2ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

カトリック神学は現代哲学にとって真に有効か?

1 :バプテスマのヨハネ:2009/10/03(土) 21:10:16 0
はじめまして、皆さん。

私は現在、大阪のあるカトリック教会の小教区で
奉仕職についている23歳の書店員です。
高校を卒業した頃から哲学に関心があり、主として
フッサール、レヴィナス、メルロ、デリダ、アンリなどの
現象学の系列に属する哲学者たちの本を買い、読んできました。

私の家族にカトリックのひとはおりません。
私が21歳の時に主体的に洗礼を受けようと望んだためです。

最近私はナンシーの『脱閉域』を読んだのですが、
そこには主として「キリスト教には未だ何かが到来していない」と
いった趣旨の主張がありました。
イタリアの哲学者にパレイソンという人がいますが、
彼は「現在、キリスト教に対して懐疑的であるキリスト者のみが
唯一現代的でありうる」という発言を残し、ナンシーも引用しています。

皆さんにとって、「カトリック」という2000年間の歴史を持つ宗教世界は、
哲学的に見てやはり「死んでいる」のでしょうか?
「神の死」を最初に主張したのは若き日のヘーゲルの学位論文であったと
記憶していますが、起源は更に古く、ユダヤ神秘主義まで遡ります。

実質的な現在の教会は、少子高齢化の影響もあり、若年層が出入りしていません。
いわゆる「若者の教会離れ」という現象が日本でも見られます。
そういう状況を毎週見ていて、私は「神の死」というより、
「神の痕跡化」というより深刻なものを感じています。

カトリックに対する私の不満、哲学への私の共感などを含め、
何か意見がありましたら是非お寄せ下さい。


2 :考える名無しさん:2009/10/03(土) 21:40:46 0
カトリックから入った人はそういう印象を持つのかも知れないけれど
逆にフッサールあたりの現象学から勉強をはじめると
ハイデガーにしても、フランスの現代の多くの哲学者にしても(上のリストにマリオンも加えるべき)
いかにカトリック的であるかということに驚きますよ

3 :考える名無しさん:2009/10/03(土) 21:43:49 0
キリスト教は偽善が多いから駄目だ。
キリスト教ってのはユダヤ人の王政主義者と下層民が担ぎ出したイエスと言う王になろうとした
偶像が、ローマ帝国が持っていた強烈な皇帝崇拝に移り変わったものだ。

キリスト教という反ローマ主義のユダヤ人民族運動が何故ローマ帝国にに根付いたのか?
俺はやっと分かった。
何もあのユダヤ下層民の開放運動がローマ帝国の属国民に広まったからとか、
ギリシャ人らローマ帝国の奴隷知識人に広まったからとかじゃない。

ローマ皇帝よりもキリスト教の方がはるかに権威主義だったからだ。

4 :考える名無しさん:2009/10/03(土) 21:47:45 0
キリスト教という病気を根絶することで人類は進歩するって欧米ではもうずーっと
言われてるだろう。

もうあんなものはいらんよ。2000年以上も居座ったんだからもう退場してくれというのが
欧米人の本音だよ。
キリスト教ってのは元はユダヤ人の思想なんだよ。白人にはあわん。
白人も本来は多神教なんだよ。

5 :考える名無しさん:2009/10/03(土) 23:34:25 0
>>1
キリスト教の歴史を勉強したら分かるけど
そもそもキリスト教内部での教義も
常に変わってきたでしょ

6 :考える名無しさん:2009/10/03(土) 23:42:09 0
1氏はカトリクの何処に惹かれたのですか?
なんらかの「呼びかけ」を聞き取って
「わたしはここにおります」
と答えた経験がおありなのかな、と思って。

私は哲学書読んでも聖書読んでも、そういった経験が
全くなくて、意気消沈することもしばしば。


7 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 00:00:59 0
1がカトリックって限定してるからあれだけど
一神教以外から存在論って発想は出てこないんじゃないかね

8 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 01:23:01 0
>>7
つ古代ギリシア

9 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 07:38:33 0
デデキント切断と同じで無意味なんだけどな
カトリックとかファッションでいいんですよ、俺は

10 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 09:31:16 0
>>8
古代ギリシャに今で言う意味での存在論なんてなかったっすよ

11 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 10:52:02 0
>>10
そこまでいうなら今で言う意味の哲学もなくね?

12 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 12:19:14 0
>>11
もちろんそれはそうだし
キリスト教の一神教的ドグマも当時のギリシャ哲学がなければ成立しなかったけれど
アリストテレスにはなかった超越範疇が主題化するには
中世から末期スコラにおける神学的な必要が大きかったんじゃない?

まあ本当はイスラムの影響も含めて
一神教と存在論の関係は考えないといけないんだけど

13 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 12:25:05 0
そう。イスラム無視しちゃいかんよな。
でも一神教と存在論の排他的な関連付けには反対だわ
東洋には「思想」しかないみたいな論になっちゃうんじゃないの?


