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ヘーゲル 『精神現象学』を読む

382 :考える名無しさん:2008/06/24(火) 10:59:41 0
>>381
おまえこそなんだよ。スレを汚すな

383 :考える名無しさん:2008/07/22(火) 17:39:14 O
どの訳も難し過ぎる。

384 :考える名無しさん:2008/08/03(日) 23:12:29 0
いや、原文の方が難しい。

そのうえ、各訳や注釈を参照して、苦労して真意に達しても、実のところは、たいしたことは言ってない。

385 :考える名無しさん:2008/08/03(日) 23:31:10 0
>>384
お前には竹田本がお似合いだよ

386 :考える名無しさん:2008/08/03(日) 23:32:43 O
おっ読めると思ったのも束の間、原文挫折しますた。
独訳ソフィーの世界でも読んできます。
身の程知らずですみませんですた。


387 :考える名無しさん:2008/08/03(日) 23:47:14 O
人はね、挫折を通して大きくなるんだよ。
挫折ぐらいで挫けちゃいけないな。

388 :考える名無しさん:2008/08/04(月) 01:04:34 O
邦訳やら英訳を参照しながら読めばいいんだろうけど、
飛躍を遂げるには、時には無茶が必要だというも気もするけどな。
ステップバイステップだと、いつまでたっても壁を越えられない気がするわな。
粘着してれば突如自ずとわかってくるという突然変異が起こることもあるからな。
それがないと、レベルが上がらないと思うね。
ステップバイステップだと、いわば水は広がっていくだけだが、
糞勉強によると水滴が岩に穴を穿つ如くに深みが出てくるんじゃないかと思う。
とすればどちらも必要だわな。
不合理なのと合理的なるもの双方が。
ドイツ語の糞勉強の教材として精神現象学は適してると思うね。
西洋哲学の最高峰だしな。 糞勉強する甲斐もあるだろう。


389 :考える名無しさん:2008/08/04(月) 23:01:08 0
>実のところは、たいしたことは言ってない。

控えめに同意。

読んでみるまではひじょうに期待していた。
しかし、読んだ今では、たとえば『純粋理性批判』のような本物
の哲学書と同列に語られること自体がどうしても信じがたいのだ。
そもそもあんなものでも一応「哲学」とはいえるのだろうか?


390 :考える名無しさん:2008/08/04(月) 23:11:12 0
>>389
君が何をもって「本物」とするかは俺の推測の域を出ないが、おそらく、
ヘーゲル大小論理学の「純理批判」は本当に「純理」に匹敵する本物。
一読希望。


391 :考える名無しさん:2008/09/10(水) 10:04:37 0
ほー

392 :marginal:2008/09/10(水) 17:12:25 0
このブログは『精神現象学』の読解にとても参考になると思います。
日々の泡 L'Ecume des jours
http://blogs.yahoo.co.jp/anamnesis1964/12345887.html

393 :考える名無しさん:2008/09/11(木) 02:38:01 0
おおっ!

394 :考える名無しさん:2008/09/15(月) 15:51:05 0
>>392
こいつぁめずらしいな、マージナルじゃん。
で、どうよそっちの進捗情況は?

395 :考える名無しさん:2008/09/15(月) 17:06:58 0
竹田の完全読解ヘーゲル「精神現象学」はどうだ。

396 :考える名無しさん:2008/09/15(月) 17:10:58 0
竹田w

397 :marginal:2008/09/15(月) 19:45:26 0
>>394
ブログの最後のエントリからヘーゲルの本を開いてません。ちょっと愚痴めいた
事を書くと、自分の頭の悪さが嫌になったのとモチベーションの低下です。自分の
問題ですね。

398 :考える名無しさん:2008/09/15(月) 20:17:43 0
>>397
ほんとうにお珍しいですね、marginalさん。
なーに、モチベーションの低下なんか一時的なものですよ。
あのヘーゲリアンでマルキストのOFW氏が言ってましたね、
正確にはおぼえてませんが、「スルメをしゃぶるようにじっくりと」
とかなんとか。
要はマイペースですよ。
もっとも、OFW氏のことばは『小論理学』に関してですがね。

399 :考える名無しさん:2008/09/15(月) 20:38:02 0
精神現象学と、エンチクロペディーの精神哲学なら、
どっちを優先的に読むべきかな?

400 :marginal:2008/09/15(月) 20:47:37 0
>>399
自分の問題意識によって優先度は変わると思いますけど、
読みやすさでいうと精神哲学なので、ヘーゲルの文章に
まったく慣れてないなら精神哲学でいいんじゃないですか?

