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生きる意味

1 :考える名無しさん:2008/01/16(水) 19:00:21 0
何のために生きているんだと思いますか?
http://asq-enq.com/e1200456070.html

35 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 01:01:13 0
>>34
それはあなたの個人的見解では?
どのような言葉も個人的見解だと思うが
それを真理のように語るのはいただけない
思うに生きる意味とは
個人が見出さなければないのではないだろうか
それは自分が生きていく上で、重視している価値観であるといわれそうだが
(それともこれは生きる目的だろうか)
なんにせよ生きる意味がどこにもないと言うことはないと思う
それはわからないだけかも知れんので
あと、生きることよりも優先されるものがないということだが
そう考えることこそ「自分が生きていく上で、重視している価値観」なのではないのか
まあ、あなたの文脈と私の文脈では言葉の意味が違ってくると思うのだが

36 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 01:41:00 0
生きる意味を考えるということは今現在辛いのか、それともなにもないのか。
人は生きたいと思うから生きるのです。

37 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 01:45:18 0
死にたい奴も生きてるよ

38 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 02:15:00 0
ならその人はなぜ生きてるんでしょうか?

39 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 02:19:16 0
それは生きたいからでは?
生きた先に何かあると信じているからでは?


40 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 02:22:21 0
死にたくても死ねないから

41 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 02:23:59 0
死にたくない=生きたいではないと思うのだが

42 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 02:26:33 0
死にたくても死ぬのが怖い人は本当に生きたい人だと言えるのか
死ぬ直前に死にたくないと思った人は生きたいとそのとき思っただろうか

43 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 02:35:29 0
>>1
一生かけて探し続けろ
それもまた人生だ

44 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 03:01:18 0
>>34

生きることそれ自体の肯定(かけがえのない素晴らしいことである)は、
すべての価値が生きることの上に成り立っていることを考慮するならば、
この世界における絶対公理(それがあっての物種)のように思えます。

なぜなら、それ(生きることそれ自体)を否定するならば、
そもそも価値について云々することはできないはずだからです。

しかし「生きることはかけがえのない素晴らしいことである」という命題は、
それが真理であるならば、決して存在してはならないのではないでしょうか。
なぜなら、それは存在した瞬間に相対化されてしまう運命にあるからです。

たとえば、わたしに「生きることはかけがえのない素晴らしいことではない」
と言えわれて(相対化されて)しまった瞬間、それは個人的見解(>>35)に
過ぎなくなってしまうからです。


45 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 03:14:42 0
>>41
興味深いですね、具体的に違いを教えて頂けませんか?

>>42
本当に死を希望する人は生きる事に恐怖を抱き、死ぬ事に安らぎを求めている人だと考えています。
だから死ぬんだと。
死が怖いと思う人は未練や希望を抱いている人だと思います。

46 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 03:17:27 0
>>36
真理とは絶対的なもので相対化されることはない
と思うのだが考え方の違いだろうか

>なぜなら、それ(生きることそれ自体)を否定するならば、
>そもそも価値について云々することはできないはずだからです。

何故なのか
スレ違いになるかもしれないがそもそも私たちは生きているのか

47 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 03:24:28 0
>>45
死にたいの反対がただ単に生きたいではないと思うから。
複雑な心理状態だと思うから具体例を出すのは難しい。

死が怖いというのと死ぬのが怖いというのは違う
死という状態と死ぬという行為に恐怖するのは違うと思う

48 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 03:27:00 0
だから死が怖いと思う人は未練や希望を抱いている人かも知れないが
死にたい人間が死ぬのを怖がることはあると思う

連スレ申し訳ない

49 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 03:52:14 0
>>48
いろいろ考えましたが確かにそういう人がいるかもしれない。
例えば奴隷は死よりも死ぬという行為が未遂に終わりその後の罰に恐怖するかもしれない。
それに、五体不満足の人は死にたいと思っても死ねない。
だが生きている。etc...
これらを考えて>>36の発言は間違っていました。

>死にたいの反対がただ単に生きたいではないと思うから。
そうですね。
言葉や概念に囚われ過ぎたのかもしれません。
それを考えると生の反対語が死も違うかもしれません。

50 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 04:08:36 0
>それを考えると生の反対語が死も違うかもしれません。
何が反対語なのかわからないがその通りだと思う。

>>36の発言は間違っていました。
私の考えを分かってくれたかどうかはあなた=私ではないから分からない
けど、そのことについてよく考えてくれたのは嬉しい
間違っているいないは相対的なものだと思う
だからもしかするとあなたの考えが正しいのかもしれない
ただ、志願者の気持ちを一括りにされたような気がしてそれが嫌だった

51 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 04:15:13 0
>>50
不快な思いをさせて申し訳ありませんでした。
ただ、思った事を言わないと私は成長することができないので。
あなたの意見は大変参考になりました。

52 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 04:22:14 0
>>46

たとえば、「生きることは、かけがえのない素晴らしいことである」が、
真理であるにしても、それを知ることはできないのではないでしょうか。
私たちは言葉によってそれを知るのですから、知られたものとしてのそれは、
すでに真理ではなくなっていませんか。

なぜなら、あらゆる命題の真偽をまちがいなく判別するような論理は
存在しませんし、また真理の表明であるどのような命題にも、
かならず相反する言明が成立してしまうのですから。


53 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 04:42:34 0
>>52

もう落ちるので、補足しておきます。

仮に「生きることは、かけがえのない素晴らしいことである」が真理だとしても、
その言明が成立するためには「生きることは、かけがえのない素晴らしいことではない」
という可能性も論理的には開かれていなければなりません。

もちろん、論理的にはそうかも(相対化されるかも)しれないけれども、
真理そのものの絶対性は相対化されえない、という主張がなされるでしょう。

しかし、真理が相対化されえないということは、誤りえないということであり、
そうであるならば、真理の絶対性は、それが真理であるとは「言えない」ことのうちに
示されるのでなければならないはずです。

なぜなら、真理が絶対的なものならば、真理に真偽も正誤もないはずだからです。
つまり、真理はそれを示そうとするかぎり、どこまでも示せないのであり、
どこまでも示せないことのうちに示されるものなのです。

すなわち、真理の言明が可能ならば、真理は真理として示しえず、
あらかじめ失われていなければならない、ということになるはずです。


54 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 04:44:05 0
>たとえば、「生きることは、かけがえのない素晴らしいことである」が、
真理であるにしても、それを知ることはできないのではないでしょうか。

>なぜなら、あらゆる命題の真偽をまちがいなく判別するような論理は
存在しませんし

何故そういう風に言い切れるのですか?
そういう風に絶対的に言い切れるのならそれこそ真理だと思います。

>私たちは言葉によってそれを知るのですから、知られたものとしてのそれは、
すでに真理ではなくなっていませんか

確かによくそう思いますがこれも絶対的にそうだといえるでしょうか?
私が言った真理は概念としての真理です。
真理の定義によって又個人個人によって真理とは何か変わってくると思うのですが
私は真理そのものを知ることが絶対にできないかどうかわからないし
真理はもしもあるならば絶対的なものだと思います。

>真理の表明であるどのような命題にも、
かならず相反する言明が成立してしまうのですから。

相反する言明を一つ一つ考えて事がないので分かりません。
ただ、相反する言明が成り立たない命題をまだ発見していないだけかもしれないとも思います。
私はこの頃何を考えても全ては思い込みかもしれないという考えが頭から離れません。
だから、可能性が絶対的に0もしくは100ではないように思えることに関していちいち疑ってしまうのです。
だからいちいち聞いてしまいました。
あと36ではなく44でした。申し訳ないです。

55 :心の仕組みドットコム:2008/04/08(火) 06:16:08 0

真理とは何かを知らずに、真理に付いて語り合っても結論はでないと思いますが如何でしょうか?

