念:2006/05/01(月) 01:56:58
まだまだ、迷いの世界に
さ迷っておるぞ!w

40 :みょーん:2006/05/01(月) 17:07:51
>>38
>>39
茶化しじゃなくて、セックスをしてイクときって神秘的だと思う。
快楽だよね。
それで、子供が出来て、産むときって
苦痛だよね
これが意味するものってなんだろうと思うのだよ。
快楽と苦痛はすごく近い位置にあるんじゃないのかな。


41 :考える名無しさん:2006/05/03(水) 02:14:10
利己的な遺伝子の
なせる業です。

42 :考える名無しさん:2006/05/03(水) 02:22:42
みーむ なーむ〜

43 :考える名無しさん:2006/05/03(水) 03:39:25
子供を産む時も辛いけど、産まれてきてから生きてく時も苦しいよ。

人はそれから逃れたくて快感をもたらすセックスをするのかな。

でも、気持ちよくなりたくてセックスをする人達ってのはなんて世俗なんだろー。俺もしたいと思ってるし。でも子供を作りたいと思わない。

全ての雑念から開放されるとしたら、周りから人がいなくなった時かな。なんでこんなにたくさんの人間が産まれてくるんだろって。一人じゃ生きていけないと解っているけど、周りに人が多すぎる。大都会の中でも(不安なく)孤独になれたら悟りが開けそう。

44 :考える名無しさん:2006/05/06(土) 22:03:02
 仮に涅槃といわれる境地に達したとする。
で、人のことなんか放っておけばいいんだが、
親切心で
おっと、こうしたほうが好いんだよ、と言いたくなる。
 ほとんどの人間がが馬鹿だから、イライラすることになる。
これは涅槃ではない。
 ・・・・・・今日の般若湯は酔わせるな・・・・
 実は、空海大師はゴータマ・ブッダを強烈に裏切ったのではないか、
という疑問は誰でもが抱く疾風怒涛の世界。又後日・・・


45 :みょーん:2006/05/07(日) 17:59:01
見下した瞬間、世界は終わる。
だから、釈迦は「慢」をひつこく説いたのでしょう?
垣間見た悟りに浮かれて、傲慢さにおぼれた時、金色に輝いた世界は
砂のように、ボソボソに崩れて砂漠になる。
仏とは忍耐のなせる技でしょう。

46 :考える名無しさん:2006/05/10(水) 22:49:19
応無所住而生其心

47 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/11(木) 00:04:15
>>45
ちゃうの。見下した瞬間、世界は終わる。っていうのは
自分の無抵抗を捨てたから。自分が無抵抗の状態においてあればそれでよし。
ガンジー様も大統領になっちゃったから暗殺されたし、
どんなに頑張ったって救われないという、無抵抗の状況においてのみ
神の救いがあるの。自力で何とかなるのなら助けは無用です。
死ねば分かるとか通説がありますが、無抵抗になれば分かると同じです。
無抵抗のときに救いがあるということが他のどんな事よりも大切なんです。

48 :みょーん:2006/05/11(木) 00:29:07
>>47
無抵抗という響きは、あきらめを含みますか?
「自然」になるということでしょう。
でも、人間として生まれた条件は変わらない。
特定の国、時代・・・そして、今、ここに人間のAとして誕生した
私を生きなければなりません。超越、達観するのは瞬間です。
人間の私を切り捨てる瞬間、それは傲慢さになりませんか?



49 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/11(木) 00:51:30
>>48
諦められないのです。最底辺が無抵抗ですからここ以下は無い。
そういうところから築いていくのが真の自分の力です。
ただ、神様にもきっかけを援助してもらいたいですが。
その援助がもし、なくて、最底辺から自力だけで立ち上がれるのなら、
自分の力だけで何にでも成れるのでは?
リセットして(無抵抗の地点に行って)どこへ向かおうと自由なんですから。


50 :みょーん:2006/05/11(木) 10:34:39
「神のお導きに従う」とか「宇宙のリズムに身を委ねるとか」
そういうニュアンスでしょうか?


51 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/11(木) 13:49:15
>「宇宙のリズムに身を委ねるとか」
そんな感じです。流木は岩にぶつかりません。
細菌が薬に対する耐性菌になるのも無抵抗の力でなると思っています。
無抵抗に生まれ無抵抗に死ぬ。地球も無抵抗の中で回ってます。

52 :みょーん:2006/05/12(金) 16:26:14
>>51
おっしゃる意味はよくわかります。心を開放するとそのような
感覚になると思います。無になるという感覚にも通ずるでしょうか?
それでも、その状態はやはり瞬間的だと思うのです。
人間を生きて、自分を解放するなら、さまざまなリズムが出入りします。
「宇宙にリズム」「人のリズム」「ある個人のリズム」
そんなものをどのように複合させるのか
それが「私のリズム」だと思うのです。そして複合させる過程には多大な
忍耐と思考が必要だと思うのです。


53 :考える名無しさん:2006/05/12(金) 16:32:30
みんなが幸せになる方程式を発見しました。


男+女=セックス


でも、どうやって解くか分かりません。
誰か解いてください。

54 :考える名無しさん:2006/05/12(金) 16:47:25
>>53
(半径×半径×3.14)n=セックス

55 :考える名無しさん:2006/05/12(金) 16:55:15
(3.14=乙π)

56 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/12(金) 17:01:32
>>52
宇宙のリズム〜でもいいですが、私vs.宇宙でもいいような。
戦いの物語で物語らしくなるのは敵が圧倒的に強いときで
主人公が勝つと分かっていても弱いものいじめのような物語には魅力を感じないでしょう。
それで、勝てないゲームでもやってみるとなんとかなるっていうのは物語の中
だけに限った事ではないんですよね。
形勢不利から大逆転が一番気持ちいいですから。

57 :みょーん:2006/05/12(金) 17:14:23
>>56
私なりに解釈しますと、宇宙のリズムに同化していては認識できないん
ですよね。宇宙のリズムに挑戦してはじめて認識につながる。


58 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/12(金) 17:27:53
とは言うものの、
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1146009719/189
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1146009719/192
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1146009719/197
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1146009719/199
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1146009719/200
こんな事も書いてたりするから自己矛盾全開です。

59 :みょーん:2006/05/12(金) 19:37:23
NAS6 ◆o1AYEkZmQU さんのおっしゃる「無抵抗」という感覚が少し
理解できた気がいたします。「脱力と達観」というふうに言う人もあるでしょうか。
私の悟りのプロセスと始まりかたが違います。
私の場合は自然の心が極めて流動的で、あかんぼうのようにぼんやりとした世界
にあるというところから始まります。
世界をそのまま吸収する。外の世界がそのまま自分の世界となる。
そうしてたくさんのモノを内側に抱えるほど複雑になり、対立が始まります。
その対立を切り捨てず、考え抜き、調和点を求める永遠の作業が
悟りへのプロセスです。

60 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/12(金) 20:12:13
>>59
>世界をそのまま吸収する。外の世界がそのまま自分の世界となる。
これは認識の事かと思いました。
私というブラックボックスに情報を放り込む。(入力)
そして私の世界観を構築する。(出力)
入出力の差があまりない(無抵抗或いはトートロジー)ことが正解ですが
正解しても意味は余りなくただの自己満足で幸せ感を得るという悟り?
みょーんさんがおっしゃるように認識は差が無いと認識できません。
(トートロジーが何かの説明にならないように)というか認識は比較です。
比較とはAとBの差をとるということです。
これは、ローカル視点と同じです。絶対座標上のA点をローカル視点O’から認識する場合、
A−O’とするからです。それでO’(主観)を絶対座標の原点O(客観)に近づけるのが悟りだと思います。
つまりO−O’=ゼロとすることが神の視点を得るということです。

61 :考える名無しさん:2006/05/12(金) 20:53:17
あのくたらさんみゃくさんぼだい

62 :考える名無しさん:2006/05/12(金) 21:02:43
しゅたら

63 :考える名無しさん:2006/05/12(金) 21:12:36
さんが

64 :みょーん:2006/05/12(金) 23:46:35
>>60
絶対的な真理が存在すると考えられるわけですか?

65 :みょーん:2006/05/13(土) 00:12:37
釈迦や多くの宗教で「愛」「慈悲」「恕」など利他を説きます。
その意味は、私の所与条件から観る頂きは卑小で、他を通して無数の
頂きへのプロセスを認識し、山の姿を少しでも見ていく作業のように
思えます。生物の数だけ、頂きがあり、その頂き全体が神の姿で・・・
でも、当然私は全体にはなれません。

66 :みょーん:2006/05/13(土) 00:29:52
私たちが今話をしている悟り?へのプロセスは思考、理性に由来
していると思います。
例えば、肉体的に、あるいは直感的に、あるいは感情的に
「悟り」を得ることについてはどう思われますか。

67 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/13(土) 01:59:29
全体にはなれないけど、全体の視点に立てるかも。そこが悟りのような気もするし、
的外れのような気もする。

68 :考える名無しさん:2006/05/13(土) 09:16:56
>>53

みんなが幸せになる方程式を発見しました。


男+女=お互いの同意⇒ セックス −コンドーム −子供


でも、どうやって解くか分かりません。
誰か解いてください。






数学よくわからん。

69 :みょーん:2006/05/13(土) 10:32:37

>>67
全体の視点に立つのは予感したということい過ぎません。

70 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/13(土) 11:28:55
阿弥陀仏の本願は一切の衆生の救済だったと思いますが、
自分の力で自分を救えるうちは救済は必要なく、それはかえって煩わしい。
自分ではどうしようもなくなった無抵抗の瞬間に救済をするからありがたいと思うんです。
その救済を余り上手くやりすぎるとそれも自分の力で切り抜けたと思ってしまうらしいですが。
自省をこめてね。
>>64
この板で私がずっと主張している最大の主題の無抵抗が絶対の真理と確信してます。
私の考えでは無抵抗になれば自動的に救済されるのですが、
そこを何とかして自分自身で無抵抗から自分を救いたい。
それは無抵抗じゃないと言われるかもしれませんが。それとさっきの自省はここですが。
無抵抗から自分の力で組み立てられるのなら何も恐れる事は無くて、
無抵抗からの救済が(阿弥陀仏の)他力だから「あるかないか」不安になる。
>>66
>肉体的に「悟り」を得ること
事故の起こる瞬間やボールがぶつかってくる瞬間に時の流れが遅くなるという感覚を
味わった事は無いですか?
その感覚が無抵抗に近いと思うんだけど。

71 :考える名無しさん:2006/05/13(土) 13:41:38
男+女=あっあっ気持ちいい ⇒ セックス −コンドーム −子供

72 :考える名無しさん:2006/05/13(土) 14:04:21
男+女+セックス+あっあっ気持ちいい=男@
男+女+セックス+あっあっ気持ちいい=女A
@+Aより、
2男+2女+2セックス+2あっあっ気持ちいい=男+女
男+女+2セックス+2あっあっ気持ちいい=0B
Bー@より、
2セックス+2あっあっ気持ちいい=-男
男+2セックス+2あっあっ気持ちいい=0

オナニーはセックスより2倍気持ちいいことが証明された。


73 :考える名無しさん:2006/05/13(土) 14:06:01
すまん、ふつうに計算ミスしたよ(´・ω・`)

74 :みょーん:2006/05/15(月) 04:11:18
救われるというのはどういう意味ですか?

75 :考える名無しさん:2006/05/15(月) 04:39:13
>涅槃的に世の中を語っていこう。

断る。



以上。

76 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/15(月) 14:50:44
>>74
なんとかなるということです。

77 :考える名無しさん:2006/05/15(月) 22:18:43
なんとかなっただけでは救われない

78 :考える名無しさん:2006/05/16(火) 06:13:12
なんとかならない人間が圧倒的に多い。
涅槃にいけるといっても、いけない人だっているんでしょ? 割合的に

涅槃に行ける者=勝ち組
涅槃に行けない者=勝ち組以外

涅槃にいくなんて時間の無駄な事はだれもしようとしない。
でも実際に多くの人は苦しんでんだよな。
そして勝ち組になりたい人の多くは周りを見ることができない。
涅槃にいきたければ努力しなさい!
競争相手が多すぎんだよ。

79 :みょーん:2006/05/16(火) 23:28:50
人間の頭は傲慢ですから、打ち砕かれればいい。
人間がどんなに何をどうしようと、地球が少し身震いするだけで、
築き上げたものも命も消えてしまう。
圧倒的な力に、身動きできない状態を経験してしか
自然に帰依したい心は生まれないものでしょうか?
誰の中にも存在している宇宙に通じている道を開ける
ことをどうしたら出来るのでしょうか。
「共鳴」という手段を考えます。




80 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/16(火) 23:37:44
>>79
ダンテの神曲読んだ事無いんですが、
「冥界の門を通りたくば、汝の欲を捨てよ」
というくだりは有名なので知っています。
解答としては「私はあなたに全て従います」でいいのでは。
つまり、無抵抗ってこと。

81 :みょーん:2006/05/16(火) 23:47:35
無抵抗とは自我をゼロにすることなのですか?
私にとって「悟り」とは 宇宙の流れと自我のエネルギーの調和点
を常に、どの瞬間も探しもとめていくことです。
そのプロセスとして、宇宙・・自然と隔たってしまった自我の意識
を、宇宙的心との回路を結ぶためにまず自我のエネルギーを下げる
必要があるという場合があるとは思います。
宇宙的心と、現在を生きる自我。両方が活動を活発化させ、激しく
対立したのち、見出した調和点が、その人間のあるべき姿だと
思っています。


82 :みょーん:2006/05/16(火) 23:51:42
>>80
それは個人の秘密の部類になるのではないでしょうか。


83 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/17(水) 00:00:37
>>81
連投規制入るかも知れないけど。

自我はなかなか消せないね。乱暴に言えば
一回死んで自我がゼロの瞬間にやっぱり自我は消せないねと
自我がまた出来て生まれ変わるとか。そんな感じ。
自我を意識として死を睡眠として考えてもいいかも。違うとは思うけど。

