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弁証法って…

1 :考える名無しさん:2010/06/25(金) 09:54:21 0
野球をするかサッカーをするかでケンカしてたら結局キックベースをすることになったってこと?

2 :考える名無しさん:2010/06/25(金) 10:05:06 0
それは妥協だろ!

3 :考える名無しさん:2010/06/25(金) 16:22:45 0
人間は2項対立的にしか考えられないことが多いから、
必然的に弁証法が正しい、と思うのかねえ。

4 :考える名無しさん:2010/06/25(金) 19:01:35 0
二元論の解消が真理である。

5 :考える名無しさん:2010/06/30(水) 10:06:22 0
弁証法って誰でも思いつくような単純な思いつきなのに
学問的に何であんなに高待遇で扱われてるのかわからん。
「二つの反する事物を合わせて、新しい事物が生まれる」
くらいの事、鬼の首とったみたいに言わなくても俺でも知ってたぞ。

6 :二酉:2010/06/30(水) 17:17:33 O
ピカソの展覧会行くと、必ず「こんなの俺にも描けるww」って言う奴いるよね(・∀・)

7 :考える名無しさん:2010/07/01(木) 06:10:46 0
>>6
それはただの強がりです

8 :考える名無しさん:2010/07/01(木) 11:05:23 O
弁証法ってサッカー日本代表で例えれば守備はまぁまぁだが決定力不足で負けた
組織力はあるが個の力が弱いという問題があったとすると、組織力や守備力という長所を温存しつつ、攻撃力や個の力を伸ばす事で全く別のチームに生まれ変わるということだろう
以前の日本代表の良い所がが保存されつつも
問題点が改善されている訳である
非弁証法的な考えというのは駄目だったから「さらに守備力や団結力を徹底させよう」や「守備や組織は駄目だやっぱり攻撃や個人主体のチームに変えよう」という考えで
これを突き進めると「やっぱり守備や組織も大事だった」という失敗を繰り返す事になる
岡田監督は「同じ場所に煉瓦を積み上げても限界がある」という例えで弁証法的な考え方を説明している。
中々どうしてただ者ではない


9 :考える名無しさん:2010/07/02(金) 19:19:54 0
>>1>>5
弁証法の画期的なところは、「矛盾」の存在を認めたこと。
いわゆる「排中律」の否定。

昔のデジタルな数学や論理学では、中間のものなんかなかった。
すべてはデジタルであり、1であり1でないものなんかなかった。三角であり、三角でないものなんかなかった。
それは矛盾であり、存在してはいけないもの、存在しないものとされていた。

静的な論理学ではそうなんだよ。
だから、「飛んでる矢は止まっている」という矛盾が生まれた。

そこでヘーゲルは、「矛盾」の存在を認めてしまった。つまり運動と言うものを認めた。
運動すると言うことは、ここにいると同時にここにいないということでもなる。
中間のものを認めてしまった。

世界はデジタルではなくアナログだと認めてしまった。

運動を認めることによって始めて人間は、4次元的な思考ができるようになった。
時代的変化を容認できるようになった。
歴史段階論を構築できるようになった。
歴史哲学をつくることができるようになったんだ。

世界は諸事情の集合体ではなく、諸過程の集合体だと考えることができるようになった。

ある意味数学では取り扱えないものを、弁証法で説明できるようになった。
究極の論理学である数学(デジタル)から、哲学を独立させたといえると思う。

まあ、弁証法の発想そのものはシンプルなんだけど、それだけにそれ以前のデジタル的な数学的
思考が大きな壁として存在してたんだよ。

10 :考える名無しさん:2010/07/04(日) 01:02:46 0
なるほどね

11 :考える名無しさん:2010/07/06(火) 00:14:40 P
>>9
>運動を認めることによって始めて人間は、4次元的な思考ができるようになった。
>時代的変化を容認できるようになった。
>歴史段階論を構築できるようになった。
>歴史哲学をつくることができるようになったんだ。

ギリシア・ローマ時代やルネサンス期にも歴史哲学はあったんじゃないの?
あとアラビアの知識人にも。

12 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 20:54:40 0
>>11
もちろん、あったことはあったんだけど、万物流転とか諸行無常とか政体循環史観とかは
あくまでもただの変化や流れを示すものでしかなかった。

