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永井均と<独在性> 3

1 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/12/09(日) 04:11:09 0

前スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1151940034/

読めなかった人は、コチラから。(みみずん検索さん、ありがとう!)
http://mimizun.com/search/perl/dattohtml.pl?http://mimizun.com/log/2ch/philo/academy6.2ch.net/philo/kako/1151/11519/1151940034.dat


では、活発な議論を!

2 :考える名無しさん:2007/12/09(日) 04:15:34 0

506 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2007/09/06(木) 21:39:31 0
今度、岩波が始めた〈哲学塾〉シリーズに永井均も
「意識は実在しない」というテーマで書くみたい。


3 :考える名無しさん:2007/12/09(日) 04:16:06 0

507 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2007/09/08(土) 22:15:00 0
>>506
関連しそうなものとして,こんなのがあった。

「意識の神秘は存在するか」(大阪大学?で講義したのを録音したものらしい)
ttp://www.let.osaka-u.ac.jp/philosophy/Radio/handaimetaphysica.html

きちんとメモ取りながら聞いたわけじゃないけど,おおむね,(1)心身問題という
のが取り上げられている(チャルマーズ『意識する心』)けど,それは本当の
問題ではない。(2)本当は,物理的な物と,心とが問題なのではなくて,他人には
知ることのできない私秘的なものがあること,publicとprivateとが問題なのだ。
(3)しかし,publicとprivateも,実は本当の問題ではなくて,本当は私という
ものが問題なのだ。という流れだったと思う。

あまり関係ないけど,質疑応答の部分で(質問部分が全体的によく聞こえないけど)
「でも,レヴィナスのいう他者は,それとは違うと思うんですが…!」
「………」「………」「………」「………」「………」
「…まあ,レヴィナスの他者とは,違うかもしれませんけど…。それはちょっと
置いておきましょうか。」
というやり取りがあって,全然噛み合ってなさそうなのが,なんか笑える。


4 :考える名無しさん:2007/12/09(日) 04:16:58 0

ということで、

『なぜ意識は実在しないのか』は、すでに絶賛発売中みたいです。


5 :考える名無しさん:2007/12/09(日) 18:17:16 0
中島義道 17
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1194610800/

6 :考える名無しさん:2007/12/10(月) 22:00:44 O
入不二基義『哲学の誤読』で「解釈学・系譜学・考古学」が取り上げられてる記念age
それを言うと、中島義道『観念的生活』にも「永井の独我論」を取り上げてる部分があるか。

7 :考える名無しさん:2007/12/10(月) 22:21:30 0
永井の独我論って言っても言葉にできないだけで、
わかる人にはあああれねってわかっている話で、
ただ、わかっているかわかっていないかがわからないってのがやっかいなんだよな。

8 :考える名無しさん:2007/12/10(月) 23:54:20 0
東大文学部の俺に言わせれば
お前もどうせ分かってない
というか2ちゃんの哲学板のやつらなんて誰もわかってない
何にもな


9 :考える名無しさん:2007/12/11(火) 00:00:45 0
>>8
おまえが東大文学部でないことだけはわかるw

10 :考える名無しさん:2007/12/11(火) 00:01:20 0
>>8
おまえが東大文学部でないことだけはわかるw

11 :考える名無しさん:2007/12/11(火) 00:09:49 0
東大文学部だよ
西洋哲学専攻
まあ信用しなくてもいい
哲学にも2ちゃんねるがあると聞いてどうせ大して思想も理解していない輩が偉そうにしてるんだろうと思ってきたんだよ
結果予想通りだったがな
哲学ちょっと知ってるだけで必要以上にプライドが高くなる人間がたくさんいるからな
哲学ってのはそういう分野なんだよ
それが実証されてるよここはね
ちなみに俺は大手マスコミへの就職が決まってる

もう見ないんでね
さよなら

12 :考える名無しさん:2007/12/11(火) 00:18:53 0
>>11
哲学コンプレックスが相当大きいんだな
卒業したら哲学とは無縁な生活を送ったほうがよさそうだ

13 :考える名無しさん:2007/12/11(火) 12:00:39 O
>>11
ありがとう。
君のお陰で哲学にも2ちゃんねるがあることがわかったよ。

14 :勝手批評:2007/12/14(金) 03:34:41 0
<私>のメタフィジックス14p

「他人達が実はみな自動機械である可能性を、本気で考慮に入れて生きるならば、
それはすなわち狂気“である”(原文は“”が傍点)」

とあるがこれはおかしくないだろうか。もちろんここでの「狂気とは精神疾患の
意味ではな」く、「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」である
と説明されているのだが、たとえ本気で他人達が自動機械であると信じて生きている
人がいても、その自動機械達の社会に溶け込んで生きることは実は簡単なことではないか?

恐らくこの人は他の自動機械達のことを心の中では蔑んで(「こいつらは自分と違って心が無いのだ」)
生きていくだろうけど(そしてその事を外見上おくびにも出さないだろうけど)そんなのは現実世界でも
自分以外の他人はすべて見下す、よく居そうな人間ではなかろうか。

つまりこの意味で自動機械達と上手くやっていけるのであれば、その人は狂気ではなく
正常だと言わざるを得ないのではないか。この人は人々(ここでは自動機械達)の採用している
共通の生きかたに合致しているのだから。

15 :考える名無しさん:2007/12/14(金) 22:57:20 O
新刊の話。
例えばデカルトのコギトの省察は実は他人に語りえない、と言うのも実は語りえない、というのが累進的に続くという事?

16 :考える名無しさん:2007/12/14(金) 23:11:35 0
もう一度言っておこう

ちなみに俺は大手マスコミへの就職が決まってる

もう見ないんでね
さよなら


17 :考える名無しさん:2007/12/14(金) 23:37:45 O
どうぞご随意に。


18 :考える名無しさん:2007/12/15(土) 16:38:01 O
>>15
だいたいそういうことが書いてあると思うけど。どういう疑問?

19 :考える名無しさん:2007/12/16(日) 18:45:32 0
>>16
こういう奴が一番困るんだよなーww


20 :考える名無しさん:2007/12/16(日) 20:56:37 O
>>18
ちょっと確認したかっただけです。
ごめんなさい。


21 :考える名無しさん:2007/12/17(月) 01:46:59 0
永井もついには大澤とおなじ地点にいってしまった。
大澤の著作が何をかたっていても最後に第三者の審級が登場して終わるのと
同様に
永井も何をかたっていても最後に累進構造が登場して終わる。
言い方をかえれば、永井も大澤も森羅万象を語れる究極のアイテムを手に入れた
とも言える。
逆にいえば、なにをかたっていてもおんなじことについて語っているとも
いえるわけだ。

ちんぽびんびん

22 :考える名無しさん:2007/12/17(月) 09:27:04 0
そんな一般化の仕方をしたら、
すべての哲学者・思想家がそうだよ。

23 :考える名無しさん:2007/12/17(月) 11:15:27 O
>>20
いや、何か続きがあるんだろうかと思っただけなので…

24 :考える名無しさん:2007/12/17(月) 17:41:16 0
>>8
>>11
>>16
東大法学部なら自慢しても許してやるが
文学部それも哲学だし…
最底辺じゃん。


25 :考える名無しさん:2007/12/17(月) 20:58:07 0
47 名前: ◆mgNCaLKg6. 投稿日: 2007/12/17(月) 18:50:06 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1197640265/l50
>>
>我々の手で新しい思想の創造を行いましょう
>嫌だよ 功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
>私は京都大学の文学部で博士課程まで哲学に関する研究を行いました。現在は金融に就職しているので研究室での研究とは疎遠な状態ですが、私も独自の体系を日々完成に近づける努力を続けています。
>この思想は私が学部の卒業論文で最初に提起し、修士、博士課程において主に研究、精錬を重ねたものです。
>また、高名な教授と議論をすることができますし、永井均先生等、第一線で活躍しておられる哲学者の方に直接触れる機会も多いです。
>最後に、これから哲学(ないしは哲学的思索)が社会において有効性を発揮する分野としては環境倫理学、生命倫理学があると思います
特に生命倫理に関しては京都大学の研究室では万能細胞を皮膚から作ることに世界で初めて成功しましたが、
このことによって生命倫理的なより精錬された議論が必要となると思われます
<<

あー、おまえは「永井均」ほんにんだろうwもしくは、せいぜいかんけいしゃとかしそうにかんかされたやつにしといてやるかwww

で、そういうせこいことで「じせつ」をせんでんするのやめないか?
おなにーなら「ぶろぐ」ですきなだけやればよろしい。
そこならすきなだけでんぱ「ゆんゆん」していいから。

ちょっとしらべてみたけど、ひでーな。

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1140442849/l50

「永井均関係者=純一 ◆Fn0dptrDJw=精神病一歩手前」

「嫌だよ。功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない。」



26 :考える名無しさん:2007/12/18(火) 21:42:57 O
ところで、なぜ累進なんかするんでしょうね。
言語で語られる以上は累進せざるを得ないということかと思われるけど、
例えば、いくら累進しないような工夫をしても、こういう理由でどうしても
累進してしまう、とまでは書いていないと思われるので。
もちろん、「最上段」「〈これ〉」などという言い方を当然のごとく自分の
こととして理解してしまっている(つもりの)ことからして、累進させないように
するのは無理なんだろうとは思うけど。

27 :考える名無しさん:2007/12/19(水) 00:14:29 0
>21
>永井も何をかたっていても最後に累進構造が登場して終わる

え〜と、最後はいつも、デビルマンが登場して終わるんだっけ?

28 :考える名無しさん:2007/12/19(水) 09:38:30 0
「累進構造」って今度の本が始めてではないの? 前から言っていた?
永井はどちらかと言うとむしろ概念を使い捨てにするタイプではないか?
例えば、一時期キータームとして使われていた「中心化された世界」という話はどこに行ってしまったんだ?



29 :考える名無しさん:2007/12/19(水) 12:43:10 0
嫌だよ。功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない。

30 :考える名無しさん:2007/12/19(水) 23:13:40 O
累進構造という用語が出てくるのは初めて。
何度も出てくるといえば、むしろ、カブトムシじゃないか。
たびたび姿を現すけど、その都度レベルアップに応じた方法で退けられてるみたいで、
なんか、漫画やゲームでいうと、ラスボスと称してるけど実は違うやつみたいだw
結局は手を組んで、一緒に真のラスボスと闘ったりするんだろうか。つまんない冗談失礼

31 :考える名無しさん:2007/12/20(木) 06:04:44 0
>>24
てか、よく堀江豚の後輩ってのを自慢できるよな。
学歴コンプもここまで来ると…
堀江豚は子供の頃に猫虐殺してその猫食べてたんだろ?

やっぱ神経おかしくなってるのを気づいてないw


32 :考える名無しさん:2007/12/20(木) 13:13:21 0
嫌だよ
功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない

33 :考える名無しさん:2007/12/20(木) 20:32:05 O
他人もそれぞれ「私」であり、「心」を持っていて…ということを認めた上で、
〈私〉の特別さを問題にするのが初期(?)で、「私」「心」なんてものを全て
取っ払って、〈これ〉としか言えないものを問題にするのが最近だと言えるとすると、
「中心化された世界」というのは、何というか、中間的なものだったといえるんだろうか。
個人的には、「中心化された世界」が出てきた『翔太』や『転校生』で、何となく
何か掴めた気がしたので、それが中間的なものにすぎないとすると、自分の理解力の
中途半端さが示されたようでイヤだけどw

34 :考える名無しさん:2007/12/20(木) 23:34:06 0
嫌だよ
功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない


35 :考える名無しさん:2007/12/20(木) 23:44:44 0
>「累進構造」って今度の本が始めてではないの? 前から言っていた?
>永井はどちらかと言うとむしろ概念を使い捨てにするタイプではないか?

様々な用語を用いながら,考察をすすめていきついに究極の概念に到達した
ということである。
だから
”永井もついには大澤とおなじ地点にいってしまった。 ”
と”ついに”という用語をつかったのである。
まえから累進構造という用語をつかっていたら、”ついに”などと
かかないのである。

永井が究極のアイテムを手に入れたことは、
永井自身が、ウィトゲンの言葉をパロッって
”本書において表現された思想が真理であることは侵しがたく決定的である”
と書いていることからも察することができるのである。
さらに付け加えれば,”哲学と思想は違う””自分は思考しているだけであって
主張しているわけではない”といったこだわりをもっていた永井が、
ここでは”思想”という言葉をつかっていることにも注目しておくべきであろう。
さらに言えば、永井の初期の本には申し訳程度であっても付属していた
”自分はもしかしたらある特殊な錯覚にとらわれているだけかもしれない。しかし・・・”
といった自分の思考にたいする懐疑の念が近著からは完全に消滅したことも
気にとめておくべきであろう。




36 :考える名無しさん:2007/12/21(金) 19:27:10 0
永井の新刊って岩波書店の哲学塾シリーズの一冊なんだな。
いかにも啓蒙的な本の中でまさか永井の<わたし>が消滅していたとは。
さっそく買って読んでみることにするよ。

37 :考える名無しさん:2007/12/22(土) 04:12:24 0
564 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 01:11:20 0
>また、高名な教授と議論をすることができますし、永井均先生等、第一線で活躍しておられる哲学者の方に直接触れる機会も多いです。

ってどこかに書いてあったんですけど
永井均先生は第一線で活躍している高名な哲学者なのでしょうか?
評判は「主張が独断かつ眠すぎて最悪」「電波の発生源」らしいんですけど…

565 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 05:19:55 0
>>564
この板によく出没してますよ。
自身のスレ2つも立ててるし、きっと2chで限界突破してるんじゃないですか?
まあ、あの真理はまだ知らないんでしょうけど…

568 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 12:41:59 0
>>564
ああ、その人の思想は感動したとかいうキモオタと話したことあります。
そいつの脳を読んでみると、寄生獣に出てくるような幻獣がいっぱいいました。
どうも夢にたくさんの目玉が出てくるようです。
いつも何かの視線を感じるていてうなされてるといってました。
お気の毒なことです…


