オーストリアの歴代皇帝について語るスレ
- 1 :KYK:2006/01/28(土) 13:50:39 0
- 激動のヨーロッパにおいておよそ八百五十年の歴史を刻み、後世に様々な遺産を遺した一大帝国である神聖ローマ帝国の
衣鉢を継ぎ、ナポレオンの時代からヨーロッパにその歴史を築いて旧体制の象徴として一目置かれながらも、僅か百十数年で
その歴史に幕を降ろしたハプスブルク家の帝国・オーストリアの歴代の皇帝について語ろう!
- 2 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 13:53:23 0
- ,,-'二ニ,゙'''-、 r― 、 ィ-i,,,,`'i r― 、
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- 3 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 14:30:00 0
- 歴代皇帝は4人
フランツ1世 1804-1835
フェルディナント1世 1835-1848
フランツ・ヨーゼフ1世 1848-1816
カール1世 1916-1918
(皇太子オットー)
- 4 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 15:09:10 0
- 初代皇帝フランツ1世は最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世でありナポレオンの義父としても有名。フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットは彼の叔母にあたる。
そして歴代皇帝の中でおそらく現代においても大衆にも、もっともよく知られているであろう人物がフランツ・ヨーゼフ1世。神聖ローマ帝国の皇帝も含めてハプスブルク家の
君主の中でもっとも長く在位し、もっとも長く生きた。エピソードも数多い。皇后エリザベートは欧州稀代の美妃と称えられた。
最後の皇帝となったカール1世は第一次大戦でなんとか平和的な解決を果たそうと方法を模索するも、結局敗戦による帝国崩壊の責任をとらされて異国の島に追放され、その地で
没した。後に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。皇太子である長男のオットー氏は現在ハプスブルク家の当主の座にある。
そして歴代皇帝の中でもっとも影の薄いフェルディナント1世。在位年数はカール1世よりも長いがメッテルニヒ宰相の傀儡といわれ、虚弱だったため在位半ばで甥のフランツ・ヨーゼフ1世に
帝位を譲ることになった。皇帝としての資質には恵まれなかったが温和な好人物であった。
- 5 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 15:34:13 0
- マリアテレジア以外しらねー
- 6 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 15:59:09 0
- >>5
だったら、世界史板来んなよ
- 7 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 16:29:40 0
- 1821年帝国宰相に任命された外相メッテルニヒがウィーン体制を
指導したのは有名であるが、一方で内政を完全に把握できていたのかは
議論を要する。1835年フランツ1世が亡くなるまでは、この保守的で小心な
皇帝のためにメッテルニヒは多くの「正統主義」的な行政改革を止められた。
この両者の関係はルイ13世とリシュリュー枢機卿に似ているかも知れない。
メッテルニヒの権力の源泉はあくまでフランツ皇帝の信任によるものである。
皇帝没後フェルディナント1世が即位するが彼は一般にメッテルニヒの傀儡と
言われるが実際そうではなく(皇帝としての資質に恵まれなかったのは事実)
メッテルニヒの意図とは裏腹に皇族(ナポレオン戦争で有名なカール大公や
三月革命のドイツ摂政で貴賤結婚で有名なヨハン大公)の巻き返しで
Ministers State Conference (Ministerkonferenz 大臣会議、あるいは内閣と
訳すのが適当かも知れないがここでは『摂政会議』としておこうか)が設置される。
この摂政会議は皇帝を議長席に置くもののルードウィヒ大公(フランツ帝の弟)を
事実上の議長とし、フランツ・カール大公(フランツヨーゼフ帝の父)、メッテルニヒ、
コロヴラート伯をメンバーとするもので形式上1848年12月フランツ・ヨーゼフ即位まで
オーストリア政治の最高機関であった。
- 8 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 16:35:28 0
- >>6
うっさいわボケ
- 9 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 16:52:40 0
- >>7 つづき
フランツ・アントン・コロヴラート・リーブシュタインシュキー伯(1778−1861)は
山川の世界各国史にも出てこないのであまり訳書以外ではお目にかかれないが
1828年以降 Staatsrat(国会としておくが内閣が存在しないので行政府の機能もある)の
支配的人物として政治・財務部門を掌握したボヘミア出身の貴族・官僚である。
彼が摂政会議のメンバーとなったことからもその権勢の大きさはメッテルニヒには
無視できないもので、また短期間だが三月革命メッテルニヒ失脚後首相を務めている。
ただ摂政会議によりメッテルニヒの権限が制約を受けたのは事実だが
メッテルニヒは依然として警察・防衛・外交に関して実権を握るオーストリアの
第一人者であることは否定できない。
メッテルニヒをまるでヨーロッパを支配したかのように過大評価するのは禁物だが
三月前期においてオーストリアを代表して英仏以外のヨーロッパに対して
ロシアの軍事力を背景に強い影響力を保ったことは事実である。
「ヨーロッパを支配したことはあるかもしれないが、オーストリアは一度だって支配
できなかった」とメッテルニヒは言ったが、なるほど彼は反動オーストリアの代表として
自由主義者から嫌われていたが国内での政治基盤はそれほどでもなかったと言える
かもしれない。
- 10 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/28(土) 17:17:27 0
- >>6
皇帝じゃない、というツッコミの方が先だと思いますが。
- 11 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 17:18:47 0
- >>9 つづき
なぜ宰相メッテルニヒに対してコロヴラートが大きな権力を持ったのかというと
帝国の深刻な財政状態がある。1811年帝国は破産宣言しているが、その後
1848年まで国庫歳入のうち国家債務の利子返済支出がおよそ30%、また
軍事予算がおよそ40%であった。オーストリア帝国陸軍は20世紀以降の
列強の軍備拡張時代までロシアに次ぐ規模を誇っていたが、財政的な問題で
長期間の動員は不可能であった。どうもメッテルニヒは金銭感覚に乏しかったようで
この状況下にあってもフランス七月革命に対してロシア抜き(ロシアはポーランドで
動乱があった)で干渉しようとしたりしたが失敗、三月革命でもロシア無しでは
ハンガリーの動乱は鎮圧できないくらい軍隊は荒廃していた。
ここから無理やり皇帝の話にもっていくが
フランツヨーゼフ帝が相続した帝国も財政的危機から軍隊は荒廃し士気は低かった。
彼の治世前半、彼の意を含む戦争がいくつかあってそれがすべて敗北に終ったのも
至極当然のことで、それ以降の帝国改革(立憲化やハンガリーとの妥協)もこの財政と
軍事力の弱さに起因している。まあこのフランツヨーゼフの妥協のために大戦前列強との
軍備拡張に遅れをとったのだが・・・
まあオーストリアが列強では二流国家でしかなかったと考えれば仕方のないことだったか。
- 12 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 17:52:14 0
- ・・・と、ぐちゃぐちゃと訳分からんこと書いたがスレ趣旨としては
皇帝について語るのか?ハプスブルク家スレと被るような気もするが。
広くオーストリア帝国(1804-1918)について語るっていうんならネタは
あるだろうけどどうも中欧近現代史系スレはなかなか伸びないからなあ。
- 13 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 18:03:41 0
- >>4
大昔のことのように思えるけど、まだ帝位を失ってから一世代なんだね。
- 14 :ぼーやん:2006/01/28(土) 18:10:05 0
- >>7
フランツ・ヨーゼフ一世の父、フランツ・カール大公についてはこんなエピソードがあります。(うろ覚えなので部分的に間違ってるかも)
ある日、一人の農夫がウィーンのはずれにある茶屋に訪れ、外のテーブルで春の日差しを浴びながら農作業の疲れを癒していた。するとよく見ると少し離れた席に
恰幅のいい老人が一人座っている。ちょうど話し相手が欲しかった農夫は老人のすぐ隣の席に座って老人に話しかけた。
農夫 「ちょっとよろしいですか。」
老人 「ええどうぞ。」
農夫 「今日も天気がよろしくて結構なことですな。ところでお見受けしたところご老体は中々の気品を
備えておいでですな。もしかしてご老体は上流階級の家柄の方なのでは?」
老人 「ははは、まぁ確かにそうなりますかな。ただ、家の方は息子に全てまかせておりますので。息子も
その立場ゆえに中々こうやって私のように外で一人で気楽に茶をすするわけにもいかないようで。」
- 15 :ぼーやん:2006/01/28(土) 18:10:55 0
- >>14の続き
農夫 「ほう、さようですか。息子さんは一体どんなことをされておいでですか?」
老人 「長男は皇帝を務めております。」
農夫 「は・・・・・??皇帝・・・・・・・ですか?」
老人 「ええそうですよ。」
農夫 「えっと・・・・ではご次男はおいでですか?もしおいででしたら何をなさっておいでで?」
老人 「次男も皇帝をしております。」
農夫 「で、で、ではお父上は何を?」
老人 「むろん皇帝ですよ。」
- 16 :ぼーやん:2006/01/28(土) 18:11:27 0
- >>15の続き
農夫は小馬鹿にされてるのかそれとも老人が思い違いかもうろくしているだけなのか
とにかくどうしていいかわからず動揺し、やけくそ気味になりながら質問を続けた。
農夫 「え、え、じゃ、えっと、あ、あなたお兄さんは?あなたのご祖父は?ご祖父のお兄さんは?ご祖父の父上は?」
老人 「みーんな皇帝!」
農夫 「・・・・・・・・・・・・・・・・そうですか・・・・・・・・・・・では・・・・・・あなたも皇帝?」
老人は感慨を噛み締めるように一呼吸おいてから答えた。
老人 「いいえ。 私だけが皇帝ではないのですよ。残念ですがね。」
そう、この老人こそフランツ・カール大公その人である。確かに彼の長男はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世、
次男はメキシコ皇帝マクシミリアン一世、父はオーストリア皇帝フランツ一世(神聖ローマ皇帝としては二世)
兄も同じくオーストリア皇帝フェルディナント一世、祖父は神聖ローマ皇帝レオポルド二世、祖父の兄も神聖ローマ皇帝であるヨーゼフ二世
曽祖父も神聖ローマ皇帝であるフランツ一世。確かに彼一人だけが皇帝ではないのだ。このエピソードはもちろん作り話ということだが
彼の心情や境遇を的確に表現した話しといえるかもしれない。
- 17 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 19:14:01 0
- >>16
フランツヨーゼフは誕生と同時に未来の皇帝として教育されたが
これはその時点でフランツ・カール大公を帝位から除外したものではなかった。
フランツ・カール大公の除外はもちろんメッテルニヒのいう「正統主義」からは
論外であるし、これはゾフィ大公妃ら宮廷グループがどうあがいても曲げられない。
一方ゾフィ大公妃は夫である大公よりも息子を帝位に就けたかった。
幸い「立憲君主」であるフェルディナント1世は邪魔になっていたし退位を申し出ていた。
フランツ・カールを飛ばすことに唯一反対しそうなメッテルニヒはすでに失脚、
結局12月2日にフランツヨーゼフは「神の恩寵」により即位。
何か微妙にフランツ・カール大公が飛ばされたことの説明にはならんなあ。
独裁者ヴィンディシュグレーツと首相シュヴァルツェンベルクがそれこそ「傀儡」として
過去に縛られない青年君主を欲したと考える方が妥当かな?