56 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 13:28:39 0
>>41
消えたい≠死にたい
生きていたくない≠死にたい
らしい。

57 :考える名無しさん:2008/04/08(火) 15:38:44 0
>>55 >>56
同意します

>>53
論理的に過去現在未来絶対的で客観的な真理について考えるのならあなたは正しいと思う。

真理についてはスレ違いなのでやめます。

58 :考える名無しさん:2008/04/09(水) 00:41:43 0
>>54
>何故そういう風に言い切れるのですか?

「生きることそのものが、かけがえのない素晴らしいことである」…… @
という>>34の主張は、個人的見解として述べられているのではないけれど、
@が、もしも個人に知られうることなら、@のように思うかどうかは、
どうしても「個人的見解」になってしまうしかないのではないか、
そうであるなら、@の肯定によって「生きる意味」の個別的存在が
否定されてしまう理由はないではないか、という反論が>>35でしょうか。

わたしは、@のような命題の真偽が論理によって決定できると思っていないし、
仮に@が真理だとしたら尚更、真偽を問うのは不可能ではないかと思うのです。
(理由は、>>53

たとえば、あなたの「そもそも私たちは生きているのか」(>>46)という問いを
許容するなら、@の命題は事実に反したこと(生きているということ)を前提に
しているのですから、命題自体が偽(現実的には嘘)の可能性がありますし、
また、フィクションの中の文に過ぎないと考えるなら、真偽を問われる命題で
さえないことになってしまうでしょう。


59 :考える名無しさん:2008/04/09(水) 00:48:51 0
>>54
>真理はもしもあるならば絶対的なものだと思います。

わたしも、そう思います。

>私はこの頃何を考えても全ては思い込みかもしれないという考えが頭から離れません。
>だから、可能性が絶対的に0もしくは100ではないように思えることに関していちいち疑ってしまうのです。

わたしも同じです。

>>57
>論理的に過去現在未来絶対的で客観的な真理について考えるのならあなたは正しいと思う。

わたしは自分が書いていることを信じているわけではなく、
そのような考えについての反論を期待しているだけです。

ちなみに、わたしはあなたが希求しているようなものとしての真理が
客観的に存在するとは思っていません。
なぜなら、いまだ「われ思う、ゆえにわれ在り」を疑えないからです。


60 :心の仕組みドットコム:2008/04/09(水) 08:48:45 0
>>57
>真理についてはスレ違いなのでやめます。
哲学は理性的な思考を通して、諸事の問題を語るものですから哲学から真理を除いたら、ただのゴミ屑になってしまいます。
ですから、哲学の場で真理に付いて語ることは哲学の王道です。
>>59
>ちなみに、わたしはあなたが希求しているようなものとしての真理が客観的に存在するとは思っていません。
真理とは人が客観的立場に身を移し、始めて悟り知るものです。
人が、この真理を会得すれば道理も悟り知り物事を理解し知能が活動し、そこで始めて全てを知り得る本物の智恵を産みだせるのです。
そして人類は真理を望む純粋で謙虚な心さえ有れば、無条件で真理を悟り知ることのできる機能を備え持って産まれているのです。




61 :考える名無しさん:2008/04/09(水) 15:30:08 0
自分のためだけに生きる
http://ssut1.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_5f05.html

62 :考える名無しさん:2008/04/09(水) 16:05:27 0
逆から読むとミルキー

63 :考える名無しさん:2008/04/09(水) 16:17:07 0
逆から読むと一木留美

64 :考える名無しさん:2008/04/09(水) 22:22:34 0
>>1

生きる意味が何にせよ。

「意味がある」と思えば、生きる気力が起こり、
「意味がない」と思えば、生きる気力を失う。

このことも問題ではないか。

意味があろうがるまいが、生きる気力発動装置とのリンクは切れるはず。

65 :考える名無しさん:2008/04/09(水) 22:30:37 0
30年前に、「生きる意味」を求めた一人の人間の歩み。

http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/mutapf.html

66 :考える名無しさん:2008/04/09(水) 23:43:09 0
俺が思うに、人は、それぞれの価値観によって生きている。

ショーペンハウアーの“生きんとする意志”という言葉を借りれば、

人は、生きんとする意志を、それぞれの価値観を実現させようとして生き、

そのように生きれると「意味がある」という判断をする。

「意味」とは、自分の価値観を通して、生きんとする意志を実現する
方向へ向かう方向へ向かっていることを、言うのではないか。

67 :(酔)短パン:2008/04/09(水) 23:58:46 0
「生きる意味」か・・・
追うと、追い始めると、難易度がけたたましく跳ね上がる。という所までは、なんとなく・・・
ん〜〜〜・・・。
「幻想?」
あるいは、理想郷。なのかな・・・
イメージとしては、かなりはっきりとしているのに、現実の中には「無い」・・・
・・・ただ、本当に、なんてことない、ただの一瞬。その具現化された何か(或いはカタチそのもの)を、まのあたりにする事は、
あるんだと、そう思う。

その奇跡。例えて言うなら、「奇跡」という奴。(重要なので繰り返すンw)
これの日常化を狙おうとする時。
あらゆるエネルギー(?)ヒエラルキー(??)リビドー(><)は手のひらを返して「敵」となり。総がかりで潰しに来る。
・・・・と言う事だろうか。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

複雑なのは、なにも、神の御手によってそうされている。とは、思わない。(思えない。)
僕は、単に、この(複雑怪奇)な自己が疎ましくて仕方がない。
と言う事だけなんだろうな・・・


68 :考える名無しさん:2008/04/10(木) 02:15:34 0
>>58
>>54の時点では>>53をよんでいませんでした。余計に説明させて申し訳ないです。

>>59
私はそのような真理があるかどうかわかりません。
しかし、与えられた情報で足りない頭を使って考えた場合(私が付け加えたものもありますが)どうもそのように思えるという意味です。
どうも今のところ正しい気がしますが別に肯定する気はありません。

>いまだ「われ思う、ゆえにわれ在り」を疑えないからです。
なぜ思っているのは私だと言い切れるのですか。
何かの作用(思うまたは感じる)が働いている気がしますがそれが一人称につながるとは思えません。
作用が働くには対象と観測者が絶対必要なのでしょうか。
また、必要だとしてもなぜそこに一人称が入り込んでくるのでしょうか。
一応デカルト関係の本は読んでいるのですが精読していないので間違いがあったら申し訳ないです。

>>60
ここは生きる意味を語る場ではないでしょうか。
哲学版でなおかつ生きる意味について考えていて真理のことに行き着いたとしても
真理の絶対性や真理を知覚できるかは生きる意味について考えるのにあまり関係がないのでは?と思い、発言しました。
ずれているずれていないは結局は個人の判断になると思うのですが・・・

>人類は真理を望む純粋で謙虚な心さえ有れば、無条件で真理を悟り知ることのできる機能を備え持って産まれているのです。
そういう考え方もでき私の感想になってしまいますがそれは哲学というより思想では?