38 :考える名無しさん:2007/12/22(土) 04:13:34 0
576 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 18:57:04 0
永井均は
日本大学文理学部哲学科倫理学教授永井均w
の肩書きを取れば
「主張が独断かつ眠すぎて最悪」「電波の発生源」
そのものなんじゃないか?
その辺のブログとかで電波出してる奴らと変わらんよw
少し哲学っぽい専門用語使ってるだけじゃないかな?
といっても大切な肩書きも「日大」だしw

577 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 19:11:53 0
永井均は
日本大学文理学部哲学科倫理学教授永井均w
の肩書きを取れば
永井均w
あっ
ぷっwww

582 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/21(金) 06:20:57 0
>>564
たしかに強力な電波の発生源であるよw
思うんだけどあの人のトリックに引っかかるのは頭が弱い証拠だろうなw

584 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/21(金) 13:49:46 0
トリック?
ああ、そりゃトリック明かしたら奴がかわいそうだなw
だって、
嫌だよ
功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
だしww
てか、奴はキモすぎるwww


39 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/12/23(日) 22:26:30 0
>>14 勝手批評さん

前-思春期にいる多くの子供たちが、永井の<私>体験に似たような、
と推測される体験をするらしいです。

<私>(という心)だけが存在するという絶対の孤独感、
事物や「自分」のような存在者と<私>との圧倒的な隔絶感、別物感を。

この体験について多くの子供たちが、それの狂気を、
つまり、同じ(正常な)仲間としては受け容れられないことを察知するようです。

そして、多くの子供たちが、それを隠し、否認し、いずれ忘却していくのですが、
共通の生き方に合致するとは、この忘却の上に成り立つことなのかもしれません。

だから、そうはならなかった永井が、今やかくあるべき「自分」の共通の生き方と、
<私>のかくあるべし生き方(=哲学すること)との存在論的葛藤をかえりみて、
それを「倫理的に狂気である」と考えてしまうのは当然のことのように思うのです。

もしも永井が「倫理的に狂気である」と考えているのでないならば、
勝手批評さんが言われるように、そのような狂気は狂気ではないと思います。


40 :勝手批評:2007/12/24(月) 16:15:48 0
>>39
「前-思春期」なる心理学的考察にはあまり興味が無いな。人生論と誤解しているよう
にも見える。

>もしも永井が「倫理的に狂気である」と考えているのでないならば
>勝手批評さんが言われるように、そのような狂気は狂気ではないと思います。

の意味が分からない。永井氏は著書の中で自分以外の人間が全てロボットだと信じて生きる
事は論理的には可能だが「倫理的に狂気である」と言っていて、それに対して僕がそうは思わない
と言っているのだから。(そしてその理由が14に書かれてある)

カオル ◆BBBRv/ousU が何に賛成しているのか、そもそも何を理解している
のか僕にはさっぱり分からない。筋の通っていない賛成なら哲学的には無意味だ。

41 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/12/25(火) 01:20:04 0
>>40 勝手批評さん

わたしは、あなたが問題にした箇所については、すっかり忘れています。
だから、きっと永井ならこのような意味で、つまり「倫理的に狂気」という意味で
「狂気」という言葉を使用しているはずだ、という意見をそのまま書いてしまいました。

つまり、「<私>以外の人間が全て自動機械だと信じて生きる事は論理的には可能」なので、
もしも永井が「倫理的に狂気である」と考えているのでないなら、その狂気は狂気ではない、
というわたしの考えが、あたかもあなたに賛成しているかのように見えてしまったというわけです。

多くの子供たちにとって、独在性は打ち消さ“なければならない”ことのように感じられるようです。
独在性は「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」だと直観されるからです。

自動機械を蔑み優越感に浸るというような心理とは程遠く、仲間外れになってしまう
というような恐怖を感じたり、自分だけが<違う>ということに罪深さ感じたりしてしまうようです。
おそらく人間の生の形式における根源的な真っ当さにおいて外れていると感じているのでしょう。

永井が「論理的には可能だが倫理的に狂気である」と言っているのなら、言葉上は、
そのままわたしの考えと同じなので賛同できそうですが、『<私>のメタフィジックス』は、
だいぶ以前に処分してしまって手元にないので確かめられません。すみません。


42 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/12/25(火) 01:46:08 0
>>40 勝手批評さん

すみません、ついでに。

現実社会においては、彼の生き方が狂気なのかそうでないのかは、
彼がその社会に溶け込んで生きられるのかどうかによって判断されるのかもしれませんが、
ここで言う<狂気>とは「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」
を指しているのであって、彼が社会に溶け込んで生きられるのかどうかを判断の基準に
しているのではないと思います。

「論理的に可能」とは、彼が他人たちが自動機械であると信じながらも、
自動機械たちの社会に溶け込んで生きられるという事態の可能性をも含んでいるのであり、
もしも彼が実際にそのような生き方をしているのであれば、あなたが指摘するように、
彼は「人々が採用している共通の生きかたに合致している生きかた」をしているのでしょう。

けれども、たとえ彼が社会に溶け込んで生きられたとしても、彼が「人々が採用している
共通の生きかたに合致しない生きかた」をしているのであれば、それを指して「倫理的に
狂気である」とは言えないでしょうか。

つまり、<私>が、「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」
(=<私>という心だけが存在する)をしているのであれば、ということです。

たとえば、それは「人々が採用している共通の生きかたに合致している生きかた」
しかできない哲学的ゾンビには、けっして真似のできない生き方と言えるかもしれません。

哲学的ゾンビにも「私」にも「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」
などそもそも出来ない相談です。それは「私的言語の不可能性」とパラレルと思われます。


43 :勝手批評:2007/12/25(火) 03:25:01 0
>>40
>多くの子供たちにとって、独在性は打ち消さ“なければならない”ことのように感じられるようです。

そもそも普通の子供達は永井氏の言うような独在性なんてことはまるで視界に入っていない
と思う。既に指摘したがカオル ◆BBBRv/ousU が問題にしているのは心理学的なことで僕は
全く興味が無い。独在性は打ち消し様が無いものなのだから、『打ち消さ“なければならない”』
なんていうのはまるでお門違い。(これが当てはまるのはいわゆる普通の独我論)

>けれども、たとえ彼が社会に溶け込んで生きられたとしても、彼が「人々が採用している
>共通の生きかたに合致しない生きかた」をしているのであれば、それを指して「倫理的に
>狂気である」とは言えないでしょうか。

全く意味不明。「たとえ彼が社会に溶け込んで生きられたとしても」と言って仮定の中でその人は
既に「人々(この場合自動機械達)が採用している共通の生きかた」を文字通り実践しているのに
どうしてそれが「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」になるのか。

心の中でどんなに奇妙な想念に駆られていようと、それが行動に現れないのならそれは単なる想念
に過ぎないというのは認めるだろう?永井氏の言う「倫理的に狂人」というのも実際に異常な行動を
取り始めて初めて狂人と言える筈なんだから。





44 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/12/26(水) 01:48:26 0
>>43 勝手批評さん

(まるでお門違いなら無視して頂いて結構です)


永井は、9才頃に独在性の<私>体験をしていて、
永井哲学は、その「驚き」から出発しています。

わたしは、永井の体験は特別なものと感じていました。
しかし、永井のそれに似た体験は、意外に多くの子供たちに
体験されているらしいことを、ある心理学者たちの研究報告を見て知りました。

わたしが問題に感じたのは、そのような体験をした子供たちの多くが、
その体験への「驚き」を封印してしまうのはどうしてなのか、ということです。

わたしは、永井が『<子ども>のための哲学』で、子供たちに「驚きを持ち続けること」
を奨めていたのがどうしてなのか理解できませんでした。

<私>体験のないわたしは、永井の言葉を素直に理解したとき、
それは「狂気への励まし」ではないのか、そんなことを奨めてもいいのだろうか、
と感じていました。


45 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/12/26(水) 01:55:07 0

なぜなら、その「驚きを持ち続けること」は、世界内の存在者である「私」が、
みずからもその世界を構成する歯車として、他の歯車と不可避的(同じ生の形式)に
連動しながら(生きながら)も、その一方で世界の一切の歯車と連動しない歯車<私>
でもあることを自覚し続けることだからです。

その自覚は「倫理的に狂気」ではとどまらずに、実際に子供たちを異常な行動へと導き、
世界内的に、現実に、狂人にしてしまうかもしれない危険がある、と感じていたからです。

独在性の<私>体験(それが言語化され頽落してしまう前の超越的独我気分?)が、
ちょっと変わった想念や心理的気分に読み替えられてしまうようなものならば、
超越的独我気分を持ち続けて生きることは、この世界内的な生き方として、
つまり「人々が採用している共通の生きかたに合致している生きかた」としては
論理的に可能かもしれませんが、それを「倫理的に狂気である」とは思いません。

なぜなら、たとえば永井のように超越的独我気分を持ち続けて生きるとき、
その超越的独我気分が、ちょっと変わった想念や心理的気分に読み替えられるならば、
――<私>は、なぜこの「私」なのか――と言うときの世界内の存在者「私」=「永井」
の生としては、「人々が採用している共通の生きかたに合致している」のかもしれませんが、
それでも永井があくまで独在性の<私>への「驚きを持ち続けて生きる」のならば、
やはり、その生き方は「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」であり、
世界内の機構からは「外れている」し、その意味では「狂気を生きている」と言える、
と思うからです。


46 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/12/26(水) 02:04:38 0

<私>は、「人々が採用している共通の生きかた」、たとえばホモロクエンスとしての
「私」の生を可能にする条件にはなりえても、みずからが「人々が採用している共通の
生きかたに合致」するようなことはあり得ないのではないでしょうか。

<私>体験を持つ子供たちは、なぜかこの「私」であるところの独在性の<私>が、
「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」存在であることに気づき、
それを忘却しなければなりませんでした。

なぜなら、独在性の<私>をはじめから無かったものとして打ち消してしまうことが、
子供たちが「人々が採用している共通の生きかたに合致する生きかた」をすること
に他ならないからです。つまり、それが「倫理的に正気である」ということだからです。

「倫理的に狂気である」とは、独在性の<私>が「人々が採用している共通の生きかた
に合致しない」存在であることに気づき、たとえば――<私>という心だけが存在する。
だから、他人はみんな<私>のようには心を持たない自動機械である――というような
奇妙な想念にとらわれて、彼が異常な行動を取りはじめたときの「狂気」を指している
のではなくて、独在性の<私>が「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」
存在であることに気づき、その「驚きを持ち続けて生きること」の「狂気」を指している
のだと思います。

なぜなら、「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」ということこそが、
もっとも根源的な意味で「倫理に反する」ということだろうからです。


47 :考える名無しさん:2007/12/26(水) 19:26:37 0
78 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/26(水) 07:30:18 0
>永井均先生等、第一線で活躍

このいたにあるかくかくのすれたいは、おまえのほんのたいとるそのまんまじゃんw
くだらん「ちょしょ」かいて「とんでも」「でんぱ」を「ゆんゆん」しなくてよろしい。
おまえの「〈私〉」しそうなどにきょうみねーよ。
サルがw

ウィキ:「永井均w=〈私〉=倫理=日大教授(文理)=トンデモらしいw」

* 『〈私〉のメタフィジックス』(勁草書房、1986年)
* 『〈魂〉に対する態度』(勁草書房, 1991年)
* 『ウィトゲンシュタイン入門』(筑摩書房[ちくま新書]、1995年)
* 『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』(ナカニシヤ出版、1995年)
* 『<子ども>のための哲学』(講談社[講談社現代新書]、1996年)
* 『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社、1997年)
* 『子どものための哲学対話――人間は遊ぶために生きている!』(講談社、1997年)
* 『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房、1998年)
* 『これがニーチェだ』(講談社[講談社現代新書]、1998年)
* 『マンガは哲学する』(講談社、2000年)
* 『転校生とブラック・ジャック――独在性をめぐるセミナー』(岩波書店、2001年)
* 『倫理とは何か――猫のアインジヒトの挑戦』(産業図書、2003年)
* 『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社[講談社現代新書]、2004年)

48 :勝手批評:2007/12/26(水) 23:18:00 0
>>44
>わたしが問題に感じたのは、そのような体験をした子供たちの多くが、
>その体験への「驚き」を封印してしまうのはどうしてなのか

大抵の子供は「封印」なんて大袈裟な事したりして無いと思うんだが。そもそもそんな体験をしない
子供もいるだろうし(実際自分も永井氏が語る<私>なんて子供の頃考えつきもしなかった)、
もし似たような体験をしたとしても大人になるにつれ、大抵は忘れ去っていくだけだ。

>独在性の<私>への「驚きを持ち続けて生きる」のならばやはり、その生き方は
>「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」であり

それは単に多数派の「人々が採用している共通の生きかた」に合致してないだけで
少数派の、つまり哲学者のコミュニティーには十分合致すると思うけど。しかもその哲学者
だって哲学をしていない時は普通の人々の採用している共通の生きかたに合致した生活を
してる事は明らかだろう。(そうでないのならその人は哲学者として大学に居る事はできず
精神病者として病院に入れられているはずだ)

まあ、20年以上前の著作の揚げ足取りなので何ら発展的なことは無いし、しかも一時期を
除いてまともなレスがつけられていないで、まともな人はここには来ないのだろう。

カオル ◆BBBRv/ousU は(永井)哲学に酔い痴れているように見える。僕は到底好きになれない
態度だな。哲学に妙な感傷はいらないと思う。哲学者ならそこで「感傷とは何か」と問わなければ
ならないだろう。

49 :考える名無しさん:2007/12/27(木) 02:50:19 0
スピリチュアルで飯食ってるやつがつべこべ言うなw

50 :カオル ◆BBBRv/ousU :2007/12/28(金) 00:08:54 0
>>48 勝手批評さん

他人はみんな自動機械であるという主張は、
それが頽落した独我論によるものでないならば、
<私>という心の比類なさから導かれるはずです。

ですから、他人がみんな自動機械である可能性を本気で考慮に入れるためには、
<私>という心の比類なさへの確信ということがなければなりません。
それは人々が採用している共通の生き方に合致しないと思います。

他人がみんな自動機械である可能性を本気で考慮に入れて生きることは
論理的には可能ですから、「倫理的に狂気」とは、人々と上手くやっていけないことを
指しているのではなく、人々が採用している共通の生き方に合致しないことを指します。