84 :みょーん:2006/05/17(水) 00:08:11
生きることは無数の調和点を見出していくことだと思います。
内的世界も。外的世界も。

85 :考える名無しさん:2006/05/17(水) 00:12:14
願望達成ならココかな。
私はまだだけど、友達は成就しました。
http://www.choco2.jp/kajikitou
サイト自体はちゃっちいけど、
実力は本物だと思う。
むしろ、豪華なサイトほど怪しい気もするし…。


86 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/17(水) 00:17:25
>>84
調和点でしょ。
自分の欲望はなかなか消せないから意識だけでも消す方向に持っていって
さぁ、どうでしょう。とやった時に自分の欲望がちこっとついてくる。

87 :みょーん:2006/05/17(水) 00:34:31
>>83
割と近い感覚を見ているのかな。と私はここのところのやりとり
で感じました。
NAS6 ◆o1AYEkZmQU さんは法華経を読んだことがありますか?
「みょーん」というのは、法華経に登場するマイナーな菩薩の
「妙音」から拝借してしまいました。
妙音菩薩は宇宙人らしいですが、私の尊敬する音楽家です。
音楽は生命の活動そのものですし、楽器と音の関係は肉体と精神と
同じです。私は音楽を通して、「共鳴」する道を探しています。




88 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/17(水) 00:41:46
>>87
>私は音楽を通して、「共鳴」する道を探しています
おお、マクロス7だ。法華経は読んだ事ないけど。ぐぐってみる。
↑は主人公が戦闘にノコノコ出向いて攻撃をかわすだけかわして
歌って、歌の力で敵と停戦する。という物語なんだけど。
見ていて、戦闘の真ん中で無抵抗に踊って攻撃が無駄な事を諭して平和が出来る
という私のイメージにぴったりだと思いました。

89 :みょーん:2006/05/17(水) 00:52:23
>>88
ははは。。
へえ。マクロス7ってアニメですか?
割とお若い方なのですね。おじいさんなのかと
勝手に思っていました。
法華経は、妙音菩薩品第24です。
明るくて、かわいいような菩薩です。

90 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/17(水) 01:30:42
ttp://www.parkcity.ne.jp/~chaichan/chai/myouho.htm
ぐぐったら最初にヒットしたここ読みました。政治的なことは知りませんが。


ttp://www.parkcity.ne.jp/~chaichan/chai/myouho.htm#sanpou
>諸行無常は、「永遠の時間」の概念です。
>諸法無我は、「永遠の空間」の概念です。
>涅槃寂静は、「永遠の時間でも空間でもないもの」だろう。

涅槃寂静は人生ですか?命が生きて死ぬその間。
それが既に涅槃なんです。と理解しましたが。

91 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/17(水) 01:32:32
90のリンクのアンカー消えるみたいで。。。補足すると三法印の項です。

92 :みょーん:2006/05/17(水) 02:05:45
立正佼成会のサイトですね。妙音菩薩品24、書いてなかったですね。。
13くらいまでしかなかった。これからがいいとこなのに・・
仏教はものすごく理屈っぽいので言葉を理解するだけでも、
いいっぱい解釈があるし、大変です。その理屈っぽさが仏教の限界だと
思うんですよね。だからお経を唱えれば救われる的にシンプルにもっていく
んだろうけど。お経もやっぱり言葉なんですよね。
涅槃寂静、私の感覚的にはそうでしょうと思います。がよくわかりません。
でも仏教の時空の概念はすごいです。釈迦の見ていた世界を感じたい。


93 :みょーん:2006/05/17(水) 02:16:04
仏教でポピュラーですが、「煩悩即菩提」とか
「色即是空」「空即是色」とか。循環性と、表裏一体性を
言っていますよね。対立要素がどんどん相対化して循環していく
世界観に感動します。

94 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/17(水) 22:59:09
音楽は良いね。でも、半可通なので詩を重視してしまいます。
勝手に自分を重ねて悦に入ってます。
>>93
世迷いごとですが、表裏を言えばその中に大抵のものが入るので普遍性を
出すのには都合がいいかと思います。仏教じゃないかもしれませんが
「苦あれば楽あり」でどんなに苦しい状態に置かれてもその中にも
波があるはずですからただ苦しいだけだとしても言い通せてしまうようなことです。
今書いた事は仏教が説く事については関わらない小手先の事ですが。

95 :みょーん:2006/05/17(水) 23:43:42
>>94
言葉を伴った音楽も作りますが、詩はとても社会的な感じがします。
言葉は具体的すぎますし、時々心との間に距離がある気がします。
言葉はウソをつくのです。

私が音で描きたいと思うのは、例えば水の中で浮く感じ。
光の様子。自分が溶けて霧になる感じ。不思議さ。
泉に落ちる雫。
色鮮やかな景色。バッタの筋肉質な跳躍・・
ものが壊れる。糸が解ける。カーテンが舞い上がる・・
モノを観て、モノになって、ものを感じて、ものを愛して。

でも、音楽は人間の営みそのものですから、多様です。
だから、私の作るのも多様なんですけど。

96 :考える名無しさん:2006/05/17(水) 23:48:32
色に寒暖を感じるように
音楽にも寒暖を感じる。

97 :みょーん:2006/05/18(木) 00:02:53
そうですねえ。景色や想いや・・・「見える」音楽を作りたいです。
曼荼羅は心の調和点を描くものですが、音楽でそれをしたいんです。

98 :みょーん:2006/05/18(木) 16:48:53
調和点を得る作業。
このスレで重要なテーマだと思います。

1 対立を認めなければいけない

2 対立しているものを自分のなかに抱える

3 区別、分析、検討、分類

対立を認めるためには、挫折感や、無力感などが必要でしょうか。
「悪」として葬り去ったり、存在を無いものとしたり、都合の悪いものを
封じ込めてしまうと、永遠に調和はないですね。まずは机の上に並べないと。
それで、食べてみないといけないですね。それで、一生懸命消化酵素を出して
分解して吸収して、栄養に変えるんです。


99 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 20:58:01
>>98
1,3は認識ですね。要は差を感じる事。
新たに認識するものA’と自分との差あるいは前に認識したAとの差。
それを検討する事。
2はその差を受け入れる事でしょうか。

100 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 22:02:06
認識が差であるということについて。
「AはAである」トートロジーについて考えて
「A=A」とします。移項して
「A−A=0」この式は
「AとAの差(違い)がない」つまり「AとAは同じ」かえって「AはAである」
認識は「AはBとCだけ違う」という形式で
「A−B=C」
Cがゼロの時AとBは同じで、ゼロでない時はCという特徴が抽出できる。
というのが、認識についての私の認識です。

101 :みょーん:2006/05/18(木) 22:11:56
1から3にいくにしたがって、対象がよりクローズアップしていきます。
まず、対立があることを認める。影を葬り去ることが出来ないことに気がつか
なくてはいけません。ここでは、自分を捨ててはいません。
つぎに、対立の両極を体験してみます。つまり半分自分を捨てるわけです。
そして、両極についての考察を始めます。この時点で、第三の点が生み出される
わけです。考察の過程で、循環が始まります。
調和点を見るために、人間として必要な要素があると思います。
エゴが強すぎると、対立を受け入れないでしょう。
感情が未開発だと、共感性に乏しくなるでしょう。
思考が未熟だと、調和点を見つけ出せずに、「悪」をうむでしょう。

愛のない思考は傲慢。忍耐力の無い愛はエゴ。ということだと思います。

102 :みょーん:2006/05/18(木) 22:29:36
山道を散歩していて植物たちの美しさに息を呑む。
自然は調和点をよく知っているから。
地面を這うシダ、幹をつたう、つる草、しなだれる大木の枝・・・
植物たちは根を降ろした環境のなかで、「太陽と水」をめぐって静かに
お互いが、攻めぎあいながら、見事なバランス感覚で、懸命に生きる。
「自己の生の達成と繁栄」「種の繁栄」「同時に生を紡ぐもの全体の繁栄」
自然はこの調和点を見事に射抜いていて、ひたすらに美しいです。


103 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 22:30:49
>>99
>1,3は認識ですね
とかいたけど、1〜3全て認識ですね。
1,3は識で、見分け知る事。
2はそれを認める事。
>>101
>調和点
言いたい事が分かる気もしますが、何の事を言っているんですか?安定?

104 :考える名無しさん:2006/05/18(木) 22:31:46
諸君らは、仏典の言う『無我』を誤解しているようだ。
自我をなくす、とかエゴを抑えるとかいうことでは、全くない。
『諸法無我』とは、諸の〈存在する〉事物には本質がない、本性がない、ということをいっているのだ。

105 :考える名無しさん:2006/05/18(木) 22:36:11
あるいは「永遠不変の実体」はない。

106 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 22:43:06
>>104
「諸法無我」は「諸々は現象だ」ですよね。
「見えるものしか見ていない」つまり「感知できるものしか認識しない」
そこから、どう展開するか。少し様子を見ます。

107 :みょーん:2006/05/18(木) 22:44:21
>>105その通りですね。

108 :みょーん:2006/05/18(木) 22:50:44
調和点は、両方が、共存できるということです。
バランスが整うこと。

109 :みょーん:2006/05/18(木) 23:00:30
仏教の中でもいろんな解釈がありますね。無我について。
我に執着することをやめることですね。自分を拡散すること。
でも、我をこっぱ微塵にすることじゃないですね。
拡散して、自分を再構築したものが、大我とか真我と言われる
ものではないですか?
と、いうようなやり取りをしてきたんです。

110 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 23:22:29
>>104さんはどうしたの?意向どおりに諸法無我について考えてみます。
他人をいくら観察してもその人になれないので真のところは分からない。
でも、他人だけではなく自分についても言える。
なぜ、息をするのか、鼓動しているのか。分からない。
見えるものしか見れない。
で、諸法無我を提示する意図が掴めないのですが。

111 :みょーん:2006/05/18(木) 23:37:53
「諸法実相」というのもありますね。諸法無我はマクロ的で
諸法実相はミクロ的。

112 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 23:45:02
「諸行無常」は「万物はつねに変化している」
「万物は掴みどころが無い」でこれも「本当のところは分からない」
という読み解きです。
「涅槃寂静」は・・・ちょっと待ってね。考えてみる。

113 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 23:56:48
「涅槃寂静」は「悟れば静か」
「悟れば煩わされる事が無い」
前2つの(「諸行無常」「諸法無我」)「本当のところは分からない」から
「追求しなければ安心である」
だから、「通り過ぎるものをただ喜びをもって感じろ」というスタンスだと理解してます。
来るもの拒まず、去るもの追わず

114 :みょーん:2006/05/18(木) 23:57:17
ttp://enjoy.pial.jp/~brown/butu_muga.html
諸法実相でくぐったとこ。端的でしたよ。NS6さんの「無抵抗」
って仏教でいう「如実」なのか。と思ったり。。。

なぜみんなhを消してアドレス表示するのかわからないけど、
そうしてみます。

115 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/19(金) 00:10:05
>>114のリンクを見て
この間書いたことを思い出したのでリンクします。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1145929338/477-500

h消すのはリンク先を参照する時にリンク元のページが記録されるからだったと思う。
2ch内のリンクなら消さなくてもいいんだったと思う。

116 :みょーん:2006/05/19(金) 00:17:48
でもね、自己のみの悟りで完結しないんですよ。
他人と関わると、他人のさまざまな、心のバランスに出会うんですよ。
我が真の姿でないことを知ってしまうと、他人の本当の姿に出会いたくなる。
その他人の本当の姿に出会うためにどうしたらいいか。。。
他人と一緒に模索するんです。密かにですけど。
「私はあなたの仏界を是非とも見てみたい」

117 :みょーん:2006/05/19(金) 00:30:15
>>115
うわーーーもももも文字だらけーーー。ヒートアップ。
今日はもう音楽を弾きます。NS6さんはじめ、やっぱ哲学の人は文字
が得意ですよね。あたりまえですけど、2chて文章だけが解読の
手がかりだからつらいですよね。会って話すのと違って
直感が制限されて理解するのに疲れる。。。。
クールダウンしてじっくり読みます。
NS6さんラブー。。おやすみなさい。きゃあ。。。。


118 :みょーん:2006/05/19(金) 07:48:14
>>115
読んだら、別に、NS6さんがずっと主張しているご意見でしたね。
ひとつ疑念があります。私から見ると、NS6さんは頭での認識はしているけれど、
心では溶けていない感じがします。柔らかくない感じ。頭は柔らかい
けど、心がストッパーかかったままみたいな。
頭で認識するのは、「予感する」こと。心で再現できてはじめて「知る」
ことが出来るのでは?
「水面に映った月と実際の月ほどの違い」という例えがあります。






119 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/19(金) 18:14:05
>>118
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1146009719/251-252

先に出来てしまうんです。それから、あの時はどうだったか。等を考えて
理解しようと努めているんです。無抵抗は自分から試すには、失敗したら嫌だから
試す事はしないで、心構えから入ろうと、そうやって考えています。
?→A:反芻(帰納法)どうしてAになったか
a→?:試行(演繹法)aしたらどうなるか
a→A:経験則(因果律)aしたらAになる
出来ちゃうから、反芻して、これかな。と思っても危険で試せないみたいな。

120 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/19(金) 18:33:50
諸行無常からいうと決定論は何なんだろう?
単なる誤謬?