>>57で同意しているように真理について考えるなら真理の定義をここで決めたほうが良いと思います。

69 :考える名無しさん:2008/04/10(木) 02:20:48 0
>>59
>わたしは自分が書いていることを信じているわけではなく、
そのような考えについての反論を期待しているだけです。

考えようによっては反論できるように思います。

70 :考える名無しさん:2008/04/10(木) 02:35:19 O
人生の中で様々な苦悩がある。

その苦悩は「生きる意味とは?」「自分の存在の意義」といった、永遠に答えの出ない、答えがあるのかすら分からないような問いと、根底でなにかしらリンクしている。

そんな中で、常に答えの見つからない問いと戦い続ける事が、生きるって事じゃないのかと思う。




71 :考える名無しさん:2008/04/10(木) 02:59:55 0
生きる意味は個人個人で違うと思う。
自分で見出さなければないと思うし
みんなに共通する生きる意味はないように思える。
意味は個人が与えて初めて個人が認識するようになると思う。

72 :(酔)魔王短パン:2008/04/10(木) 04:13:30 0
おぃ、てめぇらw
どぅでもいいが、俺を神格化スンナよw

いいかげんにしないと、ひっぱたくぞ?
なぁ。
大丈夫?

73 :考える名無しさん:2008/04/10(木) 05:35:28 O
生きる意味って理解するより感じたほうが早いと思う。
マトモに考えたら頭がパンクするわ。
何気ない瞬間に真理ってやつは潜んでるものさ。

74 :考える名無しさん:2008/04/10(木) 06:34:06 0
>>35
> それはあなたの個人的見解では?
> どのような言葉も個人的見解だと思うが
> それを真理のように語るのはいただけない
> 思うに生きる意味とは
> 個人が見出さなければないのではないだろうか

「個人的見解」という言葉の定義によるので、個人的見解かどうかには答えられませんが
決して、変わった意見ではないと思います。

端的に言えば、「意味」の定義の問題です。
詳しくはリンク先に書いてある通りですが、一般に、「意味」は「〜にとっての意味」という形でしか存在しえません。
つまり、私たちが生きている上での意味は、全て「私にとっての意味」であり、それ以外ではありえないのです。
したがって、そこで「私が生きることの意味」は、唯一の盲点になり、語ることはできないものです。
そのことを端的に言えば「生きる意味などない」ということになるわけです。

比喩的な説明をすれば、これはいわゆる「一神教的立場」と「非一神教的立場」の違いとも言えます。
「生きる意味がある」と考える立場は、(ユダヤ・キリスト教のような)一神教的立場あり、
「普遍的な意味」が存在するという見方に相当します。
これに対し、リンク先の記事の議論は、非一神教的立場で、価値を与えるのは一人一人が生きていることそのものだと考えます。
(ちなみに、一神教的という表現は、哲学的議論に詳しい人にはおなじみだと思いますが誤解を招く表現かもしれません。
ユダヤ教徒やキリスト教徒の全てがそういう立場を取っているという意味ではなく、
あくまで普遍主義的思考を象徴的に指す言葉です)

「生きる意味がある」というのは聞こえが良いですが、実は、人間を神の道具におとしめるものです。
そうではなく、「生きることの絶対性」を主張するのが、「生きる意味はない」という立場です。

ちなみに、>>34はリンク先の記事のリード文で、独立した意見というわけではないので念のため。

生きる意味について
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_311d.html

75 :(酔)短パン:2008/04/10(木) 07:08:31 0
>>74
なぁ。言葉とか文字って、なんだと思う?
俺は、、、俺はね。。。

76 :(酔)短パン:2008/04/10(木) 07:14:20 0
使えば使うほど、汚れてさ。闘いの武器として精錬されていくんだよ。。。

ふ、
「それを求めていたのか。」
とか・・・w

77 :心の仕組みドットコム:2008/04/10(木) 08:57:00 0

>>68
☆人類は真理を望む純粋で謙虚な心さえ有れば、無条件で真理を悟り知ることのできる機能を備え持って産まれているのです。
>そういう考え方もでき私の感想になってしまいますがそれは哲学というより思想では?
思想ではなく真実ですよ。
>>57で同意しているように真理について考えるなら真理の定義をここで決めたほうが良いと思います。
定義とは決めるものではなく、存在を明らかにすることですね。
真理とは、人が物事の理を悟ることで得られる、物事の理非を分け隔て真の理を悟り知る心を指します。
この真理が人に物事を理解させ人の智と知の源となり、人の知能を高め知恵を産みだし知識を集める働きをするのです。
人に生きる意味を知らしめることも真理の会得が無ければ叶いません。
つまり、人類は真理を会得しなければ無知の域から絶対に抜けだせないのです。


78 :考える名無しさん:2008/04/11(金) 00:46:22 0
>>68
>なぜ思っているのは私だと言い切れるのですか。
>何かの作用(思うまたは感じる)が働いている気がしますがそれが一人称につながるとは思えません。

「われ思う、ゆえにわれ在り」が疑いえないというのは、思ったり感じたりするのが私のときには、
かならず私だからです。思ったり感じたりするのが私でないときには、もちろん私ではありません。
変な言い方をしていますが、たとえば多重人格を想定していただければわかりやすいと思います。

(デカルトの言葉を不用意に使って誤解を与えてしまいました。すみませんでした)

>作用が働くには対象と観測者が絶対必要なのでしょうか。

そうでないと現象が成立しないと思います。
だからといって、対象と観測者を別物扱いしなければならないということではありません。
たとえば夢のことを考えてみれば、独我論や脳一元論も奇異な考え方ではないですよね。
それにもしかしたら本当は現実は夢かもしれませんし。

仮にそのように想定すれば、夢と同じように現実の対象は直接「われ思う」の表象によって
創造されていることになります。たとえば、神様の天地創造のように、神様の「光あれ!」
との意志の表象が、そのまま「光」(対象)を産み出してしまう、というようにです。
そのように考えれば、対象と観測者を別け隔てる必要もなくなります。


79 :考える名無しさん:2008/04/11(金) 02:49:59 0
>>78
78さんの言うことはおおむね私は理解できるし、もし78さんがそのように考えるなら私は78さんと大体同じ意見です。

>対象と観測者を別物扱いしなければならないということではありません。

そう思います。しかし、

>そうでないと現象が成立しないと思います。

この意見には同意できません。私は作用が働くなら絶対に存在が必要だと100%思えないからです。
ここの部分はもしかすると個人の感覚とか好き嫌いになってくるかもしれないのですが・・・

>「われ思う、ゆえにわれ在り」が疑いえないというのは、思ったり感じたりするのが私のときには、
かならず私だからです。思ったり感じたりするのが私でないときには、もちろん私ではありません。
変な言い方をしていますが、たとえば多重人格を想定していただければわかりやすいと思います。

ここの私は一人称の私でしょうか。私について記述するのは面倒だと思うのですが、詳しく教えてもらえませんか。

>デカルトの言葉を不用意に使って誤解を与えてしまいました。すみませんでした

デカルトの言葉は私も好きでよく意味も分からないし吟味してもいないのに使ってしまいがちです。
それに誤解は哲学の議論には付き物だと思いますし、78さんは分かりやすく説明してくれています。
あなたのおかげで普段嫌になって考えるのをやめるのにやめないで新しい発見をすることができました。ありがとうございます。