- 18 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 19:18:51 0
- 日本でいえば草壁親王が、父は天皇、母も天皇、嫁も天皇、息子も天皇、
娘も天皇、いとこも天皇、孫も天皇。でも本人は天皇じゃない。
みたいなもんかな。草壁親王は若くして死んだからちょっと違うか。
(できれば一行空けはやめていただきたいなと…
- 19 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 19:26:52 0
- スレ違いだけど…
父=天武天皇 母=持統天皇 嫁=元明天皇
息子=文武天皇 娘=元正天皇 いとこ=弘文天皇 孫=聖武天皇
伯父=天智天皇 祖母=皇極、斉明天皇
- 20 :世界@名無史さん:2006/01/28(土) 19:29:21 0
- フェルディナント1世のエピソード。
退位の際ヴィンディシュグレーツは皇帝が革命について批判があると
予想していたらしいが皇帝はフランツ・ヨーゼフの髪をなでながら
「神の祝福がありますように。勇敢でありなさい。神がお守りくださいます。何も心配ありません」
と言って歴史から消えた。
再び現れたのは1866年プロイセンにプラハ占領されたとき。
プラハで余生を過ごしていたフェルディナントは
「余でもこれと同じようにできただろう」と述べた。
どういう意図で述べたのかは各人の想像に委ねます。
1、フランツ・ヨーゼフの皇帝としての無能を皮肉った(敗戦なら自分でもできるぞ)
2、逆の意味で皇帝の無能を皮肉った(今のオーストリアに負けることの方が難しいぞ)
3、何にも考えずにとりあえず言ってみた(余はうどんが食べたかったぞ)
- 21 :世界@名無史さん:2006/01/29(日) 14:18:01 0
- ★★ 古代朝鮮人は、日本に移住していない ★★
朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『輝かしい先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。
- 22 :世界@名無史さん:2006/02/08(水) 01:58:08 0
- オーストリア外交のみならずこの時代(48年以降WW1までは)には
あまりビスマルクという個性ある政治家がいたドイツ以外の欧州各国史は
人気ないね。もっとメッテルニヒとかも語られてもいいと思うのに。
ということで1804−1918まで帝国を代表する皇帝・外相の概説をとりあえず記しておく。
- 23 :世界@名無史さん:2006/02/08(水) 02:26:21 0
- オーストリア皇帝フランツ1世(1768−1835、在位1804−35)
【系譜】父は神聖ローマ皇帝レオポルド2世(トスカナ大公として啓蒙専制君主の
実績をあげ1790年帝位を継承。しかし92年に死去)。母はスペイン王カルロス3世の娘
マリア・ルドヴィカ。
【業績】フランス大革命で伯母マリー・アントワネットのいるブルボン王家を救うべく
対仏大同盟(失敗)。1795年ポーランド最終分割に参加。1804年フランス皇帝に対抗して
オーストリア皇帝を自称。ナポレオン戦争の経過でティロルや北ガリツィア、アドリア地方を
喪失。三帝会戦敗北により1806年ライン同盟成立を受け神聖ローマ皇帝を退位。
1809年メッテルニヒを登用して親仏政策を採り皇女マリー・ルイーズをフランス皇后にする。
ナポレオン敗北後は一貫して「改革」に断固反対しメッテルニヒをも困らせたという。
専制君主として崩御まで君臨したが「凡庸」という批判はともかく、あくまで「優柔不断」で
メッテルニヒも「オーストリアを支配できなかった」と言われるほど。とにかく保守的な皇帝で
あったらしい。事実彼が皇帝である間、メッテルニヒの望んだ行政の「正統主義」的改革すら
実現されなかったということである。
【家族】妻は4人。ヴュルテンベルクの王女エリザベート、両シチリアの王女、マリア・テレジア、
モデナ公女マリア・ルドヴィカ、バイエルン王女カロリーネ・アウグスタ。
このうち二番目の皇后マリア・テレジア(彼女とは二重の従兄妹にあたる)との間にのみ子供があり
(夭折を除く)フランス皇后マリア・ルイーゼ、次の皇帝フェルディナント1世、ブラジル皇后レオポルディーネ、
フランツ・ヨーゼフの父フランツ・カール大公、サレルノ公妃マリア・クレンティーナ、ザクセン王妃カロリーネなどの
子供がいる。
- 24 :世界@名無史さん:2006/02/08(水) 02:51:38 0
- オーストリア皇帝フェルディナント1世(1793−1875、在位1835−1848)
【系譜】父はフランツ1世、母はスペイン王カルロス3世の娘 マリア・ルドヴィカ。
【業績】「三月前期」のウィーンの皇帝。精神薄弱か何かは分からないがとにかく
統治能力を欠いたのは事実のようで1836年には「摂政会議」が設置され実権は
持たなかった。三月革命において「立憲君主」を宣言するが反革命勢力の巻き返しで
1848年12月に退位。以後プラハで引退した。
【家族】妻はサルディーニャ王女マリア・アンナ。子供はいない。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830−1916、在位1848−1916)
【系譜】父はフランツ・カール大公(フランツ1世の子)、母はバイエルン王女ゾフィ。
【業績】真相は不明だがヴィンディシュグレーツ侯、宰相シュヴァルツェンベルク公、
あるいはゾフィ大公妃を中心とする宮廷グループの策謀により「神の恩寵による」
専制君主として即位。1851年大晦日勅令により「専制君主」たることを宣言。
シュヴァルツェンベルク公死去後宰相を置かず多くの国政に関与し、イタリア戦争で
惨敗を喫する。以降オーストリア立憲化などの譲歩を示すがドイツ主導権をめぐる
争いに敗れてハンガリー指導者との「アウスグライヒ」を1867年締結。その後も
帝国の「外交権」「軍事権」を保持しつつもライタ以西(オーストリア)とハンガリーに
おいて「外見的立憲君主」として様々な干渉を加えて帝国の維持に尽力。また一方で
1907年にはオーストリアで普通選挙を導入。彼もまた非常に保守的な君主であったが
それなりに多民族国家統合の象徴として機能していた面(特に軍隊)は否定できない。
晩年は従来に増して規律を持って事務的に国務を遂行するようになったが皇位継承者
暗殺事件にも大した悲劇を感じるでもなかったというエピソードも。大戦中崩御。
【家族】妻は有名なエリーザベト皇后(バイエルン王の縁戚で母ゾフィの姪)。
皇太子ルドルフ大公のマイアーリンクの悲劇は日本でも有名。この他のも皇帝は長生きの
ためかメキシコ皇帝マクシミリアンや皇后、皇太子なそ身内に不幸が多かったのも有名。
- 25 :世界@名無史さん:2006/02/08(水) 03:11:25 0
- オーストリア皇帝カール1世(1887−1922、在位1916-18)
【系譜】父はオットー・フランツ・ヨーゼフ大公(フランツ・ヨーゼフ皇帝の甥でサラエボの
悲劇皇位継承者フランツ・フェルディナントの弟)で母は両シチリア王女マリア・アヌンチアータ。
【業績】皇位継承者フランツ・フェルディナントの貴賤結婚により彼の子孫の帝位継承権が
放棄されたため将来の帝位継承者の地位が確立され、またその婚姻はフランツ・ヨーゼフ帝からも
歓迎されたという。サラエボ事件により帝位継承者となり、さらに1916年29歳で即位。
事実上ドイツの支配下にあった帝国再編に尽力するがハンガリーの抵抗など容易ならざる
諸問題で挫折。1918年4月のオーストリア単独講和「シクストゥス書簡」事件も失敗してドイツによる
支配、ハンガリーの独自政策に敗北。結局敗戦により「国事放棄宣言」を発して退位、スイスに亡命。
その後二回のハンガリー復位事件は失敗、スイスも彼を追放してポルトガルのマデイラ諸島で貧困に
あえぐという不名誉な形で没した。2004年列聖(なんでなんだろうねえ)。
【家族】ブルボン・パルマ公女ツィタの間にオットー大公(後の欧州議会議員、ドイツ選出)など多数。
ツィタ皇后の「王朝意識」(簡単に言えば王権神授説か)が彼の政策に与えた影響は大きいとか。
なおオットー大公、その子カール大公(欧州議会にオーストリアから選出)は帝位継承権放棄。
ほかの子孫にはまだ帝位継承権を放棄していないものもいる・・・と記憶している。
だんだん面倒くさくなってきたから一番書きたかった外相についてはまた後日・・・
- 26 :世界@名無史さん:2006/02/08(水) 03:15:07 0
- 追記、まあ文献はいろいろ使ったがカール1世のところなどは
江村洋氏のを記憶している限り用いたから誤りもあるかも。
主観入っている部分も多いからよかったら好き勝手に訂正していってください。
- 27 :世界@名無史さん:2006/02/08(水) 21:11:43 0
- >>23-25
乙です。
- 28 :世界@名無史さん:2006/02/09(木) 02:29:25 0
- えーと続いてオーストリア帝国の外相およびその実績について
簡単にまとめたいと思います。確かに内政面でオーストリア・ハンガリーは
面白いことも多いのですが、列強の中のオーストリアという観点からは
特に67年アウスグライヒ(ハンガリーとの妥協)以降「帝国宰相、宮内大臣にして
外務大臣」である外相が事実上皇帝とともに帝国を代表すると考えるからです。
(主要参考文献S.ベラー『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』、A.J.P.テイラー
『ハプスブルク帝国1809-1918』、A.スケッド『ハプスブルク帝国興亡史』といずれも邦訳あり。
あと江村氏の著書、および山川の『ドナウ・ヨーロッパ史』、そして
ttp://www.aeiou.at/aeiou.encyclopオーストリア人物事典も参照しました)
- 29 :世界@名無史さん:2006/02/09(木) 02:45:28 0
- >>28
乙ではあるが、資料のレベルを見るに自分で読んだ方が速いね。
春厨の中ではマトモな部類なんだろうけど、読めば分かる知識の羅列はやめれ。
- 30 :世界@名無史さん:2006/02/09(木) 03:26:53 0
- ○コベンツル伯Cobenzl(1753-1809、在任1804.8.11-05.12.25)
ブリュッセル出身(当時はオーストリア領南ネーデルラント)の外交官。
1779年ペテルスブルク公使などを歴任し97年カンポ・フォルミオ条約を締結。
この条約はヴェネツィア・ジェノヴァ両共和国は消滅、オーストリアは
ダルマティアを獲得。1800年ハプスブルク帝国の外相に就任。
01年マレンゴの戦い(00年)に屈してリュネヴィル和約でカンポ・フォルミオ条約を
再確認した。なお在任中三帝会戦、プレスブルクの和約。
○シュタディオン伯Stadion-Warthausen(1773-1859、在任1805.12.25-09.10.4)
マインツ出身(神聖ローマ帝国マインツ選帝侯領)の外交官、政治家。
ストックホルム、ロンドン、ベルリン、ペテルスブルク公使などを歴任。
15年には蔵相を務める。なお在任中フランツ2世の神聖ローマ皇帝退位、
09年の第5次対仏同盟戦争などがある。
○メッテルニヒ公Metternich(1773-1859、在任1809.10.8-48.3.13)
コブレンツ出身(トリール選帝侯領の中心都市)の外交官、政治家。
1795年カウニッツ伯(マリア・テレジアの外交革命を担った宰相)の孫娘と結婚。
01年ドレスデン(ザクセン)、03年ベルリン公使、06年駐仏大使。対仏協調路線を
とり皇女マリア・ルイーゼとナポレオン1世との婚姻を成立させる。その後反ナポレオンに
転じて14、15年ウィーン会議を主催してヨーロッパに「メッテルニヒ体制」を確立。
ドイツ、イタリアにおいてハプスブルク家の利益権を確立。21年宰相Staatskanzeler兼任。
七月革命においては33年ムニホヴォ・フラディシュテ協定によりロシアとの保守的協調を
得てバルカンの現状維持を確認。36年フェルディナント1世の摂政会議の永久会員。
46年クラクフ併合(メッテルニヒ正統主義の原則から外れるとの批判も同時代人からはあり)。
三月革命で失脚、英国へ亡命。51年帰国してフランツ・ヨーゼフ帝の政治顧問となる。
- 31 :世界@名無史さん:2006/02/09(木) 03:34:30 0
- >>29
そうか、じゃあメッテルニヒ終ってキリもいいのでこのへんで失礼します。
長々と失礼しました。
個人的には正直このへんの時代はメッテルニヒ外交からビスマルク外交と
欧州外交史の華と思うのだが現状語るスレがなさすぎて・・・。
まあオーストリア外交について述べるだけなら前掲書を読めば終る話、
「じつのところ、二重帝国時代のハプスブルク帝国の外交政策にかんしては、
ほとんど議論の余地がないのだが」(A.スケッド)なんで止めておきます。
比較的関心が高いであろうww1についてもオーストリアについては語ることは
ないだから、まあやむを得ないかも知れません。
- 32 :世界@名無史さん:2006/02/09(木) 20:13:12 0
- >>29
いや、別にいいだろ。まだ50レスにも達してないし、スレのテーマ自体がかなり限定的
(オーストリア帝国そのものが比較的短命で皇帝も四代で終わっている)だから裏知識や隠れ
エピソードをメインにしてスレを満たすのは正直かなりきついと思うぞ。とりあえず悪質な煽りや
荒らしとか以外ならいいんじゃないかと。でもスレのテーマに深くこだわらずもうちょっと範囲を
拡げて語ってみてもいいかもしれんな。個人的にはエリザベート皇妃の裏話や皇妃の生家である
ヴィッテルスバッハ家にまつわるエピソードなんかも知りたいな。
- 33 :世界@名無史さん:2006/02/09(木) 21:04:30 0
- 一生懸命書いてる子が非史学科であると信じたい。
でも卒論に平気で江村さん使う子いるからなぁ・・・。
読み物としてはとっても面白いんだけど。
- 34 :世界@名無史さん:2006/02/09(木) 21:07:05 0
- エリザベート皇妃の裏話
洗髪に三時間かかった。
実はかなりの甘党
- 35 :世界@名無史さん:2006/02/09(木) 21:09:27 0
- ま、ハプスブルクスレで足るスレではあるな。
特化して語るほど住人がいるわけでもないし。
- 36 :世界@名無史さん:2006/02/10(金) 02:25:23 0
- >>33
自分としては教育系の社会科教育専攻、西洋史所属だからまあこの程度で
充分なんですね(個人的には独英語をもうちょっと学んでレベルアップしたいのですが)。
流石に卒論でも江村さんのは使えないのは分かっています、まあうちの大学では
許されそうな空気なのはどうかと思いますが(すみません、愚痴になってしまいました)。
でもハプスブルクに興味を持つ上では江村氏のは面白い読み物ですね。
しかし自分はスレ主(つまり1)じゃないから何ともいえないが正直で
>>35の言うとおりハプスブルク家スレで足りる内容だとも思います。
せっかく好きなオーストリア系のスレ立っているからカキコしただけなんで・・・
みなさま何かご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。
そして改めてハプスブルク家だけでない、オーストリアというマイナー分野にも
精通している方が多くいらっしゃることに感銘を受けました。
このままではスレの私物化を行いそうでしたのでご忠告には感謝しております。
スレ汚し失礼しました。今後も質問・疑問があれば快く答えていただければ幸いです。
重ね重ね申し訳ありませんでした。
- 37 :世界@名無史さん:2006/02/13(月) 18:10:02 0
- 一番哀れなのは間違いなく最後のカール一世だろうな。
歴代皇帝の中で彼ほど不憫な人物はいなかった。
まあ嫁さんと皇太子以下子供達の多くが長命だっていうのが
せめてもの慰みかもしれん。
- 38 :世界@名無史さん:2006/02/21(火) 12:04:56 0
- オーストリアハンガリー二重帝国時代が一番好きだな。
帝国主義の時代に堂々列強として君臨した帝国。
存続していれば独仏に並ぶ国力を持った国として存在してたはず。
- 39 :世界@名無史さん:2006/02/21(火) 21:51:15 0
- >帝国主義の時代に堂々列強として君臨した帝国
これは無い。当時は既に青息吐息。
20世紀を生き残ったらEUの軸のひとつになったかも知れないというのが同意だけど。
- 40 :世界@名無史さん:2006/02/21(火) 23:07:38 0
- というか、ハプスブルクの覇権が崩壊したがゆえの
帝国主義的群雄割拠状態という理解もできると思う
- 41 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 00:38:01 0
- それは流石に無理と思われ。
- 42 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 20:22:27 0
- 確かにオーストリア帝国は神聖ローマ帝国の崩壊が必至となった状況を鑑みた
フランツ二世が苦肉の策で生み出した国家だろうしなぁ・・・
- 43 :世界@名無史さん:2006/02/23(木) 02:10:36 0
- 苦肉の策というより、めんどくさいものをほっぽり出して家領に引きこもった
ってイメージだなあ。
- 44 :世界@名無史さん:2006/03/11(土) 05:42:45 O
- 皇妃エリザベートは170センチ、50キロ、ウエスト50センチの体型を保つ為に
ミルクと生肉の血、果物を食事に用いたが、食べるときは沢山食べた。
乗馬は競馬並。
- 45 :世界@名無史さん:2006/03/11(土) 16:56:26 0
- >>39
・クリミア戦争での対ロシア宣戦布告
・ボスニア・ヘルツェゴビナ併合
・セルビアへの最後通牒
この3つが無ければ生き延びたかも。
- 46 :世界@名無史さん:2006/03/11(土) 20:34:07 0
- フランツ!!
- 47 :世界@名無史さん:2006/03/26(日) 14:03:23 0
- ヨーゼフ?
- 48 :世界@名無史さん:2006/03/29(水) 13:36:02 0
- ,. -‐-‐ "´゙ヽ、
ノ; ; *; ; ; ; ; ; ;.゙`ヽ、
. ri!; ; ; ; ; ; ; ; ; ;*; ; ; ; ヽ
{ ; ; ; ; ; ;;; ; ; ; ; ; ; ; ; ; *ヽ
{; ; ;.,,..ノ,' ,,,、; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ヽ
ヽ { `ヽ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;.}
',{、__ _ ヽ; ; ; ; ; ; ; *`}
}. "忝` }; ; ; ; ; ; ; ; ; ノ
| ,' (::::) ); ; ; ; ; ;}
', ヽ-゙ ノ‐'; ; ; ;*; ;',
', `== ノ ,'; ; ; ; ; ; ; ; ;.',
ヽ , '´ }; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;} <オーストリアの歴代皇后スレにしなさいよ。
`T ̄ 。 。-‐',; ; ; ; ; ; ; ; ; ;{
/ 。 ゚ ー=', ; ; *; ; ; ; ;}
/。 ゚ ヽ; ; ; ; ; ; ; ;{
{;;)゚,. "´ ', ; ; ; ; ; ; ; ',
/ ', ; ; ; ; ; ; ; ;',
/ ' , ',; ; ; ; ; ; ; ; ヽ
/ ', ゙}; ; ; ; ; ; ; ;.ノ
r〈,,. rrrハハハハュュ、 ; ', ; ; ; ; ; ; ;.{
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},. '"´.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:."゙゙゙}; ; ; ; ; ; ; {
,r‐'".:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:`゙ヾ.:.:.:.ヽ _ ; ; ; ;}
- 49 :アウグステ皇后:2006/03/29(水) 15:35:43 0
- 私はドイツ帝国皇后よ!
- 50 :世界@名無史さん:2006/04/09(日) 14:12:12 0
- 50ゲット
- 51 :世界@名無史さん:2006/04/09(日) 16:21:16 O
- メキシコ皇后よ。
- 52 :世界@名無史さん:2006/04/26(水) 01:25:25 0
- Gott erhalte Franz den Kaiser
Unsern guten Kaiser Franz!
