【Parthia】中世ペルシア諸王朝史【Sasan】
- 1 :ホスロー・アノーシルワーン王:05/01/10 20:25:09
- アレクサンドロス大王の死からイスラームの台頭まで、
イラン高原に興亡した諸国諸王の歴史を自由に語ってください。
アルサケス朝パルティア、サーサーン朝ペルシアの歴史を中心としつつも、
セレウコス朝、バクトリア、エフタル、ローマなどの話題も
ペルシア史と関係する限りにおいて可とします。
姉妹スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1079357659/
アケメネス朝ペルシャ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1033482388/
イル汗国崩壊〜サファヴィー朝成立期のイラン
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1088521961/
イラン近現代史
- 2 :世界@名無史さん:05/01/10 20:56:44
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┃>>1のなまえをいれてください┃
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. ┏━━なまえ━━┓
. ┃ きちがい .┃
. ┃  ̄ ̄ ̄ ̄ .┃
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┃あ い う え お は ひ ふ へ ほ .┃
┃か き く け .こ ま み む め も ┃
┃さ し す せ そ や ゆ .よ ┃
┃た ち つ て と ら .り る .れ ろ ┃
┃な に ぬ ね の .わ を ん ┃
┃っ .ゃ .ゅ ょ ゙ ゚ もどる.l>おわり.┃
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- 3 :世界@名無史さん:05/01/10 20:57:28
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┃ ギコアン モラネコ ヒキフト しぃニャ ┃┏━━━━┓
┃ HP:192. .HP:186 .HP:148 .HP:123 .┃┃ アヒャアヒャ ┃
┃ MP:. 0 MP:.. 0 MP: 69 MP: .83 .┃┃ しようぜ ┃
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ミ ゜∀゜ ̄彡./\
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.〆 //.||.\/.||\\
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┃|>たたかう ..┃.┃あぼーんナイトがあらわれた! . .┃
┃ さくせん ..┃.┃ .┃
┃ いれかえ .┃.┃ .┃
┃ にげる ....┃.┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
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- 4 :世界@名無史さん:05/01/10 20:58:01
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- 5 :世界@名無史さん:05/01/10 20:58:50
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│あ、どうもスイマセン、>>1がお騒がせしました・・・
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/⌒\ っ /\
/'⌒'ヽ \ っ/\ |
(●.●) )/ |: | すぐ連れて逝きますんで・・・
>冊/ ./ |: /
/⌒ ミミ \ 〆
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|√7ミ |::| ト、 |
|:/ V_ハ |
/| i | ∧|∧
и .i N /⌒ ヽ) >>1
λヘ、| i .NV | | |
V\W ( 、 ∪
|| |
∪∪
- 6 :世界@名無史さん:05/01/10 20:59:29
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ある日ひとりぼっちの>>1に
手紙が届きますた・・・
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/ 氏 ね / / /
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- 7 :世界@名無史さん:05/01/10 21:04:27
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- 8 :ホスロー・アノーシルワーン王:05/01/10 21:12:35
- アルサケス朝パルティア歴代国王
http://nekhet.ddo.jp/ruler/greek/parthia.html
サーサーン朝ペルシア歴代国王
http://nekhet.ddo.jp/ruler/roman/sasan-persia.html
- 9 :ホスロー・アノーシルワーン王:05/01/10 21:19:26
- パルティア史
ttp://oak.zero.ad.jp/~zae06141/iranhistory36.html
ササン朝史
ttp://oak.zero.ad.jp/~zae06141/iranhistory23.html
かなり充実したサイトです。なお、いちおう直リンは避けておきます。hを加えてください。
- 10 :ホスロー・アノーシルワーン王:05/01/10 21:22:37
- 関連スレ追加
アレクサンドロス大王について
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1000375105/
- 11 :世界@名無史さん:05/01/10 21:35:19
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- 12 :ホスロー不死霊王:05/01/10 21:36:19
- 誰も来ないので(人気が無いんですかね)ネタ振りもかねてカキコ。
ホスロー・アノーシルワーンとは、東はエフタルを討ち西はビザンツと戦い、
サーサーン朝の全盛期を築いたホスロー1世のこと。
アノーシルワーンは「不滅の魂を持つ」という意味で、不死霊王とも訳されます。
アノーシルワーンでは長すぎるので、以後名前をホスロー不死霊王に変える事にします。
- 13 :世界@名無史さん:05/01/10 21:39:00
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- 14 :世界@名無史さん:05/01/10 21:39:32
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- 15 :世界@名無史さん:05/01/10 21:40:03
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- 16 :世界@名無史さん:05/01/10 21:42:02
- ホスロー1世っていうと突厥と結んでエフタルを討ったとか。
- 17 :世界@名無史さん:05/01/10 21:43:37
- 自演乙。
- 18 :世界@名無史さん:05/01/10 21:43:49
- クシャン朝とかも関係してきたんだったかな?
- 19 :ユスティニアヌス大帝:05/01/10 21:47:00
- 我が偉大なるローマ帝国のスレがないのに
ホスローめのスレが先にたつとは何としたことじゃ!
- 20 :世界@名無史さん:05/01/10 22:00:37
- イラン史ではササン朝って中世なの?
- 21 :ホスロー不死霊王:05/01/11 00:19:48
- >>16
そうですね。詳しいことは知らないのでアレですが・・・orz
>>18
パルティア時代に東部の有力諸侯とクシャナ朝の間にいろいろ複雑な関係があったりしたようです。
>>19
ローマ・ビザンツ帝国スレも探しましたが、無いみたいですね。
ご自分で建ててみてはいかがです?
>>20
時代区分にはいろいろ議論はありますが、アレクサンドロスからイスラームまでを
西アジア史における中世として位置づける説は結構有力だったと記憶しています。
宮崎市定なんかもこの立場ですね。
- 22 :カルトフュラクス:05/01/11 00:24:06
- 敵国ではあったけれども、存続してくれてればなぁ、と何度思ったことか。
そうすれば、ビザンツが慢心してぽしゃる事もなく、
お互い対等なライバルとして繁栄できたのではないか、と。
- 23 :ホスロー不死霊王:05/01/11 00:26:24
- イスラームの台頭は実に急激でしたからね。
ヘラクレイオス大帝には同情します。
そしてササン朝は僅か一撃で崩壊・・・
- 24 :世界@名無史さん:05/01/11 00:31:55
- シャープール一世早死にし過ぎだよ!
せめてバハラームが長生きしてくれれば、オフルミズドみたいな糞が帝位につくこともなかったのに。
- 25 :世界@名無史さん:05/01/11 02:02:58
- ペルシア史に関して軽く舐めた程度の知識しかないんですけど、ちょっと疑問なのが
いわゆるパルティア人とペルシア人の違い。パルティアの歴史に関しての記述自体が
凄く少ないのだけど、たまに扱っている文章で「パルティアは当初ヘレニズム的で、
ギリシア文化を愛好したが、後期にはイラン土着の文化を復興していった」みたいな
文章が大抵登場する。
パルティア人ってのはいったい全体ペルシア人とはどう違ったんでしょう?
- 26 :世界@名無史さん:05/01/11 04:22:44
- パルティアはダーラヤワウ1世のビーソトゥーン碑文にParthavaと出てくるけど、
かつてのメディア地方の東方、だいたい現在のイランの東北部あたりを指していたらしい。
メディア地方の南方、現在のパールス州発祥とされるハカーマニシュ朝のペルシア帝国やサーサーン朝とは、出自の場所が違っている。
さらにパルティア人はスキタイのような遊牧勢力だったらしく、
初期には宮廷を定住向きの都市や宮殿のような形をとらなかったらしい。
ハカーマニシュ朝もサーサーン朝も自ら「アルヤ」であるという民族的なアイデンティティーがあり、
自分たちの言語で自らの権威を主張することがあったが、
パルティアはあまりそういった民族的意識がむしろ希薄。
5代目くらいのミフルダート1世がメソポタミアに進出してギリシア系の諸都市を掌握したとき、
自らの貨幣にギリシア語で「大王」ΒΑΣΙΛΕΥΣ ΜΕΓΑΣなどと刻ませ、
のちのパルティア諸王も「ギリシア親好者」ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣ」などと刻ませるのが普通だった。
>サーサーン朝は自分の貨幣には、アラム文字系のパフラヴィー文字で
「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」と刻ませている。
- 27 :世界@名無史さん:05/01/11 11:52:07
-
パルティア Parthia
西アジアの古代王国。今日のイランとアフガニスタンにあたる地域を支配した。
中国名は安息。スキタイ系の民族で、メディア人の衣服をまとい、アーリヤ人
の言葉をはなした。すぐれた騎馬民族で、弓の名手でもあった。戦いにおいて
は、しばしば馬でにげるふりをして、ふりむきざま敵に矢をはなった。これが
英語の「パルティアン・ショット(すてぜりふ)」の語源となった。
パルティアはアッシリア、メディア、ペルシャ、アレクサンドロス大王のマケ
ドニア、セレウコス朝にあいついで服従した。しかし、前250年ごろ王国とし
て独立し、前1世紀には東西はユーフラテス川からインダス川、南北はオクソ
ス川(現アムダリヤ川)からインド洋にいたる大帝国となった。おもな都市はセ
レウキアとクテシフォンである。前1世紀の中ごろからはローマとの戦闘がく
りかえされ、後224年に、ササン朝の創始者アルダシール1世に征服された。
(C) 1993-2003 Microsoft Corporation. All rights reserved.
- 28 :世界@名無史さん:05/01/11 11:54:27
-
ササン朝 ササンちょう Sasanids
イラン南部よりおこり、226〜651年に西アジアを支配したペルシャの王朝。
226年にアルダシール1世が、パルティアをほろぼして建国した。首都はクテシ
フォン。ササン朝は、ゾロアスター教を国教とし、教典「アベスター」が編集
された。
第2代の王シャープール1世(在位240〜270頃)は、対ローマ戦において優位を占
め、ローマの軍人皇帝ウァレリアヌス(在位253〜260)を捕虜とした。その後サ
サン朝は、第21代の王ホスロー1世(在位531〜579)の治世時に最盛期をむかえ、
ユスティニアヌス時代のビザンティン帝国と抗争し、また東方ではエフタルを
ほろぼした。しかし、彼の死後しだいに国力がおとろえ、642年、ニハーワン
ドの戦でイスラム軍に完敗、651年にほろんだ。
ササン朝は東西の文化交流に大きな役割をはたした。その伝統美術はササン朝
美術とよばれ、ヘレニズム様式など周辺の諸様式をとりいれたものであった。
とくに銀器、ガラス器などが有名で、シルクロードをとおって日本にも流入し
た。
(C) 1993-2003 Microsoft Corporation. All rights reserved.
- 29 :世界@名無史さん:05/01/11 13:34:16
- パルティアを興したのは遊牧イラン人のパルニ族とされているけど、
この遊牧イラン人っていうのは今で言うバクティアーリー族みたいな感じだったんでしょうか。
それはさておき、アルデシール1世萌え。
「圧制は無秩序にはるかに勝る。されど真に善きものは善政なり」
この言葉は今のイラクみたいだね。
- 30 :29:05/01/11 13:41:30
- >>27
えっ、スキタイ系の民族・・・??
- 31 :世界@名無史さん:05/01/11 13:49:09
- http://nekhet.ddo.jp/people/roman/sasan.html#bolan
↑ボーラーンとアーザルメードゥフト。
ササン朝は女帝が許容されたんですか?
- 32 :世界@名無史さん:05/01/11 13:51:55
- >>30
一般向けの百科事典ソフト(Microsoftエンカルタ2004)から引用したのです。
情報源としては、あまり専門的ではないかも知れません。
ちなみに、同ソフトでのスキタイの項目も引用しておきます。
スキタイ Skythai
カルパティア山脈からドン川にいたる黒海北方の草原地帯に前8〜前7世紀ごろ
出現し、前6〜前3世紀に活躍した騎馬遊牧民族。スキタイとは古代ギリシャ人
がつけた名である。精悍な彼らは、西アジアに侵入してアッシリア帝国をゆる
がせたり、アケメネス朝ペルシャをくるしめた。動物意匠に特色のある美術工
芸を生みだし、前4世紀にもっともさかえたが、前3世紀にサルマート族が侵入
してきておとろえ、その後この地域はサルマティアとよばれるようになった。
(C) 1993-2003 Microsoft Corporation. All rights reserved.
- 33 :世界@名無史さん:05/01/11 14:19:43
- >>31のリンク先でホスロー2世パルヴィーズの妻がシーリーンとなっているけど、
これと詩人ニザーミーの叙事詩『ホスローとシーリーン』に関係はあるのでしょうか?
『ホスローとシーリーン』はどの程度史実を反映しているのでしょうか?
読んだ人がいることを前提に質問してみる。
- 34 :世界@名無史さん:05/01/11 19:31:18
- 古代オリエント事典 (岩波書店)
日本オリエント学会 編
■体裁=菊判・上製・函入・1020頁
■定価 29,400円(本体 28,000円 + 税5%)(在庫僅少)
■2004年12月10日
■ISBN4-00-080301-8 C3522
文明の揺籃の地である古代オリエントに関する日本人による世界で初の総合的事典.
今年創立50周年を迎えた日本オリエント学会が総力を挙げて編集.
環境・言語・宗教などテーマ別で概説する総論の部と,小中項目2000項目余の事典の部からなる.
先史時代からサーサーン朝までを対象とし,古代オリエント世界全域をカヴァーする.
- 35 :世界@名無史さん:05/01/11 20:16:10
- アルダシール=アルタクセルクセス
- 36 :世界@名無史さん:05/01/11 22:14:25
- 「シャーハンシャー」を名乗ったのってアケメネス朝とササン朝の君主だけなんだな。
まあ、ほかに約一名居るけど。
- 37 :世界@名無史さん:05/01/11 22:31:30
- ブワイフ(ブーヤ)朝のアドゥドゥッダウラもシャーハーンシャーと称しただろ。
- 38 :世界@名無史さん:05/01/11 23:41:30
- モウベド・モウベダーンであるキルディール。
- 39 :世界@名無史さん:05/01/12 00:47:58
- どっかのスレに何日か前に、
「アケメネス朝」「ウマイヤ朝」「アッバース朝」「イル汗国からサファヴィー朝初期」、
「近代イラン」スレはあるのに、他の時代はないので、誰か総合イランスレを立ててください(スレ立て権が現在ないので)、と書いたものです。
正直言うと、「パルティア・ササン」は資料もないし、書籍もあまり出てないわで、スレをして成り立たないかと思います。
「イラン史スレ」なら、その中で扱うことはできたかもしれませんがね。>>1 には悪いけど、直ぐにスレ落ちしそう。
- 40 :世界@名無史さん:05/01/12 00:57:31
- イヤミな香具師だ。
- 41 :oak.zero.ad.jp:05/01/12 01:21:09
- >>9 で紹介されているHPを作成している者です。>>1さんの自作自演だと思われてしまうことを避けるために、
このスレだけハンドルをつけます。
>>39 の意見ですが、実は私も同じ意見です。以前「異端研究所」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1292/
というササン朝のサイトを立ち上げられた方がおられましたが、あまりにアクセスが少ないので、しばらくして
掲示板を閉鎖し、いまでは上記リンク先の、製作途中で止めてしまったサイトが放置されている状況です。
私のサイトも、学生がレポートを作成する場合や、ローマ史を読んでいて、たまに敵国の状況を知りたいと思い立った方の
辞書代わりにでも使っていただければいい、ぐらいに思ってHPアップしているだけで、基本的には個人的な調査結果を記載する、
個人の備忘録のような感覚でいます。
思うに、パルティアとササン朝は、以下の理由で関心が低くなってしまっているものと思います。
・資料や遺跡が無さ過ぎる
・イラン革命後、あまりイスラム期以前の歴史学に力を入れなくなった。
例えば現代イラン映画では、家の中では本来女性はベールをつけなくてもいいのに、映画の中では、
「家庭内の場面」でもベールをつけている。こういう状況では歴史映画をとることは難しいでしょう。
・同様にイラン革命後、西側国家(日本含む)とやりとりがなくなったので、歴史研究も進まず、同時にそれら諸国の関心も低まった。
というところではないのかと思います。
- 42 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/12 01:26:03
- >>36
パルティアの君主も、途中からシャー・ヒン・シャーを名乗っていたと思います。意味的には
ギリシャ語のバシレウス・バシレオンと同じなので、単に言葉がイラン化しただけ、ということのようです。
>>33
「ホスローとシーリーン」は読みましたが、史実となると、どうなのでしょうね。
アル・タバリーのササン朝の歴史の翻訳も掲載しているのですが、実はホスロー2世の項目は読んでいないのです。
「ホスローとシーリーン」を読んでしまったので、なんとなく、いいや〜 と思ってしまって。。。
あとホスロー2世は、ササン朝崩壊の原因になった人なので、あまり好きになれない、という点もあります。。。
- 43 :ホスロー不死霊王:05/01/12 10:04:53
- >>41
お初に。
勝手にリンクしてしまいまして、まことに申し訳ありませんm(_ _)m
後でメール連絡しておこうと思っていたのですが、ここにお出でくださるとは光栄です。
トップページでなくてすみません・・・m(_ _)m
>>39
ま、とりあえず建てて進行してみないとわかりませんし。
他にはどんな時代があるでしょうね?
アッバース以後モンゴル以前か、サファヴィー以後カージャール成立以前か、メディア以前か・・・
駄目だったら自然消滅ということで。
- 44 :ホスロー不死霊王:05/01/12 10:07:00
- アル○ラーン戦記あたりのおかげで若干関心のある方はいらっしゃるかと。
しかしあらかじめ言っておくと、ここでアンチ田中vs非アンチ田中の議論をやるのは
スレ違い。厳禁です。
- 45 :世界@名無史さん:05/01/12 15:03:10
- マズダク教age
- 46 :世界@名無史さん:05/01/12 18:39:53
- >>41
何かに特化した世界史系サイトなんて、6hitが普通だと思うけどな。
ちょっと気負いきだ。
- 47 :世界@名無史さん:05/01/12 20:47:31
- ねぇ、ねぇ、中国の史書でなんでパルティアを「安息」って言うの?
アンティオキアとはもちろん関係ないんだよね?
- 48 :世界@名無史さん:05/01/12 21:34:24
- パルティアの最初の王をアルシャク arshak- といい、
ギリシア語だとアルサケース ΑΡΣΑΚΗΣとなり、漢語に音写したものが「安息」。
初代アルシャク以来パルティアの王は代々アルシャク姓 ΑΡΣΑΚΟΥを名乗ったので
漢籍ではパルティアのことを「安息」と呼んだ。
ちなみにサーサーン朝は「薩珊」。
- 49 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/13 03:49:21
- >>47
なんでも、中国に入ってきたペルシャ語は、ファールス地方(パルティアの本拠地である西北イランではなく、
ペルシャ人の本拠地南西イラン)の言葉だとか。このペルシャ語が当時の中国人には、n/rの発音の置換が起ってしま
っていたとのことです。なので、arshk->anskとなったとか。n/r置換は、他の単語にも見られるそうなので、
中国人がペルシャ語を聞くと、自然にそうなっていたのかも
ところで、現代中国人は、パルティアのことを、「アシュク」、パルティア人のことを、「アシュカニアン」と読んでいます。
こちらの方が「安息」に近いように感じられてしまいすよね。
>>48さん
こんにちは。「サーサーン朝は「薩珊」」というのは初めて知りました。出展(中国史書名)などを教えていただけますでしょうか。
- 50 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/13 03:56:14
- アル○ラーン戦記は読んだことはないのですが、関連掲示板を読んだことがあります。
かなり、ササン朝に攻め込んだ突厥の兵力とかを算出していたりして、面白かったです。
アル○ラーン戦記は中世的なイメージであるかと思うのですが、私はパルティア時代について、中世的イメージを持っています。
その中世的の定義とは、「各城主が各地に割拠」「でも「皇帝」みたいな、権威だけある人もいる」「吟遊詩人」が各地の宮廷を旅して回る、などの点なのですが、
パルティア時代にはこうしたイメージを感じています。ササン朝となると、少し違うのですが。。。
- 51 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/13 04:35:17
- >>49
自己レス。アシュク、と言っているのは中国人ではなくて、現地のイラン人でした。
- 52 :世界@名無史さん:05/01/13 11:38:53
- >>26にParthava(梵語風の響きだ、同系の言語だけある)についての説明が
あるけど、ParthiaってのもGraeciと同じようなローマからの呼称なんだよ
ね?自身の自称は何だったの?
- 53 :世界@名無史さん:05/01/13 11:49:29
- >Parthava
碑文はパルタウと訳されていたような・・・
>自称
遊牧イラン人の「パルニ族」っていうのは違うのかな?
不明、という可能性もあると思われ
エロイ人ではないのでよく分からなくてスマソ
- 54 :世界@名無史さん:05/01/13 21:24:22
- アルスラーンのモデルって具体的に誰なんでしょ?
パルヴィーズってことは無いよな?
- 55 :世界@名無史さん:05/01/13 21:34:48
- セルジュクトルコのアルスラーンとか言ってみる
- 56 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/14 00:06:05
- >>52
パルティアの中国表記は、番兜/樸桃 で pantooh となり、n/r の置換をすると、
partohとなる。つまり、Parthava = パルタワ になる可能性があるように思えます。
- 57 :世界@名無史さん:05/01/14 01:41:17
- >>52
ダーラヤワウ1世のペルセポリス碑文の朝貢国リストにのる「パルティア」を指す単語は
p-r-θ-v:と書かれています。v音を表す古代ペルシア文字はvとviしかなく、
実際に古代ペルシア語でParθav「a」と発音していたかはわかりません。
>リストの国名はだいたいは主格なので、仮名表記の場合穏当に「パルサワ」とか「パルタワ」と書かれているようです。
同じリストにのっているソグドの場合、s-u-gu-d:(Suguda)と書かれていますが、
他の古代ペルシア文字のdiやduではなくてdで終わっています。
元々母音の-aで終わる単語末にaの字を添えて終わっています。
例えばスキタイのs-k-a:(Sakā)やギリシアのy-u-n-a:(Yaunā)、ペルシアのp-a-r-s-a:(Pārsā)などが。
ただ、奪格や具格も(-ā)をつくるので、ここでの(-ā)は「〜人」ほどの意味だろうと言われています。
- 58 :世界@名無史さん:05/01/14 01:44:08
- バビロニア語関係の資料をあたらないと固有名詞の主格が-aで終わるという根拠は引き出せませんが、
現在の古代ペルシア語研究では格変化や統語論上の問題で不都合がある、という話を聞かないので、
論文などで書かれている書法をそのまま用いて、Parθavaと表記しても問題ないと思います。
(古代語や言語学のことはあまり知らないのでスミマセン(汗
>中世ペルシア語である「パフラヴィー語(パフラヴィーグ)」という言葉がありますが、
この「パフラヴィーグ」という言葉自体は「パルティアの」という意味のパルティア語で、パルティア人の自称であると、
故足利惇氏博士が述べていた記憶が・・・
>>49
その足利惇氏著作集で、博士がサーサーン朝のことを「薩珊」と書いているのですが、
この表記がどこの資料に記載されている物なのかまでは、一通り文章を読み返しましたが、述べられていませんでした。
うpしたのは少々勇み足だったかも(汗
- 59 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/15 01:53:06
- ササン朝時代の1ドラクマって、何が買えたのかご存知な人っています?