51 :考える名無しさん:2007/12/28(金) 00:43:25 0
永井氏に対しては個人的に「Rule following」について語ってもらいたいなぁ


52 :考える名無しさん:2007/12/28(金) 03:30:50 O
もし知らなかったら参考までに。
『事典哲学の木』で、そのものずばり、「規則に従う rule following」の項目を
担当してる。他の本でもある程度書いている部分があるけど、これが一番詳しいと思う。

53 :勝手批評:2007/12/30(日) 03:42:40 0
>「倫理的に狂気」とは、人々と上手くやっていけないことを指しているのではなく、
>人々が採用している共通の生き方に合致しないことを指します。

の意味が分からない。実際に人々(この仮定では自動機械達)と上手くやっていけているのに
(心の中でどう思っているかはさて置いて)「人々が採用している共通の生き方に合致しない」
ということにどうやったらなるのか。それならどんな人だって同じ意味で「人々が採用している
共通の生き方に合致し」ていないと言えるのではないか。しかしそれを認めたら最初から「共通の生き方」
などという概念に意味を与える事は不可能になるだろう。

54 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/05(土) 19:27:34 0
>>53 勝手批評さん

あなたの指摘する当該箇所での永井の議論は、プラスクワス懐疑論などにみられるように、
ある人が「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」別の公理系にしたがうならば、
その人は、その社会の伝統や慣習や常識に実践的に反していると言える、という意味では、
たとえ現実的には「人々が採用している共通の生きかたに合致しつづける」のだとしても、
その人は「倫理的には狂気である」と言えないか、というようなものだったのかもしれません。

プラスをクワスと解釈することの自由は、規則や法則や意味を言語によって
私的に理解したり誤解したりする可能性であり、しかしその私的さは引き継ぎ与えられたもの
としての言語の公共性をその基準にして成り立つのであり、そのようにして生きていくという
その生き方は言語存在者としての生き方に他なりませんから、
それは「人々が採用している共通の生きかたに合致している」と言えるでしょう。

わたしが思うのは、独在性の<私>が「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」
<存在>であることに気づきつづけることは、「私」もその世界の一人である世界内からみれば、
「人々が採用している共通の生きかた」からの離反行為であり(つまり、倫理的には狂気であり)、
独在性の<私>にしてみれば、端的に<私>の存在が「人々が採用している共通の生きかた」
には何の関係も持たない(合致したりしなかったりができない)ことに他ならないということです。


55 :考える名無しさん:2008/01/07(月) 22:52:26 O
たまたま『これがニーチェだ』を読み返していたら、207頁にこんな一節があった。
「永遠回帰は、目的なき日々の無意味な繰り返しのうちで、世界と一体になって
無邪気に遊ぶ子供の、現在の肯定感そのもののうちに自ずと示されるほかはない。そこ
には、他である可能性との対比という様相の厚みがない。こうであったなら、とか、
こうでありえたかも、という可能性の視点そのものがそもそもない。」
このあたり、例えば新刊の140頁前後のような言語や様相についての議論が、暗に
前提になっているのかな。最初に読んだ時は気付かなかったけど。

56 :考える名無しさん:2008/01/09(水) 23:24:03 0
永井は結局
神様の存在
や魂の実在を信じてるんだな。
これじゃ
ニーチェ批判どころか
ニーチェ以前への
哲学の先祖がえりじゃないか。

57 :考える名無しさん:2008/01/10(木) 23:25:49 O
具体的に何が先祖がえりなの?あるいは、仮に先祖がえりだとして、その何が問題なの?

58 :考える名無しさん:2008/01/11(金) 23:02:31 0
先祖がえり
だとか揶揄されるのは
永井さんがその論考において中途半端だからだ。
徹底性に欠けるからだろうな。
ニーチェが神を信じてるという発想はそれなりにおもしろい。
それならそのことについて分厚い本一冊ぐらい書けばいいのだ。
そしたら説得力もでてくる。
『これがニーチェだ』みたいな薄っぺらい本でごまかすから相手にされないのと違う?
霊魂でも同じことですよ。

59 :考える名無しさん:2008/01/12(土) 00:45:35 0
「神」や「魂」が「実在しない」のは自明のことだが、
『子どものための哲学対話』の第2章の7にも、
「不図(ふと)生きる」という話があって、
様相に関するこの「思想」はずっと一貫しているようだ。
「rule following」の問題も、「ウィトゲンシュタイン入門」では、それによって解いている。
他の可能性がなくなる(=「様相の厚み」が消える)地点がある、
ことによって規則が他の従い方が可能な「規則」でなくなって、
((規則の適用の仕方の規則(の適用の仕方の規則(…)))と辿っていくと)
結局、どこかで、行為を決定するものとなる、というふうに。


60 :考える名無しさん:2008/01/12(土) 01:33:29 0
>>7に同意

知り合いに永井の独在性の話をしたところ(もしくは本を紹介)、反応がキレイに2つに分かれた。
「めっちゃ分かる!!自分も昔考えてた!」って全面的に理解(納得)する奴と
「は?永井ってバカ??意味わかんね」って全く理解出来ない奴。(理解出来ないから、反論もできない)

永井が何度も言ってる通り、「<私>の感覚」は事前に自分で疑問を持ったことがあるやつとしか共有出来ない感覚なんだろうな。
幸か不幸か、おれは永井とこの感覚を共有できたけど。


61 :考える名無しさん:2008/01/12(土) 10:45:56 O
永井が論じる〈私〉自体は、ある人が感じて別の人は感じないとか、ある時に
感じて別の時には感じないとかいうような、個別的あるいは特殊な体験のようなもの
ではないと思うけどね。
ただ、それを、他の人にも当然当てはまることであって私の特別さなど何もないと
簡単に片付けてしまうか、そうは片付けられないと思うかについては、感覚の違いが
あるのかもしれない。

62 :考える名無しさん:2008/01/12(土) 18:34:06 0
問題を「感じない」人は入ってこないでほしいとはっきりと
書いてるもんね

63 :勝手批評:2008/01/12(土) 19:26:54 0
>>71
>永井が論じる〈私〉自体は、ある人が感じて別の人は感じないとか、ある時に
>感じて別の時には感じないとかいうような、個別的あるいは特殊な体験のようなもの
>ではないと思うけどね。

でも問題は こ の <私>なわけだから他の人の言う『<私>』などは結局
「個別的あるいは特殊な体験のようなもの 」でしかないんじゃなかろうか。つまり
他人の言う<私>は決してそれ自体として受け入れられないのだから。
(もちろん「 こ の <私>」と今表現したように「この」を強調したところで
事態が変わるわけじゃなくて、この「この<私>」とか、この『この「この<<私>>」』
とか、・・・以下同様でも同じことなわけで)

この問題を語ろうとした瞬間に意味が他の人々にも理解出来る形にならざるを得ない以上は
60さんのようにこの話をすると必然的に誤解(賛成ではない)と無理解(反対ではない)
という形になるというわけだ。


64 :考える名無しさん:2008/01/13(日) 11:28:11 O
他人が言ったからといって、個別的あるいは特殊な体験と考えられたりはしないと思うけど。
〈今〉のほうで考えれば多分より明らかで、例えば3日前の日記に「〈今〉こそが問題」
と書いてあり、10日前の日記にも「〈今〉こそが問題」と書いてあったとする。
このとき、本当に問題なのはこの〈今〉なのだと言いたいのだが、そのことはある意味
では3日前にも10日前にも(そして他のどの時点にも)同じように言えてしまうのが問題。
だから、当たり前だが、この問題が、3日前には当てはまるが10日前には当てはまら
ないような個別的なものだとは考えられない。
これは〈私〉でも同じだろう。例えば永井均が「〈私〉が問題」と言い、入不二基義も
「〈私〉が問題」と言ったとして(名前借用失礼)、そうではなくこの〈私〉こそが
問題と言えるかどうかと考えるときに、永井には当てはまるが入不二には当てはまらない
ような個別的なことがあるとは考えられないと思うけど。

65 :勝手批評:2008/01/13(日) 21:37:41 0
アンカー間違えていた。当然>>61です。
>>64
何か根本的な誤解があるように思える。他人の言う「<私>」が<私>であるはずはない。
何故なら世界はその様な他人から見られたものではないのだから。他人達も世界を見ること
は出来るだろうけど、そんな事は<私>にはまるで関係のない事だ。64さんは最初から問題を
“普遍的な”<独在性>(だからレベル的には普遍的な独我論と同じレベル)で言及している。

<独在性>の真の意味からすれば永井氏や入不二氏は単なる他人達に過ぎないので彼らが如何に
<私>について語ろうと、こ の <私>(それはたまたま今、勝手批評から見られているのだが)
からすれば「個別的あるいは特殊な体験のようなもの」に過ぎない。
(しかし既に63に書いたが「 こ の <私>」といった表記はさらなる無限後退に陥るだけで空回り
でしかない。そして理解する為にはその無限後退を止めなければならず、それ故63さんがこの話を
どうしても普遍的なものと解さざるを得ないこともまた必然だ。)

>そうではなくこの〈私〉こそが 問題と言えるかどうかと考えるときに、
>永井には当てはまるが入不二には当てはまらないような個別的なことが
>あるとは考えられないと思うけど。

のくだりも、精確に言うと<私>が真に問題なのなら、永井にも入不二にも当てはまり
はしないのだ。そして本当に当てはまるのは こ の <私>なのだが、いい加減繰り返し
だがそれは無限後退に陥るだけというわけだ。(この<私>が誰なのかという問いの答えは
もちろん勝手批評などという一個人ではない。 こ の 「この<私>」、いや、こ の 「この
『この<私>』」、いや、・・・・・以下同様。)


66 :考える名無しさん:2008/01/14(月) 00:20:29 O
そんなところを誤解しているつもりはない。
当然、真に問題なのは、永井でも入不二でも他の誰でもなく、この〈私〉だ。しかし、
そのようにいくら言ってみても、それもやはり普遍化されてしまい、他の誰もが
同じことを主張することになってしまう。(とりわけ永井が(!)主張するだろう。)
永井もその趣旨を書いていると理解しているし、そもそも、もしも普遍化される部分が
全然ないとしたら、誰も永井の本を理解できず、それについて議論することも
できないことになるでしょうが。
ともかく、言いたかったことを少し補足すると、〈私〉や〈今〉について普遍化されて
しまう部分に注目するなら、それがある人やある時点にのみ当てはまるなんてことは
ないだろう、というだけのこと。そこに異論がありうるとは思いにくいけど。
もちろん、普遍化されない部分のほうにこだわるのは構わないけど、それなら、他人の
言う〈私〉などは、端的に間違いか、または無意味・理解不能とでもいうべきであって、
個別的な体験もなにもないんじゃないの?

67 :考える名無しさん:2008/01/14(月) 00:34:09 0
こんな所で携帯からグジャグジャ言ってると余計な混乱や誤解を招くだけ。
少なくとも『転校生とブラックジャック』『なぜ意識は実在しないのか』をちゃんと読み直してみてよ。

68 :勝手批評:2008/01/14(月) 01:47:50 0
>>66
>他人の言う〈私〉などは、端的に間違いか、または無意味・理解不能とでもいうべきであって、
>個別的な体験もなにもないんじゃないの?

いや、もちろんこれも普遍化の為に理解(もちろん真の意味では誤解)されざるを得ない、というのが
本質的なことで、だとすれば他人の語る「<私>」は「個別的な体験」という風に位置付けざるを得ない
こともまた必然だろう。

>普遍化されない部分のほうにこだわるのは構わないけど

というのは<私>の議論上、こだわるのは仕方ないのでは?といってこれにこだわった所で
<私>について他人に語ろうとすると(その都度最初から)普遍化されてしまうのだから
「こだわる」やり方を変えるしかないのだろう。つまりそもそも<私>について語るのを止める
方向しかないと思う。

>>67
別にこの議論をする為に『転校生とブラックジャック』『なぜ意識は実在しないのか』を読み直す
必要は無いと思う。それからこれはどうでもいいけど僕は携帯電話を持っていない。


69 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/14(月) 02:22:23 0
>>60さん

<私>の独我論は、「めっちゃ分かる!!」という同意を拒否します。
言語ゲームの世界においては、その同意は「私」の独我論にたいしての理解としてしか存在しえません。
なぜなら、<私>の独我論は言語によって理解されることがありえないからです。
私的言語の不可能性とは、言語ゲームの世界における<私>的言語の不可能性ではないでしょうか。

ですから、「は?意味わかんね」と言って理解も反論も示さない彼こそが、
じつは<……>ということも十分に考えられることですが、他人が<……>を想像することは不可能です。
もしかしたら<……>には、<めっちゃ分かる!!>という<私>的言語が当てはまるのかもしれませんが、
この想像がつねに想像できないものへの想像になってしまうしかないことが、すなわち言語の限界でしょうか。

つまり、<めっちゃ分かる!!>という同意は、いくら同意しようとしてもけっして同意することのできない、
他の<私>とか、他の<魂>とか、「他のもの」としては、けっして差異化(言語化)されえないものへの、
すなわち、<私>にたいする<私>の、<魂>の<魂>にたいする態度なのではないでしょうか。

けれども、他の<私>の存在を許さない<私>の独我論は、「私」の独我論の単なる否定ではなく、
否定するものとしての<私>の独我論が、「私」の独我論を通してしか自覚されえないことも示しています。
なぜなら、<私>の独我論は、そこから世界が開ける原点としての<私>が、
<私>から開かれた世界内の存在者「私」として位置づけられないかぎりは気づかれることがないからです。

<私>の独我論の可能性の条件は、自分を多くの人間の中の一人として了解する「私」の成立であり、
しかしそれを待っての独我論は、すでに頽落した独我論になるしかありません。
言いかえるなら、<私>の独我論の可能性の条件は、それが(頽落した独我論として)理解されて
(言語ゲームに回収されて)しまうことを、その成立可能性の条件にしているのです。
ゆえに、<私>の独我論は、つねに頽落した独我論を否定する運動のうちにしか示されえないのです。


70 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/14(月) 02:32:35 0
>>69
>言いかえるなら、<私>の独我論の可能性の条件は、それが(頽落した独我論として)理解されて
>(言語ゲームに回収されて)しまうことを、その成立可能性の条件にしているのです。

訂正 言いかえるなら、<私>の独我論は、それが(頽落した独我論として)理解されて
    (言語ゲームに回収されて)しまうことを、その成立可能性の条件にしているのです。
    (あくまで「可能性」の条件です)


71 :考える名無しさん:2008/01/14(月) 03:47:36 O
>>67
確かにきちんと書けないので、これ以上はやめておきます。
(自分も携帯はよくないと思うけど、PCのほうが最近ずっと書き込み規制で…)

72 :考える名無しさん:2008/01/14(月) 07:46:26 0
カオルさんは宗教板のほうがむいてると思うよ。。。

73 :考える名無しさん:2008/01/14(月) 07:50:11 0
というか、本当はどこにも向いていないんだけどw
カオルさんは、自分で書いていることを、自分でも理解していないから。。。

74 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/16(水) 03:19:14 0

わたしが素朴に疑問なのは、「めっちゃ分かる!」って、
そんなの「あり」なの?ってことです。

わたしは<私>についての議論は理解できても、
だから、その意味では「めっちゃ分かる!」んですけど、
わたしに理解されたのは、つねに<それ>じゃないんだから、
けっきょくは、「は?意味わかんね!」なんですよね。

<私>には他の<私>なんて存在しないんだから、
「めっちゃ分かる!」なんて絶対にありえないと思うし、
だから「永井とこの感覚を共有できた」とか、おかしいと思うんです。

だって「この感覚」って超越的に私秘的な<感覚>のことですよね?
だれとも共有されることの決してないものですよね?