14 :バプテスマのヨハネ:2009/10/04(日) 20:23:21 0
皆さん、短い期間でレスをしてくださり有難う。

私がカトリックに入ろうと思ったのは、啓示があったからではありません。
啓示があって入るというプロセスを、実は私は一度も生身のカトリックの方から
聞いたことがないんです。
以前、神体験(何らかの神秘的な体験)をされた婦人の話を直接聞きましたが、
彼女は自身の体験に、キリスト教的な意味の系列から意味賦与を行っている
だけだと思いました。
私は経験に「意味」を与えることで、「啓示」が捏造されのだという、
どこかニーチェ的な精神を持っています。
もともと、私はカトリック系の高校で学んでいました。
その時に読んでいたのがニーチェで、哲学への関心は彼が門となっています。

>ローマ皇帝よりもキリスト教の方がはるかに権威主義だったからだ。

権威主義的というより、神父ないしシスターの言説が一般信徒よりも重く
受け止められるということがあります。
カトリック教会には法王を頂点とするヒエラルキーが存在しているのですが、
声の階層性もこれと相似の関係にあります。






15 :バプテスマのヨハネ:2009/10/04(日) 20:24:00 0
(つづきです)

私もキリスト教史については、ル・ゴフなどの中世史などを読んで
学んできたつもりですが、現代のカトリックと原始キリスト教はまるで違います。
私が現代の日本カトリック教会に疑問を感じる点は二点あります。
一つは、

1、女性の祭司がなぜ存在しないか? 確かに聖書に女性の従属性を
暗示させるテクストは存在するが、明らかにフェミニズム神学の観点から
この点は大きな問題を孕んでいる。

2、なぜ若者が少なく、かつ、高齢化した老人たちが実質的な教会の「雰囲気」
を形成してしまっているのか? これによって教会によって雰囲気にバラつきが
出てしまい、一方は若者が出入りし易く、他方は出入りしにくいといった問題が
生じている。

上記が、まずもって私が即座に思い浮かぶ問題点です。
教会を変えればすむ話だ、という指摘は、信徒の地理的な制約なども考えると
どうしても楽観的な意見に過ぎないと思われます。

16 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 20:40:30 0
その前に、何故教会に籍を置く必要があるのだろうか。
秘蹟としての教会という信仰を持ってるの?

17 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 20:42:19 0
福音書に見られるような奇跡がまったくないのだから完全であるはずがない
今後も奇跡を見込めそうにないのなら他の宗教を求めた方がよいと思う
「正しい信仰には必ず神通力がある」
決めてはこれだけだよ

18 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 20:42:33 0
日本でのキリスト教信仰って
西洋の進んだ文化への憧れから入るっていうのが大きかったから
そういうものがほとんど無くなった今、若い信者が減るのは仕方ないと思うよ

19 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 20:58:57 0
>>15
女性司祭の問題だけど、

フェミニズム神学って、一つの解釈に過ぎないわけでしょ。
一方で、女性の従属性を示すテキストがあるわけだからね(「わたしは、女が男の上に立つことを許さない」=パウロ)。
十二使徒も男性で、カトリックは使徒継承が教義の要なんだから。

実際問題としては、カトリックには告白の制度があって、司祭が女性だと話しにくいということもある。
これは男性よりむしろ女性信徒の方が嫌がるんじゃないかな。

20 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 21:24:04 0
有名なユニア/ユニアス問題にしても最初期には女性の使徒もいたでしょ
カトリックの成立と共に完全に排除されていったと言う方が正しいと思うよ

21 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 21:32:04 0
パウロの手紙で言及されてるだけだからね。

決定的に重要な福音書の成立=カトリックによる排除というわけではないでしょ。
福音書そのものを相対化する視点は可能だけどね。

22 :考える名無しさん:2009/10/04(日) 21:33:46 0
19が典型的なアンチフェミ(しかも頭悪い)ってだけ

23 :考える名無しさん:2009/10/05(月) 01:18:17 0
カトリックの教会というとヒエラルキーが厳しそうだけど、どうなんですか?
あと外国人がくれば人不足は解消しそうに思うけどどうなんでしょう。
当方、カトリック哲学者(アウグスティヌス、トマスなど)に興味があって、
読んでいるけど、教会はハードルが高いなあと思っているものです。

24 :考える名無しさん:2009/10/05(月) 01:42:55 0
外国人がくれば、の意味が分からないけど
日本の場合カトリックも神父過多なんじゃないのかい?

25 :考える名無しさん:2009/10/05(月) 09:09:22 0
確かにカトリック教会は建物が壮麗なものが多いし、
要塞のようにも見えるから、とても入る気にならない。
神社みたいに出入り自由になってれば入りやすいのだが・・・。

聖書は寓意的解釈が好きだ。

26 :考える名無しさん:2009/10/05(月) 10:43:44 0
その辺は難しいよね
日本のは、ヨーロッパの教会みたいに文化的記念物として入れる感じのものでもないしね

27 :考える名無しさん:2009/10/05(月) 11:50:54 0
マリオンあたりの減少しないものの現象学
メルロ=ポンティにおける受肉や実体変化
どれもカトリックの影響モロモロですな

28 :考える名無しさん:2009/10/08(木) 02:08:13 0
この雨で一度日本は沈む
そこからハトポッポが新しい土地を見つける

29 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/08(木) 02:33:45 0
>>25
教会はミサやってるときでも、やってないときでも
勝手に入れるでしょ?
神社は勝手に拝殿には上れないよw

あと、勝手に入れるのっていったら深川不動かな。

30 :考える名無しさん :2009/10/08(木) 15:07:34 0
まったく…、ハトポッポが【友愛】なんて連呼するから【愛】という事に考えたというか考え中
考えすぎたら信愛まで脳内がおかされてしまった。
まぁ世の中色んな愛が存在するのは事実であって
そこに人それぞれ正義があって対立がうまれるのかと
自分が納得、満足する愛もつかめず無我夢中で日々過ごして迷走中です。
なので情けないけど生活の悩みは尽きない。

とりあえず、母ちゃんなので部屋掃除して晩飯作ります!