>>58
なるほど。ありがとうございました。
- 60 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/16 00:25:58
- フィルダウシーの「シャーナーメ」アマゾンで買いました。
そしたらとんでもないことに。
18、966円という高額に、1冊で収まっている話だと思っていました。
しかし、今日届いた本を見たら、「第3巻」とあり、岩波から翻訳が出ているカイヤニー朝のところ。
欲しかったのはササン朝のところなので、がっかり。とりあえず返品することにして、第8巻と第9巻をアマゾンに登録しました。
出版社のメルアドがわからないので(ググレばたどり着けるかもしれないが)、第何巻から
ササン朝なのかわからないので、とりあえず最後の2巻だけ買って見て、必要なら遡っていけばいいかな、と。
- 61 :世界@名無史さん:05/01/16 00:58:39
- 日記は自分のサイトでやれ。
- 62 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/16 02:51:11
- >>61
一応情報提供のつもりで書いたつもりなんだが。
日記調が駄目というなら、書き方を変えよう。
フィルダウシーの「シャーナーメ」、ササン朝の部分の完訳(英語or日本語)
書籍、紹介してくれ。注文するから。
- 63 :世界@名無史さん:05/01/16 19:50:28
- 自分でペルシア語勉強したほうが早いんじゃね?
英語読めるんだったら、ペルシア語も読めるようになるだろ。
- 64 :世界@名無史さん:05/01/17 04:06:34
- シャーナーメの訳本となるとM.J.モール版が良いそうだけど
最近出たサーサーン朝までカバーした刊本ってどんなのがあったろう?
>ペルシア語原本や訳本
- 65 :世界@名無史さん:05/01/18 01:32:54 0
- >>61みたいな糞は相手にしなくていい。
- 66 :世界@名無史さん:05/01/19 07:01:20 0
- なんか、スレタイに偽りありって感じなのだが、、、
- 67 :世界@名無史さん:05/01/20 21:39:04 0
- じゃあスレタイとかに少しでも関係した話題を(w
スレ主の名前、フスラウ・アノーシャグ=ルワーン H/Xusrau Anōšag-ruwān が
中世ペルシア語で a(n)-ōšag が「不死の、不滅の、永久の」+ ruwān が「(霊)魂」なのは有名だが、
もちろん「フスラウ」にも意味はちゃんとある。
Husraw は「名声、良い評判」の意味で husrawīh という名詞・形容詞もあるが、
近世・現代ペルシア語でいうところの、خوشروxoš-rū 。
xoš (良い)+ rū (顔、面)の意味で、「快活な顔の、にこにこした、美しい、美貌の」というくらい言葉になる。
つまり「フスラウ」とは早い話今でいうイケメn(ry
- 68 :ホスロー不死霊王:05/01/20 23:10:51 0
- >>67さん
勉強になりました。ありがとうございます。
そういえばインドのアショーカ王なんかも「喜ばしき顔をしたる者」なんて
自称していたような・・・(関係ないかorz)
後のニザーミーあたら、それこそ『ホスローとシーリーン』なんかだと
ホスローが「キスラー」と表記されているのをよく目にしますが
これは中世ペルシア語と近世ペルシア語の違いなどによるのでしょうか?
詳しい方がいらっしゃいましたら教えていただけるでしょうか。
- 69 :ホスロー不死霊王:05/01/20 23:14:15 0
- あ、すみません・・・せっかく67さんがササン朝の話を振ってくださったのに
ニザーミーが出てきたら意味がなくなってしまうか・・・駄目スレ主だorz
- 70 :世界@名無史さん:05/01/22 04:06:58 0
- >>68
レスどもです。
> そういえばインドのアショーカ王なんかも「喜ばしき顔をしたる者」なんて
自称していたような・・・(関係ないかorz)
王者の徳目(美徳というか賞賛の辞句か(w)の一つに顔の見目良さもあったと思うので、
むしろインド・イラン的な文化の共通性の一例を見るようで興味深いかと(w
>ドイツかフランスの王にも「美顔王」みたいな人物がいたような〜
كسرىKisrā 「キスラー」とはコーランおよびブハーリーなどのハディース集等以下アラビア語文献で述べられている、イスラ−ム勃興時のサーサーン朝の皇帝のことです。
(文字の綴り自体は ksry ですが最後の -y はアリフ・マクスーラとよばれる特別な読みをする-y なので音価は -ā になります)
この「キスラー」こそが、ニザーミーの『ホスローとシーリーン』の主人公ホスロー・パルヴィーズその人のことだとされています。
祖父のアヌーシルワーンのことという見方もあったりしますが、
パルヴィーズの没年西暦628年=ヒジュラ暦6/7年で、632年に没した預言者ムハンマドとは同時代人です。
- 71 :世界@名無史さん:05/01/22 04:08:55 0
- 有名な逸話に、預言者ムハンマドが東ローマ帝国、アレクサンドリア総主教およびサーサーン朝皇帝にイスラーム教化の親書を発した時、
「ペルシア王は手紙をバラバラに引き裂き、これを聞いた神の使徒ムハンマドは、『ペルシア人こそずたずたに引き裂かれてしまえ』と彼らを呪った」
というものがあります。
アラビア語のksrという言葉は「減少、損失」などの意味のある単語なので、 xsr とも hsr ともつづらず文字通り「呪った」感じ綴りなのかも知れません(w
タバリーを見ていないのでアレですが(汗 タバリーがパルヴィーズを何と言ってるのか興味あります(w
ニザーミーなどペルシア語文献では勿論 خسرو Xostou ですね。
ニザーミー始め当時のイスラームの知識人たちのはやくから一般常識として、
アラビア語文献の「キスラー」=「ホスロー・パルヴィーズ」と認識していたので、
アラビア語風の言い回しで「キスラー」と言っていると思います。
ちなみにパフラヴィー文字の綴りだと hwslwb|となります。
(パフラヴィー文字では'(alef)の文字は',h,xの区別が出来ず、
rとl音はlの文字に統一、最後の b 文字はおそらくw音ないしv音の強調とされています)
- 72 :世界@名無史さん:05/01/22 04:29:28 0
- >>68
勿論ニザーミー『五部作(ハムゼ)』の一つ『ホスローとシーリーン』はまったくのロマンス文学作品ですので(w
タバリーの『諸使徒と諸王の歴史』やイブン・ハルドゥーン、ラシードゥッディーンの『集史』とは性質が全然違う、
ということが分かっていれば十分かと(^^
いわゆる「アレクサンダー・ロマンス」も、アレクサンドロス大王の事績が
どのように後世の人々に受容されていたのか考える上で貴重な資料となるので、
スレの趣旨の大枠にはそんなに外れていないとみて大丈夫なんじゃないでしょうか(^^
>サーサーン朝については同時代史料が伝存するものを含めてほとんど絶無に近いことですし(汗
- 73 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/23 01:57:21 0
- >>33
遅すぎると思いますが、アル・タバリーの歴史(9世紀)とアルメニア人セベオス(7世紀)の
ホスロー2世の部分をざっと見て見ました。タバリーでは殆ど触れられておらず、セベオスの方では、
敬虔なキリスト教徒で、王宮に修道院を作って、司祭を移住させ、(国庫から)給料を出していたそうです。
宮廷で、ゾロアスター司祭を前に福音を説き、彼女の死までに、多くのゾロアスター教徒が改宗し、その死のとき
改宗者たちの多くが殉教したとのことです。
タバリーは3世紀も後の話とはいえ、割に信頼性が高いとされ、アルメニア人歴史家の場合、同時代であっても、
宗教的政治意図が入っていたりして、なにかと扱いが難しいそうですが、ロマンスの話はどうなのでしょうね。
そもそも資料豊富な古代ローマであってもあまり史書にロマンスの話は登場しないですよね。
なので、火の無いところにとも言いますので、なんらかのホスローとシーリーンのロマンスが民間で語り継がれていたのかも。
(でも修道院というイメージからすると、ニーザーミーの話とは、やはりだいぶ乖離がある感じがしますね)
- 74 :世界@名無史さん:05/01/24 18:37:28 0
- >>71
× Xostou
○ Xosrou
ですな。肝心なところで打ち間違えるとは・・・(鬱
- 75 :世界@名無史さん:05/01/24 20:35:26 0
- >>68
アショーカ王っていえば、アレクサンドロス死後の
セレウコス勝利王とチャンドラグプタ月護王の戦いと和平とかの話も
このスレ的にはOKなのかな?
セレウコス朝とマウリヤ朝の関係なんか、何気に面白そうな気ガス。
- 76 :世界@名無史さん:05/01/27 21:31:22 0
- 胡姫貌花の如し 春風に笑い 羅衣もて舞う
李白の詩の一節
- 77 :世界@名無史さん:05/01/27 21:34:01 0
- >>76
いわゆる胡姫の中にはササン朝滅亡で亡命してきた貴族の娘の
深窓の美姫たちとかも含まれているんだろうか・・・ハアハア
- 78 :OAK.ZERO.AD.JP:05/01/27 23:49:40 0
- 胡姫かどうかは知りませんが、中国の史書に(旧新唐書どちらかか)最後の貴族の姫が
870年頃に死んだ(ちょっと年代あやふや)、という記載があるそうです。旧新唐書の波斯国伝にはなかったので、別の個所だと思うのですが。
- 79 :世界@名無史さん:05/01/28 13:29:38 0
- マズダク教あげ
- 80 :世界@名無史さん:05/01/29 13:58:30 0
- ササン朝宗教模様
ゾロアスター教
正統派
ズルワーン派
アフリーマン派
マズダク派
ミスラ教
マニ教
マンダ教
キリスト教アッシリア教会
仏教
メソポタミアの古代神崇拝
- 81 :世界@名無史さん:05/01/29 14:11:56 0
- /⌒ ̄ ̄ ̄⌒\
/ ( ゚?д?゚ )y─┛ ̄ ̄
(_ ノγ U ∩_∩) このスレは好評のうちに ┌───────┐
α___J _J 終了いたしました (|● ● |
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ /.| ┌▽▽▽▽┐ |
/ ● ● >>1の自作自演に ( ┤ | | |
|Y Y \ お付き合い頂き \. └△△△△┘ \
| | | ▼ | ありがとうございました | \あ\ |\ \
| \/ _人| ∧∧∩゛ ∧_∧ | \り\ | (_)
| _/)/)/( ゚Д゚)/ (´∀` ) __ n \が\. |
\ / 〔/\〕 U / ∩∩ ( )o/ \ ヽ \と\ |
| | | c(*・_・) | |ヽ(´ー`)ノ_| | | (__丿 |. /\ \う | (-_-)
(__)_) UUUU /∪∪ (___)(_(__) ⊆_ ヽ_┘ └──┘(∩∩)
- 82 :世界@名無史さん:05/01/29 19:57:21 0
- ageると普通に荒れるので極力sage進行でお願いしたい。(汗
取りあえずサーサーン朝関係の話をひとつ。
東ローマ帝国の史書によると、
ディザブロスDizabulos/Silzabulosこと西突厥可汗・室點蜜の時代、エフタル討滅後
かつてエフタル支配下にあったソグド人たちが、サーサーン朝との絹交易のめディザブロス可汗に使節派遣の許可を願い出た。
この願いは許可され、マニアク Maniach を使節長とするソグド人使節団が派遣された。
当時サーサーン朝はホスロー・アノーシルワーンの時代だった。――東ローマ側ではΧοσωεsと呼ばれている――
ソグド人使節はホスローにサーサーン朝領内の絹の自由貿易の許可を要請したが、
ホスローはこれを快く思わず(突厥による経済的侵攻とみたのだろうか)、使節に回答を先延ばしにして放置した。
使節側の請願が日に日にに強まったため、ホスローは市会(廷臣一同?)を招集して諮問した。サーサーン朝側のエフタル人廷臣カトゥルフォスなる人物がホスローにこのように忠告した。
絹の自由交易を承認せず、その絹を買い占めて値を騰貴させ、しかるのち使節の前でそれらを焼き捨てて、
サーサーン朝皇帝はトルコの絹を少しも必要としていない、というふうに示してはどうかという物だった。
結局その提案通り絹は焼却され、使節団は事態に不満を覚えながらも故国へ帰国しディザブロスに結末を報告した。
しかしディザブロスはなおも友好関係を結ぶべく二度目の使節を派遣した。
ところが・・・
- 83 :世界@名無史さん:05/01/29 21:55:26 0
- >>75
いんじゃないの。
ちゃんと
>アレクサンドロス大王の死から
>セレウコス朝、バクトリア、エフタル、ローマなどの話題も
>ペルシア史と関係する限りにおいて可とします。
って書いてあるし。
- 84 :世界@名無史さん:05/01/30 00:10:39 0
- マンダって轟天号に倒されたんじゃなかった?
- 85 :世界@名無史さん:05/01/30 02:34:48 0
- 最初から気になっていたんだが、何故にこのスレアラシの標的になるのだろう?
アッバース朝とか、バグダードの円城とかウマイヤ朝、アケメネス朝スレはまともなのに。。。
不思議不思議
- 86 :世界@名無史さん:05/01/30 04:32:06 0
- 外国語板のほうのペルシア語スレが粘着アラシ常駐状態でひどかったけど、
「ペルシア」って単語に反応してるのかね?
- 87 :世界@名無史さん:05/01/30 12:37:13 0
- >>82
> Χοσωεs
ビザンツ期の発音で「ほそーえす」みたいな感じでつか?
- 88 :世界@名無史さん:05/01/30 21:55:04 0
- >>87
全くもって申し訳ない!
×Χοσωεs
○Χοσρωεs
の間違いでした。orz
- 89 :世界@名無史さん:05/01/31 22:35:29 0
- >>83
セレウコスの娘がビンドゥサーラ(チャンドラグプタの子、アショーカの父)に嫁いだんだね?
- 90 :世界@名無史さん:05/02/02 22:51:32 0
- 需要があるか知らねども>>82の続きをば。
エフタル勢力をともに討伐したサーサーン朝との間にソグド人を仲立ちにして
修好関係を結ぼうと使節を派遣した西突厥のディザブロス/シルジブロスこと室點蜜(イステミ)可汗。
ところがサーサーン朝のホスロー・アノーシャグルワーンは、マニアクを長とするソグド人使節団をけんもほろろに追い返してしまう。
それでも室點蜜可汗はサーサーン朝との修好関係を結ぶべく再度使節を派遣することにした。
ところが皇帝ホスローは、全ての大臣たちと使節に応対を提案したエフタル人廷臣カトゥルフォスに、
到着した使節団の処遇についてこのように言ったという。
すべてのスキタイ人は信頼できないから、トルコと友好関係を結ぶことはペルシアにとって
全く不利益である、と。
そしてさらにこれに付け加え、以後再び彼らがやってこないように使節の若干名を毒を盛って殺すように命じたという。
こうして西突厥の第二次使節団は食事に毒を盛られて3、4人を残して毒殺されてしまった。
この謀殺劇の間、サーサーン朝では使節が死亡したことについて情報操作が行われていた。
曰く、使節は寒冷な北方から来たため酷暑と乾燥の厳しいペルシアの気候のせいで死んだのだ、
時折雪の降るような国の生まれのかれらは寒冷な故国以外に生きられないのだ、という噂が巷に流布されたのである。
ところがどういう意図か、使節の生き残りも同じような話を故国に帰ってペルシア人と同じ噂を故国で広めていった。
しかし慧眼抜け目ない室點蜜可汗は、噂が捏造された物で使節が謀殺されたことを見抜いていた。
これがエフタルをともに滅ぼしたサーサーン朝と(西)突厥が敵対関係になった由来である、
と東ローマの歴史家メナンドロスは述べている。
- 91 :世界@名無史さん:05/02/03 09:40:18 0
- >>90
いや、面白く読んでますよ。
イステミ・カガンやホスローには前から興味はあったものの
ほとんど何も知らなかったので興味深いです。
- 92 :世界@名無史さん:05/02/03 15:07:29 0
- っていうか、新書でまとめて知識を身につけたいと思う
おすすめきぼーん
- 93 :世界@名無史さん:05/02/03 20:36:36 0
- >>80
ネストリウス派は?
それにしてもまったくこの時期の西アジアってのは
まさに諸宗教のるつぼだね。混沌たるものだ。
- 94 :世界@名無史さん:05/02/04 10:10:52 0
- >>93
>>80のあげてるアッシリア教会というのがネストリウス派のこと。
- 95 :世界@名無史さん:05/02/04 21:14:07 0
- ササン朝の文化の特徴は古代オリエントの文化を集大成し、そこに
ヘレニズム文化やインドの文化を融合させたことだ。ササン朝の
文化は西アジアでは、イスラム文化の母胎となっただけでなく、
シルクロードを経て東西の文化にも影響を及ぼしている。
- 96 :世界@名無史さん:05/02/04 22:16:58 0
- マニがインドやパレスチナへ赴き、仏教やキリスト教を学んでマニ教を創始するのもこの頃ですか?
- 97 :世界@名無史さん:05/02/07 00:39:45 0
- こんにちは。フィルダウシー「シャーナーメ」8、9巻今日届きました。9巻に全巻目次が掲載されていて、
それによると、6巻以降がアレクサンダー以降となっていました。パルテイア部分は殆どなく、パルティア
の章は事実上アルダシールの父親であるバーバクの章になっていました。
ところで、「ボーグタグの子ブズルグミフルの回想」と「ホスローと小姓」という文献の
英訳(全訳)を探しているのですが、どなたか入手方法をご存知のかたおられますか?
一応ググってみたのですが、翻訳テキストはない感じです。幾つかの翻訳サイト
に問い合わせメールをしているところではあるのですが。。。どちらも概要(日本語訳)が掲載されている
文献はあるのですが、全訳がないのです。。。。
- 98 :oad.zero.ad.jp:05/02/07 00:42:34 0
- ハンドル入れ忘れました。上は私です。
www.parthia.comに掲載されていた最近の記事によると、パルティア-ササン朝の村が
発見されたそうです。特にササン朝の村では、地下村が場所の離れた4箇所発見されたとのこと。
戦争用のシェルターではないかと見られているそうです。
- 99 :世界@名無史さん:05/02/07 21:10:20 0
- へぇ、地下シェルターなんてあったんだ。
面白い。
- 100 :世界@名無史さん:05/02/07 21:11:42 0
- >>99
言わずがもながら地下村=地下シェルターと言う意味ね。
核シェルターのたぐいと混同しているわけではない。
ツッコミ入る前に補足。ちゃんと理解してるからw
- 101 :世界@名無史さん:05/02/07 22:59:13 0
- >>100
地下村というと・・・カッパドキアの洞窟遺跡とか半地下村とかそんな感じですかね?
- 102 :oak.zero.ad.jp:05/02/08 00:03:01 0
- www.parthia.comのリンク先にも写真が掲載されていないのが残念なのですが、
そのうちの一つは、3階層で、3つの大きな部屋と2つの小さな部屋からなり、
50人を収容できるとのことです。カッパドキアみたいな感じかもしれませんね。
- 103 :世界@名無史さん:05/02/10 01:04:09 0
- キルディールみたいな傑物がいたりして面白い時代なんだがな・・・
- 104 :世界@名無史さん:05/02/11 17:30:20 0
- >>96
ササン朝の初期(三世紀)ですね。
以下、藤原書店の『別冊 環 「オリエント」とは何か』の中の
「マニ教【その東進と政治】」(大貫 隆)の中に引用されている
マニ教文書『ケファラティア(教理要綱)』(T、15-16)よりの抜粋です。
アルタコース王(=アルダシール)が崩御されて、
その息子のサポーレース(=シャープール一世、在位242〜273)が
その王となった年に、わたしは再び海路でインドの国からペルシア人の地へ戻った。
(中略)わたしはサポーレース王の御前に参上した。
王は大いなる敬意をもってわたしを迎え、彼の領土を行き巡って、
いのちの言葉を宣べ伝えることを許可してくれた。
- 105 :oak.zero.ad.jp:05/02/11 19:22:08 0
- マニ教文書は何語でかかれていたのでしょうか。マニ教文書について
あまりペルシャ史史料としての有用性や、どのような内容がかかれているか
言及している資料が少ないように思うのですが、「別冊環」にはどの程度の内容が
言及されているのでしょうか?
- 106 :世界@名無史さん:05/02/11 20:40:15 0
- マニ教の東進とテキストといえば、ここで
http://idp.bl.uk/ManuscriptSearch
"subject or keyword" に "Manicheanism" を指定すると7件出てきます。画像を
クリックすると詳しく見られます。うち一つが不明(でもソグド系の文字)で三つ
がソグド語、一つが漢文で「摩尼光仏教法儀略」というもの、一つが突厥文(らし
い。画像無し)、そして画像が無いもう一つのchineseのものの解説を見ると、
なんとパフレヴィー語の漢字による音写とのこと。解説にはソロアスターやイエス
の名前も出てきますね。ふむ。
- 107 :oak.zero.ad.jp:05/02/11 21:42:58 0
- >>106
ちょっとサイトを見て見ました。こんなサイトがあったとは知りませんでした。いや〜ありがとうございます。
ところで、トゥルファンあたりの出土の文書ということは、だいぶ世紀が下ってからのことではないでしょうか。
そうすると、時代的には、イスラム帝国が成立してからのことであり、
資料の同時代性についてはどのように考えればいいのでしょうか。
このあたり、興味があります。
- 108 :世界@名無史さん:05/02/11 21:49:01 0
- 何だ、前予想に反してこのスレ結構需要あんじゃん。賑わってるし。
>>1よ、乙。
- 109 :世界@名無史さん:05/02/11 22:44:06 0
- マニ教の言語は多すぎ。
コプト語、ペルシア語、パルティア語、ギリシア語、ソグド語、トルコ語、中国語なんかの文書が残っている。
アウグスティヌスやバル・コーナイ、
イブン・アル・ナディームなどの非マニ教徒の引用を含めればラテン語、アラム語、アラビア語も含まれるのか?
しかし、これだけあっても、マニの著作は僅かな断片を残して悉く散逸してるってのは痛恨だな。
言語の多様性もさりながら、地域によっても変化もあるし。
コプト語で伝わっている戒律と、中央アジアで流伝していた戒律では微妙に違かったり。
- 110 :世界@名無史さん:05/02/12 00:04:42 0
- アミン・マアルーフがマーニーを主人公にした小説を書くとか言う話はどうなった?
『光の花』だっけ。『サマルカンド年代記』の後書きだか解説だかにあったけど。
- 111 :oak.zero.ad.jp:05/02/12 02:24:03 0
- >>109
マニ教の著作の中に、マニ自身の作か、彼の作と伝承されている部分ってあるのでしょうか?
また、その場合、マニの著作とされている部分の断片を集めた現代語訳ってどこかにあるのでしょうか?
もし、ご存知でしたら教えてください。
- 112 :oak.zero.ad.jp:05/02/12 02:39:20 0
- >>110
アマゾンで検索したところ、一応出ているようです。「光の庭」という題名で、邦訳はないようです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1566562473/qid=1108143019/sr=1-13/ref=sr_1_0_13/250-1622272-1609007
とりあえず中古本を購入してしまいました。情報ありがとうございました!