121 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/19(金) 19:46:02
ごめん>>120はこっちに移動
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1147795683/l50

122 :みょーん:2006/05/20(土) 08:22:07
おはようございます。↑のやりとり拝見しました。
「世界はうそで出来ていて、どのウソを選んで生きるかの違い」
というふうに言っている人を思い出しました。

空を見れば何も決まったものは無く絶え間無く形を変える雲にみとれる。
でも足元を見ると、私は確かにここに動かず立っている。

「認識」についての仏教の解釈です。
下記がいいかなと思いました。
 ttp://homepage2.nifty.com/watasikara_anatahe/kusikiron.html

123 :考える名無しさん:2006/05/20(土) 09:07:10
「諸行無常」は常なるモノは無し、即ち万物はつねに変化している。
「諸法無我」は我は無し、即ち万物には決まった意識・意思などは無い。

即ち、万物には常なる形も意思も無く、ただあるがままにある。
無一物の教えだね。

124 :考える名無しさん:2006/05/20(土) 11:13:50
粉飾したら無一物になりますた

125 :みょーん:2006/05/20(土) 12:17:45
「空」(諸行無常、諸法無我)を知って悟りオッケーって、
すごい男性的だと思うのです。
性欲を考えるとわかるけど、男性は心と切り離して肉体を見ることが出来ます。
物として人間を見ることが出来るのです。その裏返しの「肉体と切り離した精神
の飛翔と拡散(空)」ではないでしょうか。やっぱり不調和だなと・・・
【空を見れば何も決まったものは無く絶え間無く形を変える雲があって、地面には
私の足が在る】
物事の本質ってなんだろう。
私が知っている中で、なんかぴたっときたのは天台大師の考えた世界です。
微小の世界のほんの一瞬に、世界の現象すべてが備わっている。(一念三千)



126 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/20(土) 12:18:58
>>122
九識は菴摩羅識をより善い地平へ持っていくこと。つまり
業の積み方を説いているんですよね。
やはり悟りがでてくるのですね。
調和点とはここらへん(悟り)のことでしょうか?

127 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/20(土) 12:26:14
>>125
>物事の本質ってなんだろう。
諸法無我で「諸々には本質はない。ただ現象としてあるだけだ」としていますね。
でも、本質を知り(追求し)たくなりますよね。
それで、追求して自らを苦しめて(渇望して)しまう。

128 :みょーん:2006/05/20(土) 12:36:36
>>126
あれ?第九識がNAS6さんの言う無抵抗。宇宙の循環に身を捧げる
感覚かと思いましたが・・・

129 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/20(土) 12:50:45
>>128
自分で言うのは気が引けるかも。
それぞれが悟りを目指しているのでそれぞれの真理でいいんでしょうが。

もし「良かったら」メールください。見せたいものがあるので。


130 :みょーん:2006/05/20(土) 13:12:13
調和点は単純な話。限界と可能性を正しく観るということ。
すべての現象に限界と可能性があって、これが分離していると、
苦しみ。一致しているのがオッケー。限界と可能性が循環する状態。
が悟りみたいに私は思っています。
作曲でいえば、音は無限にあるけど、人間の声で出せない音を
使っても、歌えないし・・でもピッコロなら出せるかもね。
みたいな。
そうやっていくと、可能性をみること、いやそれ以上に限界を
よく知っていくことがどんなに重要か気がつくって話です。



131 :みょーん:2006/05/20(土) 13:14:44
>>128
そうそう。最後は自分が神になるしかないって話。
「神になる余地」を与えている仏教に一票!
て感じ

132 :考える名無しさん:2006/05/20(土) 13:46:15
>>125
>「空」(諸行無常、諸法無我)を知って悟りオッケー
色即是空空即是色であり、一切皆苦であり涅槃静寂なわけです。
悟りとは少し違うのでは?

極楽は西にも東にもあらず来た道探せみなみにある。
とは一休宗純か。

133 :考える名無しさん:2006/05/20(土) 20:01:36
ここは哲学板のわりには、みな用語の概念がまちまちのようですな。
そもそも仏教を哲学から捉えるのが適切かどうか。。。
少なくとも般若経的な見方からすれば、一切の哲学的吟味から離れなければならない。
その先に涅槃を観るのが仏教というもの。

134 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/21(日) 14:26:34
テスト

135 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 19:59:29
コテトリのテストですか?

136 :考える名無しさん:2006/05/22(月) 15:37:32
自己満足と諦め

137 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/22(月) 18:16:42
自己満足より幸せなことはないですよ。どんな幸せも自己満足にたどり着く。

138 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/22(月) 18:21:38
初恋が不倫の人がいるそうです。

139 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/22(月) 18:24:56
高校生で先生を好きになったんだって、うらやましいけど、せつないな。

140 :NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/22(月) 18:35:52
得ろ目的でそれだけと割り切る人はいいだろうけど。
飽きられたら捨てられる運命w

141 :みょーん:2006/05/25(木) 01:25:55
>>138
不倫にもいろいろですよ



142 :考える名無しさん:2006/05/26(金) 22:04:30
不倫に愛はあるのでしょうか?
愛なく交接すれば解脱といえるでしょうか?

143 :考える名無しさん:2006/05/26(金) 23:22:40
それで愛ってなんですか?

144 :考える名無しさん:2006/05/27(土) 11:45:26
十二支縁起にある『愛』でしょう。

145 :考える名無しさん:2006/05/27(土) 13:05:07
その愛は捨てなきゃだめだな

146 :考える名無しさん:2006/05/29(月) 22:59:21
愛を捨てて交接も良いな

147 :考える名無しさん:2006/06/04(日) 22:55:33
涅槃も捨てよう

148 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 22:39:03
そもそも持っていないものを捨てることはできない。
持っていないから求めようと思っても得られない。
これが涅槃。

149 :トリップを是非:2006/06/08(木) 02:44:38
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LOOgazzenE <= #.wCaP|ri
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KiJQzenwPo <= #=~})TRVI
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OMTWkzenm2 <= #D~}~-vNz
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150 :トリップを是非:2006/06/08(木) 02:45:45
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n3AB1zenUA <= #0#ZEIZ7~
qzen.fZHhY <= #*#ZSurwq
zen9yycIpM <= #h#ZceL1I
LAJNgCzenA <= #N#ZhNM7O
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AkzenJZ9to <= #5#Zv~,lg
eVzen81Zgk <= #=#Zz+!#D
azen.jwSLQ <= #3#Z#*7wp
OzenNLtTNc <= #C#Z%$K(-
NzenvLD43o <= #m#Z*NM7O
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znqAwzena2 <= #[#Z,VL14
5wzen.RN2Y <= #3#Z-srX^
Ej6UWuzenQ <= #!#Z:0sLm
wzenr5HCJ2 <= #k#Z=IZ7~
.3ezenhWG. <= #q#Z?1kxD
kZP7zenuUw <= #\#Z?]TW+
WzenfU2hYI <= #)#Z_urwq
3qA2zen/mQ <= #^*l6-9dC
lBg5zenqiU <= #6*lIo3Is
EzeniHv4dw <= #~*lW7LDz
pzen.r7aDM <= #c*lqJxgr
KlEs/zen1Y <= #k*lr9zOp
zeno5kOmS2 <= #b*ltKu/z
Quyzzenfl6 <= #A*lv98Dz
6d2UzengLc <= #=*lx}tgM
zengL.89Lk <= #1*l&B_!a
zen4uNT3gE <= #Q*l&=t=4
zenlMRcFG2 <= #J*l*3@Zx
Q.W/xzenHk <= #Y*l^*xh*

151 :トリップを是非:2006/06/08(木) 14:13:04
ZENYqFUldQ <= #UP4]Euxi
dZENI5pKWU <= #`P4^4pr7
RJzL5GZENA <= #MP4{3tYG
BZENH8DkkE <= #=TQ.b}S$
RZENMjGmdg <= #eTQFec%^
rZENLoVC8A <= #$TQPX,O&
ZENESjiSGM <= #'TQ%X,O&
tZENunMZz. <= #cTQ)ah9h
EKkWZEN7wI <= #'TQ:~YM\
ZENl/BIS76 <= #fTQ=\0OY
xZHXZENhik <= #NTQ@M)Us
Q5VhZsZENI <= #S^F.5,6+
ZENDpmYa3E <= #?^F/qC=%
2tTcZENHzg <= ##^FB[eZK
ZENVS6thd. <= #X^FC5,6+
JmXZENJSHw <= #M^FNpZrC
BIW8PZENt. <= #Q^FP$Q?^
lXOzzZENs. <= #R^FWqC=%
ZbZENZRpsY <= #;^Fc4$:#
/MJ.WEZENA <= #p^Fo5=5y
ZENS2WAfeo <= #u^FthnW(
j4ZENzW0xc <= #Z^Fu+Zj*
ceojZENArQ <= #q^F+-(1S
hKZENV4CJU <= #j^F[SBZN
ZEN94hMpVc <= #.^F{6bW&
LfbDADZEN. <= #U')6]RkE
DZENsT1oWA <= #*')AB[2}
ZEN5m/mj/A <= #E')F}`G!
8ZENgdNqLI <= #F')Oep,\
ZEN7Njp/K2 <= #u')T7}.T
xCwmgsZENE <= #Z')Z=Duk

152 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 22:17:47
なんじゃ

153 : ◆ZENS2WAfeo :2006/06/21(水) 01:35:57
禅解析器

http://seibun.nosv.org/maker.php/zen/

154 :考える名無しさん:2006/07/08(土) 17:58:38
このスレも、とうとうお陀仏ですか。。。

155 :お中元さん:2006/07/09(日) 01:38:15
♪♪ ほたるの光 窓の雪  レスよむ月日 重ねつつ
   いつしか年も すぎの戸を  明けてぞ けさは別れゆく

156 :考える名無しさん:2006/09/26(火) 02:21:37
nahan

157 :考える名無しさん:2006/10/03(火) 01:41:49
とおじも

158 :考える名無しさん:2006/11/06(月) 03:12:50
のじまた

159 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 23:14:52
かしわぎだいら

160 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 23:18:52
おもひでみさき

161 :479:2007/01/13(土) 22:18:53
>虫に聞けさん
>「菜食について考えるpart10」の108
>仏教に矛盾があれば仏陀も悟ったことにはならないという意味がわかりませんか?

わかりません。
・仏陀に関する情報が正しく伝達しなかった可能性がある
・記録の内容の矛盾は記録の全否定ではない。否定されるのは信頼性
・悟りに関する情報が信頼できない=悟っていないことの証明ではない
でしょう?突っ込まれることを解ってて言ってるとしか思えない。

突然失礼します。こっちでやれと言われたもので・・・
虫に聞けさんと言う方が、「仏陀が悟っていないことを簡単に論証できる」らしいので、
論証していただこうとしてるのですが、菜食スレだったためにスレ違いになりまして・・・


162 :考える名無しさん:2007/01/13(土) 23:15:04
ニルヴァーナは「死」の状態であることであって「死」の状態とは則ち時間がないことに通じる。時間がないということは時間が経つことで生じることがないことに通じる。則ち精神が時間を経ない状態を涅はんという。精神が時間を経ないということは色即是空が無い状態をいう。

163 :考える名無しさん:2007/01/13(土) 23:25:17
然るに涅はんとは純粋に在るということになる。則ち涅はんは五蘊が映し出す世界の前の状態に当たる。よって涅はんは変化を伴う時間の経過・空の状態の前にあることになる。則ち時間を経ないである状態でいる一定の状態を涅はんといい時間を超越してあることだと解かれる。

164 :考える名無しさん:2007/01/14(日) 00:22:58
坐禅と見性第50章 公案と見性B流れる水
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1167920142/

165 :考える名無しさん:2007/03/07(水) 14:51:04


宗教とはミームを運ぶための船である

合唱・・・・・・




166 :考える名無しさん:2007/03/09(金) 22:11:22
あげ

167 :考える名無しさん:2007/04/08(日) 21:32:59
age

168 :民主主義の学校さん:2007/04/14(土) 02:02:15
俗世間は、カネ(予算)の分捕り合戦で、お釈迦はんのお誕生日も雲のかなた、、、

169 :考える名無しさん:2007/04/14(土) 02:18:30
厄いわね

170 :考える名無しさん:2007/04/14(土) 07:27:30
厄いわよ

171 :いけた駄作さん:2007/04/19(木) 18:07:11
今年の花まつりは、煩悩の火をたぎらせた日と重なったんだな。
とくに、葬家どもはwwww

172 :考える名無しさん:2007/05/05(土) 18:06:05
涅槃と天国の違いは仏教が無我説を前提とすることでしょうか?

173 :四苦八苦さん:2007/05/18(金) 03:24:48 0
涅槃は、後には死と結びつけられるが、はじめは現世において得られるものとされていた。
「この世において、見たり聞いたり考えたり意識したりする形、麗しいものに対する欲望やむさぼりを
 除き去れば、不滅のやすらぎの境地(涅槃)を得られるのですよ」と、ブッダは説いた。

174 :考える名無しさん:2007/05/18(金) 03:44:03 0
仏教の本で何かよいものがあればお教えください。
ちなみに私は玄侑宗久とかスマナサーラを読んでいます。

175 :短パン:2007/05/18(金) 03:46:36 0
寝てれば、なんでも解決すんのなw

全く、便利な世の中さw

176 ::2007/05/19(土) 23:28:26 0
仏教書総目録ホムペ http://www.bukkyosho.gr.jp/
仏教の歴史は、仏教が仏教でなくなっていった・・・歴史とも言われております。
大海原で溺れないようにしませう。w

177 :考える名無しさん:2007/05/20(日) 02:52:14 0
角川文庫の仏教の思想シリーズは初心者が仏教全般を理解するうえで
便利だと思うのですがどうでしょうか?

178 :考える名無しさん:2007/05/23(水) 01:47:21 0
共によきブッディストとなるように
精進しましょう!(^^)v

179 :考える名無しさん:2007/05/23(水) 02:39:08 0
言葉すら、
思いすら、
記憶すら、
自分の存在からも解放されなければ、悟りとはいえないだろう。

自分の存在から解放されれば、冥界にすらたどり着くことは可能である。
閻王に遭いそして戻ることができるのは生きたまま死する人のみ。

つまり生人で無くなる必要がある。
そこは鬼の世界、仏の世界である。
生きたまま冥界を進む人がいれば、それは既に人ではない。
鬼の類で人は「人でなし」とそれを言う。
それも滅し魂となり、世界と同化するだろう。

おまいらが悟りだと思うそれは、都合の良い思い込みにしかすぎない。
人が言う悟りとは、心を言葉でいう表現にしかすぎない。
それが悟りだと思うなら、表現を繰り返せばいいだけ。
悟りに何を望む、その程度がおまえだとうこと、それだけ。

180 :考える名無しさん:2007/05/23(水) 03:20:57 0
>>179
冥府魔道だね、迷いが無い世界だからこそ思考もない。
死んでいるので魂も捨てた人じゃないかな?
残ったものは心(情念)と肉体。
こんな状態になったら魂を取り戻せるのだろうか?