読みたいと思ってまだ読んでないデリダによるヘーゲルの
記号論にも接続できますし(確か『哲学の余白』)。
興味があれば。ヘーゲルの生の思考を味わいたいなら現象学。

401 :marginal:2008/09/15(月) 20:50:53 0
>>398
ありがとうございます。

もう少し言うと、ヘーゲルによって何を考えるか、という問題が
自分にとって結構深刻になってきていて、初めはただヘーゲルを面白
がってただけなんですけどね。

402 :考える名無しさん:2008/09/15(月) 21:34:05 O
>>400
thx
精神哲学→精神現象学の順で読んでみるよ。

403 :考える名無しさん:2008/09/15(月) 22:31:27 0
そんなに真剣になるんだね。
ヘーゲルって人を深刻にさせるのでしょうかね?
もしよければその深刻さを披露してくれません。


404 :marginal:2008/09/15(月) 23:45:04 0
>>403
ただの揶揄ではないと期待して書きます。思いつくまま恥ずかしげなく書きます。まずヘーゲルが深刻に
させるというよりは自分の能力の問題だと思ってます。一言で言うと、自分の悩みや現状の閉塞感とどう
関連付けて考えたらよいか分からないということです。能力がないのにヘーゲルにしがみついてるという
ことです。ヘーゲルを捨てたら他はヘーゲルよりは知らないし。哲学捨てたら人生にやることがない。
他を勉強しようにもあのときの情熱がない。情熱がないのに哲学しかない。初めは大学の面白い講義が
きっかけで現象学を読み始めたのですが、自分の問題意識は特になく、謎めいたテクストとして楽しん
でたのですが、それなりに理解してくると、現代におけるヘーゲルの可能性や不可能性が気になってくる。まあ「こんなの読んで何になるの?」というよく言われることです。だけど
ご存知のように現代におけるヘーゲルの影響は大で、その種子はマルクスやフランス現代思想(最近は
分哲でも?)で肯定するにせよ否定するにせよさまざまに花開いており、それらを研究することは価値が
あるはず。でもそれならヘーゲルは程ほどにしてそういう人たちを読んだほうがいいんじゃないのという
こともある。より洗練されてるだろうし。

405 :marginal:2008/09/15(月) 23:46:27 0
それからヘーゲルの岩盤のようでかつ文化的・地理的・時間的に距離のある文章や内容を、適切な哲学的
素養・能力・関心や指導なしに理解しようとすると、どうしても強力なヘーゲルの重力が底にある想像的
な渦に巻き込まれて、何がなんだか分からなくなる。だけど知りたい。現象学は文学的に読めるように見
えて哲学史の基礎が必要だというのがみそで、哲学書なんで当たり前ですが、最近つとに感じるように
なってきた。ひとつはカントの重みはやっぱりでかいなあと。いったんヘーゲルやめて他のを読めば
いいんじゃないの、ということでいろいろつまみ食いをした。カントは挫折中。同じようになんだか
分からない。ハイデガーは少ししか読んでませんけどそんな感じはまだない。不思議だ。直感ですけど、
自分に数学的能力がないのが原因かなあなんて思ったりします。資質なんでしょうが自分は文学的に
哲学を読もうとしてたのが悪いのかも。これからキルケゴールを読もうかなあなんて思ってます。
昔「不安の概念」を読んで面白かった記憶があるし。ただヘーゲルも完全にあきらめたわけではないので
ブログは一応閉鎖しないつもりです。それからあんまり言いたくないですけど、生活上のごたごたが
きついっていうのが一番かも。集中できない。哲学をきっぱり捨て去るのもひとつの手だけども、あの
ときどきうまくいくと訪れる「フィロソフィカル・ハイ」は病み付きになる。あ、あと「精神的な動物の
国」でしたっけ? あそこはいずれ読んでみたい。コジェーヴ、アガンベン、東の文脈に繋がるかもという
淡い期待がある。こんな感じです。

406 :考える名無しさん:2008/09/16(火) 11:00:47 0
詳細な説明ですね。
ヘーゲルが好きで、それを読解する事が貴方の喜びであった。
しかし、ヘーゲルだけでは広がらない。そこで、他の分野へ興味がある。
あるいは、当為として自身強制される。
一方、社会的?家庭的?な問題もあって、いっそ哲学を捨てようかとも
考えている。
つまり、失礼かもしれませんが、人生=選択に迷っている。
こう言う事でしょうか?
確かに、哲学を極めようとすれば、かなり自己犠牲が必要です。
時間も必要ですし、その割には、喜びが少ない。(交流の場所が少ないからでしょうか)
本来、思考は迷いだと思います。つまり、ある事をしてるときは
考えていません。ところが、「待てよ」といった、切断によって、
思考が開始します。ですから、人間は過剰に迷う動物だと言えますよね。
しかし、私もアドアイスができるわけではありませんが、
貴方にとって、哲学するとはどう言う事か再度自分んで箇条書きに
してはどうでしょうか。この場合、哲学をする事のメリットとディメリット
を併記して、哲学を続ける方がいか止めるべきか、決定してはどうでしょうか?
そう言う私も哲学が趣味ですので、たくさん本を読みます。
ヘーゲルではありませんが(笑)
確かに、同レヴェルで交流出来る人は皆無です。(笑)
それでも、インターネットであちらこちらに書き込みをし、反応を持ちます。
本来は、あなたもきっと、哲学で語れる=感動し合える友を探している
のかも知れませんよ。でも、あまり異なる哲学ならば話しあえないかも(笑)
ちなみに、私はポスト構造主義の方をやっていますよ。

