離人症患者が哲学に触れようとするスレ 2
- 1 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/10/22(日) 05:50:54
-
自分はクオリアも分厚い氷の檻に遮られているような状態でして
この先の自分の人生を、哲学の力を借りて切り開いて行けないものか
と思い立った次第です。
「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
本当の私は、という時も、それは私ではありません。
いつまで経っても私は私を語れないのです。
私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。
それがおそらく世界と一つだった頃の私。流動する私。
- 2 :考える名無しさん:2006/10/22(日) 11:35:09
- 時間で考えればいいのではないでしょうか?生きとし生けるものはすべて時間に繋がれている。繋がれているものは自分でありクオリアだという言い方をすれば考える行為が時間の余りに相当します。しかし余りの時間というものが果たしてあるかというと
- 3 :考える名無しさん:2006/10/22(日) 11:39:59
- 余りの時間というものが働いている時間同様に作られた時間ということになります。離人症は核に到達するすべを失った状態だと思います。核に到達するということは言葉にすると難しいですが喜びの感情に相等すると思います。そこに至るのが自分でありそれが生であると思います
- 4 :続き:2006/10/22(日) 12:00:33
- 核に到達しないのであれば原因があるわけです。万物は流動的に動き生物は必ずそれに応じて必要なものを必要なだけ獲得するための時間が生じます。余暇は不空(非連続的な時間)の時間でありせれはすぐに消えることになります。必ず獲得の時間はすぐに蘇ります。
- 5 :誘導:2006/10/22(日) 12:29:14
- >>1
こちらでどうぞ。
【鬱】 哲学やってるメンヘラーっている? 【統失】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1161328420/
- 6 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/23(月) 01:37:35
- >>905 ムートンさん
>「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
>本当の私は、という時も、それは私ではありません。いつまで経っても私は私を語れないのです。
>私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。それがおそらく
>町と、世界と一つだった頃の私。流動する私。
語られるものとしては存在できない‘それ’は、【魂】のことでしょうか?
離人症とは、自分自身や自分の行動、また外界などに対し、実感が伴わない状態。
(goo国語辞典)とあります。
自分自身や自分から開ける世界にたいして実感はないけど、それでもそれらの現前は、
いつかどこかで何ものかにたいして起きている。でもその何ものかが自分自身ではなく、
自分自身や自分から開ける世界とは位相を異にしているため、それらの否定としてしか
存在しない、という形式世界における背理そのものの存在、それが【私】なのでしょうか。
つまり、語られるものとしては存在できない【魂】のことですが。
「万物は流転している」(パンタレイ)のかもしれない。けれども、何ものもその姿を
一瞬もとどめられないのなら、何ものも存在することはできないでしょう。ですから、
今ここに現に万物が現象しているのは、変わらないもの「一」によってであり、「一」は、
万物が流転することの内に〈ある〉……「万物から一が生じ、一から万物が生じる」とも
考えられるでしょう。(ヘラクレイトス)
けれども「一」は比類なきものですから、万物のように「それ自身である」というあり方が
できません。言いかえると、存在者としては存在できないけれど、存在者の存在を可能
にする条件としての「場」として、自らは自らというあり方ができず、「それ自身ではない」
という不在の実体として【ある】、‘それ’が【私】ということになるのでしょうか。
- 7 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/23(月) 01:40:32
-
わたしは神の言葉であり、わたしの言葉は万物をうつす。
でも、神だけはうつせない。だから、わたしは神に祈れない。
けれども、神を思うとき、祈りはもうかなえられているのです。
汝ら神に祈るとき、その祈りはすでにかなえられたと信じなさい。
そうすれば、その通りになるであろう。 (マルコによる福音書)
なぜなら、
はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり。
この言葉ははじめに神とともにあり、万物はこれによって成り、
成りたるもののうち、これによらないものはひとつもなかった。
言葉のうちに命があり、命はひとを照らす光であった。(ヨハネによる福音書)
ということだからです。
何ものかとして語られることのないあなたは、万物のひとつではないから存在しない。
けれども、語られることのないあなたがいなければ、何ものも、ムートンも、存在しない。
流動する私は、その姿をとどめられない、ゆえに存在しない。
流動する私は、あらゆる存在の否定としてのみ〈ある〉。
流動する私も、その存在の否定から逃れることはできない。
流動する私の自己(存在)否定は、現実になりうる可能世界の否定であり、
すなわち、この現実世界の成立です。それは流動する私の存在への刻印であり、
変わらないものの、すなわち「瞬間」(意識の生滅 = 現象)の誕生です。
変わらないもの(同一性)の成立は、同時に存在者(差異性)の成立であり、
流動する私が、この心、この体として、今ここに現実に〈ある〉こと、すなわち、
この「私の世界」の成立の条件が、この「私の世界」の外部、流動する私なのです。
- 8 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/23(月) 01:58:08
- >ムートンさん
いつのまにか落ちていたので、勝手にスレを継続させてもらいました。
(コードはバレバレだったので、そのまま使いました)
前スレ最後の発言は、一般の精神病理学的な離人症解釈を超えて
いるように感じました。哲学的にとても興味があります。
もしよかったら、またお付き合いしてください。(^.^)
- 9 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/24(火) 00:56:08
-
前スレ紹介、忘れてた!
離人症患者が哲学に触れようとするスレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1105020202/
( 2ちゃんねるビューアがないと見れない = だれも見ない )
- 10 :考える名無しさん:2006/10/24(火) 20:20:31
- 私場賢治
- 11 :エヌ:2006/10/24(火) 23:43:07
- 呼ばれてきました
あっちのスレの話だけど
彼ら(彼女?)の頭に合わせて書いてあげなきゃ理解できないと思うよ
数ヶ月見た彼の傾向からすると
わけわからなくて、書くことなくてレベルダウンなんて書いてるのだろうから
反論してこないのが、その証拠だろうし
- 12 :エヌ:2006/10/24(火) 23:48:40
- はてな?魂が得意分野だったかな
永久になくならないものが魂だと仮定して
全ての存在は、分解したり集められたりして形が変わろうとも
あるいは体積が変わろうとも質量は一定である
つまりは増えもせず減りもせず永久になくならない
つまりは存在が魂と呼べるのかも
- 13 :エヌ:2006/10/24(火) 23:51:33
- しかしながら本当の実態は無形で
質量や物質はその表面上のものでしかない
これは余談
- 14 :エヌ:2006/10/24(火) 23:53:05
- あと実態には境界がない
なのですぐに混沌へと吸い込まれてしまう
これも余談
- 15 :エヌ:2006/10/24(火) 23:54:35
- カオルさんはどうしてこのスレが気に入ってるの?
>>9が見れない
Jane Doe Styleだと見れないみたい
- 16 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/25(水) 02:04:27
- >>11 エヌさん
いらっしゃい! (^.^)
あのスレは前スレの途中から覗いただけで会話の内容はあまり知らない。(^_^;)
で、エヌさんへのレスに「たぶん魂の話し」って書いてたから気づいたと思うけど、
あれは彼(s)へのヒントのつもりもあって書きました。
もし心ある振る舞いが、心があることなのだとしても、それでも心ある振る舞いと
心は‘つながらない’というのが、彼(s)の言いたいことなのだとしたら、
それこそそれは、いわゆる心のことではなくて、真の心「魂」のことだと思ったから。
もしそうなら、彼(k)の論理に取り込まれて、魂が‘なきもの’にされてしまうのは、
──とはいっても、魂が唯一絶対の存在なのだとしたら、比べるものがなくて
無と見分けがつかないので、もとから‘なきもの’だけど──どうなのかなって。
とりあえず、哲学の範疇で魂を考えるにあたっての入口を紹介したつもりです。
でもここから先は、偉そうなことを言ってるわたしにも考えること自体が困難です。
だから、彼(s)と本質的なところの問題意識が同じなら、一緒に考えられるかも、
と期待したのです。彼(s)、安らかで穏やかなのに気分が悪くなるって言ってたの。
たぶんそれにやられちゃった。
エヌさんのレス、そんなに簡単に書けてしまうのねって感じです。やられたー!
あらためてレスさせてください。(レスありがとう)
- 17 :エヌ:2006/10/25(水) 23:53:20
- へー、片方の相手は S だたの
彼(s)と彼(k)の話には、割り込む隙がなさそうだし
とても読む気になれない(暗すぎ・・・)
- 18 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/27(金) 02:17:04
- >>17 エヌさん
あっちにかまけて今日もなおざり。ごめんなさい。
もうすぐ書き込まなくなると思うから、それまで見捨てないでください。
>へー、片方の相手は S だたの
いえいえ、そんなわけない。
でも、前にも書いたことあるんだけど、頭文字「S」には縁がありますね。
「sheep」さんも、ほらやっぱり!(笑)
>彼(s)と彼(k)の話には、割り込む隙がなさそうだし
>とても読む気になれない(暗すぎ・・・)
あっちでSGI(創価学会)ごときと決別できないで……と言いましたが、
宗教は麻薬ですから、実際のところムズカシイと思います。
組織のあり方や、組織の人間との人間関係から離れてみても、
たとえば「御本尊」とされている「南無妙法蓮華経」と書かれた紙切れを
破ったり、燃やして捨てることができないらしいから。罰(バチ)があたる!
彼がそのようなことをも含めて恥ずかしいことだと思ってて、今まで
話せなかったこと、その感性は貴重だと思います。でも、今はまだ
真実を見つめようとする感性より、刻印された信心の方が勝ってる。
まぁその意味では、無信心のkさんの教えは「棚からぼた餅」的幸運かも。
でもそれで何かが解決したとしても、それは「ちがう人」を信じた結果であって、
「ちがう神」でもよかった。つまり、自分を見つめたから、そうなったわけじゃない、
ってことです。ここが「分かれ目」かな。自分をみつめることができるかどうかの。
神さまを恥ずかしげもなく持ち出すわたしがいうのもなんだけど。(^_^;)アハ
- 19 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/28(土) 01:10:27
- >>15 エヌさん
>カオルさんはどうしてこのスレが気に入ってるの?
彼の心の病と、その彼がもつ問題意識に関心があります。
心とは? 私とは? 人間の本質に迫れるような気がします。
今は、離人症の彼が、自分や自分の心さえ対象化してしまうこと
について、それはいったいどのような事態なのか、を解明したい。
もしも自分や自分の心をながめてしまう「私」が実在するなら、
それはもしかしたら「魂」のことかもしれないから。
どういうあり方であれ魂が実在するなら、正直恐ろしいと思う。
だって、魂の私が生きつづけて、存在しつづけるということは
死によっては、「私」が終わらないということだもの。
以前、記憶がなくなればそれでいいようなことをエヌさんに
言ったけれども、魂が実在するならきっと、生まれ変わったときに
こんな問いを持つはず──私は、どうしてこの私なのか──って。
……ゾットします。(^_^;)
他のスレでも、この話しばかりしていました。
でも彼の場合、理念のそれではなく、実在する現実のそれです。
彼のように、あからさまにその事態を生きていることは稀でしょう。
形而上学的な試みとして、彼のいう言語で語ることのできない魂を、
それでもその実在についてどこまで語りうるか、に挑戦したいです。
>Jane Doe Styleだと見れないみたい
いつからか、有料になっているんです。
「2ちゃんねるビューア」がないと見れないんです。
- 20 :エヌ:2006/10/28(土) 01:37:51
- >>19
カオルさん
> どういうあり方であれ魂が実在するなら、正直恐ろしいと思う。
> だって、魂の私が生きつづけて、存在しつづけるということは
> 死によっては、「私」が終わらないということだもの。
当初から実在しているものは決して失われることも無く
当初から実在していないものは生まれたり失ったりするものですがな
実在に恐ろしいという感覚はございませんので、ご安心あれ
- 21 :エヌ:2006/10/28(土) 01:43:12
- >たとえば「御本尊」とされている「南無妙法蓮華経」と書かれた紙切れを
>破ったり、燃やして捨てることができないらしいから。罰(バチ)があたる!
まだ、未成年の頃少しかじったな
あれね。木の棒に巻かれてるからけっこう硬い。
足でキックしないと折れないのね
火に入れたら、やっぱり紙と木なので燃えるし
人間だけだね、紙に書いた文字をあり難がって拝むなんて。
- 22 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/10/29(日) 21:19:25
- トリップはやはりバレバレでしたか。すごい洞察力ですね。
私は私を語れないと言ったのは、この体の主導権を握っているのが、
だいぶ前に言った、作られた自己だからだと思います。
カオルさんの言い方や哲学者の言葉を借りると
せいぜい言える事は、私はどういう理屈か知らないけれど
現象を生じさせている何か、ということだけですね。作られた自己という現象を。
そう考えると、何も私だけが特別ということでは無いと思いますね。
私はやりたいことを差し置いて、やるべきこと、やったほうがいい(と言われている)ことなどを優先することで
自分が作られていくのだと思っていたし、それに誇りを持って生きてきました。
ただ、それ以外の時間は、自分の行いが何か心に納得いかないので、とてもひねくれて過ごしていました。
私の離人の原点はここにあると思います。
>>5
私は治す事を目的とする段階にまでまだ辿りつけていません。
そしてそこにたどり着くことが目的という段階にすら未踏です。
ここではあくまで哲学的見地から離れることなくひたすら考察することが目的なんです。
カオルさんが他スレから知り合いを連れてこられたようですが、より深い考察を
共に繰り広げられることになれば幸いです。
- 23 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 01:05:58
- >ムートンさん
おかえりなさい。見つけてくれてよかった!(^.^)
今ちょっと余計かもしれないことにかかわっているので、レスできないでいます。
>ここではあくまで哲学的見地から離れることなくひたすら考察することが目的なんです。
>カオルさんが他スレから知り合いを連れてこられたようですが、より深い考察を
>共に繰り広げられることになれば幸いです。
哲学的見地というものを、おそらくエヌさんは超えているけど。(笑)
エヌさんの見地とわたしたちの見地は共役不可能かもしれません。
でもなぜそうなのか、を問うことにも十分に意味があると思います。
- 24 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 01:33:44
- >>20 エヌさん
魂は、エヌさんやムートンさんやカオルに、それぞれ「ある」ものなのでしょうか。
もしそうなら「存在が魂と呼べるのかも」(>>12)というときの「存在」とは何でしょうか?