181 :考える名無しさん:2007/05/23(水) 18:57:14 0
>>179
ドットコムに教えてやれ。

182 :考える名無しさん:2007/05/24(木) 02:26:29 0
ねはん中

183 :承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/05/24(木) 02:34:00 O
カートのニルバァーナは最高だよな。

184 :考える名無しさん:2007/05/25(金) 05:16:32 O
無心です。または、そこからくる動き。
つーかセックスです。レイプは駄目違う。
レイプは苦行です。

185 :考える名無しさん:2007/06/02(土) 01:00:36 0

  涅槃って退屈そうだな。

186 :短パン:2007/06/02(土) 07:37:05 0
仏陀って、なんか、楽だよなぁ〜w

187 :短パン:2007/06/02(土) 07:37:55 0
『自然体ですからっ!』
ふ〜ん。。。。

188 :龍宮:2007/06/06(水) 19:24:13 O
涅槃だが付け加えておくとおそらく時間の限りなく短いことを意味すると考えられる。状態が移り変わるところのものが変わらず良い状態でいられることが涅槃であるといえよう。しかし状態が移り変ることがない時間などあるのだろうか。それが体内の時間であっても

189 :龍宮:2007/06/06(水) 20:09:50 O
本当は移り変わることのない時間などありえない。シッダールタが27歳の時に菩提樹の下で縁覚に目覚めた後も気分の落ち込みや悪い状態やことが起きたこともあっただろう。では仏陀がその後時間をどうみたか。涅槃は文字通り仏陀の死を意味することで生きる人に涅槃は存在しない

190 :龍宮:2007/06/06(水) 21:49:30 O
仏陀が菩提樹の下で数数の縁ある人達と会って悟ったその後みた世界観。それは数学が示す通り無限大数のなかで起りえている数数の神秘的な整合性だったのだろう。整合性は時間と密接に結びついている。そして凡夫が良い時を永遠にしようとする間違いに気づいたのだろう

191 :龍宮:2007/06/06(水) 22:02:10 O
時間は進み去く。すべては移り行く。そのなかで我々はその都度ひとつのことを選択しなければならない。自分の欲望を我慢して自己を高めること自己を犠牲にして他の益を願うこと。あるいは自己のために生きることその都度選択しなければならない。

192 :龍宮:2007/06/06(水) 22:15:23 O
我々には時間の制約がある。そのなかですべては自己を犠牲にして何かに近づくための時間に当てるべきか。それとも楽の方向を取り続けるべきなのか?何をすればいいのか?この問に仏陀は答えるだろう

193 :龍宮:2007/06/07(木) 19:34:57 O
アーナンダよ。我々はあるひとつの瞬間にいてその瞬間が過ぎ去ろうとする時に同時にみんなと共にいるのだよ。すべてのものが移り変わりすべての人や生き年生けるものがそのなかで同時に動いている時に我々も共にいるのだよ

194 :龍宮:2007/06/07(木) 19:41:02 O
アーナンダよ。我々が同時にいる時に無限に広がっている世界も宇宙にいる万物もすべての意志や知恵もすべてひとつになっているのだ。そしてこの無限にみえるすべてはやはり有限のなかにいて限りあるものなのだ。この共にある我々は有限にあるのだよ

195 :龍宮:2007/06/07(木) 19:48:09 O
つまり世界は無限ではないのだ。アーナンダよ。すべては有限のなかにいてひとつが移り行く時我々もやはり同時に移り行くのだ。そのひとつが移り行く時にそれが我々が動くすべての理由になるのだ。我々はみな時間に繋がれているのだ。すべては影響しあっているのだ

196 :考える名無しさん:2007/06/07(木) 19:55:47 0
涅槃ってやっぱり本当は死のことだと思う。
生きている限り、煩悩はあるし、煩悩がないと生きていけないから。
でも、涅槃が死だと言い切ると(この思想が即身仏とか自殺的な仏教の
傾向に影響を与えたと思われるが)、死を賛美することになり、
万人受けしないから、大乗仏教で大衆化する中で色々と取り繕われてきたんだろ。

197 :龍宮:2007/06/07(木) 20:00:25 O
我々はどうあるべきなのだろう。アーナンダよ。我々は一瞬一瞬にいるのだ。しかし多くの場合みな遠くまで見渡しているのだ。だからみな遠くまである点としてすべてをみるのだ。アーナンダよ。それは確かにいいことではある。人はみなこういった意識を手にしているのだ

198 :考える名無しさん:2007/06/07(木) 20:04:54 0
涅槃の創世

199 :龍宮:2007/06/07(木) 20:07:26 O
だからみな苦行のなかに身を置いたり快楽のなかに泥酔したりするのだ。しかしどちらがいいということはないのだよ。すべて自然にあることなのだ。一瞬をみるのだ。そのなかで良いことを考えるのだ。アーナンダよ。必ずすべてに良いことがある筈だ。よくみるのだアーナンダよ

200 :考える名無しさん:2007/06/07(木) 21:18:06 0
宇宙世紀ダブルオーセブンティナイン
サイドスリーはジオン公国を名乗り
地球連邦政府に独立戦争を挑んできた




201 :龍宮:2007/06/09(土) 17:50:10 O
リャリープトラ(舎利拂)よ。我々はみな繋がりをもって生まれてきたのだ。誰一人として時間の制約を受けていないものはいないのだ。シャリープトラよ。この宇宙に存在するものすべては移り変わるもののひとつなのだ

202 :龍宮:2007/06/09(土) 17:59:34 O
シャリープトラよ。万物はすべて静止したままではいられないのだ。鉄は動かずにいるが静止しているのではない。鉄は絶えず大気の影響を受けていていつかは錆びる。私も同じだ一年の間動かずにい静止していなさい。それは必ずや何かに動かされる。必ずその意志は動かされている

203 :龍宮:2007/06/09(土) 18:13:31 O
動かすものは何かであって何かとはすべてなのだ。すべての意志はそなたを動かすだろう。即ち如是(ここに在るが如く)力だ。すべては作用するだろう。即ちすべては時に繋がれている。時とは万物なり。すべては影響しあっていてそれが即ち時なのだ

204 :龍宮:2007/06/09(土) 18:19:32 O
シャリープトラよ。万物を容づくっているものは美しい。万物は数が如く美しく成り立っていてひとつとして作用しあっていないものはない。すべては影響していてそのひとつが欠けるということはないのだ。すべてがあってそれが現在なのだ

205 :龍宮:2007/06/10(日) 07:36:46 O
現在はうまく成り立っているものだ。シャリープトラよ。天と地は繋がっているように一見繋がりのみえないような水と鉄には繋がりがある。すべては繋がりがあって万物は果報として生まれたものなのだ。だから何ひとつとして関係していないものはない

206 :考える名無しさん:2007/06/10(日) 07:37:20 0
俺は生きるけど
は最期かもわからんから

207 :龍宮:2007/06/10(日) 07:49:59 O
うまく成り立っているということは数字が表すように我々生き年生けるものも数字の如きものなのだ。それが絶えず変化していて数字が時間を帯て常に何らかの数字になるように万物も因果と時間の法則のなかで密接に関係して常に新たなものが誕生しているのだ

208 :龍宮:2007/06/10(日) 07:56:41 O
シャリープトラよ。よく見るがよい。世界は一で表せる。また世界を二にも表せる。一から百にも表せる。また世界にあるものをひとつひとつ数えあげていけばガンジス川の砂の数の如き膨大な数字で表されるだろう。細かくみればどれだけでも繊細にしかし単純にもわかるものだ

209 :龍宮:2007/06/10(日) 14:52:59 O
シャリープトラよ。天は万物をふたつのものに分けた。それは光と闇だ。この万物の法則は必ず陰と陽に分かれている。人間には悪と善がある。生命をもつものには陽が生命を持たないものには陰の要素がある。しかしそれは別の陰陽にみればそうではなくなるものだ

210 :考える名無しさん:2007/06/11(月) 17:44:43 0
 

211 :龍宮:2007/06/13(水) 20:42:33 O
「仏陀よ。私は今まで百人の人間を殺めてきた。私の罪はあまりにも深く到底生きている間には償うことはできない。私の罪はあまりにも深く暗いものだ。しかしそれよりも私が酷く絶望しているのは私の業だ。私は過去を振り返ってみてもこの人間が行う業を止めることができない」

212 :龍宮:2007/06/13(水) 20:51:35 O
アングリマーラよ。私は人間に絶望しない。何故ならそれはすべての定めだからだ。すべては陰と陽に分かれる。だから誰であっても陽の時だけを経過していくことはできないのだ。例え罪の深さが罪業を決しても地獄は現れるものだ

213 :龍宮:2007/06/13(水) 21:05:09 O
現れるとはすべてなのだ。アングリマーラよ。我々には常に陰陽が現れ訪れるるものなのだ。訪れるとは業のことだアングリマーラよ。広く自分とは関係のない世界で起こることは訪れない。自身に関わることが訪れるということなのだ。訪れるということが行いなのだ

214 :龍宮:2007/06/13(水) 21:10:25 O
アングリマーラよ。生きることは苦しい。あるいは良いことばかりの生もあるだろう。しかしアングリマーラよ良いことばかりの業にも地獄は訪れるのだ。恐ろしく知りたくないようなことが訪れるのだ。だから良いことばかりではないのだ。本当のことは誰にでも訪れるものだ

215 :龍宮:2007/06/13(水) 21:17:04 O
よく見るがよいアングリマーラよ。そなたの業は深く重い罪を背負っている。しかしよく見るのだ。是にあるが如く(如是)今があるものだ是に非ず(是非)のことをよくみるがよい。すべては今なのだ。訪れるとはすべてなのだ。五蘊皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまふ

216 :考える名無しさん:2007/06/14(木) 03:12:29 O
マングリーガエシよ、よく見るがいい。

217 :龍宮:2007/06/16(土) 01:43:42 O
かたちあるものはすべて美しい数学のようなものである。

218 :考える名無しさん:2007/06/16(土) 02:00:10 O
五十七億六千年後の永い間に

219 :龍宮:2007/06/17(日) 03:13:26 O
アングリマーラよ。実際に地獄にいる人間や地獄をみている人間はそれほど多くはいない。しかしそれほどの苦しみや行い(業)が実在しているのは悪のためなのだ。悪はいつでもそなたについている。しかしアングリマーラよ、よく見るがいい。悪の世界にいる人間はいないのだ

220 :龍宮:2007/06/17(日) 07:43:42 O
悪魔とはその時に訪れるのだ。しかしアングリマーラよ、悪魔が訪れる時に因果の法則のなかにあって生きているものはみな悪魔から退けられているのだ。ただ悪魔は人間の堕ちきった者のみに悪の行いをさせるのだ。アングリマーラよ、それは恐ろしい

221 :考える名無しさん:2007/06/17(日) 08:08:41 0
「814」 「副島隆彦という生き方」というタイトルのインタヴュー記事を、載せます。 
最近の私の考えが分かりやすく表明されています。副島隆彦 2006.12.15
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#1501

スッタニパータと、法句経(ダンマパダ)という一番古いお経がある。どうやら仏陀本人の本当の
言葉はこの二つだけのようですね。その他のいろんな膨大なお経は、全部仏陀が亡くなった後に、
弟子たちが勝手に作ったものだ。僧侶が葬式をやったり、お盆にお経をとなえたり死者を祀ったりは、
仏陀は一言も言ってない。ブッダは死に関わるな、と言っている。勝手に後の人たちが作った制度だ。
仏陀自身の言葉は、「愛欲と煩悩を捨てて、この世とあの世のすべてを捨てて、ただ一人歩め。ヘビの
皮が新しく抜け変わるように。サイの角がひとつ進むように。」と書いてあります。
奈良の興福寺、東大寺は法相宗(ほっそうしゅう)という仏教で、中国までやって来た仏教のうちでは
一番古い仏教を伝えている。それは輪廻転生(りんねてんせい)を認めないんです。
来世はない。あの世もない。「この世とあの世をともに超える」とスッタニパータ(「ブッダのことば」 
岩波文庫 中村元訳、1984年初版) で仏陀は言っています。だから輪廻転生(りんねてんしょう)
もないのです。そこで私はブッダに従うならば、ゼロ、全くないと思います。「今」という現実は有るの
だけれど、それは仮のすがたであって、すべてなくなるんだ、と。輪廻転生は、仏陀が若い頃、厳しい修行
をしたヒンドゥ教の思想なのです。ヒンドゥ教 ( Hindu 、ヒンズー教、インド教)には輪廻転生が強烈
になる。六道輪廻ですね。生命は生まれ変わる。ですから、不思議な話ですが、本当の仏教(ブッダの教え)
は、徹底的に、無神論(むしんろん、atheismエイシイズム)なんです。


222 :龍宮:2007/06/17(日) 09:01:23 O
地獄にいる人間をみるがよいアングリマーラよ「仏陀よ。それは私だ」アングリマーラよ、そなたは地獄にいないのだ。何故ならそなたは地獄から遠ざかっていくほどに地獄を知っているからだ。そなたに地獄が訪れることはもうない「仏陀よ。その通りだ」

223 :龍宮:2007/06/18(月) 23:11:39 O
キリストや仏陀や日本人からすれば天皇の物語性は時空を超越するような何かがある。宗教というものは真に現実にあった何かに揺り動かされて残ってしまうものなのだろう。すべては有り得たのだ。それを考えると現代の陳腐な人間劇のなんとお粗末なことだろう。

224 :考える名無しさん:2007/06/18(月) 23:18:30 O
カトリックが持つ神聖な太陽の柔らかい光に包まれているような独特の雰囲気やイエスに対する敬愛の態度や慈悲深い考え方はその物語性に端を発するものだろう。仏教の雰囲気は気高い

225 :考える名無しさん:2007/06/18(月) 23:24:47 O
仏陀がどのような雰囲気の人物であったかというとすべての時間に演劇を超越してすべての生き年生けるものと関わった真実の人だったのだろうと思う。ともあれ人間が余暇という時間を持たないということはない。だからところどころに劇としての物語性は含まれている