407 :考える名無しさん:2008/09/16(火) 18:34:07 0
哲学を真剣にやるには、向き不向きがあって、日常性がしっかりした人
でないと、精神的に危ないと言う気がする。
隣の○○君はどうだとか、コンビニの女の子が奇麗で、好みだとか
パチンコで儲かったとか、ぽにょは可愛いとか、会社の上司はヒデー野郎
だとか、母さんがうるさいとか、こう言う日常(ハイデガーでは頽落というかな)
にしっかり興味を持っている人間こそ、哲学に向いているんだと思うんだね。
逆に、日常が希薄だと、思考の局地である、哲学に依存して世界=日常が
ある様になり、哲学の真理を敷衍して日常に持ち込むと、人間関係が
上手くいかないし、その事で余計に悩む事になる。(ひどい時はノイローゼ)
真理は哲学なのか日常なのか分からなくなる。
哲学は遊びだと言う事を前提にした方が良い。カントは決まった時間に散歩をする
日常を真理によって生きるような厳粛な人だっ様だが、ヘーゲルもそうかも知れな
いが、ポストモダンの今では、遊びとして哲学はやるものでしょうね。
テレビ漫画・アニメ・歌を聴きながら、あるいは歌いながら哲学する
そんな感じでどうでしょう。疲れたらスタバできれいな女の子の鑑賞とか(笑)
こんな感じの方が高度な哲学は理解されるのでしょうね。
まあ、気楽に楽しく哲学よ!て事でしょう。
私に出来るアドヴァイスはこの辺かな。

408 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/09/16(火) 19:42:14 0
やあ、marginalってのはポールの自演コテですよ。

409 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/09/16(火) 19:46:24 0
しかし、相変わらず、ポールは理解していない癖に
格好を付けたがる。

悪い癖です。

410 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/09/16(火) 19:48:39 0
どうも、このsageで書いているポールの自演コテと思われるmarginalと、
ageて書いている名無しはセットでポールの自演の様に思われる。

ヘーゲルを理解しているのならば、こういう
知ってる人を誘い込もうとする魂胆が見え見えの流れは作らない筈です。

411 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/09/16(火) 19:51:22 0
さて、ポールが色々と難しそうな言葉を並べていますが、
実はポールはヘーゲルを全く理解していません。

ヘーゲルの言ってる事は至極単純であり、
それをポールが理解できないなら、知ってる人を誘い込もうと
ポール自身が知ってる振りをする。

よく考えると、この手法はぴかぁ〜がポールからパクった手法なのかもしれません。

412 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/09/16(火) 19:59:42 0
さて、ここで、私純一はヘーゲルを完璧に理解しているのですが、
その理解の仕方をお教えしましょう。

実はポールの様に、長々と格好付けをやる意味はあまりない訳です。
実は、哲学書というのは、ドラゴンボールの漫画とあまり変わりない。

ドラゴンポールの漫画の何巻の何ページに、つまり、

marginal 『ドラゴンポール(dragonball)の○巻(フランスでは○○巻)
      の○ページの悟空のセリフには、外来語が使われている。
      これは、作者の外来語知識に依存し…』

↑こういった説明は意味を持たない。
ポールがmarginalと名無しの自演でやってるのは、
ここからドラゴンボールの何が人を引き寄せるのかを説明しようとしているのなら、
それは愚かな事でしょう?

ドラゴンポールのフランスとかわざわざ外国語で補足する等、
ドラゴンボールの内容を伝えるには何も意味は無い。

413 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/09/16(火) 20:02:18 0
同じように、精神現象学の○ページに何が書かれていようが、
それはその内容を本質を理解するには遠ざかっている。

むしろ、ドラゴンボールを理解している人ならば、
○ページに何が書かれていた等という覚え方はしない。
それをすべて統一して何が面白いのかを知ってる筈ですからね。

だから、ポールはヘーゲルの何をも理解しちゃいない。
自演で分かる振りをして、ここで知識をくれるのを待ち構えるだけです。

414 :純一 ◆QzuB1xeuck :2008/09/16(火) 20:03:54 0
じゃね。

415 :marginal:2008/09/16(火) 23:31:32 0
やっぱり2ちゃんねるのシステムの方が自分の性に合ってるような気がします。数日の間になると
思いますが、だらだら書かせて貰います。邪魔ならNGにして下さい。そのうちブログに戻りますので。

>>406,407
ありがとうございます。同じ方でしょうか。自分の感覚としては哲学をメリット・デメリットの度合いで
なかなか考えられないですね。相互に入れ替え可能な気がします。メタに立つのが苦手な性格も
ありますが、それはまあパラノ(浅田)と言われるでことでしょうね。そこから思ったことをつらつら
書いてみます。的外れなことがあればすいません。(以下、レイバー・ワーク・アクションの区別は
むろんアレントのもので、付け焼刃です。)

「遊びとしての哲学」「たのしい哲学」――こういうように実践できたら確かにとても良いと感じます。
憧れるところはあります。(ドゥルーズでも読んだらいいでしょうか。興味はありますけど、積読が
多くてなかなか手がまわらない。)そしてそのためには日常性の充実とそこでの交流・観察がまず
必要で、日常こそ哲学の土台であり、回帰すべき場所だ、と。私は確かに日常が満たされている
訳ではないので、それは指摘の通りだと思います。

416 :marginal:2008/09/16(火) 23:33:37 0
そこでふと思ったのは、もしそれが満たされていてもいわゆるパラノとスキゾの分岐があるとしたら、
その原因は何なんだろうということです。勘ですが、超越的なものに惹かれる人はパラノに親和性が
あるのかなと思ったりします。

それから、<遊び>と対をなすのは何なのかなあと思い巡らすと、現状、一般的にはレイバーとしての
労働でしょうか。ワークだったら幾分たのしさは生まれるんでしょうか。分かりませんけども、自らの
道行きが「知の労働」であるとはヘーゲルのまさしく言ったことで、それなら読むことも(まず初めは)
苦痛以外の何物でもないことをある意味保障しています(笑)。