>>みなさま、
もし、他にもパルティアやササン朝関連の小説をご存知でしたらお教えください。
- 113 :世界@名無史さん:05/02/12 07:05:26 0
- >>106
一番上の Karakhoja (Kao.0111) の断片はマニ教文字で書かれてますね。
ぱっと見た目何語かはちょっと分かりませんが、字面から判断してパルティア語かパフラヴィー語に見えます。
ソグド語断片の二番目、Dunhuang (Ch.00289) は解説で中期イラン語の専門家シムス=ウィリアムズ教授が
すでに1976年の論文で扱ってみたいですね。
しかしネットでマニ教文字で書かれた写本断片を見られるとは(w
- 114 :世界@名無史さん:05/02/12 07:54:47 0
- >>109
論文などの又聞き情報で申し訳ないですが、イブン・アンナディームなどが伝えるところによると、
マーニーは、サーサーン朝のシャープール(シャーブフル)1世の弟ペーローズを改宗させたのち、
ペーローズの推薦によってクテシフォンの王宮に招かれ、2度目の招きのおりに自らの思想を書物にまとめたそうです。
それが中期ペルシア(パフラヴィー)語で書かれた『シャーブフラガーン(Šābuhragān)』と呼ばれる物で、
これがマーニーによる自著で最古の物と言われています。
これは創造と終末に関する部分の断片のみが残されてるそうです。
マーニーの直筆の書は本来彼の母語である東アラム語で書かれたそうですが、
弟子達によって中期ペルシア語などに翻訳され、各地に発送されたそうです。
他に、イブン・アンナディームが挙げるマーニーの著作は、
1)『生ける福音書(Ewangelyōn Zīndag)』(書名:中期ペルシア語;中世ペルシア語版とソグド語版の一部が現存)
2)『生者の宝(Niyān ī Zīndagān)』(書名:中期ペルシア語;今日全く現存しない)
3)『プラグマテイア(Pragmateia)』(「小冊子」の意味。中期ペルシア語の書名は伝わっていない。)
4)『秘蹟の書(Rāzān)』(これも全く伝存しない)
5)『巨人たちの書(Kawān)』(中期ペルシア語版とソグド語版の断片が残っている)
6)『書簡集(Dibān)』(マーニーの書簡集で、中期ペルシア語版とソグド語版の断片が残っている。)
7)『賛美歌と祈祷集』(断片が残っている)
他に Ardhang と呼ばれるマーニー自身が挿絵で世界のあらましを描いた書物があったらしいのですが、
これも現存せず。ただ、パルティア語による注釈の断片が残ってるそうです。
教祖マーニーの死後、弟子達によって編纂されたマーニーの説教集、
『ケファライア(Kephalaia)』がコプト語版で見つかっています。
- 115 :106:05/02/12 13:41:53 0
- >>113
詳しい人登場!なるほど、マニ教文字というんですか。で、良く見たら
ちゃんとlangages and scriptsにManichean Middle Persianというのが
ありますね。検索すると11個出てきます。ちょっとスレ違いになります
けど、面白いのは、Judeo-Persianというのがあって、ヘブライ文字で
書かれたペルシャ語が出てきます(スタイン文書)。非常に詳しい解説が
ついていて「新」ペルシャ語の恐らくは最古の例とのこと。中央アジア
のユダヤ人社会ってのはいつごろからあったんすかね?
- 116 :世界@名無史さん:05/02/12 21:06:51 0
- >マーニー自身が挿絵で世界のあらましを描いた
なるほど、中世ペルシアやアラブの文学作品中で
マーニーが伝説的な大画家として扱われているのにはそういう謂れがあったのですね。
- 117 :世界@名無史さん:05/02/13 15:45:02 0
- イスラム世界では絵画を禁止してたから、マニを絵師として呼ぶのは蔑称でもあったわけだけどね。
偉大なる絵師というのもムスリムから見れば、大邪教者という面があったわけで。
シャーナーメでも、マニ処刑する王の言葉に、「この画像崇拝者を生かしておくわけにはいかない」ってあるし。
- 118 :世界@名無史さん:05/02/14 00:54:44 0
- >>115
Manichaean Scpipts マニ文字とかマニ教文字とか言われているものです。
マーニー自身が作り出したとされ、文字自体はパルミュラ文字の草書体によく似た特徴を持っています。
当時パルミュラ文字は他のアラム文字系のうちメソポタミア〜シリアでもっとも流布した文字の一つでした。
このマニ教文字は、パルティア文字やパフラヴィー文字にくらべて格段に正確な子音字表記をされたもので、
現在、パルティア語・中期ペルシア語の研究で極めて重要な位置を占めています。
マーニー自身についてはイブン・アンナディームの『フィフリスト』によると、
マーニーの父パーテグはハシカーニーヤ家の出身。つまりパルティアの王族アルシャク家の出だったと伝えています。
また母の名はマイス、またはウターキームともマルヤムともいわれ、
同じくアルシャク王家につらなるカムサラガーン家の出身だったそうです。
すなわちマーニーは当時サーサーン朝でも有数の名族の出身だったことになります。
(ちなみに彼の名前マーニーはアラム語で「器」を意味する「マーン」に起源とする説が有力です)
>>116
件の『ホスローとシーリーン』でもパルヴィーズの側近シャープールは自らの絵画の手腕をして
「画帳アルジャングに伎倆をふるったマニーのごとく」と形容していますね。
>>117
マーニーはシャープールの跡を継いだワフラーム1世(あるいは2世)によって投獄され、
26日後の277年2月14日に獄死したようです。(これが後のベーマ祭の起源になります)
しかし、トゥルファン出土のパルティア語の文書に依れば、牢内でも弟子とかなり自由に面会しているようなので、
よくいわれる刑死ではなかったろうという説が最近有力視されているようです。
このマーニーの獄死を計ったのが、上に出てきた大祭祀長キルデールだったようです。
>>115
トゥルファン出土の中期ペルシア語による旧約詩篇の存在は知っていましたが、
スタイン文書にヘブライ文字による近世ペルシア語資料があるという話は知りませんでした。
20世紀前半にF.W.K.ミューラーやO.ハンセンという人物がソグド語版新約聖書のテキストなどを出版してますが、
ソグド人にもキリスト教が布教されていたことが分かっています。ユダヤ教はどうだったでしょうか。
- 119 :oak.zero.ad.jp:05/02/14 21:27:29 0
- マニ研究の話、ものすごく参考になります。マニの生涯についての研究についての概説
などが掲載されている書籍など、一般人でも入手可能なものってあるのでしょうか?
もし、なにかあるのであれば、お教えいただけますと助かります。
>>118さん
マニの獄死状況に関するこの記述について記載されている論文など、お教えいただけますでしょうか。
このあたりの歴史は、史料が少なく、わかることはあまりないのでは、と思っていましたが、
まだまだ奥が深いことがわかりました!
>>90さん
メナンドロスの英訳サイトなど、ご存知でしたら教えていただけますでしょうか。
最近思うのですが、ササン朝ペルシャについての現代の歴史書を見ると、ペルシャ語系、
アラビア語系、ギリシャ・ラテン語系に分かれているような気がしています。
更にマニ教系もありそうですね。
これらを総合したササン朝の歴史書を出せれば、この時代がもう少し注目されるかもしれませんね。
- 120 :世界@名無史さん:05/02/14 21:52:23 0
- 読んだ事はないのですが、文庫ク・セ・ジュの『マニ教』はいかがでしょう。
買おうかと思っているうちに書店から姿を消してしまいましたが・・・
- 121 :世界@名無史さん:05/02/19 01:13:26 0
- >>119
遅レスになってすみません(汗
文庫ク・セ・ジュの『マニ教』は以前読んだことがあります。
見た感じマニ教の概説としては手頃な感じだと思いました。
ただ、ギリシア語やラテン語などの表記は問題ないんですが、
アラビア語や中世・近世ペルシア語の仮名表記がときおり首を傾げるようなものだったりするので、
そこは注意が必要な感じでした。(アンナディームの『フィフリスト Fihrist 』を『フィーリスト』と綴ったり)
他にマーニー自身のことについて書かれたものは、
山川出版の山本由美子著『世界史リブレット4 マニ教とゾロアスター教』1998 が
薄手のわりにマニ教とゾロアスター教についても色々と書かれていて便利です。
マーニーについてのネタはここから大分引用しました(w
マーニーの獄死についてもここでふれていまして、上の獄死はその記述を丸写ししただけです(汗
あと、青年時代のマーニーについては、
須永梅尾「青年マーニーの人間像をめぐって」 オリエント第23巻1号(1980)があります。
マーニーの出生から、彼や彼の父パーテグの名前の由来についてなど詳細な考察がされてます。
- 122 :世界@名無史さん:05/02/19 03:02:24 0
- >>119
東ローマの歴史家メナンドロスについては内藤みどり先生の『西突厥史の研究』に
メナンドロスのMenandri Protectoris Fragmenta に568,576年の東ローマと突厥の交渉の記事が訳出がされてまして、
>82、>91はそれをもとにしています。
残念ながらメナンドロスや東ローマの文献を訳した英訳サイトの類は存じませんです。申し訳ないです(汗
サーサーン朝については、ローマ帝国側の文献であるラテン語、ギリシア語資料が残されました。
他方、イスラム時代以降、アッバース朝時代に隆盛した大規模な翻訳運動の結果、ギリシア語の古典文献のみならず、
中世ペルシア語やサンスクリット語の文献もアラビア語に翻訳されたため、
アラビア語文献にサーサーン朝時代の情報が載録されるようになりました。
イブン・アンナディームの『フィフリスト』やタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』などにサーサーン朝の記事が豊富なのも
これらの翻訳運動の結果といえます。
近世ペルシア語の資料もサーサーン朝末期に編纂された『シャーナーメ』がこの時期に最初の翻訳されたそうで、
フィルダウスィーも勿論この恩恵にあずかっていました。
イスラム征服以降、(勿論中世ペルシア語やバクトリア語、ソグド語の資料もありますが)
中央アジア〜イランではアラビア語が支配言語になり、イラン系の人々はアラビア語で著作するようになりました。
タバリーも出身地名(ニスバ)が示すとおりタバリスターン、つまり現在のカスピ海南岸マーザンダラーン地方の出身です。
かれもイラン系でしたが主著は全てアラビア語でした。
- 123 :世界@名無史さん:05/02/19 04:11:53 0
- 10世紀のサーマーン朝の出現によって中央アジアにペルシア語文芸復興がはじまり、イラン系のムスリムたちは自分たちの言葉で自分たちの歴史を書き始めました。
タバリーの歴史などもこのころ近世ペルシア語に翻訳されてます。
イスラム時代以降の中世ペルシア語の文献はおもにゾロアスター教徒やマニ教徒によるもので、
中央アジア〜イランのゾロアスター教徒などがおもに今日まで宗教文献やわずかですが俗文献を記録し続けました。
マニ教はマーニー自身がバビロニアへ上京する以前の布教や特に直弟子のマール・アンモー布教が成功したことで、
ソグド人の間で普及されました。この地でソグド語やパルティア語、中世ペルシア語のマニ教文献が編纂され、
イスラム勢力がサーサーン朝が征服され、ソグド地方もまた8世紀に征服されましたが、
人々の信仰は保証されていたので、この後もマニ教資料やゾロアスター教文献は中央アジアで存続します。
ちなみにアッバース朝初期までバビロニアにはマニ教徒のコミュニティーが多数あったようです。
おなじ8世紀にウイグル王国が、東方の唐王朝の仏教、西方のイスラム勢力とのかねあいから
マニ教を国教化してから今度はソグド語などの中期イラン語のみならず、ウイグル語や漢語でマニ教文献が編まれました。
- 124 :世界@名無史さん:05/02/19 04:13:24 0
- サーサーン朝もパルティアも概して局面局面の事績については碑文を残したりしてますが、
自分たちの歴史を編纂しようという意思が希薄だったせいか、ほとんど歴史文献は残さなかったようです。
ペルシア帝国からイスラム時代までの1000年ほどはともかく文字と言語が激変し続けたために、
この中で唯でさえ少ない文献がこの間に多くが散逸したようです。
ご指摘のようにギリシア語・ラテン語文献と中世・近世ペルシア語およびアラビア語文献とを駆使すればある程度はなんとかサーサーン朝の通史は書けそうな気もします。
サーサーン朝と東ローマの係争地であったシリア地域も、5世紀頃のシリア語文献などがいくつかありますし、
マニ教文献もやはり重要なのでこれを抜きにしては通史一つとっても編纂しづらいでしょう。
さらにこの時代を扱っている研究者自体が絶対数が少ないという問題もあります(^^;
サーサーン朝は正倉院とかシルクロードの関係で比較的注目が集まりますが、
それに比して必要とする文献が少なく、しかも言語が多岐にわたるのですこぶる研究しづらいのはどうしようもない気がします(汗
- 125 :世界@名無史さん:05/02/19 21:17:27 0
- サファヴィー朝の「シャー」って
中原の「帝」みたいなニュアンスだったのかな?
アミール=王
シャー=帝
シャーハンシャー=皇帝
てな感じで。
- 126 :世界@名無史さん:05/02/20 01:04:32 0
- 「アミール」は「王」の意味ではありません。
「アミール」は「司令者」の意味で、君主に仕える諸侯や地方総督、領主、氏族長たちのことを指します。
「シャー」はペルシア語で「王」意味する一般名詞で、いうなればモンゴル帝国の「ハン」に相当します。一つの王朝に一人だけで、「シャー」のしたに王族(シャーフザーデ)たちがいます。
だからニュアンスとしても意味としても「王」ですが、
しかし実際にはサファヴィー朝の君主・王(シャー)は唯一人で、理念的には「世界の王」「諸王の王」でもあるのでその名の通り「皇帝(シャーハンシャー)」であり
「帝王(パードシャー)」とも呼ばれるわけです。
モンゴル皇帝(カアン)と同じく諸王(ハン)の頂点にたちますが、実質「シャー=シャーハンシャー」は一人だけなので、
廷臣やアミールたちは「シャーハンシャー」に仕えたため「シャー」の称号のかわりに「ハーン」の称号を貰っていました。
「シャー」の一族ではなければ「シャー」にも「シャーフザーデ」にもなれないし呼ばれもしません。
しかしスレ違いなのでサファヴィー朝スレで聞いた方が良いでしょう。
- 127 :世界@名無史さん:05/02/20 19:43:55 0
- >>105
しばらく2chを覗いていなかったので、
すっかり遅レスになってしまってすみませんm(_)m
『環』の中の「マニ教 その東進と政治」は全5ページの短い論考で、
マニの生涯、中央アジア・中国への進出、ウイグル王国との関わりなどに関する
ごく概略的な解説のみです。若干史料の引用などもありますが、研究史その他
深く掘り下げた内容ではありません。
ただ、マニ教の東方進出・展開について知るときに手軽に参照するのには便利だと思います。
『別冊 環 「オリエント」とは何か』の中には、他にも
古代以後イスラム以前の西アジアに関して、これまでにあまり紹介されていない
分野を含む、興味深い論考が多く入っています。
このスレに関わりがありそうなものとしては「マニ教」の他に、
「イラン語の世界」(吉枝聡子)、「シルクロード文化」(岡田恵美子)、
「バクトリア王国」(前田耕作)、「パルティア王国」(春田晴郎)、
「アルメニア王国」(北川誠一)、「ゾロアスター教」(香月法子)、
「ミトラス教」(小川英雄)、「エチオピア正教」(山形孝夫)、
「景教」(川口一彦)、「イラン人もかつては仏教徒だった」(森本公誠)、
「中央アジア仏教」(山田明爾)、「アレクサンドロス大王とオリエント」(森谷公俊)、
「美術史から見るオリエント」(田辺勝美)、「建築史から見るオリエント」(岡田保良)、
「ソグド人の商業ネットワーク」(長澤博信)などがあります。
とくに春田晴郎氏の「パルティア王国 【過大視されてきたローマ帝国の「脅威」】」は
従来学界と一般とを問わずパルティアの歴史的意義は過大評価されてきたものと主張しており、
私自身は当該分野に不案内なので真偽の程はわかりませんが、なかなか衝撃的な内容でした。
- 128 :世界@名無史さん:05/02/20 20:34:05 0
- ササン朝においては
「シャー」は「シャーハンシャー」に封ぜられた「王」だったよな?
中華帝国において天子に封ぜられた諸王のように。
- 129 :oak.zero.ad.jp:05/02/20 21:22:34 0
- 120さん、121さん、クセジュの「マニ教」のご紹介ありがとうございます。今度本屋に行ったとき
みてみます。『世界史リブレット4 マニ教とゾロアスター教』1998 も探してみます。
史学雑誌「オリエント」は本屋ではなかなか入手できないので、大学図書館になりますね。。。
今回このスレを通じていろいろ情報があつまってきたので、それらを消化してからですね。。。
127さん、
『別冊 環 「オリエント」とは何か』既に店頭にはないみたいで、まだ読めておりません。
なので、解説ありがとうございます。読みたいページ数の割には高い本だし、なにより執筆者の一人
春田さんが、「この内容でこの値段はちょっと」と彼のHPで述べられておりますので。。。パルティアの
部分は立ち読みしたのですが、その時一緒にマニの部分も読んどけばよかったです。
- 130 :oak.zero.ad.jp:05/02/20 21:33:08 0
- >>127さん
立ち読みしたときは、春田氏以外の記事はあまり興味深くなかったのですが、いまこうして
改めて紹介されてみると、購入してしまってもいい感じもしなくはなくなってきました。
ところで、春田氏の部分は私も読んだのですが、「ローマと軍事的に拮抗しえた唯一の超大国」という点が
過大評価のポイントであって、パルティア人の勢力圏が西アジア一体に支配的におよんでいた点や、
パルティアが「帝国」とみなしうる程度の大国であったことまで否定しているわけでは
ない、と(私の場合は)読めました。
ところで、素人受けする画像的なイメージがあまり沸かないこの時代ですが、
"Rome's Enemies: Parthians and Sassanid Persians (Men-at-Arms Series)"という書籍
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0850456886/qid%3D1108902743/250-5506716-1645863
(日本でも、世界史軍隊シリーズとして薄いイラスト本として翻訳が出ているやつです)
があります。レリーフ遺跡をもとに、当時の軍隊の想像復元図が描かれていて、
気休めにはなります。
- 131 :世界@名無史さん:05/02/20 22:51:34 0
- さっきNHKでシルクロードやってた。ウイグルやソグド人やらやってたよ。
- 132 :85&121:05/02/20 23:16:59 0
- >>127,>129
春田晴郎先生といえば、HPでも挙げておられる「バビロン天文日誌からみた大麦等の価格推移」という、
紀元前4〜1世紀の記録があるバビロンの天文日誌をつかって前3世紀のバビロニアにおける穀物の価格推移の検証という非常に興味深い内容の論文で有名な古代史の先生です。
不明だったアルシャク朝の王統も一部復元されてます。
アルシャク朝の時代以降のイラン関係の歴史がご専門で、上記の「天文日誌」という
今まであまり手の付けられていなかった資料などを使って、歴史資料がほとんど無いアルシャク朝〜サーサーン朝などの研究をされています。
古代史でアルシャク朝を扱っておられるのは今現在実質、春田先生くらいでして、岩波の『古代オリエント事典』や『イスラーム辞典』のアルシャク朝やサーサーン朝関係の記事はほとんど一人で書かれていますね。(^^;
新しい方の『岩波講座 世界歴史2 オリエント世界』でもアルシャク・サーサーン両王朝について寄稿されているのはご存じかと思います。
>127
『環』の別冊に春田先生も寄稿されてたんですね。先生の文章はある程度目を通していたつもりだったんですが、
うっかりしていました(汗
吉田豊先生以外でソグド人について書かれているのは珍しいのでわたしも今度買うなりして見てみたいと思います。
>>130
このシリーズ。サーサーン朝の騎兵が写本などの十字軍の騎士と印象が大してかわらない感じがしたので、スルーしてしまった事があります。(w
あとムガル朝軍の本のときも、ヒンドゥークシュ越えしてる始祖バーブルの挿絵が、角張りすぎた顔をしていて、
写本の挿絵の印象から逸脱しすぎた感じに思わず吹いてしまったことも・・・(^^;
挿絵の厳密性はともかくとして(w 引用してある写真などの資料はいろいろと参考になるところあるので
楽しむ分には良さそうですね。これも今度もうすこしちゃんと見てみたいです
- 133 :oak.zero.ad.jp:05/02/20 23:33:41 0
- >>132さん
春田氏は王統の復元もされているのですか。今度「オリエント」バックナンバーを図書館へ
行った時に見て見ます。
ところで、画像関連で8世紀初に書かれたとされる、ウマイヤ朝宮殿クサイル・アムラの壁画の画像です。
http://www.ucpress.edu/books/pages/9924/figure53.html (カラー、ヤズダギルド3世のとこだけ)
http://www.orientarch.uni-halle.de/ca/afras/directi2.htm (白黒 「六人の王」の全体)
あとクサイル・アムラのその他画像と本の紹介
http://www.ucpress.edu/books/pages/9924/9924.images.html
インターネットは便利な時代になりましたね。
書かれた時代は、ササン朝滅亡に近い時期なので、王の服装と色について、少しは
参考になるのではないかと思います。
あと、ユーフラテス川下流のササン朝時代と、アッバース朝時代の都市と農村の比較研究
をしたADAMSの「Heartland of Cities: Surveys of Ancient Settlement and Land Use on the Central Floodplain of the Euphrates」
も、書籍がインターネットで入手可能 http://www.amazon.com/o/dt/assoc/handle-buy-box=0226005445
なことがわかり注文しました(注文してばかりで全然読む方が進んでないですが)
学生の頃、海外文献の入手の困難ぶりに、コンピュータネットワークのインフラ整備をやった方がいいと考え
IT業界に入りましたが、それが実現した世の中になって嬉しいかぎり。
- 134 :世界@名無史さん:05/02/21 00:03:18 0
- ササン朝の仏画って、もろイラン人の格好じゃねーかw
- 135 :85:05/02/23 00:05:41 0
- >>132
パルティアの王統について触れていたのは、
春田晴郎「アルシャク朝パルティアの一次史料―バビロン天文日誌第3巻の公刊―」『オリエント』1998
の方でした。たびたびすみません(汗
王統の復元といっても、ミフルダート2世(ミトリダテース)が紀元前91年に没し、
その後を継いだゴータルズ1世とおぼしき人物が前王のミフルダート2世を
「私の父」と読んでいることが判明した、というささやかなものです。(^^;
これはヨセフスの『ユダヤ古代誌』がミフルダート2世の没年を前87年としているのを
修正する意味で重要です。
ttp://www.orientarch.uni-halle.de/ca/afras/directi2.htm
アフラシアーブ遺跡の邸宅壁画群ですか! 実はネットでこの邸宅壁画の画像を長らく探していました。
紹介してくださってありがとうございます。
西壁面のNo.18-19の人物は
ttp://www.orientarch.uni-halle.de/ca/afras/text/wturks.htm
でも触れていますが、髪型が突厥の石人(バルバル)と酷似しているため
突厥などのテュルク系の人間であろう云われています。(これを探していました)
論文などは殆ど白黒ですので、殆どの画像がカラーでしかもネットで見られるなんて・・・
まったくもって凄い時代になりましたね(w
- 136 :85:05/02/23 00:11:58 0
- >>127
『別冊 環 「オリエント」とは何か』の春田先生の寄稿された部分を見ました。
あとNHKの「新シルクロード」のベゼクリク千仏堂も、
マニ教とも関係があるのでとりあえず再放送を見てからカキコすることにします。
- 137 :85:05/02/23 02:33:56 0
- >>133
ttp://www.ucpress.edu/books/pages/9924/figure53.html
クサイル・アムラの画像もネットでしかもカラーで見られるということは驚くべき事です(w
手元にはアンリ・スチールラン著『普及版 イスラムの建築文化』1990 原書房しかないですが、
取りあえず若干の解説をば。
ヨルダンのクサイル・アムラ(カスル・アムラ)はイスラム建築の中で現存する恐らく最古級のハンマーム(浴場)遺跡です。
建物全体の保存状態が極めて良好で、最も大きな幅約7m×経約10mの家屋も天井の三連のヴォールトが
ご覧のとおりしっかりと残っています。
この遺跡は初期イスラム時代の人物や動植物が描かれたフレスコ画があることで特に有名です。
本の説明に依れば、そのうちの4人(本には6人とは書いてません)の貴人像に碑文が書かれていて、ギリシア語とアラビア語でそれぞれ、
一方はビザンツ皇帝カエサル、西ゴート王国最後の王ロドリゴ、
他方でサーサーン朝皇帝ホスローとエチオピア王ネグスの名が記されているそうです。
↑のページの解説にも「 hall, west wall: six kings, detail of Kisra (fresco).」と
書かれていますので、この画像の人物はホスローのようです。
この碑文銘によってこのクサイル・アムラ遺跡の建設は711年以降、
つまりウマイヤ朝カリフ、ワリード1世の治世に完成したのだろうと思われます。
それにしても本当に沙漠のど真ん中にある感じなんですね(w
- 138 :世界@名無史さん:05/02/23 10:53:00 0
- あー、クサイル・アムラといえばどこかで見たと思っていたら、
あの有名な王たちの肖像かあ。
あとは中国皇帝とインド王?