たとえば、存在者としてのカオルの存在「〜である」と、存在そのものの「ある」とは
どのように区別されるのでしょうか。
もしも後者の存在を魂と呼んでいるのなら、後者の存在は「比類なきもの」です。
そうすると、エヌさんの魂、ムートンさんの魂、カオルの魂……というような事態は
考えられなくなりませんか。なぜなら、それぞれの魂の存在の承認は「比肩しうる魂」
の存在の承認なのですから、それらはどれも「比類なき魂」にはならないからです。
「かけがえのない魂」ではあっても。
- 25 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 01:47:08
- >ムートンさん
質問です。
魂のあなたを、かりにあなた×(存在否定)と呼ばせてもらうと、
あなた×は、ムートンさんの「私」における自分の体や自分の心は
あなた×ではない、と言います。
この辺りについては、詳しく徹底的に議論していくとして、その前に、
あなた×は、そもそもあなた×が「比類なき存在」だと思いますか?
もし、そのように感じるのであれば、そう答えてくれますか。
これに類することを以前あなた×は、世界という言葉を用いて
言っていたように思います。
(前スレのデータが壊れてしまって、正確でなくてごめんなさい)
- 26 :エヌ:2006/10/31(火) 02:00:24
- >>24 カオルさん
これまでに、存在が失われたものがあるでしょうか?
否、形を変えただけで何ひとつ失われたものはありはしません。
後者の存在そのものの「ある」には境界が無く区別できません
しかしながら、心の機能性によってこれとあれとを区別し、前者の存在(〜である)を認識するわけです。
よって魂には区別する境界を定めることは不可能で、魂の存在の承認は自らを承認するのみです。
- 27 :エヌ:2006/10/31(火) 02:03:49
- それに、ここでいう魂というのは
身体の一部に入り込んでいるものが魂ではなく
魂の一部が身体として現れているといったものです
- 28 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 02:41:49
- >>26-27 エヌさん
とても納得できます。もちろん、哲学的にです。(^.^)
哲学的な説明の例としては、>>6-7になるかと思います。
それにしても、なんという短文なのか、と思ってしまいますよ。
魂の顕現のことを、西田幾多郎という哲学者の言葉を借りると、
絶対無の自己限定、永遠の今の自己限定。
になるでしょう。
魂の私が、現に存在するこの私を見て、
私(魂)は、どうしてこの私(体、心)なのか。
と問うとき、哲学はこれにどこまで答えることができるのか。
アウグスティヌスは、私の存在の比類なさを
わたしたちのうちひとりしかいないかのように、神はわたしたちみなを愛す。
と表現しました。(と、わたしが思っているw)
また、永井均という哲学者は、魂の私についてひたすら哲学しています。
比類なき魂に隣人はいない。
ということについて、無限の言葉を用いて。
エヌさんには、馬鹿げた行為に見えるのでしょうか。
- 29 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/10/31(火) 03:03:10
-
でも、これでいいのか!
懐疑はこれで打ち止めなのか。
いや、わたしはそれでも考えつづける。
すでに個別の魂の輪廻は否定された、と思っていいですね?
そういう論理ですもの。そうですよね、エヌさん。
この私の体、この私の心が、魂の呪縛から自由になること。
悟りスレから一貫して、わたしにはその思いがあります。
魂への嫌悪がぬぐいきれません。
5時起きなので寝ます。では、また。
- 30 :エヌ:2006/11/01(水) 01:04:16
- >>28 カオルさん
> エヌさんには、馬鹿げた行為に見えるのでしょうか。
とんでもない。
誰でも自分を証明したりすることに一生を費やすものですよ。
どのような形にせよ、動機は自分の存在を認めさえることか自分の存在を残そうと必死になる
そういうものです
馬鹿げてるものなんてありゃしませんよ
皆、楽しんでるだけです
- 31 :エヌ:2006/11/01(水) 01:08:45
- >>29
輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
5時に起きれたのでしょうか?
わたしゃいつも7時半ぐらいに起きるのでそろそろ寝ます
- 32 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/11/05(日) 00:11:56
- >>25
私は自分が捕らえてる世界の像(モデル化した世界)と
実際の世界の相違に苦しむ存在だと思います。前に言っていたのはこのことでしょうか?
それが存在の是非を問う真の魂だとしたら私は比類なき魂を持っていることになる。
>>26
>存在が失われたもの
他者と関係性を築くと、自己が薄まってしまうような感覚の喪失を受ける私は特別でしょうか?
>>28
>私はどうしてこの私
この疑問は幼少の頃から常に持ち続けていました。親にも誰にも聞けない疑問(悩み)として。
あらゆる知覚はなぜこの一固体にのみ感じることになっているのか?
他からの視点を持つことが何故できないのか?
疑問は解消されぬまま、それを埋め合わせるように客観的な思考のみが発達していきました。
さいきんヴィトゲンシュタインの論理哲学論考という本を買ってきました。
彼は戦場の中で何を感じ、手記を取ったのでしょうか?感性に任せて読んでみます。
- 33 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 01:44:14
-
「私(ワタシ)」は、言語です。この概念をいったい私たちはどのように了解するのか?
7歳まで言語の習得を禁じられていたある聾唖者の自伝によると「私」の定義とは、
――「私」というものが存在している「定義」がある。つまり「生きている」――でした。
この「私」の定義は、同時に「私は、私である」という自我同一性をももたらしました。
私はやりたいことを差し置いて、やるべきこと、やったほうがいい(と言われている)
ことなどを優先することで、自分が作られていくのだと思っていたし、それに誇りを
持って生きてきました。
というのは、役割同一性としての自我同一性でしょう。これは人間としてのあり方や人格を
になう主体としての自我についての認識です。「人間として」という前提があるのですから
そこに、すでに、正しさ、善さ、美しさの規準が立てられてしまっているのは必然でしょう。
その規準にしたがった行為は、そのまま真であり善であり美ですから鼻高々でも当然です。
ただ、それ以外の時間は、自分の行いが何か心に納得いかないので、とてもひねくれて
過ごしていました。私の離人の原点はここにあると思います。
というのは、与えられた役割を全うする人生の主役である「自分」は「自分である」のに
与えられた役割から自由である「自分」、あるいはあてはめる規準がわからないために、
それがはたして「やるべきこと」なのかどうかもわからないような行為をしているときの
「自分」は「自分でない」ということでしょう。
「自分1が自分2である」ことの自明性(同一性)の喪失は離人症や統合失調症を引き起こすと
言われています。私見では、両者は構造的に合わせ鏡のような関係に見えます。離人症者は
「自分1は自分2でない」と言いますが、統合失調症者は「自分2は自分1でない」と言うからです。
- 34 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 01:55:11
-
さてしかし、この「自分は、自分でない」というのは、自分が理想とする「自分であること」
についての否定であって、それは‘自分が’モデル化した世界の理想と現実との違いを
認識して嫌悪して、現実の世界を否定することと構造的にはかわらないように思います。
重要なのは、この「自分は、自分でない」という自我同一性の否定が、「私が、私である」
ことについての否定ではないことです。
なぜなら、そもそも「私が、私である」ところの‘自分が’、自分を、世界を如何にあるべきか、
と問うのでないなら、自分や世界が肯定と否定のそれとに相対化されることはないからです。
それが存在の是非を問う真の魂だとしたら私は比類なき魂を持っていることになる。
というのは、存在のあり方についての是非を問うているのであって、全知の神さまでもないかぎり
それはその人がどのような価値観に‘とらわれているか’の問題であって、そこで引き裂かれる
自我は、自我として確立しているからこそ、引き裂かれうるのです。
だから、ここで問題になっている自我の分裂は「自分が、自分である」ことの成立と‘同時’に
成立しているところの論理的必然としての否定「自分が、自分でない」こととの分裂なのです。
「自分は、自分でない」は「自分は、自分である」の否定ですが、「私が、私である」ことの否定
でないのは、どのような仕方であれ、現われるものを否定するためには、否定する何ものかが
いないとならないからです。この何ものかが「私が、私である」ところの「私」です。
けれども、おそらく、この「私」は「私である」というあり方はしていないのです。
主語を前提しない「私である」そのもの、あるいは「私である」こと以外に一切の属性を持たない
たんなる「私」、あるいはまた「私である」こと以外の一切の想定(他人の実在、世界の実在)を
許さない比類なき存在(唯一の実在)……だから「私」は、この世に存在しない……はずなのに、
どうしてだか「この私」なのです。だから――どうして私は、この私なのか――になるのでしょう。
もちろん「この私でさえない」と思うから、しかし「この私でしかない」からこその問いなのですが。
- 35 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 02:30:55
-
>前スレ最後のレス
>否定することから離れて自分の生に戻ってくるにはどうすればいいのでしょうか?
いつでも〈今〉、どこでも〈ここ〉、何ものでも〈ある〉、
だから、いつでもなく、どこでもなく、何ものでもない魂の私(私でしかない私)と、
その魂の私を了解してしまうこの私とのあいだの溝が、普通一般には、
「(魂の)私は(今ここにいる)この私である」という自明性によって埋められています。
たとえ魂の私が、すべての現われの否定として〈ある〉のだとしても、――――すべての現われは、
それぞれその現われ以外の現われの否定として存在しますが、あるリンゴが現われたからといって、
そのリンゴ以外の現われが消えないのは、すべての現われが起こりうるための、すべての現われの
否定ということが〈ある〉からです。この否定は、リンゴが現われたために、そこにミカンが現われない
ことの否定はできません。おなじように、世界を、人間を、この私さえも否定して、それらの否定として
〈ある〉のが、魂の私です。――――たとえその否定によって世界(現われ)が開かれる(現実になる)
のだとしても、世界はこの私の生を通してしか現われないのです。つまり、それが人生なのだから、
魂の私にできるのは、それを受け止めることだけなのです。
そうすることが、魂の私がみずから開いたこの私の世界に参加するということであり、魂の私が
この私の生の形式を受容して人間になるということではないでしょうか。
もちろん、魂の私が人生に参加しないといけないような理由があるのかどうかはわからないけれど、
本来、魂の私の、この私(自分)の人生の絶対否定とは、この私の人生の絶対肯定のことなのです。
わたしの論理がまちがっていなければ、それは確かなことです。
- 36 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 03:03:50
- >>32 ムートンさん
>この疑問は幼少の頃から常に持ち続けていました。親にも誰にも聞けない疑問(悩み)として。
>あらゆる知覚はなぜこの一固体にのみ感じることになっているのか?
>他からの視点を持つことが何故できないのか?
>疑問は解消されぬまま、それを埋め合わせるように客観的な思考のみが発達していきました。
わたしはこのことについてばかり話していますが、他スレでもほとんど理解されませんでした。
わたしにこのことについての実体験がないので、その次元での共感が得られないのでしょうか。
もしかしたらまったくちがう問題を論じているのかもしれません。是非とも批判をしてほしいです。
>さいきんヴィトゲンシュタインの論理哲学論考という本を買ってきました。
>彼は戦場の中で何を感じ、手記を取ったのでしょうか?感性に任せて読んでみます。
彼は、生きることを生きた。
戦場に赴くのに、戦うのに、生き抜こうとするのに、根拠なんてない。
彼は「1+1=2」と答えを出すように、志願し命懸けで戦いました。
『論考』に書いてあるのは、根拠は論理の外にあること、それだけです。
是非、感想を聞かせてください。
- 37 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/11(土) 03:18:29
-
>わたしの論理がまちがっていなければ、それは確かなことです。
>『論考』に書いてあるのは、根拠は論理の外にあること、それだけです。
確かなこと、ほんとうのことは、論理の外にあるのかもしれない。
でも、そこに至るために論理を駆使するのが哲学でもあるのです。
ウィトゲンシュタインは、『論考』で、魂の私のあり方と、魂の私がもとめるもの「倫理」の在処を、
『探究』では、この私のあり方と、この私がそのようにあることの「規範」の在処を指し示しました。
- 38 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 02:07:27
- なんか必死だな。
- 39 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 08:15:34
- 離人症って病気でいいのか・・まあ、社会には適合しずらいだろうけど
今時カウンセラーだの心理セラピー等、商売が成り立つ変な時代だし
感情が気薄になったとはいっても、情念の柵からは決して逃れる事はできず
鬱か虚無的になるかルサンチマンに囚われるかの何れかだろう。
つか、病気治したいなら哲学より信仰向き、精神病を自覚したとしても
理性に頼ってばかりの手探り状態じゃ迷い易いよ。
役割を自覚せず演じる術すらも認識せず彷徨うばかり
学のないものは有りのままの認識表現を纏め上げ簡潔に延べられるほど理性的でもない。
そこら辺が、他者との認識の相違点。
偉人と呼ばれる者たちが、何故あれほどまでに他者に賞賛され
一般通念として広く受け入れられたのかを図り知るべきです。
- 40 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 10:18:58
- ここはひとつ仏教に戻ってーー古臭いかもしれませんが
ーーーヤフー検索:生老病死とお釈迦様
よんでみては
ーーー離人症は病気ではありません
- 41 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 11:09:08
- >ウィトゲンシュタインは、『論考』で、魂の私のあり方と、魂の私がもとめるもの「倫理」の在処を、
>『探究』では、この私のあり方と、この私がそのようにあることの「規範」の在処を指し示しました。
スマートでいい言葉だと思うよ
- 42 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/13(月) 23:18:00
- >>30 エヌさん
>誰でも自分を証明したりすることに一生を費やすものですよ。
>どのような形にせよ、動機は自分の存在を認めさえることか自分の存在を残そうと必死になる
>そういうものです
「なぜ私は、この私なのか?」の問いには、あきらかに「この私」への否定の契機があります。
この否定は、「自分は、自分でない」と否定する自分が、自分を見つめる(自身を対象化する)
ことによって成り立っている自分のあり方、すなわち「対自」への否定なのです。
すなわち、そのあり方が主客未分で無自覚なため「他」との媒介を要せず、だから非依存的で
自足的(無規定的、無制約的、完全自律的)、つまり比類なき(絶対的な)「即自」である無限の
「私」の、「対自」である有限の自分「この私」への、否定なのです。
この魂の私、無限の私が「なぜ私は、私なのか?」と問うとき、もはやそこには「私」の存在に
たいする懐疑は及ばない。ゆえに「私は存在する」というのが、いわゆるデカルトの「私」です。
けれども、哲学はここから先に一歩も出ていない。
「どうして私が、私なのか」も「どうして私が、この私なのか」もわからないのです。
魂の私が心のこの私‘としてしか’存在できないことのからくりや仕組みがわかっても
どうして魂の私が心のこの私として生まれて人生を送らないと‘いけない’のかがわからない。
どうして存在しないといけないのか、無であっては‘いけなかった’のかがわからないのです。
- 43 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/13(月) 23:24:28
- >>31 エヌさん
>輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
考えが変わったのですか? まあ、わたしは輪廻があると考えてもいいです。
エヌさんが>>12で言ってるように、熱力学の第一法則「エネルギー不滅の法則」や
第二法則「エントロピー増大の法則」は、ある意味では「輪廻の法則」ですものね。
さまざまに形態を変えながらも存在しつづけることを、そう考えたらいいわけです。
でも、これらの法則が展開されるための、たとえばビックバンを可能にした原点は
論理の法則が必然的に要請してしまう。なぜなら、論理の起源は因果律ですから。
原初の「因」が、ともかくも「原点」-「ある」のでないなら、何もはじまらないですから。
この発想から「無からは何も生じない」という考えが生まれるのではないでしょうか。
でも、この原点は‘この’と指し示せるような‘何か’ではなく、比肩しうるなにものも
ないのですから存在しているとは言えない。ただひとつそれだけがかがやく太陽は
無とおなじなのです。
わたしにはわからないけど、おそらくそのような原点のようにして感覚?されるのが
魂の私なのでしょう。すべての原点なのですから、必然的にすでに存在するものの
否定としてしか存在できないのです。
でもひるがえってみれば、魂の私の絶対否定とは、みずからの存在も否定するはず。
だから、魂の私のみずからの絶対否定とは、存在者たちがみちあふれるこの世界の、
すなわち、その世界がそこから開かれる心の「この私」の絶対肯定でもあるはずです。
- 44 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/13(月) 23:25:48
- >>41 ありがとう。
- 45 :sew:2006/11/15(水) 14:45:21
- お邪魔します。
お久しぶりですカオルさん。
あなたが考えたいことというのは「魂」についてのことだったんですか。
「心」と「心ある振る舞い」を中心に話しているのかと思ったらさらにその先があったんですね。
エヌさんへのレスが私へのヒントになっているのには気がつきませんでした。すみません。
あなたにその気があるのなら私はあなたとも話をしたい。
私のそういう姿勢はあのスレでの私のレスを見ていただければわかると思います。
「魂」については深く考えたことはないけど。
しかし、あのスレで私があなたに対して歓迎されざる対応をしていたわけですから、
嫌でしたらこちらとしては別に構いません。
失礼いたします。
- 46 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 20:25:45
- えげつない。
孤独になってみるべきだ君は。
対象を失ってみるべきだ。
そうすれば、どうしようもなく自分を捉え捉えられるしかなくなる。
- 47 :エヌ:2006/11/16(木) 02:46:35
- >>42 カオルさん
存在することに理由は要りませんよ
理由を必要とするのは人の脳内だけです
それに存在には対応する非在がないし
無と有の両方を兼ねてるものです
知れば知るほど真実から遠く離れるもので
わかったと思った瞬間から間違い始めるものですよ
懐疑があるから、それに対する答えがあり
否定があるから肯定するものや真実を追い求め
思考があるから判断したり分類したりしてあれこれ思い煩う
多くの事柄は思考のゲーム上で起きているのです
デカルトは思考が疑い様のない自己だと認識した
しかし思考の止んだ時自己はどこへ行くというのか?