31 :考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:32:07 0
1さん、あるいは君か、は、私と似たような経過たどってるね。

同じく、高校時代から哲学に興味を持ち、大学に入って哲学では救いは
与えられないと悩み、結局カトリックに入ってしまった。22か23だったな。
 しかし、入ったものの、たしかに中高年が信者の大半をしめ、信仰を基にした
人付き合いというやつを期待したのだが、そういう輪にもなかなか恵まれず、
そうこうする内に、信者になってもなんにも状況がかわらないことに絶望する
ようになり、そこから、自分の入信が、現世利益(友達や結婚、仕事)をもと
めるこころからくる取引みたいなものだったんじゃないかと疑うようになり、
自己嫌悪に陥っていった。そんなときに、クリシュナムルティーの本に出会い
組織宗教という壮大な歴史的な虚像という視点が、獲得されていった。


32 :考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:35:30 0
>>31
>そんなときに、クリシュナムルティーの本に出会い
おいおいw

33 :考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:51:59 0
まあ、その後いろんな本を読んで、いかに頭でっかちだったかと
痛い反省を続けてゆくのだが、私の場合は、結局、浄土真宗に
落ち着いていった。28ぐらいだな。結局自分は、隣人愛など
できぬ、新約でも救われぬ、イエスについてゆけぬ悪人なのだと。
そして、その自覚を拾ってくれるのは、歎異抄だった。
カトリックとか、プロテスタントでもいいが、新約的な枠で
救われれば、それはそれでいいとおもう。自分の場合は、
どうもそうはいかなかった。

ジャン エラクルというフランスの修道士がカトリックへの懐疑
不満から、さまざまな徘徊を得て浄土真宗におちついていった本
というのを発見し、自分の軌跡が、そんな間違っておらんことに
勇気付けられた。「十字架からフンダリケ(仏教漢字)へ」という
本だ。砂漠に水がしみこむように読んだね。
金子大栄が岩波文庫版の歎異抄に「自然の教会」といった書き方
をしているところがある。そんなところに落ち着いている。

哲学については、懐疑的になっている。多くの現代哲学が科学の出来損
ないの言葉遊びに堕している部分がある。ピアジェが「哲学の知恵と幻想」
で批判している。あれは、現代に生まれた形而上学批判だろう。


34 :考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:02:02 0
お前は俺かと言いたくなるw

俺も、大学のときカトリックの洗礼受けた。
神学では、カトリックじゃないけど、カール・バルトなんかに入れ込んでた時期あったな。懐かしい。

その後、浄土真宗へ。今は、アドヴァイタに惹かれてる。
アドヴァイタが究極の教えではないかと思うこの頃。禅とも基本的に一致してるな。
キリスト教は、バルト的に言うと「キリスト論的集中」と歴史的啓示に最終の優位性を認め、他を否定してるけど、どうもね。
無理があるよ。

キリスト教も含めたの信仰的経験を認めるアドヴァイタが究極の教えではないかと思うこの頃。
禅とも基本的に一致してるしな。

35 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 00:12:29 0
2chの世界になると似た者もいるもんだ。驚いた。
でも、これは、ありうる経路なんだろう。自然の教会というやつだ。


洗礼を受けてしまったのちに、キリストから離れると離婚したような
後ろめたさがあるんだが、その葛藤を乗り越えてゆけるような何か
が醸成されるまで、待つ必要があった。

「最近私はナンシーの『脱閉域』を読んだのですが、
そこには主として「キリスト教には未だ何かが到来していない」と
いった趣旨の主張がありました。
イタリアの哲学者にパレイソンという人がいますが、
彼は「現在、キリスト教に対して懐疑的であるキリスト者のみが
唯一現代的でありうる」という発言を残し、ナンシーも引用しています。」

1もこういう道をあえて自分で歩みゆけるかどうかだな。
遠藤周作とか読むと、青臭くていけないが、だが、彼も、その問題を
抱えながら、深い河まで来ていたのだと思う。

36 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 00:55:56 0
あさってに珍しいラテン語・グレゴリオ聖歌での荘厳司教ミサが行われます。
お時間がある方はどうぞ。(未信者の方でも参加できます。ラテン語が左ページで右ページに日本語の対訳のあるけっこう厚い冊子がもらえるのでミサ式次第もわかりやすいです)
ただ、1000人近くが集まるのでお座りになられたい方は2時40分の30分前には会場に入ったほうがいいです。

入場料などはありません。
寄付金用茶封筒が入り口で配られて、ミサ中に寄付金の大きめの籠(もちろん透明じゃありませんよ)が回ってきてこの封筒を入れる仕組みですが、金銭に余裕がなかったら小銭程度でかまいません。



http://www.tim.hi-ho.ne.jp/catholic-act-d/Web/top.html
日時:  2009年10月10日(土) 午後3時(諸聖人の連願 2時40分 より)
場所: 東京カテドラル聖マリア大聖堂


37 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 01:12:51 0
東京カテドラル聖マリア大聖堂への交通案内です。

http://www.tokyo.catholic.jp/text/cathedral/map.htm

38 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 01:35:46 0
もともと遠いユダヤの連中の中の新派閥だったんだから
うちらの肌に合うわけないじゃん