- 139 :世界@名無史さん:05/02/26 20:21:22 0
- >>127
>>130
時間が少し開いてしまいましたが、春田先生の寄稿された部分を読んでの感想などを。
>>127氏の感想を見まして、春田先生のほかの寄稿された文章を読んでも大風呂敷を広げるような言い方は
されない方なのでどんなものだか少し不安でしたが・・・ 非常に興味深い内容でした(^^
寄稿文に書かれていましたが、パルティア王はメソポタミアのギリシア都市などで
自ら発行した貨幣に「ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣ(ギリシア親好者)」などと刻印して
ギリシア文化の庇護者であるとアピールしていました。
ハトラについてはアルシャク側との関係が今ひとつ理解できなかったのですが、
アルシャク朝内部で王家とは別個の自治都市としての性格が強いという内容にやっと得心できました。
ハトラではギリシア語碑文とハトラ文字によるアラム語碑文が多数出土していますが、
ヘラクレス=ヴリトラグナ像に刻印されたギリシア語碑文(右腿部分)、アラム語碑文(左腿部分)のように、
二言語併記碑文のようなものも出土しています。
パルティアでは王の書簡が市民の前で読み上げられていたことは、
1998年の論文ですでに触れておられてますが、「劇場で読み上げられてい」て
しかも王の1人称でもって語られていたというのは初めて知りました。
天文日誌で述べられているとのお話でしたが、春田先生ならでは情報ですね。
市民に対する王家の広報活動に劇場が使われるというのは、ギリシア・ローマ的な方法論だなと改めて感心した次第です。
- 140 :85:05/02/26 20:23:41 0
- さて、ハトラについて
「神殿長シェメシュバラクとハトラ人、老いも若きも、アラブ人の全てとハトラに住む全ての者は、合意して〜」
という碑文の内容を引用しておられますが、これはハトラにおける窃盗の罰則についての碑文でして、
法制定者に王侯が出てこなかったり、アラブ人が出てきたり、ハトラの城壁の内外での罰則内容が
若干異なったりと色々と興味深い碑文です。
ちなみにこの碑文も先生は別の論文で訳されています。
(春田「アルシャク朝パルティア時代の都市の多様性」『オリエント』36−1 1993)
ハトラについては美術全集などで取り上げられたりもしますが、
先生が再三述べられているようにほとんど何も分かっていません。
1903年にドイツ隊が最初の発掘をしましたが、その後は散発的で、フセイン政権時代に
ある程度発掘が行われ、アラビア語による論文がいくつか出版されているようです。
雑誌の他の論文はあまり見る時間が無かったのですが、春田先生の担当部分は
パルティア研究の中間報告的な印象で、とても意義深く読みました。
そういえばパルティアはローマ側への侵攻はせいぜいシリア方面止まりで
イタリア半島で安穏としていたローマと首都圏のメソポタミアがたびたび侵攻されたパルティアとでは
【過大視されたローマ帝国の「脅威」】、ローマ帝国のほうがよほど「脅威」だった
という指摘に大変首肯させられるものがありました。(w
ハトラが絡んでいる以上、パルティアのアラム語碑文なども見てみるのも良さそうですが、
とりあえずそれは別の機会と言うことで。
- 141 :oak.zero.ad.jp:05/02/27 04:01:15 0
- クセジュの「マニ教」と『世界史リブレット4 マニ教とゾロアスター教』届きました。
アミン・マーロフの「光の園」も届きました。まだ最初のところですが、マニの父パーテグの時代からの
話となっています。様様なマニ教文書から、マニの生涯は結構わかっているみたいで驚きでした。
比較的個性と人生のわかるササン朝時代の人は、ホスロー2世くらいかと思っていたのですが、初期ササン朝時代
の人についてもサンプルがあるとは、すばらしいことです。
>>137
良く見て見たら、アフラシアーブのHPの中に、たまたまクサイル・アムラの写真があった
だけなのですね。それにしても壁画の実物は初めてみました。いつも書籍や、美術全集に引用
されているのは、アルバウムによる復元画だったんですね。
- 142 :oak.zero.ad.jp:05/02/27 21:40:22 0
- >>135
www.parthia.comの系図によると、ゴダルゼースはミトラダート2世の甥になっており、
ミトラダート2世の晩年に、貨幣鋳造者が並立しているから、国内の分裂などが起ったのでは
ないかと仮定されてきたものと思います。ゴダルゼースが息子であるのであれば、
国内の混乱は、もう少し後に起ったことになり、(ゴダルゼースの治世中?)、「暗黒時代」の
解明に、少し前進なのではないかと思います。
ないかと
- 143 :oak.zero.ad.jjp:05/03/06 21:50:19 0
- 前に紹介しました、クサイル・アムラを扱った書籍ですが、今日届きました。
ttp://www.ucpress.edu/books/pages/9924/9924.images.html
残念ながら、画像は全部モノクロでした。上記ネットでは、カラー画像なので、
ネットで見れば十分という気がしました。「6人の王」については1章さいて
分析してあり、まだ未読ですが、「ササン朝の娘」という章もありました。
一応ご報告ということで。
- 144 :oak.zero.ad.jp:05/03/13 21:05:00 0
- 段々日記のようになってきてしまいましたが、お許しください。
「光の園」、辞書をひきひき読みました。クセジュ文庫の「マニ教」に
紹介されている史実と照らし合わせると、前半はほぼ史実の事件をたどる感じ、
後半は判明している事実は飛ばして、寧ろ史実では資料がなくてわかっていない
部分を詳細に描いているという感じ。
学術的にもあまりわかっていない舞台が沢山登場するので、なるほど、と感心
するところもあれば、結局クテシフォンの街のイメージがつかめないなど、
甲乙いくつかありますが、いづれにしてもササン朝のイラン人の台詞が沢山でて
くるだけでも、画期的な小説なのではないでしょうか。
小説と言えるのではないでしょうか。
ササン朝の為政者の言葉は遺跡に残されていますが、いまいち、形式ばっていて、
肉声という感じがしないけど、本書で登場している王家の面々は、個性やそれぞれの
立場の考えが見えていて、人間的な感じ。これだけでも、かなり感動しちゃいました。
欲を言えば、後半、マニと王家との関係だけにしぼられ、登場人物も少なくなってしまった
のが残念。もっと弟子たちや、各地への布教活動を描き、マニの死後の展開へむけた
動きなどを掘り下げて描けば、より重厚に仕上がったと思います。
- 145 :世界@名無史さん:05/03/14 19:33:33 0
- シースとかマル・ザクとかパッティグとか、弟子についても殆ど分ってないからなぁ。
- 146 :85:05/03/16 01:05:24 0
- >>144
亀レスになってスミマセン(汗
なるほど、小説の方向性や内容としては面白いけど、登場人物の数自体が少ない
感じなのとクテシフォンの構造が今ひとつ掴めないことが気になるんですね。
邦訳が出てる『サマルカンド年代記』もそんなに沢山人が出てきてなかったので
あるいはそれと似た雰囲気なんでしょうか?
>もっと弟子たちや、各地への布教活動を描き、マニの死後の展開へむけた
>動きなどを掘り下げて描けば、より重厚に仕上がったと思います。
おお、それが無いのはとても残念ですね。マニの弟子の教師パーテグと監督アッダーが
シリア・エジプトでの伝道を成功させて多くの信者を獲得したことは是非書いて
欲しかった。後にエジプトの教団からあのアウグスティヌスが出てきて
キリスト教と熾烈な宗論を戦わせることになりますから。
パルティア地方へのマール・アンモーとアルダワーンの伝道もソグド人やウイグル王国への普及に
繋がるのでこれもマニ教を語るには欠かせないですし。
国際マニ教学会The International Association of Manichaean Studies
というところがマニ教関係の資料を刊行してるらしいのですが、今ひとつ活動内容が
謎でよく分かりません(汗 関係資料を自前で今度ある程度調べてみようかと思います。
- 147 :oak.zero.ad.jp:05/03/20 23:51:25 0
- こんにちは。弟子は一人だけ名前が出てきた程度でした。
>>146さん
マニ教学会が出している資料など、なにかわかったら教えていただけますと
助かります。 サマルカンド年代記は読んだことがないのですが、多分ご指摘の通り
かと思います。
ところで、翻訳のないものなら、ひょっとしてこの時代の小説が他にもない
ものかと、色々探しているのですが、なかなかなさそうですね。。。
- 148 :oak.zero.ad.jp:2005/03/21(月) 13:44:18 0
- そろそろDAT行きになるところですが、もう少し情報を収集したいので、あげます。
ホスロー1世の宰相ブルズグミフルの回想録を読みたいと思っています。
ブルズグミフルの回想録は、河出書房新社「世界の歴史8 イスラム世界」前島信次著に2ページ程
要約が掲載されていて、岩波書店 伊藤義教「古代ペルシャ」に、最初の数ページの翻訳が掲載されています
伊藤義教の巻末に、J.C.Taraporeという学者が1933年にポンペイで、中世ペルシャ語著作断片の
英訳を出しているとの記載があるのですが、ニューヨーク公立/州立図書館、大英図書館のサイトで
検索したのですが、NotFoundでした。
また、以下のサイトに、
ttp://titus.uni-frankfurt.de/texte/etcs/iran/miran/mpers/jamasp/jamas.htm?jamas023.htm
中世ペルシャ語をドイツ語アルファベットに修正した版があり、
一応英単語のリンクもついているので、これをもとに翻訳していたのですが、
どうも、伊藤氏の要約している部分についての記載(1節〜260節)はあるのですが、
この部分は、善悪・神と悪魔についての抽象的な記載ばかりで、
前島氏が記載している、具体的なワルズミフルの人生についての言及はなさそうです。
(まだ全部翻訳できてませんが、だいたい約したところ、そんな感じなのです)
もし、ご存知でしたら、ワルズミフル回想録の260節以降が掲載されている書籍・
サイトなどを教えてくださいますでしょうか。(一応ドイツのサイトにも問い合わせて
みるつもりですが)
よろしくお願いします。
- 149 :oak.zero.ad.jp:2005/03/21(月) 22:55:47 0
- >>148
自己レスですが、どうもTITUSのサイトに掲載されているワルズミフルの回想は、
260節で全文のようです。前島信次の要約では、ワルズミフルの両親についての
記載があるのですが、調べたところ、含まれている可能性の高い、「父」「母」という
単語が見つかりませんでした。このことから、以下の2つの可能性が考えられます。
1.中世ペルシャ語版「ワルズミフルの回想」とアラビア語版には異同があり、
前島氏はアラビア語版を存在した。河出書房新社の引用は、殆どがアラビア著作、
あるいはアラビア語翻訳著作(シャーナーメなど)のある著作物からの引用である
ことから、前島氏はアラビア語資料だけを利用して、「イスラム世界」のササン朝の
項目を記載した。アラビア語版の存在は、別の資料からも確認できるので、この
可能性が高い。
2.前島氏が引用文献を間違えて記載した。
いづれにしても、これ以上の追求は難しそうです。
- 150 :oak.zero.ad.jp:2005/03/21(月) 22:58:41 0
- ところで、「ティアナのアポロニオスの生涯」という2世紀のギリシャ人による
作品があるのですが、この内容が、アポロニオスがパルティアを通過してインドへ
向かうというもの。いま少しづつ読んでいるのですが、一応バビロン市の話など
がでてきています。
マニは聖書偽典「トマス行伝」に触発されてインドへ赴いた、とされていますが、
ブルズグミフルも、理由は異なりますが、インドへ赴いています。
1世紀のトマス、2世紀のアポロニオス、3世紀のマニ、6世紀のブルズグミフル、と
賢人がインドへ行く史実と伝説の混在したモチーフが共通して見られる点が
面白いと思います。
- 151 :世界@名無史さん:2005/04/10(日) 18:08:47 0
- ∧ ∧
(*゚ー゚)< ゾロアスター萌え
- 152 :世界@名無史さん:2005/04/16(土) 13:43:49 0
- >>150
「マール・マーリーの行伝」とかも面白いと思うよ。メソポタミアにキリスト教
宣教する話。一応使徒の次の世代くらいじゃなかったろうか。
- 153 :oak.zero.ad.jp:2005/05/01(日) 23:25:27 0
- ご連絡が遅れましてすみません。「マール・マーリーの行伝」について
出典について、教えていただけますと助かります。ググッてもヒットしなかった
ので。。。これって聖書の偽典・外典の類でしょうか?
- 154 :世界@名無史さん:2005/05/04(水) 23:21:34 0
- 「mar mari syriac」ぐらいの単語を入力すれば、簡単に出てくると思うが。
- 155 :oak.zero.ad.jp:2005/05/07(土) 01:55:10 0
- >>154
すいません、ありがとうございました。そのローマ字スペルがわからなかったもので。。。
シリア語というのも、いいヒントになりました。
- 156 :oak.zero.ad.jp:2005/05/07(土) 02:15:36 0
- ところで最近ちょっと思うのですが、何でクテシフォン宮殿の復元図や、クテシフォンの
平面プランが無いんでしょうね。フィルザバードにあるアルダシール宮殿の
復元図や、カスレ・イ・シーリーンの復元図とか、タクテ・イ・スレイマーンの
復元図や、エイワーン・ケルカ、ビシャプール、グンデ・シャープールなどの
平面図はあるのに。クテシフォンには、キリスト教会の遺構があり、都市の
輪郭についての情報はあるのだから、大よその平面プランは出てきてもいいのに、
不思議です。あと、セレウキアにも遺構があるのに殆ど写真や、平面図など
が出回ってない。やっぱイラクがパルティア・ササン朝はどうでもいいと
思っているからなのだろうか?(イラクが遺跡保存や発掘に力を入れていない、
あるいは、余裕がないとは思えないのですが。バビロンやアッシュールなどの
状況を見ると。)
- 157 :世界@名無史さん:2005/05/11(水) 13:17:42 0
-
- 158 :世界@名無史さん:2005/05/17(火) 22:55:54 0
- http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=219&CID=4#s1
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=219&CID=5#s1
- 159 :世界@名無史さん:2005/05/17(火) 22:57:03 0
- http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=179&CID=13#s4
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=179&CID=14#s1
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=179&CID=19#s2
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=179&CID=20#s1
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=179&CID=27#s3
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=179&CID=36#s24
- 160 :世界@名無史さん:2005/05/17(火) 22:59:19 0
- http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=174&CID=5#s2
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=174&CID=6#s1
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=174&CID=8#s2
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=174&CID=9#s1
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=174&CID=10#s1
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=174&CID=11#s1
- 161 :世界@名無史さん:2005/05/17(火) 23:01:03 0
- http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=221&CID=6#s1
http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=221&CID=7#s1
- 162 :世界@名無史さん:2005/05/17(火) 23:02:13 0
- http://al-eman.com/Islamlib/viewchp.asp?BID=163&CID=52#s1
- 163 :世界@名無史さん:2005/05/30(月) 23:32:15 0
- サーサーン朝があんなにあっさり滅亡してしまったのはなぜ?
アラブ人による攻勢があったにせよ、ホスロー2世の時代にはけっこう強大な
軍事力を持っていたのに…
- 164 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:06:32 0
- アレクサンドロスの侵入の時もアラブの侵入の時もモンゴルの侵入の時も
戦前には強そうに見えても瓦解するときには一気に崩壊するのがイランの王朝。
- 165 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:36:08 0
- ホスロー2世の死後のサーサーン朝はメチャクチャ。
突厥や貴族が勝手に王を擁立して、3〜4年間に6人も王が替わった。
最後のヤズデギルド3世はメルブで殺され、サーサーン朝は滅亡。
- 166 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:40:28 0
- 何でパルティアはペルシャ帝国と呼ばれないの?
そもそもパルティアの語源って何?
- 167 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:46:10 O
- なぜパルティアがペルシア帝国と呼ばれないのか・・・アケメネス朝とアルサケス朝をうっかり間違える人がいるからでは?
- 168 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 01:01:19 0
- >>166
パルティアの語源は、遊牧民のパルニ族からきています。
中国では「安息国」と呼ばれました。
- 169 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 06:45:18 0
- ペルシャもパルティアももとは地方名。ササン朝もアケメネス朝も
パールス(今のファールス)地方の国が帝国
となったからペルシャ帝国。パルティアはパルティア地方の出だから
パルティア帝国。
- 170 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 08:53:59 0
- ササン朝のプロパガンダゆえだと思うんだけど。
パルティアを「アルサケス麻ペルシャ」と呼ぶことも極稀にあるようなないような…。
- 171 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 09:12:06 0
- サーサーン朝の「マルズバーン」ってどんな官職?
- 172 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 11:59:24 0
- ttp://www.photospreview.com/d68f0b43acf6d58599009d506a6f9c78/photos/af1503af393aecb2fb0cb7abb063e116.jpg
htp://www.photospreview.com/d68f0b43acf6d58599009d506a6f9c78/photos/94ef47bb765f3fe2637dc70251e60e27.jpg
パルティアの兵士・騎兵
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/3/30/350px-MithradatesI.jpg
パルティアの貨幣
- 173 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 12:31:48 0
- 「アルサケス麻ペルシャ」ワロタ
- 174 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 13:50:59 0
- 当時の現地では「アルサケス朝」だったみたい。
パルティアってギリシア人が勝手に呼んでたんだろうね。
- 175 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 16:06:44 0
- 「アルサケス」というのはギリシア風の発音で、実際は「アルシャーク」に
近い発音だとか。
- 176 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 21:56:52 0
- ttp://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/03/030900.html
ターク・イ・ブスターンの摩崖浮彫
図像解釈学的試論
- 177 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:27:09 0
- パルティア人は、中央アジア(カスピ海の東北)から南下してパルタウァ地方
(イランの東北、ホラーサーン地方)に進出し、前240年ごろアルサケスと
ティリダテスの兄弟が、当時この地方の総督であったアンドラゴラスを
破って小王国を樹立した。
これがアルサケス朝パルティアの開基となった。
- 178 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:30:53 0
- >>175
中国名「安息」はアルシャークの音写でしたな。
>>177
怪獣みたいで強そうな名前なのにな →アンドラゴラス
なんか『アルスラーン戦記』を思い出すぜ
- 179 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:35:20 0
- ttp://www.heritagenet.unesco.kz/tm/turkm_muz/mus10.jpg
ttp://www.heritagenet.unesco.kz/tm/turkm_muz/mus11.jpg
ttp://www.heritagenet.unesco.kz/tm/turkm_muz/mus8.jpg
ttp://www.khm.at/khm/data/page390/image1.x300.jpg
ttp://iranianlanguages.com/images/parthian_prince.gif
パルティアの遺物
- 180 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 01:30:09 0
- 完全にヘレニズムだなぁ
- 181 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 10:24:13 0
- クテシフォンの宮廷では、ペルシア人貴族たちは夏の避暑用に膨大な量の
氷を保存していた。
- 182 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 12:02:20 0
- >>168
イーラーン人とはルーツが別なわけね。なるほどなるほど。
- 183 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 12:57:54 0
- イランバスタン博物館でもはっきりギリシャ趣味がわかって面白かったよ
- 184 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 14:38:40 0
- ttp://www.iranchamber.com/history/parthians/parthian_army.php
パルティアとサーサーン朝の騎兵
- 185 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 00:16:19 0
- >>171
辺境総督
- 186 :世界@名無史さん:2005/06/14(火) 20:22:15 0
- ホルミズド4世の母は突厥の王女だが、
サーサーン朝の後宮にはギリシア人、アルメニア人、スラヴ人、中国人など、
ペルシャ人以外の民族出身者が数多くいた。
- 187 :世界@名無史さん:2005/06/14(火) 20:26:29 0
- ホスロー2世パルウィーズが即位する直前に、
バハラーム・チュービーナの反乱で
ササン朝が一時滅亡状態になったってほんと?
- 188 :世界@名無史さん:2005/06/14(火) 20:27:28 0
- >>186
バハラーム・トルクザーデですね
- 189 :世界@名無史さん:2005/06/14(火) 20:28:03 0
- >188
間違い、ホルミズド・トルクザーデ
- 190 :世界@名無史さん:2005/06/14(火) 21:31:15 0
- >>187
ほんと。
- 191 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 21:14:14 0
- >>184のパルティア騎兵の画像を見ると、馬の尻尾にひもをくくりつけているが、
実はトルコ人にも似たような習慣があった。
ttp://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/images/4-88317-836-6p2.jpg
この画像のトルコ人騎兵を見ると、馬の尻尾を結んでいるのがわかる。
- 192 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 21:16:34 0
- 246 :世界@名無史さん :2005/05/21(土) 00:45:41 0
サーサーン朝滅亡後、ペルシア兵はアラブや中国の傭兵になって生き延びた。
彼らは一人が一時に5本の矢を射ることが出来たという。
- 193 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 20:38:41 0
- >>187
バハラーム・チュービーナはアルサケス朝につながるミフラーン家の出身。
ホスロー2世はビザンツ皇帝マウリキオスの援助を得てバハラーム・チュービーナ
を破って復位。
ホルミズド4世は、590年に異母兄弟たちに謀られて投獄され、熱い針で両目を
刺されて盲目にされたあげく、かつて彼が投獄していたペルシア貴族ビンドエス
によって処刑された。
- 194 :ホスロー1世:2005/06/25(土) 12:08:37 0
- 「皇帝は軍隊しだい、軍隊は金しだい、金は地租しだい、地租は農業しだい、
農業は正義しだい、正義は役人しだい、役人は皇帝しだい」
- 195 :世界@名無史さん:2005/06/25(土) 15:22:09 0
- >>194
結局何が言いたいのかいまいちよくわからん希ガスのだが。この名言。
- 196 :世界@名無史さん:2005/06/25(土) 17:11:34 0
- >>195
今日の経済学や社会学の振るいに掛けても、名言だと思ふ。
- 197 :世界@名無史さん:2005/06/28(火) 21:45:05 0
- クテシフォンにあったホスロー1世の宮廷には、「シャー・ハン・シャー」を
自称していたサーサーン朝のシャーの座より一段低いところに、
中国の皇帝、中央アジアの遊牧民の可汗、ローマ(ビザンツ)皇帝の三者が
座る席が置いてあった。
- 198 :世界@名無史さん:2005/06/28(火) 21:48:23 0
- 実際に座った例があるのやらw
- 199 :世界@名無史さん:2005/07/03(日) 12:49:58 0
- >>198
いつか将来、天下平定の暁に召し集めて
一堂に座らせる気でいたのかも知れんw
- 200 :世界@名無史さん:2005/07/03(日) 21:13:52 0
- age
- 201 :世界@名無史さん:2005/07/04(月) 18:57:00 0
- >>195
富国強兵には賢明な指導者が必要、ということだろ?