- 53 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 00:52:20 0
- Franz I.
Ferdinand I.
Franz Joseph I.
Karl I.
- 54 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 00:56:33 0
-
,. -‐-‐ "´゙ヽ、
ノ; ; *; ; ; ; ; ; ;.゙`ヽ、
. ri!; ; ; ; ; ; ; ; ; ;*; ; ; ; ヽ
{ ; ; ; ; ; ;;; ; ; ; ; ; ; ; ; ; *ヽ
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ヽ { `ヽ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;.}
',{、__ _ ヽ; ; ; ; ; ; ; *`}
}. "忝` }; ; ; ; ; ; ; ; ; ノ
| ,' (::::) ); ; ; ; ; ;}
', ヽ-゙ ノ‐'; ; ; ;*; ;',
', `== ノ ,'; ; ; ; ; ; ; ; ;.',
ヽ , '´ }; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;}
`T ̄ 。 。-‐',; ; ; ; ; ; ; ; ; ;{
/ 。 ゚ ー=', ; ; *; ; ; ; ;}
Kaiserin Elisabeth Von Osterreich-Ungarn
1837−1898
- 55 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 00:59:44 0
-
,r'三ミr= 、
彡 '" ミヾ、ミ 、 、
,rイ ′ `ヽ、' 、| ミヽ
ノ| リ ヽ'、ミ| |ミ',
从ノ,,r-、 ,ィ=‐-、 | i'|リ. |!
,イノi| -エアi l: -iコゝ川l |ヾ;|
ノ斥ノ| ~l l:: ⌒ 人ワ !卞 、
仆'ソi li| 、'__ ゞ、 ノイ lヽ、 )
冫X^N、ヽ ノ小ヽ r 'ル、ヽ、\ヾ、
y^NZ^N'、'" ̄ ̄` ,,ノイノズ、ヽ\ヽノ
ノ川リ¬n、 イソ'⌒`ヽ 、)乃
ヽノ /`''' '" `r、
,、-‐'゛ / ノ \
/,,,、π'''"^"'ァ、,,,, / \
/'" ノノ // "' -、 / ヽ
ナ・メンナ[Philippe Na Mennar]
(1633〜1693 フランス)
- 56 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:03:56 0
-
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,.r''´ ; ヽ、
,ri' 、r-‐ー―'ー-、'ヽ、
r;: r'´ ヽ ヽ
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r'´ i' _, _,.:_:::i il!
ヾ ,r -';! '''r,.,=,、" ::rrrテ; ::lr ))
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`-r,.ィ::i. :' _ :::;:. .::::!´
.l:i. .__`´__,::i:::::l
r-i. 、_,.: .::/
!:::;::! ::.、 .:::r,!
l::::::::ト __` 二..-',r'::::-、
l;::i' l:  ̄,.rt':::::::/ ` -、
,r' ´ ヽr'ヽr'i::::::::;!'´
r '´ rミl:::::::::;!'` く:」
i' `ー'
ヤ・メロッテ[Johann Ja Melotte]
(1743〜1821 ドイツ)
- 57 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:06:27 0
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,.r''-'''""'''ー-、_
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ri' :.:::::ミ.:::::::::::i
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. r'´(て)ヾ,_j' '´`='ヽー.'::::::::::.r' i i
l、  ̄ ,ノ .:::ヽ _,ノ ..:::::::::::! l/
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Y;;';.r‐'''‐'‐'':;';;:ミ ..:ミ:'::::'::::l 、
'ヾ ",:,:';:: 、ヾ、 ミ、ミ:;:::::::;r' l:::ヽ
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'--,-r'l__,r '´ /;::::::::::::::::::::::::::
テラカナシス1世
- 58 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:07:06 0
- てすと
- 59 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:08:09 0
- てすと
- 60 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:08:57 0
- おっはー
- 61 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:13:19 0
-
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,彡巛川冫ミミミ ヽ:::::::::::::::::::::::ヽ::::::::::::::::::::::::::::l
ミノ `ミミヽ、:::::::::::::::::::、::::::::::::::::::::::丿
/ _ ,,,,_ ミミヽ、:::::::::::::::::::ヽ;;:ヽ:: /
.l"゛゛ :;_,,_ ゙゙` ミミ\:::::::::::::::::::::ヽ;;;:li
ゞッ冫 '='-`゙'' ミミミ,ヽ::::::::::::::::゙li;;;:::l
〈,./ ,, `゙"" . : . ミミミミ;;ヽ、::::::::::l;;; ノ
i(_ ⌒) ゝ. ,;:. : : lii彡‐、ミヽ:::::::リ- '
ソ _ ̄ `ー "" ノノ彡 /彡ぃ:::ノ
ゞ二`‐、 ,: ,/川ll.l.i‖l〈
ゝニ´-'' /川l l llll |/
i . : ; : :: :: 彡ノ/川ミ
ヽ、_ ,,, -''-、:: :: : :ノノ川l l|ミミ
`i; ;: : ::: : : : ノノ川 l l iミ
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初代オーストリア皇帝
フランツ一世(神聖ローマ皇帝としては二世)
(1768−1835)
- 62 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:14:59 0
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ミノ `ミミヽ、:::::::::::::::::::、::::::::::::::::::::::丿
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ゞッ冫 '='-`゙'' ミミミ,ヽ::::::::::::::::゙li;;;:::l
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ソ _ ̄ `ー "" ノノ彡 /彡ぃ:::ノ
ゞ二`‐、 ,: ,/川ll.l.i‖l〈
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i . : ; : :: :: 彡ノ/川ミ
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初代オーストリア皇帝
フランツ一世(神聖ローマ皇帝としては二世)
(1768−1835)
>>61の生没年がずれたorz
- 63 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:16:45 0
-
_,. -= '' ー-、_
r '´ 、 -,、
/ ヾミ、 ヾ ミ:::ヽ、
/ー、 -―-、ヾ ミ::、:::::ヽ
r.rj'.:::: ;._、 ; ;! ,: ヾヾ::::::::::i
/r'.::::::::.`┴'`; .: ヾ:::::::::::::::::l
. i (.:::::.. :. :. 、 .::: ヾ,..=、:::::::!
/ ; ` ‐' : ,:: :r::: ::!i::::/
l 、__ ::. : ..:: :. r':::ノ /::i'
l ゝ-- `:. ..::::: :::. .:: /ヾ!
ヽ ::. .::::::: .:::: .::' ´ /
ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::::: ' _,._='i
ヽ:::::::::::::::::::::::::::;-,='::':::::::::i.
ヽ::::::::::;::- ',r::'::::::::::::::::::::::ヽ
第二代皇帝
フェルディナント一世
(1793−1875)
- 64 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:26:24 0
-
, -―-- _
,r ' 三- _ ミ 、
r' i ` ゛ ‐-、 ミ、
,i' ミ _,. `ヾ ミ
/ 'i , -‐ ` ミミ
'i ,i' ;r'"'''__,;:ir_ミl,,;!
ゝ ナ -、_r'r tテ l-‐!;rtt l_ヽ
i .: `ヾ l ´ / ヽ 、l /
! r':l -‐ ' i ̄.T
. ヽ ヽ  ̄ ヽ !
`ヾl、 .:' ー ニ入 il
,i! 、 ´ , i;:!__
/:l l ` _ -'-ノr':::::::::::::-.
_,.-::::::::::l. ヽ_ _, ‐'´ /:::::::::::::::::::
:::::::::::::::;!rヘ -―-ニ 、 i::::::::::::::::::::::
:::::::::::::r' !_ ,.r ´ ヽ !:::::::::::::::::::::::
第三代皇帝
フランツ・ヨーゼフ一世
(1830−1916)
- 65 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:29:11 0
-
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,r'"´ , ;:, ;: ,:;, ;:, :,;:;:;:;;\
/ ; .; .:.:; .; .; .;: ;;:::ヾ
/ .; ;: ;:;: :; :; :;:;:;:;:゙,
/ ,,..__ ,, ... .: .: .: .: ;; ;:;;;!
l ,,,,_ -ーー─ - 、、 .: .:. :; ; :; ;:;|
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j、、、,, 、,,、zニニ'''ー-,、 _,,, ィ⌒ヽ
r'⌒ヾー.イYニ、ヽ、,,、、z=='''"´ .:;;< 7 〉
{{`=ン}='リr゙ー'-`i|"´ .:.:.:.::::j_ソ/ /
>‐ イ ヾ_,,ノ .:.:.:::::.:.:ーイソ
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゙,`二ニニ´ /.::/ .:.:.:.:.:.:.:./\
ハ ノ/ .:.:.:.:.:::::::/ \
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第四代皇帝
カール一世
(1887−1922)
- 66 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:31:37 0
-
,-─‐ 、
/ iiii i ヽ、、
/ゞ、i!llllliii川//ヽ、
/ミ〃 〃彡ヽ
lミミ 彡彡}
lミミ,r‐-、 ,,r─、 彡彡ll|
iミミ ィェx ,rェt 彳彡!
', .: 9}"
! ::,、,、 l_丿
', _,_ /、
rゝ = ノi!ヽト、
-{;ヽ` ー─ " /;/: : \
/: : : |;;;\ /;;;;/: : :/: :\
/: : : : : :│;;;;;;\/;;;;;;;;/: : :/: : : : :\
フランツ・ヨーゼフ一世妃
エリザーベト
(1837−1898)
- 67 :世界@名無史さん:2006/05/09(火) 05:16:45 0
- スレを荒らすな
- 68 :世界@名無史さん:2006/05/09(火) 10:58:27 0
- 自演乙
- 69 :世界@名無史さん:2006/05/09(火) 16:32:51 O
- ハプスブルク家の特技
子作り
- 70 :世界@名無史さん:2006/05/09(火) 21:30:37 0
- >>69
ハプスブルク家は多産家系みたいだな。
たとえばマリア・テレジア夫妻の間には十数人の
子供がいた。
- 71 :世界@名無史さん:2006/05/10(水) 00:31:58 0
- 子作りと結婚で天下を獲った一族だものな
- 72 :世界@名無史さん:2006/05/27(土) 14:17:35 O
- フェルディナント1世とテレジアの息子レオポルトもひとりの妃相手に16人産ませている
レオポルトの場合は他に愛人相手にプラス1人
産ませる方もすごいが産む方もすごい
- 73 :世界@名無史さん:2006/05/27(土) 19:22:39 0
- 日本の皇室も見習ってほしいものだ。
- 74 :世界@名無史さん:2006/05/30(火) 21:49:25 0
- (若)マリア・テレジア
http://www.wienfuehrung.com/files/Maria_Theresia250.jpg
http://img.hmv.co.jp/image/jacket/190/10/6/5/628.jpg
http://members.kabsi.at/seeau/Encyclopaedia/image/portraitMariatheresia.jpg
(中年)マリア・テレジア
http://www.museum.com/jb/IN/images/dgfx/2054.jpeg
http://home.wxs.nl/~hagen327/Maria-Theresia/MariaTheresia_familie_kopie.jpg
時の流れは残酷よのう
- 75 :世界@名無史さん:2006/06/02(金) 13:36:01 O
- 無理やり愛無き結婚させられ、無理やり人工授精で子供を作らされ、次の子供ができないと一方的に非難される雅子さんカワイそう
まるっきり人身御供だ
- 76 :世界@名無史さん:2006/06/19(月) 20:22:57 O
- フランツ・ヨーゼフはあまりにも保守的
もう少し妥協的であれば帝国は多少延命しただろう
- 77 :世界@名無史さん:2006/06/20(火) 22:18:51 0
- ,. -‐-‐ "´゙ヽ、
ノ; ; *; ; ; ; ; ; ;.゙`ヽ、
. ri!; ; ; ; ; ; ; ; ; ;*; ; ; ; ヽ
{ ; ; ; ; ; ;;; ; ; ; ; ; ; ; ; ; *ヽ
{; ; ;.,,..ノ,' ,,,、; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ヽ
ヽ { `ヽ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;.}
',{、__ _ ヽ; ; ; ; ; ; ; *`}
}. "忝` }; ; ; ; ; ; ; ; ; ノ
| ,' (::::) ); ; ; ; ; ;}
', ヽ-゙ ノ‐'; ; ; ;*; ;',
', `== ノ ,'; ; ; ; ; ; ; ; ;.',
ヽ , '´ }; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;}
`T ̄ 。 。-‐',; ; ; ; ; ; ; ; ; ;{
/ 。 ゚ ー=', ; ; *; ; ; ; ;} <>>66
/。 ゚ ヽ; ; ; ; ; ; ; ;{ あんたは5000円札の樋口一葉でしょ。
{;;)゚,. "´ ', ; ; ; ; ; ; ; ', 私の名を騙るのはやめなさい。
/ ', ; ; ; ; ; ; ; ;',
/ ' , ',; ; ; ; ; ; ; ; ヽ
/ ', ゙}; ; ; ; ; ; ; ;.ノ
r〈,,. rrrハハハハュュ、 ; ', ; ; ; ; ; ; ;.{
,..(".:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.゙゙゙ーハハュュ、. ', ; ; ; ; ; ; ;}
},. '"´.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:."゙゙゙}; ; ; ; ; ; ; {
,r‐'".:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:`゙ヾ.:.:.:.ヽ _ ; ; ; ;}
- 78 :世界@名無史さん:2006/07/03(月) 02:13:03 0
- >>76
難しい問題だなあ。
オーストリアが列強として生き残るにはハンガリー、マジャール人貴族との妥協が必要だったし
帝位継承者フェルディナント大公や外相エーレンタールの考えた三重帝国も非現実的のような気も。
もちろん列強である必要がなかったと言えばそれまでだけどハプスブルク王朝としてはそうもいかない。
まあアウスグライヒ初期のボヘミア懐柔が上手くいけば少なくともライタ以西では連邦主義的な
帝国になったかも知れないがハンガリーがあれじゃあなあ、あそこに皇帝(国王)は介入する意向は
1905年(だっけ?)のハンガリー危機までなかったわけだし、またそれ以降もないわけだ。
ところで「ハプスブルク帝国崩壊は不可避だったのか?」という帝国史研究の最大のテーマについて
みなさんはどう考えます?