39 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 10:01:02 0
クザーヌスの「神を観ることについて」を読むと
禅に似た印象を受ける。
神学自体はあまり受け入れられない。
「不当にも知識と呼ばれる反対論」にしか見えん。
もともとのキリスト教だってもっと神秘主義的だったはずなんだよね。
アクィナスが神学大全を著すのを放棄したのも神秘体験だったはずだし。
なんでガチガチの教理主義になったんだろう。
そのあとプロテスタントのガチガチの聖書原理主義まで登場しちゃうし。


40 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 14:32:51 0
神秘主義と言う言葉でどういうものを示すかと
もともとのキリスト教という言葉で何時の時期を示すかによるでござるが
イエスやユダヤ教イエス派が中世以降のキリスト教で言うような意味で
神秘主義的な傾向を持っていたかは微妙だと思うでござる

いずれにせよカトリック成立の中で、後世からみて神秘主義的と見えるような要素は
異端として排除されていく側にあったように思われるでござる

41 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 16:35:03 0
アウグスティヌスが好きだ。
すばらしい柔軟な 包 茎 力 ということです。
福音主義に割礼されたはなりません。

42 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 16:38:12 0
包茎オナニーを知る者に悪人はいません。
それは穢れを知らぬ天使のオナニーだからです。
半分女の子になったようなオナニーだからです。
知らぬ者こそ、極悪非道の予定調和な殺人鬼を編み出します。
大人になったらともかく、子供の頃は情操教育のために
殺人鬼ややくざにならないために
包茎オナニーをしなければなりません。

43 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 16:45:03 0

 

44 :バプテスマのヨハネ:2009/10/09(金) 20:58:37 0
皆さん、レス色々感謝しています。

私と似たプロセスを持っておられるとおっしゃっている方へ。

私は現在、シュタイナーの世界的に公認された団体への入会を
極めて漠然とですが、意識しています。
私自身も、やはりカトリック的なコミュニティで満足したかった。
けれど、高齢化は著しく、青年の集会にも人が集まりにくい状況です。

私が宗教において重視しているのは、「帰属意識」です。
ゆえに、カトリックであることが絶対的なのではありません。
重要なのは、企業であれ、ボランティアであれ、家族以外に明確な
「帰属意識」を持てる共同体の有無だと考えます。
私は、「同じことを信じる」ことの難しさを認めつつ、
それに向けて努力している共同体を家族だと考えています。

45 :バプテスマのヨハネ:2009/10/09(金) 21:04:46 0

宗教的な問題として共通しますが、私は「新宗教」を自ら創造できる人間に
対して何らかの憧憬を抱きます。
イエスも当時はユダヤ教ナザレ派という新しいセクトの一つだった。
ナンシーが『世界の創造』という本で、「意味」のセンスメーキングという
操作を提唱していました。
これはつまり、創造論を自分で構成することが複雑化した現代社会において
明確な視点を持つことに繋がるという彼の見解です。

新宗教を俯瞰すると、大多数がレディメイドの宗教的意味系列から
キメラ的、ないしモザイク状に意味を再構成することで生起しています。
新宗教は自分で創造できます。
ただ、宗教法人規定は最低でも3人なので、いずれにしてもメンバーが
必要だということに変わりません。
私は真理を自ら共有し、
カトリックの教えを重視したセクトを想定しています。

46 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 21:06:47 O
安倍貞任 安倍頼時

47 :考える名無しさん:2009/10/09(金) 23:57:03 0
最近はプロテスタント神学の方に興味が出てきた
ブルトマン、ティリッヒ、バルトが熱い

48 :考える名無しさん:2009/10/10(土) 00:49:09 0
>>44
シュタイナーか。世界宗教的な方向だよな。ルカ福音書と仏教の関係を書いたり
していた。

共同体が技術革新による資本主義経済によって、分断されてきたから、
それを希求する内的動きはどうしてもあろう。
「創価」学会、オウム真理教、あるいは、イスラム革命、イスラム原理主義など
まあ、副作用としての社会問題ばかりマスコミにはでるが、その生まれた
背景をしっかりみてゆく必要もあろう。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵と真理はイエス・キリストを通して
現われたからである」(ヨハネ福音書)ではなく、
「真理は道なき大地である」(クリシュナムルティ)
こういう認識から、個別性とともに、共同性はでてこんかな。
「ばらばらで一緒」というやつだ。本願寺派の標語だったか。
こういう地点から、物理学者のデビット ボームが、「対話」という
営みを勧めている。

まあ、オバマがノーベル平和賞をもらってよかったな。
大工の息子の気難しい頑固者イエスオヤジが生きていれば、大喜びだろう。


49 :考える名無しさん:2009/10/10(土) 11:29:04 0
>>42 欝オナニーともいうんですね。しりませんでした

50 :バプテスマのヨハネ:2009/10/10(土) 22:44:41 0
ご親切に返信ありがとうございます。

クリシュナムルティについて興味が沸いたので、また機会があれば個人的に
調べてみます。
大袈裟に「創造する」などと書きましたが、私も今は
カトリック+本でなんとかやっています。

哲学に救いはないという点で私と貴方は共通するのですね?
私は宗教については、キリスト教に対してしかアプローチしていません。
そのことをはっきりと意識できました。
世の中には色々な宗教体系があり、それぞれの救いを持っている。
だからこそ選択が必要なんですよね。

カトリックとして私は生きていきたい。
けれど、色々な問題があり、やはり別の宗教の救いを調べることが
必要な時期なのかもしれません。

また話しましょうね。

51 :考える名無しさん:2009/10/12(月) 23:03:56 0
ボームはクリシュナムルティと対話集出してるね。
シュレディンガーは、ヴェーダーンタを終生の信条とした。彼の思考と人生の基準だった。
ハイゼンベルクも自身の物理学の探求の歩みから、究極の真理と東洋的な思考法との親近性を想定してる。