蓄積として、近代化として、不可逆な方向として歴史が運動していると考えたのは、ヘーゲルが
初めてだったんじゃないの。
まあ、オリジナルはさかのぼろうと思ったらいくらでもさかのぼれるからなんともいえんけど。

ヘーゲルは、キリスト教神学を哲学として完成させたものだから、キリスト教的な歴史観が下地になってる
といえばそうなんだよ。
失楽園から神の再臨に至る進歩史観。

数学的な静的な思考法を脱しつつ、キリスト教的な歴史観を哲学として完成させたところに意義があるんでしょ。

13 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 20:57:49 0
「蓄積として、近代化として、不可逆な方向として歴史が運動していると考え」る
ことと弁証法と、何の関係があるんだ?

14 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 21:26:41 0
弁証法は、上げる、捨てる、保存するの3つの要素からなってるから。

ヘーゲルは保存するもの、蓄積するものがあるからこそ、歴史は連続性があると考えた。

保存の考えは、ブッダの諸行無常にはない考え。
保存され続けるものがあるということは、それは「永遠」であると言うことだから。

ブッダはどうしても「永遠」という概念を受け入れられなかった。
永遠なものなどないというのが、諸行無常の核心だから。

でも、ヘーゲルは弁証法によって永遠なものが存在することを指摘した。
弁証法はブッダ批判でもある。

15 :考える名無しさん:2010/07/18(日) 17:16:40 P
かしこいな

16 :やみつき:2010/07/18(日) 17:44:23 O
滝の水蓼

17 :考える名無しさん:2010/07/18(日) 19:26:41 O
あきたんのみゃあみゃあカンビール

18 :考える名無しさん:2010/07/20(火) 11:31:49 P
誰もブッダのことなんか聞いていないのだが

19 :やみつき:2010/07/20(火) 16:16:49 O
ヤスパース

20 :考える名無しさん:2010/07/23(金) 18:15:00 0
OFW氏による弁証法説明な。

弁証法とは何かを一言で言うならば、私も「事物を生成・変化・発展の相で見る認識態度」と言うのが
最も分かり易い言い方だとは思いますが、これには少し補足的な説明が必要です。

第1に、上記の「生成・変化・発展の相」とは矛盾した言い方だという事です。
相(位相、形相、観点、見方)とは一定の固定した局面を表わしますから、生成そのものに対立し、
認識者はあくまで事物の外にある事になる。それは生成に対して外的な認識という事です。
しかしそれは不可避的でしょう。およそ認識とは対象を何らかの「存在」として立て(弁証法では措定と呼びます)
なければ何も理解できないからです。しかし生成と存在は対立する以上、対象の認識はそれ自体が運動に
ならざるを得ないと言う事が上記の言明には含まれています。


21 :考える名無しさん:2010/07/23(金) 18:17:08 0
続きだす。
第2に、上記の定義ではヘーゲルが弁証法的な契機が顕在化すると言った「反照する本質」の領域が抜けている
という点です。
ヘーゲル論理’学は第1部存在論、第2部本質論、第3部概念論という構成であり、それぞれ存在(実在)は
生成・変化し、本質は反照し、事柄としての概念は発展すると言われている。本質の領域での対象の
運動は反照(Reflection)です。
そしてその領域こそ、通常の論理学も位置している科学的世界の領域です。
本質とは対象の矛盾が現象する領域なのです。

22 :考える名無しさん:2010/07/23(金) 18:23:44 0
さらにOFW氏のコピペな。
前のスレで、「弁証法とは事物を生成・変化・発展の相で見る見方」と書きましたが、実は弁証法の力である「反照的(反省
的)(Reflective)」認識という事を(敢えて)抜かしました。そこで、少し解説したいと思います。