個人的にビスマルク体制を崩壊させた1908年ボスニア併合が大きいと思うんだが。
もちろんこれにはドイツの政策転換も大きいがメッテルニヒ時代からのバルカンにおける帝国の
トルコ保全政策の転換、ロシアとの勢力均衡政策の新機軸もあるわけだしなあ。
まあそれ以前からのドイツのバルカン、近東進出も帝国にはかなりの脅威ではあったかな。
しかし何故今更教科書ではww1を協商vs同盟で説明するかなあ。
実質ww1は局地戦争で終る可能性もあったわけだし(セルビアにオーストリアが負ける可能性もあるが)
三国同盟では伊墺は潜在的に未回収国土、あるいはバルカン問題で対立しているわけだし
三国協商でも英国は大陸戦争には可能ならば参戦したくはなかったはずだろう。
まあ独墺関係が微妙だった時期にサラエボ事件でドイツがウィーンに白紙委任したのが間違いだったんだろうが。
- 79 :世界@名無史さん:2006/07/03(月) 02:14:28 0
- 追記:別にフランツ・ヨーゼフの支持者ではないが立憲君主としては67年以降理想的な君主だったような。
内政にはほぼノータッチ。まあ外交と軍事の大権こそ手放さなかったが皇帝・国王がどこまで関与して
いたかは微妙ではないか。まあライタ以西の内政については皇帝もかなり影響力を保持したが
ドイツ皇帝ほど内外の諸問題に干渉した事件はないわけだし…
良くも悪くも妥協以後はウィーンは貴族的な官僚機構のなかの皇帝だったのだろうな。
カール1世の世界最後の王朝外交なんてナンセンスな事件に比べれば保守的であっても
フランツ・ヨーゼフはまだまともな立憲君主だったんではないか、少なくともアウスグライヒ以後は。
- 80 :カラジチ ◆mWYugocC.c :2006/07/03(月) 09:58:33 0
- >協商vs同盟
とはいっても当時の大国が協商・同盟でまとまっちゃって、紛争に対する柔軟な対応が出来なくなっていたのも事実かと。
あとそれに代わるわかりやすい説明があるわけでもない、というのもあるんじゃないか。
「協商対同盟、でも伊墺はバルカンでの対立があったからイタリアは協商側についた」ぐらいで妥当な気もする。
個人的には「汎スラヴ対汎ゲルマン」という考え方の方が気になるかな。
- 81 :世界@名無史さん:2006/07/03(月) 19:57:16 0
- >>78
実際には皇帝は皇太子の暗殺者の引渡しを拒むセルビア政府に対するごく
慣例的な報復行為のつもりで宣戦布告を行ったわけだが当初の予想とは裏腹に
規模が激しく拡大して第一次世界大戦となり結局は帝国の崩壊を招いてしまった
わけなのだから本当に歴史というものは皮肉なもんだ。
- 82 :世界@名無史さん:2006/07/10(月) 22:28:30 0
- >「汎スラヴ対汎ゲルマン」という考え方
これってさらっと教科書には書かれているけど微妙な表現だよなあ。
汎スラヴはまだ説明不可能ではないが(近東進出へのロシア政策として)
汎ゲルマンって少なくともオーストリアには当てはまらんような。
多少スレ違い気味だが3C政策vs3B政策も微妙。
単にドイツ帝国のオスマン利権確保に過ぎないだろう。
もっともこれは独墺関係にとってはドイツの東方進出は深刻な危機だけどね。
一般にオーストリア外交への軍部の干渉はドイツほどないし政策担当者もほぼ貴族。
共通外相・蔵相に何人かいたマジャール貴族はともかくライタ以西のドイツ系貴族は
皇帝と同じくどうも民族イデオロギー的なものを感じないんだがなあ。
- 83 :世界@名無史さん:2006/07/14(金) 05:03:24 0
- >>78-82
”帝国主義国家は植民地を巡って戦争をするのが必然”とか”軍事同盟が2つあったら戦争になる”とかの前時代的な考えが幅を利かせているからでしょ。
- 84 :世界@名無史さん:2006/07/16(日) 15:06:25 0
- 生き残っていたらイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン
等と同格以上の国でW杯なんかも開催できてウィーン五輪なんかも行われてただろうね。
オーストリア、ウィーンが歴史の表舞台から埋もれてしまったことが惜しい。
ヨーロッパ人も後悔している人は多いだろう。オーストリア、ハンガリー、
チェコ、スロバキア、スロベニア当たりが再連邦国家になる可能性は0だろうか?
- 85 :世界@名無史さん:2006/07/16(日) 16:35:06 0
- >>83
”帝国主義国家は植民地を巡って戦争をするのが必然”ってのはまあ前時代的っていうか
マルクス主義の考え方だな。まあ必然とまでは言わなくとも実際局地的には植民地戦争は
あったわけだが確かに戦争は帝国主義イデオロギーの結果ではないわな。
ただ”軍事同盟が2つあったら戦争になる”ってのは前時代的かも知れないが七月危機では
かなり現実的だったように思える。実際局地戦で終るはずの戦争が同盟を維持するがために
大陸戦争、世界戦争へと発展していったわけだから。
オーストリアは同盟国ドイツの白紙委任を得たからセルビアとの局地戦を狙っていたのか、
あるいは対露戦争までは考えていただろう。
まさか世界戦争に発展するとは当局は狙っても考えてもいなかっただろうなあ。
総動員=戦争ではないしボスニア危機のようにロシア・セルビアがドイツの最後通牒に屈すると
でも考えていたんだろうか?
>>84
ウィーンはそれでも魅力ある帝都の面影を今日に残しているぞ。
再連邦国家の可能性は西欧(EU)が中欧にまで進出してきた時点でナンセンスじゃない?
それに英仏独はともかくイタリア、特にスペインは19世紀でも今日で「大国」ではないな。
何をもって「大国」「列強」とするかは議論があるが19世紀欧州では英仏独露墺が五大国だろう。
イタリアはその地位を得たかった。スペインはそのとき何をしていたっけ?
「もし」生き残っていたら……フランツ・フェルディナントvsマジャール貴族の国内問題でボロボロに。
彼の均衡ある三元主義が実現するには南スラヴ人は少なすぎるし、結局セルビアを併合せんことには…
ただあの大公、人気はないが一貫して戦争による民族問題、バルカン問題解決には反対だったんだよな。
好戦家コンラートを皇帝に推挙した人間とは思えん。
- 86 :世界@名無史さん:2006/07/16(日) 18:11:13 0
- そういえばサッカーのユーロ2008は
オーストリアとスイスの共催だな
- 87 :世界@名無史さん:2006/07/16(日) 18:18:56 0
- オーストリア、ハンガリー共催の方が萌えたけどな。仲悪いのかな。
- 88 :世界@名無史さん:2006/07/17(月) 10:00:52 O
- オーストリアとハンガリーは仲悪くないでしょ
ハンガリーとルーマニア
ハンガリーとクロアチア
ハンガリーとスロバキア
は歴史的に見て人悶着ありそうだが
特に一番目は現在もあまり仲良くないのでは?
- 89 :世界@名無史さん:2006/07/17(月) 10:52:06 0
- 第一次大戦前のヨーロッパの地図が好きだ。
イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、スペイン
の六大国が丁度良くまとまってる。
オーストリア分割反対。アイルランドの独立いらね。ポーランドは旧ドイツ領を返せ。
アルザスのとんがり部はフランスでよい。
- 90 :世界@名無史さん:2006/07/17(月) 10:59:14 0
- そもそもオーストリアとドイツ本国が別の国っていうのが不自然だろ。
単に王室の都合で別の国になってただけなのに。
- 91 :世界@名無史さん:2006/07/17(月) 22:12:45 0
- >>89
同じだ。でも、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアにはいらないと思う。
ベネルクスはオランダが統一していた方がいい。
スウェーデン・デンマーク・ノルウェーはスカンディナビアで統一。
>>90
ベルリンとウィーンは結構違うと思うよ?
ドイツはプロテスタントが多数派だけど、オーストリアはバリバリカトリックだし
政治の中心だから発展できたベルリンと文化の面で大きく花開いたウィーンでは
やはり違うと思う。それと、アンシュルス後でもドイツ人がオーストリアの人々を
格下に見ていたことでオーストリアの民族意識が生まれたのは皮肉だな。
- 92 :世界@名無史さん:2006/07/17(月) 23:47:14 0
- >>91
おお同士。自分はいつもこの地図を見て萌えーっとしてます。
ttp://keropero888.hp.infoseek.co.jp/map/1908b.html
ベネルクスやスカンジナビアなどには同意しかねるが、この6大国はこのまま
残って欲しかった(フランス、イタリアは現領土で)
今からでもこの6国が同盟組んでこの領土を再現してくれないかなあ…。
仏伊西はそのままだから英独墺三国同盟ということになるのかもしれないが。
- 93 :世界@名無史さん:2006/07/18(火) 02:29:56 0
- 後トルコも東欧に復活してほしい。
- 94 :世界@名無史さん:2006/07/18(火) 17:51:54 0
- 〜‐. _―'' ̄ ̄|
ノルウェー┌─┤
-〜 / |スェーデン
-〜 | | / ヽ
_,,_ | /ヽ/ ,|
大西洋 / / デンマーク /\
ヽ ~) 〜- . r \___,,/ ̄ ./
-〜__/ | フ ̄ ̄ /
ゝ大英帝国 オランダ \ ロシア帝国
〈 ) / ̄ベルギー |
〜‐ > / / ̄ | ドイツ帝国 \_______
~―─_/ | | オーストリア|
__j ̄ / ̄ ̄ ̄\___/ ハンガリー |
ヽ フランス | スイス | 帝国 ./
| \_ _ / ̄ ̄ ̄|__,,,___/ ___
| ― 、_|_ ̄ | セルビア|ルーマニア  ̄~\
/ ̄\__ ノ~  ̄\ \ |アルバニア | 〜- )
| ̄ ( 地中海 \ ヾ ヽ ブルガリア> __,,,,,ー'~
|─, スペイン | 〜 \ イタリア ヽギリシア < オスマン・トルコ帝国
| │ ノ 〜- \ \ /_/ \
- 95 :世界@名無史さん:2006/07/18(火) 22:46:12 0
- >>92
古い地図だね。バルカン戦争前だから、ブルガリアが自治公国だ。
アルバニアも独立していないし。
あと、コルシカ島はイタリアに統合されるべきだね。ティレニア海の周りが
全てイタリアになる。
でもトルコはヨーロッパにいらないなあ。民族紛争が絶対起きるし。
>>94
フランスがナポレオン時代になってる。
- 96 :世界@名無史さん:2006/07/19(水) 00:56:09 0
- ヨーロッパ列強の皆様 + おまけ1
∧_∧ ../ ̄ ̄\ ∧ 、
(゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚) /____\ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ /⌒\ | ̄ ̄|
( ’∀’) |/.( `∀´)\| ( -∀- ) (゚∀゚ ) (・∀・ ) (-∀Θ) (゚ー゚ )おまけ?
( ) ( ) ( :│: ) (゚゚ノノ゚゚) (ノノ .♀) ( /+) ( )
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
England France Austria-Hungary Russia Italy German Ottoman
- 97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 01:00:15 0
- >>96
可愛い(´д`)ハァハァ・・・・
- 98 :Ryuju ◆RlujhF6VrA :2006/07/19(水) 14:06:49 0
- >>91
バイエルンとかの南ドイツとは一緒になれたと思うけどな。
実際、同じカトリックだし、バイエルン王家とは何度も結婚してたし。
カトリックの南ドイツ+オーストリアとプロテスタントの北ドイツというのが
(北ドイツ連邦だけがそのままドイツ帝国になる感じで)
実は宗教的に一番きれいな分け方だったんでないかという気がする。
- 99 :世界@名無史さん:2006/07/19(水) 15:34:46 0
- >バイエルンとかの南ドイツとは一緒になれたと思うけどな。
これを一番恐れていたのがビスマルクで普仏戦争は
オーストリアを除くカトリック・南ドイツを北ドイツ連邦に加盟させるための戦争でしょ。
実際71年憲法ではビスマルクはバイエルンとヴュルテンベルクに大幅な特権を認めているし
後のあの「文化闘争」とやらでも事実上敗北している。
この間外交的攻勢をかけたのがアウスグライヒを成立させ国内を安定化させたオーストリア。
南ドイツへの覇権は諦めていなかったし外相ボイスト伯も積極的に動いていた。
普仏戦争へも当初フランス側での介入を考えていたようだがドイツ民族主義的な自由派内閣と
皇帝の威信が強まりアウスグライヒが壊されることを恐れたハンガリーが反対して介入せず。
まあ介入されないようにビスマルクは普墺戦争で寛大な講和をしたわけだし
仮に介入していたら帝国の寿命は50年縮まっていたかもしれんがね。
ww2戦後もオーストリア・南部ドイツのカトリック諸州合同の動きが国際的にあったようだが…
フランスと比較して「強い」ドイツが大陸に存在するためには南ドイツは必要不可欠だったんだろうな。
あとはオーストリア・ロシアとの強固な同盟、英国との協調、これを全てぶち壊したカイザー。
まあそのカイザーのおかげでロシアとの間に弱小な緩衝国家が多数生まれて
オーストリア出身でバイエルンに基盤を置いた伍長が暴れまわれたってのは何とも皮肉なことかな。
- 100 :世界@名無史さん:2006/07/20(木) 00:21:49 0
- Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Läander
und die Läander der heiligen ungarischen Stephanskrone
- 101 :世界@名無史さん:2006/07/20(木) 00:23:54 0
- 誤植orz
Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder
und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone
- 102 :世界@名無史さん:2006/07/20(木) 00:26:19 0
- オーストリアとドイツって永久に合併を禁止されてるらしいね。
そんな事まで決める権利が誰にあるんだという感じがするが。
当事者同士が合併したがっても駄目だなんて、敗戦国とはいえあんまりな
決まりだと思うが。
- 103 :世界@名無史さん:2006/07/20(木) 09:09:05 0
- >>91
ウィーンを文化都市としちゃうのは何だか。
政治的に重要な地位に長年あってこそ文化も花開いたわけだし。
>>98
99も指摘している通りだし、バイエルン公家とオーストリア大公家の通婚は
直接、両国民の親善意識にあまり寄与してなかった。
というかそういう分裂は誰も考えてなかった。ドイツ部分の増大はアウスグライヒにも悪影響を
もたらすと考えられていたし。
- 104 :世界@名無史さん:2006/07/20(木) 09:34:32 O
- ドイツ関税同盟で経済的統一を成し遂げたプロイセンに一日の長がある?
- 105 :世界@名無史さん:2006/07/21(金) 01:28:31 0
- ルドルフが自殺せず帝位についていたらどうなっていただろうか?
フランツ・フェルディナントが皇太子にならなかったかもしれないから
暗殺されることもなく(もしくはされても戦争にならない?)、第一次大戦が
起きなければ帝国は崩壊することもなかっただろうか。
皇位継承者が自殺なんかするからやはり滅んでしまったのであろうか。
- 106 :世界@名無史さん:2006/07/21(金) 02:35:47 0
- >>77の小生意気な嫁を懲らしめてやりたいので誰かゾフィー大公妃の
AAキボン
- 107 :世界@名無史さん:2006/07/23(日) 05:16:01 0
- >>90
民族が1つの国を作る方が不自然な罠。
そしてヨーロッパはEUの重みが増すにつれて各国の重みがなくなり、各国は分裂方向に向かってしまっている。
カタルーニャ、バスク、ガリシア、スコットランド、北アイルランド、ワロン、フランドル、フリースラント、
バイエルン、パダーニャ、コルシカ、ブルターニュ、ラングドック、スコーネ、フェロー・・・
特にスペインの分裂傾向が全国的に酷い。
>>98
ところが南ドイツのなかでヴュルテンベルクだけプロテスタント、北ドイツの中でラインラント一帯とミュンスターがカトリックな罠。
- 108 :カラジチ ◆mWYugocC.c :2006/07/23(日) 09:31:14 0
- あれだけの大騒ぎを起こしたプファルツがいつのまにかカトリックなんですが……
- 109 :世界@名無史さん:2006/07/23(日) 17:09:00 0
- >>105
ルドルフ大公の心中事件は実は大きな問題だわな。
まあルドルフ自身当時は自由主義にかぶれていたわけで皇帝とは対立するが
これが後年即位したときどう現実と向き合ったかはIF論もここでは甚だしいから置いておいて。
古いヨーロッパの王朝原理を信奉していたフランツ・ヨーゼフにとって事件は痛手だっただろう。
いくら実際は我侭で自由主義にかぶれた(皇帝にとっては)出来が悪い息子であっても、
帝国と王朝を子孫に相続させたいがためにこれまで自分の信念に反して帝国改造を行ってきたのだから。
それが皇太子の死で、あの気に入らない甥っ子のためにこれまで犠牲を払ってきた事になってしまうわけだ。
この後皇帝は目的と行動原理を失って、ただ帝国の存続だけを目的に生きていたようなもんだ。
制度上も実際も最高権力者である皇帝が「模範的な官僚」になっては困るわけで…
彼の死後、皇帝は依然として最高権力を持ちながらただ惰性で帝国政務にあたっているだけになってしまった。
もう何の改革も行われないし、またそのエネルギーも失ったかのようだ。
一個人のスキャンダル以上に政治家フランツ・ヨーゼフのこのような意欲の低下を考えれば
帝国にとっては大きな痛手を与えた事件だったかもなあ。
幸いにも同じ専制君主ながらもロシアの宮廷よりは「自律」した皇帝であった故に王朝は自滅こそしなかったが。
- 110 :世界@名無史さん:2006/07/25(火) 22:36:47 0
- ついでに妄想すればフランツ・フェルディナントが帝位を継承していたら?