226 :龍宮:2007/06/21(木) 19:21:07 O
空を見るがいい。よく見ると蒼くしかしよく見ると暗い。あれが虚空だ。暗い空を見ているとそれがすべてのものにかたりかけているのがわかる。明るさのなかに暗さが見えるのはすべてが表裏一体だからだ。暗さの中に明るさがあるように暗さのなかに明るいものがあるのだ目建連よ

227 :考える名無しさん:2007/06/21(木) 20:56:52 O
にゃはーん

228 :194 ◆JMEUe1jdXc :2007/06/21(木) 23:38:40 0
勝手に勘違いしないでよねと言われて振られる不細工な男みたいなもんだ
人間は自らの妄想に裏切られてるだけなんだがな
悟りしものも悟りに拘泥することなく生きるがよろしいでしょう
気付きの瞬間はいくつもある そんな瞬間があると思えばこその人生だ

229 :龍宮:2007/06/23(土) 08:37:27 O
目乾連─もくけんれん(マウドガリヤーヤナ)よ人と人の間にある穴をよく見るがいい。その穴は餓鬼の穴だ。またあの空のように蒼く透き通った空を見るがいい。あの空が餓鬼の穴に通じているのだ。虚空は美しい。しかし虚空にも暗闇に通じているのだ

230 :龍宮:2007/06/23(土) 20:19:57 O
人の心は虚空のように広い。心はすべてに通じている。心に映るものは外側の世界に通じているのだ。心は外側の世界が移り変わるのに共通して動くものなのだ。人は人の心の動きに応じて心が動くものなのだ。心の世界はその動きに応じて外側の世界も動くのだ

231 :龍宮:2007/06/23(土) 20:36:37 O
私の心が動く時他にある心も動いている。また人の心と外側の世界は別別なのだ。しかし目乾連よ別の世界と私の心とは繋がっている。私の次の心の動きは世界の次の動きに通じているのだ。時間はその時々に私の心と外側の世界が一体となってひとつの方向を向くものなのだ

232 :龍宮:2007/06/23(土) 20:44:13 O
心の次の動きを見るがいい。それが禅定の意味だ。目乾連よそのなかに時々心のなかに穴ができる。その時人が恐ろしいものに変わるのだ。人が恐ろしいものに変わるのは人の心が闇に通じているからだ。これが餓鬼道だ。その時自分の心をよくみるのだ。

233 :考える名無しさん:2007/06/24(日) 02:21:46 0
良スレ

234 :短パン:2007/06/24(日) 04:10:45 0
良スレ だって言われてる臭いので、一応見てみたのだが・・・・・

んん。そぅかねぇ〜〜〜〜w

235 :龍宮:2007/06/29(金) 20:46:44 O
目乾連よよく見るがいい。人の顔をよく見るがいい。どの人間も畜生の顔をしている。それがあるがままの顔なのだ。あるがままとは畜生のことなのだ。畜生とは悪の根源だ。獣は血を食す。同じように人が人を食うのだ

236 :龍宮:2007/06/29(金) 20:58:17 O
すべての根源にあるのは畜生の心だ。畜生の心は人が人を支配する心だ。心の動きをみるがいい。そのすべては畜生のように単純なものなのだ。人が人を食う心。それが畜生の心だ。心とは簡単に動くものなのだ

237 :龍宮:2007/06/29(金) 21:11:35 O
人の心とは獣の心なのだ。あるがままの心とは畜生の心なのだ。しかし目乾連よ。人の心は獣の心より恐ろしいものだ。畜生の心はあるがままの心だ。しかし人間はもっと恐ろしい顔に変わるものだ。それが人間の性(相)なのだ。それが餓鬼の心だ。

238 :龍宮:2007/06/29(金) 21:56:32 O
餓鬼の心とはその通り単純に動く心(畜生道)ではないのだ。餓鬼の心は短い時間のなかで逡巡する心なのだ。目乾連よ人間はそのように逡巡する。これが悪の根源だ。短い時間のなかでも人間の心は醜いところへと堕ちていくものだ。しかし人は仏の心へと変わることもできるのだ

239 :龍宮:2007/06/29(金) 22:49:33 0
仏の心とは清らかなわだかまりのない心だ。仏の心とは青く生い茂っている
あの緑のような心だ。仏の心とは青く澄み渡った蒼穹の心だ。仏の心とは
正しい見解・正しい決意・正しい言葉・正しい行為・正しい生活・正しい努力・
正しい思念・正しい瞑想(八正道)の心だ。目乾連よ仏の心とはあるがままの
心のことなのだ。すなわちすべては純粋にあるがままの心こそ仏の心なのだ。
しかし目乾連(マウドガリヤーヤナ)よ獣の心(畜生)とはあるがままの心だ。そして
仏の心もあるがままの心なのだ。しかし河の流れをよくみるがいい。目乾連よ
すべては淀みなく進んでいる。すべてはあるがままなのだ。だから、目乾連よ
清らかであるということは穏やかであるということなのだ。しかし河の流れは
すべて一定ではない。どこかでは滞り沼になっている。またどこかでは濁流となって
激しく流れている。自然は穏やかなものばかりでなく攻撃的なものも持ち合わせている。
清らかなるものも淀んだものも善も悪もすべては忽然一体なのだ。これが
因果の法なのだ。

240 :龍宮:2007/06/30(土) 18:50:00 O
時間はすべてを変える。五蘊(五観)は河の流れのように次から次へと流れているものなのだ。心を清らかにするのだ。流れを変える必要はない。人間は精神を如何ようにも変える意思を持つ。目乾連よ心を真っ直ぐに保つのだ。畜生のように激しくいくのではない。良く流れを保つのだ

241 :龍宮:2007/06/30(土) 18:55:05 O
意識は短い時間で物事を変える。意識(内)が何かを変えることによってすべてが(外)が変わるのだ。そして内で曲げたものは自分に還る。餓鬼の心は悪の心だ。餓鬼はすべてを悪い方向へと貶めて流れを黒い泥のように変えてしまうのだ。心を正しい方向へと保つがいい

242 :龍宮:2007/07/04(水) 22:02:01 O
アングリマーラよ。時間は数と同じく大小がある。長い時間と短い時間がある。時間の大小は数の如くどれだけでも大きくなりどれだけでも小さくなる。人が瞬きをする瞬間はあるいは56億7000万年に通じているのだ。それだけ長い時間とそれだ小さい時間には繋りがあるのだ

243 ::2007/07/05(木) 22:54:40 0
有世涅槃と無余涅槃。有余涅槃は仮の涅槃。
無余涅槃と無間地獄、どちらも死へと至り、
無=神に帰着する、つまり神に帰命するという事。
そしてどの境地において死を迎えようが、それは同じである。
死においては全てのものが平等にそれを受け取る。
しかし案ずる事はない、全ては所詮空であり、
全ては全て(神)として永久に存在し続けるのである。
故に安息の中で死に至りたいのであれば、
あまり我に固執すべきではないであろう。
かといって私は、人に対して煩悩を滅するべきであるなどとは、
全く思っていない。人はありのままでよいのである。
少なくとも、根源なる神は、絶対無なのであり、
根源なる者は、それ故に、人に対してこうあらねばならないなどと、
強制するような事はない。
全ては神から生まれ、神に帰る。
それはキリスト教などが説く、
実際のところで2元性の相対神(創造神、破壊神)などではなく、
絶対神=絶対無へと帰る。
自我から無我へと至る。
無我とは自我の対義語であり、
自我の対義語は真我ではない。
また私は相対者の我を人我(相対我)と名づけ、
絶対者(普遍真人)の我を神我(絶対我)と名づける。

244 ::2007/07/05(木) 22:58:18 0
真・十界論

神界(神我における神界/真実の神界/絶対者/神人/創造神の降臨)

無余涅槃(無我における神界)
仏界(一つの時代における全ての相対者において唯一人が至る)

菩薩界(菩薩界と縁覚界は途中ループおり、 
縁覚界 その間に有余涅槃<仮の涅槃>に至る。)
声聞界
天界 

人界

修羅界
畜生界
餓鬼界
地獄界(仮の無間地獄が存在する。)

魔界(一つの時代における全ての相対者において唯一人が至る)
無間地獄(無我における神界、
     真実の上では神というものは善悪を超越している)
神界(神我における神界/真実の神界/絶対者/魔人/破壊神の降臨)

普遍真人のみが神界(絶対者)に至る。

この構図を見て頂ければ分かると思うが、
あくまでも私論だが、真の十界論(十五界論)とは、
善悪という視点において、境地の数が比例するのである。

245 ::2007/07/05(木) 23:02:05 0
本来の十界論

仏界

菩薩界
縁覚界
声聞界
天界

人界

修羅界
畜生界
餓鬼界
地獄界

多重レス申し訳ありません・・。

246 :考える名無しさん:2007/07/05(木) 23:02:55 0
age

247 :考える名無しさん:2007/07/05(木) 23:20:22 O
十五界はいいすぎだ。六界も観念論だからそれがあるといえばあるないと言えばない。ただよくできた方便品だ。十界は六界という輪廻の世界の上に知の世界観をつけ加えただけで輪廻の認識が声聞と縁覚で世界(法)の認識を得たうえで菩薩は世界平和のために生きている人のことだ

248 ::2007/07/05(木) 23:21:22 0
無余涅槃(神界に至る)=真我(右脳が左脳の全てを侵食)そのものと成る事。
           全ての魔(負)を滅し去り、神(正)のみと成った状態。
無間地獄(神界に至る)=自我(左脳が右脳の全てを侵食)そのものと成る事。
           全ての神(正)を滅し去り、魔(負)のみと成った状態。
普通、人は真我(右脳)と自我(左脳)の両方を併せ持ち、
これこそが人が人であるという所以である。
仏界の時点では、まだ自我が残っている。
魔界の時点では、まだ真我が残っている。
神界(梵天、帝釈天などにおける境地)に至る為には、
何も持たざる者という条件がついている。
つまりその存在は相対次元において絶対無の存在でなければならない。
そして釈迦ですら、真の意味では無余涅槃(神界)に至る事ができなかったのであり、
またその反例としてヒトラーですら、真の意味では無間地獄(神界)に至る事ができなかったのである。


249 :考える名無しさん:2007/07/05(木) 23:25:15 O
だから十界の上をつくるのは構わないが六界が万人の認識に適しているだろう。精神の至上は空海の唱えた十住心がある

250 ::2007/07/06(金) 00:39:17 0
>>247
一応247としていますが、あなたへの返レスには相応しくない内容も
含まれておりますので、まぁあまり気になさらないでください。
あなたの反証は、論理を無視していると謂わざるを得ません。
あなたは唯物論者か、
少なくとも、あなたは顕教の方便の教えを採用しているように見受けられます。
私はあくまでも中道を選択するようにしていますが、
唯物論に固執していると、仏界以上に至る事はありませんよ、
まぁ地獄界以下に堕ちる事もないので、ある意味正解かもしれないですね。
人が語る全ての相対性によるところの真理と呼ばれているものにおいて、
暗黙の内に示唆されている神の真理を読み取る必要があるのではないでしょうか。
殆どの宗教は、特に顕教などは、多くの方便を有し、
ほぼ全てが方便によって形成されていると言っても差し支えないが、
しかし神の真理はその中に、実際に厳然と存在するものであって、
それこそが相対性における絶対である。
けっして観念論として切り捨てられるべきものではないのです。
大体、仏が取り扱っている法をあなたは観念論としているが、
仏という存在は生命存在における法を、相対世界においての絶対性の上で、
説き伝えるものなのであり、それは神の預言者と呼ばれる。
その者の教えを観念論とすべきではないと私は考える。
ただしあくまでも、彼等預言者(仏や救世主含む)は、
相対的存在者なので、神によって絶対性を付与されたとは言っても、
その教えはやはり相対的な教えである。故に、その者の教えのみが正しい
などという事は決してない。しかし精神に次元があるように、
あらゆる全てのものに、次元という性質が存在するように、
教えにも相対性における高低という次元が存在する訳です。

251 ::2007/07/06(金) 00:40:13 0
またあなたは六道輪廻する宇宙というものを基準に世界の認識をもっており、
それを仏は、九界を迷いとし、酒に酔った状態、眠っている状態であるとし、
仏界を真の悟りとし、酔いから醒めた状態、覚醒した状態であるとしている。
しかし私は仏界もまだ迷いとし、酒に酔った状態、眠っている状態とする。
仏界がまだ迷いであるという事に関しては、釈迦が最期に身をもって示している通りである。
また存在を認識する場合、
0(一なる実体)を見て、その次に神々(霊魂)の世界を見る、
次に正しい心を見る、次に穢れた心を見た後に、
知識や論理の世界を見て、最後に六道輪廻する相対性の物質世界の全てを見る。
真実から方便へ、方便から真実へ。
真実を理解した上で方便をも解するのが覚者であり、
方便であるものを真実(真理)と見たり、真実(真理)であるものを方便と見たりするのは、本末転倒です。
存在の深さで見れば、絶対における霊魂⇒心⇒物質となります。
まず絶対次元が実体であり、相対次元における心や、物質などはその影に過ぎませんが、
絶対次元における心は絶対であり、そこから法が生まれたのでなければ、
むはや法など死物同然でしょう。
顕教がとっている方便ではなく、密教で説く教えの方がむしろ真実です。
基本的に、大衆が理解するものは、方便であり誤りであって、
極限られた人々が理解するものが、真理であり真実です。

252 ::2007/07/06(金) 00:41:35 0
ただしこれはあくまで真実の原理に関わる話であって、
私が小乗教を肯定し、大乗教を否定している訳ではありません。
大体の場合、小乗教では、ある程度、機根が整っている者達が関与するので、
仏は真実(真理/実相)を説く事ができる。
しかし大乗教は、機根が多種多様に散らばりを見せる大衆に対しての働きかけであり、
小乗教では救われないくらいに機根が整っていない者達を相手にする故、
止むを得なく、ほぼ全てが方便となってしまう訳である。
話はそれますが、このような原理を起因として、民主政治の腐敗(衆愚政治)が現れる訳です。
そこで独裁政治が望まれるような局面を迎える場合がありますが、
独裁政治の場合、統治者の性質によって、善政と悪政に大きく分かれるものです。
またナポレオンなどが、顕教を代表とする宗教を指して、
民衆を黙らせる(コントロールする)為に、好都合なものなどと証しているのは悲しい事実です・・。
まぁ実際に宗教を利用して一国を自身の都合に従って支配し、利益を搾取する為政者や、
もしくは宗教を利用して、教祖である自己をドグマ化し、同じく自身の都合に従って、
在家や出家の信徒を問わずに支配し利益を搾取する者達は後を絶ちません・・。
前レスと重複しますが、私は大衆を蔑視している訳ではありません。
むしろ、全ての、このような多種多様な相対的関係性を、
ありのままで、素晴らしいものであると見ています。

253 ::2007/07/06(金) 00:52:21 0
>>247
此処は哲学の板であり、しかも涅槃に関する内容です。
だとしたら、法の対象は二乗ひいては菩薩となるでしょう。
ならばもはや、万人の認識という尺度をもってくるのは、
不適切ではないでしょうか?
少なくとも万人には真理をストレートに説く事はできません。
あくまでも私の目的は思想の啓蒙にあるので、
したがって十住心の件に関しては問題ではありません。

十住心が精神の至上であるという事に関しては賛成です。

254 ::2007/07/06(金) 01:05:09 0
>>249
あなたはこの件に関して、
正しい認識をもった上で方便を見ておられるようですので、
私はこの後、特に何も言う事はありません。
とりあえず安心しました。
それでは失礼します。

255 :龍宮:2007/07/16(月) 07:05:34 O
世界(仏教)の中心にあるというシュミセンに待機しているマートレーヤ(弥勒菩薩)よ。五十六億七千年

256 ::2007/07/18(水) 02:15:12 0
>>131
>最後は自分が神になるしかないって話。 「神になる余地」を与えている仏教に一票!