今はわたしは永井と同じような(と思われる)感覚を共有する人は
たくさんいると思っています。だから子供たちの話とかするんです。
だけど、そういう他の<私>の存在を許さないのが独在性だから。


75 :考える名無しさん:2008/01/16(水) 03:42:16 0
>>74
>だって「この感覚」って超越的に私秘的な<感覚>のことですよね?
>だれとも共有されることの決してないものですよね?

他人と感覚を共有するっていうのは、程度問題。
それが大前提。
つまり他者を「完全に」理解するとか、「全く」理解できないということはないのであって、
我々の理解はいつも、完全な理解と完全な理解不能との間にあるということ。
「めっちゃ分かる!」とか「意味わかんね!」も、そういう前提での発言だろ?


76 :60:2008/01/16(水) 06:14:49 O
書き方が悪かった。すまない

>わたしは<私>についての議論は理解できても、

「めっちゃ分かる」「意味わかんね」は<私>についての議論にかかる。

77 :考える名無しさん:2008/01/16(水) 15:06:17 0
まぁどっちにしても何らかの形で言語化されている限りは、
全くわからんということはない。
これは、〈個と普遍〉問題のバリエーションみたいなもの。
〈個〉そのものは名指し得ない、言語化できないはずのものだが、
名指し得ないということの理解は共有できる。

〈個〉をつきつめていけば、『単独者』みたいなものに行き着き、
〈普遍〉をつきつめていけば、『イデア』みたいなものに行き着く。
どっちにしても、両極端に突き詰めていっちゃうと、宗教じみてくるのだ。


78 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/17(木) 01:59:12 0
>>75さん
>他人と感覚を共有するっていうのは、程度問題。

わたしは、程度問題であるところの「感覚」の共有について疑義を差し挟んでいるのではなくて、
また「私は他人の感覚を感覚することはできない」というようなことが言いたいのでもありません。

わたしが言いたいのは、だれかの「この感覚」――<私>の存在の比類なさ――についての
驚きの表明や様々な議論などについて、ここでは永井の<それ>について、別のだれかが
<それ>に同意したり賛成したりすることが、たとえそうしたいと願っても、どうしても“できない”
ということです。

なぜなら、それを認めるということは、他人の独在性――<私>の存在の比類なさ――の承認に
他ならず、それでは複数個の比類なさが並び立ってしまい、独在性が普遍化されてしまうからです。
独在性は、“つねにすでに”、このような「普遍化」から逸脱するものとしてのみ<ある>のですから、
他人の<それ>を承認することは背理であり、原理的に不可能だからです。


79 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/17(木) 02:08:32 0
>>76 60さん

了解です。


80 :考える名無しさん:2008/01/17(木) 16:20:38 0
>>78
>>77で説明したけど、意味わからないかな。
「この感覚」の「この」が、絶対の「個」に他ならないわけだが?

81 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/18(金) 03:28:22 0
>>80 75さん
>>77で説明したけど、意味わからないかな。

>>75にたいして返したレスとしては、>>78の内容は間違っていないと思います。
(できれば名無しじゃなく、レス番号[75]とか入れてもらえると分かり易いです)

>「この感覚」の「この」が、絶対の「個」に他ならないわけだが?

75さんの「この」は、>>77から推測すれば『単独者』におけるそれだと思います。

単独者は、たしかに「名指し得ない存在者という概念」に相当するのでしょうが、
まさにその単独者の単独性こそが、独在性が必然的に読み替えられてしまう
ところの当のものではないのでしょうか。

たとえば、ウィトゲンシュタインが消し去ろうとした「私」、文法的位置を持たず、
実在論と一致するとされた「私」など、まさにそのようにして示されたものでさえ、
だからもちろん当の永井の議論でさえ、“すでにつねに”読み替えられたもので
しかないことを、さらに示すことによって、つまりその読み替えを否定する運動
のうちに示そうとするしかないものが、独在性ではなかったのでしょうか。


82 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/18(金) 04:13:07 0
>>77 75さん
>何らかの形で言語化されている限りは、全くわからんということはない。

ということはない、と思います。

言いかえるなら「少しならわかる」などということすら、ありえない、ということです。
たとえ独在性の議論について「完全に理解する」ということが、ありえても、です。

当の<それ>――<私>の存在の比類なさ――について議論しているつもりでも、
<それ>が、本当に<それ>についての議論であるならば、<それ>については、
まったく、言いたいことが言えていない、はずだからです。

なぜなら、独在性についての言明は、じつは<私>的言語によって為されているからです。
にもかかわらず、<私>的言語の使用は、この世界(言語ゲームの世界)では不可能です。

つまり、どのように永井の議論を理解するのであっても、それが“理解される”のならば、
つねにすでに公的言語によって仲立ちされてしまっているので、理解される<それ>は、
普遍化されてしまった「それ」でしかありえず、ゆえに永井の<それ>ではありえません。

厳密には、永井の<それ>では「ありえない」ということすら言えてはならないはずです。
なぜなら、<それ>は、「概念化されえないものという概念」でさえないはずだからです。


83 :考える名無しさん:2008/01/18(金) 04:21:13 0
>>81-82
だからそれは>>77の「個」とどう違うの?
その説明なら、「個と普遍」問題の「個」と同じことなんですけど。

84 :考える名無しさん:2008/01/18(金) 15:47:17 O
77さんの言う通り、永井の独在論ってのは結局は個と普遍問題のことだと思うよ。

んでなぜ77さんとカオルさんが論争してるかというと、60さんの話と同じように
独在論については議論できるが肝心な<私>については議論できないことに由来してると思う。

85 :考える名無しさん:2008/01/18(金) 16:05:30 0
論争にはなってない。
たぶんカオルさんが個と普遍問題を知らないから>77を理解してないだけ。

86 :考える名無しさん:2008/01/18(金) 19:09:05 0
個は、普遍名に指示詞をつければ名指しうる。ゆえに言語化可能。
われわれは日々それをしている。「この花瓶」などなどとして。
独在者は、普遍者の一例であることができない、
そもそもその複数の事例ということが(たまたまないのではなく)
ありえない、という点で「個」とは全く異なる。
<私>は「この人」ではありえない。

87 :考える名無しさん:2008/01/18(金) 19:51:17 0
>>86
君も、名指し得ないっていうことの意味がわかっていない。
「この花瓶」や「この人」は、どこにでもある「普遍」「一般者」であり、
それによって、絶対の「個」を名指したことには全くならない。
言語そのものが普遍化作用を持っているのだから、これはあたりまえのこと。

「個と普遍」の問題では、「普遍」の対極に「個」があるのだから、
「独在性」を「普遍」との関係で、普遍化されないものと説明していながら、
それが「個」に重なることに気づかないほうが、どうかしている。


88 :考える名無しさん:2008/01/18(金) 21:22:22 0
個と普遍がわからん人は
普遍論争から勉強しなおしたほうがいいね

89 :考える名無しさん:2008/01/19(土) 12:03:01 0
>「この花瓶」や「この人」は、どこにでもある「普遍」「一般者」であり、

きみ、大丈夫???  88の言うとおり、初歩から勉強しなおさないと。

>「独在性」を「普遍」との関係で、普遍化されないものと説明していながら、
>それが「個」に重なることに気づかないほうが、どうかしている。

独在性は、普遍とだけではなく個とも対立している。世界内の個物とは全く違うもの。
「私」「今」「世界」(そして特殊な意味での「神」)においてしか成立しない,
と永井も言っている。当然のことだ。だから、人称、時制、様相だけが問題になり、
それら3つが実は「同じ一つの問題」だというのが永井の主張です。
きみに言ってもわかるはずもないけどね。

90 :考える名無しさん:2008/01/19(土) 23:23:51 0
>>89
だから・・・、「個」の理解が違っている。
君は「個」を、「個と普遍」問題の「個」として理解していない。

普遍論争は、そのもとをたどれば、プラトンがイデアを真の実在と考えて、
「個」を、イデア(普遍)の影として軽く扱ったことに遡る。
それに対してアリストテレスは、「個物」こそが真の実在であると考えた。
しかしアリストテレスのいう「個物」というのは、普遍が内在している
限りでの個物だった。たとえば「この花瓶」と言っても、それは「花瓶」
という普遍的本質の相で考えられている。つまりそれは、花瓶の中の
一つの花瓶であり、それは真の意味で代理不可能なものではなかった。
それに対して中世のキリスト教徒は、神の前に一人立つ者としての
《この私》を代理不可能なものとして考えた。つまり《この私》は、
私が「人間」であるというような普遍的本質よりも先に、絶対の「個」
として、神の前に一人立つ。
このような、代理不可能な絶対の「個」を言い表す言葉など存在しない。
「これ」と言ったとしても、「これ」は実は最も普遍的な語であって、
ありとあらゆるものが「これ」なのだから。だからドゥンス・スコトゥスは、
「このもの性」などという奇妙な言葉を作り出したが、それが言葉である限り
は、代理不可能な絶対の「個」を言い表すことはできない。
言葉の本質には「伝達」ということが含まれている限り、そこには当然
「普遍」が含まれているのだから。

普遍論争における「個」と「普遍」の関係は、その後もいろんな
バリエーションで繰り返されている。
たとえば、サルトルの有名な言葉、「実存は本質に先立つ」。

91 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 01:00:12 O
ずっとロムってた、哲学とかの知識皆無の学生です。

今話されている普遍論争などでわかりやすい本とかってありますか?

永井さんの『<子供>のための哲学』と『私・今・そして神』を読んでかなり興味深かったので、その背景知識をもっと知りたいと思い書き込みさせてもらいました。

92 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/20(日) 03:27:09 0
>>83 75さん

「個」をつきつめていけば行き着くだろう単独者の「単独性」は、
<独在性>と同じようなもので、<独在性>は<それ>が、
何らかの形で言語化されているかぎりは、「全くわからんということはない」
と、75さんは言っているのですよね?

わたしは、それにたいして「全くわからない」と言っているのですが。


93 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 05:51:16 0
「言語化されない」っていう形で言語化(「伝達」)されているってことだろ。。。






94 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 07:58:44 0
独在性は、〈私〉についてしか言えない。

95 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 08:04:22 0
実存もそうだろ。



96 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 10:18:26 0
>>91
普遍論争はむずかしい。スコラ哲学むずかしい。キリスト教だからな〜。

97 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 12:51:27 0
>それに対して中世のキリスト教徒は、神の前に一人立つ者としての
>《この私》を代理不可能なものとして考えた。つまり《この私》は、
>私が「人間」であるというような普遍的本質よりも先に、絶対の「個」
>として、神の前に一人立つ。

テキスト的根拠を示してもらいたい。

>「このもの性」などという奇妙な言葉を作り出したが、それが言葉である限り
>は、代理不可能な絶対の「個」を言い表すことはできない。

「代理不可能な絶対の「個」」と言い表しているではないか?

>言葉の本質には「伝達」ということが含まれている限り、そこには当然
>「普遍」が含まれているのだから。

なぜ?

>普遍論争における「個」と「普遍」の関係は、その後もいろんな
>バリエーションで繰り返されている。
>たとえば、サルトルの有名な言葉、「実存は本質に先立つ」。

「個」と「普遍」の関係と「実存」と「本質」の関係は独立だろう。
だからこそ、普遍論争が起きたのではないか?




98 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 12:58:13 0
普遍論争が何なのかはよく知らないけど、
永井の<私>とはちがうだろ。
同じなら永井がわざわざ哲学する意味がない。

99 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 13:34:16 0
>>97
>「個」と「普遍」の関係と「実存」と「本質」の関係は独立だろう。
>だからこそ、普遍論争が起きたのではないか?