思考を見守っているものは何なのか?
それがデカルトの抜けているところだと思う
- 48 :sew:2006/11/16(木) 14:48:04
- >>46
そのようにしてみようと思います。
>カオルさん
余計なことを書いてしまってすみませんでした。
>>45は無視してください。書き込みはもう致しません。
- 49 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/18(土) 23:36:25
- >>45 sewさん
いらっしゃい!(^.^)
>あなたが考えたいことというのは「魂」についてのことだったんですか。
はい。誤解しか招かないやり方だったかもしれません。ごめんなさい。
>エヌさんへのレスが私へのヒントになっているのには気がつきませんでした。すみません。
あなたが謝ることではありません。わたしが素直にそのように言えばよかったんです。
>あなたにその気があるのなら私はあなたとも話をしたい。
もちろん、その気はあります。わたしもあなたと話しがしたいです。
>私のそういう姿勢はあのスレでの私のレスを見ていただければわかると思います。
一応、おなじやり方で不毛に見えるレスをしておきました。どうなっちゃうのかな?
(46に書いてあるようなことをあちらのスレに書いたけど、46はわたしではありません)
>「魂」については深く考えたことはないけど。
そうですね、わたしの思いちがいなのかもしれません。
でもわたしには魂のあなたが目覚めて叫んでいるように聞こえたのです。
ムートンさんとあなたがおなじ人に感じられたり……ついでにわたしも一緒に。
いったいだれが苦しんでいるのでしょう?……妄想がはげしいものだから。(^_^;)
>しかし、あのスレで私があなたに対して歓迎されざる対応をしていたわけですから、
>嫌でしたらこちらとしては別に構いません。
イヤではありません。べつにかまわないと言われてしまうと寂しい気持ちになります。
- 50 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 02:30:12
- >>47 エヌさん
>存在することに理由は要りませんよ
>理由を必要とするのは人の脳内だけです
カオル) どうして生きているの?
エ ヌ) もちろん、生きているからさ。
カオル) どうして存在しているの?
エ ヌ) もちろん、存在しているからさ。
「私」が生きていることや存在していることにも価値はあり、
それはそのことが「価値の根源」であるという価値のことです。
それを否定してしまうと、ニヒリズムが招来されてしまうので、
それならそのような問いを生みだす脳の言語活動そのものを
成立させなければどうか、というのが宗教的な解決法でしょう。
それはソクラテスでいう「無知の知」の否定であって、この
「もう知ることはない」という思考の停止は、哲学の否定です。
理由を求めないなら理由などないのは当り前のことであって、
そこに問いなど生まれようもなく、問いは消滅してしまいます。
- 51 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 02:34:14
-
問いの消滅は、「私」が胎児や幼児であった頃のような主客未分の状態、
ゼロへのリセットです。
言語によって築き上げた「私」(0.999……)という砂上の楼閣の崩壊です。
「私」は言語とともに世界を分割(言分け)したけれど、ゼロにもどった「私」が、
どれだけ世界(1)を割ってみても、その答えはいつも無限大(∞)なのです。
ゼロは「自分自身でない」から、つねに無限大(世界のすべて)に等しいのです。
このような事態は体験としては、いわゆる「意識の拡大」と呼ばれる心の境地において
起こり、その人が「私は、世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚に象徴的に
示されています。
ここで問題なのは、まずどうして脳内にその記憶が残り思い出せてしまうのか、
次に、すべてを知っているその「私」とは、いったい「だれなのか」ということです。
また、世界の宇宙のすべてを知っている「私」と、脳をたずさえた「この私」とのこの「絆」は、
たんなる偶然なのか、そこにはどのような必然性もないのか、ということも問題になります。
- 52 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 02:45:18
-
>この「絆」は、たんなる偶然なのか、そこにはどのような必然性もないのか、
たとえ可能な科学の問題がすべて答えられたとしても、
生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。
これがわれわれの直観である。もちろん、そのときもはや
問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが
答えなのである。―― 『論考』( 6.52 )
生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。
(疑いぬき、そしてようやく生の意味が明らかになったひとが、
それでもなお生の意味を語ることができない。
その理由はまさにここにあるのではないか。)―― 同書( 6.521 )
語ることのできない「生の意味」を、人間は生の問題の消滅によって気づきます。
その語りえないところにこそ、倫理(生きる理由、存在する理由)が〈ある〉のです。
倫理が言い表しうぬものであることは明らかである。
倫理は超越論的である。(倫理と美はひとつである。)―― 同書( 6.42 )
生の意味について語ることは、魂の私について語ろうとすること。
それは語りえないものについて語ろうとすることだと思っています。
- 53 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 02:57:17
-
>それに存在には対応する非在がないし
>無と有の両方を兼ねてるものです
そのことについては、ヘラクレイトスを引用して説明しましたが、
古代ギリシアの昔から、そのような認識できないものへの探究はありました。
世界が〈ある〉こと、そのことそのものへの無垢な驚きが哲学の起源ですから。
ヘラクレイトスのいうように万物が流転しているのだとしても、万物が流転するためには、
流転しない何ものかが〈ある〉のでなければならない。だから、
あるものはあり、あらぬものはあらぬ。―― パルメニデス
という反論がきます。でも、もしそうなら、あるものがあるためには、あらぬ何ものかが
〈ない〉ものとして〈ある〉のでなければならない。すなわち〈無〉が〈ある〉のでなければ
ならないことになります。
日々生まれ変わっていく「この私」が現に存在するためには、生まれ変わらない「私」が
〈いる〉のでなければならない。あらぬ「私」が〈いる〉のでなければならない。
いったいあらぬ「私」とは、だれのことなのか?
- 54 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 03:06:48
-
>知れば知るほど真実から遠く離れるもので
>わかったと思った瞬間から間違い始めるものですよ
わたしが疑問なのは、意識の拡大によって「すべてを知っている」という体験をした人が、
じつは「何も知らない」ということです。もし何も知らないということがすべてを知っている
ということなら、真実からもっとも遠く離れようとするこころみかもしれない哲学の営みは、
いつか位相が逆転して、すべてを知っていることになるのかも、と妄想してしまいました。
>懐疑があるから、それに対する答えがあり
>否定があるから肯定するものや真実を追い求め
>思考があるから判断したり分類したりしてあれこれ思い煩う
>多くの事柄は思考のゲーム上で起きているのです
その通りだけど、その思考(言語)ゲームが「いかに成り立っているか」、
あるいは「いかに用いられているか」を、哲学が考察しようとするのは、
「いかに成り立っているのか」への問いが「そのように成り立っていること」そのものへの、
「いかに用いられているのか」への問いが「そのように用いられていること」そのものへの、
そのような〈神秘〉への思いがあるからです。思い煩うことを通して真理に接近するのです。
>デカルトは思考が疑い様のない自己だと認識した、しかし思考の止んだ時、
>自己はどこへ行くというのか? 思考を見守っているものは何なのか?
>それがデカルトの抜けているところだと思う。
わたしは、いま「魂の私」について考えようとしていますが、デカルトの「私」は、
あきらかに「魂の私」のことだと思います。デカルトを批判したパスカルの「私」も
おそらくそうです。けれど、おなじ「私」(とは言っても、比類なき唯一の私ですが)
について驚いていながら、パスカルでさえデカルトの‘それ’を読みちがえています。
いわゆるデカルト解釈によって抜け落ちている‘それ’こそが、ゆえにある私、です。
- 55 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/21(火) 03:09:17
-
ねぇムートンさん、ヘンなこと聞いていいですか?
うん、いいよ。
私は、どうして生まれて来たのかな?
私は、ムートンさんでもよかったのに
どうして私は、カオルなのかしら?
ムートンさんと私はとても似てるし、
きっとムートンさんが私でもよかったんだよ。
それなのにどうして私は、カオルになっちゃったの?
えっ? カオルちゃんが私だって?
そんなわけないさ。
えっ! どうして?
だって、この僕が、私だからさ。
ふたりの私、共存することのけっしてないそれが「魂の私」です。
この比類なき私が、かけがえのないそれぞれの‘私たち’に読みちがえられて、
他人にも理解される私になったときが、いわゆる哲学における独我論の私の誕生です。
詳しくは、永井均『〈子ども〉のための哲学』が参考になると思いますが、
魂の私の体験は、だれにでも起こりうるし、あるいは起こっていること。
哲学者や特殊な人間の体験ではありません。永井の本が版を重ねるのも
そのひとつの証明です。(それにこだわり考えつづけるのは特殊ですが)
- 56 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/11/25(土) 01:09:38
-
ひまわりの花のように
わたしは校庭のまんなかで
ふりそそぐ太陽の光をあびていました
透明なからだと純粋なこころは
盲目の歓喜にふるえていました
すべての時間と場所をつらぬいて
そこから世界がひらけるかのように
消えてしまいそうなわたしのかわりに
世界のすべてがあらわれていました
存在の完全な安心
そのまどろみを切り裂いたのは
猛烈な吐き気でした
今、今、今、沸き立つ今が流れ出した
宇宙の塵のなかの一粒の砂の抵抗
永遠のなかの一瞬、わたしの苦しみ
- 57 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/11/29(水) 22:46:33
- >>37
さしずめ「論考」が入門書で「探求」が実践書といったところでしょうか。
>>39
偉人たちはあくまで探求し続けたゆえにそう呼ばれるまでの何かを残せたのでしょうか。
>>40
仏教というか釈迦の教えや逸話は幼い頃から大体学んできました
まさにそれが今私を縛っているものなのです。しかしそれでも迷い、悩み、苦しんでいるのは
私に理解力が足りないからでしょう。
>>42
「何故私は私なのか?」その時点で私の存在が確立されるのがデカルトの論理でしょうか。
我思う 故に我あり
なぜそうなるのか・・・省略しすぎで私には理解しかねる。
私はもう考えることに、知ろうとすることに、疲れたのかもしれない。
分からないまま時間は過ぎていき、確実に「貴重」な生の時間は
前に進むことなく潰されていく。
焦りなのか、答えを見つけたのか、分かりませんが
私は今とにかく愛に近づきたい。愛という行為を行いたい。
親は私に形式的な「博愛」と「同情」を教えてくれたが
「愛」そのものは教えてくれなかった。
- 58 :ムートン ◆Sheep2h65. :2006/11/29(水) 23:00:32
- >>51
気づけば自己が言語と数式を拠り所として存在している。そんな気分でしょうか。
>>52
そこで「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と導き出したのでしょうか。
>>53
答えは自分そのもののような気がしてきました。
「分からない」。それが答え。
>>54
人が真理を追い求めようとするのは、混沌を嫌うからではないでしょうか。
人は満たされないと全てを破壊したくなるけれど、ある程度満たされると
それを法則的に永続させるべくその術を捜し求める。どこまで行っても人は
そういう原理に基づいて行動するしかできないのかもしれませんね。
>>55
私はあなたではない。その私なりの理由は、「対面」しているから。
まず最初に、別固体として意識しているから。そこに壁があるのだと思います。
私たちは物理的にも「愛」の力を持ってしても、その壁を越えることはできない。
それはそのスタンスのせいなのだと思います。別物だけど、近寄りたい何かがある。
与え、受け容れたいと思う何かを互いに持っている。
その状態に行き着くことが「愛」でしょうか。私には分かりません。
- 59 :THE グル:2006/11/29(水) 23:11:33
- いいですか、
愛は「私」の存在そのものと融合している時にだけ存在するものです。
大抵の人は愛と共に生まれ、愛をそれと気付くことなく過ごしてしまい、大人になる頃には失ってしまっています。
もし再び融合できれば、愛を知りつつ感じつつ存在できるようになり、時を忘れることでしょう。
- 60 :エヌ:2006/11/30(木) 00:24:37
- >>50
カオル) どうして生きているの?