80 :考える名無しさん:2008/04/11(金) 03:25:44 O
快楽のために生きてる。

81 :考える名無しさん:2008/04/11(金) 04:48:27 0
>>74
>「私にとっての意味」であり、それ以外ではありえないのです。

同意見ですが、これを踏まえると

>したがって、そこで「私が生きることの意味」は、唯一の盲点になり、語ることはできないものです。

がよく分かりません。
「私が生きること」に対しても「私にとっての意味」を与えられ「私が生きることの意味」となるように思うのですが。

82 :考える名無しさん:2008/04/11(金) 04:59:35 0
私は自分が生きているのか、存在しているのかも正確に分かりません。
>>34>>74を見ているとあなたは生きていることを最初の条件として与えているように思いました。
私は上述の通りですのでこれは論理的に議論してどうこうなるものではなく
最終的な個人の考え方による違いになってしまうのではないでしょうか。
丁寧に返事をしてくれてありがとうございます。

83 :(酔)短パン:2008/04/11(金) 05:15:53 0
ドット?


84 :心の仕組みドットコム:2008/04/11(金) 10:42:58 0

>>83
ま・さ・か
間坂は本牧の先です。

85 :考える名無しさん:2008/04/12(土) 03:15:19 0
>>79
>この意見には同意できません。私は作用が働くなら絶対に存在が必要だと100%思えないからです。

たとえば「私は桜の花を見ている」というとき、桜の花は単に見られているだけであって、
確実に言えるのは「桜の花が見られている」ということだけなのかもしれません。
でも、すぐに「誰に、見られているの?」と質問されてしまうでしょう。

なぜなら「見られている」という表現には、桜の花を見ている「誰か」の存在が
すでに含意されてしまっているからです。

だからといって、この「誰か」は、同一性を維持したまま存在する「私」である、
ということまでは含意していません。
確かにそうなのですが、それなら「桜の花」という現象はどうやって起きているのでしょうか?


86 :考える名無しさん:2008/04/12(土) 03:18:11 0
こっちが知りたい

87 :考える名無しさん:2008/04/12(土) 03:41:41 0
>>79
>ここの私は一人称の私でしょうか。私について記述するのは面倒だと思うのですが、
>詳しく教えてもらえませんか。

A子、B子、C子の人格は、一分毎に交代します。
同じ桜の花を見ているのですが、それぞれがそれぞれの桜の花を知りません。

一分毎にそれぞれがそれぞれに「私は桜の花を見ている」と言ったとしたら、
それぞれの私は、それぞれに別の私でしょう。

それでも、それぞれにそれぞれの私によって、それぞれにそれぞれの桜の花が
見られたのではないでしょうか。

たとえ一分間でも、その間だけは、それぞれにそれぞれの私の同一性が
維持されていたからこそ、たえまなく移り変わっていく桜の生きて咲く姿が
「桜の花が咲いている」という現象として成立しえたのではないでしょうか。

たった一分間でも同一性を維持したまま存在する私というカンバスがあったからこそ、
「何か」が「桜の花」として、はじめて、そこ(私)に描かれえたのではないでしょうか。

そのように考えれば、桜の花が現象することと私が存在することとが共にあるのは
当然のことになりますし、わたしが「思ったり感じたりするのが、私のときには、
かならず私だからです」と言ったのも、このような意味で、です。

たぶん期待外れのレスだと思いますが、とりあえず。


88 :考える名無しさん:2008/04/12(土) 03:53:45 0
>>85
>>87
>だからといって、この「誰か」は、同一性を維持したまま存在する「私」である、
>ということまでは含意していません。
>確かにそうなのですが、それなら「桜の花」という現象はどうやって起きているのでしょうか?

>たった一分間でも同一性を維持したまま存在する私というカンバスがあったからこそ、
>「何か」が「桜の花」として、はじめて、そこ(私)に描かれえたのではないでしょうか。

何かを「桜の花」と見なしている働きがあるということだよ。
そして、その働きの主体として「私」というものがあると見なしている働きがあるということだよ。




89 :考える名無しさん:2008/04/13(日) 06:24:22 O
生きる意味を考えだしてる時点で病みの入り口が見えてるよな?
生きる事に迷いがなかった頃が懐かしい。

90 :考える名無しさん:2008/04/14(月) 00:15:58 0
>>85>>87
説明ありがとうございます。

>「桜の花」という現象はどうやって起きているのでしょうか?

感じる(作用)を感じる(作用)を感じる(作用)を・・・・・・
という風に一人称以上の人称が出ずに考えが無限ループするので
「桜の花」を感じる、という作用が働いているということしか私に確実に言えることはありません。
私は、「感じる(作用)=0人称」が「私=一人称」に確実につながるという風に思えないので
感じるという作用の生じ方はもちろん、私が感じる過程もよく分かりません。

>わたしが「思ったり感じたりするのが、私のときには、
>かならず私だからです」と言ったのも、このような意味で、です。

出発点の違いというか私の勘違いというか、何にせよ私の捉え間違いでした。よく分かりました。

91 :考える名無しさん:2008/04/14(月) 00:21:37 0
↑返事遅れてすみませんでした。

>>89
確かに。こういうことを考えなかった頃に戻りたい。
こんなこと考えていると周りから変人扱いされるのは私だけ?

92 :考える名無しさん:2008/04/14(月) 03:15:56 0
>>90
>感じる(作用)を感じる(作用)を感じる(作用)を・・・・・・
>という風に一人称以上の人称が出ずに考えが無限ループするので
>「桜の花」を感じる、という作用が働いているということしか私に確実に言えることはありません。

たとえば「脳の中に感じる小人がいる」という想定をした場合、
感じる小人の感じるを感じる小人の……の無限後退に陥ってしまう困難を
今まで科学はしりぞけてきました。

なぜなら、客観的対象を相手にする科学にとって、小人は表現を替えれば主観性のことだからです。
もっとも脳科学者のなかにも、感じるということ、たとえば桜の花の「質感(クオリア)」の存在を認めて、
それを主観性(私や心)の問題として考える人もいるようです。

たとえば、脳科学的には「悲しいから泣く」という事実は存在しません。
なぜなら、涙を流させる脳内の神経細胞の活動が涙を流させるのであって、
「悲しいから泣くのではない」からです。

それでも、それを「悲しい」と言語に翻訳しうる「何か」の存在は認めているでしょうし、
その「何か」を「悲しい」と言語に翻訳する機能の存在も認めているようです。
つまり、科学者も原理的にはその人にしかわからない「何か」の存在を認めているのですね。

でも、もしも心や私とか呼ばれてきた一人称の存在を否定する場合には、
この「何か」を認めないということが必要になってくるのではないでしょうか。


93 :考える名無しさん:2008/04/14(月) 03:46:32 0
>>92
>それでも、それを「悲しい」と言語に翻訳しうる「何か」の存在は認めているでしょうし、
>その「何か」を「悲しい」と言語に翻訳する機能の存在も認めているようです。
>つまり、科学者も原理的にはその人にしかわからない「何か」の存在を認めているのですね。