逆だろw

>>98
「バリエーション」は「同じ」という意味ではなくて、「変奏曲」だよ。

哲学のほとんどは古代ギリシャ哲学に含まれていたものの変奏曲だと思う。
「個と普遍」「存在と生成」「自由と必然」、これらの対立はすでに
ギリシャ哲学の中にあった。「唯物論と観念論」の対立もあった。

100 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/20(日) 18:02:45 0
>75さん(>>92の詳しい説明)

独在性の<私>が「名指し得ない存在者という概念(単独者)」として理解され、
<それ>ではない「それ」として共有されるということならば十分に可能でしょう。

なぜなら、まさにそのようにして「名指し得ない存在者という概念(単独者)」に
読み替えられてしまった<それ>ではない「それ」が、『 独在性の<私> 』に
他ならないからです。

つまり、<それ>ではない「それ」として、言語ゲームという箱『   』の中に
回収されてしまった『 独在性の<私> 』が「名指し得ない存在者という概念」、
すなわち、単独性の「私」なのです。

75さんが「名指し得ない存在者(単独者)」と『 独在性の<私> 』とを
重ねあわせているならば、「全くわからんということはない」でもかまいませんが、
そうでないならば、「全くわからない」ので“なければならない”のです。

なぜなら、独在性は、いかなる形であっても言語化されることがありえないのですから、
言語ゲームの中には介入することができず、ゆえに「言語化されている限りでの理解
の共有」(>>75)ということすら、ありえないからです。

永井でさえ、独在性については、何一つ語れていないので“なければならない”のです。


101 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 18:17:45 0
同じことを何回も書いても意味ないよw  >カオル

目下の話題は「個と普遍」の「個」ですので
書くなら、>90の「個」との違いについて書いて。


102 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/20(日) 18:30:30 0
>>100からのつづき、

それから肝心なことですが、独在性――<私>の存在の比類なさ――は、
「名指し得ない存在者(単独者)であることからは導かれないと思います。

なぜなら、われわれはそれぞれがそれぞれに「名指し得ない存在者(単独者)として、
この等質空間であれ、あの神の前であれ、等しい資格で立ち並んでいるのだからです。

独在性――<私>の存在の比類なさ――が読み替えられたところの「単独性」は、
この世界(等質空間)における、あるいはあの神の前における「私」の存在の唯一さ、
すなわち、かけがえのなさ、です。

それに気づくことができるなら、二項対立する「個」と「普遍」の一方である「個」を
つきつめていけば行き着くらしい単独者みたいなものが、独在性の〈私〉ではない、
ことがわかると思います。

単独者は、たしかに名指し得ない存在者であり、到達不可能な他者ですが、
それでも言語ゲームの世界『   』の中で、生活形式の一致を前提にした、
「私」という語の表現の文法に関連づけて――たとえば、文法的位置を持たない
“この”私(ウィトゲンシュタイン)のように――語りうる問題なのです。

単独者は、「私」という語の使用についての議論において、
必然的に現われてしまう問題であり、しかしその問題の成立が、それによって、
独在性の<私>を隠蔽してしまう当のものであるからこそ、それにたいしては、
「それ」ではない、と言い続けなければならない、というのがわたしの意見です。


103 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 18:40:02 0
なんか、自分勝手に読み替えちゃってない?
いまいち、かみ合ってない。
>>102の「単独者」って、キルケゴールの「単独者」?
なんで「単独者」を「他者」に読み替えてしまうのか、
さっぱりわからん。
それが「等しい資格」であるのになんで「かけがえのなさ」
をもつのかもわからん。

104 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 18:57:12 0
カオルは一応永井の議論と用語に即して論じてるんじゃないの?

105 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:05:44 0
俺も「バリエーション」だとは思うが、
どこがどう変奏されてるか、そこが問題だね。
俺が思うには、「実存」では「個」の『主体性』
つまり行為的側面に焦点が当てられているけど、
「独在性」は、それよりは、もっと認識論的な
アプローチがされてるんじゃないかと思うんだが。

106 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:12:41 0
個は指し示されないものとして指し示される。
私もその個の一つにすぎないと言うわけか。
でも永井の<私>はそのように指し示される/されない私とはちがうんだろ。
主体として指し示される/されない、世界の外にいて世界を構成する場所として<私>
を永井は言ってる/ないんじゃないか?

107 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:17:52 0
>>106
>世界の外にいて世界を構成する場所として<私>
>を永井は言ってる/ないんじゃないか?

なるほどね。
だが、その説明だとハイデッガーの「バリエーション」だなw


108 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:22:23 0
比較思想はこれぐらいにして、寝る!

109 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:27:33 0
>>107
でハイデッガーは何のバリエーションなんだ?w

110 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:28:51 0
「バリエーション」かどうかは話題としてはありと思うけど
永井やカオルが論じてる問題を「自分勝手に読み替えちゃ」うと「かみ合ってない」ことになるんだと思う。
とりあえずはスレの流れ上の本題に帰ってみると、
>>75に対して>>81-82で説明され>>92で確認されてるんだからそれに対しての回答が求められるという状況では?

111 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:36:13 0
バリエーションの問題は案外重要だと思った。なぜかというと、
今のところを見たら、西田幾多郎の無の場所のようにも思われた。
つまり、バリエーションの問題は、永井の独自性はどこにあるのか?
そもそも独自性があるのか?という問題に他ならないわけだ。


112 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:38:56 0
って、あたりまえのことだったかな。。。

113 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:41:24 0
>>111
ウィトゲンシュタインのバリエーションとも言えるしな。

114 :考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:42:15 0
で、永井って、西洋では認められてるの?

115 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/20(日) 20:59:21 0
>>103さん
>なんで「単独者」を「他者」に読み替えてしまうのか、
>さっぱりわからん。

単独者が「名指し得ない」というだけなら、それでもかまいませんが、
その「名指し得なさ」のいったい「何が」独在性に通じるのでしょうか?

単独者の「名指し得なさ」に「到達不可能な絶対他者の他者性」が
含意されているのでなければ、「名指し得なさ」についての議論は、
独在性の議論とは、まるで関係のないものになってしまいますが。

>それが「等しい資格」であるのになんで「かけがえのなさ」
>をもつのかもわからん。

わたしもあなたもだれでもが、この世界にたった一人しかいない、
ということ自体のかけがえのなさ、あるいはわれわれが神を目指して
独り立つ者であるならば、そのこと自体のかけがえのなさは、
だれもが等しい資格で、そうなのではありませんか?


116 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/20(日) 21:01:11 0
>>104さん
>カオルは一応永井の議論と用語に即して論じてるんじゃないの?

はい、そのつもりでいます。ご理解ありがとうございます。

>>110さん
>永井やカオルが論じてる問題を「自分勝手に読み替えちゃ」うと「かみ合ってない」ことになるんだと思う。
>とりあえずはスレの流れ上の本題に帰ってみると、
>>75に対して>>81-82で説明され>>92で確認されてるんだからそれに対しての回答が求められるという状況では?

はい、そう願っています。フォローありがとうございます。


117 :考える名無しさん:2008/01/21(月) 14:38:06 0
>>115
>単独者が「名指し得ない」というだけなら、それでもかまいませんが、
>その「名指し得なさ」のいったい「何が」独在性に通じるのでしょうか?

逆でしょう。
カオル氏が「わからなさ」ということを強調して繰り返しているから、
その「わからなさ」というのは、「個」や「実存」の理解不能性と
どこがどう違うのか?と聞かれているんでしょう、カオル氏が。
それらはすべて、「わからなさ」「到達不可能」という点で、
共通しているから。
我々は常に既に言語化された世界に生きているけれども、その
根源には言語化され得ない「わからない」「到達不可能」な
世界がある「はずだ」という点では、どれも同じです。
個人的には、そのような「わからなさ」という点を強調しすぎるのは、
哲学からの逸脱だと思います。

118 :考える名無しさん:2008/01/21(月) 15:01:28 0
「到達不可能性」という場所を出発点にしてしまうと、「わからなさ」を
強調してしまうことになってしまうのではないだろうか。

たとえば西田幾多郎の場合でも、もし、「無の場所」というものを
出発点にしてしまっていたら、そこからはおそらく何もでてこないと思う。
現実的な具体的存在者の根底のところを考えていくと、そこには
「無の場所」というものがある「はずだ」という思考の順序だと思う。

カントにしても同じことで、経験的現実から出発して、経験的現実を
可能にするものとしての超越論的自我というものがある「はずだ」と
いうのがカントの思考順序であって、先に超越論的自我を「事実」として
措定してそこから出発しているのではない。もしそのようなことを
してしまえば、それは哲学とはなり難い、恣意的な空想になってしまう。

119 :考える名無しさん:2008/01/21(月) 15:55:43 0
「個」については、西田幾多郎が「真の個物」を「場所の自己限定」
としていることについて、永井均は西田について書いた本で言及していた。
手元にないので、あとで見てみます。


120 :考える名無しさん:2008/01/21(月) 18:53:29 0
たしかに「わからなさ」を強調するのは生産的ではない。
過去の哲学でも「わからなさ」を強調したのは、破壊的な懐疑論者ぐらいなものだろ。
某スレのなんとかの味方さんみたいに、反論する時は強いが自分の考えを生産的に組み立てることはできないw

121 :考える名無しさん:2008/01/21(月) 21:46:34 0
>>115
>わたしもあなたもだれでもが、この世界にたった一人しかいない、
>ということ自体のかけがえのなさ、あるいはわれわれが神を目指して
>独り立つ者であるならば、そのこと自体のかけがえのなさは、
>だれもが等しい資格で、そうなのではありませんか?

唯一無二なのになんで「等しい資格」になるのか・・
「等しい資格」であるためには、神の前の平等
とか、民主的平等とか、なんらかの平等思想
みたいなのが付け加わってるんじゃないのかな・・
それに「等しい資格」で並び立つなら、それは>>90
あるような「個」とは違うものだろうし。
言語化を拒む「個」は「等しい資格」で並び立つこと
も拒むはず。
「等しい資格」で並び立つのは「言語化された世界」
での話だろうから。

122 :考える名無しさん:2008/01/21(月) 21:48:42 0
あら
>>121=>>103

123 :考える名無しさん:2008/01/21(月) 22:06:59 0
>>120
過去の哲学者は、客観世界の実在性については
実質的には不可知論者が多いだろうな。
哲学板には素朴実在論者が多いかな・・

124 :考える名無しさん:2008/01/21(月) 23:43:18 0
カオルのお相手してる人はsewとの醜い争いなんか知らない人だろな。カオルは自演だけはやめたほうがいいよ。


125 :考える名無しさん:2008/01/22(火) 00:36:48 O
ところで、『西田』では、別の無の場所が認められることがすなわち言語の存在
そのものだと、新刊では、人称的・時制的な捉え方をすることが言語だと書いてあったと思う。
すると、それを文字通りに取ると、物事に同じ記号を当てはめるとか、物事を共通の
性質に従ってまとめたり分類するとか、概念によって整理するとか、そういう類のことを
仮に全く行わなかったとしても、別の無の場所を認めるという類のことのほうが
起こっていれば、言語は成り立っていることになると思われる。それは、そういう理解で
いいんだろうか。
そうだとすると、永井のいう言語で語れないということは、少なくとも、素朴にイメージ
するような現実と記号のずれとかいうものとは、やはりだいぶ違うことではないかと。
そんなことは当然ですか?

126 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/22(火) 01:03:46 0
>>117 103さん
>逆でしょう。

あなたの質問は、わたしの

  単独者は、たしかに名指し得ない存在者であり、到達不可能な他者ですが、>>102

の発言にたいして、

  なんで「単独者」を「他者」に読み替えてしまうのか、さっぱりわからん。>>103

ということでしたので、>>115のように答えました。ところで、あなたは、75さんですか?

>>121
>唯一無二なのになんで「等しい資格」になるのか・・

わたしは自分のことを唯一無二の存在者と思っています。
事実、わたしと同じ存在者は一人も存在しませんからね。
あなたも“同様”ではないですか?


127 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/01/22(火) 01:23:28 0
>>118さん(103さんですか?)
>「到達不可能性」という場所を出発点にしてしまうと、「わからなさ」を
>強調してしまうことになってしまうのではないだろうか。

<私>の存在の比類なさは、わかる人には「めっちゃわかる!」らしいけど、
じっくり考えていくと「めっちゃわかる!」なんてことがありえないということが理解され、
次に「めっちゃわかる!」なんてことがありえないものという概念でさえないことが理解され、
そのようにして理解されるということさえありえないということが理解され……というように
どこまでも「それではない」と言い続けることによってでしか示されえないものなのですが、
とは言うものの、ほんとうはそのようにして示されたことなんてただの一度もないもので、
なんてことも言えないもので……は「わからなさ」の強調でしかなく、哲学ではないですか?

>カントにしても同じことで、

独在性の<私>についての議論では、つねに「それではない」と言い続けなければならない
永井ですから、カントにしても同じことで……たとえば、個を主観、普遍を客観として捉えれば、
カント原理なるもののお話ができそうですが、これも個と普遍問題のバリエーションでしょうか?
ともかく、永井的には、あくまで「それではない」と言うしかなく、一部抜き出せば、こんなお話し。

デカルトの超越的<われ思う>が読み替えられ、独在性のすっかり抜けてしまった残滓が、
超越論的自我(統覚)で、主観と客観が、じつは主観にすぎなかった、という超越論的な
お話の成立によって、デカルトの超越的<われ思う>が、いつのまにか超越論的「われ思う」
に頽落してしまっている、と。……このような議論は、哲学ではなく、空想ですか?


128 :119:2008/01/22(火) 15:24:44 0
永井均の『西田幾多郎』を見ると、永井均の〈私〉には、やはり「個」の言語化不可能性
と同質の問題意識があることがわかる。
「真の個物は、有限の一般概念をもってしては規定され尽くされない。そんなものが
どこにあるのか、と問われたなら、それはここにある、としか答えようがない。たしかに
ある意味では、そんなものはどこにもない。・・・唯一の真の個物は、絶対無の場所に
於いて、《ただある》のだ」(『西田幾多郎』)。
そして永井均は、〈私〉という表記の由来が、このような問題意識からきていることを、
そこで書いている。

>>125
>別の無の場所を認めるという類のことのほうが
>起こっていれば、言語は成り立っていることになると思われる。それは、そういう理解で
>いいんだろうか。
>そうだとすると、永井のいう言語で語れないということは、少なくとも、素朴にイメージ
>するような現実と記号のずれとかいうものとは、やはりだいぶ違うことではないかと。
>そんなことは当然ですか?

別の無の場所を認めるということによって、本来名づけられない〈無の場所〉が一般化されて、
「無の場所」として言語化(=記号化)されるようになるわけだから、「現実と記号のずれ」は、
そこにも生じると思う。

129 :119:2008/01/22(火) 18:15:25 0
>>127
>カント原理なるもののお話ができそうですが、これも個と普遍問題のバリエーションでしょうか?