52 :考える名無しさん:2009/10/13(火) 16:01:09 0
上江洲義秀師の光話「キリストのヨーガ」
http://www.youtube.com/watch?v=lHxQ6UxHkMA&feature=related

53 :考える名無しさん:2009/10/14(水) 00:43:50 0
>>50
救いに種類など無い、表現が違うだけ。

54 :考える名無しさん:2009/10/15(木) 17:55:47 0
私もカトリックを勉強したことがあります。
これでも無私無欲になって他者に仕える者が世の中には必要だなどと考えたこともある。
しかし信仰だけではもの足りなくて禅や瞑想の方に移っていきました。

東洋の修行者は無私無欲ではなくプライドや自意識の無い状態を目指します。

人間の苦しみは物事をありのままに直観できないことから生じている。
世界の実相と自らの存在を錯覚しているからこそ苦しんでいるのだ。
その直観を妨げているものは、分別、妄想といった誤った識別機能である。
誤った識別を超えて存在の実相を直観してはじめて人間は苦しみを超えられる。

東洋の聖者はそう説きます。その方法が禅や瞑想というわけです。
西田幾多郎は純粋経験という言い方を採っていました。
しかし面白いことにカトリックでもこの方法を説く聖者がおります。
    ニコラウス・クザーヌス「神を観ることについて」
    マイスター・エックハルト「エックハルト説教集」
    トマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」
神学者でも阿部仲麻呂神父が研究されてると思います。興味があればご覧下さい。

55 :NAS6 ◆aoxOJEA26M :2009/10/16(金) 09:46:09 0
>東洋の修行者は無私無欲ではなくプライドや自意識の無い状態を目指します。

統合失調症患者を目指すと

56 :考える名無しさん:2009/10/16(金) 10:01:21 0
どの宗教も自己(自我)を滅して死を乗り越えることを目指していることに違いはないと思います。
インド諸宗教では観照を行うでしょう。バラモン教も仏教も禅もヨーガなども。
ユダヤ教やキリスト教、イスラーム教でも同じだと思います。
神の目やイエスキリストを自己の上に添え、貫通観照させる。
神道でも御神体たる鏡で自己を観る。

そういう意味で安心してる。この観照以外は人を救えないし、
それをしない者は悪魔の軍門に下って勝手に自滅してゆく・・・。
なんだかんだ言って人類はみな同じ方向に進んでいくもんだあと思って安心してる。

57 :考える名無しさん:2009/10/16(金) 11:52:28 0
>>56
>それをしない者は悪魔の軍門に下って勝手に自滅してゆく・・・。


きめえ

58 :考える名無しさん:2009/10/16(金) 18:15:52 0
>神の目やイエスキリストを自己の上に添え、貫通観照させる。

いや、そういった形で神との通約可能性を基盤に据えるて
それを全宗教に共通と言いきるのって、極めて日本的な宗教観だと思うよ

確かにキリスト教の文脈でイエスへと自分を重ねるというのは
伝統としてそれなりにあるけれど、神の目に重ねるのは異端扱いになるでしょ
もちろん、異端扱いされながらも、ある種の神秘主義的な伝統としてあるんだけどね
正統ではないと思うよ

59 :考える名無しさん:2009/10/16(金) 18:16:00 0
>>53
救いに種類がないということを明言してるのが、アドバイタ・ヴェーダーンタだな。
禅も似ている。「本来の面目」だな。
すべてが明らかで、隠されているものは何もない。
ヴェーダーンタの用語で言えばブラーフマンであるところのアートマン。

マハルシの「お前は誰か」という探求は、禅の公案と言える。

60 :考える名無しさん:2009/10/16(金) 18:19:25 0
>>58
今の時代にキリスト教の「正統」に意味あるとも思えないけど。
バルトをもって終わり告げた。

61 :考える名無しさん:2009/10/16(金) 18:35:08 0
「それを全宗教に共通と言いきるのって、極めて日本的な宗教観だと思うよ」

日本だけじゃないよ。
日本の場合、宗教に対するある種の「いい加減さ」の延長でこういう発想が出てくるけど。
欧米の神学者でも宗教多元論を言い出す人が出てきてる。
古いところでは、W・ジェームスの「宗教的経験の諸相」なんかは、多元論に立脚してる。
ティリッヒなんかにもそういう傾向あるな。

62 :考える名無しさん:2009/10/16(金) 18:37:20 0
実際に何が正統とされてきたかという歴史の認識なしに
宗教の話を論じても仕方がないよ
少なくともキリスト教やイスラームの場合

何が正統か、何が異端かという論争が
それらの宗教を形作ってきたんだから

それらを無視して、自分勝手な解釈をするのであれば
別にそれはキリスト教である必要は全くない

少なくとも歴史的には>>56のような見方は
キリスト教の正統ではないでしょ
それは、それを認識した上で、自分がどうするかとは全く別問題

63 :NAS6 ◆aoxOJEA26M :2009/10/16(金) 19:43:25 0
>実際に何が正統とされてきたかという歴史の認識なしに

禁欲

64 :考える名無しさん:2009/10/16(金) 20:02:48 0
>>62
キリスト教ならば聖書の中にある歴史と
預言がどこまで成就されたかは重要だが、
正統異端論争などはどうでもよいことだよ。