エ ヌ) 生きることに理由が必要なのは人間だけだよ
カオル) どうして存在しているの?
エ ヌ) 存在しないものなどどこにもないよ
存在理由無く存在を知ることが、知らないことを知ることであって
それが、ソクラテスのいう「無知の知」ですよ
問いの消滅はニヒリズムでもなく価値の消失でもなく
思考の停止は、哲学の否定だとしても
実存の顕現です
- 61 :エヌ:2006/11/30(木) 00:29:57
- >>54
> 意識の拡大によって「すべてを知っている」という体験をした人が、
> じつは「何も知らない」ということです。
> もし何も知らないということがすべてを知っている
> ということなら、真実からもっとも遠く離れようとするこころみかもしれない哲学の営みは、
> いつか位相が逆転して、すべてを知っていることになるのかも、と妄想してしまいました。
それが無知の知です
- 62 :エヌ:2006/11/30(木) 00:47:05
- >>56
消えてしまいそうなわたしとともに
世界のすべてが消えてゆく
すべての時間と場所はもはやなく
世界のすべては閉じられた
世界の不在ゆえに完全な安心が訪れた
世界の代わりに落ち着きと静寂がある
その静寂を切り裂いたのは
猛烈な歓喜でした
祝福につぐ祝福
再び世界が新たに顕現した
妄想の世界ではなく
もとあった姿の世界
そこには沈黙があり
微笑があった
- 63 :エヌ:2006/11/30(木) 00:53:53
- わたしが消えた時
わたしはいなくなった
わたしが消えた時
再び帰還することができた
わたしが消えた時
世界も同時になくなった
わたしが消えた時
元の鞘に収まった
わたしが消えた時
妄想は終わりを告げた
わたしが消えた時
現実があった
わたしが消えた時
沈黙があった
わたしが消えた時
わたしは死んだ
わたしが消えた時
祝福があった
わたしが消えた時
存在は称え合っていた
わたしが消えた時
存在は微笑していた
- 64 :エヌ:2006/11/30(木) 01:02:17
- わたしが消えた時、自由であった
わたしが消えた時、何にでもなれた
わたしが消えた時、何者でもなかった
わたしが消えた時、一切全てであった
わたしが消えた時、境界はなかった
わたしが消えた時、一切の謎は解明された
- 65 :考える名無しさん:2006/11/30(木) 06:55:00
- それはすごい。まじかよ。
ところでいつから哲学=自分で考えることという、
一行動を崇め祭り目的化するような倒錯、
いわば偶像崇拝が蔓延するようになったんだろう。
- 66 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/03(日) 02:27:17
- >>57 ムートンさん
>さしずめ「論考」が入門書で「探求」が実践書といったところでしょうか。
『論考』は精神の超越について、『探究』は身体の超越について、
だから、『論考』は神を、『探究』は歴史を、指し示しているように思います。
精神と身体とに引き裂かれた「私」の生の、その存在神秘に導かれた思想です。
>我思う 故に我あり
>なぜそうなるのか・・・省略しすぎで私には理解しかねる。
「思う」というのは、すべての「現われ」のことで、
「私」において、すべての「現われ」が、ゆえに(=)〈ある〉ということ。
「私」という存在者が「いる」のではなくて、「私」=〈ある〉ということ。
「すべての現われ」は(=)「私において」ということが(=)「私である」ということ。
- 67 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/03(日) 02:31:29
- >>58 ムートンさん
>気づけば自己が言語と数式を拠り所として存在している。そんな気分でしょうか。
気づいたら、どうしてだか「私は、この私」でした。
現に存在する「この私」は、だからこの世界の中に存在するけれど、
どうしてだか、この世界の中に「私」はいない、という絶対の孤独感です。
>>52
>そこで「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と導き出したのでしょうか。
たとえば、あなたの言う「ほんとうの私」について、あるいは「愛そのもの」について、
わたしはそれらについて語ってみせようとしますが、その語りはけっして哲学ではない、
というのが、ウィトゲンシュタインの考えです。
自然科学の命題以外は、それゆえ哲学とは関係のないこと以外は、何も語らぬこと。
そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、
あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。
これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。―― ( 6.53 )
語りえないもの、それゆえ非意味的な( nonsensical )ものにこそ価値があり、
それらは人生において「実践」されるべきものである、と考えていたようです。
率先して戦争に参加したのも、おそらくそのような信念にしたがってのことでしょう。
そうすることは、もはや真偽や正誤の問題ではないからです。
- 68 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/03(日) 02:40:39
- >>53
>答えは自分そのもののような気がしてきました。
>「分からない」。それが答え。
答えがないということが、答えでしょうか。
なぜ答えがないのかというと、問いが消滅してしまうからです。
なぜ問いが消滅してしまうのかというと、生の形式を超えているからです。
すなわち、
生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。( 6.52 )
けれども、疑いぬいてようやく明らかになった
生の意味を語ることはできない。( 同 )
なぜなら、そもそも生の意味は問うことさえできないものだからです。
ゆえに、
倫理が言い表しうぬものであることは明らかである。
倫理は超越論的である。―― 同書( 6.42 )
と言われるわけです。
このような到達がもっとも根源的な生の形式だと思います。
わたしは、ここに人が神を思うことの必然性を感じます。
- 69 :sew:2006/12/06(水) 13:46:03
- カオルさん、こんにちは。
お邪魔します。
魂についてですよね。
どういう話をしたら良いのかわからないので、簡単に箇条書きに私の考え(イメージ)を書きます。
1.魂は永遠に輪廻し続けるもの
2.肉体としての自分はいずれ滅びてしまうけれど、魂としての自分は永遠に滅びない
3.魂は肉体から肉体へ移っていく(1つの肉体が死んだら次の肉体へみたいに)
多少重複してるかもしれませんが、こんな感じです。
カオルさんの方が私よりも魂について話をしてそうなので、
話の最初の方はカオルさんに主導をお任せしてもいいですか?
よろしくお願いします。
- 70 :考える名無しさん:2006/12/07(木) 03:20:04
- あー、ホント、いつの間にこのスレは気持ちの悪いスピリチュアルスレになったんだ。
- 71 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/07(木) 03:30:05
- >>54 ムートンさん
>人が真理を追い求めようとするのは、混沌を嫌うからではないでしょうか。
ふつうには、より良きより高きをめざして人は価値の選択をくりかえします。
より悪しきより低きに流れることは簡単かもしれないけれど、本心において
それをもとめることはかえってむずかしいのではないでしょうか。
より良きより高きの価値の選択の先には、いったい何があるのでしょうか。
もう比べうることのできない、そのような至高の価値があるのではないか、
と妄想するのは、おそらく必然的なことです。その想念が神を創造します。
それにしても、現にこのわたしがいるのは、いったいどういうことなのか、
と想像するとき、その想像は時空の果てをのぞみ、そうして自己の有限を
知ってしまうでしょう。
それでもわたしの意識の矢は止まらず、時空の果てのその先を突き抜ける。
そうしてついには、わたしは生まれなかったことにされてしまうのです。
>人は満たされないと全てを破壊したくなるけれど、ある程度満たされると
>それを法則的に永続させるべくその術を捜し求める。どこまで行っても人は
>そういう原理に基づいて行動するしかできないのかもしれませんね。
けれど、その原理は人間の原理であって、わたしの原理ではないでしょう?
わたしがいなくなっても世界はある、と自然科学者たちは口を揃えて言う。
けれど、そんな夢物語を聞いてあげてるのは、いつだってこのわたしです。
それなのになぜかしら、今日もわたしは地上に立って月を見上げています。
わたしがいなくなったら月もなくなってしまうのに、わたしの月はわたしの
思い通りになりません。いつだってわたしは月を見上げるばかりなのです。
- 72 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/07(木) 03:31:51
- >>55 ムートンさん
>私はあなたではない。その私なりの理由は、「対面」しているから。
私があなたではないのは、私がこの私だからです。
そうでないなら、私はムートンさんでもかまわなかった。
(語りえない)魂のあなたは、たまたまムートンでした。
魂のあなたは、幼少の頃から「私はどうしてムートンなのか」
と疑問に思っていた。親にも誰にも聞けない疑問(悩み)として。
どうしてだか、すべてがこのムートンの視点を通して立ち現われてくる。
と、その一個体をながめているその視点は、だれのものなのでしょうか。
>与え、受け容れたいと思う何かを互いに持っている。
>その状態に行き着くことが「愛」でしょうか。私には分かりません。
相手のかけがえのなさを自分のそれよりも大切に思う気持を
お互いが持ちつづけられたらいいですね。いえ、相手が大切に思ってくれなくても
相手のことを大切に思うことが愛なのでしょうけど。
- 73 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/07(木) 03:34:17
- >>69 sewさん
レスありがとうございます。
> 1.魂は永遠に輪廻し続けるもの
> 2.肉体としての自分はいずれ滅びてしまうけれど、魂としての自分は永遠に滅びない
> 3.魂は肉体から肉体へ移っていく(1つの肉体が死んだら次の肉体へみたいに)
「私は、どうしてこの私なのか?」を「私は、どうしてカオルなのか?」に言い替えてみます。
「どうしてカオルなの?」という疑問は「カオルでなくてもよかった」と思っているからです。
現に「今」こうして「ここ」に、この「体」と「心」をもって生きているのが不思議なのです。
「今、ここ」という時空も、同じ一つの「心、体」が継続してきたという自己同一性も
否定してしまえるということが、すなわち「魂という概念」を呼び寄せてしまうのです。
でもだからといって、いわゆる「魂」(上記1〜3)のことを、はじめから想定している
わけではなくて、そのように名付けることでしか共通理解のしようがないと思ったのです。
わたしたちの日常の共通感覚では「私は、どうしてこの私なのか?」は「私が、対象化した
私を指さしている」ような事態として理解されることでしょう。またそのように理解されて
しまうことで、わたしたちの共通感覚が可能になるのであって、その土台の上で日常生活が
営まれているのだと思います。
はたしてsewさんは、わたしの話しをどのように理解されたでしょうか?
(それから哲学の議論は面倒なので上記1〜3を検討するには時間がかかるかもしれません)
- 74 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 02:40:53
- >>60 エヌさん
>存在理由無く存在を知ることが、知らないことを知ることであって
>それが、ソクラテスのいう「無知の知」ですよ
知りうるものではないものへの知ということですね。
なにも知らないこと(知りえないこと)を知っている、と。
でも、それを知っている、このわたし、が哲学するのですよ。
>問いの消滅はニヒリズムでもなく価値の消失でもなく
>思考の停止は、哲学の否定だとしても実存の顕現です
実際に存在している「唯一のもの」の顕現ということですよね。
もちろん、唯一のものの顕現は、だれも見ることができません。
唯一のそれは、あらゆるものの存在の条件「ある」そのものであり、
それが「魂」である、というのがエヌ定義ですから、この場合の
「実存」とは「存在そのもの」と同義になりますね。
でも、このとき「私」は、どこに行っちゃったのですか?
たとえば、主題の範囲を私自身に限定したときの、私の
存在の仕方としての実存は、どこに消えてしまったのですか?
(つづく)
- 75 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 02:53:26
-
(つづき)
私は、自分が「いる」ことが「わかって」います。
この了解が、私が「実(際に)存(在)している」ということです。
私の起源へさかのぼります。
赤ちゃんは、生きていることそのものだから、まだ「私」ではなく、
言葉も行為もない。だから世界もない。すべて(∞)から、言葉が、
私が、何かを切り分けてきて、はじめて世界が形作られる。
赤ちゃんは「私」ではないから、行為の責任もとれない。
赤ちゃんは、引き受けるものがなにもない(ゼロ)から、
すべて(∞)から、何かを限定する(取り出す)こともできない。
けれど、だから、世界を持たなくても、すべて(∞)と同じなのです。
あんなに小さくてか弱い赤ちゃんが、じつは宇宙そのものだったり、
もしかしたらあなただったり……するのかもしれません。
「はじめに言葉ありき」の超越的言葉(魂の私)が、自分自身「生きていることそのもの」を、
個体としての生命「生きていること」が、すなわち(=)「私である」と、自己限定するまでは。
(この規定が、この「私」の定義でしょう)
(もっとつづく)
- 76 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 03:01:13
-
(つづき)
だからこそ、魂の私にもどることは、この私を殺すことに他ならない。
この私が、世界が、魂の私がいてこその物種(永井均)にすぎないなら、
この私が生きていて世界があることに、何の意味もないではないですか。
だからニヒリズムとは、この私のアイデンティティに他ならないのです。
ここに留まってこそ、この私の生があり、死ぬまでは殺されないのです。
そのための哲学なのだから、哲学は魂の私への反逆でなければならない。
この私が生きているということが、この私が存在しているということだから。
わたしたちが、――私は思う、ゆえに私はある――を、
魂の私ではなく、この私のこととして受け取るのは、
わたしたちが、有限の生における自由をこそ、選択しているからです。
なぜなら、この私にとって「この私であること」の選択こそが、
おそらく唯一の、そして至高の価値の選択に他ならないからです。
一方における至高の価値の選択「魂の私であること」の拒否は、
だから、この私が「生きて、存在していくこと」の選択であり、
すべての相対的価値の根源としての至高の価値の選択なのです。
この選択の先には、相対的な価値の選択しかありえないのだから、
そうであるなら、最初のこの選択こそが、唯一の、そして至高の
価値の選択なのです。
だから「生きているだけでいい」というのは、本来この意味で
‘なければならない’と、わたしは思うのです。
- 77 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 03:13:22
- >エヌさん
相変わらずの論理には呆れたことでしょうが、
相変わらずでもないことにも気づきましたか?