まずハンガリー国王には戴冠しないと明言しているから1867年以前の
ハンガリーの騒擾に逆戻りするのかねえ。
この場合皇帝に忠実な共通軍隊はハンガリー議会をU計画で武力制圧するだろうけど
ハンガリー独立戦争みたいにハンガリーも気骨がないからその後の展開は全く読めないな。
あの反動的で狡猾な大公のことだから三重帝国構想も潰してロシアみたいになったんだろうか?
大公派はそれなりに大きかったから宮廷の掌握は簡単だっただろうが帝国は果たして…
- 111 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 00:17:37 0
- オーストリア=ハンガリー帝国を崩壊させる必要はなかったような。
イギリスみたいに一つの国家の下にオーストリアやハンガリーやチェコ
などがあるような形態にしといた方が総合的に見て得策だったと思う。
- 112 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 00:42:39 0
- >>110
フランツ・フェルディナント大公が無事即位してたら・・・・帝国はどうなっていたのだろうか。
いずれにしろ、帝位継承者となった頃から大公には不穏な影がまとわりついていたような
気がしてならない。おそらく皇帝の大反対を押し切ってまでホテク家の娘と身分違いの結婚を
果たした辺りから歯車が狂い始めてたんだろうね。フランツ・フェルディナント大公の妻・ゾフィーにしても
皇帝をはじめとするあくまでハプスブルク家にふさわしい家柄との縁結びしか望まない
守旧派の人々からは疎まれ、子供の帝位継承権も認めてもらえず、挙句には暗殺という最期を
遂げる羽目になるのだからまさに踏んだり蹴ったりだったわけだが、まあ愛する夫と心中できたのが
せめてもの救い(?)だったのかもしれない。
- 113 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 11:54:43 0
- >>111
崩壊させる必要はなかったし1914年にも1917年にも列強は勿論のこと
バルカン諸国も国内のあらゆる民族が崩壊なんて望んでいなかった。
イタリアやルーマニア、セルビアは帝国の領土の一部が欲しかっただけ。
(だいたいイタリアとユーゴスラヴ運動は敵対関係にあるわけだ)
ドイツ人はベルリンに支配されたくなかった、チェコ人は大ドイツが脅威だった、
マジャール人は大ハンガリーが単独ではロシアの脅威に対抗できないことを知っていた、
クロアティア人は王朝に忠実で何よりセルビア人が大嫌い、スロヴェニア人はイタリアが脅威、
ポーランド人はドイツやロシアの同胞よりも恵まれていることを知っていた、
スロヴァキア人は極めて教権的な保守主義者、ウクライナ人もツァーリ支配を望まなかった。
ムスリムはハプスブルク支配で特権を得ていたし、ルーマニア人やセルビア人も教養階層は少ない。
1914年に緒戦で敗退したときに単独講和しておけば普通に帝国は発言は落ちても「大国」として存続しただろう。
ベルリンの統制下にある1917年ではもう遅すぎたわな。
まあとりあえず戦争をしたかったのがウィーンだったんだから自滅といえば自滅。
ただ戦争したかったなら「もっと早い時期に」といったコンラートの台詞も分からんではない。
ただバルカン戦争時は欧州列強はどこも協調・会議による事態収拾という路線だったからなあ。
- 114 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 22:26:02 0
- 結局の所は民族自決なんて絵空事を押し付けたウィルソンが一番の悪者。
- 115 :世界@名無史さん:2006/07/27(木) 13:56:01 0
- まあウィルソンを動かしたロビイストはガリチア、ブコヴィナや
上部ハンガリーからの移民だってことを考えると結構微妙かもね。
マサリク一人が動き回ったところでどうにもならんだったろうし。
まあマサリクを弁護すれば伝統的なボヘミア王冠でもツァーリズムへの信奉でもなく
あくまで現実主義的だったってことか。
彼が「独立チェコのフランツ・ヨーゼフ」になってしまったのは東欧の現実だな。
- 116 :世界@名無史さん:2006/07/30(日) 20:56:51 0
- ところでこの国がハプスブルク帝国なんて名乗ってた時期はあるの?
正式国名といったら何になるのだろう?(時期によるだろうけど)
- 117 :世界@名無史さん:2006/07/30(日) 21:02:18 0
- フランツ1世の即位後=オーストリア帝国
フランツ・ヨーゼフ1世の時代から俗に言う
オーストリア・ハンガリー帝国
多分こんな感じ。
- 118 :世界@名無史さん:2006/07/30(日) 21:07:39 0
- 一番正式なのはこれだろ↓
Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder
und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone
- 119 :世界@名無史さん:2006/07/30(日) 21:09:41 0
- ドイツ語読めないので日本語に訳してくれ。
- 120 :116:2006/07/30(日) 21:19:41 0
- >>117
即レスどうも
つまりハプスブルク帝国なんて名乗ってた時期はないですよね?
なのにそう呼ばれることがあるのは何故だろう?
オーストリア・ハンガリー帝国なんてしてしまったからだろうか?
それがなければ普通にオーストリア帝国だけだったように思うし。
- 121 :世界@名無史さん:2006/07/30(日) 21:23:30 0
- 世界史的にはカール五世の頃のスペイン&オーストリア時代を
ハプスブルク帝国と呼ぶ学者も居るが
少なくともハプスブルク家の方からそう名乗った形跡は無い。
ちなみにオスマントルコのスレイマン1世は外交書簡で
カール五世の事を
「汝スペインの主カールであろう」と素っ気無くあしらっている。
- 122 :世界@名無史さん:2006/07/30(日) 21:42:03 0
- 帝国議会において代表される諸王国および諸邦
ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦
- 123 :世界@名無史さん:2006/07/30(日) 21:44:54 0
- >>122
翻訳どうも。
- 124 :世界@名無史さん:2006/07/30(日) 23:48:50 0
- ハプスブルク帝国というかは便宜上のものだな。
「帝国議会において代表される〜」なんていちいち言ってられないし
1867年でもってオーストリア帝国からオーストリア・ハンガリー帝国になるのは帝国改造の一環。
1804-1918年をひとつの連続した独立国としてとらえるならばこれ以外に言いようがない。
当時は国内では共通の呼称としては宮廷メンバーは「君主国」と呼んでたような。
ライタ以西をオーストリアと便宜上呼ぶのもややこしいが何ともかんとも。
ライタ以西をオーストリアと訳したい時はハプスブルク帝国とするのが無難かなあ。
外国の国号てのは難しくてドイツ第二帝政だって正式にはカイザーライヒではなかったからねえ。
- 125 :世界@名無史さん:2006/07/31(月) 01:52:26 0
- >>116
実質的にハプスブルクの世襲だった神聖ローマ帝国を「ハプスブルク帝国」と
言うこともあるけど、関係ないか。
- 126 :世界@名無史さん:2006/07/31(月) 20:51:17 0
- マスコミが大立者やその一族が政財界を牛耳ってる状態を指して
「ロックフェラー帝国」とかっていうのと同じノリでそ?
- 127 :世界@名無史さん:2006/08/01(火) 01:52:05 0
- ちなみに
オーストリア帝国 でググると22400件。
ハプスブルク帝国 で30000件
オーストリア・ハンガリー帝国 で39600件。
オーストリア帝国が一番少ないなぁ。
- 128 :世界@名無史さん:2006/08/06(日) 00:45:02 0
- A.E.I.O.U.
- 129 :世界@名無史さん:2006/08/08(火) 00:36:13 0
- やっぱり近代以降、カール6世、マリア・テレジアやヨーゼフ2世の改革で
諸領邦の統合が計画されてからが1918年までの「帝国」の出発点だろうから
継続性を考えて用いる場合はハプスブルク帝国、君主国が妥当なんだろうかなあ。
「ハプスブルク家の諸王国、諸領邦」が1804年に形式的に「オーストリア帝国」になっただけだし。
- 130 :世界@名無史さん:2006/08/09(水) 04:55:47 0
- ハプスブルク帝国って1804年以前の神聖ローマ帝国内外のハプスブルク家領を指して使うだろ。
- 131 :世界@名無史さん:2006/08/16(水) 01:16:15 0
- そうかなあ。
1804年にフランツがオーストリア皇帝に戴冠してからも
家領総称をハプスブルク帝国と使ってもそんなに問題ないような気もする。
実際邦語・邦訳文献は(売り上げ伸ばすためかもしれんが)研究書でも
普通にハプスブルク帝国って使うからなあ。
二重制の説明が面倒なだけかもしれないけどウィーンの支配者層の意識は
1918年までハプスブルク家の帝国・家領なわけで特に問題ないような。
オーストリア帝国(1804-67)、オーストリア=ハンガリー帝国(1867-1918)と
分けると王朝の連続性や二重制が単なる帝国改造だったことの意味を損なうように思える。
三重制がよく提起されたように二重制は恒久的なシステムじゃなかったはずだっただろう?
- 132 :カラジチ ◆mWYugocC.c :2006/08/19(土) 09:31:23 0
- >>124
ドイツ語じゃK. u. K(カーウントカー)って言い方も見かけますね。
Kaiserich und Königlichだったか。つまり「皇帝にして国王の〜」っていう。
あとDonaumonarchie(ドナウ君主国)とか、Doppelmonarchie(二重帝国)とか
- 133 :世界@名無史さん:2006/08/20(日) 15:21:58 0
- >>132
これもまたK.K.(皇帝・国王の〜)とK.u.K(皇帝にして国王の〜)で揉めとったからなあ。
最終的にはいつかの軍事アウスグライヒ関連法案通過のためK.u.K.に妥協したっけか。
帝国をハプスブルクの王朝国家とみるかハンガリー王国との連合とみるかで変わるから
やっぱりあまり表記には統一性ないなあ。
日本じゃどうも墺太利洪牙利帝國と呼んでいたかも…だが、古い新聞調べないとどうにも。
フランツ・フェルディナント大公は来日したことがあるはずだから手がかりにはなりそう。
そもそもの話題からずれているけど政府の正式な外交文書じゃあ何と表記したのかなあ。
何となく急に話題転換、皇帝フランツ1世と宰相・外相メッテルニヒの関係について。
「欧州を支配したことはあるが、オーストリアは一度だって支配できたことがない」と
メッテルニヒは述べたらしいが(結構彼の発言には矛盾も多いのだが)そこまで皇帝権力って
大きなものだったのかねえ。メッテルニヒの行政改革にフランツは常に難色を示したようだし。
まあ彼は内政家というより外交官だから財政考えずに結構政府の財務官僚と対立したようだが。
- 134 :世界@名無史さん:2006/09/10(日) 04:16:09 0
- The Australian Imperial Force
- 135 :世界@名無史さん:2006/09/10(日) 14:03:41 0
- オーストリア帝国の復活を祈願してage
- 136 :世界@名無史さん:2006/09/11(月) 01:39:04 0
- 帝国の復活というかオーストリアにおいて君主制の復活ってありえるんだろうか?
昔の帝国と呼ばれていたころのオーストリアはハンガリー他チェコスロバキアや
一部のバルカン地域も統治下においていたほどの国力と土地を有していたけど
現在のオーストリアにはそのころの威光なんて見る影も無いしなあ・・・・
万が一復活を果たしたとしてもなんとか王号を名乗れる程度の立憲君主国に
とどまるんじゃなかろうか。
- 137 :世界@名無史さん:2006/09/12(火) 16:16:21 0
- 欧州議員やってる帝位継承者オットー大公(ドイツ選出)と
その長男カール?大公(オーストリア選出)は請求権放棄しているね(このへんうろ覚え)。
だからこそ二人ともオーストリア共和国に入国できたわけで。
ww1戦後のオーストリアは貴族を示すvonを名姓の一部とすることを禁じたくらい共和的だった。
まあ請求権の放棄はツィタ皇后が猛反対したとか、オットー大公もww2では米国などで運動していたみたいだが。
ハンガリー王冠とボヘミア王冠の放棄の件は知らないが
前者はカール1世(ハンガリー王として4世)復位事件で正式に議会で廃位されているし(これは国法として合法)、
後者は歴史的ボヘミア諸邦とチェコスロヴァキアの継続性を否定している、てかフランツ・ヨーゼフも
カール1世自身ボヘミア王には即位すらしていないしな。
まあつまりハプスブルク王朝復古は無理というわけだ。
1918年に作り出された国民国家を王位の請求権から考えると
ハプスブルク帝国が王朝と諸邦の国法と歴史をアイデンティティとした国家だってことがよく分かるな。
特にww1戦後処理の大ハンガリー王国構想とか政体とか歴史的な国法抜きには考えられん。
反対にチェコはマサリクが国法から脱皮していたこと(民族主義的だったこと)が外交的勝利となったか。
まあそのチェコの歴史的権利を否定し、国法を護る貴族層を壊したのもハプスブルク王朝だったわけだが。
- 138 :世界@名無史さん:2006/09/20(水) 19:34:47 O
- あとはブルガリアのシメオン元国王のように政党を作るか既成政党の党首になって選挙で勝利して内閣首班首相になるしか政界復帰はないな
- 139 :世界@名無史さん :2006/09/20(水) 19:44:13 0
- フランツ・ヨーゼフはなんでセルビアに宣戦しちゃったの?
この人の長い治世で最後にトチって、王朝を崩壊させちゃったんでしょ。
この失敗がなければ、よしんば諸民族が独立したところで、
ハプスブルグ王朝は存続したと思われ。
- 140 :世界@名無史さん:2006/09/21(木) 00:01:32 0
- >>137
いっそ、復古ではなくナポレオン式に無理矢理皇帝を名乗ればよい。
- 141 :世界@名無史さん:2006/09/22(金) 18:26:41 0
- まあ、韓国では李氏朝鮮の末裔を立てて帝国にしようって動きもあることだし、
まるっきり不可能ってこともないと思われ。
- 142 :世界@名無史さん:2006/09/27(水) 04:34:30 0
- >>139
他国の政府系テロリストに皇太子殺されて何もしないなんてあり得ると思うのか
まして当時は今よりも遥かに国家の威信や名誉が重視された時代だぞ。
そしてオーストリアはもちろん、フランスも英国もロシアもドイツでさえ、元首・政治家・軍人から市民まで、この戦争が世界大戦につながるなどとは夢にも考えていなかった。
世界大戦が起こってからも、民族自決を言い出したウィルソンでさえ、二重帝国が崩壊する/させようとは考えていなかった。
- 143 :世界@名無史さん:2006/09/28(木) 09:32:12 0
- でもまあ宮廷グループの外相ベルヒトルト・参謀総長コンラートら好戦派にとっちゃあ
セルビア開戦の口実求めていたから渡りに船だったのも事実だよなあ。
皇帝なんてこの時期完全に「模範的な官僚」で皇太子夫妻暗殺にも感慨を示さず。
王朝の威信なんて実際は恰好の大義名分だったと言えば言いすぎかなあ。
外相の最後通牒なんて主権国家セルビアとしては受諾が100%不可能な内容だし
外相夫人の手記による「セルビアがまさか受諾しないか夫は心配で眠れませんでした」なんて凄い内容だ。
そして同盟国ドイツがバルカンに関してオーストリア側に白紙委任するのはこれが最後の機会と考えられた。
当時近東・東方問題に関しては独墺同盟は二次のバルカン戦争の戦後処理の大国会議などをめぐって
破綻寸前で七月危機がなければ二国同盟更新せずとベルリンに通告するつもりだったって言うんだから。
ドイツの白紙委任はカイザーの王朝への威信の重視と二国同盟堅持のためだったんだろうかねえ?