65 :考える名無しさん:2009/10/16(金) 21:34:53 0
>>64
聖書の中にある歴史、と書いてしまう時点で
すでに、キリスト教の中のある一部の立場を取ってしまっているわけです

そもそも現在正典とされている新約の中でも
立場の違いや、資料の違いからさまざまな違いがあり
それらの違いをどう読むかという時点で、キリスト教内部での
解釈の伝統から自由になることはできません

66 :考える名無しさん:2009/10/17(土) 11:18:57 0
正統・異端なんていう二元論は宗教を学問に貶めることだよ。
一神教の連中はそこから脱出できてない。
多神教の方がよいとは言わない。
すべて「一」に還元されてるのに、それをまた真っ二つにするなんて馬鹿げてる。

67 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 00:36:06 0
>>65
どう読んでもいい。人に自分の解釈を押し付けてはいかんだけ。

68 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 00:39:24 0
なんて言っちゃうと、それは既にキリスト教じゃないね

69 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 00:43:30 0
自由意志があるじゃん。ってかここが宗教のすごいとこで。
科学教では決定論→生きる意味って?ってなっちゃってるじゃん

70 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 01:14:55 0
誰もが何をやってもいいというのは世俗化の結果出てきたのであって
宗教とは関係ない

71 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 01:20:45 0
>>54
冥想の方法が整備されてないってところが、
キリスト教の徹底的にダメダメなところであってね。
いちばん整備されているのがヨガだと思うけど、
こっちは哲学(あるいは神学)があまり整備されていないw
その点、バランスがいいのが仏教なのかなぁ、と。

>しかし面白いことにカトリックでもこの方法を説く聖者がおります。
>    ニコラウス・クザーヌス「神を観ることについて」
>    マイスター・エックハルト「エックハルト説教集」
>    トマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」
三人とも修道僧でしょう。
修道院の中のことは私も詳しく知らないけど、
ある程度、冥想の方法が確立されているような気もする。
ただ一般信徒には、その方法は明らかにされていないのでは?

72 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 01:36:12 0
>>71
聖書を読み祈る

73 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 01:42:36 0
>>72
もしかしたら、単純で、明快で、実践のし易い、役立つ形なのかもしれない。
対して仏教(或いはヨガ)系は、逆にハードルが高いのかもしれん・・・。
どちらが、より実のあるものかというと、仏教系の方が分が悪いかもしれんぞw
仏教系の行(或いは瞑想)は、「誰もができるもの」ではないかもしれないってこったw

74 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 01:43:55 0
>>72
うん。だから、
聖書を読み祈る際の「坐法」とか確立してないわけでしょ? w

75 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 01:49:39 0
>>74
だから、そこまで細かいことは不要かもしれんってことさw
だらけた姿勢でなく、きっちりと背筋に力の入った、真っ直ぐな上半身と、
無理なく下半身の安定がとれていればよいんじゃないかい?




(知らんけどwwwww)

76 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 01:52:05 0
>>73
座禅なんて誰もができるでしょう、とりあえず?
ハードルっていったら結跏趺坐ができるかとか、その程度のもの。
半跏だっていいんだしね。

77 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 01:53:35 0
手を組み膝をつく事多いが、まあ各人の身体の都合と場によりけりだな。
身体から入る方が好みならヨガやればいいと思うよ。

78 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 01:58:50 0
だから、初心者向けから高度なものまで「整備」されてるってこと。
キリスト教(とりわけプロテスタント)は、その点ダメなんだけど、
修道院の中は、ちょっと怪しいってことだ。

79 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 01:59:56 0
>>76
それは、「姿勢の面」だけのことだよ。(しかも、正座でも、腰掛けた状態でもいい。)
仏教系には、呼吸の仕方と、何を念じるか(→想起する対象をどう絞るか)、
或いは、想起という行為自体を沈める方向を採るか、結構ややこしいw


と、
>>78
そういうことか。 了解。

寝る。

80 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 02:09:23 0
>>78
それ分けると、高度な行が出来る者はより高みに行けるとか思っちゃうっしょ?

81 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 02:21:36 0
>>80
ヨガや密教では分かれているけど、禅は分けて考えないかも。
しかし、禅でも、「ちゃんと坐れましたか?
じゃあ、今度は呼吸に注意を向けましょう」
なんてことはあるでしょう。
それと、「俺はいま、高みにいるんだ!」なんて思い上がるな、
てなことも高度な方法の中に含まれると思うけど?

82 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 02:27:32 0
>>81
行くとこまで行った人は、そんな事思わないだろうけど、
そこまで行くには高度な行が必要、って思う人が出るっしょ?
教会は弱者イラッシャーイ。
迷子の子羊一匹も見捨てないよ派で。

83 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 02:35:04 0
>>82
高度なったって、とりあえずは坐って、
息を吸ったり吐いたりしてりゃあいいんだよ?
体を使うんだからスポーツと一緒で、
ある程度、慣れの差、レベルの差が出てきて当然。
「聖霊の宮」かなんか言っちゃって、その体の使い方も教えないで、
「弱者イラッシャーイ」で集めといて、それで? って話だよw

84 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 02:39:09 0
>>83
教会覗いてみ?
足の痛い年寄りとか半身不随とか精神的に不安定な人とか。
これはまだ、教会に来れる人で。

85 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 02:42:00 0
>>84
で? だから健常者も、礼拝の後で菓子食いながらくっちゃべってりゃ、
いいってか?