さて、質問させてください。
a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
b.思考停止(問いの消滅)とは、このことではないでしょうか?
(もっと悪くいうと、この私の生きる意欲の消失でしょうか)
c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
暇だったら、お願いします。
- 78 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 03:35:04
- >>59 グルグルさん
いらっしゃい!
ごめんなさい、気づきませんでした。
でも哲板1,2の論客、碩学の人がなぜ?
いえ、よかったらまた来てくださいね。(^.^)
>愛は「私」の存在そのものと融合している時にだけ存在するものです。
乖離しているからこそ、愛とはなにか、私とはだれかを、問えるのです。
問うことをやめたなら、愛に擁かれ言葉は死ぬでしょう。いえ、わたしが。
愛とともに生まれ、それに気づくことなく、わたしがわたしになったとき、
恐ろしい影がやってきて、やがて大きな顔になって、わたしを覗き込む。
わたしのやること為すことが、大きな顔の視界の中の出来事にすぎない。
わたしの生きていることさえわたしの出来事ではないのだ。わたしなの?
カオスの海にとけるとき、泡沫はもう生まれないと夢を見て消えるのです。
いったいだれがそれを叶えないのか。だからきっとわたしは神を赦さない。
- 79 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/08(金) 04:34:05
- >>62-64 エヌさん
魂の私、実存の顕現の表現ですね。
ひとは、魂の私と心の私とのあいだで人間になるのでしょう。
( わたし + エヌ ) ÷ 2 = 人間、でしょうか。(^.^)
――― パスカル 『パンセ』 から。
私は、私を閉じこめている宇宙の恐ろしい空間を見る。
自分が、この広大な広がりの中の一隅に繋がれているのを見るが、
なぜ、ほかのところでなく、このところに置かれているのか、
また、私の生きるべく与えられたこのわずかな時が、
なぜ、私よりも前にあった永遠と、私よりも後にくる永遠の中の
ほかの点ではなく、この点に定められたのか、知らない。
私は、あらゆる方向に無限しか見ない。
それらの無限が、私を一つの原子か、一瞬あとには、
ふたたび帰ることのない影のように閉じこめているのである。
私の知っていることのすべては、
私が、やがて死ななければならない、ということであり、
しかも、このどうしても避けることのできない死こそ、
私のもっとも知らないことなのである。
私は、自分が、どこから来て、どこへ行くのか、知らない。
- 80 :sew:2006/12/09(土) 17:15:07
- >>73
確かに「私」という概念は「私」というものを対象化しないとないと思います。
「私」が見ている世界には「私」は存在していなく、「私」が見ている世界の外に「私」が存在している。
というようなことを本で読みました。
だから「私」というものを唯一「私」だけが特別な対象として見ることが出来るし、
それにより、「私」を「私」だと認識することが可能なのだと思います。
「私」という1つの個体は、カオルさんが仰る様に時空や心・体などの
無数の条件が折り重なって初めて個体となるのかもしれない。
しかし実際はどうなのかわからない。
自分という個体がいかにして成り立ったのかは生物学的な面(物的な面)ではある程度の形ある説明がつくかもしれない。
実際に見たり、触ったりすることが可能だから。
しかし、別の側面(精神面など)からでは、共通理解をすることすら難しいのではないかと思います。
見ることが出来ないし、自分たちで表現したり想像することでしか、そういうものだ、と認識することが出来ないから。
結局は精神論の領域なのだと思います。
カオルさんが話したいことがなんとなく理解できました。
「魂」そのものの検討ではなく、自分は何故自分なのか、というような命題についての話をすることかな、と。
私が書いた1〜3についての検討はやってもやらなくてもどちらでもいいです。
カオルさんのレスを見ていて、少し違うことを書いてしまったような気がしたので。
- 81 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 19:46:09
- 『この私』は滅びます。必滅です。
その死骸の上に一輪の花が咲きます。
不滅です。きっと。
- 82 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 23:48:32
- カオルちゃんは、相変わらずの「ポエム哲学」で悦に入ってるようですねぇ・・w
>あんなに小さくてか弱い赤ちゃんが、じつは宇宙そのものだったり、
>もしかしたらあなただったり……するのかもしれません。
赤ちゃんが「じつは宇宙そのもの」っていうのは、存在そのものと一体化してるっていう意味かな?
だったら、赤ちゃんでなくても、普通の大人の人間以外の存在は、存在そのものと一体化してるんじゃないの?
まぁ哲学では、存在そのものからの乖離を「自己意識」にあると考えるのが一般的なんじゃないか・・?
旧約聖書でいえば、アダムとイヴが禁断の木の実を食べたときに、自分で自分を見て、自分が裸であることを知ったのが始まりですね。
ギリシャ神話でいえば、プロメテウスの火が「自己意識」のことだと解釈する人もいるけど・・
「自己意識」・・
つまり人間には自己が二つあるということですね。
キルケゴールは「精神とは自己と自己との関係である」と言ってる。
ニーチェは「自己と自己とはあまりにも熱心に対話する」と言ってる。
クレタ人の嘘つきのパラドクスだって、こういう二重の自己の自己分裂からきてるんですよね。
>だからこそ、魂の私にもどることは、この私を殺すことに他ならない。
「この私を殺す」っていうのは、自己意識を捨てるってことですか?
>だからニヒリズムとは、この私のアイデンティティに他ならないのです。
とか
>そのための哲学なのだから、哲学は魂の私への反逆でなければならない。
とかは、まったく意味不明ですね・・(意味不明なところが多いけど、たぶんカオルちゃんの「ポエム哲学」には意味不明なところがないといけないんでしょう・・w)
- 83 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 23:49:32
- >a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
逆でしょう? (理由は上に書いたとおりですけど・・)
ちなみにニーチェとかドストエフスキーは、意識の過剰を現代人の病いと考えてますよね。
>b.思考停止(問いの消滅)とは、このことではないでしょうか?
カオルちゃんの「どうして生きているの?」「どうして存在しているの?」っていうのは、問いの立て方が稚拙なんですよw 人間は既に存在の中へと投げ込まれているんだから、そういう問いは哲学的じゃない。
そういう問い方がカオルちゃんの大好きな「神さま」を呼びますね・・w
>c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
「生命」とか「無機物」とかをどう考えるかでしょう。
存在そのものを「意志」と考えるショーペンハウアーとかニーチェなら、生命と存在の境界はありませんよ。古代ギリシャの物活論なんかもそうでしょうけどね。
- 84 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 00:45:13
- アホクサw
- 85 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 03:38:33
-
はい。カオルは不滅です。ガクガク((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル
(((( ;゚Д゚))))ブルブル
- 86 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 03:43:32
- >>80 sewさん
>「私」が見ている世界には「私」は存在していなく、「私」が見ている世界の外に「私」が存在している。
たしかに見ている「私」は、見られている世界の中の「私」ではないでしょう。
見ている「私」を世界を限界づける外枠のようなものとか、そこから世界が開ける
原点のようなものとか想像することはできるかもしれませんが、その外枠「外」や
その原点「以前」は、もはや想像することさえゆるされないでしょう。
もしもほんとうにその外枠の中にしか世界がなかったり、あるいはその原点からしか
世界が開かれないのであれば「世界は私の世界である」と言えるかもしれません。
>だから「私」というものを唯一「私」だけが特別な対象として見ることが出来るし、
>それにより、「私」を「私」だと認識することが可能なのだと思います。
たとえ私の「唯一さ、特別さ」が、私から‘のみ’世界が開け、私の中に‘しか’世界が
ないからこその「唯一さ、特別さ」なのだとしても、それを知りうるのはだれなのか?
世界の外から「唯一「私」だけが特別な対象」と規定しうるのは、いったいだれなのか?
世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?
>別の側面(精神面など)からでは、共通理解をすることすら難しいのではないかと思います。
>見ることが出来ないし、自分たちで表現したり想像することでしか、そういうものだ、
>と認識することが出来ないから。
ええ、だから「私の世界が唯一の世界なんだから、私は他の人たちとはちがって特別なのよ」
とか言えてしまうんです。「いや、オレのほうこそ、その唯一で特別な私ってやつだよ」とか
言われたら「いいえ、この私が私に決まってるじゃない」とか言い返すわけです。
そうしないと、私の「唯一さ、特別さ」がどこかに消えてしまうので。
>自分は何故自分なのか、というような命題についての話をすることかな、と。
はい、そうです。
- 87 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 03:50:10
- >>81さん
>『この私』は滅びます。必滅です。
>その死骸の上に一輪の花が咲きます。
>不滅です。きっと。
その一輪の花の前世が、その死骸だったら、
「オーラの泉」で説教されそうで、最悪です。(^_^;)
- 88 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 04:39:34
- >>82
>カオルちゃんは、相変わらずの「ポエム哲学」で悦に入ってるようですねぇ・・w
>>85だけでは申し訳ないので。
>まぁ哲学では、存在そのものからの乖離を「自己意識」にあると考えるのが一般的なんじゃないか・・?
この私がどうのこうの言ってるんだから、そうでしかありえないでしょう?
禁断の木の実を食べた証拠は、男性にしか現われていないです。ええ、その(アダムの)喉仏です。
>「自己意識」・・
>つまり人間には自己が二つあるということですね。
自己反省的(言及的)、あるいは自己帰属的な主体「自己」については、そうでしょうね。
>キルケゴールは「精神とは自己と自己との関係である」と言ってる。
これは、今↑言った「自己」とはちがいますね。
>クレタ人の嘘つきのパラドクスだって、こういう二重の自己の自己分裂からきてるんですよね。
「自己言及のパラドクス」と呼びますから、そうでしょうね。
>「この私を殺す」っていうのは、自己意識を捨てるってことですか?
そうですね。
>まったく意味不明ですね・・(意味不明なところが多いけど、
>たぶんカオルちゃんの「ポエム哲学」には意味不明なところがないといけないんでしょう・・w)
そう思ってもらってかまいませんよ。わたしには意味不明どころか自明なんですけどね。
- 89 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 04:46:53
- >>83
>>a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
>逆でしょう? (理由は上に書いたとおりですけど・・)
>ちなみにニーチェとかドストエフスキーは、意識の過剰を現代人の病いと考えてますよね。
ん? 意識の過剰(肥大した自我)の縮小が意識の拡大では? なぜに逆?(興味津々)
>カオルちゃんの「どうして生きているの?」「どうして存在しているの?」っていうのは、
>問いの立て方が稚拙なんですよw 人間は既に存在の中へと投げ込まれているんだから、
>そういう問いは哲学的じゃない。
>そういう問い方がカオルちゃんの大好きな「神さま」を呼びますね・・w
すでに生きていて生きていないことができないし、すでに存在していて存在しないこともできないし
ってことですね。双方について知りうる者だけが、一方のこともわかる、それが、神さま、と。
ウィトゲンシュタイン先生の言うとおりにするのが良い子なんですか?
じゃあ、わたしは悪い子ですね。(笑)
>c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
>「生命」とか「無機物」とかをどう考えるかでしょう。
それを言うなら、そもそもの時空についても考えないとね。でも、
>存在そのものを「意志」と考えるショーペンハウアーとかニーチェなら、
>生命と存在の境界はありませんよ。
ということでいいなら、それにしておこうかな? 落差激しくないですか?(笑)
- 90 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 05:42:08
- >>89
>ん? 意識の過剰(肥大した自我)の縮小が意識の拡大では? なぜに逆?(興味津々)
あー・・
今「意識の拡大」で検索して気づいた・・
これは《精神世界》の用語みたいねw
http://www.interq.or.jp/sun/sela/sela/sekaiju/6-16.html
「自らの神性を顕現せよ。そのために愛と調和に基づいた発想をせよ。そしてどんどん意識拡大し神と同じレベルまで昇ってくるのだ。」
カオルちゃんが、《精神世界》のお話しを《哲学》としちゃうことをすっかり忘れてました [苦笑]
- 91 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 06:18:57
- >>90
>カオルちゃんが、《精神世界》のお話しを《哲学》としちゃうことをすっかり忘れてました [苦笑]
体験そのもののことはともかく、そのような体験の記憶の想起が
どうしてだかわからないけれどもできてしまうので、そのような体験の
報告がされているのですよ。それについて検討しているのです。
よく指摘されるのは、脳内麻薬の分泌との関係です。
つまり、人工的にそのような現象が引き起こせるのですよ。
べつに珍しい体験でもないように思いますよ。
エヌさんの記述の多くも、この体験にもとづくものですしね。
もちろん=でないにしても、まったく別のことではないでしょう。
今している魂の話だって、あなたの範疇では完全にオカルトです。
でも、簡単にオカルト扱いしてしまわないのが哲学ではないですか?
だって、あなたはググッただけで何も知らないのだから。
- 92 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 09:35:53
- >エヌさんの記述の多くも、この体験にもとづくものですしね。
>もちろん=でないにしても、まったく別のことではないでしょう。
>
>今している魂の話だって、あなたの範疇では完全にオカルトです。
>でも、簡単にオカルト扱いしてしまわないのが哲学ではないですか?
エヌさんの記述っていうのが、何を指してるのかわからないけど、いまざっと見た限りでは、カオルちゃんよりエヌさんのほうがずっと哲学的だね。
エヌさんの哲学的発言の例↓
>>31
>輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
>>47
>存在することに理由は要りませんよ
仏陀だって、死後の世界などの形而上的事柄については、基本的には「無記」(答えない)という立場だったはずで・・
仏陀はとても哲学的な人だったと思う。
仏教で輪廻について語られるのは、古くからインドに伝わる輪廻を信じている民衆のための方便だったんだろうね。
ニーチェの永劫回帰だって、ニーチェはそれを「仮説」であると明言している。
その仮説がどういう意味を持つかといえば、キリスト教の終末論的で有限な直線的時間論に対して、
永劫回帰という仮説を対抗させることで、目的論的思考を超克しようとした、という意味をちゃんと持った仮説であるわけで・・
《精神世界》のお話が哲学的でないのは、そういう人たちが「魂」とか言うとき、その言葉が何を指しているのかが、
全く明確でないからでもあるし、それがずっと存在することを前提にして話したりしてしまうからでもあるね。
「魂」って何ですか?
霊魂の不滅については哲学の問題にはならないっていうのは、カントによって証明されたことではないの?