- 202 :世界@名無史さん:2005/07/16(土) 10:40:07 0
- >198
ボカサに比べれば現実味のある椅子だw
- 203 :世界@名無史さん:2005/07/16(土) 12:19:43 0
- パルティアやサーサーン朝の重装騎兵(カタフラクト)は、ラテン語で
クリバナリウスと呼ばれた。
- 204 :世界@名無史さん:2005/07/16(土) 18:43:41 0
- >>197
ヴァレリアヌスは座らされたかもw
てか映画の「始皇帝暗殺」で「四海帰一殿」ってのが出てきたのを思い出すw
- 205 :世界@名無史さん:2005/07/21(木) 21:59:08 0
- アルデシールにも名言が多いね
- 206 :アルダシール1世:2005/07/21(木) 22:50:54 0
- 寛大さは全てのものに必要である。特に君主でありながらこの徳に
欠けている者は許せない。なぜなら君主はこれを実行する手段に
最も恵まれているのだから。
- 207 :世界@名無史さん:2005/07/24(日) 22:30:48 0
- カワード2世の死後、サーサーン朝で内乱が続いたのはなぜ?
- 208 :世界@名無史さん:2005/07/26(火) 01:54:09 0
- 突厥進出の影響が大きいのでは?エフタル進出時も、王座はエフタルに左右されたし。
つけいるスキを作ったのはホスロー2世の豪奢な統治のつけと、ローマへの
敗戦でしょう。
- 209 :世界@名無史さん:2005/07/26(火) 22:19:37 0
- カワード2世の死後、サーサーン朝は突厥や貴族が勝手にシャーを擁立して
大混乱。
ボーラーン、アーザルメードゥフトもこの時期の女帝。
- 210 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 01:32:05 0
- ホスロー1世は、アンティオキアを占領したときは何もしなかったが、
568年にエフタルを撃ち破ったときには、わざわざ「イランの脅威が
取り除かれた」と刻んだ貨幣をつくらせている。
- 211 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/08/03(水) 23:40:23 0
- ホスロー2世のサーサーン朝とビザンツの戦いで、626年のコンスタンティノープル襲撃失敗以後、一気にサーサーン朝が崩れだした感があります。
それまではメソポタミアへ侵入することさえ許さなかったのに。
この襲撃のとき、シャヒンやシャールバラヅの軍勢は壊滅したんでしたっけ。
それとも、ちょっとソースが不明なんですが、このころからハザール人4万がビザンツ軍に加わったそうですが、それがよほど強力だったのか。
- 212 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 02:46:42 0
- >>211
コンスタンティノープル攻防戦のとき、サーサーン朝の軍隊は、
第一軍(黄金槍部隊と呼ばれた)、第二軍(ヘラクレイオス帝とその弟テオドロス
の合流を阻止するのが任務だった)、第三軍(総司令官はサルバルで、アヴァール
と呼応する作戦をたてていた)の三つでした。
一方ヘラクレイオス帝はサーサーン朝の領内奥深く侵攻し、サルバラザは
冬季だという理由でサルバンの城壁内で安閑としていたところをビザンツ軍に
急襲されます。ペルシア人の地方太守や貴族たちは殺されるか捕虜になり、
総司令官サルバラザは一目散に逃走しましたが、彼の黄金の鎧はビザンツ側の
戦利品となりました。
- 213 :212=213:2005/08/04(木) 02:55:58 0
- その後ヘラクレイオスは自軍を分割して一万二千の重騎兵をコンスタンティ
ノープルの救援に差し向け、ペルシア軍が同盟軍の敗北を座視したため、
アヴァール軍とスラヴ軍は撃退されます。
その後ヘラクレイオスはファシス河畔へ退却し、ここでペルシアの黄金槍部隊
との戦いを継続します。コンスタンティノープル開放の報せを聴いた後、
彼はハザール人と同盟を結び、可汗のジベールは4万人の騎兵を率いて
オクサス河畔での陽動作戦を開始したので、ペルシア軍は一気に撤退。
サルバルは依然としてカルケドンの重要拠点を確保していましたが、
彼は何らかの理由(ホスローの密書を手に入れて自分の処刑命令を知ったが、
この密書はビザンツ側が偽造したものだとの説がある)でホスロー2世に
忠誠を尽くすことをやめ、ヘラクレイオス帝と単独講和しました。
- 214 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 22:09:03 0
- みんな、サーサーン朝の固有名詞をどう表記してる?
アノーシーラワーン(アヌーシールヴァーン、ヌシルヴァン)
カワード(クバード)
シャープフル(シャープール)
ナルセ(ナルセス)
ワフラーム(バハラーム、ヴァラネス)
ホルミズド(ホルムズド)
ボーラーン(ブラーン)
チョービン(チュービーン)
シャフリヤール(シャフルボラーズ)
アーザルメードゥフト(アザルミド)
ペーローズ(ピルーズ)
ザーマースプ(ジャーマースプ)
- 215 :世界@名無史さん:2005/08/05(金) 05:38:30 0
- タバリーなどのイスラム時代以降のアラビア語・ペルシア語による
年代記や文学作品での表記と、サーサーン朝時代のコインなどの碑刻、
金石学、中世ペルシア語史料などの中期イラン語学との間で起る若干の
表記上の違いで使い分けてる感じかな?
たとえばホスロー1世は、正則アラビア語の表記だったら「フスラウ」だけど
通常は近世・中世ペルシア語の文脈から「ホスロウ」か「ホスロー」。
アラビア語の綴りから「ヌーシルラワーン」とか「アヌーシールワーン」、
近世ペルシア語だったら「アヌーシールヴァーン」。
中世ペルシア語の原語表記からだったら「アノーシャグ=ルワーン」とか。
バフラームもアラビア語、ペルシア語の文脈だったら「バフラーム」だけど、
碑文とかだったら綴りに従って「ワフラーム」とか「ワルフラーム」。
ホルミズドの場合も中期イラン語の立場では「オフルマズド」とか「オーフラマズド」
とか書かれるか。ちなみにこれは「アフラマズダー」の中世ペルシア語形。
- 216 :世界@名無史さん:2005/08/05(金) 13:24:08 0
- >>215
ありがとう。道理で資料によって表記がまちまちのはずだわ。
ヨーロッパ人の書いたものだと、ペルシア語の人名をギリシア風に表記
したりしている。
例)シールエ→シロエス
- 217 :世界@名無史さん:2005/08/06(土) 00:28:32 0
- 西洋人はヘロドトスの影響で、ローマ(ビザンツ)帝国とペルシア帝国が常に
敵対関係にあったかのようなイメージを持っているが、
サーサーン朝にとって重要だったのは中央アジアで、ホスロー2世時代は
むしろ例外だった。
- 218 :世界@名無史さん:2005/08/06(土) 00:49:12 0
- ローマより中央アジアということはないでしょう。なぜならササン朝代に
成立した碑文の多くは、ローマとの戦争についてしか語っていない(たしか
当方国境についてはゼロではなかったか?)
そもそも東方が重要ならイラクに首都を置くかな?
タバリーの史書にしても、クシャン朝やエフタルについての情報よりもローマの情報の方が
はるかに多い。
- 219 :世界@名無史さん:2005/08/06(土) 23:12:50 0
- >>218
サーサーン朝の収入の5分の2がメソポタミアからだったんだっけ?
シャープール1世の時代にはフージスターンに地中海東部の建築家や技師が
強制移住させられている。
- 220 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/08/07(日) 01:21:47 0
- >>212=213 さん
遅レス相すみません。
詳細なご説明ありがとうございます。
私は尚樹啓太郎著『ビザンツ帝国史』を見ていたので、それと比べて見てお許しいただけるならご質問を。
私はシャールバラツ(=サルバル?)はコンスタンティノープル包囲の失敗からシリアへ引き上げたのかと思っていましたが、実態は大分違うようですね。
第2軍団(尚樹氏のいうシャヒンの軍団)は無事に退却できたのでしょうか。
>自軍を分割して一万二千の重騎兵
>ペルシア軍が同盟軍の敗北を座視
このときイラクリオスはカパドキアに居たんですよね。
それがカルケドンを通って帝都へ援軍を送ったんですか、海軍で輸送したんじゃなく?
うーむ、分からなくなってきたな。
- 221 :世界@名無史さん:2005/08/07(日) 20:57:01 0
- >>220
ホスロー2世がシリア、エジプト、小アジアの大部分を制圧した後でも、
制海権はビザンツ側が握っていた。
- 222 :世界@名無史さん:2005/08/08(月) 02:53:07 0
- >>220
横レス失礼ながら、手許にあるタバリーの歴史によると、
第1軍は「ルミーヴァザーン(?)」という名前で、シリア(シャーム)地方に
進攻してパレスチナの諸地域、エルサレムを占領して司祭やキリスト教徒たちを
征服し、「十字架」を手に入れ、624年までシリアと「十字架」はホスローの許にあった、
とあります。
その第2軍は「シャーヒーン」と称して「ファードゥーセバーン(?)」なる人物が
西方にあって進行し、エジプト、アレクサンドリア、ヌビアの諸地方を手に入れ、
アレクサンドリア市の(城門の?)鍵を獲得してホスローの許に送り、これが628年まで
続いた、と出てきます。
第3軍は「ファルハーン(?)」と称してこれをシャフルバラーズという人物が統率して
コンスタンティノープル攻撃を指揮していた、とあります。この時湾(金角湾?)の岸辺から
上陸して、戦死した将軍モーリーク(?)の報復としてビザンツの諸地方を荒廃させたが、
ビザンツの人々は降伏せず悪人で無信仰かつ無分別であった自らの皇帝を殺し、ヒラクル
(ヘラクレイオス)という名前の人物を皇帝として推戴した、とあります。
最後の部分は時期的にどうなんでしょうか(w
このシャフルバラーズという人物は、後にホスロー2世の孫アルダシール4世を弑殺して
王家の出身でないにも関わらず皇帝を僭称した人物と同一人だとされているそうです。
- 223 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/08/08(月) 21:42:30 0
- >>221 さん ありがとうございます。
>>222 さん
>>222 さん
「タバリーの歴史」を検索してみた→「英訳版全39巻」。
歯がたたん、手が出ん。内容を教えて下さって本当ありがたいです。
前出の「ビザンツ帝国史」の時系列による私の理解は
1・フォロスの簒奪
2・ホスロー2世の小アジア侵攻開始
3・イラクリオス(ヘラクレイオス)帝都へ乗り込む→皇帝即位
4・ホスロー2世西方へ攻撃開始。シリア、パレスチナ、ついでエジプト攻略。
5・イラクリオスの反撃開始
6・ササン朝の逆襲。ササン朝陸軍、アヴァールの陸海軍が626年のコンスタンティノープル包囲。
私は6の時点にしぼって話をしていましたが、ササン朝の3軍団編成は2の段階からだったのですねえ。
>この時湾(金角湾?)の岸辺から 上陸して、戦死した将軍モーリーク
これは「2」の時点で起きたことなのでしょうね。しかし海軍の無いササン朝がどうやって海峡を渡ったのか?
>「十字架」
これ630年にビザンツに返還されたことになってますが、多分偽者なんでしょうね…
- 224 :世界@名無史さん:2005/08/08(月) 23:13:19 0
- >>223
サーサーン朝領内にはネストリウス派キリスト教徒がいたから、彼らが
「真の十字架」を持っていたりして。
- 225 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 00:25:17 0
- 話題ぶったぎってすみませんが、ゼルヴァン教について質問です。
ゼルヴァン教というのはザラツシュトラ教のオフルマズドとアングラマインユの
二項対立を克服すべく、両者の背後に永遠時間の神ゼルヴァン・アカラナを設定して
ザラツシュトラ教を一神教に還元しようとした宗教思想という理解は正しいでしょうか?
- 226 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 00:57:00 0
- >>225
正しいと思います。メアリーボイス(山本由美子訳)「ゾロアスター教3500年」に
よると、ズルワーン教という名詞ででています。ササン王家の崇拝したのは
ズルワーン教だったとか。別の宗教というより、ゾロアスター教の中の宗派という
ことのようです。
- 227 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 23:21:46 0
- ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%B3
- 228 :世界@名無史さん:2005/08/15(月) 22:45:32 0
- >211
もうすぐ同じような光景が見られるかもな。
アフマディネジャドの相手はヘラクリオス以上の冒険主義者だ
- 229 :世界@名無史さん:2005/08/15(月) 22:52:58 0
- まがうことなき民主主義国家のイランに、どう難癖をつけるのかが楽しみだ。
さすがにもう大量破壊兵器なんていうのは通用せんし。
- 230 :世界@名無史さん:2005/08/23(火) 23:43:52 0
- ヤズデギルド1世は、メソポタミアでは評判がよかったが、イラン高原に住む
保守的な貴族からは嫌われ、「罪人のヤズデギルド」と呼ばれた。
(キリスト教徒と親しく付き合ったため、キリスト教に改宗したと誤解された)
- 231 :普段はROMの人:2005/08/24(水) 23:40:29 0
- あまりの皆さんの知識に圧倒されつつスレを読んで、一人感動してました・・・。
ちょっとスレタイとはそれるんですが、高校時代の世界史の資料集に
「ササン朝時代のアクセサリー」(古戦場跡より出土)というのが載っていました。
金色の金具のピアスにバロックの真珠が雫状にぶら下がっているタイプで、
工房だった私は一人で勝手に萌えていたんですけど、先日シルクロードの
旅行記のサイト(ブハラ)で、サイトを作った人が買ってきたピアスが
まさにその資料集のデザインのものと似たテイストで、ものすご〜く再度
萌えてしまいました。
やっぱりそういう当時のデザインとか美意識っていうのは、今でも残っている
ていうのが、ちょっと感動・・・・。
書き込みされてる方で「あ〜〜その資料集は知ってるし、現地でそういうの売ってるよね」
って、わかる方いらっしゃいます?
もう少し平和になったら行きたい・・・。
全然関係なくってすみません。
- 232 :世界@名無史さん:2005/08/26(金) 12:54:16 0
- ttp://www.miho.or.jp/booth/html/artimg/00000466_01.htm
ttp://www.miho.or.jp/booth/html/artimg/00000468_01.htm
アケメネス朝時代の宝飾品
- 233 :世界@名無史さん:2005/09/14(水) 02:36:50 0
- , .
- 234 :ナポレオン ◆oxskxXY/hA :2005/09/14(水) 07:27:38 0
- どもです。若狭さんがいますね。
私の手元にはビザンツ側の史料『セオファニス年代記』の英訳版があるのですが、
その625−626年の条によると経過は>>212-213さんの記述とは微妙に違っています。
>>212-213さんの典拠はイスラーム史料ですかね? タバリー?
以下に要約を記しますので、比べてみるのも面白いかと。
1、ホスローは軍隊を2つに分けます。
1つは新しく編成した兵に
サルバロス(セオファニスはこう書いている、別の箇所ではシャルバラザスとも)の重歩兵5万を加え、
これを「黄金槍部隊」と名づけてサイン(シャヒーンのことでしょう、セオファニスはry)将軍に与え、
イラクリオス迎撃に向かわせます。
一方サルバロスには残りの軍隊を与え、コンスタンティノープルに向かわせ、
アヴァール人、ブルガール人、スラヴ人、ゲピド人とともにコ市を包囲します。
2、これに対してイラクリオスは軍を3つに分けます。
1隊は指揮官不明、コ市救援に向かう。
1隊はセオドロスに与えてシャヒーンの黄金槍部隊に向かわせる。
最後の本隊は皇帝本人が率いてラジカにあり、ハザールと同盟交渉。
3、セオドロス、シャヒーンを撃破
場所不明。経過不明。ちなみに勝ったのは神と聖母が力添えしたから、だそうな。
ホスローは激怒し、恐れおののいたシャヒーンは病気になって死亡。
死体は塩漬け保存の上ホスローのもとに運ばれ、ホスローは死体に侮辱を加えたとあります。
- 235 :ナポレオン ◆oxskxXY/hA :2005/09/14(水) 07:48:58 0
- 4、ハザール、ペルシアに侵攻。
率いるのはジーベル、セオファニスは可汗ではなく可汗に次ぐ将軍としています。
イラクリオスとジーベルは会見して同盟成立、
ジーベルは4万の兵をイラクリオスに与えて自分はハザールに帰っていきます。
5、シャールバラズ、アヴァールのコ市包囲
シャールバラズはカルケドンに陣を張り、トラキアからのアヴァール人がコ市を攻撃します。
攻城兵器を用い、ドナウ川から多くの小船(丸木舟?dug-out boats)を繰り出して金角湾内に侵入し、
(ここでよくわからんのがビザンツ海軍はどこ行ったのか)
10日間にわたって包囲戦が続きますが、最終的にアヴァール人は撤退します。
ビザンツの勝因は神と聖母の力添えがあったから。またかよ。
シャールバラズはカルケドンにとどまったまま越冬し、対岸を脅かし続けます。
以上、625−626年の条の要約でした。
これ以降のことは626−627年の条に書かれていますが、
まだちゃんと読んでない&やたらめったら長いのでまたあとで。
次はもっとはしょって書くと思います。
- 236 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/09/16(金) 22:17:08 0
- >>ナポレオンさん 『セオファニス年代記』の抄訳
うわー、ありがたい。
いまのことろ、画像のスキャンとオープニングのかかったところ(まだイラクリオスさえ出ていない)ので、今後の構成に大変参考になります。
しかし私は「ローマ帝国衰亡史」に頼ってるお粗末な状況ですからは212-213さん、222さん、ナポレオンさんの記述の違いをどう整理してよいのやら。
まあ、あまり細かいところには踏み込まずにやるしかないでしょう。特にコ市解放後は一気に流すつもりでいますから。
しかし誤魔化しきれない(あいまいにできない)のが
・アヴァール撤退理由 ハザール参戦のタイミング(同盟してから出兵? 出兵後の同盟?)
・コンスタンティノープル解放の理由(ここを山場にしたい)
わたしゃ、
1 ビザンツ海軍の勝利→イラクリオスの援軍到着
2 陸上での対アヴァール勝利→コンスタンティノープル解放
3 ハザール、ビザンツ側で参戦→ササン朝動揺、アヴァール北方へ撤退
4 シャヒンの敗北 サルバルの単独講和(将軍名は出すつもりありません)
5 イラクリオス、メソポタミアへ侵攻開始
の流れで構成しようと考えていたんですが、ウーム…
いっそ冒頭に「この作品はフィクションであり…」ってつけたろか(ry
- 237 :世界@名無史さん:2005/09/20(火) 00:33:39 0
-
- 238 :世界@名無史さん:2005/10/05(水) 19:48:29 0
- パルティアの軍隊だって
ttp://www.iranchamber.com/history/parthians/parthian_army.php
- 239 :世界@名無史さん:2005/10/05(水) 22:38:35 0
- >>223,236
先日、図書館でタバリーの『諸使徒と諸王の歴史(ta'tikh al-rusul wa al-muluk)』
の英訳をコピーしたのですが、サーサーン朝の箇所が、出版年が1999年とわりと
最近で、訳者が高名なボズワース Clifford Edmund Bosworth (Encyclopedia of
Islam の主要編纂委員でイスラム史学の大家のひとり)だったので驚きました。
ちなみに英訳では5巻目にあたります。
それでグーグルとアマゾンで検索したらまだ購入できそうな感じでした。
ハードカバーは1万円以上するのでなかなか手が出しにくいですが、
ペーパーバック版は4千円ほどで購入できるようです。この際だからと買って
しまおうかどうか悩むところです。
"The History of Al-Tabari":vol.5, 'The Sasanids, the Byzantines,
the Lakmids, and Yemen '
○ハードカバー版
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0791443558/qid=1128519059/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/250-1786001-8577002
○ペーパーバック版
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0791443566/qid=1128519059/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/250-1786001-8577002
- 240 :238:2005/10/06(木) 18:47:28 0
- >>184で既出でしたか・・・
- 241 :世界@名無史さん:2005/10/24(月) 21:53:46 0
-
- 242 :世界@名無史さん:2005/10/25(火) 01:50:21 0
- ぬるぽぽぽ
- 243 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/10/25(火) 23:42:02 0
- 私信まことに失礼いたします。
239氏はじめ、多くの方にご教授いただいたことでお粗末ながらも形になりました。
スレ違いではありますが一言お礼を申し上げたく、
ありがとうございました。
私自身も今回を通じてササン朝にさらに興味を惹かれましたので、今後も訪問させていただきます。
- 244 :世界@名無史さん:2005/11/12(土) 21:37:35 0
- age
- 245 :世界@名無史さん:2005/11/22(火) 22:05:26 0
- パルティアもサーサーン朝もローマとの抗争で国力を消耗し、その隙に、
他国に滅ぼされたのは変わらんなあ。
- 246 :世界@名無史さん:2005/11/23(水) 08:13:16 0
- 皮肉ですよね
- 247 :世界@名無史さん:2005/11/24(木) 08:09:21 0
- ローマはでかい存在だったわけだな
- 248 :世界@名無史さん:2005/11/25(金) 08:16:44 0
- ペルシアとエフタル・突厥との抗争について教えて下さい。
- 249 :世界@名無史さん:2005/11/25(金) 15:03:33 0
- ササン朝とサーサーン朝とどっちが正しいんだ?
- 250 :世界@名無史さん:2005/11/26(土) 10:26:00 0
- クトゥルーとクトゥルフは(略
- 251 :世界@名無史さん:2005/11/26(土) 10:28:54 0
- >>248
ササン朝の対エフタル戦は結構把握しにくいよ。
というのも、ササン朝は対エフタル戦の前、
あるいはエフタル戦と平行して、キオンやクシャン残党
(キダーラなど)と戦っているんだが、これらとエフタルを
ごっちゃにしている本・論文が多いから。
とりあえず
内藤みどり「エフタル民族とその発展」『東西文化交流史』1975
で大筋をつかんで問題点を理解してから、
榎一雄の匈奴〜キダーラ〜エフタル関連論文を当たるといい
(汲古の『著作集』に全部そろってる)。
- 252 :世界@名無史さん:2005/11/27(日) 17:32:00 0
- エフタルという国じたいマイナーだからな
- 253 :世界@名無史さん:2005/11/27(日) 22:02:22 0
- このスレについて、きわめて基本的な疑問なんですが、
どうしてアケメネス朝ペルシャを話題にしないんですか?
僕なんかは、ペルシャといえばアケメネスという
イメージなんですが。
- 254 :世界@名無史さん:2005/11/27(日) 22:10:23 0
- 「中世」だからだろ。
ササン朝まで「古代」という意見の方が優勢だけど。
- 255 :高知中将ジーモン土佐守ジョーカー:2005/11/27(日) 22:17:03 O
- イスラーム化される前までのイランの方が萌え〜だな。
アケメネス朝、パルティア、ササン朝。
- 256 :253:2005/11/27(日) 22:19:21 0
- >>254
パルティアも中世?
- 257 :世界@名無史さん:2005/11/27(日) 22:34:45 0
- パルティア、ササン朝みんな古代だろな。
って言い出したらこのスレの存在価値なくなるから
放置してるけど
- 258 :世界@名無史さん:2005/11/28(月) 00:33:15 0
- 使用されているパルティア語やパフラヴィー語が中期(中世)ペルシア語だからとか?
古代ペルシア語とパルティア語やパフラヴィー語では全然別の言語と思える程変化が
激しく、その意味では「古代」語の世界と「中世(中期)」語の世界と言えるのかも知れんけども。
- 259 :世界@名無史さん:2005/11/28(月) 08:06:13 0
- まあ、2chnでそこまで固いこと言わなくてもいいかも。
- 260 :世界@名無史さん:2005/11/28(月) 08:17:53 0
- >>254
このスレの設定が、アレクサンドロスの死以後からだし、別にアケメネス朝ペルシャ
のスレがあるからよ。別にきわめて基本的な疑問ではないですよ。
- 261 :世界@名無史さん:2005/11/28(月) 22:35:56 0
- 宮崎イティサダによると、アレクサンドロスの死から
イスラームの登場までがまさしく西アジアの「中世」。
- 262 :世界@名無史さん:2005/11/28(月) 22:40:56 0
- >>260
アケメネス朝ペルシャ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1079357659/
- 263 :世界@名無史さん:2005/11/28(月) 23:25:50 0
- > 宮崎イティサダ
せめて足利博士にしてもらいたい(w
- 264 :世界@名無史さん:2005/11/28(月) 23:56:26 0
- アケメネス朝ペルシャはどう考えても古代やろ
- 265 :世界@名無史さん:2005/11/29(火) 00:02:35 0
- パフレビー朝イランは?