人は有限の存在であり、どこまでいっても人であり、
人が神になる事はできない。
人が己の肉体の細胞を組織している神であるように、
神とは一切(絶対的には全ては一つの存在)万物の、
意識であり、脳である。そして全ては、その神の意識によって生じている夢である、
故にこれを空というのである。
人が夢を見る時、そこに己が有るように、
神の夢にもまた、そこに神自身である人としての己がある。
そして涅槃(無余涅槃)とはその神自身の為のものであり、
釈迦の説いた涅槃とは、絶対者(神)にとっての道標である。
人はむしろ、神に成ろうとするのではなく、
人として、その生を真っ当すべきであると私は思う。
それと、一元性の絶対神や、二元性の相対神、多元性の神々などというものは、
一切に含まれる性質に過ぎず、これらは存在でも存在者でもない。
(しかし人はこれらの性質に多くの妄想的見解を与えるものである)
究極的には一元存在である絶対者(神)(存在/存在そのもの)のみが存在しており、
その中に相対者(存在者)が存在している。
またこれが無限と有限の真意である。
つまり相対次元(世界)というものは有限であり、
無限の本質とは一つであるという意味に過ぎず、
人が考え、また数学や論理において表される無限は現実には存在し得ない。


257 ::2007/07/18(水) 02:16:23 0
それと、一元性の絶対神や、二元性の相対神、多元性の神々などというものは、
一切に含まれる性質に過ぎず、これらは存在でも存在者でもない。
(しかし人はこれらの性質に多くの妄想的見解を与えるものである)
究極的には一元存在である絶対者(神)(存在/存在そのもの)のみが存在しており、
その中に相対者(存在者)が存在している。
またこれが無限と有限の真意である。
つまり相対次元(世界)というものは有限であり、
無限の本質とは一つであるという意味に過ぎず、
人が考え、また数学や論理において表される無限は現実には存在し得ない。


258 ::2007/07/18(水) 02:27:15 0
時間次元(相対次元)に有る者は、
 涅槃(無余涅槃)に至る事によって死に至る(絶対者<絶対神>に帰命する)。
時間次元(相対次元)に無い者は、
 涅槃(無余涅槃)に至る事によって絶対者(神界)に至る(絶対者<絶対神>に回帰する)。

無時間次元(絶対次元に)に無い者は、
 涅槃(無余涅槃)によって至る事によって死に至る(絶対者<絶対神>に帰命する)。
無時間次元(絶対次元に)に有る者は、
 涅槃(無余涅槃)によって至る事によって絶対者(神界)に至る(絶対者<絶対神>に回帰する)。 

259 ::2007/07/18(水) 02:32:17 0
そして釈迦は確かに無余涅槃に到達したが、
上記の問題に阻まれて、真の意味での無余涅槃に至る事ができなかった。
まぁいわば、仏典で説かれている修行によって至るであろう境地というものがあるが、
これを仏、魔王、転輪聖王、梵天、帝釈天と定めている部分がある。
真の無余涅槃とは、此処で記されている梵天の境地を意味する。
正の性質そのものと言ったところであろうか。
人という形をとった存在が持ちうる、神性(真我/仏/神)と人性(自我/魔)という性質において、
その者の中で神性のみが支配する状態を指す。
また逆に人性のみが支配する状態も存在する、
恐らくこれが帝釈天の境地であろう。
これは負の性質そのものという事になる。
そしてこの二つの境地は至る者は、もはや人ではない。
またギリシャ神話にでてくるゼウスや、ムー王国の帝王ラ・ムーなどは、
この転輪聖王という事になる。
それと絶対神とは即、絶対次元を意味し、
一切の時間や運命というものの全ては此処によって確定しており全ては必然である。
時間が無いとはそういう事を意味する。
しかし人の次元では、全ては偶然の産物であると思うべきではないかと考えている。
何故なら絶対的な必然の中には、成るようにしか成らないという意味が含まれているからである。

これらの考えに対する批判を寄せて頂く事を願っている。

260 :龍宮:2007/07/22(日) 20:29:04 O
帝釈天

261 :考える名無しさん:2007/07/22(日) 21:15:58 0
>>259
ただの空想じゃね?

262 ::2007/07/23(月) 08:01:25 0
>>260
私が帝釈天だと何故わかったのでしょうか?

>>261
私自身、空想だと思いたいくらいですよ・・・・。

263 :考える名無しさん:2007/07/23(月) 10:56:53 0
>>262
うん、空想だと思ったほうがいいと思うよ。

264 :龍宮:2007/07/23(月) 12:26:44 O
菩薩、仏、如来、不動妙王、四天王、神の類はみんな性質だ。実際仏教でいうところの神仏はみんな紀元前の時代にいた神や人物をモデルにしている。それぞれには穏やかであったり荒々しかったり性質がある。人に当てはめれば誰が何になる運命かが決まっている

265 ::2007/07/24(火) 02:33:48 0
>>263
きっと明日あたりには、空想であった事を悟れるかもしれませんw。

>>264
そうです、貴方のご指摘の通りです。
私の識見としては、全ての神仏その他は性質であるという見方で
貴方の見解と完全に一致しています。
ただしあえて、神々という性質の中の最高善の性質を神として立て、
最高悪の性質を魔と立てています。
次に如来(知)や明王(力)や菩薩(心)というのを、
人の保有する根本的な3種の性質の比喩として立てています。
また四天王に関しては、その当時に存在していた4人のとある存在を
そのように位置づけられたのでしょう。
そして仏に関しては、実際に性質である事には変わりありませんが、
あえて仏というものに関しては、その者を世に確実に送り出す為に、
便宜上、仏という性質を有する者のみを、仏という存在者として扱う事にしています。

>実際仏教でいうところの神仏はみんな紀元前の時代にいた神や人物をモデルにしている。
私もそのように考えております。

266 ::2007/07/24(火) 02:34:36 0
>それぞれには穏やかであったり荒々しかったり性質がある。
そう、それによって、世界は完成していると言えます。
個体存在(相対者)とはどこまでも不完全なものです。
しかしそれは全体として見た時には、完成している。
善もあれば悪もある。そのように対立・矛盾を抱えている性質の全ては尊い。
不完全なる完全、未完成なる完成と言ったところでしょう。

>人に当てはめれば誰が何になる運命かが決まっている
そうですね、仏教では、人の次元、宇宙、相対次元を器世界として見てますね。
一生という時間の中で、その者(器)がどのような存在(性質)であるかは、
宗教家、学者、政治家、資産家、法律家・・・・などという形で規定できる。
そして絶対次元においては、誰が何になる運命かが絶対的に確定している。
存在者が為し且つ為し得る、全ての言動、全ての者の才能等、
全ての努力、全ての操作、全ての因縁から派生する結果、
全ての民衆の三業に対しての権力者の権力の介入、
これらがどういう形で顕れようが、全ては絶対必然であり、
それは全ての論理法則を超えており、全ての道徳・倫理を超えており、
全ての自然法則を超えており、全ての宇宙法則を超えており、
何者も、如何なる力も働きも、それに抗う事はできない。
この絶対必然の究極的性質は、時間次元を超えており、
全ての時は完全に確立している。
人はこの己や他者や世界に現れた運命、宿命、宿業を、
どう思い、どう考え、どう感じるかなどは自由であり、
そこにこそ真の意味での幸福が存在する。

まぁこのように私は認識しています。

それと貴方のレスは非常に興味深い、
今後もレスの継続を希望します。

267 ::2007/07/24(火) 03:00:13 0
まぁでも・・・心が、システム環境(物質、霊、世界)に対しての決定に、
大きな影響を与えている事を考えると、
実際、心の次元の全ても確定しているという事になりますね・・・。
絶対次元というものをシステムとして見た場合、
もっと言えば、機械的システムとして見た場合、
必然的に、哲学における人間機械論が、正しいという事を、
立証してしまう事になった訳です・・・・。
全てはあまりにもメカニックである、だからこそ完成であり完全なのでしょう。

それと個体が有する性質や世界が有する性質を、
種子という形で解釈しています。
方便品などでは、その個体の種子が花を咲かせた状態を、仏界の顕現としたり、
仏界の心が一瞬でも生起したりした場合を指して、
仏界とし、厳密には仏界を開く、としてますね。
まぁ仏界を継続して開き続ければ、少しずつ、
己の種子における有限性の上で、ある程度、善性が強化され、
境涯が高まり、それによって現実変革の力も養われ、
人生の上での自己実現の可能性も広がるというところでしょうね。

268 :考える名無しさん:2007/07/24(火) 13:58:55 0
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269 :考える名無しさん:2007/07/24(火) 14:09:22 0
ここは空港みたいにいろんな処から人が集まるな。

270 ::2007/07/26(木) 17:35:37 0
>>261 >>264
私の妄想ではない事を立証する為にあえてソースを提示する事にします。

さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、
それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない事を明かしている
(最高の仏である「如来」は「自性輪身」と呼ばれ、自性であるとされている)。
これによって、縁起によって全ての存在は無自性であり、
それによって「空」であると論証しているのである。
龍樹の「空」はこれから「無自性空」とも呼ばれる。

271 ::2007/07/26(木) 17:38:42 0
つまりこの最高の仏である如来というものが、絶対者である訳です。
また世の全ての教えは、所詮、方便に過ぎないので、
ストレートな表現、つまりは完全な意味での真実は全て隠蔽されます。
もう一つ言うと、この最高の仏である如来以外の、
その他全ての仏は、悉く相対者であり、無自性的存在者です。
(勿論キリスト教のイエス・キリストなども同じ事です。)
そしてこの最高の仏であるとされている絶対者(神)から、
預言を受けて、行動を起こしている訳です。
元より、救済を為すのは全ての神、もしくは神の意志によって、
為されるのであり、人が為す救済など、けっして真の意味での救済では
ありません。救済を為す時、人は、他者を裁く事になります。
従って、救済をする者は、世の主である、神もしくは、神に順ずる者(仏/救世主)で
なければならないという事です。
しかしこの絶対者という存在には大きな問題があります。
仏教の教えにあるように、梵天と帝釈天は、合わせて梵釈とされ、
それが表裏一体の関係にある事を意味しているのですが、
存在者である有的絶対者は、この相対的矛盾の上に、世に生を受ける事になるのです。
ちなみに、絶対次元に有る絶対者に関しては、無的絶対者と言われています。
絶対者に関しては哲学における形而上学や神学に詳しく記されてあります。
そして自意識というものに、実体が有るのは、この最高の仏のみであり、
その他全ての意識には実体が無く、仮に成立したものに過ぎず、
空であると言ったところでしょう。
あと真の成仏に関しては真言密教の住十心を参考にするとよいでしょう。
またkの真の成仏とは、上記に示した、最高の仏が至る境地という事になります。
それとこの話は、絶対に他言しないで頂きたい・・・・。


272 ::2007/07/26(木) 20:37:40 0
しかし、ソースを提示したはよいが・・・・、
これはウィキペディアに掲載されていたやつなんだけど、
正直、文章がなんか変だな・・・wwwww。
失敗した・・・かな。

273 :龍宮:2007/07/29(日) 13:33:28 O
唯心碍 すべてのものは我が身が写すもの(五蘊=五感)なりて世界は絵のようなものでる。すべてとは則ち自身であり世界が自分だということはすべてを写している意志こそ世界である。私がみるものはすべてに繋がっている

274 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 13:53:35 0
完全にいちゃってる

275 :縁覚:2007/07/29(日) 14:02:29 O
縁覚 縁覚とはすべてのものは繋がっていて離れていないということである。しかし内と内との繋がりは見えにくい。または繋がりが幾層にも重なって遠すぎる。内面と内面は別々である。考えていることは別々である。それでも繋がっている

276 :縁覚:2007/07/29(日) 14:07:45 O
だから考えているということはすべて事実とは別であってもそのまま世界に通じているのだ。私が誰かのことを思い浮かぶとは相手と通じていることに他ならない。縁とは私がその時その時に感じていることの反作用が相手にもあるということである。しかしそれは別々である。

277 :龍宮:2007/07/29(日) 14:10:14 O
反作用であるから相手が思っていることは私が思っていることに他ならない。相手が私を思うとき私が相手を同じように思うのである。しかしそれは繋がっているとは別に別世界のことであり事実とはいなかる。よって相手が私を思うことと相手が思うことは一致しない

278 :仏陀:2007/07/29(日) 14:24:34 O
しかし哀しむことはないのだ。アングリマーラよ。そなたが無知であるがために犯してきた罪も例え48億年の罪滅すといえども世界はその繋がりを絶とうとはしない。27劫もの人間との繋がりは消えることはないのだ。すべてはそなたの思う通りだ。その罪を背負っていくがいい

279 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 16:19:25 O
すべての答えは繋がりそれ自体が時間だということだ。死ぬまでの時間というものがすべての答えだ。だからそういった意味で今回はよかった。

280 ::2007/07/30(月) 04:30:31 0
>竜宮
非常に正しく深みのあるお言葉ですね。
勉強になります。
そして、このままこのスレを最後までもっていきましょうw

281 :考える名無しさん:2007/07/30(月) 06:39:13 0
>龍宮
失礼しました

282 :考える名無しさん:2007/07/30(月) 18:44:02 O
俺はいいぞ。上にいけ

283 :考える名無しさん:2007/07/30(月) 19:32:31 0
ほんと、坊さんの説法をタダで聞かせてもらってるみたい

284 :龍宮:2007/07/30(月) 21:06:00 O
到達しよう。

285 :光の軌道(龍宮):2007/07/31(火) 22:02:14 O
大円鏡智

286 :考える名無しさん:2007/08/05(日) 07:45:10 O
日本人が日本人を嫌っている因果がわからない。が、日本人がひとりを消してまとまろうとする罪は昔からかわらない。それでもしようとするか日本人。穢民め

287 :考える名無しさん:2007/08/05(日) 07:51:44 O
七百年余りの間何があったか知りたい。何があったのか直接俺は知らない。ただ何かがあったのは確かだ。日本人が下手に涙を流したり感動したり許しあったのはわかるが俺は良いとは思わんぞ

288 :考える名無しさん:2007/08/07(火) 15:20:55 0
>1
「据え膳食わぬは武士の恥」ってのと同じじゃないの?