現代思想からヘーゲル特集が出てますが、その最新のもので、カトリーヌ・マラブーがいくつかある
ハイデガーのヘーゲル論からあまり注目されていないものを取り上げています。それによると、
ハイデガーはその苦痛を、確か「超越論的苦痛」と言っていたと思います。ある哲学者は超越論的な
苦痛を持つ! これはなかなか言いえて妙だなと思った記憶があります。レイバーが日常性の安定を
支え(自分としてはそう)、哲学でもレイバーの苦痛が要求される――これでは当然楽しくない。

417 :marginal:2008/09/16(火) 23:36:49 0
ただ少し可能性を感じるのは、ヘーゲルには、その目的論的な哲学からして、ワークとしての側面も
あるんじゃないかなということです。しかし、その目的はいつまでも達成されないものだということを
ただちに付け加えなければならないのは、残念なことです。パラノ的なひとにとっては、そのシジフォ
スのような試みが、重荷ににもなれば(幻の)希望にもなる、と言えるでしょうか。

ではヘーゲルにとってのアクションはといえば、確か現実に政治に関わる活動をいろいろしてたと思います。
そうではなく書くことのなかでのアクションがどういうものか、ありうるのかについては……、政治論文も
書いてますが、それはあまりにありきたりでしょう。いまは他に思いつきません。読者にたいする責任に
関わることでしょうか。

ヘーゲル個人は措くとして、問題は読者にとってのワークとアクションは何なのか、ということだと思います。
読むことのなかでのワークとアクションがありうるのか、ヘーゲルの苦痛から解放されるかもしれない道が
あるのかないのか、頭の片隅に置いておきたいと思います。ドゥルーズなら、読むことのなかで、新たな
概念を創造せよ、と言うのでしょうか。

418 :marginal:2008/09/16(火) 23:50:45 0
読み返すと、アクションと遊びが繋がってませんが、ヘーゲルの苦痛を軽減して読む
方法についてということでご理解いただけると助かります。いったいヘーゲルを遊び
として読むことは可能なのか、ありうるか分からないアクションかワークとしての
読みの可能性に賭けることはできるのか。それともこっけいな妄想にすぎないのか。

ヘーゲルに興味がなければ別のことでもよいですし、もちろん返答頂なくてもかまいません。

419 :考える名無しさん:2008/09/17(水) 07:16:15 0
marginalさんは、いたって真面目ですね。
どちらかと言えば、パラノイアですね間違いなく。
おそらく、私はヘーゲルを真剣には読んでいませんので正確には言えませんが
この哲学からは、喜びとしての思考=哲学を学ぶ事=アクションは生まれない
でしょうね。勤勉=啓蒙=真理によって、自我はがんじがらめに縛られていそうですから。(笑)
しかし、苦痛=努力がいけない訳ではありませんよね。
それで、前進や成功が保証されるならでしょうが。いや、苦痛が好きな人も
いるかも知れません。(マゾッホとサド)
でも、一般的には、成功や前進が保証されて初めて苦痛は努力と呼ばれるの
でしょう。そうじゃないと、苦痛は苦しみ以外を表せません。
ですから、楽しく前進する事を求めることは自然です。
この様な、ある意味気楽な欲望の解放は、二―チェに始まっているのかも
知れませんし、その中では、真理の形而上学が欲望をコントロールし
啓蒙が快を求める者を矯正していくと言う風に考えられています。
この様な背景から、ポスト構造主義は生まれてきたのですが、
ヘーゲルを尊敬する貴方なら、おそらく、苦は達成の過程と思われているでしょう。



420 :考える名無しさん:2008/09/17(水) 07:31:14 0
それと、貴方のHNが辺境・淵・周縁と言う、ポスト構造主義を
象徴するモノである事は、すでに、西洋形而上学批判のスタンス
にいると言う事でしょうかね。
確かに、思考=哲学は思弁であり、行為ではありませんね。
今行為が求めら得ている事は確かです。
頭の中で、いろいろと考えて、壮大な理論を組み立てても、実際
その論理がどのような影響を人々に与えうるかを考えないといけませんよね。
砂上の楼閣の様に、思弁哲学はある意味でヴァーチャルなのだと言う気がします。
そう言う意味では、現代は哲学も小説もマンガもTVゲームも同じ
創造されたものなのでしょう。ヘーゲルもカントもデカルトもリアリティ
がないのですね。つまり、必要な時に利用すると言う局所的真理とでも
言いますか、そんな感じでしょうね。
この様に浮遊する意味とでも言われるものこそが、ドゥルーズにはあるし
それを前提にしている訳です。つまり、哲学は創造だと言う事。
そこから、哲学も遊学なのだと言う事。思弁的な面よりも、貴方も言うように
行為=喜びを求める事なのだと言う気がします。

421 :marginal:2008/09/17(水) 20:45:16 0
ヘーゲルを全面的かつ無条件に尊敬している訳ではありません。marginal という名前は、
田舎に住んでいること、哲学の正規教育を受けていないこと、いわゆる社会的ステータスの
低さを表したものです。