86 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 02:44:46 0
>>85
いいんだよ。

87 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 02:47:44 0
まあ、ちょっと難しい問題だね。
ヨガや仏教の冥想法にしたって、あれは出家者向けのものであって、
在家信者向けのものではないからね、もともと。

ちょっとゴメン。投稿規制だ。

88 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 02:54:46 0
簡単ってのが売りなんだけどなー。
うまく伝えられなかったようだ。

89 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 02:54:59 0
書けるか?

>>86
ほお? じゃあ、菓子食ってろw

90 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 11:16:37 0
カトリックの瞑想ってイエスを強くイメージしてその意識を全世界に広げていくやり方が
あったと思う。
邪念が起こったら、決めておいた聖書の語句を唱えて、再び瞑想する。
たしかに、キリスト教では瞑想は発展していない感が強い。
イスラームでも瞑想はある。イスラームの宗教指導者が眼を閉じて数珠(みたいなの?)を
手に持って瞑想してる姿を見たことがある。
回転舞踏とかは神秘主義になるが。
佛教はバランスがとれてるが、佛教の一番の難点は教義の面から
魅力を感じない人が多く、「人気がない」がないということだな。

91 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 11:47:29 0
シオランってカトリックだっけか?

92 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 11:51:37 0
キリスト教といっても色々あって
東方教会では瞑想技術もそれなりに技術化され発展してるよ
出家者向け(修道者向け)だけど

93 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 22:26:33 0
瞑想って手段で。
キリスト教ではそれが祈りで。

94 ::2009/10/19(月) 22:42:03 0
卵の中身は宇宙

95 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 22:48:19 0
瞑想は手段であって、目的ではないと思う。

真我の自覚=本来の面目に目覚めることに比べれば、瞑想は単なる予備段階、児戯に等しいものだろう・・・・と多分思う。

マハルシや臨済の境地に至りたいものだが。

96 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 23:06:27 0
>>93
祈りは祈り。瞑想ではない。

>>95
>マハルシや臨済の境地に至りたいものだが。
手段が必要だろうね。

97 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 23:14:59 0
>>96
目的は一緒。表現が違うだけ

98 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/19(月) 23:18:32 0
>>97
表現だけが違うわけじゃないよ。
たとえ目的が一緒だとしても、坐法や呼吸法が整備されていない。

99 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 23:25:21 0
祈りと瞑想は別物。
祈りの果てと瞑想の果てが一緒。
坐法や呼吸法は手段の一つ、必須ではないのだよ。

100 :考える名無しさん:2009/10/19(月) 23:35:05 0
ageの人はレトリックだけで内容が全くない。

101 :考える名無しさん:2009/10/20(火) 00:07:47 0
悪かったw
93だけでいいよ

102 :考える名無しさん:2009/10/20(火) 01:14:44 0
ヨガは知らないけど、カトリックには黙想や観想があるよ。ロザリオなんかが一般信徒向けで有名だよね。
手段である黙想の手段として、日本では禅を取り入れることもあるみたい。

でも瞑想で得られる何かが目的なのであって、呼吸法や座り方含めた瞑想が目的ではないよね。
それにカトリックでは、得られる何かは能動的に得るんではなくて、神から与えられるって考え。
だから当然、呼吸法などの瞑想の技術はあまり重要視されないんだよ。


103 :考える名無しさん:2009/10/20(火) 08:46:05 0
仏教でも浄土門なんか阿弥陀如来の他力本願だぞよ。
阿弥陀様から与えられるんだよ。
救えるのは神のみ。救えるのは阿弥陀如来のみ。
仏教全般もそうだが、有為の奥山今日超えて、
神か仏か何らかに与えられる。
カトリックだと瞑想というかロヨラの「霊操」という感じがする。

104 :心の仕組みドットネット:2009/10/20(火) 17:52:57 0

バプテスマのヨハネさん、少し宜しいでしょうか。
どの宗教でも、宗教の教義では道理を多く説きますね。
道理とは物事のそうあるべきすじみち、人の行うべき正しい道ですが、この道理を他人に説いたり習い覚えたり聞き覚えたりしては成らないのです。
道理とは己の心から導きだすもので、他人や書物から習い覚えた道理は脳の中の記憶に応用の効かないものとして収められてしまうのです。
その作用を利用して、宗教は人をロボット化し成り立っているのです。

105 :考える名無しさん:2009/10/20(火) 18:58:15 O
だったら、おまえも他人に説くな。

106 :心の仕組みドットネット:2009/10/21(水) 00:25:18 0

>>105
私は道理を説いているのではなく、世の真実を伝えているのです。

107 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/21(水) 00:33:19 0
>>102
>それにカトリックでは、得られる何かは能動的に得るんではなくて、神から与えられるって考え。
>だから当然、呼吸法などの瞑想の技術はあまり重要視されないんだよ。
そういった教義のおかげで、「瞑想の技術が未発達である」と
解釈しておく。

>手段である黙想の手段として、日本では禅を取り入れることもあるみたい。
これはいいね。プロテスタントには期待できない良さだ。

108 :考える名無しさん:2009/10/21(水) 00:37:07 0
でも、西洋人の考える黙想と禅って、ぜんぜん違うよね。

禅というのは究極の自覚でしょ。
廓然無聖というのは、西洋人の考える神秘主義と対極にあるような気がするんだが。

109 :やみ:2009/10/21(水) 00:39:59 0
全員に本当のこといってわびろ。それからするべきことして

110 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/21(水) 00:42:57 0
>>108
それは「禅」と「西洋人の黙想」と、両方やってみなくちゃ
わからないよね。