289 :清左衛門残日録:2007/08/31(金) 23:02:02 O
最近手が痺れるしペンをよく落とす。ニルヴァーナに入りそう(-_ヾ)

290 :考える名無しさん:2007/08/31(金) 23:28:30 0
>>1
>すべての雑念から解放され、
>精神的な境地に到達する。

涅槃。ネハン、半分寝て。それを繰り返せば「寝半」
余計なことを考えている時点では寝ることは不可能だw
寝半ている状態では精神世界の中以外考えられないだろう。

ファイナルアンサー?

291 :考える名無しさん:2007/09/01(土) 09:01:00 O
仏真法身、猶若虚空、応物現形、如水中月(仏の真法身は、猶虚空のごとし。身に応じて形を現す。水中の月のごとし)

292 :考える名無しさん:2007/09/01(土) 12:32:20 0
>>291
コピペーでは何も解決しない

293 :龍宮:2007/09/02(日) 16:26:05 O
何故無理をしようとするのだ。無理をすることで何かが壊れているのだ。すべての物事は均衡のうえに成り立っている。均衡は流れだ。流れは変わる。均衡は崩れる。しかし均衡を意識が壊すことは混乱に繋がるのだ。それをよく考えるがいい。サティ

294 :考える名無しさん:2007/09/02(日) 18:08:40 0
>>293
>何故無理をしようとするのだ。
無理して発言しなくておk
>無理をすることで何かが壊れているのだ。
なにか壊れて、そんな発言をしているんですか?
>すべての物事は均衡のうえに成り立っている。
んなことはありえない。成り立っていない。
>均衡は流れだ。
それを信じるのは構わないが宗教でしょうか?
>流れは変わる。均衡は崩れる。
自分で何を言いたいのか整理してきたほうがよろしいでしょう。
>しかし均衡を意識が壊すことは混乱に繋がるのだ。
んなことはない。デタラメもいいとろだ。

295 :考える名無しさん:2007/09/02(日) 20:01:48 0
なぜそうなのか説明が抜けてますよ>>294

296 :説明など不要:2007/09/03(月) 16:00:07 0
>>295
説明が不要なことと必要なことは明らかに違う。


297 :考える名無しさん:2007/09/03(月) 18:37:59 0
宗教論争だったのさ。w>>295

298 :考える名無しさん:2007/09/05(水) 14:35:20 0
で、涅槃の域に達したやついるの?

299 :考える名無しさん:2007/09/05(水) 16:20:03 0
そういう人と話したいなら宗教板にいくとたくさん?いる

300 :興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/09/06(木) 20:58:31 0
六道からの消滅だと思います、大乗仏教の法身仏思想は概念的ですので思想としては面白いですが。
上座経典にあるように消滅が正しいと思います


301 :やみ:2007/10/01(月) 00:35:42 O
対話疲れた。眠いわ

302 :考える名無しさん:2007/10/02(火) 07:19:18 0

涅槃と死と何処が違うか。生老病死からどちらも解放
 される。誰にでも死は公平に訪れます。仏教徒であろう
 となかろうとーーーー。

303 :興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/10/02(火) 17:56:04 O
>>302
涅槃に入った者は二度と生まれ変わらない。
佛教は死後は49日で生まれ変わると考える。

304 :千の風さん:2007/10/10(水) 03:40:16 0
六道輪廻 : 天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界__これを生の営み
日々のこころ模様と考えられやしないか。


305 :考える名無しさん:2007/10/10(水) 10:16:56 0
地球上に核爆弾100発ぐらい落とせば,
みんな涅槃にいけるぉ

306 :ルイ・太川陽介さん:2007/10/25(木) 10:50:19 0
・・・涅槃寂静 ・・・やすらぎ
おパンツはいたエテコーが、この境地を得るには
事実上、死と同義語ってところが
わたしもエテコーの一匹として・・・涙

307 :興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/10/30(火) 23:27:47 0
>>306
死=即生でありましょうや。

308 :考える名無しさん:2007/11/07(水) 01:34:39 0
釈迦は、何を説いて廻ったか???

309 :考える名無しさん:2007/11/07(水) 02:17:56 0
白取春彦『仏教「超」入門』PHP文庫
白取春彦『はじめて知る仏教』講談社+a新書
副島正光『釈迦』清水書院
中村元・田辺祥二『ブッダの人と思想』NHKブックス
中村元・三枝充悳『バウッダ―仏教』小学館
田上太秀『仏陀のいいたかったこと』講談社学術文庫
田上太秀『ブッダの人生哲学』講談社選書メチエ
定方晟『空と無我』講談社現代新書
石飛直子『ブッダ論理学五つの難問』講談社選書メチエ
石飛直子『ブッダと龍樹の論理学−縁起と中道』サンガ
宮元啓一『ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ』春秋社

↑とりあえずここら辺から読んどきゃ良いんじゃないの。
宗教としてじゃなく、あくまでも哲学・思想として仏教を考えるならね。
変に神格化・神秘化されたブッダ像に基づく仏教書、輪廻や極楽浄土、霊魂の存在などを真に受けた仏教書なんて
哲学・思想的には考察に値しないだろうし。

310 :考える名無しさん:2007/11/07(水) 03:11:43 0
>>309

> 輪廻や極楽浄土、霊魂の存在などを真に受けた仏教書なんて
> 哲学・思想的には考察に値しないだろうし。

宮元啓一氏は輪廻説肯定派なのでは?

311 :考える名無しさん:2007/11/07(水) 16:26:21 0
>>310
宮元の輪廻肯定は「倫理的要請として輪廻が仮定されざるを得ない」という立場
(輪廻を否定すれば因果論も否定され、仏教が単なる相対主義・虚無主義になってしまう故)。

したがって、実際に輪廻という現象が実在するか否かを問題にしているわけではない。

312 :考える名無しさん:2007/11/09(金) 00:34:34 0
仏教=ニヒリズムに陥っちゃうのは
生命科学を知るなさすぎでつよね。

313 :考える名無しさん:2007/11/09(金) 01:44:04 0
丸山圭三郎の思想は仏教に通ずるものがあると思う
丸山自身もたびたび仏教思想に言及している

314 :興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/11/10(土) 11:54:12 O
>>309

霊魂については否定するが、輪廻については佛教の土台として必要だと思う。

315 :考える名無しさん:2007/11/10(土) 23:28:32 0
ふぷい(^^)

316 :龍宮:2007/11/11(日) 15:10:31 O
つゆとをち つゆと消えにし我が身かな 関白もこの世の夢か。それでも本当は命は続いていくんだけどね。命が途絶えてしまうのはこの世の果てについたからだ。俺の命も続けていくのだろうか・・・

317 :考える名無しさん:2007/11/11(日) 15:22:36 0
「814」 「副島隆彦という生き方」というタイトルのインタヴュー記事を、載せます。 
最近の私の考えが分かりやすく表明されています。副島隆彦 2006.12.15
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#1501

スッタニパータと、法句経(ダンマパダ)という一番古いお経がある。どうやら仏陀本人の本当の
言葉はこの二つだけのようですね。その他のいろんな膨大なお経は、全部仏陀が亡くなった後に、
弟子たちが勝手に作ったものだ。僧侶が葬式をやったり、お盆にお経をとなえたり死者を祀ったりは、
仏陀は一言も言ってない。ブッダは死に関わるな、と言っている。勝手に後の人たちが作った制度だ。
仏陀自身の言葉は、「愛欲と煩悩を捨てて、この世とあの世のすべてを捨てて、ただ一人歩め。ヘビの
皮が新しく抜け変わるように。サイの角がひとつ進むように。」と書いてあります。
奈良の興福寺、東大寺は法相宗(ほっそうしゅう)という仏教で、中国までやって来た仏教のうちでは
一番古い仏教を伝えている。それは輪廻転生(りんねてんせい)を認めないんです。
来世はない。あの世もない。「この世とあの世をともに超える」とスッタニパータ(「ブッダのことば」 
岩波文庫 中村元訳、1984年初版) で仏陀は言っています。だから輪廻転生(りんねてんしょう)
もないのです。そこで私はブッダに従うならば、ゼロ、全くないと思います。「今」という現実は有るの
だけれど、それは仮のすがたであって、すべてなくなるんだ、と。輪廻転生は、仏陀が若い頃、厳しい修行
をしたヒンドゥ教の思想なのです。ヒンドゥ教 ( Hindu 、ヒンズー教、インド教)には輪廻転生が強烈
になる。六道輪廻ですね。生命は生まれ変わる。ですから、不思議な話ですが、本当の仏教(ブッダの教え)
は、徹底的に、無神論(むしんろん、atheismエイシイズム)なんです。


318 :考える名無しさん:2007/11/11(日) 15:23:21 0
[315] 今朝、会員の宇根君から来た学問研究メールは、すばらしいので、早速ここに載せます。
投稿者:副島隆彦 投稿日:2006/08/24(Thu) 18:28:37
http://snsi-j.jp/boards/sample1/89.html

自分勝手な思い込みではなく、なるべく、世界水準(world values ワールド・ヴァリューズ、世界普遍価値)に
合致するように、日本語の各基本語(words ワード)の中の、真理、信仰、哲学(フロソフィー、知恵への愛=
愛知という訳語を私、副島隆彦は以後は使おうと思います)などを使いながら、徹底的に、これを分かり易く
してもようと思います。
仏陀(ゴータマ)の本当の言葉であり、 「真理の言葉 」である、法句経(ほっくきょう)の言葉の中村元
(なかむらはじめ)の日本語を使いながら、日本まで伝来した大乗仏教が、本物の仏教(上座部仏教=簡単に
言えば、小乗)からどれぐらい逸脱したものであるかも、も正面から考えます。
法相宗(ほっそうしゅう)こそが 大乗の中にあっても、本物の仏教であり、輪廻転生(サンサーラ、業、
ごう、カルマ、ヒンズー=インド教の思想)を否定して、竜樹(ナーガールジュナ)が再構築した「空」の
真理を、伝える宗派であることも書かねばなりません。日本では、三島由紀夫と、小室直樹が、この
ことを論究しました。
スピノザとヴィトゲンシュタインというユダヤ人が、どのように、キリスト教(人間への愛の思想、
グレイス、アガペー)を、理性(リーズン)と、合理(ラチオ)というユダヤ思想のすごさで、
切り裂いたか、を、今こそ、日本人としてはっきりさせなければいけません。 
おそらく、この上野修(うえのおさむ)というスピノザ研究の学者は、相当な水準まで来ている
はずです。しかし、私が解明した、リーズン(理性) とラチオ(合理)の到達点まで来ている
かは、吟味しなければいけません。
宮元啓一(みやもとけいいち)と石飛道子(いしとびみちこ)という仏教研究学者も、君が正確に
読み破ったのだから、きっと優れた到達度を示していると思います。私も時間を見つけて、読んでみます。


319 :考える名無しさん:2007/11/11(日) 15:25:53 0
はじめまして、会員の宇根康裕です。27歳で京都で技術開発をしている会社員です。今回メールする
目的は、最近道場で話題になっている宗教に関して、最近読んだ「スピノザ」 (上野修著NHK出版)
をヒントに、私が考えたことをとを書くためです。

いきなりですが、結論は
キリスト教は、キリストを信じる「信仰」であり、スピノザ、ウィトゲンシュタインは、真理を証明
する「哲学」である。初期仏教は真理を理解する「哲学」であり、各種大乗仏教は、「信仰」の
あつまりであり “仏教”ではない。老荘思想は、儒教と対立していて、道教は、道を信じる「信仰」
で、間違った政治(間違った儒教)に対抗している。
以下のブッダに関する記述は、主に宮元啓一氏と石飛道子氏の本を読み、私が理解したことである。
ブッダは12因縁を順逆に観じ、悟りを得た。ブッダが発見したのは、 西洋にはない、因果の論理学
であり、ブッダはその論理学を用いて、ついに真理を“発見”した。これまでの ヒンズー教は、
信仰であったが、信仰とは別の世界、真理の世界に入った。
仏教は真理を発見する哲学であり、信仰ではなく、必死で考えなければならなかった。考えて、
考えて、考え抜いた先に、真理を見ることができるのであって、信仰をいくらやっても、真理
には到達しえない。
輪廻の輪から抜け出すということは、当時の信仰の輪(ヒンズー教)から抜け出すということ
である。ブッダは信仰から抜け出して、真理の世界へ行った。