これは私のせいですが、アクションがただちに喜びとなるかについては分かりません。アレントを
読まないといけませんね、すいません。ふと思いついたのは、アクションをヘーゲルの文脈で
言えば、相互承認の完成した状態と言った方がいいかもしれないということです。しかしヘーゲルの
「承認」も議論のある概念で、つまりヨーロッパ的理性(とキリスト教)への服従、承認を推奨し
つつも奴隷という存在の肯定(「奴隷になるのは立ち上がる意志がないからだ」)など。

それと、ヘーゲル哲学は啓蒙思想ではないんです。フランス革命の栄光と挫折への反省から、
理性的自由を拡大させる啓蒙が、逆にそれを否定する暴力的な振る舞いをするように
なってしまったことを、現象学のなかで叙述しています。

しかし仰りたいことは、「真理の形而上学」として、多様な欲望を抑圧して一方向へと練り上げる
ヘーゲルの(不穏な)根本動向なのでしょう。ヘーゲルにとっての哲学の目的とは、「真理の
支配」であるとハイデガーも言ってます。ところでこれもハイデガーから学んだことですが、
ドイツ形而上学の歴史をライプニッツの「欲求」と「表象」から整理できる。

カント:物自体界・実践理性―現象界・理論理性
ショーペンハウアー:意志としての世界―表象としての世界
シェリング:意欲(―?)
ニーチェ:ディオニュソス的なもの―アポロン的なもの

そしてヘーゲルにおいては意欲と知が同一とされる。意欲が知へのみに向けられる訳ですね。

422 :marginal:2008/09/17(水) 20:49:36 0
しかしヘーゲルも悟性的(固定的)な思考を流動化するために、酒の神バッカス(ディオニュソス)を
召還し、体系としての諸円環の円環を、熱狂的な陶酔や祭りとみなしているので(ガイスト→酒精、
「酒の現象学」)、ヘーゲル自身のイメージにおいては、硬直した印象は受けない。ところが実は
それは、アポロンの監督のもと、許された範囲の中でしかないんですね。

ヘーゲル(だけではないが)の抑圧していたものに「性」があると思います。現象学とのなかには
自分の体験(私生児をもうけた)がもとになったと言われる「快楽とさだめ(必然性)」という文章が
ありますが、性あるいは性欲それ自体を全面的に扱ったところは、寡聞にして知りません。

フロイトとヘーゲルという対は前から関心があって、それは正反対でありながら、だからこそ通底する
ところがあるからで、ヘーゲルの盲点からヘーゲルを読んだらどうなるだろうということです。しかし
ほとんど何も進展していません。(そもそもラカンを読めばいいじゃないかという声が。)

関係ないですが、最近、題がそのものずばりの、中本征利『フロイトとヘーゲル―性の思想史―』
(勁草書房)という本を借りることがでたので、そのうち読んでみます。

思想と行為の関係については、マルクスのあの解釈と実践の言葉が必要に応じて入れ替えられる
ように、ますは情況とそのひとによるでしょうね。しかしおっしゃりたいのはヘーゲル哲学を読んで、
喜びとしての思考が行われるのか、そして日常の行動が楽しくなるか、ということでしょう。

前者については、そもそも理解すること自体が純粋にうれしいことだと思いますが、それと前も
書いたように苦痛のなかにほんのたまに訪れる「フィロソフィカル・ハイ」というのがあって、
これはこれで喜ばしい(笑)。後者については自分個人はないですね。

423 :marginal:2008/09/17(水) 20:54:17 0
ただ自分が抑うつ的になっていることは確かにあって、それがヘーゲルによるものなのか
何なのかは分かりませんけれども、ヘーゲルに即して言えば、中途半端にヘーゲル的な
自我はがんじがらめというよりはむしろ、安易な弁証法の自動運動により誇大妄想的に
肥大していく危険があると思います。

ちなみにヘーゲルの思弁は全体性を求めるものですが、全体性は普遍性でもある。普遍性へ
と至るには、自分のなかで自分を映し(スペキュレーション)、自分自身を全体・普遍へ
と仕上げるという、自分のエゴを破壊する活動だと捉えています。

しかし自分と自分の往復運動では発展がない。鏡で自分を眺めていても何も始まらない。
そこで他を素材として自分のなかに引き入れ、それを認識するために格闘する。だから
他の根拠?には自分があって往復運動は底で持続している。その反復がアイデンティ
ティを産みまた強化する。ヘーゲルの思弁の運動は大方こういう仕組みになっていると
今の自分は思います。

(このあたりは、今読んでる本――大橋良介『ヘーゲル論理学と時間性』創文社――から
学んだ。これはとても面白い本だが、留保なしに絶対者が措定されることに抵抗がある。
絶対無を打ち出したいために要請されているように感じる。しかしちゃんと読まないと
いけない。)

最後に、最近のヘーゲル研究によると、完璧で壮麗な体系を作り上げたヘーゲル像という
よりは、それは幻で、いつまでも最新の情報を自分の体系のなかに位置づけようと努力し
続けた、破壊と構築が同時に行われるような、生成するヘーゲルという像が、文献学的
調査にもとづいて意図的に打ち出されているようです。