カントは、経験的現実世界において学問が「普遍妥当性」をもつことを理論的に示そうとして
『純粋理性批判』を書いたのだから、カントの関心は「個」よりは「普遍」のほうにあります。
「個と普遍」の問題の流れの中にカントを位置づけるとすれば、カントは、感性(直観)と
悟性(概念)との協同によってのみ経験世界が成立すると考えた点で、「個」と「普遍」 を
総合しようとした、と考えられます。
しかし感性と悟性との協同においてのみ認識が成り立つとすれば、認識された時点ですでに
概念化されているわけなので、あるがままの「個」を認識することはできないことになります。

130 :125:2008/01/23(水) 22:34:29 O
>>128に関して
>>125は表現が的確でなかったので、もう少し書いてみる。
よく簡単な啓蒙書などで「目の前に茶色い机があるというのは、実は本当にあるのは
このような質感の連なりであるのを、「茶色」「机」といった言葉・概念で理解して
いるのだ」とか「立方体の図は、実は12本の線分であるのを、立方体として理解して
いるのだ」という考え方が紹介されていて、それによって本当の現実(?)から失われる
ものがある、とも言われている(と思う)。
これを(この呼び方でいいかどうか)とりあえず「分節化の問題」と呼んでみる。
で、永井の論じる〈私〉は、「分節化の問題」とは異なる問題ではないかと。分節化の
問題が起ころうが、それで失われるものがあろうが、それとは別に、〈私〉の存在が
問題なのではないかと。
だとすると、〈私〉が語りうるかどうかというのも、「分節化の問題」によって本当の
現実(?)が失われる(?)とかいうのとでは違う形で、言語が問題にされ、語り得ない
とされているのでは。という趣旨です。全体が的外れだったら失礼。

131 :125:2008/01/23(水) 23:40:26 O
>>130は我ながら変なので撤回します。失礼。
「分節化の問題」というのは、『西田』の特に第2章を参照したつもりだったけど、
今読み返したらだいぶ誤解だったみたいだ。

132 :119:2008/01/24(木) 00:23:40 0
>>130
問題の根本はつながっていると思うけれども、「本当の現実(?)から失われるものがある」
という場合の「本当の現実」をどう見るかによって、違いが出てくると思う。
永井均は『西田幾多郎』では、「無の場所」を「生の事実」として、
「無の場所そのものは、端的な生の事実であるから、非概念的な実存である。」と書いており、
言語において「無が有化され」、「指示対象を持ってしまう」という事態を〈 〉の記号
で表示していると書いているので、ここでは、「生の事実」は『対象化できない』から語りえない
という、『実存』的側面が強く出ていると思う。

133 :考える名無しさん:2008/01/27(日) 03:47:59 O
このスレの住民の身元が気になる。
みんな学部生や院生?
専攻とかあったら教えてほしいな

自分は学部2年生。法学部だけど趣味程度に哲学書読んでる。

134 :灯持ち童 ◆ixst/7hh6s :2008/01/27(日) 20:23:07 0


111 :灯持ち童 ◆ixst/7hh6s :2008/01/27(日) 20:08:37 0
隣の子が泣いたら僕も泣いた。
我々は赤ん坊の頃他者の感覚をも感覚していたのです。
これこそが他我の起源であるのです。


112 :灯持ち童 ◆ixst/7hh6s :2008/01/27(日) 20:12:20 0
発達心理学によって証明済みの事実であるのです。




135 :考える名無しさん:2008/01/28(月) 23:56:03 0
>>133
過疎スレだから住人はいませんが。

このスレをたてたカオルっていう人は
たしか、中卒の似非哲学徒。

136 :考える名無しさん:2008/02/06(水) 20:58:32 0
文学界2008年3月号
ttp://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm
新芥川賞作家 川上未映子
師弟対談 ×永井均
哲学とわたくし ことばが奇跡を起こす瞬間とは


いつの間に師匠に・・・!?

137 :考える名無しさん:2008/02/06(水) 21:18:02 0
私、去年永井先生の講演(公開講義?)みたいなものに参加する
機会があり、二次会にも出ました。そこに川上さんも来ていました。
以前から永井先生のファン(ミーハー的なものでなく、かなりまじめな)
のようで、先生の方もよく知っている感じでした。「彼女は作家で
歌手で、ブログも書いているよ」とか言っていました。
そのブログ(確か「純粋悲性批判」)にも永井先生のことが
以前から書いてあったので、「師匠」と呼ぶのもあながち
不自然でもないと思います。

ちなみに川上さんはなかなかはきはきして頭の良さそうな女性で
ありました。無論、芥川賞を取るなどそのときは夢にも思いませんでしたw

138 :考える名無しさん:2008/02/06(水) 21:31:36 0
>>136
これだな。猫殺しの作家を批判するとき永井さんの名を出してた


>言葉について考えろ。んでとりあえず永井均著
>「翔太と猫のインサイトの夏休み」を読め。

未映子の純粋悲性批判: 子猫を殺し続ければよろしい
http://www.mieko.jp/blog/2006/08/post_c467.html

139 :考える名無しさん:2008/02/06(水) 22:05:30 0
うーむ。
まったく関心なかったが>川上女史
読んでみるか・・・
尼のレビュー見ると永井の影響も少なくないみたいだな。

140 :考える名無しさん:2008/02/06(水) 22:07:05 0
>>137
二次会にまで参加できるなんて裏山すぃ

141 :考える名無しさん:2008/02/06(水) 23:53:11 O
ラジオで紹介されてた時「ひょっとして哲学に興味あるのかな?」と思ってたが
こんなところで永井さんと繋がってたとは。
やっぱり本物の言葉は、社会の根底で静かに力を持ち続けてるもんなんだなあ。

142 :137:2008/02/07(木) 21:54:06 0
>>140
あ、誤解されたかもしれませんが「先生」というのは単なる敬称で、
私は純然たる素人です。永井氏とも一面識もありませんでした。
去年「人間学アカデミー」というところが主催した一般向けの
セミナーのようなものがあり、何人かの講師の方が講演されるのですが、
その講師陣の一人に永井氏の名前があり、以前から氏の本は何冊か読んで
わからないながらに興味があったので、ものは試しと申し込んでみたわけです。
(ちなみにその種のものに参加するのも初めてでした。)

3週連続の講義で、最終日の最後に事務局の方が「二次会(打ち上げといったか)
をやりますが、参加希望の方は手を上げてください」と言われたので、永井氏と
直接話せる機会などこれが最初で最後だと思い、思い切って手を上げた次第です。

講義を聴講した100人ばかりのうち20か30人くらいが近くの飲み屋に
集まったのですが、そこに川上さんもおられました。といっても、私はその女性が
川上さんだとはまったく気がつきませんでした。そこでも積極的に発言されて
非常に好感を持ったのですが、「次の日に海外に行く」とかで途中退席されました。
どうも物腰や話し方が何というか素人っぽくないので、永井氏に尋ねてみて
初めて「あのブログの人か」と気づいた次第です。

143 :137:2008/02/07(木) 21:57:18 0
(続き)
ちなみに、私は酒の勢いもあって恐れ気もなく素人っぽい質問を永井氏に
ぶつけたりしましたが、氏は怒るでもなく答えてくださいました。
氏は何というか想像以上に明るいというかエネルギッシュな方でした。
また、「上からものを教える」という感じではなく、「いっしょに考える」
という感じで、本にある通り本物の哲学者だなと感じ入りました。
主催者側に小浜逸郎氏もおられ(さすがに頭脳明晰という感じ)、
永井氏といろいろ議論していましたが、どうも今ひとつ噛み合っていないような
気がしました。帰りの電車で人間学アカデミーの事務局の若い方に「永井先生の
お話わかりましたか?」と聞いてみたところ「まったくちんぷんかんぷんです」
答えられたので、「やっぱりそうですよね」とうなずいてしまいましたw 
思えば、あの夜は3人の有名人と同席したわけで、良い記念となりました。
永井氏はこういう自由参加の講演のようなものもたまにやられるようなので、
興味のある方は参加してみられるとよいと思い、そのきっかけにでもなれば、と
長々と書かせていただきました。長文多謝。


144 :考える名無しさん:2008/02/07(木) 22:26:55 O
その講義には出たんだけど、懇親会には別の用事があって出られなかったんだよなあ…
そう言えば、入不二基義氏との対談がもうすぐですな。これの参加者は多いんだろうか。

145 :考える名無しさん:2008/02/11(月) 23:52:26 O
川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』を読んでみた。
意識を持った人たちがたくさんいる中で、なぜ私はこの人なのか、とか、トンネルを
抜けるとそこは雪国だったという文には主語がないとか、なんか、部分的には本当に
永井の本そのまんまだw
これで小説として成立して、しかも芥川賞候補になったって、なんかやたら面白いw
(いや変な意味で言うつもりは全然ないんだけど)

146 :考える名無しさん:2008/02/12(火) 00:30:11 0
>>142-143
レポありがとう。

川上さんも>>144氏の触れてる対談には来るのかな。

147 :考える名無しさん:2008/02/13(水) 16:19:38 0
>>136
対談読んだけど、師弟って感じじゃないな。
「言葉」と「言葉にできないもの」を考える川上に対して、
「言葉にできないものなんてない」という永井という感じで、
二人の考え方に齟齬がありすぎ。
永井ってこんな考え方してたっけ?


148 :考える名無しさん:2008/02/16(土) 18:19:52 O
入不二氏との対談、面白かった。と思うんだけど、面白いと思う部分を保存できないんだよなあ…
話が盛り上がってくると、メモなんか取れず聞くのに必死で、しかし難しい内容な
もんだから、話が終わった先から忘れていって、結局、残っているのは、
メモを取る余裕がある程度の時の話のメモばっかりだw

149 :考える名無しさん:2008/02/16(土) 20:20:57 0
裏山シス
よければ行かれた方レポしてくだされー

150 :考える名無しさん:2008/02/16(土) 22:40:50 O
大雑把には、入不二氏の『哲学の誤読』を題材に、そもそも誤読とはどういう
ものか、誤読と正しい読みはどういう根拠で区別されるのか、というような全体的な
話と、あとは各章の内容について個別に話すという感じだった。
印象に残った(メモにも残せた)のは、入不二氏が、永井の文章「解釈学・系譜学・考古学」
について、ニーチェやフーコーの予備知識が必要だという誤読(知識による予断)や、
変に人生論を持ち込むという誤読(人生論的誤読)を取り上げている。ところが、
永井自身が、この文章の用語はもともとはニーチェやフーコーの考え方がもとになって
いるから、それを持ち込むのは間違いとは言い切れないし、むしろ思想的な意味を
無くしてしまっている(しかし抜け殻みたいなものは残っている)として、著者を
批判することもできるんじゃないか、という趣旨の発言をしていたこと。
実は、もとの執筆依頼の内容は、本当にそれぞれの用語の解説で、しかし永井がそれでは
つまらないと言ってああいう内容にしたら、編集者にも、そのほうがいいと言われたんだとか。

151 :考える名無しさん:2008/02/16(土) 23:14:03 O
(続き)
しかし、著者自身がそんなことを言ってしまうのなら、ほんと、誤読とは、誰がどう
やって決めるんでしょうね?

あと、個別の面白エピソードなどはいろいろあった。
何でも、永井の文章を入試問題に採用したのは、左翼系の人らしく、この文章は思想的に
自分の味方だと思って採用したんだとか。(確定情報ではないと念を押されていた)
聞いた時は???と思ったし、入不二氏も何のことだかわからないと言っていたけど、
なぜか、永井は「多分こういう意味で左翼的ということだろう」とすらすらと解説w
あと、個別には中島義道氏の文章の話が一番長かったけど、やたらボロクソだったw
単にボロクソなわけではなく、「褒め言葉で言うんだけど、中島氏は哲学者という
より思想家なんだ」などの発言もあったけど。

しかし、せっかくの機会だったのに、議論内容より面白エピソードみたいなもの
ばっかりメモに残っているのは、我ながら遺憾ですなー…

152 :考える名無しさん:2008/02/17(日) 20:29:46 0
>>150-151
横からだけど、レポサンクス!携帯から打つの大変だったんじゃないか。ありがとう。

153 :150:2008/02/17(日) 22:30:44 O
まあ本当は、誤読・文章理解に関する議論そのものを紹介できたらよかったと思うんですけどね…
例えば、永井は「著者が何かの意図を持っていたが、他人が「いや、この文章はこのように
読めるはずだ」と主張したとして、著者は自分のほうが正しいという根拠を出せるだろうか」
と、面白い問題提起をして、入不二氏が「やはり何らかの正しい読み方がある、という
のが出発点だと思う。自分は全くの相対主義は取れない」と答えて、そこでさらにいろんな
議論が展開していったところで、まさにメモにも記憶にもとれなくなってしまうんですなw

あと印象に残ったところとして、「中島氏は、議論よりも、どうしても自分の言いたい
ことがあって、それが出てしまうタイプ。入不二氏は、本来言いたいことと反対の考え方まで、
いろいろ議論するタイプ。自分はその中間(会場笑)」とか、「他の三人の文は思想的な
意味はないが、それに比べると、自分の文には変な色気みたいなものがある」という
発言があったこと。(特に後者は、ちょっと嫌そうに話しているように見えた)

154 :考える名無しさん:2008/02/17(日) 22:36:38 0
>>26
いいこといった
パクらせてもらうわそれ

155 :考える名無しさん:2008/02/17(日) 22:44:33 O
(続き)
個人的には、あの文の内容だけでなく、雰囲気が好きだったもので。
むしろ入不二氏のほうが、「あの文は思想的な意味を抜いているからこそ、哲学の文章に
なっていると思う」と発言していて(さらに全体的に、永井の文なのに、入不二氏のほうが
熱心だったようでw)、それも印象が強かった。

…というか、こんな裏話暴露みたいなことばかり書いてたら、ものすごい悪事を働いてる
気がしてきたので、誰かまともな議論内容のレポをしてくださいw

156 :考える名無しさん:2008/02/17(日) 23:35:01 0
ttp://wiki.livedoor.jp/irifuji/d/FrontPage
◎ 昨日2月16日は、朝日カルチャーセンター(新宿)で「対談・哲学の誤読」でした。
2時間ももつかなという心配はまったくの杞憂で、永井さんも私も、なかなか面白かったね、
という感じで終えることができました。ひとことで言うならば、「誤読と愛」という話と要約できるかな。
終了後の1次会は、同じ時間帯で別の対談をやっていた茂木健一郎さんたちの打ち上げ会(50人くらいの大所帯!)に合流。
2次会は、永井・入不二グループ10人で。永井さんの弟子で芥川賞を受賞した川上未映子さんも、いっしょでした。【2008年2月17日記】
参照:
ttp://blogs.yahoo.co.jp/ryuuzei/51996115.html
ttp://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/02/post_6064.html