普通に考えればボスニア併合危機みたくオーストリア軍の総動員でセルビア脅迫、ロシアの部分動員で対抗、
ドイツの威嚇でロシア・セルビア両国への最後通牒をロシアが受諾って感じが理想的に考えうるシナリオで
最悪でもオーストリアとセルビア二国の局地戦、独墺VS仏露の大陸戦争ぐらいまでしか考えられない。
戦争責任とかは事後的で好きじゃあないがWW1の戦争責任論を考えればベオグラードの反オーストリア扇動、
ベルリンのウィーンへの異例の白紙委任、ドイツを刺激したツァーリの総動員、それを受けたドイツ参謀本部の
ベルギー侵犯と色々あれどウィーン宮廷の威信のための徹底した対セルビア脅威論が大きかったのかもねえ。
かつての欧州最大の陸軍国がセルビア一国にドイツの支援がなければ対抗できない帝国も堕ちたものだが。
三重帝国構想のために慎重派だったハンガリー首相ティサでさえ宣戦従い、皮肉なことに反戦派皇太子はいない。
ボスニア危機でベルリン体制が崩壊、会議による六大国の協調・調整ができなくなったことの責任は
間違いなく帝国にあり、その上帝国は領土的に得るものなし。時代は違えど「欧州情勢は複雑怪奇」だよなあ。
皇太子が一度目のテロで重傷を負った護衛の見舞いに行かなかったら歴史は全く変わったんだろうか…
- 144 :世界@名無史さん:2006/09/28(木) 09:54:50 0
- 追記
ベオグラードが今日で言えばテロ組織である黒手組を支援していたのは間違いないが
ウィーン共通外務省に皇太子暗殺計画があることを警告しているのも事実なんだよなあ。
ベオグラード外交筋が失念していたのかどうかは知らないが不幸なことにボスニアの管轄が
共通財務省だったこと、皇太子夫妻にとって危険が予知されながら久々の晴れ舞台として
サラエヴォに閲兵に行ってセルビア人を刺激して老いた皇帝への対抗心を示したことetc
帝国議会なんて全く機能せずウィーンでは皇帝派VS皇太子派の政争、ウィーンとブダペシュトとの抗争。
WW1の事後処理は東欧に小ハプスブルク帝国を量産しただけで全く無意味というか大失敗だったけど
帝国にそこまで幻想を抱くこともどうかと思う。得ることない戦争で事態を打開しようなんていうのが
王朝国家の限界だったのかねえ。帝国改造もあれ以上の民主化も現実的ではなかったわけだから。
ただあのフランツヨーゼフの支配する帝国に多くの臣民が打算もあったけれど忠誠を抱いていたのもまた事実。
宮廷・官僚・軍隊・民族を問わずほとんどの臣民というすべてのレベルで結局王朝国家的思考なんだろうか。
何か言いたい事が多すぎて支離滅裂になってしまったな。長文スマソ
- 145 :世界@名無史さん:2006/10/09(月) 21:40:33 0
- この数年日本人研究者のオーストリア帝国の研究書籍増えたなあ。
ボヘミア・アウスグライヒやバルカン戦争における帝国外交、墺土外交論文集など。
ほかに何か新しいの(訳書も可)出ていない?
しかしどれもこれも面白いがネタとしてはマイナーな分野を扱っていて凄いねえ。
自分なんか近代オーストリア史やります、て教授に言ったら「辺境史は邦語史料少ないよ」と
「辺境」扱いされてしまったが(ウィーン外交が辺境ってどんな価値観だよ)。
趣味書や小説の類は多かったけれど細かい政治史を真面目に研究されている学者が
増えたのは嬉しい限りだ。内容への論評はちょい「木を見て森を見ず」なところもあって
突っ込みたいところもあるけど、通史か王朝史しかなかった時代を考えれば良い時代になった。
このスレ的には『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』(S・ベラー)が邦語じゃ一番参考になるかね?
- 146 :世界@名無史さん :2006/10/11(水) 00:26:30 0
- >>143>>144
当初の思惑はともかくとして、
結果論としては、対セルビア宣戦が、ハプスブルグ王朝倒壊に進んだことに、
異存はないでしょう。
フランツ・ヨーゼフは、限定戦争で決着すると、楽観してたんですか??
- 147 :世界@名無史さん:2006/10/12(木) 00:32:59 O
- ベルヒトルト外相はかなりの段階まで戦争によらず協調外交によりバルカン問題を処理しようとしていた
第1次バルカン戦争で生じたスクタリ問題はどうにか6大国会議により処理されたが
第2次バルカン戦争では三国同盟側に引き込もうとしていたブルガリアを助けるため、軍部がセルビアに軍事介入しようとした
しかし同盟国のドイツ、イタリアは冷淡だった
特に独首相ホルヴェークはハプスブルク帝国の軍事介入に反対し、アドリア海に進出する恐れのないセルビアの国土拡大はやむなし、ブルガリアの弱体化やむなし、ドイツはバルカンにさほど興味がないと回答
ドイツはルーマニアが同盟側から離脱することと欧州大戦化を恐れていた
結局、ハプスブルク帝国の親ブルガリア政策と仏露の扇動によりルーマニアがセルビアと同盟しバルカン戦争に参戦
6大国勧告やハプスブルク帝国単独による再三再四の抗議にも関わらずセルビアはアルバニア北部から撤退せず
1913年10月の最初のセルビアに対する最後通牒に至る
しかし協商側にはもちろん同盟側の独伊にも事前通告しなかったため各国は不快感を強めた(特にイタリア
結局のところベルヒトルトは対セルビア戦を限定作戦にすることを望んでいた
- 148 :世界@名無史さん:2006/10/12(木) 01:42:51 O
- ハンガリー首相から帝国宰相になったアンドラーシや20C初頭のハンガリー首相ティサのマジャール人官僚や
アウグスライヒ下で特権を得たポーランド人官僚のポトツキー墺首相やゴルコウスキー帝国宰相は
基本的にデュアリズム(二重君主制)支持者でトライアリズム(三重君主制)に絶対反対
対外的には領土不変、現状維持、反露。
三重君主制は相対的にハンガリーの地位を下げ、領内の非マジャール系民族を刺激してしまうからだ
特にアンドラーシは1871年墺首相ホーエンヴァルト、墺農商務相シェフレの具体化していたボヘミアとの和協による三重君主制案を潰した
三重君主制支持者は他に1906-12年帝国共通外相のエーレンタールと皇位継承者フランツ・フェルディナント
エーレンタールはボスニア・ヘルツェゴビナを併合して南スラブ王国を作ろうとした危険思想の持ち主
フランツ・フェルディナントはハンガリー領内のみならず墺領内のスラブ人も視野に入れた多重君主制支持者であったが
民族主義に理解を示したのではなく、あくまで帝室存続のための多重君主制支持の保守主義者である
- 149 :世界@名無史さん:2006/10/13(金) 01:55:13 O
- 皇帝フランツ・ヨーゼフは普墺戦争後、ナポレオン3世と結び対プロイセン報復戦争を意図していた
それはナポレオン3世の失策により皇弟マクシミリアンをメキシコで失ってもその考えを捨てず
普仏戦争になっても変わらず閣僚に押しとどめられるほどだった
当時の帝国宰相ボイストはかつて普墺戦争時ザクセンの宰相であったため、祖国をプロイセンに奪われたため当初の想いは皇帝と同じであった
しかしながら日がたつうちに次第にナポレオン3世が虚栄心の強い野心家であることを知り、信頼に値しないことを悟って180度転換し対プロイセン友好政策をとるようになった
このボイストがアンドラーシとともにボヘミア和協を葬り去った人物である
彼はパラツキーが唱えリーゲルが継承したオーストロ・スラブ主義をロシアの唱える汎スラブ主義と同一視したためリーゲルと墺首相ホーエンヴァルトが妥協したボヘミア和協をアンドラーシとともに潰したのある
- 150 :世界@名無史さん:2006/10/13(金) 14:01:39 0
- >>146
「結果論として」が前提ではない議論だったような。
ドイツが白紙委任しなければ戦争はなかっただろうし最後通牒が受諾不可能なものには
ならんかっただろう。>>147が指摘しているように二回のバルカン戦争ではセルビアに
最後通牒を送って、かつ動員をしているが戦争には至らなかった。
もちろん結果論としてボスニア事件からの七月危機が帝国崩壊に繋がったことは異存ない。
しかしそれはもう翌々日からオーストリアの問題ではなくドイツとロシアの問題かなあ。
あと皇帝がこの時期外交大権を保持していたものの積極的に行使していたかは疑問。
まあ歴代外相が皇帝の意に沿う行動をしていたこともあるが(外相批判のコンラート罷免事件など)。
>>148-149
マジャール人やポーランド貴族が「対外的には領土不変、現状維持、反露」であったのは事実だけど
ホーエンヴァルトの三重君主制(ハンガリーを除くオーストリアでのボヘミア王冠への妥協)と
エーレンタールやフランツ・フェルディナント大公の三重君主制(ハンガリーを含む帝国改造)を
同次元で扱うのはどんなものかねえ。あと支配層のご都合民族主義はウィーンもマジャール人も同じでしょう。
もちろんいずれにしてもマジャール人が様々な「特権」に基づき猛反発しただろうことには異存はないが。
結局帝国は「これ以上バルカンにおいて新しい領土を得る余裕はないというメッテルニヒ以来の結論」に
したがってその枠内で帝国改造を試みた、そして現状維持派と保守的改造派が存在した、ただそれだけでしょう。
前者が皇帝とマジャール人、ポーランド貴族。後者が皇位継承者を中心としたグループ。
レンナーが批判するように宮廷内の政争だが普選以降ポーランド貴族の相対的地位が低下していたら
どうなっていたものかねえ。ライタ以西の帝国改造なしに帝国議会は機能しませんでした、が正解だろうけど。
- 151 :世界@名無史さん:2006/10/13(金) 15:25:30 0
- 訂正
サラエボ事件だったな。凄い恥ずかしい間違いだ。
あと帝国崩壊阻止の可能性としては早期単独講和という手もあるが…
実際コンラートをしてドイツを「新たなる敵」と言わせるんだから無理か。
- 152 :世界@名無史さん :2006/10/14(土) 18:04:21 0
- >>150
>ドイツが白紙委任しなければ戦争はなかっただろうし最後通牒が受諾不可能なものには
ならんかっただろう。
この点なんだけど、結局、オーストリアサイドとしては、
「ドイツがバックについてる以上、ロシアも、
いくらセルビアの同盟国とはいえ、対オーストリア全面戦争には、
踏み切らないだろう」
て、いうこと??
皇帝自身はどう考えてたんだろ。
どのみち、当時のオーストリアでは、皇帝のゴーサイン無くして、
戦争には踏み切れないでしょう。
- 153 :世界@名無史さん:2006/10/14(土) 18:55:27 0
- >>152
苦悩しながらも宣戦布告のサインはしたようだ。ただしそれはフランツ・フェルディナント大公
暗殺犯の身柄引渡しを拒み続けるセルビア政府に対するおそらくは形式的ともいえる報復
的処置によるもので当の皇帝自身もまさか世界的な大戦にまで発展するとは思ってもいなかった
はずだ。
- 154 :148:2006/10/14(土) 21:40:06 O
- どうしても字数制限があるので言葉少なく誤解を招いたことはお詫びする
付け加えるとシェフレは1848年バーデン革命に参加した亡命社会改革者
(余談だがバーデン革命がプロイセン軍に鎮圧され大量のバーデン人がシェフレ同様亡命するが、その一人が南北戦争中、北部の合衆国国務長官になったカール・シュルツ)
シェフレはアンドラーシと論争になった時、当時2院制だったハンガリー議会の貴族院を廃止すべきではと痛いところついている
オーストリアとハンガリーは二重帝国といっても連邦でなく、国家連合
墺首相はもちろん皇帝兼国王、帝国宰相もハンガリーに対し両国共通閣議で提言以上のことができない
それ以上は内政干渉になってしまうから
そこに二重帝国の弱点があるね
但し、提言でも効くときはあるみたい
ハンガリーはティサ首相がトランシルバニアの自治行政を停止し、普通選挙法を拒否するなどマジャール化を展開し
20Cに入ると同君連合を名目化しようとする独立党がハンガリー議会で多数を占め、ハンガリー軍に配属される将校全てをマジャール人にしようとした
その時、墺でも導入されようとしていた普通選挙導入を指差したところ独立党は手のひらを返したように体制維持派に変貌した
- 155 :世界@名無史さん:2006/10/14(土) 22:14:48 O
- 二重帝国にとっての悪夢は露が露領ポーランドからガリツィア外周を回り南の腕がルーマニアorブルガリア〜セルビア、モンテネグロを抜けアドリア海に抜けるいわゆる“鉄の環”
これは伊にとっても脅威だった
一方露にとっての悪夢は墺がボスニア、ノヴィ・パザール、マケドニアを通りサロニカに抜けること
ボスニア占領は露のベッサラビア併合と代償にライヒシュタット及びブタペスト協定で露と合意し、露の鉄の環は当面阻止できたわけだが
墺軍部には
バルカン戦争時、アルバニア北部スクタリ占領に固執するモンテネグロ制裁の
対モンテネグロ戦争計画の“M”計画
セルビアがモンテネグロを支援した場合の両国制裁の
対セルビア・モンテネグロ戦争計画の“B”計画
露がガリツィアに侵攻した場合ないしはその危険が迫った場合の
対露戦争計画“R”計画が考えられていた
独は墺が単独で“M”計画はやむなしとしたが、バルカン戦争時にセルビアに侵攻はたしなめていた
ロシアにもガリツィア侵攻作戦案は存在していたらしいが
とにかく英を引き込み、反露政策を採ろうとしたが、英が消極的なため、結局は対露協調政策をとらざるを得ず、墺露両国とも相互不信ながら協定を何回も結んでいる
- 156 :世界@名無史さん:2006/10/16(月) 01:11:35 0
- >>154-155
眠たいので一言だけ。
まず内政面。
国家連合は言い過ぎ。共通外交・軍事が存在して皇帝・国王がこの大権を決して放棄しなかったのを
忘れてはならない。ハンガリーにおいては事後的な否定的拒否権はもちろん全ての政府提出法案に対する
事前審査権を有した国王はある意味オーストリア以上に専制君主足り得た。
1905年前後の危機における首相指名に関してフランツ・ヨーゼフがどのような役割を果たしたかを再検証してほしい。
もちろん基本的にハンガリーに「領邦としては余りに広範な自治と国王の不干渉」が存在したことは事実。
次に外交面。
ロシアにおけるポーランド支配が磐石でない以上墺露関係がポーランド問題で緊迫化することはない。
もちろんオーストリア軍部にいわゆる“R”及び“B”計画があったことは事実だけれど。
時系列がそのレスでははっきりしないが1908年ボスニア危機までは墺露関係は一応小康状態と考えた方が無難。
二重帝国にとってのロシアは少なくとも1908年までは相互に潜在的脅威であったことは認めるが
基本的には双方ともに軍事的な処置よりも外交的処理が適切と考えていた。
これが他の欧州列強含めたベルリン体制の基軸だからね、バルカン戦争後も一応列強協調は機能していた。
英国との協調で言えばアルメニア問題で地中海協定が失効したのが大きいかな。
これ以前は「四国同盟」と言われる英独墺伊の対仏同盟だったが英独外交により破綻。
それでも英国は二重帝国に対しては露仏同盟ほど敵対関係にはなかったね。
- 157 :世界@名無史さん:2006/10/18(水) 10:23:21 0
- ずいぶん長い一言だなおい
- 158 :世界@名無史さん:2006/10/18(水) 20:04:28 0
- 眠たかったんだ、勘弁してくれ。
148氏は内容は細かくてその部分は正確なんだろうけど
どうもオーストリア外交史や二重帝国の両半国関係なんかの事実や価値判断には誤解が多いような。
例えば>>154の最終段落なんかはオーストリアとハンガリーの普通選挙騒動の時系列が逆じゃあないか?