320 :考える名無しさん:2007/11/11(日) 15:26:52 0
勘違いしてはならないのは、ブッダは輪廻を前提として、その輪廻から抜けたのではなく、輪廻など
考え無くて良しというところにいったのだ。輪廻は真理でないと悟ったのである。
また、ブッダは、信仰を捨てて真理の道へいくことが、自らの体験で難しいとわかっているから、
信仰をすてるための修行をさせている。しかし、民衆は修行に耐えれなくなった。そこで、民衆は
真理ではなく、信仰を求めるようになった。
これが大乗仏教である。空なんだと思え、あるいは、唱えろ、極楽を信じろ、という信仰だと考える。
大乗仏教は信仰であるがゆえ、よいと思った信仰はどんどん取り入れられる。こうして、大乗仏教は、
どんどん派生していったのだろう。大乗仏教は信仰である以上、本当の仏教(哲学)ではない。袴谷
(はかまや)氏の批判仏教からは、ハッキリみてとることができなかったが、私は初期仏教と後の
仏教は、真理(哲学)か信仰(宗教)か、の違いだと考える。
以上から、初期仏教と大乗仏教は、まとめられないことは明らかである。
宮元啓一氏と石飛道子氏の本は、ブッダの論理学の核心、大乗仏教の核心(=般若心経の核心)に
最速で迫る書物である。


321 :考える名無しさん:2007/11/11(日) 16:10:23 0
>>317-318
副島にしては珍しくマトモな文章だなw

322 :考える名無しさん:2007/11/11(日) 16:31:06 O
宗教の成立の根拠に、
非現実的存在、我を媒介にして結局、非現実的かつ非存在的な無、これが神と呼ばれるものなので、
則ち無神とも呼ぶべきものにたどり着く哲学的生活があるんでしょうね。
その到達した状況を哲学的に表現すればまさに無神論になります。
この状況に至る道は過酷にすぎ、そこに止まることは苦こそ免れるとはいえその無神と対峙し続けるということなので非常に恐ろしいことでしょう。
現実こそ本当の救いになっているという認識をした哲学者は反哲学的生活を無神にほぼ強いられ、
他人にも反哲学的生活を薦める宗教を編み出したりするわけです。

323 :愛燦燦さん:2007/11/11(日) 18:06:51 0
人間ってえええ
か弱いもの
ですねぇ〜♪

324 :考える名無しさん:2007/11/16(金) 16:36:49 0

802 :考える名無しさん :2007/11/16(金) 03:08:58 0
長老は「本物のアビダンマのテキスト」について「仏説ではないだろうという感じはあります」といわれています。
龍樹の批判対象は「本物のアビダンマのテキスト」だろうとおもいます。
わたしは『アビダンマッタサンガハ』は見ていませんので評価できません。

「初期仏教でもテーラワーダ仏教でも部派仏教でも、「現象には自分の特色がある」と言います。
 大乗仏教は「そんな特色はない、全ては空だ」と一生懸命批判しています。
 どちらが正しいか、ちょっと考えればすぐに分かります。」
と長老はいわれています。
たしかに、長老がおっしゃるような大乗仏教があるとすれば、そんなものが正しくないことは考えればすぐに分かります。
しかし、少なくとも、龍樹やチギの大乗仏教がそのようなものではないことは、
龍樹やチギの書いたものを読みさえすればすぐに分かります。
たとえば、チギの
「三諦説とは、実相にきりつめてみると、存在するものの一切は自性を有していない(空)けれども、
 それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名字を有しており(仮)、
 しかも空であることと仮であることとが一なる存在において統一されている(中)がゆえに、
 即空即仮即中として表示されうることを明かす教説」[*1]です。

325 :考える名無しさん:2007/11/16(金) 16:37:32 0

803 :考える名無しさん :2007/11/16(金) 03:09:59 0

「初期仏教では「現象の中に実体はない。全ては変化するから
 『これ』と掴まえられるものはない」と言い、それをsunnata〔中略〕と言う」
という長老のご理解は正しいとおもいます。
ところが、「本物のアビダンマのテキスト」では「現象の中に実体はある」といっています[*2]。
龍樹は、この「現象の中に実体はある」という考えを論理的に批判しています。
この龍樹の批判を「言葉の遊びだけ」といわれているのだとすると、
長老にとっては「論理的な批判」も「言葉の遊び」ということになるのでしょう。
こうなりますと、わたしとしても「では頑張って下さい」と言うしかありません。
わたしが長老のお考えを論理的に批判したところで、それは「言葉の遊び」ということになるだけでしょうから。

[*1] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
   http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

[*2] 佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
   http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html


804 :考える名無しさん :2007/11/16(金) 03:17:44 0
長老って、スマナサーラのことか?w
テーラワーダ仏教なんて、あんなもん実質カルト集団なんだから
まともに取り合う必要ねーよwwww

326 :考える名無しさん:2007/11/16(金) 19:10:09 0

1.副島隆彦信者の一人が副島のホームページの掲示板でブッダの輪廻説を否定

2.副島もそれに賛同、その信者が紹介した宮元啓一と石飛道子という仏教学者の本を「素晴らしそうだ、自分も読んでみる」と発言

3.だがその宮元や石飛が関わっているテーラワーダ仏教は輪廻説肯定派の宗派である(!)

4.あ…あれ?^^;

327 :考える名無しさん:2007/11/16(金) 19:28:45 0
間違ってるかもしれんが、ここを見るといいかも。

「宮元啓一氏と石飛道子氏の本は、ブッダの論理学の核心、
大乗仏教の核心(=般若心経の核心)に 最速で迫る書物である。」
「大乗仏教は信仰である以上、本当の仏教(哲学)ではない。」


宮元啓一氏と石飛道子氏の本を読んで大乗仏教の最高理解を学んだことで、
大乗仏教は本当の仏教じゃないということが分かったということじゃないか?

328 :考える名無しさん:2007/11/16(金) 21:33:53 0
>>327
その副島信者の人がどういうつもりでそう書いたのかは分からんが、
少なくとも宮元は大乗仏教を否定して初期仏教の立場に立ってるはずだし、
石飛にしても大乗仏教(中観)の立場からではあれ、
これまでの龍樹論を否定して論理学的な側面から新たに中観仏教を解釈し直しており、
結果的に宮元の仏教観に近いものとなっている。

そして何よりテーラワーダ仏教自体が、
大乗仏教を「ブッダの教えをねじ曲げた似非仏教」として糾弾しており、
輪廻など存在しないという大乗・中観的な仏教観を否定して
「輪廻は存在するし、ブッダも輪廻とそこからの解脱を説いていた」
という立場に立っている。

注意すべきは、信仰であるがゆえに本当の仏教(思想・哲学)ではないはずの
大乗仏教においてこそむしろ輪廻が否定される傾向にあり、
本当の仏教は哲学・思想だとする立場をとっているはずの宮元や石飛、
そしてその二人がシンパシーを感じているらしいテーラワーダ仏教においてこそ
むしろ輪廻が肯定されているという事実だろうな。

信仰、神秘主義的な大乗的仏教理解を否定し、
思想・哲学として、論理的な側面から仏教を考える立場においてこそ
輪廻が肯定されているという矛盾的な事実。
俺はべつに仏教に詳しいわけじゃないので詳細な事情は分からんが、
たしかにこれは不可解ではあるわな。

329 :考える名無しさん:2007/11/17(土) 01:53:08 0
スマナサーラ著「仏教は心の科学」はニセ科学w仏教への冒涜w
http://anond.hatelabo.jp/20070430010759#tb

やっぱりトンデモでしたwwwwポモと同類wwww
そしてこんな本を書く人物が統括するテーラワーダ仏教とやらを支持した副島も
やはりポモと同類のトンデモということが確定しましたwwww

330 :考える名無しさん:2007/11/17(土) 12:10:22 0
おいおい。
副島を批判するならちゃんと文章を読んでから非難しろよ。
副島自体はテーラワーダ仏教など調べた事もないし、話題に出た事もない。

副島の弟子が副島の仏陀論に触発されて自分で仏教を調べて、宮元啓一氏と
石飛道子氏にいきついただけだ。それで読んで見るかとなっただけだ。

副島が影響を受けたのは中村元(なかむらはじめ)が訳した、「スッタニパータ」
(ブッダのことば、岩波文庫、1984年)だけだ。

331 :考える名無しさん:2007/11/17(土) 12:23:10 0
[488] 私は、インド、ネパールの旅から帰ってきました。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/03/08(Thu) 19:37:46

横山全雄(よこやまぜんのう)老師へ
2007年3月8日

やはり、日本では中村元(なかむらはじめ)が訳した、「スッタニパータ」(ブッダのことば、岩波文庫、1984年)と
「ダンマパーダ」(真理のことば、その一部が法句経、岩波文庫、1978年)だげが、ブッダ本人の言葉でしょう。
私は、中村元が、東大を定年退官してから、本当に自由になって、「お釈迦様の本当の言葉、教えは、これだけなんだ」と、
激しい真実暴露をやったことの凄(すご)さを、今更ながらに思います。
私は、あのころ学生で、友人の東大生に、「久我山(くがやま)に、中村先生が住んでいるから、遊びに行かないか」と
誘われたことがあるのです。そのころ、私は、その東急井の頭(いのかしら)線の久我山のアパートに住んでいたのです。
故・中村元に会いにいっていればよかった。あの頃、中村元が与えた日本の仏教界の各宗のインテリ理論家たちに与えた
衝撃は、ものすごく大きかったのだと思います。

(引用貼り付け終わり)



332 :考える名無しさん:2007/11/17(土) 12:49:51 0
僧侶の河口慧海(かわぐちえかい)が、1898年(明治30年)からインドに入って、のちに、
(「西蔵旅行記」(あるいは「チベット三年記」)を書いたその足跡も私もネパールまで、
行ってみて、カトマンドゥーからポカラまで飛んで、「彼は、こんな道を歩いて、ヒマラヤを
越えて、チベットまではいっていったのか」 と実感で分かりました。

 彼ら、明治になってからの、日本の高僧たちは、本物は、すべて日本のウソ仏教への、
激しい疑念の気持ちを持って、そして、大乗仏教(だいじょうぶっきょう、Mahayana 
マハヤーナ)という大嘘を、暴くために、それで、死ぬ気で、本場の発祥の地のインドに入っていったのだと、
よく分かりました。その「大きな真実の暴き」の気迫が、他のなにものにも代えがたく何よりも大事
なのだと私にはいよいよ分かりました。

 ゴータマ・ブッダその人の思想は、日本の小思想家である、小林秀雄が言った「無私(むし)」 とか、
漱石の「則天去私(そくてんきょし) 」などではなくて、 無我(むが) そのものである。 
日本でだけはやった、「道心」(、どうしんみちを究める)などではない。
諸行無常の「無常」(つねなるものはない)などではなない。 無常観など、ブッダの教えと無関係だ。
 ただひたすら 無我(むが、おのれの存在の否定)そのものだ。縁起(えんぎ)などでもない。 
四諦(したい)まではいいけど、八正道(はっしょうどう)も怪しい。

 ナーガルジュナ(竜樹)の、唯識(唯識)や阿頼耶識(あらやしき)などの中観(ちゅうがん)
ですらない。それらも、ブッダ本人は言っていない。チベット仏教で発生した、マントラ(密教、
=真言しんごん、加持祈祷 )の類も、一切、ブッダ本人とは、関係ない。



333 :考える名無しさん:2007/11/17(土) 13:03:15 0
[488] 私は、インド、ネパールの旅から帰ってきました。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/03/08(Thu) 19:37:46

この世の一切を、根底から批判しつくそうという、私の気迫を、横山老師なら、分かってくださるでしょう。 
私が、これまでに、冗談で、あれこれの真実暴露の、恐ろしい本 を冗談で書いてきたなどど、思っている
ような連中は、全部、激しい、やけどを負わせてやろうと思います。 私の頭脳と思想が、そこらの生来の
軽度のキチガイたち程度に、負けるわけがないのです。


334 :考える名無しさん:2007/11/17(土) 13:03:56 0
僧侶の河口慧海(かわぐちえかい)が、1898年(明治30年)からインドに入って、のちに、(「西蔵旅行記」
(あるいは「チベット三年記」)を書いたその足跡も私もネパールまで、行ってみて、カトマンドゥーからポカラ
まで飛んで、「彼は、こんな道を歩いて、ヒマラヤを越えて、チベットまではいっていったのか」 と実感で
分かりました。
彼ら、明治になってからの、日本の高僧たちは、本物は、すべて日本のウソ仏教への、激しい疑念の気持ちを
持って、そして、大乗仏教(だいじょうぶっきょう、Mahayana マハヤーナ)という大嘘を、暴く
ために、それで、死ぬ気で、本場の発祥の地のインドに入っていったのだと、よく分かりました。その
「大きな真実の暴き」の気迫が、他のなにものにも代えがたく何よりも大事なのだと私にはいよいよ
分かりました。
ゴータマ・ブッダその人の思想は、日本の小思想家である、小林秀雄が言った「無私(むし)」 とか、
漱石の「則天去私(そくてんきょし)」などではなくて、 無我(むが) そのものである。 日本で
だけはやった、「道心」(、どうしんみちを究める)などではない。
諸行無常の「無常」(つねなるものはない)などではなない。 無常観など、ブッダの教えと無関係だ。 
ただひたすら 無我(むが、おのれの存在の否定)そのものだ。縁起(えんぎ)などでもない。 
四諦(したい)まではいいけど、八正道(はっしょうどう)も怪しい。
ナーガルジュナ(竜樹)の、唯識(唯識)や阿頼耶識(あらやしき)などの中観(ちゅうがん)
ですらない。それらも、ブッダ本人は言っていない。チベット仏教で発生した、マントラ(密教、
=真言しんごん、加持祈祷 )の類も、一切、ブッダ本人とは、関係ない。


335 :考える名無しさん:2007/11/17(土) 13:05:54 0
遠藤周作(「深い河」という作品がある)や、高橋和己(たかはしかずみ、「西方浄土論」のようなもの)や、
三島由紀夫(「暁の寺」のなかの竜樹=ナーガルジュナ=論 ) の聖地ベナレス(バラナシー)への言及にも、
私は、今では、大いに異論があります。現地まで行ってみて、私に分かったことがいろいろあります。私は
それらをおいお