- 93 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 14:09:28
- >>92
カントが証明したからといって
それが正しいと盲信するのはどうかな?
哲学の問題にしても良いんじゃない?
- 94 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 16:35:28
- >>93
>カントが証明したからといって
>それが正しいと盲信するのはどうかな?
>哲学の問題にしても良いんじゃない?
いいですよ。 だめだとは言ってない。
ただそれがアンティノミーに陥ることは、カント以降に生きる我々にはすぐに分かることでしょうね。
カント以降に神の存在証明とか霊魂不滅を証明しようとする哲学者は、ほとんどいなくなった。
そういう意味では、哲学にも過去からの積み重ねっていうものがあるわけですよね。
で、私は
>《精神世界》のお話が哲学的でないのは、そういう人たちが「魂」とか言うとき、その言葉が何を指しているのかが、
>全く明確でないからでもあるし、それがずっと存在することを前提にして話したりしてしまうからでもあるね。
と書いたわけだけど、
「霊魂」という語が哲学で使われていたのは主に古代から中世の哲学であって、19世紀以降(つまりこれがカント以降
だと思うんだけれど)はほとんど使われなくなったと思う。
そういう現代の哲学で「霊魂」を再び持ち出す意味、意図なども含めて、「霊魂」という語で何を示そうとしているのか
を明確にしてほしいということです。
(あと、「妄信する」というような何の根拠もない罵倒言葉に等しい言い方は、できれば使わないほうがいいですよ)
- 95 :考える名無しさん:2006/12/10(日) 22:30:25
- >>94
なんでも小難しく言葉を羅列させるのが哲学と思ってる馬鹿の典型
- 96 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 23:47:31
- >>92
>エヌさんの記述っていうのが、何を指してるのかわからないけど、
>いまざっと見た限りでは、カオルちゃんよりエヌさんのほうがずっと哲学的だね。
かれは、形而上学的な想定(仮説)としてしか語られないことについて、
その体験知を言葉にしているのです。
そもそもその体験知のない者にとって、それは理解できない。
正確に言うなら「悟れない」ことです。
語りえないと言ってみせることが哲学的なわけではない。
そこに至る思索の軌跡そのものが哲学ではないですか。
>輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
以前彼は、輪廻があるという想定で話していたので確認しただけ。
わたしにとっては、もっとも安易な問題の解決の仕方が輪廻です。
もちろん、だれにでも当てはまるような、だから問いの本質を取り
逃がしてしまうような結論に飛びつくはずがない。
あなたは「どうして生きているの?」「どうして存在しているの?」は、
問いの立て方が稚拙だと言った。言いたことはわかるので回答もした。
でも、まったくもって完全な的外れなのですよ。わたしの問いは、
私は、どうして生きているの? 私は、どうして存在しているの?
であって、問いから「私」を省略したら、まったく意味がなくなります。
あなたはそもそもそこがわかっていない。
- 97 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/10(日) 23:51:33
-
>仏陀はとても哲学的な人だったと思う。
>〜ニーチェの永劫回帰だって、ニーチェはそれを「仮説」であると明言している。
わたしはわたしの問題意識において輪廻は否定しています。
わたしにとっては論理的帰結としてのそれですが、
その論理を超えるものについて問うてることもまた事実です。
ですが、超越について問うことを戒めるつもりで、
仏陀やニーチェを持ち出すのは的外れですね。
だってかれらは超越をこそまなざしていたのだから。
>《精神世界》のお話が哲学的でないのは、そういう人たちが「魂」とか言うとき、
>その言葉が何を指しているのかが、全く明確でないからでもあるし、
>それがずっと存在することを前提にして話したりしてしまうからでもあるね。
わたしは、あなたが勝手に思い込んでいるような、いわゆる「魂」について
話したいのではなく、そのような「魂」が存在しつづけるようなことを前提
しているのでもまったくない。そのような話がしたいのではないからです。
わたしの書いてきたことを読んでもらえば明らかなはずです。
>霊魂の不滅については哲学の問題にはならないっていうのは、
>カントによって証明されたことではないの?
霊魂の不滅について話しているのではない。
「私が私であること」と「私がこの私であること」について話している。
あなたにはそれがわからないのでしょう。それでいいのですよ。
- 98 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/11(月) 01:14:07
- >>94
>そういう現代の哲学で「霊魂」を再び持ち出す意味、意図なども含めて、
>「霊魂」という語で何を示そうとしているのかを明確にしてほしいということです。
わたしに聞くべきでは?
「現代の哲学で」という、この哲学進歩史観がまちがっています。
「魂」について問わないこと、問えないことを知ることが進歩ですか?
なぜそれが進歩だと言えるのでしょう? その根拠は何ですか?
「魂」という語で「何」を「示そうと」しているのか「明確に」できないからこそ、
それについて哲学しているのですよ。
ハイデガーは、存在そのものについて「存在×」という抹消記号を使いました。
なぜなら、存在は存在者ではないからです。
「何か」(対象)として「示す」ことで「明確に」する、というようなものでは
ないからです。すなわち、言語(論理)の形式、あるいは生の形式を超越して
いることについて語っていることを「明確に」自覚していたのです。
- 99 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/11(月) 01:15:11
-
ウィトゲンシュタインは、語っています。
私は、ハイデガーが存在と不安について考えていることを十分考えることが出来る。
人間は、言語の限界に対して突進する衝動を有している。
例えば、あるものが存在する、という驚きについて考えてみよ。
この驚きは、問いの形では表現され得ない。
そして、答えは全く存在しないのである。
我々がたとえ何かを言ったとしても、
それは全てアプリオリに、ただ無意味でありうるだけなのである。
それにもかかわらず、我々は言語の限界に対して突進するのである。
キルケゴールもまたこの突進を見ていた。
……
言語の限界に対するこの突進が倫理学である。
……
しかし、この突進という傾向は或るものを暗示している。
それはすでに聖アウグスティヌスが、
なんだと、この不潔な奴め、お前は無意味なことを語ろうとはしないというのか。
お前みたいな奴は無意味なことだけを語れ、そうすれば害はないから。
と言ったとき、知っていたものである。
Dune's Home Page ――『倫理学講話』(1929-1930)について
ttp://www.kotoba.ne.jp/~dune/index.cgi?k=wit_ethic から。
- 100 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/11(月) 01:22:25
-
また、HP製作者のDune氏は、言っています。
ただし、重要なことは、この「言語の限界」で語りたがる人間の傾向を、
ウィトゲンシュタインは「敬意」を払うべき事柄であると結語している点でしょう。
決してあざけることはしない。と、ウィトゲンシュタインは重ねて言明する。
と。ハイデガーの自覚があるか、ウィトゲンシュタインのように身を捩るような断念があるか、
ということを、もしあなたが言いたいのだとしたら、あなたには何も言えない、とわたしは思う。
ショーペンハウアーを持ち出しておいて、意識に拡大については思い当たらない。
ちゃんと調べようともしないで「精神世界」とかいう、わけのわからない範疇で
自分勝手にレッテル貼りをして批評しようとする。哲学徒は批評家ですか?
意識の拡大というのは、ショーペンハウアーでいう「無」のこと、
物自体としての意志との合一における、その「事態」のことに関係していると思う。
かれが苦を回避する方法として説いた、神との合一、悟り、イデアの認識は
あきらかに意識の拡大と関係しているように、わたしには思える。
まちがっているかもしれない。でも議論する価値はあると、わたしは思う。
しかしあなたの態度では、そもそもかれのいう「盲目の意志」について語ることが、
すでに禁止されているのではないですか?
形而上学そのものが「現代の哲学」においては批判されているのだから、
形而上学が、そもそも哲学ではないはずです。
形而上学を批判したハイデガーの哲学でさえ、哲学ではないはずです。
それはそれでかまわない。それがあなたの格率なのでしょうから。
でも、それはあなたの思想であって、他人に押し付けるものではありません。
- 101 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 01:29:08
- なんだ カオルは 誰かのコピペ貼って
そうだ!そうだ!って同調するスネオみたいな奴なのか?
- 102 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 20:32:54
- >>97
>ですが、超越について問うことを戒めるつもりで、
>仏陀やニーチェを持ち出すのは的外れですね。
>だってかれらは超越をこそまなざしていたのだから。
「超越をこそまなざしていた」って、どういう意味なの?
(ニーチェが最も批判したのは「彼岸思想」だと思うし、
仏陀も「彼岸思想」には縁のない現実的な人だったと思いますけどね。)
>>98
>「現代の哲学で」という、この哲学進歩史観がまちがっています。
>「魂」について問わないこと、問えないことを知ることが進歩ですか?
>なぜそれが進歩だと言えるのでしょう? その根拠は何ですか?
カオルちゃんの妄想ですw 私は「進歩」なんて書いてませんから。
私が書いたのは、「哲学にも過去からの積み重ねっていうものがある」です。
「積み重ね」によって生じるのは、「進歩」じゃなくて「変化」です。
カント以降にどういう変化が生じたかといえば、
カントが「神」や「霊魂」そのものは理論理性の認識を超えてることを証明して以降、
簡単にいうと、哲学と宗教の境界がそれ以前よりずっと明確になったということ。
- 103 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 20:33:48
- >「魂」という語で「何」を「示そうと」しているのか「明確に」できないからこそ、
>それについて哲学しているのですよ。
だから・・
私が聞きたかったのは、まず、現代の哲学では使われなくなってきた「魂」という語を『再び持ち出す意味、意図』。そして、
『「霊魂」という語で何を示そうとしているのか』というのは・・
古代中世の哲学でよく使われていた「魂」という語を「哲学」として使うなら、当然過去の用法を引きずるわけですよ
(要は手垢がついているってこと)。だからたとえばソクラテスが言った「魂」と考えていいのか、
それともカオルちゃん独自の意味を込めてるのか、そういうことを明確にしてほしいっていうこと。
(カオルちゃんはレスの量が多い割には内容が少ない・・。
そういう書き込みを過去にしてるなら、コピペでもしてくれるぐらいの親切心が欲しいw )
>ハイデガーは、存在そのものについて「存在×」という抹消記号を使いました。
>なぜなら、存在は存在者ではないからです。
違うんじゃないの? だって存在論的差異は『存在と時間』の頃からの思想だけど、
「存在」にバツをつけたり他にもいろんな書き方をするようになったのは、後期だからね。
後期の「四方域」とかのハイデガー独自の意味を持たせるには「存在」っていう、
過去の哲学の手垢がついた言葉をそのまま使いたくなかったんだと思うけどね。
(それにつけても、カオルちゃんが「魂」っていう手垢がついた語を「哲学」としてそのまま使う気が知れないわけだ・・)
- 104 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 20:36:27
- >>100
>ショーペンハウアーを持ち出しておいて、意識に拡大については思い当たらない。
>ちゃんと調べようともしないで「精神世界」とかいう、わけのわからない範疇で
>自分勝手にレッテル貼りをして批評しようとする。哲学徒は批評家ですか?
あのねぇ・・w
カオルちゃんは『いわゆる「意識の拡大」』と書いている。「いわゆる」というのは「世間一般に言われる」
という意味である。ところが私は「意識の拡大」という用語を知らなかった。だから「意識の拡大」で検索した。
その検索結果の上位は、いわゆる《精神世界》と思われるサイトで占められていた。
そこで私は『これは《精神世界》の用語みたいね』と書いた。
これは、ごく自然な流れだと思いますが・・
>意識の拡大というのは、ショーペンハウアーでいう「無」のこと、
>物自体としての意志との合一における、その「事態」のことに関係していると思う。
そうなの? 私はショーペンハウアーはあんまり詳しくないけれど、彼は
>「私は、世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚
みたいな事を書いてるの?
(そもそも「意識の拡大」がどういう事柄を指しているのかもっとはっきりしないと、話にならないけどね・・
私が>>94で言いたかったのはそういうこと。つまり「語りえない」で通したらそれは哲学じゃない。
その事柄そのものは「語りえない」とすれぱ、
その事柄の周辺の語りうる部分を論理的に語っていくのが哲学であるわけですよ。)
(「意識」っていうのも、すごく手垢がついた言葉で、したがってすごく多義的だからね。
多義的な言葉をそのまま曖昧に使うのがカオルちゃん流かなw)
- 105 :考える名無しさん:2006/12/11(月) 20:37:09
- >形而上学そのものが「現代の哲学」においては批判されているのだから、
>形而上学が、そもそも哲学ではないはずです。
>形而上学を批判したハイデガーの哲学でさえ、哲学ではないはずです。
これも、「形而上学」っていう多義的な言葉を曖昧に使ってるから間違ったことを言ってしまういい例だね。
(意地悪な言いかたをすれば「詭弁」)
現代の形而上学批判の先駆者であるニーチェが批判する「形而上学」は、「二世界説」っていう意味です。
ハイデガーが批判する「形而上学」は、「存在忘却」っていう意味です。
意味が全然違います。
- 106 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:23:31
- >>102
>(ニーチェが最も批判したのは「彼岸思想」だと思うし、
>仏陀も「彼岸思想」には縁のない現実的な人だったと思いますけどね。)
ニーチェの批判は、超越へのまなざしがあってこそ、
簡単に言うなら「気になる」からこそ、です。
仏陀の場合は、超越に至る実践において哲学は投げ出しています。
その意味で、現実的とは言えるのかもしれませんね。
>私が書いたのは、「哲学にも過去からの積み重ねっていうものがある」です。
>「積み重ね」によって生じるのは、「進歩」じゃなくて「変化」です。
変化なんてしていませんよ。
新たな概念装置の発明、新たな解釈の仕方、新たな専門分野の開拓……
「新たな」それはどうでもいい。哲学とは何の関係もない。
哲学は問いかけることからはじまります。
問いは古代ギリシャ以前の昔から変わっていません。
その問いについて自分の頭で考えることが哲学するということです。
たとえだれかの哲学を利用するにしても、その人が自分の哲学をしているなら、
必然的に自分の哲学になってしまうはず。あなたの大嫌いなマイ哲学に、です。
哲板自治議論じゃないんだから、かんべんしておくれよー!
- 107 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:25:38
-
>カント以降にどういう変化が生じたかといえば、
>カントが「神」や「霊魂」そのものは理論理性の認識を超えてることを証明して以降、
>簡単にいうと、哲学と宗教の境界がそれ以前よりずっと明確になったということ。
超越論哲学が引いた境界線とは何か、どのような意味での境界線なのか、
境界線を定める方法論は正しいのか、どのような意味で正しいと言えるのか……
自力で一生賭けたっていいし、到達できなくたっていいじゃないですか。
わたしの思うところを言うなら、カントの批判哲学の依って立つ基盤が、
デカルトの「われ思う」にあるということ。(何か不満でも?)