- 266 :世界@名無史さん:2005/11/29(火) 03:43:46 0
- >>255
個人的にはそこにバクトリア クシャン エフタル メディア エラム セレウコス朝あたりも加わる。
なんか心引かれるよねぇ。
- 267 :世界@名無史さん:2005/11/30(水) 08:56:17 0
- 引かれませんよ
- 268 :世界@名無史さん:2005/12/11(日) 00:58:12 0
- age
- 269 :世界@名無史さん:2005/12/11(日) 23:25:56 0
- まだ早いよ
- 270 :世界@名無史さん:2005/12/28(水) 13:05:50 0
- 7世紀以降のイランはアラブと区別がつかん。
- 271 :世界@名無史さん:2005/12/30(金) 21:54:23 0
- シーア派だの文学だの、全然違うじゃないか。
- 272 :世界@名無史さん:2006/01/07(土) 08:54:48 0
- アラブ人の支配化に入ったからや
- 273 :世界@名無史さん:2006/01/07(土) 20:50:02 0
- イラン人もアラブ人も大ペルシア帝国の国民だったんだし、
大した人種の違いはないんじゃないの?
- 274 :世界@名無史さん:2006/01/08(日) 00:11:18 0
- そうするとギリシャ人も大ペルシャ帝国の国民だったわけだが。
- 275 :世界@名無史さん:2006/01/08(日) 13:23:05 0
- トルコ西部とか?
あの辺もかなり混血進んでたんじゃないの?
- 276 :世界@名無史さん:2006/01/08(日) 17:56:35 0
- アラブがイランを支配していたのは640-1050くらいの400年くらいの間だけ。
しかもその間900年頃からは、イラン人の総督が独立王朝的にイランを支配したので、
実質アラブがイランを支配したと言えるのは640-900年頃の260年程度に過ぎない。
その後はトルコとモンゴルの支配になった。
- 277 :世界@名無史さん:2006/01/08(日) 18:31:17 0
- トルコ系とイラン系の民族って元々は同じ様なトコにいたんでしょ?
どういう区別があるんだかわからん。
単に言葉だけ?
- 278 :世界@名無史さん:2006/01/08(日) 18:34:26 0
- イラン系民族の原郷はウクライナあたり
トルコ系民族の原郷はバイカル湖あたり
全然別
- 279 :世界@名無史さん:2006/01/08(日) 18:52:38 0
- 少なくとも言語的には、イランはトルコよりも、ゲルマン人やローマ人、ギリシャ人、
インドの一部などに近い。で、彼らの源郷が南ロシアにいたころ、元は同一民族だった、
という説が支配的(インド・ヨーロッパ語族)。アラブはセム系でアラビア半島からシリアのあたり、
トルコはアルタイ系とされ、バイカル湖あたり。
かなり以前(少なくとも紀元前4000年以前)の段階から、別々のところにいたことは間違いない
ので、言語だけの違いとはいえない。
- 280 :世界@名無史さん:2006/01/08(日) 19:42:09 0
- ウクライナにいたイラン系ってスキタイの事か?
- 281 :世界@名無史さん:2006/01/22(日) 16:07:57 0
- ササン朝君主たちの権威と豪奢が
世界史上でもまれにみるほどのレベルだったってホント?
- 282 :世界@名無史さん:2006/01/24(火) 01:34:27 0
- 岩波文庫の『王書』が復刊されてたので入手。
しかし全訳が欲しい...
- 283 :世界@名無史さん:2006/01/25(水) 22:36:54 0
- >>281
「楽園」という名前の非常に豪奢な絨毯が謁見の間にしかれていたという
- 284 :世界@名無史さん:2006/01/27(金) 01:36:32 0
- >ササン朝君主たちの権威と豪奢が
>世界史上でもまれにみるほどのレベルだったってホント?
皇帝達は、自らを神々しく見せるために、髪や髭に金メッキ
をしていたと、聞いたことがある。
- 285 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 21:26:22 0
- ササン朝うぜえ・・・
全く進歩的な香りがしねえ。
- 286 :世界@名無史さん:2006/01/29(日) 21:44:43 0
- ササン朝はあまりパッとしないな
アケメネス朝と比べるとどうも見劣りする
文化的に見れば良いんだろうが
- 287 :世界@名無史さん:2006/02/26(日) 03:52:30 0
- ササン朝のクテシフォンの宮殿。大ヴォールトがある。
ttp://oak.zero.ad.jp/~zae06141/iranroma2.html
ttp://hikakukentiku.web.infoseek.co.jp/dic01/Iwan.htm
ttp://www.geocities.jp/rihoh/iraq.html
- 288 :世界@名無史さん:2006/02/26(日) 16:31:50 0
- ササンがイスラムにあっさり征服された理由は?
- 289 :世界@名無史さん:2006/02/26(日) 16:40:03 0
- 日本が創価にあっさり征服されたのと同じ理由。
- 290 :世界@名無史さん:2006/02/26(日) 16:45:20 0
- _,,,g醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴齟. .
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- 291 :世界@名無史さん:2006/02/26(日) 17:32:16 0
- ササン朝に進歩的な印象が無いのは、科学技術については、ギリシャ・ローマの移入が
多いからかも。でも、ペルセポリスも、ギリシャ人のエンジニアが作ったんだよね。
純粋なオリエント建築ではない。
ササン朝時代、グンデ・シャープールや、ビシャプールという町、幾つかのダムや橋が作られたが、
それらは、ローマ人捕虜によって作られた。医学で有名なグンデ・シャープールも、ギリシャ・ローマ人の医者や学者が
移住してきたもの。じゃあササン朝になんの進歩的要素がないかというと、そうでもない。
1.クテシフォンの遺跡は、純粋にオリエント・イラン建築。後のアッバース朝の遺跡に多数見られるレンガ
積みの遺跡をみると、ササン朝建築を引き継いでいることがわかる。もし、ササン朝遺跡がもっと
多数残っていれば、も少しイメージがよくなったかも。また、アッバース朝遺跡自体、知名度が低い
(バグダードが残ってないのが致命的)ので、知られていない一面もある。もっとアッバース朝遺跡が
知られるようになれば、ササン朝の貢献も、認知度が上がるかも。
2.千一夜物語の原型は、パルティア・ササン朝下で成立している。ユダヤ経典タルムードも
ササン朝治下のイラクで成立した。マニ教で有名なマニは画家として名を残している(作品が
残っていないのが致命的だが)。ササン朝の銀貨は、ローマの銀貨より薄くて扱いやすく、品質も
よかった。ガラス細工や装飾工芸・絨毯などが発達した。ササン朝時代思想・文芸の発達は看られている。
致命的な点は、比較的市井の文化みたいなものが一切看られなかったところ。マニのような宗教者の著作は
残っていても、普通の知識人の著作は残っていない。岩波古典に翻訳されるような、文化的書籍でも残せば、
イメージは上がったかも。工芸も、民衆の利用遺物みたいなものが残っていないのが致命的か。
- 292 :世界@名無史さん:2006/02/28(火) 00:55:42 0
- >>290
ハタミ?金成日?
- 293 :世界@名無史さん:2006/03/03(金) 23:55:23 0
- 畑見や露ペルシアのスレだし
- 294 :世界@名無史さん:2006/03/06(月) 00:37:27 0
- >>287のササン朝のクテシフォン宮殿ですが、
間口26.25m、高さ30m、奥行き49.9mということです(新建築1998/12,P210)。
10階建マンションほどの高さがあるってことですな。
- 295 :世界@名無史さん:2006/03/12(日) 20:50:35 0
- この手の数字はたいていふ〜んですますが、
あらためて考えてみると、この時代にこりゃ凄いわ。
古代南アラビアにも高さ二百メートルの城があったらしいが・・・
- 296 :世界@名無史さん:2006/03/12(日) 21:43:15 0
- ササン朝第26代のシャルバラーズは系譜不明
主要王朝で王の系譜が不明なのは珍しい
- 297 :世界@名無史さん:2006/03/20(月) 20:02:06 0
- パルティアにもよくわからんのはあるが
- 298 :世界@名無史さん:2006/03/25(土) 16:07:32 0
- バクトリア
- 299 :世界@名無史さん:2006/04/11(火) 03:34:11 0
- 東ローマVSササン朝ペルシアVSイスラム共同体の三国志に超萌え
- 300 :世界@名無史さん:2006/04/11(火) 04:13:51 0
- 良スレage
- 301 :世界@名無史さん:2006/04/11(火) 13:26:58 0
- 「バクトリア」はラテン語だが、ギリシア語では何と表記するのが正式ですか?
- 302 :世界@名無史さん:2006/04/11(火) 20:13:47 0
- >>301
> 「バクトリア」はラテン語だが
英語じゃないのか?
「Bactria」て表記だけど。
- 303 :世界@名無史さん:2006/04/11(火) 23:35:40 0
- アケメネス朝の碑文でバクトリア地方をどう呼んでいるか知りたいということ?
- 304 :世界@名無史さん:2006/04/20(木) 23:51:21 0
- アルタバリーの歴史では、パルティアについて触れられているのでしょうか。
- 305 :世界@名無史さん:2006/04/21(金) 00:21:53 O
- アケメネス朝のダレイオス(ダーラヤワウ)1世治政時に造られたベヒストゥン(ビーソトゥーン)碑文によると
()内古代イラン語
バクトリア(バークトリ)
ソグディアナ(スグダ)
パルチア(バルサワ)
アルメニア(アルミナ)
バビロニア(バービル)
アラビア(アラバーヤ)
エジプト(ムドラーヤ)
イオニア(ヤウナ)
となっております
- 306 :世界@名無史さん:2006/04/21(金) 07:10:19 0
- 305様
敢えてアルファベットでローマナイズ表記すると
どのようになりますか?
- 307 :世界@名無史さん:2006/05/03(水) 22:56:59 O
- いいスレあるね
- 308 :世界@名無史さん:2006/05/04(木) 02:05:08 0
- オライリーから、またこんな書籍が出てます。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1841767131/249-0823353-8138716?%5Fencoding=UTF8
なんだかんだいって買ってしまいましたが、シーリーンや、シャフルバラーズの妻、ボーラーン(多分皇帝のボーラーンと同一人物ですよね?)
のカラーイラストがある。シャープール2世、ホスロー2世、バフラーム・チュービーンのカラーイラストもある。
あと、以前同じオライリーのシリーズのパルティアとササンの軍隊の書籍で、
騎兵の軍装が中世欧州のものと似ているところに、ちょっとひいてしまったような
意見があったけど、ササン朝の装備が中世欧州に影響した、という方が正しいのでは
ないかと思う。パルティア騎兵の馬の軍装は、遺物が出土しているし、
アンミアヌス・マルケリヌスによると、「皮の被い」についての記載があるし、
ターグ・イ・ブスタンやナクシェ・イ・ルスタムには、騎兵彫像の遺跡もあるし、
オライリーの復元イラストも根拠なしではないので、現状想像復元としては
いいところなんじゃないのかな。
- 309 :世界@名無史さん:2006/05/04(木) 02:07:08 0
- >>295
ヒーラ王国の塔のことですかね?でもそれだと南アラビアではないが。。
ところで、マルケリヌスには、クティフォン近くの「王の運河」の入り口のところに、
アレクサンドリアの灯台を思わせる巨大な塔がある、との記載があった。
- 310 :世界@名無史さん:2006/05/04(木) 02:13:37 0
- こういうやつ?
ttp://img.photobucket.com/albums/v486/steppemerc/parth1.jpg
ttp://img.photobucket.com/albums/v486/steppemerc/parth2.jpg
ttp://img.photobucket.com/albums/v486/steppemerc/parth3.jpg
- 311 :世界@名無史さん:2006/05/04(木) 02:14:26 0
- 310は308へのレスです
- 312 :世界@名無史さん:2006/05/04(木) 02:17:45 0
- >>310
です。
- 313 :世界@名無史さん:2006/05/04(木) 11:34:37 0
- >>306
ややスレ違いな上に>305じゃないけど、↓の地図を参照されたし。手抜きで申し訳ないが。
ttp://www.livius.org/a/1/maps/persia_map.gif
- 314 :世界@名無史さん:2006/05/21(日) 20:59:23 0
- ほほう
- 315 :世界@名無史さん:2006/05/21(日) 21:58:41 O
- 俺はとっくに死んでるんじゃねぇの?
- 316 :世界@名無史さん:2006/05/21(日) 22:44:51 0
- パルティアとペルシアって発音が少し似ていますが、関係はあるのでしょうか?
- 317 :世界@名無史さん:2006/05/22(月) 00:39:58 0
- そういえば、イラン語発音のパルティアであるパルタウ、パルタヴァと、
ペルシアであるパールスは、最初の「パル」が似ているね。
何か関係あるのかもね、
- 318 :世界@名無史さん:2006/05/25(木) 03:04:51 0
- プルシャプラとペルセポリスも似ているな。
実はどちらも「ペルシャ人のポリス」という意味か?
- 319 :世界@名無史さん:2006/05/26(金) 01:43:52 0
- たしかそう。ヘカトンピュロスとかもギリシア語。現地名はわかってないんじゃなかったっけ?
プルシャプラは知らないけど、言われてみればそうかも。
- 320 :世界@名無史さん:2006/05/29(月) 18:40:13 0
- プルシャプラは「国境の町」じゃなかった?
ペルセポリスは「ペルシア市」と訳したい。個人的に。
- 321 :世界@名無史さん:2006/06/03(土) 00:30:44 0
- イランってアーリアと語源は同じなの?
- 322 :世界@名無史さん:2006/06/03(土) 02:17:32 0
- アーリア->アールヤ->アルヤーン->エルヤーンー>エーラーンー>イーラーン
- 323 :世界@名無史さん:2006/06/07(水) 01:17:29 0
- ドイツ隊によるクテシフォン発掘報告書みつけました。有料ですが。。
http://www.antiquity.ac.uk/ant/003/Ant0030434.htm
- 324 :世界@名無史さん:2006/06/11(日) 20:25:16 0
- 323=oak.zero.ad.jpです。早速報告記事を入手して、概要をまとめてみました。
ttp://oak.zero.ad.jp/%7Ezae06141/iranhistory53.html
あと、最近、525年頃、中国梁で書かれたとされる、
『梁職貢図』という絵も知りました。現存のものは、オリジナルをもとに
12世紀頃に転写したものとのことです。右から3番目がササン朝の使者と
記載されています。
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/5/52/Zhigongtu_full.jpg
今度本文の要約を作ろうと思います。
- 325 :世界@名無史さん:2006/07/17(月) 01:05:02 0
- >>316
パルティア=アルサケス朝ペルシア
- 326 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2006/07/25(火) 01:07:46 0
- ageで失礼します。
イラクにあったササン朝の属国ラハム(ラフム)朝についてですが、
ギボンの衰亡史に出てくる、
ハリドのイラク侵攻により殺害されたラフム朝最後の王「ムンダール」は
何者なのでしょうか?
ヒッティの「アラブの歴史」によると
602年にササン朝のホスロー2世により、
ラフム朝は廃されて、ヒーラはササン朝の直接統治に切り替わったとありますが、
これは攻め滅ぼされたのではなく、
ササン朝の官僚が乗り込んできて支配の実権を奪われたが
王族はヒーラに居続けることは許されていたということなのでしょうか?
- 327 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 11:40:15 0
- ペルシア史には全くの門外漢です。
サーサーン朝の諸王に関する文献資料のうち、ギリシア語やラテン語で
書かれたものには、どのようなものがあるのでしょうか?
プロコピオスらの史書はほぼ同時代のサーサーン朝の帝王に就いて
言及しているかと思いますが、例えばヤズダギルド2世・3世や
ウァラフラーン(ワルフラーム)1世〜4世といった諸王の名前や事績
を記したヨーロッパ系言語(やはりギリシア・ラテンになるでしょうが)の
出典には、どのような書目があるのでしょうか?
教えて頂きたく願い上げます。
- 328 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 15:24:00 0
- >>326
あまり詳しく無いのですが、9世紀の歴史家バラーズリーの『諸国征服誌』によれば、
ハリード麾下の軍勢はバスラに達した後はチグリス河の運河などを遡上してサーサーン朝軍と交戦、
順次その沿岸の諸都市を安全保障(アマーン)などを約すなどして征服し、最後にアザーズビフなる
アラブとペルシア本土との境域を守護していたらしいサーサーン朝の将軍を撃退したのち、ヒーラに
達したそうです。
ハリードがヒーラに到着すると、アブド・アル=マスィーフ・ブン・アムル、ハニーウ・ブン・カビーサ・
アッ=シャイバーニー、イヤース・ブン・カビーサ・アッ=ターイーの三名の有力者が訪問し、毎年、
10万ディーナール(または8万ディーナール)を納入し、かつサーサーン朝に対しアラブ側の間諜と
なること、その代わりに街の教会と城塞の破壊を免除するよう安全保障を締結したそうです。
イラク地方の住民で安全保障条約の締結でもって征服されたのは「ヒーラとウッライスとバーニキヤーだけ」
とあり、この征服の前後でイラクに駐留していたサーサーン朝軍の将軍たちは上記のアザーズビフの他には
ファッルフバンダーズ、ジャーバーン、あるいはヌハイラの戦いのミフラーンといった具合にどれも
イラン系の人物の名前ばかりで、「ムンダール」なる人物は出てこないようです。
ヒーラで交渉にやってきた3人のひとり、イヤース・ブン・カビーサ・アッ=ターイーは、ラフム朝最後の王
(マリク)であったヌーマーン・ブン・アル=ムンズィル(在位580-602年)の後のホスロー・パルヴィーズ
の治世にヒーラの総督だった人物である、という説明がありますが、それ以外にヒーラとラフム朝に関わって
いそうな人物は確認できませんでした。あるいはタバリーの方でそのような人物が出てくるのかも知れません。
- 329 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 21:05:43 0
- なんかの一般向け概説書で「ムンディル王の白い御子たち」とかゆうのが出てきた。
無関係?
素人無知スマソ
- 330 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2006/07/26(水) 23:20:33 0
- >328 329 両氏
どうも大変ありがとうございます。
やはり「ムンダール」はラフム王家とは関係なさそうですね。
>イヤース・ブン・カビーサ・アッ=ターイー
ヒーラの統治はラフム族から離れ
ホスローに任命されたターイー(タイイ)族のイヤース・ブン・カビーサに移った、
ということになるのでしょうか?
やはりラフム王国は602年に滅びたとみなすべきなのでしょうね。
- 331 :世界@名無史さん:2006/07/31(月) 12:00:28 0
- 私はペルシア史には全くの門外漢ですが、重ねて伺います。
サーサーン朝の諸王に関する文献資料のうち、ギリシア語やラテン語で
書かれたものには、どのようなものがあるのでしょうか?
プロコピオスらの史書はほぼ同時代のサーサーン朝の帝王に就いて
言及しているかと思いますが、例えばヤズダギルド2世・3世や
ウァラフラーン(ワルフラーム)1世〜4世といった諸王の名前や事績
を記したヨーロッパ系言語(やはりギリシア・ラテンになるでしょうが)の
出典には、どのような書目があるのでしょうか?
教えて頂きたく願い上げます。
- 332 :世界@名無史さん:2006/07/31(月) 13:48:15 0
- ここのサイトとかはいかがか?
ttp://oak.zero.ad.jp/~zae06141/iransource.html
このスレのログでも触れられているけど、自分は内藤みどり先生の論文中に
出て来たメナンドロスの年代記と、今は無き登塔者ヨシュアの年代記のページ
くらいしか知らない。
- 333 :世界@名無史さん:2006/07/31(月) 19:52:40 0
- >>332
> 今は無き登塔者ヨシュアの年代記のページ
シリア語でしたっけ?あのサイト面白かったのになあ。
- 334 :世界@名無史さん:2006/08/01(火) 00:06:54 0
- そうそう。シリア語の史料の邦訳というかなりの労作なサイトさんだった。
その他のコンテンツも面白かったので閉鎖されたのは今でも非常に残念。
他は、紀伊国屋とかの洋書コーナーでギリシア・ラテン語古典の英語対訳全集みたいなので
軍人皇帝とかディオクレティアヌス帝時代とかの年代記なんかあったろうか。初期教父の
著作集とかアウグスティヌス全集とかではサーサーン朝のことは触れられていたものは
あったような気もしなくもないけど・・・
- 335 :世界@名無史さん:2006/08/02(水) 16:04:03 0
- 何かと教えて頂き、寔に有り難う御座居ます。
なれど、実際にヤズダギルド2世・3世や、
ウァラフラーン(ワルフラーム)1世〜4世といった諸王の名前や事績
が登場するギリシア語・ラテン語の文献は、いづれの書目になるので
ございましょうか。
また、彼らサーサーン朝ペルシア歴代君主のギリシア・ラテン語名は何という
形になるのでありましょうか?
識者の方々の御教示を願い上げます。
- 336 :世界@名無史さん:2006/08/08(火) 12:24:33 0
- スレ違いかも知れませんが、重ねてお伺いします。
中世ペルシア語や現代ペルシア語では、アケメネース朝(=アカイメネース家)
つまり古典ギリシア語のアカイメニダイACHAIMENIDAIを、
どのように発音・表記しているのでしょうか?
ラティナイズ(=ローマナイズ)形綴りも教えて下さい。
ちなみに「アカイメネース」なる個人名は如何様に表記出来るのでしょうか?
これもローマナイズ形で御教示頂ければ幸甚です。
(出来ますれば、中世・現代ペルシア語双方のラティナイズ表記を御記し下さい)
勝手ながら、何卒よろしく御願い申し上げます。
- 337 :世界@名無史さん:2006/08/08(火) 19:41:56 0
- >>336
サーサーン朝時代以降イスラム時代に古代のハカーマニシュ王朝(Haxāmaniš īya)については
殆ど失伝状態で、ダレイオスことダーラヤワウ(Dārayavau-)1世は、伝統的なイランの
王朝史観ではカイ=クバード(Kay-Qubād)に始まる「カヤーニー王朝(Kayāniyān)」の
第8代君主ダーラーブ(Dārāb)王とされています。
ちなみのこの息子がダレイオス3世にあたるダーラー(Dārā)王とアレクサンドロス3世にあたる
イスカンダル(Iskandar)王となっています。さらにダーラヤワウの父であるヴィシュタースパ
(Viš tāspa-)はダーラーブの曾祖父グシュタースブ(Guš tāsb)王として伝承されており、
ダーラーブの父バフマン(Bahman)王はイスラエルの伝承に出てくるクーラシュ(Kūraš )王の
ことつまりキュロス2世であり、彼からサーサーン(Sāsān)という息子とフマーイー(Humāī)
という娘が出ており、このフマーイーがカヤーニー朝の王統を継いだことになっています。
つまり、イランの伝統的な王朝史観では「アカイメネース」なる人物は伝承されませんでした。
- 338 :世界@名無史さん:2006/08/10(木) 10:33:51 O
- パーレヴィー国王時代はその国家観からアケメネス、ササン朝時代を誇りにしていたらしいが
パーレヴィー国王時代に行われた古代、中世ペルシャ時代の軍装でコスプレした軍事パレードをどこかで見た記憶があるが、圧巻
今、現在のイランのササン朝の評価ってどんなもんなんですか?
- 339 :世界@名無史さん:2006/08/10(木) 11:52:03 0
- >>337
どうも有り難うございました。
「アカイメネース」をペルシア語に転写することもナイのでしょうか?