もう一度通史的なスケッドやテイラー、ベラーなんかを読み直して確認した方がいいような…
いらぬお節介だったらスマソ
- 159 :世界@名無史さん:2006/11/11(土) 15:51:44 0
- mage
- 160 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 01:02:42 0
- オーストリアの日本語表記変えたらしい
ttp://www.austriantrade.org/japan/our-office-in-tokyo/ja/
Osterreich 日本語表音表記 の変更について
残念ながら、日本ではヨーロッパに位置するオーストリアと南半球のオーストラリアが混同され続けております。
この問題に対し、大使館では過去の文献などを参照し検討を行った結果、Osterreichの日本語表音表記を 「オーストリー」 と変更する旨、ご連絡差し上げます。
大使館よりのご案内をPDFファイルにて添付いたしますので、ご高覧下さい。
暫くの間はオーストリアとの併記が行われますが、徐々に「オーストリー」の名前は日本の皆様の間に浸透し、定着していくことと存じます。
皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。
2006年 10月 東京
- 161 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 12:16:00 0
- これはひどい
- 162 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 18:02:36 0
- そんなバカな
- 163 :世界@名無史さん:2006/11/16(木) 16:32:15 0
- オーストリー・ハンガリー帝国…舌かみそうだな。
まあ一般の書籍や研究書は今後もオーストリアでいくだろうけど。
- 164 :世界@名無史さん:2006/11/17(金) 02:00:49 0
- 何と言うか、一種のAusgleich(妥協)なのかな・・・?
- 165 :世界@名無史さん:2006/11/17(金) 21:17:16 0
- スペインもイスパニアに戻さないと。
- 166 :世界@名無史さん:2006/11/18(土) 07:03:45 0
- てか、アメリカ人がAustraliaとAustriaをよく間違えると聞くな。
どうせならエーステライヒにしちゃえばいいのに。
- 167 :世界@名無史さん:2006/11/19(日) 14:56:33 0
- オーストリーなんて中途半端に変えるくらいなら、エスターライヒでいいのいにな。
- 168 :世界@名無史さん:2006/11/19(日) 15:53:07 0
- 心の底から同意
語尾を「ア」から「ー」に変えるだけ、みたいなことしたって
語幹の部分で混同されてるんだから意味ない気が猛烈にするぞ
人々が「オーストラリー」とか言い始めたらどうしようと
余計な心配までしてしまうではないか
- 169 :世界@名無史さん:2006/11/19(日) 20:11:25 0
- 正確にはエスターライヒだろ。
イタリア・フランスみたいに純粋に言語表記しろ。
- 170 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 00:32:25 0
- ネーデルラント
エスパーニャ
スオミ
マジャルオルサーグ
エラス
イースランド
チェスコ
ツルナゴーラ
シュチパリア
レッツェブルグ
エーラ
ザ・ユナイテッド・キングダム・オブ・グレートブリテン・アンド・ノーザン・アイアランド
- 171 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 01:47:58 0
- >>168
語尾を変えただけで語感はけっこう変わるもので、
良し悪しは別として、妥協案としてはよく考えられていると思った。
- 172 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 02:16:42 0
- >>170
チェスコじゃなくてチェシュカな。
- 173 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 18:14:05 0
- いまでこそ、オーストリアという国名に違和感を感じなくなったが、
子供の頃はオーストラリアとごっちゃになっていた。
小学生の頃、歴史マンガの第一次大戦勃発のあたりを読んだときに、
「オーストラリアの皇太子?」と不審に思った記憶ありw
- 174 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 18:58:59 0
- ハプスブルク家における「皇太子=ルドルフ」と
「皇位継承者=フランツ・フェルディナント」の違いを教えて下さい。
原語からして違うのですか?
- 175 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 19:12:00 0
- ルドルフはフランツ・ヨーゼフ帝の嫡子だから「皇太子」だが、
甥っ子のフランツ・フェルディナントは貴賎結婚をしてたから、
「皇太子」の称号をもらえなかった。
フランツ・フェルディナントの子供は、母親が王族ではないので、
皇位継承権がなく、カール1世が後継ぎになった。
- 176 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 19:20:47 0
- >>175
皇太子の称号を貰えないけど
フランツ・フェルディナント本人に限り皇位継承権はあったので
「皇位継承者」ということですね。
- 177 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 19:25:11 0
- >>174
>>175でも述べられてるようにフランツ・フェルディナント大公は
自身の結婚問題について皇帝をはじめハプスブルク王家に真っ向から
対立して王家との関係は険悪になってしまい、皇太子には違いないのだが
皇太子と呼ぶのは憚られるということでちょっとした侮蔑の意味で帝位
継承権を持っているにすぎない大公、つまり帝位継承者と呼ばれるに
留まった。
- 178 :世界@名無史さん:2006/11/20(月) 19:32:50 0
- フランツ・フェルディナント大公とは対照的にカール1世の場合は
配偶者のツィタがハプスブルク家に似つかわしい家柄(ブルボン・
パルマ家)の娘だったので老皇帝の喜びようは相当なものだったという。
- 179 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 09:30:20 O
- 別に侮蔑の意味なんてねーよ
勝手に解釈してんぢゃねーよ
ただ単に立太子されてないだけだろ
- 180 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 18:37:25 0
- 煽りか?事実だからしょうがないだろ。侮蔑どころか本当は廃嫡されてたって
おかしくなかったんだぞ。フランツ・フェルディナントは皇帝から王冠と
ゾフィーのどちらかを選べといわれてどちらもいただきますと答え、王家の
感情を大いに害した。要するに王家を侮辱したんだよ。そういうゴタゴタとかも
あって人々は皇太子と呼ぶのを避けたんだよ。それと皇位継承者ってのは
単にそう呼ばれていただけであってフランツ・フェルディナントはれっきとした皇太子だ。
お前こそ勝手な解釈するな。
- 181 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 22:38:35 0
- 無知で申し訳ないが「皇太子」なる称号はハプスブルク帝国にあったの?
神聖ローマ帝国時代は乱暴に言えば皇太子格が皇帝生前に選出された「ローマ王」で
皇太子とか立太子とかいう概念、ないし公的な儀式は中欧にあったのかなあ。
普通に帝位継承順位第一位である大公が「帝位継承者」だっただけなのでは?
あと>>180氏。廃嫡も何も不幸にもフランツ・フェルディナント大公以外に適当な継承者は
いなかったのも事実。老皇帝晩年の彼の政治的影響力考えれば「どちらもいただく」ことが
できたのを熟知した上での宮廷における政治的な駆け引きだったようにも思えるんだが。
- 182 :世界@名無史さん:2006/11/21(火) 23:24:19 0
- イギリスの「ウェールズ公」みたいな、次期皇帝はこの称号!っていう称号があって、フランツ・フェルディナントはそれになれなかったと理解してたけど違うのかな?
少なくともローマ王位はないよね。
- 183 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 00:07:51 0
- Kronprinzって皇太子のことですよね。
- 184 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 00:51:40 0
- >>183
ですね。少なくともルドルフ皇太子には文字どおり皇太子(Kronprinz)
の肩書きが添えられてるようですが・・・・フランツ・フェルディナント大公
の場合はとにかく事情が複雑でなんとも曖昧な感じですね。
- 185 :世界@名無史さん:2006/11/27(月) 22:32:18 0
- >>180
>それと皇位継承者ってのは
>単にそう呼ばれていただけであってフランツ・フェルディナントはれっきとした皇太子だ。
>お前こそ勝手な解釈するな。
だからフランツ・フェルディナントはkronprinzの称号を持ってねーんだよ
馬鹿か お前
それと侮蔑って言葉好きみたいだが、
辞書で引いたことあるのか?
お前 無知ひけらかすのもいいけど
日本語勉強してから来いよw
- 186 :世界@名無史さん:2006/11/28(火) 00:10:11 0
- >>185
ソースかなんか示してから言えカス。それと少しはさげろやボケ
- 187 :世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:15:41 0
- >>186
ハプスブルク帝国1809〜1918年:オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史 / A.J.P.テイラー著 ; 倉田稔訳
又はハプスブルク帝国史 : 中世から1918年まで / ゲオルク・シュタットミュラー [著] ; 丹後杏一訳
あとオーストリア皇太子の日本日記なんか見ても皇太子の表記はない。
オンラインでのソースがほしいならドイツ語版ウィキなりに行ってみろ。ないから。
まー これ以降レスはないだろうな 大言壮語野郎は否定されると切れるか逃げるかだから。
- 188 :世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:16:50 0
- あ 言っとくけど
オーストリア「皇太子」の日本日記ってのは邦訳だからなw
そこソースに皇太子だった皇太子だった言われても困るよw
- 189 :世界@名無史さん:2006/11/28(火) 17:27:24 0
- 言われてsageてる>>187に萌え
- 190 :世界@名無史さん:2006/11/28(火) 21:14:53 0
- >>187
ああ、機会見つけて読んでみるよ。それと大言壮語ってのは大げさだな。
自分はただ、感情的なすれ違いもあって「皇太子」の呼称を避けたという事実を
言ってるんだが。お前が勝手に否定してるからどうしようもないだろw
だが、確かにwikiによるとお前のいう通りフランツ・フェルディナントはKronprinzの
称号は持ってなかったようだな。認めるよ。だが慣例上でも彼が「皇太子」と
呼ばれなかったのは前述したとおり感情面の問題も大きい。彼は王家のみならず
市民にさえ嫌われていたほどだしな。
しかし言うとおりにソースを示してsageてるお前も結構素直なやつだな。
ただの煽り厨かと思ったがちょっと見直したよ。というわけでこの話はひとまずここで終わりだw
そろそろこの辺で離脱させてもらうw
- 191 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 09:25:23 0
- 長文ウザス
- 192 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 09:42:16 0
- >>191
このスレは通りすがりだが、長文レスは世界史板の華。
まともに読めないヴォケは1行レスがデフォの他板で遊んでろやW
- 193 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 10:34:45 0
- あまり長すぎる長文は、ただの字の塊。
- 194 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 16:42:27 0
- 価値のある長文レスなら大歓迎なんだけどなあ。
- 195 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 17:23:21 0
- 長文だろうが長文じゃなかろうが価値のあるレスならそれでいいよ
- 196 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 19:26:35 0
- 確かシュテファン・ツヴァイクが回想録かなんかでフランツ・フェルディナント大公は
ウィーン市民に人気が無かったとか書いていたような気がする。
オペラハウスへ行啓した時の市民の反応とか書いてたような記憶がある。
その彼が暗殺されるや一国の大事として「セルビア憎し」になったのは
彼の持つ地位がそうさせた?或いは悲運に同情が集まったのか
それとも政府のバルカン半島政策の為の単なる煽動?
- 197 :世界@名無史さん:2006/12/03(日) 00:44:55 0
- >>196
身分の低い皇太子妃の扱いがあまりにも惨かったから
同情が集まったんじゃないか。
(妻ではなく女官として扱われ、お墓も皇太子とは別々)
- 198 :世界@名無史さん:2006/12/03(日) 14:14:39 0
- フランツ・フェルディナント大公もウィーンのカプツィーナ霊廟じゃなくて
生前に用意していた下オーストリアのアルトシュッテッテンの墓所に
ゾフィーとともに埋葬されたんじゃないの?