リアリティについてはいずれ。書かないかもしれませんけれども。

424 :考える名無しさん:2008/09/18(木) 21:47:55 0
ヘーゲル読みってどう言う意味で哲学をやるんだろうね?
古典的な哲学を教養として身に付けようとしているのか?
いや、真理を知りたいと言う事なのか?
あるいはデカルトの様にすべて演繹的に真理は分かるのは今更言えない
し、かといって、イギリス経験論は全て後天的に知識は創られている
のでもまずい、また、カントの様に、認識と行為とが分裂するのも
まずい。そこで、内部的にとでも言うか、正―反―合の
弁証法的スパイラルによって、この知識と行為の分裂を修正したので
これだと思って、ヘーゲルになった。つまり、最終的には絶対知と言う
スパイラルの終点を信じるとか。
勿論、アドルノの否定的な弁証法を踏まえているのでしょうが。
ヘーゲル読みの方にはこの様な纏めは大変失礼でしょうね。
ところで、貴方は、純一君が言うように、以前「ポール」と言うHNでしたか?
私も以前ポールさんとは絡んだ事がありますよ。
たしか、貴方はチンボ太郎さんと仲良しでしたよね。
いま、久しぶりにシェリングでしたかのスレッドにレスしてますよね。

425 :考える名無しさん:2008/09/18(木) 22:01:23 0
確かに、啓蒙と言うのは理性重視主義ですから、一般的にはヘーゲルは
当たらないようですね。訂正です。
私はむしろ、論理による真理探究とその強制を指す意味で使いました。
この辺は構造主義・ポスト構造主義の見方から述べています。
ところで、おそらくこれ以上ヘーゲルと絡むのは私のスタイルから
あり得ませんが(笑)、詳細な哲学の論議は避けて、大雑把な雑談なら
続けられそうですね(笑)
いずれにしても、まじめにと言うか一生懸命哲学をしている人は、2ちゃん
ねるでは、少数派ですよ。同じフランス系のポスト構造主義の哲学に興味
があり、レスする人でも、すぐにいなくなる。おそらく、読んではいるのでしょうが
本気でやる気がないですよね。そう言う意味ではmarginalさんは本気だね。
例えば、今後ヘーゲルはどのように読まれるのでしょうか。
どう言う風の読みべきなのか、よろしければ会話的に適当に書いてくださいな。

426 :marginal:2008/09/18(木) 22:37:06 0
ブログへの助走として書いたので重くなってしまいましたね。ざっくばらんに
書くよう努力します。

私は「ポール」でも「チンポ太郎」でもありません。前スレでなぜか「純一」と
いうひとにスレを潰されたのがブログに移行した経緯です。こういう型の文章を
書くひとを目の敵にしているようです。どうでもいいことです。

弁証法を正反合と単純化したのは後世のひとたちでヘーゲルはそういうように
言いませんでした。が、たしかにその側面は否めず説明するには便利です。
ミクロでみるとスパイラルもそうです。

ヘーゲル自身としては、確か「論理的なものの三側面」(小論理学)として
説明していたと思います。(すいませんが詳しく説明するのは気が向いたときに
させて下さい。)

弁証法を自分の感覚でいうと、ひとは何か述べるときに、ある事柄を命題と
して単体で述べることができ、意識のなかでそれを孤立させうると思い込ま
れているが、実際はそれを背後で支える膨大な領域があって、それらとの関係を
浮かび上がらせなければ、その位置も分からない。地平とそこに立つものの
関係をあべくための手法じゃないかと思ってます。

まあその究極には絶対とか神とか絶対知などがあるわけですが、確かに
われわれには馴染みのないことです。それは欧米でもそうらしくて、
ヘーゲルを読む意義がいろいろ議論されてるようです。

ジジェクによると絶対知はラカンの大文字の他者の構成不可能性として考える
ことができるそうです。ひとます。





427 :marginal:2008/09/18(木) 22:40:08 0

訂正
「ミクロでみるとスパイラルもそうです。」は除きます。
それと違う道の行き方を書きたいのですが、また重くなりそう。
ひとます。→ひとまず。

428 :marginal:2008/09/18(木) 23:09:24 0
まず言わなくてはならないことは、私はヘーゲルを趣味で読んでるだけなので、正確で
ないところが多いです。

今後どういう風にヘーゲルが読まれるか、これは大問題で、自分も悩みどころです。
大橋先生の関わるドイツ観念論についての本で、絶対者の来し方行く末についての
研究がなされているようでそのうち読むつもりです。そもそもなぜヘーゲルにひき
つけられる人が後をたたないかというと、『精神現象学』という本の魅力が大きい
んじゃないでしょうか。そして絶対知や絶対者が後々問題化してくる。それは目的で
あるとともに前提でもあるから。

デリダが『エクリチュールと差異』の確かバタイユ論でこんな感じのことを述べて
いたと思います。つまり、死んだはずのヘーゲルの弁証法は我々の知らないところで
作動し、我々を囲い込む、と。それはグローバライゼーションによる弊害や、
フクヤマの議論に繋がるところでもあると思います。それが見えない権力的なものに
結びついたとき、フーコーの出番となるということでしょうか。

フランスでのヘーゲルはもともと図式的な姿しか知られていなく、ジャン・ヴァールが
「不幸な意識」章を訳し実存主義的なヘーゲルが知られるようになり、イポリット(フー
コーの先生のひとり)が全体を訳し注釈書を書き、コジェーヴがロシアからやってきて、
主人と奴隷の弁証法を確信としたヘーゲル講義を行った。そこに出席したものたちが、
ヘーゲルを肯定否定しつつ、自らの思想形成に役立てた。そこで重視されたもののひとつが、
ヘーゲルの「否定性」――いわば死を観念化したもの、しかし本当は意識化できない――でした。