お伺いいたします。
- 340 :世界@名無史さん:2006/08/15(火) 12:50:14 0
- ヌアール・アッディーン
- 341 :世界@名無史さん:2006/08/17(木) 19:42:27 0
- عامهٔ ايران بيشتر بتاريخ اساطيرى
واقفند تا بتاريخ واقعى
- 342 :世界@名無史さん:2006/08/24(木) 14:14:33 0
- ttp://www.tobikan.jp/museum/Persia.html
ペルシャ文明展
煌めく7000年の至宝
この夏から秋にかけて、古代ペルシャの至宝の数々が東京都美術館にやって
きます。7000年前にさかのぼるペルシャ文明の全貌を紹介する本格的な
展覧会で、日本での開催は約50年ぶりとなります。
最大の見どころは、史上初の世界帝国「ペルシャ帝国」として知られ、最盛期
にはエジプトからインド、中央アジアまで支配したアケメネス朝ペルシャ
(前550−前330年)の栄華を示す出品物です。とりわけ、高貴な人物の
ものと考えられる「黄金のリュトン」は、2005年に大英博物館で公開されて
注目を集めました。他にも碗や短剣など美しい装飾がほどこされた煌めく金製品や、
当時の都で現在の世界遺産ペルセポリスから出土した浮彫や柱頭の一部から、
大帝国の富の一端をうかがい知ることができます。
- 343 :世界@名無史さん:2006/08/27(日) 18:28:24 0
- ペルシャ文明展 巡回情報
2006年 8月1日 - 10月1日 東京都美術館
2006年 10月 13日 - 12月10日 愛知県美術館
2007年 2月 6日 - 3月25日 北海道立近代美術館
2007年 4月 13日 - 6月17日 福岡市博物館
2007年 7月 11日 - 9月17日 大阪歴史博物館
四国はいつもスルーか… orz
- 344 :世界@名無史さん:2006/08/27(日) 18:33:37 0
- 四国人は大阪行けばいいじゃん。
- 345 :世界@名無史さん:2006/08/27(日) 20:44:00 0
- ロクに車も通らない血税タレ流しの橋を三本も架けてもらっても四国人はこのザマかよ。
- 346 :世界@名無史さん:2006/09/03(日) 20:36:14 0
- >>335
8世紀のビザンツで、ギリシア語で書かれたテオファネス年代記には、ササン朝支配者
氏名と統治期間がかかれているとのことです。英語版があるので、
ギリシア語の、ササン朝支配者名は、これでわかるかもしれません。
- 347 :世界@名無史さん:2006/09/08(金) 16:09:27 0
- >>342
それ昨日みてきたけどスゲーよかったよ。感動した。
- 348 :世界@名無史さん:2006/09/12(火) 00:33:35 0
- >>330
アル・タバリーの通番1018ページの、Du Qarの会戦のあたりを
読んでいたら、注釈の方に、Iyas .b Qabisahの記述が出てきて、
602年以降四半世紀、ヒーラの知事だった、との記載がありました。
この注釈の出典はわからないのですみません。読み進めれば出てくるかも
しれません。ムンディールは、602年に没したヌーマーン3世の息子で、
633年に死去、とあります。取り急ぎ
- 349 :世界@名無史さん:2006/09/16(土) 00:20:14 0
- スーレーン萌え
- 350 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2006/09/16(土) 19:00:17 0
- >348さん
遅くなって申し訳ありません。
大変ありがとうございます。
ムンディールは実在のラフムの王族でしたか。
おかげさまでバラーズリーの『諸国征服誌』を入手できました。
自分でも勉強してみます。
>>343
情報ありがとうございます。
大阪に来るのは来年か。
- 351 :世界@名無史さん:2006/09/17(日) 22:05:16 0
- バラーズリーの諸国征服史には、ササン朝の記載にはどのような内容が、
どのくらいの分量で記載されているものなのでしょうか?
- 352 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2006/09/18(月) 23:04:08 0
- >>351
読みはじめたところですが
あくまでイスラーム側の動きを中心に書かれているようですので、
ササン朝そのものの記載はあまり多くなさそうですよ。
- 353 :世界@名無史さん:2006/09/21(木) 01:27:53 0
- そうですか。ありがとうございます。
それでは急がずに、そのうち図書館に行く事にします。
- 354 :世界@名無史さん:2006/09/22(金) 21:51:35 0
- アラビア語史料で古代ペルシアの歴史についてそれなりに記してるのは、
タバリー(Ta'rikh al-rusul wa al-muluk)、
マスウーディー(Muruj al-dhahab wa ma‘adin al-jawhar、Kitab al-tanbih wa al-ishraf)、
サアーリビー(Ghurar akhbar muluk al-Furs wa-siyarihim)に
ハムザ・アル=イスファハーニー(Ta'rikh sini muluk al-'ard wa al-anbiya')ぐらいか?
ところでバラーズリーはどれで読んでるの?
アラビア語の原典?Hittiの英訳?花田先生の日本語訳?
- 355 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2006/09/24(日) 22:44:17 0
- >>354
遅レスすみません。
花田先生の日本語訳です。
- 356 :世界@名無史さん:2006/09/27(水) 22:46:40 0
- 折角の翻訳なんだから学術誌やら大学の研究紀要か何かに載っただけで
大学の地下書庫の奥深くに眠ってるよりは、昨今の厳しい出版事情は分かるけど
研究助成か何かを受けて一冊の本として出版されないものかな。
最近、慶應の出版会から出たマーワルディーの『統治の諸規則』みたいに。
- 357 :世界@名無史さん:2006/10/05(木) 00:11:33 0
- バーミヤン遺跡、7世紀の人間と猿の壁画発見
http://news.google.co.jp/news?q=%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%A4%E3%83%B3%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%80%EF%BC%97%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%80%80%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%A8%E7%8C%BF%E3%81%AE%E5%A3%81%E7%94%BB&hl=ja&lr=&sa=X&oi=news&ct=title
だそうですが、誰か画像のリンク知らない?
- 358 :世界@名無史さん:2006/10/06(金) 20:24:19 0
- サルと人間ってゆうとラーマーヤナの系統ですかね?
- 359 :世界@名無史さん:2006/10/09(月) 21:07:28 0
- ペルシャの古代、中世はそれぞれいつくらいのことをいうの?
- 360 :世界@名無史さん:2006/10/10(火) 06:13:47 0
- >>359
ぶっちゃけ使う人によって様々。分け方としては、
サーサーン朝までが古代で、イスラーム時代を中世。サファヴィー朝時代からを近代としたり、
ハカーマニシュ(アケメネス)朝時代までを古代、パルティアからサーサーン朝時代までを
中世、イスラーム時代以降を近世とする人もいたりする。前者はどちらかというと西洋の時代区分を
引きずった区分け。後者は言語学上での古代語、中期語、近世語の区分にもとづいたものだから
これはちょっと違うが。
場合によってはモンゴル時代が重大な画期だったからサーサーン朝滅亡からモンゴル帝国直前
までを中世にする人もいる。
ただ、(イラン・)イスラーム史やモンゴル帝国史などをやっている研究者の人たちは、
ハカーマニシュ朝は古代と問題なく呼んでいるが、それ以降はパルティアやサーサーン朝など、
王朝名や政権などで時代を区切ったり、テュルク系やイラン系などの政権の動静がイラン地域や
その周辺にどのような影響を与えているかなどを総合的に判断して時代状況を考えているので、
「中世ペルシア語」などの特定の用語以外では、時代区分として「中世」という名称は使わなく
なってきている。
- 361 :世界@名無史さん:2006/10/27(金) 20:30:21 0
- あげ
- 362 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 18:22:13 0
- 飛べだろ
- 363 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 13:18:48 0
- age
- 364 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 20:26:56 0
- グンディーシャープール
- 365 :世界@名無史さん:2006/12/08(金) 23:33:48 0
- ペルシャ文明展行ってきたけどやたら人が多くて落ち着いて見れなかった(´・ω・`)
興味あるのか世間は
- 366 :世界@名無史さん:2006/12/08(金) 23:57:02 0
- 開催期間も終わりがけになって行くからだろ。
- 367 :世界@名無史さん:2006/12/09(土) 00:07:51 0
- >>365
俺が行った時は全然混んでなかったが?
お盆かなんかに行ったんじゃね?
まあ、あんまり面白くもなかったけど。
- 368 :世界@名無史さん:2006/12/15(金) 22:08:30 0
- 英文のHP見て見つけたんだけど、
ルリスターン王国、サルガル朝、クルト朝、マーザンダーラン王国、
アゼルバイジャン王国、イラク・セルジューク朝の外交関係ってどうなって
たんでしょうか?
- 369 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 01:49:04 0
- 金の鯱鉾に通じるものがあるのだよ
- 370 :世界@名無史さん:2007/01/28(日) 08:48:40 0
- ほしゅ
- 371 :世界@名無史さん:2007/03/03(土) 14:58:01 0
- イラン領内のアゼルバイジャン系は、旧ソ連だったアゼルバイジャン共和国と
合併しようなどという動きはないのでしょうか。
一部アルメニアやクルド系の版図と重複する地域があるので実現への道は険しい
とは思いますが。
- 372 :世界@名無史さん:2007/03/04(日) 11:59:07 0
- 聞いた事無いね
この前バローチはテロやっていたけど(パキスタンの差し金かなんかだな)
- 373 :世界@名無史さん:2007/03/27(火) 15:48:07 0
- 【イラン】 ハリウッド映画「300」に大反発〜ペルシャ帝国の末えいとして誇りを傷つけられた [03/23]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1174738552/
- 374 :世界@名無史さん:2007/03/28(水) 18:06:37 O
- ゾロアスター教徒をいまだに2級市民扱いにするムスリムに言われたくないじゃ
ないか、ご先祖さまは
イスラム化が進行したときは経典の民ではないゾロアスター教徒は奴隷化された
経典の民であるキリスト教徒やユダヤ教徒は重税とはいえハラージュ(人頭税)
を払えばムスリムは彼等を少なくとも2級市民として扱った
ゾロアスター教徒が改宗できないと見るやムスリムたちはゾロアスター教徒が尊
ぶ動物である犬をゾロアスター教徒の前でわざと残忍に殺し、嫌がらせした
サファヴィー朝下ではゾロアスター教徒はまるで日本のせん民身分と同じような
生活をしていることを西欧人が記録している
現代では2級市民に“昇格”したらしいが・・・
- 375 :世界@名無史さん:2007/04/07(土) 12:16:54 0
- 犬殺しか。許せんな
- 376 :世界@名無史さん:2007/05/17(木) 12:01:51 0
- ttp://floton.exblog.jp/5084504/
サーサーン朝 エリート騎兵:The Savaran Knight
- 377 :世界@名無史さん:2007/06/18(月) 18:33:38 0
- ササン朝の貨幣を見てみたが、
時代が降るにつれて
だんだん薄っぺらになってんだよね・・。
プレートみたいな感じだね。
- 378 :世界@名無史さん:2007/07/08(日) 16:15:43 0
-
- 379 :世界@名無史さん:2007/07/10(火) 21:29:00 0
- >377
ある意味技術の進歩という側面もあったようです。
>373
文句いってないで、自分たちも、映画作ったらどうだろうね。
シャープール2世とかホスロー1世とか。
ま、そんな映画作ったら、ヘラクレイオスの映画作られて、ホスロ-2世がコテンパンに
やられるだけだと思うけど。
イランと欧米の対決映画では、イランは分が悪いね。
トルコと協力して、コンスタンティノープル征服映画でも作ったら面白いのに。
- 380 :世界@名無史さん:2007/07/19(木) 00:00:08 0
- 12-13世紀のルリスターン王国とサルガル朝について知りたいのですが、
これらについて書かれた文献はないものでしょうか。
モンゴル侵入前のペルシアを調べてます。
- 381 :世界@名無史さん:2007/07/19(木) 02:10:37 0
- ケンブリッジヒストリーオブイランぐらいしか思い浮かばない素人の俺
- 382 :世界@名無史さん:2007/08/17(金) 23:03:49 0
- age
- 383 :世界@名無史さん:2007/09/09(日) 23:57:42 0
- パルティアの時代、結構長いんだけど何もないのかね?
- 384 :世界@名無史さん:2007/09/10(月) 00:11:01 0
- ローマと小競り合いはいっぱいやってたな
- 385 :世界@名無史さん:2007/09/11(火) 23:19:57 0
- 内部抗争もしばしば
- 386 :世界@名無史さん:2007/09/16(日) 11:47:31 0
- 東部のスーレーン氏族のゴンドファルネスは分離独立してアフガニスタン南西部から
パキスタンに広がるインド・パルティア王国を作っちまった(西暦20年頃)。
そのインド・パルティア王国も二代目アブダガセス(50-65年頃)の時代には分裂した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
- 387 :世界@名無史さん:2007/10/15(月) 20:46:59 0
- (仁川=聨合ニュース)
ササン朝ペルシャの城郭が高句麗城郭と技術的系譜を一にするという
主張が申し立てられた。
仁川市立博物館ユン・ヨング学芸室長は13日午後、高麗大学博物館で
開かれた韓国古代史学会第98回定期発表会で「ササン朝ペルシャの石城」
と言う主題の踏査報告書を通じてこのように主張した。
ユン室長は「ササン朝ペルシャの都城と神殿、橋梁などすべての建築物は
長方形の整えた石を使っているし、城壁の壁体は大部分モルタル成分の
土と雑石で體城を積んで整えた城石で内外の面石としているが、これは
中国集安の国内城、抱川(ポチョン)ホロゴなどの地で見られる典型的な
高句麗の夾築(きょうちく)式城壁構成だ」と説明した。
彼はまた「ササン朝ペルシャなど西アジア地域の大部分で見られる様式
である城の下部で、傾斜を狭めて行き途中から垂直にあげる方法は、
高句麗の壁の下部様式や国内城とソクデジャ山城で見られる様式のようだ」
と述べた。
ユン室長は「ササン朝ペルシャの石垣城郭は、中国が南北朝に分かれ
ながら東で交渉(?)の全盛期を演出した4〜7世紀に特徴的な様相を見せた
高句麗城郭の技術的系譜を理解するのに有用な資料になる」と両方の
歴史と文化に対する比較研究の必要性を強調した。
一方、ササン朝ペルシャ(Sasan 朝 Persia)は226年から651年まで今の
イラン地域に位置したペルシャを支配した、ゾロアスター教を国教にした王朝だ。
ソース:聨合ニュース(韓国語)
http://news.naver.com/hotissue/daily_read.php?section_id=103&office_id=001&articl
- 388 :世界@名無史さん:2007/10/15(月) 22:37:48 O
- >>383
セレウコス朝のアンティオコス7世に滅ぼされかけたけどね
- 389 :世界@名無史さん:2007/10/15(月) 22:43:52 0
-
_ (m) _
|ミ|
/ .`´ \
∧_∧
<`∀´ ∩
(つ 丿
<__ ノ
レ
ササン朝ペルシャは韓国系国家
- 390 :世界@名無史さん:2007/10/16(火) 01:07:40 0
- 「ササン朝ペルシャの城郭が高句麗城郭と技術的系譜を一にする」
からどうやって>>389のような結論が?
- 391 :世界@名無史さん:2007/10/16(火) 01:44:27 0
- 黄河文明もメソポタミア文明も朝鮮民族が作った!?
古朝鮮の領土は北はバイカル湖から南は揚子江まで、西
はモンゴル砂漠から東は日本にいたる広大なものだった。
紀元前9000年前、東夷族である桓因はパミール高原の
下に桓国を立て、その後バイカル湖の付近に移った。紀元
前7000年前に韓国人の祖先はバイカル湖付近から分か
れ、世界各地に散らばっていった。
紀元前4500年には中国東北部に紅山文明ひいては黄
江文明を打ち立てた。紀元前3500年頃には西に向かつ
た一部が、メソポタミア一帯にシュメール文明を築き、紀
元前2700年ごろには中国南部に進出した一部がチベッ
トまで征服し、8O0年問統治した。また西に向かった一
部はフィンランドの北側に定着し、東北に向かつた一部は
べーリング海を渡つてアメりカに入りインディアンの祖先
になったという。東に向かつた一部はサハリンを伝って日
本列島に入り、日本に定着し、これが「倭」の祖先となっ
た。紀元前2173年には朝鮮族は海を渡ってこの「倭」を征
伐した。よって日本族の94%は我が同族〈朝鮮族〉であ
る。
「大朝鮮帝国史」(韓国の大手・東亜出版社が94年に出版)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog261.html
- 392 :世界@名無史さん:2007/10/16(火) 02:04:54 0
- >「ササン朝ペルシャの城郭が高句麗城郭と技術的系譜を一にする」
<丶`∀´> 大朝鮮帝国説を裏付ける証拠ニダ!!
ペルシャもメソポタミアもウリナラ起源ニダ!!