「何か」というのは一人称になりうるものでしょうか。
それとも「悲しい」が言語に変換される以前のもののことでしょうか。

94 :考える名無しさん:2008/04/14(月) 04:16:30 0
水掛け論になるかもしれませんし、未熟ですが記述してみます。
私は作用が働いていることは確かだと思います。
しかし、それが一人称つまり私に直結することが絶対に確実だと思えません。
作用が働くには存在が必要だと確実に思えません。

論理も過去も未来も感覚も全て思い込みかもしれません。
しかし、私が思惟するのは確かであるように思えます。
でも、本当に思惟するのは私なのでしょうか。
同一性によって私は思惟していると言えるかもしれませんが
その同一性を支持する過去は本当に在ったかどうか疑わしい。
何故思惟するのは私と言えるのか。
私でなくても思惟するには存在がなくてはならないのか。
思惟すると存在は必ずセットなのでしょうか。
私にはどうも初めに思惟するという作用があるように思えます。
動詞(作用)には必ず存在が必要だと思えません。

95 :考える名無しさん:2008/04/14(月) 04:33:44 0
私は否定しているように見えるかもしれませんが、一人称を否定しているわけではありません。
私も一人称はあるのかもしれないと思っています。
ただそれが確実だと思えないので、疑わしいといっているだけです。
「何か」が一人称になりうるものならば認める認めない以前にあるのかどうか分かりません。
「何か」が、「悲しい」が言語化される以前のものならば、それは作用なのではないでしょうか。
この場合はもっとよく考えてみます。
科学者が認めていても、科学がそうしていても、私には作用があるとしか言えません。

96 :考える名無しさん:2008/04/15(火) 00:11:18 0
生きることに意味・目的がなけりゃならないって前提自体、
そもそもどうなんだろねぇ?
関係性(家族/友人/敵/自分 との)を選択してるから生きてるわけで、
それがイヤだったら関係性を断つ(社会的・生物的に、死ぬ)しかない。
生きるってのはそうした関係性の円環的植物的なつながりであって、
意味がどうのとか目的がどうのとか言うことじゃないと思うな。


97 :考える名無しさん:2008/04/15(火) 02:27:13 0
>>93
>「何か」というのは一人称になりうるものでしょうか。
>それとも「悲しい」が言語に変換される以前のもののことでしょうか。

私たちは自分を一般的に規定された公的な私の一事例として理解しつつも、
それとは区別される自分の特殊性(「私的な私」)についても把握しています。
ここでは仮に公的な私の一事例ではない「私的な私」のことを「一人称の私」
ということにさせてください。

「私の肩に桜の花びらが舞い落ちた」…… @
という場合、これは公的な私に起きた出来事について述べられたものになります。
なぜなら、@の命題については、その真偽や正誤を問うことが可能だからです。
つまり、@の私および出来事は、客観的(公的)に示されうるということです。

次に「私は桜の花が散ってしまうのが悲しい」…… A
という場合、これは一人称の私に起きた出来事について述べられたものですが、
Aの命題については、その真偽や正誤を問うことが不可能です。
なぜなら、Aの私および出来事は、客観的(公的)に示されえないからです。

だからといって、Aの私に「悲しいのは、本当に君なのか?」と真偽を問うのは
無意味でしょう。なぜなら「悲しい」という現象が、脳内、または一人称の私に
起きているのだとしても、それを知ることは原理的に不可能だからです。

このような議論をすれば、一人称の私の存在と言語に変換される以前の
「何か」の存在は同時に抹消されることになります。
なぜなら、「私は悲しい」という言語の表現の可能性が、「私は悲しい」
という事態を存在させているのであって、「私は悲しい」という表現とは別に、
「私」や「悲しみ」の実体が存在するとは言えないことになるからです。


98 :考える名無しさん:2008/04/15(火) 02:28:26 0
>>94-95については、次回にさせてください。すみません。


99 :考える名無しさん:2008/04/15(火) 03:25:55 0
私の質問の仕方が悪かったようです。
「何か」とは、[涙を流させる脳内の神経細胞の活動]を[「悲しい」と言語に翻訳する]存在ですか。
それとも、

>その「何か」を「悲しい」と言語に翻訳する機能の存在も認めているようです。

から(外界はあるのかないのか、私はいるのか、などは無視して)「何か」とは、
言葉になる前の思いのことですか。つまり、私に「私は悲しい」と言わしめる原因でしょうか。

>それでも、それを「悲しい」と言語に翻訳しうる「何か」の存在は認めているでしょうし、

のそれはクオリアのことでしょうか。もしそうなら、上記二つのことではなく
「何か」=「クオリアを悲しいと翻訳するもの」=「悲しいと翻訳されるもの」でしょうか。

私が至らないのだと思うのですが、この文脈上の「何か」の特徴がよく理解できません。

100 :考える名無しさん:2008/04/15(火) 06:54:11 O
うまくいくということ

101 :考える名無しさん:2008/04/15(火) 16:25:13 O
掲示板という特質上、全て観念的な話になっているのが口惜しいな。
これがリアルなら高台に並んで腰掛けて満開の桜を見て何かを感じ取りたい所だが…
まあ文字の羅列を見て何か生きる実感が湧くとしたら、それは「詩」と呼ばれるべきだろうな。
詩ってやつは書き手の感覚や想いをダイレクトに伝えるから。
教科書や公文書のようなのはただの「情報」にすぎない。
そこに実感は無い。
結論として…分厚い哲学書よりも美味しいコーヒーのほうが生を物語るってこった。

102 :考える名無しさん:2008/04/16(水) 02:34:10 0
>>99(説明下手ですみません。たぶん今回もです)

「何か」とは、脳科学者であればおそらく「脳内の神経細胞の活動」でしょうが、
そのように書かないで「何か」にしたのは、>>97のような考えがあったからです。

私たちは「悲しいから泣く」とか「怖いから逃げる」とか表現するのですが、
かりに悲しいとか怖いとかのクオリアが存在するにしても、
脳科学的にはまちがった表現になってしまいます。

なぜなら、たとえば「悲しい(クオリア)」と「涙」とでは、
それを現象させる神経回路がそれぞれに別だから(関係していないから)です。
「悲しいから泣く」や「怖いから逃げる」という因果関係には根拠がないのです。

また、一部の脳科学者たちは、クオリアの存在はそれとして認めて、
あたかもクオリアが「脳内の神経細胞の活動」に還元できるかのように
思っているようですが、わたしはそれは不可能だと思っています。

なぜなら、ある特定の「脳内の神経細胞の活動」を指して、
それがその人の悲しみのクオリアである、とは言えないと思うからです。
その人の悲しみ(クオリア)はその人にしかわからない、
という主観性こそ、クオリアという概念の本質のはずだからです。

そもそもクオリア(悲しいとか怖いとか)は言語が生み出した抽象概念ですし、
たとえば、言語の習得が叶わず「私は悲しい」と表現する可能性がない場合、
「私は悲しい」という事態は存在しえないのだと思います。

そのような状況においてもなお、「私は悲しい」という表現とは別に、
「私」や「悲しみ」の実体としての「何か」が存在している、
と言うことはむずかしいのではないでしょうか。


103 :考える名無しさん:2008/04/17(木) 02:42:06 0
>>102
>主観性こそ、クオリアという概念の本質のはずだからです。
>そもそもクオリア(悲しいとか怖いとか)は言語が生み出した抽象概念ですし、