157 :考える名無しさん:2008/02/19(火) 09:37:02 0
きのうのTBSラジオの荒川さんの番組に芥川賞作家の川上さんが出ていて、
クローンペットについての話題で「クローンは死んだペットと同じ魂を持っているのか」と永井風のコメントをしていた。
荒川さんはまったく理解できていなかったし、コメンテーターの宮台真司は誤解しているようだった。

158 :考える名無しさん:2008/02/19(火) 12:46:13 0
永井性は理解されないはずだからそれでいいよ
理解されないのに理解を求める態度は見苦しいね

159 :考える名無しさん:2008/02/19(火) 13:00:36 0
永井の喚いている程度のことは隠者なら普通に達観している。
では隠者が黙して語らないのは何故か。そこが永井の幼児性との違いであろう。

160 :考える名無しさん:2008/02/19(火) 13:10:17 0
頬杖姿の永井の写真を見るだけで人物の程度が知れる。
無知と幼児性が彼の行動を支えているのであろう。

161 :考える名無しさん:2008/02/19(火) 19:53:55 0
達観だかなんだかの内容をネタに金稼いでるんだから充分大人だろ。
まあ道化師は幼児よばわりされたとしても、それもネタにできるし。

162 :考える名無しさん:2008/03/01(土) 04:00:08 0
                       //,:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.`:.:.:\
                      /:.,イi:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ハ
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                     i:!:.l:.:.:.:.|:.:\:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.|:.:.:.:.:.l:.:.:.:l
                     |!:.l:.:|:.:.ト、:.:.:.`:.:.:.:.:.:.:.:.:/-:.:.:.:ハ:.:.:.!
        永井某 .        lヽ|:.l:.:.:l ヽ、:.:.:.:.:.:.:.://:/ |:.:.:|
          __               |:l:.:.:l:l`′`ーァ--' "l<    !:.:.:!
      , z ≠´ー-ミ: 、        |:.:.:.:l:ヘ.__, {   _|__ `  .l:.:.:',
    .//: : : : :ムヘ: : : : ヽ       ,':.:.:.:.|ヽ}_.. '- ''  ̄   ヽ、  !:.:.:ヘ
    /ィ:/: 、: ∧:|  l: !:l: :l ヘ       /:.:.:.:.:z≦、         ヽ ',:.:.:.ヘ
   ,(O' i : : N‐廾' ⊂ニ ̄ア¨7ー- .._/:.:.:..l/    V             ハ ヽ:.:.:.ヘ
  ./: :ト、| : : | -―   〈ゝ _! i   /イ:.:.:.:|    V  ウィト先生  | ヽ:.ヽ:ヽ
  i: : :|:{ヘ: : :ヽ    ' `¨リ`!ー- 、 ll l:.:.:.:.|l     V         !  ヽ:.:ヽヽ
  |: : :|l:`ヾ、: l`   /´j  ,イ/ハ   `l|、!:.:.:.l| !|     i `ー―――┬―1    ヽ:.ヘ:ヘ
  |: : :!|: : |: :>ト - 二.イl: 'i : ヘ   l! |:.:.:.|l、ll    | /         |  |     ',:.ヘ:.ヘ
  !: : l:|: : l,イ l` ><}ヽ、:l: : :ヘ  ! |:.:.:.|l !     !'       |  |     i:.:.:',:.:',
. /: : :l:|/ ! ∨ , 介、! | ヽ、: ',   l:.:.:.! l   |         |  |     |:.:.:.|:.:.!
// z<   フ ∨イ トイ<   `i: l   ヽ:.:| .l     !          !  !     |:ハ:.|!:.|
/ /   ヽ}  \ ヽl l. | /   l| |: !    ヽ||    /        |  |     リ リレ'

  <私>が言わんとすること…     うっさいなあ、黙ってられんのか

163 :勝手批評:2008/03/06(木) 16:20:45 0
入不二基義著「哲学の誤読」で取上げられている永井均の「解釈学・系譜学・考古学」を
読んでいて、これを最初に読んだ時には気付かなかった点を発見した。

「……鳥は青くも青くなくも無かった。そんな観点はもともとはなかったのだ。そういうことを
問題にする観点そのものが無かった。……(中略)……鳥はいたが色が意識されたことは一度も
なく、したがって当時は色はなかったというべきである。」

について、この最後のセンテンス、「したがって当時は色はなかったというべきである。」に哲学的
突っ込みを入れさせてもらえば、これは永井均の勇み足である。
その前の段階までの議論で、当時は鳥を色の観点から見るというその観点そのものがなかった、と
されているのは正しい。ところが、「したがって当時は色はなかったというべきである。」とまで言って
しまった時、図らずも永井均はこの鳥を色の観点から見てしまっているのである。(少なくともそう
読まれざるを得ない)

「色という観点で見ていなかった」という事と、「色がなかった」という事ではまるで意味が違う。

永井均は<私>の議論同様、ここでも語りえないことを語ってしまう事で議論を変質させてしまって
いるのではないだろうか。(<私>議論の際には表向きその変質に自覚的だけれど)もっともこれは
永井均の問題ではなく、「本来共存不可能な時間系列」を「強引に共存させ」ている系譜学的観点と、
完全に現在と切り離された‘純粋’過去を扱おうとする考古学的観点のそもそもの設定の不可能さ
に問題があるのだろうけど。


164 :考える名無しさん:2008/03/06(木) 17:00:40 0
このあいだ東浩紀スレに本人が降臨したさいのやりとりの中にこんなのがあった。

>永井先生をご存知ですか?
知ってます。読んでます。

>永井均の独在性をめぐる議論に一言お願いします。
パス。難しいよこの質問。

165 :考える名無しさん:2008/03/07(金) 00:29:19 0
独在論て何?
分かりやすく解説して。

166 :考える名無しさん:2008/03/07(金) 21:20:21 0
>「色という観点で見ていなかった」という事と、「色がなかった」という事ではまるで意味が違う。
どこが違うのか分からない。

167 :考える名無しさん:2008/03/07(金) 21:23:12 0
>>163
「主観―客観」という構図を疑わなければそういうことになるね。

168 :考える名無しさん:2008/03/07(金) 22:58:42 O
>>166
色が無かったと言える観点自体が無かった。
そのような見方をしていなかった

169 :考える名無しさん:2008/03/08(土) 01:48:42 0
色が無かったと言える観点自体がなかったら色が無かったのではないかと思うが。
色が無かったと言える観点自体がなかったって今から振り返っての記述でしょ
まあ「考古学視線は……不可能な視線」って永井自身も書いてるしここでの言い方は
どちらにしろ無理が有ることは承知の上でしょう

170 :勝手批評:2008/03/08(土) 13:35:13 0
>>166
色が有る・色が無いという議論は既にして「色」という観点からしか為しえないから。
だから「色という観点で見ていなかった」という事と、「色がなかった」という事ではまるで意味が違う
ということになるわけ。 「観点そのものが無い」という事は土台そのものが無いという事だから。
それに対して「色が無い」という評価は「色が有る」という事の反対として、「色」という土台の上で
成り立っている。

>>169
「だから、考古学的視線とは、視線を向けることができないものに対する、不可能な視線の
別名なのである」

しかしこれは「丸い四角」に似てないかなあ。そもそも考える事すら不可能な事柄なのに
言語上のトリックとしてあたかも存在しているかのように見えてしまっている。そもそも
これは<私>議論同様、「語ってはいけない(語り得ない⇒語るとその本質が変化してしまう)」
事柄なのだから。(こうした「語り得ない事柄」がどうして語り得ないかを示す永井均のような
議論は、それ自体もまた「語り得ない事柄」の範疇を抜け出る事が出来るわけではないので、
どうしたってこの人の議論はどこか「自分だけはこのカラクリを外から見ている」という“外観”
を呈してしまう。本人はそのつもりじゃないとしても。本当は最初から何も語らないのが最も
「節度ある態度」(ウィトゲンシュタイン)だろうけど、それじゃあ職業哲学者は皆失業しちゃうしね。)


171 :考える名無しさん:2008/03/08(土) 15:11:26 0
>「色が無い」という評価は「色が有る」という事の反対として、「色」という土台の上で
>成り立っている。

これも今から振り返ってみた上での言い方ではないでしょうか。つまり、今と意味上のつながりを持った上での
言い方になっている。「色というものは存在したが、色を問題とする視点がなかった。ある時点から色が問題に
されるようになった」という系譜学的視線と混同されてしまうのを恐れて、「色がなかった」としたのでしょう。

「色がなかった」が勇み足なのではなくて、語り得ないはずの考古学的視線について語っている事自体が勇み足、
語りえない事柄を語っているのだと思います。つまり第六段落以降がすべて「勇み足」ではないかと。

172 :勝手批評:2008/03/08(土) 17:50:07 0
>>171
>これも今から振り返ってみた上での言い方ではないでしょうか。つまり、今と意味上のつながりを
>持った上での 言い方になっている。

もちろん。永井均的に疑問を呈するとその<今>とは何時のことなのか?という事になるんだろう
けど、これまた語り得ない、語る事によってその本質が変化せざるを得ない事柄なので、このような
問いそのものが黙されなければならないことなのだろう。

勇み足という事なら、そもそも解釈学的な観点の導入から始まっていると思う。そもそも
この考え方によって、この見方は過去を現在の観点から偽造している、という系譜学的批判を
招いてしまうから。考古学的観点などというものはこの最初の「勇み足」を前提にしたお話だから、
土俵から足が出て負けてるのに、その後の反則で二度負ける事が出来ないのと同じで
実は意味が無い、と言える。

もっとも僕が最初に指摘したかったのはこういう根本的なことではなくて、「したがって当時は色は
なかったというべきなのである」はどうしても「色」の観点を元にしてしか「語り得ない」という
ことだったんだけども。(という事は永井均は彼の言いたいことを言えていない、言いたかった事が
変質してしまっている、と)

173 :考える名無しさん:2008/03/08(土) 23:57:46 0
しかし勝手批評はつまらんことしか言わんな。


174 :考える名無しさん:2008/03/09(日) 01:16:27 0
永井氏の「哲学」のくだらなさ

・不必要な概念を創り出している無意味さ
たとえば、「私」と「今」に対する〈私〉〈今〉という概念
『私・今・そして神 開闢の哲学』,p.40,講談社現代新書(2004)を参照

・意味不明の概念をもちこむナンセンス
たとえば、「しかし、その神さまでさえ、だれも覚えていない過去をそのとき同時に作り出すことできない。全能の神でさえ、それは不可能なのである。」
(前掲書,p.27-8)における「神」という概念。
「もし神にこの能力があるのだとしたら、それはロボットに心を与えたりする通常の神より高階の神でなければならない。すなわち、開闢の神である。」
(前掲書,p.66)における「高階の神」という概念。
このことは、「全能なる者」としてはただ一つの概念さえあれば十分という一言で片付く。

・剽窃という愚劣
前掲書,p.42での「開闢の奇跡」と呼ばれるものには、明らかにWittgensteinの「存在の神秘」(『論考』6・44)思想の盗作がうかがえる。

・冗長
『私・今・そして神』が全体的に何がいいたいのか不明瞭。くどくどしい。

175 :考える名無しさん:2008/03/09(日) 01:44:28 O
むしろ、何がやりたいのかわからなくない?(多分、何でもいいから、あら探しをしたいんだろう)
今回のも、ただ「色はなかったというべきとまで言うのはおかしくないか」ぐらいの指摘をするだけ
なら、それ自体は正当だと思うけど、それ以外には何を書いているのかわからん。
そこの箇所のすぐ後ろに「色がなかったというのは、無色透明ではなく、色概念の外にあるということだ」
という説明があるんだから、本当に実のある指摘をするつもりなら、そことの関係にも目を配って
書くべきだろう。そういうことをせずに、何かよくわからんことを書いているだけなので、文章全体を
真面目に読まずに、あら探しできそうなところだけを取り出しているんじゃないか、としか感じられない。

176 :175:2008/03/09(日) 01:49:20 O
>>175>>173に関してのレス。念のため。

177 :Wittgenstein教:2008/03/09(日) 02:29:50 0
>>170
>だから「色という観点で見ていなかった」という事と、「色がなかった」という事ではまるで意味が違うということになるわけ。
違います。
第一に、「色という観点でものをみない」などという言明は端的にナンセンスです。
第二に、事実我々がものを見るときに、何らかの観点に立って見ているわけではありません。
政治的観点でものごとを思考することは可能ですが、政治的観点でものを物理的にみるというのはナンセンスです。

>「色が無い」という評価は「色が有る」という事の反対として、「色」という土台の上で成り立っている。
色を識別することは「評価」することではありません。たとえば色の識別を、思考における概念の弁別のようにして議論することはできません。

178 :考える名無しさん:2008/03/09(日) 11:04:47 0
そもそも、視覚があって色がない、というのは無理なんでは。

179 :考える名無しさん:2008/03/09(日) 12:12:44 0
>>177
>第一に、「色という観点でものをみない」などという言明は端的にナンセンスです。
>第二に、事実我々がものを見るときに、何らかの観点に立って見ているわけではありません。
>政治的観点でものごとを思考することは可能ですが、政治的観点でものを物理的にみるというのはナンセンスです。

何かを主張する時は、その根拠を書いてくださいね。

ところで「ものを物理的にみる」って、どういうことなのだろう・・・


180 :勝手批評:2008/03/09(日) 14:03:29 0
>>175
申し訳ない。自分は「哲学の誤読」での出題範囲までしか読まずに163以降のレスを書いて
いた。これはひどい。175さんの指摘通り、ちゃんと「色がない」という意味の説明が原文に
書かれている事はちゃんと目を通していれば一目瞭然だった。随分昔に読んだきりだったので。
(言い訳)そもそも永井均ともあろう人がこんな杜撰なことを書くわけもなかった。

そういうわけで、163の批判は全く的外れ。無かったものとして下さい。
170については前半で「色がなかった」・「色という観点そのものがなかった」について
永井均が既に書いてる事を偉そうに講釈垂れてるのでこれまた無視して頂きたい。