で「経験の可能性の条件が、すなわち経験の対象が成立する条件である」
ということが成立するための条件「われ思う」は、解釈された「われ思う」
ではないのか、とわたしは疑っています。
つまり、現象としての「われ思う」になってしまっている、ということです。
わたしの問いは、物自体としての「われ思う」そのものに向けられています。
当然、純粋理性の誤診やアンチノミーの問題がかかわってくるのでしょう。
- 108 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:27:58
- >>103
>私が聞きたかったのは、まず、現代の哲学では使われなくなってきた「魂」という語を
>『再び持ち出す意味、意図』。そして、『「霊魂」という語で何を示そうとしているのか』というのは・・
>古代中世の哲学でよく使われていた「魂」という語を「哲学」として使うなら、
>当然過去の用法を引きずるわけですよ(要は手垢がついているってこと)。
私は、どうしてこの私なのか?
最初の「私1」と、後の「この私2」は、A=Aじゃないのですよ。
「この」が指示する「私2」についても、固有名のカオルなのか、体なのか、心なのか、
あるいは、カントでいう非人格的自我としての統覚なのか……何れにしても、最初の「私1」が
それらすべての「この私2」ではないのだとしたら、私1ってだれ? じゃぁ魂ってことで。(笑)
>それともカオルちゃん独自の意味を込めてるのか、
込めていないけど、いい表現がみつからない。
でも、上に書いた問いが理解できる人なら、きっとわかる。
- 109 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:29:24
-
>そういう書き込みを過去にしてるなら、コピペでもしてくれるぐらいの親切心が欲しいw )
最近では、永井均と<独在性> 2
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1151940034/ です。
信頼している人に嫌われてしまって、一度去ったのだけど、また復帰しました。
あいかわらず、だれにも相手にされてないですが。(T_T)
>過去の哲学の手垢がついた言葉をそのまま使いたくなかったんだと思うけどね。
わたしは、抹消記号を使うようになった文脈についてではなくて
そうすることの本質的な意味について言っています。
>(それにつけても、カオルちゃんが「魂」っていう手垢がついた語を
>「哲学」としてそのまま使う気が知れないわけだ・・)
別にそれでいいです。かまわなければいいじゃないですか。
- 110 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:36:01
- >>104
>私はショーペンハウアーはあんまり詳しくないけれど、彼は
>>「私は、世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚
>みたいな事を書いてるの?
議論が厳密ではない? あなたと話しているわけではないもの。
ショーペンハウアーは、物自体としての意志の断片にすぎない表象が、
それ自身の存在の仕方で(根拠も持たずに)実在(努力)しつづけようと
永遠に循環しなければならないことを「苦」と考えました。
その苦を回避する方法として「神との合一」「悟り」などを想定しました。
「自己意識を捨てる」に関連づけていうと、
(ショーペンハウアーの個別的意志を自己意識と考えて)
「個別的意志を捨てる」というのは「個別的意志による個別的意志の否定」ではなく、
「美的観照は個別的意志を沈(鎮)静化させる」みたいなニュアンスのそれです。
たとえば、無念無想がそれを意識しているかぎりは、無念無想ではないようなこと。
「個別的意志の消失」→「主客の合一」→「無」(神との合一、悟り)でしょう?
物自体としての意志の断片である「個別的意志(私)の表象世界の消失」について
もし言語によって表現しようとするなら「無」と呼ぶしかない、みたいな感じです。
無(ゼロ)だからこそ「世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚です。
このとき「すべてを知っている」と表明するのは「この私2」ですが、「この私2」の
消失によって体験される体験そのものとしての「私1」は、つまり「すべて」は
比肩しうるものが‘ない’「存在×」なのでしょうから、それは無と見分けが
つかないという意味で「無」とも言えるのではないでしょうか。
もちろん、まじめに議論してないよ。どうでもいいから。
- 111 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/12(火) 01:38:28
-
>(そもそも「意識の拡大」がどういう事柄を指しているのかもっとはっきりしないと、
>話にならないけどね・・
話にならないなら、話さなければいい。
>その事柄の周辺の語りうる部分を論理的に語っていくのが哲学であるわけですよ。
そうですか、がんばってください。
>>105
>(意地悪な言いかたをすれば「詭弁」)
はいはい。
>現代の形而上学批判の先駆者であるニーチェが批判する「形而上学」は、「二世界説」っていう意味です。
>ハイデガーが批判する「形而上学」は、「存在忘却」っていう意味です。意味が全然違います。
わたしの発言は、ポモの代表格デリダを念頭においたものです。どうでもいいけど。
あなたの知識は「サルでもわかる哲学史入門」に書いてありました。どうでもいいけど。
わたしの発言もあなたの知識もどうでもいいものだと思う。全く無意味、時間の無駄です。
哲学史の知識は哲学とは何の関係もない。それにあなたよりわたしの方が多分詳しいし。
- 112 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 01:51:13
- 哲学ってものがまだよくわかってない素人なんですが
哲学ってのは相手をやりこめるのが目的なんですか?
- 113 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 02:15:50
- カオルは自分が嫌われやすいというのは自分でもわかってるのでしょう?
皆に嫌われる理由 それは幼いからです
自分に向けられた意見に対して、攻撃的に反応してしまっているのです
カオルは自分ではそんなことはないと言うかもしれませんが
文章に攻撃性が滲み出てきてしまっているのです
もっと自分を見つめてみることが必要です
- 114 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 20:35:44
- >>106
>ニーチェの批判は、超越へのまなざしがあってこそ、
>簡単に言うなら「気になる」からこそ、です。
(なんだか、詭弁っぽいですけど・・)
「超越」そのものではなくて、まさにその「超越へのまなざし(つまり彼岸世界への信仰)」
をニーチェは批判しているんですよ?
「気になる」から批判したんだと言いたいんなら、ニーチェが気になったのは、
「超越」ではなくて「超越へのまなざし」ですよ。
その「超越へのまなざし」によって現代のニヒリズムが生じたとニーチェは考えるわけですからね。
>仏陀の場合は、超越に至る実践において哲学は投げ出しています。
カオルちゃんはどうして、仏陀の実践が「超越に至る実践」だったと思うの?
私は仏陀の実践は、現実の苦しみを、「現実世界」において解決する実践だったと思いますが。
>変化なんてしていませんよ。
>・・・
>哲学は問いかけることからはじまります。
>問いは古代ギリシャ以前の昔から変わっていません。
(2年ほど見ない間に、カオルちゃんは本当に詭弁家になってしまったのかな・・)
「問うこと」が哲学であることは変化しませんが、問いの「内容」は当然変化しますね。
(たとえば、ソクラテスは霊魂の不滅を証明しようとしましたね。霊魂不滅の証明は、
古代ギリシャの哲学としては認められるとしても、現代では普通は哲学とは見られないっていうこと)
- 115 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 20:37:21
- >>107
>わたしの思うところを言うなら、カントの批判哲学の依って立つ基盤が、
>デカルトの「われ思う」にあるということ。(何か不満でも?)
デカルトは「われ思う」の「われ」を「実体」としたのに対してカントは、
「われ」の実体性を否定して、それを「はたらき(機能)」とした、ということです。
>で「経験の可能性の条件が、すなわち経験の対象が成立する条件である」
>ということが成立するための条件「われ思う」は、解釈された「われ思う」
>ではないのか、とわたしは疑っています。
>
>つまり、現象としての「われ思う」になってしまっている、ということです。
カントは『純粋理性批判』で、統覚的自覚は「物自体」でも「現象」でもないと書いてます。
(そもそもカントのいう「現象」というのは、人間悟性によって認識されたもののことですよ?
「われ思う」が現象だとしたら、「われ思う」を認識している人間悟性は???)
- 116 :考える名無しさん:2006/12/12(火) 20:38:21
- >>109
>わたしは、抹消記号を使うようになった文脈についてではなくて
>そうすることの本質的な意味について言っています。
ええ。だからその本質的な意味をカオルちゃんは知らないんですよ・・
「存在×」の「×」は、単なる抹消記号ではないです。
それは「交差」を表してます。それは、昨日書いた「四方域」の四つの方面が交差する所に
「存在」が現成するっていうことを表す「交差」です。
>>110
>無(ゼロ)だからこそ「世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚です。
>このとき「すべてを知っている」と表明するのは「この私2」ですが、「この私2」の
>消失によって体験される体験そのものとしての「私1」は、つまり「すべて」は
>比肩しうるものが‘ない’「存在×」なのでしょうから、それは無と見分けが
>つかないという意味で「無」とも言えるのではないでしょうか。
少しわかってきました・・
カオルちゃんのいう「魂」は、「世界霊魂」みたいなものですか?
世界霊魂は神と同一視されることもあるわけだから、
「魂」なんていう(現代では)分かりにくくなった言葉を使うより、
いっそのこと、もっと分かりやすく「神さま」と言ったほうがいいんじゃないでしょうか?
(だめですかねw )
- 117 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/13(水) 03:09:11
- >>114
>「気になる」から批判したんだと言いたいんなら、ニーチェが気になったのは、
>「超越」ではなくて「超越へのまなざし」ですよ。
神への誠実さ、ということを考えてみてください。
誠実さは「超越へのまなざし」への批判として為されるでしょう。
でも、それを為しうるのは「超越へのまなざし」があるからです。
>私は仏陀の実践は、現実の苦しみを、「現実世界」において解決する実践だったと思いますが。
そんなとんでもない実践こそ、まさに超越に至るためのそれではないですか?
>「問うこと」が哲学であることは変化しませんが、問いの「内容」は当然変化しますね。
「哲学史入門」に書いてあるような問いの内容?なんてどうでもいいのですよ。
ひとり自分からはじめて、どこにも到達しなくたっていいのです。
>>115
>デカルトは「われ思う」の「われ」を「実体」としたのに対してカントは、
>「われ」の実体性を否定して、それを「はたらき(機能)」とした、ということです。
デカルトの、その思索の結末(精神的実体の想定)が真実なわけではないです。
カントだって『オプス・ポストゥムム』への零落の道をたどったではないですか。
>カントは『純粋理性批判』で、統覚的自覚は「物自体」でも「現象」でもないと書いてます。
その自覚ってだれがするのですか? 自覚の定義は?
とっちらかった多様なるものをまとめあげるはたらき「統覚」は、経験を可能にする条件
という意味ではアプリオリですが、経験によって機能するという意味ではアポステリオリです。
ですから、物自体でも現象でもないのですが、現象界の外にあるとはいえない、という意味で
現象界を否定する物自体としての「われ思う」とは対照的に使いました。
- 118 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/13(水) 03:11:58
- >>116
>「存在×」の「×」は、単なる抹消記号ではないです。
>それは「交差」を表してます。
>それは、昨日書いた「四方域」の四つの方面が交差する所に「存在」が現成する
現存在は徹頭徹尾言語存在者であり、現存在に開かれる世界は意味連関の世界ですが、
ハイデガーの想定した四方域の一方である「死を能くしうるもの」としての現存在は、
言語存在者としてのみずからの超越において(死において)あるものとしてのそれです。
すなわち、現存在の両義的な存在の仕方、存在論的差異における差異そのものとしての
あり方(運動)を示しています。
けれど、ハイデガーは世界を構成する原因であり、またみずからがその要素でもある
現存在の両義的なあり方の他に、神的なもの、大地、天空の三原因まで加えてしまった。
それらは必然的に四方における差異そのもの‘として’の性格を残してしまうがゆえに、
意味連関の世界に引きずり込まれてしまうこともまた必然なのです。
ですから、四方を示しつつも、それらを意味連関の世界の外部に閉め出すためには、
「抹消記号×」のような工夫が必要だったのでしょう。
しかし、現存在以外の三方の想定は端的に議論の後退にしか見えないです。
そもそも――四つの方面が交差する所に「存在」が現成する――ってなに?
「存在者」が「現成」するならまだしも……。
『存在と時間』が未完であることにおいて示しえたその限界の美しさを
容易に飛び越えてしまったかのような醜さを、わたしは感じてしまいます。
- 119 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/13(水) 03:22:56
- >>110
>カオルちゃんのいう「魂」は、「世界霊魂」みたいなものですか?
>〜もっと分かりやすく「神さま」と言ったほうがいいんじゃないでしょうか?
>(だめですかねw )
そうかもしれないけど、だめです。
『ORION』(中原紀生)―― 不連続な読書日記 No.43
ttp://www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI/43.html
ウィトゲンシュタインのところを読んでみてください。
ここに書かれている「世界霊魂」が「比類なき〈私〉」(永井均)のことです。
とはいえ、あたなが‘それ’を理解してしまえるなら、
そのとき、あなたは‘すでに’存在論的差異を乗り越えてしまっているのです。
この不可避とも思える「世界霊魂」の「この私の世界」への超越が、
「私は、どうしてこの私なの?」という問いを生み出します。
(この事態を「存在」の現成とかいうなら理解できます)
視線の向きが逆なんです。でもそれは「神の視線」ではありません。
だって、わたしの視線なんだから。
で!、こんなどうでもいい議論してると大切な人たちと話せないです。
わかりますよね? 気遣ってくれますか。
- 120 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 20:43:36
- >>117
>>「気になる」から批判したんだと言いたいんなら、ニーチェが気になったのは、
>>「超越」ではなくて「超越へのまなざし」ですよ。
>神への誠実さ、ということを考えてみてください。
>誠実さは「超越へのまなざし」への批判として為されるでしょう。
>でも、それを為しうるのは「超越へのまなざし」があるからです。
ニーチェが考えていたことについての話しなのに、なんで唐突に「神への誠実さ」が出てくるのか、
意味がわかりませんw どういうことですか?
>>私は仏陀の実践は、現実の苦しみを、「現実世界」において解決する実践だったと思いますが。
>そんなとんでもない実践こそ、まさに超越に至るためのそれではないですか?
とんでもない実践・・?
苦を滅するための実践として仏陀が説いたのが「八正道」ですよね?
「正しい見解」「正しい思惟」「正しい言葉」・・・
これらがどうして、「超越に至る実践」であり「とんでもない実践」であるのですか?