英米については良く知りません。イギリスのマクタガートというひとがいたような……。
まあラッセルをみるまでもなく否定的でしょうね。マルクスについても言うまでもない。

断片化し、非主体的なものに変容しつつあるわれわれ、権力もわれわれの動物的なところへ
作用するようになってきている社会で、ヘーゲルの(譲歩して全体でなく)何が寄与するか
については、考えていきたいところです。主体化を促すなら、どうでしょう、カントのほうが
わりあい推奨されてるようですが。

こんな感じです。では今日はこれで。

429 :marginal:2008/09/18(木) 23:18:07 0
また訂正です。大事なところだけ。すいません。

ジジェクによると絶対知はラカンの大文字の他者の構成不可能性として考える
ことができるそうです。

ジジェクによると絶対知は、その構成不可能性が、斜線を引かれた大文字の
他者として考えることができるそうです。


それからまじめなひとはいるとおもいますが、まじめな文章を書くのは結構
大変なので、書かないだけかもしれません。私も数日の間にするつもりです。

430 :名無し:2008/09/21(日) 11:21:50 0
ヘーゲル初心者です。バタイユやマラブーさんを少し齧っています。
今ヘーゲルをまじめに語れる人はすばらしいと思います。ヘーゲルは偉大なり。

431 :考える名無しさん:2008/09/22(月) 10:59:14 0
どうして、絶対者への視点を求めるもの=形而上学者が尊敬されるの?

432 :考える名無しさん:2008/09/22(月) 11:45:08 O
ヘーゲルは形而上学というよりオカルト

433 :吾輩は名無しである:2008/09/22(月) 18:09:10 0
431さんにに対してですがそれは、マラブーやバタイユを読めばわかります。
デリダがヘーゲルを意識すること自体、ヘーゲルの業績は偉大なのです。
逆説的な意味も含めて・・・

434 :考える名無しさん:2008/09/25(木) 08:04:32 0
このスレ終了ですか?w

435 :考える名無しさん:2008/09/25(木) 18:58:47 0
ほんとにこの本を読んだ方の話をお聞きしたい。

436 :考える名無しさん:2008/09/25(木) 19:18:28 0
        /⌒ヽ⌒ヽ
               Y
            八  ヽ
     (   __//. ヽ,, ,)
      丶1    八.  !/
       ζ,    八.  j
        i    丿 、 j
        |     八   |
        | !    i 、 |
       | i し " i   '|
      |ノ (   i    i|
      ( '~ヽ   !  ‖
        │     i   ‖
      |      !   ||
      |    │    |
      |       |    | |
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    |           | ‖
   /             ヾ
  /                ヽ

437 :考える名無しさん:2008/09/27(土) 16:38:54 0
>どうして、絶対者への視点を求めるもの=形而上学者が尊敬されるの?
>ヘーゲルは形而上学というよりオカルト

ヘーゲルは形而上学でもオカルトでもありません。
ヘーゲルによる偽装の部分を表面的にとらえないことです。
ヘーゲルは唯物論者です。
「絶対者」とは世界の弁証法的運動法則のことです。
ヘーゲルの深さはここにあります。

438 :考える名無しさん:2008/09/28(日) 00:12:38 0
>「絶対者」とは世界の弁証法的運動法則のことです。
>ヘーゲルの深さはここにあります。
じゃなくて、ヘーゲルの深さは「絶対知」や「絶対精神」などが
真理らしきものなら如何なるものであっても、それであり得るように体系を
「仕組んだ」ことにある。
知の詐欺師としては天才的であるといえる。
マルクスからヘーゲルに転んだ人は幾らでもいる。

実は「絶対なんとか」は無限の彼方にしかあり得ない。




439 :考える名無しさん:2008/09/28(日) 01:34:28 0
一方、フロイトの利口さはエディパルなものは常に
過ちを含んでおり克服去るべきものだ。という点にある。
つまり、フロイトは暗に弁証法を含んでいるのである。
オイディプスは神聖の象徴を欠いた生まれであり、それゆえ
当たり前の人間であったが、
晩年のフロイトがモーセつまり、神的人間に挑んだのも絶対性への
挑戦だったのである。



440 :考える名無しさん:2008/09/28(日) 01:40:44 0
>>439
弁証法なんだけど、何と何が矛盾してるの?

441 :考える名無しさん:2008/09/28(日) 02:04:18 0
言説と本来性でしょうかね。
言葉と実体
理性と実存
      とか



442 :考える名無しさん:2008/09/28(日) 02:17:15 0
前者がエディパルなものですね。
後者は何かと言えば、より生命的なものでしょうか?


443 :考える名無しさん:2008/09/28(日) 03:19:35 0
>>441
>>442
その二つが何で差異とか対立ではなく、矛盾関係にあるといえるの?
フロイトの説明にヘーゲルを援用するのはそれこそ冗漫でしょう?