でも170の後半と172については変更点は無し。語ってしまった瞬間に語ろうとした事を
当初の意味で語れなくなるという点について、永井均は(少なくとも僕から見て)楽観的だし、
(恐らくは職業哲学者として)楽観的であらざるを得ないのだろう。でも僕ははっきりと
悲観的だ。どうして悲観的にならざるを得ないかは永井均の議論そのものが示していると
思うのだが、

「だから、考古学的視線とは、視線を向けることができないものに対する、不可能な視線の
別名なのである」

といった言葉に言語的詐欺性を感じるかロマンティシズムを感じるかで反応が
分かれるんだろう。


181 :考える名無しさん:2008/03/09(日) 18:14:43 O
ああ、まさかと思っていたら、本当にそうだったのか…
しかし、それならますます、そこの箇所の何がおかしいのか理解できない。
例えば>>177氏、>>178氏のように、見ている(ことを記憶している)というのに色がないのはそもそも
おかしいのでは、とか、より細かく検討していった上で、本当におかしいところを指摘できるのならともかく。
ちなみに、この点については、一つには、ここでいう鳥の色は、幸福とか価値の比喩であって、普通の
色の話は当てはまらないのでは。価値から離れた観点というのは、色とは違って、考える余地があるの
では。というような反論が考えられるだろう。

182 :Wittgenstein教:2008/03/09(日) 21:14:39 0
>>179
「根拠を示せ」とのことで、申し訳ありません。ただ、私は根拠を文脈の内に示そうとしていたのです。
書き直しますと

「色という観点でものをみない」などという言明は端的にナンセンスです。
なぜなら、我々がものを視るときに、何らかの観点に立って見ているわけではありません。
反例として、政治的観点でものごとを思考することは可能ですが、
政治的観点でものを視るというのはナンセンスです。


>ところで「ものを物理的にみる」って、どういうことなのだろう・・・
私は「物理的にみる」というのを「視る」(五感の一つ、視覚の意)で用いました。
「見る」というと色々な意味がありますから。語彙が貧弱で申し訳ございません。

183 :考える名無しさん:2008/03/10(月) 10:12:34 0
>>182
>反例として、政治的観点でものごとを思考することは可能ですが、
>政治的観点でものを視るというのはナンセンスです。

やっぱり意味不明ですね・・・
思考と視覚は無関係ということ?
無関係ではないと思いますよ。
人は自分の見たいものしか見えない、と言った哲学者もいましたね。



184 :Wittgenstein教:2008/03/10(月) 14:49:56 0
>>183
>思考と視覚は無関係ということ?
そのようなことは主張していません。
>無関係ではないと思いますよ。
根拠を示して下さい。

185 :考える名無しさん:2008/03/10(月) 17:57:22 0
>>184
カントの『純粋理性批判』読んでる?

186 :Wittgenstein教:2008/03/10(月) 20:41:48 0
>例えば>>177氏、>>178氏のように、見ている(ことを記憶している)というのに色がないのはそもそもおかしいのでは
失礼ですが、私はそのようなことを主張したわけではありません。

>ちなみに、この点については、一つには、ここでいう鳥の色は、幸福とか価値の比喩であって、普通の色の話は当てはまらないのでは。
「幸せの青い鳥」といった言葉については勿論、仰る通りですね。

187 :考える名無しさん:2008/03/11(火) 13:23:55 0
>>184
>>思考と視覚は無関係ということ?
>そのようなことは主張していません。

じゃあ、あなたが主張している
>我々がものを見るときに、何らかの観点に立って見ているわけではありません。
の意味をちゃんと説明してください。

>>無関係ではないと思いますよ。
>根拠を示して下さい。

>>185さんが指摘したように、カントのコペルニクス的転回以降は、
完全な模写説を主張するのは難しいでしょう。
例えば、見る視点を定めること、どちらの方向を見るか、等々について、
主体の思考が無関係であるとは考え難いですからね。


188 :Wittgenstein教:2008/03/12(水) 02:40:49 0
>>187
@私の主張は…
「Aの観点に立って見る」というのは「Aの立場で判断する」という風な
意味であり、視覚の意での「視る」という言葉について、
「Aの観点に立って視る」は意味を成さないでしょうということです。

「思考と視覚は無関係である」という意味ではないといったのは、
そのような一般的な主張は私にはできないと考えたからにすぎません。

189 :Wittgenstein教:2008/03/12(水) 02:57:58 0
>>187
Aあなたの主張の粗探しをするようになってしまいますが…
あなたの「カントの」から「考え難いですからね」までの主張はよく意味がわかりません。

1.「完全な模写説を主張するのは難しい」とのことですが、これをWittgensteinの模写説の意味で仰っているのでしたら、
私は模写説を主張していません。そして、そもそも模写説が完全であるとも考えていません。

2.「見る視点を定めることについて、主体の思考が無関係であるとは考え難い。」ということが事実であったとして
それがどのように模写説と関係しうるのでしょうか?

3.これは私からのお願いですが、「模写説」とか「カントのコペルニクス的転回」とかいった「いわゆる」が頭につくような言葉で議論のやりとりをするのは
やめませんか?せめて、その言葉をあなたがどのような意味で用いているのかを示してからにして下さい。
これはただ単に誤解を避けるためです。

190 :考える名無しさん:2008/03/12(水) 09:22:18 0
カントみたいに「認識」と「直観」を分けるべきでは?
だいたいウィトちゃんはカントから影響受けてるし。

191 :考える名無しさん:2008/03/12(水) 10:33:27 0
>>189
>あなたの「カントの」から「考え難いですからね」までの主張はよく意味がわかりません。

模写説(反映論)と構成説は、認識論の基本なので自分で調べてください。


192 :Wittgenstein教:2008/03/12(水) 16:23:27 0
>>191
どうでもいいですが…あなたはきっと下のようにも発言されるのでしょうか。
「そもそも「哲学」という語は哲学の基本なので自分で調べてください。」
くだらないですね


193 :考える名無しさん:2008/03/13(木) 10:26:11 0
>どうでもいいですが…あなたはきっと下のようにも発言されるのでしょうか。

すると思いますか?

194 :Wittgenstein教:2008/03/13(木) 23:14:46 0
>>180
>そもそも永井均ともあろう人がこんな杜撰なことを書くわけもなかった。
とのことで、他の多くの皆さんも永井氏にご執心のようですね。
純粋に聞きたいのですが氏の、若しくは氏の哲学の「どこに」
魅力を感じられるのでしょうか?前々から不思議でした。

195 :考える名無しさん:2008/03/13(木) 23:31:51 0
>>1-194
http://jp.youtube.com/watch?v=A6W8peF84Ak


196 :考える名無しさん:2008/03/14(金) 00:25:25 0
>>194
ウィトゲンシュタイン哲学を分かりやすく解説している。

197 :Wittgenstein教:2008/03/14(金) 01:53:17 0
>>196
なるほど。永井均氏の『ウィトゲンシュタイン入門』(筑摩書房)など読んでみましたが、
うーん。そうですか。まあ、そういえないこともないですよね。
ただ個人的には、野矢茂樹氏の解説の方がはるかに深みのある解説をしていると思います…

しかし、私がお聞きしているのは、永井氏本人の哲学の魅力とは何でしょうかということなのですが。



198 :考える名無しさん:2008/03/14(金) 11:29:35 0
>>197
>しかし、私がお聞きしているのは、永井氏本人の哲学の魅力とは何でしょうかということなのですが。

野暮だね。

There is no accounting for tastes.


199 :考える名無しさん:2008/03/14(金) 11:36:20 0
「永井氏本人の哲学の魅力とは何でしょうか?」だけでは余りに漠然としているから。
もう少し具体的に聞いてみれば、答えてくれる人がいるかもしれないが。

200 :考える名無しさん:2008/03/14(金) 14:36:54 0
>>197
永井しか読んでなくて(しかも我流に)それを「哲学」だと思い込んでいる連中に
そんなこと聞いても無駄w
比較対象が無いんだもん。「野暮だね」ぐらいが精一杯。

201 :勝手批評:2008/03/14(金) 14:55:12 0
>野矢茂樹氏の解説の方がはるかに深みのある解説をしていると思います…

そうかなあ?「『論理哲学論考』を読む」を指してのことかな。個人的には納得のいかない
説明が山ほど出てきて気に入らなかったけど。「哲学航海日誌」も良くなかった。

一応「『論考』を読む」から一例。文庫版同書31p、論理空間とは何かについて、「猫は可能性の了解を
持っているか」とか「私の偏見が正しければミミズは可能性の了解を持っていない」などといって認識論的な
話を始めるが、ウィトゲンシュタインが考えていた論理空間は、この世界がそもそもどうあらねばならないか
という存在論的な思考から始まっている概念なのだから、全く不適当な例だ。

のっけからこんな調子でほぼ全編に亘って違和感を感じた。これを「深い」というのは分からない。
少なくとも永井均の場合はこういう不適当な(また簡単に間違いを指摘できる)例は見当たらない。


202 :考える名無しさん:2008/03/14(金) 16:16:31 0
>>197
2chでは時々こういう質問をするやつがいるが、「その人のスレまでわざわざのこのこ
やってきて、いったい何がしたいの?」と言いたい。

「なぜ意識は実在しないのか」は私がこれまでに読んだ哲学書の中で一番面白かった本だ。

203 :考える名無しさん:2008/03/14(金) 16:37:56 0

  >>197は信者の怒りを買った
 

204 :Wittgenstein教:2008/03/14(金) 16:39:35 0
>>199
>「永井氏本人の哲学の魅力とは何でしょうか?」だけでは余りに漠然としているから。
確かにそうかも知れませんが、この抽象的な質問に対して具体例を一つ挙げていただければ結構なのです。
たとえば、「永井氏自身が誠実な人だ」と答えがあったとすれば、「へえ」と納得します。

私の発言が大変反感をかっていますが、私は永井氏の哲学を愚弄したいためにあのようなことをいったわけでは
ありませんよ。純粋に「なぜ人気があるのだろうか」と疑問に思っただけです。

205 :Wittgenstein教:2008/03/14(金) 16:44:14 0
>>203
>>197は信者の怒りを買った
なるほど、そうですか(笑)皆さん、そこまで永井氏にぞっこんだったわけですね。
知りませんでした。
じゃあ失礼なことをいってしまったんだろうなと思います。すみません。

>>202
>「なぜ意識は実在しないのか」は私がこれまでに読んだ哲学書の中で一番面白かった本だ。
じゃあ暇があったら読んでみます。

206 :Wittgenstein教:2008/03/14(金) 16:45:23 0
永井しか読んでなくて(しかも我流に)それを「哲学」だと思い込んでいる連中に
そんなこと聞いても無駄w
比較対象が無いんだもん。「野暮だね」ぐらいが精一杯。

207 :考える名無しさん:2008/03/14(金) 17:02:28 0
>永井氏にご執心
>私の発言が大変反感をかって

? つまり自分に反応している人、自分以外のスレ住人は永井信者だと?
それはいわゆる2ch病というやつではないでしょうか
症状が進むと次は自分に反応している人が全員同一人物に見えてきますよ

208 :考える名無しさん:2008/03/14(金) 18:08:41 O
>>207
ド〇トがいい例

209 :考える名無しさん:2008/03/15(土) 00:05:34 0
>>207
2ch病じゃなくて、Wittgenstein教さんはネット初心者みたいな感じがする…
言葉遣いがウブだw


210 :考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:33:52 0
ネット初心者なんて今ごろいるのか

211 :考える名無しさん:2008/03/15(土) 01:40:29 0
>>210
いるんだよ。世の中にはいろんな人がいる。
近くの図書館のネットを使ってると、年寄りでもないのに、
「インターネットしたことないんですけど・・・」
と係りの人に教えてもらっている人が、今でも結構いるんだよ。
ちなみにうちはそんなに田舎ではないよ。

212 :考える名無しさん:2008/03/15(土) 08:58:13 0
>>210
「ネット初心者」ということにして
心の平静を保ちたいだけだろう。
痛いところを突かれたからな。

213 :考える名無しさん:2008/03/15(土) 11:57:01 0
>>207
まあWittgenstein教も一人とは限らんけどな。
少なくとも煽ってる奴は複数いるw

214 :考える名無しさん:2008/03/30(日) 18:28:48 O
どうでもいいことだけど、「なぜ意識は実在しないのか」の21頁の杉良太郎とマッチが似てる、がどういう事か解ります?

215 :考える名無しさん:2008/03/30(日) 21:25:39 0
オレもその類比に何か深い意味があるかなぁって気になっていた。

216 :考える名無しさん:2008/03/30(日) 21:57:47 O
さすがにあれは、ただのギャグなんじゃないの?w
ギャグというか、たんに、意外な類似を発見したと言いたいだけだったのでは。

217 :考える名無しさん:2008/03/30(日) 22:26:42 0
最先端ギャグ?
永井氏本人に聞けば、一応の応答は用意しているだろうけど。

218 :考える名無しさん:2008/03/30(日) 23:37:15 O
いや、最先端というか、たんに笑えたんだけどw
どちらも有名人だけど、ジャンルなどが違うから比べてみたことがなくて、でも言われてみると、
おお、なぜか顔だけそっくりじゃないかw
…って、なんか違いますかね…

219 :考える名無しさん:2008/04/04(金) 21:04:09 0
新シリーズ『岩波講座・哲学』全15巻に永井先生も書くみたいだよ。

第2巻 形而上学の現在
T 形而上学の核心
 1 なぜ世界は存在するのか 永井均(日本大学)

220 :考える名無しさん:2008/04/05(土) 00:23:52 0
>>219
いつ出るの?

221 :考える名無しさん:2008/04/05(土) 08:03:29 0
>>220
「本講座は予約出版です.全巻お申し込みの方にお頒ちいたします.
(申込締切 7月31日)」とのこと。

222 :考える名無しさん:2008/04/05(土) 12:18:25 O
永井的には、「なぜ世界は存在するのか」は、「なぜ私は存在するのか」と、なんか違うのかな?
同じのような気が。

223 :考える名無しさん:2008/04/05(土) 13:22:32 0
>>222
私が存在するから、世界が存在していることがわかる。


224 :考える名無しさん:2008/04/05(土) 14:08:04 0
はじめてきたんだけど、、結局、真理はだれにもわからなくって(或いは誰にでも