>とっちらかった多様なるものをまとめあげるはたらき「統覚」は、経験を可能にする条件
>という意味ではアプリオリですが、経験によって機能するという意味ではアポステリオリです。
>ですから、物自体でも現象でもないのですが、・・
いえ違います。アプリオリとアポステリオリが物自体と現象に対応するわけじゃないんです。
(カオルちゃんはたぶんアプリオリとアポステリオリの意味を勘違いしている)
物自体は経験を超越した認識の対象で、現象は経験的認識の対象で、どちらも認識の対象ですけど、
統覚は認識に常に伴うものであって、認識の対象ではないから、物自体でも現象でもないんです。
(カントの「われ思う」において、「主観」が確立され、「客観(対象)」が確立されたわけです)
- 121 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 20:44:42
- >>118
>ですから、四方を示しつつも、それらを意味連関の世界の外部に閉め出すためには、
>「抹消記号×」のような工夫が必要だったのでしょう。
これは、私が「存在×」の「×」は、単なる抹消ではなくて 「四方域」の「交差」だ
と教えてあげたことに対する反論なんですか??
(じゃあ一応ハイデガー自身の言葉を引用しておきますね。
「十字交差の徴は、上に言われたことに従えば、勿論、抹消という単に否定的な徴ではあり得ない。
その徴はむしろ、方域の四つの方面とその四つの方面が十字交差の場所において集まっていることの内へ、
示し入っている」『有の問へ』)
>そもそも――四つの方面が交差する所に「存在」が現成する――ってなに?
>「存在者」が「現成」するならまだしも……。
カオルちゃんはハイデガーを読んだことがありますか?
「現成」っていうのは、ハイデガーがWesen(本質、実在)っていう名詞を動詞として使った言葉なんですけど、
道元の用語である「現成」って訳されるのが普通です。
(用例はたとえば、「存在は、性起として現成する」『哲学への寄与』みたいな感じです。)
(ちなみに上の「性起」も仏教用語ですね。)
- 122 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 20:47:49
- >ウィトゲンシュタインのところを読んでみてください。
>ここに書かれている「世界霊魂」が「比類なき〈私〉」(永井均)のことです。
この読書日記を書いた人は、ヴィトゲンシュタインの単なる覚え書きに過ぎないものを、安易に著作に結びつけ
ているから、たぶん学問的研究のし方を知らない人ですね。
覚え書きっていうのは、単に人の本から書き写しただけのものとかが混ざっているのが普通だから、
もっと慎重に扱わないとだめなんです。
ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「魂」について書いているのは、こういうことですよ。
「人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、それはいかなる仕方でも保証されていない。
それだけでなく、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待する役割をまったく果たさないのである。」
(6.4312)
>とはいえ、あたなが‘それ’を理解してしまえるなら、
>そのとき、あなたは‘すでに’存在論的差異を乗り越えてしまっているのです。
「存在論的差異を乗り越える」って、どういう意味ですか?
>で!、こんなどうでもいい議論してると大切な人たちと話せないです。
>わかりますよね?
わかりません。
カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
煙に巻くこと、と私は見ていますw
だからカオルちゃんにとって「大切」でも、多くの人にとってはそうでないと思います。
「皆に嫌われる」らしいじゃないですか・・。
不幸なことです。
(私は「嫌い」というほどではないです)
- 123 :考える名無しさん:2006/12/14(木) 19:01:27
- 嫌いじゃないけど問題を共有できないから書くことないんだよね、、
価値論スレみたいにまったく分からないってことはないから読んでておもしろいけど。。
- 124 :考える名無しさん:2006/12/16(土) 00:40:25
- >>77
> a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
たぶん意識に大きさはないと思われ
> b.思考停止(問いの消滅)とは、このことではないでしょうか?
> (もっと悪くいうと、この私の生きる意欲の消失でしょうか)
思考停止とは妄想の欠落です
意欲はバリバリに出てきますよ
> c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
存在とは生命のことなんですか?
無機物など非生命も存在していて
生命非生命に関係なく同質ですよ
さらに有形のものから無形のものまで存在は全て同質ですよ
その上、存在とは同質の意識があるものですよ
それゆえ、交流が可能なんですよ
- 125 :考える名無しさん:2006/12/16(土) 01:00:18
- ↑>>124はエヌです
意識は無口でただ黙っている
それゆえ、それに気がつきにくい
意識はいつもそこにあるのだが、もの静かなため気がつかない
意識に気がつかせない原因は四六時中活動している思考にある
思考がカーテンのように意識を閉ざし気づかせない
カーテンはただの思考であって現実ではないのだが
それが現実のように感じ
それゆえカーテンに写るものが現実であると考えるようになる
思考のカーテンが下りたとき
初めてカーテンに写っていたものは妄想であったと気がつくことができる
妄想がないとき、現実に触れ、意識に触れる
いや触れていたけれども気がつかなかったのだ
- 126 :エヌ:2006/12/16(土) 01:13:53
- 思考のカーテンはカーテンに写るものが無くなったときに自然に下りる
>>79
> 私の知っていることのすべては、
> 私が、やがて死ななければならない、ということであり、
> しかも、このどうしても避けることのできない死こそ、
> 私のもっとも知らないことなのである。
> 私は、自分が、どこから来て、どこへ行くのか、知らない。
生まれた(と見なしている)ものはやがて死ぬでしょうし
生きている時には死はまだ訪れていないのでどのようなものかわからない
しかし死が訪れた時にはそれを伝える術はない
言えることは、
変化し続けるものは、やがて生⇒死⇒生へと変化し続けるでしょう
しかし変化しないものは、いつまでも生死の変化はしないものです
無形でこれまで変化したことのないもの不変であり普遍なもの
それを仮に魂と命名してみたのです
- 127 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/16(土) 01:58:02
- >>122
>わかりません。
>カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
>煙に巻くこと、と私は見ていますw
哲学用語を使わないで済むように努力してみます。
また、あなたが言うように思われていることは客観的な事実です。
いまさら無意識のせいにもできないでしょう。
>だからカオルちゃんにとって「大切」でも、多くの人にとってはそうでないと思います。
>「皆に嫌われる」らしいじゃないですか・・。
>不幸なことです。
たぶんそうなのでしょう。
でもそのような不幸ではなく、わたしの哲学が純粋にわたしの哲学であるために
だれにも理解されない不幸を求めたいと思います。
>(私は「嫌い」というほどではないです)
わたしのもっとも嫌いな評価です。よくわたしを知っていますね。
その他諸々の質問には、そもそものわたしの発言がまちがいなので
答えようがありません。失礼しました。
それから、当り前のことですがこのスレにあなたが書き込むことはあなたの自由です。
当然、あなたはわたしの発言があってもなくても、ご自分の意志にしたがって行動されるでしょう。
けれど、あなたにたいしてあなたの行動の抑制を意図した不適切な発言をしてしまったことを
ここに深くお詫びさせてください。すみませんでした。
- 128 :カオル ◆BBBRv/ousU :2006/12/16(土) 02:50:20
- >エヌさん
あなたは、もうわかっているでしょうけど、
わたしには、あなたの言っていることの何一つもわからないです。
まったくわからないのに、それを哲学で重ね描いてみせることに
いったいどのような意味があるでしょうか。
世界中には「わたしは、どうしてこのわたしなのか?」と問い掛ける子供たちが
数え切れないほどいるというのに、そのひとりですらないわたしが、この問いに
こだわるのは、現に今ここに生きているわたしだけが、わたしであることを、
このわたしが、わたしの身体の死によって、確実に永遠に消えてしまうことを、
ただただそれだけを信じたいからです。
わたしの生の唯一の価値であるそれを否定するいかなるものも許したくない。
そのためには、見ることのできないものの一切はないのでなければならない。
それなのに、わたしはわたしであったためしがない、それがすべてのはずの
わたしがどこにもいない。わたしがわたしであることが、わたしの夢なのです。
わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。
ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できないその決断だけが
わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。
- 129 :考える名無しさん:2006/12/16(土) 10:02:40
- ヒラガナ キョーシツハ ココデツカ?
- 130 :考える名無しさん:2006/12/19(火) 00:11:28
- >>128
>わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。
>ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できないその決断だけが
>わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。
こういうことを書く人って、どういうつもりで書いているのかな。
「わたしの病気」を人に理解して欲しいのだろうか。
「わたしの病気」を、他の人にも感染させたいのだろうか。
(病人の行動は、健常者には理解できないか。。)
- 131 :エヌ:2006/12/20(水) 01:15:28
- >>128
>わたしの消滅
その前に「わたし」が何かわからないなら消えようがないと思う
私のモノがわたしであろうか
私の身体がわたしであろうか
私の思いがわたしであろうか
私の一体何が私であろうか
許すも許さないも
既に決まった事実があるだけで
私が有るなら、私はずっとあり続けるだろうし
私が無いなら、私は元からない
新しく生み出されたり、消滅したりできるものが
どこにあるだろうか
あるモノが無くなった
しかし本当は無くなってなどいない
形が変わっただけで消滅などしない
同じように
あるモノが生まれた
しかし本当は生み出されてなどいない
形が変わっただけで新しく創造することなどできない
それならば「わたし」とは一体何だろうか
「わたし」が生まれたり消えたりできるのだろうか
この謎が解かれぬうちは
その先もまた謎なりけり
- 132 :エヌ:2006/12/20(水) 01:23:41
- 人の心は、いつでも飛んでゆく
今この時この場所を楽しめない
人の心はいつでも、ここに居ない
考え事をしているだろうか
先の計画をしているだろうか
過去を悔やんでいるだろうか
とにかく、いつも思いを馳せている
人の心はいつでも、止むことが無い
常に思いを馳せている
内容はくだらないことばかり
いつになれば正気になるのだろう
いつになれば思考から抜け出せるのだろう
いつになれば切ったり入れたりできることを覚えるのだろう
- 133 :考える名無しさん:2006/12/21(木) 00:41:22
- >>131-132
>「わたし」とは一体何だろうか
馬鹿だね、お前はw
「わたし」とは自我のこと、平たくいえば「人格」のことよ
物心ついた頃に生まれ、大脳の活動停止とともに消滅する
そんなの謎でもなんでもないだろw
>いつになれば正気になるのだろう
お前はいつだって正気なのよ
お前に起きてる事柄は全部お前の真実だってこと
でもお前はそれを認めたがらない
そりゃそうだろ、お前の人生はお前の自分の思い通りに
運ばないことだらけなんだからw
そこでお前は小さなその脳味噌で考える
こんなの正気じゃない、正気の沙汰じゃない!ってね・・
考えるっていうより、でっちあげるんだけどねw
世の中には、現実に自分を合わせる事ができず
現実の方を自分に合わせようとするヤツがいるってことぉ〜♪
この際だからハッキリ言っとこう・・現実もシッカリ観ることが
できないほどオツム弱いのよ、お前はw
- 134 :考える名無しさん:2006/12/22(金) 01:32:16
- >カオル
自殺美化と教祖願望の結合か・・・・・・
はやく夢から覚めてね
>>130
カオルは断じて病気なんかじゃない。
自分が凡人であることを認められない凡人なのだ。
インターネットによって自意識を肥大させられた犠牲者かもしれない。
こういう人はいまどきけっこう多いのだ。
- 135 :エヌ:2006/12/23(土) 23:51:46
- >>133
なんだかな
変なのがくっ付いてくるなぁ
> 馬鹿だね、お前はw
> 「わたし」とは自我のこと、平たくいえば「人格」のことよ
> 物心ついた頃に生まれ、大脳の活動停止とともに消滅する
> そんなの謎でもなんでもないだろw
どっかの本でも読んで考えた結論がそれか
実際にわからないことを知ったように書いてもなぁ
間違い
> お前はいつだって正気なのよ
> お前に起きてる事柄は全部お前の真実だってこと
> でもお前はそれを認めたがらない
話の脈絡がないんだが・・・
> そりゃそうだろ、お前の人生はお前の自分の思い通りに
> 運ばないことだらけなんだからw
君がいつも感じていることがそのまま出てるぞ
> そこでお前は小さなその脳味噌で考える
> こんなの正気じゃない、正気の沙汰じゃない!ってね・・
> 考えるっていうより、でっちあげるんだけどねw
> 世の中には、現実に自分を合わせる事ができず
> 現実の方を自分に合わせようとするヤツがいるってことぉ〜♪
良くわからないんだけど、おそらく君の脳内の葛藤なんだろうな
- 136 :エヌ:2006/12/23(土) 23:52:16
- >>133
> この際だからハッキリ言っとこう・・現実もシッカリ観ることが
> できないほどオツム弱いのよ、お前はw
いつも、そんなこと言われてるの?
君の日頃の葛藤が良くわかるけど
八つ当たりして、脈絡のないことを書いても伝わらないぞ
- 137 :考える名無しさん:2006/12/24(日) 00:46:10
- >>135-136
あはははw オマイの「脈絡」に沿って書いた結果なんだがナ、、、
それより、ヒトのレスを長々と並べるしか能が無いのかオマイはw
どうしてオマイには主張というものが無いのかわかるか?
わかっかんね〜だろなぁ〜〜w
それはね、考えずに生きて来たからなのよw
>>131-132
不明に不明を重ねてますます不明の深みに・・それがオマイなのよw
不明の深みとは(ここでは)混迷の極みを指すが、
オマイの小さな脳味噌は、それを人生の意味や感覚の深みと錯覚し
結局脳内では処理し切れなくなって脳外へ生ゴミのまんま放り出すw
感受性をとっくに失くした感覚と
自らの頓挫した思考の関わる余地も無く・・w
- 138 :S ◆4Ijqvx1jbw :2006/12/24(日) 01:54:52
- >>カオルさん
わたしという自己意識とわたしの眼前に広がる世界とが、わたしにとって預かり知らぬまま
何らに成立している以上、わたしとわたしに連関する事象がどうであれ、わたしは(自律自足した)
わたしであったことはなく、これからも無いように思います。
わたしをわたし成さしめているあらゆる根拠はわたしの認識のかなたにあり、
わたしはただ、わたしというかなたからかなたへ移ろう儚い現象にすぎない。
日常にただ邁進する多くの隣人と多少違いがあるとすれば、自己自身を無垢に享受しているか
訝しげに懐疑しているか程度。しかしその懐疑も、或いはカオルさんが最後の拠り所にし