主観的なものとしてのクオリアとお互いにそれを理解しあえるかのように使用している、
という意味では客観的なものとしてのクオリアとを同時に言うのは矛盾していますので、
少し説明を加えさせてください。

たとえば、あなたが「私は悲しい」と言うとき、それがクオリアの表明なのだとしたら、
わたしはそれを知ることができません。なぜなら、わたしはあなたにはなれないので、
あなたの悲しみを悲しむことができないからです。(クオリアの主観性の主張)

それにもかかわらず私たちが、他人には知られることのない「悲しさ」の表明がなされたとき、
もしもそのような「悲しさ」の存在を承認するのならば、このとき客観的なものとしてのクオリア
(抽象概念としての悲しみ)も同時に成立してしまっているのです。

という事情を書いたつもりでした。

だから「悲しい」という表現とは別に、「悲しみ」の実体としての「何か」が存在している、
という考えを認めないのならば、「悲しさ」と同時に「私」の存在をも否定できるかもしれない。
なぜなら「私は悲しい」という言語の表現の可能性が、「私は悲しい」という事態を
存在させているだけかもしれないのだから、というのがそもそもの議論(>>97)でした。

話題の興味がすれ違っているようなのに、すみません。
わたしがこのような話しをしているのは、もしも「生きる意味」について考えることが、
「私の生きる意味」につながらないとしたら、それこそ無意味に感じられるからです。
(と「感じてしまうこと」について、そこに「感じている私」を付け加えなければならない
理由がわからないというのが、あなたの疑問でしょうか?)


104 :考える名無しさん:2008/04/17(木) 06:54:03 0
人間は社会的な生き物ですよ。それ故に代償を求められるんですね。
だから、社会に貢献したものは賞賛され、そうでないものは
無きものとされるか、または反社会的なものは罰則を求められるんでしょうね。

代償は様々な形であり評価が困難なものであるけど、
そこに何かを見つけ出し生きていくことが生きる道ではないでしょうか。
小さなことでいい。めんどうくさいかもしれん。最初は恥ずかしい。
先ず、接する人に笑顔で接するように僕はしている。


105 :考える名無しさん:2008/04/17(木) 20:59:58 O
生きている間だけ、自分にとって、生きる意味はある。
自分の生きている世界のすべてが、自分にとって意味がある。
生きる意味とは、自分にとってあらゆるものが意味をもつための条件として、である。


106 :考える名無しさん:2008/04/18(金) 03:37:23 0
>>102-103 遅れてすみません。
>そこに「感じている私」を付け加えなければならない
>理由がわからないというのが、あなたの疑問でしょうか?

理由というか「感じている私」が確実に居るとは思えないということです。(私ではなく誰かでもいいのですが)

>わたしがこのような話しをしているのは、もしも「生きる意味」について考えることが、
>「私の生きる意味」につながらないとしたら、それこそ無意味に感じられるからです。

私は確実なことを求めるとき以外、私は居るのかどうなのか、外界はあるのかないのか、
というようなことは考え出すと話が先に進まないので、脇に退けて仮の初期条件を決めて考えています。
ですので、「私はいる」「外界はある」などといった条件を決めていただいてから話を進めてもらうと幸いです。
あなたの真意を量り間違い、ただ話が進むまま分からないと言って懐疑の立場ばかりとっていました。申し訳ないです。
出発点をそろえてもまた分からないと言い出すかもしれませんがあなたの意見を引き続き聞かせてもらえればと思います。

>だから「悲しい」という表現とは別に、「悲しみ」の実体としての「何か」が存在している、
>という考えを認めないのならば、「悲しさ」と同時に「私」の存在をも否定できるかもしれない。

>>92から>>103で私の疑いを肯定しようとする一つの説明を提示してくれようとしていたのでしょうか。
もしそうであるなら、丁寧に説明してくださってありがとうございます。

107 :考える名無しさん:2008/04/18(金) 05:47:54 0
例えば
サッカーボールが風に吹かれ動き出し
坂道で転がり続け
やがて止まるということに
意味があると思いますか?

生物である我々もそれと同じです

108 :考える名無しさん:2008/04/18(金) 06:22:14 0
>>107
ちょっと何言ってかわかんない

109 :考える名無しさん:2008/04/18(金) 15:00:03 0
「生きる」ってことと、「意味」ってことを勝手にリンクして

思考しているから、おかしくなるんだろう!?

「意味」があろうとなかろうと関係なく「生きる」!

これこそ、「実存」であり、人間の主体の宣言であろう。

110 :考える名無しさん:2008/04/18(金) 15:01:57 0
>>109

その実存哲学の終焉を、牟田俊彦っておっさんは言ってんのさ。

http://space.geocities.jp/hikarikuma2007/

111 :考える名無しさん:2008/04/19(土) 02:05:06 0
意味があると思うと生きる気力が増し、
意味が無いと思うと生きる気力を失くしていく。

意味が無いというのが現実だと認識し、絶望し
かつ、意味という支えを失っても、生きるのが、実存哲学。

その終焉を唱える者がいるのか!?

ということは、生きる意味、しかも絶対的な意味を見つけたという
ことなのだろうか。

それとも、全く別の観点なのだろうか。

112 :考える名無しさん:2008/04/19(土) 10:12:02 0
生きる意味なんて、考えたってしょうがないだろ。
アフリカのサバンナに生きてる動物たちを考えてみろ。
奴らは、ひたすら食う事=生きることしかやることがない。
弱者は滅び、強者は残る。けれども個体の死からは免れない。
所詮人間も同じようなもの。食うためには働かなければならない。
現代の社会がそういうものだから。

113 :(酔)短パン:2008/04/19(土) 10:25:35 0
>>生きる意味

それは、「意味」じゃない。
だから、迷うんじゃないの?
よく解らないけど・・・

114 :(酔)短パン:2008/04/19(土) 10:30:15 0
ヒトってのは、そういうこと。じゃ、なかったのかな・・・
心痛めていれば、勝ち組だなんて。
それは、嘘だ。

ち(・з・)キニスルナ!

115 :(酔)短パン:2008/04/19(土) 10:33:45 0
この、哲板でだけは言い切れる。んだけど、、、ねぇ。言っていいよね?

116 :考える名無しさん:2008/04/19(土) 10:35:48 0
                     ._,,,/`,イ―''      ,`",l゙、、,,ジ'"`.```.|゙゛
                    .,,,-,i´,―--―''"      、、,!冖'"`、_、,,,/'゚,,."゙l-‐''
       _,,,,,,,,,,,,,、    _,,,,,--''"`'",/゙            、、.',j/′.、,,∠''"` .'_ヽ.',゙l.._,,、
    ,,-'"゙`    `゙゙''lーイ"`     .‐′    _,..,,/ .ヽ、,i,i´ ``゙’   、、シ":"'.「
  .,,i´         `'i、\ ゙!,      ._,-'"ン'` 、、`_,/`,i´ _,___,ニ='" .'゙、゙".゙l,,-'`
 .,/′          `'i,\ ′  .,,,,-',,,,、.,i´、_:_'_v`"゙i、|   ```` `  、_,Jィ""゙l, _,,,,、
: ,i´             ゙l. ヽ丶  .r‐'"、.l゙、、:,p=l┴丶 .!,,!  `'"''''''冖''?'''゙~."""'."'/゛ `
: |,,r                ゙l, 、 i、、、、:,,_,xl!ヴi,、      、、っ,,,,    、`',,,,、`、`、|、
  |、            、"| .i、 lrr-''"゙,,ハ;、-'"゙゙'''''''"丶ヽ.,,冫``~`"`"~"``` `/ `''''
  `''r,,、 、 、、 .、丶、.``ヽ,レ"°  `` .j゚'=∠、````,,,,,∠ ~'ヽ```````、_,r‐'ヘi、
    `゙'ーi,,_、、、、、: :._,,,r〃       "  /^゚"'广  ,/  .,/゙゙゙'''ヶ―''''″