- 393 :世界@名無史さん:2007/10/16(火) 05:46:46 0
- かの国の場合、そういうトンデモを
大手マスメディアがあたかも事実であるかのように報道するのが…。
無論、あいつらの国民性が根本にあるわけだが。
- 394 :世界@名無史さん:2007/10/16(火) 22:15:49 0
- こんなマイナーなスレにも半島の話題の手が。なんか光栄といったらいいのか、
恥ずかしいと思えばいいのか、どう反応していいのかよくわからん。
- 395 :世界@名無史さん:2007/10/16(火) 23:20:18 0
- フィールーザーバードはアルダフシール1世の建設らしいが、もとはサーサーン朝のみの
遺跡だったかパルティアから続く遺跡だったか。
サーサーン朝はパルティア系の円形プランの都市と中央アジア系の方形矩形のプランの
都市、両方建設しているようだ。サーサーン朝前後の西アジア、中央アジアの都市で
円形のものはサーサーン朝の首都のクテシフォンのウェフ・アルダフシールとか
パルティア時代のハトラなんかが代表的。方形のものはニーシャープールはどうだったか
忘れたが、中央アジア、特にゾグドや突厥に対する辺境防衛基地として建設されたメルヴの
都市プランは方形の市壁を持ち、中央に十字に交差する街路を有した典型的な中央アジア系の
ものだったらしい。この種の中央アジアの方形+直線的な街路のプランは、ヘレニズム的な
影響の名残りとも中国の都市プランの流入とも言われているそうだが、
> 城壁の壁体は大部分モルタル成分の土と雑石で體城を積んで整えた城石で内外の面石としている
これはサーサーン朝云々よりは、どちらかというとローマ帝国の都市の外壁に使われた工法に
似ていると思うが・・・ 「長方形の整えた石」なんてところもそう。ヘロデ大王が大修復を
行ったエルサレムの第二神殿も「長方形の整えた石」を化粧石として外壁を覆っていたことは
有名だが、近くの紀元前後から魏晋南北朝時代の華北の都市遺跡との比較とかはしないのかねえ。
サーサーン朝の建築様式で外面とか工法はヘレニズム関係とのつながりで言われるけど、
殊に「サーサーン朝」独自となるとイーワーンのとかぐらいしか思い付かないが、
サーサーン朝限定なのはどういう理由からなんだろうか。
- 396 :世界@名無史さん:2007/10/17(水) 09:53:11 0
- 例によって、どの地域のどの時代にも共通する当たり前の事項について
高句麗建築とササン朝建築を比較して「同じ同じ」と言ってるん
じゃあるまいか。
- 397 :世界@名無史さん:2007/10/18(木) 22:11:08 0
- age
- 398 :世界@名無史さん:2007/10/18(木) 22:43:05 0
- 高句麗の城壁の写真
ttp://www.searchnavi.com/~hp/koguryo/koguryo.htm
サーサーン朝との共通点は俺にはよくワカンネ
- 399 :世界@名無史さん:2007/10/19(金) 02:18:19 0
- マイナーなササン朝史の研究に世間の関心を集めようとしたら
自国史との関連で論ずるしかないといった事情では
- 400 :世界@名無史さん:2007/10/19(金) 04:34:52 0
- >>398
うーん、なんかイメージしていたのと全然違うなあw エルサレムの嘆きの壁みたいの大きめの長方形に
切った石を壁面全体に張り付けるみたいなものかと思ったけど・・ 普通に平石を積み上げただけなのか。
イラン高原の城塞とか西に行く程泥レンガ製になっててなかなか残りが悪いけど(バムとかは保存状態良かった)、
ザグロスとか山がちなところは割と石で作られているっぽい。
ちなみに↓これが>>395で言ってたフィールーザーバード。(古名:アルダフシール・フワッラ)
シーラーズの南にある。
ttp://www.cais-soas.com/CAIS/virtual_museum/sasanian/Sites/firuzabad.htm
○航空写真
ttp://www.cais-soas.com/CAIS/Images2/Sasanian/Gur_Firuzabad/FiruzabadAerialView.jpg
○宮殿跡のイーワーン。崩落しないで割と残っている。
ttp://www.cais-soas.com/CAIS/Images2/Sasanian/Gur_Firuzabad/Firuz_abad_iwan.jpg
○宮殿跡の一部。石積みの壁は漆喰が塗られていた。
ttp://www.cais-soas.com/CAIS/Images2/Sasanian/Gur_Firuzabad/firuzabad_palace_ardashir_i_7.jpg
○宮殿跡の切り石積みの門。
ttp://www.cais-soas.com/CAIS/Images2/Sasanian/Gur_Firuzabad/Gur_Wall.jpg
同じファースル州のガルア=イェ・ドホタル遺跡(乙女の砦くらいの意味)。
ttp://www.cais-soas.com/CAIS/virtual_museum/sasanian/Sites/qaleh_dokhtar.htm
ttp://www.cais-soas.com/CAIS/Images2/Sasanian/Kal_e_Dokhtar/Qaleh_dokhtaran1.gif
- 401 :世界@名無史さん:2007/10/19(金) 13:03:08 0
- 似てるじゃないか。
ttp://www.searchnavi.com/~hp/koguryo/backram-5.htm
ttp://www.cais-soas.com/CAIS/Images2/Sasanian/Gur_Firuzabad/Gur_Wall.jpg
- 402 :世界@名無史さん:2007/10/19(金) 20:07:27 0
- むしろ、近い時代の嘆きの壁とかバールベックとかパルミラなんかの例の方が材質といい
石材の大きさといい近いと思うんだ。>フィールーザーバード
ttp://www.searchnavi.com/~hp/koguryo/ownyo-8.htm
ttp://www.cais-soas.com/CAIS/Images2/Sasanian/Gur_Firuzabad/Gur_Wall.jpg
パルミラの墓塔
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/lrg/10/38/94/lrg_10389440.jpg
嘆きの壁
ttp://zion1.matrix.jp/israel/israel10.htm
バールベック
ttp://travel.betoku.jp/image/DSC_0652.JPG
イギリスのハドリアヌスの城壁。
ttp://blog.so-net.ne.jp/mik-japan/2005-12-16-8
シリアの十字軍時代の城塞、クラーク・ド・シュヴァリエ
ttp://4travel.travel.msn.co.jp/img/tcs/t/pict/lrg/10/49/22/lrg_10492250.jpg
普通、遺跡の建物と同時代の王朝との関係を調べるには、石材やレンガの寸法とかはかって、
当時の度量衡との比較も年代測定に使われるらしいが・・>中国なら唐尺とか宋尺とか
- 403 :世界@名無史さん:2007/10/21(日) 07:08:05 0
- 中東は古い遺跡が異常に多そう
- 404 :世界@名無史さん:2007/10/24(水) 22:33:11 0
- >>383
たとえば、パルティア時代の貨幣なんて面白いと思う。
貨幣の表面に刻みつけられたパルティア王達の横顔がすごくきれいだし。
あと、パルティア支配下のペルシス王国の貨幣もエスニックぽくて、実に味わい深い。
- 405 :世界@名無史さん:2007/10/24(水) 23:48:52 0
- >>383
パルティア時代の代表的な遺跡としては、イラクのハトラ遺跡なんかがある。
メソポタミア地方におけるローマ帝国との前線基地的な都市で、半径2km程もある
巨大な円形都市。都市住民はギリシア系やアラム系(含むアラブ系)などからなっていたようで、
有力なパルティアの王族たちがかなり独立性の高い権力をもって冊封されていたそうだ。
1940年代にドイツ隊などの調査で、ヘレニズム様式の神殿や神像、ギリシア語や
アラム語の碑文が多数出土している。サッダーム・フセイン時代にもけっこう発掘調査を
行っていて、ドイツ語やアラビア語による発掘調査報告書が色々出ているそうな。
ハトラの位置。
ttp://newsimg.bbc.co.uk/media/images/40171000/gif/_40171644_iraq_hatra_203map.gif
ttp://hal9000.cisi.unito.it/wf/DIPARTIMEN/Scienze-An/Ricerche-area-archeologica/
Vicino-e-Medio-Oriente/Scavo-di-Hatra--Iraq-/index.htm
都市の中心にある神殿地区。
ttp://www.globalheritagefund.org/where/hatra.html
ttp://www.atlastours.net/iraq/hatra.html
顔の下にある文字群がハトラのアラム文字。
ttp://www.jamejamshid.com/images/sasani-shapur/127721114-hatra-parti-ashkani.jpg
ハトラ出土のパルティア王侯像
ttp://exchanges.state.gov/culprop/iraq/fi/00000034.htm
ttp://www.oberlin.edu/art/Iraq/Iraq-028.JPG
ttp://exchanges.state.gov/culprop/iraq/fi/00000033.htm
ハトラ王サナトルークの事蹟が書かれたアラム語碑文。
ttp://semitistik.uni-hd.de/beyer/hatra.htm
- 406 :でつまつ復古の大号令@名無しさん:2007/11/10(土) 20:33:13 0
- ハンドルネーム変えてもいいんですよね。
- 407 :でつまつ復古の大号令@名無しさん:2007/11/10(土) 20:37:14 0
- 初心者です。いろいろと皆さんのコミュニテイにあやかりたき次第です、なにとぞよろしくお願いします
かおもじウワァァァァァァヽ(`Д´)ノァァァァァァン! 一杯使いますけれど構わないでしょうか・・・
- 408 :でつまつ復古の大号令@名無しさん:2007/11/10(土) 20:47:26 0
- アルスラーン戦記という小説はパルティアをモデルにしいるのだそうですが、作中でそれを言及するようなパッセージはありますでしょうか。
分かる方おられましたらお教え願います、待ってます。
- 409 :でつまつ復古の大号令@名無しさん:2007/11/10(土) 21:35:36 0
- スレッドを新しく立てました。→遊牧民国家パルティア倍数分裂細胞フレッシュ。
良からば軽快にお移りくださいませ。
- 410 :世界@名無史さん:2007/11/10(土) 23:57:38 0
- パルスってファールスからきてんじゃ無いのか…
- 411 :世界@名無史さん:2007/11/11(日) 14:04:59 0
- 昔、アルスラーン戦記を詳しく分析し、史実と比較して、
小説のような軍事力の動因が実際に可能だったかどうかを詳しく
論じていた掲示板があったなぁ。マンガから入った人々が、あそこまで
歴史学的分析を行ったのには驚いた覚えがある。
あとアルスラーン戦記の筋は知らないが、絵柄をちょいと見たことがあるが、
パルティアというより、イスラーム風だったな。パルティアが舞台なら、
もう少しギリシア風の服装のはず。
- 412 :でつまつ復古の大号令@名無しさん :2007/11/11(日) 16:21:22 0
- パルス→ファールス・・・ファールスは英語でFars とありました。
ファールス地方(イラン南部)はアケメネス朝、ササン朝の発祥地なので、アルスラーン戦記のモデルはパルティアとはやはり違うのですね
分かりました、ありがとうございます。
- 413 :でつまつ復古の大号令@名無しさん :2007/11/11(日) 16:39:00 0
- 411 様に
歴史学的分析を行った掲示板
・・・その掲示板知ってます、携帯電話のお気に入りに登録しています。
タイトルに、アルスラーン戦記擁護論 の世界設定と国力分析
と、ありまして、テーマを、
一巻のアトロパテネの会戦に騎兵が85.000とあるのは多すぎではないか、として立論されていました。
確かこれだったのではないでしょうか。 ・・・私的にはパルティアならこの数の騎兵はありうると思います。
アルスラーン戦記の絵柄
調べてみたのですが、アニメーション版のポスターの絵柄からはモチーフが分かりませんでした。
パルティアの服装
地方、またイラン文化の復興が行われた後期によって違っていたのではないかと思います。
- 414 :世界@名無史さん:2007/11/12(月) 12:43:17 0
- >>411さん
掲示板情報ありがとうございます。確か、ご指摘のものだと思います。
絵柄については、漫画喫茶で、ざっと見た程度です。衣装もそうですが、建築物も
イスラーム風。資料がないので仕方が無いとは思いますが。とはいえ、
1〜3巻程度までをぱらぱらと見ただけで、その後絵柄が変化したかどうかは
見ていないので、わかりません。
後期と地方については、ご指摘の通りかと思います。
- 415 :世界@名無史さん:2007/11/12(月) 13:12:08 0
- 225 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2007/11/11(日) 13:40:56 0
「ゾロアスター教の興亡 サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ
刀水書房 著者青木健」をざっと流して読んでみた。
著者の意見を勘案すると、ゾロアスター教が世界宗教になれなかったのは、
もともと世界宗教でもなんでもなく、古代イラン高原には、イラン系の多様な宗教が
あり、アケメネス朝の記録や西方の記録に登場するマゴスの宗教とゾロアスター教は
別ものと考えた方がよいそうだ。その1宗教に過ぎなかったものが、サーサーン朝で
なぜか国家宗教に採用されてしまったが、各地にあったイラン系諸宗教・諸組織は、
何世紀かかかって統合されていった。この辺の動きは行政制度の中央集権化とだぶるらしい。
また、宗教儀礼は神官階級に独占されていて、聖典の中身も一般信徒には無関係。
神から信徒への語りかけもなく、信者は儀礼だけを習慣的に行っているだけ。
一般信徒にとってのゾ教は、ヒンドゥー教などに近いといえそうだそうな。
神官階級も、聖典が読めなくなっていて、事実上の独創解釈(ザンド)で運営していた。
土俗宗教が国家のバックアップで組織化された(日本の神道に近い?)だけなので、
世界宗教にはなれず、明確な経典があり、信者への指導がやたらあるイスラームに
太刀打ちできなかった、という意見だった。
- 416 :世界@名無史さん:2007/11/16(金) 21:07:30 0
- 古代からの文明地帯なのになぜアヴェスターの文字化は送れたんだろう。
- 417 :世界@名無史さん:2007/12/04(火) 03:00:31 0
- やはりイスラムの中世はアレクサンドロス以降と言えるのか
- 418 :世界@名無史さん:2007/12/08(土) 20:59:35 0
- イスラムの古代なんてあるのか?おい
と突っ込んでみる
- 419 :世界@名無史さん:2007/12/09(日) 07:50:59 0
- アラブと言いたかったんじゃね?
- 420 :サムソンより勧誘を混めて:2007/12/15(土) 15:18:31 O
- ねえねえ
- 421 :倍数分裂細胞フレッシュあんばさだー:2007/12/15(土) 21:46:35 O
- 上のねえねえ取り消します。すいません。
- 422 :世界@名無史さん:2008/01/06(日) 23:10:20 0
- パルティアもササン朝も400年程と結構長い歴史だね
- 423 :クワドリスキッスス:2008/01/07(月) 08:51:00 O
- パルティアは約470年間
- 424 :世界@名無史さん:2008/01/09(水) 02:37:40 0
- 古代だとオリエントって名前になるな
- 425 :クワドリスキッスス:2008/01/09(水) 18:38:21 O
- オリエントは 日の昇ってくる所 という意味
- 426 :世界@名無史さん:2008/01/20(日) 01:17:06 O
- 『Sassanian Elite Cavalry』という本を手に入れた
なにササン朝のエリート騎兵部隊Savaranには女性騎士がいたというから驚いた
ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にした時も女性騎士いたらしいね
- 427 :クワドリスキッスス:2008/01/20(日) 17:59:43 O
- ハイカラだ
- 428 :世界@名無史さん:2008/01/31(木) 23:12:41 0
- ゼノビアもびっくりだ
- 429 :クワドリスキッスス:2008/02/01(金) 00:26:37 O
- トミュリスもハイカラだった
- 430 :(人∂_ゝ チョビンだお!:2008/02/10(日) 19:18:49 0
- ┣¨┣¨┣¨┣¨ ┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨ ┣¨┣¨┣¨┣¨
ササンサンササン
(´ρ`)ブーお!
(≧_ゝ≦)\ペチ
(人ν_ゞν)今から始まるチョビンの臨時ニュースだお!!!!
http://www.tbs.co.jp/heritage/info/onair.html
2.17TBSでパルティア王国だお!!!
ニサ特集メルヴ特集お!!メルヴゎソーハ家あるお!!マルギアナのFeお!!
\(仝_ゝ仝〉/ヤター
- 431 :十酸化シリン:2008/02/10(日) 19:26:25 0
- 上手くやるのよ!(´ρ`)
- 432 :クワドリスキッスス:2008/02/10(日) 19:27:27 0
- 以上クワドリでした。
- 433 :訂正↑:2008/02/10(日) 19:30:24 0
- >>431>>432
ウィンドウ開きすぎてスレ間違えた・・・台無し
- 434 :世界@名無史さん:2008/02/10(日) 19:36:49 0
- >426
すごいなそれは。絵もついてる?エリート女性騎士に萌え。
- 435 :世界@名無史さん:2008/02/11(月) 01:58:30 O
- >>434
もちろん
黒髪の女戦士って感じが出てるな
しかもその絵には膝まづくローマ皇帝ヴァレリアヌスも描かれている
他に騎乗の女戦士のイラストもあるよ
- 436 :世界@名無史さん:2008/02/11(月) 23:59:42 0
- 新スレ:ミトラ崇拝について
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1202736014/
- 437 :世界@名無史さん:2008/03/02(日) 09:15:36 0
- 翻訳物はないとは分かっていますが、ササン朝時代から伝世された書籍には
著名なものではどんな物がありますか。アヴェスター以外で。
色々興味があって調べてみたいと思います。とかくマイナーですから。
教えて君で申し訳ない。
- 438 :クワドリスキッスス:2008/03/12(水) 22:45:06 O
- チョビン橋がruinしたそうです
- 439 :世界@名無史さん:2008/03/22(土) 13:05:32 0
- >>437
伊藤義教『古代ペルシア 碑文と文学 』岩波書店
を読んでみては?
中世ペルシア語による文学作品について詳しく説明してあるのでお勧めですよ。
- 440 :世界@名無史さん:2008/04/19(土) 00:49:45 O
- 最近サーサーン朝に興味を持った初心者です
パフラヴィー文字がサーサーン朝時代に創られたのはわかりますが、成立した時
期というのは何世紀頃なんですか?
- 441 :世界@名無史さん:2008/04/21(月) 10:51:51 0
- >>440
初代のアルダフシール1世(在位224-242年)もナグシェ・ロスタムの
「帝王叙任式図」にパフラヴィー語、パルティア語、ギリシア語の三言語並記碑文
もあるけど、後代になって刻まれた可能性もあるとかで、いまひとつ確証が。
2代目のシャープール1世(在位242-272年)の場合、ナグシェ・ロスタムやエスタフル周辺、
ビーシャープールなどファールス地方を中心に各地にパフラヴィー語、パルティア語、ギリシア語の
3言語並記碑文やパフラヴィー語、パルティア語の2言語並記碑文を沢山残しているけど、
この頃から既にパルティア文字とパフラヴィー文字は異なる字形が使われている。
いわゆる「碑文のパフラヴィー文字」と「書物のパフラヴィー文字」は形態的にかなり異なるけど
「碑文のパフラヴィー文字」はだいたい3世紀頃には他の文字と区別出来るレベルには成立していた
と考えて良いのでは。紀元前後以降のアラム文字系の諸文字は、異なる音価の文字同士のいくつかが
字形として区別が出来ないって特徴はパフラヴィー文字でも同じだけど。
(貨幣に使われているパフラヴィー文字もミミズの行進みたいで大概読みにくいことこの上ないが)
資料としてのパフラヴィー文字についての詳細は『言語学大辞典』(平凡社)や同じく「世界文字辞典」
の「パフラヴィ文字」の項目(何故かパフラヴィ「ー」文字ではない)とか鎌倉のシルクロード研究所が
出した『パフラヴィー語 その文法と方法』なんかを参照してもらえれば良いかと。
- 442 :世界@名無史さん:2008/05/05(月) 17:29:54 0
- なんか学者の間ではイスラム帝国の崩壊あたりから中世としてるようだね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96#.E3.81.9D.E3.81.AE.E4.BB.96.E3.81.AE.E5.9C.B0.E5.9F.9F
- 443 :アリス :2008/05/07(水) 22:00:36 O
- 違うと思います
- 444 :世界@名無史さん:2008/06/16(月) 00:03:53 0
- 学界で古代ペルシアの研究が進まないのは、
イラン・イスラム革命以降、イラン国内で古代の資料を集めることが、
異教崇拝の兆候として制限されているためらしい。
- 445 :世界@名無史さん:2008/06/16(月) 05:45:31 0
- メソポタミアの他の時代の研究並みにはペルシア帝国時代の研究も進んでいるとは思うが。
イラン国内では城塞文書とか国外ではエレファンティネ・パピルスとかの研究もあるし。
>女性でも国内旅行で幹線道路の通交許可証をエクバタナとかに駐在している
王の代理が発行してくれていたとかそんな話し。
- 446 :世界@名無史さん:2008/06/16(月) 17:48:04 O
- 4 4 4さん、元々異教の人が調べるのも、やばいですか? 例えばー ゾロアスターとか神道とか。
- 447 :世界@名無史さん:2008/06/16(月) 18:23:02 0
- >>446
外国人が発掘許可を得るのがまず大変だし、許可とっても向こうのの役人にずっと監視、指導される。
国内異教徒にいたっては半ば反乱分子扱いなので、そんな連中に発掘許可を与えるわけも無い。
- 448 :世界@名無史さん:2008/06/16(月) 18:32:11 O
- へえそうなんですか、これは大変困りました。
しかしどういった経緯にてそれを知ったのですか?
- 449 :世界@名無史さん:2008/06/22(日) 20:57:45 0
- 対エフタル戦などは、どこで調べられます?
- 450 :世界@名無史さん:2008/06/22(日) 22:16:04 O
- ウィキペディアの英語verでつづりを調べ、
エフタル ササン朝 バトル(モチ英語)
で検索するといい情報が得られると思います。
- 451 :世界@名無史さん:2008/06/23(月) 02:06:00 0
- オスプレイのSassanian Elite Cavalryでちょっと載ってたかな
- 452 :世界@名無史さん:2008/08/02(土) 00:48:36 0
- なあペルシアってどの辺の地域をさすのだ。
- 453 :世界@名無史さん:2008/08/02(土) 01:03:32 0
- >>452
足利家に聞け
- 454 :世界@名無史さん:2008/08/02(土) 17:01:57 0
- イラン、アフガニスタン、パキスタンの一部
- 455 :世界@名無史さん:2008/08/02(土) 22:20:45 0
- >>454
ありがとうございます
- 456 :世界@名無史さん:2008/08/03(日) 01:06:41 0
- >>454
アゼルバイジャンとタジキスタンは?
- 457 :世界@名無史さん:2008/08/04(月) 10:12:43 0
- peri
1、(ペルシャ民話)ペリ《堕天使の末裔で楽園から追い出された超自然の妖精》
2、妖精のような美女
英和辞典引いてみたらこんなのが載ってた。
- 458 :世界@名無史さん:2008/08/04(月) 22:42:30 O
- ↑ケーケーケーも載つていたそうだ
ペルシアを指す地域は時代によって変わると思います。例えば現在ならペルシアはイランに相当するのではないでしょうか。
- 459 :世界@名無史さん:2008/08/05(火) 21:22:59 0
- シナはどの辺りまでを指すのか?現在の中国?
インドはどの辺りまでを指すのか?現在のインド?
領域は常に変化しますが、ね
- 460 :世界@名無史さん:2008/08/05(火) 22:49:40 O
- 領域の伸縮と時間の変遷の関係は切り離せないってことですか。
- 461 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 18:06:29 0
- 重複スレが立ったので、age
- 462 :世界@名無史さん:2008/09/14(日) 11:02:24 0
- >>452
この辺りの地域です
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファールス州
- 463 :世界@名無史さん:2008/10/31(金) 22:15:11 0
- age
- 464 :世界@名無史さん:2008/11/29(土) 14:24:11 0
- 中華圏で大人気のマニ教時代劇とマニ教新聞?
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/yomimono/mani.html
- 465 :世界@名無史さん:2008/11/29(土) 21:31:15 0
- シャープールはなんでマニの新宗教を当初認可しつつ、晩年には迫害へ転じたの?
- 466 :世界@名無史さん:2008/11/29(土) 22:16:48 0
- サーサーン朝の帝位は、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーから与えられたものとされた。
ゾロアスター教を否定するのは帝位を否定するのと同じ。
マニ自身がゾロアスター教の司祭から妬まれたので迫害した。
- 467 :世界@名無史さん:2008/11/29(土) 23:03:03 0
- でも最初のうちは迫害してなかったみたいじゃん
- 468 :世界@名無史さん:2008/11/30(日) 16:08:33 O
- >>465
ちょっと不勉強なんで不安はあるが
シャープール1世存命時はマニ教は迫害してないでしょ
領内に非アーリア民族が居住する地域を多く編入したシャープール1世は諸宗教に対し終生穏健な政策取っていたと思ったけど
マニ教に対し苛烈な弾圧し始めたのは次代のヴァフラーム1世の時代からでは?
それはゾロアスター教団指導者キルデールとの宗派論争に破れたとがきっかけじゃなかったかな
- 469 :世界@名無史さん:2008/12/02(火) 23:25:45 0
- マニ教が迫害されたと言うか、ゾロアスター教の神官尾の妬みからマニが投獄された、のがシャープールの治世末期
- 470 :世界@名無史さん:2008/12/03(水) 10:55:47 O
- >>469
272年シャ-プール1世崩御
274(or277)年“メソポタミアで布教中の”マーニを召還し、投獄獄死(処刑?)
- 471 :世界@名無史さん:2008/12/04(木) 01:35:57 0
- >>468-470
アッバース朝時代の9-10世紀に活躍したアブー・ジャアファル・ムハンマド・タバリーの歴史書
『諸使徒と諸王の歴史』のバフラーム1世の項目に載る記事だが、
「ザンダカ主義のマーニーはシャープール1世の時代に出現し、多くの人々がその教えに従った。
ホルミズド1世の時代も同様だったが、バフラーム1世の時代に、この宗教の虚偽が明かとなり、
バフラームはマーニーを捕らえて処刑した。その後マーニーの皮を引き剥がして干し藁を詰め、
(それをシャープールが建設した都市のひとつである)ジュンディー・シャープールの都城の門に
吊るした。(その門はこのため「マーニーの門」と呼ばれた) マーニーに追随した門徒の悉くを
全て処刑し、かれらを領土から一掃した」
アッバース朝以降マニ教は他宗教の論理を強引に取り込もうとする折衷主義や二元論的教義を忌避されて、
キリスト教やユダヤ教、ゾロアスター教、コーランにも言及される「サービア教徒」などと違い、
イスラームの正統教義からはイスラーム共同体や国家にとって危険とされる「ザンダカ主義」の一派であり、
「撲滅すべき邪教徒」とみなされていた。
マーニーとその宗教について↑で「ザンダカ主義」(ズィンディーク)とか「虚偽の宗教」とか言われて
いるが、『諸使徒と諸王の歴史』の著者タバリーは9-10世紀を代表するスンナ派の法学者・神学者の
ひとりで、「虚偽」とか「ザンダカ」とかいう表現はこれらの事情を反映している。
ちなみにトルファンだったかで発掘されたパルティア語によるマーニーの殉教を扱ったマニ教文書でも
シャープフル(シャープール)の後を継いだワルフラーン(バフラーム)の時代に獄死したという話し
が書かれていると聞いたことがあるので、シャープールの治世に投獄されてそのまま刑死したとか
獄死したとかは多分、違うのではないか。
- 472 :世界@名無史さん:2008/12/04(木) 21:33:27 0
- そういや「アラブが見た十字軍」のアミン・マアルーフがマーニーの伝記小説を書いてたとか
- 473 :世界@名無史さん:2008/12/16(火) 23:09:28 0
- マネー教
- 474 :世界@名無史さん:2009/02/01(日) 21:32:19 0
- アンティオコス3世(尻ア王)
___
,,ノ' ´ ` ''ヾ、
/ ヽ
}f^'^^了t^'^'`'ー1 l ハッテンバ
| L_ ! ___ { ,..、| ここは俺が自ら戦場へ出向くしかないようだな
}f'tr'i ''^'tォー` }j/i',|
l.| ´ |  ̄ vijソ.!
丶 └、 Fイ l′
/ ', ‐--‐ ,イ ケ|
, ,/. ヽ `''"´,/ ! ^|ー、
/ / _,,」、'....ィ' '|. \、__
/./ ,. ‐'''"´ ! / , _」__ヾ',
.,'.,' /´ └ 、_ ノi ノ (、_ ``ヾ!
,'/ / ヽ、 ` ''ー 、ィ-─'' r`'^ `
l| ! リ `ぅ ー=、_
| | サ 〉
ト ′ ./''ー- 、,.._
| ヽl (B / ヽ、
| !,、 ! / ∠_
,イ ヾ' ィ 、 . / ,,ィ'´
- 475 :世界@名無史さん:2009/02/12(木) 19:54:46 0
- インド文明が歴史を重視しなかったというのは有名だが、実はイスラーム化する以前のイランも同様だった。
おそらく、アーリヤ人に共通の「時」に対する感覚が、ほかの諸民族とは
異なっていたからだろうと考えられている。
- 476 :世界@名無史さん:2009/03/09(月) 14:39:16 0
- 当時のペルシア人ってさ、よくパフラヴィー文字なんて使い続けられたよね。
確か、読む時に文字を一文字づつ捉えていたんじゃなくて、かたまりごとに捉えていたって云うけど、
それでも使いづらかったろうなあ。
定形化された文章しか書けなかったんじゃないかなとか思ってしまう。
- 477 :世界@名無史さん:2009/03/11(水) 10:09:13 0
- >>476
そんなに使いづらくも見えないけどなぁ。
アルファベットだって、この時代大してかわらんだろ。
- 478 :世界@名無史さん:2009/03/11(水) 11:32:19 0
- 「草書」の出来ない文字は書きづらいのはたしか。
- 479 :世界@名無史さん:2009/03/11(水) 21:19:06 0
- そういう理由なの?>使いづらい
- 480 :世界@名無史さん:2009/03/13(金) 17:30:07 0
- 何より、誤読も多かったみたいですよ。
今でも研究者の間で読み方に異同があるみたいですから。
- 481 :世界@名無史さん:2009/03/26(木) 10:02:49 0
- 西洋だとイスラム帝国からを中世としてるようだけど
- 482 :世界@名無史さん:2009/05/07(木) 22:41:28 0
- サーサーン朝を扱った映画があるようです。
ttp://shahr.exblog.jp/8234438
ttp://shahr.exblog.jp/8226074
ttp://shahr.exblog.jp/8198016
- 483 :世界@名無史さん:2009/05/08(金) 22:44:06 O
- >>482 乙
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取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。新着レスの表示
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