444 :考える名無しさん:2008/09/28(日) 10:03:56 0
ヘーゲルは唯物論者ではなく、精神が現実を決定するとしているのですよ。
逆にマルクスはヘーゲルの弁証法を現実による精神の決定とリヴァースした
のです。よって、後者を唯物論者と言う。おい、基本的な所を勘違いするなよ。
フロイトがヘーゲルと関係があるなんてどう言う事だ。
詳細に書けよ。

それから、マルクスからヘーゲルに変更した人のその理由はなに。

445 :考える名無しさん:2008/09/28(日) 17:23:44 0
レーニンの哲学ノートでも読んだらいい。
中沢新一のレーニン本でもいい。
パレルゴンって意外と基礎的なこと知らないよね。

446 :marginal:2008/09/30(火) 21:28:02 0
(1)大橋良介・野家啓一「「絶対者」から「無根拠」へ」(『<哲学>―<知>の新たな展開』
ミネルヴァ書房 所収)という論文と、(2)大橋良介「ドイツ観念論の全体像」、(3)ハンス・
フリードリッヒ・フルダ「現在のコンテクストにおけるヘーゲル」(ともに『叢書ドイツ観念論
との対話 第一巻 総説・ドイツ観念論と現代』(ミネルヴァ書房 所収)を読みました。とくに
(1)は歴史的な概観を得る上でとても参考になりました。野家先生も書いてるのがバランスが
取れていて良かった。(3)はちょっと難しかった。内容をざっと。

447 :marginal:2008/09/30(火) 21:32:16 0
(1)市民社会の絶対的な基礎付けへの要求として絶対者が要求された。ヘーゲル哲学は
それに自覚的だった。フィヒテとシェリングもともに絶対者を求めたが方法は三様異なる。
それは絶対者把握の困難を表し、実はその無根拠性をすでに孕んでいた。

のち絶対者の空位を「経済的本能」、「力への意志」、「性的本能」、「超越論的主観性」、
「存在」、「論理」、「科学」などで埋める思想的無政府状態が出現した。それは自然
科学的認識にも影響した。マッハは空白を空白のままにし関係主義を用いた。マッハ哲学は
フッサール(「理性の危機」)やウィーン学団に影響を及ぼした。

しかしフッサールにおいては、意識の流れに随伴する「私は考える」の必然性が、還元された
「純粋自我」の超越論的な絶対性を要求せざるをえない(フィヒテへの近さ!)。ところが
自我は根源的には与えられるものであり、受動性をそなえる。その源泉は「世界」である。
自我を突き抜けて「世界」へ。

しかし大橋先生が言うに、そこはもはや絶対者とは呼ばれず、むしろ「絶対無」である。
(自分としてはここがよく分からない。絶対無というのは意識内で到達するものなんじゃ
なかろうか、それを意識の外の「世界」に用いていいのかという素朴な疑問。)

芸術においても「絶対者」の脱け去りが表現される。初期の論理実証主義は問題設定の
そもそもの誤りを指摘する。ニーチェやハイデガーはキリスト教思想と形而上学の必然的
帰結としての「ニヒリズム」を問題にする。ニーチェは古いヨーロッパと新しいヨーロッパの
間で引き裂かれたのだった。20世紀後半は「無根拠」から出発する。

クワイン、クーン、ローティらの「ポスト分析哲学」の流れにおいて、「基礎付け主義」
という問題設定が疑問に付された。彼らはこれを放棄し「可謬主義」へ転換した。「根拠」を
めぐる考察は「無時間的」アプリオリではなく、歴史と時間に浸された「歴史的アプリオリ」
というものへ向かう。ウィトゲンシュタインによりそれは世界像・経験命題・根拠なき信念
などと呼ばれる。

448 :marginal:2008/09/30(火) 21:41:53 0
(2)はドイツ観念論の三者の哲学的差異と共通性、芸術運動、モデルネの問題、東洋的
無などが語られる。(1)の前半を少し詳しくしたものという感じ。自分が興味を持った
のは、ニヒリズムの観点から語られるのだが、ヘーゲルは「ルター主義」の背後に「神の死」
の感情(パスカルにすでに近いものがあった)を見たということ。個人の誕生と関係する
のだろうか。

(3)は国際ヘーゲル学会のボスだったひとのもの。翻訳文が自分にはすっと入らなかった
ので流し読み。注意が向いたのは、ポストモダン哲学をちくりとやってる所と、ヘーゲル
解釈学が分析哲学に近づき、分析哲学が思弁的哲学をそのうち見出すことになるという
ような話(読み違いかも)。

「根拠」に関して言えば、思潮としては、「絶対者」そのものは以前のままではアクチュ
アルではないようだ。ただ気になるのは、ヘーゲル「論理学」における「根拠」概念の取り
扱い方。「論理学」方面は弱いのでよく分かってませんが、ヘーゲルの論理学で根拠概念は、
他者と自己への反省が行き渡った全体性として立てられた本質であり、それは媒介の運動が
止揚された状態、つまり直接性・存在の復活をもたらし、ついには媒介の止揚により媒介
されている「現存在(Existenz)」になるという。

部分的には内から外への過程が表されているように感じるのだが、どうだろうか(もちろん
「現存在」で終わりではなく弁証法は続くのだが)。ただヘーゲルを読んでいると内と外が
よく分からなくなる。もうひとつは信念と知の問題も考えないといけないか。

449 :考える名無しさん:2008/10/13(月) 13:41:08 0
ヘーゲル伝承者たち・・・・

アドルノ、ジジェク、バテゥ、マラブー、そして、マルクス・・・

たくさんいますね。

450 :考える名無しさん:2008/10/15(水) 23:44:25 0
マルクスはヘーゲルの弁証法とフォイエルバッハの唯物論の止揚で
弁証法的唯物論を作った。

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取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。
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