117 :(酔)短パン:2008/04/19(土) 10:45:39 0
ちんこっす。
閻魔「ちんこだな。」
魔王「そろそろ古い表現方法だって、本人は気付いていないらしいのが、残念だ。」
短「・・・なんか、凄い事言ってるぞwww」

まぁ
いっかw

118 :(酔)短パン:2008/04/19(土) 10:52:35 0
>>116
よぉ。
その心理はなんだ?何処に自分の在り様を込めているんだよ。

『これなら、荒し認定だ!』とでも思ってやっているんだろうが、
・・・・。それその意識そのものを疑えないのか?

くだらん
だから。落とされるンだろぅがよ!!!!

ちんこ

119 :(酔)短パン:2008/04/19(土) 10:56:52 0
『ストッパーダッテワカッテホシイ・・・』
・・・

そぅか。
辞めとくか。
自分の為に・・・・


っつか、ひとつだけだよ。
「自分で見つけないで、答えなんて無い!」
そんだけ。

でわでわ。
ノシ

120 :考える名無しさん:2008/04/21(月) 03:48:20 0
>>106
>「私はいる」「外界はある」などといった条件を決めていただいてから話を進めてもらうと幸いです。

「普通」や「正常」や「常識」といったものを疑うことが哲学するという行為だと思いますから、
「私はいる」「外界はある」といった条件を決めてから話を進めるのはどうかな、と思います。

>出発点をそろえてもまた分からないと言い出すかもしれませんが
>あなたの意見を引き続き聞かせてもらえればと思います。

出発点をそろえること(ある前提については問わないこと)には意味がないように思いますので、
引き続きになりますが……すみません。

わたしが、それが「私の思いなら、私はいる」、それが「私の外界なら、外界はある」と言うのは、
「私の思い」でないなら「私はいない」し、「私の外界」でないなら「外界はない」ということです。

たとえば、この指先がキーボードから幾つかの文字を打ち込み、その打ち込まれた文字を見て
だれかが「私の思い」を感じてしまうなら、だれかにとって「私はいる」のかもしれませんし、
まただれかが世界の中から、この身体を見分けることができるなら、
だれかにとってこの身体や、それに対する「外界はある」のかもしれません。

けれども、そのようにして共有されうるかのような「思い」や「外界」が、
本当に存在するのかどうかと問うことが、私的さゆえに共有されることがない
「私の思い」や「私の外界」が存在するのかどうかを問うことに等しいなら、
言葉の表現とは別に、“そのような”「思い」や「世界」が存在するのを
証明することはできないと思います。

なぜなら、“そのような”とは、私の、ということですから、
“そのような”意味での、私は、世界や言葉のどこにも見つけられないからです。
だから、たとえば「生きる意味」が、私の、ということなら、
“そのような”意味での「生きる意味」もまた、世界や言葉のどこにも見つけられないと思います。


121 :考える名無しさん:2008/04/21(月) 04:32:46 0
生きる意味を問うのは問題の提起が間違っている。
意味というのは相関関係においてしか生まれない。
親にとって意味の無いカブトムシも、
子供にとっては意味がある。みたいな感じで。

だから、人生に意味があるとすればそれは
「〜〜にとって人生とは○○な意味がある」としなければならない。
これだと、客観性が保たれない。

なので質問を「何故生きるのか」に変えれば良いのではないか。

で、思ったのが、
1次的欲求、食欲・性欲・睡眠欲のような感じで
0次的欲求が「生存欲」だとするとどうだろう。

腹が減ったからもの食べる
やりたいからやる
眠いから寝る

と同様に
生きたい(死にたくない?)から生きる。

それにどんな理由をつけても(食事=栄養補給とか)それは後付けで、
何故食べるのかといわれれば、腹が減ったからとなるように
何故生きるのかといわれれば、生きたい(死にたくない)から
となるんじゃないだろうか。

と高校生の時考えたが、最近はまた考えが変わった。が、これはこれで原理として使えないかな。どうだろ。

122 :考える名無しさん:2008/04/21(月) 04:40:07 0
>>94
>何故思惟するのは私と言えるのか。
>私でなくても思惟するには存在がなくてはならないのか。

たとえば、ある作用が働いて、生きる意味を考えているとします。

生きる意味を考えるという現象が、言語を獲得した人間によるものなら、
人間がひとりも存在しなくなれば、起こらない現象なのかもしれません。

この推測が正しいなら、生きる意味を考えるという現象が起こるためには、
少なくともヒトの身体(脳)と言語の存在が必要になるでしょうけれども、
このような考えの行き着くところは、たぶん身体一元論なんだと思います。

たしかに「すべての現象は身体現象である」と考えれば、
いわゆる精神的実体としての一人称の私は排除できそうですが、
身体現象としての一人称の私(意識)については、どのように答えるのでしょうか。

たとえば、脳がみずからも含めた個としての身体経験を統一的に管理するために
必要とした働きが、意識という自己同一性である、とか答えてしまいたくなりますが、
これではほとんどカントの理屈の援用になってしまいますね。


123 :考える名無しさん:2008/04/21(月) 04:41:40 0
>>95
>「何か」が一人称になりうるものならば認める認めない以前にあるのかどうか分かりません。

その通りだと思います。

わたしは、一人称の私を証明することは原理的に不可能だということを書いてきたつもりです。
だれにでも当てはまるような一人称の私にはなりえない(一般化されえない)からこそ、
一人称の私でありうるような私について、です。

わたしが「われ思う、ゆえにわれ在り」が疑えないと言ったのは、
それが「私という唯一の主観」についての表明だと思ったからです。

でも、真理がそうであるように「私という唯一の主観」は、だれにも理解されないし、
だれかに理解されてしまったなら主観ではなくなってしまうような主観なのです。

なぜなら、他のだれかに理解されてしまうような主観は唯一の主観ではないからです。


124 :考える名無しさん:2008/04/21(月) 04:54:40 0
>>123

まて、その他のだれかも君の主観だし、理解されると思うその気持ちも君の主観だし、
主観ではなくなってしまうようなものなんてあるのか?

それこそ真理しかなくないか?