111 :考える名無しさん:2009/10/21(水) 00:52:43 0
僕は、西洋人じゃないけどw、昔カトリックだった。

アビラのテレサとか、十字架のヨハネとか、瞑想(カトリックでは念祷とかいってたけど)の系譜あるよね。馴染めなかったな。
それで、一種の行き詰まりを感じて、禅やアドヴァイタへ向いていったんだけど。

あの違い。何と言ったらいいのか、もどかしいが。
一種の実体思考が根底にあって、そこへ(存在へ)進んでゆくと言う感じ。
それに違和感を感じ続けてた。

112 :考える名無しさん:2009/10/21(水) 01:31:32 0
>>108
メディテイションの意味が広すぎるわな。

113 :考える名無しさん:2009/10/24(土) 22:34:18 0
俺も22で洗礼受けたよ。神学大全読むと、いいよ。後、絶版だが、神愛論、
キリストに倣いて、信仰と理性、無名の順巡者、かな。

114 :111:2009/10/25(日) 00:38:50 0
>>112
たしかに広すぎるんだが、どちらかと言うと、西洋人の方が禅を一種の神秘的な瞑想と誤解してるような感じがする。

115 :考える名無しさん:2009/10/25(日) 03:30:05 0
瞑想も意味が広いからわかり合う事は難しいだろう。

瞑想=心を鎮める行為、修行等。
瞑想の目的や結果=無我の境地、神を知る、悟る、叡智、俺の知らない何かへの到達。
みたいな感じで分けたらいいのに。

116 :考える名無しさん:2009/10/25(日) 18:51:56 O
座禅は、どんな修行も、思考も、祈りも安楽になりたい、人より上位に立ちたいという煩悩からはなれられないことを理解したあとに、自然に行き着いた姿じゃないかな
俺はそんな気持ちで座っている。
釈迦も苦行への諦めから、座るようになったんだろ。

そこで見えた世界が空だ
別に東洋的感性の世界観ではなくて、西洋哲学も、ハイデガーなんかが同じところへ行き着いている



117 :Hannibal ◆WZVtcR4.5X/g :2009/10/25(日) 22:57:01 0
私も、
>>96
>手段が必要だろうね。
と書いてしまったけど、どうも「瞑想の目的は…」とか、
「瞑想は手段であって…」とかいう表現にひっかかりがあるな。
悟るために(悟るのを目的として)座禅をするのではない、
と、道元も言っているだろ?

118 ::2009/10/25(日) 22:59:26 O
連絡

119 :考える名無しさん:2009/10/25(日) 23:09:12 O
>>1
>「キリスト教には未だ何かが到来していない」と
>いった趣旨の主張がありました。

オレオレ

120 ::2009/10/25(日) 23:09:43 O
プロテスタントの反抗の精神はルターとカルヴァンに分かれているが若干ルターのほうが怪しい。カルヴァニズムのほうが当然厳格だ。日本の律宗よりもカトリシズムを日本人は懇願すべきだ。

121 ::2009/10/25(日) 23:16:13 O
ちなみにキリスト教といえば日本ではキリシタンだが俺と縁のある日蓮宗の枝葉日蓮正宗には今耳がないということで打ち止めくさいな。全員への嫌がらせではない。

122 :考える名無しさん:2009/10/26(月) 03:06:50 0
>>116-117
その静かで無欲な気持ちは座って得た物(結果)じゃないか?
最初は心を鎮めたい、思い悩みから解放されたい、何か答えが欲しい、
何らかのきっかけや動機があった人が多いと思うんだが。釈迦も含めて。

123 :考える名無しさん:2009/10/26(月) 17:52:19 O
パウロの創世記解釈の歪みを除去しない神学は大なり小なり
グノーシス主義になるだろうな。

124 :考える名無しさん:2009/10/26(月) 18:00:42 O
マルキオンがパウロの影響下から出てきたのは当を得たことだ。

エルサレムで成立したて考えられるマルコ書と、編纂は後代に下る
だろうマタイ書との間の「聖母」マリアや、ユダヤ人たちの
位置付けの微妙な変化は興味深い問題だな。

125 :考える名無しさん:2009/10/26(月) 18:02:09 O
俺はもう教会キリスト教には興味が失せたよ。

126 :考える名無しさん:2009/10/26(月) 18:49:30 O
アメリカがキリスト教国でそれにぶら下がってたら仲間入りだてか
抜かしやがるバカは地獄に失せたら良い。

127 :考える名無しさん:2009/10/26(月) 18:50:59 O
クリスチャンだから俺のトモダチだ?
ナメてやがる。

128 :守護天使:2009/11/18(水) 23:11:36 0
保守

129 :考える名無しさん:2009/11/19(木) 00:09:07 O
毛唐は神を捨て希望を取った。

我々は騙された。

130 :考える名無しさん:2009/11/19(木) 00:11:58 O
永遠を忘れ、鼻面に下げられたニンジンを取ったと言うべきか。

131 ::2009/11/19(木) 17:21:19 0
土屋がキリスト教に至るのは明白だが


132 :考える名無しさん:2009/12/24(木) 22:20:40 O
カトリックっと聞くと虐殺、死体、肉片のイメージしか無いなぁw

133 :考える名無しさん:2010/03/19(金) 19:26:08 0
キリスト教はおわった。
耶蘇基督は終わらない。

42 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.02.02 2014/06/23 Mango Mangüé ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)