23 :考える名無しさん:2010/07/23(金) 18:24:46 0
かまわずにOFW氏のヤツだす。
「存在と生成」という対立は古来からあり、「何が存在するのか」という問いはギリシャ哲学の最初の難問だったようです。(哲学
者とは変なことを疑問に思う人種です)
しかし同時に、誰でも、すべて存在するものは発生、変化、消滅を免れないということも知っている。両者はどう折り合いがつく
のか?哲学者はその折り合いを「概念」として定着させた訳です。
つまり「事物は変化するが、事物の認識は概念として表現されれば概念は変化しない」ということです。
そのことは、概念とは事物の運動を反映したもの、つまり事物の運動形式が表現されているということです。たとえば、「在るとは在らぬこと」という矛盾した言い方はまさに「実在」の概念を展開した表現です。
それは実在の本質を「他在」として表現している。実在とはむしろ「本質をもたない」「本質の外にある」ものだということです。こ
う言うと、「何をバカげたことを言う詭弁家め!」と言われるでしょう。「『在るもの』は在るに決まっている。」というのが、通常の
理解ですから。
しかし、「何が『或るもの』なのか?」と問い、
「これが『在るもの』だ」と答えた場合、
「これ」とは目の前にある何らかの実在者でしょうが、それは変化してしまうから、「これって何?」と問い直した途端に、それは
別物でしょう。正確には「在った」と過去形で言うべきだが、それは「もはや無い」と同義ですから、「在る」と確定的には言えなく
なる。
ここで言い表されている事態は、観念(表象)は変化する実在者を「変化しないもの」として立てる(措定と呼びます)のであ
り、実在を否定しなければ、それを言い表すこともできない、ということです。
「変化のうちに変化しないものを見る(表象する)」、このことは、動物を含めて、誰もが毎日行っていることでしょう。何故、その
ことをヘーゲルのように真面目に考えないのでしょう?そのことは、「変化は自らの否定の内にそれ自体を現す(反映させる)」
という単純な事実を言っているのだから、少しも分かりにくいとは思えないのですが…。


24 :考える名無しさん:2010/07/23(金) 18:27:22 0
「存在と生成」という対立は古来からあり、「何が存在するのか」という問いはギリシャ哲学の最初の難問だったようです。(哲学
者とは変なことを疑問に思う人種です)
しかし同時に、誰でも、すべて存在するものは発生、変化、消滅を免れないということも知っている。両者はどう折り合いがつく
のか?哲学者はその折り合いを「概念」として定着させた訳です。
つまり「事物は変化するが、事物の認識は概念として表現されれば概念は変化しない」ということです。
そのことは、概念とは事物の運動を反映したもの、つまり事物の運動形式が表現されているということです。たとえば、「在るとは在らぬこと」という矛盾した言い方はまさに「実在」の概念を展開した表現です。
それは実在の本質を「他在」として表現している。実在とはむしろ「本質をもたない」「本質の外にある」ものだということです。こ
う言うと、「何をバカげたことを言う詭弁家め!」と言われるでしょう。「『在るもの』は在るに決まっている。」というのが、通常の
理解ですから。
しかし、「何が『或るもの』なのか?」と問い、
「これが『在るもの』だ」と答えた場合、
「これ」とは目の前にある何らかの実在者でしょうが、それは変化してしまうから、「これって何?」と問い直した途端に、それは
別物でしょう。正確には「在った」と過去形で言うべきだが、それは「もはや無い」と同義ですから、「在る」と確定的には言えなく
なる。
ここで言い表されている事態は、観念(表象)は変化する実在者を「変化しないもの」として立てる(措定と呼びます)のであ
り、実在を否定しなければ、それを言い表すこともできない、ということです。
「変化のうちに変化しないものを見る(表象する)」、このことは、動物を含めて、誰もが毎日行っていることでしょう。何故、その
ことをヘーゲルのように真面目に考えないのでしょう?そのことは、「変化は自らの否定の内にそれ自体を現す(反映させる)」
という単純な事実を言っているのだから、少しも分かりにくいとは思えないのですが…。


25 :考える名無しさん:2010/07/25(日) 13:15:10 0
うッひゃー、急にむずかしくなりやがんの。
レベルを元に下げろーい。

26 :考える名無しさん:2010/07/30(金) 08:51:32 0
OFWさんの書き込みはポエムだから気にするなよw

27 :考える名無しさん:2010/07/31(土) 01:23:13 0
弁証法って釈迦を止揚してんの?
根っからの仏教徒のおれが弁証法を学習とは、とんだピエロだな!

28 :考える名無しさん:2010/07/31(土) 07:09:46 0
>>27
釈迦を止揚してるというか、正確に言えば、時間的なスタンスが違うんだよ。

数兆年とか言うSF的な時間軸ならブッダのほうが正しい。
宇宙が生成を繰り返し、もはや物理法則すら変わっていく時間軸だから。

でも人類史的な時間軸ならヘーゲルが正しいと思う。
数千年程度なら保存され続けるものがある。

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