王侯の暗殺なんてのはこの時代には珍しくないからなぜか激昂したウィーン世論と開戦は別問題。
まあ戦争なんてのは爆弾抱えたロシアでもそうだったように初めは民衆は燃えるもんだ。
実際両半国で立憲制を採りながら世論や民意が一切外交・軍事に介入できない制度が
二重王国の特徴であり欠陥でありまたある意味でいい機能をしたのかなあ。
帝国はハンガリー特権階級とウィーンの宮廷貴族の連合政権みたいなもんだからねえ。
ハンガリーの反対がない以上宮廷の意思が帝国の意思になる。
この場合はセルビアを叩きたかった宮廷官僚にはいい「いいがかり」が作れたことで積極的。
でも彼ら宮廷貴族が民衆を扇動できたのかは疑問で民衆がどうであろうと戦争したでしょうね。
- 199 :世界@名無史さん:2006/12/18(月) 09:47:24 0
- オーストリアとドイツ帝国の第一次世界大戦前の地図は興奮する
ドイツの怪しく伸びる東プロイセンとシュレジェン
オーストリアの腹のようなバルカン領土
欧州自体が一番輝いてた時だもんね
- 200 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 15:15:18 0
- 講談社学術文庫『オーストリア皇太子の日本日記』を読んだんだが
オーストリアも日本と不平等条約結んでたんだな、知らなかった。
ちなみに蒸し返すつもりはないが大阪毎日新聞のサラエヴォ事件急報では
「墺国皇嗣フェルジナンド大公」と記されているな。
皇帝誕生日(8/18)に横浜かあ。で、この日に鹿鳴館で晩餐会って洒落てるねえ、日本も。
日記には皇帝への美辞麗句を並べているが後年は皇帝誕生日の度に複雑な心境だったろう。
しかしフランツ・ヨーゼフは長生きしたなあ。
>>199
あの腹のうち自分のものにできたのがボ・へ二州だけってのも複雑だけど。
確かに大戦前夜は欧州が一番輝いていた時期かも知れんなあ。
- 201 :世界@名無史さん:2006/12/29(金) 17:02:13 0
- >あの腹のうち自分のものにできたのがボ・へ二州だけ
むしろあれ以上拡大してスラヴ人を抱え込む気はオーストリアにはあまりなかった。
そもそもドイツ人が多数派になれてないのにこれ以上スラヴ人抱え込むのは、帝政を不安定にするだけ。
まあフェルディナント大公みたいな対バルカン強硬派もいなかったわけじゃないけど。
- 202 :世界@名無史さん:2006/12/30(土) 14:42:31 0
- フェルディナント大公は対バルカン強硬派かなあ。
どっちかというと対ハンガリー強硬派(反二重制)だと思うけど。
- 203 :世界@名無史さん:2007/01/04(木) 04:07:19 0
- マリアテレジアとフリードリヒ大王って結婚話があったな。
実現してたらどうなったんだろう。
- 204 :世界@名無史さん:2007/01/04(木) 10:15:53 O
- ハプスブルクの旧領はバイエルンやザクセンと山分け
という条件でもなければ実現しなさそうな。
- 205 :世界@名無史さん:2007/01/05(金) 07:59:40 0
- あの話カトリックとプロテスタントの壁を考えるとまあ無理な話しだし
それ以上にスペイン継承戦後の国際情勢で英仏から「マリア・テレジアは欧州の
『大国』の君主との婚姻は認めない」と約束しているからまあ微妙かと。
ifが許されるならマリア・テレジアの教権主義とフリードリヒ大王の現実主義の不和で
子孫ができずハプスブルク家断絶、結局オーストリア継承戦争…なんてオチもあるかもしれない。
フリードリヒが主導権握ればヨーゼフ二世のような中央集権主義に走って破滅したかもしれないが
マリア・テレジアの啓蒙主義改革が反プロイセンを動機としている以上何とも言えないかなあ。
大ハプスブルクの継承者と軍事国家プロイセンの夫婦どちらが主導権握るかで
まったく違った未来になっただろう。そのときロシアやフランス、そして英国はどうするかねえ。
継承戦争も七年戦争もないし欧州の地図や歴史が全く違った方向に進んだことは確実だろう。
もっと後世の話になるとカウニッツの抜擢がなけりゃメッテルニヒもでてこないからなあ。
下手すりゃ仏革命やナポレオン戦争や「国民国家」思想も…さすがに歴史の発展を否定しすぎかな。
- 206 :205:2007/01/08(月) 02:49:21 0
- ふと考えてみればこれってより優位な状況での1914年だよな。
どのみち神聖ローマ帝国解体を経なけりゃならんが普墺「大ドイツ」が
十八世紀半ばに成立し、まだ緩衝国家ポーランドが存在して大国ロシアも成長中。
トルコとオーストリアの国境は「海よりも安全」と言われてきたから英仏蘭西連合でも
この「二国連合」を倒すのは不可能かも知れん。特に英仏財政は逼迫しているし。
問題は夫婦不仲による断絶かあ…
まあフリードリヒもマリア・テレジアも「ドイツ史上最高のライヴァル」だからこそ
好かれるんだろうけどねえ。
- 207 :世界@名無史さん:2007/02/08(木) 22:01:37 0
- 保守
- 208 :世界@名無史さん:2007/02/24(土) 13:16:05 0
- 保守
- 209 :世界@名無史さん:2007/02/25(日) 18:39:58 O
- ハプスブルク家はカトリック以外の宗教・宗派とは婚姻しないはずだが
- 210 :世界@名無史さん:2007/02/26(月) 16:52:34 0
- 結局フリードリヒ大王が改宗を拒否して婚姻は成らず、だったかな。
宗教問題でハプスブルクが折れるわけにはいかんからなあ、ヨーゼフ2世ならともかく。
まあカトリック皇族・王家以外との婚姻が認められず大公妃の確保には苦労したがなあ。
しかし宗教問題でいえばフランツ・ヨーゼフの政教条約はなんだったんだろうねえ。
ハプスブルクの教権主義といえばそれまでだが結局ドイツ人自由派に妥協して破棄しているし。
まああの時期の皇帝の現実との妥協姿勢が帝国安定に寄与したことは否定できないな。
事実皇帝が自由派と断固戦えばオーストリア版「文化闘争」の危機だったわけだし。
- 211 :世界@名無史さん:2007/03/12(月) 00:57:53 0
- 三月革命前夜age
- 212 :世界@名無史さん:2007/03/12(月) 17:04:57 0
- なんかセルビアの凋落を見ていると
ハプスブルクが戦争以外の解決策はないと恐れた南スラヴ問題って
何だったんだろうなあ、と思ってしまう。
百年前の今頃は豚戦争の真っ最中。
同盟国ドイツが豚の市場をセルビアに提供していた頃だ。
- 213 :世界@名無史さん:2007/03/14(水) 21:42:12 0
- ヨーゼフ二世は何で三婚しなかったんだと思いますか?
- 214 :世界@名無史さん:2007/03/15(木) 00:17:38 0
- まあ帝位継承者をはっきりしておきたかったのと(継承戦争の記憶はまだあるだろうから)
はじめの皇妃に上回る女性がいないと思ったのか。
後者だとしたらまさに現実よりも理想を追ったヨーゼフ二世らしいが。
啓蒙専制君主の典型といわれるだけあって王家の第一の仕事(子作り)に興味がなかったのか?
甥は多いから政治に集中したかったのかも知れんが。
別にカトリックは三婚を禁じてなかったよなあ(フェリペ二世が四人結婚しているし)。
あまり詳しくないがイヴァン雷帝の正教は多婚にうるさかったように記憶しているが。
- 215 :世界@名無史さん:2007/03/27(火) 20:18:03 0
- >>214
レスdです
ヨーゼフ二世がいまいちどういう人だったのか判らなくて気になってるので…
継承をはっきりさせるという線だとすると、弟を疑いつつも甥は信頼してたんでしょうか?
たらればだけども、兄弟姉妹の殆どが同系との婚姻の中で
ドイツ方面の人と結婚してたらハプスブルクにも違う歴史があったのかなとか
最初の妃の妹が婚約破棄して皇妃になってたらスペインの歴史も変わったのかなとか
その最初の妃もスペイン王妃になってたら長生き出来たのかなとか色々考えてしまいます
- 216 :世界@名無史さん:2007/03/27(火) 23:05:54 0
- いや、兄弟仲は悪かったわけではなく、ただ三婚してまで子孫を残す気がなかったのでは?
あるいは候補者を探している間に1768年以降レオポルドに子どもが次々と生まれたから
それも大きいのかなあ。どうもイザベラと比べて他の女性に対する評価は低かったみたいだし。
まあマリア・ヨーゼファが1767年に亡くなったときには、まだ愛すべき前妻イザベラとの
間のマリア・テレジア大公女(1770年没)が生きていたもののヨーゼフも若かった(26歳)から
三婚がなかったことはまあ合理的に説明するのは難しいなあ。
マリア・テレジアの結婚政策は確かにブルボン家一辺倒な感は否定できない。
ドイツ方面との婚姻はバイエルンくらいしか適当な家もないわけで難しかったのかねえ。
ハプスブルク一族内での婚姻も当時は不可能なわけだし宗教の壁もあるからなあ。
ただ、もう近代に片足を踏み入れた時期だから残念だけど歴史はそうは変わらないと思うよ。
- 217 :世界@名無史さん:2007/04/02(月) 21:26:14 0
- ハプスブルク家って近親婚とかで精薄が多かったって本当ですか
- 218 :世界@名無史さん:2007/04/03(火) 20:32:14 0
- 精神薄弱のことか、辞書見るまで何か分からんかった。
これと近親婚の関係は母体数が少ないから何ともいえないけれど
スペイン国王のカルロス2世、オーストリア皇帝フェルディナント1世は
統治能力を欠くと言われることが多いなあ、生殖能力も欠いたようだし。
ただハプスブルクの近親婚じたいは非常に多いのでこの二者の例をもって
ヴィクトリア女王の血友病のような明確な遺伝的な因果関係を求めることは
危険ではないか、と思われる(フェルディナント1世の同母姉弟はフランス皇后、
ブラジル皇后、摂政会議終身議員の3人があり彼らには何らの問題も認められない)。
またフェルディナントも退位での発言を見る限り白痴である、とまでは言えない。
敬虔な皇帝で、少なくとも儀式はこなせるレベルだったようだ。
- 219 :世界@名無史さん:2007/04/03(火) 23:23:52 0
- フェルディナント1世は統治の面に関しては特に芳しい点はなかったようだが
温厚な性格で善良な人柄だったようだ。
甥のフランツ・ヨーゼフ1世も伯父のそういったところに好感を持っていたようで
シシィとの結婚後に早速妻を伴って伯父夫妻に会いに行って敬意を表している。
ちなみに彼は虚弱体質ともよくいわれるが実は結構長生きだったりする。(1793〜1875)
まあ彼の話題については父親や甥に話題が集中するせいか取り上げられることが
極端に少ないのが残念といえば残念なところではあるが。
- 220 :世界@名無史さん:2007/04/11(水) 08:25:39 0
- >>217
文字通り「精子が薄い」かと思った・・・
- 221 :世界@名無史さん:2007/04/11(水) 08:38:15 0
- >>215
むしろ、兄弟仲がいいから、無理に結婚せず
相手側に託したんじゃないか?
この兄弟は思想が違うだけで、仲が悪いとは思えん。
- 222 :世界@名無史さん:2007/04/13(金) 09:48:13 0
- huuum・・・・
- 223 :世界@名無史さん:2007/04/13(金) 20:08:24 0
- >>219
フェルディナント1世は良くも悪くも三月前期の保守的かつ小市民的王権の
象徴のようなもんだからなあ。次のフランツ・ヨーゼフのように血塗られた帝冠という
汚点もないし三月革命でもメッテルニヒ退陣は叫ばれてもフランスと異なり
帝政そのものは打倒の対象にはならなかった。
「統治能力のない」フェルディナントの治世にメッテルニヒの権勢が徐々に
失われていったのは興味深いね。逆に世界史では最後の神聖ローマ皇帝くらいにしか
語られないフランツ1世の権力の大きさがよく示されている。
結局メッテルニヒは欧州は統治できても帝国は統治できなかったんだなあ。
どこかヴィルヘルム1世=ビスマルク体制に似ている要素があるねえ。
- 224 :世界@名無史さん:2007/04/14(土) 00:07:31 0
- >>219
たしかに長いきだなぁ
- 225 :世界@名無史さん:2007/04/14(土) 21:51:08 0
- なぜ墺洪帝国の総合スレが無いの?
- 226 :世界@名無史さん:2007/04/15(日) 00:03:44 0
- 実質的な総合スレと思っていいよ
- 227 :世界@名無史さん:2007/04/15(日) 11:19:38 0
- ( ^ω^) ぅうむっ。
- 228 :世界@名無史さん:2007/04/15(日) 16:56:53 0
- 過疎ってるけどねw
- 229 :世界@名無史さん:2007/04/15(日) 18:34:05 0
- オーストリア・ハンガリーて余り語ることないんだよなあ。
帝国崩壊の諸要因って汎ゲルマン主義、南スラヴ問題、ハウスマハト論などが
あげられるけど時代遅れのものや見当違いのものが多くて。
- 230 :世界@名無史さん:2007/04/16(月) 09:30:15 0
- 帝国としては110年あまりだけど
中東欧が平和な形で纏まっていたのは意義があるね
ドイツ・ロシアに挟まれていた地域の小国も
墺洪帝国の一部になることで一方的に侵攻される心配が無くなった
- 231 :世界@名無史さん:2007/04/16(月) 09:47:22 0
- >>226
あ、そうだったのw
- 232 :世界@名無史さん:2007/04/16(月) 22:50:29 0
- >>230
まあ国内の独立運動ないし民族運動の過剰評価には自分は懐疑的だが
イタリア、セルビアやルーマニアの国外からの煽動の脅威があったことは否定できない。
帝国内でもドイツ民族主義がオーストリア部分の議会制度を形骸化させたのは事実。
まあ中東欧にある意味において政治的、社会的、経済的な恩恵を与えたのは事実だが。
問題点はその「纏まっていた平和」を崩したのが他ならぬハプスブルクだったことじゃない?
- 233 :世界@名無史さん:2007/04/17(火) 09:39:16 0
- 上層部が暢気だった
まだ皇帝のほうが考えてた
- 234 :世界@名無史さん:2007/04/17(火) 18:02:55 0
- >>233
皇帝ってフランツ・ヨーゼフ?
あの皇帝は暢気じゃあないだろうけど官僚のお手本のような人。
考えていることはこれ以上帝国の内政外交を変化させないこと、だろう。
- 235 :世界@名無史さん:2007/04/18(水) 09:54:56 0
- 貴族的外交官て戦争起こさないためにいるのにね
- 236 :世界@名無史さん:2007/04/18(水) 17:58:59 O
- ここは「オーストリア」の歴代皇帝を語るスレです。
オーストリアの歴代皇帝はフランツ一世、フェルディナント一世、フランツ・ヨーゼフ一世(オーストリア・ハンガリー成立前まで)の三人です。
神聖ローマ帝国歴代皇帝、歴代ローマ王、およびスペイン王、諸領主、帝政後の現代のハプスブルク家関係者についてはスレ違いです。
あくまで「オーストリアの歴代皇帝」である、フランツ一世、フェルディナント一世、フランツ・ヨーゼフ一世の三人のみを語ってください。
- 237 :世界@名無史さん:2007/04/18(水) 19:42:49 0
- >>236
それだとネタがかなり限定されるので拡大解釈してハプスブルク家や
帝国及びその時代に関する話題も含めて語ってもよろしいのでは
- 238 :世界@名無史さん:2007/04/18(水) 20:05:00 0
- >>236
せめて「長い19世紀」(仏大革命からww1まで)のハプスブルク帝国は
許容範囲だろう。つまりフランツ1世からカール1世の統治時代の帝国について。
てか二重制以降は「オーストリアの皇帝」は存在しないのか?
だいたいアウスグライヒをもって時代区分するのはどうかねえ。
皇帝フランツ・ヨーゼフ伝を書いたS・ベラーはイタリア統一から大不況までを
「自由主義の時代」と区分して、帝国改造はその一環としているが。
- 239 :世界@名無史さん:2007/04/18(水) 21:16:37 0
- カール1世だってオーストリア皇帝だ。
フランツ1世以前の皇帝も、オーストリアの(神聖ローマ)皇帝だから問題なし。
- 240 :世界@名無史さん:2007/04/19(木) 09:40:18 0
- 二重帝国時代も含めるのが正常
- 241 :世界@名無史さん:2007/04/19(木) 15:40:40 O
- >>236は、二重帝国成立後の皇帝は
オーストリア=ハンガリー皇帝
だといいたいのだろうか。
- 242 :238:2007/04/19(木) 23:51:11 0
- >>239
フランツ1世以前はまあ本スレハプスブルク家の人々が
あるからいいんじゃない?さすがにフェリペ2世やフェルディナント1世の話題は勘弁。
もちろんヨーゼフ主義の影響などはハプスブルク帝国に強く残ったから
それに関連して話題にする過去のは個人的にはOKだと思う、対トルコ戦の影響とかね。
二重制以降も帝政崩壊まで含むのが妥当。アウスグライヒは帝国改造であり転換期ではない。
皇帝列伝だけなら江村さんの本読めば充分。
というわけで1804-1918の「オーストリア皇帝」に関連した話を続けよう。
まあアウスグライヒ以前でもウィーン会議、皇帝とメッテルニヒの関係、メッテルニヒとコロヴラート
の確執、潜在的なロシア・ドナウとの対立、三月革命、バッハの軽騎兵、ソルフェリノの敗戦、
帝国改造の模索と話題がないわけじゃあないけど。
- 243 :世界@名無史さん:2007/04/21(土) 00:05:45 0
- >>242
普通はそうだよなぁ
- 244 :世界@名無史さん:2007/04/21(土) 06:44:24 0
- オーストリアの皇帝をemperor in Austriaと解釈すれば問題なし
- 2