でも、真理も主観の中にしかないのかな・・・うぇわかんね。

つかレス全部読んでないから空気読んでなかったら無視してね

125 :考える名無しさん:2008/04/21(月) 09:28:56 0
>>120
>出発点をそろえること(ある前提については問わないこと)には意味がないように思いますので

そうですね。あなたが先述しているように私とあなたのベクトルが違う方向で
なおかつ、どのような話もそれも含めて思い込みであり疑い出したら切りがない
だから、確実に証明できないことに関しては仮定を与える
思考方法が別の者が話し合っても水掛け論になりむなしく終わる
そして何について論じるかを明確にする(いまいち私には分かりづらかったので)
ということで前提を決めて欲しいと書きました。
どの理由にしても結局は私の我がままですので撤回します。

>言葉の表現とは別に、“そのような”「思い」や「世界」が存在するのを
>証明することはできないと思います。

言葉の表現とともになら証明することができるのでしょうか。

>“そのような”意味での「生きる意味」もまた、世界や言葉のどこにも見つけられないと思います。

>>71に書いている通り、私は生きる意味は私が見出すしかないのではないか、と思っています。
(私はいないかもしれないというのは、ここでは置いておいて下さい)

126 :考える名無しさん:2008/04/21(月) 11:08:32 0
>>122
私は先人の考えに疎いので良く分かりませんが、意識は精神の方に含まれるのではないか
と思ってしまいます。多分”実体”の部分が味噌なのでしょうが。

>>123
>でも、真理がそうであるように「私という唯一の主観」は、だれにも理解されないし、
>だれかに理解されてしまったなら主観ではなくなってしまうような主観なのです。

「だれかに理解されてしまったなら主観ではなくなってしまうような主観」ではなく
「だれかに理解されてしまったのを主観が認識したなら主観ではなくなってしまうような主観」ではないでしょうか。
実際過去において、あなたの知覚及び認識を理解してしまっただれかがいなかった、とは言い切れないので
あなたはあなたが言う主観を実はもう持っていない(主観を持つ持たないも変ですが)かもしれません。
でも多分人間性原理のように、主観は成り立っているのでそんなことはありえないという反論が成り立つのでしょうし、
それに対する反論をしたり、記述の正確さを論じてもあまり意味がないような気がしますが。

真理については、現在過去において絶対的に正しいものとするならそれは人も認識できるのではないでしょうか。
ここに未来や現在をどこまでとするのかが入ってくると面倒ですが。真理をどのようなものとするかによって変わってきます。

>>125の続きなのですが、私から見るとあなたは現実をあるものとして扱い
また、科学なども正しいと仮定しているように思えます。
それは何の問題もないのですが、私は疑いだしたら切りがないので、ここは疑わないとするところがあって
(どれも十分議論する対象にはなるのですが)それから話を進めてもらうと私が楽だということ
そして、国語辞典でも持ってくればいいのでしょうが、「認識する」という言葉一つとっても色々解釈できるわけで
どこまでを「認識する」ととするのかというような共通の理解の下に話し合うと私は話しやすいということです。
支離滅裂になっていたらすみません。まあ、これも含めて全ては思い込みかもしれないのですが。

127 :考える名無しさん:2008/04/24(木) 02:27:25 0
>>124
>まて、その他のだれかも君の主観だし、理解されると思うその気持ちも君の主観だし、
>主観ではなくなってしまうようなものなんてあるのか?

もしも「主観ではなくなってしまうようなものなんてない」が徹頭徹尾貫かれたものが、
たとえば「我思う、ゆえに我あり」の主張ならば、それは「他人や外界の存在は疑えても、
疑っている自分の存在は疑えない」というような自分以外の「誰にでも適用可能な主観性の存在」
についての主張であってはならず「私という唯一の主観」についての主張でなければならないはずです。

相対化されえない「唯一の存在(私)」についての主張は、定義上、一切の他者や世界の否定の上に
成立するのですから、そのような主張はコミュニケーションの可能性を前提に成立している言語の性質上、
どのように語られたとしても「誰もがそれを理解することができない」のでなければならないはずです。
原理的には存在しえない主張なのですから。


128 :考える名無しさん:2008/04/24(木) 02:28:39 0
>>125
>言葉の表現とともになら証明することができるのでしょうか。

ちょっと議論の位相がちがってしまうのですが、あえて言うと、
私たちには他人に心があるのかどうかさえわからないということです。

私たちが他人の心の存在を認めているのは、言葉の表現の可能性の上にであって、
たとえば、他人の心ある振る舞いに、他人の心の存在を認めるのも、
私たちがすでに言葉を習得していて、心という概念を理解しているからではないでしょうか。

>>“そのような”意味での「生きる意味」もまた、世界や言葉のどこにも見つけられないと思います。
>>71に書いている通り、私は生きる意味は私が見出すしかないのではないか、と思っています。

わたしが世界のどこにも見つけられないと言っているのは、
相対化されえないものとしての「生きる意味」のことです。
“そのような”意味での「生きる意味」とは、“私の”意味での「生きる意味」であって、
“私の”という主観性は、相対化されえないものとしての主観性のことですので、
関係性を前提にしている“私たちの”世界や言葉の中には見つけられないということです。

普通には、あなたの意見に賛成です。


129 :考える名無しさん:2008/04/24(木) 02:32:17 0
>>126
>意識は精神の方に含まれるのではないかと思ってしまいます。

脳科学者は意識という脳の働きがあると考えているようです。

>「だれかに理解されてしまったなら主観ではなくなってしまうような主観」ではなく
>「だれかに理解されてしまったのを主観が認識したなら主観ではなくなってしまうような主観」
>ではないでしょうか。

だれかに理解されてしまったなら主観ではなくなってしまうような主観とは、
だれかに理解されてしまう可能性を承認することで主観ではなくなってしまうような主観です。

>真理については、現在過去において絶対的に正しいものとするなら
>それは人も認識できるのではないでしょうか。

わたしの真理についての考えは、>>53に書いてある通りです。
絶対的に正しいものとしての真理は、対を絶して正しいのですから、
正しいということすら認識できないのではないでしょうか。
比べるものが一切存在しないものを認識することはできるのでしょうか。









130 :考える名無しさん:2008/04/24(木) 02:34:12 0
>>126
>私から見るとあなたは現実をあるものとして扱い
>また、科学なども正しいと仮定しているように思えます。

すべては仮説にすぎませんので、絶対に正しいとか言いたいのではありません。


131 :考える名無しさん:2008/04/24(木) 05:46:04 O
今後の御健闘ご活躍を御祈りいたします

132 :ほうすけ:2008/04/24(木) 17:32:40 0
生きる意味?そんなこと人間以外の動物は何にも考えてない。
そんな動物と人間の違うところ、人間の特権はな、笑うことや。
笑いながら生きることに人間の意味があるんや。

133 :カオル ◆BBBRv/ousU :2008/04/25(金) 03:18:17 0
>>131

普段はカオルというHNで書き込んでいます。

「脳と意識(及び心の病)との関係」については、

離人症患者が哲学に触れようとするスレ 2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1161463854/
で引き続き、

「比類なき(相対化されることのない)私」については、

永井均と<独在性> 3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1197141069/
で引き続き、

それぞれ時間のあるときに、たまーに書き込むと思います。
よかったら覗いてくださいね。(^.^)

よい話し相手になれなくて(いつものことですが)すみませんでした。
それからお付き合いしてくれてありがとうございました。m(__)m


134 :考える名無しさん:2008/04/25(金) 13:24:42 0
>>1
少なくとも、他人をさげずむ事で自己を保とうとしても、そこに生きる意味なんてないよ。
そんな事しても満たされないし、それで満たされてるって感じるなら、そりゃ末期症状いってるよ。
「因果応報」ってやつもあるしね。

135 :考える名無しさん:2008/04/27(日) 21:36:36 0
意味への意志。
結局のところ、それに尽きるんじゃないのか?

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